井上順孝著
﹃ グローバル化時代の宗教文化教育 ﹄
弘文堂 二〇二〇年七月刊四六判 ⅹ+二九三+ⅷ頁 二六〇〇円+税 岩 田 文 昭 本書の著者︑井上順孝氏は︑現代日本を代表する宗教学者の一人である︒﹃海を渡った日本宗教﹄をはじめとして︑様々な分野にわたる多くのすぐれた単著を一研究者として刊行してきただけでなく︑日本宗教学会会長︑宗教情報リサーチセンター長︑宗教文化教育推進センター長︑アメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員などをつとめ︑学界活動をリードしてきた︒
本書の発端は︑三〇年前にはじまった國學院大學日本文化研究所の宗教教育プロジェクトにあるという︒その後︑本書の刊行にいたるまで︑総計で二〇〇名近くにのぼる人々とさまざまなプロジェクトを企画し︑それとともに多くの共同研究︑研究調査を行い︑多数の編著を刊行してきた︒そして︑二〇一一年一月に著者のリーダーシップのもと︑宗教文化教育推進センターが発足し︑宗教文化士制度が整えられた︒このように著者が 書評と紹介 推進してきた宗教文化教育の意義とその内容とを本書は論じている︒いうまでもなく︑宗教文化教育の意義を論じることと︑その内容を説明することは不可分な関係にある︒宗教文化教育を推進するためには︑それがどのようなものかを提示する必要があるからである︒宗教文化の具体的内容について︑著者は多くの分野の研究書を参照し︑目配りよく︑明快に説明している︒その中には示唆的な知見が多数ある︒著者の並々ならぬ学的力量がうかがえる︒とはいえ︑それらの具体的な内容自体よりも︑宗教文化教育の意義を説くところに︑本書の特徴がある︒それゆえ︑宗教文化教育の意義についての議論を中心に本書の論評をしたい︒
本書は︑六章二六節からなる本文と﹁はじめに﹂と﹁あとがき﹂から成り立っている︒章の題目は次のようになっている︒ 第1章 身の回りにある宗教文化の急速な多様化第2章 生活の中にある宗教文化第3章 映像に投射された宗教文化第4章 宗教教育から宗教文化教育へ第5章 情報時代に培われた宗教イメージ第6章 宗教文化の︿ウチ﹀と︿ソト﹀
第1章や第2章の題目にあるように︑本書では︑日常生活にみられる宗教文化について多くの頁を割いている︒それは︑宗教は特別な事柄だとか︑一部の人だけが関わっているという認
調査・研究を行った︒そこで問題として浮かびあがってきたのは︑宗教情操教育をめぐる対立と混乱である︒一方で特定の宗教・宗派と関わりのない宗教情操があり︑それを公立学校でも推進すべきだという主張がある︒他方︑それに反対する意見がある︒その反対理由としては︑まず戦前の修身的教育への危惧があった︒また特定の宗教・宗派と関わらない﹁一般的宗教情操教育﹂は想定しがたいという理論的反対もあった︒さらに公立学校においては宗教情操教育を担える人材の不足という現実的問題もあった︒そのような調査・研究の結果︑着想されたのが宗教文化教育である︒宗教文化教育の特徴は︑まず﹁宗教の知識教育を母体﹂にすることにある︒ただし︑机上の宗教ではなく﹁宗教の生きた姿﹂の学びを深める︒そして︑それが目指すものは︑﹁正しい人間︑良き人間﹂というよりむしろ︑﹁学びを通して相手を理解し︑自身についての認識を深めること﹂である︒﹁共通の善を目指すというよりは︑悪しき事態︑好ましくない事態を避けることに主眼﹂を持つ教育とされる︵一四六︱一四七頁︶︒
ついで︑第4章第3節で︑﹁国際的視点からの比較研究﹂から宗教文化教育の意義を説明する︒この説明の中で日本の教育学研究者の著作の紹介の仕方に︑宗教文化教育を推進しようとする著者の戦略的な思考が示されている︒著者は︑教育学者・江原武一と研究交流をし︑その江原が編著した﹃世界の公教育と宗教﹄を論じながら︑宗教文化教育について説明する︒著者が説明するように︑﹃世界の公教育と宗教﹄は米国・英国など十一カ国の宗教教育についての比較研究がされている︒江原ら 識に再考を促す意図があるからである︒第1章では︑グローバル化の時代の中でさまざま宗教︑とりわけイスラム教の理解が必要な理由を説明している︒そのつぎに︑﹁企業が直面する宗教文化のボーダレス化﹂という一節を設け︑ビジネスにおける宗教文化教育の必要性を説いている︒また﹁地域社会が直面する多様な宗教文化の到来﹂という節で外国からの移民や長期滞在者との相互理解の重要性を説いている︒
第2章では︑食や衣服︑病気直しや︑暦や絵画︑落語など様々な分野において︑それらと宗教との関わりを広い視野から明快に論じている︒暦の問題は︑生活と宗教との関係を理解・考察するうえで格好な事例だと評者はかねてから考えていたが︑著者は︑それを手際よく論じている︒ただ︑お盆についての説明で︑﹁旧暦でやるか新暦でやるかの違い﹂︵四九頁︶という表現は誤解を招く恐れがあろう︒
第3章は︑宗教文化教育の教材となりえる︑宗教的なテーマを含む映画を考察している︒著者はすでに編者として﹃映画で学ぶ現代宗教﹄︵弘文堂︑二〇〇九年︶を刊行しており︑そのような研究成果があればこそ︑多種多様な映画の分析も可能なのであろう︒映画は︑一般の人々に身近な媒体であり︑格好な教材となる︒ただし︑視聴者の好む映画は多様であり︑また流行りすたりも激しい︒そのため︑この教材研究は常にバージョンアップしていく必要がある︒
さて︑第4章は︑宗教文化教育の発想の経緯とその特色を論じている︒それゆえ︑少し詳しくここを紹介したい︒一九九〇年度より︑著者は宗教教育プロジェクトを立ち上げ︑精力的な
をあげた上で︑初等教育︑中等教育︑あるいは社会人教育への展開を考える﹂︵一七八頁︶というのが著者の構築した戦略である︒そして︑宗教文化教育は﹁グローバル化が進行する世界において求められているような宗教教育﹂︵一七九頁︶だと著者は強調する︒
第5章では︑情報化時代に育ってきた学生の宗教のイメージが分析されている︒著者は︑学生の宗教意識を調べるため︑大規模な質問紙調査を日本で一二回︑韓国で四回おこなってきた︒研究グループをまとめる著者の指導力があればこそ︑このような調査が可能となったのであろう︒その調査をもとに︑さまざまな観点から学生の宗教意識を分析している︒これらの調査は宗教文化教育の具体化をするための基盤となるだけでなく︑現在の学生の宗教意識の実際を知る上でも貴重である︒
第6章は︑﹁認知フレーム﹂あるいは﹁認知バイアス﹂という認知心理学や社会心理学で用いられている概念を用い︑宗教文化教育の特色とその課題を示している︒著者が﹁認知フレーム﹂のような概念を用いるのは︑従来の宗教教育に関する議論が錯綜してきた理由を整理するのに有効と考えるからである︒そして︑これらの概念を用い︑議論が錯綜した由来を説明する︒著者は︑戦前の宗教教育というときの宗教の布置に関する﹁ねじれた認知フレーム﹂があることを指摘する︒特定の宗教・宗派に関わらないという﹁一般的宗教情操教育﹂は︑その英訳もむつかしく︑外国人研究者にとっては理解が困難なものである︒というのは︑それは近代日本の政治と宗教との独特の関係の中で発想され展開されたからである︒戦前の日本では学 の中核的な問題意識は︑﹁多文化社会にふさわしい道徳的︑市民的︑精神的価値を育成するために複数の価値の共存を前提にした価値教育﹂を若い世代に提供することにある︒ここでの﹁価値教育﹂とは︑﹁行動の一般的な指針として︑また意思決定をしたり信念や行為を評価する際の判断基準として作用する原則や基本的確信︑理想︑基準︑生き方︵ライフスタンス︶を教授したり学習することを意味する﹂︵一六〇頁︶︒著者は︑江原の編著を的確に要約している︒そのうえで︑江原らの研究成果と宗教文化教育の概念とは大きく重なっているとする︒たしかに︑著者がいうように︑重なる点も多い︒しかし︑すくなくとも二つの点で︑江原らの研究と著者の宗教文化教育には相違がある︒第一に江原らが念頭においている教育は﹁初等中等教育﹂である点で︑宗教文化教育の主対象と異なる︒第二に︑江原らは新たな﹁価値教育﹂を模索しているのに対して︑宗教文化教育は先の第3章で示したように﹁宗教の知識教育を母体﹂にするものである︒これらの相違を著者はよく承知しており︑おそらく意図的に相違点を取り立てて述べなかったと推察できる︒ 第4章第4節では︑宗教文化教育推進センター設立の経緯と宗教文化士認定試験を説明している︒そして︑宗教文化教育の基盤を大学教育に置くことになった理由を示す︒たしかにニーズという点では︑社会人の方が高い︒しかし︑宗教文化教育の議論を始めたのは大学教員である︒また大学の場合には︑授業の自由度も高く︑学会組織などを通して大学教員のあいだにすでにネットワークもある︒それゆえ︑﹁そこで一定程度の成果
究成果もふまえてそれを論じていく︒ただし︑そこで論じられている内容は︑宗教文化教育の意義を鮮明にするというより︑むしろそれが抱えている課題を表している︒その課題とは︑一言で言って宗教への価値判断の問題である︒宗教学は︑神学や宗学とは違い︑できるだけ諸宗教に対して中立的な立場をとるのが基本である︒ただし︑どのような研究もなんらかの価値観と無縁ではない︒当然ながら宗教学者はそのことを承知し自覚しながら︑それぞれの仕方で研究を遂行している︒著者もそのことを十分に承知している︒﹁宗教文化教育も価値に関わる問題からは自由ではない﹂と明言し︑﹁交錯する価値観をどう評価するかという問題から自由ではありえないことを忘れてはいけない﹂と釘を刺している︵二九〇頁︶︒
著者が中心になって実行してきた宗教文化教育は︑たいへん意義のあるものである︒それは日本社会にむかって宗教学の知見を有意義に提示するものである︒また多くの宗教学者がこの活動に参集しえたのは︑著者の尽力によるところが大きいであろう︒このことに対して︑評者は深く敬意を抱いており︑宗教文化教育がさらに発展していくことを願っている︒このような意義を強調したうえで︑本書から読み取れる課題を二点指摘したい︒
一つは︑すでに述べた宗教文化教育における価値判断の問題である︒著者自身も主張しているように︑宗教文化教育を推進するさいにこの問題は忘れてはならない課題である︒特定の価値観に依拠しながら︑そのことに無自覚なまま宗教文化教育を 校における宗教教育に厳しい制限が課された︒それは︑キリスト教系の学校での宗派教育が影響力の大きいものであったためである︒ところが︑日本政府は︑一九三五年に一般的宗教情操の涵養を勧めるようになった︒仮想された宗教情操の名のもとに︑愛国主義的教育が戦時下に強く推進されたのである︒このねじれが生じたのは︑日本の宗教文化において中核的位置を占めてきた仏教や神道が︑宗派教育の構築において通常なら果たすべきその役割を果たさなかったからだ︑と著者は説明する︒そのため︑戦後になって︑改めて宗教情操教育の議論がなされると︑国家が求める宗教情操になるという危惧が呼び起こされることになった︒さらに著者は︑国家による宗教への関与の程度と︑宗教教育がもつ規範性をどの程度︑重視するのかという対立について﹁認知フレーム﹂という観点から説明する︒この対立とは︑公立学校でももう少し踏み込んだ仕方で規範性をもった宗教教育をするという立場と︑国家による教育への過度の干渉を警戒する立場との対立である︒
宗教文化教育の提唱は︑以上のような宗教教育の歴史と現実の教育界の在り方を踏まえてなされた︒著者によれば︑宗教文化教育は宗教情操教育の持つ問題点を乗り越えようとするものであるが︑そこにはさらに積極的意義がある︒﹁グローバル化・情報化時代がもたらした新しい局面への対応を︑新しい認知フレームとして自覚化していくところが眼目﹂︵二六八頁︶なのだとしている︒
つづいて︑著者は新しい認知フレームの必要性を説き︑宗教文化教育の意義を説く︒著者は︑最近の認知科学や脳科学の研
心は︑高度な学問的知見を活かしやすい︑高等教育に向かうことは自然であり︑現実的である︒しかし︑なんといっても教育の基盤をなすのは初等中等教育である︒実際に価値教育をなす場所においての本丸といってよい︒そして︑初等中等教育では公立の学校が圧倒的に多い︒この公立学校の初等中等教育で宗教学研究をどのように活かすのかは︑困難であるがきわめて重要な課題である︒
初等中等教育には多くの問題がある︒道徳や社会科の教科書にかぎっても︑研究者の目から見たら不十分な記述が多々ある︒もちろん︑そのような問題に対して︑批判をすることも必要であろう︒しかし︑批判だけでは十分ではなかろう︒別の学会に目を向けると︑日本哲学会では二〇二一年の大会のワークショップ﹁小中学校の特別な教科﹁道徳﹂の教科書の使い方を考える﹂を開くなど︑初等中等教育との関わりを模索する動きも少なからず存在している︒宗教文化教育は︑目標としてはその射程に初等中等教育をいれてはいるものの︑現実には︑そこに十分にかかわってはいないようである︒初等中等教育に向き合うには︑別の概念や方法が必要なのかもしれない︒
本書は︑宗教文化教育にかんする著者の旺盛な活動の現時点における到達点であり︑共有すべき知見が多数ある︒宗教学会員はむろんのこと︑多くの方に本書を手に取っていただき︑著者の知見を共有しつつ︑その成果を踏まえてそれを広げながら︑さらなら課題に向っていくことを心から願っている︒ 推進しないように注意しなければならない︒そして︑この価値判断の問題がもう一つの問題と密接に結びついてくる︒それは︑初等中等教育への関わりである︒先の第4章第3節の紹介で述べたように︑日本の教育学者が世界の宗教教育の実態を研究しようとしたのは︑初等中等教育における新たな価値教育を構築することを目指してである︒かつての教育界では戦前の教育の反省から︑学校教育では価値中立的な学問的知見を教えるべきであり︑そのことが可能であるというような思いが強かった︒しかし︑近年ではそのような価値中立の教育は幻想であることが自覚されつつあり︑むしろ伝えるべき望ましい価値とは何か︑そしてそれらをどう伝えるかということに関心が移りつつある︒
そもそも︑初等中等教育の内容は︑政府・文科省など政治によって大きく左右される︒学習指導要領や各教育委員会によってその教育内容が相当程度︑規定される︒また︑各学校長の運営方針によっても学級運営の方向性が定められる︒そのような初等中等教育において︑そこに基盤のない宗教学者がそれに関わり︑その研究成果を反映させていくことは容易ではない︒主として公立学校の初等中等教員を養成する関西の機関大学にながらく勤務し︑初等中等教育にもつながる宗教教育の実践に自分なりに工夫してきた評者も︑その困難さを強く実感している︒大学における教育は研究者の研究成果をそのままに伝えやすい︒また高等学校も大学に近い教育が比較的可能である︒しかし︑初等中等教育ではそうはいかない︒高度な学問的知見をそのまま教えることはできない︒そのため研究者の教育への関