はじめに――
かつて存在した共通の「記憶」としての戦争の悲惨な実相米国人において広く「よい戦争」として肯定的に記憶され続ける第二次世界大戦の中でも、日本軍航空部隊による「特攻」で多数の損害が出た海上での激戦と現地住民を巻き込んだ苛烈な地上戦を伴った沖縄での戦闘において、米軍は公式発表で一つの戦闘では最大規模の一万二五二〇人とされる戦死者(遺体を確認できていない行方不明者を含む)を出した。何より「よい戦争」という一般的イメージ との齟齬において看過できないのは、戦場とされた当時の沖縄の住民の三ないし四人に一人に当たる、非戦闘員の犠牲があまりにも多かった事実である。一部に現地で徴兵ないし徴用された防衛隊員(一七から四五歳までの男性)や、法整備が追い付かなかったために志願制を原則とした学徒隊員(一四から一七歳までの中学校や高等女学校および師範学校生徒)を含む日本側軍人軍属の戦死者を上回る、一〇万ないし一五万人に及ぶとされる現地一般住民が死亡した (1)。その一部は日本軍によって強制された「集団自決」や「スパイ嫌疑」に基づいて即断処刑された犠牲者であっ
研究ノート 「米兵は鬼畜ではなかった」のか ―沖縄戦をめぐる記憶の共有をめざして―
川 島 正 樹
キーワード 沖縄 沖縄戦 日米戦 記憶 歴史認識
史苑(第七六巻第一号) たものの、大部分は米軍による無差別の艦砲射撃や爆撃、地上での攻撃の犠牲者であったことは否定しようもない厳然たる事実である。それにもかかわらず、戦火を生き延びた住民の間には、少なくとも戦闘終息後しばらくの間は、米兵と米軍一般に関して、戦前戦中の日本軍への否定的なものと比べて、一般に意外と好印象、すなわち戦前戦中に現地日本軍を通じて強調された「米兵は鬼畜」とする極端に否定的な言説とはかなり違った証言が目立つ。それは日本軍に否定できなかった蛮行への糾弾、さらには戦後の米軍基地用地接収に伴って高まる米軍に対する地元住民の反感とは対照をなす (2)。
晩年に近づいた沖縄地上戦従軍米兵の中から、それまでの沈黙を破って、実体験に根差した記憶が語られ始めた。彼らの多くが戦後長らくPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされた事実も明らかにされつつある (3)。元従軍米兵の手記や証言から明らかにされるのは、多くの場合に「よい戦争」における別の側面、すなわち「捕虜をとらない」苛烈な戦闘や、一般住民に対する無差別攻撃の実態、さらには戦闘終息後の地元女性に対する強姦を含む、明らかな犯罪行為への自責の念を伴う、後にベトナム戦争で問題視されることになる、本国を遠く離れた外国での苛烈な地上戦のあまりにも悲惨な実相である。他方、日本の降伏後間 もなく平和憲法の下で軍国主義を排して民主化を進める一方、冷戦下のアジアでのアメリカが関与した二つの戦争の特需で戦後復興と高度経済成長を遂げた本土と違って、沖縄では激化する米ソ冷戦下で米軍の基地拡大政策や米兵の横暴の頻発を伴う過酷な占領政策が厳然たる日常的事実となる中で、住民の米兵と米軍一般への印象は悪化した。同時に、日米安保体制の下で「平和」の恩恵を享受する本土のために「本土復帰」の後も過重な負担を強いられ続ける沖縄住民の不満は高まり、減じることなく現在に至る (4)。
本稿では、近年米国で出版された元従軍兵士の証言集に触発されつつ、長年にわたり様々な立場から蓄積されてきた和英両文献を再吟味しながら、米兵と日本兵および現地住民の三者の沖縄戦に関する「記憶」の齟齬を埋めることを目標としつつ、「核時代」の開幕直前に展開された、住民を広範に巻き込んだ史上最大規模の苛烈な地上戦 (5)の実相を再確認しながら、共有されるべき教訓を模索する。
右の課題に取り組む上で、当事者の高齢化に伴い今や永遠に消え去ろうとしている、戦争の実体験者の記憶に焦点を当てる。個々人の様々な実体験に根差す記憶は従来主に文学作品のテーマとされてきた。近年に至り、国家が支援する博物館や記念碑等の「集団的記憶」の装置の建設が進むにつれ、主に文化人類学者によって「戦争の記憶」に関
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
する表象研究がなされてきた (6)。戦後七〇周年の区切りの年を迎えるに当たり、私が勤務する南山大学で「歴史認識」の問題に関する三年間の共同研究を遂行する中で、当初の想定を超えて、東アジアの国際関係が「歴史認識」を争点に緊張の度を増し、閣議決定での「解釈改憲」に基づき国会で「集団的自衛権」を容認する法制化が強行され、さらに周辺諸国の懸念を深める情況の急変を目の当たりにしている。この間に私は、かつては勝者と敗者、被害者と加害者、さらには国籍や政治的な立場も越え、実体験者の間で広範に共有され得た「戦争の悲惨さ」に基づく、国際紛争の解決手段としての「戦争回避」という民衆レベルで共有された感情に根差した暗黙の国際的了解基盤があったものの、それが今や崩れつつあることに気付かされた (7)。本稿は、昨年南山大学の私のゼミ生とともに現地で行ったインタビューを含む資料収集も踏まえ、これまでに蓄積されてきた当事者の断片的な記憶を再吟味し、個々の史実の追究とその全体的な歴史の流れにおける正当な位置付けを模索しながら、戦争実体験者がかつて立場を超えて共有し得た戦争の悲惨な実相を再訪し、国際紛争の解決手段としての戦争回避という共通認識の再構築へ向けて戦争を記憶し直すための、ささやかな試みである。 一 沖縄戦の概要と日米戦における位置
⑴沖縄戦の概要
まず沖縄戦の起点と終点を定位する必要がある。起点は沖縄戦の特徴をどう考えるかによって異なる。一九四四年一〇月一〇日の那覇大空襲や翌年四月一日の米軍の本島上陸開始を起点とする考え方があるが、沖縄戦の特徴を何よりも住民を巻き込んだ大規模地上戦と見なす立場から、本稿では「集団自決」の悲劇に直結する慶良間諸島への米軍の上陸が開始された一九四五年三月二六日を起点とする。一般的には「慰霊の日」とされる、牛島満司令官と長勇参謀長が自決して日本軍の組織的抵抗が終わった六月二三日(一部には司令官らの自決を二二日とする)を終点とする説が有力であるが、それ以降も航空機による「特攻」だけでなく、現地軍残存将兵の散発的抵抗が続いた。南西諸島の残存日本軍部隊代表が本土に五日遅れて嘉手納で行った降伏文書への調印で日本軍の軍事行動が公式に停止された事実を踏まえれば、終点は九月七日に設定されることが妥当である。
米軍はなぜ不可避と考えられていた本土決戦の前哨戦の地として、台湾や中国大陸ないし朝鮮半島沿岸部ではなく、沖縄を選んだのか。本土への距離や守備部隊の規模の
史苑(第七六巻第一号) みならず、日本帝国の植民地や占領地ではない固有の領土であることも一つの理由であったと思われる (8)。米軍の日本本土攻略の道は二つあった。第一にグアム、サイパン、硫黄島という、チェスター・ニミッツ提督率いる海軍を主力とする中部太平洋地域軍によるマーシャル諸島からマリアナ諸島の日本軍陣地を攻略する道であり、第二に、ダグラス・マッカーサー将軍率いる陸軍を主力とする南西太平洋地域軍による、ソロモン諸島からニューギニアを経てフィリピンへ至る道であった。沖縄本島に上陸を開始するのはニミッツ指揮下の中部太平洋地域軍第一〇軍で、司令官はサイモン・バックナー中将だった。沖縄戦は住民を巻き込みかつ唯一両軍の司令官が戦死する第二次世界大戦で最大規模の地上戦となった (9)。
一九四四年六月にマリアナ沖海戦で惨敗し、続いて七月にサイパン島守備隊が玉砕し、八月にはテニアン島とグアム島が占領された。九月から一一月にかけてパラオ諸島のペリリュー島で凄惨な地上戦が展開された後に日本軍が玉砕し、一〇月にはレイテ沖海戦で日本海軍は決定的な敗北を喫した。既述の一〇月一〇日の那覇市全域に対する米軍の壊滅的無差別空襲は、現地守備隊の第三二軍司令部高級参謀で後に沖縄地上戦の手記を公刊した八原博通大佐が的確に想定したごとく、次なる標的が沖縄であることを示し ていた )(1
(。他方、迎え撃つ日本軍の準備は十分とは言い難かった。本土決戦前に「皇土」外での「特攻」を主な手段とする決戦による勝利の確保で有利な終戦をもたらそうという「一撃講和論」に傾く海軍と、あくまでも本土決戦にこだわる陸軍との間の齟齬が十分に解消されないままであった。加えて、フィリピン戦線の補強を急務とした大本営と台湾に司令部を置く第一〇方面軍の自軍勢力確保の意向により、精鋭部隊である第九師団が台湾に抽出された現地の第三二軍は、約束された補充がなされないままに、上陸部隊だけでも三倍の兵力の、無差別の艦砲射撃と空爆を準備する海軍の海水面を見えなくするほどの艦艇による支援を得た、史上最大規模の米軍攻撃部隊を迎え撃つことになった )((
(。
大本営が直前まで「決戦」と「陣地持久戦」の間で揺れ動く中で、八原高級参謀を中心に第三二軍は、現地住民を徴用しつつ飛行場建設の傍ら短期間で首里城周辺に強固な地下陣地を建設する一方、一七歳から四五歳までの男子約二万人を防衛隊に組み入れ、法的根拠のないままに「志願」に基づいて中学生や女学生および師範学校生二〇〇〇名以上からなる学徒隊を立ち上げ、米軍への出血を最大限強要することで本土決戦の準備の時間を稼ぐという「戦略的持久戦」の大方針を立て、米軍が沖縄本島に上陸する
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
一九四五年四月一日を迎えた )(1
(。この作戦案には戦中および戦後長らく批判が多かった。現地航空参謀で本島南部の島尻地区の三つの飛行場の死守および奪還にこだわる「決戦」を主張した、首里攻防戦のさなかに大本営へ戦訓を伝達する命令を受けて司令部を脱出して生き残った神直道の痛烈な批判がその代表であった。加えて、摩文仁司令部崩壊時に八原が軍司令官から大本営への報告を命じられて運よく生き延びたこととも相俟って、多くの住民の犠牲を伴った沖縄戦の敗北の一因はこの「持久戦」という消極的な作戦にあったとされてきた )(1
(。しかしながら、戦後に米軍側から日本の第三二軍の戦略的持久戦に対する高い評価がなされていた事実が日本でも広く知られるに及んで、また八原本人の手記の公刊やそれを原作とした実録風映画化もあって、さらには昭和天皇の発言や重臣および統帥部とのやり取りを含む、この時期の日本の戦争指導部中枢の動揺の実態が明らかにされる中で純軍事的な意味における八原案の再評価は進んだ )(1
(。ただし八原本人も認めるごとく、五月末の首里陣地放棄と島尻南端への撤退が生んだ夥しい住民死者に対する彼の責任は免れない )(1
(。それでもなお、私と私のゼミ生が昨年夏におこなった現地での聞き取り調査では、八原のことを特に非難する言葉は聞かれなかった。インタビューの対象は沖縄地上戦の直接体験者の二世や疎開 で難を逃れた人たちおよびその二世であったが、彼ら彼女らの受け止め方は、たとえ第三二軍が首里の地下司令部で玉砕したとしても米軍の掃討戦が収まる保証はなく、住民の多大な被害がどこまで回避できたか分からないというものであった。「集団自決」の強要や「スパイ嫌疑」で即断処刑の背景となった、兵士のみならず住民に対しても投降を禁じる戦闘の継続という最終命令を残した牛島司令官の責任は、たとえそれが大本営の基本方針としても重いのである )(1
(。沖縄現地軍民に多大な犠牲をもたらした徹底抗戦が、本土決戦の回避をもたらす一因となるのは歴史のあまりにも悲劇的な皮肉である。
⑵「一撃講和論」をめぐって
既述のごとく、沖縄戦の基本戦略が「決戦」と「持久戦」をめぐって海軍と陸軍とが十分な意思統一ができず第三二軍司令部の判断を揺るがした背景には、日米戦における日本の敗戦が濃厚になる頃に浮上した「一撃講和論」があり、二月一四日の近衛文麿元首相による「共産革命」回避を主な理由とする講和努力推進案の上奏に対し天皇が否定的反応を示す一因ともなった )(1
(。大本営は、米軍の上陸開始後に本格的な反撃を回避し首里地下司令部に籠って持久戦に徹する意志を示した現地第三二軍への不満を示し、米
史苑(第七六巻第一号) 軍上陸早々に占領された北飛行場の奪還および中飛行場の死守を強要した。その背景に昭和天皇の「一撃講和論」へのこだわりがあったことは明確である。米軍上陸開始翌日の四月二日になされた梅津美次郎参謀総長による戦況の上奏に、天皇は衝撃と苛立ちを隠さなかった )(1
(。大本営の圧力を受けた第三二軍参謀長の長勇は八原の反論を押し切って全面攻勢を決断したが、敵艦隊のさらなる襲来の観測が得られたことで命令を撤回した。この間に「海上特攻」を要請された戦艦大和は四月七日に米軍機の攻撃により鹿児島沖で撃沈された。他方、陸海軍航空機による「特攻」が米軍に与えた損害と脅威は大きかった。戦後米軍が公表した報告書によれば、沖縄戦を通じて海軍の戦死者と遺体が確認されないままの行方不明者の総数は四九〇七人、沈没船数は三六隻、破損は三六八隻に及んだ )(1
(。「特攻」が長らく機密事項とされた所以である。冒頭で指摘した通り、地上戦の犠牲者を含めた米軍が受けた損害は甚大だった。確かに日本軍民の二〇万をゆうに超える犠牲者の二〇分の一にすぎないが、欧州も含め一つの戦闘として米軍が被った最大の人的損害を生んだ。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が戦後に公表した一〇〇万人という本土決戦の米軍戦死者数の予想は誇張ではなかった。直前の硫黄島の戦いにおいて日本側を上回る死傷者が出た事実と相俟って、沖縄にお ける苛烈な地上戦とその甚大な損害は、日本に天皇制維持を条件に降伏を呼びかけるという、前駐日大使で前年一二月から国務次官になっていたジョセフ・グルーの案への支持が米政府内で浸透することに寄与した )11
(。
⑶沖縄戦における住民の動員と夥しい死
国際紛争の解決手段として「不戦」を誓い合った一九二八年のケロッグ=ブリアン条約の当初締約国の一つである日本は「満州事変」以降宣戦布告なき戦争を繰り返し、日中戦争の泥沼を打開すべく、国民総生産で一一・八倍もの差のあるアメリカ合衆国との戦争に至った )1(
(。この一九三〇年代初頭から一九四五年八月一五日の敗戦までをひとくくりとする「一五年戦争」史観は当初反発を呼んだが、今や国内外で広範な支持を受けている )11
(。歴史研究の進展と軌を一にした国民的な歴史認識上の変化の一方で、それに対する反発は依然として根強い。日本軍によって強制された「集団自決」をめぐって提起された大江健三郎と岩波書店に対する「名誉棄損」訴訟はその一例であった )11
(。
岩波書店から刊行された大江健三郎および家永三郎らの著作における慶良間諸島での「集団自決」の記述が「虚偽」であり関係者やその遺族を苦しめているとされて、二〇〇五年八月に大阪地裁に提訴され、二〇〇八年三月に
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
一審判決が下った。「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」一方で「大江の記述には合理的な根拠があり、本件各書籍の発行時に大江健三郎等は(命令をしたことを)真実と信じる相当の理由があったと言える」と認定されて、原告の請求は棄却された。同判決は大阪高裁でも支持されたのち、二〇一一年四月に最高裁第一小法廷において原告敗訴が確定した )11
(。
慶良間諸島には「マルレ」と呼ばれたベニヤ製で一二〇キロ爆雷を二つ積んだ海上特攻艇での攻撃を準備していた三つの陸軍海上挺進戦隊が駐屯していた )11
(。米軍が上陸した三月二六日から二八日にかけて、渡嘉敷島、座間味島、慶留間島で多数の住民が「集団自決」に追い込まれた。第二戦隊の本部が所在した阿嘉島だけは「集団自決」をまぬがれたがその一歩手前まで住民は追い込まれ、「スパイ」の嫌疑をかけられた老夫婦が処刑された。結局「海上特攻」は実行されず軍部隊は山間部に潜んで「持久戦」を続け、八月二三日に三人の戦隊長を含む残存将兵は降伏した )11
(。
確かに慶良間諸島に続いて本島や他の離島で多くの住民が軍命令の下で手榴弾を配給され「集団自決」に追い込まれ、また「スパイ」の嫌疑をかけられて即決で処刑された。だが同時に一〇万から一五万にも上る住民の犠牲の大半が米軍による無差別の艦砲射撃や空襲および苛烈な地上戦に おける攻撃によるものであったという厳然たる事実は否定できない )11
(。確かに戦闘終息後に日本軍によって組織的になされた南京大虐殺とは異なるが、それに匹敵するあまりにも多くの住民死者が出たことの責任はどこに所在するのだろうか。日本の軍隊の本質が「皇室の藩屏」であり、国民の生命と財産の守護者ではなく、「全国民を死への道づれにする」ことを厭わず「結局全滅か勝利あるのみ」という「勝利」の内容さえ疑わしい士官学校における極端な住民無視の軍事教育に原因の一端があったのは確かである )11
(。既述のように八原参謀が、自身が当初立案した首里決戦という方針を捨てて島尻最南端の摩文仁への撤退を実行させたことも多くの避難住民を巻き込む一因となった。同時に、住民が県当局や軍による島外への集団疎開の奨励に対して躊躇するに至るのは、対馬丸事件のようなアメリカ海軍潜水艦の無差別攻撃が一因だった )11
(。もとより、ひとたび地上戦が起これば侵入する圧倒的な敵国軍隊に一般住民の保護を呼びかけるのは非現実的である。避難住民の中に日本兵が混じっているかもしれず区別は容易ではない。学徒隊や防衛隊を正規軍や一般住民と区別するのはさらに困難だった。これが戦争、とりわけ地上戦の実態である )11
(。
史苑(第七六巻第一号) 二 沖縄住民に残る米兵の記憶
⑴皇民教育と総動員体制
冒頭で触れたように、沖縄住民生存者の間で戦闘終息直後の米兵に対する印象は意外にも悪くなく、少なくとも「鬼畜米英」という戦中の日本軍による極端に否定的な言説とは異なる。それは曲がりなりにも米軍が、中国大陸での日本軍の蛮行を繰り返さないための憲兵による取締りと軍政に関する周到な準備と実際の配慮があったからである。同時に、日本軍将兵による「スパイ嫌疑」に基づく即断処刑の横行や「集団自決」の強要、とりわけ戦闘末期に島尻地区最南部に撤退後の日本軍の組織的な弛緩と軍紀の乱れに伴う住民への横暴という、明治の「琉球処分」以降徹底された皇民教育で培われた「皇軍」イメージを裏切る日本軍の実態との比較があったことも確かである )1(
(。六月一三日に那覇郊外の小禄飛行場の司令部で玉砕した海軍陸戦隊司令官の大田実少将が大本営宛の訣別電報で「沖縄県民斯ク戦ヘリ/県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と懇願したように、沖縄住民の多くは献身的であり、それは確かに皇民教育の成果でもあった。それだけに住民にとって、「無敗」を信じた日本軍の崩壊と軍紀の喪失は、極めて衝撃的であった )11
(。 とりわけ地上戦の第一段階の四月一七日に、「スパイ」と疑われる沖縄方言の使用を子どもや親にやめさせる地域の生活改善運動の推進者で軍の熱心な協力者でもあった、皇民教育の模範というべき本島中部の本部国民学校長の照屋忠英が「スパイ嫌疑」で日本軍により斬殺された事実は、地元民衆の間に当時のみならず戦後も衝撃を与え続けた )11
(。日米両軍の激烈な地上戦の表舞台となった南部島尻と違って、本部や国頭では、南部から難を逃れた住民を含む地元民間人を交えたゲリラ戦的持久戦が続いていた。米軍上陸前の三月一二日に結成された住民の防諜を目的に含む秘密戦闘組織の国士隊と米軍との間で住民は翻弄された。四月末までに日本軍の組織的な抵抗は終焉を迎えた )11
(。
既に触れたように、五月二三日に南部の島尻への日本軍の撤退が決定されて以降、司令官と参謀長の自決で組織的戦闘が終息する六月二三日までの一ヵ月間に、日本軍および住民の犠牲は沖縄戦において最大となった。日米両国に残された文書資料と両軍兵士や地元住民への広範なインタビューに基づく沖縄戦史の決定版というべき書物において、ジャーナリストのジョージ・ファイファーは、六月の住民犠牲者総数を約一〇万人とし、その大半が最後の一〇日間に集中したと見積もっている )11
(。これは朝日新聞編集委員だった榊原昭二が同紙の連載のために一九八一年に戦闘
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
を実際に経験した生存者に行った広範な聞き取り調査の内容と一致する。指揮系統の乱れと限界を超えた苛烈な戦場の圧迫から常軌を逸した日本人将兵の手で虐殺された住民も多数いたが、日本人将兵にはもはや銃弾はなくなっており、殺害方法は主に斬殺であったために犠牲者数は限られていた。一七歳で陸軍少年通信兵に志願して各地を転戦後に沖縄戦を経験し、後に朝日新聞東京本社広告局に勤めた高田允夫が言うように、戦闘中の日本軍において「住民が米軍に保護されるなどということは全く考えの外」であったのは当然であろう。首里撤退以後に全く余裕がなくなった日本軍は「保護でもなく、敵視でもなく、完全な住民無視になっていたと思う」と彼はいう。その結果、「皇軍の不敗」を確信して首里司令部周辺に集中して避難していた住民の大半が南部の新たな激戦地域へ集団的に移動する過程で、米軍の艦砲射撃、そして航空機および地上軍の無差別攻撃の犠牲となったのである。中国大陸での兵役経験のある、榊原によるインタビュー当時七五歳の糸満市国吉の神谷良儀は、六月二〇日ごろに彼が目撃した十数人の遺体を見た時を回想した。「殺されたのは軍服の人もあり、着物の人もあった。大体防衛隊員ではないかと思う。しかも国吉以外の人ばかりだと思う。私は応召して昭和十三、四年、中国の北、中、南部を転戦した。中国北部で中国人の 捕虜をあぜ道に並んで腰かけさせ、後ろから日本兵が射殺するのを見たことがある。あれだな。あれをこんど日本がやられたと思った )11
(。」
榊原の聞き取り調査で最も示唆的な証言は、「集団自決」や「スパイ嫌疑」による住民の即決による処刑が起こった慶良間諸島で唯一何も起こらなかった前島の例である。渡嘉敷村立国民学校前島分校長の比嘉儀清は一九四四年一〇月一〇日の那覇大空襲の直後に同島を訪れた海上挺進隊の鈴木常良陸軍大尉の執拗な部隊駐屯の申し出を断り続け、ついに断念させた。「決死の覚悟だった。しかし、えらい隊長だった。どなりはしたが願いはかなえてくれた。人間として友達づきあいのできる人だった )11
(。」皮肉にも日本軍がいなかったことで住民の安全は守られたのである。
だが実際には、沖縄国際大学教授(当時)の石原昌家が一九七七年二月に国吉で四〇歳以上の男女七七人に行ったアンケートによれば、後述する米兵への意外なほど好意的な証言とは違い、「日本兵と米兵と、戦争が激しくなるにつれてどちらが恐ろしかったか」との問いに、日本兵と答えた者は六・六パーセントにすぎず、米兵と答えた者は七〇・一パーセントに上った。個々の記憶の一般化の難しさが実感される。百数十人に上る聞き取り努力の過程で、榊原も「『沖縄のこころ』は屈折していると考えざるを得
史苑(第七六巻第一号) ません」と嘆じた。しかし同時に、インタビューに応じてくれた関係者の大半に共通する思いも明らかになった。「戦争をくりかえすのはもうごめんだという気持ちを強く訴えて、ようやくお会いいただいた方が大部分でした」という事実は、実体験者の、辛いながらも後世に記憶を伝えようとする切実な思いを象徴している )11
(。
⑵米軍についての大田昌秀の好印象
牛島第三二軍司令官の「徹底抗戦」という最後の命令を遵守して九月二三日(現在までに一〇月二三日と修正)に降伏した時、大田昌秀は二〇歳だった )11
(。沖縄師範学校生徒であった彼は、鉄血勤皇師範隊員となり、伝令という極めて危険な戦場での任務を担った。かろうじて死を逃れた大田は、戦後早稲田大学を卒業し米国留学を経て琉球大教授となり、後に知事と参議院議員を歴任した。
大田によれば、現地の捕虜収容所では将校と兵士は分けられ、また地元出身兵士や軍属および彼のような学徒隊員は本土出身者と分けられた。朝鮮半島出身者も多く収容されていた。戦闘中に暴行を受けた下級兵士たちは毎晩のように上官に復讐した。皇軍の崩壊を目の当たりにした大田ら地元出身者は、収容所での生活で初めて「沖縄人」としてのアイデンティティを実感した。実はそれは米軍の戦略 に沿うものでもあった。既に一九四三年に米軍が来るべき軍政に備えて綿密に「原住民」対策を練っていた事実を大田が知るのは、戦後の米国滞在を通じて得た資料によってである )11
(。さらに大田は独自の資料収集の末に、米軍が日本軍と違って当初分だけで七〇〇〇トンの食糧と成人男女五万人と子ども一〇万人分の衣服の調達を伴う、戦闘終了後の軍政の緻密な準備をしていた事実を知る )1(
(。
大田によれば、戦闘末期に至って地元民の日本軍への信頼と評価は既に極端に低下し、戦闘が終結し米軍による占領が開始するまでに、これまで「鬼」や「畜生」と蔑まれてきた米兵への感情は好転した。「素朴な住民は、友軍の兵士から夢想だにしなかった過酷な扱いを受けて、ただ呆然とするばかりであった〔中略〕それに反して、『鬼』『畜生』と恐れられていた米兵は、負傷者を見ると殺すどころか、みずからの命を危険にさらしてまで救出に当たる者も多く、そのおかげで九死に一生を得た地元住民も少なくなかった )11
(。」
⑶戦後における米軍に対する印象の変化
年の平和条約の発効を境として再び本土の安全と繁栄のた 沖縄住民の「アメリカ像」が再び悪化するのは、一九五二 「『鬼畜』から一挙に『神仏』へイメージ・チェンジした」
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
めに沖縄が犠牲とされることが明らかになってからであった )11
(。「本土復帰」(一九七二年)ののち暫く経ってから、昭和天皇が戦後早々の一九四七年九月に、「ロシアの脅威」からの安全保障と引き換えに今後五〇年以上にわたって沖縄および周辺島嶼を米軍の統治下に置くことを承諾した「天皇沖縄メッセージ」の存在が明らかにされるに及んで、沖縄県民の不信感はさらに高まった )11
(。爆撃や砲撃の演習地とされて農地を接収され、さらに「本土復帰」後に核兵器の持ち込みを黙認する密約の存在が明らかにされた )11
(。例えば戦後農地を耕しかろうじて暮らしを立てていた伊江島の農民の土地が演習地として強引に収容され、地元民衆の長期の粘り強い抵抗運動が続いた。彼ら彼女らにとって、戦後の米軍は真の「鬼畜」となったのである )11
(。
一九五二年の日本本土の「主権回復」後も米軍当局は占領にこだわり続けた。その背景には特筆すべき事実がある。国務省当局者の間では当初「琉球諸島は日本が領有すると同時に非武装化される小諸島と見なすべきである」とされていた )11
(。それに軍部は反発した。その背景には、純軍事的理由とは言い難い「『米国人が死を賭して占領した沖縄は米国が手に入れる権利があるという、議会でも高い支持を受ける』国内世論」の存在が無視し得なかった )11
(。ここには、日本軍がかつて日中戦争の泥沼にはまり込み、やがて絶望 的な日米戦争に至った、当時の広範な世論の支持を背景に「一〇万の英霊に申し訳が立たない」ゆえに中国大陸からの撤退を拒んだ日本の旧軍部と同じ論理が垣間見られる。
三 従軍米兵の沖縄戦の記憶
⑴「よい戦争」への懐疑の芽生え
たとえ戦勝国においても戦争の記憶は基本的に悪いものが多いのが通例であるが、アメリカ合衆国民において第二次世界大戦は参戦当初から長らく「よい戦争」として語られてきた )11
(。日本による奇襲攻撃でやむを得ず参戦したのであり、本土が直接戦場となることも攻撃を受けることもなく、さらに膨大な軍事支出が長期的な経済不況を打開する契機をもたらしてくれたからでもある。その後の朝鮮戦争やベトナム戦争という「悪い戦争」のイメージと比して、第二次世界大戦は依然として「よい戦争」として国民の大方に記憶され続けている。その結果、太平洋の島嶼部で苛烈な地上戦を経験し、PTSDに多くが悩まされた帰還兵たちの間では、少数の例を除けば、悲惨な記憶は封印された。
変化が起こったのは世紀転換期以降であった。死傷者数において日本側以上の損害を出した硫黄島の戦いの映画が
史苑(第七六巻第一号) 相次いで公開され、日米双方の元兵士が共に集い、また太平洋島嶼部の戦闘全般の悲惨さを改めて印象付けたドキュメンタリー風連続テレビ・ドラマ『ザ・パシフィック』が放映され、話題となった )11
(。原作の日本語訳も出版された。とりわけスレッジは沖縄戦のみならず前哨戦であったペリリュー島での戦いにも参加し、戦後はアラバマ州で生物学の大学教授を歴任し二〇〇一年に亡くなった元海兵隊員で、一九八一年に出版、二〇〇七年に復刻された彼の著作は戦場の実体験に基づく記録でもある。「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」と結ばれた、一兵士の目線から地上戦の悲惨極まりない実相を後世に生々しく伝える貴重な記録である )1(
(。「よい戦争」言説の下で封印されてきた太平洋の地上戦の実相への関心の高まりの背景には、朝鮮戦争やベトナム戦争、そして湾岸戦争など、第二次世界大戦後も続くアメリカの関与した地上戦への従軍兵士の多くが帰還後に苛まれ続けているPTSDへの注目がある。日米戦の太平洋島嶼部の諸戦場からの帰還兵の多くが戦後長らくPTSDに悩まされ続けた事実が戦後半世紀を経てようやく注目されるに至ったのである。
⑵『マリガンを故郷に連れ戻せ』の出版
日本で購読できる『ニューヨーク・タイムズ国際日曜 版』二〇一三年一〇月一三日付けの「よい戦争、悪い父」という署名記事に、私は目を奪われた。それはピュリッツァー賞を受賞したジャーナリストでコロンビア大学の教授が出版した、父親を含めた沖縄戦従軍海兵隊員の生の声を集めた本の紹介記事であった )11
(。デール・マハリッジの父親スティーヴは所謂「新移民」の子どもとしてロシア正教徒の家庭に生まれ、高校中退後一九四四年に一八歳で海兵隊に入隊し、第六海兵師団第二二海兵連隊第三大隊L(ラヴ)中隊に配属され、グアムの激戦で負傷して後に沖縄戦にも従軍した。二〇〇〇年に亡くなった父の遺品を整理しながら、息子のデールは日章旗や日本人の写真などの「戦利品」を発見し、とりわけ日章旗に書かれた署名を参考に一二年間を費やして父の戦友に電話をかけ、何百通も手紙を書き、そのうちの二九人と接触をとることができた。その過程で、生還できた元兵士たちのかなりの者が戦後早々亡くなっている事実を知った。死因は過度のアルコール摂取などの精神的要因が多く、一九四六年から
五〇年までの五年間に集中していた。デールは、自分を含む子どもたちやその母親に対する暴力を含む亡き父スティーヴの生前の家族へのヒステリックな態度がけして例外ではなく、苛烈な戦闘がもたらしたPTSDによるものであることに気付いた。二九名の約半数と話をすることができて分かった
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
のは、父と同じく「戦争の話はいっさいしないで人生を送ってきた人が多い」ことだった。「第二次世界大戦の話は半世紀ものあいだ封印されてきたのだ。しかし沈黙の世代も、八〇代に入ってようやく口を開き始めた。」デールは、父スティーヴのいちばんの戦友と思しき人物で激戦の故に遺体回収ができなかったハーマン・ウォルター・マリガンの遺骨をアメリカに持ち帰ることを最終目標と定め、父の戦友の証言を集めた。その目標は達成できなかったが、代わりに生前の父が語ることも、これまでの歴史教育で習うこともなかった「よい戦争のもう一つの側面」を知った )11
(。
証人のうち唯一偽名で登場する「ケネディ」による沖縄女性に対する強姦および乳児殺しと憲兵による訴追を逃れるために自らの足を撃った偽装負傷が象徴する戦争犯罪の暴露を超えて、引用される一二名の証言者たちが語る地上戦の凄惨な有様は、戦争それ自体が犯罪に他ならないことを暴露している。同書第三部には父の戦友たちの証言とともに、父と父の戦友たちが遺した日本兵の遺体の写真がいくつか掲載されている。それらは金歯が引き抜かれた遺体や、上半身のみの黒焦げの遺体などであり、残虐行為の痕跡を生々しく明示する )11
(。海兵隊では捕虜をとることが想定されていなかった事実も明らかにされる。「生きて虜囚の辱を受けず」という一節を含む、一九四一年一月八日に東 條英機陸軍大臣(当時)が示達した戦陣訓を無視して投降した、英語が流暢なスタンフォード大出身の日本人少尉でさえ、かなり長い会話が交わされた後に父の戦友により無残に刺殺された )11
(。
凄惨な戦場の面影を完全に払拭した現在の那覇中心部に所在するかつての激戦地「シュガーローフ・ヒル」を訪れたマハリッジはマリガンの遺骨を探しながら、父の「戦利品」の写真やパスポートや財布や学徒兵が携帯していた「指導書」を本来の持ち主ないしその関係者に返す作業を根気強く続けたのみならず、「ケネディ」に強姦された「少女」も探し求めた。その間に鉄血勤皇隊の学徒兵だった山田義邦から、学友が眼前で次々と死んでいった過酷な戦場での体験を聞き、首里陥落当時一四歳で家族とともに那覇から島尻南部への絶望的な避難の果てに六月二〇日に母や姪とともに洞窟に隠れているところを米軍に保護された、「正直なところ戦争のことは話したくない」という大西正子から得た次のような回想も書き留めた。「敵は鬼畜米英なんて言ってましたから、悪魔だと思ってたんです。でも私たちを呼びあつめ、私のけがを治療して、食べ物をくれました。」そして続けて言った。「その様子を見て、自分たちが日本兵からいかにひどい扱いを受けてきたかわかりました。アメリカの兵隊は、人道主義を信じる国から来た人た
史苑(第七六巻第一号) ちだ。そのことは認めないわけにはいかない。親戚たちを殺したのはアメリカ軍ですが、戦争だからしかたなかった。敵を殺さないと、こっちが殺されるんですから。だからアメリカ兵を恨んではいません。あのひとたちに撃たれたわけじゃない。海から降ってきた海軍の大砲と、B―29が空から落とした爆弾にやられたんです。一平方メートル当たりに一〇個以上の爆弾が落ちた計算だそうです )11
(。」それに対してマハリッジは自ら集めた証言や確認した事実に基づいて、大西の印象への違和感を「あとがき」で次のように告白する。「直接会って話を聞いたときにはあえて反論しなかったが、アメリカが近代戦で民間人に配慮していたという大西正子の主張は誤りだ。大国アメリカの歴史を振り返ると、軍部も市民も民間人の犠牲は看過してきた。沖縄でもそうだったし、今も変わらない。」彼は日本軍による南京大虐殺と一五万人に及ぶとも推定される住民犠牲者を出した沖縄戦を区別することを拒む決意に至る )11
(。
日米開戦の年に沖縄で生まれ、米国でジャーナリズムを専攻し、記者生活と在日カナダ大使館員を経て大学教員となった吉田健正は、一〇〇人の沖縄戦に参加した元米兵に書簡でアンケートを実施して六〇名以上から回答を得た。彼の中心的な関心は米兵の沖縄住民についての印象であったが、「証言やアンケートから受けるひとつの驚きは、多 くの旧兵士たちが住民との接触はほとんどなかった、と答えたことだった。」住民たちが激烈な艦砲射撃や空襲でほとんど殺された後で日本軍兵士との凄惨な白兵戦を含む地上戦に従事した彼らの多くにとって、出会う住民は後方に収容されてきた老人や女性や子どもがほとんどだった。他方、地元の生き残り民衆にとって肉親や友を殺し、自分を傷つけ、家や財産を破壊した一方で、水や食糧や衣服を与えてくれた「米兵との出会いは強烈であった」し、複雑であった。ただし、吉田は旧日米兵士と地元住民の三者に共通点も見出した。「住民が見た日本軍と米兵がみた日本軍は、戦時といえどもあまりに非人道的であった。同国民に対して、あまりに非情であった )11
(。」日米戦における米軍の「人種偏見」を糾弾するジョン・ダワーでさえ、連合軍、とりわけ米軍海兵隊が日本兵の捕虜をとることに消極的であったのは「日本軍自身にかなりの責任がある」と認める )11
(。捕虜と住民を虐待した日本軍が先に「鬼畜」となったというべきである。
⑶沖縄戦をめぐる軍事的評価
マハリッジは父と父のかつての戦友たちの沖縄の戦場での苦悩と戦後も長く続いた肉体と精神の苦痛の追体験に努めながら、一般に批判を受けることが少ないままであるニ
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
ミッツの沖縄戦の戦略そのものを疑問視し始める。マハリッジは、国民に称賛されたニミッツがやったような日本軍との正面対決をできるだけ避け、日本軍の孤立化を企図したマッカーサー戦略の再評価にたどり着く。「さらに、地上部隊の安全をつねに配慮していたというマッカーサーの逸話を知るに及んで、私はマッカーサー支持派になった )11
(。」しかしながら、マハリッジの主張に共感しつつも、戦場の両軍兵士たちの記憶の集積による「悲惨さ」の実相を強調して大規模地上戦という戦略を糾弾する立場に、私は無条件には同調し難い。その延長線上に広島と長崎への原爆投下の正当化が連なるからである。
一斉攻勢が挫折し、米軍の攻撃が頭上に迫りつつあった牛島司令官が八原高級参謀の提案を受け入れて首里地下司令部を放棄し、島尻南端の摩文仁に三分の一に減じた瀕死の、武器弾薬も不十分な残存兵力でなお持久戦へ向けて戦線の立て直しを図っていたころ、そして一〇万とも推定される住民が犠牲になろうとしていたのと時を同じくして、六月八日の御前会議では徹底抗戦と本土決戦が確認された。だが、沖縄で司令部が崩壊する前日の六月二二日の御前会議で、ついに昭和天皇はソ連を仲介とする和平工作に本腰を入れるように命じた。日本の軍部も政府も二月四日から一一日に開催されたヤルタ会談でスターリンがローズ ヴェルトの要請で、ドイツ降伏の三ヵ月後、すなわち八月初頭には、対日参戦をする約束をしていた事実を知る由もなかった。沖縄での敗北だけでは、しかしながら、昭和天皇の断固たる終戦の決意には不十分だった。先に引用した評価の高いジョージ・ファイファーの『天王山』の結末は原爆投下正当化論である )1(
(。ただし実際には、昭和天皇のポツダム宣言受諾の決断は、主要には広島の原爆投下とソ連の対日参戦によってもたらされ、長崎の原爆投下は付加的な要素であった )11
(。確かに、ようやく自ら主導的に「終戦」を実現する不退転の決意を固めるに至った天皇および重臣と政治および軍指導者たちが、大半が本土決戦の揺るぎなき覚悟を固めたままの陸軍とそれに同調する海軍の一部を説得するために、原爆投下という口実が役立った事実は否定し得ない )11
(。同時に、米国政府が明文化は避けたものの、甚大な犠牲が見込まれることがこの時点で確実となった本土決戦を回避するためなら「国体護持」をポツダム宣言に含めるべきだとするジョセフ・グルーの案をぎりぎりの段階で実質的に受け入れるに至る上で、沖縄戦の全過程が重要な意味を持ったことも疑い得ない )11
(。間もなくマッカーサーは、いわばすんでのところで日本という国家と社会の壊滅を食い止めたとする昭和天皇の功績を内外に印象付けながら、昭和天皇と協力し合って米軍による日本の占領政
史苑(第七六巻第一号) 策を大過なく進めることになる。昭和天皇は戦前戦中の軍国主義の象徴から、戦後の民主化と平和主義の推進者となった )11
(。
おわりに――沖縄戦のさらなる記憶の共有をめざして
デール・マハリッジが暴露したように、苛烈極まりない沖縄戦の影響は戦勝国の兵士やその家族にも戦後長らく残った。このようなダメージを米軍にもたらした戦略的持久戦を決意した日本の守備軍との「正面対決」を挑むべきではなかったとする教訓を引き出すことは可能である。しかしながら、地上戦回避という教訓の延長線上には、広島と長崎への原爆投下の肯定的評価と、地上戦の代替案としての核武装と「核による抑止」論の受容が連なっている。敗戦国だけでなく戦勝国にも悲惨な持続的影響をもたらした史上最大規模の地上戦であった沖縄戦から、現在に至るまで維持され続ける「抑止」神話を基礎とする核武装正当化に敷衍されうる単純な「地上戦回避」の教訓だけを導くのではなく、同時に核兵器だけを特別視してその廃絶のみを求めるのでもない、発言の機会を永遠に奪われたすべての犠牲者のものを含む「記憶」の共有が求められている。国家の枠を超えてともに民衆が「下から」鋭敏に国家の意 図に抵抗する上で共通の根拠となる記憶を紡ぎ続ける地道な共同作業が必要である。この文脈に沿って日米の民衆レベルでの沖縄戦のさらなる記憶の共有化へ向けて、沖縄戦が象徴する「戒厳」について考察することで結びに代えたい。 米軍上陸後の沖縄は完全な戒厳状態に置かれていた。明治以来の皇民教育とも相俟って、住民に対する「集団自決」の強要や不当な「スパイ嫌疑」による即決での処刑が横行した。米軍迎撃準備段階で、軍機保護の観点から、民衆にはもちろん、軍司令部にさえも大本営の意図がほとんど伝わっていなかった )11
(。大本営と政府の基本方針は「決戦」と「持久戦」の間で日々揺れ動き、アメリカ的合理性に貫かれた八原高級参謀は最も効果的な長期持久戦略を周到に準備したが、司令官と参謀長は天皇の意向を背景とした大本営の圧力と次第に劣勢を強いられて高まる現場の圧迫感に抗しきれず基本戦略を逸脱し、最後に島尻最南端まで民衆を引き連れて後退戦を戦い、無責任な徹底抗戦を命じて自決した。三ヵ月にわたり地元民衆は「集団自決」に追い込まれ、皇民教育の模範的国民学校長さえ「スパイ嫌疑」で虐殺され、「不敗の皇軍」が崩壊する中で敵の想像を絶する圧倒的火力で無差別に瞬時に大量殺戮される地獄を見た。日本軍と地元防衛隊や学徒隊を支えたのはただ「国体」と「皇
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
土」の防衛のために捨石になるという大日本帝国が強制した「意義」だった。
冨山一郎が指摘するように、戦場の基本的条件とは「戒厳」であり、沖縄戦の生々しい戦場の記憶が物語るのは、それが日常化した果てに起こりうる情況である )11
(。戦後の民主的な平和憲法の下で日本には人権を制限し否定する「戒厳」はあり得ないことになっている。しかしながら、既に昨年末に特定機密保護法が制定されており、さらに有事諸立法が整えば、事実上の戒厳が可能となる。文民統制や憲法の縛りが、「国家安全保障」ないし「平和の維持」の名の下に如何に簡単に崩壊しうるかは「九・一一同時多発テロ」後のアメリカが示している。「平時」には文民統制に貫かれている民主主義国アメリカにおいてすら、ひとたび「国家安全保障上の危機」が生じれば、憲法で保障された人権さえ制限される、事実上の超法規的な戒厳がもたらされうることを我々は目の当たりにしている。ベトナム戦争時に反戦世論の高まりに寄与した「ペンタゴン・ペーパーズ」のような重要な政府文書の「流出」は、「国家安全保障に関わる秘密の保護」の名の下に、もはやあり得ないのである。一見平和な現在の日常をいつでも戒厳状態に移行しうる法制面での準備はできつつあり、地上戦や核攻撃を含む無差別爆撃という極限状態は、その延長線上に位置付 けられるにすぎない。この点にこそ、日米の民衆レベルでのさらなる沖縄戦の記憶の共有化が望まれる所以がある。アメリカにおける新たな流れに、共感と批判的視点をともに持ちながら合流することが望まれている。
史苑(第七六巻第一号) 註(
2005.また最大の激戦で日米双方に多くの死傷者を出した戦 Surrender to Combat Fatigue. New York, NY: iUniverse, ; Joseph Lanciotti, The Timid Marine: (社、二〇〇八]) Appleman, et al., Okinawa, chap.1.ジ著、伊藤真、他訳『ペリリュー・沖縄戦記』[講談(9)(邦訳、第一章) Press, 2007, orig., 1981)B(邦訳:ユージン・・スレッか、という仮説を立てているが、未実証である。 Breed: At Peleliu and Okinawa (New York, NY: Presidio 日本の植民地や占領地ではない沖縄が選ばれたのではない Eugene B. Sledge, With the Old (3)例えば次を参照せよ。の無差別の空襲や艦砲射撃が不可避であることを考慮して、 醜い日本人』(岩波書店、二〇〇〇年)、一八九―一九一頁。おいては、住民の巻き添えが避け難い地上戦、および事前 ; (8)私は、米軍による次なる攻略の地としての沖縄の選択にたか』(高文研、二〇一四年)、一四六頁大田昌秀『新版 説く沖縄戦の深層――住民はいかにして戦争に巻き込まれ終結七〇周年を迎えて』(行路社、二〇一五年)。 た元沖縄県知事の感想を参照せよ。大田昌秀『大田昌秀が(7)川島正樹編『記憶の共有をめざして――第二次世界大戦 .(2)例えば次の鉄血勤皇師範隊員として従軍して捕虜となっ波書店、二〇一四年]) 初版:新潮社、一九八三年)、五頁。田代泰子訳『過去は死なない――メディア・記憶・歴史』[岩 ; UK: Verso, 2005)榊原昭二『沖縄・八十四日の戦い』(岩波書店、一九九四年(邦訳:テッサ・モーリス-スズキ著、 ; The Past Within Us: Media, Memory, History (London, 縄決戦と原子爆弾[上]』[早川書房、一九九五年]、「序」) ; Tessa Morris-Suzuki, 訳:ジョージ・ファイファー著、小城正訳『天王山――沖トと現在』(講談社、二〇〇一年) (Boston, MA: Houghton Mifflin, 1992), “Introduction” (邦を挙げる。藤原帰一『戦争を記憶する――広島・ホロコース Tenozan: The Battle of Okinawa and the Atomic Bomb(6)戦争の「記憶」に関する入門的参考文献として次の二冊 ;Feifer, Thenozan, p. xiii. George Feifer, イマル出版会、一九六八年]、五一六頁)(5)(邦訳、二九頁) ; ―日米最後の戦闘』[潮書房光人社、二〇〇六年初版:サ(4)大田『醜い日本人』、一九〇―一九三頁。 2011, orig., 1948), p. 473.年])(邦訳:外間正四郎訳『沖縄― The Last Battle (New York, NY: Skyhorse Publishing, フの戦い――米海兵隊地獄の7日間』[光人社、二〇一〇 ; Roy E. Appleman, et al., Okinawa: H文社、一九八五年])ジェームズ・・ハラス著、猿渡青児訳『沖縄シュガーロー MD: Naval Institute Press, 2007, orig., 1996)訳:スタッズ・ターケル著、中山容、他訳『「よい戦争」』[晶(邦訳: on Okinawa: The Battle for Sugar Loaf Hill (Annapolis,War II (New York, NY: New Press, 1997, orig., 1984)(邦 Studs Terkel, The Good War: An Oral History of World James H. Hallas, Killing Ground 1)のとして次も参照せよ。 闘の従軍者へのインタビューに基づく資料的価値のあるも
書著者は沖縄戦の日本現地軍である第三二軍司令部幕僚(大 ; 二〇一五年初版:読売新聞社、一九七二年)、五九頁。同 10)八原博通『沖縄決戦――高級参謀の手記』(中央公論社、
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
佐で実質的に全作戦の立案に責任を負った高級参謀)だった。八原は最年少で入学した陸軍大学校を優等で卒業後にアメリカ駐在経験を持ち、主として現地派遣軍の参謀を歴任し、司令部崩壊時に大本営へ「戦訓」を伝達すべく命を受け司令部脱出後に捕虜となった。(
( ; ソノラマ、一九八五年)八原『沖縄決戦』、四八六―四八七頁。 ; 九〇日間の死闘』(潮書房光人社、二〇一三年初版:朝日 11 )吉田俊雄『最後の決戦沖縄――鉄の暴風が打ちのめした
( 12)八原『沖縄決戦』、第一章。
( ; 二〇〇四年初版:新潮社、一九八四年)、「まえがき」。 垣武『沖縄悲遇の作戦――異端の参謀八原博通』(光人社、 13; )神直道『沖縄かくて壊滅す』(原書房、一九六七年)稲
( VD版)』(東宝、一九七一年制作映画)。 ; 聞社、一九八四年)、二八四頁『激動の昭和史沖縄決戦(D ; の見た帝国陸軍』(文芸春秋社、一九八七年初版:朝日新 久戦への評価が高いことを知った。山本七平『一下級将校 り取りから、沖縄戦での日本軍、とりわけ八原の戦略的持 の山本七平はフィリピンの捕虜収容所での米軍将兵とのや 14Feifer, Thenozan, pp. 105-106. )(邦訳、一八八頁)作家
も「もし本土決戦がないことがわかっていたなら、首里で 軍の五月初頭の攻勢で唯一の戦果を挙げた大隊長伊藤孝一 的であった(八原『沖縄決戦』、四七七頁)。沖縄戦で日本 という。それだけに本土決戦なしの降伏は彼にとって衝撃 には、来るべき本土決戦のために時間を稼ぐ必要があった であろう結果を事前に想定しつつも実行に踏み切った背景 よれば、島尻最南端への撤退が住民に甚大な犠牲を強いる 15)吉田『最後の決戦』、二八一―二八二頁。八原本人の弁に ( パブリシング、二〇一五年]、二八六頁)。 戦二十四歳の大隊長――陸軍大尉伊東孝一の戦い』[学研 最後にしていたでしょう」と証言している(笹幸恵『沖縄
( .二六七頁) ; Feifer, Thenozan, pp. 448-449年)、一九五頁(邦訳、 16 )奥田鑛一郎『沖縄軍司令官牛島満』(芙蓉書房、一九八五
( 一九九〇年)、八六―八七頁。 ; 頁千本秀樹『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店、 特集)、日本国際政治学会、一九九五年五月、五四―六九 観点から」、『国際政治』一〇九号(「終戦外交と戦後構想」 17)庄司潤一郎「『近衛上奏文』の再検討――国際情勢分析の
( 18)千本『天皇制の侵略責任と戦後責任』、八八―八九頁。
( .Feifer, Thenozan, pp. 200-202(邦訳、三一七―三一九頁) 19Appleman, et al., Okinawa, p.473 ; )(邦訳、五一六頁)
; ; 二〇〇五年初版:大阪書籍、一九八九年)五百旗頭真「第 を参照せよ。五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(講談社、 害と天皇制に関する米国政府の妥協との関係については次 20)硫黄島と沖縄の地上戦の激戦による米軍側の多大な損
( ざして』、三四五―三九二頁。 15 章日米戦争と戦後日米関係」、川島編『記憶の共有をめ
( ―一一頁。 『ドキュメント真珠湾の日』(大月書店、一九九一年)、四 21)山田朗「アジア・太平洋戦争への道」、佐々木隆爾、他編
( 22)江口圭一『十五年戦争小史』(青木書店、一九九一年)。
子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実――日本軍の住民 ; 嘉敷島の集団自決』(PHP研究所、一九九二年)曽野綾 23)代表的な例として、曽野綾子『ある神話の背景―沖縄渡
史苑(第七六巻第一号) 自決命令はなかった!』(ワック、二〇〇六年)を参照せよ。(
( 諸島で何が起きたか』(岩波書店、二〇〇八年)。 ; 二〇一二年)謝花直美『証言沖縄「集団自決」――慶良間 照せよ。岩波書店編『記録沖縄「集団自決」裁判』(岩波書店、 24)「集団自決」およびそれをめぐる訴訟に関しては、次を参
( 二〇〇四年)。 ; 間戦記』(潮書房光人社、二〇一三年初版:元就出版社、 回想を参照せよ。深沢敬次郎『沖縄戦と海上特攻――慶良 25)「マルレ」と陸軍海上挺進隊に関しては、元隊員の次の
( 26)深沢『沖縄戦と海上特攻』、一八六頁。
( 27Feifer, Thenozan, chap.22.)(邦訳、第二二章)
( 東大協同組合出版部、一九五〇年)、七〇頁。 28; )飯塚浩二『日本の軍隊』(岩波書店、一九九一年初版:
( 29)八原『沖縄決戦』、一〇〇頁。
( への敗走」)。 れ、犠牲となった(榊原『沖縄・八十四日の戦い』、「9南 ト製の亀甲墓の陣地から追い出され、両軍の中間に放置さ 民たちは日本軍から様々な理由で洞窟や頑丈なコンクリー た従軍兵士や住民からの証言で生々しく語られている。住 考えられなかったという当然の事実については、生き残っ 30)交戦中の米軍に沖縄の一般住民の保護を求めるのは全く
( 31 )大田『大田昌秀が説く沖縄戦の深層』、一四一―一四九頁。 32)榊原『沖縄・八十四日の戦い』、「
( 10 小禄の戦い」)。
( 年)、一七一―一八〇頁。 33 )冨山一郎『増補戦場の記憶』(日本経済評論社、二〇〇六
( 34)(榊原『沖縄・八十四日の戦い』、二九―三〇頁。
35Feifer, Thenozan, p. 532.)(邦訳、下巻、三六九頁) (
( 36)榊原『沖縄・八十四日の戦い』、一八二、二三三―二三四頁。
( 37)榊原『沖縄・八十四日の戦い』、一六四頁。
( 38)榊原『沖縄・八十四日の戦い』、ⅴ頁。
( 年一月二〇日南山大学名古屋キャンパスにて)。 ; 1992), p. 371川島ゼミ「大田昌秀氏講演会メモ」(二〇一五 at War: An Oral History (New York, NY: The New Press, Haruko Taya Cook, and Theodore F. Cook, eds. Japan ; 年たちの沖縄戦』(那覇出版、一九七七年)』、二四二頁 39)大田昌秀『血であがなったもの――鉄血勤皇師範隊/少
( 縄戦の深層』、一四一―一四二頁。 40Cook and Cook, eds., Japan at War, pp. 371-372; )大田『沖
( 「現地を知らぬ帝国陸軍」参照。 批判的に回想している。山本『一下級将校の見た帝国陸軍』、 本軍が全く準備不足でフィリピンの占領を開始した事実を 将校としてフィリピンで従軍した山本七平は、対照的に日 41 )大田『大田昌秀が説く沖縄戦の深層』、一四六頁。下級
( 42)大田『醜い日本人』、一八八―一八九頁。
( 43)大田『醜い日本人』、一八九―一九〇頁。
( html)。 archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21. 44(http://www.)沖縄県公文書館「天皇沖縄メッセージ」
( 二〇〇七年)。 45)西山太吉『沖縄密約――「情報犯罪」と日米同盟(岩波書店、
( 一九七三年)、四〇―四一頁。 46)阿波根昌鴻『米軍と農民――沖縄県伊江島』(岩波書店、 1945-1952日米関係における沖縄』(名古屋大学出版会、 47)ロバート・D・エルドリッジ『沖縄問題の起源――戦後
「米兵は鬼畜ではなかった」のか(川島)
二〇〇三年)、一一四頁。(
( 48)エルドリッジ『沖縄問題の起源』、一一七頁。
( .『「よい戦争」』) 49Terkel, The Good War)(邦訳:ターケル著、中山、他訳
( 二〇一一年制作テレビ・ドラマ)。 50The Pacific )『(DVD版)』(ワーナー・ホーム・ビデオ、
( .沖縄戦記』) Old Breed(邦訳:スレッジ著、伊藤、他訳『ペリリュー・ ; Sledge, With the 猿渡訳『沖縄シュガーローフの戦い』) 51Hallas, Killing Ground on Okinawa)(邦訳:ハラス著、
( p. 2. New York Times International Weekly, October 13, 2013, 52Lawrence Downes, “A ‘Good’ War, a Bad Father,” The )
( .た沖縄戦と元兵士たち』[原書房、二〇一三年]、「はじめに」) 井留美訳『日本兵を殺した父――ピュリツァー賞作家が見 2013), “Introduction”(邦訳:デール・マハリッジ著、藤 Side of the Good War (PublicAffairs, New York, NY: 53Dale Maharidge, Bringing Mulligan Home: The Other )
( .「第三部一二名の海兵隊員」) 54Maharidge, Bringing Mulligan Home, PART III)(邦訳、
( .一三八頁) 55Maharidge, Bringing Mulligan Home, p. 116)(邦訳、
( .三三八―三四〇頁) 56Maharidge, Bringing Mulligan Home, pp. 287-288)(邦訳、
( .(邦訳、「あとがき」) 57Maharidge, Bringing Mulligan Home, “Author’s Notes”)
58 )吉田健正『沖縄戦米兵は何を見たか―五〇年後の証言』(彩 ( 流社、一九九六年)、三二一頁。
( 一九八七年])、八〇頁。 ――太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』[TBSブリタニカ、 Wジョン・・ダワー著、猿谷要監、齋藤元一訳『人種偏見 in the Pacific War (Pantheon Books, 1986), p. 64; (邦訳: 59John W. Dower, War Without Mercy: Race and Power )
( .(邦訳、「あとがき」) 60Maharidge, Bringing Mulligan Home, “Author’s Notes”)
( 61Feifer, Thenozan, pp. 578-579.)(邦訳、下巻、四二九頁)
( 62)千本『天皇制の侵略責任と戦後責任』、九四―九五九頁。
( 二七頁。 る。吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波書店、一九九二年)、 意味では天祐」であったと側近の高木惣吉に語ったとされ 63)海軍大臣米内光正は、原爆の投下とソ連の参戦は「或る 64)本稿註
( 天皇の終戦史』、二八頁)。 響力の拡大を限定する狙いもあったとされる(吉田『昭和 降伏を勝ち取り、対日戦に参戦してきたソ連の極東での影 関するアメリカの日本への歩み寄りは、できる限り早期の 20を参照せよ。なお吉田によれば、天皇制保持に
( 終戦史』。 ; にいたる道』(岩波書店、二〇一五年)吉田『昭和天皇の 65)豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉 他「研究ノート軍機保護法等の制定過程と問題点」、『防衛 漏洩は最高刑が死刑とされる処罰の対象となった。林武、 日米開戦の年に罰則が強化された。軍事機密の探知、収集、 後の一九三七年八月に全面改正され、一〇月に施行され、 66)軍機保護法(一八九九年施行)は日中全面戦争の勃発直
史苑(第七六巻第一号) 研究所紀要』第一四巻第一号、二〇一一年一二月(http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j14-1_6.pdf)。(
67)冨山一郎「第
(南山大学外国語学部教授) 共有をめざして』、三九三―四〇三頁。 16 章戒厳状態と沖縄戦」、川島編『記憶の