1930年代における佐良浜漁民の南洋諸島出漁
安 仁 屋 政 昭
1 , 南 洋 委 任 統 治 領
南洋群島は、小笠原諸島の南、赤道以北の太平洋に散在する旧ドイツ領のマリアナ、カロリ ン、マーシャルの三群島を総称したもので、いわゆるミクロネシアに属するoその広がりは、
東経130度から175度、赤道から北緯22度におよび、東西2,700カイリ(約5,000km)、南 北1,300カイリ(約2,400km)の広大な海域を占めている。その問に約624の島があり、礁島 を加えると1,400余となる。南洋群島の北東はるかにはハワイ諸島があり、南には赤道をへだ ててニューギニア島、ニューブリテン島、東南にはギルバート諸島・エリス諸島があり、西方 にはフィリピン群島、セレベス島があり、北は小笠原・硫黄島につらなっている。
マリアナ群島は小笠原諸島の南につらなって北から南へ走り、カロリン、マーシャルの二群 島は赤道に平行して東西につらなり、三群島の配置はほぼ逆T字形をなしている。小笠原諸島 の真南740カイリにマリアナ群島の主島サイパン島があり、さらに660カイリ南下すると東カ ロリン群島の主要島トラック諸島に達する。トラック諸島はいわゆる逆T字形の相交わるとこ ろで南洋群島の中心点にあたる。カロリン群島の東方にはマーシャル群島が横たわっている。
グアム島を除く南洋群島の面積は2,149km2で、沖縄県の2,249km2に及ばない。各群島中 の主要な島喚の面積をゑると、グアム島が568km2で淡路島とほぼ同じ広さ、ついでバベル ダオブ島(パラオ本島370km2)、ポナペ本島(375km2)は種子島(447km2)より小さく、
サイパン島(185km2)、ロタ島(125km2)、ヤップ本島(216km2)、いずれも石垣島(221km2)
より小さい。
16世紀初めにミクロネシア諸島を発見し、南米を経由し本国とフィリピンを結ぶ中継基地と してマリアナ群島を領有してきたスペインは、その後の約100年間、カロリン群島やマーシャ シル群島を放置してきた。17世紀にいたってスペインは、カロリン、マーシャルの両群島をも 併合し、三群島全部をその領土に編入した。これに対しドイツは、北東ニューギニア、ビスマ ーク諸島、ソロモン群島、ナウル島などを占領し、19世紀後半にはマーシャル群島を占領した。
このため、スペインとドイツとの間に烈しい紛争が起こったが、イギリスの介入などもあって 結局はマーシャル群島はドイツ領となった。
1898年、スペインは米西戦争に敗れた結果、フィリピンとグアム島をアメリカに割譲した。
グアム島はマリアナ群島中最大の島であり、スペイン領太平洋諸島の中心であった。この機に 乗じてドイツは、グアム島を除くマリアナ群島およびカロリン群島をスペインから買収するこ
とを計画、米西戦争で経済的に疲弊し、かつ、太平洋に領土を維持する実力を失ったスペイン もまた、この島々が他国に奪われることを恐れて、ついに1899年、1675万マルクでドイツに 売却した。このようにして、マジェラン以来太平洋にその勢力をふるってきたスペインは完全 に太平洋の舞台から姿を消した。これに代わって、アメリカがグアム島を領有し、マリアナ、カ
ロリン両群島をドイツが領有することになったのである。アメリカはこれによって、ハワイ、
グァム、フィリピンと南太平洋を東から西に横切って結ぶ拠点を獲得、ドイツは北東ニューギ ニアからマーシャル、マリアナ群島を経て、膠州湾を結ぶ西太平洋を南北に縦断する重要な地
域を確保することになった。
1914年8月、ヨーロッパに第一次大戦が勃発すると日本は日英同盟に従って参戦、連合国側 に立ってドイツに宣戦した。日本軍は東洋にあるドイツ領の攻撃を開始し、膠州湾を攻めると 同時に、10月には海軍南遣支隊が南洋群島を占領した。日本は南洋群島占領と同時にトラック 島に司令部をおいて軍政をしぎ、同年12月に南洋群島防備隊条例を発布した。これによって、
南洋群島をサイパン、パラオ、トラック、ポナペ、ヤルートの5民政区に区分し、各民政区に 守備隊を配置し各守備隊長を軍政庁長として民政事務を兼掌させた。1918年には南洋群島防備
隊司令官の下に民政部を設け、軍政庁を改めて民政署とした。
大戦が終わり、1919年のヴェルサイユ平和条約その他の規定によって、赤道以北の旧ドイツ 領南洋群島はC式委任統治地とされ、日本がその委任統治受任国となった。C式委任統治とい うのは、土地がせまく人口が少なく、かつ、住民の政治的能力のない地方に適用されたもので 住民の利益のために一定の保障を与えることを要するという条件のほか、受任国領土の構成部 分として、その国法の下に施政を行うべきものと定められていた。
南洋群島が日本の委任統治地域となったことをうけて、1922年3月、日本は南洋群島防備隊 条例を廃止し南洋庁を設置した。南洋庁はパラオ諸島コロール島に設置、また、サイパン、ヤ
ップ、パラオ、トラック、ポナペ、ヤルートの6支庁を置いた。
南洋庁長官は当初、総理大臣の指揮監督をうけることとなっていたが、1929年からは拓務省 の管轄となり、太平洋戦争勃発後の1942年には拓務省を廃止して大東亜省が設置されたため、
その管轄下に入った。また、6支庁も1943年には戦時行政の見地から改正され、西部支庁(パ ラオ諸島コロール島)、東部支庁(トラック諸島夏島)、北部支庁(サイパン島)の三か所にま とめられ、従来のヤップ、ポナペ、ヤルートの支庁は出張所となった。北部支庁管内のテニア ン島とロタ島にも新に出張所を設けた(日本軍のグアム島占領は1941年12月10日)。
なお、満洲事変後、日本は国際連盟脱退の通告をして(1933年3月27日)、2年の予告期間 を経て1935年3月27日、完全に国際連盟から離脱した。これによって、南洋群島の委任統治 は事実上、国際機関によるチェックができなくなり、日本の意のままになった。
南洋群島統治とともに、産業開発等のために日本からの移住者が年々増大した。1920年には 全人口5万2,000人であったものが、1941年には13万5,000人となり、このうち日本人は 3,600人から8万4,000人余と23倍の激増を示し、全人口の62.4%にのぼった。特にサイパ
ン、パラオの管内では、92.79%と圧倒的多数を占めていた。
日本からの移住者のなかでは、沖縄県人が最も多く、奄美大島や小笠原からの移住者がこれ についでいる。沖縄県では「そてつ地獄」と呼ばれる経済不況のもとで、南洋移住が官民をあ げて唱導されていた。また、風土への適応性や低賃金に着目して、南洋興発(株)等が特に力
をいれたことも注目される。
南洋移住者の増大にともない、日本と南洋を結ぶ航路も整備されていった。内地・群島間航 路としては、当初、海軍御用船(日本郵船)の運航によって連絡を取っていたが南洋庁設置と ともに、1922年度から日本郵船(株)に補助航路として命令してきた。1938年度からは南洋 海運(株)の日本・ジャワ航路をパラオに寄港させ、また、1939年度からは南洋汽船(株)の
南星丸を群島一内地一那覇間に就航させてきた。
1941年(昭和16)における主な航路は次の通りである。
①西廻線(年37回)−神戸、大阪、門司、崎戸、横浜、八丈、二見、那覇、サイパン、テニア ン、ロタ、ヤップ、パラオ、アンガウル、メナード、ダバオ、タワオ間往復(日数35日)
②東廻線(年20回)−神戸、大阪、門司、崎戸、横浜、サイパン、テニアン、トラック、ポ ナペ、クサイ、ヤルート(日数54日)
③サイパン線(年13回)一神戸、門司、崎戸、横浜、那覇、八丈、二見、サイパン、テニア ン、ロタ、名古屋、大阪問往復(日数30日)
④日本・南洋・ジャワ線(年往復12回、復航12回はパラオ寄港)
⑤南洋・内地・那覇線(年8回)−パラオ、ヤップ、フハエス、阪神、那覇
南洋庁を設置して以来、命令航路として外国との交通は、西廻線によってオランダ領セレベ ス島メナードに達するだけであったが、1929年メナードからフィリピンのミンダナオ島ダバオ 港に延長し、さらに1937年からはボルネオのタワオ港まで延長し太平洋戦争開始まで運航して いた。また、南洋群島内の航路は、主として南貿汽船(株)が補助金を受けて運航してきたが 航路は網の目のように四通八達していた。主なものとしては、マリアナ群島線、ヤップ離島線
パラオ離島線、ポナペ離島線、マーシャル群島線などであった。
なお、これらの客船だけではなく、貨物船を臨時に利用することも多く、船は一般に貨客船 であった。沖縄からの渡航者は、20トン未満の漁船で直行することもあった。
2 , 佐 良 浜 漁 民 の 出 漁
沖縄から南洋群島への移住は、第一次大戦中の1915年に始まっているが、本格的に南洋移 住が展開するのは1922年以後である。特に昭和期にはいって沖縄県人の南洋移住は年ごとに 増大し、1937年(昭和12)には1万5,000人を数え在留邦人の57%を占めている。太平洋戦 争中の1942年(昭和17)には5万6,000人に達している。この南洋移民の誘致にあたって、
最も大きな力を発揮したのが南洋興発(株)であった。同社は1921年、東洋拓殖(株)を母 体に資本金300万円で創立され、1923年サイパン島で製糖を開始、1927年にはアルコール製 造も始め、さらに1930年にはテニアン島でも製糖を始め、資本金を700万円に増資した。南
洋興発(株)はその後、燐鉱、コプラ、澱粉、水産、運輸、金融など各種の事業を営孜、資本 金も1933年には2,000万円、1937年には4,000万円と増資し、南洋群島における産業の中枢 的存在となり、ついには、その資本金5,000万円に達した。職員4,600余、子会社21、関連会社 は無数と言われた。南洋興発(株)は沖縄県民の熱帯への順応性と低賃金に目をつけて、積極 的に誘致したのである。沖縄県でもまた、南進国策に乗って、南洋移住を奨励した。1941年に は金武村ギンバル地区(現在の中川)に拓南訓練所を開設、南洋移民を組織的に養成してい る。沖縄から南洋への移住は、農業と漁業が圧倒的に多く、地域的には、糸満、本部、渡嘉敷、
座間味、伊良部、与那城、勝連、伊平屋、伊是名、知念、玉城、名護、久志、金武、美里、具 志川などの町村からの移住者が多かった。渡航先での仕事は、マリアナ群島のサイパン、テニ アン、ロタの島々では農業が多く、カロリン群島のパラオ諸島、トラック諸島、ポナペ島では 漁業が中心で、これらの仕事と関連して小型船による貨客の運送事業も活発に行われた。
伊良部島の北部落と通称している佐良浜(池間添と前里添の2集落)は、伝統的に漁業を営 んできた。当初は沿岸漁業を主体としていたが、大正・昭和期にはいって、フィリピンと南洋 への出漁が全面的に展開する。なかでも南洋への移住は群を抜き、移住者の約8割が南洋方面
であった。
佐良浜からの南洋移住者の出先地を見てみよう。仕事が鰹漁業であることとも関連のあるこ とであるが、佐良浜漁民の出先地はかなり限定的・集中的である。まず、パラオ諸島のコロー ル島・マラカル島・アラカベ島、ついでトラック諸島の四季島・七曜島、さらに東へ行ってポ ナペ島などが主要な出先となっている。
移住・出漁の形態に特徴がある。第一に、南洋興発(株)や南興水産(株)といった会社の 募集に応じて行く場合。これには、開拓農民を社有地に入植させる場合(ほとんどの者は農業 労働者として雇用)と、漁民を自社の船に乗せて鰹漁業に従事させる場合とがあった(雇用労 働者)。第二に、同じく会社の募集に応じて行くのであるが、個人としてではなく、佐良浜の 漁民10数人で組織している「組合」が、漁船ごと会社に雇われるものである。この場合は、純 然たる雇用労働者とは少し趣が異なり、漁獲高を増やすことによって組合の増収をはかること も可能であった。第三の形態は、佐良浜の漁民が独自に組合を組織して出漁したり、あるいは 友人知己を頼って単独で渡航をする場合である。この形の南洋出漁には、すでにフィリピンや セレベス方面へ行っていたものが、方向転換をして南洋にいたった例もある。佐良浜の漁民に とって、赤道を越えて南太平洋のセレベス海域・ニューギニア・ソロモン海域へ行くことも、
南洋群島のトラック諸島へ行くことも変わりはなかった。その意味では、委任統治領南洋群島 から、旅券を持たずに南太平洋へ出漁することも、異例ではなかった。
南洋出漁は、まず男が先行し、生活の基盤を築いてから妻子を呼び寄せるというのが一般的 である。したがって当初は、女性のきわめて少ない社会であった。昭和期に入ると女性が単独 で渡航する者もでてきて事態は一変する。南進国策にそった強力な宣伝が官民をあげてなされ たからである。1935年(昭和10)に日本が国際連盟を完全に脱退してからは、南洋に対する 沖縄県民の姿勢は一段と積極的となり、「南洋開発は沖縄県民の手で」という雰囲気になって
いった。特に太平洋戦争中には、沖縄県出身者は在留邦人の7割にも達した。
佐良浜漁民のいま一つの特質を指摘しておきたい。それは、積極的な探究心とでも言おう か、非常に多くの南洋出漁者が、船や自動車の機関に関する免許を取り、次の事業展開への基 礎としていることである。これは他地域の南洋出漁者には見られないものである。
太平洋戦争の勃発によって、佐良浜漁民の運命も大きく変わった。昭和17年から18年、19 年と、男は軍隊に召集され、召集を受けない者は、主として海軍に徴用された。昭和19年に なるとマリアナ群島も戦場となり、妻子のほとんどは強制的に「内地引き上げ」を命じられ、
家族離散の状態で戦場を往来することになった者が多い。
氏 の 体 験 談 3 , 内 間 金 一一一
私は明治40年(1907)11月28日、伊良部島佐良浜(池間添45番地)に生まれた。地元の 伊良部尋常小学校高等科2年を卒業したのが大正11年(1922)、数え年16歳であった。貧しい 漁村の習わしというべきか、卒業式の翌日のたった1日だけが私の自由になる休日であった。
父に代わって、豊漁丸組合という組合組織の鰹船に乗り組むことになったのである。組合員は 30人くらいであった。私の漁師としての本格的な修行が始まったのである。漁師としての修行 といっても、漁をするだけではない。若い私が大きな関心を抱いたのは、漁よりも船を機械で 動かすこと、つまり機関の勉強、それから後にその重要さがわかったことだが、鰹船を採算の とれるように運営すること、つまり会計の仕事など、若い漁師が学ぶべきことはたくさんあっ
た。
この組合組織の経営が失敗したので、たしか19歳か20歳の頃と思うが、鮪縄(しぴなわ)
船にしばらく乗り組んで修行をしたこともあった。20歳になって徴兵検査を受けて久留米12 連隊に入隊、2年間兵役に服し昭和6年(1931)満期で除隊した。満23歳であった。
除隊後、昭和丸という19トンくらいの貨物船に乗っていたが2年後にこれが台風で行方不明 になってしまった。私は船乗りを続けるつもりでいたところ、さいわいにも宮古平良の名渡山 さん所有の昭八丸の機関長に迎えられることになった。この昭八丸には昭和10年まで乗ってい た。昭八丸は那覇・平良・石垣・舟浮(西表島)・基隆を往来した不定期の貨物船で、積荷は 材木・バナナ・承かん・石炭(西表島白浜から平良へ)などであった。船員は7人で、月給制 ではなく、運賃の収益から実費を差し引き、純益を4対6で船主と船員で配分した。
この間、昭和7年(1932)満24歳のとき、仲間トヨと結婚、いご私は妻と子どもをひきつれ
て、はるか南洋トラック諸島まで赴くことになる。
昭和10年(1935)3月、南興水産(株)に雇われてパラオ諸島マラカル島へ渡ることとなっ た。そのころ、南洋興発(株)を中心に、南洋貿易(株)、南洋拓殖(株)、南興水産(株)な ど南洋関係の会社がたくさんあって、しきりに南洋移住を勧誘していた。南洋関係の会社とい うのは、南洋興発(株)を頂点とした一種の国策会社で、本社を東京に置く大資本であった。
その下に無数の下請会社があったのである。わが伊良部島からも、すでに多くの先輩たちがサ
イパン・パラオ・トラックなどに渡航していた。伊良部島からの渡航者は、個人として会社に 雇われて行くこともあったが、多くの場合、漁民が組合を組織し、その組合が所有の船や漁具 もまるごと会社に雇われるのである。また、会社に雇われる形をとらず、組合が自立して漁業 を営承漁獲物を商社に売却するというやり方もあった。
南洋渡航の方法は幾通りもあった。那覇へ出て、門司・神戸・横浜経由でサイパンへ行く路 線、逆に那覇からサイパンヘ直行する路線もあった。サイパンからテニアン・ロタ・ヤップ・
パラオ・トラック・ポナペ・クサイ・ヤルート方面へと航路が開かれていた。南洋群島内の路 線は10数本あって、フィリピン・南太平洋方面へものびていた。横浜から船で直行してもパラ オまで7日もかかったので、佐良浜の漁民は別トン未満の船で南洋へ自力で渡航することも あった。宮古から石垣島・西表島を経て台湾にいたり、そのまま南下してバシー海峡を越えて フィリピンのルソン島を経てミンダナオ島まで南下、ここで進路を東にとって大海原を約1昼 夜航海してパラオ諸島に着くのである。この間、約1週間、それからマリアナ群島やトラック 諸島、マーシャル群島へと向かうのである。トラック諸島まで約2週間の行程であった。
パラオ諸島のうち、南洋庁の置かれたコロール島は商業の中心地で、マラカル島とアラカベ 島は漁業、アンガウル島とペリリュウ島は燐鉱の島、バベルダオブ島(パラオ本島)はパイン とタピオカの生産で知られていた。私たちは加数人で組合を組織し、まるごと南興水産(株)
に雇われ、私は南興水産(株)の朝日丸7号に機関長として乗り組んだ(のち甲板員となる)。
南興水産(株)は私たちのほかにも個人の船を27,8隻雇っていた。
仕事は鰹漁である。豊漁のときは鰹節製造が間にあわないほどで、せっかくの漁獲を沖に捨 てて来ることもあった。豊漁のときは鯉が流木に群れてたかっており壮観であった。漁獲を各 船で制限し、1回の水揚げを1,000貫ときめたこともあった。もちろん不漁のときもあった。
1年のうちでは3月が不漁期で、そのときは神だの承で魚霊祭を行った。
昭和11年(1936)には妻子をマラカル島に迎え、会社の寮で生活することとなった。それか らしばらくして南興水産(株)をやめ、本村氏に雇われてアラカベ島へ渡り、船の会計を担当
したこともあった。
昭和14年(1939)、妻子をつれて鰹漁業の本場トラック諸島木曜島へ渡ることとなった。ト ラック諸島には無人島をもあわせると240余の島があるが面積は極めて狭小である。トラック 諸島のなかでは四季島(春・夏・秋・冬)と七曜島(日・月・火・水・木・金・土)が中心で あり、鰹漁業と日本海軍の前線基地として知られていた。30人くらいの組合員で経営する豊山 丸という鰹漁船があり、乗り組承員は加数人、鰹節製造場には7,8人働いていた。私はその 製造場の会計になった。妻たちは製造場の「けずり女工」である。豊漁でフル操業したときな ど、4ケ月で1人あて1,100円の配当と皆勤の賞与200円を受けたこともあった。不漁のとき はナマコをとり、これを乾燥して出荷したこともある。
昭和16年(1941)1月、佐良浜に帰ることになった。太平洋戦争勃発の年である。サイパン までは妻子と一緒、妻子をサイパンから沖縄へ帰し、私はパラオまわりで貸し金をとりたてて 帰った。それから約3年、佐良浜を拠点に鰹漁業に従事し、昭和18年3月には家を新築した。
昭和18年(1943)9月、東京に本社のある南洋汽船(株)に船員として雇われた。これはパ ラオ以来の友人平安山勇助氏の誘いに応じたものである。身分は軍属ということであった。
船は230トンの八代丸で機帆船であった。この頃になると、太平洋の日米戦争は日本の敗退 につぐ敗退で、若い船員はどんどん召集されて乗り組承員は常に不足がちであった。私たちの 場合も、必要な船員14人のうち10人しか確保できなかった。八代丸の仕事は、正月用品を内 地からパラオ諸島とトラック諸島に運ぶことであるといわれていた。八代丸は長い航海に備え
て神奈川県三浦半島の三崎港でドックに入った。なんとこれが半年もかかってしまった。
昭和19年(1944)8月15日、米やその他の食糧雑貨を積んで横浜港を出港した。行き先は 南洋群島ではなく、台湾・フィリピンを経てシンガポール・ラバウル・ニューギニア方面であ った。昭和19年7月にはマリアナ群島は米軍に占領され、サイパンは日本空襄の基地になっ ていたのである。私たちの船は南へ直行することはできなかった。機関等の整備がなお必要で あった。約20日間かかって下関にたどりついたのが9月の初めであった。下関での整備作業は 思いのほか長びき、50日以上もかかってしまった。ちょうどその時、佐良浜の妻から電報がき て、内地に疎開するか、台湾に疎開するか、どっちにするかを問い合わせてきた。判断に迷う
ところであったが、とにもかくにも途中、佐良浜に寄るつもりであった。
また同じ頃、「10.10空襲」の情報も入ったが、具体的な情況はさっぱり分からず、不安と
いらだちの日をすごした。
10月の月末に下関を出港、南下する船をいったん鹿児島に集結させ、12隻の船団を組んで 那覇へ向かうことになった。鹿児島では10.10空襲のことをやや詳しく聞くことができたが、
宮古の被災状況はわからなかった。
那覇へ向かった12隻の船団は、敵潜水艦の攻撃を逃れて航海するのに必死であった。船足 の早いのはどんどん先へ行き、オンポロの船は取り残された。それでも無線を持っていたから 何とか潜水艦の攻撃を避けて、3昼夜かかって那覇にたどりつくことができた。那覇港沖に船 を近づけて象て驚いた。那覇は無くなっていたのである。那覇市街のあったところは真白であ る。家は無く、人々は生きているとすれば、たぶん墓の中に入っているのだろうと思った。宮 古もこうなっていると思って絶望した。那覇で補給をしてから宮古に向かった。
池間島の先から双眼鏡で伊良部島佐良浜の方角をのぞくと白い家が見えた。私の家は無事で あった。平良港には夕方の5時についた。平良港に1泊の予定であったので、この時間を利用 して佐良浜に渡ることにした。久松部落へ行ってサバニを借り、夜の8時ごろ、なつかしの佐 良浜に帰りついた。私は父の名を呼んだ。大きな声で2度呼んだ。予想もしなかったことだけ に皆びっくり、夜中に部落中の親戚の者がぞろぞろ集まってきた。明日の運命はどうなるかも 分からない当時のこと、ひとときの別れを惜しぷつつ、明け方に八代丸にもどった。平良港で は、アメリカの潜水艦が与那国島周辺海域に出没しているという情報を得ていた。そのため、
用心のために更に1泊することになった。
さて、平良港出発のときになって、城辺村の村長、助役、収入役ら5,6人と台湾への疎開 者が同乗することになり、西表島へ向けて出港した。西表島白浜まで約13時間、舟浮港に1泊
して補給をした。翌日早朝に出港、基隆に着いたのは11月20日であった。下関を出てからほ ぼ1ケ月になっていた。
基隆に10日ほど滞在してから、台湾南部の高雄に向かい、積荷はここで陸揚げした。この 半年の間に戦線の情況はすっかり変わっていたのである。フィリピンやニューギニアどころで はない、台湾周辺はすでに空も海も完全にアメリカに押さえられていた。私たちが乗ってきた 八代丸は、修理をして彰湖諸島に回航されることになった。ところが、昭和20年の1月3日 から始まった本格的な空襲は、ドックも港湾施設もめちゃめちゃにしてしまい、また、船は港 外に出たとたんに沈められてしまうのであった。船乗りもあがったりである。私は敗戦の直前 に八代丸を下りた。沖縄戦のことも情報としてはかなり聞いた。しかし、実際の様子は知りよ うもなかった。8月15日の敗戦の知らせを聞いたのは高雄であった。それから私は基隆に近 いスオウという漁港へ行った。佐良浜の人たちが大勢いたからである。敗戦後の2ケ月を佐良 浜の仲間たちとすごし、食糧営団の傭船であった長勝丸で佐良浜へ帰ったのは昭和20年10月
であった。
南洋群島地図(昭和7年現在)
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