近世初期の智積院と長谷寺-後継能化選出問題を中心に-宇高良哲
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(2) 二. 東大史料 編纂所 の謄 写本 によ った︒ 一部 正確 に謄 写さ れ ていな い箇 所があ るが︑後 日原本が閲覧 できる機会 があれ. ば再検 討し てみた い︒また謄 写本閲覧 に際 し て︑史 料編纂所 の厚谷和雄 氏から種 々御高 配を いただ いた︒厚 く感謝 す る次第 である︒. 慶 長 十 四年 七 月 十 六 日. 慶 長 十 七 年 十 一月 十 一日. 長 谷 寺 小 池 坊 能 化 宥 義 ︑ 幕 命 に よ り改 易 ︑ 京 識 房 秀 算 ︑ 脇 能 化 か ら後 継 能 化 と な る︒. 京 都 智 積 院 能 化 祐 宜 入 寂 ︑ 幕 命 に よ り 正 純 房 日誉 ︑ 脇 能 化 か ら 後 継 能 化 と な る ︒. 長 谷 寺 小 池 坊 能 化 空 鏡 ︑ 幕 命 に よ り 失 脚 ︑ 玄 立旦房宥 義 ︑ 脇 能 化 か ら 後 継 能 化 と な. 長 谷 寺 小池 坊 能 化 性 盛 入 寂 ︑ 空 鏡 房 栄 範 後 継 能 化 と な る ︒. 京 都 智 積 院 能 化 玄 宥 入寂 ︑ 一時 期 頼 立旦房恵 伝 後 継 能 化 と な る が ︑ 幕 命 に よ り ︑ 長 善 房 祐. 長 谷 寺 小 池 坊 能 化 専 誉 入寂 ︑ 頼 心 房性 盛 後 継 能 化 と な る ︒. 次 に本 論 で問題 となる徳 川家 康在世中 の両本 山智 積院と長 谷寺 の能化 の交替を 年次順 に整 理す ると次 の通 りであ る ︒. 一 慶 長九年 五月五 日 慶 長十年十 月 四日. 慶 長 十 七 年 四 月 二十 六 日. 二. 三. 宜後継能化 となる︒. 四. 五 元和元年閏 六月十五 日. 連 の史 料 が 所 収 さ れ て いる ︒. の小 池 坊 能 化 就 任 に 対 し て︑ 長 谷 寺 の所 化 衆 は 快 く 思 って いな か った よ う であ る ︒ ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ に こ の時 の 一. 慶 長 九 年 五 月 五 日 長 谷 寺 小池 坊 能 化 専 誉 が 入 寂 す る と ︑ 頼 心房 性 盛 が 次 の長 谷 寺 小 池 坊 能 化 と な って いる ︒ 性 盛. 一 長谷寺専誉 から性盛 へ. 六. る。.
(3) 元倍. 元借. 承免. 承免. 将軍様御上洛 次第. 将 軍 様 御 上 洛 次 第 ︑左 右 方 承 届 可 得. 泊 瀬 寺 所 化 衆 之 儀 ︑ 貴 寺 ニ御 拘 之 由 候 ︑ 如 何 様 之 子 細 候 哉 ︑ 将 軍 様 御 意 ニも 入申 間 敷 存 候 問 ︑ 御 異 見 帰 寺 候 者. 教座下. 可然 候 ︑ 但 ︑ 御 存 分 候 ハ ハ可承 候 ︑ 恐 憧 頓 首 ︑ 十月 四日. 智積院. 上意候 ︑ (月 日 欠 く ) 泊瀬 寺所化衆. 近 世初 期 の智 積院 と長 谷寺. ‑ 後継 能 化 選出 問 題 を 中 心 に‑. 三. これ ら の書 状 を み る と︑ 慶 長 九 年 十 月 頃 ︑ 専 誉 入寂 後 ︑ 長 谷 寺 で は 性 盛 の能 化 就 任 を 快 く 思 わ な か った 専 誉 の弟. 年 のも のと 断 定 でき る ︒. 前 能 化 専 誉 が 入 寂 し た 慶 長 九 年 五 月 以 降 のも の であ る ︒ 以 上 の考 証 に 誤 り が な け れ ば これ ら の 一連 の書 状 は 慶 長 九. 更 に(2 に) 長 谷 寺 を 退 散 した 所 化 衆 が 智 積 院 に 止 宿 し て いる こと を 長 谷 寺 の 頼 心 房 性 盛 が 訴 え る と い って い る の で︑. 分 け てお り ︑ こ の書 状 は ﹁ 将 軍 ﹂ と あ る の で ︑ 徳 川 家 康 が 徳 川 秀 忠 に将 軍 職 を 譲 る慶 長 十 年 四 月 以 前 のも の であ る︒. こ れ ら の書 状 の年 号 は な いが ︑ ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ は 徳 川家 康 の こと を 年 代 によ って ﹁将 軍 ﹂ と ﹁ 大御 所﹂ に書き. 可得. 泊瀬寺各御 退散之由笑 止 ニ候︑従頼心 も訴訟候︑衆 中之存之 分不承候 間︑様体 可蒙仰候︑. 智積院. 十 月 十 二日. 上 意 候 ︑ 年 内 無 程 儀 候 間 ︑ 其 以前 論 議 出 仕 等 ︑ 不 可有 御 許 容 候 ︑ 為 其 令 啓 候 ︑. 先 日者御出本望 之至候︑傍泊瀬 寺退散之所 化衆︑従頼 心存分訴 訟候間 ︑. (2) (3).
(4) 四. 子 の所 化 達 は 長 谷 寺 を 離 れ ︑ 智 積 院 玄 宥 の許 に 止宿 し て いた ︒ そ こ で長 谷寺 能 化 性 盛 は徳 川家 康 の 支 配 下 で 畿内 の. 寺 社 行 政 を 担 当 し た 西 笑 承 免 達 に ︑ 所 化 達 が 長 谷 寺 に 戻 る よ う に 訴 え て い る こと が わ か る ︒ 西 笑 承兌 達 は性 盛 の要 請 に も と づ き ︑ 智 積 院 玄 宥 に 長 谷 寺 の 所 化 達 を 帰 寺 さ せ る よう に伝 達 し て いる ︒. 性 盛 入 寺 直 後 の 長 谷 寺 の状 況 に つ い て櫛 田 良 洪 博 士 は ﹃専 誉 の 研 究 ﹄ ﹁専 誉 と 性 盛 ﹂ の 項 で︑ 英 岳 の ﹁長 谷寺 古 今 雑 記 ﹂ の記 事 を 参 照 し な が ら 次 のよ う に解 説 さ れ て いる ︒. た だ性 盛 が 長 谷寺 へ急遽 入住 し た た め多 方 面 に影 響 が 甚大 であ った ら し い︒ま ず 入 山す る に 当 って︑多 く の学 徒 を引 き 連 れ て蓮 台. 寺 か ら 入寺 し たた め ︑ 小池 坊 在 来 の学徒 と の間 に少 な か ら ぬ軋 礫 が生 れ た ︒専 誉 は 根来 山 以 来 の 風習 で ︑常 客 両 様 の区別 を は っきり. し て︑他 山 の学徒 を 区 別 し てき た ︒ と こ ろが 性盛 が 引 き連 れ てきた 蓮 台 寺 入住 の学 徒 の年 限 を 長 谷寺 入 住 の年 限 と 同 一に認 め て修 学. さ せ た ︒ これ を み て旧専 誉 以来 の学 徒達 は納 得 せず ︑ な かな か 融 和 しな か った ︒ 宥 義 ・日誉 ・元寿 な ど ︑専 誉 の教 え をう け て育 った 多 く の学 徒 達 は ついに 性盛 に背 き 長 谷寺 を さ って帰 国 や ︑ 四散 す る と いう 出 来事 が 起 った ︒. 櫛 田博 士 は 性 盛 が 蓮 台 寺 から 入 寺 した とさ れ て い る が ︑ 東 寺 宝 菩 提 院 所 蔵 の ﹁易 壇 事 ﹂ の奥 書 に は ︑ 慶 長 八 年 五 月 二日 於 京 師 因 幡 堂 平 楽 寺 清 浄 金 剛 院 五 坊 頼 心 房 性 盛. と あ る ︒ 慶 長 八年 五 月 頃 ︑ 性 盛 は 京 都 五条 因 幡 堂 に いた よ う であ り ︑ 後 述 す る よ う に 性 盛 が 蓮 台 寺 や 清 閑 寺 と密 接. な 関 係 を も って いた こと は 事 実 であ るが ︑蓮 台 寺 か ら か ︑ 因 幡 堂 か ら か ︑ ど ち ら か ら 長 谷寺 に 入 寺 し た か は ︑今 後 再 検 討 が 必 要 であ ろ う ︒. 祐宜奉. 毎 日可被捜 短冊 権僧 正. 問者. 八講請 定事. ﹃智 山 学 匠 著 書 目 録 ﹄ 所 収 の慶 長 十 一年 冬 の智 積 院 報 恩 講 の差 定 を み る と 次 の如 く で あ る ︒. 智 積院 証義 者. 唄師.
(5) 宝算 法師奉 宥 賢法印奉. 宥政法印奉. 宥鐺 法師奉. 信舜法師奉. 権 大僧都盛能奉. 宥教法 印奉. 散花 権 大僧都快 意奉. 秀算法印奉. 権 大僧都快重奉. 間者 宥 恵僧都奉. 間者. 俊光 法印奉 間者. 秀応法印奉. 第 二座講 師 元寿 法印奉. 初 座講師 第三座講 師 宥 秀僧都奉 権 大僧都宥恵奉. 問者 賢栄 法印奉. 盛俊 法印奉 海弁法印. 第四座 講師 読師 権 大僧 都宥信奉. 日. 右従十 一目巳具定 迄同十 二日︑於智 積院各無 解怠可被参勤 之状 如件︑ 慶長 十 一年 丙午十 二月. これ を み る と 専 誉 の弟 子 の秀 算 や 元 寿 な ど は 依 然 と し て智 積 院 に 止 宿 し て 報 恩 講 に参 加 し てお り ︑ 性 盛 の 長 谷 寺. 復 帰 要 請 は成 功 しな か った よ う であ る ︒ 本 来 ︑ 智 積 院 玄 宥 と 長 谷 寺 性 盛 の 関 係 は 悪 く な か った は ず であ る ︒ ﹃義 演. 根 来 寺 再 興 ノ 事 ︑ 智 積 院 ・五 坊 其 外 衆 ︑ 内 府 へ訴 訟 云 々︑. 准 后 日記 ﹄ 慶 長 五 年 十 一月 七 日 の条 を み る と ︑. 五. 上 意 候 慮 ︑ 従 前 々妻 帯 之 所 ニ候 間 ︑ 其 分. と あ り ︑ か つて智 積 院 玄 宥 と 五 坊 性 盛 と は 共 同 で徳 川 家 康 に 根 来 寺 の再 興 を 願 い出 て いた ︒. 大 御 所 様 江 戸 へ御 下 向 之 刻 ︑ 得. ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ 所 収 の十 一月 一日付 の 西 笑 承 免 書 状 案 に は ︑ 其 後 者 無 音 候 ︑仍 今 度 之 儀 蓮 台 寺. 承兌. 可申 付 之 由 仰 ニ候 間 可 有 其 御 心 得 候 ︑ 為 御 案 内 一筆 令 啓 候 ︑ 恐 憧 頓 首 ︑ 十 一月 一日. 近世初期 の智積院と長谷寺‑ 後継能化選出問題を中心に‑.
(6) 頼心法 印御房. 教 座下. 六. 二年 十 二 月 に 入寂 し て いる の で ︑慶 長 十 ・十 一 ・十 二年 のも の であ ろう ︒ 内 容 は蓮 台 寺 の 石 蔵 坊 の後 継 住 職 に つ い. と あ る ︒ こ の書 状 は 徳 川 家 康 を ﹁大 御 所 ﹂ と 記 し て いる の で︑ 慶 長 十 年 四 月 以降 のも の で あ る ︒ 西笑 承 免 は慶 長 十. て性 盛 が 徳 川 家 康 の 意 向 を 打 診 し て い る も の であ る ︒ 石 蔵 坊 の 場 合 は徳 川家 康 の 寺 社 行 政 と し て は珍 ら し く 妻 帯 の. ま ま で後 継 住 職 が 認 め ら れ て いた ︒ さ ら に 長 谷 寺 所 蔵 の慶 長 十 四 年 六 月 九 日 付 の性 盛 書 状 写 に は ︑. 巳上. 上品蓮 台寺住持職 異見之儀 ︑此 前板倉 伊賀守殿 於御前申定候 ︑其段冊光 寺 ・豊光 寺御両 人茂御存知候 き︑錐然. 性盛判. 普賢堂貴 院 二譲 与儀未申述候 ︑今度 予就 煩譲所 実証也︑此旨 伊賀守殿江 被得御意 ︑以来無 退転住持 職相続候様 ︑ 中性院頼 心法印. 御 心 遣 可 為 専 要候 ︑ 仍 後 日状 如 件 ︑. 参. 慶 長十 四年 六月九 日 正意房. と あ る ︒ 性 盛 は 亡 く な る 直 前 に徳 川家 康 の 承 認 を 得 て 蓮 台 寺 そ の も の の後 継 能 化 は清 僧 の正 意 房盛 円 を 任命 し て い. す で に櫛 田博 士 が 解 説 さ れ て いる よ う に ︑ 根 来 寺 五 坊 の法 流 相 承 の正 嫡 と し て の性 盛 が 専 誉 入寂 後 の長 谷 寺 後 継. る ︒ こ のよ う に 性 盛 が蓮 台 寺 と 密 接 な 関 係 に あ った こと な 事 実 であ る ︒. 者 と し て︑ も っと も 実 力 的 にも ふさ わ し か った と 思 わ れ る ︒ これ ら の 一連 の経 緯 を み る と ︑ 性 盛 の長 谷 寺 後 継 能 化. 就 任 は 幕 命 で は な か った よ う であ る が ︑ 寺 内 の紛 争 で 徳 川 家 康 の裁 許 を 仰 い で お り︑ 結 果 的 に これ 以 降 長 谷 寺 は 幕 府 の干渉をう ける ことになる︒. 二 智積院 玄宥か ら祐宜 へ.
(7) 慶 長 十 年 十 月 四 日智 積 院 玄 宥 は 入 寂 す る が ︑ そ の前 後 か ら 智 積 院 の後 継 能 化 を め ぐ って︑ 玄 宥 の指 命 し た 頼 立旦房. 近 世 初 期 の新 義 真 言 宗. 恵 伝 と 所 化 衆 の押 す 長 善 房 祐 宜 と の間 で対 立 が起 って い る ︒ こ の問 題 は有 名 であ り ︑ これ ま で 宗 門 関 係 者 に よ って. 平成 十 年 五月 刊 ) があ る ︒ こ の論 文 の中 で 恵 伝 を 中 心 に こ の 問. 多 く の研 究 が な さ れ て いる ︒ 近 年 の代 表 的 な 論 文 に坂 本 正 仁 氏 の ﹁ 頼 音 房恵 伝 に つい て‑ の能 化 ‑ ﹂ (﹃佐 藤 隆 賢 博 士 古 稀 記 念 論 文 集 ﹄ 所 収. ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ の分 析 を 通 し て‑ ﹂ ( ﹃待 兼 山 論 叢 ﹄ 二 八. 一. 題 に つ い て詳 細 な 研 究 が な さ れ て いる ︒ 一方 ︑ 宗 門 外 で は 畿 内 の徳 川家 康 の寺 社 行 政 を 専 門 に 研 究 さ れ て い る伊 藤 真 昭 氏 は ﹁慶 長 期 に お け る 徳 川家 康 と 畿 内 寺 社‑. 九 九 四刊 ) の中 で︑ こ の問 題 を 論 じ ら れ て いる ︒ 残 念 な が ら 伊 藤 氏 の 研 究 は 宗 門 関 係 者 の 目 に と ま って いな い よ う. な の で︑ こ こ では 伊 藤 氏 の論 文 の 紹 介 を か ね て所 要 の部 分 を 引 用 し ︑さ ら に 宗 門 関 係 者 の業 績 を 参 考 に し な が ら 再 度 こ の問 題 を 整 理 し て み た い︒. 伊 藤 氏 が こ の問 題 に つ い て ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ か ら 引 用さ れ て い る史 料 は 次 の 四点 で あ る︒. 近 世 初期 の智 積 院 と長 谷 寺. 承免. ‑ 後 継 能 化選 出 問 題 を中 心 に‑. 元倍. 七. 存 候 ︑ 如 此 御 案 内 申 上 ︑ 尚 以 理 不 尽 儀 候 ハ ハ︑ 御 上 洛 次 第 具 ニ可 申 上候 ︑ 公 事 厳 ニ可 成 儀 候 ︑ 能 々 可 有 御 分 別. 智 積 院 へ寺 家 之 儀 ︑無 理 被 押 入之 儀 無 勿 体 候 ︑ 殊 従 御 所 様 御 預 之 寺 ニ候 庭 ︑ 所 々被 打 破 候 儀 ︑ 強 々仕 立 沙 汰 限. 本多 上野介 殿. 九月 廿四 日. 之 様 二と 各 被 申 候 ︑ 但 ︑ 左 右 方 之 口御 聞 取 候 て ︑御 異 見 可然 存 候 ︑ 為 其 令 啓 候 ︑. 申 候 ヘ ハ︑ のう け 難 成 候 由 候 ︑ 根 来 寺 之 のう け ハ学 者 次 第 之 由 候 ︑ 頼 音 房御 礼 二被 罷 下 候 由 候 間 ︑ 同 者 御 礼 無. う の儀 二候 間 ︑志 よ け 衆 も其 段 祝 着 二被 存 候 処 ︑頼 立旦房と 申 仁 二智 積 院 譲 り 可被 申 候 由 候 者 ︑ 志 よ け 衆 同 心 不. 錐 不 寄 思 食 御 儀 候 ︑ 一筆 令 啓 候 ︑ 智 積 院 大 事 之 煩 二候 ︑ 就 其 兼 日 ハ下 野 国 持 明院 を 能 化 二と 被 申 定 候 ︑ 学 志 や. (1) (2).
(8) 候︑ 恐々頓首︑. 十 一月 廿 七 日. 持明院并 所化中. 元借. 諸道 具於紛失者 可為盗 賊同前候 ︑能 々可有糺 明候︑. 元借. 元借. 承兌. 承兌. 承兌. 八. ( 頼立 旦房恵 伝‑ 筆 者 注)︑ 遂 有 東 西 二党 ︑ 互 相識 端 ︑ 東 党遽 師 ︑ 即 与使 同到 ︑ 時 伝公 先 入 智 積 ︑東 党 乃 抜 取 下寺 ︑ 是時智積有二区号上寺・ 下寺. 祐宜の智積院入院 に ついては︑智積院七世運徹が編纂し︑天和三年 (一六八三)に完成した︑智積院の歴代能化 の伝記 である ﹃ 結 網集﹄には ﹁ 慶長乙巳冬︑宥僧正 ( 智積院第 一世尭性房玄宥‑筆者注)入寂︑遺命迎越陽瀧谷恵伝和尚補位︑海衆多慕師︑不肯伝公. 日原 本 で 再 検 討 す る 予 定 で あ る ︒ こ れ ら の史 料 に つ い て伊 藤 氏 の解 説 は次 の通 り で あ る ︒. 一部 ︑ 伊 藤 氏 の 読 み と 異 な る 箇 所 が あ る ︒(1の) ︹ ︺ 内 が 伊 藤 氏 の読 み であ る ︒謄 写 本 が 不 明 確 で あ る の で ︑後. 板倉 伊賀守 殿. 十 二月 四日. 様 ニ ハ成 間 敷 候 哉 ︑ 可 得 貴 意 之 由 ニ而 一筆 令 啓 候 ︑ 委 曲 頼 音 坊 可有 演 説 候 ︑ 恐 々謹 言 ︑. 訟 候 ︑ 長 袖 之 申 分 ハ中 々無 同 心 候 ︑ 其 上 公 儀 難 渡 候 間 ︑ 御 上 洛 巳前 之 儀 何 レ共 分 別 無 御 座 候 ︑ 以 御 異 見 相 済 候. 智 積 院 之 儀 弐 ヶ寺 在 之 内 ︑ 下 之 坊 へ持 明院 所 化 衆 打 入 ︑ 干今 居住 二付 ︑ 頼 音 坊 彼 所 化 衆 被 出 候 様 二︑ 可 申 付 訴. 板倉 伊賀守 殿. 十 一月 廿 七 日. 沙 門 二不似 合 儀 ニ候 ︑ 従 貴 殿 も 持 明 院 井 所 化 衆 へ御 折 紙 被 遣 ︑ 御 異 見 可然 候 哉 ︑ 委 曲 期 拝 顔 候 ︑ 恐 々頓 首 ︑. 貴 札 拝 見候 ︑ 智 積 院 所 化 衆 理 不 尽 之 働 不 相 届 候 ︑ 強 々之 儀 不 可 然 之 由 以折 紙 申 候 ︑ 殊 御 預 之 寺 家 被 打 破 之 由 ︑. (3) (4).
(9) 更 番 衛護 於 師︑ ( 中 略)︑ 於 是両 党 各 訴. 於 東 照太 神 君 ︑ 神 君 公断 日︑ 理須 選 天 下多 帰者 為 主 ︑何 用 テ党 為 ン︑ 乃審 輿 議 ︑ 以命 師 焉 ︑. 越 ニオ イテ慶 長 十 一年 夏 五 月進 院 ﹂ とあ る し ︑寛 永 八年 四月 に智 積 院 三世 日誉 が著 し た ﹁日誉 後住 申 渡状 ﹂ の第 六条 には ﹁堯性 房遷. 化 之 後 ︑頼 音 房 ・長善 房 ( 祐 宜 ‑ 筆者 注 ) 後 住 之 及鋒 鏑 ︑ 然 処 二家 康 公依 尊 命 ︑長 善 房令 入院 ﹂と あ り ︑第 十 四条 に も ﹁ 玄宥 死 後︑. 従 来 これ ら の史 料 よ り ︑祐 宜 は 智 積院 入院 に際 し 恵 伝 と そ の地 位 を 争 った と 考 え られ て いた が︑ ﹃ 結 網集 ﹄ に し ても ﹁ 日誉 後住 申. 頼 音 ・長 善 住持 論 之 砺︑ 所 化衆 多 分 長善 就 存 寄 ニ︑ 得 上 意 ︑ 長善 房 令 住持 ﹂ とあ る ︒. 渡 状 ﹂ に して も︑ 慶長 十 ︑ 十 一年 当 時 の 一次 史 料 で はな いし ︑後 者 に関 し ては宇 高 良 哲 氏が 指摘 さ れ て いるよ う に ︑ そ の内 容 に は 明. ﹃文 案 ﹄中 の前 掲(1 の) 文 書 は︑ 慶 長 十年 の 一次史 料 であ る こと︑ 第 三者 によ る客 観 的 視点 に よ るも のであ る こと ︑ そ し て記 主 の承兌. ら か な 誤 りも 含 ま れ てい て︑ に わ か に 信 じ る こと は でき な いが ︑ こ の ﹃文 案﹄ によ る と ︑ こ の所 伝 を 一層裏 付 け る こ とが でき る︒. が ︑ 当時 ︑ 寺社 か ら の訴 訟 の取 次 役 であ った ことな ど を 考 え あわ せる と ︑彼 の文案 に み える 内容 は事 実 を最 も 的 確 に伝 え る も のと考. そ こで前 掲 の 四通 の文 書 を検 討 し て いく ︒ 先ず これ ら の文書 の年 代 比定 であ る︒ これら は 書状 の常 と し て年 紀 を 欠く が ︑ いず れも. え ら れ る︒. い の ことを 報 じた も の であ る︒ 玄 宥 は慶 長 十 年 十 月十 四 日に 示寂 し て いる ので︑(1 〜) (4 ま) では そ の直 前直 後 の書 状 と考 え てよ いだ ろ. 家 康 の信 任 を受 け て智 積 院 を京 都 東 山 の地 に 再 興 した 第 一世尭 性 房 玄宥 の ﹁ 智積 院 大 事之 期 ﹂ に臨 ん で ︑後 任 能 化 の 選出 を め ぐ る争. そ れ では 順番 に 検討 し ていく ︒(1 の) 文中 にあ る ﹁下 野国 持 明院 ﹂ と は玄 宥 の跡 を 後 に継 ぐ 長善 房 祐 宜 の こと であ る︒ これ は 玄宥 も. う ︒ 従 って︑ これ ら は慶 長 十年 の文 書 であ る ︒. か つて入院 修学 し た 下野 真 言 の古 刹 で ︑祐 宜 が玄 宥 に後 任 能 化 に定 め られ て智積 院 に 入 るま で住 し て いた 持 明 院 よ りき て いる ︒ また ﹁ 頼音 房 ﹂ と は祐 宜と 智 積院 能 化 職 を めぐ って争 った 恵 伝 のこと であ る︒. こ の争 い のそも そも の発 端 は ︑ 玄宥 は兼 ね てよ り 能 化 職 の法 嗣 に祐 宜 と定 め ︑ 所化 衆 も 彼 の 碩学 を 支 持 し て いた が ︑ ﹁ 大事 之期 ﹂. に臨 ん で遺 命と し て前 言 を 翻 し て恵 伝 を後 任 能 化 に定 め た こと に始 ま る ︒智 積院 の能 化 は元 々紀 州 根 来寺 の両 能 化 の 一方 を 継 ぐ も の. であ り︑ ﹁ 根来 寺 之 のう け ハ学 者 次第 ﹂ と あ る よう に ︑ 宗 学 研鑽 の泰 斗 でな け れば な ら なか った︒ 所 化 衆 は恵 伝 を 不適 格 者 と 見 な し︑. 彼 を 支持 せ ず︑ そ れ故 ﹁のう け 難 成 ﹂ か った が ︑ それ でも 恵 伝 は玄 宥 の遺 言 に従 って入院 を 強行 しよ う と し て︑ そ の時 江 戸 に いた家. 康 に 入院 の挨拶 に 赴 かん と した ︒ そ れ で承 兌 は ︑家 康 の側 近 ︑本 多 正 純 に︑ 恵伝 が 所 化衆 の同 心を 得 られ な い現 状 と ︑智 積 院 能 化た. る 資質 は ﹁ 学者 次第 ﹂ であ る こと を報 じ︑ 恵 伝 が 江戸 に下 向 し ても 家康 への拝謁 は 無 用 であ る こと ︑ また 正純 か ら も ﹁ 異 見 ﹂ し てほ. 九. し いと いう 旨を(1 で) 知 ら せ て いる のであ る ︒ また 本 書 状 で の日付 が ﹁ 九月 廿 四 日﹂ であ る こと は︑ 智積 院 第 一世能 化玄 宥 は そ の示寂. 近世初期 の智積院と長谷寺 ‑後継能化選出問題を中心に‑.
(10) 一〇. の慶 長十 年 十 月 四 日直前 に 至 って︑ 後任 能 化 の指 名 を祐 宜 か ら恵 伝 に変 更 し︑ 玄 宥 生前 よ り 第 二世 能 化職 を め ぐ って︑ 所 化 衆 を巻 き. そ し て︑ こ の争 いは能 化 就 任 を強 行 し よ う とす る 恵 伝側 に対 し て︑ ついに祐 宜 一党 が 実 力行 使 す る にま で 至 った の であ る ︒ つま り ︑. 込 ん だ祐 宜 と恵 伝 の争 い が始 ま って いた こと にな る ︒. 当 時智 積 院 で は家 康 よ り 賜 った 寺 地 三 区を 二寺 とし て︑ 上寺 ︑ 下寺 と 号 し て いた が ︑祐 宜 一党 が ︑ こ の内 下寺 の方 を占 拠 し てしま っ. た のであ る ︒ これ を ﹃ 結網集﹄では ﹁ 東 党 抜 取 下寺 ﹂ と記 し ︑ これ を 裏付 け る(4 で) は ﹁ 智 積院 之 儀 ︑ 弐 ヶ寺 在 之内 ︑ 下之 坊 へ持 明 院. いが︑ 玄 宥 の遺 命 と いう 大 義 名 分を 有 し ︑ 自 分 こそ が智 積 院能 化 であ ると 自 負 す る恵 伝 は ︑ こ の こと を承 兌 に 訴 え︑ 彼 ら の 退去 を 求. 所 化衆 打 入 ︑ 干今 居住 ﹂ と 記 し て い る のであ る︒ そ のた め ︑ 所化 衆 の同 心を 得 られ な いた め に︑ ま だ 正式 に は能 化 職 に 就 い て は いな. め た の であ る︒ これ に対 す る 承 兌 の処 置 に つい てみ る と(2 よ) り︑ 祐 宜 一党 に対 し て︑ こ のまま 下 寺 を 不法 占 拠 す るな らば ︑家 康 が 上. 洛 す ると す ぐ に上 聞 に達 す る と警 告 し︑ さ ら に最 後 に は︑ こ の行 為 は ﹁ 盗 賊 同 前﹂ であ る と し て非 難 し て いる の であ る ︒ また(3 を) み. る と ︑承 兌 は祐 宜 一党 に警 告 を 出す 一方 で︑(2 と) 同 日 に︑ 下寺 不法 占 拠 に つい て の問 い合 わ せ のあ った京 都 所 司代 板 倉 勝重 に︑ 書 状. を 出 し て状 況を 説 明 し て応 援 を 求 め て いる ︒ お そら く こ の時 点 で は勝 重 も承 兌 が 独力 で解 決 でき る だ ろう と 思 って傍 観 し て いた のだ. ろ う︒ し か し 七 日を経 ても 一向 に事 態 は 進 展 しな い ので︑ 承 兌 は(4 で) 再度 勝 重 に応 援 を 依 頼 し て いる の であ り ︑ しか も今 度 は恵 伝 を. 直 接勝 重 の許 へ事 情 を説 明 し に 行 かせ て いる︒ しか し勝 重 が こ の問 題 にど のよ う に関 与 し た のか は ︑ そ の こと を 示す 史 料 が ﹃ 文案﹄. こ のよ う に︑ 承 兌 は祐 宜 一党 に対 し ては強 硬 な 態度 を 示 し て︑ 勝 重 の協 力 も 得 て︑ 十 二月 四 日以 降 ︑家 康 の上洛 ま で の約 四 ヵ月 の. 中 にも 他 の史 料 に も 見受 け ら れな い の で詳 ら か ではな い︒. 間 に何 と か こ の問 題 を ﹁ 相 済 候 様 二﹂ し た か った のであ るが ︑ ついに それ は叶 わな か った ︒承 兌 は この問 題 を 翌 十 一年 四 月 六 日に 伏. 見 城 に入 った 家 康 に 上申 し︑ そ し て 五月 に家 康 の裁決 によ り 正式 に祐 宜 の能 化 た る べき ことが 決 定 し ︑ こ の問 題 は結 末 を みた の であ. る ︒ そ の結 果 ︑ 祐 宜 と能 化 職 を争 い︑ 敗 れ た頼 音 房恵 伝 は 智積 院 を 去 って山 科 妙智 院 に退 かね ば な らな く な った︒. 猶 々︑御札恭候 ︑巳上︑. こ の伊 藤 氏 の解 説 で 要 は 尽 さ れ て いる が ︑宗 門 側 の史 料 を 若 干 補 足 し てお く ︒ 長 谷 寺 所 蔵 の 浅 野 幸 長 書 状 に は ︑. 当月御祈祷 之御札被 懸御意過分之 至候 ︑弥御祈 精奉頼候 ︑随 而根来中 性院先師 死去 ニ付︑跡 々之出 入御 座候由︑ 浅 野紀 伊守幸 長 ( 花押). 如何無御 心許候︑委細 御使僧 へ得 御意候︑ 恐憧謹言︑ 十 月四 日.
(11) 智積院. 御報. と あ り ︑ 和 歌 山 城 主 浅 野 幸 長 は ︑智 積 院 恵 伝 に 対 し て︑ 玄 宥 没 後 の智 積 院 の跡 目 争 いを 心 配 し て こ のよ う な 書 状 を. 送 って いる ︒ す で に 坂 本 氏 も 伊 藤 氏 も そ の存 在 を 指 摘 さ れ て いる が ︑ 福 井 滝 谷 寺 所 蔵 の慶 長 十 年 十 二月 二 目付 の智. 積 院 頼 立旦房恵 伝 書 状 に は ︑ ﹁ 智 積 院 恵 伝 ﹂ と 署 名 し て お り ︑ 玄 宥 没 後 ︑ 恵 伝 が智 積 院 の能 化 で あ った こと は 間 違 い. な い︒ さ ら に ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ 所 収 の卯 月 二 十 五 日 付 の 承 兌 ・元倍 連 署 書 状 案 に は ︑. 教座 下. 取 退 候 儀 於 在 之者 ︑ 太 不 可然 候 ︑ 達. 承兌. 元佶. 上 聞 候 ハ御 越 度 ニ可 罷 成 候 ︑ 貴 老 之 御 外 聞 □ 仁 体 事 ︑ 堅 可 被 仰 付 候 ︑. 智 積院先度従 長谷川法眼 八木五百 石御渡 ︑先僧 正御拘 之院家井能 化的伝之聖教 ︑寺 々之常 住物等︑畳席 以下被. 卯月 廿五日. 頼立 旦房. と あ る ︒ 玄 宥 は慶 長 十 年 十 月 に 亡 く な って いる の で︑ 卯 月 と いう 日付 か ら み て︑ こ の書 状 は慶 長 十 一年 以 後 の も の. であ る ︒ これ を み る と 少 く と も慶 長 十 一年 四 月 ま で対 外 的 に は頼 立旦房恵 伝 が 智 積 院 の能 化 で あ った こと が わ か る ︒. す で に 坂 本 氏 が 指 摘 さ れ て いる よ う に︑ こ れ 以 前 か ら 祐 宜 が 論 義 の ﹁明 ﹂ を 勤 め ︑ 寺 内 で は 所 化 の指 導 に あ た って. いた よ う であ る が ︑ こ の書 状 を み る と 慶 長 十 一年 四月 ま では 恵 伝 が 智 積 院 の能 化 であ った ︒ そ し て同 年 五 月 に 上 京. した 徳 川 家 康 の裁 許 に よ り恵 伝 が 追 放 さ れ ︑ 智 積 院 新 能 化 に 祐 宜 が 就 任 し た の で あ る ︒. 大覚寺御 門跡為御末寺 之由就御 懇望 ︑則達奏 聞依. 勅定被 召加直末寺︑当住 祐宜被. 祐 宜 は 慶 長 十年 の 三月 三 日付 の栃 木 持 明 院 所 蔵 の大 覚 寺 門 跡 坊 官 井 関 性 慶 奉 書 を み る と ︑ (花 押 ). 下 野国皆 川庄持明院祐 宜. 井 関宮内法眼. 性慶 ( 花 押). ‑後継能化選出間題を中心に‑. 一 一. 任権僧 正︑然者則代 々住持門徒分者 以御寺為本寺 ︑密教修行自 宗之法度 ︑於御門跡者 世出世之相応之 御奉公可 被申者也 ︑ 三月 三日. 近世初期 の智積院と長谷寺.
(12) 持 明院祐 宜僧 正. 御房. 一二. と あ り ︑ 持 明院 は 嵯 峨 大覚 寺 の直 末 寺 と な り ︑祐 宜 は 門 跡 空 性 法 親 王 の推 挙 によ り権 僧 正 に 任 ぜ ら れ て いる こと が. で あ り ︑ 所 化 達 の信 頼 を集 め て いた の で あ ろ う ︒ ﹃結 網 集 ﹄ が 慶 長 十 一年 に 祐 宜 が ﹁夏 五 月 進 院 ﹂ と 記 し て いる の. わ か る ︒ こ のよ う に祐 宜 は 玄 宥 と 同 じ 持 明 院 の出 身 で関 東 を 代 表 す る学 僧 であ り ︑ 本 来 玄 宥 の後 継 者 と 目 さ れ た 僧. は ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ の前 述 の記 述 と 一致 す る ︒ そ し て前 述 し た よ う に祐 宜 は 慶 長 十 一年 十 二月 に智 積 院 で行 わ れ た. 法 華 八 講 に は祐 宜 は証 義 者 を 勤 め て いる ︒ こ の よ う に 智 積 院 玄 宥 没 後 の 後 継 者 争 い は ︑ 玄 宥 の意 向 と は関 係 な く ︑. 所 化 達 の支 持 を う け た 学 僧 祐 宜 が 徳 川家 康 の指 名 に よ り 智 積 院 第 二世 と な った こと が わ か る ︒ 京 都 豊 国 智 積 院 は そ. の草 創 か ら 玄 宥 が 徳 川家 康 の保 護 を う け て いた 寺 であ る が ︑ ﹃西 笑 和 尚 文 案 ﹄ の 一連 の史 料 を み る と ︑ 後 継 能 化 選. 長 谷寺 性盛か ら空 鏡 へ. 出 で は 玄 宥 の指 名 よ り も ︑ 徳 川 家 康 の裁 許 が 優 先 し ︑ 所 化 達 の支 持 を 集 め た 祐 宜 が 新 能 化 と な った こと が わ か る ︒. 三. 慶 長十 四年 七月十 六日長谷寺 小池 坊性盛が 入寂した︒ そ の後長谷寺 では性盛 の附 属を得た と称する空鏡 房栄範と 西蔵 院印雅 と の間 で後 継能 化争 いが起 っている︒ ﹃本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の慶 長 十 七 年 十 月 二 十 日 付 の金 地 院 崇 伝 書 状 案 に は ︑. 一筆 令 啓 候 ︑ 長 谷 小 池 坊 能 化 職 ︑ 従 空 鏡 ︑ 玄 音 へ被 相 渡 候 ︑ 然 者 中 性 院 之 法 流 ︑ 近 来 小池 坊 相 続 之 所 ニ︑ 先 年. 教座 下. 金地院. 空 鏡 与 西蔵 院 申 分 之時 ︑ 従 空 鏡 ︑ 貴 院 へ被 渡 置 候 由 ︑其 通 候 哉 ︑ 如 前 々︑ 小 池 坊 へ被 相 渡 尤 ニ存 候 ︑ ( 後略) 十 月廿 目. 智 積院僧 正. とあ る︒ これ は慶 長十 七年十月 に長 谷寺小池坊 の能化が空鏡 房栄範から 玄音 房宥義 に交替 した ことを︑徳 川家 康 の.
(13) 寺社行政を担当 した金 地院崇伝 が智積院祐 宜に伝達 して いる書状 であ る︒ この中 で根来寺 の中性院 の法流を長谷寺. 小池坊が相続 し てきた と ころ︑先 年空鏡 房栄範と 西蔵院印雅 が後継 の能 化を争 った際 に空 鏡から智 積院に持ち出さ. れ てしま ったと記され ている︒先 年と いう のは ﹃ 本光国師 日記﹄所収 の慶 長十 五年九月 四 日付 の亀 屋栄任書状案 に は︑. 急 度 申 入 候 ︑ 長 谷 寺 北 坊 ︑ 従 往 古 律 院 二て候 処 二︑今 度 貴 老 新 義 二被 追 放 ︑ 迷 惑 之 由 二て御 訴 訟 二被 罷 下 候 ︑. 右 之 坊 之 儀 ︑ 貴 老 此 地 二て ︑ 円 光 寺 江 被 仰 上 候 ハ︑あ き 坊 之 由 候 間 ︑ 従 先 々 律 院 本 主 有 之 所 を 被 仰 掠 候 段 ︑ 不. 審 千 万 候 ︑ 可 達 上 聞 之 由 候 へ共 ︑先 様 子 可 承 届 と申 入 候 ︑ 自 古 律 院 義 候 ハ ハ︑ 如 有 来 尤 存 候 ︑ 従 御 報 可 得 上 意. 栄任. 之 由 候 ︑ 非 分 被 仰 懸 候 者 ︑ 御 為 不 可 然 候 ︑ 御 分 別 ニ ハ過 間 敷 候 ︑ 北 坊 此 地 二相 詰 被 申 候 ︑ 尚 追 而 可 申 入 候 ︑ 恐 憧謹 言︑ 九月 四目. 中性院 空鏡. と あ る ︒慶 長 十 五年 九 月 に は 空 鏡 は 長 谷 寺 小 池 坊 の中 性院 空 鏡 と 記 さ れ て い る ︒ ま た 長 谷 寺 六坊 の 一つ北 坊 の支 配. を し て いる の で︑ 当 時 す で に 空 鏡 が 長 谷 寺 小 池 坊 の能 化 と な って いた こと が わ か る ︒ 慶 長 十 五 年 九 月 には 空 鏡 が 長. 谷寺 能 化 と な って いる の で ︑ 空 鏡 と 西 蔵 院 の争 いは 性 盛 没 後 の慶 長 十 四 ・五年 の出 来 事 であ る こと が わ か る ︒ こ の. 争 いは 根 来 以 来 の 中 性 院 の 法 流 相 続 が 両 者 の間 で問 題 に な って い る ︒ 櫛 田博 士 は 前 掲 著 書 の 中 で︑ 次 の よう に説 明. こう し た法 流 の授 与 を 示 す ﹃中性 院 面 授 帳 ﹄を み る と︑ 性盛 は慶 長 十年 卯 月 廿 八 日 に長 谷寺 で自 ら 中 性院 流 の ﹁ 正 受者 ﹂ と認 め て. さ れ て いる ︒. いた 長 谷寺 六坊衆 の 西蔵 院 印 雅 に法 流 を 印 可 し て いる ︒ こ こに いろ いろ の問 題 が起 って来 た ︒性 盛 は 中 性 院 流 の後 継者 と し て 西蔵 院. 印雅 を 定 め て置 いた の に︑ 小 池 坊 の後 住 は 空鏡 坊 栄 範 とな って勢 力 を扶 植 した から 性 盛 没 後 に紛 擾 が 起 った の では あ るま いか︒ 専 誉. 後継能化選出問題を中心に‑. 一三. は性 盛 に 小池 坊 と 中 性院 流 を 一緒 に し て両 方 を 不即 不 離 の姿 で渡 し て来た の に︑ 性盛 が 中 性 院 流 だけ を 小 池 坊 と切 り 離 し て授与 し て. 近世初期 の智積院と長谷寺‑.
(14) いる こと が紛 争 を起 す 一つの原 因 であ った の であ ろ う ︒. 一四. 前 述 の九 月 四 日 付 の亀 屋 栄 任 書 状 案 の中 で ︑ 空 鏡 は長 谷 寺 北 坊 住 職 を 律 院 では な い と し て追 放 した こと を 難 詰 さ. れ て いる ︒ そ し て九 月 十 三 日付 の円 光 寺 元佶 書 状 案 を み る と ︑ 元 佶 達 は北 坊 は 律 院 で あ る と 判 定 し て ︑ 中 性 院 空 鏡 は 敗 訴 し て い る ︒ し か し ︑ 同 年 十 一月 十 四 日 付 の金 地 院 崇 伝 書 状 案 を み る と ︑. 十 一月 三 日付 之 御 状 ︑ 同 十 四 日 於 江 戸 披 見 候 ︑ 先 度 駿 府 へ御 下 向 候 ハ ハ︑ 北 坊 律 院 二て貴 老 進 退 来 候 之 由 堅 被. 仰 候 二︑ 日 々 玄 音 坊 と 御 入 魂 候 ︑ 然 処 二六 坊 一同 二不 律 院 由 ︑ 以 連 判 訴 訟 候 由 候 ︑ 前 後 相 違 之 事 不 届 二候 ︑ 万. 一貴 老 右 二御 申 候 通 ︑ 少 し も 虚 言 候 者 ︑ 以 来 申 通 間 敷 候 ︑ 尽蔵 司 も 可 為 義 絶 候 ︑ 御 分 別 専 用 候 ︑ 恐 々 謹 言 ︑. 貴報. 十 一月 十 四 日. 北坊. と あ り ︑ 一度 北 坊 の 理 運 と な った が ︑ これ に 対 し て長 谷 寺 六 坊 は連 判 し て︑ 北 坊 は 律 院 で は な いと し て 再度 金 地 院. 崇 伝 に 訴 え て い る ︒ 北 坊 は 六 坊 の 一つ であ る が ︑ こ の時 点 で は 住 職 は 交 替 し て いた の で あ ろ う ︒ こ のよ う に 六 坊 衆. は空 鏡 の立 場 を支 持 し て いる ︒ か つ て の北 坊 は 玄 音 坊 宥 義 と 密 接 であ った よ う であ る ︒ いず れ に し ても 慶 長 十 五 年. な お ︑ 本 論 か ら 少 し は ず れ る が ︑ 空 鏡 と 印 雅 の後 住 争 いに つい て いさ さ か 私 見 を 述 べ て み た い ︒ 印 雅 の経 歴 に つ. 頃 空 鏡 が 長 谷寺 小 池 坊 の能 化 であ った こと は 事 実 であ る ︒. い て は 明 白 で な い が ︑ ﹃中 性 院 面 授 帳 ﹄ の慶 長 十 年 四 月 廿 八 日 の条 に よ れ ば ︑ 印 雅 は 性 盛 か ら 正 受 者 と し て中 性 院. の法 流 を 印 可さ れ て い る ︒ 正 受 者 と は 法 流 相 続 者 の代 表 と いう こと で あ り ︑ 当 時 は 印 雅 が 性 盛 の 後 継 者 た る べ き 地. 位 に いた も の と 思 わ れ る ︒ 更 に 彼 が 西 蔵 院 に住 し て いた と いう こと は ︑ 西 蔵 院 は 長 谷 寺 の 運 営 にあ た る 六 坊 衆 の 一. つであ り ︑ こ こ の住 持 は 長 谷 寺 育 ち の常 住 方 の学 侶 が な る慣 例 か ら み て︑ 印 雅 は お そ ら く 常 住 方 の 学 侶 であ った も のと 思 わ れ る︒. これ に 対 し て空 鏡 は性 盛 か ら い つ法 流 の伝 授 を う け た か 明白 でな い︒ 少 く と も 面 授 帳 に は 法 流 相 続 の事 実 はな い︒.
(15) し か し 面 授 帳 を み ると 慶 長 十 五 年 に は 空 鏡 が 能 化 と し て 中 性 院 の法 流 を 伝 授 し て いる ︒ お そ ら く 確 証 はな いが ︑ 空. 鏡 は専 誉 か ら 法 流 を 相 承 し て いた も のと 思 わ れ る ︒ 空 鏡 は 東 寺 宝 菩 提院 聖 教 の ﹁ 報 恩 院 問 条 々私 ﹂ の奥 書 を み る と ︑. 天 正 十 七 年 頃 高 野 山 で 同 書 を 書 写 し て お り ︑ 印 雅 よ り 早 く か ら 活 躍 し て いる ︒ ま た そ こ に 土 佐 空 鏡 坊 と 署 名 し て い. る こ と ︑ 更 に 日誉 が空 鏡 を 土 佐 常 通 寺 と 呼 ん で い る と ころ を み る と ︑ 彼 は 土 佐 出身 の僧 で あ り ︑ 長 谷 寺 に お い て は. 客 僧 方 に 所 属 し︑ 客 僧 方 の長 老 であ った も のと 思 わ れ る ︒ 長 谷 寺 内 部 に お い て は常 に 常 住 方 と 客 僧 方 が 対 立 し て お. り ︑ し か も 性 盛 の長 谷 寺 入 山 を 快 く 思 っ て いな か った専 誉 の弟 子 達 が ︑ 性 盛 没 後 ︑ 性 盛 の 押 す 印 雅 に 反 対 し て空 鏡. を た てた の で はな か ろ う か ︒ これ は 推 測 であ り ︑ 事 実 は 明 確 で はな いが ︑ 両 者 に よ る 後 住 争 いが あ った こと ︑ 更 に. 空 鏡 が 勝 ち 長 谷寺 小 池 坊 第 三代 能 化 にな った こと は 事 実 であ る ︒ 空 鏡 は 増 上 寺 観 智 国 師 存 応 ・金 地 院 崇 伝 ・亀 屋 栄. 任 と い った 中 央 の有 力 者 と 交 流 を も って お り ︑ これ ら の助 力 を 背 景 に 印 雅 を 押 さ え た の で あ ろ う ︒ な お ︑ 現 在 伝 え. ら れ て い る長 谷寺 歴 代 は 空 鏡 の能 化 就 任 を 認 め ず ︑専 誉‑ 性 盛 ‑ 宥 義 と 相 承 し て いる が ︑ 中 性 院 法 流 の黒 皮 籠 相 承. 一五. 上 意 之由 候 ︑ 玄 音 被 参 候 者 ︑ 可 被 仰 渡 由 ︑ 一段 御 尤 二存 候 ︑. の事 実 云 々 に 関 係 な く 空 鏡 を 性 盛 の次 の歴 代 に補 足 す べき であ る ︒ こ の空 鏡 の 長 谷 寺 能 化 就 任 にあ た っても 幕 府 の. 長谷寺空鏡から宥義 へ. 意 向 が 強 く 働 いて いた こと が よ く わ か る ︒. 四. 慶長十 七年卯月廿六 日付 の金地院崇 伝書状案 には︑ (中 略 ) 一︑ 空鏡 之 義 ︑ 理 を 被 仰 上 候 処 二︑ 可追 出 之 由 ︑ (後 略 ) 卯月廿六 日. 近世初期の智積院と長谷寺‑ 後継能化選出問題を中心に‑.
(16) 拝上. 円光堂 上大和尚. 一六. と あ り ︑ 慶 長 十 七 年 四 月 ︑ これ を み る と 長 谷寺 空 鏡 は前 述 の北 坊 律 院 一件 で弁 明 し た が 聞 き 入れ ら れ ず ︑ 徳 川家 康. の 上 意 に よ って長 谷 寺 を追 放 さ れ る こと にな った ︒ こ の処 置 が 崇 伝 か ら 玄 立旦房宥 義 に伝 達 さ れ て いる と こ ろ を み る. 初 瀬 之 脇 能 化 ニ︑ 以上 意 被. と ︑ 最 初 か ら 宥 義 の後 援 を う け た 北 坊 側 が 有 利 であ った の であ ろ う ︒ ﹃本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の 同 年 二 月 十 八 日付 の 元佶 ・崇 伝 連 署 書 状 案 を み る と ︑. 一筆 致 啓 上 候 ︑ 彼 玄 音 坊 と 申 候 者 ︑ 佐 竹 衆 二而 御 座 候 ︑ 学 問 者 ニ而 候 間 ︑ 去 々年. 相 居 候 ︑ 別 而 御 所 様 御 懇 二御 座 候 ︑ 将 軍 様 へ未 御 礼 申 上 候 条 ︑ 御 目 見 仕 度 由 被 申 候 而 下 向 候 ︑ 御 前 可 然 様 ニ︑. 金地院. 円光寺. 御 取 成 候 て可 被 遣 候 ︑ 猶 玄 音 坊 可 被 申 上 候 条 不 能 具候 ︑ 恐 憧 謹 言 ︑ 二月十八 日. 本多 佐渡守殿 人 々御中. と あ り ︑ 元 佶 ・崇 伝 は 江 戸 に いる 本 多 正 信 に対 し て︑ 玄 寺 首房宥 義 は学 問者 で慶 長 十 五 年 か ら 徳 川 家 康 の命 令 で長 谷. 寺 の 脇能 化 と な った と 紹 介 し てお り ︑ 前 述 の慶 長 十 五年 九 月 十 三 日付 の 元 佶 書 状 案 の中 で ﹁如 被 仰 合 ︑ 能 化 職 御 請. 取 以 後 ︑ 頓 而 北 坊 之 儀 ︑ 律 院 へ可 被 相 渡 候 ︑﹂ と あ り ︑ 宥 義 は 徳 川 家 康 の命 令 で脇 能 化 就 任 と 同 時 に 次 期 能 化 就 任. が 約 束 さ れ て いた こと が わ か る ︒ ど う も 北 坊 律 院 一件 は単 な る き っか け で あ り ︑ 最 初 か ら 空 鏡 の長 谷 寺 追 放 は 既 成. の事 実 で あ った よ う であ る ︒ そ し て前 述 の慶 長 十 七 年 十 月 二十 日付 の崇 伝 書 状 案 に み ら れ た よ う に︑ 慶 長 十 七 年 十. 月 二 十 日 ま で に 小 池 坊 能 化 職 は 空 鏡 か ら 玄 土旦房宥 義 に交 替 し て いる ︒ こ れ に 対 し て 同 じ く ﹃本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の. 空 鏡 之 儀 ︑ 愚 僧 懇 切 申 故 候 而 ︑ 種 々御 取 成 之 段 辱 候 ︑ 巳. 同 年 十 月 三 目付 の増 上 寺 観 智 国 師 源 誉 存 応 書 状 案 や 十 月 廿 七 日 付 の金 地 院 崇 伝 書 状 案 を み る と 次 の如 く であ る ︒ 其 以 来 者 無 音 之 至 ︑ 煩 故 以 一書 不申 ︑ 背 本 意 候 ︑ 仍. 来 も 御 前 御 取 成 頼 入候 ︑ 委 細 彼 方 口上 申 含 候 間 ︑ 不 能 具 候 ︑ 恐 々謹 言 ︑.
(17) 伝長 老. 十月 三 日. 増上寺. 観智 国師源 誉. 一︑ 従 国 師 尊 書 拝 見 申 候 ︑貴 老 之 儀 ︑ 懇 ニ被 仰 越 候 ︑ 相 応 之 御 用 疎 意 存 間 敷 候 ︑ 能 化 退居 以 後 も ︑ 被 執 法 憧 候 事 ︑ 先 例 於 有 之 者 尤 候 ︑ 但 ︑ 申 分 出 来 無 之 様 ニ御 分 別 専 用 二候 ︑ 恐 々謹 言 ︑ 十月 十七 目 空 鏡 坊 法座下. と あ り ︑ 空 鏡 は 徳 川 家 康 の信 任 厚 い増 上 寺 観 智 国 師 源 誉 存 応 を 頼 って 種 々復 帰 運 動 を した よう であ る が ︑ 宥 義 の長. 智積院祐 宜から 日誉 へ. 谷 寺 小 池 坊 能 化 就 任 は 動 か な か った ︒. 五. ﹃ 本 光国師 日記 ﹄所収 の慶長 十七年八月六 日付 の金地院崇 伝書状案 には︑. 金地院. 仰 出 候 ︑ 則 正純 坊 御 礼 被 仰 上 ︑ 次 而. 仰 渡候 間 ︑ 可被 得 其 意 候 ︑ 猶 期 後 音 候 ︑ 恐 憧 謹 言 ︑. 思召候 由被. 七 月 廿 一日之 尊 書 ︑ 同 廿 九 日令 拝 見 候 ︑ 江 州捻 持 寺 之 正 純 御 坊 ︑ 貴 院 之 脇 能 化 ニ被 相 定 ︑ 後 住 之 義 被 仰 合 候 由 ︑. 御 目 見 候 ︑直 二御 感 之 通 被. 御 書 中 井 御 使 僧 口上 之 趣 ︑ 具 二令 披 露 候 ︑ 一段 と 御 尤 ニ被 二御 使 僧 も. 八月 六 日. 智積 院僧 正 尊答 ( 追而書 省略). ‑ 後継 能 化選 出 問 題を 中 心 に‑. 一七. と あ り ︑ こ の時 に 近 江 長 浜 の惣 持 寺 の正 純 房 日誉 が 徳 川 家 康 の推 薦 に よ り 智 積 院 の脇 能 化 とな り ︑ 宥 義 の場 合 と 同. 近 世初 期 の 智積 院 と長 谷 寺.
(18) 一八. じよう に後継能 化も約束さ れ て いる ことがわ かる︒さら に智 積院所蔵 の慶 長十七年 と思われ る霜月 二十七日付 の京 都 所司代板倉勝 重書状 には︑. 先 師 僧 正 遷 化 之 由 ︑連 々申 承候 処 ︑ 宴 無 是 非 次 第 二候 ︑ 然 者 貴 坊 御 移 之 由 尤 存 候 ︑ 仍 為 御 音 信 ︑ 蜜 柑 一折 贈 賜. 伊賀守. 玉床下. 板. 勝重 ( 花 押). 候 ︑ 賞 翫 此 事 候 ︑ 能 々御 使 僧 へ申 候 ︑ 恐 々 謹 言 ︑. 霜 丹此七 日 正純御坊. と あ り ︑ 先 師 僧 正 祐 宜 死 後 ︑ 約 束 通 り 正 純 房 日誉 が智 積 院 の能 化 と な って いる こと が わ か る ︒ な お ︑ 日誉 が 徳 川家. 長 谷寺宥 義から秀算 へ. 康 に 登 用 さ れ た 経 緯 に つ い ては ︑ 前 述 の拙 稿 ﹁近 世 初 期 の新 義 真 言 宗 教 団 ﹂ を 参 照 し て いた だ き た い︒. 六. 御 尋 儀 候 間 ︑ 長 谷 玄 音 ︑ 早 々 可有 参 府 旨. ﹃ 本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の慶 長 十 八年 八 月 八 日付 の 金 地 院 崇 伝 ・本 多 正純 連 署 書 状 案 を み る と ︑. 本多 上野介. 金地院. 仰 出 候 条 ︑ 無 油 断 不 日 二参 上 候 様 二可 被 仰 渡 候 ︑ 為 其 以 次 飛 脚 申 入 候 ︑ 恐 憧 謹 言 ︑. 急 度 令 啓 達 候 ︑ 常 陸 国 佐 竹 八幡 社 務 と 神 主 申 分 出 来 ニ付 而 ︑ 可 被 成 被 八月八 日. 板倉伊賀守殿人々御中. と あ り ︑ 長 谷 寺 小 池 坊 能 化 玄 音 房宥 義 は 郷 里 の佐 竹 八 幡 宮 の社 務 光 明 院 と 神 主 の訴 訟 に 際 し て︑ 社 務 方 の関 係 者 と. し て 出 府 を 命 じ ら れ て い る ︒ 宥 義 は佐 竹 八 幡 宮 別当 光 明 院 の 出 身 であ り ︑社 務 方 の前 任 者 であ る ︒ さ ら に 同 年 九 月 八 日 の条 に は︑.
(19) 常陸 国水 戸八幡公事於 御朱印取 返 し. 御朱 印︑神主も と の. 仰 出 ︑ 但 ︑社 務 を 者 水 戸之 代. 御 前 へ上 ル︑慶 長 七 年 之. 御前相済︑社務方 玄音被負︑神 主︑本寺 宝鏡院利 運 ニ. 官 芦 沢 伊 賀 ニ被 為 預 也 ︑ 去 年 玄 立旦房 ニ被 遣 候 ことくと りて退出す る也︑. と あ る ︒ これ を み る と 社 務 方 ︑ す な わ ち 宥 義 方 は 敗 訴 と な り ︑ 慶 長 七 年 の朱 印 は 没 収 さ れ て い る ︒ ﹃本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の慶 長 十 九 年 六 月 晦 目 付 の金 地 院 崇 伝 書 状 案 を み る と ︑ ( 前 略). 大 仏 智 積 院 も 江 戸 仕 合 能 上 府 候 而︑ 未 是 二逗 留 候 ︑ 是 も 細 々 論 議 被 申 上 候 ︑ 一段 と 御 意 ニ入 申 候 ︑ 長 谷 小 池 坊. 者 未逗留 候 へ共︑御 礼不成候︑先年佐 武水戸社務之 出入︑ 小池 坊無 調法 之儀︑事外御気色 悪敷候︑今度 又小池. 人 々御 中. 金 地院. 社 務 無 科 様 ニ︑ 義 宣 折 紙 な と 調 ︑ 小 池 坊方 人 之 坊 主 ︑ 浅 間 ニ而 目 安 上 候 ︑ 是 又 弥 曲 事 ニ被 仰 出 ︑ 猶 々 小池 坊 仕 合 不可然 体候︑ (後 略 ) 六月晦 日 板伊 州様. と あ る ︒ こ れ を み る と こ こ でも 宥 義 は 水 戸 八 幡 宮 の 訴 訟 で無 調 法 を し て ︑ 徳 川 家 康 の機 嫌 を そ こね て いた ︒さ ら に. 水 戸 城 主 佐 竹 義 宣 を 通 じ て無 実 の 工作 を し た り ︑ 小池 坊 の坊 主 が 駿 府 の浅 間 で︑ 無 理 に 目 安 を 提 出 す るな ど し た た. め宥 義 の 立 場 は 非 常 に 悪 く な って いた よ う であ る ︒ ﹃義 演 准 后 日記 ﹄ の 元和 元年 閏 六 月 十 五 日 の条 に は ︑. 泊 瀬 玄 音 異 上 意 ︑ 仍 御 改 易 云 々︑ 就 其 頼 音 望 申 了 ︑ 即 金 地 院 申 遣 ︑ 御 前 御 次 候 者 ︑ 疎 意 有 間 敷 由 返答 ︑. と あ り ︑ つ いに 宥 義 は 長 谷 寺 能 化 を 改 易 さ れ て い る ︒ 智 積 院 で玄 宥 没 後 ︑ 性 盛 と 後 継 能 化 を 争 った 頼 立旦房恵 伝 が こ. 一九. こ でも 義 演 を 通 じ て長 谷 寺 の後 継能 化 を 願 い出 て いる ︒ し か し 恵 伝 の願 い は そ の後 他 の史 料 に 全 く 見 え ず う ま く い. ‑ 後 継 能 化選 出 問 題を 中 心 に‑. か な か った よ う であ る ︒ ﹃本 光 国 師 日記 ﹄ 所 収 の元 和 二年 十 二月 二十 五 日 の条 に は ︑. 近 世初 期 の智積 院 と 長 谷寺.
(20) 二〇. 泊 瀬 玄 音 ︑ 京 識 極 月 廿 二日 之 状 来 ︑ 能 化 職 を 京 識 請 取 由 之 書 中 也 ︑ 右 之 二通 之折 紙 ︑ 札 を 付 ︑ 目安 箱 二入置 也 ︑ 知 足 院 之 文 も有 ︑ 同 入 置 也 ︑ 則 玄 音 ︑ 京 識 へ目 出 度 由 返 書 遣 ス︑. と あ り ︑ 元 和 二 年 十 二月 二十 二 日 に 長 谷 寺 の能 化 は 玄 立旦房宥 義 か ら 京 識 房 秀 算 に交 替 し た こ と が わ か る ︒ 長 谷 寺 所. 蔵 の ﹃中 性 院 面授 帳 ﹄ の 元 和 元 年 の 面 授 者 京 識 房 の下 に ﹁ 脇 能 化 ﹂ と あ り ︑ 前 述 の宥 義 が 改 易さ れ た と き に ︑ 京 識. 房 秀 算 は 徳 川 家 康 の意 向 で 脇 能 化 と し て長 谷 寺 に 入 って いた こ と が わ か る ︒ そ し て秀 算 は 宥 義 か ら 中 性 院 の法 流 を. 伝 授 さ れ た 後 に ︑ 元 和 二年 十 二月 を も って秀 算 が 能 化 就 任 と な った の であ る ︒ こ の頃 に な る と 長 谷 寺 宥 義 ︑智 積 院. 日誉 の 場 合 の よう に ︑ 両 本 山 では 徳 川家 康 の推 薦 を う け た も の が 脇 能 化 か ら 能 化 へ晋 む と いう 形式 が 確 立 し た よ う. であ る ︒ 但 ︑ 目誉 ・秀 算 な ど は 長 谷 寺 ・智 積 院 の両 本 山 で修 学 し て︑ 御 前 論 義 な ど を 通 じ て︑ 徳 川 家 康 か ら そ の学. 識 を 認 め ら れ た 学 僧 であ る ︒ これ ら の僧 侶 が 自 由 に 両 本 山 の能 化 に 任 命 さ れ て い ると ころ を み る と ︑ 中 性 院 流 の黒. 皮 籠 を め ぐ る 紛 争 は あ った が ︑ 依 然 こ の頃 の両 本 山 の交 流 は 密 接 であ った よ う であ る ︒. まとめ. 近 世 初 期 の長 谷寺 と 智 積 院 の能 化 と な る た め に は学 山 の伝 統 に 従 い︑ 所 化 衆 の支 持 を 得 て ︑ し か も 学 問 者 であ る. こ と が 条 件 であ った ︒ 両 方 の条 件 を 兼 備 し た 僧 は少 な く ︑ 長 谷 寺 の専 誉 没 後 ︑ 智 積 院 の玄 宥 没 後 ︑ 長 谷 寺 の性 盛 没. 後 な ど は 後 継 能 化 就 任 を め ぐ って抗 争 が 起 った よう であ る ︒ し か も こ の と き に西 笑 承 兌 な ど の畿 内 の寺 社 行 政 担 当. 者 は内 済 を 勧 め た よ う であ る が ︑ 両 本 山 の寺 内 で は決 着 が つか ず ︑ 徳 川 家 康 の裁 許 を 仰 ぐ こと が多 か った ︒ そ の後. の宥 義 の長 谷 寺 能 化就 任 ︑ 日 誉 の智 積 院 能 化 就 任 ︑ 秀算 の長 谷 寺 能 化 就 任 な ど の場 合 を み る と ︑ 徳 川 家 康 の 眼 鏡 に. かな った 学 僧 が 脇 能 化 か ら 能 化 に 晋 む と いう 一定 の 形式 が 確 立 し た よ う であ る ︒ 特 に徳 川家 康 は 日 誉 ・秀 算 な ど 御. 前 論 義 で 自 分 の 眼鏡 に か な った 学 僧 を 強 く 本 山 能 化 に 推 薦 し て いる ︒ 徳 川家 康 は 従 来 自 分 と 接 点 の薄 か った 上 方 寺.
(21) 院 の本 山 の内 部 抗 争 の解 決 や 寺 領 安 堵 と いう 形 で ︑ 伝 統 的 な 有 力 本 山 を 自 己 の支 配 下 に 置 き ︑ 次 第 に 本 山 の伝 統 的. な 権 威 を 否 定 し て ︑ 清 僧 で︑ し か も 学 問 者 を 本 山 の能 化 に居 え ︑ 所 化達 を 厳 し く 指 導 し て ︑ 学 問 に専 念 す る よ う に. 仕 向 け た の であ る ︒ 長 谷 寺 ・智 積 院 は 共 に 根 来 寺 か ら 分 か れ た 新 義 真 言 宗 の 両本 山 であ り ︑ 中 性 院 の 法 流 相 承 と い. 関 ヶ原 の戦 い後 に おけ る‑ ﹂ (﹃ 仏 教 史学 研究 ﹄ 第 四十 ニ ノ第 二号 ︑ 二〇 〇 〇年 刊 ) 参照 ︑. ﹃ 西 笑 和尚 文 案 ﹄を 通 し て‑ ﹂ ( ﹃ 待 兼 山 論 叢 ﹄ 二 八︑ 一九 九 四刊) 参 照 ︑. ( 大 正大学教 授). う 特 殊 な 問 題 はあ った が ︑ お お む ね 近 世 初 期 の両 本 山 は 次 第 に徳 川 家 康 の寺 社 行 政 の枠 の中 に組 み 入 れ ら れ て い っ た 経 緯 が 後 継 能 化 選 出 過 程 に よ く 表 わ れ て いる ︒. 刊) ( 5) 坂 本 正仁 稿 ﹁ 洛 東 智 積院 創 立 の 一考 察 ﹂ ( ﹃ 印 度 学 仏 教学 研 究 ﹄ 23‑ 1. 近世初期の智積院と長谷寺‑ 後継能化選出問題を中心に‑. 昭和 四十 九年 刊 )参 照 ︑. 二一. ( 3) ( 4) 櫛 田良 洪 著 ﹃ 専 誉 の研 究 ﹄ ( 昭 和 五十 一年 ︑ 山 喜 房 仏 書 林 刊)︑ 村 山正 栄 編 ﹃智積 院 史 ﹄ ( 昭 和 九 年 ︑ 弘 法 大師 遠 忌 事 務 局. (2) 杣 田善 雄 稿 ﹁ 近 世 前期 の寺 社 行政 ﹂ ( ﹃日本 史 研 究 ﹄ 二 二 三︑ 一九 八 一刊) 参 照 ︑. 同稿 ﹁ 大 和 の寺 社 と 西笑 承 兌‑. (1) 伊 藤真 昭 稿 ﹁ 慶 長 期 にお け る徳 川家 康 と畿 内 寺 社‑. 注.
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