Kyushu University Institutional Repository
チイキミズカンキョウホゼンヘノゴウイ・サンカク オツクルガクシュウカツドウ
長尾, 秀吉
九州大学大学院 : 博士後期課程3年
https://doi.org/10.15017/1010
出版情報:飛梅論集. 1, pp.3-20, 2001-07-25. Graduate School of Human-Environment Studies, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
九州大学大学院教育学コース院生論文集,2001,創刊号,3−20頁 Bull Education Cource, kyushu U,2001, Vol.1, pp3 一20
地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
長 尾 秀 吉
1g河川法改正にともなう新たな住民参加制度の確立と教育的意義
今日、地球規模に拡大した環境問題への危機的な状況認識が生まれるとともに、自然環境を豊か にしたい、次世代へ豊かな自然環境を残したいという、意識の高まりが生まれている。しかし他方 で、豊かな環境を求める意識を「内なる自然」と呼ぶならば、この内なる自然の意識と、現実の環 境問題解決に向けた自然生態系についての認識の矛盾はあまりに大きいことに気付く。その矛盾が 端的にあらわれているのが現代の水問題である。特に、高度経済成長時代以降、人々は命あふれる 豊かな水を取り戻すことを願い続けてきたが、80年代からの「安全でおいしい水」を求める大量 消費の生活意識がブームに終わることなく定着している。また、生活の場である地域をみると、山 村では開発による自然破壊、高齢化や農林漁業の衰退など構造的な要因による緑のダムの危機と土 砂災害の危険が高まり、都市では大地のコンクリート化が進み、水害に弱い都市基盤をつくり出し、
人々の水への渇望とは裏腹に小雨にも危険を感じる地域をつくりだしてきた。人々の内なる自然を 実現するために、人々の目の前にある水の中に、どれだけ広く深く人間と自然との関わり、人間と 人間の関わりを読み取り、自然と共生して生きることの価値を賭けた連帯と参加をつくりだしてい けるかが、今日の環境問題の解決をはかることを目的とする環境学習の最も大きな課題となってい るといえる。
ところで、自然との共生をめざす認識及び連帯・参加について考えるとき、近年、地方分権が政 策的なレベルで進みはじめていることが注目される。これは、日本型企業社会における住民参加制 度の不備の中においても長年続けられてきた環境保全運動の成果を受けつつ進められてきたもので あるが、特に注目すべき改革動向の中の一つに、1997年の河川法改正がある。この改正河川法は、
1996年の河川審議会答申「今後の河川環境の在り方について」をはじめとする答申・提言を受け て成立し、「河川環境の整備と保全」や「関係住民の意見反映」等、これまで欠如していた環境保 全・住民参加面の記述が盛り込まれ、いくつかの問題点が指摘されつつもこの法改正に関しては一 定の評価がなされているω。
特に、地域住民の意向を反映する具体的な手続きをみると、旧河川法の「工事実施基本計画」に あたる、20〜30年後を目処にして具体的な河川の姿を示した「河川整備基本計画」への意見反映 手続きを導入するものとされ、現在、全国一斉に計画の策定手続きが進められており、これまで住
★九州大学大学院博士後期課程3年
民の手の届かなかった河川環境の維持・管理計画への参加の道が開ける可能性が生まれたことで、
生態系の保全に関する課題認識をどう形成し、連帯し、中身の広がりをもった計画をつくりだして いくのかが、今、厳しく問われはじめたのである。
2。河川環境の保全に向けた住民参加の現状と課題
しかし、一方では河川整備基本計画より上位の国土開発計画にリンクした国・資本の水資源開発 計画が存在する。筑後川流域においては、国・県・財界を中心とした「北部水資源開発協議会」
(以下「北水協」)の「フルプラン」(北部九州4県の開発計画と関連)及び「マスタープラン」(フ ルプランに基づく筑後川のみの開発計画)の2つの上位計画があり、特に後者に基づき従来の筑後 川工事実施基本計画もたてられてきた。また、この「北水協」に対応するように流域市町村長・土 地改良区理事長・漁業共同組合長等で構成される「筑後川流域利水対策協議会」が水利権保有者に よる「地元関係者組織」として存在し、この組織がマスタープランへの唯一の影響力を持つ地元意 見反映機関となっている。河川整備基本計画に住民意見を反映する手続きにおいて、これらの上位 計画や水利権保有者の組織が現存する中で、果たして住民の意見が反映される仕組みをつくりうる のかが自治能力の形成という点から問われなければならない。
この点に関わって、平成11年には河川法の改正の目的を主として行政内部に徹底させることを 目的として「パートーナーシップによる河川管理の在り方に関する研究会」が設けられているが、
非常に興味深い提言が行われている。21。それは、「河川事業において、市民(3」との合意形成が必ず しも十分でないまま事業が行われ、市民と行政との対立が生じて」きたことへの反省に立ち、今後 は行政と市民の「パートナーシップ」への転換が必要であるとし、そのためにも「目標の達成度の みならず、手順を踏んで議論し実践するプロセス」が特に重要であり、そのような合意形成を通じ て「行政、市民はお互いの考え方や役割を学習し、自らの役割を自覚し能力を高めていくことで自 立した主体を形成することができる」と述べている点である。これは、地元利害関係者以外の市民 をも主体と認め、市民と行政の「日常的な対話」による着実な合意形成こそ主体形成につながるも のであるとしており、従来の制度では考えられないほど市民の参加を促す内容の提言を行っている
と受け止めることができる。また、この研究会の委員でもある足立敏之氏は、①晴報発信」(広 報誌等の発行\ホームページの開設、説明会・セミナーの開設)、②「意見徴収」(アンケート、
ヒアリング、公聴会)、③「意見交声(フォーラム・シンポジウム、意見交換会・対話集会、流域 懇談会・流域委員会、箇所別・テーマ別ワークショップ)を合意形成の具体的手続きとしてあげて
いる(4)。
しかし、先述したように上位計画と水利権保持者の優位性が現存するなかで、果たしてそうした 関係が可能かどうかは疑問に残ろう。また、この条件を自治能力形成の観点から見るならば、対話 のもとでいかに環境に配慮した事業が実現しても、その対話が一部の市民団体との対話だけによっ て決定されたものであるならば、住民の自治能力の形成に結びつくことは困難であるように思われ
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地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
る。やはり、市民と行政が対等に対話できる関係成立の前提には、あくまで計画主体である専門行 政機関だけが計画を受けもつのではなく、科学的な学習と成果の合意に裏打ちされる計画を市民自 身がつくること、それを上位計画とすることが必要であろう。また、住民の提起する様々な課題の 解決をはかるために縦割り行政の払拭も盛り込まれなければならない。もし、この点をふまえなけ れば、日本型企業社会の「大衆管理」の側面としての行政・専門家エリート集団による「コミュニ ティ」形成、すなわち行政とそこに包摂された一部の市民団体によって与えられた課題の解決に市 民が動員されることが危惧されるのである。こと河川については、都市化の進展にともない、計画 を立案・実行する立場にある行政だけでなく、住民の側も行政施策による河川コンクリート化・暗 渠化・埋め立て等に長く依存してきたからである。
3.アメ.ニティへの要求と環境保全の運動・学習の質の転換
主として1960年代に激化した公害・地域開発反対運動は、1970年の公害国会開催に大きな・イン パクトを与え、その後一応の公害対策の進展につながる中、退潮をむかえ、その後豊かな生活環境 空間を求めるアメニティの運動が生まれた。このアメニティを求める運動について、宮本憲一氏は、
1970年半ばから顕著になったその変化を「公害からアメニティへ」の転機と呼び、アメニティを 「市場価格では評価できえないものをふくむ生活環境であり、自然、歴史的文化財、街並み、風景、
・地域文化、コミュニティの連帯、人情、地域的公共サービス(教育・医療、福祉、犯罪防止等)、
交通の便利さ」など、人間と関係する生活環境の豊かさを内容とするものであると定義した(5)。
しかし、そうしたアメニティを求める運動が生起する裏では、都市化の進展の中で地域の環境を 維持してきた共同作業の喪失があり、生活・地域課題を顕在化することが困難な地域をつくりだす こととなった。都市型公害と呼ばれる都市化にともなう身近な環境の悪化が進み、部分的な環境改 善の要求・活動がすすめられたとしても、その活動の中では課題の深化と広がりを生むことの難し さが大きな課題となってきたのである。こと河川に関しては、河川工学の見地から大熊孝氏が指摘 しているように、経済の行動成長以降、「堰や橋のコンクリート化」が進み、「ちょっとした災害に 遭うことも極端に嫌う体質」が生まれ、自然との「煩わしい」関係が著しく希薄となってきたので
ある(6)。
ところで、こうしたアメニティを求める環境保全運動が生起した70年代半ば以降、それと時を 同じくして、地域政策においては第三次全国総合開発計画の「定住圏構想」とともに一連の都市化 問題への対応策として打ち出された「コミュニティ政策」が問題とされてきたことが注目される。
コミュニティ政策は、都市化の進行にともなって地域課題を解決できないほど衰退した地域基盤を 再構築するねらいをもっていたが、現実には、「コミュニティ計画推進の手段としての住民参加は、
機能主義的な自己啓発であり、住民が自らの要求を切り開き認識を高めるよりは、与えられた課題 へ住民を誘導していく方式」であり、実際に開発地域における形式的な「住民参加」や、都市経営 論による住民自己責任の強調等に現れてきたことが明らかとなつだ7)。当然、身近な自然環境の質
の向上も解決すべき行政の「課題」とされ、住民のアメニティを求める要求がコミュニティ政策の 啓発事業に転化して行われることとなったのである。そうした行政からの与えられた地域課題解決 に向けた活動の中では、真の生活・地域の課題が掘り起こされることは困難であった。このように、
70年代半ば以降、コミュニティ政策が登場し、アメニティを求める住民は自己の中に責任を求め る意識をつくり始めることを通してアメニティづくりが始まるとき、自治能力の形成をめざす環境 学習においては、アメニティづくりがコミュニティ政策へのインボルブされるのか、それとも自治 へつながるのかその峻別がするどく問われることになったといえる。
では、なぜ60年代の公害・地域開発反対運動の経験がありつつも、70年代半ば以降のアメニテ ィを求める活動の多くが、コミュニティ政策へと転化する危惧をもつに至ったのか。そのことにつ いて考えるとき、内山節氏の自然と人問の関係についての見解が注目される(8/。氏は「日本におい て自然への関心が高まってきた」高度経済成長期以後の時代に、「自然を客観的なものとしてとら え、保護の対象にすえるのではなく、自然と人問の関係の中に自然も人間も存在しており、自然を 守るとは自然と人間の関係を共生可能なものとして創造する」自己の立場を確立したと述べている が、ここでいわれている自然と人間の関係は、現実生活における「煩わしい自然との付き合い」で あり、「矛盾した自然と人間の関係」を意味している。それは換言すれば、自己が社会の様々な関 係性を通して自然の改変に関わっているという思想(自覚)である。そして、このような思想的な 転換が70年代半ば以降生まれてきたとすれば、環境問題の社会構造的な原因である大量生産・大 量消費社会に生きる人々が、自覚的に自己の生活改善に取り組もうとするのはむしろ自然な要求で あったといえる。しかし、現実には、都市化による地域の人間関係の希薄化の中で、多くの場合、
その要求は他者と磨きあわれることなく未解決のまま自己の意識に封じ込まれるか、あるいはコミ ュニティ事業に要求の発露を求めざるをえなかったとみることができるのである。
以上のように環境と人間の関係や社会における人間と人間の関係についての思想が生起したとと らえたとき、70年代半ば以降は、アメニティを求める要求に基づく環境学習が、自己責任の名の 下で行政課題解決としての環境改善に終わるのか、それとも自然と人間の関係についての深い洞察 を得て自然との共生をめざすのかが問われることになり、環境学習は後者の実現に向けた非常に高 度な学習の確立が求められなければならなくなったととらえることができよう。60年代の公害・
地域開発反対運動にみられたような明確な被害一加害の関係から課題の鋭さで運動を進めてきたの に対し、70年代半ば以降は、住民自身が自然との関係において加害者であるととらえつつ、自然 生態系との関係及び人間と人間の関係を問い直すことを核とした運動と学習に質が変化してきたの であり、今も多くの環境保全運動の多くがアメニティの確立を求ようとしている。こうした運動に おける環境学習をとらえようとしたとき、運動と学習の質の変化をとらえ、またコミュニティ政策 との異同について論じ、政策に包摂されない環境学習の論理の構築が環境学習研究に必須となって いるのである。
そして、こうした新しい質の環境保全運動が実際にあらわれたのが、宮崎県綾町の照葉樹林都市 づくりであり、福岡県柳川市の堀割再生の取り組みであった。特に後者の取り組みは、都市化の進
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地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
展にともない共同作業が崩壊し、生活排水による水質汚濁が著しく進んだ堀割の埋め立てが、全て の柳川市民・役所の当然の意識となっている中、その意識を堀割再生にむけての熱意に転化させた すぐれた実践である(9 。その意識の転換を促したのは、市役所職員の広松醜男による、柳川の地質 調査、各家庭の浄化槽の設置・機能の調査、堀割の歴史と柳川の街の成立史、そこから導かれる遊 水という現代的機能の発見、さらに100回以上の地域懇談会(学習会)の開催であった。そして、
この合意に基づき立てられた「河川浄化計画」は、現在でも住民自身の計画として機能している。
そして、この再生の取り組みをルポルタージュした光岡明氏は、「原子力発電所の建設、原生林 を貫く道路の建設といった対象が目に見える事業」は公害・地域開発運動に組織されて「鋭く事業 主体や行政と対立する」が、「水や空気の汚染、緑の減少、土壌の流出などはその原因が特定でき なかったり、特定できても目立った変化がないために原因への関心を薄れさせてしまい」、はっき りした目鼻立ちをもたない「水文循環からくる水路再生の要求は」、その「マイナス面を共闘して も絶対的基準にはなりにく」く、人々の意識を変える水路再生はまさに「人間を賭けた価値観の問 題」にほかならないと、公害・地域開発反対運動と水路再生の取り組みの質の違いについて明確な 指摘を行っている点が注目される(10)。なぜなら、光岡氏の主張は、今日の環境保全運動と環境学習
において、科学的な調査結果から環境悪化が懸念される行為のマイナス面を指摘するという課題の 鋭さのみで迫っても、すぐに絶対的な基準として住民の合意を形成することがもはや困難となって おり、それらの上に人々の意識の中に眠る「地域の歴史と伝統と風土」を呼び覚ます「人間を賭け た価値観」の闘いまで踏み込むことが必須であると指摘し、こうした「人間を賭けた価値」まで踏 み込んだ深い課題認識の形成をうながす学習こそが、アメニティを求める人々の要求が高まる時代 において、明確な課題が提示されても認識の深化や広がりをつくり出せないコミュニティ政策との 弁別点になるという新たな環境学習の視点を示しているからである。
以上の問題意識をもとに本研究は、大分県日田市及び大山町で取り組まれている水量増加・水環 境保全運動を対象に、柳川の実践に学んだ日田市・大山町の人々が水の豊かな流域の風土をとりも どす学習活動を、その後どのように展開してきたのかについての過程をとらえることを通して、河 川法を実質化する力量がいかにして形成されてきたのかを明らかにしたい。
4.地方分権下における河川環境保全の課題
大分県日田市及び大山町における三隈川と大山川における水量増加と水環境保全の運動は、
1999年3月に松原発電所(大山町)と柳又発電所(日田市)の九州電力(株)がもつ水利権が30年 ぶりに更新されるのを機に、地域の約80にものぼる地域(産業)の賛同団体によって構成された 住民組織「三隈川の水量増加推進実行委員会」(日田市)、「大山町森と水のふるさとづくり推進会 議1(大山町)が主体となり、両市町の行政・議会を巻き込みながら流域ぐるみで進められている。
本来なら1999年時点で建設省・九州電力(株)間で水利権が更新されるところを、両市町・住民代 表・大分県を交えた五者でつくる「三隈川・大山川河川環境協議会」を組織して一年間の「勉強期
間」をおき、2000年3月に「大山川ダムの放水量を現在の毎秒1.5トンから最大毎秒4.5トンに
(鮎の生育期)」、「日田市旅館街付近を現在の毎秒19トンから22トンに」、「現在30年の更新期を10 年にする」という合意(成果)を生み出すこととなった。この取り組みは、地方分権施策のもとで 改正された新河川法の追い風も受けつつ、法的に水利権のない地域代表を交えての異例の協議と成 果を生みだし点で、「河川法改正で打ち出されたr住民参加による河川整備』という理念を実現し た先駆的動き」として評価されている(1 D。
歴史的にみれば、日田市・大山町は「蜂の巣城闘争」と呼ばれる歴史的事件の直接的な影響を受 けてきた地域である。この「蜂の連城闘争」は、最終的に国の強制的な土地収用によるダム建設で 終焉を迎えるが、国家・資本によるダム開発の公共性を問うた先駆的な運動として知られているq2}。
しかし、そうした「国対地域住民」の構図の中に、室原知幸氏を中心とする筑後川上流部のダム開 発反対住民と久留米市長を中心とする下流域の住民との問で治水をめぐる厳しい対立の歴史的構図
も存在していたのである(13>。
そのとき、1970年の闘争終結から30年たった現在、下冷・松原ダムによってそれぞれ水の危機 に陥った日田市・大山町における流域ぐるみの水量増加と水環境保全の運動の中で「室原さんの敵 討ち」との言が聞かれるとき、その地域固有の水と人聞、人間と人間の関係の中にある風土が、柳 川をはじめとして流域のネットワークを形成するという点もふまえ、どのようにかたちつくられて きたのかが注目される。そこでこの水量増加・水環境保全の運動を蜂の巣城闘争から続く地域の歴 史的過程としてとらえ、その過程分析を通して、地方分権下における「新河川法を実質化する」地 域の風土の姿とそれを形成してきた学習活動の内実をとらえてみたい。
5。水量増加・水環境保全運動の歴史的水脈としての蜂の巣城闘争
(1)筑後川流域の水文化の成り立ち
水量増加・水環境保全の運動が進められた三隈川・大山川は、全長143cmと九州で最も長い川、
筑後川の上流部にあたる。筑後川は、その流域面積も、佐賀県や沖縄県のそれよりも大きく、今も 流域に住む人々150万人の命を支えている。江戸時代に付けられたその名は、別名「一夜川」と呼 ばれるように、一夜にして流れを変えるほどの流れをつくり出す暴れ川であり、またの名を「筑紫 次郎」ともいう。
しかし、人口150万人、4県47市町村を貫く筑後川は、富山和子氏が語っているように、「水の 豊かな川ではなかった」 4)。では、筑後川が現在の150万人の流域の人々の命を支えるほどの水の 豊かさをつくり出したというとき、それはどのようにして生まれてきたのか。その要因について富 山氏は、「水の乏しい筑後川の、その精一杯の水源をつくり出してきたものは、焼き畑と焼き畑農 民達の貧困だった」と結論づけている。つまり、現在でも三大美林の一つとして名高い上流部日田 市の名産「日田杉」は、もともと山を「ソバ野」「焼畑」の農地としてきた農民が、当時の米の生 産の増加による生活苦の中で、西南戦争以後の木材需要高騰に乗じて植林しようとする地主に土地
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地域水環境保全への合意・参画面つくる学習活動
を手放すことで、一斉にその美幌の様相を呈してきたのである。そして、山で暮らす農民の貧苦の 一方で、江戸時代に挿し木技術を導入して以後、こと明治に入り昭和28年の夜明ダム(発電ダム)
の完成まで飛躍的な造林拡大が続くのであるが、一方でこのことが日田の木工技術だけでなく、筑 後川下流の大川市の木工技術を育て、木材を運ぶ「筏流し」の流通・経済・文化圏をつくりだして
きた(15)。
そうして山の貧困から絞り出されるその水は、日田盆地から中流部の沖積平野、さらに下って有 明海に注ぐのであるが、そこでは、上流部とは全く異なる水の文化を創り上げてきた。その一例と して、中流部には、農民・庄屋たちが命がけで作りあげてきた「大石堰」(左岸用取水堰)、「山田 堰」(右岸用取水堰)があり、この堰によって水を両岸に張り巡らせ水を養ってきたのである。さ
らに、下流では日本一の干満差を利用して逆流してくる海水の上の「淡水(アオ)」を巧みに取り 入れる「アオ取水」、取水に限りのある「アオ取水」の水を蓄えるために堀割(クリーク)が一面 に張り巡らされた㈹。
筑後川と流域の人々の関わりは、流域の個々の地域において水を得るにあたり様々な努力を重ね る中でその地域固有の風土を形成してきたのであり、まさにその「筑後川の水は、水をつくり出し た農民たちの、血を洗った水」に他ならなかったのである(17)。
(2)蜂の巣城闘争が現代に問いかけるもの
日田市・大山町をはじめ、筑後川流域の上流部は、北部九州の水源開発地域として戦後直後から 国土開発の対象となっている地域であり、長年ダムの建設問題を抱えてきた。先述したように、筑 後川と人々との歴史的関係の構築を通して固有の風土を形成してきたわけであるが、これら建設省 がすすめるダム建設によって、その関係性の中にある地域・流域固有の風土は大きな変貌を遂げた といってよい。
そのダム建設の端緒が、昭和28年の筑後川流域の大水害を契機にして、熊本県小国町・大分県 中津江村・上津江村・大山町(当時は村)・天瀬町(当時は栄町)の5町村(各町村は条件付き賛 成)をまきこんでつくられた松原・骨筆ダムである。そこでは国・九電の強引なダム建設の在り方
に対して、室原知幸氏をはじめ小国町下屋地区周辺住民が「蜂の干城」と呼ばれる砦をつくり強烈 な抵抗運動をくり広げ、その後は反対住民による裁判闘争も始まるが、時の権力に敗訴し、強制的 に土地を収用されていく結果に終わった。このダム建設反対運動の経過については既知のものとな っておりここではふれない。また、先述したように、この反対運動は全国に先駆けてダム建設の公 共性を問うたものである。この点についてもすでに詳細な先行研究によって示されてきたこともあ
り、ここではその点を指摘するにとどめたい。
ただ、ここで注目したいのは、そうした開発地点の住民の基本的人権を守るという点から公共事 業の公共性を問うことの中にある住民間の対立、すなわち上流部住民と下流部住民との対立である。
それは、1960年のダム建設事業認定申請書に対する室原氏・地元住民の、「 多数の者の利益のた め、何もかも解決する という幻影を、いわゆる受益者側に与えて犠牲者側と対立させ、世人に多
少の犠牲は止むを得ないと思わせ、犠牲者を世論から孤立させるのです。現にこの下筆事件でも、
筑後川下流の受益者側からは、私たち上流の地元反対者に対し、ある時は懇願、ある時は非難攻撃 が加えられているのです」との叫びに表されている(18)。
確かに、この反対住民の結束の根底には、筑後川の水を絞り出してきた農民の貧困と山林地主で あった室原の上流部の山の結束があることは事実であるし、この志屋地区周辺そのものが「閉鎖部 落」であったことも明らかにされいてるq9)。しかし、反対住民の「孤立」は、先述した筑後川を通 しての木材を通した上・中・下流の交流があったことからすれば、まさにダム建設がもたらしたの であり、それは、流域の分断そのものの始まりであった{20)。
かって、宮本憲一氏はr恐るべき公害』の中で、60年代以前の反対運動について「農・漁民の 運動」の欠陥(限界)を指摘し、新たな「市民運動」の展開に「市民」形成の道筋をとらえていだ21)。
こと水に関しては、農村の犠牲の上に都市があることは今日では周知のこととなっており、近年、
石川徹也氏がダム問題に抗する人々の声が「農村」から「都市」に現れるようになったことを指摘 していることは、近代的なダムと導水による新たな水争いの歴史に終止符をうつ「都市と農村の交 流」=市民運動を生みだすかもしれない(22}。 しかし、この30年前に終結した蜂の巣城闘争の背 景にある筑後川流域住民の血のにじむような利水・治水の努力と互いに水を分かち合う歴史的風土 をみたとき、それは「都市と農村」という二項的なとらえ方からだけでなく、地域・流域の風土形 成から問題を問い直すことを求められていると思われる。
6.水量増加・水環境保全運動を通して川と生活に向かい合う人々の学習課題
(1)「水利権更新」の情報を市民の手に
1970年、蜂の巣城闘争の終結(和解)によって、1973年には松原・下平ダム・柳又発電所が運 転を始める。そのとき、まず大山川からみると、豊かだった川の水はほぼ完全に消えた。他方日田 市では筑後川水系の玖珠川・花月川の流れがあるものの、大山川ダムから三隈川の最下四部にある 柳又発電所までの導水路で65㎡/秒もの流れを失い、水勢を失った川は水郷日田のシンボルでも ある隈裏旅館街付近によどみをもたらした。さらに大山川上流の松原・下野ダム湖までも汚濁が進 行する(23)。「三隈川の水量増加推進実行委員会」の事務局長である諌本憲司氏の「これほどまでに 思いもよらない水量減少」という言葉には、蜂の巣城闘争における国の強権への反対運動の敗北が、
形をかえて降りかかってきたことへの住民の驚きと、それに屈せざるを得ない苦渋の気持ちが含ま
れている(24}。
その後、日田市では本格的な清流復活にむけて、主として3つの施策が進められる。その第1は 下水道整備であり、第2が凌喋事業、第3が流量増加である。とりわけ第3の水量増加は、すでに柳 又発電所の運転直後から、水量増加が何より求められていたこともあり、昭和53年の熊本県菊池 川水系の竜門ダム津江分水に関する覚書の中で、わずかながらであるけれども水量増加の確約をと
りつけた経緯がある。
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地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
しかし、それは熱心に行われたがあくまで「行政運動」であった。日田市の当時の姿勢は、柳又 発電所の建設に際して、蜂の巣城の二の舞をふむことを恐れ、苦渋の選択の中で建設省・(株)九 州電力の意向を住民を説くものであった(25)。一方、過去に水を100%売った大山町の対応は、
1970年に(株)九州電力と大山町の覚書の中に「今後水の問題によって起こる住民の苦情はすべ て町当局が処理する」こととされ、今更水を返せとはいえない状況下にあった(26)。そして、住民が
「水利権更新時期」を知らないことは自明という行政風土が徐々に造られていくことにつながてい ったのである。
このような中、日田市では、平成7年に環境保全施策の充実をうたう大石昭忠市制が誕生し、平 成8年には「森と水の対策室」を設置、その対策室長に大分西部森林管理所(旧日田営林署)に勤 務していた財津忠幸氏を出向職員(平成1996〜98年)として迎えた。このことで、日田市は大き な転機をむかえることとなった。
当初、財津氏は、これまでの経験を生かしながら「水の森事業」を立ち上げ、福岡市や久留米市 をはじめ筑後川下流の市民団体と森づくりを通しての市民団体の交流の会である「水の森の会」を 組織するなど、新たな事業に精力的に取り組みはじめる。
そのような折、企画調整課の中で職務についている関係から、「柳又発電所水利権」が平成11年 3月に更新される情報を入手する。すぐに日田周辺の水利権更新期を調べ、図表1「日田市周辺の 水利権状況」に示したように、「どこもかしこも水利権がうたれている」ことに衝撃を受ける。筑 後川工事事務所へ問い合わせるも、前例がないといわれ、「天から降ってくる雨になぜ市民がもの を言えないのか!」と激しい想いを抱いた氏は、市長に報告の後、日田市全体を巻き込んでの運動 のシナリオづくりに取りかかったのである〔27>。
そして、市民が主体の市全体の水量増加・水環境保全の動きをつくりだそうと、市長、さらに市 会議員にその旨を伝える一方で、市民運動の実行委員会づくりに向けた行動を市民に呼びかける。
そのとき、話を進めていった中心的な場が、「三隈川の水量増加推進実行委員会」の事務局となる
「ひた水環境ネットワークセンター」(以下水環境ネット)であった。
(2)流域の個々の文化をつむぐ流域住民の取り組み
この水環境ネットは、1986年、(社)日田青年会議所(以下JC)が行った市民アンケートの結 果、川の汚染や水量減少に関する市民の声の多さを受けて、1992年11月にJCを母体に、水環境を 中心としたまちづくり運動に取り組むことを目的に立ち上げられた。
そこでは、当初「地球環境問題」をテーマにした学習会を開き、その中で日田の水環境問題解決 に向けた活動をつくりだそうとした。しかし、しばらくすると「地球環境問題をテーマにした学習 会を行ったが、何をどうしていったらいいのか、まったくわからない」「日田独自の課題をつかん でいくことが困難」な状況に陥るのである(28>。
そのとき、福岡県柳川市で「水郷水都全国会議」が開かれるという情報を耳にしたJCは連れだ って柳川へ向かう(29)。会議に出席した二本氏をはじめとするJCのメンバーは、それぞれの地域で
図表1 日田市周辺の水利権状況
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三隈川水利権等の状況
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日田市水利権
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隈ウラ流 超えた時 再開発後
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認○松原ダム M85
@夏9H 8m3/S M200m3/S
女子畑
調整池 5 大山ダム直下
3/ (58再開発事業〉
女子畑発電所
M36 8m3/S
21 6m3/S M650m3/S S63331 大
山 川
赤石川 大山ダム
m3/S
千丈橋地点流量(観光期)
m3/S 三 再開発後53年確認書 m3/S
m3/S 隈
誠諺 川 高 瀬 川
ロロロロロロコじロロロ ロロロほ ロロロロ ロ
ノ 津江分水 年 1,900万t題 隈ウラ流量が270m3/S = 超えた時にもに取水 岡 再開発後53年確認書 = 團 蟹 !94m3/S 圏 Hl1331 = 國 図 團 図 圓 国 図 團 国 塵 国 團 固 i6,000t
8,600t
隈
川
筑
後
夜明発電所 M 80 3m3/S 28 Om3/S H3 3 31
川
隈ウラ流量(観光期)
(43覚書)
19 IS
隈 川
石井発電所 M 10 Om3/S 7 52m3fS
H25 3 31
o
柳又発電所
7 9m3/S Hl} 3 31
3m3/S取水(流量調整)
夜明ダム
M68 Om3fS
國
三
三
團
三
三
三
三
謡
言
瞬
團
團
麗
三
三
三
図
騒
圏
國
團
團
馬II酬魍.囲ll囲1,囲。剛1國M團II囚II圏 囲1魍1圃1,回1瑚II囲II㎜,,晒1慨11階,、副1酬1闘ll囲 圃1四,囲II國1岡1團,lePt
一 12一
地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
水問題解決に取り組む人々と出会い、広松伝氏に柳川の堀割がドブ化していった理由と再生の過程 を学び、また生活排水の画期的な浄化槽である「石井式合併浄化槽」を考案した石井勲氏らと出会 う中で、初めて日田という「地域」における人と水との関わり、水と水との関わりを問い直す手が かりを発見したのである。
その後のJCの学習活動は、徹底して日田の水にこだわり始めるとともに、学んだことを水環境 改善への啓蒙運動として広げる活動を展開する。日田の水事情・合成洗剤の害・山林の保水機能な ど身近な日田の水環境についての学習を企画し、時には足を現場に運ぶ活動を続け、また単発的事 業としても自主映画「水郷TOMORROW一ひた未来へ一」の製作、子どもたちとともに三隈川の 源をたずねる「源流バスツアー」を行っている。そして啓蒙活動の集大成として合成洗剤の害を訴
える「洗濯キャラバン」を展開する。この洗濯キャラバンは、当初メンバーが仕事の合間をぬって、
学校や公民館での婦人会等の学習会に出向き、自らが学んだ水環境と生活の関わりを伝える活動で あったが、そのような地域での積極的な活動を通して、水環境ネットの存在が地域の中に知られて いくこととなった。そうした中で、「何をすべきかを、水環境保全の活動を通していろんな人と関 わりながら」学び、JCから独立した組織として運営していくことが提起され、水環境ネットの設 立にいたるのである。
以上のように、行政運動では解消されない水郷日田の危機を、El田の水へこだわる学習活動とそ の成果の普及を通して、86年のアンケートにみた日田市民の声に真正面に答えようとしてきたの であり、そうした長い地道な学習活動を通して「日田市民の協力や理解をえられる」ほどの、地域 の水文化再生の中心的存在となってきたのである。
しかし、水環境ネットは、その学習活動を通してもう一つの大きな存在となっていたのである。
先述したように、当初は地域の水に関する課題のとらえ方に非常に苦しんでいたのであり、学習活 動をすすめるにあたり、様々な諸団体・個人との出会いを通して、一歩ずつその地域課題を発見し てきた。そして、その出会った諸団体・個人は、継続してアドバイザーとして加わり、時には水環 境ネットの座長の任を水環境保全に取り組む先達の人々に譲り、その課題意識に学びながらその求 心力を強めてきた。それを示したのが図表2「水環境ネットワークセンターの人的構成」である。
そこには、日田市の自然に関する豊富な知識を持つ団体、エネルギー問題を考える団体、合成洗剤 追放の女性リーダーをはじめ、環境保全に関する様々な団体のリーダー的存在がアドバイザイーと
して加わっている。
この中でも、特に注目される存在が、図表2のno.4「日田市民セミナー紫明庵」の成毛克美氏の 存在である。紫明庵の偉業はr筑後川水環境マップ』No.1〜4に示されている。その第4集の冒頭 には「私たちは、7年前より毎夏のr水環境セミナー』や交流センターr紫明庵』での交流、研修 を通して筑後川の現状と課題、流域グループの取り組みをr筑後川水環境マップ』として… 発 行してきました。… (第4集は)流域グループのこれまでの討議・交流の成果であり、河川法 改正後の住民レベルからの再生プランでもあります」と述べられている(30)。それは、まさしく流域 の水環境保全に取り組む個々の住民グループの学習活動の存在を認めあうこと、すなわち筑後川流
域の地域・流域固有の文化を形成しようとする全流域の風土の見取り図であり、各々の学習活動の 目指す価値と課題意識を尊重しながらつくられた、筑後川流域住民はじめての計画である。そして、
水環境ネットの存在は、この流域の広がりの中に位置づけられていったのである。
以上のような、地域・流域における地道な学習活動を続けていく中で、図表2のno,20にあたる 財津氏をはじめとする住民と市行政職員の信頼関係が築かれていくのであり、そうして初めて住民 に「水利権更新」の情報が着実にもたらされ、さらにボトムアップの運動の礎が生まれてくるので ある。まさに、「この関係が今回の運動の一つの成果」となったのである。また、こうした信頼は さらに流域での協力関係を生みだし、図表2のno.46、47の「大山を見つめる会」の人々が、共に 水量増加・水環境保全の運動に動き始めていく。
(3>弓削の広がりがひとつになるとき
以上のような水環境ネットを礎として、今度はいよいよ全市的な動きをつくりだし、また大山町 との流域協力関係がつくられ、県・九電・建設省(通産省)への陳情、さらには協議の場をつくり 出すのである。
その経過を示したものが、年表1「水量増加運動の経過」である。特に、ここで注目したいのが、
全市的な動きをつくりだす同意形成過程である。日田市をみた場合、その注目すべき第一の点は、
「三隈川の水量:増加推進実行委員会」を組織するにあたり、実行委員会の代表に自治会連合会長高 瀬恒太氏を据えていることである。この理由は、「日田市内全体を網羅している」ということだけ ではなく、高齢化の進む自治会の人々こそ古き良き時代の三隈川、逆に現在の水郷日田の危機を知 っていたのであり、そうした人々のパワーがそこにあったからである。
次に、第二の点として、賛同団体が80団体にものぼったこと、また署名活動で40,681名の署名 を集めたことが注目される。この賛同団体呼びかけ・署名活動の用紙には必ず、「水利権が更新さ れる」旨が表記されいたのであり、この活動こそ、初めて水利権の更新の存在を市民の前に明らか にしていく作業であり、水利権更新に対するこの反応の大きさこそ、水の自治の第一歩であった。
そして第三の点として、その直後に決起集会が開かれていることに注目したい。特に注目される のは、その中で下流の久留米市を拠点に活動する「筑後川流域連携倶楽部」の代表駄田井正氏が流 域連携を求める講演を行っていることである。蜂の平城闘争では上・下流域の連携は見られなかっ たことを考えると、この久留米市の協力は力強い流域住民の連携の第一歩であった。この度の水量 増加運動について、「室原知幸さんの仇討ち」という声も聞かれるが、それを生み出したものは、
長年をかけてつくりあげてきた流域の連携である。
7e考察
この日田市・大山町で行われた水量増加・水環境保全運動の過程を分析することによって、次の 点が明らかとなった。まず、第一にJCを母体とする水環境ネットワークセンターが成立するまで
一 14一
地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
図表2 ひた水環境ネットワークセンターの人的構成
1〜27はアドバイザー、*は不明
no 勤務i 所属・備考 no 勤務i 所属・備考
1 飲食店i天領日田を見直す会・日田観光協会
27
保健所i大分県日田玖珠保健所 2 1゙具店1鮎美会・三隈川清流をもどす会28
「1ブーザップァタピンバンド3 1ン計士1筑後川河川モニター・青年会議所OB l
29
ヨ業1日半青年会議所OB I4 i日田市民セミナー紫明庵
30
建築業i 〃5 1郷土の自然調査会・市環境保全審議
撃潔?・大分県環境アドバイザー
31 プロパンi
@ i ,ノ 6 1s役所1地域活性化懇話会 1
32 ホテル業1 1 7 i二成洗剤をなくす会
33
* 1 〃 18 市役所i浄化センター(水質検査)
34
* 1 〃 19 1R林業1「屍糞葛」 1
35 * i 〃
10 陶芸家121世紀委員会・「屍糞葛」編集長
@ 1 耳
36 * i 〃
@ i
11 建築業i青年会議所OB
37
歯科 i 〃 12 * 猛士野鳥の会38
1ロ事務所 〃 13 1s役所白田地区デザイン会議・小野公民館 l@ i主事
39
1竓y業}@ i 9
14 Il小野壮年団・小野ほたる祭
40
* : 〃 915 ll小野壮年団・小野ほたる祭 41 1
zテル1 〃
@ 2 16 1ァ議 1よみがえれ緑の会 1
42
建築士1 〃 117 酒店 ;筑後川緑の基金募金委員会事務局長 : :・青年会議所OB
43
* 1 〃@ ; 1
18 2ァ税務1ローカルエネルギー研究会・脱原発 l
@ lネットワーク大分 1
44
1リ材業1 〃
@ i 己
19 * l I
45
酒造 : 〃 120
市役所i元森と水の対策室長46
1磨@ 1大山を見つめる会21
i 47
22
理髪店旧碑容師会48
23
i隈町会49
i24
生協 i50
i25
51 銀行 i26
52* i 〃
i
53
木材業i 〃年表1 水量増加運動の経過
○日田市側の動き、○大山側の動き、☆九電・建設省の動きとトピック
1998.5.16
5.29 5.
6.3 7.6 7.7 7,17
8 9
9.10
9.2 5
9.29
IO.12
12.10 12.22
1999.1.22
2.5
2.9
2.12
1t
2.17 2.25
2.26
1t
3.24 3.26 3.31
*実行委員会立ち上げの準備委員会・事務局体制の確立
○準備委員会から、 「三隈川の水量増加推進実行委員会」発足
○「三隈川の水量増加推進実行委員会」、市議会・市へ協力要望書提出
●大山町森と水のふるさとづくり推進会議設立総会
☆筑後川水系ダム群連携構想が新聞報道される
⑪「大山川の水量増加署名実行委員会」を発足
◎「大山川の水量増加の署名実行委員会」、町議会へ支援要望書提出
○日田市中央公民館にて「地域主権フォーラム 98」開催〈資料4参照〉
⑫「大山川の水量増加署名実行委員会」による署名活動
○「三隈川の水量増加推進実行委員会」による署名活動
⑬「大山川の水量増加」決起集会(小学4年生以上3,386名署名86%)
○日田市議会、三隈川の水量:増加を求める決議
○「三隈川の水量増加」を求める市民総決起集会(参加者約1400名、小学 5年生以上 40,681名署名 72%)
○⑭両市町、要望書提出(筑後川工事事務所)
○鯵 〃 (九州地方建設局・九州通商産業局・九州電力)
○醗 〃 (建設省本省・通商産業面本省)
○⑭ 〃 (大分県知事)
⑭大山町、水資源環境保護条例を制定(大山町水資源環境対策協議会設置)
○⑳筑後川水資源対策特別委員会(議員、事務局、総務部長、企画課長)
○森と水の対策室長、九州電力日田座面所訪問(大山川ダムの実情調査)
○鯵日田市・大山町議会の筑後川水資源対策特別委員会による対県要請 (県提案:流量の検討会(勉強会)を発足したどうか)
○企画課長・森と水の対策室長、玖珠町・九重町に要請(①水量増加問題 で協力要請、②猪牟田ダム建設問題の現状把握、③今後の連携模索)
○鯵大分県、日田市、大山町、三者会議
○「三隈川の水量増加推進実行委員会」、九電本社・筑後川工事事務所へ 水量増加の要請行動の協議
○㊧筑後川工事事務所との協議(工事事務所、大分県、日田市、大山町)
○⑱両市町の実行委員会・推進会議、九州電力本社へ水量増加の要請行動
(日田=常に自然の状態で流れる水量の半分以上は、その河川に流さねばならない)
(大山=大山川の平常時の最低流水量は10トン/s以上を確保すること)
○◎第1回大山川・三隈川流量検討会(大分県・日田市(議会)・大山町 (議会)・三隈川実行委員会・大山川推進会議)
☆九州電力、筑後川工事事務所に柳又発電所の水利権更新の申請
○●流量検討委員会・作業部会、ダムからの試験放流を協議
○◎九州電力日田電町所との協議(特質所:放流は困難)
☆九州電力柳又発電所の水利権許可期限(30年前申請分)
一 16一
地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
1999.5.11
6.1
6.18 7.13
7.28 8.2
8,16
i 12.14
; 2000.3.15
OO九地建・筑後川工事事務所・大分県・日田市・大山町、今後の増量問 題の対応について協議
○④第2回大山川・三隈川流量検討会(両市町の関係施設を視察)
○●三隈川実行委員会・大山川推進会議、筑後川項事務所に要請行動
☆大分県議会一般質問で、阿部議員が三隈川の流量増加について知事へ質 問(知事:九電との協議を30年スパンから10年として要望したい)
○日田市議会水資源対策特別委員会
○「水の講演会」開催(現代の水問題と流域社会の在り方)
○●第3回大山川・三隈川流量検討会 s
☆建設省・九電・両市町長・三隈川実行委員会・大山川推進会議の間(10 名)で「三隈川・大山川河川環境協議会」 (会長:平野宗夫九大名誉教 授)水量増加問題について初協議
s
☆協議会、最終合意
の過程に着目してみると、当初JCは、市民アンケート調査で水環境への危惧を知りつつも、 JCメ ンバーの思いから地球環境問題の講座を開き、日田市の現実から出発しない学習は行き詰まってし まっている。その行き詰まりの状況に道を切り開いたのが、柳川市の取り組みに学んだ経験である といってよい。
柳川の取り組みは先述したように、要求や課題のするどさだけでせまるのではなく、人間らしさ を賭けた価値観まで問う取り組みであり、その後の水環境ネットワークセンターの取り組みをみて もわかるように、まず日田の現実を見つめ直すことから始めている。それは川から離れた日田の子 どもたちゃその家族に川に親しむ機会をつくること、川の源流まで遡り上流域に広がる広大な杉林 の存在とその歴史、及び現代の山の労働の現実についての認識をつくることなど、日田に生きる人 間の育成をめざして行われてきたといってよいであろう。
そして、水質をはじめとする水環境の科学的な調査も実施している。そのとき、第2に着目すべ きは、その活動は、水環境ネットワークセンター会員の課題認識の深化をうながすだけでなく、団 体間のネットワーク形成をもにらんだ調査が行われてきたこと、また、それにより流域個々の団体 の抱える課題が流域全体の課題として広がりをみせる点である。それは、上流地域の廃油からの石 鹸づくりから水質向上をめざす活動、大分県の日出生台の基地問題、森林の自由化問題、流域の水 利用と都市のあり方、市民エネルギー開発等、水を通して地域と世界を結ぶ体系的な課題認識を通
して、精一杯「考え得る限り」の筑後川再生計画をつくることにつながったのである。
筑後川再生計画は、詳細な流域の課題を科学的データも踏まえて再生の課題を提起しており、こ のことから、住民の懐古主義の感情から要求を創り上げる運動ではなく理性的な運動を形作ること ができたといえる。しかし、日田市民・大山町民が動き出したのは、計画に示された流域の課題に
意識が揺さぶられたからというわけではない。それは「自然流量の半分を自然に流す」という要求 が、諌本氏が「自己の大量生産・大量消費生活を問い直す運動である」と定義づけたように、それ ぞれの市民の中に、まず自己の生活と自然との関わりに関する自覚を促し、その自覚を通して連帯 感を築き、「自分が今後どのような地域でどのように生活していくのか」という問いとして返って くることにあったと思われる。それは、すなわち、日田市民・大山町民として何をしなければなら ないかを考え、行動する日田市民・大山町民のまとまりの意識であり、そのとき「斜なる自然」の 実現に向けて人々が動き始めたといえる。
(1)保母武彦「地域住民による河川管理」木佐茂男・五十嵐敬喜・保母武彦編著r地方分権の本 流へ現場からの政策と法』日本評論社1999年
(2)同研究会編著「パートナーシヅプによる河川管理の在り方に関する提言」リバーフロント整 備センター 1999年
(3)前掲(2)p.1 0 この提言では、「住民」と「市民」について、前者を「地縁的に結ばれた住 民」「直接的な利害を有する住民」(自治会や漁業関係者等)、後者を前者も含む「参政権を 持つ国民」という意味で解釈し、市民という語を用いている。
(4)足立敏之「河川行政と市民との連携」第7回九州水環境交流会in北川実行委員会r来て・見 て・学ぼう!日本一の いい川づくり 』2000年p.5 7−5 8
(5)宮本憲一r環境経済学』岩波書店1989年p.121
(6)大熊孝rローカルな思想を創る』内山節・鬼頭秀一・大熊孝・木村茂光・榛村純一共著農山 漁村文化協会1998年p.112〜114
(7)南里悦史「住民参加と社会教育計画づくり」藤岡貞彦編r社会教育の計画と施設』日本の社 会教育第24集東洋館出版社p.143
(8)内山節「新しい時代にむけて新しい思想を」前掲(6)p.10−11
(9)広松伝rミミズと河童のよみがえり』河合文化教育研究所1987年
(10)光岡明r柳川の水よ、よみがえれ』講談社1985年p.140
(11>西日本新聞2000年3月16日
(12)「蜂の下城」とは、室原知幸をリーダーとした小国町志屋地区周辺住民が、昭和28年の筑後 川中・下流域の激甚な水害経験から計画された下笙(松原)ダム建設に抗するために、調査 地地点である「蜂の巣岳」斜面に建てた防衛施設。闘争の詳細な研究に、下上・松原ダム問 題研究会r公共事業と基本的人権一国の巣城紛争を中心として一』(株)帝国地方行政学会 1972年、関西大学下篁・松原ダム総合学術調査団r公共事業と人間の尊重一下篁・松原ダ ム建設と蜂の巣城紛争を中心として一』ぎょうせい1984年
(13)松下竜一r砦に拠る』筑摩書房1977年p.9 5−9 8
(14)富山和子r水の文化史』文藝春秋1980年p.207−213
一 18 一
地域水環境保全への合意・参画をつくる学習活動
(15)阿津坂芳徳「筑後川フェスティバルと流域住民」r地域経済の視点一筑後川流域圏の経済社 会と住民生活』九州大学出版会p.122−123大川市青年会議所青年部は、大川産業活性化推 進協議会発後、1987年に流域住民に呼びかけ「筑後川フェスティバル」を開催(現在も流 域持ち回りで続く)。会発足について「ダム建設などで… 筑後川流域の人々との交流も 失われていった」ことが切実と語られている。
(16)筑後大堰建設差止訴訟支援の会r筑後川を流域住民の手に』1986年 筑後大堰建設にとも なう大導水事業によりアオ取水の廃止が進めらることとなった。
(17)前掲(15)p.217
(18)室原知幸r下篁ダムー蜂の巣城騒動日記一』学風社1960年p.119−125 その後さらに北 部九州の大都市の水利用をねらい、九州・山口経済連合会長を中心とする「北部九州水資源 開発協議会」による「筑後川水系水資源開発基本計画」(1966年)、筑後川をはじめとする 北部九州の河川の水を利用するために策定された「筑後川水系水資源開発構想」(1969年)
ができることで、筑後川から遠く離れた大都市、福岡市・北九州市の思惑が絡み、地域間の 複雑な対立の様相をみせてきた。
(19)前掲(13)p.34
(20)前掲(13)p.332−333 闘争終焉期においても下流との対立関係は続いた
(21)宮本憲一r恐るべき公害』岩波新書1964年
(22)石川徹也rルポ・日本の川』 緑風出版p.175−176
(23)関西大学下図・松原ダム総合学術調査団前掲(12) p.307−314 ここに住民の水問題に対 する態度が詳細に記されている。
(24)男帯憲司氏聞き取り2000年9月3日 於ビジネスホテル・カネセン(日田市)
(25>r広報ひた』1971年2月号no。44 「柳又発電所問題」を特集している。
(26)関西大学下押・松原ダム総合学術調査団前掲(12)p.307
(27)財津忠幸氏聞き取り2000年9月4El そのような動きは、「市の職員といっても出向職員、
思い切ってやるんだ」という氏のパーソナリティによるところが大きい。
(28)千本憲司同上聞き取り(24)
(29)木原敬吉r暮らしの環境を守る』朝日新聞社1992年p.125−126
(30>日田市民セミナー紫明庵r筑後川水環境マップ』no.42000年
of Recovery of Water−Environment in a Citizen afiong a Basin
NAGAO Hideyoshi
This paper mainly concerns a citizen along the Mikuma and Oyama River in the upper stream of Chikugo Rjver in Kyushu, aRd their actions to recover and retain water−envi−
ronment along both of the rivers. ln the course of this paper, 1 would investigate a his−
torical process of those actions, and clarify its educational empowerment and its con−
struction to create a basic c}rcumstance of those actions in the course of the history. By so doing, a process of making a subject in a scheme of recovery of water−environment would in effect come in sight.
In Japan, the goverRment to aim at the formation of the rich society materially have managed and developed watewr−resources of a basin from 1950 s. On the other hand,
the system that lnhabitants manag water−resources independently have been destroyed by the govenmental management, and they have come to depend on that.
In this meaning, those actions would be remarkable mainly in the respect that those are oriented not by the government but by the citizen depended on their own water−environ−
ment ideal. Taking their actions, especially focused on Hachi−no−su Jyou : a beehive
castle in the history as a example, those actions would show us the most significant aspect in environment−lerning focused upon these days.
一 20 一