奈良学ナイトレッスン 第 11 期 ユーラシアから大和へ―時空を超えた祈りの旅
~第三夜 ユーラシアの終着駅へ─東大寺コスモロジー大仏~
日時:平成 26 年 3 月 26 日(水) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:菊地章太(東洋大学教授) 内容: 1.宇宙を統括する仏さま 2.初めて作られた釈迦像 3.千百憶の世界に千百憶人のブッダ 4.大仏、日本上陸 5.8世紀の奈良は国際都市だった ※実際の講座では、[]のスライドを映写しました。 1.宇宙を統括する仏さま サブタイトルのコスモロジーは宇宙論という意味です。宇宙論大仏。あの奈良の大仏は、サイズ が桁外れなだけでなく、担っている意味もとてつもなく壮大です。大宇宙を包括する存在として造 られているのです。仏教の理念にもとづいてユーラシア・スケールで宇宙論ブッダが造られ続けて きました。それが東アジアまで来ると、本来の宗教的な理念にさらに新たなものが加わります。こ の現実の世界に君臨する帝王の姿が、宇宙を統括するブッダの姿に重ねあわされます。そしてその 二重の意味を担ったブッダ像が、日本にもたらされました。それがあの奈良の大仏です。 東京に国分寺市があります。かつて武蔵国分寺が置かれていたところです。武蔵の国だけではあ りません。天平13年、西暦で741年に、聖武天皇が「国分寺建立の詔」を発せられた。当時の 日本の行政区画では、今の都道府県にあたるのは「国」と呼ばれていました。武蔵国、相模国、下 総国などご存じのとおりです。その国ごとに国分寺を建てさせました。その総元締めが奈良の東大 寺です。まさに全国を統括する寺であり、そこにある大仏が宇宙を統括する仏であることと対応し ています。 ユーラシアにおける壮大な大仏造営事業の最後を飾るものとして奈良の大仏が造られました。ま さしくユーラシアの終着駅としての奈良に他ならないわけです。[1.大仏殿 東大寺] 東大寺の大仏殿の上部正面には、大仏の顔が見える窓があります。年に何回か開きます。正月の 元日の朝、それから盂蘭盆(うらぼん)の最終日、8月15日の万燈供養会の夜です。東大寺の万 燈供養は奈良時代から続いている大事な法会です。 [2.ヴァイシャリー、ビハール] ユーラシアの一番東にある私たちの国まで仏教が伝わりました。その間に広大な大陸で仏教その ものが大きく変化しました。新しいものが加わったり、まったく塗りかえられたものもあります。 もちろん変化しないものもたくさんあります。それは仏教の教えだけではなくて、仏像の姿かたち についても同じです。行きついた先の奈良の大仏を理解するために、インドまでさかのぼって考え てみたいと思います。 [3.ガンジス ヴァラーナシー] 私たちの体は死んでも心は死なない。別の命に生まれ変わる。そうインドの人々は考えました。 死んでは生まれ、生まれては死ぬ。あたかも輪が廻るように、生と死を繰り返していく。輪が廻る と書いて輪廻(りんね)と言います。この輪廻の繰り返しは、楽しいことか、それとも苦しいこと か。インドの人々は、それは苦しいことだと考えました。私たちは何か良いことをすれば、必ずい つか良いことがある。けれど何か悪いことをすれば、必ずいつか悪いことがある。原因があるとこ ろには必ず結果がある。原因の因に、結果の果と書いて因果と言います。行なったことの結果は、 今生きている間に実現しなくても、いつか必ず実現する。なにしろ生と死を繰り返していくのです から、その幾度か目の生まれ変わりの時に、良いことの結果なり、悪いことの結果は必ず現れる。 因果の法則が成就するわけです。 良いことをしたいのはやまやまですが、生きていくことは数限りないほど悪いことを積み重ねて いくことに他ならない。罪を作らずには生きていけない。それがこの世の中であるとしたら、そう いう世に生まれ変わりを繰り返さねばならないことは、苦しみ以外の何ものでもない。インドの 人々はそう考えました。 [4.ブッダ像 ガンダーラ出土] 今から2500年前に、インドの北、今のネパールとの国境のあたりにシャカ族の国がありまし た。その国にゴータマ・シッダールタという王子がいました。シャカ族の王子なので、私たちはお 釈迦様と呼んでいます。
釈迦は家を継がずに家を出た。家出した。仏教では出家と呼びますが同じ事です。家を出て修行 した。そして真理にめざめました。この世にあるすべてのものは過ぎゆく。これが、釈迦がたどり 着いた真理にちがいありません。そんなむなしいだけの世の中にいつまでもしがみついているから、 生と死の繰り返しから抜け出ることができない。生きることへのこだわりから完全に解放されれば、 もはや二度と生まれ変わることがなくなる。それがめざすべき理想の境地です。 めざめた人のことをインドの言葉でブッダと言います。釈迦はめざめた人となった。ブッダとな った。日本の仏教では「悟りを開く」という言葉を使いますが、本来の意味は「めざめた人」にな るということです。 [5.ダルマラージカ ガンダーラ] さっきから身も蓋もないことを言っているように聞こえると思います。世の中にいつまでもしが みついているからいけない。こんなことは日本のお坊さんは言いません。日本の仏教はインドの仏 教とは似ても似つかないほどに変わってしまったからです。 釈迦が亡くなって最初に書かれたとされる経典、マハー・パーリニッバーナ・スッタンタの中に、 釈迦が亡くなる直前に、つまり臨終の枕元で弟子たちに語った言葉が記されています。それは「す べてのものは過ぎゆく」という言葉です。これは臨終の言葉ですから、弟子たちにとって最も重い 言葉であったはずです。釈迦がたどり着いた境地とはこれでした。釈迦がめざめることのできた真 理とはこれでした。 輪廻の苦しみから解放されるためのその教えが、やがてインドから外の国々にも伝わっていきま す。仏教はまず西アジアに伝わります。今のパキスタンとアフガニスタンの北部にまたがる地域、 かつてガンダーラと呼ばれた場所です。 2.初めて作られた釈迦像 [6.仏伝 ガンダーラ出土] インドの人々は釈迦が亡くなってからしばらくの間、釈迦の姿を絵や彫刻に表すことはしません でした。 釈迦はキリストのような神様ではありません。私たちと同じ人間ですが、私たちが到底たどり着 くことのできない境地にたどり着きました。私たちがめざめることのできない真理にめざめてブッ ダとなりました。そのブッダを、めざめていない私たちが絵や彫刻に表すことはできない。少なく とも釈迦が亡くなって500年もの間、人々はブッダの姿を形にしませんでした。 ところが亡くなって500年ほどたって、このガンダーラの地で釈迦の像が初めて造られるよう になります。釈迦は普通の人間ですから、普通の人間と同じ背丈で表されています。最初は釈迦の
生涯の場面が表現されました。この浮彫は寺院の階段の蹴込みに彫られています。お寺の本尊のよ うな礼拝するための像として造られたのではありません。 [7.ジャータカ ガンダーラ出土] また、釈迦の生涯の場面だけではなく、釈迦の前世の物語も表現されるようになります。 はてしなく遠い過去のことです。釈迦は前世にスメーダという名の男でした。真理にめざめてブ ッダとなった人が間もなくここにやって来るというので、町の人々は水たまりを土で埋めていまし た。そこへディーパンカラという名のブッダが現れました。まだ道はぬかるんでいます。そこでス メーダは自分の髪の毛をほどいてブッダの足が泥で汚れないようにしました。それを見たブッダが スメーダに、いつかあなたは未来に生まれ変わり、真理にめざめてブッダになるだろうと予言しま した。そういう物語の場面です。 ここに出てくるブッダは釈迦ではありません。釈迦よりはるか以前にブッダとなった人です。た だどんなブッダといえども普通の人間です。スメーダも普通の人です。子どもだったわけではない のに、ここには大人と子どもくらい背丈が違った人物が表されています。私たちとは違う偉大な人 物を巨大な姿で表した。つまり質的な大きさの違いを量的な大きさの違いに置きかえて表したとい うことができます。 [8.大仏 バーミヤン石窟] アフガニスタンのバーミヤンには、高さ約53メートルの巨大なブッダの像がありました。偉大 なブッダを巨大な像で表す。いったんそうした表現が始まると、そのスケールはとめどなく増大し ていきます。この仏像は2001年にタリバンによって破壊されてしまいました。 [9.クーポラ壁画 カクラク出土] バーミヤンのすぐ近くにカクラク渓谷があって、ここにも巨大なブッダ像がありました。これも 破壊されています。岩をドームのように刳りぬいたところに壁画がありました。それを壁面から剥 がしたものが、今はパリのギメ美術館にあります。 中央にブッダが座っており、その周囲に同じようなブッダの姿がいくつか表されています。先ほ どの釈迦の前世の物語の中に、釈迦とは別のブッダが登場しました。それは遠い過去のことでした。 私たちの世界とは別の、遠い過去や遠い未来の世界にまた別のブッダがいるという考えが生まれて きます。そうした何人ものブッダを表したものです。仏教が西アジアに伝わると仏教の思想も仏像 も変わっていきます。
[10.チャール・タグ キジル] 仏教はやがて西アジアから中央アジアへ伝わりました。気候も風土も異なる場所に仏教が伝わっ たのです。仏教の思想も仏像もさらに変質をとげます。ここは砂漠地帯ですから、巨大なブッダ像、 つまり大仏は造られませんでした。もしかしたら造られたのかもしれませんが、残っているものは ありません。けれども大いなるブッダの姿はまた別の表現の仕方によって盛んに造られていきます。 [11.ヴァイローチャナ バラワステ出土] 中央アジアのバラワステにあった仏教寺院の壁画にあるブッダの像は、大きさは80センチメー トルほどの小さなものです。人の大きさほどもない。けれども描かれているのは、やはり大いなる ブッダです。 向かって左の肩のところに光輝くものが描かれています。右の肩には三日月の形ですから、太陽 と月が描かれていることになります。胸に描かれているのは、水晶や宝石などの鉱物、おなかのと ころに馬、腕には葉が描かれている。このブッダは体の中に天体と動物と植物と鉱物を取りこんで います。つまりこの世界に存在するあらゆる種類を包括したブッダということになります。ですか らサイズは小さくても、意味するものは巨大なブッダなのです。宇宙を包括するコスモロジカルな ブッダです。このブッダをインドの言葉でヴァイローチャナと呼びます。 ヴァイローチャナは「輝くこと」という意味です。太陽が光を放つことです。この音を漢字で写 して毘盧舎那(びるしゃな)。それに仏をつけて毘盧舎那仏。毘を略して盧舎那仏とも呼びます。 東大寺の大仏がまさしくこの盧舎那仏です。盧舎那仏、ヴァイローチャナについては『華厳経』と いう経典にくわしく説かれています。400年代の初めに中国に伝わって漢文に訳されました。太 陽の光がすべてのものを照らすように、ヴァイローチャナの光があまねく世界を照らす。そういう コスモロジカルなブッダが考え出されたわけです。 [12.ヴァイローチャナ キジル石窟] キジルの石窟寺院にあった壁画です。ブッダの体の中に小さなブッダがたくさん描かれています。 実際の壁画の大きさは150センチメートルほどですから、人の背丈より少し小さいくらいです。 ですが、ここで大事なのは、あらゆる世界にいるブッダを体の中に包括していることです。だから こそ大いなるブッダなのです。 3.千百憶の世界に千百憶人のブッダ [13.ヴァイローチャナ タイタイル石窟]
キジルの近くにあるタイタイル石窟の壁画です。ブッダの後ろの光背に小さなブッダが描かれて います。これは『華厳経』にもとづくヴァイローチャナの姿です。ヴァイローチャナの体の毛穴か ら、その化身であるブッダが雲のように現れると書いてあります。この絵はそのイメージにもとづ いています。これが中国で造られ、さらに日本で造られた盧舎那仏の像につながっていきます。 [14.千仏 キジル石窟] 同じくキジル石窟の壁画です。仏教ではあらゆる世界にブッダがいると考えます。たとえば西方 十万億土の彼方に極楽浄土があって、そこに一人のブッダがいる。それが阿弥陀如来です。薬師如 来でしたら東方瑠璃光浄土のブッダということになります。私たちのこの世界にもブッダが一人い る。今から2500年前、インドにお釈迦様が現れ、真理にめざめて(つまり悟りを開いて)ブッ ダになった。私たちの世界には釈迦ブッダがいるわけです。しかし私たちの住むこの世界だけが世 界のすべてではない。世界は他にもたくさんある。仏教では三千大千世界と言います。その三千大 千世界の一つ一つにそれぞれブッダが一人ずついると考えます。 さてその三千大千世界とはいったい何か。世界が三千あるなどという小さな話ではありません。 インド人が考える世界のスケールはすこぶる壮大です。私たちが住む世界とは別の世界が千個ある。 それを小千世界と言います。その小千世界がさらに千個ある。それを中千世界と言います。この中 千世界がさらにまた千個あってそれを大千世界と言います。この大千世界は千の世界を三回集めた ことになります。大中小の三段階の千の世界から成り立っているので三千大千世界と呼ぶわけです。 つまり三千大千世界とは、1000×1000×1000で10億の世界があることになります。 掛け算をすれば全部で10億ですが、仏教では千百憶の世界と言います。そしてその千百憶ある三 千大千世界のそれぞれにブッダが現れて教えを説くと考えます。このキジルの壁画は、その三千大 千世界のブッダを描いたものです。 [15.中央アジア石窟地図] 中央アジアは内陸の砂漠地帯ですし高い山もあります。山のふもとや砂漠の縁に道ができます。 ヒマラヤの北、タクラマカン砂漠の南に西域南道が通っています。先月の講座で出てきたコータン はその道沿いにあるオアシス都市です。天山山脈の南には天山南路があり、キジルはその道沿いに あります。中国に入るには関所を通らなければなりません。敦煌(とんこう)はその手前の町です。 今からお話しする大仏の造られた石窟寺院はいずれも北中国にあります。この時代、中国は南北 に分裂していて、北半分に北魏という国がありました。やがて北魏は東西に分裂し、そのあと隋が 中国をふたたび統一します。
[16.嘉峪関 甘粛省嘉峪関市] 嘉峪関(かこくかん)には14世紀の明の時代の望楼(ぼうろう)という見張り台があります。 大平原のどこを通ろうとかまわない気がしますが、実はたいへん厳重でした。望楼を数百メートル ごとに設けて兵士を駐留させます。望楼と望楼の間には一定の幅にわたって砂をならしておく。兵 士は毎朝そこをパトロールします。足跡を調べて侵入者がいないかどうか調べて役所に報告する。 もしも異民族が大挙して侵入したなら、ただちにのろしをあげて、望楼から軍事基地へと伝達しま した。漢の時代、今から2000年前からそのように行なわれてきました。 [17.露座大仏 雲崗石窟] 万里の長城が匈奴(きょうど)の侵入を防ぐために造られたことはご存じのとおりですが、広大 なユーラシア大陸にはさまざまな民族が興亡を繰り返してきました。 中国という言葉は2000年以上前からあります。真ん中の国という意味です。中国人つまり漢 民族は、自分たちが世界の中心にいて唯一文化を有していると信じてきました。中華という言葉は それを意味します。その中華の国の周辺にいる異民族は文化を持たない劣った民族であると見なし てきた。彼らにとって日本もその一つであることは言うまでもありません。ところがその異民族が 中国を征服した時代が歴史上何度かあります。モンゴル民族の元や満洲族の清がそれにあたります。 今からお話しする5世紀以後の、南北朝時代の中国でも、中国の北半分に異民族が侵入してきて征 服王朝があいついで交代しました。 その一つ鮮卑(せんぴ)族の拓跋(たくばつ)部が北魏を建国しました。言語の系統からいえば トルコ系の民族です。中国のはるか北西を馬で駆け抜けていた民族が中国に侵入して王朝を建てた。 実はこの王朝は日本の仏教を理解するうえで唐に優るとも劣らないほど重要です。中国が南北に分 かれ、分かれた中でまたいくつもの王朝が興亡した。そういう混乱の時代です。かえってそうした 混乱の時代だからこそ、そこからさまざまな新しい動きが始まりました。それが萌芽となって、は るか東の国へも伝わっていくわけです。 北魏は平城(現在の大同)に都を定め、その近くに雲崗(うんこう)と呼ばれる石窟寺院を開き ました。そこに巨大な大仏を5体も造りました。石窟寺院ですから岩を刳りぬいて、その中に仏像 を造ったのですが、第20窟だけは岩が崩れて仏像が露出しています。北魏の第5代皇帝の時代、 西暦460年から雲崗石窟の造営が始まっています。西アジアで造られ、中央アジアで変質した巨 大なブッダの像が、中国の異民族王朝のもとで復活したのです。
[18.弥勒像 雲崗石窟] 5体の大仏は歴代の5人の皇帝になぞらえて造られています。これは西アジアにも中央アジアに も例のない発想です。ここで大仏造営に新たな要素が加わったことになります。5体のうち2体は 結跏趺坐(けっかふざ)像、2体は立像ですが、第17窟の像は交脚像です。高さは約15メート ルあります。交脚像は第1回の講座で話した通り、弥勒を表しています。これは中央アジア以来連 綿と続く伝統です。この交脚像は現在の皇帝になぞらえていると考えられています。弥勒がこの世 に現れるのは途方もなく先のはずですが、今やこの地上に現れて、理想の君主となって人々を導く。 そういうきわめて政治的な発想にもとづいています。 [19.盧舎那仏 雲崗石窟] 第18窟の立像の高さも、やはり15メートルあまりです。衣に模様のような無数のブッダの姿 が刻まれています。まぎれもなく三千大千世界のブッダです。キジルの石窟の壁画と同じ、体の中 に三千大千世界のブッダを包括する盧舎那仏が、ここでふたたび現実のスケールにおいても巨大な 姿で表されたことになります。 [20.盧舎那仏 龍門石窟] 北魏王朝はやがて都を平城からずっと南の洛陽に移します。そこはかつて漢王朝の都があったと ころです。その洛陽の都の近くに龍門石窟が開かれます。その造営は北魏時代から隋をへて唐にま で及びます。 龍門奉先寺洞(ほうせんじどう)にある高さ約17メートルの盧舎那仏が造られたのは唐の第3 代皇帝の時代、675年のことです。盧舎那仏は先ほどもお伝えした通り宇宙に君臨し、世界のす べてのブッダを統括する存在です。唐王朝の皇帝は、これまた世界の中心であるところの中国に君 臨し、周辺世界のすべての国々を統括する存在です。こうして盧舎那仏の宗教的意味に政治的意味 がオーバーラップしていきます。中国ではどんな宗教も政治の下に従属せざるを得ませんでした。 [21.大仏 炳霊寺石窟] 龍門の大仏が7世紀の末に造られました。それから東アジアでは大仏ブームが始まります。黄河 の上流にある炳霊寺(へいれいじ)の大仏は、川を臨む岸壁に彫られた高さ27メートルの像です。 造立は龍門よりはずっと後の時代になります。
[22.大仏 敦煌莫高窟] 炳霊寺は黄河の上流ですから、都の長安のずっと西ですが、そのさらに西、中国の西のはずれの敦 煌(とんこう)でも大仏が造られます。唐の開元年間に造られたことが史料から明らかです。西暦 にすると713年から741年にあたります。 [23.千仏 敦煌莫高窟] 敦煌石窟の天上には三千大千世界のブッダがひしめきあうように表現されています。敦煌石窟は 莫高窟(ばっこうくつ)という名で呼ばれますが、俗に千仏洞(せんぶつどう)とも言います。千 のブッダがいる洞窟ということですが、実際は千どころではありません。そこに巨大な仏像が造ら れた。こうした大仏造営の波は、中国の中心から周辺へと同心円の輪のように広まっていきました。 それが中国の西のはずれの敦煌にもたらされた。そして、それは東のはずれの国にももたらされま す。 4.大仏、日本上陸 [24.盧舎那仏 東大寺] 敦煌で大仏が造られたその数十年後の752年、中国からさらに東の日本において巨大な盧舎那 仏の像が造られました。しかも、最初にお話した通り聖武天皇は全国に国分寺を造らせた。その諸 国の国分寺の総元締めである総国分寺を平城京に建立させます。それが東大寺であり、その寺にこ の盧舎那仏の像が造られたわけです。 [25.山城国分寺跡 京都府加茂町] 聖武天皇による国分寺建立の詔(みことのり)は、天平13年(741)に発布されました。国 ごとに僧寺と尼寺を造らせる。僧寺の名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうご こくのてら)」とする。尼寺の名は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」とする。そこではそ れぞれ『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』と『法華経』が読まれました。 国ごとに寺を建てて経典を読ませる。これは中国に先例があります。龍門の大仏ができたあと、則 天武后(そくてんぶこう)が西暦690年に州ごとに大雲寺を建立させ、そこで『大雲経』を読ま せています。その50年後に日本で同じことが行なわれたわけです。 [26.金光明最勝王経 奈良国立博物館] 奈良時代の仏教にとって最も大事な経典のひとつが『金光明最勝王経』です。この経典が読まれ るところでは四天王が国土を守護し、国王を助け、隣国の侵入を防いで、国に安泰をもたらすと説
かれています。紺紙金字の経典が聖武天皇みずからの手で写経されて、それが諸国の国分寺に配布 され、寺ごとに建てられた七重塔に収められました。さらにこの経典は宮中の法要で読まれ続けて きました。 [27.西大門勅額 東大寺] 東大寺の西大門は、現在はありませんが、ここに掲げられていた額が残っています。それが「金 光明四天王護国之寺」の額です。『金光明最勝王経』の功徳により、四天王が国を護る。これが東 大寺の正式名称でした。諸国の国分寺統括の総本山であった東大寺の盧舎那仏は、三千大千世界の すべてのブッダを統括し、宇宙に君臨する存在です。ではその三千大千世界のブッダはいったいど こにいるのか。 [28.盧舎那仏蓮弁 東大寺] 東大寺の大仏は巨大な蓮の台(うてな)、つまり蓮の花の台座の上に座っています。その周りを 蓮弁が取り巻いており、表面に絵が彫られています。大仏そのものは何度もの火事や地震で倒壊し ました。天平時代に造られた頭や胴体はほとんど残っていませんが、この蓮弁だけは当初のものが 半分ほど残っています。ブッダの顔も体も丸味があります。今の大仏の顔とはかなり雰囲気が違い ます。今見るような角張った顔は江戸時代に造り直されたものです。 [29.盧舎那仏蓮弁(図様)] 蓮弁には三千大千世界を統括する盧舎那仏の理念が『華厳経』にもとづいて描かれています。周 囲を険しい山に囲まれた海の中に巨大な蓮が生えている。その蓮弁の一枚一枚にひとつの世界が描 かれていて、その中央にそびえる山の上は、いくつもの天につらなっています。それが何層もの線 で表されています。その蓮の上に一人ずつブッダがいて教えを説いている。頭の上には雲が湧きだ して、化仏(けぶつ)を乗せて世界のすみずみに行きわたっている。銅でできた蓮弁にいくつもの 世界のブッダが描かれていて、その蓮弁の上にあの大仏、つまり盧舎那仏が君臨するという構造で す。これこそ三千大千世界を統括する宇宙論ブッダということになります。 [30.信貴山縁起絵巻 奈良国立博物館] 東大寺の大仏の理念は『梵網経(ぼんもうきょう)』にもとづくと言われます。ですが『梵網経』 というのは戒律を説く経典であって、盧舎那仏を説くために作られた経典ではありません。鑑真和 上が日本に来てから俄然重要視されますが、それは開眼供養の翌年のことです。大仏造立の根本に
『梵網経』があったわけではありません。ユーラシアでは一貫して『華厳経』が盧舎那仏を説く根 本経典とされてきました。 『信貴山縁起絵巻』の一場面に、平安時代の東大寺のようすが描かれています。大仏の光背には ところせましとブッダの像がならんでいます。盧舎那仏の毛穴から、盧舎那仏の化身であるブッダ が出現した姿です。現在の光背は江戸時代に造り直されていますから、この絵に描かれているのが、 もともとの光背のありさまです。ユーラシアで造られたのと同じ『華厳経』にもとづく盧舎那仏で あったわけです。 5.8世紀の奈良は国際都市だった [31.大仏殿修理落慶法要 東大寺] 昭和52年に大仏殿の修理が終わり、落慶法要が行われました。奈良時代の大仏が完成したとき の開眼供養は、天平勝宝4年(752)に行なわれました。空前絶後の大法会です。内外から一万 もの僧侶が招かれ、天皇以下、百官百寮が参列し、あまたの舞楽が奉納されたとあります。開眼の 導師は天竺つまりインドから日本へ帰化したボディチェナです。漢字で菩提僊那(ぼだいせんな) と記されています。 [32.伎楽面 東大寺] そのとき舞楽が奉納されました。その時の伎楽面が東大寺に残っています。倭舞(やまとまい) と並んで、「唐古楽」「高麗(こま)楽」「林邑(りんゆう)楽」の名もあります。大唐は中国の唐 王朝、高麗は高麗(こうらい)のことです。当時の朝鮮半島は統一新羅王朝ですがこの名で呼んで います。林邑はベトナムです。導師はインド人、舞楽は中国・朝鮮・ベトナム。まさしくユーラシ ア・スケールの一大イベントでした。8世紀の日本はすでにインターナショナルだったのです。 [33.東大寺大仏縁起 東大寺] 室町時代に描かれた開眼供養のようすを見ると、大仏の全身が金色に耀いています。奈良時代に は大仏の全身が金に包まれていました。ですが全身に金をめぐらす作業は、実際には開眼供養の時 点ではまだ始まって2カ月しかたっておらず、おそらく顔が金色になっただけでした。それから台 座の蓮の蓮弁も着工したばかりで、その完成は4年後です。光背に至っては、完成は20年近くあ とのことになります。 つまりこの開眼供養の日には、この絵のありさまとはまるで違って、まだ大仏は完成にはほど遠 かったわけです。にもかかわらず開眼供養を挙行した。それは天平勝宝4年、752年に是が非で も行なわねばならない理由があったからです。
[34.上宮聖徳法王帝説 知恩院] 私たちは仏教伝来と言えば西暦538年と学校で習います。これは『上宮聖徳法王帝説』にもと づいています。しかしこの説が採用されたのは近代になってからです。それまでは『日本書記』に もとづいて仏教伝来は552年とされていました。つまり開眼供養の年752年はまさに仏教伝来 二百周年だったのです。 [35.盧舎那仏 唐招提寺] 日本には盧舎那仏の大きな仏像がもうひとつあります。それがこの唐招提寺金堂の本尊です。光 背までの高さは7メートルあります。光背を見ると、小さな無数のブッダの像がひしめきあうよう に並んでいます。盧舎那仏の毛穴から、盧舎那仏の化身であるブッダが出現した。これまた『華厳 経』にもとづく盧舎那仏の姿です。 [36.盧舎那仏と蓮弁 東大寺] 東大寺の大仏は、この大宇宙に千百憶いるブッダの総元締めということになります。たとえばこ んなふうに想像できます。太陽系に地球がある。この地球に釈迦が生まれ、真理にめざめてブッダ となって、人々を教え導いた。それと同じように、銀河系には太陽系と同じものが千個あって、そ こに地球と同じような星があって、釈迦と同じような人が現れ、真理にめざめてブッダとなって、 人々を教え導く。そしてその銀河系のようなものがこの大宇宙にさらに千億とある。そしてそのす べてを統括するブッダがいる。それが盧舎那仏である。これこそ大宇宙に君臨する大いなるブッダ に他ならない。それが大仏だというわけです。 東大寺の大仏はこうした宇宙観にもとづいて造られています。気が遠くなるような超絶スケール の話です。想像力を無限に拡大していかなければなりません。こんな話は夜の講座でないとできま せん。昼間したら頭がおかしいと思われますね。 [37.銀座のカンカン娘] 最後に音楽を聞いて、クイズです。曲は銀座にちなんで「銀座のカンカン娘」の最近のリメイク です。この歌の歌詞の中に、「ユーラシアから日本へ」にずばり関係するものがあります。さて何 でしょうか。 [38.カルピス] 正解はカルピスです。はるばるユーラシアから日本へもたらされたものです。
[39.三島海雲] カルピスの創業者はこの三島海雲です。大坂の寺の息子ですが、日露戦争の時代に大陸にわたっ て一旗あげました。ところがモンゴルで暮らすうちに体調を崩してしまいました。土地の人に勧め られた乳のような飲み物を毎日飲みつづけたそうです。人々が暮らすパオの入口に瓶が置いてあっ て、牛や羊の乳を棒でかきまぜて飲んでいる。乳が一昼夜たつと自然に発酵して、それが腸にとて もいい。遊牧民がきわめて質素な食生活しかしていないのに、驚くほどたくましい。その活力の源 はこの乳酸菌にあることを、海雲は身をもって知ったのです。 海雲は帰国後、この乳酸菌飲料を万病に効く飲み物として開発しました。ですからカルピスは発 売当初は薬屋さんでも売っていたそうです。ちょうど同じころ、ロシア人の学者がブルガリアに旅 行に出かけました。村人がみんな長寿であるのに驚いて、そこの村人が飲んでいる乳酸に出会って、 これをもとにブルガリア菌を培養してヨーグルトを作りました。20世紀はじめのユーラシアの東 と西で、かたや乳酸菌の食べ物、かたや乳酸菌の飲み物が、ほぼ同時に開発されていたのです。 [40.大仏殿 東大寺] 東大寺に行くのは朝早くか夕方遅くがお勧めです。朝でしたら新薬師寺のある高畑の方から、春 日野の森をぬけて三月堂に出るのが最高です。近所の方が散歩される道ですから、森の中でも大丈 夫です。大仏殿は朝からすごい人出ですが、二月堂と三月堂は、朝はまだ人が少ないのでゆっくり 見られます。 夕方もお勧めです。二月堂は近所の人がお百度詣りにきますので、夜中でもお詣りできます。二 月堂は東大寺の中で、今なお信仰が生きているところだというのが実感できます。そこから眺める 大仏殿の夕暮れも奈良の町の夜景も格別です。