高 野 山 の 年 中 行 事(一) 日 野 西 眞 定 (一) 高 野 山 の 盆 行 事 (1) 高 野 山 の 盆 行 事 の 流 れ 別 表(1) に 示 し て お い た が 、 高 野 山 の 盆 行 事 は 、 平 安 時 代 後 期 、 明 算 撮 校 ( 在 位 一 〇 九 〇-二 〇 六 ) の 時 代 に 、 ほ ぼ そ ろ い 、 鎌 倉 時 代 に さ ら に 整 備 さ れ 、 江 戸 時 代 は 、 学 侶 を 主 体 と し 、 行 人 方 を 承 仕 と す る 体 制 が と ら れ 、 各 行 事 は さ ら に 細 分 化 さ れ て い る 。 こ う し て 表 面 上 は 、 学 侶 主 導 型 と な る が 、 一 方 、 行 人 方 は 奥 の 院 を 本 拠 と し 、 さ ら に 各 谷 々 の 堂 で も 、 同 派 だ け の 行 事 を 行 っ て い る 。 こ れ が 、 同 時 代 の 特 色 で あ る 。 現 代 に 入 る と 、 金 堂 の 不 断 経 は 明 治 四 十 一 年 ( 一 九 〇 六 ) に 改 正 が 行 わ れ て い る ( ﹃ 水 原 尭 榮 全 集 ﹄ 第 七 巻 ﹁ 金 剛 峯 が 寺 年 中 行 事 ﹂ 三 一 〇 頁 )。 そ れ に 前 後 し 、 各 行 事 も 改 正 さ れ 、 一 段 と 簡 略 化 さ れ た。 た だ し 、 本 来 の 姿 を 生 し な が ら 筋 を と う し た 処 置 が な さ れ て い る。 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 主 な 行 事 は 、 次 の 四 点 で あ る 。 以 下 こ れ を 紹 介 す る が 、 月 日 は 明 治 六 年 に 太 陽 暦 に 移 行 す る が 、 そ れ ま で に 旧 暦 の ま ま を 使 い 、 そ れ 以 後 は ( 新 ) と そ の 上 に 記 す こ と に す る。 (1) 七 月 一 日-三 日 、 弥 勒 堂 ( 現 准 豚 堂 ) の 不 断 尊 勝 ダ ラ ニ 会 、 承 徳 元 年 ( 一 〇 九 四 ) 、 明 算 強 校 の 時 代 か ら は じ ま る 。 (2) 七 月 七 日-十 三 日 夜 、 金 堂 の 不 断 経 、 寛 治 八 年 ( 一 〇 九 四 ) 、 明 算 の 時 代 か ら は じ ま る。 (3) 七 月 十 五 日 、 奥 の 院 掃 除 、 永 久 元 年 ( 一 二 三 ) か ら は じ ま る 。 [高 野 山 盆 行 事 表 ] (別 表 三 )
(4) 同 日 、 金 堂 で 孟 蘭 盆 会 、 自 恣 ・ 布 薩 を 附 す 。 延 久 四 年 ( 一 〇 七 二 ) に は 行 わ れ て い る 。 そ の 他 、 江 戸 時 代 に 七 月 十 四 日 に 寺 家 孟 蘭 盆 会 を 行 っ て い る 。 こ れ は 現 代 に 入 る と (新 ) 八 月 十 一 日 か ら 十 二 日 に か け て 多 く 行 わ れ て い る。 こ れ は 各 院 の 盆 祀 り で 、 学 侶 ・ 行 人 ・ 聖 各 派 の 別 な く 行 わ れ て い た と 推 察 さ れ る 。 江 戸 時 代 、 燈 籠 堂 で 行 人 方 だ け 行 っ て い る 中 で 、 奥 の 院 で の 十 四 日 の 万 燈 会 、 十 五 日 の 孟 蘭 盆 会 と が あ る 。 ﹃ 奥 院 勤 行 之 事 ﹄ ( 清 浄 心 院 蔵 ) に よ る と 、 こ の 二 法 会 は 、 と も に 長 久 五 年 ( 一 〇 四 四 ) か ら 行 わ れ た 。 特 に 孟 蘭 盆 会 は 、 眞 乗 上 人 の 勤 め に よ る と あ る 。 万 燈 会 も 、 こ の 年 か ら 正 御 影 供 の 前 日 、 盆 供 、 大 晦 日 に は 分 れ た と あ る 。 い つ れ も 同 上 人 の 意 向 が あ っ た も の と 推 察 さ れ る。 こ の 時 に 、 奥 の 院 の 行 事 も 整 備 さ れ 、 壇 上 の 諸 行 事 と と も に 行 わ れ る よ う に な っ た。 な お 、 江 戸 時 代 に は こ の 他 に 、 各 谷 々 に あ る 堂 社 で 、 行 人 方 が 各 行 事 が 行 っ て い る の が 目 に つ く。 慶 長 十 二 年 ( 一 六 〇 七 ) 、 惣 分 方 ( 行 人 方 ) 勢 誉 に よ り ま と め ら れ た ﹃ 奥 院 ・ 壇 場 井 院 々 諸 伽 藍 年 中 行 事 ﹂ ( ﹃ 高 野 山 旧 記 ﹄ 十 二 ) は 、 江 戸 初 期 の 行 人 方 の 手 で 行 わ れ た 各 谷 に あ る 堂 の 行 事 の 記 録 で あ る 。 こ れ に よ る と 、 次 の よ う な 行 法 が 行 わ れ て い る 。 〇 七 月 一 日 か ら 三 日 ま で 、 西 院 谷 来 迎 堂 ・ 南 谷 大 師 堂 ・ 小 田 原 弥 勒 堂 で 、 阿 弥 陀 三 昧 、 〇 七 月 七 日 か ら 十 四 日 ま で 、 宝 憧 院 谷 阿 弥 陀 堂 で 孟 蘭 盆 三 昧 、 蓮 花 谷 丈 六 堂 で 、 施 餓 鬼 会 、 〇 七 月 十 四 日 、 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 谷 上 大 師 堂 で 読 経 、 五 之 室 大 師 堂 で 、 供 養 法 と 読 経 、 〇 七 月 十 五 日 、 西 院 谷 来 迎 堂 で 、 阿 弥 陀 三 昧 、 谷 上 大 日 堂 で 、 前 日 と 同 じ く 読 経 、 往 生 院 谷 日 輪 大 師 堂 で 、 孟 蘭 盆 会 と 光 明 三 昧 、 同 谷 阿 弥 陀 堂 で 、 孟 蘭 盆 会 と 施 餓 鬼 、 〇 一 夏 九 句 の 間 千 手 院 谷 千 手 堂 で 、 供 花 、 以 上 で あ る が 、 ﹃ 興 山 寺 年 中 行 事 ﹂ ( ﹃ 高 野 山 旧 記 ﹄ 十 六 ) 、 に は 、 同 寺 で も 七 月 朔 日 か ら 七 日 ま で 、 阿 弥 陀 三 昧 を 行 う と あ る 。 な お 、 ﹃ 行 人 井 非 事 吏 方 作 法 ﹄ ( ﹃ 高 野 山 旧 記 ﹂ 十 四 ) に は 、 千 手 堂 の 一 夏 の 供 花 は 、 ﹁ 毎 日 、 香 花 ・ 燈 明 之 レ ヲ 献 ジ 候 ﹂ と 、 詳 し く 記 述 し て あ る 。 樒 の 小 枝 を 仏 に 供 え る ば か り で は な く 、 香 や 燈 明 も 同 時 に 献 じ て い た。 た だ 、 寛 文 三 年 ( 一 六 六 三 ) 極 月 八 日 に 制 定 さ れ た 行 人 方 に 対 す る ﹁ 条 々 ﹂ ( ﹃ 高 野 山 御 壁 書 ﹂ 正 智 院 文 書 ) に 、 ﹁ 行 人 方 法 事 、 奥 院 ・ 壇 上 等 ノ 大 伽 藍 二 於 テ ハ 、 堅 ク 停 止 ノ 事 ﹂ と あ り 、 厳 し い 規 制 が 行 れ て い る 。 こ れ が ど れ だ け 実 行 さ れ た か 疑 問 で あ る 。 特 に 前 出 ﹃ 奥 院 ・ 壇 場 井 院 々 諸 伽 藍 年 中 行 事 ﹄ に 認 め ら れ る 各 堂 の 行 事 が 、 そ の 後 も 行 わ れ た か は 、 さ ら に 調 査 を 続 け た い 。 以 上 で あ る が 、 高 野 山 の 盆 行 は 、 十 一 世 紀 後 半 に は 、 そ の 基 礎 が 出 来 て い る。 こ れ を 文 献 の 上 で ま と め て み る と 、 先 ず ﹃ 高 野 雑 日 記 ﹄ ( 金 剛 峯 寺 蔵 ) に 、 延 久 四 年 ( 一 〇 七 二 ) に ﹁ 金 剛 峯 寺 寺 家 年 中 毎 月 所 役 不 可 閾 怠 ノ 事 ﹂ と し て 、 申 合 せ た 条 項 が 、 高 野 山 の 年 中 行 事 と し て は 、 も っ と も 古 い も の で あ る。 各 自 が 滅 罪 生 善 、 上 求 菩 提 、 下 化 衆 生 の た め に 、 閾 怠 無 く 勤 仕 す る べ き こ と と 申 し 合 さ れ て い る 。 こ の な か に 、 四 月 安 居 初 、 七 月 安 居 終 、 盆 供 の 項 が 認 め ら
れ る 。 さ ら に 詳 し い こ と は 、 永 暦 元 年 ( 二 六 〇 ) の ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 言 上 状 案 ﹂ ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹂ ( 一 八 〇 三 ) ) に 定 め ら れ て い る。 こ の 時 、 夏 中 所 作 、 つ ま り 夏 安 居 で あ る が 、 こ れ を 細 か く 規 定 し 、 そ の 他 の 盆 行 と 並 行 し て 行 う こ と を 申 し 合 せ て い る 。 夏 安 居 は 、 盆 行 事 と 深 い か か わ り を 持 っ て お り 、 こ れ で 高 野 山 の 盆 行 事 は 完 備 さ れ た と い え る。 今 、 こ れ を 列 記 す る 。 夏 中 所 作 (夏 安 居 ) 金 堂 不 断 花 夏 衆 六 十 四 人 同 堂 不 断 仁 王 会 経 衆 七 十 人 山 王 院 不 断 大 般 若 経 衆 一 百 二 十 人 奥 院 毎 日 参 勤 こ れ を 恒 例 の 仏 事 と す る 。 そ の 他 に 、 七 月 一 日-三 ケ 日 夜 弥 勒 堂 不 断 尊 勝 陀 羅 尼 同 七 日-七 箇 日 夜 金 堂 不 断 経 同 十 五 日 孟 蘭 盆 講 自 恣 布 薩 同 日 奥 院 掃 除 以 上 で あ る 。 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 こ の う ち 、 夏 安 居 の 金 堂 不 断 仁 王 会 と 山 王 院 不 断 大 船 若 は 、 天 正 年 間 ( 一 五 七 三-九 二 ) 以 後 は 、 張 文 だ け と な っ て い る。 金 堂 不 断 花 ( 供 花 ) も 、 寛 文 四 年 ( 一 六 六 四 ) ま で 行 わ れ た が 、 学 侶 ・ 行 人 の 争 い に よ っ て 廃 止 さ れ た 。 こ の こ と に つ い て は 、 後 で 詳 し く 述 べ る 。 奥 の 院 毎 日 参 勤 は 、 明 治 時 代 ま で 行 人 方 に よ っ て 行 わ れ た 。 孟 蘭 盆 行 事 は 、 原 則 的 に は 今 日 ま で 生 き て い る 。 (2) 准 砥 堂 (弥 勒 堂 ) の 不 断 尊 勝 陀 羅 尼 会 (1) 准 豚 堂 の 問 題 不 断 尊 勝 陀 羅 尼 会 を 行 っ た 場 所 と し て は 、 先 づ 弥 勤 堂 が あ げ ら れ る 。 こ の 堂 は 、 も と 中 院 に あ り 、 こ こ で こ の 会 は は じ あ ら れ た。 そ め 後 に 、 壇 上 に 移 さ れ る 。 そ し て 准 豚 堂 と も 呼 ば れ る よ う に な り 、 今 日 に 至 っ て い る 。 平 安 時 代 か ら 鎌 倉 時 代 に か け て 、 こ の 会 に 引 つ づ き 壇 上 の 西 御 堂 で 、 供 花 の 行 だ け が 行 わ れ た。 こ の 、 弥 勒 堂 ・ 准 豚 堂 ・ 西 御 堂 の 関 係 を 、 一 体 ど の よ う に 整 理 し た ら よ い の か と い う こ と が 、 先 づ 疑 問 に な る。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ ( 四 ・ 六 九 頁 上 ) ﹁ 准 腫 堂 ﹂ の 項 に は 、 ﹁ 又 は 西 御 堂 と 云 、 又 は 弥 勒 堂 と も い ふ ﹂ と あ り 、 こ の 三 堂 は 、 同 一 の も の で あ る と す る 。 終 局 的 に は そ う な る が 、 そ の い き さ つ を 整 理 す る 必 要 が あ る 。 同 書 ( 五 ・ 九 十 三 頁 上 ) ﹁ 歳 時 記 ﹂ 七 月 朔 日 の 条 、 ﹁ 弥 勒 堂 の 尊 勝 陀 羅 尼 ﹂ の 項 に ﹁ 按 ズ ル ニ 、 弥 勒 堂 ハ 本 、 小 塔 ノ 東 、 今 ノ 明 王 院 路 二 在 リ 、 初 メ 此 ノ 堂 二 於 テ 始 行 セ ラ ル 。 後 代 焼 亡 シ テ 後 、 彼 ノ 本 尊 ヲ 准 豚 堂 二 移 ス 。 三 日 陀 羅 尼 モ 亦 、 此 二 於 テ 行 ウ ﹂ と あ る 。 さ ら に ﹃ 南 山 要 集 ﹄ を 引 き 、 ﹁ 中 院 弥 勒 堂 、 後 僧 正 ノ 建 立 ﹂ と あ る 。 こ の 記 述 の 中 で 、 何 時 中 院 に あ っ た 弥 勒 堂 が 焼 失 し 、 本 尊 が 壇 上 の 准 豚 堂 に 移 さ れ た か が 問 題 に な る 。 な お こ の 堂
が 後 僧 正 眞 然 ( 八 〇 四-九 一 ) に 建 立 さ れ た と あ る の は 疑 問 と し て お く。 正 応 四 年 ( 一 二 九 一 ) ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 帳 ﹂ ( 金 剛 峯 寺 蔵 ) に よ る と 、 弥 勒 堂 で 三 箇 日 間 書 夜 尊 勝 陀 羅 尼 会 を 行 い 、 四 日 か ら 壇 上 の 西 御 堂 で 引 つ づ い て 三 箇 日 間 の 供 花 の 行 を お こ な う 。 弥 勒 堂 で は 同 会 と と も に 供 花 も 行 う が 、 こ れ は 承 徳 元 年 ( 一 〇 九 七 ) 、 明 算 の 時 は じ あ ら れ た と あ る 。 こ れ に よ る と 、 弥 勒 堂 は 中 院 に ま だ あ り 、 壇 上 に 別 に 西 御 堂 が あ っ た こ と は 明 か で あ る 。 西 御 堂 は 、 西 塔 東 傍 に あ っ た 。 ﹃ 高 野 山 諸 院 家 帳 ﹄ ( 文 明 五 年 ︿ 一 四 七 三 ﹀ 撰 ) に よ る と 、 ﹁ 検 狡 大 光 房 阿 閣 梨 兼 賢 建 立 ﹂ と あ る 。 兼 賢 は ﹃ 析 負 輯 ﹄ に よ る と 、 北 室 院 一 代 で 、 第 二 十 一 代 捻 校 と な り 、 仁 平 三 年 ( 一 一 五 三 ) か ら 保 元 元 年 ( 一 一 五 六 ) ま で 在 職 し 、 同 二 年 に 寂 し て い る 。 こ の 堂 と 場 所 が 入 れ 替 っ た 新 御 堂 は 、 も と 御 影 堂 西 傍 に あ っ た 。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ ( 四 ・ 一 〇 二 頁 ) に よ る と 、 久 安 五 年 ( 一 一 四 九 ) 覚 法 親 王 の 御 願 に よ り 建 立 、 大 永 元 年 ( 一 五 二 一 ) に 焼 失 し た と あ る 。 そ の 跡 に 、 西 塔 東 傍 に あ っ た 西 御 堂 が 、 新 御 堂 の あ っ た 所 に 移 さ れ た と 考 え て 誤 り な い で あ ろ う 。 次 に 、 こ の 西 御 堂 に 何 時 中 院 の 弥 勒 堂 の 本 尊 が 移 さ れ て ﹁ 弥 勒 堂 ﹂ (壇 上 の ) と 改 弥 さ れ る よ う に な っ た の で あ ろ う か。 前 出 文 明 五 年 ( 一 四 七 三 ) の ﹃ 高 野 山 諸 院 家 帳 ﹄ に は 、 ﹁ 西 御 堂 ﹂ と あ る が 、 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ に よ る と 、 大 永 元 年 ( 一 五 二 一 ) に 焼 失 し た 壇 上 諸 堂 社 名 の 中 に は ﹁ 弥 勒 堂 ﹂ が あ っ て ﹁ 西 御 堂 ﹂ は な い 。 元 禄 三 年 ( 一 六 九 〇 ) に 御 評 定 所 に 提 出 し た 壇 上 加 藍 名 の 中 に も ﹁ 弥 勒 堂 ﹂ と な っ て い る 。 こ う し て み て く る と 、 大 永 元 年 ( 一 五 二 一 ) に 新 御 堂 に 移 さ れ た 時 、 中 院 の 弥 勒 堂 も 類 焼 し 、 そ の 本 尊 も 移 さ れ 、 以 後 ﹁弥 勒 堂 ﹂ と 改 称 さ れ た の で は な い か と 推 定 さ れ る。 じ き と こ ろ で 、 も と 食 堂 に 祀 さ れ て あ っ た 准 豚 観 音 が 、 何 時 弥 勒 堂 に 移 さ れ 、 こ の 堂 が 准 豚 堂 と 改 称 さ れ る よ う に な っ 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 た の か を 、 次 に 解 明 し な け れ ば な ら な い 。 食 堂 は 、 今 の 六 時 の 鐘 の 前 方 に あ っ た 。 こ こ に 准 豚 観 音 が 祀 ら れ 、 得 度 の 時 の 本 尊 と さ れ た 。 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ ( 元 慶 八 年 条 ・ 永 享 六 年 冬 十 月 日 条 ) ) に 、 同 書 の 編 者 懐 英 は 、 快 然 撮 校 が 小 僧 の 時 実 際 に 見 た 話 と し て 、 こ の 堂 は 後 年 ( 何 時 か は 不 記 ) 二 階 堂 と な り 、 上 段 に 准 豚 観 音 が 祀 ら れ 、 下 段 は 身 よ り の な い 参 詣 人 の 無 料 宿 泊 所 と な り ﹁ 旦 過 堂 ﹂ と 呼 ば れ て い た 。 寛 永 七 年 ( 一 六 一二 〇 ) 大 塔 の 火 災 に 類 焼 し た が 、 そ の 時 に 本 尊 は 西 御 堂 に 移 さ れ た と あ る 。 こ れ に 対 し 、 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ ( 四 ・ 一 〇 三 頁 ) は 、 応 永 十 二 年 ( 一 四 〇 五 ) の 食 堂 等 が 炎 上 し た 時 に 、 本 尊 は 弥 勒 堂 に 移 さ れ た の で は な い か と す る 。 し か し 、 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ の 説 は 、 快 然 捻 校 が 実 際 に ﹁ 旦 過 堂 ﹂ の 二 階 に 、 准 豚 観 音 が 祀 ら れ た の を 見 た と あ り 、 応 永 十 二 年 に 食 堂 は 類 焼 し 、 そ の 後 に ﹁ 旦 過 堂 ﹂ と し て 再 建 さ れ た の で は な い か と 思 え る。 以 上 を 一 応 ま と め る と 、 中 院 弥 勒 堂 は 、 正 応 四 年 ( 一 二 九 一 ) ま で は 、 壇 上 西 御 堂 と は 別 に 存 在 し て い た 。 大 永 元 年 ( 一 五 二 一 ) の 大 火 の 時 、 西 御 堂 は 新 御 堂 跡 に 移 さ れ 、 同 時 に 弥 勒 堂 も 類 焼 し た と 推 定 さ れ る が 、 同 尊 も 西 御 堂 に 移 さ れ 、 弥 勒 堂 と も 称 さ れ る よ う に な る。 そ こ に 江 戸 時 代 寛 永 七 年 ( 一 六 一二 〇 ) 准 豚 観 音 も 合 祀 さ れ た と な る 。 次 に 拙 著 ﹃ 高 野 山 古 絵 図 集 成 ﹂ を 検 討 す る と 、 正 保 三 年 ( 一 六 四 六 ) ﹁ 御 公 儀 上 一 山 図 書 ﹂ ・ 承 応 二 年 ( 一 六 五 三 ) ﹁ 高 野 山 絵 図 ﹂ ・ 万 治 元 年 ( 一 六 五 八 ) ﹁ 高 野 山 絵 図 ﹂ は 、 御 影 堂 西 隣 の 堂 を ﹁ 新 御 堂 ﹂ と す る 。 し か し 、 そ れ 以 後 元 禄 六 年 ( 一 六 九 三 ) ﹁ 高 野 山 壇 上 井 寺 中 絵 図 ﹂ は ﹁ 新 御 堂 ﹂ の 跡 に ﹁ 准 豚 堂 ﹂ と 名 を 入 れ 、 以 下 宝 永 三 年 ( 一 七 〇 六 ) ﹁ 高 野 山 壇 上 寺 家 絵 図 ﹂ ・ 寛 政 八 年 ( 一 七 九 六 ) ﹁ 高 野 山 古 絵 図 ﹂ は ﹁ 弥 勒 堂 ﹂ 、 寛 政 十 二 年 ( 一 八 ○ ○ ) ﹁ 高 野 山 絵 図 ﹂ 以 後 の 全 て の 絵 図 は ﹁ じ ゅ ん て い ど う ﹂ 又 は ﹁ 准 豚 堂 ﹂ と し て い る。 現 在 使 わ れ て い る 絵 図 と 同 一 で あ る 。
こ こ で 問 題 に な る の は 、 正 法 三 年 ( 一 六 四 六 ) か ら 万 治 元 年 ( 一 六 五 八 ) ま で の 三 点 の 絵 図 が 、 ﹁ 新 御 堂 ﹂ と し て い る 点 で あ る。 こ れ ら の 絵 図 は 、 い つ れ も 金 剛 峯 寺 が 幕 府 に 提 出 し た 詳 細 な も の で あ る。 恐 ら く 公 式 に 提 出 す る 立 前 か ら 、 一 番 も と に な る ﹁ 新 御 堂 ﹂ 説 を と っ た の で あ ろ う。 元 禄 六 年 ( 一 六 九 三 ) 以 後 は 、 実 際 に 則 し て 、 弥 勒 堂 と も 准 腫 堂 と も 呼 び 、 寛 政 十 二 年 ( 一 八〇〇 ) 以 後 は 、 准 豚 堂 に 落 付 き 、 現 在 に 及 ん で い る と 考 え ら れ る 。 (2) 江 戸 時 代 ま で の 同 会 前 に も ふ れ て い る が 、 正 応 四 年 ( 一 二 九 一 ) の ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 帳 ﹄ に 、 こ の 法 会 は 、 承 徳 元 年 ( 一 〇 九 七 ) 七 月 朔 日 、 ﹁ 明 算 中 院 御 房 ノ 時 始 メ ラ ル ﹂ と あ り 場 所 は 弥 勒 堂 と あ る 。 一 日 か ら 三 日 ま で で 、 次 の 四 日 か ら 六 日 ま で の 三 日 間 は 、 西 御 堂 で 、 供 花 を 行 っ て い る 。 明 算 は 、 自 坊 の 弥 勒 堂 で こ の 法 会 を は じ め て い る 。 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 私 記 ﹄ ( ﹃ 続 眞 言 宗 全 書 ﹄ 四 十 一 巻 所 掲 、 高 野 山 大 学 図 書 館 蔵 、 文 化 五 年 写 ) は 、 江 戸 時 代 の も の で あ る が 、 明 算 が こ の 法 要 を は じ め た の は 、 ﹁ 是 レ ハ 嵯 峨 天 皇 御 弔 ト モ 云 ﹂ と あ る 。 盆 の 月 に 入 り 、 先 祖 供 養 の 期 間 に 入 る。 こ の 時 に 、 高 野 山 に 関 係 深 い 嵯 峨 天 皇 の 名 を 出 す の は 、 同 天 皇 を 中 心 と し 、 す べ て の 先 祖 の 供 養 の た め と と っ て よ い と 考 え る 。 こ う い う 代 表 的 存 在 を と り あ げ 、 実 は 全 体 の 供 養 を 行 っ て い る 例 は 多 く あ る 。 法 会 内 容 は 、 前 記 正 応 の ﹃ 行 事 帳 ﹄ に 、 弥 勒 堂 で ﹁ 三 箇 日 書 夜 尊 勝 院 羅 尼 ﹂ を 諦 す る が 、 結 番 札 が あ っ て 、 年 預 の 沙 汰 ( 差 配 ) と あ る 。 文 字 通 り 昼 夜 不 断 の 同 陀 羅 尼 の 読 調 を 、 順 番 を 決 め 、 一 山 全 体 の 行 事 と し て お こ な っ て い る。 注 目 さ れ る の は 、 同 時 に 供 花 を 行 っ て い る こ と で あ る 。 ﹁ 承 仕 、 下 自 リ 三 十 人 ノ 上 分 ﹂ が 行 っ て い る 。 こ の 行 は 、 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 夏 衆 の 夏 安 居 の 樒 の 花 ( 実 は 小 枝 ) の 供 花 に 当 る も の で 、 高 野 山 の 正 式 の 法 会 に こ の 行 が 入 っ た 初 例 で あ る 。 こ れ が 後 に 金 堂 の 夏 中 の 供 花 に 発 展 し た と 考 え ら れ る 。 性 格 的 に は 修 験 的 要 素 で あ り 、 一 こ れ が 認 め ら れ た と い う こ と は 、 高 野 山 全 般 に こ の 傾 向 が あ り 、 な お 明 算 自 身 に も あ っ た と い わ な け れ ば な ら な い 。 こ の 供 花 は 、 四 日 か ら 六 日 ま で の 三 箇 間 、 同 じ メ ン バ ー が 場 所 を 壇 上 西 御 堂 ( 後 の 准 砥 堂 ) に 移 し て 行 っ て い る 。 こ れ も 昼 夜 不 断 で あ り 、 前 に 千 手 堂 の 供 花 で も ふ れ た が 、 香 花 ・ 燈 明 も 同 時 に あ げ た も の と 思 わ れ る。 ま た 職 衆 の 読 経 の 中 で 、 こ の 行 が お こ な わ れ た と 推 察 す る 。 こ の 点 詳 し く は 拙 論 ﹁高 野 山 の 夏 衆 と 夏 安 居 ﹂ ( ﹃ 山 岳 修 験 ﹄ 十 一 号 ) に ふ れ て い る 。 こ う し て み る と 、 旧 七 月 に 入 り 、 一 日 か ら 六 日 ま で 、 読 経 ま た は 供 花 を し て 、 先 祖 供 養 を は じ あ て い る 。 こ の 様 な 行 事 が は じ め ら れ た 背 後 に は 、 当 時 の 民 間 の 習 俗 ・ 信 仰 を 考 え な け れ ば な ら な い 。 こ の 点 に つ い て の 研 究 は 、 今 後 の 課 題 と し て お き 度 い 。 こ の 行 事 に 対 し て 、 怠 け て 欠 席 す る 者 も い た。 正 安 四 年 ( 一 三 〇 二 ) に は 、 ﹁ 三 箇 日 夜 陀 羅 尼 、 精 誠 勤 仕 有 ル ベ キ 事 ノ 定 ﹂ を 評 定 し 、 時 香 半 の 時 に 、 当 番 の 沙 汰 人 は 見 参 (出 欠 ) を と り 、 三 日 間 と も 不 参 の 者 に は 、 大 湯 屋 の ﹁ 一 日 湯 ﹂ を 沸 か す 罰 を 申 し 合 せ て い る 。 こ れ で み る と 、 時 刻 は お 香 で 計 っ て い る。 参 堂 の 知 せ は 、 先 に 壇 上 の 鐘 で 集 会 の 合 図 を し 、 い よ い よ 時 刻 が 来 る と 螺 を 吹 い て い る ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 四 ) 。 南 北 朝 時 代 に 入 っ た 正 平 十 五 年 ( 一 三 六 〇 ) に も 、 五 番 衆 が 評 定 を 行 い 、 三 日 陀 羅 尼 及 び 不 断 経 ( 七 日 か ら は じ ま る ) を 厳 格 に お こ な う こ と を 申 合 せ て い る 。 こ の 法 会 は 、 ﹁ 城 中 無 讐 厳 重 ノ 佛 事 ﹂ と 位 置 づ け 、 近 頃 ﹁ 時 衆 弥 々 減 ジ 、 坐 席 又 透 ク ﹂ と い っ た 有 様 で 、 法 会 も 満 足 に 行 え な い 場 合 も あ っ た 。 そ こ で 両 親 の 葬 式 の た め に 下 山 す る 時 は 、 誓 文
を 提 出 し 、 そ の 他 に 何 か の 都 合 で 欠 席 す る 時 に は 、 代 理 を 出 す よ う に 申 合 せ て い る ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 六 )。 こ の 時 代 か ら 室 町 時 代 に か け 、 史 料 が 少 く 、 は っ き り と し た 足 ど り を 見 付 け る こ と が 出 来 な い。 し か し 、 修 正 会 の 例 か ら み て も 、 大 勢 は 鎌 倉 時 代 と 、 あ ま り 変 り が な い と 推 察 さ れ る 。 (3) 江 戸 時 代 以 後 の 同 会 高 室 院 所 蔵 ﹁ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹂ ( 中 田 ﹃ 高 野 山 文 書 ﹄ 第 六 巻 ﹁ 高 室 院 文 書 ﹂ 第 二 、 一 七 六 ) に 、 七 月 一 日 か ら 三 日 間 、 西 御 堂 に 出 仕 し て 行 う 。 尊 勝 陀 羅 尼 を 読 調 す る が 、 読 師 は 一 時 に 二 十 六 人 宛 、 薄 衣 と あ る。 す で に 壇 上 に 移 っ て い る 。 そ し て 、 昼 夜 不 断 が 、 一 日 に 何 座 か に 区 切 っ て 行 い 、 一 段 後 退 し て い る 。 そ の 一 座 分 が 二 十 六 人 と な っ て い る 。 も う 一 つ の 変 化 は 、 供 花 が な く な っ て い る こ と で あ る。 こ れ が 何 時 廃 さ れ た か 分 ら な い が 、 金 堂 不 断 経 中 の 夏 衆 の 供 花 が 、 寛 文 四 年 ( 一 六 六 四 ) に 、 学 侶 と 行 人 の 対 立 に よ っ て 廃 絶 さ れ た の と 関 連 が あ る か も し れ な い。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ は 、 天 保 十 年 ( 一 八 三 九 ) に 刊 行 さ れ 、 江 戸 時 代 後 期 の 様 子 を 記 述 し て い る。 同 書 ( 五 ・ 九 十 三 頁 上 ﹁ 歳 時 記 ﹂ ) に 、 弥 勒 堂 で 行 う 、 一 日 辰 刻 ( 午 前 八 時 ) か ら 三 日 西 の 刻 ( 午 後 六 時 ) ま で 、 十 八 時 を 結 番 し て 勤 む 。 ﹁ 往 古 ハ 書 夜 不 断 二 之 レ ヲ 諦 ス 、 一 時 尊 勝 陀 羅 尼 二 十 八 巻 之 レ ヲ 諦 ス ﹂ と あ る 。 一 日 に 六 座 行 っ て お り 、 一 座 に 二 十 八 巻 同 陀 羅 尼 を 調 す る。 初 め の 七 遍 は 座 し た ま ま 、 中 の 十 四 遍 は 行 道 三 匝 の う ち に 諦 し 、 終 っ て 沙 汰 人 が 現 参 ( 出 欠 ) を と り 、 終 り の 七 遍 は 座 し た ま ま 諦 し て い る。 高 野 山 の 年 中 行 事
密
教
文
化
江 戸 時 代 に は 、 こ の よ う に 改 変 さ れ て い る 。 明 治 時 代 に 入 り 、 ﹃ 寺 中 布 令 留 ﹄ ( 金 剛 峯 寺 蔵 ) に よ る と 、 同 六 年 ( 一 八 七 三 ) ま で は 、 江 戸 時 代 と 同 じ よ う に 行 っ て い る 。 こ の 年 か ら 太 陽 暦 に 代 っ た の で 、 同 年 は 旧 暦 に 準 じ 八 月 十 二 日 か ら 十 四 日 ま で 三 日 陀 羅 尼 、 十 八 日 か ら 二 十 四 日 ま で 不 断 経 を す る よ う 教 議 所 か ら 院 主 坊 に 触 れ て い る。 翌 七 年 に は 不 断 経 の 改 革 を 行 っ て い る 。 水 原 尭 榮 師 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹄ (三一〇 頁 ) に よ る と 、 同 四 十 一 年 ( 一 九 〇 八 ) 、 今 日 に 近 い 大 改 革 を 申 合 せ て い る 。 そ れ に 関 連 し て 三 日 陀 羅 尼 会 も 変 っ た か と 思 え る 。 同 会 は 、 今 で は 新 七 月 朔 日 の 一 日 だ け と な っ て い る 。 そ れ も 、 金 堂 の 不 断 経 が 新 八 月 七 日 か ら 一 週 間 と な っ た の に 、 同 会 だ け は 新 七 月 に す え 居 か れ て い る 。 何 か 理 由 が あ っ た と 思 え る 。 水 原 師 の 前 書 に よ る と 、 准 豚 堂 で 新 七 月 一 日 午 ぜ ぜ 後 一 時 か ら 、 権 検 校 が 供 養 法 を 修 す る 間 に 、 職 衆 は 理 趣 経 を 切 々 経 ( 早 口 で 読 諦 す る ) で 一 巻 、 次 に 尊 勝 陀 羅 尼 七 回 を 諦 す る と あ る 。 (3) 金 堂 不 断 経 (1) 同 会 の は じ ま り 正 応 四 年 ( 一 二 九 一 ) の ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 帳 ﹂ に よ る と 、 金 堂 不 断 経 は 、 七 月 七 日 か ら 一 七 日 間 ( 一 週 間 ) 行 わ れ る 。 こ れ は 、 寛 治 八 年 ( 一 〇 九 四 ) 夏 安 居 の 終 っ た 同 日 、 定 深 山 篭 が 滅 罪 生 善 の た め に と す す め た の に 、 諸 衆 一 同 が 同 意 し て 一 山 の 行 事 と し て は じ め ら れ た。 明 算 検 校 の 時 で あ る と す る 。 定 深 山 篭 は ﹃ 析 負 輯 ﹄ ﹁ 龍 光 院 歴 代 記 ﹂ の 明 算 の 項 に 、 同 師 が 京 都 小 野 か ら 帰 山 し 、 高 野 独 自 の 中 院 流 を は じ め る 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 が 、 延 久 五 年 ( 一 〇 七 三 ) 、 中 院 で 先 づ 灌 頂 を 行 っ て い る。 こ の 時 の 受 法 者 十 一 人 の 中 に ﹁ 定 深 理 性 房 ﹂ と あ る の が 、 同 人 だ と 思 え る 。 こ の 人 達 を 、 ﹁ 此 レ 山 中 ノ 禅 侶 ノ 修 学 純 粋 ナ ル 者 ナ リ ﹂ と 批 評 し て い る 。 実 際 こ の 中 に は 、 明 算 の 法 を 継 い だ 良 禅 も 入 っ て お り 、 そ の 主 な 弟 子 の 一 人 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 同 上 人 の 項 に は 、 次 の 記 述 が あ る 。 康 和 四 年 ( 一 一 〇 二 ) 二 月 十 五 日 、 上 人 が 中 院 で 、 理 趣 経 を 読 諦 し て い る と 、 二 人 の 化 僧 、 空 智 ・ 空 円 が 現 わ れ 、 上 人 と と も に フ シ を つ け て 同 経 を 行 道 し な が ら 唱 え て 廻 っ た 。 そ の 音 声 は 清 亮 で 人 々 の 心 を 打 っ た 。 所 謂 中 曲 理 趣 三 昧 で あ る 。 化 僧 達 は 、 姿 を 消 し た が 、 上 人 は こ の 音 調 を 人 々 に 伝 授 し 、 忽 ち に 山 内 に 弘 ま っ た 。 そ こ で 、 大 衆 が 相 談 を し 、 こ の 年 の 七 月 に 金 堂 に 移 し て 恒 例 と し た。 こ れ が 七 日 か ら の 不 断 経 の は じ ま り だ と す る。 ﹃ 金 堂 不 断 経 由 来 記 ﹄ ( 宝 暦 二 年 ( 一 七 五 二 ) の 書 写 、 高 野 山 大 学 図 書 館 蔵 ) に は 、 こ の こ と は 康 和 四 年 三 月 二 十 五 日 と 前 書 と は 一 月 の つ れ が あ る が 、 内 容 は ほ ぼ 同 一 で あ る が 、 こ の 化 僧 は 不 空 三 蔵 の 使 者 で あ っ た。 そ れ で 、 不 断 経 の 時 に は 、 同 三 蔵 が 御 影 向 あ っ て 、 調 声 の 行 道 を せ ら れ る 。 ﹁ 循 テ 衆 分 ノ 一 繭 ハ 、 其 ノ 程 ヲ 置 テ 、 指 サ ガ リ テ 行 道 ス ル ナ リ ﹂ と あ る 。 つ ま り 、 行 道 す る 時 、 経 頭 の 後 に 並 ぶ 一 膓 は 、 一 生 に 行 道 し て 廻 る と 信 ぜ ら れ て い る 不 空 三 蔵 の た め に 一 程 の 間 隔 を あ け て お く と い う の で あ る 。 こ の 習 慣 が 何 時 入 っ た か 、 こ の 記 述 か ら す る と 最 初 か ら と い う こ と に な る が 、 こ の 由 来 記 が 書 写 さ れ た 宝 暦 二 年 ( 一 七 五 二 ) 以 前 に は あ っ た の は 事 実 で あ る 。 さ ら に こ の 法 会 は 、 一 切 衆 生 を 安 養 ・ 都 卒 つ ま り 阿 弥 陀 如 来 か 弥 勒 菩 薩 の 浄 土 に 往 生 さ せ る た め で あ る と す る。 先 づ 問 題 に な る の が 、 寛 治 八 年 ( 一 〇 九 四 ) に 定 深 の 発 案 で は じ め ら れ た か 、 そ れ よ り 八 年 後 の 康 和 四 年 ( 二 〇 二 ) 二 月 ( 又 は 三 月 ) に 、 中 院 で 行 わ れ た 中 曲 理 趣 三 昧 が 、 同 年 七 月 に 金 堂 に 移 さ れ た か で あ る 。 そ し て 二 説 の 背 後 に は
ど ち ら に も 明 算 が 存 在 し て い る 。 史 料 価 値 か ら い え ば 、 寛 治 八 年 説 を 取 り 上 げ な け れ ば な ら な い。 し か し 、 実 際 行 法 が 行 わ れ て い る 面 か ら は 、 康 和 四 年 説 も 捨 て る わ け に も い か な い 。 寛 治 八 年 ( 一 〇 九 四 ) に 定 深 が 発 案 し 、 師 匠 で も あ り 、 捻 校 で も あ っ た 明 算 が こ れ を 支 持 し た 。 次 い で 康 和 四 年 ( 一 一 〇 二 ) 中 院 で 明 算 が 不 空 三 蔵 の 使 者 に 導 か れ て 考 案 し た 中 曲 理 趣 三 昧 が 出 来 る と 、 こ の 法 会 で 行 う よ う に な り 、 一 段 と 整 備 さ れ た と 考 え る べ き で あ ろ う か 。 次 に 問 題 と な る の が 、 七 日 か ら 十 三 日 と い う 期 日 が 、 何 の た め に 行 わ れ た か と い う こ と で あ る。 七 日 は 七 夕 の 日 で あ る。 い よ い よ 盆 の 月 に 入 り 同 日 か ら の 一 週 間 は 、 十 四 日 か ら 行 わ れ る 先 祖 祀 り に そ な え 、 忌 み 篭 る 準 備 期 間 だ と い わ れ て い る 。 タ ナ バ タ ﹁ 七 夕 ﹂ を ﹁ タ ナ バ タ ﹂ と 読 む の は 、 こ の 日 を ﹁ 棚 ・ 幡 ﹂ と い う の は 、 祖 霊 を 祀 る た め の ﹁ 棚 ﹂ と ﹁ 幡 ﹂ を た て た こ と に よ る と 五 来 重 先 生 は 指 摘 す る ( ﹃ 宗 教 歳 時 記 ﹁ 七 夕 は 棚 幡 ﹂ ) 。 こ の ﹁ た な ﹂ に つ い て は 折 口 信 夫 先 生 の ﹁ た な ば た と 盆 祭 り ﹂ ( ﹃ 折 口 信 夫 全 集 ﹂ 第 三 巻 ) に も 祖 霊 ま つ り の た め だ と の 指 摘 が あ る。 実 際 、 高 野 周 辺 を 調 査 し て も ﹁ 七 日 盆 ﹂ と い う 言 葉 は 今 で も 生 き て お り 、 こ れ を お 盆 の は じ ま り だ と の 観 念 は 強 い 。 ま た こ の 日 、 水 に 関 す る 行 事 が あ る 。 例 え ば 井 戸 ざ ら え で あ る 。 こ れ も 高 野 周 辺 に も 僅 か な が ら 残 っ て い る 。 江 戸 時 代 に は 奥 の 院 關 伽 井 で も 行 わ れ て い た 。 水 に 関 す る 行 事 は 、 か つ て み そ ぎ を 行 っ て い た こ と の 残 存 だ と い わ れ て い る 。 そ し て こ の 日 か ら 、 一 週 間 、 い み 籠 っ た の で あ る 。 不 断 経 が 、 こ の 期 間 に 行 わ れ て い る こ と は 、 こ の 背 影 を 考 え な け れ ば な ら な い 。 こ の 点 さ ら に 研 究 を す す あ た い が 、 定 深 ・ 明 算 達 の 時 代 に は 、 こ れ が 一 般 的 に 行 わ れ て い た の で は な い か と 推 察 す る。 そ し て 、 こ れ が 今 な お 金 堂 で 行 わ 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 れ て い る と い う こ と は 、 平 安 時 代 後 期 の 習 俗 が ま だ 引 き 継 が れ て い る と い え る 。 民 俗 信 仰 か ら い っ て も 、 貴 重 な 価 値 の あ る 法 会 な の で あ る 。 こ の 行 事 の 目 的 を 、 定 深 は ﹁ 滅 罪 生 善 ﹂ の た め 、 ﹁ 金 堂 不 断 経 由 来 事 ﹂ は 、 一 切 衆 生 の ﹁ 安 養 ・ 都 卒 二 生 カ シ メ ン ト ﹂ お こ な っ た と す る 。 そ し て 、 真 言 宗 八 祖 の 中 で も 弘 法 大 師 と 縁 の 深 い 不 空 三 蔵 が こ の 日 に 影 向 す る と し て い る 。 大 師 の 生 れ た 日 と す る 六 月 十 五 日 は 、 実 は こ の 三 蔵 の 没 し た 日 で 、 大 師 は そ の 生 れ 代 れ と す る 信 仰 が あ る 。 定 深 の い う 立 場 は 、 行 を お こ な う 者 か ら の 見 解 で あ り 、 中 院 で い う 仏 の 浄 土 へ の 往 生 を 願 う の は 、 死 者 供 養 の 目 的 を 持 っ て お り 、 盆 の 行 事 と し て は 、 こ ち ら が ふ さ わ し い 。 そ れ に 真 言 宗 徒 の 先 祖 の 代 表 的 立 場 と し て 不 空 三 蔵 を 持 ち 出 し て い る。 後 で ふ れ る が 、 こ の 行 は 非 常 に 厳 し い も の で あ っ た 。 こ の お 盆 の い み つ つ し む 期 間 に お こ な っ た 行 を 、 高 野 の 僧 侶 は 、 一 面 で は 一 切 衆 生 の 往 生 を 願 い 、 そ の 反 面 、 自 身 の 滅 罪 生 善 の た め の も の と う け と っ て い る。 ﹃ 高 野 山 衆 徒 転 昇 次 第 ﹄ (天 保 三 年 撰 親 王 院 蔵 ) に は 、 七 月 朔 日 か ら 三 日 間 の 陀 羅 尼 会 と 七 日 か ら の 不 断 経 は と も に ﹁ 法 界 万 璽 之 追 福 也 ﹂ と す る 。 (2) 同 会 の 内 容 先 づ 、 今 行 っ て い る 行 事 を 紹 介 す る 。 八 月 に 入 る と 、 本 山 法 会 課 で ﹁ 不 断 経 時 繰 表 ﹂ が 作 ら れ る 。 こ れ で 配 役 が 決 ま る 。 平 成 五 年 度 の 同 表 に は 次 の よ う に あ る 。 こ れ は 新 八 月 一 日 か ら 本 山 ﹁ 中 門 ﹂ に 掲 か げ ら れ 、 七 日 に 金 堂 に 移 さ れ る 。 三 十 人 替 助 法 西 南 院 ( 以 下 五 十 八 名 、 名 は 略 す ) 三 十 人 替 恵 光 院 ( 以 下 十 七 名 、 同 右 )
日 経 壇 七 日 初 経 東 西 南 院 七 日 初 経 西 西 門 院 七 日 終 経 東 不 動 院 七 日 終 経 西 一 乗 院 ( 以 下 十 三 日 終 経 ま で の 分 略 す ) 経 頭 配 役 七 日 始 経 、 持 明 院 徒 弟 井 川 崇 高 七 日 終 経 明 王 院 徒 弟 高 岡 隆 安 ( 以 下 十 三 日 終 経 ま で 略 す ) 以 上 が 、 行 法 に 出 仕 す る 配 役 の 名 で あ る。 三 十 人 替 助 法 と 三 十 人 替 と は 、 職 衆 で 理 趣 経 を 節 を つ け て 読 諦 し 、 行 道 を す る 、 内 陣 の 中 壇 と 金 剛 界 壇 ( 西 側 ) ・ 胎 蔵 界 壇 ( 東 側 ) の 外 側 を 廻 り 、 外 陣 に 出 る 。 こ こ で は 行 道 す る 道 筋 は 、 畳 が は ず さ れ て い る。 三 十 人 替 助 法 と は 、 現 在 で は 各 院 の 住 職 の 中 、 阿 閣 梨 以 上 で 法 印 (強 校 ) に な る 前 の 人 を 寺 家 一 膓 と い う が 、 そ の 人 ま で 。 三 十 人 替 は 、 阿 閣 梨 以 下 全 員 と な り 、 ﹁ 阿 闇 梨 ﹂ 位 が 境 と な っ て い る 。 こ の 場 合 、 三 十 人 替 の 人 員 が 主 体 で 、 そ れ 以 上 の 三 十 人 替 助 法 の 人 々 は そ の 手 助 と い う 存 在 で あ る。 日 経 壇 と は 、 金 ・ 胎 両 壇 に 登 壇 し 供 養 法 を 行 う 供 養 法 師 で 、 住 職 の 中 で も 、 寺 家 一 蕩 以 下 、 一 年 間 明 神 さ ん の 頭 役 を つ と め た 人 ( ﹁ 明 神 の 奉 送 迎 ﹂ の 項 で 詳 し く 説 明 す る ) 以 上 で 、 宿 老 明 神 講 の 構 成 員 に 順 次 に 宛 て ら れ る 。 経 頭 は 、 各 院 所 属 の 徒 弟 の 中 を 、 交 衆 ( 高 野 山 の 僧 と し て 金 剛 峯 寺 に 籍 を 入 れ る ) の 順 に 宛 て て い く 。 配 役 表 に も ﹁ 何 々 院 徒 弟 ﹂ と あ る 。 な お 、 法 印 (検 校 ) は 、 中 日 に 当 る 七 月 十 日 の 中 経 に 出 仕 し 、 中 央 の 旦 で 理 趣 法 を 行 う 。 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 以 上 で あ る が 、 こ の 行 法 の た め の 準 備 と し て は 、 東 側 の 胎 蔵 界 壇 に 祀 ら れ る 曼 陀 羅 の 裏 側 に は 真 然 大 徳 の 軸 を か ざ り 、 そ の 前 に 机 を 置 き 供 え 物 を す る。 こ れ を 真 然 壇 と い う 。 西 側 金 剛 界 曼 陀 羅 も 裏 に 釈 迦 如 来 の 軸 を か け 、 真 然 壇 と 同 じ よ う に 祀 り 、 釈 迦 壇 と い う。 特 に 真 然 大 徳 を 祀 り 、 法 会 で も 重 要 視 し て い る 。 高 野 山 で は 、 何 か に つ け て 祖 師 弘 法 大 師 を 信 仰 の 中 核 に し て い る が 、 こ こ で は そ の 跡 を つ い だ 真 然 大 徳 が そ の 中 心 と な っ て い る 。 こ の 場 合 、 高 野 の 僧 の 先 師 の 代 表 と し て 供 養 さ れ て い る と 理 解 さ れ る。 外 陣 正 面 に は 、 背 の 高 い 経 机 が 据 え ら れ 、 そ の 上 に 大 き な 香 櫨 が 置 か れ 、 中 に 香 木 が 立 て ら れ て い る 。 こ の 前 で 、 経 頭 は 、 経 の 頭 を 読 む。 行 法 は 、 毎 朝 三 座 と 今 で は な っ て い る。 少 し 前 、 昭 和 二 十 五 ・ 六 年 ま で は 、 朝 夕 三 時 ( 回 ) 計 六 時 ( 回 ) が 行 わ れ な か て い た (山 口 耕 榮 師 談 ) 。 一 座 の 中 に 、 始 め 経 ・ 中 経 ・ 終 り 経 の 三 段 が あ り 、 こ れ が 一 時 で あ る 。 た だ し 初 日 ( 七 日 ) は 、 二 座 (始 め 経 ) と 終 り 経 が 二 回 だ け で あ る 。 朝 ・ 夕 あ る 時 は 、 朝 の が そ う で あ っ た 。 こ れ は 江 戸 時 代 で も そ う で あ っ た が 、 こ の 三 座 の 中 の 初 経 の 人 は 、 奥 の 院 掃 除 に 参 ら な け れ ば な ら な か っ た か ら で あ る。 初 日 ( 七 日 ) の 始 め 経 は 、 一 同 真 然 壇 の 前 か ら 行 道 を は じ め る。 供 養 法 師 は 、 各 々 金 ・ 台 両 壇 に 登 っ て 行 法 を は じ め る 。 一 座 の 間 に 、 職 衆 は 理 趣 経 を 一 巻 行 道 を し な が ら 読 み あ げ る 。 江 戸 時 代 は 三 巻 で あ っ た 。 次 に 中 経 に う つ る が 、 行 道 は つ づ け ら れ 、 壇 を 下 り た 供 養 法 師 は 、 同 時 に 下 壇 し 、 一 礼 し 内 陣 の 座 席 に 並 ん で 一 た ん 座 に つ く が 、 行 道 衆 が 来 る と 、 立 っ て 、 そ の 中 に 加 わ る 。 中 経 の 供 養 法 が 当 っ て い る 両 人 も 、 行 道 衆 の 中 に い る が 、 本 尊 前 ま で 来 る と 、 す 一 と 抜 け て 自 分 に 当 て ら れ た 壇 の 前 に す す み 、 登 壇 、 行 法 に か か る 。 こ の 両 人 の 呼 吸 が あ い 、 作 法 も 同 時 に す す ま な い と 、 調 子 が 狂 っ て し ま う。
終 り 経 の 最 後 に 、 ﹁ 渡 し 経 ﹂ と ﹁ 受 け 経 ﹂ が 行 わ れ る 。 一 巻 が 終 る 頃 、 承 仕 は 金 堂 の 縁 に 出 、 衣 の 袖 を ふ っ て 大 塔 の 鐘 つ き 道 心 に 指 図 を す る と 、 鐘 を つ く 。 コ ノ 鐘 ﹂ ﹁ 二 ノ 鐘 ﹂ ﹁ 三 ノ 鐘 ﹂ と 、 同 じ 動 作 が 、 少 し あ い を お い て 三 回 繰 り 返 さ れ る 。 行 法 の 終 り を 告 げ る の で あ る 。 そ の 頃 、 行 道 が 真 然 壇 の 前 に さ し か か っ た 時 、 職 衆 の 中 の 二 萬 ( 近 頃 は 本 山 法 会 部 長 な ど が 代 る こ と も あ る ) が 、 列 か ら 抜 け て 、 畳 席 の 本 尊 壇 に 近 い 所 に 座 し 、 中 啓 を 立 て て 西 ( 金 剛 界 壇 ) の 方 に 向 う 。 一 巻 が 終 り 、 次 回 の 理 趣 経 ほ つ と ん に か か っ た 時 、 頭 人 が 正 面 経 机 の 所 で 発 音 し 、 終 る と 、 職 衆 と と も に 列 を く づ し て 走 り 、 釈 迦 壇 の 本 尊 壇 近 く に 集 り 、 二 繭 に 対 し 、 初 段 の ﹁ 能 作 一 切 如 来 ﹂ の 文 を 高 声 に 合 唱 す る 。 こ れ を ﹁ 渡 し 経 ﹂ と い う 。 こ れ に 対 し 、 つ づ く ﹁ 一 切 印 平 等 ﹂ の 文 を 、 受 取 人 の 二 繭 が 、 こ れ ま で 大 声 で 唱 え か え す。 こ れ を ﹁ 受 け 経 ﹂ と い う 。 終 っ て 一 同 退 出 す る 。 次 の 朝 の 始 め 経 は 、 一 同 眞 然 壇 の 前 に 立 ち 、 二 藤 が 、 昨 日 の 経 の つ づ き の 文 の ﹁ 種 々 事 業 ﹂ を 読 み あ げ る こ と か ら 行 道 は は じ ま る 。 こ の 法 会 は 、 も と は 文 字 通 り 昼 夜 不 断 の 行 で あ っ た 。 こ れ が 一 日 朝 ・ 夕 二 度 の 六 時 ( 回 ) と な る 。 一 歩 後 退 で あ る が 、 不 断 経 で あ っ た 時 代 の 作 法 を 残 し て い る。 朝 夕 二 度 と な っ た 時 で も 、 朝 座 の 終 り 経 に も 、 ま た 夕 座 の 終 り 経 の 時 、 こ の ﹁ 渡 し 経 ﹂ と ﹁ 受 け 経 ﹂ は 行 わ れ て い た 。 江 戸 時 代 に ﹁ 隔 夜 行 法 ﹂ と あ る の は 、 夕 方 の 部 を さ し て い る 。 最 後 の 結 願 に 当 る 十 三 日 夜 の 終 り 経 は 、 江 戸 時 代 に は ﹁ 総 隔 夜 ﹂ と 呼 ば れ て い た 。 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹄ ( 文 化 六 年 ︿ 一 八 二三 ﹀ 寛 海 筆 、 高 野 山 大 学 図 書 館 蔵 ) に は 、 ﹁ 十 三 日 ノ 夜 、 総 隔 夜 ト 謂 、 皆 参 ﹂ と あ り 、 住 職 全 員 が 出 席 し て い た が 、 今 は こ れ が な く な っ て い る 。 こ の 時 に は 、 ﹁ 渡 し 経 ﹂ は し な く 、 一 同 真 然 壇 の 前 で 、 同 壇 に 向 っ て 立 ち 、 理 趣 経 最 後 の 回 向 の 部 分 を あ げ る 。 こ れ は 、 ﹁ 後 僧 正 ( 眞 然 大 徳 ) 二 附 属 シ 奉 ル 意 ナ リ ﹂ ( 水 原 尭 榮 師 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹄ 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 ﹁ 不 断 経 ﹂ な ど ) と 理 解 さ れ て い る 。 こ れ に よ る と 、 後 を 同 師 に 託 す る と い う 意 味 に と れ る 。 な お 、 同 日 に は 、 眞 然 壇 に ﹁ 杉 盛 り 御 飯 ﹂ と い い 大 き い 仏 器 に 大 盛 に 白 御 飯 を も っ て 供 え る。 い ず れ に し ろ 、 眞 然 大 徳 に 供 養 を す る た め で 、 お 盆 の こ と で も あ り 、 同 師 を 祀 る と 同 時 に 、 諸 先 徳 へ の 供 養 の 心 も こ あ て い る と 思 え る 。 (3) 同 会 の 変 遷 こ の 法 会 は 、 平 安 後 期 寛 治 八 年 ( ( 一 〇 九 四 ) に は じ め ら れ た。 期 間 は 七 月 七 日 か ら 一 周 間 で あ っ た 。 内 容 に つ い て は 、 鎌 倉 時 代 に な り 、 正 応 二 年 ( 一 二 八 九 ) ﹁ 高 野 山 諸 衆 評 定 置 文 案 ﹂ ( 前 出 ) と 同 四 年 の ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 帳 ﹄ に 詳 し く 記 述 さ れ て い る。 こ れ ら を み る と 、 今 行 っ て い る の と 、 基 本 的 に は 全 く 同 じ で 、 非 常 に 伝 統 が 守 ら れ て い る こ と が 理 解 出 来 る。 同 二 年 に 評 定 に よ り 定 め ら れ 、 こ れ に も と づ き 同 四 年 に ﹃ 年 中 行 事 帳 ﹄ と し て ま と め た も の と 思 え る。 ﹃ 年 中 行 事 帳 ﹄ に は 、 不 断 経 は ﹁ 七 日 ヨ リ 、 金 堂 一 七 箇 日 夜 ﹂ で 、 供 養 法 は 供 僧 分 が 膓 次 に 行 い 、 交 互 に 甲 乙 の 年 が あ り 、 甲 に 当 る 年 は 東 壇 ( 金 剛 界 壇 ) が 上 萬 で あ る。 前 記 ﹁ 置 文 案 ﹂ に は 、 ﹁ 六 番 二 渉 リ 、 昼 夜 無 ク 行 ウ ﹂ と あ り 、 供 僧 と 衆 僧 が 、 供 養 法 と 理 趣 三 昧 を 行 っ て い る 。 供 養 法 は 供 僧 、 理 趣 三 昧 は 衆 僧 が 行 う が 、 こ の 中 に は 経 頭 と 職 衆 が い る 。 始 め 経 と 渡 し 経 の 名 も あ る の で 、 六 座 の 中 の 一 座 は 、 今 日 阿 様 、 始 ・ 中 ・ 終 の 三 段 に な っ て い た 。 こ の 三 段 で 、 供 養 法 は 東 ・ 西 各 一 座 で あ る が 、 理 趣 三 昧 は 今 は 一 回 と な っ て い る が 、 江 戸 時 代 の ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹂ (文 化 六 年 ︿ 一 八二三 ﹀ 寛 海 筆 前 出 ) に は 、 供 養 法 一 時 ( 回 ) に 六 座 ( 金 胎 各 三 ) 、 経 は 一 時 ( 回 ) に 三 巻 、 隔 夜 行 法 は 一 時 ( 回 ) に 四 座 ( 供 養 法 ) 、 経 は 二 巻 と あ る 。 隔 夜 行 法 と は 晩 の 部 ( 一 般 行 法 上 は 夕 座 と い う ) の こ と で 、 昼 間 の よ り 一 回 分 が 短 か く な っ て い る 。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ ( 五 ・ 九 三 頁 下 ) に よ る と 、 七 日 間 に 中 曲 三 昧 二 百 十 座 、 供 養 法 四 百 二 十 座 を 行 う と あ る。 一 日 三 十 座 と な る 。
昼 三 時 (回 ) 、 晩 も 三 時 ( 回 ) と す る と 、 昼 十 八 座 、 晩 十 二 座 と な り 計 算 が 合 う 。 こ の 時 代 理 趣 三 昧 の 諸 衆 は 七 十 人 と さ れ て い る の で 、 こ の 人 達 が あ げ る 経 の 総 計 は 一 千 四 百 七 十 遍 と ぼ う 大 な 数 と な る。 こ れ を 今 日 の に あ て て み る と 、 朝 一 時 ( 回 ) の 分 を 行 っ て い る だ け と な る 。 江 戸 時 代 に は 六 時 、 平 安 ・ 鎌 倉 は 、 六 番 に 組 ま れ た 諸 衆 が 、 一 日 中 行 っ た の で あ る 。 次 に 行 法 に か か る 人 の 問 題 で あ る が 、 鎌 倉 時 代 は 、 ﹁ 金 剛 峯 寺 衆 徒 言 上 案 ﹂ ( 前 出 ) に 、 供 養 法 は ﹁ 供 僧 分 ﹂ が 萬 次 に 行 う と あ る。 理 趣 三 昧 に か か る 人 に つ い て は 記 し て い な い が 、 そ れ 以 下 と 考 え ら れ る 。 江 戸 時 代 で は 、 ﹁ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹂ ( 寛 海 筆 前 出 ) に 、 供 僧 分 が や は り 供 養 法 を 行 っ て い る が 、 理 趣 三 昧 に つ い て は ﹁ 三 十 人 ﹂ が 出 て 来 、 四 日 に ﹁ 三 十 人 不 断 経 ノ 習 礼 ﹂ と あ り 、 こ の 位 階 の 人 が 主 体 と な っ て い る 。 し か し 、 同 時 代 初 期 の ﹃ 高 野 山 山 上 山 下 諸 伽 藍 見 録 井 年 中 行 事 ﹄ ( 旧 無 量 寿 院 蔵 、 学 侶 方 編 、 現 金 剛 峯 寺 蔵 ) に は ﹁ 一 時 二 百 口 許 ﹂ と あ り 、 ﹁ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹂ ( 高 室 院 蔵 、 中 田 ﹃ 高 野 山 文 書 ﹄ 第 六 巻 、 高 室 院 文 書 篇 二 ) や ﹃ 学 侶 作 法 ﹄ ( 金 剛 峯 寺 文 書 、 ﹃ 高 野 山 旧 記 ﹂ 十 四 所 収 ) は 、 同 時 代 中 頃 の も の と 考 え ら れ る が 、 八 十 人 、 同 時 代 末 の ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹂ ( 五 、 九 十 二 頁 上 ) に は 七 十 人 と な り 、 次 第 に 減 少 し て い る。 今 行 わ れ て い る ﹁ 三 十 人 替 ﹂ ﹁ 三 十 人 替 助 法 ﹂ か ら 考 え る と 、 三 十 人 が 中 核 で 、 そ れ 以 上 の 人 数 は 、 助 法 と い う 形 で 加 わ っ た と 考 え ら れ る 。 勿 論 人 員 は 、 今 日 と は 異 り 、 供 僧 以 下 の 人 々 に 宛 て ら れ た 。 明 治 時 代 に な り 、 大 改 革 が 行 わ れ 、 同 七 年 ( 一 八 七 四 ) ﹁ 寺 中 布 令 留 ﹂ ( 金 剛 峯 寺 蔵 ) に は 、 行 道 は 三 十 八 衆 、 行 法 法 師 は 一 座 両 壇 に 一 人 宛 、 ﹁ 書 時 ハ 三 座 、 夜 時 ハ 二 座 ﹂ と な り 、 ど ち ら も 一 時 ( 回 ) 分 と な っ て い る 。 六 時 ( 回 ) が 二 時 ( 回 ) と な っ て し ま い 、 大 変 な 簡 略 が お こ な わ れ た。 さ ら に 同 二 十 三 年 ( 一 八 九 〇 ) に は 、 金 剛 峯 寺 全 体 の 制 度 が 洗 い 直 さ れ て ﹁ 一 山 成 規 改 正 案 ﹂ は 大 衆 の 決 議 に よ り 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 十 二 月 十 九 日 定 め ら れ た 。 明 治 時 代 に 入 り 、 混 迷 、 沈 滞 し た な か か ら 新 し く 立 ち 上 ろ う と す る 姿 勢 が み え る。 不 断 経 も 、 七 日 午 前 六 時 か ら 十 三 日 暮 れ 六 ツ (午 後 六 時 ) ま で で 、 大 衆 が 一 日 六 時 ( 回 ) に 番 を 組 ん で 出 仕 す る 。 法 印 は ﹁ 開 白 ノ ミ 、 今 ハ 随 意 ﹂ 、 行 法 師 は 八 十 四 人 で 、 コ 時 二 人 宛 、 寺 家 一 蕩 ヨ リ 藤 次 二 配 ス ﹂ 。 経 頭 百 二 十 六 人 は 、 ﹁ 一 時 二 付 三 人 宛 、 衆 分 繭 次 二 配 ス ﹂ 。 別 に ﹁ 目 付 役 人 三 十 人 ﹂ が 設 け ら れ ﹁ 一 時 五 人 宛 捲 当 申 シ 付 ク ﹂ と あ る 。 計 算 す る と 、 一 日 に 書 ・ 夜 二 度 、 各 六 人 の 供 養 法 師 が 登 壇 し な い と 、 こ の 人 数 は こ な せ な い 。 つ ま り 、 夜 も 同 じ 三 座 に な っ た と 思 え る。 経 頭 師 は 、 こ れ ま で の 計 算 で い く と 、 行 法 師 の 半 数 の 四 十 二 人 で よ い 筈 の が 、 そ れ よ り 多 く 百 二 十 人 と あ る。 と す る と 、 一 座 に 三 巻 読 ま な く て は つ じ つ ま が 合 わ な い。 今 で も 一 座 に 一 巻 と い う の は 、 行 法 師 に と っ て は 普 段 よ り ず っ と 早 く 拝 ま な く て は 間 に 合 わ な い 。 こ れ を ゆ っ く り と 行 法 を し た い と い う 意 見 が あ っ た と 思 え る 。 目 付 役 人 と い う の は 、 こ れ ま で に な か っ た こ と で 、 沙 汰 人 が 当 っ て い た 。 こ の 役 を つ く り 法 会 を 引 き し め た も の と 思 え る 。 そ の 三 十 人 と は 、 行 道 の 中 心 に な っ て い た 僧 階 の ﹁ 三 十 人 ﹂ の こ と で あ ろ う か 。 同 四 十 一 年 ( 一 九 〇 八 ) の ﹁ 改 正 出 仕 規 定 ﹂ ( 前 出 ) で は 、 次 の よ う に な っ た。 一 、 不 断 経 は 、 一 山 住 職 を 二 分 し 、 一 分 は 午 前 八 時 、 一 分 は 午 後 二 時 と し 、 時 刻 正 確 に 出 勤 す る こ と。 一 、 不 断 経 行 法 師 は 、 三 十 人 替 り を 除 く 外 、 行 法 折 返 し 配 役 致 シ 候 条 ( 中 略 ) 、 尤 、 行 法 師 は 阿 閣 梨 以 上 、 三 十 人 替 り は 入 寺 以 下 衆 分 ま で の こ と。 一 山 全 住 職 が 二 分 さ れ て 理 趣 三 昧 に は 出 仕 し て い る 。 勿 論 経 頭 は 、 徒 弟 の 中 か ら 交 衆 順 に 当 る と 考 え ら れ る 。 行 法 師 を 阿 閣 梨 以 上 と 引 き 上 げ て お り 、 三 十 人 替 り は 入 寺 以 下 と 、 今 日 の 状 態 と な っ て い る。 た だ 三 十 人 替 助 法 を つ く る 必 要 は ま だ な か っ た 。
法 印 ( 捻 校 ) の 出 仕 に つ い て は 、 霊 如 撰 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹂ (前 出 ) な ど に 七 日 朝 の 出 仕 と あ り 、 同 二 十 三 年 の 規 制 に も 認 め ら れ る 。 こ れ が 今 で は 中 日 の 十 日 と な っ て い る。 こ の 初 日 と あ る の は 、 後 で ふ れ る が 六 日 に 教 団 の 組 織 ・ 位 階 昇 進 の 評 定 が 行 わ れ 、 初 日 の 法 会 で ﹁ 衆 抜 ﹂ ﹁ 墨 引 上 げ ﹂ を 法 会 の 中 で 行 わ な く て は な ら ず 、 こ れ を 見 取 り 必 要 が あ っ た と 考 え ら れ る 。 十 三 日 の 結 願 は 、 江 戸 時 代 に は ﹁ 惣 隔 夜 ﹂ と い い ﹁ 皆 参 ﹂ 、 つ ま り 全 員 出 席 で あ っ た。 し か し 同 月 上 中 旬 に 天 野 に 行 法 ( 四 人 ) 、 護 摩 ( 二 人 ) に 行 く 六 人 は 除 外 さ れ た ( 霊 如 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹄ (前 出 ) ) 。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ ( 五 ・ 九 三 頁 ) に は 、 大 衆 千 三 百 人 ば か り と あ る 。 今 、 金 堂 外 陳 に は ぎ っ し り つ め る と 一 千 二 百 人 位 い は 坐 れ る と い う 。 堂 一 ぱ い に ひ し め き 坐 す 僧 の 姿 を 思 う と 、 そ の 盛 大 さ が し の ば れ る 。 明 治 七 年 ( 一 八 七 四 ) の ﹁ 寺 中 布 令 留 ﹂ ( 前 出 ) の ﹁ 覚 ﹂ に は 、 ﹁ 惣 隔 夜 ノ 勤 方 、 近 年 不 作 法 ノ 由 、 相 イ 聞 コ ウ 、 諸 人 不 法 ノ 基 二 候 間 、 神 妙 二 相 イ 勤 メ ラ ル 可 ク 候 ﹂ と あ る 。 一 た ん は 取 り 締 あ ら れ て い る が 、 今 で は 行 わ れ て い な い。 眞 然 壇 に は 、 江 戸 時 代 に は 、 大 仏 供 と ロ ー ソ ク 二 本 を 供 え た ( 霊 如 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹄ ( 前 出 ) ) 。 こ の 壇 に つ い て は 、 今 の と こ ろ 同 時 代 の し か 記 録 が 見 付 っ て お ら な い 。 平 安 ・ 鎌 倉 時 代 に は 、 不 空 三 蔵 が 供 養 さ れ て い る。 江 戸 時 代 に は 、 こ の 法 会 は 大 改 革 が 行 わ れ て お り 、 こ の 時 に 入 れ 替 っ た の で は な い か と 考 え て お き 度 い 。 南 北 朝 時 代 の 記 録 に な る が 、 正 平 十 五 年 ( 一 三 六 〇 ) の ﹁ 高 野 山 五 番 衆 評 定 事 書 ﹂ ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 六 ) に 、 ﹁ 十 三 日 夜 、 引 上 ノ 貝 ノ 事 ﹂ と あ り 、 実 際 の 結 願 の 終 は 十 四 日 卯 ノ 時 (午 前 六 時 ) と な る が 、 こ れ を 貝 ( 螺 ) を 吹 い て 知 せ 、 時 を 計 る の は ﹁ 時 香 ﹂ に よ る と あ る。 ﹁ 時 香 ﹂ と は 、 常 香 を た き 、 そ の 燃 え て 来 た 筒 所 で 時 間 を 計 る の で あ る 。 今 の 時 計 で あ る 。 行 法 の 期 間 中 、 常 香 盤 が 中 壇 前 に 置 か れ 、 常 香 が た か れ て い る。 こ れ は 年 中 た き つ づ け ら れ て 高 野 山 の 年 中 行 事 、
密 教 文 化 い る の で 、 不 断 経 の た め だ け で は な い。 し か し も と は こ の 役 目 が あ っ た か と 推 察 さ れ る。 そ の 終 了 の 日 時 に つ い て 、 明 治 時 代 に は 、 ﹁ 一 山 成 規 改 細 則 ﹂ に は 、 十 三 日 暮 れ 六 ツ と な っ て お り 、 翌 朝 に 繰 り 越 す か ど う か は 、 案 で あ っ た と 推 測 さ れ る 。 そ こ に は 長 い 厳 し い 行 を 少 し で も 早 く 止 め て ほ し い と の 大 衆 の 願 望 が 働 い て い た と 思 え る 。 行 事 の 終 り の 鐘 の 問 題 で あ る が 、 こ れ も 最 初 か ら 行 わ れ て い た と 思 わ れ る。 正 安 四 年 ( 一 三 〇 二 ) の ﹁ 高 野 山 諸 衆 評 定 置 文 案 ﹂ ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 四 ) で 、 七 月 一 日 か ら 行 わ れ る 陀 羅 尼 会 に 、 ﹁ 参 堂 ノ 為 、 螺 以 前 二 金 堂 ノ 鐘 ヲ 鳴 ラ ス 可 シ ﹂ と あ る。 し か し 、 螺 ( 具 ) を 吹 い て 集 会 の 合 図 と し た こ と は 、 江 戸 時 代 に は な く な っ て い る。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ ( 五 ・ 八 一 頁 上 ) の 金 堂 常 楽 会 の 項 に 、 ﹁ 往 古 ハ 巳 貝 ノ 定 メ 、 集 会 ノ 鐘 ヲ 撞 ク ﹂ と あ る 。 こ れ は 常 楽 会 に つ い て で あ る が 、 全 般 的 に こ の 時 代 に な る と 、 貝 を 吹 い て 合 図 す る こ と は 廃 さ れ た と 考 え て よ い 。 ﹁ 夏 安 居 ﹂ の 項 で ふ れ る が 、 寛 文 四 年 ( 一 六 六 四 ) か ら 、 七 月 十 五 日 に 金 堂 に 供 花 の 行 を し た 夏 衆 が 、 奥 の 院 掃 除 に 参 る の を 廃 絶 し た 。 代 っ て 七 日 の 辰 の 刻 の 不 断 経 を す る 諸 衆 が こ れ に 参 る こ と と な っ て い る ( 霊 如 ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹂ (前 出 ) ) 。 (4) そ の 他 (ア) 諸 規 制 法 会 の 出 欠 な ど に 対 す る 罰 則 は 、 こ の 不 断 経 に 対 し て も 厳 し い も の が あ る 。 鎌 倉 時 代 に は 、 特 に そ う で あ っ た 。 正 磨 二 年 ( 一 二 八 九 ) 七 月 六 日 、 つ ま り 同 四 年 に 年 中 行 事 帳 を 仕 上 げ る 前 、 こ の 法 会 に 対 す る 罰 則 が 定 め ら れ て い る 。 ﹁ 高 野 山 諸 衆 評 定 置 文 案 ﹂ ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 三 ) に ﹁ 不 断 経 精 誠 爲 ル 可
キ 事 ﹂ の 条 が あ る 。 出 欠 に 関 し て は 、 ﹁ 六 番 二 渉 リ 、 書 夜 無 ク 遅 参 者 ヲ 簡 別 シ 、 始 経 ノ 一 段 ハ 早 出 ノ 者 、 縫 目 ノ 一 匝 行 道 ハ 遅 参 ・ 早 出 ノ 罪 科 ヲ 発 願 シ 、 不 参 ノ 者 ハ 一 巻 経 、 供 僧 分 二 於 テ ハ 行 法 一 座 ヲ 発 願 ス ベ シ ﹂ と あ る。 早 出 の 者 と は 、 法 会 が 終 ら ぬ 前 に 退 出 し た 者 の こ と と 思 え る 。 こ れ に は 、 ﹁ 始 メ 経 ノ 一 段 ﹂ を 罰 に 課 す る と あ る が 、 理 趣 経 の 最 初 の 一 段 の 頭 を と る こ と で あ ろ う か 。 同 じ 罪 と 遅 れ た 者 と は 、 継 目 の 一 匝 行 道 、 欠 席 者 に は 一 時 ( 回 ) 分 の 理 趣 経 の 読 諦 、 供 養 法 に 欠 席 し た 者 は 一 座 分 の つ ぐ な い を 、 自 分 の 発 願 と い う 形 で 課 せ ら れ る 。 早 出 の 者 に は 二 種 の つ ぐ な い が あ る の は 、 同 じ こ と で も 程 度 の 差 が あ る の で あ ろ う か 。 次 に ﹁ 十 三 日 夜 、 遅 参 ・ 早 出 井 ビ ニ 不 参 ノ 者 ハ 、 大 湯 屋 ノ 湯 ヲ 沸 ス 可 シ ﹂ と あ る。 結 願 の 十 三 日 夜 の 部 は 特 に 重 要 視 さ れ 、 罰 を 受 け る 対 象 者 は 、 共 同 で 大 湯 屋 の 湯 を 沸 し 、 大 衆 に 入 浴 さ せ る つ ぐ な い が 要 求 さ れ て い る。 次 に 、 何 か の 都 合 で 前 も っ て 出 席 出 来 な か っ た 時 、 ﹁ 寺 用 ノ 大 用 ノ 使 者 ノ 外 、 衆 ・ 供 僧 同 ジ ク 遠 行 ノ 者 ハ 、 代 官 ヲ 立 テ 、 現 所 勢 者 ハ 、 嚴 密 ナ ル 起 請 文 ヲ 出 ス 可 シ ﹂ と あ る 。 金 剛 峯 寺 の 重 要 な 事 の 使 者 と し て 派 遣 さ れ る 以 外 で 、 衆 僧 ・ 供 僧 が 遠 出 を す る 時 に は 代 理 者 を 立 て 、 病 気 で あ れ ば 、 起 請 文 を 提 出 し な け れ ば な ら な い 。 前 の 不 参 の 者 と あ る の は 、 こ の 手 続 を し な く て 無 断 で 欠 席 し た 者 か と 思 え る 。 ﹁ 二 親 ・ 師 匠 井 ビ ニ 重 恩 ノ 輩 ノ 葬 家 、 及 ビ 所 勢 ニ テ 獲 麟 ノ 事 ノ 者 ハ 、 嚴 重 ナ ル 誓 状 ヲ 出 ス 可 シ 、 其 ノ 儀 無 キ 者 ハ 、 代 官 ヲ 立 ツ 可 シ ﹂ と あ る。 死 の 忌 み 、 ま た 臨 終 に 立 ち 合 う こ と ( 獲 麟 ノ 事 ) も 、 こ の 忌 み が あ る と し て 同 じ く 誓 状 を 出 す こ と だ け で 欠 席 を 認 め ら れ て い る 。 も し 、 こ の 諸 衆 の 評 定 ( 申 し 合 せ ) に 逆 く 者 が あ れ ば 、 ﹁ 一 萬 ノ 師 匠 、 寺 家 ヲ 改 易 シ 、 所 職 ヲ 進 退 ス 可 シ 、 無 所 帯 ノ 輩 二 於 テ ハ 、 永 ク 交 衆 ノ 札 ヲ 出 ス 可 シ ﹂ と あ る。 ﹁ 一 萬 ﹂ と は 諸 衆 の 中 の 一 繭 で 、 そ の 師 匠 が 出 て 来 、 当 人 の 住 す 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 る 院 と 役 職 を 取 り 上 げ 、 こ れ ら が 無 い 者 に つ い て は 、 ﹁ 交 衆 ノ 札 ﹂ を 差 し 出 さ せ 、 金 剛 峯 寺 の 僧 籍 を 取 り 上 げ る 。 ま た 、 遅 参 ・ 早 出 ・ 不 参 の 者 で 、 所 定 の 罪 科 を 承 服 し な い 者 は 、 当 番 の 沙 汰 人 が 年 預 方 に 知 ら せ 、 同 じ く 交 衆 の 札 を 出 さ す 。 な お 、 こ の こ と か ら 法 会 を と り し き っ て い る 役 は 沙 汰 人 で あ る こ と も 分 る 。 以 上 が 罰 則 で あ る が 、 法 会 に つ い て も 、 次 の よ う な 規 制 を 定 あ て い る 。 出 入 口 は 、 正 面 は 検 校 、 東 西 の 脇 妻 戸 は 諸 衆 で 、 現 在 で も こ の 規 則 は 守 ら れ て い る。 た だ し 脇 か ら の 出 入 は 、 今 で は 東 側 だ け で あ る 。 こ こ に 中 間 法 師 以 下 雑 人 の 出 入 は 禁 ず る 。 ﹁ 垂 髪 ノ 外 、 頸 帽 子 以 下 種 々 ノ 異 形 、 之 レ ヲ 停 止 ス 可 シ ﹂ と 、 服 装 に 関 す る 制 限 も あ る。 ﹁ 垂 髪 ﹂ と は 、 ﹁ 垂 髪 見 問 答 講 ﹂ ( ﹃ 高 野 春 秋 ﹂ 正 和 元 年 八 月 十 四 日 条 ) も あ り 、 稚 児 の 姿 と 思 え る。 ﹁ 頸 帽 子 ﹂ と は ﹁ 帽 子 ﹂ と 呼 ば れ る 首 に ま く も の を 指 す か と 思 え る 。 今 で も 平 素 は 上 綱 以 下 は 使 わ れ な い 。 つ つ し み を 現 わ す た め の 服 装 の 制 限 で あ ろ う か 。 ﹁ 兵 士 ノ 外 、 壇 上 二 於 テ 、 大 刀 ・ 長 刀 ・ 杖 、 之 レ ヲ 停 止 ス 可 シ ﹂ と あ る 。 壇 上 は 特 に 神 聖 な 場 と さ れ て い る が 、 こ の 法 会 中 は 、 武 器 の 類 も 取 り 締 ま ら れ て い る 。 次 に 、 徳 治 二 年 七 月 六 日 に は 、 ﹁ 不 断 経 兵 士 条 々 ﹂ が 諸 衆 の 評 定 に よ り 定 め ら れ て い る ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 五 、 ﹁ 高 野 山 諸 衆 評 定 置 文 案 ﹂ ) 。 第 一 条 に ﹁ 諸 庄 ノ 兵 士 ハ 、 皆 以 テ 正 員 爲 ル 可 シ ﹂ と あ り 、 現 病 ( 病 気 ) ・ 禁 忌 ( 忌 の あ る 者 ) で 欠 席 す る 場 合 は 、 ﹁ 厳 重 ナ ル 起 請 文 ﹂ を 捧 げ 、 子 息 又 は 親 類 を 代 官 に 立 て る。 も し 親 戚 の な い 人 は そ れ に 類 す る 者 を 用 意 し な け れ ば な ら な い。 第 二 条 は 、 登 山 す る 兵 士 は 、 七 日 の 申 の 刻 ( 午 後 四 時 ) の 貝 が 吹 か れ る ま で に 、 年 預 坊 に 到 着 し な け れ ば な ら な い 。 そ こ で 当 番 の 沙 汰 人 に ﹁ 参 不 ノ 注 文 ﹂ を と り 、 不 参 の 場 合 に は 誓 状 を 提 出 さ せ る 。 終 っ て ﹁ 七 日 戊 ノ 時 ( 午 後 八 時 )
自 リ 、 番 々 二 渉 リ 披 露 有 ル 可 シ ﹂ と 、 晩 に そ の 順 番 が は じ ま る 。 万 一 、 順 番 を 書 い た 年 預 か ら の 注 文 を 本 人 が 当 番 の 沙 汰 人 に 渡 さ な い 場 合 に は 、 大 湯 屋 の 湯 を 供 養 す る。 ま た 当 番 沙 汰 人 が 、 こ れ を 受 取 っ て 一 同 に 披 露 し な け れ ば 、 同 罪 で あ る。 た と 第 三 条 は 、 不 参 の 者 に 対 す る 罰 で あ る が 、 ﹁ 縦 イ 一 人 乃 至 十 人 爲 リ ト 雛 モ 、 同 ジ ク 金 堂 ノ 礼 堂 ノ 畳 ヲ 差 ス 可 キ 事 ﹂ と あ る 。 ﹁ 金 堂 ノ 礼 堂 ﹂ と は 、 外 陳 の こ と で あ る。 礼 堂 と し て 増 築 さ れ た も の と 思 え る 。 一 人 に 何 枚 か の 畳 の 新 調 す る 罰 を 課 せ ら れ て い る 。 最 後 に 、 ﹁ 此 ノ 条 二 背 ク 輩 二 於 テ ハ 、 所 職 者 ヲ 改 易 ス 可 キ ナ リ ﹂ と 結 ん で い る 。 僧 侶 と 同 じ よ う な 責 任 と 罰 を 課 せ ら れ て い る が 、 何 の た め に 庄 園 の 正 規 の 兵 士 を も 微 集 し な け れ ば な ら な か っ た の か 。 そ の 疑 問 を 解 く 鍵 は 、 そ の 当 番 制 に 認 め ら れ る と 思 う。 最 初 の 七 日 の は じ ま り が ﹁ 戊 ノ 時 ﹂ ( 午 後 八 時 ) な の で あ る 。 夜 が ふ け て も 、 法 会 の 出 仕 の た め に 多 く の 僧 達 が 壇 上 を 往 来 す る。 ま た こ れ を 拝 む た め の 信 者 も 集 っ た と 想 定 さ れ る 。 そ の た め の 整 理 、 警 固 役 が 必 要 と な っ た の で あ る 。 鎌 倉 時 代 の こ の 二 文 書 の 日 付 は 、 と も に 七 月 六 日 で あ る 。 こ の 日 は 、 不 断 経 に 関 し て 評 定 を す る 時 で あ っ た。 南 北 朝 時 代 に 入 り 、 正 平 十 五 年 ( 一 三 六 〇 ) に 、 五 番 衆 の 評 定 が あ り 、 ﹁ 十 三 日 夜 、 引 上 ノ 貝 ノ 事 ﹂ ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 一 七 六 六 ( 前 出 ) ) が 規 定 さ れ て い る。 も と も と こ の 結 願 は 十 四 日 の 朝 卯 の 時 ( 午 前 六 時 ) の 段 で 終 る こ と に な っ て い る 。 そ れ を ﹁ 縮 め 経 ﹂ と い い 、 時 間 を 早 め て 読 経 す る こ と が は や っ て い る 。 子 (午 後 十 二 時 ) ・ 丑 ( 午 前 二 時 ) の 段 を は や め 、 卯 の 時 の を 夜 半 に 終 え て し ま い 、 引 上 の 貝 を 吹 い て い る 。 こ れ に 対 し ﹁ 若 シ 尚 ヲ 貝 ヲ 引 上 ゲ レ バ 、 承 仕 ノ 罪 科 為 ル 可 シ ﹂ と さ れ て い る。 法 会 を 早 く 仕 上 げ た い と い う 大 衆 の 願 望 が 認 め ら れ る 。 室 町 時 代 か ら 江 戸 時 代 へ の 転 換 時 期 に 、 諸 規 定 が 木 食 応 其 に よ り 再 確 認 さ れ て い る 。 天 正 十 七 年 ( 一 五 八 九 ) の 高 野 山 の 年 中 行 事
密 教 文 化 ﹁ 興 山 上 人 応 其 掟 書 ﹂ ( ﹁続 宝 簡 集 ﹂ 三 六 八 ) に 、 不 断 経 ・ 花 供 ・ 舎 利 会 や 大 事 の 祈 念 の 時 、 ﹁ 名 代 ト 号 シ 、 若 輩 ヲ 出 シ 置 カ レ ル ノ 条 、 甚 ダ 以 テ 然 ル 可 カ ラ ズ 、 或 ハ 難 シ キ 事 、 故 障 等 之 レ 在 ル ニ 於 テ ハ 、 役 人 方 へ 其 ノ 理 リ 有 ル 可 キ 事 ﹂ と あ る。 次 の 条 に 不 断 経 に 対 し 、 ﹁ 同 ジ ク 不 断 経 ノ 過 料 ハ 先 規 ノ 如 ク 為 ル 可 キ 事 ﹂ と 定 め ら れ て い る 。 明 治 初 年 が ま た 大 き な 節 目 で 、 同 十 一 年 ( 一 八 七 八 ) 頃 の も の と 思 わ れ る ﹁ 改 正 会 議 条 款 罰 則 見 込 ﹂ ( ﹃ 金 剛 峯 寺 文 書 ﹄ ) は 、 不 断 経 行 法 を 欠 席 し た 者 に は 焼 香 料 二 十 銭 、 経 頭 の 場 合 は 同 じ く 十 銭 と あ り 、 こ れ は 決 定 さ れ た と 思 え る 。 同 四 十 一 年 ( 一 九 〇 八 ) の ﹁ 改 正 出 仕 規 定 ﹂ ( 前 出 ) で は ﹁ 欠 勤 は 一 日 金 五 十 銭 ﹂ と あ り 、 こ れ は 両 者 同 額 か と 思 え る 。 同 規 定 の ﹁ 出 仕 人 心 得 ﹂ に 、 ﹁ 住 職 分 は 毎 日 出 仕 表 へ 必 ず 捺 印 を な し 退 出 の こ と ﹂ と あ り 、 今 で は 罰 則 は な く こ れ だ け が 残 っ て い る 。 長 谷 川 明 彦 師 談 に よ る と 、 昭 和 二 十 年 ま で は 、 一 回 欠 席 し た ら 五 十 銭 と ら れ た と い い 、 同 年 頃 ま で は 、 明 治 四 十 一 年 の 規 約 は 生 き て い た と い え る 。 (イ) 教 団 組 織 と の 関 連 修 正 会 と 不 断 経 と は 、 高 野 山 の 教 団 に と っ て は 、 そ の 組 織 を 調 整 す る 時 で も あ っ た 。 こ の 点 は 山 陰 加 春 夫 氏 が ﹁ 中 世 高 野 山 の 寺 院 生 活 ﹂ ( ﹃ 中 世 寺 院 組 織 の 研 究 ﹄ ) で 指 摘 さ れ て い る 。 特 に 観 応 元 年 ( 一 三 五 〇 ) の ﹁ 高 野 山 五 番 衆 評 定 置 文 ﹂ ( ﹃ 又 続 宝 簡 集 ﹄ 二 五 二 ) を 引 い て 、 ﹁ 毎 年 七 月 不 断 経 ノ 剋 、 井 二 十 二 月 札 書 ノ 期 ﹂ に 、 交 衆 の 出 入 を 禁 止 し て 人 員 の 整 理 を 行 っ た と さ れ る。 た し か に こ の 点 は 貴 重 な 指 摘 で あ る が 、 さ ら に 論 ず る な ら ば 、 こ の 両 会 の 中 で は 、 不 断 経 の 方 が 重 要 で あ っ た。 七 月 六 日 に は 、 前 に も 指 摘 し て お い た が 、 不 断 経 に 対 す る 評 定 を 行 い 、 諸 規 制 も 定 め て お り 、 ま た 位 階 の 昇 進 も 定 め て
い る 。 特 に ﹁ 墨 引 上 ゲ ノ 事 ﹂ と い い 、 諸 衆 か ら ﹁ 供 僧 ﹂ へ の 昇 進 を 行 っ て い る 。 法 会 で い え ば 、 理 趣 三 昧 か ら 供 養 法 を 行 う 供 僧 分 へ 昇 進 を 披 露 す る と と も に 、 そ の 仲 間 に 入 る 儀 礼 も 行 っ て い る。 修 正 会 に は 、 こ う し た こ と は な い 。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹂ ( 四 、 八 三 二 頁 下 ) ﹁ 三 十 人 ﹂ の 項 に ﹁ 七 月 六 日 、 墨 引 昇 進 の 作 法 あ り 、 是 よ り 三 十 人 の 用 務 を 勤 め ず 、 薄 墨 の 衣 を 脱 で 、 濃 黒 の 衣 を 着 て 、 供 僧 の 姿 に 改 め 、 其 の 列 に 坐 す ﹂ と あ る 。 ﹁ 墨 引 ﹂ と は 、 供 僧 分 の 僧 を 指 す が 、 そ の 衣 の 色 か ら 来 由 し た の で あ ろ う か 。 な お 、 ﹁ 年 預 任 日 の 記 籍 に 載 す ﹂ と も あ り 、 年 預 も 廻 っ て 来 る よ う に な る。 参 考 に 、 江 戸 時 代 の 位 階 を 示 す と 別 表(2) の 通 り で あ る。 こ の 中 で も 山 陰 氏 は 、 衆 分 ・ 入 寺 ・ 阿 闊 梨 が 、 主 要 な ポ イ ン ト に な る と 指 摘 す る 。 ( 別 表 )(2) 階 位 ( ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ 四 ・ 八 三 一-三 八 頁 ) あ が り ぐ ち 衆 分 ・ 下 座 ・ 昇 口 ・ 仲 座 ・ 十 人 番 ・ 六 供 ・ 三 十 人 ・ 三 昧 ・ 入 寺 ・ 山 籠 ・ 阿 閣 梨 ・ 已 灌 頂 ・ 読 書 ・ 竪 精 ・ 一 二 藤 ・ 左 右 学 頭 ・ 寺 務 検 校 執 行 法 印 大 和 尚 位 ・ 前 官 法 印 霊 如 の ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 行 事 ﹄ ( 前 出 ) 及 び ﹃ 金 剛 峯 寺 年 中 下 繰 ﹄ ( 前 出 ) に ﹁ 不 断 経 意 得 之 事 ﹂ が あ る 。 こ の 中 の 重 要 な 二 条 を 紹 介 す る。 先 づ ﹁ 金 堂 ニ テ 墨 引 上 ゲ ノ 事 ﹂ で 、 中 経 の ﹁ 無 戯 論 ノ 段 ﹂ ( 理 趣 経 最 後 の 段 ) に 入 っ た 時 、 眞 然 壇 の 前 で 、 年 預 代 が ﹁ 今 度 、 誰 死 去 二 付 、 入 寺 供 二 御 昇 進 候 間 、 床 二 御 着 キ 候 得 ﹂ ( 注。 言 葉 書 き の 部 分 は 原 文 を 引 く の で か た か な で 記 す ) と い う と 、 墨 引 が ﹁ 当 年 ハ 回 リ カ カ リ 候 間 、 行 道 致 ス 可 キ 由 ﹂ 申 す 。 一 た ん 遠 慮 す る が 、 高 野 山 の 年 中 行 事