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天野先生と持続可能性研究会

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Academic year: 2022

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著者 久野 武

雑誌名 総合政策研究

号 40

ページ 147‑150

発行年 2012‑04‑30

URL http://hdl.handle.net/10236/9452

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天野先生と持続可能性研究会

久野 武

天野先生との出会い

天野先生にはじめてお目にかかったのは霞が関 の会議室でだった。私は国立環境研究所に勤務し ていたのだが、すでに新たに設立される関学の総 合政策学部に行くことが決まっていたし、天野先 生がその初代学部長に就任されることも決まって いた。そんな事情を知っていた研究所の環境経済 学者である森田恒幸さんが紹介してくれるという ことになったのだ。高名な学者である天野先生に ご挨拶すると言うので、緊張していたのだが、現 れたのは白髪の温厚そうな長身の紳士で、ニコニ コとほほ笑んでおられ、なぜかしらほっとしたの を覚えている(その森田さんは2003年、53歳の若 さで急逝された。環境省の知恵袋として働かされ すぎたのだと噂された)。

1996年春、私は環境庁(現・環境省)を退職し、

当時総合政策学部しかなかった三田キャンパス にやってきた。まずは天野先生にご挨拶と思っ たのだが、天野先生は肺がんを発症され入院中と 聞き、愕然とした。その後、元気にキャンパスに 戻ってこられほっとしたものだった。

私は大学卒業以降、ずうっと役人生活しか知ら ず(といっても、その三分の一は国立公園の現地 レンジャーという変則的な役人だったが)、およ そ大学とは無縁に生きてきた。

役人世界では転勤、配置替えはしょっちゅう で、新しい職場に行っても決してスロースター ターではなかったと思うのだが、まったく未知 の、カルチャーがそもそも違う大学の世界ではと まどうことばかりで、思いっきりのスロースター ターだった。

天野先生にはすれ違ったり、バスで一緒になっ たときなど「慣れられましたか」といつも声をかけ てくださったのだが、ええ、まあと曖昧なジャパ ニーズスマイルで返すしかなかった。

ようやく大学と言うものに慣れ、学生との距離 のとりかたも安定し、自分なりの大学教員スタイ ルをようやく確立できたと自分自身思えるように なるのに、3年ほどもかかったのでなかろうか。

さて、1999年4月、天野先生は学部長二期を終 えられた。新学部長にはそれまで教務主任とし てずうっと天野先生を補佐されていた安保先生 がなられた。驚いたことに、安保先生は、私を 学生主任に指名されたのである。それからの2年 間、学部運営の一端に携わるようになって、は じめて天野先生の超人ぶりが少し理解できたよ うな気がした。

教員は専門分野がみなばらばらで、外国人教員 も4割。そうした教員をまとめねばならない。イ ンフラもまだまだ未整備。そして三田キャンパ スの実情を知らなさすぎる上ヶ原の大学本部や法 人。問題山積のなか、大学院の設立準備もしなけ ればいけない。こんななかで、天野先生はいつも 微笑を欠かされず、学部長としててきぱきと処理 されてきたのだ!

持続可能性研究会のこと

学部長を退かれたのち、天野先生は新学部長の 安保先生の後見役として安保先生を陰に日向に支 えつつ、三田での主たる活動を大学院の円滑な運 営のためのリサーチコンソーシアムの立ち上げと 展開に心を砕かれていたのでないかと推察してい る。というのも、学問としての総合政策学がどの ようなものになるかは、いろんな議論があるにせ よ、最低限、異分野間の研究者、専門家、実務家 の緊密なコラボレーションが必要なものであるこ とを痛感され、そのための仕掛けとしてのリサー

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チコンソーシアムを構想されたからである。

2002年3月、安保先生は学部長を退かれた。同 じ時、定年退職され時間の余裕がややできた天 野先生は、安保先生と二人三脚で、リサーチコン ソーシアム立ち上げの成果を踏まえ、具体的な共 同研究の場としての「持続可能性研究会」の組織化 に本格的に取り組み始められた。

かくて総合政策学部のみならず他学部や他大 学の教員、院生、そしてリサーチコンソーシアム 会員企業や地球環境フォーラムのメンバーなど20 名近い産官学の研究者、実務家有志の多彩なメン バーからなる持続可能性研究会は船出することに なった。

研究会での研究は「21世紀持続可能社会構築に 関する総合政策研究」というリサーチコンソー シアムの特別重点プロジェクトとして位置づけ られた。そして研究会は安保先生を研究代表と する「大学共同研究費」により運営されることに なった。

持続可能性研究会が発足し、2002年7月を皮切 りに、数カ月ごとに研究会例会が行われるよう になった。例会ではメンバー数名が研究発表を 行い、それに対して全員で活発な議論を行った。

或る意味では持続可能社会の在り方について議 論する知的サロンのようなものだった。2003年 4月までの5回の研究会で天野先生はじつに4回も 発表されておられ、いかに力を入れておられた かがわかる。

そして第6回目の研究会は2003年5月のリサー チ・コンソーシアム記念行事として全面展開され た。すなわち安保先生が司会し、天野先生が基調 報告を行い、4名の研究会メンバーをパネラーと するパネルデイスカッションとして結実した。

だが、その3週間後、思いもよらぬ悲報がもた らされた。安保先生が急性白血病で喪くなられた のである。私自身、第一報を聞いた時「うそ!」と 思わず叫んだ。

天野先生も深く悲しまれ落胆されたと思うが、

同時に異分野間での、そして産官学の共同研究の 立ち上げに執念を燃やしておられた安保先生の思 いを無にしてはならないと堅く決意されたことと 思う。

私自身はこの時点まで持続可能性研究会には参 加していなかったのだが、或る日、突然天野先生 が私の個人研究室を訪れられ、安保先生の後を継 いでこの研究会の研究代表になるよう慫慂された のである。

それからは天野先生の謦咳に接する機会は格段 に増えた。

さて、大学共同研究費は2年間で切れる。持続 可能性研究会の成果は天野先生と事務局を担当 された大江瑞絵先生の尽力により「持続可能社会 構築のための総合研究―CSR(企業の社会的責任)

とコミュニケーション」という市販本の出版と言 う形でとりまとめられ、私の責任もなんとか全う したかに思えたのであるが、当時の福田学部長か ら、折角立ち上げた産官学の共同研究の場である 持続可能性研究会を存続させてほしいとの強い要 請を受けた。

天野先生に異論のあるはずもなく、今度は大江 先生を研究代表とする共同研究費を申請した。そ して無事採択されたので、持続可能性研究会を引 き続き存続させることにして第二期の共同研究が 開始されることになった。

だがここで思わぬ蹉跌に遭遇する。学外研究 者を含む共同研究は学内共同研究費の趣旨に反 するし、研究成果の市販自体も好ましくないと 言う、信じられないような大学側からのクレー ムである。

私と大江先生は福田学部長や学部事務室と連絡 をとりつつ徹底抗戦するが、大学側はまったく譲 る気配はなく、このままでは共同研究の実施は不 可能と判断せざるをえなかった。ついに大学共同 研究の取り下げ申請を出すに至り、そしてその旨

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を天野先生に報告した。

私の知る限りいつも温厚だった天野先生だが、

このときばかりが烈火のごとく怒られた。ただち に大学トップにあて手紙を出された。その手紙の 最後の一節を引用する。

「持続可能性研究会のような研究会を行うのが そもそも認められないのであれば、なぜこれまで 順調に研究会を続けることが可能だったのか、ま た規定の変更や研究会の推進方法に変更がないの に、なぜ同じ形での研究を続けることができなく なったのか、学院としてご確認いただき、ご説明 いただければ幸いに存じます。ぶしつけなお願い であることは承知しておりますが、安保さんのた めにも、私は理解する必要があると感じてお便り した次第です」

福田総合政策学部長や篠崎総合政策学部担当課 長も、頑迷な大学側にそれぞれのルートで働きか けられ、ついに「取り下げ申請」を取り下げるとい う前代未聞の珍事のすえ、第二期共同研究は再び 動き出した。

ただし雨降って地固まるで、第三期にあたる安 雄治先生を研究代表とする2006−2007年度の大 学共同研究費は問題なく採択されただけでなく、

事実上の研究主体である持続可能性研究会は単な る任意団体から、関西学院大学特定プロジェクト センターである「持続可能社会研究センター」とい う大学の認知する公式の研究組織として位置づけ られた。

研究センターの設置期間は3年、つまり2008年 度までだが、大学共同研究費自体は2007年度まで なので、2007年度限りで持続可能性研究会=持続 可能社会研究センターはその幕を下ろすことにな り、第二期、第三期の共同研究の成果は「総合政 策研究」30号の特別号として発刊された。

6年間、25回に及ぶ研究会例会を開催したが、

私の知る限り天野先生は皆勤であった。という か、天野先生の日程を勘案して例会の日を決めて

いたのであり、天野先生自身の発表も11回に及ん だ。いかに天野先生の持続可能性研究会への思い 入れが深かったかがわかる。

こ の 持 続 可 能 性 研 究 会 の 試 み は 異 分 野 間 共 同研究の在り方としての一つのモデルになった のではないかと思うし、そしてアカデミックな 研究者とは言えない私自身もこの研究会例会で 学んだことはおおきく、それはネット上で毎月 発表してきた「H教授の環境行政時評」(http://

semi.ksc.kwansei.ac.jp/hisano/ 100 講 以 降 は 四 半期ごと)にも少なからず反映している。

ご逝去まで

2009年4月、私は5代目の学部長を拝命した。学 部運営には一期だけ学生主任として関わったこと があるが、学部長の重責はとてもその比ではない ことがわかり、いまさらながらその大先達である 天野先生の偉大さを実感した次第である。

2009年5月、天野先生が胆管がんで入院された ことを知り、お見舞いに伺った。先生はベッドの 上で、著書の校正をなされていたのに驚いた。私 はつい学部長の職務が上ヶ原との関係でいかに大 変かとこぼした。そのとき天野先生がおっしゃっ た言葉は今も鮮烈である。

「ぼくがはじめて総合政策学部長として上ヶ原 の会議に臨んだ時、或る人から<われわれは三田 を関学とは認めていません>と面と向かって言わ れましたよ」

それが天野先生とお目にかかり、お話しした最 後であった。

ただ、悔やんでも悔やみきれないことがある。

私は天野先生が研究などの公的生活一筋の方だと 思っていた。天野先生が大学時代はグリークラブ に属され作曲もなされたこと、奥様との出会いの こと、クラシック音楽をこよなく愛されていたこ と等の人間的な側面を知ったのは喪くなられた後

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だった。同じ音楽好きでも、単なるカラオケファ ンの私とはレベルがそもそも違うのだろうが、そ ういうお話をご存命中にぜひお聴かせいただきた かった。

天野先生、これからも総合政策学部の行く末を どうかあの世から見守ってください。

久野武(ひさの たけし 関西学院大学総合政策 学部 教授、持続可能性研究会)

参照

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