ビザンテイン世界におけるエレクサ型聖母子像の受容
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(2) 本論「ビザンテイン世界におけるエレウサ型聖母子像の受容」の目的は、エレクサ型聖母子像がビザンテ ィン世界においていかに理解されてきたのか、その受容の一端を解明することにある。エレウサとはギリシ ア語で「慈悲深き者」を意味するマリアの尊称であり、図像学的にはマリアと幼子キリストが頬を寄せ合う 姿を措いた聖母子像である。ビザンテインの聖母子像の中で最も人間的な表情を見せるエレクサ型はキリス ト教美術に感情表現の地平を拓いただけでなく、西欧中世の美術にも継承され、先のレオナルドやラファエ ロらの優美な表現にも影響を与えたとされる。しかし、これまではルネサンスにおける独自性のみが強調さ れ、ビザンテインに遡って議論されることはなかった。他方、ビザンテイン美術史の領域でも、現存作例の 少なさゆえに、その実態は未だ解明されてこなかった。 それは先学の努力不足のゆえではない。ビザンテイン美術の領域では、経年劣化は無論のこと、イコノク ラスム(726〜943年)、第4回十字軍とラテン帝国による占領(1204〜61年)、オスマン・トルコによる滅 亡(1453年)等、相次ぐ人為的な破壊・略奪により図像史料のほとんどが失われてしまっている。ビザンテ ィン帝国は古代ローマに継ぐ版図と文化圏を擁し、1100年の長きにわたって存続した帝国だった。もし帝国 が形を変えながらでも現在まで生きながらえていたならば、その文化遺産は膨大な数に上ったであろう。一 例を挙げるならば、帝都コンスタンティノポリスには、史料の上で名前が確認できるだけでも900ほどの聖 堂があった。現在のイスタンブールで目にすることができる聖堂の遺構はおおよそ26、壁画など完全な形で 保存されている聖堂は五指にも満たない。ビザンテイン美術の研究とは、言うなれば針の穴から大パノラマ を展望しようという試みに等しい。さらに、500年以上の蓄積がある古典古代やルネサンスの美術研究の領 域と比べれば、ビザンテイン美術史は後発の若い研究分野であり、その中でもマリア図像の研究はさらに新 しい。ここで本論の目的と問題を明らかにするためにも、エレウサ型研究の歴史を振り返りたい。 マリア図像の体系的な研究は1910年代のロシアに始まった。N・P・コングコフは古典古代の図像の研 究法に着想を得て『神の母のイコノグラフイ』を表した。ビザンテインの聖母子像は一般にオディギトリア やブラケルニティツサといった添名を伴う。コンダコフはこれに着目してマリア図像を分類し、マリアのイ コノグラフイ研究の地を均した。Ⅴ・ラザレフは論文「聖母マリア図像の研究」において、コンダコフの示 したエレクサ型の歴史的・図像学的な起源を修正し、エレクサ型をビザンテイン起源、オディギトリア型の 派生型と結論した。K・D・カロキリスやR・L・フライタークはロシア人研究者と同じ図像学的な関心に 基づき、マリア図像研究の大著を残している。 しかし、コンダコフが着目した名と型の相互関係は必ずしも必然的ではない。同じ添名が異なるイコノグ ラフイに伴う、あるいは同じイコノグラフイが異なる添名を伴う場合が多々ある。エレウサという添名も例 外ではなく、複数のイコノグラフイに添えられる。この間題を初めて指摘したのが1975年のA・グラバー ル「慈愛の聖母のイメージ一一イコノグラフイと主題」である。グラバールは名と型の混乱ゆえに頬を寄せ 合う聖母子像をエレクサ型と呼ぶのは適切ではなく、慈愛の聖母LaViergedetendresseと呼ぶよう提唱し た。グラバールの提言を受け、M・タティツチ=ジュリッチやL・アデルマン=ミスギッシュはエレウサ型 をはじめとする慈愛の聖母の「範囲」の設定に尽力し、伝統的なイコノグラフイ研究における類型設定に一 石を投じた。 グラバールらによって慈愛の聖母の範囲が設定されたのと時期を同じくして、エレウサ型はビザンテイン.
(3) 美術における感情表現の創出という新たな問題意識の下で論じられるようになったo H・マグワイアは「中 期ビザンテイン美術における悲嘆の描写」や『ビザンテイクムにおける美術とレトリック』においてエレウ サ型をしばしば引用している。マグワイアはレトリックがビザンテイン美術の理解に不可欠であることを指 摘し、図像の変化は講話や讃美歌等の外的要因によると、エレウサ型の歴史的展開を考える上で重要な見解 を示している。この人間的表現の創出を神学的な要因と結びつける研究者もいる。Ⅰ・カラヴレズゥは「母 のイメージ__乙女はいつ神の母となったのか」と題する論文で、初期ビザンテイン(5〜8世紀)から中期 ビザンテイン(9〜12世紀)におけるマリア・イメージの変遷を追跡し、人間的なマリア・イメージの形成 がキリスト論の確立と連動していることを指摘している。H・ベルテインクやC・バルトヤンニも、マグワ イアやカラヴレズゥにより示された「外部要因によるイコノグラフイの変化」という観点から、様々な聖母 子像について論じている。. 以上、エレウサ型に関する研究史を概述した。エレウサ型の実態解明が進展しなかった根本的な原因とし て次の3点が挙げられる。第一に、イコノグラフイ研究における研究者間の組齢に問題がある。マリア図像 の多様性はキリストや他の聖人を凌ぐ。立像・坐像・半身像の別、正面観・側面観・右向き・左向きの別、 さらに視線の方向や手の位置といった微妙な差異まで含めればおよそ250は下らない。したがって、論述を 始める前に枠組となる類型を設定しなくてはならない。しかし、現代の研究者は、概ねコンダコフの枠組み を継承するものの、定義や呼称は任意に設定される。例えば、先のフライタークは上位分類を5類型と簡便 に設定するが、全身像・半身像の別、体の向きの別、キリストのイコノグラフイの差異にまで着目して25 もの下位分類を設定している。他方、カロキリスに下位分類はないものの、こちらは西欧のマリア図像も含 めて13類型を挙げる。 第二に、エレウサ型の展開を通覧するような包括的研究が不在である。ラザレフ、カロキリス、フライタ ークによるような、従来のイコノグラフイ研究は作例の細部に着目して図像の形態的な変化を記すことに終 始し、その変化が何に由来するかを考察するには至っていない。他方、マグワイアらは感情表現の創出とい う文脈でエレウサ型を取り上げるが、傍証として中期ビザンテインのモニュメンタルな作例を引くに止まっ ている。本論において後者の視座は大いに示唆的であるが、現在に至るまでビザンテインの全時代を縦断し てエレウサ型独自の展開を辿る歴史的研究は発表されていない。 第三に、従来の研究法には不備があり、エレウサ型の受容の実態に迫りきれていない。図像の受容を考え る際、図像史料が叙述史料でいかに語られるか、両者の対照が不可欠である。しかし、破壊や略奪による作 品の消失・散逸に加え、具体的な図像に言及した叙述史料もなきに等しい。グラバールは慈愛の聖母の範囲 を設定すると同時に、エレウサという添名を糸口に受容の問題にも着手し、添名がマリアに寄せた同時代人 の期待を表すと結んだ。グラバールの研究はエレウサ型の受容に一定の方向性を示した意義があり、以来、 聖母子像に伴う添名がその同時代的な理解のあり方を示す唯一の根拠とされてきた。しかし、この方法はマ リア像が内包する意味や置かれた環境、そして何よりも形そのものを看過していると言わざるをえない。 こうした諸問題を受け、エレウサ型がいかなる経緯で成立したのか、そしてビザンテイン人はこれをどの.
(4) ように受容したのかという問題を明らかにすることが本論の目的である。. 第1部では、先行研究を整理する形で収集したマリア図像の分類と定義を行った。先行研究ではカロキリ スが13類型、フライタークが5類型25種と双方に敵齢があった。本論は両者の優れた点を取り、かつ形式 的にはマリアの挙措を重視しながら、筆者の収集した1152点を5類型13種と分類した。さらに、グラバー ルは「慈愛の聖母」という呼称により従来のイコノグラフイ研究に一石を投じたが、本論ではこれを感情表 現の付された聖母子像を総称するもの捉え、一部のオディギトリア型・デクシオクラトクーサ型、エレウサ 型、ベラゴニティツサ型を慈愛の聖母とした。 第2部では、中期ビザンテイン(9〜12世紀)におけるエレクサ型の展開を軸に論じた。第1章では、6世紀 から中期ビザンテインにかけてエレウサ型の感情表現が強調されて、今日見られる姿で成立する過程を辿っ た。726年から約一世紀にわたり、イコノクラスムがビザンテイン帝国を席捲した。不可視の神は描きうる か__聖像の是非をめぐる論争は、とりもなおさず神の受肉をめぐる論争だった。争点は人像表現の根拠と なるキリストの人性である。不可視の神は受肉して可視となった、ゆえに聖像を描くのは神の受肉を証しす る一一再び受肉の真正性を証明することが宗教的画像を是とする勢力に課された。 そこで着目されたのが受難とマリアである。礫刑を核とする受難の物語はキリストが死すべき人間でもあ ることを示す最良の主題であり、キリストの人性は母マリアにこそ由来する。それゆえ、受難の際に露わに なるマリアの悲しみは、キリストが人として地上に生を受けたことを確証する。かくして、イコノクラスム 以後、受難を主題とする講話、次いで説話図像において、マリアは母性的な感情溢れる女性として造形され たのである。 新たなイメージが普及する中、礼拝像的な聖母子像にも受難を示唆する要素が求められていた。しかし、 受肉の表象たる伝統的な聖母子像は巻物と祝福により幼子の神性を強調し、母子の感情的交流を示す要素を 欠く。ここに至り、エレウサ型が慈愛に満ちた人間的な表現一一頬を寄せる仕種や神性顕示の記号を欠く幼 子__に受難と悲嘆を読み込まれて復興する。やがてイコノクラスム以前から描き継がれてきた伝統的なイ コノグラフィーーオディギトリア型とデクシオクラトウーサ型一一にも、マリアの前傾姿勢や交錯する視線 といった感情表現や受難を示唆する天使が加えられるようになった。 第2章では、「聖母子像は中期ビザンテインにおいて受難の文脈で再解釈された」という仮説が聖母子像 に伴う天使により検証された。聖母子像にともなう天使は仕種・持物により6種に分類される。これを年代 毎に集計した結果、「初期:第杖を持つ天使の優位→中期:天使図像の多様化→後期=手を覆う天使の優位」 という推移が見られた。筆者は中期に出現した手を覆う天使に着目し、この姿勢が古代ローマから犠牲の拝 受を表すこと、「神殿奉献」のシメオンや「礫刑」の天使にも適用されたことを指摘し、天使の手を覆う仕 種が購罪のため犠牲となる幼子キリストの拝受を表すものと解した。こうした「受難の天使」の出現は「聖 母子像の再解釈」を裏づけるだけでなく、従属的モティーフとして等閑視されてきた天使を聖母子像と受難 の関わりを示す指標として評価し、聖母子像と受難の関連を判定する際の主観的な基準を是正することにも なった。.
(5) 第3章では、カッパドキアに残る9例の慈愛の聖母により、同時代のビザンテイン人がエレウサ型の両義 性をどのように理解していたのかを考察した。カッパドキアの諸聖堂ににおいて、慈愛の聖母の配置はプロ テシスと正面扉口に二分される。プロテシスは聖祭品を準備する場であり、聖体礼儀のクライマックスをな す二つの行進儀式一一小聖人と大聖入一一の出発点となる。ニコラオス・カバシラス『聖体礼儀註解』が′ト 聖人をキリストの公現、大聖人を受難の道行きに準えることから、プロテシスのエレウサ型は両義性により 司祭の移動が喚起するイメージを視覚的に補う役割を果たしたと考えられる。 他方、同時代史料の言説を総合すると、正面扉口の図像には聖堂が表象する天上位階や救済史を象徴的に 開示する役割が求められていた。エレクサ型は受肉と受難の含意がそれぞれ救済の開始と成就を、天使を伴 う構成が天の位階を反映すると解され、教義の要諦を集約する図像として正面扉口に配されたと推察される。 このように叙述史料から図像の配された「場」の機能を探り、同時代のカッパドキアにおいてエレクサ型が 受肉と受難を合意する両義的な図像として理解されていたことを立証した。 第3部で論じられたのは、後期ビザンテイン(13〜15世紀)におけるエレクサ型受容の諸相である。第1 章では、エビセットとイコノグラフイの「敵齢」からエレウサ型の普及について論じた。10〜11世紀の叙述 史料は首都のプラケルネ修道院が人々の崇敬を集めるマリア・イコンの宝庫だったことを伝えている。中で も、毎週金曜日に奇跡を起こすマリア・イコンは西欧まで評判が及ぶほど有名だった。 グラバールは地名由来の添名を持つマリア像は名祖となった聖所で崇敬されたイコンと関係するとの法 則を発見したが、ブラケルニティツサの銘のエレウサ型については例外と断じた。他の研究者はグラバール の法則に拘泥し、問題のマリア・イコンがェレウサ型だったと立証しようと努めてきた。しかし、本論では 先の法則に拘泥せず、エレウサ型が有数のマリア聖所であるブラケルネを代表するイコノグラフイと認知さ れていたと考える。ブラケルニティツサ銘のエレウサ型のみならず、アギオス・ネオフイトス修道院の小ス テファノス像が抱えるエレウサ・イコンやカッパドキアの諸作例も、頬を寄せ合う聖母子像がプラケルネ崇 敬の昂揚と共に普及したことを示している。 第2章では、エレウサ型アンナ像に焦点を当て、後期ビザンテインにおいてエレウサ型の頬を寄せ合う姿 が「優しさの形象」として定着したことを論じた。現存するアンナ像はオディギトリア型、ガラクトトロフ ーサ型、そしてエレウサ型に三分される。聖母子像では比較的作例の少ない後二者の選択には、ビザンテイ ン人がどのようにアンナを理解していたのかが色濃く反映されている。 『ヤコブ原福音書』をはじめ、マリア幼児伝を主題とする講話や説話図像を播くならば、同時代人がアン ナについて二つのイメージを抱いていたことが明らかになる。一つは、神意により年老いてから娘を授かっ た奇跡の体現者というイメージである。老婆が赤子に乳を与えるという矛盾こそアンナの生涯を彩る最大の 奇跡であり、その奇跡を記憶に留めおくため、乳房も露わなガラクトトロフーサ型が選択された。 もう一つは、幼い娘に愛情を傾ける優しき母というイメージである。ヤコブ原福音書の異本を典拠とする、 このイメージはヨアキムとアンナがマリアを優しく愛撫する「団欒」図となり、エレウサ型アンナ像が出現 する14世紀に広く普及した。これらの条件を勘案すれば、エレウサ型のイコノグラフイは優しい母を表すの に相応しい形と理解されていたと推察される。 ェレウサ型アンナ像の出現はエレウサ型聖母子像の受容を考える上で極めて重要である。中期ビザンティ.
(6) ンでは、その抱擁や感情表現は将来の受難や悲嘆の指標とされ、エレウサ型はキリスト論の理解に不可欠な 受肉と受難の教義を合意する図像と解されていた。後期になると、同じ抱擁や感情表現は受肉や受難といっ た教義の枠組みにとどまらず、母の優しさを表す形として心理的な次元においても受容されたのである。 第3章では、前章の議論を受けて、コーラ修道院葬送礼拝堂の図像プログラムから、エレクサ型の私的信 仰の領域への導入を論じた。中期のカッパドキアにおいて、エレウサ型は聖体の秘蹟と不可分なプロテシス や聖堂の顔とも言える扉口に配されていた。後期になると主要な壁面から排され、ナルテクス等の副次的空 間に移されるようになる。ナルテクスには、上部に「最後の審判」、下部に聖人立像を並べるプログラムが ビザンテインの定型である。ナルテクスでは聖体礼儀の前後に信徒が思い思いに聖人像に祈りを捧げ、洗礼 や死者の記念式等、人生の節目を祝う儀式が執り行われるが、ここでの祈りや儀式には私的な性格が窺える。 メトキテイス一族の菩提寺のような性格を持つコーラ修道院の葬送礼拝堂もナルテクスと同様の役割を果 たしたと考えられる。メトキテイスは自身が葬られる葬送礼拝堂に「審判」と「アナスタシス」を置いた。 この選択は死後の裁きを畏れ、復活を希求するビザンテイン人としてはごく普通のメンタリティを反映する と言える。そして、自らの救済を執り成すマリアを描くのに「優しき母」の姿を選んだのである。エレウサ 型は中期のカッパドキアにおいて占めていた主要から姿を消し、典礼上の機能を失う。しかし、それはエレ ウサ型が重要性を失ったことと同義ではない。コーラ修道院の作例は、エレウサ型が葬送という極私的な文 脈まで導入されうる、観者に近しい図像と見なされていたことを示している。. 各章は個々別々の問題を扱っているものの、本論を通覧すれば、先行研究が語りえなかったエレクサ型の 歴史を僻轍的に把握することができる。のみならず、本論は「優しき聖母マリア」のイメージによりビザン テイン美術とルネサンス美術を架橋しうる。「人間性の回復」は必ずしもルネサンスの専売特許ではない。 ルネサンス以前のビザンテインにも人間性とは何かを考え、措いた人々がいた。中世ビザンテインにおいて、 「人間性の回復」は宗教画の存在理由をラディカルに問うことから始まった。そして、それはキリストにお ける人的本性を問うことと不可分だった。「キリストが人間でもある」とはいかなることかを問うたビザン テイン人の視線は、やがて自分たち人間を見つめ直すことになったのだろう。その結論の一つがエレウサ型 だった。ビザンテイン人は頬を寄せ合う聖母子像に、死にゆく息子に縫って嘆き悲しむ母、そして授かった 幼い命に愛情を傾ける母の姿を重ねたのである。エレクサ型の辿った歴史はマリアと幼子キリストの間に人 間のドラマを読み込もうとしたビザンテイン人の歴史でもある。.
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『
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