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「実感」論争と『思想の科学』

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全文

(1)

1.はじめに

 1945年の敗戦から被占領期間を含む「戦後」

10年の日本社会の第一義的課題は復興であっ た。55年,各経済指標は戦前の水準を回復する。

翌56年の論壇では中野好夫(1903

-

85,英文学 者,評論家)が「もはや『戦後』ではない」と 書いたのを皮切りに「戦後」は終ったとの認識 が見られるようになる(1)

 「戦後」の終りは「戦前派」「戦中派」「戦後派」

のカテゴリーの立上げを促した(2)。村上兵衛

(1923

-

2003,評論家,作家)は自分たち戦中派 は戦争の傷は受けたが責任はないとして,傷も 責任もない戦後派との「断層」と,戦前派の国 家指導者に戦争責任を問う姿勢を明らかにした

[村上

1956]。同年に吉本隆明(1924

-

,詩人・

評論家)らは『文学者の戦争責任』を上梓する。

 また松下圭一(1929

-

,政治学者),加藤秀 俊(1930

-

,社会学者)らによりアメリカ由来 の「大衆社会論」が「戦後」以後の社会を説明 する理論として紹介されたが,その是非,特に

「新中間層」の性格と位置づけをめぐり論争が 起きた。これらの論争に関連して戦後派ないし 新中間層の価値意識・行動原理として用いられ

たのが「実感(主義)」という概念である。さ らに丸山真男(1914

-

96,政治学者)が「文学 の実感信仰」と「社会科学の理論信仰」の問題 を指摘してより[丸山

1957]57年から翌年に かけて「実感」は社会科学から文学を巻き込む 論争テーマとなった。

 大串潤児は50年代後半に戦後日本の世代論の 一つの山があるとし,戦中派の「戦争体験」論 と,大衆社会論をふまえた「戦後世代」の意識・

行動の解析の二方向に大別した[大串

2008]。

前者につき小熊英二は,戦中派は崇高な理念へ の信奉が敗戦で打砕かれたという「特権的な敗 戦観」と戦争体験で直に触れた「大衆の生活実 感」を掲げて年長世代を撃つ様式で自らの主体 を構築したとする[小熊

2002

:

598

-

610]。後者 につき大橋健二は,大衆社会論は従来の階級観 を否定したため政治的な争点になったと指摘し た[大橋

2009

:

113

-

115]。マルクス主義の「革 命」と「主体」のあり方に対する疑念と修正は 戦前の「政治と文学」論争以来幾度も呈されて きたが,それが特に浮上したところに10年間 の「戦後」がアメリカ依存の復興であったこと と左翼理論の行き詰まりという時代背景があろ う。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年(指導教員 内藤 明)

論 文

「実感」論争と『思想の科学』

横 尾 夏 織

(2)

 敗戦後の混乱期としての「戦後」が終わった 時,知識人たちはどのように戦争,敗戦と「戦 後」の体験を捉え,未来の社会のイメージと行 動のプログラムを建てようとしたのか。現時点 までを指す長い「戦後」を支えた社会システム が揺らぐ今,その出発点における議論を確認す ることは現在から未来のヴィジョンを描く上で も重要であろう。本稿ではこのような観点か ら,世代論と絡む形で提起された「実感」をめ ぐる議論とそれに連なる問題を,『中央公論』

をはじめとする総合誌,新たな判型として部数 を伸ばしていた新書,「実感主義者」と目され る主な人々が在籍していた㈳思想の科学研究会 ならびに雑誌『思想の科学』を中心に見ていき,

「戦後」の知識人に課せられた課題と問題性,

現代的意義を検討するための基礎的作業を行い たい。

2.中間文化論・実感論争とその時代 2-1 大衆社会論,中間文化論

 まずは第二次世界大戦後のアメリカの大衆社 会論と,日本における展開を概観する。「大衆 社会」とは大衆が政治,経済,文化のあらゆる 領域で無視できない勢力になっている社会を指 す(3)。アメリカでは大戦後,政治主体であるは ずの大衆の個人レベルにおける権力からの疎外 や,大量生産・大量消費・大量伝達による思 考の画一化が指摘された[

Riesman

1950

; Mills

1956]。

 日本ではすでに社会学の分野において清水幾 太郎が大衆社会現象を「機械文明」必然の社会 病理と捉えていた[清水

1950]。これに対し 松下圭一はマルクス主義の発展史観をベース に「病理学的分析とは異なった,より構造的な

理論化」を試みる[松下

1957

a:

60]。松下は19 世紀的「市民社会」から,20世紀には「新中間 階級の出現もふくめた圧倒的人口量のプロレタ リア化」により「大衆社会」に移行したとし,

「市民ナショナリズム」もまた,義務教育の普 及と大量生産・大量伝達が「国民意識の新旧中 間階級から労働者階級への深化・拡大」をもた らし「大衆ナショナリズム」に変化したと解す る。コミンテルンはこのような「大衆的国民意 識」を批判してインターナショナリズムを唱導 したが,フランスにおける国民的シンボルを 伴った反ファシズム戦線の成功は国民意識と市 民的自由の再評価を促し,コミュニズムは「国 民統一戦線型デモクラシー」への「決定的転換」

の一歩を踏み出した。松下は「今度のスターリ ン批判に伴う革命コースの複数性の再確認」は コミンフォルム時代における複数路線の理論 上の承認と現実の硬化を逆証明したと説明し,

日本の左翼政党については「転換の画期性を,

充分理論的に把握しえていない」と批判する。

「革命的伝統の稀薄な日本においては国民的シ ンボルは積極的内容をもちえ」ないため「消費 的大衆娯楽」への吸収が急速に進んでいると危 機感を示しつつ,「大衆社会的状況を前提」に コミュニズムの立場から「歴史的に特殊的な国 民的伝統を再編成」すべきだと主張した[松下

1957

b

]。

 一方,1年半のアメリカ留学から帰国した加 藤秀俊は,松下の文章が掲載された『中央公 論』同号から日本に起りつつある大衆社会現象 を「中間文化」と名付けた文章を発表し始め,

同年9月にこれらの文章(4)に書下ろしを加えた 新書判『中間文化』を出す。ここで加藤は,松 下が「前提」としながら警戒感を示した教育と

(3)

大量伝達の機能や,それがもたらした新中間階 級の拡大を肯定的に評価する。加藤によると教 育とマス・コミュニケーションの進展により知 識人と大衆の溝は狭まりつつあり,現代は高級 文化,大衆文化に続く「中間文化の時代」であ る。それは新書や週刊誌,ムード・ミュージッ クに代表され,以下のように定義される[加藤

1957

:

3

-

19]。

 中間文化とは,高級文化と大衆文化の中間を行く 妥協の文化である。それは,常識主義によって支え られ,適度の政治的好奇心とゴシップ精神,そして 趣味的中間性を特徴とする。そして,その担い手,

使い手は日に日に増大する社会的中間層である。[加 藤 1957: 19]

 さらに加藤は「中間的大衆化=あたらしい市 民層の誕生」と言い換え,これが「戦後派世代」

において実質化しつつあると主張する。加藤は 農村や工場の若者と「われわれプチブル・イン テリ」が「向上心の質」や趣味嗜好の点で「相 当に平均化」しているとする[加藤

1957

:

27

-

33]。

 このことは,われわれ戦後派が,それ以前の世代 と根本的にちがう集団であることを物語るものであ ろう。われわれは,職業・身分のいかんにかかわら ず,かなり共通の生活価値をもって生きている。[加 藤 1957: 33]

 労働者・農民層と中間層の所得は接近し,工 場のオートメ化により労働内容の差も縮まりつ つある。また労働運動を通して中間層も労働者 の意識を持つようになった。加藤は「ふつうの 市民の経済生活の中心ラインは相当なひろがり をもった均質的なものになっている」と指摘 する[加藤

1957

:

38

-

48]。しかし革命の論理に は「『大衆』の変貌」がほとんど考慮されてい

ない。加藤は日本の革命運動が支持を得ないの はインテリと大衆の「ディスコミュニケイショ ン」,つまり「革命家の言い分が,民衆にはさっ ぱりわから」ず,「民衆の生活の実感を革命家 は知ろうとしな」いためだとする[加藤

1957

:

49

-

51]。一つめは中間文化が解消したが二つめ はどうか。

 こうした平凡な,あたらしい市民層ぜんたいが,

無理をしないで出し合えるような,日常の生活の実 感のかけらをしっかりかき集めることを私たちは真 剣に考えなければならない。これからの日本の社会 や文化をつくってゆくとき,この市民群のなかにい ろんな差別をつけること,つまり,お前はホワイト・

カラーだからダメ,君はインテリだから頼りになら ない,などと資格検査をして,仲間はずれの分子を 作成することをやるのは,あまりいいことではない ように思う。[加藤 1957: 51]

 このように加藤は,あたらしい市民層の誕生 により従来の左翼理論の革命観や大衆像は無効 となり,中間層への差別は不当だと主張した。

2-2 「戦後派」の「実感」

 「実感」の強調は加藤が最初ではなく,国家 主義から民主主義へと価値を反転させた敗戦 がすでに用意したものだった。後藤宏行(1931

-

89,社会学者)は1954年から「戦後派」の価値 意識について論考を発表し(5),57年10月に新書 判『陥没の世代 戦後派の自己主張』を出す。

後藤は自分たちの世代は「戦中の抵抗感覚」が 皆無だったため価値転換についてゆけず「自 己の肉体感覚」のみ残ったとする[後藤

1957

:

16

-

28]。

 われわれにとっては,社会性を捨象した具体的個 人を,この肉体的感覚で体得したのである。それは 実存主義のうけ売りでもなければ,観念のなかで形

(4)

成された個人主義思想でもない。体験と実感に裏う ちされた個我意識である。[後藤 1957: 29]

 「アプレ」はその無軌道ぶりや放埓さが年長 者に批判され,あるいは「不幸な時代」に育っ たためと同情的に擁護されてきた(6)。これに対 し後藤はアプレは「タブーのすぐれた批判者」

だとし,ニヒリズムの徹底による「自己誠実 性」,「実感」の成否を実行し挫折から「生活の 智慧」を汲む「行動的主体性」,個々のモラル 選択を認める寛容と結果に責任をとる点を評価 する[後藤

1957

:

33

-

87]。後藤がアプレの「正 当化」を試みたのは55年頃からの革新陣営の戦 術転換で「戦後十年間,旧世代の歯車にあわせ ていた青年達」が「ふたたび敗戦直後と同じよ うな精神的苦悩を負わされている」という認識 にあった。後藤は「戦後の価値再編」にアプレ の論理を取込むことを主張する[後藤

1957

:

しがき]。

 後藤たちの世代を「陥没された世代」と名 付けたのは鶴見俊輔(1922

-

,哲学者)である

[後藤

1957

:

はしがき]。本書に先立ち鶴見と久 野収(1910

-

99,哲学者)は,アプレ犯罪を典 型とする「戦後派の実存主義」が,「自分で選 んだことにたいしては自分で全責任を負」う 点と,「実感のうらうちある反国家主義」とな る可能性に注目していた[久野・鶴見

1956

:

190

-

202]。また『思想の科学』1955年4月号の 討論で後藤は,日本で革新陣営が勝てないのは

「戦前の精神主義」同様「なんでも自分と同じ ような社会感覚を具えてくれてるというように 考え」「近くにいて,ちがう」立場を考慮に入 れないからだと指摘した。これを受け久野は,

日本のインテリが「戦争の協力者」になったの

は「目的というものは,外から与えてくれるも の」という安易な考えに引きずられたためだと し,「抵抗の拠点を本当に主体的な意識におい て,その中から刻一刻,行動の基準の目的をく み出していくという姿勢」が必要だとする[久 野・畑中・後藤

1955]。久野と鶴見は所与の 目的でなく自らの「実感」により行動する「戦 後派」に,知識人の弱点を克服する新しい主体 のあり方を見出していく。

 後藤は「のこされた課題」として「戦中派の インテリ的貴族意識」が戦後派との「断層意 識」を生んでいるとし,これを埋めて「幅広い 戦後世代の思想」をつくること,「戦争責任論 や,転向問題の究明」を「旧世代」との「理解 点と,共通の場を見出す」ため取上げることを 主張した[後藤

1957

:

228

-

231]。後藤は1955年 当時高校教師で新書判刊行時は大学の非常勤を 兼ね,その後塾の講師を経て専任講師,助教授 とアカデミズムの階梯を昇っていく(7)。その間 継続的に研究と発表の場を与えたのは思想の科 学研究会,中でも「戦中派」の鶴見を中心に久 野ら「旧世代」から1930年前後生まれの「戦後 派」までが参加した「転向研究会」であった(8)

『転向』の序言で鶴見は「日本思想史上の流派 の交替は,幾サイクルもの『理論信仰』から『実 感信仰』への転向として理解される」とし,転 向の問題を解くには「私的体験」と「公的原理」

の交流を活発にすることが必要だとした[鶴見

1959

a:

25

-

26]。鶴見にとって加藤や後藤の立場 はこの問題を解く手がかりを与えるものであ り,後藤にとって久野と鶴見は世代間の教養差 を越えて共同しようとする理解ある年長者で,

転向研究会は断層意識を克服する実験の場だっ た。

(5)

 ところで抽象的原理への反発の例を思想史に 辿れば,本居宣長の儒教批判など「感覚的事実」

に基づく「イデオロギー暴露」がある。これを 日本思想の「無構造の伝統」から明らかにした のは丸山真男だった[丸山

1961

:

19

-

21]。

2-3 実感信仰と理論信仰

 岩波講座『現代思想

XI

』収録の「日本の思 想」は「戦後」への導入部として書かれ,近代 日本のイデオロギーを対象に源泉へと遡る[丸 山

1961

:

183]。丸山によると日本では「自己を 歴史的に位置づけるような座標軸に当る思想的 伝統は形成されなかった」[丸山

1957

:

5]。「無 構造の伝統」は次のような思想の継起をもたら す。

 新たなもの,本来異質的なものまでが過去との十 全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから,新たな ものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去とし て自覚的に現在と向きあわずに,傍におしやられ,

あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」される ので,それは時あって突如として「思い出」として 噴出することになる。[丸山 1957: 9-10]

 丸山は時代毎に有力な宗教と習合してきた神 道が日本の思想的伝統を集約的に表現している とする[丸山

1957

:

15]。「国体」はこの「無限 抱擁」性を継承し迅速な近代化と前近代性の温 存を可能にした[丸山

1957

:

24

-

32]。この両面 に挟撃されながら自我のリアリティを掴むべく 出発した日本の近代文学は,感覚的ニュアンス の表現が豊富な反面,論理的概念の表現に乏し い「国語の性格」や,合理精神や自然科学精神 を持たないためリアリズムが「事実の絶対化と 直接感覚への密着」となる「伝統」に加え,文 学者が官僚制の「脱落者」または家と郷土から

の「遁走者」であることによる「余計者」意識 から「伝統的」心情や美感に著しく傾斜して いった[丸山

1957

:

37

-

38]。その帰結は以下の ようになる。

 あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な抽 象」を嗅ぎつけ,ひたすら自我の実感にたてこもる こうした思考様式が,ひとたび圧倒的に巨大な政治 的現実(たとえば戦争)に囲繞されるときは,ほと んど自然的現実に対すると同じ「すなお」な心情で これを絶対化する[丸山 1957: 39]

 このように丸山は「文学の実感信仰」が政治 的現実に無抵抗になったと批判した。さらに

「日本的な感性」からの反発を「一手に引受け」

たマルクス主義も,理論が「崇拝」の対象とな り「フィクションとしての意味を失って現実に 転化し」たとする[丸山

1957

:

40

-

41]。

 自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータル に把握する,また把握し得るものだというところか ら責任の限定がなくなり,無限の現実に対する無限 の責任の建て前は,理論的無責任となってあらわれ,

しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマ ニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らない という始末に困ることになる。[丸山 1957: 42]

 丸山は「コンミュニストの転向」も「思考 様式からすれば,多くは伝統的な形で行われ」

[丸山

1957

:

40],「国体」や「輔弼」も「無限 責任のきびしい倫理」から「巨大な無責任への 転落の可能性をつねに内包している」と指摘す る[丸山

1957

:

22

-

28]。このように丸山は抽象 的・普遍的な理論と,それを倫理的責任をもっ て構築する主体の不在を日本の思想の「伝統」

として指摘し,「文学の実感信仰」と「社会科 学の理論信仰」はその表裏であることを明らか にした。しかし反響はこの対比に注がれ,社会

(6)

科学からの「実感主義」批判を強めることとな る。

2-4 「実感」論争

 まずはマルクス主義陣営の反応を見る。田沼 肇(1926

-

2000)は人口動態の分析から日本で は新中間層より地主など旧中間層の方が多いと 指摘しつつ,中間層が増大しているとしても労 働条件は労働者と同じかそれ以下で組合への組 織は可能だと結論づけた[田沼

1957]。他の 論考でもマルクスがいかに中間層の増大を見越 していたかを文献解釈から証明するなど[黒川

1957

;

吉原

1958],労働者を革命の主体とし浮 動的な中間層を組織化すべきとの見方が堅持さ れた。

 これらと異なる観点から批判を展開したのは 江藤淳(1933

-

99,評論家)である。江藤は実 感主義は「肌にしみついた」「実感」を基準に 現状を肯定する点で「昔はよかった」という

「近代否定論と変わらない」とし,「具体的な行 動への意志」や「時間の観念」を欠いた「人間 蔑視の思想」であり,そこから「主体的な思考 とか行動」は生れないと批判した[江藤1958]。

 思想の科学研究会では江藤を招き中間文化 論に関する月例研究会がもたれた(9)。後藤の報 告によると論争は「通路のない」まま終った が,後藤は「同じ世代」の江藤との間に共通の

「近代的人間像」があると指摘し,立場の相違 は「逆説的な感覚」の有無によるとした。すな わち自分たちは戦前的教養と中間文化を半ば身 につけた「中途半端な世代」であり,「戦前的 な理論」と「戦後社会のムード」への「二重の 反感」が生んだ「スネモノ,カタワモノとして のアイロニカルな感覚」はそれ自体ネガティブ

でスタティックなものだが,そこに居直ること によって「自己を客観化し,創造的な行動に転 化」することができる[後藤

1958]。後藤は江 藤を同世代としつつ自らの立場の根拠を世代に 求めるため,江藤との相違は説明し尽されてい ない。

 これに対し大野力(1928

-

2001,評論家)は,

加藤や自分と江藤との間に「年齢差の少なさに も拘らず,思想的世代でははっきりした一線が 画ける」として,江藤の場合「革命的教条主義 などは全然相手にしなくてよい程,反体制側内 部の民主的空気の時代に精神を形成した」とす る。よって戦後左翼理論からの「転向」という 中間文化論の積極性を江藤は評価し得ない。し かし大野は,中間文化論の弱さは実感主義よ り「現象主義」にあり江藤の批判はその一端を 捉えていると評価する。すなわち中間文化論の いう「平均化」は年齢的に社会的地位が未分化 のうちは妥当するが,戦後派とそれ以前の世代 との根本的な相違とは言い切れない。それを言 い切ることで「生々しい現実の矛盾,対立」が 捨象されてしまうとして社会科学的分析や歴 史段階での評価を加味すべきだとした[大野

1959]。江藤は前近代から近代へ向う歴史の側 から人間の主体性を量り,後藤は逆説的感覚と しての実感に固着し,大野は社会の実体との関 連を問う。

 「戦前派」にあたる高見順(1907

-

65,小説家,

詩人,評論家)は「丸山氏の見解は尻馬組とは 違って,かならずしも実感排除ではな」いとし つつ,「抽象化作用」より「抽象化された結果」

の重視が「理論信仰」とされるのに対し「抽象 化作用そのものにも,一種の妄信的傾向があり はしないか」と問う[高見

1958

:

36

-

39]。

(7)

 文学も社会科学も,人間を対象にしている点では 同じだというだけではなく,それぞれの方法は違っ ても,人間に関する概念(「真理」ではない)をひと しく豊富にするという点でも同じなのであり,その 概念は一方は「イリュージョン」で一方は「真理」

だという訳ではないのだが,社会科学者はそれを認 めることを潔しとしない。[高見 1958: 40-41]

 高見は転向後も詩,評論,短編・長篇小説と いった多様なスタイルで創作を続けてきた。社 会科学と文学を「真理」への到達が約束されな い試みとして等置する高見の姿勢は,これらが ともにフィクションである自覚と,ストーリー に回収し尽せない現実の具体性の重視を示す。

 これに対し橋川文三(1922

-

83,政治学者,

思想史家)は,高見が戦中「便乗的文学者の空 疎で精力的な『怒号』」の中「文学非力説」を 唱えたのは「一定の抵抗の意味」をもったが,

いま再び「実感」を擁護するのは「逆行」であ ると批判した[橋川

1958

a:

178

-

179]。橋川に よると「日本文学近代の究極の美学的メタフィ ジック」となった「私小説」の「『実感』=『日 常経験』の美学」は「ついに天皇制の内包する 美的限定を突破ることはなかった」。すなわち

「作家が『私』の自然を信ずることは天皇制国 家の自然を信ずることと微妙に一致した」[橋 川

1958

a:

176

;

185

;

1958

b:

134]。橋川は「芸術 的価値論争」以来の「政治と文学」論争は「本 質→実体→現象という思索方式の体系」をもつ マルクス主義に対する「『現象』の叛逆」であっ たとする[橋川

1958

c:

62]。しかし「私」と天 皇制が上のような対応関係にある以上,マルク ス主義を毀棄すると「こんどは『実感』の実体 化に傾斜し,『民族』と『郷土』と『神話』の なかに『転向』」してしまう[橋川

1958

c:

65]。

高見が「実感」を擁護するのは「ありし文壇,

ありし共産主義者に対するほとんど体質的な郷 愁――『昭和への郷愁』」だと指摘した[橋川 1958

a:

179]。

 さらに橋川は「昭和への郷愁」の「イメージ をともにしない読者大衆の登場」を指摘し「新 しい世代」の作家として1935年生まれの大江健 三郎に注目した[橋川

1958

a:

179

;

184]。大江 は「伝統」と「状況」につき以下のように述べ る。

 僕にとって伝統がどのようにあらわれるかという と,アクチュアリティ(現実)の状況を考えるうえで,

自分が一つの武器とすることができるものとして,

現代日本に伝承された過去からの遺産の,どれを取 上げるかということなんです。僕の取上げた側面が,

僕の取上げ方を含めて,僕自身の伝統であるという ほかはないと思う。[橋川・加藤・江藤・田口・大江 1958: 234]

 また大江は「実感」は「ものを表現する」側 からすれば「議論以前の第一前提」だとして

「リアリズムの問題とおきかえ」るべきだと主 張する[橋川・加藤・江藤・田口・大江

1958

:

232

;

235]。

 リアリズムは表現者がいかに自分の実感を,普遍 的な実感にたかめるか,他者への説得力をもたせる か,という技術でしょう。それは実感否定というか たちさえとります。[橋川・加藤・江藤・田口・大江 1958: 236]

 橋川は大江の文学とその提唱する「共同体」

が「『実感』のレベルで考えられているもので なく,その強調は『世代』というよりも『状況』

におかれている」こと,そして「『主体』の保 証は,究極的なメタフィジクにより与えられた りしてはいない」[橋川

1958

a:

185]点を評価

(8)

する。大江の文学とその読者の登場は,かつて 文学が天皇制に絡めとられた事実を,「民族」

や「神話」の実在を実感した自身の問題ともす る橋川に,そこから超え出る可能性を示唆する ものだった。

 大江は文学により実感の普遍化を試みたが,

同様の意図で「生活綴方」「生活記録」(10)に取 組んだのは鶴見和子(1918

-

2006,社会学者),

鶴見俊輔ら思想の科学研究会の人々である。

3 「実感」を超えて ――『思想の科学』

における試み

3-1 鶴見和子の生活記録理論

 思想の科学研究会では50年代初頭までアメリ カの社会学や心理学の手法で大衆の思想を分析 していた(11)が,鶴見和子は「あらかじめ用意 してきた質問をして,統計をとってまとめた結 果には,あまりにも網の目にもれることが多」

く[鶴見和子

1954

:

371],また「あたかも,0 0 0 000 己をふくまざる0 0 0 0 0 0 0集団」として日本人を論じる

「官僚方式」の思考に疑問と限界を感じていた。

新しい方法を模索するなか生活綴方教育の実 践記録を読んで感銘を受ける[鶴見和子

1952

:

323]。

 そこでは,一つの村,一つの都市の共通の生活実 感をばいかいとして,そこに起る共通のもんだいを つきつめて話しあい,調べあうことによって,先生 と生徒が,互いに自己改造を行なうような仕方の教 育が成長していることを感じたからだ。[鶴見和子 1952: 323]

 鶴見和子はこれを大人の「自己教育」に使お うと東京に帰って主婦や工場や会社で働く人,

先生,学生など「ことなる生活経験をせおって いる」女性たちと「生活をつづる会」を立ち上

げる。女性たちはそれぞれの生活の場で直面す る問題を書き,それを持ち寄って討論する。そ こで「えんりょなくたたきあ」うことによっ て「自分の苦しみやよろこびが,他人の苦しみ やよろこびにつながっている」ことを感じ「自 分の体験のイミを,社会的なひろがりの中で」

把握できるようになる[鶴見和子

1953

:

175

-

176]。

 集団0 0と持続0 0とをとおして,自分の中の矛盾や分裂 があかるみに出され,統一が生まれてくるだけでな く,自分の体験の社会的イミを認識し,実感として 感じとることによって,私小説的態度におちいるこ とをふせぐ。[鶴見和子 1953: 176]

 このように鶴見和子の理論では,それぞれ異 なる生活経験の「実感」を出発点に,集団の持 続的な交流を通すことによって,それらが共通 の社会的意味を有することを「実感」するとい うようにいわば二段階の実感が想定されてい る。

 そこで目指された「あたらしい人間像」[鶴 見和子

1953

:

206]とはどのようなものであろ うか。それは自身に関しては「どんな問題で も,自己を含む集団の問題として感じ,考えら れる」[鶴見和子

1954

:

372]ようになることで あり,より一般的には「自分の考えを,はっき りいう態度」を保ち「人をおとしめて,自分だ けがよくなろうとしないで,自分のよろこびや かなしみが,自分の仲間のよろこびやかなしみ につながっていることを,自覚し,そのように 行動できる人間,そうした人間と,人間同士の つながり」[鶴見

1953

:

206]であった。「官僚 方式」や競争主義,保身の枷を抜け出て自主的 に発言し行動する人間同士の連帯が目指され

(9)

た。

 1953年度の思想の科学研究会大会の座談会で は生活綴方における個人と社会のつながりが 問題となった。石母田正(1912

-

86,歴史学者)

の「真実の労働者の誇りは何か,それを労働者 全体に知ってもらいたい」,「そういうはっきり した目的がどうしてもなければならない」との 批判[鶴見和子他

1954

:

37]に対し鶴見和子は 以下のように述べた。

 私たちの観点は人間の生れ代りということ,その 中で生きてる一人一人の人が新しい人間として生ま れかわることが出来るか,そしてその姿をどうした らよいかということを書きながら考えて討論し合っ て,自分がやってみることによって,新しい途を発 見する。そしてまた,それを書くということにして いけば,その人自身が生れかわると同時に,その姿 を書くことによって生れかわりの歴史,庶民の生れ かわりの歴史を書くことができるのじゃないかとい う事が私たちの目標なんです。[鶴見和子他 1954: 37]

 このように鶴見和子は「歴史」を啓蒙する立 場と一線を画し,書き,討論し,行動し,考え る循環の中で新しい生き方を発見する自己再生 と,その積み重ねによる歴史の再生を目指し た。

 1950年代後半になると生活綴方は「実感主 義」との「悪評高いレッテル」を貼られるよう になる[鶴見和子

1959

a

]。これに対し鶴見和 子は主婦の生活記録における「情緒と認識」の 関係をこう述べた[鶴見和子

1959

b:

146]。

 生産の場の基準と,愛情の場の基準とをべつのも のとして考える日本の男の思想のサムライ根性が,

じつは,「実感信仰」と「理論信仰」とやらいうダイ コトミーを生み出した,一つの病源なのだと,わた しは考える。そうした男の思想のサムライ根性を直

してゆくことが,生産の場でも愛情の場でも統一さ れた人間でありたいとねがっている,主婦たちの運 動の,一つの方向だとわたしは考える。[鶴見和子 1959b: 146-147]

 このように鶴見和子は「実感」対「理論」に 象徴される二分法の思考を男性の旧式な発想だ と批判し,統一された存在への志向を明確にす る。安保以降,サークルは政党活動に「せっか ちに分裂吸収されてい」き停滞期を迎えた。鶴 見和子はこの状況に際し「体験」あるいは「経 験」から抽象化をやり直して「あたらしい概念 をつくりあげる」必要を説く。安保闘争は「国 民のひとりひとりが歴史に積極的に参加すると いうあたらしい経験だった」として「あたらし い地点」からの生活記録運動の「やりなおし」

を提起した[鶴見和子

1961

;

1962]。のちに鶴 見和子は自ら行った水俣病患者の聞き書きをは じめ,公害病患者や被爆者の聞き書きを生活記 録の延長上に捉え,「小さな民」の立場から大 きな問題に立ち向かう「内発的な」思想運動と しての有効性を見出していく[鶴見和子

1985

;

1986]。

 鶴見和子は1950年代後半から「実感」の語の 多用を避けたが,むしろこれを積極的に使い生 活綴方の可能性を強調したのは鶴見俊輔であ る。

3-2 鶴見俊輔の「実感」

 すでに前章2節で久野と鶴見が「戦後派」に よせた期待について述べた。ここではその期待 と戦争責任追及の関係と鶴見独自の「実感」の 読替えを見ていく。鶴見は1956年度思想の科学 研究会総会の戦争責任についての討論で,いま 戦争責任追及をする意義を以下のように述べ

(10)

た。

 短期の建設は責任意識を忘れた方が,陽気で愉快 にできますから早く出来ます。しかし長い建設のた めには,こだわらなければいけないと思います。な ぜならば,日本の国家は実質的なコースを繰返さな ければならないのです。そのときにエネルギイの源 になるものは,こんなにひどい戦争をして沢山の犠 牲者を他の国からも出したし自分にも出した。この ことのイメージがなければ駄目だと思います。[思想 の科学研究会 1957: 38]

 鶴見は支配層も反対勢力も「日本を日本らし い仕方でどうするかというイメージ」がない と批判し,「戦争責任という概念をテコとして 使って」「岸信介のようなタイプの政治家」に

「権力の場からおりて貰うことを強制」し,同 時に「我々自身も鍛える」とした。すなわち

「歴史主義」をとれば「因果関係の中で」「責任 を完全に回避出来」るが,それでは「思想家」

という「職業自身が無意味」になるとして,個 人の「形而上的な責任」を重視する[思想の科 学研究会

1957

:

36

-

38]。それは以下のような内 容を持つ。

 私は戦争中に日本へ帰ってきたけれども,これは 負ける戦争だということを感じていたわけです。こ れは無意味でひどい戦争なんだが,これを国家に対 して巻返す力がどうして国の中から出てこないのか という問題をずっと考えていた。[鶴見・吉本 1967: 101-102]

 鶴見は「肉体と理念がいっしょにならないと 巻き返す運動はできない」と言い[鶴見・吉本

1967

:

102]感情や認識と行動の不連続が戦中か ら持ち越した基本的課題であるとする。

 久野収,藤田省三との鼎談において鶴見は生 活綴方が「特殊の中から普遍を生む」点で「戦

後的な近代化方式の批判」だと評価しつつ,「日 本的な『特殊』のひずみが出てきやすい」と指 摘した。すなわち状況の中の「実感」から出発 する生活綴方には「善意と受容の哲学」が流れ ており,それが進むと「自然から与えられる状 況も社会から与えられる状況も区別せずに受け 入れ」てしまい,「日本の民族を,あるいは現 在の人間全体を,全体としてつっぱなす視点」

が出てこない[久野・鶴見・藤田

1958

:

166

-

175]。

 これに対し生活綴方の新しい方向として鶴見 が注目したのは樋口茂子の『非常の庭』(12)だっ た。そこにはある会社勤めの女性が,フィリピ ンで戦犯容疑をかけられた知人の助命運動を行 い,成功して帰国したその人に結婚を申込まれ るが,自分には戦争責任はないという言い方に

「いつわり」を感じて気持が離れていく顛末が 描かれていた。鶴見は「受動的な感情ではなく て,行動に対する絶えざる衝動」があり,「欲 望ナチュラリズム」(一定の生活水準を満たす こと以外重視しない態度)を打ち倒しているこ と,「国そのものを裁く立場」が「戦争体験者 でないところから出て来ている」ことを指摘 し,「非常に戦後的」だと高く評価した[久野・

鶴見・藤田

1958

:

176

-

178]。さらに鶴見は「実 感を超えるための手段」が実感の中になければ ならないとして「行動の設計の概念」の必要を 主張する。

 実感から出発する行動のプログラムがあるわけで す。計画された行動があって,その行動の途上で,

はじめてあう期待はずれのいろんな偶然的な実感が あって,そこで記録を書く。これが大人の綴り方の 方法だ。[久野・鶴見・藤田 1958: 187]

(11)

 鶴見において「実感」は行動への衝動を孕み 方向性をも決める凝縮された感情で,これを起 点にプログラムをもって行動に乗り出すが,途 上の気づきもまた「実感」であり,そこで書き,

考えることによりプログラムを修正してまた行 動に出る。この一連の過程を編み出す基底に は,過去との対決においてしか「戦後」以降の 社会のヴィジョンと行動のプログラムを組めな いという強い負の感情があった。すぐれて「戦 後的」な実感と行動のプログラムを自らのもの とすることによって,鶴見は「戦前派」の政治 家の無責任や,因果関係の中に責任を解消する

「歴史主義」,あるいはアメリカの権威を笠に着 た「民主主義」といった「近代主義」と決別し,

自らの感情・認識と行動の不連続の克服を目指 した。

3-3 「実生活者」と「市民」

 1959年4月,中央公論社から第4次『思想の 科学』(13)が刊行された。「創刊のことば」は「専 門的思想家」と「実生活者」というカテゴリー を出し,従来思想は前者に独占され思想と生活 を結びつけないため生産的仕事ができなかった として「この問題の解決のために,この雑誌を 役立てたい」と述べた。第4次には上坂冬子

(1930

-

2009,評論家),佐藤忠男(1930

-

,映画 評論家),大野力ら第3次(14)に投稿で出た書き 手が育ち編集へも回った。編集委員には松尾 紀子(1932

-

,図書館司書),高田佳利(1926

-

地銀連専従)ら専門思想家でない会員も加わっ た。

 2号からは当時トヨタに勤める上坂の連載

「職場の群像」が始まった。編集後記で鶴見は

「自分の身のまわりから見るという方法で書か

れた戦後史」で,「民主主義,自由主義,社会 主義の理念」が「職場の出来事,具体的個人の 言動としてにつめてとらえられている」と評し た。3号の佐藤の「少年の理想主義について

――『少年倶楽部』の再評価」につき松尾の編 集後記は「少年の世界に反映された昭和の思想 史の一断面」で「日本の教育のステレオ・タイ プを見直させる視点を持」つとした。いずれも 個人の視点から社会の実体に迫る描写が評価さ れている。

 この時期「実生活者」という自明の存在が あったわけではない。佐藤は「プチブルになる こと」「労働者階級から脱出する」ことが「年 来の夢」で,当初「インテリの一人のような顔 つき」で流行歌やヤクザ映画を分析したと明か す。しかし「大衆」の「弱点に実に巧妙にしの び込んでくる」ような映画を「客観的」に評価 できるインテリと対照的に,映画の作者にも

「そういう弱点をもった私自身,我々大衆自身」

にも「憤激」した佐藤は,「あくまでも大衆の 一人」として「自分自身の感動を基本とする批 評」に取組むとした[佐藤

1955]。このような 佐藤の位置取りは「専門的思想家でないもの」

の「実感」を求める『思想の科学』に応えるも のとなった。

 大野力は中学教師から工場労働者になり工業 関係の業界記者を経てフリーの評論家となっ た。転向研究会にも参加し「戦後転向」の典型 としてレッドパージ反対運動で東大を中退し,

業界記者の職業の中に立脚点を見出していく 弟・明男について書いた。大野は戦後転向は物 理的圧迫が弱い分,「自主性」の要素が強くな るとする。

(12)

 この場合,個々の経験的実感の違いだけ自主転向 の多様さが生まれ,その中に客観的正当性の基準が 解消されるだろうという事態,また,社会との対応 によって得られる個々の実感が,実はさまざまに変 形された権力の側からの働きかけに基底的に影響さ れるだろうという事実,これらを前にして実感そ のものをどう捉えるかが問題である。[大野 1962a:

326]

 大野は「実感」を社会,権力との関係におい て捉える。弟の場合「止むをえず進んだ職業」

の中に「自分自身の過去とつながる生甲斐」を 見つけ,「産業機構の中で具体的な改善につと めている人びと」に共感し協力する方向へ向 う[大野

1962

a:

322]。大野兄弟と上坂らは思 想の科学研究会内に「実務の中の思想」の会を 立ち上げ,「政治的意識」に対する「産業的思 考」の立場を主張した[「実務の中の思想」の 会

1960

:

67]。

 60年安保に際しての特集「市民としての抵 抗」で加藤秀俊は「平凡で平和な日常生活を確 保するために政治的行動に出る」「市民」が成 立したと指摘した。[加藤

1960]。しかし今の 生活の「維持」と社会「変革」は相反するベク トルを持つ。「実務の中の思想」の会は,「ビル の外側」の街頭では安保反対運動が高揚し,「ビ ルの内側」の職場ではいつも通り業務が行われ るという「余りにも異なる秩序と雰囲気」にと まどいながら,「首まで対米協調の経済体制に つかっているという現実」と,体制に組込まれ ているゆえに「現実的プログラムの一端を担っ ているという,責任と可能性」を重視し「産業 経済体制の中に潜る」ことを通して改善プラン を出すと結論づけた[「実務の中の思想」の会 1960](15)

 鶴見俊輔は同号で,敗戦直後に共産党が戦争

責任を反共・容共の争点と抱合せたことにより 超党派的結集を妨げ,「自主的な戦後」と「戦 争責任から比較的自由な政府」をつくり損ねた と批判し,「責任ある民主的な政治形態の確立」

が第一だとして「折衷主義のプログラム」を提 唱した。政府批判の根拠は「私の中をたくみに 底までくだってゆけば国家をも,世界国家をも 批判し得る原理があるということへの信頼」に よるとして「国家をも見かえす私」の概念を提 示する。鶴見は5月19日の強行採決に対する憤 慨が自分を敗戦,満州事変の時点へ遡らせたと し,過去に対峙し自らの中に潜む可能性を中心 におき「私のひずみからくる錯覚を日々新たに 計算しながら」「私の複合をとおして社会改造の 展望をつくる方法」を採るとした[鶴見

1960]。

 以上第4次『思想の科学』における「実生活 者」と「市民」の論理を見た。「実生活者」は生 活の場の凝縮的なエピソードで歴史や社会を描 き出すことを期待された。一方でカテゴリーの 非自明性は筆者それぞれの自覚的位置取りを促 す。安保闘争は政治を生活の場から捉える「市 民」の論理をもたらし,状況と「私」に潜む可 能性を肯定して漸進的な社会改善を目指した。

3-4 「実感」の消失と日常の思想

 1962年4月,思想の科学研究会は中央公論社 と袂を分かち自主刊行に移行した(16)。「復刊の ことば」は「高度に学問的な思想の研究と,生 活の中の思想を同時に研究します」と宣言した。

 翌月,大野は雑誌の方向性を論じた。「アカ デミックなものと,生活綴方的なものとの二つ をどのような関連で捉えるかは,あまり簡単で はない」とした上で,編集の論点を問題摘出と 企画・実行の2つに分け,編集員の問題意識だ

(13)

けで問題を選択する「小じママんまり主義」により 前者が非常に弱いと批判した。大野は投稿と サークル運動をとおして「大衆のなかにある潜 在的問題意識」を「生活のなかから鋭く掴み出 してくる」べきだと主張する。職場を批判的視 点から作品化し発表することは「日常の仁義に 反する」とし,葛藤の末「自分の足で立つこ と」を決めた上坂を反例に,「専門化しない素 人ライターの厚い層」が必要だとした[大野

1962

b

]。

 「新人」の専門化の問題は,論壇における

「知」の変容が用意していたとも言える。鶴見 俊輔は1959年末の段階で,かつてはプラグマ ティックな考えや哲学無用論を説くことが「異 端」であったが「論壇の正統思想」がそういう ものになってしまったため『思想の科学』の立 場が「じょうはつ」しそうになっていると危 惧を表し「平均的なものになるために,小さ な雑誌を続ける必要はない」と述べた[鶴見

1959

b

]。大野は問題が鋭く掴まれていれば雑誌 は「売れる」はずだし,生活綴方とアカデミッ クな論文も「互いになくてはならない組合せと なって行く」と見通しを述べる[大野

1962

b

]。

現場からの問題摘出を重視する姿勢は大野が思 想の科学社の営業部長,取締役,社長となる60 年代後半にかけて『思想の科学』の主調の一角 を形成していった。

 丸山真男は鶴見との対談で,『思想の科学』

が「型と形式をべっ視する内容主義」になった と批判した。丸山は戦後間もなくの『思想の科 学』が「思想や学問の型」を壊したことを評価 しながら,今同じことをすれば「マス・コミに 対して全く無抵抗になる」とし,「在野のアカ デミズム」は新しい型をこそ鍛えるべきだと

主張して[丸山

1967

:

118

-

119],創刊同人とし て『思想の科学』に託した期待と,距離をおく ようになった理由の一端を述べた。また,「日 本的な経験の積み重ね」を通して「普遍的な機 能をもった思想」をつくり得るとする鶴見に対 し,「それは,日常的なものであって,特殊的 なものとはいわない」と指摘し「特殊性の強調 が『ウチ』的日本主義になる」危険性を指摘し た[丸山

1967

:

116]。

 1968年に出された会員向けパンフレットで鶴 見は今後の目標として,創設以来の「意味明確 化」と,「除名」や編集会議における「拒否権」

を認めない「組織上の多元主義」に加え,「日 常性の重視」を提示した。鶴見は丸山の批判を

「適切」としつつ「型の尊重が妙な形式主義に みちびく危険もある」と警戒し,「形の上での 貧しさ・軽さによって重要な思想をしりぞけな い」立場を強調した[鶴見

1968]。

 1972年3月,自主刊行移行後10年を境に『思 想の科学』は「言論・思想の商品化,出版の商 業化の中でどのように自立し,自由な言論を実 現するか」(17)が問題だとして第5次に区切りを つける。翌4月,第6次(18)「創刊のことば」で は思想雑誌を出す意義が以下のように示され た。

 私たちは,管理され操作されている日常性に批判 的に対峙しつつも,そのかたくなさの底に息づいて いる生の豊かさを見定め,日常生活に根ざした自主 的な思想を創造するために,〈思想の科学〉の認識の 方法をよりいっそう鍛えていきたい。

 ここには日常性も社会の機制の一部であると いう認識と,だからといって観念の世界に行く のではなく生活経験の中に「生の豊かさ」を手

(14)

繰っていこうとする志向がある。もはや「生 活」と直結した「実感」の実在性は失われ,か わって理念としての「日常性」が立上げられた。

4.結語

 以上,「実感」という概念の立ち上げとこれ をめぐる論争,その問題点を克服する試みを見 てきた。「実感」は1950年代後半,従来の階級 観や所与の抽象論を否定する「戦後派」の論理 として主張されてくる。その背景にはマルクス 主義の正統性の揺らぎと岸信介ら戦前からの政 治家の返咲きがあり,その双方を否定して「戦 後」以降の新しい社会のヴィジョンを求める

「戦前派」と「戦中派」の思惑があった。

 鶴見俊輔にあっては「実感」は当初,「戦後派」

が自らの考えに基づいて行動しそのことに責任 をとる点において評価され,その後行動への衝 動を孕む点が強調された。それは一方で「戦前 派」の無責任さと自らの区別を可能にし,他方 では自らの戦争体験すなわち感覚・認識と行動 が結びつかず反国家的な行動をとれなかったこ とへの倫理的な責任の意識を保ちながら行動を 駆動する役割を果たす。丸山真男は認識と実践 を統合する主体の責任を重視し,「実感」への 密着が状況追随をもたらすことを警戒する。丸 山は超越的な価値を想定して認識を鍛え,鶴見 は「私」の中に普遍的原理があることの信頼に 基づいて実践を行う。究極的な価値のありかと 認識と実践の比重が両者の分れ目だった。

 鶴見和子の生活記録理論の重点は,集団の持 続的な交流による人間同士の信頼関係を土台と する自己改造にある。書き,話し,考え,行動 してまた書く循環から生まれる,相手の言った ことに「分かる」と心からうなずき合えるよう

な共同性,これが鶴見和子が「共通の生活実感」

と呼んだ,旧来のマルクス主義とは異なる連帯 の基盤であった。このようなプロセスを経て得 られる社会的意味の認識は,従来の学習にはな い深さをもたらすと期待され,鶴見和子はその 高次の認識のあり方も「実感」の語で表した。

さらに鶴見和子は新しい概念づくりを志向し,

理論対実感の対立を止揚する女性の論理や,水 俣での聞き取りを経て「内発的」な視点の獲得 へつなげてゆく。

 中間文化論が縮減を指摘したところの「大 衆」と「知識人」の溝は,1950年代から60年代 に狭まりつつも存在し,前者に書かせ後者が評 価を握るという非均衡な関係や,職場の日常を 題材にジャーナリズムに乗ることの倫理の問題 を孕んでいた。後藤宏行や佐藤忠男,上坂冬子 らはこれらの問題を戦前・戦中派の知識人の期 待とともに受けとめ,「大衆」,「実生活者」あ るいは「戦後派」としての「実感」を前面に押 し出してアカデミズムやジャーナリズム内で地 歩を固めていく。やがてさらなる大衆社会状況 の進展による溝の縮小は『思想の科学』から出 た彼らにより広い活躍の場を提供したが,それ は論壇における『思想の科学』の独自性の希薄 化の危機でもあった。60年代,大野力らが主張 した「実務のなかの思想」は,実感への権力の 影響力,体制に埋没する危険性を逆手にとり,

実務のエキスパートとして具体的なプログラム の責任を担うことにより社会改善を漸進させる 立場であった。丸山から「型がない」との批判 を受けながらも『思想の科学』は「日常」と「実 感」の自明性に批判的に対峙しながら生活の中 に息づく思想の断片をすくい上げ自主的な思想 をつくろうとする。

(15)

 「知識人」と「大衆」の溝,「知識人」の圧倒 的な教養と特権的な地位は,やがて何段階かを 経て崩壊していく。それは倫理性を湛えた大き なストーリーとしての「思想」の終焉でもあっ た。しかし権威・権力の偏在が無化されたかの ようなポスト・モダンの幻想は,経済的な「機 会の均等」,政治的・倫理的な各人の「自由」

の体裁が保たれているときにのみ実在性を持 つ。長い「戦後」が終わりその前提がほころび を露呈してきた今,知識人の描くべきストー リーとそれを実現する方法につき「実感」論争 が提起した問題をいま一度見直すことが必要だ ろう。

〔投稿受理日2010. 5. 22/掲載決定日2010. 6. 10〕

⑴ 中野好夫「もはや『戦後』ではない」『文藝春秋』

34(2),56-66;「『戦後』への訣別」『世界』(128)

⑵ 戦前派,戦中派,戦後派の定義は論者の基準に よりずれがある。例えば小熊英二の敗戦時年齢を 基準とする区分では1921年から30年生れが戦中派,

その前後が戦前・戦後派となる[小熊 2002: 599]。

久野収と鶴見俊輔は軍国主義以前の体制の記憶の 有無と動員可能性に基準を置き,生年1919年から 28年が第一次戦後派(戦中派),1929年から33年が 第二次戦後派(純粋アプレゲール),合せて1919年 から33年が戦後派となる[久野・鶴見 1956: 190]。

⑶ 『新社会学辞典』有斐閣 1993

⑷ 「中間文化論」『中央公論』72(3),252-261,「戦 後派の中間的性格」同72(11),231-241

⑸ 「アプレゲール意識のもつ言語感覚をめぐって」

『社会思想研究』6(12);「アプレ・ゲールの価値意 識」『思想』(371),91-102

⑹ 例えば「アプレゲール・アヴァンゲール」『日本 評論』25(2),88-95,南博「アプレゲール的存在」

『人間』5(12),142-147

⑺ 「後藤宏行略年譜」『思想の科学会報』(125),

24-25

⑻ 転向研究会については拙稿「思想の科学の転向 研究」『社学研論集』(14),180-195

⑼ 1958年11月22日,12月13日,1959年2月28日。2 回目に江藤を招いた[後藤 1958; 大野 1959]。

⑽ 「生活綴方」は自主的な思考を促すため生活経験 や感じたままを書かせる教育方法。『山びこ学校』

(1951)を機に労働組合や農村の青年,家庭の主婦 に「生活記録運動」として拡大した。(『広辞苑』

第5版;『日本大百科事典』オンライン版)

⑾ 例えば研究部「ひとびとの哲学 中間報告」『思 想の科学』1(8),(8),57-67; 1(9),(9),43-53

⑿ 樋口茂子 1957.『非情の庭』三一書房

⒀ 1959年4月(45号)から1961年12月(80号)

⒁ 1954年5月(33号)から1955年4月(44号)

⒂ 大野らは同年10月号の特集「ビジネスに生きる 立場」で現実に即し体制内から変革する立場をさ らに主張したが,これに対し高田佳利は反体制側 の柔軟ラインの可能性を軽視していると批判し,

「組合に生きる立場」を主張した[高田 1961]。

⒃ 第5次『思想の科学』,1962年4月(81号)から 1972年3月(208号)。移行の経緯につき高畠通敏・

久野収「『思想の科学』事件 中央公論社との訣別 の経緯」『エコノミスト』73(16),90-95ほか。

⒄ 「終刊のことば」『思想の科学』5(128),(208)

⒅ 1972年4月(209号)から1981年3月(337号)

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(16)

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鶴見和子 1954.「話しあい書きあう仲間」『エンピ ツをにぎる主婦』(毎日新聞社)初出,鶴見和子 1998所収

鶴見和子 1959a.「『エンピツをにぎる主婦』とその 後」『現代教養全集 月報6』筑摩書房

鶴見和子 1959b.「寝ていて考える」『新日本文学』

14(3),145-147

鶴見和子 1961.「生活記録運動のこれまでとこれか ら」『日本の記録』(1)初出,鶴見和子1998所収 鶴見和子 1962.「新しい地点からもう一度」『月刊

社会党』(55)初出,鶴見和子1998所収

鶴見和子 1985.「生活記録運動の意味」『新日本文 学』40(10),20-29

鶴見和子 1986.「生活記録運動の戦後と現在」『国 民文化』1986. 1 初出,鶴見和子1998所収 鶴見和子 1998.『鶴見和子曼荼羅Ⅱ』藤原書店 鶴見和子他 1954.「生活綴方運動の問題点」『思想

の科学』3(4),(36).8,26-39

鶴見俊輔 1959a.「序言 転向の共同研究について」

『転向 上』平凡社

鶴見俊輔 1959b.「『思想の科学』一九五九年――投 稿を中心として――」『思想の科学』4(12),(56),

74-79

鶴見俊輔 1960.「根もとからの民主主義」『思想の 科学』4(19),(63),20-27

鶴見俊輔 1968.「目標についての提案」思想の科学 研究会『思想の科学・趣旨と活動』

鶴見俊輔・吉本隆明 1967.「どこに思想の根拠をお くか」『展望』(100),96-111

橋川文三 1958a.「実感の文学を超えて ――現代 文学における主体の問題――」『文学界』12(6),

172-185

橋川文三 1958b.「実感・抵抗・リアリティ」『新日 本文学』13(6),132-135

橋川文三 1958c.「文学史と思想史」『思想』(409),

55-65

橋川文三・加藤秀俊・江藤淳・田口富久治・大江健 三郎 1958.「『実感』をどう発展させるか」『中央 公論』73(7),226-237

松下圭一 1957a.「史的唯物論と大衆社会」『思想』

(395),43-63

松下圭一 1957b.「マルクス主義理論の20世紀的転 換」『中央公論』72(3),142-157

丸山真男 1957.「日本の思想」『岩波講座 現代思 想第十一巻 現代日本の思想』

丸山真男 1961.『日本の思想』岩波書店

丸山真男 1967.「語りつぐ戦後史 第五回 普遍的 原理の立場」『思想の科学』5(62),(142),105-119 村上兵衛 1956.「戦中派はこう考える」『中央公論』

71(4),20-33

吉 原 二 郎 1958.『新 中 間 層 』 の 再 検 討 」『前 衛 』

(137),122-128

Mills, C. W., 1956. The Power Elite. New York, Oxford University Press

Riesman, D., 1950. The Lonely Crowd. New Haven, Yale University Press

参照

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