第 5 章 中 ソ 国 境 紛 争
本 章 で は 、 予 防 戦 争 の パ ワ ー ・ シ フ ト 理 論 を 検 証 す る た め に 、 中 ソ 国 境 紛 争 の 事 例 を 取 り 上 げ る 。 国 境 紛 争 が 発 生 し た 当 時 、 ソ 連 は 攻 撃 的 で 強 硬 な 外 交 政 策 を 採 用 す る と と も に 、極 東 地 域 に お い て 、通 常 戦 力 な ら び に 核 戦 力 を 増 強 し て い た 。他 方 、 中 国 は 核 実 験 を 済 ま せ て い た も の の ソ 連 を 攻 撃 で き る 核 戦 力 は 皆 無 に 等 し く 、 通 常 戦 力 で も 圧 倒 的 に 不 利 で あ っ た 。 さ ら に 、 中 国 は 内 乱 と も い え る 文 化 大 革 命 に よ り 国 力 を 疲 弊 さ せ て い た 。 こ う し た 国 内 外 の 情 勢 に お い て 、 中 国 の 指 導 者 た ち は ソ 連 の パ ワ ー の 増 強 が も た ら す 脅 威 を 深 刻 に 受 け 止 め た 。 そ し て 、 中 国 は 相 対 的 な パ ワ ー ・ バ ラ ン ス が 決 定 的 に 不 利 に な る 前 に 、 ソ 連 を 牽 制 す る た め の 限 定 的 な 予 防 攻 撃 の イ ニ シ ア テ ィ ヴ を と っ た 。 そ の 目 的 の 1 つ は 、 ソ 連 の 中 国 に 対 す る 大 規 模 な 軍 事 行 動 を 抑 止 す る こ と 、 と り わ け 中 国 は 「 第 2 の チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 」 に な ら な い と い う 政 治 的 メ ッ セ ー ジ を ソ 連 に 軍 事 力 で 伝 え る こ と で あ っ た1。
こ こ で は 、 は じ め に 中 ソ 国 境 武 力 紛 争 が 起 こ る プ ロ セ ス を 観 察 す る 。 次 に 、 予 防 戦 争 の パ ワ ー ・ シ フ ト 理 論 の 予 測 と 武 力 紛 争 が 一 致 す る か 否 か を 検 証 す る 。 さ ら に パ ワ ー ・ シ フ ト 理 論 と 競 合 す る 理 論 を 引 き 合 い に 出 し 、 こ れ ら の 競 合 理 論 が 中 ソ 国 境 紛 争 の 事 例 を 説 明 で き る か ど う か を 考 察 す る 。最 後 に 、こ の 紛 争 に 対 す る パ ワ ー・
シ フ ト 理 論 と 競 合 理 論 の 説 明 能 力 を 比 較 考 量 し て 、 検 証 の 結 果 を 明 ら か に す る 。
第
1節 中 ソ 対 立 の 悪 化
1969 年 に 勃 発 し た 中 国 と ソ 連 の 国 境 武 力 衝 突 す な わ ち ダ マ ン ス キ ー 島 / 珍 宝 島 事 件 は 、 世 界 に 大 き な 衝 撃 を 与 え た 。 こ の 衝 突 は 社 会 主 義 国 同 士 は 戦 争 を 行 わ な い と い う マ ル ク ス ・ レ ー ニ ン 主 義 の 神 話 を 崩 壊 さ せ た だ け で な く 、 大 国 同 士 が 直 接 戦 火 を 交 え た 実 在 の 「 核 危 機 」 で も あ っ た か ら で あ る 。
こ れ ま で 中 ソ 国 境 紛 争 の 実 態 は 厚 い ベ ー ル に 包 ま れ て お り 、 よ く わ か っ て い な か っ た 。 そ の 中 で も 最 大 の 謎 は 、 中 国 と ソ 連 の ど ち ら が ど の よ う な 理 由 で こ の 紛 争 を 引 き 起 こ し た の か と い う こ と で あ る 。 こ れ ま で 多 く の 研 究 者 が こ の 疑 問 に 取 り 組 ん で き た が 、 議 論 は 二 つ の 方 向 で 展 開 さ れ て き た 。 す な わ ち 、 中 国 が 計 画 的 に 待 ち 伏 せ 攻 撃( 埋 伏 )を 行 っ た と い う 説 明 と ソ 連 が 紛 争 を 主 導 し た と い う 主 張 で あ る2。何
1 Gerald Segal, Defending China (Oxford: Oxford University Press, 1985), pp.
176-196.
2 わ が 国 に お け る 中 ソ 紛 争 研 究 の 最 も 標 準 的 な 文 献 は 、 毛 里 和 子 『 中 国 と ソ 連 』 岩 波 書 店 、1989 年 で あ ろ う 。 同 書 は 「 中 国 の イ ニ シ ア テ ィ ヴ 説 」 を と っ て お り (94
し ろ 調 査 対 象 が 閉 鎖 的 な 社 会 主 義 国 で あ る た め 、 決 定 的 な 政 策 決 定 の 情 報 、 と く に 1 次 史 料 / 資 料 が 不 足 し て お り 、 最 近 ま で 真 相 が 明 ら か に さ れ る こ と は な か っ た 。 し か し な が ら 、 冷 戦 後 、 ソ 連 側 の 史 料 公 開 が 進 み 、 中 国 側 の 実 務 家 や 研 究 者 も 調 査 に 柔 軟 な 姿 勢 を 見 せ 始 め た こ と に よ り 、 近 年 、 ダ マ ン ス キ ー 島 / 珍 宝 島 事 件 の 原 因 を 究 明 す る 研 究 が 進 展 し て い る 。そ し て 、い く つ か の 信 頼 で き る 研 究 成 果 に よ れ ば 、 こ の 武 力 紛 争 は 中 国 が 主 導 し た こ と が 明 ら か に な っ て い る3。で は 、な ぜ 中 国 は ソ 連 か ら の 核 報 復 の 危 険 を 冒 し て ま で 、 対 ソ 予 防 攻 撃 に 踏 み 切 っ た の だ ろ う か 。 こ こ で は 、 こ の 謎 を 探 る 手 は じ め と し て 、 中 国 と ソ 連 が 軍 事 衝 突 に 至 る 過 程 を 時 系 列 的 に 観 察 し て み た い 。
1969年 3 月 、社 会 主 義 大 国 で あ る 中 国 と ソ 連 が 、国 境 付 近 の 小 さ な 島 を め ぐ り 軍 事 衝 突 を 起 こ し た 。 そ し て 両 国 の 武 力 紛 争 は 全 面 戦 争 の 瀬 戸 際 に ま で 発 展 し た 。 社 会 主 義 陣 営 に お け る 二 大 国 の 関 係 は 、「 冷 戦 」か ら「 熱 戦 」に 転 じ た の で あ る 。中 国 と ソ 連 は 1950年 代 中 頃 か ら 対 立 が 顕 著 に な っ て き た4。 同 時 に 、 国 境 を め ぐ る 対 立 も 1959 年 初 め に 顕 在 化 し た が 、 国 境 侵 犯 事 件 そ の も の は 散 発 的 に 起 こ る 程 度 だ っ た 。 と こ ろ が 、 中 国 が 文 革 を 発 動 し た 1966 年 頃 か ら 、 中 ソ 国 境 紛 争 は 表 面 化 す る よ う に な っ た 。 周 知 の 通 り 、 中 国 の 文 革 に は 反 ソ 的 な 要 素 が 多 分 に 存 在 し て い た の で 、 ソ 連 は イ デ オ ロ ギ ー 的 な 反 発 を 強 め た 。 と く に 文 革 の 過 激 派 た ち が ソ 連 国 境 を 侵 犯 す る 行 為 に ソ 連 は 神 経 を 尖 ら せ た 。 ソ 連 は 文 革 に 過 剰 反 応 し 、 国 境 警 備 を 「 要 塞 化 」 す る こ と で 中 国 の 攻 勢 に 対 応 し た 。
1966年 2月 、ソ 連 が モ ン ゴ ル と 軍 事 協 定 を 結 び 、モ ン ゴ ル に 展 開 す る 前 線 部 隊 と ロ ケ ッ ト 部 隊 を 急 速 に 強 化 し た こ と は 、 中 国 の パ ワ ー ・ ポ ジ シ ョ ン を 悪 化 さ せ た 。 そ の 結 果 、 中 国 の 対 ソ 脅 威 感 は 高 ま っ た 。 毛 沢 東 が 人 民 解 放 軍 の 司 令 官 ( 員 ) た ち と の 議 論 に お い て 、2 年 以 内 に モ ス ク ワ が 攻 撃 し て く る だ ろ う と の 予 測 を 披 見 し た こ と は 、 そ の 懸 念 の 高 さ を 示 し て い る 。 そ し て 中 国 は ソ 連 が モ ン ゴ ル で 軍 備 増 強 す 頁 )、こ れ か ら 詳 し く 論 証 す る よ う に 、中 国 で 公 開 さ れ て い る 一 連 の 史 料 は こ れ を 裏 づ け て い る 。
3 石 井 明「 中 ソ 対 決 終 息 へ の 道 ― ― 珍 宝 島 事 件 か ら 上 海 協 力 機 構 の 結 成 へ ― ― 」『 政 経 研 究 』 第 39 巻 第 4号 (2003 年 3月 )、1414-1440 頁 、「 珍 宝 島 事 件 ― ― 現 地 調 査 に 基 づ く 再 考 察 ― ― 」、義 江 彰 夫 ・山 内 昌 之 ・木 村 凌 二 編『 歴 史 の 対 位 法 』東 京 大 学 出 版 会 、1998年 、121-135 頁 。ロ シ ア と 中 国 の 学 者 の 間 で も 、こ の 武 力 衝 突 は 中 国 主 導 で 始 ま っ た こ と で コ ン セ ン サ ス が 形 成 さ れ つ つ あ る 。Roderick MacFarquhar and Michael Schoenhals, Mao’s Last Revolution (Cambridge: Harvard
University Press, 2006), p. 309.
4 Donald Zagoria, The Sino-Soviet Conflict, 1956-1961 (New York: Athenaeum, 1964).
る に し た が い 、 軍 事 的 な 対 抗 策 を 講 じ た 。1967 年 、 中 央 軍 事 委 員 会 は 第 38 軍 を 精 鋭 の 快 速 反 応 部 隊 と し て 北 方 に 割 り 当 て 、 内 蒙 古 軍 区 を 北 京 軍 区 の 管 轄 下 に 置 く な ど の 措 置 を と っ た5。こ う し て 文 革 期 に は 、国 境 を め ぐ る 中 ソ 関 係 は 緊 迫 化 し た の で あ る 。
中 ソ 間 の 軍 事 バ ラ ン ス が 変 化 す る 中 、 ソ 連 の チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 侵 略 と ブ レ ジ ネ フ ・ ド ク ト リ ン の 発 表 は 、 中 ソ 対 立 を よ り 深 刻 な も の に し た 。 チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア で は 、 ア レ キ サ ン ダ ー ・ ド ゥ プ チ ェ ク(Alexander Dubcek)第 一 書 記 ら が 民 主 化 政 策 を 進 め て い た 。 ソ 連 は こ れ を 反 革 命 運 動 と 判 断 し 、1968 年 8月 、 推 定 40 万 人 の ソ 連 軍 を 動 員 し て 、ワ ル シ ャ ワ 条 約 機 構 軍 の 名 の も と チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア に 侵 攻 し た 。 そ の 結 果 、 チ ェ コ の 民 主 化 運 動 は ソ 連 の 戦 車 に よ っ て 弾 圧 さ れ 、 ド ゥ プ チ ェ ク ら は ソ 連 に 連 行 さ れ た 。 そ し て 、 ソ 連 の ブ レ ジ ネ フ(Leonid Brezhnev)書 記 長 は チ ェ コ 侵 略 を 正 当 化 す る た め に 、 ソ 連 は 社 会 主 義 圏 の 利 益 が 侵 害 さ れ る と 判 断 し た 場 合 、
「 兄 弟 国 」 の 内 政 に 介 入 す る 権 利 が あ る と 主 張 し た の で あ る 。 こ の 声 明 は 、 西 側 諸 国 か ら 「 ブ レ ジ ネ フ ・ ド ク ト リ ン ( 制 限 主 権 論 )」 と 呼 ば れ た6。
中 国 は ソ 連 の チ ェ コ 侵 攻 と ブ レ ジ ネ フ ・ ド ク ト リ ン を 極 め て 深 刻 に 受 け 止 め た 。 な ぜ な ら ば 、 こ の こ と は ソ 連 の 極 東 に お け る 軍 事 力 増 強 の 意 図 を 示 す も の と 解 釈 で き る か ら で あ る 。 中 国 は ソ 連 が ブ レ ジ ネ フ ・ ド ク ト リ ン を 適 用 し て 侵 攻 し て 来 る よ う な 事 態 に な る こ と を 恐 れ た 。実 際 、ソ 連 は こ の こ と を ほ の め か し て い た 。KGB と の 関 係 を 噂 さ れ る ヴ ィ ク ト ル・ル イ ス(Viktor Louis)と い う ジ ャ ー ナ リ ス ト は 、1969 年 9 月 、 あ る 英 国 の 新 聞 で 次 の よ う に 述 べ た 。「 中 国 が チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア よ り 何 倍 も 大 き な 国 で あ り 、 必 死 に な っ て 抵 抗 す る で あ ろ う と い う 事 実 は 、 マ ル ク ス 主 義 者 の 理 論 か ら す れ ば 、 こ の ド ク ト リ ン を 適 用 し な い 理 由 に は な ら な い 」7。
中 国 の 最 高 指 導 者 毛 沢 東 は 、 ソ 連 の チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア 侵 略 は 同 国 の 膨 張 主 義 的
5 John Wilson Lewis and Xue Litai, Imagined Enemies: China Prepares for Uncertain War (Stanford: Stanford University Press, 2006), p. 48.
6 Adam Ulam, Expansion and Coexistence: The History of Soviet Foreign Policy, 1917-73 (London: Praeger, 1974). 鈴 木 博 信 訳 『 膨 張 と 共 存 ― ― ソ ビ エ ト 外 交 史 3
― ― 』サ イ マ ル 出 版 会 、1979年 、941-944 頁 。 Karen Dawisha, “The Soviet Union and Czechoslovakia, 1968,” in Michael Brecher, ed., Studies in Crisis Behavior (New Brunswick: Transaction Book, 1978), pp. 143-171.「 ソ 連 共 産 党 代 表 団 エ リ ・ イ・ブ レ ジ ネ フ 書 記 長 の 演 説 」(1968年 11 月 23 日 )『 世 界 政 治 資 料 』299 号(1968 年 )、33頁 。
7 Dimitri K. Simes, “Soviet Policy toward the United States,” in Joseph S. Nye, Jr., ed., The Making of America’s Soviet Policy (New Haven: Yale University Press, 1984), p. 305.
野 心 の 表 れ で は な い か と い う 深 い 疑 念 を も ち 、 こ れ が 対 中 全 面 戦 争 の 前 触 れ で あ る こ と を 恐 れ た 。 危 機 感 を 強 め た 中 国 政 府 は 、 こ の 事 件 を 契 機 に ソ 連 を 「 社 会 帝 国 主 義 」 と 非 難 す る よ う に な っ た 。 そ し て 、 ソ 連 の 中 国 近 辺 で の 軍 事 力 強 化 は 、 ソ 連 が 侵 略 的 意 図 を 持 っ て い る 証 で あ る と み な し8、大 量 の 中 国 軍 兵 士 を ソ 連 と の 国 境 付 近 に 配 置 し た 。 一 方 、 ソ 連 は 、 社 会 主 義 路 線 を め ぐ る 中 国 と の イ デ オ ロ ギ ー 的 確 執 が 激 し く な る に つ れ 、中 国 を 危 険 な 敵 と し て 認 識 す る よ う に な り 、1960年 代 後 半 か ら 極 東 ソ 連 軍 を 大 幅 に 増 強 し た 。そ の 結 果 、ソ 連 軍 は 25万 人 、中 国 軍 は 30 万 人 と い う 大 量 の 兵 力 を 国 境 地 帯 に 展 開 し た の で あ る 。そ の う ち 、極 東 ソ 連 軍 は 、1968 年 か ら 69 年 に か け て 、22師 団 か ら 28師 団( 内 、2 師 団 は モ ン ゴ ル 領 内 )に 増 加 し て い た 。 他 方 、1969年 の 時 点 で 、 中 国 軍 は 北 京 軍 区 に 32師 団 、 瀋 陽 軍 区 に 4 師 団 を 展 開 し て い た9。
同 時 に 中 国 は ソ 連 を 牽 制 す る た め に 、「 敵 の 敵 」で あ る ア メ リ カ と の 関 係 改 善 を 模 索 し 始 め た 。 米 中 は 朝 鮮 戦 争 以 来 全 面 的 に 対 立 し て い た が 、 中 国 は チ ェ コ 事 件 を 契 機 に ア メ リ カ に 接 近 し た 。手 始 め に 中 国 は 1968年 11 月 、ア メ リ カ に 対 し て ワ ル シ ャ ワ 大 使 級 会 談 の 再 開 を 提 案 し た 。 翌 年 1 月 、 毛 沢 東 は ア メ リ カ の 新 大 統 領 リ チ ャ ー ド・ニ ク ソ ン(Richard Nixon)の 就 任 演 説 に 対 中 関 係 改 善 の メ ッ セ ー ジ が 含 ま れ て い る こ と に 気 づ き 、 こ れ を 主 要 な 中 国 の 新 聞 で 公 表 す る よ う 指 示 し た10。 ニ ク ソ ン は 同 演 説 で 「 わ が 政 権 中 に 、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 道 が 開 か れ る こ と を 全 て の 国 に 知 っ て 頂 き た い 」 と 、 間 接 的 表 現 な が ら 中 国 と の 関 係 を 改 善 す る 用 意 が あ る こ と 明 ら か に し て い た か ら で あ る 。 こ の よ う に 米 中 ソ の 三 角 関 係 に は 、 古 典 的 な 勢 力 均 衡 の 原 理 が 働 い た 。 中 ソ 対 立 の 深 ま り が 米 中 接 近 を 促 し た の で あ る 。
第
2節 中 国 の 予 防 攻 撃 と ソ 連 の 反 撃
中 国 と ソ 連 は 1969 年 3 月 2 日 、 ウ ス リ ー 江 上 の 普 段 は 無 人 の 小 島 で 軍 事 衝 突 を
8 「 ソ 連 修 正 主 義 の 全 般 的 破 産 ― ― 人 民 日 報 評 論 員 ― ― 」(1968 年 8月 23日 )、「 ル ー マ ニ ア 建 国 記 念 日 の レ セ プ シ ョ ン に お け る 周 恩 来 総 理 の あ い さ つ 」(1968 年 8月 23 日 )、 欧 ア 協 会 編 『 中 ソ 論 争 主 要 文 献 集 (1967〜68)』 北 東 出 版 宣 伝 、1969 年 、 223-229 頁 。
9 Roderick MacFarquhar and John K. Fairbank, eds., The Cambridge History of China: Volume 15, The People’s Republic, Part 2: Revolutions within the
Chinese Revolution 1966-1982 (Cambridge: Cambridge University Press, 1991), p. 299.
10 Mao Zedong’s Comments on an Article by Commentator of Renmin Ribao and Hongqi, January 1969. Http://cwihp.si.edu/cwihplib.nsf/(2001年 6月4日 閲 覧 )
起 こ し た 。 こ れ が ダ マ ン ス キ ー 島 / 珍 宝 島 事 件 で あ る 。 こ の 事 件 は 、 中 国 軍 が ソ 連 軍 を 待 ち 伏 せ て 発 砲 し た こ と か ら 始 ま っ た 。 軍 事 衝 突 の 詳 し い 経 緯 は 次 の 通 り で あ る 。
3 月 1 日 夜 、 中 国 の 人 民 解 放 軍 兵 士 が 、 凍 り つ い た ウ ス リ ー 江 を 渡 っ て 珍 宝 島 / ダ マ ン ス キ ー 島 に 上 陸 し た 。 こ の と き の 中 国 軍 は 、 孫 玉 国 と 周 登 国 に 率 い ら れ た 2 歩 兵 中 隊 と 4 偵 察 小 隊 、1 無 反 動 砲 小 隊 、1 重 機 関 銃 小 隊 か ら 構 成 さ れ て い た 。翌 2 日 の 朝 に は 、 司 令 官 の 孫 と 周 に 率 い ら れ た 中 国 の パ ト ロ ー ル 隊 が 、2 手 に 分 か れ て 島 に 上 陸 し た 。 ソ 連 の 警 備 兵 が こ の 中 国 兵 の 行 動 を 確 認 し 、 ソ 連 の 司 令 官 イ ワ ン ・ ス ト レ ニ コ フ(Ivan Ivanovich Strelnikov)は 、2 台 の 装 甲 車 な ど を 動 員 し た 部 隊 を ダ マ ン ス キ ー 島 に 派 遣 し た 。そ し て 上 陸 し た ソ 連 兵 は 2 手 に 別 れ て 中 国 の パ ト ル ー ル 部 隊 に 接 近 し た 。 ソ 連 兵 は 中 国 兵 に 対 し て 撤 退 す る よ う に 命 じ た が 、 中 国 兵 も ソ 連 兵 に 対 し て 島 か ら 離 れ る よ う 命 じ た 。 そ の 後 、 双 方 の に ら み 合 い が 続 い た 後 、 ソ 連 の パ ト ロ ー ル 兵 が 不 意 に 中 国 兵 を 発 見 し た こ と で パ ニ ッ ク に な り 、 あ わ て て 発 砲 し て 中 国 の パ ト ロ ー ル 兵 を 殺 害 し て し ま っ た 。 そ こ で 待 ち 伏 せ て い た 中 国 兵 は 反 撃 し て 、 ス ト レ ニ コ フ と 同 行 し た ソ 連 兵 を 殺 害 し た と い う こ と で あ る11。
15日 に も 武 力 衝 突 が 発 生 し た 。今 度 は ソ 連 が 戦 車 や 大 砲 な ど の 重 火 器 も 導 入 し て 、 中 国 の 人 民 解 放 軍 や 国 境 警 備 軍 に 大 掛 か り な 反 撃 を 行 っ た12。ソ 連 軍 は 50両 以 上 の 戦 車 と 装 甲 兵 員 輸 送 車 な ら び に 36 機 の 航 空 機 を 動 員 し 、1000 砲 以 上 の 大 砲 で 中 国 軍 を 攻 撃 し た の で あ る 。 そ れ に 対 し て 、 中 国 軍 は 歩 兵 部 隊 と 大 砲 で 反 撃 し た 。 そ の 結 果 、 中 国 軍 に は 多 数 の 死 傷 者 が で た よ う で あ る13。
2度 目 の 武 力 衝 突 に 際 し て 、林 彪 は 毛 沢 東 を 交 え た 3 月 15日 の 中 央 文 革 小 組 の 会
11 Thomas Robinson, “The Sino-Soviet Border Conflicts of 1969: New Evidence Three Decades Later,” in Mark A. Ryan, David M. Finkelstein, and Michael A.
McDevitt, eds., Chinese Warfighting: The PLA Experience Since 1949 (New
York: M.E. Sharpe, 2003), pp. 208-209. 近 年 出 版 さ れ た 定 評 の あ る『 現 代 中 国 事 典 』 岩 波 書 店 、1999年 に は 、「 中 ソ 国 境 紛 争 」の 項 目 に お い て 、「 ソ 連 軍 が 先 に 攻 撃 し た 」 と 記 載 さ れ て い る (851 頁 )。
12 毛 里 和 子 「 中 ソ 対 立 の 構 造 」、 山 極 晃 ・ 毛 里 和 子 編 『 現 代 中 国 と ソ 連 』 日 本 国 際 問 題 研 究 所 、1987年 、118頁 。Raymond L. Garthoff, Détente and Confrontation:
American-Soviet Relations from Nixon to Reagan (Washington, D.C.: The
Brookings Institution, 1985), p. 203; Thomas Robinson, “The Sino-Soviet Border Conflict,” in Stephen Kaplan, et al., eds., Diplomacy of Power: Soviet Armed Forces as a Political Instrument (Washington, D.C.: The Brookings Institution, 1981), pp. 275-277. ス タ ン レ ー ・ カ ー ノ ウ 、風 間 龍 ・ 中 原 康 二 訳『 毛 沢 東 と 中 国 ―
― 終 わ り な き 革 命 ― ― ( 下 )』 時 事 通 信 社 、1976年 、364-365 頁 。
13 Robinson, “The Sino-Soviet Border Conflicts of 1969,”p. 212.
合 で 「( ソ 連 国 境 警 備 軍 に よ る ) 本 日 の 行 動 は モ ス ク ワ か ら 指 示 さ れ た も の で あ る 。 そ れ は 前 線 で ( ソ 連 の 司 令 官 に よ り ) 主 導 さ れ て い た 」 と 報 告 し て い た14。 こ の 報 告 を 聞 い た 毛 沢 東 は 、「 い ま や 、わ れ わ れ は 恐 る べ き 敵 と 対 峙 し て い る の だ か ら 、人 民 を 動 員 し て 万 全 に 備 え る こ と が 得 策 で あ る 」 と 発 言 し て 、 ソ 連 国 境 付 近 の 各 方 面 で 戦 争 に 備 え る よ う 主 張 し た15。
図 9 ダ マ ン ス キ ー / 珍 宝 島 周 辺 地 図
( 出 典:野 口 和 彦「 文 革 期 に お け る 中 ソ 国 境 武 力 紛 争 」『 ア ジ ア 遊 学 』第 65 号 、2004 年 7 月 、40 頁 よ り )
先 行 の 研 究 で は 、 中 ソ 国 境 紛 争 に お け る 戦 闘 は 比 較 的 小 規 模 で あ っ た と み な さ れ
14 Mao Zedong’s Talk at Meeting of the Central Cultural Revolution Group, 15 March 1969. Http://cwihp.si.edu/cwihpplib.nsf/ (2001年 8 月 2日 閲 覧 )
15 Gong Li, “Chinese Decision-Making and the Thawing of U.S.-China Relations,”
in Robert Ross and Kiang Changbin, eds., Re-examining the Cold War:
U.S.-China Diplomacy, 1954-1973 (Cambridge: Harvard University Press, 2002), p. 331.
て い た 。こ の た め ダ マ ン ス キ ー / 珍 宝 島 を め ぐ る 一 連 の 軍 事 衝 突 は 、「 事 件 」と し て 扱 わ れ る の が 一 般 的 だ っ た 。 し か し な が ら 、 さ ま ざ ま な 関 連 資 料 が 明 ら か に な る に し た が い 、 実 態 は そ う で は な い こ と が 分 か っ て き た 。 こ の 中 ソ の 交 戦 は た ん に 事 件 と し て 片 付 け ら れ る よ う な も の で は な か っ た 。利 用 で き る 証 拠 は 、中 ソ 間 で「 戦 争 」 と 形 容 で き る ほ ど の 激 烈 な 戦 闘 が 行 わ れ て い た こ と を 示 し て い る16。 2 度 の 戦 闘 で 中 ソ 双 方 に ど の 程 度 の 犠 牲 者 が で た の か は 、 そ れ ぞ れ の 研 究 に よ っ て 数 値 が 異 な る の で 、 正 確 な と こ ろ は 依 然 と し て つ か め て い な い が 、 そ れ で も な お 戦 闘 が 激 し か っ た こ と は 疑 う 余 地 が な い 。
3月 2 日 の 1 回 目 の 戦 闘 に お け る 犠 牲 者 数 は 、 中 国 側 の 発 表 に よ れ ば 、 ソ 連 側 が 38 名 の 死 亡 者 と 30名 の 負 傷 者 を だ し た( の ち に ソ 連 は 31名 の 死 亡 と 発 表 )一 方 、 中 国 側 の 犠 牲 は 、死 亡 が 20 名 、負 傷 が 35 名 、行 方 不 明 が 1名 と い う こ と で あ る17。 15 日 の 2度 目 の 戦 闘 に お け る 犠 牲 者 数 は 、伝 え ら れ る と こ ろ に よ れ ば 、以 下 の 通 り で あ る 。 中 国 側 の 発 表 に よ れ ば 、 ソ 連 軍 の 死 傷 者 は 、60 名 が 死 亡 、80 名 が 負 傷 、 中 国 軍 の 死 傷 者 は 、 死 亡 者 が 12 名 、 負 傷 者 が 27名 と い う こ と で あ る 。他 方 、ソ 連 側 の 発 表 に よ れ ば 、 中 国 軍 の 死 傷 者 数 は 推 定 800 名 ( た だ し 、 ダ マ ン ス キ ー 島 以 外 で の 犠 牲 者 は 除 く ) と な っ て い る 。 な お 、 ダ マ ン ス キ ー 島 を め ぐ っ て は 、 両 国 間 で 17 日 に も 軍 事 衝 突 が 起 こ り 、 ソ 連 軍 は 58 名 の 死 亡 者 と 94 名 の 負 傷 者 を だ し 、 中 国 側 の 死 傷 者 数 は 68名 だ っ た と の こ と で あ る18。こ の よ う に 中 国 側 と ソ 連 側 の 発 表 で は 、 数 に 開 き が 見 ら れ る が 、 い ず れ に せ よ 、 相 当 数 の 軍 人 が 犠 牲 に な っ て い る こ と は 間 違 い な い 。
な お 、 中 ソ 国 境 紛 争 の 「 首 謀 者 」 に つ い て は 、 近 年 の 研 究 に よ り 、 中 国 が ソ 連 に 対 し て 待 ち 伏 せ 攻 撃 を 行 っ た と い う こ と で 、 コ ン セ ン サ ス が 形 成 さ れ て い る 。 ソ 連 は 当 初 か ら 、 こ の 武 力 衝 突 は 中 国 が 主 導 し た も の だ と 主 張 し 、 欧 米 の 主 な 研 究 者 た ち も 、 客 観 的 な 情 勢 判 断 に よ り 中 国 攻 撃 説 を 主 張 し て い た19。 他 方 、 中 国 側 が そ れ
16 こ の 軍 事 衝 突 の 激 し い 実 態 が 明 か に な る に し た が い 、 最 近 の 研 究 論 文 で は 、「 中 ソ 国 境 紛 争. .
(Sino-Soviet Border Conflict)」 で は な く 「 中 ソ 国 境 戦 争. .
(Sino-Soviet Border War」と い う 呼 称 が 使 わ れ て い る 。た と え ば 、William Burr, “Sino-American Relations, 1969: The Sino-Soviet Border War and Steps Toward Rapprochement,”
Cold War History, Vol. 1, No. 3 (April 2001), pp. 73-112.
17 Robinson, “The Sino-Soviet Border Conflicts of 1969,” p. 209. 中 国 の 死 亡 者 数 は 石 井 明 の 現 地 調 査 に 基 づ く 数 字 を 採 用 し た 。 石 井 明 「 珍 宝 島 事 件 」、133 頁 。
18 Robinson, “The Sino-Soviet Border Conflicts of 1969,” pp. 212-213. 石 井 「 珍 宝 島 事 件 」、135頁 。
19 ソ 連 側 の 公 式 見 解 に つ い て は 、ダ マ ン ス キ ー 島 で 中 国 の 攻 撃 に あ っ た こ と を 東 ド
を 認 め な か っ た20。 し か し 近 年 、 中 国 政 府 に 近 い 有 力 な 研 究 者 か ら 、「 中 国 主 導 説 」 を 認 め る よ う な 発 言 が 聞 か れ る よ う に な っ た 。 北 京 大 学 の 楊 奎 松 教 授 や 中 国 社 会 科 学 院 東 欧・ア ジ ア 研 究 所 の 李 静 傑 所 長 な ど 、著 名 な 中 国 人 研 究 者 た ち は 、1969 年 の 中 ソ 紛 争 は 、 中 国 政 府 ・ 人 民 解 放 軍 が 計 画 的 に ソ 連 軍 を 待 ち 伏 せ 攻 撃 し た も の で あ る こ と を 認 め 、 こ の 点 で 見 解 が 一 致 し て い る21。
中 国 が 武 力 発 動 の イ ニ シ ア テ ィ ヴ を と っ た と い う こ と は 、 い く つ か の 証 拠 に よ り 裏 づ け ら れ る も の で あ る 。 当 時 、 瀋 陽 軍 区 の 司 令 員 だ っ た 陳 錫 聯 に よ れ ば 、 珍 宝 島 で の 武 力 行 使 は 、 中 央 軍 事 委 員 会 が 前 も っ て 承 認 し た 作 戦 計 画 で あ っ た 。 最 初 の 衝 突 の 2、3ヶ 月 前 か ら 、瀋 陽 軍 区 で は 準 備 を 行 っ て お り 、3 つ の 省 軍 区 か ら 200-300 人 の 歩 兵 偵 察 中 隊 を 3個 選 抜 し て 、そ れ ら を 陸 軍 参 謀 の 実 戦 経 験 者 が 指 揮 す る こ と に な り 、 特 別 装 備 と 特 別 訓 練 が 施 さ れ た の で あ る 。 そ し て 、 こ れ ら の 部 隊 は 珍 宝 島 に 派 遣 さ れ 、 ひ そ か に 配 置 に つ い た 。 北 京 の 中 央 政 府 で は 、 喬 冠 華 副 外 相 が 軍 事 衝 イ ツ 政 府 に 報 告 す る 文 書 が 公 開 さ れ て い る 。Soviet Report to GDR Leadership on March 1969 Sino-Soviet Border Clashes, 3/8/69 (Christian F. Ostermann, “East German Documents on Sino-Soviet Border Dispute, 1969-71,” Cold War
International History Project Bulletin, Issue. 6-7, Winter 1995, p. 189 所 収). 中 ソ の 国 境 武 力 衝 突 を 詳 細 に 研 究 し た リ チ ャ ー ド・ウ ィ ッ チ は 、「 国 境 危 機 は 主 と し て 中 国 の イ ニ シ ア テ ィ ヴ に よ る も の で あ っ た 。 と に か く 、 こ れ ま で は ほ と ん ど 公 表 さ れ て い な か っ た 国 境 で の 緊 張 や 問 題 を 公 表 し 、 そ し て 印 象 づ け た の は 、 北 京 の 決 定 で あ っ た 。 … … 中 国 は 紛 争 地 帯 の 攻 撃 的 な 警 備 に よ り 、 国 境 で の 緊 張 を 論 争 的 に 使 用 す る こ と を 徹 底 的 に 続 け た 。 こ う し て 、 凍 り つ い た ウ ス リ ー 江 沿 い の 珍 宝 島 / ダ マ ン ス キ ー 島 で の 激 突 に 終 わ る 、 衝 突 へ の 道 が 設 定 さ れ る 。 中 国 は モ ス ク ワ が 抱 く
『 社 会 帝 国 主 義 』 の 衝 動 を 、 例 証 し た い と い う 意 図 を も っ て い た よ う で あ る 。 く わ え て 中 国 は 、 あ る 意 味 で は ソ 連 の 衝 動 を 挑 発 し て い た の で あ り 、 紛 争 地 帯 の 攻 撃 的 な 警 備 は そ う す る た め の 最 も 効 果 的 な 方 法 で あ っ た 」 と 結 論 づ け て い た 。Richard Wich, Sino-Soviet Crisis Politics: A Study of Political Change and
Communication (Cambridge: Harvard University Press, 1980), pp. 273-274.
20 キ ッ シ ン ジ ャ ー は 例 外 的 に 、 近 著 で も ソ 連 攻 撃 説 を と っ て い る 。Henry A.
Kissinger, Diplomacy (New York: Simon & Schuster, 1994), p. 722. 岡 崎 久 彦 監 訳
『 外 交 』( 下 ) 日 本 経 済 新 聞 社 、1996年 、386-387頁 。 中 国 側 の 主 張 は 、『“ 文 化 大 革 命 ”中 的 人 民 解 放 軍 』中 共 党 史 資 料 出 版 会 、1988年 。張 聿 法 ・ 余 起棻編 、浦 野 起 央・劉 甦 朝 訳『 第 二 次 世 界 大 戦 後 戦 争 全 史 』刀 水 書 房 、1996年 、319-321 頁 。Neville Maxwell, “The Chinese Account of the 1969 Fighting at Chenpao,” The China Quarterly, No. 56 (October/December 1973), pp. 730-739 を 参 照 の こ と 。 中 ソ 両 国 の 国 境 問 題 に 関 す る 主 な 主 張 は 、 外 務 省 調 査 部 編 『 中 ソ 国 境 問 題 資 料 集 』 中 ソ 問 題 研 究 会 、1975 年 、77-120 頁 に ま と め ら れ て い る 。
21 Lyle J. Goldstein, “Return to Zhenbao Island: Who Started Shooting and Why It Matters,” The China Quarterly, No. 168 (December 2001), pp. 985-997; Yang Kuisong, “The Sino-Soviet Border Clash of 1969,” Cold War History, Vol. 1, No. 1 (August 2000), pp. 21-52. ア メ リ カ の CIAは 、 最 初 の 軍 事 衝 突 は 中 国 が イ ニ シ ア テ ィ ヴ を と り 、2回 目 の 衝 突 は ソ 連 が 反 攻 し た こ と を 正 確 に 把 握 し て い た 。Central Intelligence A, Directorate of Intelligence, “Weekly Review,” 21 March 1969, Top Secret Umbra, No Foreign Dissem, excised copy.
突 に 関 す る 情 報 報 告 の 指 揮 を と っ て お り 、 必 要 に 応 じ て 周 恩 来 に 報 告 し て い た 。 そ し て 、 全 て の 重 要 な 決 定 は 、 周 自 身 に よ っ て な さ れ て い た と い う こ と で あ る22。 こ の よ う に 、 こ の 国 境 武 力 衝 突 の 実 態 は 、 中 国 側 が 計 画 的 に 準 備 を し て イ ニ シ ア テ ィ ヴ を と っ た 予 防 「 戦 争 」 だ っ た の で あ る 。
軍 事 衝 突 後 の 中 ソ の 対 応
中 ソ 武 力 衝 突 は 対 応 を 一 歩 間 違 え れ ば 、 全 面 核 戦 争 に 発 展 し か ね な い も の で あ っ た 。 で は 、 中 ソ 両 国 は こ の 紛 争 に ど う 対 応 し た の だ ろ う か 。 は じ め に 、 中 国 の 対 応 に つ い て 検 討 す る 。興 味 深 い こ と に 、中 国 政 府 内 で は 対 ソ 脅 威 認 識 や 政 策 に つ い て 、 大 き く 意 見 が 割 れ て い た 。 中 国 は ソ 連 の 脅 威 が 現 実 の も の と な っ た こ と に よ り 、 ソ 連 へ の 軍 事 的 対 抗 措 置 を 具 体 化 し た 。 林 彪 国 防 相 の 指 導 の 下 で 、 中 国 政 府 は 防 衛 能 力 の 向 上 を 目 指 し 、1969 年 の 国 防 戦 費 は 前 年 度 比 で 約 三 割 も 増 加 し た23。 し か し 、 ソ 連 の 脅 威 を ど の よ う に 見 積 も る か に つ い て は 、 中 国 政 府 内 で 相 当 の 温 度 差 が あ っ た 。
ソ 連 の 脅 威 を 客 観 的 か つ 冷 静 に 分 析 し た の は 、 中 国 人 民 解 放 軍 の 長 老 た ち で あ っ た 。 紛 争 後 の 対 ソ 政 策 を 構 築 す る 上 で 最 大 の 問 題 は 、 ソ 連 と の 戦 争 の 可 能 性 を ど の よ う に 判 断 す る か で あ っ た 。 毛 沢 東 は 国 境 線 で 戦 闘 は 始 ま っ た の を 受 け て 、 4 月 の 中 国 共 産 党 第 9 回 全 国 代 表 大 会 の 後 、 実 務 派 の 4 人 の 軍 長 老 、 陳 毅 、 葉 剣 英 、 徐 向 前 、 聶 栄 臻 に 国 際 情 勢 の 変 化 と 新 し い 環 境 へ の 対 応 策 を 検 討 さ せ た 。 そ の 結 果 、2 つ の 報 告 書 が 周 恩 来 首 相 に 提 出 さ れ た 。 最 初 の レ ポ ー ト は 、 7 月 に 提 出 さ れ た 『 戦 争 情 勢 に つ い て の 初 歩 的 評 価 』で あ る 。同 報 告 書 は 戦 争 の 可 能 性 に つ い て 、「 わ れ わ れ は 予 見 し う る 将 来 、 ア メ リ カ 帝 国 主 義 者 と ソ 連 修 正 主 義 者 が 、 共 謀 し て あ る い は 個 別 に 、 中 国 に 対 し て 大 規 模 な 戦 争 を 始 め る こ と は な さ そ う で あ る 」 と 分 析 し て い た24。
ま た 、 9 月 に 提 出 さ れ た 次 の 報 告 書 『 当 面 の 情 勢 に つ い て の 見 方 』 は 、 ア メ リ カ の ニ ク ソ ン 政 権 が ア ジ ア で の 兵 力 を 削 減 す る 意 向 を 明 ら か に し 、 ま た ル ー マ ニ ア を
22 Yang, “The Sino-Soviet Border Clash of 1969,” pp. 28-29. 15 日 の ソ 連 と の 衝 突 に お い て 、 珍 は 周 か ら 発 砲 の 許 可 を 得 た 上 で 、 部 隊 に 発 砲 を 命 じ た と い う こ と で あ る 。
23 安 藤 正 士 ・ 太 田 勝 洪 ・ 辻 康 吾『 文 化 大 革 命 と 現 代 中 国 』岩 波 書 店 、1986年 、123 頁 。
24 中 共 中 央 党 史 研 究 室 編 『 中 共 党 史 資 料 ( 第 42 輯 )』 中 共 党 史 資 料 出 版 社 、1992 年 。
通 じ て 間 接 的 に 中 国 と の 関 係 改 善 を 打 診 し て き た の を 受 け て 、「 ソ 連 修 正 主 義 者 は 中 国 と ア メ リ カ の 連 帯 を 恐 れ て い る の で 、 中 国 に 対 す る 全 面 戦 争 を 発 動 す る の は 難 い だ ろ う 。 … … ア メ リ カ 帝 国 主 義 者 は 中 米 大 使 級 会 談 の 再 開 を 示 唆 し て い る が 、 わ れ わ れ は 有 利 な と き を 選 ん で 、 こ れ に 回 答 す べ き で あ る 」 と 勧 告 し て い た25。
他 方 、 ソ 連 を 差 し 迫 っ た 脅 威 と 認 識 し て い た の が 、 公 式 に は 人 民 軍 の 最 高 責 任 者 の 立 場 に あ っ た 林 彪 で あ っ た 。 か れ は ソ 連 と の 戦 争 が い つ 起 こ っ て も お か し く な い と み て い た 。そ し て 、来 る べ き 戦 争 に 備 え る べ く 、10 月 に「 第 1号 戦 闘 命 令 」を 発 動 し 、 全 軍 を 緊 急 戦 争 準 備 体 制 に 入 ら せ た 。 だ が 、 軍 長 老 た ち の 報 告 を 受 け て い た 毛 沢 東 は 、 政 治 権 力 闘 争 の 思 惑 も 絡 み 、 こ の 命 令 を 取 り 消 し 、 戦 時 体 制 を 解 除 し て し ま っ た の で あ る 。 こ の よ う に 毛 を は じ め と す る 中 国 の 指 導 層 中 枢 は 、 ソ 連 の 脅 威 を 感 じ つ つ も 冷 静 な 判 断 に も と づ き 対 応 し て い た 。
ソ 連 の 指 導 部 は 対 中 全 面 戦 争 を 企 図 し て い な か っ た も の の 、 国 境 危 機 で 具 現 化 し た 中 国 の 軍 事 的 脅 威 に 対 抗 す べ く 、 中 国 の 核 施 設 や ミ サ イ ル 施 設 に 対 す る 通 常 兵 器 に よ る 攻 撃 を 含 む 、複 数 の 戦 争 計 画 を 策 定 し て い た26。1969 年 8月 、ソ 連 大 使 館 員 と し て ア メ リ カ に 駐 在 し て い た KGB の ド リ ス ・ ダ ヴ ィ ド フ(Doris Davydov)は 、 ア メ リ カ 国 務 省 の ソ 連 専 門 家 ウ ィ リ ア ム・ス テ ィ ァ マ ン(William Stearman)と 昼 食 を 共 に し た 。 そ の 際 、 か れ は 直 接 的 か つ 執 拗 に ソ 連 の 対 中 攻 撃 に 対 す る ア メ リ カ の 出 方 を 伺 っ て い た 。 ダ ヴ ィ ド フ は ス テ ィ ァ マ ン に 、 中 国 の 核 施 設 に 対 す る 攻 撃 は エ ス カ レ ー ト す る こ と は な く 、 こ れ は 核 拡 散 防 止 条 約 に も 合 致 す る と 主 張 し 、 ア メ リ カ が こ れ を 黙 認 し て く れ る こ と に 期 待 し た 。 こ れ に 対 す る ス テ ィ ァ マ ン の 答 え は 、 中 国 の 核 施 設 に 対 す る 攻 撃 と 核 拡 散 防 止 条 約 を 一 緒 く た に す る こ と は で き な い 、 と い う も の で あ っ た27。
同 時 に 、 ソ 連 は 中 国 を 核 兵 器 で 恫 喝 し て い た 。 ソ 連 共 産 党 の 機 関 紙 『 プ ラ ウ ダ 』 は 、再 三 に わ た り 中 国 に 対 し て 武 力 挑 発 を 止 め る よ う 警 告 す る と と も に 、「 現 代 技 術 が 存 在 し 、 必 殺 の 兵 器 が 配 備 さ れ 、 そ れ ら を 運 ぶ 最 新 式 の 運 搬 手 段 が 備 わ っ て い る 現 状 の も と で 戦 争 が 勃 発 す れ ば 、 い か な る 大 陸 も 無 傷 で は い ら れ な い だ ろ う 」 と 核 で 威 嚇 し 、 実 際 に 2 回 の 非 公 開 核 実 験 を 実 施 し て い た28。 こ れ が 、 ソ 連 の 核 使 用 の
25 『 中 共 党 史 資 料 』、84-86 頁 。 太 田 勝 洪 ・ 朱 建 栄 編 『 原 典 中 国 現 代 史 ( 第 6 巻 )』
岩 波 書 店 、1995 年 、152-154 頁 。
26 周 恩 来 は 、パ キ ス タ ン の カ ン(Nur Khan)参 謀 長 に「(ソ 連 の)中 国 に 対 す る 先 制 攻 撃 を 恐 れ て い る 」 と 語 っ て い た 。Burr, “Sino-American Relations, 1969,” p. 86.
27 Burr, “Sino-American Relations, 1969,” pp. 87-88.
28 Henry A. Kissinger, White House Years (Boston: Little, Brown and Company,
用 意 を 裏 づ け る も の で あ る か ど う か 、 確 か な こ と は 分 か ら な い が 、 い ず れ に せ よ ソ 連 政 府 は 、 い く つ か の 対 中 戦 争 計 画 を 既 に 策 定 し て い た よ う で あ る 。 し か し 、 ク レ ム リ ン が 最 も 知 り た か っ た こ と は 、 お そ ら く 、 通 常 兵 器 を 用 い て 核 施 設 を 含 む 中 国 の 軍 事 施 設 に 攻 撃 を 行 っ た 場 合 、 ア メ リ カ が ど の よ う な 反 応 を 示 す か と い う こ と で あ っ た29。
最 終 的 に 、 モ ス ク ワ は 中 国 へ の 攻 撃 を 断 念 し た 。 ブ レ ジ ネ フ 政 権 内 部 に は 、 ア ン ド レ イ・グ レ チ コ(Andrei Grechko)国 防 相 ら 対 中 核 攻 撃 容 認 派 も い た よ う で あ る が 、 最 終 的 に ソ 連 政 治 局 は 核 兵 器 に よ る 攻 撃 を 承 認 し な か っ た30。 そ の 主 な 理 由 の 1 つ は 、 中 国 へ の 核 攻 撃 に 端 を 発 す る 中 ソ 戦 争 が 泥 沼 化 す る の を 恐 れ た こ と で あ る31。 予 想 さ れ る 対 米 関 係 の 悪 化 も 、 ソ 連 指 導 者 た ち の 懸 念 材 料 で あ っ た 。 ソ 連 は 中 国 に 核 兵 器 を 使 用 す れ ば 、深 刻 な 米 ソ 対 立 を 招 く こ と に な る と ク レ ム リ ン は 考 え て い た 。 結 局 、 ソ 連 は 対 中 核 攻 撃 を 断 念 す る 代 わ り に 、 国 境 沿 い に 核 な ら び に 通 常 戦 力 を 展 開 す る こ と に よ り 中 国 の 攻 勢 に 対 応 し た32。
第
3節 シ ス テ ム ・ レ ベ ル 分 析 ― パ ワ ー ・ シ フ ト と 国 境 戦 争 ―
こ こ で は 中 ソ 間 の パ ワ ー ・ バ ラ ン ス の 変 化 が 、 両 国 の 対 外 政 策 に ど の よ う な 影 響 を 与 え た の か を 明 ら か に す る 。 中 ソ 間 の パ ワ ー 分 布 を 変 化 さ せ た 要 因 は 、 主 に 軍 事 力 と 同 盟 関 係 で あ り 、 経 済 力 の 諸 指 標 も 中 国 の 経 済 力 の 低 下 を 示 し て い る 。 中 国 の 1979), p. 183. 斎 藤 弥 三 郎 ・ 小 林 正 文 ・ 大 朏 人 一 ・ 鈴 木 康 雄 訳 『 キ ッ シ ン ジ ャ ー 秘 録 ① ワ シ ン ト ン の 苦 悩 』 小 学 館 、1979年 、241-242 頁 。Burr, “Sino-American Relations, 1969,” p. 94.
29 Burr, “Sino-Soviet Relations, 1969,” p. 87; Victor M. Gobarev, “Soviet Policy toward China: Developing Nuclear Weapons, 1949-1969,” Journal of Slavic Military Studies, Vol. 12, No. 4 (December 1999), p. 46.
30 Bruce G. Blair, The Logic of Accidental Nuclear War (Washington, D.C.:
Brookings Institution, 1993), p. 25. な お 、 ブ レ ジ ネ フ が 対 中 核 攻 撃 を 容 認 し た と の 説 も あ る 。飯 塚 央 子「 文 化 大 革 命 期 の 核 開 発 」国 分 良 成 編『 中 国 文 化 大 革 命 再 論 』 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会 、2003年 、159 頁 。確 か に 、ソ 連 が 中 国 に 軍 事 行 動 を 起 こ す こ と は 、 ソ 連 政 治 局 で 承 認 さ れ た こ と で は あ る が 、 そ の 手 段 と し て 核 兵 器 を 用 い る こ と ま で 承 認 さ れ た と い う 事 実 は 、 今 の と こ ろ 公 式 に は 確 認 さ れ て い な い 。
31 Lyle J. Goldstein, “Do Nascent WMD Arsenals Deter? The Sino-Soviet Crisis of 1969,” Political Science Quarterly, Vol. 118, No. 1 (Spring 2003), pp. 72-73.
32 Arkady Shevchenko, Breaking with Moscow (New York: Alfred A. Knopf, 1985), pp. 164-166. 読 売 新 聞 外 報 部 訳『 モ ス ク ワ と の 訣 別 』読 売 新 聞 社 、1985年 、 214-216 頁 。1969年 夏 、中 ソ 国 境 に 展 開 さ れ た ソ 連 軍 は 急 速 に 増 強 さ れ た 。当 時 の 国 家 安 全 保 障 会 議 の メ ン バ ー だ っ た ジ ョ ン ・ ホ ー ル ド リ ッ ジ(John Holdridge)に よ れ ば 、 ソ 連 軍 は 54師 団 へ と 急 速 に 拡 大 し た と い う こ と で あ る 。Nancy Bernknopf Tucker, ed., China Confidential: American Diplomats and Sino-American
Relations, 1945-1996 (New York: Columbia University Press, 2001), p. 228.
GDP は 中 ソ 国 境 紛 争 の 数 年 前 か ら 実 質 的 に マ イ ナ ス 成 長 を 記 録 し て い る 。中 国 が ウ ス リ ー 江 に お け る ソ 連 へ の 待 ち 伏 せ 攻 撃 を 本 格 的 に 計 画 し た 1968年 に お け る GDP は 699 億 ド ル で あ っ た が 、 こ の 数 字 は 前 年 度 の 720億 ド ル を 下 回 っ て い る33。 中 国 の 対 外 貿 易 額 は 1965年 に は 38 億 ド ル だ っ た の が 、68 年 に は 37 億 ド ル と 微 減 し て い る34。
要 す る に 、 主 と し て ソ 連 の 軍 事 力 増 強 と モ ン ゴ ル と の 同 盟 形 成 、 中 国 自 身 の 文 革 に よ る 政 治 的 弱 体 化 や 経 済 力 の 低 下 が 、 中 ソ 間 の パ ワ ー ・ バ ラ ン ス を 変 化 さ せ た と い う こ と で あ る 。 中 国 は パ ワ ー ・ ポ ジ シ ョ ン を 悪 化 さ せ る に し た が い 、 ソ 連 に 対 す る 脅 威 感 を 募 ら せ た 。 そ し て 中 国 は 文 革 の 混 乱 に 乗 じ て 、 ソ 連 が 大 規 模 な 軍 事 行 動 を 起 こ す の で は な い か と 恐 れ た 。 こ う し た 最 悪 の シ ナ リ オ を 回 避 す る た め に 、 中 国 が と っ た 行 動 の 1 つ が 、 ソ 連 に 対 す る 限 定 的 な 予 防 攻 撃 で あ っ た 。 そ の 意 図 は ソ 連 に 警 告 を 与 え る こ と に よ り 、 ソ 連 を 牽 制 す る こ と で あ っ た 。
中 国 の 核 武 装 と 米 ソ の 対 応
中 ソ 両 国 は 1960 年 代 後 半 に 相 対 的 パ ワ ー の 変 化 を 経 験 し た こ と で 、 安 全 保 障 上 の 激 し い 競 争 を 繰 り 広 げ た 。 両 国 間 の 緊 張 と 対 立 は 、 核 兵 器 の 要 因 を 考 慮 す る こ と な し に 理 解 で き な い だ ろ う 。 中 国 は 1960 年 代 中 頃 に 核 兵 器 保 有 国 の 仲 間 入 り を し た 。 中 国 が 最 初 の 原 爆 実 験 を 実 施 し た の は 、1964 年 10 月 の こ と で あ っ た 。 そ の 7 ヵ 月 後 に は 、 航 空 機 に 搭 載 す る 原 子 爆 弾 の 投 弾 実 験 を 実 施 し た 。1966年 4 月 に は 、 中 距 離 弾 道 ミ サ イ ル を 使 用 し た 核 実 験 も 実 施 し て い る 。1967 年 6月 に な る と 、早 く も 最 初 の 水 爆 実 験 ま で 行 っ て い た35。こ う し て 中 国 は 、「 潜 在 的 」核 大 国 と し て 、に わ か に 国 際 政 治 の 舞 台 に 登 場 し た 。
中 国 の 核 武 装 化 に 当 初 、 最 も 警 戒 感 を 抱 い た の は ア メ リ カ で あ っ た 。 当 時 の ジ ョ ン・F .ケ ネ デ ィ(John F. Kennedy)政 権 は 中 国 の 核 武 装 を 阻 止 す る た め に 、中 国 の 核 施 設 へ の 攻 撃 オ プ シ ョ ン を 実 際 に 検 討 し た 。 ケ ネ デ ィ 大 統 領 と 側 近 た ち は 、 中 国 の 核 施 設 を 「 予 防 攻 撃 」 あ る い は 秘 密 工 作 に よ り 破 壊 し よ う と 考 え た の で あ る 。 他 方 、統 合 参 謀 本 部 な ど は 、ア メ リ カ の 中 国 に 対 す る あ か ら さ ま な 一 方 的 軍 事 行 動 が 、 し か る べ き 反 撃 や エ ス カ レ ー シ ョ ン を 引 き 起 こ す こ と を 懸 念 し て い た 。 こ の よ う に
33 中 国 の GDP デ ー タ は NationMaster.Com 参 照 。
http://www.nationmaster.com/index.php (2009年 1 月 11 日 閲 覧 )
34 MacFarquhar and Fairbank, The Cambridge History of China, p. 253.
35 平 松 茂 雄 『 中 国 の 核 戦 力 』 勁 草 書 房 、1996 年 、155-168 頁 。
ワ シ ン ト ン で は 中 国 の 核 武 装 化 へ の さ ま ざ ま な 対 応 策 が 議 論 さ れ た が 、 結 局 、 ア メ リ カ は 対 中 軍 事 行 動 を 慎 ん だ 。 そ の 主 な 理 由 は 、 国 務 省 政 策 企 画 会 議 の ロ バ ー ト ・ ジ ョ ン ソ ン(Robert Johnson)の 報 告 書 に よ れ ば 、 次 の 通 り で あ っ た 。 ① ア メ リ カ は 中 国 の 全 て の 核 施 設 を 把 握 し て い な い 、 ② 予 防 攻 撃 は 4 〜 5 年 の 時 間 を 稼 ぐ に す ぎ ず 、 再 度 、 中 国 は 核 兵 器 を 開 発 す る と 予 想 さ れ る 、 ③ 中 国 が 台 湾 や 東 ア ジ ア の 同 盟 国 を 攻 撃 す る 可 能 性 を 無 視 で き な い 、 ④ 先 制 攻 撃 は 外 交 上 の 大 き な コ ス ト を 伴 う 、 と い う こ と で あ る36。
中 国 と の 対 立 を 深 め る ソ 連 も 、 核 武 装 す る 中 国 に 脅 威 を 感 じ て い た 。 し か し 、 ア メ リ カ が 婉 曲 に 求 め た 対 中 共 同 攻 撃 計 画 に ソ 連 は 乗 ら な か っ た 。 中 国 の 核 実 験 が 近 づ く に つ れ 、 ア メ リ カ は ソ 連 と 共 同 で 中 国 の 核 保 有 を 阻 止 す る 方 策 を 模 索 し た 。 1963 年 5 月 、 ア メ リ カ の 国 家 安 全 保 障 担 当 補 佐 官 の マ ク ジ ョ ー ジ ・ バ ン デ ィ (McGeorge Bundy)は ソ 連 の 駐 米 大 使 ア ナ ト ー リ・ド ブ ル イ ニ ン(Anatoly Dobrynin) と 会 合 を 持 ち 、 中 国 の 核 計 画 に つ い て 意 見 を 交 換 し よ う と し た 。 し か し 、 ド ブ ル イ ニ ン は 興 味 を 示 さ な か っ た 。そ こ で ケ ネ デ ィ 大 統 領 は ア ヴ ェ レ ル・ハ リ マ ン(Averell Harriman)を 特 使 と し て モ ス ク ワ に 派 遣 し 、 中 国 に 核 兵 器 を 持 た せ な い よ う に す る た め に ソ 連 の 協 力 を 仰 ご う と し た 。だ が 、ニ キ タ・フ ル シ チ ョ フ(Nikita Khrushchev) 首 相 は 、 ハ リ マ ン が 示 し た 核 兵 器 を 保 有 す る 中 国 は ソ 連 に 脅 威 を 与 え る と い う 見 解 を 否 定 し た の で あ る 。
当 時 、 ソ 連 は NATO の 多 角 的 核 戦 略 構 想(MLF: Multilateral Forces)に 重 大 な 懸 念 を 抱 い て い た 。 し た が っ て 、 ソ 連 に と っ て 欧 州 に お け る 核 問 題 に 対 応 す る こ と が 先 決 で あ り 、 中 国 の 核 武 装 へ の 対 応 は 後 回 し に な っ た の か も し れ な い 。 さ ら に 重 要 な の は 、 イ デ オ ロ ギ ー 的 な 配 慮 で あ る 。 モ ス ク ワ と し て は 、 中 国 が い か に 厄 介 な 存 在 だ っ た と し て も 、 社 会 主 義 の 同 胞 を あ か ら さ ま に 敵 に 回 す よ う な 行 動 を ア メ リ カ と 議 論 す る こ と 自 体 、 こ の 時 は 政 治 的 に 無 理 で あ っ た 。 結 局 、 米 ソ は 中 国 の 核 武 装 を 抑 え る こ と を 念 頭 に お い た 核 実 験 制 限 条 約 に 合 意 し た も の の 、 中 国 の 核 保 有 阻 止 の た め の 具 体 的 行 動 に つ い て は 、 議 論 す ら で き な か っ た37。
36 William Burr and Jeffrey Richelson, “Whether to ‘Strangle the Baby in the Candle’: The United States and the Chinese Nuclear Program, 1960-64,”
International Security, Vol. 25, No. 3 (Winter 2000/01), pp. 54-99.
37 Burr and Richelson, “Whether to ‘Strangle the Baby in the Candle’,” pp.
67-72; Vladislav M. Zubok, “Look What Chaos in the Beautiful Socialist Camp!:
Deng Xiaoping and the Sino-Soviet Split, 1956-1963,” Cold War International History Project Bulletin, Issue. 10 (March 1998), pp. 152-162.
ソ 連 は ア メ リ カ と の 共 同 行 動 こ そ 控 え た も の の 、 実 際 に は 核 武 装 す る 中 国 の 脅 威 に 対 し て 軍 事 力 の 強 化 で 対 抗 し て い た 。 文 革 が 始 ま る 頃 ま で 、 中 ソ 両 国 は く す ぶ る 国 境 問 題 に 関 し て は 、 い く つ か の 協 定 を 締 結 す る な ど し て 、 軍 備 拡 張 競 争 を 引 き 起 こ す こ と な く 沈 静 化 に つ と め て い た 。し か し 、1960年 代 中 頃 に な る と 、中 国 の 文 革 や 核 実 験 な ど の 動 き に 反 応 す る か た ち で 、 ソ 連 が 極 東 に お け る 軍 事 力 を 増 強 し 始 め た た め 、 中 ソ の 勢 力 均 衡 は 崩 れ て い っ た 。 中 国 と の 国 境 付 近 に 展 開 し て い た ソ 連 軍 の 師 団 数 は 、1965年 に お い て は 17 個 だ っ た の が 、68年 か ら 70年 に か け て は 21-22 師 団 か ら 28師 団 ま で 急 増 し た 。 ち な み に 、70年 代 中 期 ま で に は 約 45-48 個 師 団 に ま で 増 え て い る 。こ れ ら ソ 連 軍 の 戦 力 は 装 備 や 兵 站 に お い て 中 国 軍 を 圧 倒 し て い た 。 さ ら に 66 年 1 月 、 ソ 連 は モ ン ゴ ル と 「 友 好 ・ 協 力 ・ 相 互 援 助 条 約 」 を 締 結 し 、 後 に ソ 連 軍 2個 師 団 を モ ン ゴ ル に 駐 留 さ せ 、 中 国 を 包 囲 し よ う と し た38。
ソ 連 は 核 戦 力 を 国 境 問 題 で 政 治 的 に 利 用 し よ う と し た 。 モ ス ク ワ は 、 核 弾 頭 を 装 着 し た 中 距 離 弾 道 ミ サ イ ル SS-4 お よ び 短 距 離 ミ サ イ ル SS-5を 極 東 に 配 備 し た 。そ し て 、ソ 連 の 指 導 者 た ち は 国 境 を 防 衛 す る た め に 、「 最 新 鋭 の 壊 滅 兵 器 」を 含 む あ ら ゆ る 手 段 を 行 使 す る だ ろ う と 公 言 し 、 国 境 紛 争 中 も 中 国 の 核 施 設 へ の 攻 撃 の 可 能 性 を 繰 り 返 し ほ の め か し た39。 興 味 深 い こ と に 、 こ の 頃 に な る と ソ 連 は ア メ リ カ と の 対 中 共 同 攻 撃 を 考 慮 す る よ う に な っ た 。1967年 1 月 、ソ 連 の 指 導 者 は ジ ョ ン ソ ン 大 統 領 と グ ラ ス ボ ロ ー で 会 談 し た 際 、 ア メ リ カ の 隣 国 「 カ ナ ダ に 十 億 も の 中 国 人 が い て 核 兵 器 を 持 っ た と す る な ら ば 、 あ な た は ど う 感 じ ま す か 」 と 発 言 し 、 中 国 へ の 核 攻 撃 に 関 心 を 示 し た 。 だ が 結 局 、 今 回 も 米 ソ 間 で 合 意 は 成 立 し な か っ た 。 と い う の も 、 今 度 は ワ シ ン ト ン に 中 国 と の 関 係 改 善 の 動 き が 出 始 め て い た か ら で あ る40。
38 Harvey W. Nelson, Power and Insecurity: Beijing, Moscow and Washington, 1949-1988 (Boulder: Lynne Rienner, 1989), p. 72; The International Institute for Strategic Studies, The Military Balance, 1969-1970 (London: IISS, 1970), pp.
5-10; MacFarquhar and Fairbank, The Cambridge History of China, p. 299. 中 国 側 に よ れ ば 、66 年 以 降 に お け る 極 東 ソ 連 軍 の 増 強 は 、10個 師 団 か ら 43個 師 団 へ と 飛 躍 的 に 高 ま り 、 ソ 連 全 兵 力 の 24 パ ー セ ン ト に あ た る 約 100 万 人 が 展 開 さ れ た と さ れ て い る 。天 児 慧『 巨 龍 の 胎 動 ― ― 毛 沢 東 VS鄧 小 平 ― ― 』講 談 社 、2004年 、167 頁 。 こ の よ う に 極 東 ソ 連 軍 の 拡 大 の 実 態 に つ い て は 、 西 側 シ ン ク タ ン ク や 研 究 者 と 中 国 側 の 見 方 に 差 が あ る 。 い ず れ に せ よ 、 ソ 連 が 中 国 国 境 付 近 で 急 激 に 兵 力 を 増 強 さ せ て い た こ と は 間 違 い な さ そ う で あ る 。
39 Ostermann, “East German Documents on Sino-Soviet Border Dispute, 1969-71,” p. 187.
40 Gordon H. Chang, Friends and Enemies: The United States, China, and the Soviet Union, 1948-1972 (Stanford: Stanford University Press, 1990), pp.
269-284.
軍 事 バ ラ ン ス の 変 化 と 中 国 の 予 防 行 動
中 国 は ソ 連 の 軍 備 拡 張 に 対 抗 し て 、 珍 宝 島 付 近 の 国 境 地 帯 に 22 個 師 団 以 上 の 兵 力 ( 約 26 万 人 ) を 配 置 し た ( 実 際 は も っ と 多 か っ た よ う で あ る )。 中 国 は 陸 軍 兵 力 数 で こ そ ソ 連 を 上 回 っ た も の の 、 火 砲 の 射 程 は 短 く 、 戦 車 も 旧 式 の も の が 目 立 つ な ど 、 そ の 軍 事 的 劣 勢 は 明 ら か で あ っ た 。 空 軍 力 で も 、 中 国 の 戦 闘 機 は 性 能 が 劣 る 旧 式 の J-2( ミ グ 15) や J-5( ミ グ 17) が 主 力 で あ っ た 。 他 方 、 ソ 連 は ミ グ 19 や 当 時 、 高 性 能 で 知 ら れ た ミ グ 21を 保 有 し て い た41。
核 戦 力 の 分 野 で は 、 中 国 と ソ 連 の 差 は ま さ し く 「 天 と 地 」 ほ ど 開 い て い た と い っ て よ い だ ろ う 。中 国 は1969年 ま で に 中 距 離 ミ サ イ ル の 発 射 実 験 を 済 ま せ て い た が 、 実 戦 で 使 用 で き る 状 態 で は な っ た 。 核 の 運 搬 手 段 と し て 中 国 人 民 解 放 軍 が 保 有 し て い た の は 、 実 質 的 に は 、H-5 中 距 離 爆 撃 機 ( ソ 連 の Il-28 の ラ イ セ ン ス 生 産 ) の み で あ り 、 長 距 離 爆 撃 機 は 保 有 し て い な か っ た 。 こ れ と は 対 照 的 に 、 ソ 連 の 核 ミ サ イ ル は ICBM、IRBM、SLBM の 総 数 で 2000 基 近 く に 上 り 、 長 距 離 爆 撃 機 Tu-20 を 150 機 、中 距 離 爆 撃 機 Tu-16 と Tu-22を そ れ ぞ れ 600機 、150 機 ず つ 保 有 し て い た
42。 こ の よ う に 総 合 的 な 軍 事 力 に お い て 、 中 国 は 圧 倒 的 な 劣 勢 だ っ た の で あ る 。 強 大 な 軍 事 力 を 背 景 に 侵 略 的 な 意 図 を 誇 示 す る ソ 連 に 、 北 京 の 指 導 者 た ち が ソ 連 に 恐 怖 心 を 抱 い て も 無 理 は な い だ ろ う 。
さ ら に 中 国 に と っ て 、60年 代 後 半 の ポ ス ト・ヴ ェ ト ナ ム 戦 争 へ の 動 き は 、ソ 連 の 攻 撃 的 行 動 を 慫 慂 し か ね な い 懸 念 材 料 で あ っ た 。 ヴ ェ ト ナ ム 戦 争 に 深 く 介 入 し て い た ア メ リ カ は 、 戦 争 が 長 期 化 す る に つ れ て 、 高 い 政 治 的 ・ 経 済 的 コ ス ト を 支 払 わ ね ば な ら な く な っ た 。そ し て 、 リ ン ド ン ・ ジ ョ ン ソ ン(Lyndon Johnson)政 権 は ヴ ェ ト ナ ム 戦 争 か ら の 撤 退 を 検 討 し 、 ニ ク ソ ン 政 権 は そ の 実 現 に 向 け て 動 き 出 し て い た 。 中 国 は 、 東 ア ジ ア に お け る ア メ リ カ の 撤 退 に よ り 生 じ た 「 力 の 真 空 」 に 乗 じ 、 ソ 連 が 膨 張 主 義 的 行 動 を と る こ と を 恐 れ た 。 実 際 、 そ れ を 具 現 化 す る 動 き が ヴ ェ ト ナ ム に あ っ た の で 、 中 国 の 指 導 者 た ち は 苛 立 っ た 。 す な わ ち 、 ハ ノ イ は ソ 連 の チ ェ コ 侵 攻 を 、「 社 会 主 義 陣 営 」の 安 全 確 実 の た め の 努 力 で あ る と 支 持 し た の で 、ソ 越 連 携 に よ る 中 国 包 囲 が 実 現 し そ う だ っ た の で あ る 。 中 国 の 戦 略 的 苦 境 と 外 交 的 孤 立 は さ ら に 深 刻 な も の に な っ た 。
41 Military Balance, 1969-1970, pp. 38, 39, 55.
42 MacFarquhar and Fairbank, The Cambridge History of China, p. 300.
中 国 は ソ 連 の 深 刻 な 脅 威 に 直 面 し て 、そ の 予 想 さ れ る 膨 張 主 義 的 行 動 へ の「 対 応 」 と「 予 防 」を 迫 ら れ た 。ま ず 、中 国 は 毛 沢 東 の 指 導 の 下 、( 米 )ソ と の 戦 争 を 前 提 に し た「 国 防 三 線 建 設 」を 推 進 し た 。1964 年 5 月 に 中 共 中 央 工 作 会 議 で 、毛 沢 東 は ソ 連 の 攻 撃 に 備 え る た め の 「 戦 略 後 方 」 の 建 設 を 強 く 主 張 し た 。 こ の 毛 の 提 案 が 会 議 で 受 け 入 れ ら れ 、「 一 、二 、三 線 の 戦 略 配 置 と 第 三 線 の 建 設 」の 方 針 が 打 ち 出 さ れ た の で あ る 。 こ の 計 画 は 中 国 全 土 で 人 民 戦 争 が 行 わ れ る こ と 想 定 し 、 そ れ に 備 え て 軍 事 、 重 工 業 な ど の 戦 略 施 設 を 沿 岸 の 第 一 線 で は な く 内 陸 の 第 三 線 ( 四 川 、 貴 州 、 雲 南 、 陜 西 、 甘 粛 な ど の 広 い 地 域 ) に 移 動 し て 、 人 民 戦 争 の 拠 点 と す る こ と を 目 指 す も の で あ っ た 。 こ れ ま で 中 国 の 軍 事 施 設 は 沿 岸 や 都 市 の 第 一 線 に 集 中 し て い た 。 こ の た め 相 手 国 か ら の 攻 撃 に 脆 弱 で あ っ た 。 こ の 問 題 を 克 服 す る た め に 、 中 国 は 奥 地 の 第 三 戦 に 軍 事 基 地 重 工 業 や 国 防 工 業 を 含 む 大 後 方 基 地 を 建 設 し て 、 来 る 戦 争 に 備 え よ う と し た の で あ る 。 中 国 は こ の 目 的 を 達 成 す る た め に 、 文 革 期 が 公 式 に 宣 言 さ れ た 1966 年 か ら の 「 第 三 次 五 カ 年 計 画 」 に お い て 、 基 本 建 設 総 投 資 額 の 約 60% を 国 防 建 設 に 振 り 分 け る こ と に な っ た43。
最 も 注 目 す べ き は 、 ソ 連 の 軍 事 力 の 強 化 と 歩 調 を 合 わ せ る よ う に 、 中 国 が ソ 連 の 脅 威 を 深 刻 な も の と 見 な し 、 徐 々 に 攻 撃 的 で 強 硬 な 行 動 を 取 り 始 め た こ と で あ る 。 中 国 が ソ 連 と の 国 境 付 近 に 部 隊 を 本 格 的 に 展 開 し て ソ 連 に 打 撃 を 与 え よ う と し た の は 、 実 際 に 軍 事 衝 突 が 起 こ る 前 の 1968 年 初 頭 か ら の こ と で あ っ た 。 毛 沢 東 を 長 と す る 中 央 軍 事 委 員 会 は 、 ソ 連 と の 国 境 紛 争 に お い て 中 国 が イ ニ シ ア テ ィ ヴ を と る た め の 方 策 を 検 討 し た 。そ し て 、1968 年 1月 、中 央 軍 事 委 員 会 は 瀋 陽 軍 区 と 北 京 軍 区 の 司 令 部 に 対 し て 、 ソ 連 か ら の 攻 撃 に は 反 撃 す る よ う 打 電 し た 。 し か し 結 局 、 こ う し た 「 対 ソ 反 撃 」 計 画 は 3月 ま で う ま く 行 か な か っ た 。 そ れ に は 気 候 条 件 の 悪 化 と い っ た 理 由 も あ っ た よ う で あ る が 、 そ の ほ か ソ 連 が 1968 年 の 夏 か ら 秋 に か け て 、 不 安 定 化 す る 東 欧 情 勢 、 と く に チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア で 起 こ っ た 民 主 化 運 動 へ の 対 応 に 忙 殺 さ れ て し ま っ た た め 、 中 ソ 国 境 付 近 で 中 国 に 対 し て 攻 撃 的 な 行 動 を と ら な か っ た か ら で あ る 。 こ う し て 中 国 は 待 ち 伏 せ 「 反 撃 」 の 機 会 を 失 っ た44。
43 天 児 『 巨 龍 の 胎 動 』、170頁 。 天 児 慧 『 中 国 ― ― 溶 変 す る 社 会 主 義 大 国 ― ― 』 東 京 大 学 出 版 会 、1992 年 、107-108 頁 。天 児 慧『 中 華 人 民 共 和 国 史 』岩 波 書 店 、1999 年 、66-67 頁 。
44 Yang, “The Sino-Soviet Border Clash of 1969,” pp. 27-28. 楊 奎 松 は 、 中 ソ 軍 事 衝 突 は 文 化 大 革 命 の 混 乱 を 憂 慮 し た 毛 沢 東 が と っ た 、 国 内 動 員 戦 略 の 結 果 で あ る と 主 張 し て い る 。し か し な が ら 、か れ は 上 記 の 論 文 で 、1968年 1月 の 中 央 軍 事 委 員 会 の 決 定 は 、 国 境 紛 争 で イ ニ シ ア テ ィ ヴ を と る た め の も の で あ る と 説 明 し て お り (27
1969年 1 月 の 中 国 に よ る ソ 連 へ の 待 ち 伏 せ 攻 撃 は 、前 年 の 1968 年 の 軍 事 計 画 と 同 様 な も の で あ り 、 そ の 延 長 で あ っ た45。 毛 沢 東 は 中 央 軍 事 委 員 会 を 通 し て 、 ウ ス リ ー 江 の 珍 宝 島 に て ソ 連 軍 を 待 ち 伏 せ す る 計 画 を 瀋 陽 軍 区 司 令 に 立 案 す る よ う に 指 示 し て い た 。そ こ で 黒 竜 江 軍 区 は 反 撃 計 画 を 作 成 し て 、瀋 陽 軍 区 が こ れ を 承 認 し た 。 後 に 、こ の 作 戦 計 画 は 1969年 2 月 19日 に 総 参 謀 部 と 外 務 省( 外 交 部 )で 承 認 さ れ 、 中 央 軍 事 委 員 会 で も 承 認 さ れ た 。 中 央 軍 事 委 員 会 で 承 認 さ れ た 命 令 で は 、 二 元 統 制 制 度 の も と 、同 委 員 会 が 待 ち 伏 せ 攻 撃 の 指 揮 権 を 掌 握 す る こ と に な っ た46。つ ま り 、 最 終 的 に 黒 竜 江 軍 区 は ソ 連 に 打 撃 を 与 え る 許 可 を 中 央 軍 事 委 員 会 か ら 得 て い た と い う こ と で あ る47。そ し て 1969年 春 、中 国 は 計 画 し て い た 待 ち 伏 せ 攻 撃 を ソ 連 に 実 行 し た 。
第 4 節 中 ソ 軍 事 衝 突 の 根 本 原 因
で は 、中 国 が ソ 連 に 武 力 で 立 ち 向 か っ た 理 由 は 何 で あ っ た の だ ろ う か 。お そ ら く 、 中 国 は 将 来 に お け る ソ 連 の パ ワ ー の 増 大 を 予 見 し 、 パ ワ ー ・ バ ラ ン ス が よ り 不 利 な 状 態 で ソ 連 か ら 侵 略 さ れ る こ と を 抑 止 す る た め に 、 あ え て 武 力 発 動 に 踏 み 切 っ た と 思 わ れ る 。 予 防 戦 争 の ロ ジ ッ ク に よ れ ば 、 衰 退 国 に よ る 攻 撃 は 次 の よ う な メ カ ニ ズ ム で 発 生 す る 。 と く に 軍 事 バ ラ ン ス が 急 速 に 崩 れ て い る 場 合 、 劣 勢 に 立 ち つ つ あ る 国 家 は 優 位 に 立 つ 国 家 に 対 し て 恐 怖 心 を も つ 。 時 間 の 経 過 と と も に 自 国 の パ ワ ー ・ ポ ジ シ ョ ン が 悪 化 す る こ と を 予 見 す る か ら で あ る 。 そ し て 、 衰 退 国 の 政 治 的 指 導 者 た ち は 敵 国 と 軍 事 力 の 差 が 最 大 に 開 い た 時 に 自 国 が 攻 撃 さ れ る と い う 最 悪 の シ ナ リ オ を 想 定 し て 、 こ の 最 悪 の 事 態 を 「 予 防 」 す る た め に 力 に 優 る 敵 国 に あ え て 先 に 攻 撃 を 仕 掛 け て し ま う と い う こ と で あ る48。
中 ソ 国 境 紛 争 の ケ ー ス で は 、 ソ 連 は 極 東 地 域 で 通 常 戦 力 な ら び 核 戦 力 を 強 化 す る こ と で ま す ま す 軍 事 力 で 優 勢 に な る 一 方 、 中 国 は 核 開 発 に 成 功 し た も の の 文 革 に よ る 国 内 の 混 乱 や 経 済 の 低 迷 、 外 交 的 孤 立 に 苦 し ん で い た 。 そ し て ソ 連 の 軍 事 増 強 が 中 国 の 相 対 的 パ ワ ー を 低 下 さ せ る に し た が い 、 中 国 は 武 力 行 使 の 誘 因 を 高 め た 。 こ 頁 )、 し か も 、1969年 の 珍 宝 島 に お け る 中 国 人 民 解 放 軍 の 反 撃 は 、 こ の 延 長 線 上 に あ る と も 述 べ て い る (28頁 )。 こ の こ と は 、 か れ の 主 張 、 す な わ ち 、 毛 は 国 内 動 員 目 的 が 軍 事 衝 突 を 引 き 起 こ し た 主 因 で あ る と い う 説 明 と 一 致 し な い よ う に 思 わ れ る 。
45 Yang, “The Sino-Soviet Border Clash of 1969,” p. 28.
46 Lewis and Litai, Imagined Enemies, p. 49.
47 牛 軍 、 真 水 康 樹 訳 『 冷 戦 期 中 国 外 交 の 政 策 決 定 』 千 倉 書 房 、2007 年 、219 頁 。
48 Jack S. Levy, “Preventive Motivation for War,” World Politics, Vol. 40, No. 1 (October 1987), pp. 82-107.
の こ と は 、 極 東 ソ 連 軍 が 増 強 さ れ る に し た が い 、 中 国 が ソ 連 と の 国 境 付 近 の 部 隊 を 強 化 し た こ と や 、 ウ ス リ ー 江 沿 い で の ソ 連 の 「 挑 発 的 な 軍 事 行 動 」 に 対 し て 注 意 深 く 計 算 さ れ た 反 撃 計 画 を 実 行 し よ う と し た こ と が 例 証 し て い る 。
と り わ け ソ 連 の チ ェ コ 侵 攻 後 、 中 ソ 対 立 は 抜 き 差 し な ら な い 段 階 に 突 入 し た 。 お そ ら く 中 国 の 指 導 者 た ち は ソ 連 の 同 盟 国 へ の 軍 事 侵 攻 に よ り 、 あ ら た め て ソ 連 の 脅 威 を 再 認 識 す る と と も に 、 中 国 は チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア の 二 の 舞 に な る こ と を 何 と し て も 阻 止 し 、 ブ レ ジ ネ フ ・ ド ク ト リ ン が 中 国 に は 適 用 で き な い こ と を 知 ら し め る た め に 、 ソ 連 に 対 し て 軍 事 力 に よ る 打 撃 を 与 え る 必 要 性 を 再 認 識 し た の で あ ろ う49。 ソ 連 の 対 中 攻 撃 を 抑 止 す る に は 、 中 国 は 何 ら か の 軍 事 行 動 を 起 こ す 必 要 が あ っ た 。 A. ド ー ク ・ バ ー ネ ッ ト (A. Doak Barnett) の 言 葉 を 借 り れ ば 、 ソ 連 軍 を 待 ち 伏 せ 攻 撃 し た 「 中 国 の 主 要 な 目 的 は 、 ロ シ ア の 圧 力 に 立 ち 向 か う 意 志 を 明 示 的 に 軍 事 力 で 誇 示 す る こ と で あ り 、 こ れ が ソ 連 の 大 規 模 な 軍 事 行 動 を 抑 止 す る こ と に な る と 期 待 し た 」 の で あ る50。
中 国 の 武 力 行 使 の 目 的 は 、 あ く ま で も ソ 連 か ら の 侵 略 を 予 防 す る こ と で あ っ た 。 し た が っ て 、 中 国 と し て は 対 ソ 攻 撃 が 全 面 戦 争 へ と エ ス カ レ ー ト す る こ と は 、 何 と し て も 避 け な け れ ば な ら な か っ た 。 こ の た め 中 国 は 、 攻 撃 の 範 囲 や 規 模 を 限 定 す る の み な ら ず 、 出 来 る 限 り 重 大 な 利 害 が 関 係 し な い 場 所 を 注 意 深 く 選 択 し 、 ソ 連 を 過 度 に 刺 激 し な い よ う に し た 。 実 際 、 中 国 は ソ 連 を 挑 発 す る 際 、 ソ 連 の 都 市 や 主 要 基 地 か ら 遠 い 地 域 に あ る 中 国 側 に 近 い 無 人 島 で あ る 珍 宝 島 を 選 ん で 、 ソ 連 の 国 境 警 備 軍 を 不 意 打 ち に す る 待 ち 伏 せ 攻 撃 を 行 っ た51。 同 島 は 、 ソ 連 の 要 衝 で あ る ウ ラ ジ オ ス ト ッ ク と ハ バ ロ フ ス ク の 中 間 地 点 に あ り 、 紛 争 が 大 規 模 化 す る 危 険 は 少 な い 場 所 で あ っ た 。 こ れ と は 対 照 的 に 、 例 え ば 中 国 兵 は 、 ア ム ー ル 江 と ウ ス リ ー 江 の 合 流 地 点 で ハ バ ロ フ ス ク の 対 岸 に あ る 、 ソ 連 が 支 配 す る 黒 瞎 子 島 で の 攻 撃 的 行 動 を 避 け て い た 。 北 京 は ソ 連 の 同 島 の 支 配 に 不 満 を 述 べ て い た も の の 、 ソ 連 が 戦 略 的 に 重 視 し て い た こ の 地 域 で は 攻 勢 を か け な か っ た 。 ソ 連 軍 の 大 掛 か り な 反 撃 を 受 け る 恐 れ が あ っ た か ら で あ る52。
49 Chien-peng Chung, Domestic Politics, International Bargaining and China’s Territorial Disputes (London: Routledge-Curzon, 2004), p. 65.
50 A. Doak Barnett, China and the Major Powers in East Asia (Washington, D.C.: Brookings Institution, 1977), p. 49.
51 石 井 明 は 現 地 調 査 の 結 果 、中 国 側 が 有 利 な 地 形 を 選 ん で 珍 宝 島 で 事 を 起 こ し た こ と が 分 か っ た と 述 べ て い る 。 石 井 「 珍 宝 島 事 件 」135 頁 。
52 Arthur Cohen, “The Sino-Soviet Border Crisis of 1969,” in Alexander L.
George, ed., Avoiding War: Problems in Crisis Management (Boulder: Westview