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秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成

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(1)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成七三 はじめに

筆者はこれまで里耶秦簡を用いて秦・洞庭郡遷陵県の軍事組織に

ついて検討してきた

︵1︶︒そこでは︑戍卒・﹁乗城卒﹂など洞庭郡遷陵

県に駐屯する兵卒は多くが他郡出身者であり︑遷陵県出身の者が非

常に少ないことを指摘した︒これはすでに指摘されているような︑

遷陵県の人口の少なさに起因すると見られる

︵2︶︒そもそも租税や徭

役・兵役などの収奪体系は徴発されるところの地域性や人口構成に

影響されるはずである︒となると︑洞庭郡遷陵県の軍事組織および

徭役体系を検討する際︑戸数や人口の構成など︑当該地域の郷里の

実態把握は是非とも必要な作業となる︒秦漢徭役体系はこのような

郷里の実態と律令研究が組み合わされればより立体的に把握できる

はずである︒

そこで里耶秦簡を見てみると︑遷陵県内の郷里の様子を伝える史 料が数多く見られる︒中にはいわゆる﹁戸籍様簡﹂のような戸ごとの人口構成を具体的に記す史料も存在する ︵3︶︒本稿ではまず里耶秦簡

に見える郷里・人口構成に関する史料を用いて遷陵県内の郷里の実

態はどのようなものであったか考察する︒そして次に遷陵県内の労

働はどのようなものがあったか︑それは誰が負担していたのか︑と

いう点を考察する︒これらの検討を組み合わせることにより︑徭役

をめぐる秦・洞庭郡遷陵県の独自の特徴が浮かび上がるはずである︒

第一節  洞庭郡遷陵県における郷の構成

まず最初に里耶秦簡に見える郷の構成を見ていきたい ︵4︶︒この点に

ついてはすでに先行研究があり ︵5︶︑遷陵県全体の戸数及び各郷の戸数

などが明らかにされている︒本節では︑その先行研究を参照しつつ

見ていきたい︒

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成

││

 

徭役体系との関係を中心に

 

││

小  林  文 

(2)

七四

a︐遷陵県の総戸数

遷陵県の総戸数については

8-487,8-2004

簡背面に以下の様な記述

が見える︒

廿八年見百九十一戸︒  AⅠ

廿九年見百六十六戸︒  AⅡ

丗年見百五十五戸︒   AⅢ

丗一年見百五十九戸︒  AⅣ

丗二年見百六十一戸︒  BⅠ

丗三年見百六十三戸︒  BⅡ

本史料は遷陵県のいわゆる

﹁見戸

︵6︶﹂︑すなわち現存する戸数の毎

年の推移を記している︒これを見ると︑始皇二八年は遷陵県全体で

一九一戸だったが︑三〇年には一五五戸まで減少し︑三三年にはや

や持ち直して一六三戸になっている︒後述する

8-1519

簡では始皇三

五年の段階で一五二戸まで落ち込んでいる︒ここから︑遷陵県の戸

数は年ごとに変動があるが︑おおむね一九〇戸から一五〇戸ほどを

推移していたことがわかる︒人口に関しては︑王偉・孫兆華両氏は

約七六〇〜約二一〇〇人の範囲内と推測している ︵7︶︒これは人口統計

が史料として残されていないため︑すでに公表済みの﹁戸籍様簡﹂

に見える︑口数の五人〜一一人と戸数とを掛けて算出した数字であ

る︒鷹取祐司氏は一〇〇〇人ほどとする ︵8︶

この一県一九〇〜一五〇戸という数字は非常に少ないと言わねば

ならない︒例えば尹湾漢簡や天長木牘と比較してみよう︒尹湾漢簡 ﹁集簿﹂は前漢後期の郡レベルの文書であり︑東海郡下の県・邑・

侯国数と東海郡の総戸数が掲載されている ︵9︶︒ここから東海郡におけ

る県の平均戸数を割り出すと︑県・邑・侯国数は三八︑東海郡の総

戸数は二六万六二九〇戸である︒従って県・邑・侯国の平均戸数は

七〇〇八戸となる

︒ もちろんこの数字は参考程度のもので

︑ 県に

よっては一万戸を超えるものもあったはずである︒さらに天長木牘

を見てみたい︒天長木牘は安徽省天長市安楽鎮紀荘村より出土した

簡牘群

︶10

︒年代は前漢景帝初年〜武帝末年ごろ︑出土地は漢代の臨淮

郡東陽県に比定される

︶11

︒戸数については以下の﹁戸口簿﹂に記述が

ある︒この戸口簿は東陽県の戸数と人口︑﹁東郷﹂・﹁都郷﹂・﹁楊池

郷﹂・﹁鞠︵?︶郷﹂・﹁垣雍北郷﹂・﹁垣雍東郷﹂の東陽県属下六郷の

戸数と人口が記されている︒

戸口簿

︶12

●戸凡九千一百六十九少前

口四万九百七十少前

●東郷戸千七百八十三口七千七百九十五

都郷戸二千三百九十八口萬八百一十九

楊池郷戸千四百五十一口六千三百廿八

鞠︵?︶郷戸八百八十口四千五

垣雍北郷戸千三百七十五口六千三百五十四

垣雍東郷戸千二百八十二口五千六百六十九

この戸口簿によれば︑東陽県全体の戸数は九一六九︑人口は四〇

(3)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成七五 九七〇だった︒郷については︑東郷が最も多く一七八三戸・七七九五人︑﹁鞠︵?︶郷﹂が最も少なく八八〇戸・四五〇〇人だった︒

以上の資料と比較すると︑遷陵県の戸数の少なさが一層際立つだ

ろう︒すなわち︑漢代の県郷の戸数と比べると一県どころか一郷の

戸数にも満たないのである︒ただこの戸数の少なさは非常に稀であ

るが他にも例があり︑平壌出土﹁楽浪郡初元四年県別戸口簿﹂では︑

楽浪郡属下の﹁提奚﹂県は戸数が一七三戸しかない

︶13

︒﹁楽浪郡初元

四年県別戸口簿﹂では他にも二七九戸の﹁東曉﹂県や三四三戸の﹁含

資﹂県など︑戸数が一〇〇〇戸未満の県もある一方︑﹁朝鮮﹂県は

九六七八戸というように大規模な県も見える︒また楽浪郡提奚県の

人口は一三〇三人で

︶14

︑遷陵県もこれに近い人口だったことが推測さ

れる︒b︐各郷の戸数

以上は遷陵県全体の戸数を示したものである︒次に各郷の戸数に

ついて見てみたい︒遷陵県ではこれまでに都郷・啓陵郷・貳春郷が

確認されている︒これについては以下の

8-1519

簡に以下のようにあ

る︒

正遷陵丗五年堮︵墾︶田輿五十二頃九十五畝︑税田四頃□□  Ⅰ

戸百五十二︑租六百七十七石︒︵率︶之︑畝一石五︒   Ⅱ

戸嬰四石四斗五升︑奇不︵率︶六斗︒          Ⅲ 背

啓田九頃十畝︑租九十七石六斗︒        AⅠ

都田十七頃五十一畝︑租二百卌一石︒□       AⅡ

貳田廿六頃丗四畝︑租三百丗九石三︒          AⅢ

凡田七十頃卌二畝︒●租凡九百一十︒       AⅣ

六百七十七石︒        B

8-1519

簡は遷陵県の戸数・田畑数から租税を割り出した報告書で

ある︒これは

9-39

簡の

律曰﹁已堮︵墾︶田︑輒上其數及戸數︒嬰之﹂︒

とある律に従って作成されたものである︒

9-39

簡は里耶秦簡博物館

に所蔵されているものとされ︑游逸飛・陳弘音両氏によって紹介さ

れた

︶15

8-1519

簡は正面に﹁堮︵墾︶田輿五十二頃九十五畝﹂︑背面に

﹁凡田七十頃卌二畝﹂という二つの田畑の総数が見える︒﹁堮︵墾︶

田輿五十二頃九十五畝﹂は啓陵郷・都郷・貳春郷の田畑数の合計と

合致するので︑各郷の田畑数の合計である︒すると﹁凡田七十頃卌

二畝﹂には郷以外の田畑数を含むことになる︒可能性としては刑徒

などが耕作する官保有の田畑が挙げられよう︒これの数は﹁七十頃

卌二畝﹂から﹁五十二頃九十五畝﹂を引いた一七頃四七畝となる︒

この数字は都郷全体の田畑数に匹敵する︒

当時の各郷の戸数について︑唐俊峰氏及び王・孫両氏は

8-1519

の租の石数から割り出しており︑それによれば啓陵郷は二二戸︑都

郷は五四戸︑貳春郷は七六戸である

︶16

︒この数字は二論文ともに一致

(4)

七六

し︑計算式も妥当なものであり︑従う︒

このように︑遷陵県自体の戸数が非常に少ないため︑郷ごとの戸

数も当然ながら非常に少なく︑これはほぼ漢代の一里の戸数に相当

する数である︒一里の戸数については︑馬王堆三号漢墓出土﹁駐軍

図﹂が参考になる︒﹁駐軍図﹂は長沙国南部の郷里や軍の配置を記

した地図で

︶17

︑作成年代は呂后七年の南越による長沙国侵攻から文帝

元年の撤兵までの間とされ︑当時の緊迫した情勢が反映されている

︶18

この﹁駐軍図﹂には﹁都尉軍﹂などの軍配置のほか︑当地の里名が

多く記されている︒邢義田氏によれば四二ある里のうち二一の里に

は戸数が記されており︑最も多いもので﹁龍里﹂の一〇八戸︑最も

少ないもので﹁資里﹂の一二戸︒八〇戸〜二〇戸ほどの里も点在し

ており︑戸数に幅がある︒さらにこれ以外に﹁今毋人﹂という表記

も あ る

︶19

︒これは以前は人が住んでいたが︑﹁駐軍図﹂作成当時は既

に誰も住んでいなかった里のことだろう︒

﹁駐軍図﹂からは各里の戸数はばらつきが多く︑百数戸〜十数戸

まで様々だったことがわかる︒この里の戸数は遷陵県の各郷の戸数

とほぼ同等である︒各郷の戸数がこのように少ないと︑郷内の里数

及び戸数も少なかったことが推測される︒次にこの点について見て

みたい︒c︐啓陵郷の里数及び戸数

ここでは啓陵郷を例にあげて里数及び戸数を見て行きたい︒とい うのも︑現在公表されている里耶秦簡の中で︑明確に郷内の戸数が記されている史料が啓陵郷に関するものだからである︒それについては以下のようにある︒

8-157

丗二年正月戊寅朔甲午︑啓陵郷夫敢言之︒成里典・啓陵  Ⅰ

郵人缺︒除士五︵伍︶成里匄・成︑成爲典︑匄爲郵人︑謁令 

  Ⅱ

尉從事︒敢言之︒  Ⅲ

背正月戊寅朔丁酉

︑遷陵丞昌卻之啓陵

︑廿七戸已有一典

︑今有

︵又︶除成爲典︑何律令  Ⅰ

︵應︶︒尉已除成︑匄爲啓陵郵人︑其以律令︒/氣手︒/正

月戊戌日中︑守府快行︒  Ⅱ

正月丁酉旦食時︑隸妾冉以來︒/欣發︒  壬手︒  Ⅲ

8-518

丗四年︑啓陵郷見戸︑當出戸賦者志    㽂 Ⅰ

見戸廿八戸︑當出繭十斤八両︒    㽂 Ⅱ

8-157

簡は発掘簡報とともに﹃文物﹄及び﹃中国歴史文物﹄に公

表された釈文の中に含まれていたものである

︶20

︒内容は正面が啓陵郷

から遷陵県への上行文書で︑背面が遷陵県から啓陵郷への回答であ

る︒啓陵郷内のある里で里典・郵人が欠員となった︒そこで新しく

任命したという報告をしたところ︑実際は里典は一人おり︑新しい

(5)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成七七 里典の任命には応じない︑という命令が下された︑というものである︒

8-518

簡は始皇三四年の啓陵郷の﹁見戸﹂と﹁戸賦﹂のリスト

である︒ここでは﹁見戸﹂は二八戸となっている︒﹁見戸﹂の後文

では﹁繭﹂が戸賦として納入すべきと記されている︒

ここで注目すべきは︑

8-157

簡背面の遷陵県丞の回答である︒遷

陵県丞は前半で﹁︵成里の︶二七戸にはすでに里典が一人いる﹂と

言っている︒ここからは成里の戸数が二七戸であることがわかるが︑

この数字は啓陵郷の戸数とほぼ同じである︒ここから王・孫両氏は

啓陵郷では里が成里の一つしかなかった可能性を指摘する

︶21

︒ただし

他の史料には啓陵郷に﹁渚里﹂という里が存在した可能性を示すも

のがある︒すなわち︑

J16-9

簡に

︶22

正廿六年五月辛巳朔庚子︑啓陵郷囗敢言之︒都郷守嘉言︑渚里囗

□㽂 Ⅰ

劾等十七戸徒︵徙?︶都郷︑皆不移年籍︒令曰︑移言︒今問之

劾等︑徒︵徙?︶㽂 Ⅱ

書告都郷曰︑啓陵郷未有哮牒︑毋以智︵知︶劾等初產至今年數︒

□㽂 Ⅲ

囗囗囗謁令都郷︑具問劾等年数︒敢言之︒  Ⅳ

背□□遷陵守丞敦狐告都郷主︑以律令從事︒建手︒囗  Ⅰ

甲辰水十一刻︑刻下者十刻︑不更成里午以来︒聿︵?︶手Ⅱ とある︒この史料について︑鍾煒氏は﹁渚里﹂を啓陵郷所属の里とする

︶23

︒これに対し︑張春龍氏は﹁渚﹂字を﹁諸﹂字に釈している

︶24

もし鍾氏に従うならば啓陵郷に里は一つとする考えは誤りとなり︑

張氏に従うならば啓陵郷や貳春郷に所属する里︵﹁諸〃の里﹂︶の中

で一七戸が都郷に編入されたという解釈になる︒王・孫両氏も推測

するように︑渚里の全てあるいは一部の戸が都郷に編入された後︑

渚 里 が 廃 さ れ た 可 能 性 も あ る

︶25

J16-9

簡は始皇二五年のもので︑

8-1519

簡は始皇三五年のものであるから両者には一〇年の開きがあ

る︒この一〇年のうちに里の改編が行われても不思議ではない︒例

えば前掲の馬王堆﹁駐軍図﹂には既に住民が存在していない里もあ

るなど︑戸の移動はよくあることだったと推測される︒里耶秦簡の

他の史料でも戸の移動を示すものがあり︑

8-1731

簡には

出五戸歸  㽂

とある︒本史料は木牘下部が欠損しているので︑わずか四字しか確

認できない︒そのため簡全体の意味はわからないが︑どこかの里の

五戸を出して他の里に編入させることを記していると考えられる︒

いずれにせよ︑本史料の﹁渚里﹂をめぐっては様々に解釈できる余

地があり︑今後の里耶秦簡の新たな公表を俟つ他ない︒

以上︑本節では遷陵県及び各郷の戸について検討してきた︒秦・

洞庭郡遷陵県は戸数は一五〇〜一九〇戸ほど︑人口は推定七〇〇〜

二〇〇〇人︑人口についてはさらに検討する必要がある︒従って遷

陵県は非常に規模の小さい県だった︒とすると郷・里の数も少なく︑

(6)

七八

一郷に一〜三里ほどだったのではないか︒

第二節  洞庭郡遷陵県における里と人口構成

郷の様子が前節のようなものならば︑次に里の具体的構成はどの

ようなものかという点が問題になろう︒そこで本節では遷陵県の里

について見て行きたい︒ここでは里の所属を整理し︑さらに里には

どのような身分・経済状況の人々が存在していたかという点まで踏

み込んで行きたい︒

a︐里の所属

前掲の

8-157

簡からは成里が啓陵郷に属していたことが知られる

が︑他に所属がはっきりしている里を探してみると︑以下のように

都郷・貳春郷に属するものが確認できる︒

﹁都郷高里﹂

﹁高里﹂については用例が多く︑遷陵県内の里であることは間違

いない︒さらに見ていくと︑都郷所属であることを示す史料が散見

する︒以下の

8-1443,8-1455

簡を見てみたい︒

正丗二年六月乙巳朔壬申︑都郷守武爰書︒高里士五︵伍︶武自言

以大奴幸・甘多︑大婢言・言子  Ⅰ

等︑牝馬一匹予子小男子產︒  典私占︒  初手︒  Ⅱ

8-1443,8-1455

簡については別稿でも触れたが

︶26

︑都郷が高里に居住し

ている士伍武の自言について爰書を作成していることから︑高里は

都郷に属していたことがわかる︒

次に貳春郷について見てみたい︒貳春郷所属の里は現在のところ

﹁南里﹂と﹁東成里﹂が確認されている︒

﹁貳春郷南里﹂

9-14

卅五年三月庚寅朔丙辰︑貳春郷茲爰書︒南里寡婦䓲自言︑謁堮

︵墾︶草田︑故桒︵桑︶地︑百廿步︑在故歩北︑恒以爲桒︵桑︶

田︒

三月丙辰︑貳春郷茲敢言之︑上︒敢言之︒/䣶手︒

背四月壬戌︑日入︑戍卒寄以來︒/瞫發︒  䣶手︒

9-14

簡は始皇三五年の貳春郷が作成した爰書である

︶27

︒ここでは南

里寡婦䓲の自言が取り扱われている︒よって南里は貳春郷に属する︒

次に貳春郷所属の里について見てみる︒

﹁貳春郷東成里﹂

9-566

東成戸人夫︹大夫︺寡晏㽂 Ⅰ

      子小女子女巳㽂 Ⅱ

      子小女子不唯㽂 Ⅲ

9-566

簡は﹁戸籍様簡﹂に体裁がよく似ている

︶28

︒本史料には﹁東成﹂

(7)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成七九 とあるのみで所属する郷名は明記されていない︒游・陳両氏によれば︑里耶秦簡博物館に所蔵されている

10-1157

簡には貳春郷守郷嗇

夫が東成里の民のために爰書を書いている記述が見え︑ここから東

成里は貳春郷に属すとしている

︶29

以下は所属が不明な里である︒

﹁陽里﹂

8-834,8-1609

陽里戸人大夫刀︒丗五年五月己丑朔︻癸︼㽂

﹁輿里﹂

9-1317

︶30

輿里戸人不更□㽂

以上の﹁陽里﹂・﹁輿里﹂は他にも数例見え︑遷陵県所属であるこ

とはほぼ間違いない︒ただし︑現在公表されている里耶秦簡には両

者がどの郷に属しているのかを明確に示す史料がない︒この他にも

別稿で触れたことのある

8-439,519,537

簡に見える﹁右里

︶31

﹂︑﹁戸籍様

簡﹂に見えることで知られる﹁南陽﹂里がある

︶32

︒さらに遷陵県所属

の里かどうか不明なものが幾つかある︒これについては文末の表を

参照されたい︒

b︐里内の戸の構成

次に里内の戸の構成について検討する︒里耶秦簡には里内の戸に

ついての詳細な史料が幾つか含まれており︑それによれば官が里内 の戸の構成を把握する際︑爵位によって戸を分類し︑その戸数を把握していたことが知られる︒例えば

8-19

簡に

正㽂□二戸︒      AⅠ

大夫一戸︒      AⅡ

大夫寡三戸︒     AⅢ

不更一戸︒      AⅣ

小上造三戸︒     AⅤ

小公士一戸︒     AⅥ

士五︵伍︶七戸︒㽂 BⅠ

司寇一︻戸︼︒㽂   BⅡ

小男子□㽂     BⅢ

大女子□㽂     BⅣ

●凡廿五㽂     BⅤ

とある︒本史料では爵位ごとの戸数が明記され︑下部は欠損のた

め判読できないが︑小男子・大女子などが戸主である場合の戸数が

記されていたようである︒冒頭の未読部分も欠損があるが︑大夫の

一つ上の爵位である官大夫について書かれていたのかもしれない︒

本史料の二五戸という数字は啓陵郷の戸数に近似するため︑本史

料は啓陵郷の内実を記した可能性がある︒もっともどの郷里の内実

を示したものか明記されていないため︑断定はできない︒

8-19

簡の

ような里の構成を示す史料は他にも

8-1236,8-1791

簡に

(8)

八〇

正今見一邑二里︒大夫七戸︑大夫寡二戸︑大夫子三戸︑不更五戸︑

□□四戸︑上造十二戸︑公士二戸︑從廿六戸︒

とある︒不更の後ろの未読部分は第三級﹁簪褭﹂であろう︒本史料

は冒頭に﹁今見一邑二里﹂とあるので︑ある年のある時点での﹁一

邑二里﹂の戸の構成を記すものと言える︒ただし﹁一邑二里﹂が郷

の内実を示すものかどうか︑もし示すものであるならどの郷のもの

かはここからは判断できない︒ただし︑全部で六一戸という数字は

都郷の戸数に近似しているので︑あるいはこれは都郷の内実を示す

史料かもしれない︒ただし︑類似した史料として︑

9-2341

簡に

︶33

正十三戸︑上造寡一戸︑公士四戸︑從百四戸︑元年入不更一戸︑

上造□㽂

とある︒冒頭の一三戸は文脈からみて﹁簪褭﹂の戸数だろう︒ここ

では﹁從﹂が一〇四戸もあり︑

8-1236,8-1791

簡とは大きな違いがある︒

数字から類推すると︑

9-2341

簡はあるいは遷陵県全体の統計かもし

れない︒c︐里内の民

最後に︑里内の構成人員について見ていく︒国家の収奪体系を検

討する際︑郷里の規模のみならず︑郷里に生活している人々にも注

目する必要がある︒というのも人によっては租税や徭役の減免措置 を受けている人もいるため︑郷里の規模のみでは詳しい民の負担のしくみを検討することはできないからである︒

里の構成人員については︑鳳凰山漢簡を用いて漢代における里の

検討が行われている︒鳳凰山漢簡は最初の発掘簡報及び釈文公表後︑

多くの研究者の注目を集めたが

︶34

︑長らく正式な図版・釈文は公表さ

れていなかった︒しかし近年正式な図版・釈文が公表され︑再び注

目を集めている

︶35

︒本稿で扱うのは一〇号墓出土の簡牘群である︒一

〇号墓の墓主は前漢文帝期の低級官吏とされ︑墓葬からは﹁西郷﹂

の﹁鄭里﹂・﹁市陽里﹂・﹁当利里﹂に関する文書が出土している

︶36

︒そ

の中でも﹁鄭里稟籍﹂と題された竹簡群には﹁鄭里﹂の戸主の名前・

田畑保有数など︑里内の比較的詳しい記述が残されている︒

例えば第一一号簡には

戸人能田一人口三人  田十畝  + 卩 貸一石

とある︒この竹簡群は各竹簡末尾に﹁貸◯石﹂とあることから︑鄭

里の民が穀物を借りた際に作成されたものと考えられている

︶37

︒冒頭

の﹁戸人某﹂は戸主の名前を示し︑﹁能田﹂は耕作が可能な者の人数︑

﹁口﹂は口数︑﹁田◯畝﹂は田畑保有数︑﹁卩﹂は穀物受け取りの印︑

最後は借りた穀物の量が記されている︒

この﹁鄭里稟籍﹂は表題簡を含めると二六簡あり︑一簡ごとに戸

主が一名記されていることから︵表題簡は穀物貸与の総量が記され

ている︶︑鄭里は少なくとも二五戸あり︑人口は一〇二人だった︒

裘錫圭氏の推測によれば︑鄭里の戸数は二五戸を超えたとしてもそ

(9)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成八一 う遠くない数字だという

︶38

︒鄭里の特徴として︑戸ごとの田畑保有数

が非常に少ないこと︑多くの戸が穀物を借りていることから︑鄭里

の民のほとんどが﹁貧民﹂であったことが指摘されている

︶39

︒ただし

佐原康夫氏が鄭里の住民に農耕以外の収入︵例えば商業行為︶があ

る可能性を指摘しているように

︶40

︑田畑保有数の多寡をもってただち

に貧富を判断するのは慎重になる必要がある︒

この鄭里に居住する民の性質については多くの先行研究が田畑保

有数から里内の民の性質を類推するという方法を取っていた︒これ

をただちに秦・洞庭郡遷陵県にも適用することは︑秦の田宅の受給

や売買が未だ不明なこともあり慎重になる必要があるが

︶41

︑ひとつの

目安として算出しておく

︒そこで里耶秦簡を見てみると

︑前掲

8-1519

簡には各郷における田畑の畝数が明記されている︒前述の通

り︑租税負担額から各郷の戸数が割り出されているので︑鳳凰山漢

簡と同様一戸あたりの田畑保有数を算出することができる︒すなわ

ち︑遷陵県全体では一戸あたり三四・八畝︑啓陵郷は四一・三畝︑

都郷は三二・四畝︑貳春郷は三四・六畝である︒啓陵郷が若干他二

郷よりも高い数値を示しているものの︑いずれも大きな差はないと

見て良い︒

このように見ていくと︑遷陵県における戸ごとの田畑保有数は決

して多くないことがわかる︒鳳凰山漢簡﹁鄭里稟籍﹂では︑田畑保

有数が最も少ない戸で八畝︑最も多い戸で五四畝である

︶42

︒この鄭里

は田畑保有数が非常に少ないことで知られるが︑遷陵県はこれより 多いとはいうものの︑それほどの差はない︒その他の例と比較してみると︑有名な前漢後半期の居延旧簡に見える徐宗簡では︑徐宗は田五〇畝を所有している

︶43

︒徐宗は燧長で︑居延における最下級官吏

であるから︑田五〇畝というのは居延地方における︑当時の最下級

官吏の田畑保有数ということになる︒

以上のように︑遷陵県は田畑の畝数で見ると︑極端に少ないとい

う訳ではない︒これは遷陵県の民がそれほど困窮している訳ではな

い様子を推測させる︒しかも中には裕福な家もあることが知られる︒

例えば

8-1554

簡には

正丗五年七月戊子朔己酉︑都郷守沈爰書︒高里士五︵伍︶廣自言︑

謁以大奴良・完︑小奴医・饒︑大婢闌・願・多・□︑  Ⅰ

禾稼・衣器・錢六萬︑盡以予子大女子陽里胡︑凡十一物︑同券

齒︒  Ⅱ

典弘占︒  Ⅲ

とある︒これは始皇三五年に都郷が作成した︑高里士伍広の自言を

取り扱った爰書である︒ここには︑士伍広が自分の財物を自分の子

で︑陽里に居住している大女子胡に譲渡することが記さている︒そ

の財物の内容は︑大奴二人・小奴二人・大婢四人という多数の奴婢

と︑禾稼・衣服と器物︑さらに六万銭もの大金である︒このような

財産を持つ士伍広を﹁貧戸﹂とはまず言えない︒居延旧簡の礼忠・

徐宗簡を見ると︑礼忠は小奴二人・大婢一人・䋶車二台・馬五匹・

(10)

八二

牛車二両・牛二頭に住居と田五頃︑財産総額一五万銭程度︑徐宗は

奴婢はおらず︑牛二頭に住居と田五〇畝︑財産総額一万三千銭程度

である

︶44

︒すると士伍広は礼忠の全財産に匹敵する財産を自らの子に

譲渡したことになる︒

礼忠と徐宗では財産額にかなりの開きがあるが︑高村武幸氏のよ

うに彼らを﹁中家の産﹂と見るむきもある

︶45

︒そうなると︑彼らの全

財産に匹敵する額を譲渡した士伍広は富裕な部類に入るはずである︒

戸内の様子を記す他の里耶秦簡を見ても︑これほどの規模の家は見

当たらない︒むしろ奴婢を所有する戸は少数である︒

このように︑遷陵県の民の中には多くの奴婢を所有する裕福な戸

も存在していた︒奴婢の所有についてはこの他に

8-863,8-1504

簡に

正南里小女子苗︑丗五年徙爲陽里戸人大女嬰隸

とあるなど

︑現在数例確認できる

8-863,8-1504

簡は南里の小女子

苗が始皇三五年に陽里の大女嬰の﹁隸﹂となったことが記されてい

る︒理由は不明だが︑遷陵県内で民が奴婢に身を落とし他人の所有

となる場合もあったことがわかる︒このような奴婢を所有できるよ

うな比較的裕福な戸は田畑も他の戸よりも多く所有できたのかもし

れない︒

では︑上記のような富裕層のほか︑遷陵県にはどのような民が居

住していたのだろうか︒﹁戸籍様簡﹂ではもと﹁荊﹂の人々が秦に

編入された後︑遷陵県に登録されていたことがわかる

︶46

︒また前掲の

8-19

簡・

8-1236,8-1791

簡では︑里内の戸の構成を把握する際︑爵位

を基準に分類していた︒その中には﹁司寇﹂も含まれていた︒司寇

はかつて犯罪を犯した者であるが︑張家山漢簡﹁二年律令﹂にも見

えるように︑住居や田畑を所持できた

︶47

︒この司寇の戸については以

下の史料で確認できる︒

8-1027

成里戸人司寇宜︒    㽂 Ⅰ

下妻䒱︒   㽂Ⅱ

8-1946

陽里戸人司寇寄㽂

上記二例は成里と陽里において司寇が戸を形成している様子である︒

以上の例は明確に戸を形成していると確認できる者を見てきた︒

このほか里耶秦簡では

︑戸を形成しているかどうかは不明だが

様々な人々が里に居住している様子がうかがえる︒以下の二例を見

てみたい︒

8-899

㽂貸適戍士五︵伍︶高里慶忌㽂

8-985

居貲士五︵伍︶高里惡租︒    㽂 Ⅰ

廿八年六月丙戌︑司空長・佐符發弩守攀探遷陵拔前︑以爲洞

庭㽂 Ⅱ

8-899

簡はいわゆる﹁穀物出倉簡﹂で︑木牘の両側が欠損してい

(11)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成八三 て全体の文意は取りにくいが︑高里に居住する適戍の士伍慶忌が穀物を借りたことを示しているのだろう︒これより適戍は里内に居住していたことがわかる︒

8-985

簡は居貲の例である︒ここで士伍悪

租は高里に居住していることがわかり︑居貲も通常は里内に居住し

ていたことがわかる︒

このように︑遷陵県には比較的裕福な戸や司寇・居貲など︑様々

な人々が居住していた︒ただここからは彼らがどのような経緯で遷

陵県に居住するようになったのか︵もとの居住民かどうか︶という

点はうかがい知ることができない︒﹁戸籍様簡﹂に見える﹁荊﹂と

記された戸の人々はもともと楚国に属していたと思しいが︑もとも

と遷陵県一帯に居住していたかどうかは史料からはわからない︒ま

8-899

簡の適戍は別稿で触れたように︑他郡から送られてきた者

とみられる

︶48

︒つまり︑洞庭郡遷陵県には他の土地から移ってきた移

民が多数存在する︒このような移民の具体的史料も里耶秦簡には幾

つか見える︒ここでは以下の三例を見てみたい︒

8-2098

丹子大女子巍︵魏︶嬰︑一名㽂 Ⅰ

年可七十歳︑故居巍︵魏︶箕李㽂 Ⅱ

8-2133

㽂年可卌歳︑故居巍︵魏︶箕攻

8-894

故邯鄲韓審里大男子呉騷︑爲人黃晳色︑隋︵橢︶面︑長七尺三 寸㽂 Ⅰ

年至今可六十三・四歳︑行到端︑毋它疵瑕︑不智︵知︶衣服・

死產・在所㽂 Ⅱ

8-2098

簡は下部が欠損しているが

︑一行目には

﹁丹子大女子巍

︵魏︶嬰﹂とあり︑丹という名前の子で︑大女子の﹁巍︵魏︶嬰﹂

についての史料であることがわかる︒この﹁巍︵魏︶﹂については︑

二行目にも﹁故居巍︵魏︶箕﹂とあり︑もともと﹁魏箕﹂に居住し

ていたとされる︒﹁魏箕﹂は

8-2133

簡にも見える︒この﹁魏箕﹂に

ついて︑﹃里耶秦簡牘校釈﹄は琅邪郡に属すとする

︶49

︒ただし琅邪郡

にある県は﹁魏箕縣﹂ではなく﹁箕縣﹂である︒とするとこれは﹁魏

の箕縣﹂︑すなわち戦国魏に存在した箕県を指すのかも知れないが︑

箕県が存在した場所は戦国では斉の領域内である

︒ともかくも

8-2098

簡及び

8-2133

簡に見える人々は﹁魏箕﹂から洞庭郡遷陵県に

移ってきた移民ということになろう︒さらに

8-894

簡には﹁故邯鄲

韓審里大男子呉騷﹂という者に関する史料である︒この呉騒もかつ

て戦国趙の領域であった邯鄲から洞庭郡遷陵県に移ってきた移民だ

ろう︒

以上のような移民は︑秦が遷陵県を統治するにあたり︑他郡から

派遣されてきたのだろう︒このような移民は秦にとっては新しく編

入された民となる︒そこで注目されるのは﹁新黔首﹂についてであ

る︒新黔首については張家山漢簡﹁奏讞書﹂案例一八や岳麓書院蔵

秦簡に見える︒里耶秦簡では︑

16-950

簡に

(12)

八四

新黔首戸百六男千卌六人小男子㽂

と あ る

︶50

︒本史料は﹁新黔首﹂の戸数・﹁男﹂・﹁小男子﹂の人数を記

したものであるが︑それ以外に何も明記されていないようである︒

戸数は一〇六とあり︑この数字は遷陵県の戸数よりも少ないため︑

本史料は遷陵県全体の戸数及び﹁男﹂・﹁小男子﹂の人数を示したも

のではない

︒おそらくある年度の遷陵県内の新黔首の戸数及び

﹁男﹂・﹁小男子﹂の人数を示したものと考えられる︒ただし実存す

る戸の史料であれば﹁見﹂字があるはずなので︑あるいはある年度

の新黔首の増加分を記した史料かもしれない︒いずれにせよ注目さ

れるのは﹁男﹂の多さである︒この﹁男﹂は﹁小男子﹂と区別され

ているため︑﹁大男﹂のことであろう︒すると

16-950

簡は当時遷陵

県に新黔首の大男が一〇四六人存在した︑ないし増加したことを示

すことになる︒﹁戸籍様簡﹂を見ると︑一戸のうち多くても大男は

三人しか見えない︒従って

16-950

簡では新黔首の大男は戸数を大幅

に超えており︑これは﹁戸を形成しない新黔首の大男﹂が非常に多

かったということになる︒これはどういうことか︒

理由のひとつとしては労働力不足の解消が挙げられよう︒このよ

うな戸を形成しない新黔首の成年男子が各種労役に従事していたこ

とは想像に難くない︒たとえば﹁奏讞書﹂案例一八では始皇二七年

に起こった反乱において新黔首が動員されている

︶51

︒では︑戸を形成

しないということは︑一体どのような身分で遷陵県に居住していた

のか︒新黔首と表記されている以上︑彼らは刑徒・奴婢とは見なせ ないだろう︒そもそも司寇を除き︑刑徒や奴婢は戸をもつことができない︒しかも

16-950

簡の書き方では﹁男﹂に刑徒や奴は含まれな

いと解釈するのが自然である︒また戍卒など兵卒が含まれていると

も解釈できないのではないだろうか︒戍卒は任務期間が終了すれば

本籍地へ戻ることができるし︑そもそも地方軍事組織に所属する兵

卒であるから新黔首とは区別されるはずである︒結局︑﹁新黔首﹂

の範疇には前節で触れた

8-894

簡などの移民や︑于振波氏が指摘す

るような移民的性質の適戍が含まれるのだろう

︶52

以上︑本節では里内の戸及び人口の構成について考察を加えてき

た︒これらをまとめると︑遷陵県の田畑平均保有数は大体四〇〜三

二畝ほどである︒遷陵県の民は多くの奴婢・財産を持つ比較的豊か

な戸もあれば︑司寇や居貲・適戍など︑通常の民とは異なる性質の

者も居住していた︒さらに移民も多数おり︑﹁新黔首﹂の中には戸

を形成しない者が多数含まれていた︑となる︒

このように見てくると︑洞庭郡遷陵県の人口構成はかなり特殊な

ものであったことが判明する︒つまり︑戸数が極端に少なく︑戸を

形成しない民や刑徒・兵卒が非常に多かったのである︒このような

特殊な人口構成は租税・徭役・兵役など︑官による民への負担にも

影響していたはずである︒筆者はこれまで秦・洞庭郡遷陵県におけ

る兵役および軍事組織を分析してきた︒そこでは兵卒が様々な労働

に従事していた様子がうかがえるが︑彼らは多くが外部から派遣さ

れてきた者で︑遷陵県出身の者は非常に少なかった︒ひるがえって

(13)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成八五 考えてみると︑郷里には必ずその生活環境や行政維持のために労働が発生するはずである︒そのような労働は通常徭役として民が定期的に労働に従事したと思しいが︑遷陵県のような人口の少ない︵戸数が少ない︶土地では徭役はどのように行われていたのか︒実際のところ現在では未だ史料が乏しいため詳しく検討することは出来ないが︑次節では里耶秦簡からできるだけ遷陵県内の労働内容及び労働の規模を探ってみたい︒

第三節  郷里における労働内容と労働力の規模

遷陵県内で発生する労働については︑刑徒労働と民の労働︵すな

わち徭役︶に分けられる︒里耶秦簡は県廷跡より出土したため︑県

が管理する労働の記録が多いようである︒それらの多くは刑徒労働

で︑里耶秦簡には﹁作徒簿﹂と呼ばれる︑刑徒労働をまとめた簿籍

に詳しい記述が見える︒その多くは遷陵県の庫や司空での労働内容

で︑司空での労働は当然のこと︑特に庫内で多くの労働が発生して

いたことがうかがえる︒作徒簿の中には郷における労働の様子を示

すものもある︒その他にも︑遷陵県の民が従事したと思しい労働を

記す史料も残されている︒民の労働とは即ち徭役労働のことである︒

徭役に関してはこれまで睡虎地秦簡﹁秦律十八種﹂徭律や張家山漢

簡﹁二年律令﹂徭律等から分析が進んでおり︑道路工事や建築作業

等の土木作業︑物資の運搬などが民に当てられていた︒ただこれら は律令に見える内容であり︑その実際例はあまり見つかっていない︒そこで里耶秦簡を見ると︑数は少ないものの民が負担したと思しい労働を示す史料がある︒ここではそれらを見て行きたい︒

・虎狩り

8-170

廿八年五月己亥朔甲寅︑都郷守敬敢言之︒㽂 Ⅰ

得虎︑當復者六人︑人一牒︑署復□于㽂 Ⅱ

從事︑敢言之︒㽂 Ⅲ

8-170

簡は後半部部が欠損しているが︑﹁得虎﹂という語から︑虎

狩りの様子を示すものと考えられる︒また都郷守が報告しているこ

とから︑これは郷主導の徭役の一種であろう︒二行目を見ると︑﹁當

復﹂とある︒﹁復﹂は復除のことであるから︑本史料では虎狩りに

功績のあった六人が復除を受けている︒復除は徭役免除のことであ

るから︑虎狩りに従事した者はもともと徭役負担者であったはずで

ある︒つまり虎狩りには民が徴発されていたことがわかる︒ただ﹁當

復者六人﹂とは虎狩りに従事した者のなかで復除に当たる者が六人

いたという意味に過ぎないから︑虎狩りに従事したのは民のみとい

う意味ではない︒そこには刑徒や兵卒も参加した可能性もある︒

・船人

8-651

啓陵津船人高里士五︵伍︶啓封當踐十二月更︑□︻廿九日︼□

㽂 Ⅰ

(14)

八六

正月壬申︑啓陵郷守繞劾︒  Ⅱ

丗三年正月壬申朔朔日︑啓陵郷守繞敢言之︑上劾一牒㽂 Ⅲ

8-651

簡は船人の労働に関するもの︒この船人は﹁高里士五︵伍︶

啓﹂と言い︑都郷高里に居住していた︒勤務先は﹁啓陵津﹂とある︒

これは啓陵郷にある﹁津﹂︑つまり船の渡し場である︒船人の労働

は﹁當踐十二月更﹂とあることから︑いわゆる﹁践更﹂労役の一つ

だったことがわかる︒

﹁践更﹂については現在様々な意見が出され︑その実態について

は徐々に明らかになってきているが︑どの労役が﹁践更﹂に含まれ

るのか︑という点は個別例が多くなく︑検討は今のところ難しい

︶53

船人のような輪番交代の労働は常に必要とされる恒常的な労働で

ある︒その一方で︑

8-170

簡のような虎狩りは臨時的に発生する労

働で︑常に行われているとは限らない︒このほか︑臨時的に起こる

労働の一種として︑軍事行動が挙げられよう︒このことについては

別稿にて触れたが︑群盗捕縛や﹁奔命﹂などが行われる際︑民が徴

発される

︶54

︒これは緊急を要し︑すぐに捕縛隊を組織しなければなら

ないため︑あらかじめ徴発される民が決められており︑その規則に

従って民が徴発されるのである︒

以上のように︑現在公表されている里耶秦簡には数は少ないもの

の︑民の徭役の中では①恒常的に必要な労働︑②臨時的に必要な労

働がそれぞれ見える︒このような実際例は今後里耶秦簡の公表が進

むにつれて増加していくはずであるから︑今後はその実際例と律令 を比較検討することが求められよう︒

このような個別の徭役労働の分析と関連し︑本稿では最後に以下

のことについて触れたい︒すなわち︑そもそも遷陵県は戸数が約一

九〇〜一五〇戸と非常に少ない︒となると供出できる労働力も非常

に限られたものとなる︒では︑郷里内のどのような者がこのような

労働を負担したのか︒これについて少しく触れておきたい︒前節に

て︑里内の戸の把握に爵位が基準として用いられていたことに触れ

︒実は徭役に関しても爵位が関係していたようである

︒以下の

8-1539

簡を見てみたい︒

正丗五年九月丁亥朔乙卯︑貳春郷守辨敢言  Ⅰ

之︒上不更以下︵徭︶計二牒︒敢言之︒  Ⅱ

本史料は始皇三五年九月の貳春郷による報告である

︒ここでは

﹁不更以下﹂の﹁︵徭︶計﹂︑つまり徭役の統計が報告されている︒

特に不更以下と明記されているのは︑大夫以上と不更以下に待遇の

違いがあるからだろう︒つまりここからは大夫以上の爵位を持つも

のに対して︑徭役上の優遇措置があったことがわかるのである︒お

そらくは徭役の軽減ないし免除があったのだろう︒

徭役の軽減ないし免除に関して︑里耶秦簡ではさらに

8-170

簡に

見えるような復除も加わる︒となると︑徭役を負担する者は実際の

人口数よりも少なくなる︒徭役を免除される人数は限られていると

はいえ︑もともと戸数の少ない遷陵県ではやや重い負担となるので

(15)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成八七 はないか︒従って遷陵県の戸数から考えると︑各戸から供出される労働力は非常に小さいと言わねばならない︒また遷陵県は﹁辺境﹂ということもあり︑開発事業や治安維持などの面で他郡とは異なり︑多くの労働力を必要とするはずである︒では︑もし労働力が不足するとなると︑足りない労働力はどのように供給されるのか︒そこで利用されるのが大量の戸を形成しない新黔首の者達及び刑徒・兵卒だったのだろう︒つまり︑新黔首や刑徒・兵卒は戸数の少ない遷陵県での労働力となるべく︑他郡から派遣されてきたのである︒

おわりに

以上︑本稿では里耶秦簡を用いて秦・洞庭郡遷陵県の郷里構造及

び人口構成を分析し︑さらにそこから郷内の労働内容及び労働力の

規模ついて検討してきた︒これをまとめると以下のようになる︒

洞庭郡遷陵県は全体の戸数が一九〇〜一五〇戸ほどの非常に規模

の小さい県である

︒遷陵県に所属する郷は規模の大きい順に貳春

郷・都郷・啓陵郷があり︑啓陵郷は戸数わずか二数戸であった︒戸

ごとの田畑所有数は遷陵県全体としてだいたい三五畝前後︑決して

田畑が多い地域ではなかった︒里内には裕福な戸もあれば司寇の戸

も存在し︑居貲や適戍も居住しており︑戸を形成しない大量の﹁新

黔首﹂が存在していた︒遷陵県の民は践更や各種徭役のなどを負っ

ていたが︑人口から見て全体として労働量は非常に少ない︒従って 新黔首や刑徒・兵卒が遷陵県の行政を維持するために労働に従事していた︒

行政文書を用いて徭役・兵役の実態を検討する際︑その文書が出

土した地域の特性を把握することは是非とも必要なことである︒今

回見てきたように︑洞庭郡遷陵県は非常に特殊な地域と言える︒そ

のために各種制度も遷陵県独自の事情に合わせたものとなっていた

可能性が高く︑ここからただちに秦の徭役・兵役の全体像を描き出

すことは難しい︒しかし本稿の関心は洞庭郡遷陵県の実態を一つの

モデルケースとして提示することであり︑筆者の関心は秦の律令と

地方郡県の実態を比較するという点にある︒本稿の内容はその点に

おいて意義のあることと考える︒今後は地方郡県で行われる徭役の

個別例の収集及びその分析が必要となる︒これら地方郡県の整理の

後︑収奪体系の根本的基礎となる律令の論理構造を明らかにし︑そ

れが地方郡県で実際にどのように運用されていたのか︑という課題

に取り組まなければならない︒

︵1︶ 拙稿﹁里耶秦簡からみた秦の辺境経営﹂︵﹃史観﹄第一七〇冊︑二〇一四

年︶︑﹁里耶秦簡からみた秦辺境の軍事組織の構造と運用﹂︵工藤元男編﹃中

国古代の政治と習俗︵仮題︶﹄︑雄山閣︑二〇一五年刊行予定︶︒

︵2︶  鷹取祐司﹁里耶秦簡に見える秦人の存在形態﹂︵愛媛大学﹁資料学﹂研

究会編﹃資料学の方法を探る︵

12︶﹄︑二〇一三年︶︒

︵3︶ いわゆる﹁戸籍様簡﹂という語は鈴木直美﹁里耶秦簡にみる秦の戸口把

(16)

八八

握︱同居・室人再考﹂︵﹃東洋学報﹄八九︲四︑二〇〇八年︶によった︒た

だし中国の研究では﹁戸籍類簡﹂と呼ばれることもある︒

︵4︶ 本稿で使用する里耶秦簡の図版・釈文は湖北省文物考古研究所編﹃里耶

秦簡︹壱︺﹄︵文物出版社︑二〇一一年︶︑釈文及び接合は陳偉主編﹃里耶

秦簡牘校釈﹄第一巻︵武漢大学出版社︑二〇一二年︶によった︒

︵5︶ 鍾煒﹁里耶秦簡所見遷陵的郷里結構﹂︵簡帛網︑二〇〇五年一二月五日付︑

http://www.bsm.org.cn/show̲article.php?id=124

︶︑張春龍

﹁里耶秦簡中 戸籍和人口管理記録﹂

︵簡帛網

︑二〇〇九年一一月一六日付

http://

www.bsm.org.cn/show̲article.php?id=1173

︑原載は

﹃里耶古城

・秦簡与

秦文化研究﹄︵科学出版社︑二〇〇九年一〇月︶︶︑唐俊峰﹁里耶秦簡所示

秦代的〝見戸〟與〝積戸〟︱︱兼論秦代遷陵県的戸数﹂︵簡帛網︑二〇一

四年二月八日付︑http://www.bsm.org.cn/show̲article.php?id=1987

︶ ︑ 王

偉・孫兆華﹁〝積戸〟与〝見戸〟里耶秦簡所見遷陵編戸数量﹂︵﹃四川文物﹄︑

二〇一四年第二期︶参照︒

︵6︶ ﹁見戸﹂については﹁積戸﹂と同時に検討される場合が多い︒これにつ

いては注︵5︶唐氏論文及び王・孫両氏論文参照︒

︵7︶ 注︵5︶王・孫両氏論文︑六六頁︒

︵8︶ 注︵2︶鷹取氏論文︑六七頁︒

︵9︶ 尹湾漢簡の釈文・図版は連雲港市博物館・東海県博物館・中国社会科学

院簡帛研究中心・中国文物研究所編﹃尹湾漢墓簡牘﹄︵中華書局︑一九九

七年︶を参照した︒

10︶ 天長木牘の墓葬年代・墓主の身分について︑発掘簡報は前漢中期の始め︑

県の官吏︵印章等が見つかっていないため詳しいことは不明︶と推測して

いる︒天長市文物管理所・天長市博物館﹁安徽天長西漢墓発掘簡報﹂︵﹃文

物﹄︑二〇〇六年第一一期︶︒﹁戸口簿﹂の釈文・図版も発掘簡報掲載のも

のを参照した︒

11︶ 木牘の年代について何有祖氏は景帝三年からあまり遠くない時期︑卜憲

群・蔡万進氏は下限年代を武帝元狩六年︑楊振紅氏は武帝太初二年から後 元二年の間とする︒何有祖﹁安徽天長西漢墓所見西漢木牘管窺﹂︵簡帛網︑

二〇〇六年一二月一九日付︑http://www.bsm.org.cn/show̲article.

php?id=488︶︑卜憲群・蔡万進﹁天長紀荘木牘及其価値﹂︵﹃光明日報﹄︑

二〇〇七年六月一五日︶︑楊振紅﹁紀荘簡牘再現秦漢社会風貌﹂︵﹃中国社

会科学報﹄︑二〇一二年一月九日︶参照︒

12︶ ﹁戸口簿﹂の三字は木牘上面に右から左へ横書きに書かれている︒

13︶ 尹龍九﹁平壌出土﹁楽浪郡初元四年県別戸口簿﹂研究﹂︵﹃中国出土資料

研究﹄一三︑二〇〇九年︶︑二一一頁︒

14︶ 注︵

13︶尹氏論文︒

15︶ 游逸飛・陳弘音﹁里耶秦簡博物館蔵第九層簡牘釈文校釈﹂︵簡帛網︑二〇

一三年一二月二二日付︑http://www.bsm.org.cn/show̲article.

php?id=1968︶︒ちなみに類似する律文として張家山漢簡﹁二年律令﹂戸

律第二四三簡に﹁縣道已堮︵墾︶田︑上其數二千石官︑以戸數嬰之︑毋出

五月望﹂とある︒これによれば漢代では県道は田畑の畝数を所属する二千

石官に報告する必要があった︒その文書の内容はおそらく8-1519簡のよう

なものだったのだろう︒

16︶ 注︵5︶唐氏論文及び王・孫両氏論文︒

17︶ ﹁駐軍図﹂の第一報は馬王堆漢墓帛書整理小組﹁馬王堆三号漢墓出土駐軍

図整理簡報﹂︵﹃文物﹄︑一九七六年第一期︶︒

18︶ ﹁駐軍図﹂の概略は邢義田﹁従出土資料看秦漢聚落形態和郷里行政﹂︵黄

寛重主編﹃中国史新論︱基層社会分冊﹄︑中央研究院︑二〇〇九年六月︶

によった︒なお邢氏は﹁駐軍図﹂という名称を用いず﹁箭道封域図﹂とい

う名称を提唱しているが︑本稿では一般的に用いられている﹁駐軍図﹂を

使用した︒

19︶ 注︵

17︶﹁馬王堆三号漢墓出土駐軍図整理簡報﹂二三頁︒

20︶ 湖南省文物考古研究所・湘西土家族苗族自治州文物所・龍山県文物管理

所﹁湖南龍山里耶戦国︱秦代古城一号井発掘簡報﹂︵﹃文物﹄二〇〇三年第

一期︶︑湖南省文物考古研究所・湘西土家族苗族自治州文物所﹁湘西里耶

(17)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成八九 秦代簡牘選釈﹂︵﹃中国歴史文物﹄二〇〇三年第一期︶︒

21︶ 注︵5︶王・孫両氏論文︒

22J16-9︶ 簡の釈文については湖南省文物考古研究所編﹃里耶発掘報告﹄︵岳麓

書社︑二〇〇七年一月︶参照︒

23︶ 注︵5︶鍾氏論文︒

24︶ 注︵5︶張氏論文︒

25︶ 注︵5︶王・孫両氏論文︒

26︶ 注︵1︶拙稿﹁里耶秦簡からみた秦の辺境経営﹂参照︒

279-14︶ 簡は注︵

15︶游・陳両氏論文によって紹介されたものである︒

289-566︶ 簡は注︵5︶張氏論文によって紹介されたものである︒

29︶ 注︵

15︶游・陳両氏論文参照︒

309-1317︶ 簡は注︵5︶張氏論文によって紹介されたものである︒

318-439,519,537︶ 簡に﹁廿五年九月己丑︑將奔命校長周爰書︒敦長買︑什長嘉 皆告曰

︑徒士五

︵伍︶右里繚可

︑行到零陽廡谿橋亡

︑不智

︵知︶□□

⁝⁝﹂とある︒

32︶ ﹁戸籍様簡﹂に見える﹁南陽﹂については注︵

22︶﹃里耶発掘報告﹄は﹁南

陽郡﹂の可能性が高いとするが︑多くの先行研究は﹁南陽里﹂と解釈して

いる︒注︵

22︶﹃里耶発掘報告﹄二〇八頁︒

339-2341︶ 簡は注︵5︶張氏論文によって紹介されたものである︒

34︶ 発掘館報及び発掘簡報公表当初の論文は︑長江流域第二期文物考古工作

人員訓練班﹁湖北江陵鳳凰山西漢墓発掘簡報﹂︑黃盛璋﹁江陵鳳凰山漢墓

簡牘及其在歴史地理研究上的価値﹂︑弘一﹁江陵鳳凰山十号漢墓簡牘初探﹂

︵全て﹃文物﹄︑一九七四年第四期︶︑裘錫圭﹁湖北江陵鳳凰山十号漢墓出

土簡牘考釈﹂︵﹃文物﹄︑一九七四年第七期︶などがある︒

35︶ 湖北省文物考古研究所編﹃江陵鳳凰山西漢簡牘﹄︵中華書局︑二〇一二年

一一月︶︒

36︶ 注︵

35︶﹃江陵鳳凰山西漢簡牘﹄一三八・一三九頁︒

37︶ 鄭里の民が誰から穀物を借りたのかは︑墓主本人から︑または県官から 稿ではこれ以上触れない︒ 質︵私文書か公文書か︶に関わる問題で︑複雑である︒この点に関し︑本 と意見が別れており︑説が定まっていない︒これは﹁鄭里禀籍﹂の文書性

38︶ 注︵

34︶裘氏論文参照︒

39︶ 注︵

34︶裘氏論文参照︒

40︶ 佐原康夫﹁江陵鳳凰山漢簡再考﹂︵﹃東洋史研究﹄︑六一︲三︑二〇〇八年︶︒

41︶ ﹁二年律令﹂戸律を見ると︑前漢では二〇等爵に応じて田宅の受給及び田

宅保有の制限が存在し︑また制限つきではあるが売買も認められていた︒

また類似した制度が﹃商君書﹄にみられることから︑秦でもこれに類似し

た制度があったとする説もある︒これら﹁名田宅制﹂の問題は先行研究が

豊富にあるが︑代表的なものとして朱紹侯﹁論漢代的名田︵授田︶制及其

破壊﹂︵﹃河南大学学報﹄︑二〇〇四年第一期︶︑朱紅林﹁從張家山漢簡看漢

初国家授田制度的幾個特点﹂︵﹃江漢考古﹄︑二〇〇四年第三期︶︑楊振江﹃出

土簡牘与秦漢社会﹄第四章﹁︽二年律令︾与秦漢﹁名田宅制﹂﹂︵広西師範

大学出版社︑二〇〇九年一二月︶︑于振波﹃簡牘与秦漢社会﹄第一編﹁田

制与賦税﹂︵湖南大学出版社︑二〇一二年三月︶などがある︒

42︶ 注︵

35︶﹃江陵鳳凰山西漢簡牘﹄A類竹簡箇所参照︒

4324.1B.A8︶ 居延旧簡︵︶に﹁田五十畝直五千﹂とある︒いわゆる礼忠・徐

宗簡については研究蓄積が豊富にあるが︑ここでは逐一挙げない︒

4437.35.A32︶ 居延旧簡︵

︶ ︑︵

24.1B.A8︶参照︒

45︶ 高村武幸﹃漢代の地方官吏と地域社会﹄第四部第三章﹁前漢河西地域の

社会﹂︵汲古書院︑二〇〇八年一月︶四四六・四四七頁︒

46K27︶ 例えば簡に﹁南陽戸人荊不更蛮強﹂とある︒注︵

22︶﹃里耶発掘報告﹄

参照︒

47︶ 張家山漢簡﹁二年律令﹂戸律第三一二簡に﹁⁝⁝公卒・士五︵伍︶・庶人

各一頃︑司寇・隱官各五十畝﹂︑第三一六簡に﹁公卒・士五︵伍︶・庶人一

宅︑司寇・隱官半宅︒欲爲戸者︑許之﹂とある︒

48︶ 注︵1︶拙稿﹁里耶秦簡からみた秦の辺境経営﹂参照︒

(18)

九〇

49︶ 注︵4︶﹃里耶秦簡牘校釈﹄四二九頁︒

5016-950︶ 簡は注︵5︶張氏論文によって紹介されたものである︒

51︶ 張家山漢簡﹁奏讞書﹂案例一八については拙稿﹁前漢初期における県の

軍事組織について﹂︵﹃史観﹄一六一冊︑二〇〇九年︶参照︒

52︶ 于振波﹁秦律令中的〝新黔首〟与〝新地吏〟﹂︵﹃中国史研究﹄︑二〇〇九

年第三期︶︒

53︶ 践更の例は︑例えば張家山漢簡﹁奏讞書﹂に見える﹁楽人﹂などが挙げ

られる︒

54︶ 注︵1︶拙稿﹁里耶秦簡より見た秦辺境の軍事組織の構造と運用﹂︒

(19)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成九一

里耶秦簡 里関係史料表 高里

簡番号 本文 備考

1 8-75,166,485 廿八年二月癸未、遷陵守丞䊡之以此追如少内書。/ 手。……甲申水下 七刻、高里士五(伍)□行。…… 

二 行 目 以 降略 2 8-341 高里公士印。 船㽂

3 8-431 㽂高里士五(伍)㽂

4 8-651 啓陵津船人高里士五(伍)啓封當踐十二月更、□【廿九日】□……正月 壬申、啓陵郷守繞劾。……丗三年正月壬申朔朔日、啓陵郷守繞敢言之、

上劾一牒……

背面略

5 8-712 㽂□□□高里□□㽂

6 8-899 㽂貸適戍士五(伍)高里慶忌㽂

7 8-985 居貲士五(伍)高里惡租。……廿八年六月丙戌、司空長・佐 符發弩守 攀探遷陵拔前、以爲洞庭……

8 8-1222 稟乏食、誠爲高里小男子賜。

9 8-1410 高里公士印。 丗五年産女□㽂

10 8-1443,8-1455 丗二年六月乙巳朔壬申、都郷守武爰書。高里士(伍)武自言以大奴幸・

甘多、大婢言・言子 等、牝馬一匹予子小男子產。 典私占。 初手。

背面略

11 8-1537 丗三年七月己巳朔甲戌、都郷守壬爰書。高里士五(伍)武自□……典綰

□……

12 8-1554 丗五年七月戊子朔己酉、都郷守沈爰書。高里士五(伍)廣自言、謁以大 奴良・完、小奴医・饒、大婢闌・願・多・□、禾稼・衣器・錢六萬、盡 以予子大女子陽里胡、凡十一物、同券齒。典弘占。

背面略

13 8-1982 㽂□高里□女子□□□㽂

14 9-43 高里戸人大女子杜衡。 張

15 9-1475 高里戸人大女子䁲㽂 張

16 9-2242 高里戸人小上造勬 㽂    弟小女子檢 㽂

17 10-587 南里戸人士五贅 㽂

□大女子姤 㽂

成里

簡番号 本文 備考

1 5-6 㽂□成里公士□以來。/□發 背面

2 8-157 丗二年正月戊寅朔甲午、啓陵郷夫敢言之、成里典・啓陵郵缺。除士五(伍)

成里匄・成、成爲典、匄爲郵人、謁令尉從事。敢言之。

背面略

3 8-1027 成里戸人司寇宜。㽂 下妻䒱。㽂

4 8-1254 㽂【陵】郷嗇夫除成里小男子。

5 8-1813 㽂陵郷成里戸人士五(伍)成隸㽂

(20)

九二 南里

簡番号 本文 備考

1 8-237 南里戸人大女子分。㽂 Ⅰ 子小男子□㽂 Ⅱ

2 8-661 㽂朔己未、貳春郷茲……□爲南里典庠、謁……□下書尉、尉傳都□…… 背面略 3 8-863,8-1504 南里小女子苗、丗五年徙爲陽里戸人大女嬰隸。

4 8-1182 南里小上造□㽂

5 8-1546 南里小女子苗、丗五年徙爲陽里戸人大女子嬰隸。 →8-863,8- 1504と ほ ぼ同文。

6 8-1623 南里戸人大夫寡茆。㽂

□□【公士】□㽂 

7 8-1888 □□南里士五(伍)異斬首一級。

8 8-2476 南里戸㽂

9 9-14 卅五年三月庚寅朔丙辰、貳春郷茲爰書。南里寡婦䓲自言、謁堮(墾)草田,

故桒(桑)地,百廿歩、在故步北、恒以爲桒(桑)田。

三月丙辰、貳春郷茲敢言之、上。敢言之。/䣶手。

游・ 陳  背面略

10 9-1625 南里不更公孫黚受令。 游・陳

11 9-2299 南里戸人官夫〔大夫〕布 㽂      口數六人   㽂     大男子一人    㽂     大女子一人    㽂     小男子三人    㽂

東成里

簡番号 本文 備考

1 8-1765 東成戸人大夫印小臣墔、廿六□㽂 2 8-1825 㽂淺爲東成㽂

3 9-328 ……東成戸人不更已夏隷大女子瓦自言□……以副從事、敢言之。╱吾手。 張 4 9-566 東成戸人夫〔大夫〕寡晏 㽂

     子小女子女巳 㽂      子小女子不唯 㽂

5 9-2064 東成戸人士五夫。

妻大女子沙。

子小女子澤若。

子小女子傷。

(21)

秦・洞庭郡遷陵県の郷里と人口構成九三

陽里

簡番号 本文 備考

1 8-78 㽂□□遷陵陽里士五(伍)慶・卆……廿九年十一月申酉、洞庭叚(假)

卒吏悍……從事,毋令慶有所遠之。……●封遷陵丞有□……十一月壬戌、

遷陵……

背面略

2 8-126 陽里戸人□㽂 小妾無蒙㽂 

3 8-834,8-1609 陽里戸人大夫刀。丗五年五月己丑朔【癸】㽂 4 8-920 㽂【而】私爲陽里大女子

5 8-1191 陽里公士鍇。 百一十六㽂

6 8-1356 㽂□啋、課過程、士五(伍)陽里静以當襦絝(䋞)。

7 8−1477 丗三年三月辛未朔丙戌、尉廣敢言之:□……□【言謁徙遷陵陽里、謁告 襄城】□……

背面略

8 8-1549 錢十七。丗四年八月癸巳朔丙申、倉□・佐卻出買白翰羽九□□□□之□

十七分、□□陽里小女子胡劏……□。 令佐敬監□□□□。巸手。 

9 8-1946 陽里戸人司寇寄㽂 10 8-1972 陽里小男子説䥃(辭)㽂 11 8-2127 守 爰書。陽里士五(伍)㽂

12 8-2233 㽂【稟】人忠出貸陽里士五(伍)過。

㽂   人手。 

輿里

簡番号 本文 備考

1 9-1112 廿六年二月癸丑朔丙子、唐亭叚(假)校長壯敢言之、唐亭旁有盜、可卅人、

壯卒少、不足以追、亭不可空、謁遣囗索、敢言之。/二月辛巳、遷陵守 丞敦狐敢告尉、告郷主、以律令從事。尉下亭䌉署士吏謹備。貳[春]郷 上司馬丞。/亭手。/即令走涂行。

二月辛巳不更輿里戌以來/丞半 壯手。

游・ 陳  正 面 か ら 背 面 に か け て 書 か れている

2 9-1317 輿里戶人不更□㽂 張

3 9-1671 不更輿里□□㽂   □□夫  大女二人   廿六年□㽂

右里

簡番号 本文 備考

1 8-439,519,537 廿五年九月己丑、將奔命校長周爰書、敦長買、什長嘉皆告曰、徒士五(伍)

右里繚可、行到零陽廡谿橋亡、不智(知)□□……繚可年可廿五歳、長 可六尺八寸、赤色、多髪、不産須、衣絡袍一、絡單胡衣一、操具弩二、

絲弦四、矢二百、鉅劍一、米一石……

(22)

九四 所属不明

簡番号 本文 備考

1 8-2203 㽂上里士五(伍)賜正月 2 8-2296 㽂裘里㽂

3 J16-9 廿六年五月辛巳朔庚子、啓陵郷囗敢言之。都郷守嘉言、渚里囗……劾等 十七戸徒都郷、皆不移年籍。令曰、移言。今問之劾等、徒(徙?)……

書告都郷曰、啓陵郷未有牒、毋以智(知)劾等初産至今年數。……囗囗 囗謁令都郷、具問劾等年数。敢言之。

『 里 耶 発 掘 報 告 』 掲 載  背 面略 注

段落記号は省略。簿籍簡のように書かれていると思しいものは逐次改行して示した。

張:張春龍「里耶秦簡中戸籍和人口管理記録」掲載釈文

(簡帛網、二〇〇九年一一月一六日付、http://www.bsm.org.cn/show̲article.php?id=1173)

游・陳:游逸飛・陳弘音「里耶秦簡博物館蔵第九層簡牘釈文校釈」掲載釈文

(簡帛網、二〇一三年一二月二二日付、http://www.bsm.org.cn/show̲article.php?id=1968)。

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