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中国医療伝道協会から中華医学会へ

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論 説

中国医療伝道協会から中華医学会へ

貞 恩

は じ め に

プロテスタント医療宣教師が, 中国における西洋の近代医学の紹 介・普及に重要な役割を果たしていたことはよく知られている。 そ れゆえ, 中国の近代医療史を研究するためには, 医療宣教師の活動 を分析することが不可欠である。 なかでも特に重要だと思われるの は, 教派によって分かれていた医療宣教師の組織を, 「医療伝道」

の旗幟の下に統合した中国医療伝道協会 ( , 中華博医会) の存在である(1)

20世紀に入ってから, 中国医療伝道協会は大きな変化を迎えた。

まず, 1907年に機関誌の名称から を削除し 「博医会」・

博医会報 という中国語名称をつけた。 さらに, 1925年には協会 の英語名からも の語を削除し, 会則を変更して医療宣 教師ではない医師も正会員として加入できるようにした。 このよう な博医会の一連の変化は, 宣教師と医師という二つの顔を持つ医療 宣教師のアイデンティティに深く関わる問題であった。

ついに1932年, 博医会は中華医学会に合併され, その名は消滅し た。 博医会と中華医学会の合併は, 1907年からの博医会の変化の過 程の中に位置づけられ, 教会医療伝道事業が土着化へ向かっていた ことを示す象徴的事例と言えよう。 本稿でいう教会医療伝道事業の 土着化とは, 中国における教会医療伝道事業の責任, つまりミッショ ン系病院及び医学校における運営・管理権が西洋人医療宣教師から 中国人のほうに移っていくことを意味する言葉として用いる。

このような医療伝道事業の土着化は, 中国教会の自立の動きと密 接に関連する。 とくに医療伝道事業の土着化が1920年代に入ってか

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ら加速した背景には, 反キリスト教運動や 「本色教会」 運動の影響 があった。 中国教会の自立とは, 政治的・経済的・思想的に外国の 教会やミッションから自立することであり, 「本色教会」 運動とは, キリスト教の中国化及び中国教会の自立を目指す運動である。 この ような動きのなかで, 中国教会は中国人によって運営・管理される べきだという認識が強まり, それは医療伝道事業においても例外で はなかった。 つまり医療伝道事業の土着化は, 中国教会の自立運動 の一つの現れとしても理解できよう。 中国教会の自立や 「本色教会」

運動については既に山本澄子が詳細な研究を行っているが, そのな かで医療伝道事業の土着化についてはほとんど議論がなされていな い(2)

医療宣教師が志向していた土着化は, キリスト教会の慈善事業と しての性格を維持した形での土着化であった。 つまりそれは, 宣教 団体の役割は中国教会が, 医療宣教師の役割は中国人クリスチャン 医師が代替することを意味する。 医療宣教師の土着化に関する働き かけは, この脈絡から理解すべきである。 しかし先行研究において この点はあまり注目されていない。 教会医療伝道事業の土着化につ いて総合的に考察した李伝斌は, 医療宣教師が土着化には消極的で あったとしながらも, その理由については解明していない(3)。 ま た彼は, 博医会の内部における変化や中華医学会との合併について はほとんど論じていないが, この問題は医療宣教師の教会医療伝道 事業の土着化に対する考え方が最もよく現れている事例として, 十 分な検討が必要である。 一方, 西洋医学の土着化という観点から博 医会と中華医学会の合併に注目した劉遠明は, 博医会と中華医学会 の合併問題を, もっぱら中国人が中国の医療発展において主導的な 地位を占めたために起きた変化として描き, 医療宣教師の役割を十 分に検討していない(4)

本稿では, 医療宣教師の教会医療伝道事業の土着化をめぐる議論 を中心に, 1907年から1932年までの博医会の変化及び中華医学会と の合併に至る過程を考察し, 近代中国における教会医療伝道事業の 土着化に対する理解を深めることをめざす。 この研究は, 当然のこ 中

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ととしてキリスト教の土着化問題を考察するためにも必要な作業だ が, 中国に西洋の近代医学を初めて紹介, 実践していたのが医療宣 教師であったことから, 西洋医学が中国に輸入され, 中国社会に融 合していく過程を明らかにするための一助となるとも言えよう。

一方, 博医会と中華医学会の合併においては, 当時南京国民政府 が衛生事業を実施するに当たって, 中国医学界の統一を進めたこと も大きな原因となった。 そこで大きな役割を果たしたのは, 中華医 学会を設立した中国人西医 (西洋医学を修めた中国人の医者) である。

そのため博医会と中華医学会の合併問題を考察することは, 近代中 国における医療衛生の制度化問題やそれに関わった中国人西医の姿 を理解するためにも重要な手がかりとなる。

本稿では, 主な史料として

を用いる。 これは中国医療伝道協会が1887年に創刊した医学雑誌で あり, 彼らの活動について詳しく紹介している。 1907年に

と雑誌名が変更されたので, 以下1887年から1907 年の6月号までは , 1907年7月号から1931年までは と 略す。

1 医療と伝道の間

(1) 医療伝道の目的

医療宣教師とは, 専門的医師である牧師あるいは平信徒として, 宣教団体と雇用関係を結んで非キリスト教国家に派遣される者を意 味し, 初歩的な治療行為を行う宣教師のことではない(5)。 たとえ ばモリソン ( ) の場合, 医学を勉強しているが, 専門 的医師ではなかったため, 医療宣教師とは言わない。 パーカー(

) が最初のプロテスタント医療宣教師として中国に渡ったと きは, 医療宣教師の資格や役割が広く理解されておらず, 医療宣教 師の必要性について疑う人も少なくなかった。 一部の保守的な人は, 聖職者による布教こそ唯一の適切な伝道方式であり, 医療活動のよ うな慈善事業は, 貴重な人材や資金を分散させるに過ぎないと主張 した(6)。 そのため, 教会や宣教団体は長い間, 医療活動を重視せ

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ず, 医療伝道は伝道の補助的役割を果たすにとどまると認識してい た。 しかし19世紀末から20世紀初期にイギリスやアメリカで起きた 社会福音運動の影響によって, 教会の活動は個人の救済から社会の 救済を強調する方向に進み, 医療活動のような慈善事業が教会の重 要な活動とみなされるようになった(7)

医療伝道の必要性が最も明快に表現されているのは, 1907年開催 の中国プロテスタント宣教師全国大会で, 医療伝道委員会の議長を 務めたクリスティー( )の文章である(8)。 クリスティー は, イエスが医療活動を長く行った理由は, 霊魂に対するのと同じ 様に身体に対しても憐憫を持っていたからであり, 自分たちの医療 伝道も伝道業務において単なる補助的役割しか持たないのではなく, 重要かつ不可欠なものだと主張した。 こうした彼の主張は大会で多 くの賛同を得た(9)。 クリスティーの文章からもわかるように, 医 療宣教師にとって医療活動は伝道活動と同じく重要なものであった。

それは, 中国医療伝道協会が協会の目的として 「中国人の間にお ける医学の促進, またこの国における医療宣教師の様々な経験から 引き出された相互援助」 を最初に挙げ, その次に 「伝道事業や医学 全般の育成と進歩」 を挙げていることからもわかる(10)。 また, 協 会の会員になるためには, 公認された正規の医大を卒業し, 本人が 所属する宣教団体からの適切な推薦状が必要であった。 即ち, 初期 の中国医療伝道協会は明確に医療宣教師のみからなる集団として, 医療と伝道の両者をあわせて志向していたと言えよう。

(2) 理想と現実

医療宣教師にとって, 医療と伝道はどちらも重要であった。 しか し, 医療宣教師の数は牧師や宣教師に比べて極めて少なかったため, 医療活動や医学生教育に追われ, 実際には伝道にほとんど時間を割 けない場合が多かった。 この状況を打開するため, 医療宣教師は早 くから様々な解決策を講じた。 たとえば, 初期医療宣教師の一人で あるロックハート ( ) は, 医療宣教師は平信徒とし て教育や伝道を行い, 牧師としての責任は負わないようにすること 中

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を勧めた。 彼は, 医師と牧師という二つの職業を持つプロテスタン トやカトリックの医療宣教師らは, いつもどちらかにおいては失敗 し, 時には両方において失敗することもあったと, 自らの経験を述 べている(11)

医療と伝道の両立が現実的に不可能であると考えた医療宣教師ら は, 伝道事業において同僚聖職者との協力を求めることを勧めた。

1877年プロテスタント宣教師全国大会での報告によれば, 上海の病 院では, すでにこのような協力が行われていた。 ミューアヘッド ( ) は, ジョンストン ( ) によって運営さ れている上海のミッション系病院における医療活動を高く評価し, 宗教的な部分は中国人牧師の奉仕や宣教師の監督によって一貫して 維持されてきたと述べている(12)。 以降, 医療宣教師が病院での伝 道活動をより効果的に行うためには, 同僚聖職者との協力が必要で あるという主張は, 多くの医療宣教師に受け入れられた。 たとえば, 1908年に発行された の記事でビービ ( ) は, 病院と同僚聖職者の連携は大変重要であり, もし聖職者の助けがな ければ, 伝道の機会は十分に与えられないと述べている(13)。 また バルム ( ) は, 医療宣教師が福音伝道を行う機会が少な いことが現在の問題点の一つであると指摘し, 解決策として医療宣 教師を多く雇用することや, 各病院に一人ずつ宣教師を置くことを 提案した(14)。 1915年および1925年に開かれた博医会大会で出され た病院内の伝道に関する議論からは, 多くの医療宣教師が実際の活 動において医療活動に集中しており, 同僚聖職者との協力の必要性 を認識していたことがわかる(15)。 たとえば1915年の博医会大会で オズグッド ( ) は, 医療宣教師は同僚福音伝道者 がいなければ, 業務を行うことができないと主張した。

このように20世紀に入ると, ミッション系病院での医療と伝道の 分離は明らかになり, 実際の伝道業務はもっぱら伝道を専門とする 牧師や福音伝道者が担当し, 医療宣教師は単にそれに参加するだけ になった。 医療宣教師の活動の重点は, 益々 「福音伝道」 より 「医 療活動及び医学教育」 のほうに移っており, このことは1907年から

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1925年における博医会の変化にも大きな影響を与えたと考えられる。

しかし, 実際には多くの医療宣教師が伝道より医療活動に集中し ていたにもかかわらず, 当時のキリスト教関係の資料には, 医療宣 教師の最大の目的は 「福音伝道」 であるという内容がよく見られる。

それは, 医療宣教師という肩書きで中国に渡った以上, 福音伝道と いう目的を放棄することはできなかったからであろう。 「医療活動 自体が福音伝道である」 という主張は, そのために出されたものと 理解できよう。

2 中国医療伝道協会から博医会へ

(1) 雑誌名の変更をめぐる議論 (1907)

漢口で活動していた医療宣教師タッチェル ( )

は, 1906年, の編集者

に手紙を送り, 中国医療伝道協会の中国語名称を決めるよう促し た(16)。 彼は華中支部 ( ) の 会議で, この支会の中国語名称を決めるために苦心する中, 中国医 療伝道協会の例を参考にしようとした際, 中国医療伝道協会さえ中 国語名称がまだないということを知ったと述べ, 協会の中国語名称 を速やかに決定し, 翌年の大会で発表すべきだと主張した。

上記の意見に従い, 1907年の第三次中国医療伝道協会大会では, 協会の中国名や雑誌の名称に関する議論が進められた(17)。 当時の

の編集者は, ある医師が上海に長期間住んでいたにも関わ らず一度も のことを聞いたことがなかったと指摘し, こう した事態の原因の一端は雑誌の名前にあると主張した。 彼は,

は医学の発展という目標を掲げた医学雑誌なのに, 協会の 会員でない医師がこの雑誌の表紙だけを見たら, そのことに気付か ないのではないか, とも述べた。 編集者に対し雑誌名に問題がある ことを初めて指摘した人物は, 漢口人 ( ) だと 記録されており, 恐らく中国人と思われる。

編集者の一人であるジェフリーズ ( ) は雑誌名から

という単語を削除し, に変更する

中 国 医 療 伝 道 協 会 か ら 中 華 医 学 会 へ

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ことを提案した。 このような提案に対し, 医療宣教師から多くの意 見が出された。 それらを見ると, 医療宣教師らは, 雑誌の名称を変 更することで医療伝道という本来の目的がぼやけるのではないか, という不安を持ったようである。 ジリソン ( ) は, た とえ名称を変更するとしても, 「宣教師の医学雑誌」 という雑誌の 性格自体に影響があってはならないと主張した。 協会創立時からの 会員であるブーン ( ) は, 名称の変更によって雑 誌がより進歩するならば, 変更すべきだと発言した。 このような議 論を経て, 参加者の満場一致で名称の変更が決まった。 当時協会の 会長を務めていたクリスティーは, 雑誌名の変更を公布したが, こ れは宣教師による医学雑誌という性格自体の変化を意味するわけで はないことを強調した。 一方協会と雑誌の中国語名称に関しては,

「博医会」 と 博医会報 という名称が採択された(18)

(2) 協会名や会則の変更 (1925年)

協会名や会則を変更すべきであるという主張は, 1923年の博医会 大会で初めて出された(19)。 当時会長であったジョンソン (

) は ( ) から

( ) をひとつ取り消すことによって, がイギリス帝国を代表し,

がアメリカ合衆国を代表しているように, 本協会が中国を 代表する医師団体として認められるであろうと断言した(20)。 ただ, 協会名が変更されても, 伝道の精神は依然として維持し, キリスト 教宣教師の数も少なくなることはないと述べている。

大会ではまた, 医療宣教師ではない医師にも正会員になる資格を 与えるべきだとの提案がなされ, これに即して会員規約が変更され ることになった(21)。 翌年, 協会名および会員条件の変更を骨子と する会則の草案が提示された(22)。 1925年, 博医会は

と改称し, 宣教師でなくても協会の正会員と して活動できるようにした新たな会員規約を公表した(23)。 こうし て, 博医会は医療と関わるすべての人々を包括する団体に生まれ変

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わったのである。 伝道に関しては, 協会内に医療伝道部 ( ) を新設し, 伝道関係の事業はこの部署が担当す るようにした(24)

雑誌名や協会名, 会則の変更によって究極的に目指されたものは, 中国人西医を会員として受け入れることによる協会の拡大であっ た(25)。 中国人西医の増加によって, 1915年成立の中華医学会を筆 頭に, さまざまな医学団体が設立され, そこに加入する中国人西医 も増えていた。 そこで, 博医会の力が弱くなるのではないかという 懸念が生じていたと思われる。 1924年の会則の草案には, 中国人西 医らは中華医学会こそ自分たちが加入すべき団体だと認識している が, その団体は歴史も浅く, 重要な活動は少数のグループが担って いるので, 多くの会員が他に参加できる団体を望んでいると記され ている。 そこで博医会の幹部らは, 中国人西医は明白なミッション 系団体には参加しようとしないはずだが, 彼らも中国における予防 医学や科学知識の進歩のために, 国際的な協力が必要だと認識して

いるので, 総合的で国際的な に生

まれ変われば, 喜んで加入するに違いないと判断した(26)

中国人西医がミッション系団体への加入を忌避した背景には, 反 キリスト教運動や民族主義の影響があったと考えられる。 1925年当 時, 博医会執行委員会の秘書を務めていたマクスウェル (

) は, 宗教や人種にかかわらず, すべての有資格医師の協 会が必要だという認識が広がっているが, 現在の協会名ではそのよ うな要求に応じることができないので, 名称を変更することになっ たと説明した(27)。 つまり博医会は, 宗教色をなるべく出さず, 純 粋な医学団体としての性格を強調することによって, キリスト教信 徒ではない医師も会員として受け入れ, 協会の活動を維持・拡大し ようと試みたのである。

一方マクスウェルは, 協会名を変えたとしても, 伝道という目的 自体が消滅することはないと述べているが, この時点で博医会は既 に医療活動中心の医学団体としての性格が強くなっていたと理解で きる。 また医学団体としての性格が前面に出ることになったため, 中

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次にみるように中華医学会との合併がよりスムーズに行われること になったとも言えよう。

3 中華医学会との協力

(1) 中華医学会の誕生

中国人を中心とする医学会が設立されるべきである, という主張 は1910年に初めて提案されたが, 当時は実現しなかった。 その後, 1914年にこの問題が再度提起された(28)。 これをうけ, 1915年2月 5日の博医会大会に参加した中国人西医21人は, 中国人を中心とす る学会の設立について議論し, その日の夜に会議を開き, 「中華医

学会 ( )」 の設立を正式に宣布

した(29)。 初期会長は顔福慶, 秘書は伍連徳で, 同年末全会員数は 232名に達した。 1915年7月3日, 教育部から正式に認定を受け た(30)

「中華医学会宣言書」 によると, 学会の目的として最初にあげら れているのは, 医師同士の親交を活発にすることである。 医療宣教 師間の交流を重視した博医会と同じように, 中国人西医らもお互い に知識や経験を共有する必要性を痛感していたからである。 また, 医徳 医師としての道徳性 や医権 医師としての権利 の維持, 医学 や衛生観念の普及, 中国と西洋医学界の連絡などが目的としてあげ られた(31)。 学会の目的から, 中華医学会が宗教色を完全に排除し た純粋な医学団体であったことがわかる。 中華医学会の会員の中に は顔福慶・康成 ( )・石美玉 ( ) のようにキリスト 教信者であって, 医療宣教師として活動している人もいれば, 伍連 徳のように伝道とはあまり関係のない人もいたが, 両方とも西洋医 学を修めた医師としての性格を共有していたと思われる。

また, 1915年には 中華医学雑誌 (

) が創刊され, 中国語版と英語版が同時に出版された。

最初は半年に1回出版されたが, 1916年から1923年までは1年に4 回, 1924年からは2ヶ月に1回の出版となった。

中華医学会の会員のほとんどは西洋に留学した者, もしくは医療 東

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宣教師関係の医学校で西洋医学を学んだ者で, 博医会の会員でもあっ た。 しかし中華医学会の正会員や準会員は, 中国人のみがなること ができた(32)。 正会員は外国の医大および中国の医学校を卒業し, なんらかの西洋言語ができる者でなければならなかった。 中国の医 学校を卒業し, 西洋言語ができない場合には準会員として入会する ことになっていた。 準会員の場合は, 中華医学会の正会員と同じ権 利や特権が享受できるが, 中華医学会の役員になることはできなかっ た。 名誉会員の中には, 学会と関係が深い政府人士や博医会の医療 宣教師などがいた(33)。 このように中華医学会は, 中国人だけが正 会員になる資格を与えられたことや, 英文での名称に , 中 文で中華という単語が入っていることから, 中国人による, 中国全 体を代表する学会を目指していたことがわかる。 それは民族主義の 影響のなかで, 博医会を 「外国人」 団体と規定し, 自分たちは博医 会とは異なった 「中国人」 中心の団体であるということを強調する ための名称だと考えられる。

中華医学会は, 最初から博医会と密接な関係にあり, 運営方式や 会員規約などの面において, 博医会の影響を受けていた。 各支会を 基礎として運営されたことや, 会員が3人以上であれば支会が設立 できること, 大会の開催などは, 博医会と同様だった。 中華医学会 は, 陰暦の正月に年会を開催することを決定したが, その目的は, 各地域で活動している人々が一箇所に集まり交流し, 個人で解決で きない問題について相談することにあった(34)

博医会は中華医学会の創立に大きな関心を示した(35)。 伍連徳は 1915年発行の に, 中華医学会の設立を知らせる記事を書き, 博医会の医療宣教師が中国人助手たちにこのことを周知させるよう に要請した。 また, 1916年発行の の編集者は, 中国人西医ら 多くはミッション系医学校で学んだ人 が, 国民の健康や福 祉の問題を自ら解決するために団体を結成したことに, 「すべての 医療宣教師は深く満足している」 と評価した。 中国への西洋医学の 伝播を目標に掲げていた博医会にとって, 中華医学会の設立は, そ の目標がある程度達成されたことを証明する出来事であった。

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(2) 姉妹協会としての協力関係

博医会と中華医学会は, その親密な関係から姉妹協会 (

) ともいわれた(36)。 「中華医学会宣言書」 には, 学会設立の 目的として 「中国と西洋医学界の連絡」 が挙げられており, その中 には次のような文章が見える。

今日, わが国が西医を得ることができたのは, すべて諸教会に よる 西洋医学 導入の御蔭である。 真に公益のために熱心で, 豊かな経験を持つ各教会と力を合わせ協力すれば, 今後いかな る難問がふりかかろうとも容易に解決されることだろう(37)。 このように中華医学会は, 医療宣教師との協力を重視していた。 一 方, 博医会の西洋人医療宣教師たちも, 中華医学会との協力が必要 であることをよく認識していた。 1916年にビービは, 両協会が可能 な限り友好的で有益な関係を構築しなければならないと述べ, 翌年 の大会が中華医学会と合同で開かれるべきことを主張した(38)

こうした博医会の提案に中華医学会も賛同し, 1917年1月24日か ら31日まで合同大会が広州で開かれた(39)。 この大会には全部で800 余人が集まり, 医療問題については両会が合同で討論し, 会務につ いては別々に議論が行われた(40)。 この会議での重要な議題は, モ ルヒネ輸入の厳禁及び中央医事行政部の設立を政府に要請すること であった(41)

1920年2月21日から28日まで開催された博医会大会では, 23日か ら26日の夜に中華医学会との合同会議が行われ, 医学教育や衛生, アヘン問題などについて議論した(42)

また, 医学用語の翻訳も, 両会が協力して行った。 1915年2月12 日, 博医会の医学用語委員会(43)は江蘇省教育会と会談を持ち, 医 学用語の翻訳においてどのように協力していくかについて議論が行 われた。 この会談で決められたのは次の各事項である。

1. 各地の同志は各所在地で医学研究会を組織することを提唱 すべきである。 ……設立後は本会に通知し, 用語会の代表であ るコスランにも報告する。 2. 各地の医師の医学用語に関する 著作や意見書を集めて本会に送付し, コスランにも転送する。

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3. コスランに修正を加えた医学用語表を本会に送るように要 請する。 またそれを各地の医学校や学会に送り, 共同研究を行っ て意見を発表する。 4. 各種意見を集めてから, 中医や西医, 科学者を招聘し, 今日のように会議を開いて議論する。 その後 政府に要請して人を派遣してもらい, 共同して用語を審査・決 定する(44)

続く第二次談話会は1916年1月16日に, 第三次談話会は1916年2 月12日に開かれた。 第三次談話会には博医会と江蘇省教育会だけで はなく, 中華医学会や中華民国医薬学会(45)の代表者, および江蘇 省医学専門学校校長や浙江省医薬専門学校校長なども参加した(46)。 博医会と江蘇省教育会の談話会がきっかけとなり, 博医会・中華 医学会・中華民国医薬学会・江蘇省教育会の四つの団体が連合して

結成した 「医学用語審査会 ( )」

は, 1916年8月7日から14日まで第一次会議を開催し, 解剖学, 骨 学, 脳学や神経学, 無機化学などに関する用語について討論した(47)。 第二次会議は1917年1月11日から17日まで開かれ, 一次会議に参加 した四つの団体以外に, 理科教授研究会も参加し, 解剖学および化 学用語等に関して討論した(48)。 審査会は8月27日教育部から正式 に認定され, 審査会で決められた用語は政府から公式の訳語として 認められることとなった(49)

1918年医学用語審査会は 「科学用語審査会」 と改称し, 医学用語 にかかわらず, さまざまな科学用語についても翻訳作業を進めた。

1922年中華医学会大会において兪鳳賓は, 科学用語審査会が7年間 活動を続け, 10 000を超える用語を扱ったと発表した(50)。 科学用 語審査会の医学用語組は, 1929年博医会大会に開催した会議を最後 に幕を閉じた(51)

博医会は審査会の中で唯一の外国人中心の団体として, 医学用語 を翻訳する際に独自の役割を果たしていたといえよう。 また審査会 の設立に主導的な役割を果たし, 審査会の活動の大きな部分を担当 した人物がコスランであったことから, 博医会の医学用語委員会で 行われた作業が, 審査会にも大きな影響を与えた可能性が高い。

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両会は医学用語の翻訳作業以外にも, 医療教育などさまざまな面 で協力した。 1929年, 博医会の会長胡恵徳は, 助産師の教育問題を 解決するためには中華医学会との協力が重要であると強調し, 両会 がより親密な関係になるために委員会会議などを一緒に開催しなけ ればならないと主張した(52)。 1929年の大会記録によると, 両会は 助産師問題共同委員会 ( ) を設置し, 助 産師の教育問題への協力を求めた(53)。 そのほか博医会が1915年に 設立した医学教育委員会 ( ) も中華医学会 と協力しており, このような両会の協力関係は, 中国の医療教育に 大きな影響を与えたと思われる(54)

4 新しい中華医学会の誕生

(1) 中華医学会との合併

博医会と中華医学会の合併問題は1930年中華医学会大会の宴会に おいて初めて議論された(55)。 両会は1932年4月に上海で合同大会 を開いて合併問題を議論しようとしたが, 日本軍の上海侵攻のため 中止となった。 結局両会は郵便を利用した投票を行い, 多数の賛成 票を得て合併することが決定された(56)。 その結果, 1932年4月15 日, 両会の執行委員会は博医会と中華医学会の合併を正式に宣言し た(57)。 この合併について 中華医学雑誌 では, 「その後, 中国を 代表する唯一の医療団体がついに誕生した。 さらに称讚されるべき は, 本会で外国籍会員が約三分の一を占めることである。 国籍の観 念を捨て, 中国と外国の学者が一堂に会し, 共に学術研究をする。

真に盛事だと言える(58)」 と評価している。 新協会は中国名を 「中

華医学会」, 英文での名称を とした。

両会の会員は自動的に新しい協会の会員となった。 新協会の中には

「教会医事委員会 ( )」 が設置された。 この 教会医事委員会は, ミッション系医学校との連絡, 中国教会との連 絡などの事業を担当することとなった(59)。 さらに中華全国基督教 協進会も, 教会医療伝道事業の管理を教会医事委員会に委託してお り, この委員会は中華全国基督教協進会と中華医学会の架け橋とし

(14)

ての役割も果たした(60)

ところで, 雑誌の合併に関する議論は, 協会の合併に関する議論 より前に行われていた。 1922年に の編集者は, 英語版医学雑 誌の科学的な価値を高める一方, より多くの支援や参加者を確保す るための方法の一つとして, 雑誌の合併を提案した(61)。 1931年, 両会は と 中華医学雑誌 の英語版との合併版を1932年1月 から発行することを決めた。 合併版は,

と名づけられた(62)

博医会が中華医学会と合併した後, 博医会が行っていた医学用語 の翻訳及び医学教育の主導権は, 医療宣教師から中国人へと移った。

一方, 博医会の医療宣教師らは新しい中華医学会に残り, 中国人と 協力して中国医療の発展に努める道を選んだ。 博医会による医学用 語の翻訳事業や医学書出版, 医学教育などの事業は, 中華医学会に よって継承された。

(2) 合併の要因

博医会と中華医学会の合併の原因としては, まず1922年以降強まっ た反キリスト教運動やナショナリズム, それらに触発された 「本色 教会」 運動の影響が挙げられる。 20世紀に入ってから, 中国人基督 教信徒の数は徐々に増加し, 中国人聖職者の影響力も明らかに強まっ た(63)。 このような動きから, 教会医療伝道事業での土着化も加速 した。 1925年発行の に掲載された中国ナショナリズム関連記 事では, 従来ミッション系機関の管理を部分的に担当してきた中国 人教徒が, これからは機関全体を統制, 運営することになるはずで あり, またこのことが医療宣教師の目標だと述べている(64)。 但し この記事の著者は, この目標が達成されるためにはまだ解決すべき 課題が残っていると考えていた。 この問題においてマクスウェルは, まず中国人医師や教授の数を増やすことや, 中国教会が十分な財源 を確保することが必要であると主張した(65)。 そこにおいて医療宣 教師の役割は, 中国人医師の手本となることであった。 一方で彼が 土着化を支持した理由の一つは, 中国人を対象とした伝道活動の場 中

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合, 中国教会・中国人が担当したほうが良いと考えたからである。

しかし実際に教会医療伝道事業の土着化は, 医療宣教師の予想よ り速く進んだ。 1926年からは南京国民政府の影響によって, ミッショ ン系病院や医学校において中国人を院長や校長として任命しようと する動きが本格化し, 職員のなかでも中国人の数が増えつつあっ た(66)。 それによって, 医療や教育における中国人の役割はより大 きいものとなった。 王吉民らはこのような変化について, 最少の費 用で最大の成果が得られるようにしたものと評価し, その象徴的な 出来事として と の合併を挙げている。

また1927年には激化する反キリスト教運動や北伐戦争の影響によっ て多くの外国人宣教師が任地を去ったが, その間に教会関係事業の 責任が中国人キリスト教徒に移された事例が少なくなかった(67)。 マクスウェルによると, 当時外国人責任者の不在によって一時的に 病院の運営が中国人に任されたものが約37%に至った(68)

このような中国国内における政治的混乱は, 欧米の支援者にも影 響を与え, 医療宣教師として派遣を希望する者は少なくなった。 ま た不景気による財政悪化に悩んでいた宣教団体としては, 新たに医 療宣教師を派遣するより, 中国人に医療伝道を任せることが望まし かった(69)。 結局のところミッション系病院のなかで中国人西医や 看護師への依存度は高くなったのである。 レノックス (

) の報告によると, 1930年までミッション系病院での中国人 西医の比率は徐々に増加し, 1920年には55%, 1925年には57%, 1930年には67%に至った(70)。 看護師や助手まで含めると, 医療活 動の担い手の中で, 中国人の割合は相当大きな部分を占めるように なっていた。

博医会内部においても, 中国人会員の影響力が徐々に強まっていっ た。 1928年にはファウラー ( ) 会長の引退により, 当時 副会長であった胡恵徳 ( ) が会長代理となった。 翌年, 彼は会長に正式に任命され, 中国人として初めて会長となった(71)。 胡は, 1929年発行の の記事で, これから博医会における中国 人会員の数は圧倒的な割合を占め, 博医会の運営は中国人にゆだね

(16)

られるようになるはずだと述べている(72)。 また, 伍連徳も, 1930 年の中華医学会大会において, 「古い協会」 すなわち博医会の代表 者らは, 全医療分野で活動する中国人西医が大きく増加し, 医療に おいて主導権が中国人に移ったことを認め, このような変化を歓迎 したと述べている(73)。 つまり伍連徳からみると両協会の合併は, 中国における西洋医学の担い手が医療宣教師から中国人に変わって いく過程の完成を意味する出来事であったのである。 実際に当時中 国全土で活動する中国人西医は約4 000人であり, 医療宣教師の13 倍を越えていた(74)

今までの先行研究ではあまり強調されてこなかったが, 医療宣教 師ら自身も早くから自分たちの役割を中国人が代替すべきだと考え ていた。 たとえば1913年の博医会大会でクリスティーは, 医大や病 院を設立する目的とは, 中国人有資格医師を教育・訓練し, 中国に おいて高い水準の医療を提供するためであり, 医療宣教師は恒久的 な外国の機関を設立しようとする意図はなく, このような医大は究 極的には中国人によって運営されるべきだという決議案を提出し た(75)。 また, 1919年刊行の では, 医療宣教師は中国教会の独 立を支持すべきだとしながら, 日本人医師が自国民を治療している 日本のように, 中国人医師が医療事業を引き続くまでの一時的な委 託者に過ぎないと述べられている(76)

一方1927年における南京国民政府の樹立を画期として, 中国の医 療を主導する中心が, 西洋人宣教師から中国政府に移行したことは 先行研究において明らかになっている(77)。 南京国民政府は1928年 10月に中央衛生行政機構である衛生部を設置し, 医療衛生の制度化 を推進したが, そのためにはまず医学界を統一することが必要だと 考えた(78)。 実際に1927年上海の衛生局は, 医薬団体の登録制を実 行して医薬団体の統制・管理を試みる一方, 各医薬団体を通して医 療・衛生事業を推進しようとした(79)。 伍連徳は次のように述べて いる。

これによって中央政府が, すでに最新の医療事業・衛生事業を 救国のための重要な手段として厳重に実施・採択したことが, 中

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貞 恩

(17)

十分に証明され, 富国強民という目的が達成されることが期待 される。 医療事業・衛生事業を整理するには, まず全国の医学 団体を集め, 一致団結させて, はじめて成果が得られる。 こう してついに, 医権 医師としての権利 の統一が決意された(80)。 続いて彼は, 中華医学会や中華民国医薬学会, 博医会の合併によっ て, イギリスの 「イギリス医学会」 やアメリカの 「アメリカ医学会」

のように, 中国を代表する 「中国医学会」 が成立すれば, 中国の医 療を鞏固な基盤の上に置くことができると述べ, 外国人が設立した 医学団体 博医会 は, 中国での医療問題などを十分に解決できな いと主張した。 つまり, 中国を代表する医学会になろうとした博医 会の希望は, 伍連徳からは歓迎されなかった。 また彼は, 「国民政 府の衛生部は以前から, 各種医学団体がよく連絡を取り合って一致 し, 政府が単純化された組織に対処すればよいようにし, 統一の成 果を収められるよう, 切に希望してきた(81)」 と述べ, 中華医学会 の会員が衛生部の次長や部長を担当しているので, 中華医学会が全 国医学界の中心になるべきだと主張した。 中華医学会は, 元会長で あった顔福慶や劉瑞恒らが衛生部の部長を歴任し, 中華医学会の会 員が衛生部の要職を担当していたため, 中国での医療・衛生行政で 主導的な地位を占めていた(82)。 つまり中華医学会の会員らは, 政 府の医学団体統制の動きのなかで, 自分たちの権限をより拡大する ため, 本会がその中心になるしかないと考えたのである。 中華医学 会が1930年, 国籍にかかわらず有資格医師であれば加入できるよう に会員規約を変えたのも, より多くの会員を取り込み, 医学界の中 心になるためであった(83)

また 「医学会合併」 にも 「数年以来, 医学界の先覚者たちは, 国 内の医学団体が連合し, 正式に全国の医学界を代表する機関が成立 するのを助けるべきだと盛んに主張した。 これによって, 中華医学 会と中国博医会の合併に関する議論が遂に起こったのである(84)」 と述べられている。 当時中華医学会の会長であった牛恵生も, 1932 年の大会演説で 「中国の医学関係の団体にはよけいな機関が多く, 医学界全体が四分五列し, 対内的にも対外的にも困難を感じる。 甚

(18)

だしきに至っては一人の会員が, 二つの医学会に属し, その二つの 医学会の主張が鋭く対立するようなこともある。 このような現象に ついて有識者は早くから深憂にたえなかった(85)」 と合併の背景を 説明している。 ここで 「二つの医学会」 とは, 中華医学会と中華民 国医薬学会のことを指すと思われる。 このような医学界の派閥問題 は, 主にアメリカやイギリスに留学した医者と, ドイツおよび日本 に留学した医者との反目によって生まれた。 当時アメリカ・イギリ スとドイツ・日本の間には, 教育制度や衛生組織などさまざまな面 で意見の衝突があったため, そこから対立が生じたと思われる(86)。 またそれは, どちらが政治的な権力や発言権を獲得できるかの問 題とも直結する。 李涛は, 近年の中国医学界の最も大きな恥辱は, 英米派と独日派などに分裂していることだと指摘し, 中華民国が完 全な独立国として学術方面でも独立するためには, 英米派や独日派 ではなく, 中華派を創立すべきだと主張した(87)。 しかし, 1928年 から議論されていた中華医学会と中華民国医薬学会の合併は挫折 し(88), 両会の対立状態は1932年に博医会と中華医学会が合併する 時点においても続いていた。

お わ り に

以上見てきたように, 1907年から1925年における博医会の活動方 針の変化には, 医療宣教師内部における要因と外部における要因が 絡み合っていた。 医療宣教師内部における議論からみると, 彼らに とって雑誌名や協会名の変更は, 宣教師と医師という二つの顔を持 つ自分たちのアイデンティティに深く関わる問題であった。 当時の 医療宣教師らは, 福音伝道と医療の両立を重視しながらも, 実際は 医療活動に多忙なあまり, 伝道活動は同僚聖職者に任せることが多 く, 医療宣教師の活動は医療及び医学教育に集中していった。 この ような医療宣教師の戦略の変化は, 博医会にも影響を与えて, なる べく宗教色を出さず, 医療活動に集中する方向に移行していくよう になった。 もちろんそれはミッション系団体としての性格を完全に 排除することを意味するわけではなかった。

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(19)

医療宣教師の外部における要因としては, 1915年に中華医学会が 設立されたことが挙げられる。 中華医学会をはじめとする様々な医 療団体が生まれていく中で, 博医会においても, 果たして医療宣教 師のみからなる団体であり続けるべきかという問題意識が高まって いた。 そこには, 1920年以降拡大していた反キリスト教運動やナショ ナリズムの影響もあった。 このような内的・外的要因の影響によっ て, 博医会は雑誌や協会の名称を変更し, 医療活動中心の医学団体 として, より多くの会員を受け入れようとしたと考えられる。

博医会と中華医学会の合併は, 1907年からの博医会の一連の変化 の延長線上に位置づけられる。 博医会の宗教色が強いままであった ならば, 医学団体として中華医学会との合併に至ることができなかっ たはずである。 合併の原因としては, 「本色教会」 運動が拡大され たことや, ミッション系病院・医学校において中国人の影響力が強 くなったことが挙げられる。 また, 中華医学会の立場からみると, 国民政府との協力を図る中で, 影響力を強めつつあった中華医学会 を中心に, 医学界を統合しようという目的があった。

博医会と中華医学会の合併は, 教会医療伝道事業の土着化過程が 最もよく表れた出来事である。 医療宣教師は比較的に早い時期から, 自分たちの役割を中国人が代替するべきだと考えていた。 そこで医 療宣教師が志向していた土着化は, キリスト教会の慈善事業として の性格を維持した形での土着化であり, そのためにまず必要なのは, 中国で資金と人材を確保することであった。 しかし, キリスト教と は関係ない中国人西医の増加, 反キリスト教運動やナショナリズム の影響のなかで, 教会医療伝道事業の土着化は医療宣教師の予想よ り速く進んだ。 このような時代背景のなかで推進された博医会と中 華医学会の合併は, キリスト教会との断絶を意味しているように見 えやすいが, 実際のところではそうでもなかった。 それは, 新しい 中華医学会が教会医事委員会を設置し, 医療宣教師が求めていたキ リスト教会の慈善事業としての性格を維持した土着化にも留意して いたことからわかる。

(20)

(1) 中国医療伝道協会の設立や初期の活動については, 拙稿 「中国医療

伝道協会 (1886〜1907)」 (

37, 2012年) を参照されたい。

(2) 山本澄子は, 特に中国人信徒に焦点をあてつつ中国教会の自立運動 や 「本色教会」 運動を考察している。 山本澄子 中国キリスト教史研究 増補改訂版 (山川出版社, 2006年)。

(3) 李伝斌 「非基督教運動時期的教会医療事業」 (劉天路編 身体・霊魂・

自然――中国基督教与医療, 社会事業研究 , 上海人民出版社, 2010年)。

(4) 劉遠明 「中華医学会与民国時期的医療衛生体制化」 ( 貴州社会科学 2007年6期)。 同 「中華医学会与博医会的合作及合併」 ( 自然弁証法研究 2012年2期)。

(5)

1990 19.

(6) 李尚仁 「展示・説服与謡言 19世紀伝教医学在中国」 (林富士主編 宗教与医療 聯経, 2011年) 367 368頁。

(7) 19世紀末から20世紀初期に社会福音運動が中国社会に受け入れられ てゆく過程については, 蒲豊彦の研究を参考されたい。 蒲豊彦 「キリス ト教と近代中国社会 魂の救済から社会の救済へ」 (ひろたまさき・横 田冬彦編 異文化交流史の再検討 日本近代の 「経験」 とその周辺 , 平凡社, 2011年)。

(8)

( ) 1907 248 251

クリスティー (矢内原忠雄訳) 奉天三十年 下巻 (岩波書店, 1938年) 295 298頁。

(9)

( ) 625 ( 1 0 )

1 1887 32 (11)

1861 中

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貞 恩

(21)

(12)

( )

1877 127 (13)

3 1908 178

(14) 3 1910 43 51

(15) 4

1915 241 243 1925

6 534 553 (16)

11 1906 625

(17) 3 1907 130 131

3 1907 153 154参照。

(18) 4 1907 221

(19) この内容は 申報 にも紹介された。 「博醫學會大會記」 ( 申報 1923年2月19日)。

(20)

3 4 1923 263 264

(21) 3 4 1923 300

301 (22)

1924 (23)

12 1925 1148 1149

(24) 1923年の議論では, 博医会の名称や会則は変えず, 独立した中国医

療協会 ( ) を組織するほうがよいのではないか

という主張もあった。 しかし, すべての利益や名望はひとつの協会に集 中すべきであり, 医療宣教師も別々の二つの協会で活動するような時間 も資金もないという理由で, この主張は支持を得られなかった。

(22)

[6] [7]

(25) 1937 97

(26)

[4] [5]

(27) [ ] 1925

1925 301 302 (28)

1 1915 23

(29) 兪鳳賓

1 1915 30 31

(30) 「中華醫學會定期開會」 ( 申報 1916年2月6日)。

(31) 「中華醫學會宣言書」 ( 中華醫學雜誌 1巻1期, 1915年) 50 52頁 22 25

(32)

1 1915 26

(33) 秦国攀 「中華医学会研究 (1915 1937)」 (河北大学修士論文, 2010年) 16 17頁。

(34) 「中華醫學會在上海擧行第一次大會預定日程」 ( 中華醫學雜誌 1巻 1期) 56頁。

(35) 伍

6 1915 406 408 2 1916 111

(36) 伍

2 1917 123

(37) 「吾國今日得有西醫, 皆 會 入之力也。 ……苟能得熱心公 , 富 於經驗之各 會 力合作, 則前 一切疑 問題當不 刃而解」。 前掲註 (31) 「中華醫學會宣言書」 52頁。

(38) 3 1916

194 195 3

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(23)

1916 347

(39) 兪鳳賓 「中華醫學會第二次大會記」 ( 中華醫學雜誌 3巻1期, 1917 年) 3頁。

(40) 陸樹基 「第二次大會記 」 ( 中華醫學雜誌 3巻1期, 1917年) 4 12頁。

(41) 中央医事行政部については ( , 2008

年) 70 72頁を参照。

(42)

1920 5 1920 416 449

(43) 申報 など中国語文献では 「医学名詞審査会」 となっているが, 中 国医療伝道協会の医学用語委員会のことである。 前掲註 (1) 拙稿 「中 国医療伝道協会 」 224 233頁を参照。

(44) 「一 各地同志應各就 在地提唱組織醫學研究會。 ……成立後 知本 會, 轉告名詞會代表高君。 二 徴集各地醫家關於醫學名詞之著作以及對於 醫學名詞之意見書 會。 傳送高君。 三 應請高君將修正之醫學名詞表 會。

傳 各地醫學校學會, 共同研究以發表意見。 四 後集得各種意見, 再邀中 西醫士及科學家, 如今日 法開會討論。 後公同呈 政府派員會同審定」。

「江蘇省 育會審査醫學名詞談話會記事」 ( 中西醫學報 1915年3月8期) 5 6頁 申報 1915年2月21日。

(45) 1915年8月に成立, 創始者は湯爾和。 メンバーはドイツと日本で留 学した医師および北洋医学堂と陸軍医学堂の卒業生。 設立初期のメンバー は中華医学会より多かった。 1923年から 中華民国医薬学雑誌 を編集 出版した。 この雑誌は1933年 東方医学雑誌 に改名している。 中華民 国医薬学会は北京政府の時期には教育部に対して大きな影響力を持って おり, 衛生行政を左右する存在となっていた。 姚毅 近代中国の出産と 国家・社会 医師・助産士・接生婆 (研文出版, 2011年) 109, 142頁。

その後, 会員数はあまり増加せず, 1926年時点で中華民国医薬学会の会 員は120余人。 同時期, 中華医学会の会員数は540 600余。

1973 359

(24)

(46) 兪鳳賓 「醫學名詞第三次談話會記事」 ( 中華醫學雜誌 2巻1期, 1916年) 39頁。

(47) 「醫學名詞審査會記略」 ( 中華醫學雜誌 2巻3期, 1916年) 2 3頁。

(48) 「醫學名詞審査會開會記 」 ( 中華醫學雜誌 3巻1期, 1917年) 17 18頁。

(49)

1 1918 44

(50) 王吉民 伍

1932 574 (51)

10 1932 1127

(52) 2 1929 159

(53) 2

1929 149 (54)

1925 320 321

(55) 伍 ,

1 1932 87

(56) 博医会の場合には賛成が254票, 反対票はなし。 協会名称を変えるこ とに反対した人が2人, 次の大会で決定することを主張した人が一人。

中華医学会は多数が賛成した。 「中華醫學會・博醫會執行委員會聯席會議」

( 中華醫學雜誌 18巻3期, 1932年) 509頁。

(57) 「醫學會合 」 ( 中華醫學雜誌 18巻3期, 1932年) 493頁 前掲註 (56) 「中華醫學會・博醫會執行委員會聯席會議」 509 510頁

86 88

5 1932 535

5 1932 538

1932 1933 476 477 (58) 「從此代表中國唯一之醫學團體, 形産生。 此外 有可稱 , 本 中

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(25)

會外籍會員約 占三分之一。 免(ママ)去國籍觀念, 中外學 相聚一堂, 共 學 術。 誠盛事也」。 前掲註 (57) 「醫學會合 」 493頁。 英語版には総会員1 500 名, 外国国籍の会員は2分の1であると書いてある。

(59) 1937 98

(60) 王吉民 「 會醫事委員會小史及任務」 ( 會醫事委員會會刊 創刊 號, 1950) 2頁。

(61)

3 1922 274 275

(62) 10 1931 1000

1001

(63) 顧衛民 基督教与近代中国社会 (上海人民出版社, 2010) 339頁。

(64) 9 1925 811

(65) 馬雅各 「一九二五年中及以後之 會醫務 況」 ( 中華基督 會年鑑 12, 1927) 68頁。

(66) 597

(67) 1927 359

(68) 3

9 1927 810 (69)

1988 46 (70)

5 1932 493

(71) 1 1928 43;

152

(72) 160

(73) 87

(74) ( )

1933 432

(75) 2 1913 66

(26)

(76) 5 1919 461

(77) ラルフ・ クロイツァー (難波恒雄・難波洋子・大塚恭男共訳) 近 代中国の伝統医学 なぜ中国で伝統医学が生き残ったのか (創元社, 1994) 61頁。

(78) 国民政府期の衛生行政及び衛生部の官僚については, 飯島渉 ペス トと近代中国 (研文出版, 2000年) 289 314頁及び前掲註 (45) 姚毅著 書, 160 168頁を参照されたい。

(79) 「市衞生局 理醫藥團體註册規則」 ( 申報 1927年12月8日)。

(80) 「於此足徴中央已 行採擇最新醫業衞生爲救國之 , 以期 富國 民之目的。 然苟欲整頓醫業衞生, 當先薈集全國醫界團體, 使其團結一致, 始克有成。 有統一醫權之決議」。 伍 「醫學會亟宜統一論」 ( 中華醫 學雜誌 15巻5期, 1929年) 457頁。

(81) 「國民政府衞生部前曾切實 望, 我國之各種醫學團體能 絡一致, 俾 政府得對付單純之組織, 而收統一之效」。 伍 「本會之將來」 ( 中華醫 學雜誌 15巻6期, 1929年) 567頁。

(82) 衛生部には中華民国医薬学会の関連者も多く参加していたが, 彼ら はほとんど単純な技術職を担当しており, 衛生行政への影響力は弱くなっ ていた。 尹倩 「分化和融合 論民国医師団体的発展特点」 ( 甘粛社会 科学 2008年2期) 24頁。

(83)

3 1930 269 「中華醫學會第七日記」 ( 申報 1930年2月10日)。

(84) 「數年以來, 醫學界先覺多主張國 各醫學團體聯合, 助成一眞正能代 表全國醫界之機關。 因之中華醫學會與中國博醫會合 之議 起」。 前掲註 (57) 「醫學會合 」 493頁。

(85) 「中國醫事團體 枝機關不一以足, 以整個之醫界四分五裂, 對 對外 胥感困 ……甚至同一會員, 而隸屬於兩個醫會, 而此兩個醫會其主張又 極端矛盾 , 此種現象, 有識 , 早引爲深憂」。 牛惠生 「大會會長牛惠生 大會演詞」 ( 中華醫學雜誌 18巻5期, 1932年) 876頁。

(86) 前掲註 (82) 尹倩論文, 24頁。

(87) 李濤 「現在我國醫界應有之覺悟」 ( 中華醫學雜誌 16巻4期, 1930 年) 242頁。

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(27)

(88) 前掲註 (57) 「醫學會合 」 493頁。

(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程) 東

参照

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