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六・三・三制と
リカ教育使節団報告書
アメ
,、」二‑‑7'
肩 胃
後土持ゲーリ一法一
はじめに
一九四六年三月三O日︑連合国軍最高司令官マッカlサ
ーに提出され︑同年四月七日公表された﹃第一次アメリカ
教育使節団報告書﹄は戦後日本の教育改革を方向づけるの
に決定的な役割を果たした︒なかでも基本的な意義をもっ
たのは︑学校制度の改革であって︑使節団が勧告した六・
三・三制の改革案は画期的なものであったといえる︒しか
し︑この六・三・三制がどのような経緯の下で﹃報告書﹄
のなかで勧告され筒Yいたつたのかについては今日まで明
らかにされていない︒そこで︑本論では︑これまで未公開
だった﹁ワナメーカー文書﹂などの資料を中心に︑さらに
筆者が最北ぬこなった元アメリカ教育使節団員らとのイン
タビュー証言をもとに︑六・三・三制の成立事情の具体的
な経緯について実証的に解明しようとするものである︒
‑7i ‑
一︑アメリカ教育使節団は﹃報告書﹄提出の
一週間前まで六・五制であった
まず︑使節団はどのような戦後の学校制度の勧告を検討していたのだろうか︒
この学校制度の問題を検討していたのは︑使節団の第三
分科会﹁初等・中等学校における教育行政﹂であって︑A・J・ストッダl
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丘)を委員長に︑イlピ
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C顧問によって構成されていた︒こ
の分科会が一一一月二三告にニ五貰の内報告書﹄を完成し︑三O部のコピーが準議されたことがこの分科会の執筆担当委
員であったギブンス胆員の自記﹁トウキョウ・アンド・リハ
4v
タiン﹂のなかに記録されており︑学校制度を課題とした
第三分科会の﹃報告書﹄があったことは判明していたが︑
その所在は明らかでなかった︒しかし︑一九八一一一年二月︑
筆者はアメリカ諜査のさい︑この叫報告書hを﹁ワナメー
カー文書﹂のなかに発見することができた︒
驚くべきことに︑この﹃報告書﹄T
は六
・
27
三制の学
校制度を勧告していたのではなく︑中ハ・五割という議時お
こなわれていた日本の学校制度をそのまま戦後の学校制変
として勧告していたのである︒それは単に現存の学校制度
をそのまま継続させるのではなく︑使節自がそれまでおこ
なったワシントンでの敦府関係者との予備会議︑ハワイ・
グアム?の準備過程などにもと@ついて︑日本の伝統的な学
校制度をそのまま保存した上で︑その制度を民主化すると
いう方針に立った勧告であった︒すなわち︑第一一一分科会のハ5﹀﹃報告書﹄はつぎのような勧告をしているのである︒
ヱハ年制の小学校は完全に無欝で義務制でなければなら ない︒その教育計酉は生来の能力会熱心に啓発しようと心がける鐘康で活動的で思索的な市民となり︑︑ますます自由な社会において将来地設をしめるように︑子どもを準備するものでなければならない︒
我々は︑少女が少年と精神的に全く同じであると確脅
する︒それゆえ︑我々は学校に共学が導入されるべきで
あると勧告する︒我々は︑五年制中学校QZK
雲町
一芸
・ 在 一 om wo rc
一﹀が共学棋とな歩︑すべての少年少女に利用o
でき︑そこでの子どもにかかわる一切の授業料は無費と
しなければならないと勧告する︒我々は︑最初の一一一年間
すべての子どもは義茅就学でなければならないと勧告す
る﹂
︿鐸
点鎮
者﹀
ここでは︑六・五制は無償e共学とすべきこと︑このうち九ヶ年義務棋とすべきことが明記されているのであ一句
では︑一体なぜ第三分科会は六・五割の学校制度を勧告
した のだ ろう か︒
じつは︑使館団が来日する直前︑日本側でも学制改革に
たいする積標的な動きがあった︒周知のように︑六・五制
は一九四三年ハ昭一八﹀一月一二時の﹁中等学校令﹂︿修業
年接四年﹀以前の制度である︒
戦後︑一九四六年一月三
OB
︑山時窪轄文部次官誌︑戦
時の特例を改め︑出制中等学校五年制︑旧制高校三年制を
それぞれ復活させること︑またそのための予算見積9が準
78 ‑
議されていることをCIEに報告している︒このような文
部省側の積撞的な動きで︑同年二月一⁝ニ日の勅令第一01
号﹁中等学校令改正等ノ持いによって﹁四年﹂を﹁五年いに修
正︑問自六・王制が施仔された︒すなわち︑使節団が来日
した時︑日本は六・五制を護活・実錯した直後であった︒
六・主棋を勧告した背景に誌︑使館自がどのような学制
改革にたいする態震で来日したか︑ということと関連して
くると思われる︒
アメリカの戦後日本位たいする基本政策は﹁ポツダム宣
言﹂に顎記された条項﹁日本政府ハ詩本国国民ノ間ニ於ケ
ル民主主義的傾向ノ復活強先日⁝対スル一切ノ障療す除告ス
ベシいであって︑アメリカ側政策担当者凶作戦前日本に民主
主義的傾向が存症していたとし︑その民主主義的額向の
﹁復活強化﹂を最重要視していた︒当然使節自の蒋えもこ
の基本政策案に給ったものであった︒現に︑第一次アメヲ
カ教育使館団派遣に関するワシントンの最高責を者であっ
たベントン間務次官補ハ巧京支出回
gg
るは︑日本に出発する使節団を請に﹁使諮問の任務は︑基本的には吋ポツダム
茎=ロ﹄に表明された連合国出品句月間が最大設に実現されることである﹂と蹟言をしていた︒
また︑アメリカの戦後対日教育政策作成上の中心的立場
比九
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5 ﹀も﹁日本における教育制
震いと題するメモランダムのなかで﹁民主教育に妨害的な ︑望ましい改革を導入することによって国の
基本目的を達成するために可誌な寄与と援助ができるよう
に詩本の教育が再編︑発展︑料用されること﹂と﹁ポツダ
ム{ 紘一 一商
﹂を 要約 し︑ この 目的 を達 成す るた めの 特別 な改 革
として︑教育の機会均等の増大︑中等および高等教育機関
の増加︑教育制度の地方分譲化︑男女共学などを明記して
いる︒また︑これらの改革案を勧告する際は﹁号本におけ
る教育改革は岡本人が望ましい改革だという信念に基づか
ない鍛り永久的なものとはならないだろう︒それ故︑改革
はできるだけ員本人が受庁入れるような方法でなされねば
ならない﹂とアメリカ傑の押しつけが無意味であることを
警告 して いる
︒
日本人の主体性を霊視する考え方は︑当時のワシントン
における政策者たちの一致した見解であ夢︑ワシントン会
議士九四六年二月一八段﹀では使箆団員に東京側の最新情
報の予犠知識
えたスポルヂイング睦縞大住(前筆者E J
情報 教脊 蕗教 宵課 長! の巳
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弘 司H
・∞ 官三 込山 口巴 が﹁ 日本 人を
無視した改革を強髄するのではなく︑必喪な改革をする擦
には日本人自身を活かすことが我々の政策である﹂また︑
﹁員本の教育頼度は戦時中北継端な主義主張の問的北使用
されたが︑民主的な目的のためにも利用できる劉面が為る︒
従って︑自本の教育制度を全面的に排除して強の制度と聾
き蛾えるのではなく︑それを複元(剛山
22
40 込﹀できるかど
79ー
うかを検討することが重要である﹂と意見を述べている︒
以上のことから︑使節団のガイドラインは﹁ポツダム宣
言﹂の枠のなかで検討されていたことがわかる︒また︑﹁ポ
ツダム宣言﹂の条項を履行することは日本側の主体性を尊
重し︑それを助長することにほかならなかった︒このこと
は︑学制改革にたいしても使節団が一方的に勧告するので
はなく︑日本人に助力していくという間接的な態度をとる
ことが要求されたのである︒
さらに︑使節団は来日の途中︑
一九 四六 年三 月一 日︑
ヒルガード教育使節団員,スタンフォード大学
の彼の研究室にて (1984年7月23日〉
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ノ、
ヮ釘マ親日派や日系人から日本の教育についての講義を受けた︒これは﹁ハワイアン・ノート﹂といわれているが︑こ
のなかでもっとも注目すべき提言は戦前の日本で宣教師を
していたギルパlト・ボl
ルス
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ルス団員の実父)の﹁日本教育制度の再建に関するノl
ト ﹂
である︒彼は﹁新学校制度は伝統的な日本の学校制度の価
値を利用すべきである﹂と使節団が六・玉制を勧告するこ
とを暗に示唆しているのである︒
上記の文献資料のほか︑筆者は﹃報告書﹄に学校制度の
勧告をした当事者である使節団員にインタビューして︑こ
の問題を究明してみた︒まず︑使節団の事務局長格で日本
の学校制度にも精通していた国務省のボールスは﹁どのよ
うな学校制度を勧告するか︑というような政策にかかわる
問題は使節団の関与すべきことではないものと理解してい
ました﹂と証言している︒また︑﹃報告書﹄作成のなかで︑
とくに学校制度の問題について重要な鍵をにぎっていたと
思われるヒルガード団員は﹁使節団としては学校制度の改
革に対して関与すべきではない︑という態度をとっていま
した︒これらの問題は日本側が決定すべきでありました﹂
と述 べて いる
︒
この第三分科会の﹃報告書﹄の作成に直接かかわり︑そ
の文書を所蔵していたワナメーカー女史は︑どうして六・
玉制のもとでの勧告をしたのか︑という筆者の質問にたい
‑ 80‑
して
︑﹁ 学校 制度 を六
・五 制に する か︑ ムハ
・一 一一
・
2一制はす
るか使節自にとってあまり問題ではありませんでした︒怠
遺は樹震の問題よれy︑
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その内窓をどのように民主化
するかに重点在麗きましたい︑さらに︑第三分科会﹃報告
審﹄の執筆担当委員であった︑ギブンス団員はハワイでの
記者会見で来日にのぞんで使節団の立場を︑叶日本人自身
が学校制撲をどのようにするか決定すべきであり︑我々
( 芯
﹀
(使欝盟﹀は誰にも学校制度を押し込むことはできないいと
述べ てい る︒
ニ︑使館田は最襲旬報告書bでなぜ六・五制から
六・
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・一 ニ制 応変 更し たの か
第五分科会の明報告書恥が作成・擾出されたのが一九間
六年
三同
月一
一一
ニ
Eで︑本﹃報告審﹄が完成するのがま月三O
日であるかち使麓団は一週間で六・五制から六・三・一一一制
は変更したのである︒なぜ明︑為ろうか︒
まず︑議題の滞日スケジュ!ルをみてみると︑場の
一漉開会二月七日から一鶴岡﹀︑捜節由はCIE教育課員か
ら罰本の教育に関する講義などを中心とするオリおンテi
ショ ンを 受け るが
︑一 一一 月一 六日 以降 の叫 報
告審﹄作成過程ではCIE教育課との公式
首程は組まれていない︒そして﹃報告書﹄
の内容に関する最経検討がなされる三月二O良から二五日の六日間は費節団と日本側
教育家委員会との教育専門家だけの協議が
もたれている︒じつは︑この協議がもたれ
た六日間が六・五制から六・三・三制に変
一覧 して いく 重要 な濡 租で ある
︒
五月一二日︑自本舗教育家委員長南原繁
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ストッダ
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団長と極秘裸に会
談をもっているのである︒この会談の議事
録は﹁酪涼繁・東京者間大学総長ならびに
ポールス盟長夫妻,マサチコセヴツ姥モントレー
の自忠告にて (1984年8.f1ll日〉
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日本側教育家委員長から
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ストッダ
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米関教滑捜
節団 団長 位提 出さ れ允 特別 報告 護士 九四 穴年 一一
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一日
ど
と題される一一真におよぶタイプ印縦である︒この金談は
教育者という同等のレベルでなされたもので︑そこには占
領国あるいは被占預盟といった立場のちがいはまったく感
じられないばか予か︑南原・ストッダiFの親密な関係を
読み取ることさえできるのである︒そこで︑構原は自由に
教育関題に関して自分の意見を述べ︑日本の学校制度の存
建拡 興し て︑
﹁金一案をすべてアメリカの計画をモデルにし︑小学校︑
中等学校︑専門学校︑大学を単線化し︑すべての段構で
の機会均等が拡充できるようにする﹂
と︑アメリカ単線型学校制変導入の勧告をストッダi
ドに
示唆している︒さちは︑彼は﹁上記の改革は計画されてい
るが︑文部省はこの計画にちゅうちよしているヘ﹁私はこ
れらの改革は櫨めて重大であると考えている︒これ以外に
学開制度を改正
92 2Z
るすることは不可能であるいとさ
え述ベているのである︒じつは︑南原のこの考えは﹁明治
以来のハ日本記教育が︑多く独仏等の西欧の制度を摂り
入れていたとすれば︑この改革にきって︑改めてアメリカ
の制震が参者されるというこιも︑必然の過程であり︑要求でもあったといえるであろう﹂にうかがうことができる
ので
ある
︒
日本側において六・三・一ニ制への動きを記録としてみる
ことができるのは︑日本側教青家の第三袋員会が作成した
九時慌定できる﹁青年学校その他に関する第三委員会報告書﹂がある︒この報告審は回路頭で﹁・青年学校はおおむね国民の教育機顕であるので︑その改善と拡張は最高度の重要
事で島る﹂と掲揚したのち︑つぎのように勧告している︒
﹁現在の学校制度は次のように完全に変更されるべきで
怠る︒小学校課程は六年制であれン︑それに六年間の中学
校課程がつづく︒この課袈はニ段階にわかれ︑各々が三
年ずつであれy︑中学校︑高等女学校︑実業学校のような
同乙レベルのすべての学校はこのカテゴヲ!に含まれ
る︒青年学校もまた同じである﹂
また︑使節団との最終討論がもたれた︑三月⁝一五日に山
線常利委員ハ東京都西国語思門学校長﹀は﹁小学校教育の諸開題﹂と題して報告し︑そのなかで学校制度改革についてふ
れヱ ハ年 の小 学校 と一 一一 年の 中学 校G E2 zs pg
﹀a
を
義務教育とする﹂と主張している︒その理出として︑間民
文也水準の向上︑二一歳の進路選択の国難性︑入試地獄の
敏捷などをあげている︒この山際の報告にたいして︑スト
ッダ
iF団長は授業料の有無︑男女共学の問題に期間して︑
またコンプトン団員は下級中等学校の授業料についてそれぞれ積極的な饗疑をおこなっているのである︒ここで誌︑
六・一一一制の開題が日米共通の学制改革案として協議されて
︒ ︒
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イヨ
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いるのである︒そのほか︑個人的な文書として牛山伏市(東京都牛込区牛込青年学校長)の﹁学校教育制度改革私見﹂
がある︒このなかで牛山は六・三・三・四制を提案してい
るのである︒このような六・三・三制改革案にたいする日
本側の一連の動きは︑日本側教育家委員会が使節団の帰国
後に完成した﹃報告書﹄の﹁第三︑学校体系に関する意
ワンダーリ・7ク元GHQ/CIE教育課員,アイダホ州l
セイントマリーズの自宅にて (1984年8月14日〉
あ が と 九 見 日 く 、 が 年 」 本 ま こ で 聞 の 側 で れ き の 項 に 第 は る 義 の お 一 義 の 務 第 け 案 務 で 制 ー る が 教 あ を 案 六 基 育 る 勧 と 本 九 。 告 し 三 的 ヶ な し て
な 年 お て 三 改 が 、 ま 六 制 革 不 第 と ・
の 案 可 二 め 三 考 で 能 案 て ・ 年 イ と 制 よ て 動 リ に 九 れ か 系 J授 部 え あ な は い 三 四 ム 当 み 改 う い に カ か 二 て で 統 一 ・ 重 は つ 〈 場 六 る ・ 月 ス 時 ら 革 に た 大 の け 三 お す 改 九 教 孝 、 た ち 合 ・ 点 四 一 』 、 れ 案 、 の き 中 て 年 り で 革 三 育 ( ー 。 の こ か ま
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社 九 り さ 本 を 改 、 ら 自 か 「 八 大 年 あ で が 年
説a四 ゴ れ の こ う 革 ア 七 身 な の 字 九 学 の り あ う 制 で)六タ た 学 の け 運 メ 月 ー さ な 校 O 教 阿 、 る こ
ワナメーカー教育使節目員と筆者,ワシントン州シアトルの
自宅にて(1984年8月16日〉
‑ 83‑
﹁ムハ・・一一一制の計画は使館盟がそれを考える訟能に日本
の進歩的な教育者によって鼓吹ハ﹀含芸誌るされていたい
と報道しているのである︒
以上のように︑記録の上からも畠本側は六・⁝⁝了三部勧
告にたいして棋端的訟はたらきかけをしていたことがわか
るの であ る︒
実擦︑叫報告書﹄のなかで六・一ニ・三制を勧告した使節
団員はこの問題をどのようにうけとめていたのだろうか︒
ヒル ガ
iF宙開貝は︑今日つぎのような援護金証言をして
いる
﹁ ︒ 六・ 一ニ
・一 一一 制の 学校 制震 に関 する 勧告 につ いて は︑ 使
部関全員が必ずしも賛成していたわけではあ努ませんで
した︒私は鶴人的には六・⁝ニ・一ニ輯について反対であれy
ました︒六・一一了一ニ裂が本吋報告審﹄で勧告されたこと
はむしろ驚きであラました︒男知のように︑最終﹃報告
審hはストッダiF団長に一任されていましたので︑彼
が最終的には決定したことであります︒彼は明報告審﹄
をまとめあげる寅任上︑強引な一語もあったように記壊
して おり ます
︒六
・一 一了 一一 一制 が勧 告さ れる に一 沿っ た背 景
は使節盟が望んだからというよりも︑むしろ日本劉から
の意向が強かやたからだというふうに理解しておりま
また︑ポールスは六・三・5制が袈諮問の全棒会識で封
議さ れた とき を回 一顧 して
︑﹁ 怠は 六・ 一ニ
・一 一一 樹そ のも のに
は反対しませんでしたが︑学校制度の開題は日本舗が決定
すべきことである︑と主張しました﹂と述べ︑﹁ストッダiF
団長 は六
・三
・一 一一 舗を 支持 する ひと りだ った と記 櫨帰 し て い ま す
﹂ て い る の で る る
︒ ま と め
これまでみてきたように︑アメリカ教育使節関誌日本側
教育家委員会の意向を最大隈尊重し︑日本劉との協議のも
とに叫報告書﹄を作成していったのである︒この考えはワ
シントンを出発してからその任務在完了するまで一葉して
いたものと思われる︒
後に︑アメリカ対独教背後酷団団長に任命されるズiク
︿C き話
︒一 円
N0
05
は日本棋との協力がいかに重要である
か︑つぎのように指摘していたのである︒
﹁使節団は宮本側のグループと一緒に仕事をしなければ
ならない︒もし︑使節団が報告替を作成し︑そのまま日
本に放置して嬉醸したら︑誰もそれを実施に移さないだ
ろう︒例え︑実施したとしてもそれは使節閉の意図する
ものではないかもしれない︒使欝問の報告書を継続的に
研究斗軒くれるような自本側の組織を雑保しなければな
らな
い﹂
ポiルスの説明によれば︑
一 郎 一
ストッダ
iF
は団長を受諾す
る条件のひとつに日本側教育専門家グループの設量を強く
要請していたということである︒結果的には︑SCAPの
﹁日本教育家ノ委員会い党撒聞によって日本礎教育家委員会
がすでに設寵されていたので︑ストッダ
iF
の意向は表詰
記することはなかったのである︒しかし︑彼が日本側教育
{執委員ム続期待していたことは︑来E
査一
後の
安部
一能
成文
部
大臣の挨拶にたいして﹁我々は宮本の教青制度の中で何が
最良であるか探し︑(中略﹀我々の報告書の中では︑お互い
む最良と感乙たものま強調していくつもりである﹂と返礼
ハ幻
﹀
していることからわかる︒
環に︑ストッダiF団長は婦間後︑一九四六年五月八日
ワシントンの極東委員余第四委員会教育特別小委員会で
﹁米国教育痩節団報告書の中で述べられている勧告の多く
が︑すでにとうの昔に多くの日本人教育指導者によって︑
警官 構鍔
A﹄れていたいと戦前日本の改革案を利用したこ
とを証言し︑さら位︑アメリカの棋疫を押しつけたことま
否定しているのである︒また︑同じようなことまキヤンヂ
ル問員も述べている︒また︑この点に関して︑ポiルスも
吋我々は報告書にもり込む内容が適当で島るか否か︑自本
傑委員と常位相談しながら︑注意深く検討しました::・
ハ中略﹀多分報告書の内容の六Oパーセントは︑日本側委員
ハ鈎
﹀
からのものであれジます﹂と述べているのである︒
このほか︑連合菌軍最高笥令官マツカiサ!と接節団団 ストッダl
ド る
︒ 沼 周 知 の よ う に
︑ ア メ
リカ教育使節団来自の罰的はSCAPに詰本の戦後教脊改
革についての勧告をすることであった︒マッカlサi
は三 月二
O自の会談で使館出に財政的な心配仰せず︑教育改革について闘由に勧告してよいと語ってお担︑ストッダlド
団長がマツカlサiの大きな勤ましを受けていたというこ
とは︑六・一一了一一一闘を勧告する上あったと患われ
iこのように︑ストッダ る ︒
ド 団 長 が 最 経 で 六
・
五制でなく六・一一了三制を勧告したのは︑日本鵠からの強
いはたちきかけがあったことが主裂な契機であるが︑この
ほかの喪器として︑六・五制業のなかにはすでに九年棋の
義務 制︑ 無費
︑共 山{ やと いう 六・ 一一 一舗 に連 なる もの があ った こと
︑彼 自身 が六
・三
・一 一一 制の 支持 者で あっ たこ と︑ 一て ツ
カ!サーとの事前協議などがあげられる︒
以上︑筆者は戦後日本の教育改革の成立事情における
核心的な間離としてアメリカ教背使節団報告書がなぜ六・
一一て王制を勧告したかをもっとも重視し︑この間の事曹を
筆者自身が収集した資料と筆者がおこなった当事者とのイ
ンタビューにもと︐ついて実証的に解嘆したものである︒
85 ‑ ハ 也 ﹀
ハ1
﹀本論は︑鈴木英一(名古葉大学﹀︑性議秀夫(爵立教育
研究般教脊史料謂査室﹀と名合畿大学︑
E ‑ 本大学の大学説生
らによる共興研究﹁アメ
HY
カ対自教育使節冨報告書の成立事
情に糊摘する総合的研究﹂む二様である︒
︿2
﹀ こ の 文 識 は 第 一 次 お よ び 第 二 次 米 関 教 育 使 節 団 員 で あ っ
たバ
1
ル・
A‑ワナメーカー女史(言電一
k r・巧き俗芸品おる
の個人文書である︒この資料の莞見にいたった経緯は︑筆者 が市制下における教育改革に糊摘する研究の一環として︑当時
CI
怠教育隷農であった
E系人ゼ1
ムス
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‑ F
イ
Q ω
自2
F 己
i主 現在︑ワシントン大学教脊学部長﹀氏にインタピュ ーのためワシントン大学を訪ねた醸︑ドイ氏から﹁ワナメー カー文書﹂がヲシソト
γ大学に寄贈されていることを知らさ れたからであった︒ワナメーカー女史はワシントン郊教育長
2 c
句史 認さ を主 主
MJHE‑CM
添え
足立
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米教育協余金提ハ司円
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前回
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な ど の 要 職 に あ っ た 飽
︑ 一 九 五O
年には第二次米関教育盤欝間員として再度来時︑戦後日本の 教育改革に寄与した︒そのコレクションは広範閥拡わたって いる?米関教育使露詔関係はハ第一次︑二次を含む﹀は全部 で七箱あり︑現在ワシントン大学九
γリ1
・ ス ザ ロ 語 審 館
︿ ︑
H︐Z出
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制御
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﹀の公文轡館に摂蔑されてい る ︒
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﹀ 本 議 中 で の 当 事 者 と わ イ
γタピューは︑kルガード描広範
艶 員 ハ
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叫ロ
何回
門戸
出口
寝込
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現在︑スタンフォード大学や遼 学名誉教捜﹀に一九八四年七月二⁝一一器︑援の大学研究設に て︑ポールス関員︿
CC 円 円 四
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HJ 出c d 々⁝ゆるに一九八題年八月
九t
一一司︑援の自宅マサチューセッツ州モソトレーにて︑
ワγダ1
ロジ
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教育課員
(Z 2r
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戸 者 c p ︽ 宮
町 一古 ﹃
﹀
に一九八四年八月一一一一si
一五日︑彼のき宅アイダホ州セン
トマリ1
ズ 拡 て
︑ そ し て ワ ナ メ ー カ ー 使 節 理 員
︿H M
Z ユ
﹀・
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盟主諮る民一九八四年八晃一六日︑彼女の吉弔ワシン トン苅シアトルにでそれぞれおこなったものである︒上記の 方 々 に 数 多 く の 助 替 と 協 力 を い た だ い き
︑ 心 か ら 感 謝 し た い︒なお︑解釈上の棺議があるとしたら︑それらはすべて筆
者の費低である︒
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ち さ 品 開25ロョは第一次米 国教育使欝器拡関する全
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差を群縮にまとめた一九頁の日記 で あ る
︒ こ の 日 開 は ギ プ ソ ス が 所 属 し て い た 全 米 教 育 協 会 ハ 沼
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﹀﹀の公文書錯に所蔵されている︒なお︑吋トレーナー 文議︺に所収されている﹁米関教育隻欝毘の日韓寮いハ吋
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日以前に潜蝋糊されたもので︑捜館留の脚内際の日程と異なると
ころがあるので︑このギプンス毘記と照合する必要がある︒
なお︑ギブンスは後に第ニ次米国教育使館摺ハ一九五
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わ鑓長として来日している︒
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︑ 当 時 の 学 技 餐 度 そ の ま ま で 立 い 点 差 意 を 要 する︒というのは︑周知のよ
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に当時の学校制度は由民学技 初等科ハ六ヶ年義務鵠﹀の上に︑高等教育まで進学可能な五 年輯中等学校と袋小路をなす閤民学校高等科・青年学授の複
義型をなしていたのであり︑山ハ・五銭という場合︑複議議の
一・方の中等教脊のみをさすからである︒これについて第三分
料 金 報 告 書 法
︑ 脊 年 学 校 の 実 業 学 校 へ の 転 換 を 説 い て い る 点︑複援護解請のようにも患われるが︑複謀議麓止という明
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