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風土 の 物語︱日本的心性 の 展開   その 四

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風土 の 物語︱日本的心性 の 展開   その 四

大久保   喬樹

︿土地の聖霊﹀神話伝説とゆかりがあるとされる土地︵場所︶のうちには︑時に︑いかにもそうした結びつきをまざまざと感じさせるものがある︒それは︑実際にそこでなんらかの歴史上の事実があったという遺跡や史跡︑たとえば︑縄文住居跡

とか関が原古戦場跡とかのようなものから受ける印象とは別種のもので︑実際にそうした神話や伝説に語られている事柄があったのかどうかは確かでないにもかかわらず︑逆にいえば︑そうであるからこそ︑時空を超えて︑今なお︑目に見えないながらもあたりに続いているかのようにその事柄のリアリティーがなまなましく実感されるのである︒そうした体験を私はギリシャ︑インド︑中国などで何度かしてきたが︑日本も︑また︑こうした土地︵場所︶をとり

わけ多くかかえた国であると思われる︒一九八八年に日本を訪れたフランスの文化人類学者レヴィ=ストロースは︑その際おこなった講演において︑八五年にイスラエルを訪れた時の印象と︑前回来日した八六年に九州の古代神話の地をまわった時の印象を比較して次のように述べている︒

私は︑自分の育った文化から言っても︑自分の生まれから言っても︵註レヴィ=ストロースはユダヤの家系の

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出身である︶︑九州よりもイスラエルと聖地パレスチナの方に感動するはずです︒ところが実際はまったく逆でした︒ダヴィデの神殿の跡と考えられる場所や︑ベツレヘムの洞窟や︑キリストの聖墓や︑ラザロの墓よりも︑瓊瓊杵尊︵ににぎのみこと︶が天下った霧島の山や大日孁貴︵おおひるめのむち︶すなわち天照大神が身を隠した洞穴の前にある天岩戸神社の方に︑私はより深い感動を覚えたのです︒

こうした差が生じてきたことについてレヴィ=ストロースは︑西欧では︑特に近代に入ってから︑神話と歴史を区別して︑歴史的に検証できないような神話遺跡を非歴史的︑非現実的なものとして歴史から切り離し︑遠のけてしまうような傾向が支配的であったのに対し︑日本では︑神話と歴史とを連続的に受け取るような文化がずっと継続して

いるからではないかと解釈する︒そして︑こうした神話的記憶が日本においてはきわめて豊富に︑ほぼ体系をとどめるように残存していて︑古代人の世界観の全体像をうかがわせる大きな手掛かりとなっていることを評価するのであ

る︒こうレヴィ=ストロースが指摘するように︑また︑さかのぼれば︑すでに柳田国男ら日本人民俗学者︑神話学者た

ち自身が自覚していたように︑日本には︑いわば生きた神話︑伝説遺跡というものが多く存在する︒レヴィ=ストロースが言及しているのは︑主に﹁古事記﹂などに記された古代国造り神話にかかわる九州各地の遺跡だが︑その他

にも︑さまざまな時代︑さまざまな種類の神話︑伝説が︑さまざまな土地に伝えられている︒そして︑それは︑日本文化の根底を形成するひとつの基層となっているのである︒

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︿風土の文学﹀たとえば︑それは︑これら神話︑伝説を含んだ風土の文学の系譜としてあらわれる︒古来︑日本人はこうした風土

から触発されて詩や物語を生み出し︑そうした詩や物語によって風土の記憶を伝えてきた︒私が今住んでいるのは東京郊外の調布という所で︑近年になって開発されたありきたりの新興住宅地にすぎない

が︑このあたりを歩きまわるだけでも︑あちこちに土地にゆかりの万葉の歌碑や風土記の類の碑があって︑この地の昔のありさまを想像させる︒そもそも﹁調布﹂という地名そのものが︑近くを流れる多摩川でさらした布を調すなわ

ち古代の物納税としておさめたことに由来しているのであり︑﹁多摩川にさらす手作りさらさらになにそこの児のここだかなしき﹂という歌︵万葉集巻十四︶や故事が伝承されている︒また︑調布に隣り合った府中の﹁郷土の森﹂と

よばれる公園には︑﹁赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ﹂という歌︵同巻二十︶の碑が立っていて︑添えられた説明によると︑これから夫は目の前を流れる多摩川を渡り︑対岸の丘陵を越えてはるばる防人のつ

とめを果たしに行かねばならないのに︑放しておいた馬を捕まえることができず徒歩で行かせなければならないと案じる妻がうたった歌だという︒千年以上の時間をへだてても同じ姿の川と丘陵の眺めとあわせ読むたびに古代日本の夫婦の情景がありありと蘇ってくるような思いにとらわれるのである︒あるいは︑その丘陵の一隅にある小さな寺の奥の山壁を掘った洞穴に入っていくと︑壁一面にのたくる巨大な白蛇の浮き彫りがあってぎょっとさせられるが︑や

はりこの土地に古くから伝わる大蛇伝説に基づくものなのだという︒こうしたことは︑どこの土地にもみられるもので︑それぞれの郷土誌をひもとけばいくらでも例が見つかる︒そし

て︑その起源をさかのぼっていけば︑万葉集や風土記などにゆきつくのであり︑それこそが日本の文学のひとつの源流となっていることがわかるのである︒たとえば︑丹後風土記におさめられた浦島伝説などはその代表的なものだ︒

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もともと古代丹後の海辺の地にまつわるこの話はやがてお伽草子などに受け継がれて広まり︑さらにさまざまに反復︑変奏され︑現在にいたるまで日本人にとっての原型的な物語となっている︒

また︑この風土の文学は旅の文学としてもあらわれる︒﹁草枕旅にしあれば﹂というような万葉集以来の羈旅歌から始まり︑やがて︑土佐日記や奥の細道などを経て︑これも現在にいたるまで旅は日本文学の大きな素材であり︑主題であってきた︒とりわけ︑中世から近世にかけては︑西行︑芭蕉に代表されるように︑旅︱それも一所不住のあてもなくさすらう漂泊の旅こそ人生であるという哲学に支えられてこうした紀行文学は意義を与えられ︑その流れは︑

やがて︑近代に入っても︑歌人若山牧水︑俳人種田山頭火︑尾崎放哉などに引き継がれてきている︒さらに︑こうした紀行文学の変種ともいうべきものとして︑物語の途中に旅の場面を挿入して︑そこで土地土地の風物︑故事などを案内紹介するというありかたがある︒日本最古の物語のひとつである伊勢物語には︑すでに︑主人公である昔男︵在原業平︶の東国落ちという筋立てでそうした趣向は芽生えているが︵第九段︑三河八橋で︑かきつ

ばたの花を愛で︑この五文字を読みこんだ歌を所望され︑﹁から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ﹂という有名な歌を詠む挿話など︶︑やがて平家物語にいたって明確にこうした型が﹁道行き文﹂として定

まる︒物語終わり近く︑平家の敗将重衡が源氏の大将頼朝の命令により京都から鎌倉まで送られる旅の次第を語る﹁重衡東下り﹂冒頭の一節をひいてみよう︒

さる程に︑本三位中将をば鎌倉の前兵衛佐頼朝︑頻に申されければ︑﹁さらば下さるべし﹂とて︑土肥次郎実平

が手より︑まづ九郎御曹司の宿所へわたし奉る︒同三月十日︑梶原平三景時に具せられて︑鎌倉へこそ下られけれ︒西国より生取にせられて︑都へ帰るだに口惜きに︑いつしか又関の東へおもむかれけん心のうち︑をしはから

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れて哀也︒四宮河原になりぬれば︑ここはむかし延喜第四の王子蟬丸の︑関の嵐に心をすまし︑琵琶をひき給ひしに︑伯雅

の三位と云ッし人︑風の吹日も吹かぬ日も︑雨の降る夜も降らぬ夜も︑三とせが間あゆみをはこび立ち聞て︑彼三曲を伝へけむ︑わら屋の床のいにしへも︑思ひやられて哀也︒相坂山を打越えて︑勢田の唐橋︑駒もとどろに踏み

ならし︑雲雀あがれる野路の里︑志賀のうら浪はるかけて︑霞にくもる鏡山︑比良の高根を北にして︑伊吹の嵩もちかづきぬ︒心をとむとしなけれ共︑あれて中々やさしきは︑不破の関屋の板びっし︑いかに鳴海の塩干潟︑涙に袖はしほれつつ︑彼在原のなにがしの︑﹁から衣きつつなれにし﹂とながめけん︑三河の国八橋にもなりぬれば︑蜘手に物をと哀也︒浜名の端をわたりたまへば︑松の梢に風さえて︑入江にさはぐ浪の音︑さらでもたびは物うき

に︑心を尽すゆふまぐれ︑池田の宿にもつきたまひぬ︒

新潮日本古典集成版平家物語の解説を借りれば︑﹁旅程に随って地名を連ね︑それも特に歌枕︑名勝の地を挙げて︑それにまつわる和歌︑物語等を示し︑縁語や掛け詞によって装飾し︑全体が七五調を基調とする韻文傾向の独特の文体で︑読むにつれて旅は進行し︑主人公の心情は伝えられる﹂と定義される道行き文の典型であり︑その後の多くの道行き文の規範となった名文だが︑ここでなにより特徴的なのは︑作中人物のひとり重衡の護送という筋立てを借り

ながら︑実質的には物語を離れて東海道各地の名所案内となっていることである︒その所々には主人公の感慨が挿入されているものの︑それは︑もはや︑名所に悲傷の彩りを添える︑いわば刺し身のツマのようなものでしかない︒こ

の場面の主たる趣向は︑あれやこれやの名所めぐりを物語の合間に楽しむことにあるのである︒こうした道行きの趣向は︑その後の文学あるいは芸能などもふくめた文化全般に広く浸透していった︒とりわけ江

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戸町人文化においては︑たとえば︑歌舞伎の﹁忠臣蔵﹂のお軽勘平︑﹁義経千本桜﹂の静御前と狐忠信の道行きなど︑しばしばそれだけ独立して演じられる人気演目であり︑﹁東海道中膝栗毛﹂なども弥次喜多の珍道中に重ねて東海道各地の名所風物を紹介する趣向が味噌だった︒同じことは広重の﹁東海道五十三次﹂︑北斎の﹁富嶽三十六景﹂などの浮世絵についてもいえる︒

そして明治以降近代に入っても︑道行き的なものはさまざまな形で残存した︒明治最大のベストセラーといえる尾崎紅葉の﹃金色夜叉﹄には︑主人公官一が恋人お宮に別れを告げる熱海の場︵梅林︑月夜の浜辺︶︑官一がお宮の面影を追って訪ねる塩原の場︵山︑川︑滝︑岩︑温泉等々︶など随所にそうした風物誌的な文章が織り込まれ︑一世を風靡した︒さらに昭和になっても︑たとえば︑谷崎潤一郎の﹃蓼喰ふ虫﹄や川端康成の﹃雪国﹄といった作品にそれ

はひきつがれていく︒﹃蓼喰ふ虫﹄は︑関東大震災を契機に関西に移り住んだ谷崎が︑そこで出会った関西の風土に触発されて︑しだい

にそれまでの極彩色江戸趣味やきらびやかなハリウッド趣味から離れ︑枯淡な伝統上方趣味に開眼していく転機を示した中編小説だが︑その物語中の山場に︑主人公の中年男要︵かなめ︶が妻の父親で古浄瑠璃道楽の隠居老人に誘わ

れ︑老人の妾お久も伴い︑春の淡路島を旅する場面がある︒それまではもっぱらモダンな趣味で通してきた主人公は︑この旅で︑ひなびた島の様子に接するうちに︑しだいにこうした忘れられかけた古い日本の暮らしの良さを再発見し︑これまでの生き方をふりかえることにもなるのだが︑その旅の途次︑次のような日本文化論が長々と語られるのである︒

関西は何処へ行つても壁の色がうつくしい︒老人の説だと︑関東は横なぐりの風雨が強いので︑家の外側はみな

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板がこひの下見にする︒而もその板がどんな上等な木を使つても直きに黒くよごれてしまふから全体が非常にきたない︒トタン屋根にバラツクの今の東京は論外として︑近県の小都会など︑古ければ古いなりに一種のさびが附く筈であるのに︑ただもうすすけて陰気なばかりだ︒そこへ持つて来てたびたびの地震や火事で︑焼けた跡に建てられるのは北海松や米材の附け木のやうに白つちやけた家か︑亜米利加の場末へ行つたやうな貧弱なビルデイングで

ある︒たとへば鎌倉のやうな町が関西にあつたとしたら︑奈良ほどには行かないとしても︑もつと落ち着いた︑しつとりとした趣きがあらう︒京都から西の国々の風土は自然の恵みを授かることが深く︑天の災を受ける度が少い

ので︑名もない町家や百姓家の瓦や土塀の色にまで︑旅人の杖をとどめさせるに足る風情がある︒殊に大都会よりも昔の城下町くらいな小さな都市がいい︒大阪は勿論︑京都でさへも四条の河原があんな風に変つて行く世の中

に︑姫路︑和歌山︑堺︑西宮︑と云つたやうな町は︑未だに封建時代の俤を濃く残している︒・・・

ここでは︑巧みに︑要なり老人なりの観察︑感想という体裁を借りて︑一応︑物語の枠組みから外れないように工夫されているものの︑実質的には︑やはり風土誌︑風土論なのであり︑小説と随筆あるいはエッセイが融合したよう

な形式になっている︒こうした形式は︑その後︑﹃蘆刈﹄や﹃吉野葛﹄などの作品でさらに深く追求され︑その間には︑﹃陰翳礼讚﹄のよ

うなエッセイをはさんで︑やがて大作﹃細雪﹄の中でも名高い京都の花見や岐阜の蛍狩りなどの場面などにひきつがれていく︒一方︑川端の﹃雪国﹄については︑主人公の島村とヒロイン駒子の関係が人と自然界の精との結婚を語る異類婚姻譚の型を踏襲していることを先に述べたが︑東京の生活に倦んだ島村が旅に出て田舎の湯治場に流れ落ちてくるとい

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う設定は︑ちょうど︑﹁むかし︑おとこありけり︒そのおとこ︑身をえうなき物に思ひなして︑京にはあらじ︑あずまの方に住むべき国求めにとて行きけり﹂という伊勢物語を思わせるような設定であり︑折口信夫の唱えた貴種流離譚の型にあてはまるとともに︑汽車に乗って長いトンネルをぬけ︑別世界の雪国に入っていき︑そこで雪山の精のような駒子との恋におちるが︑最後は別れて東京に戻ろうとするという筋書きは︑ちょうど︑浦島が亀に導かれて海の中の道を渡っていき︑たどりついた竜宮城で乙姫と幸福な歳月を送った後︑別れて地上にもどってくるという話に重なるのである︒そして︑やはり﹃蓼喰ふ虫﹄同様︑物語中に突然︑次のような一節が挿入される︒

雪のなかで糸をつくり︑雪のなかで織り︑雪の水に洗ひ︑雪の上に晒す︒績み始めてから織り終るまで︑すべて

は雪のなかであつた︒雪ありて縮あり︑雪は縮の親といふべしと︑昔の人も本に書いている︒

以下︑ながながとこの地方の伝統的な縮の製法が紹介され︑ついで︑島村は︑その縮の産地を訪ねて︑その印象が語られた後︑最後は次のようにしめくくられる︒

橋の向うに暮れてゆく山はもう白かつた︒

この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ︑寒々と曇り日が続く︒雪催ひである︒遠近の高い山が白くなる︒これを岳廻りといふ︒また海のあるところは海が鳴り︑山の深いところは山が鳴る︒遠雷のやうである︒これ

を胴鳴りといふ︒胴鳴りを聞いて︑雪が遠くないことを知る︒昔の本にさう書かれているのを島村は思ひ出した︒

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ここで引用文の最初と最後に﹁昔の人﹂﹁昔の本﹂とあるのは︑このあたりの雪国の暮らしを記した江戸期の随筆として知られる鈴木牧之﹃北越雪譜﹄を指すが︑これまた︑﹃蓼喰ふ虫﹄の場合同様︑物語の枠組みを借りながら風土記的なものを語るという道行き文の伝統を受け継いでいるといえるのである︒﹃蓼喰ふ虫﹄から﹃雪国﹄︑﹃細雪﹄などが書かれた昭和初年から十年代の時期は︑ちょうど和辻哲郎の﹃風土﹄が書かれた時期でもあり︑当時︑日中戦争から太平洋戦争へと向かいつつあった時代状況を背景に復古的な文化がおこってきた中でこうした風土記的な発想があらためて蘇ってきたことがうかがわれる︒谷崎同様︑川端の場合も︑この﹃雪国﹄から始まった風土記的な物語のありかたはさまざまに姿を変えながらその後の作品にひきつがれていく︒戦後の代表作﹃山の音﹄では︑旅先ではなく︑主人公がふだん暮らす自宅と会社とい

う日常的な場に風土記的なものが織り込まれる︒初老の会社社長尾形信吾一家内の複雑な人間模様が︑信吾と息子の嫁菊子とのほのかな恋情を軸として展開されていくという筋立ての物語だが︑特徴的なのは︑第一章﹁山の音﹂が夏

の盛りの八月から始まって︑以下︑第二章﹁蝉の羽﹂︑第三章﹁雲の炎﹂と︑ほぼ一カ月ほどの間隔をあけて︑ちょうどカレンダーをめくるように順に季節が進んでいき︑翌年秋の終章﹁秋の魚﹂まで︑四季のめぐりにあわせて物語

が進行していることである︒そして︑各章には︑その季節季節のさまざまな自然や行事︑生活の描写がたっぷりと盛り込まれ︑さながら歳時記の趣を感じさせるのである︒章題の多くが季節の風物からとられた季語的なものであるこ

とも象徴的だが︑こうしてこの﹃山の音﹄という物語は︑いわば︑空間的な道行きの代わりに︑時間的な道行き文学といえるような性格を帯びているのである︒

こうした趣向は︑さらに︑晩年の﹃古都﹄で一層徹底される︒京都を舞台として︑生き別れになった双子の姉妹が再会するというこの物語では︑一方の千重子が西陣の織物問屋の娘︑他方の苗子が北山の丸太杉作りの娘という設定

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により︑京都の町の面と山の面をそれぞれ代表させたうえで︑このふたりと周囲の人物たちを案内人のように動かして︑京都のさまざまな場所や行事を紹介していくのである︒そして︑幕開け平安神宮の花見の場面から終幕雪の朝の別れの場面まで︑春夏秋冬の季節の変化を前面におしだして物語が進行するという明確な構成になっている︒﹃山の音﹄では︑まだ︑こうした歳時記的性格は物語を彩る付随的なものだったが︑﹃古都﹄では︑それが逆転して︑季節

のめぐりと名所や行事の紹介こそが主であって︑物語はその器にすぎないものとなるのである︒

︿名所意識﹀このように脈々と受け継がれてきた風土記的︑道行き的文学の伝統を通じて日本人に顕著な名所意識という心性が形成されてきた︒歌枕に代表されるこの名所意識とは︑土地土地の風景︑風物を︑そこにゆかりの先人の文学や故事︑伝承などに重ねあわせて眺めることである︒引用した﹁重衡東下り﹂や︑あるいは︑吉野では西行を︑平泉では義経と藤原一族を︑象潟では伝説の美女西施を思っては句に詠む芭蕉の旅などはその典型だが︑こうした名所意識は一般人にまで深く浸透している︒いわゆる文学散歩などはその一例だが︑熱海に行けば﹃金色夜叉﹄ゆかりのお宮の松に詣で︑ローマに行けば﹃ローマの休日﹄のオードリー・ヘップバーンをきどってアイスクリームをなめというようなのも名所意識のあらわれにほかならない︒ガイドブックなり︑観光案内所なりで予備知識として仕込んできた由緒あるものを確認することで初めてその地にきた実感がわくのである︒そして︑日本のこうした名所には︑それを助ける小道具も十分に整備されている︒由来を記した案内板や文学碑︑観光ガイドや管理人による説明︑由来にちなん

だ饅頭︑煎餅などの土産物などによって︑くりかえし︑名所の名所たる由縁が説かれ︑名所のイメージが固定されるのである︒日本人の一般的な旅︑とくにツアーとか修学旅行のような団体の旅は︑こうした名所めぐりを基本にして

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きたと言ってもよい︒それは深く日本人の旅の意識を規定している社会制度とすら言える︒かってフランスに長く在住した哲学者森有正はこうした日本人の名所意識について︑日本人はどこに行っても︑こ

うした名所意識に目をふさがれて︑直接︑自分個人の目で旅先の土地や自然を見ることができないと批判したが︑これに対し︑アメリカの日本文学研究者ハルオ・シラネが指摘したように︑日本人は︑こうした名所意識を通じて︑西欧的な個人性を越える共同体的な文化を形成してきたとみなすこともできる︒連歌がそうであったように︑先人や同輩たちと共同してひとつの風景なり風物なりの美や味わいを鑑賞するのである︒その風景なり風物なりの美や味わい

とは︑単に眼前の風景なり風物なりに限定されるものではない︒はるかにそれを越えて遠い昔の神話︑伝説︑伝承にまでひろがる想像のもたらす美であり味わいなのだ︒岡倉天心は︑伝統的東洋精神文明の復権を唱えた﹃東洋の理想﹄の終章﹁展望﹂において︑日本のみならずアジア全体に共通する文化として次のようにこうした風土とのかかわりようを意義づけた︒

たしかに︑アジアは︑時間を征服しようと血眼になって邁進する鉄道からもたらされるような激烈な喜びという

ものは知らないできた︒しかし︑アジアには︑巡礼や遊行僧など︑はるかに奥深い旅の文化というものが今なお生きている︒インドの修行者は村の主婦たちに食べ物を乞い︑夕暮れ時になるとどこかの木の下に座って土地の農夫

とおしゃべりしたり紫煙をくゆらせたりする︒これこそは真の旅人ではないか︒彼にとって田舎というものは単に山とか川とかの自然の地形だけから成り立っ

ているのではない︒田舎というのは︑土地の風習や組織︑人間的要素や伝統が結びついてできあがったものであり︑たとえわずかな間であったとしても共に人生行路の喜びや悲しみを分かち合った友の心の優しさや友情にあふ

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れているのである︒日本の田舎人も︑旅に出れば︑道中︑名所を訪れた折りには︑かならず︑発句︵俳句︶という短い詩を残していく︒この発句は︑どんな庶民にも手の届く芸術形式なのである︒

日本の神話遺跡の地を訪れたレヴィ=ストロースが︑そこに古代からの神話的記憶が今なお生きているように感じ

て感動したというのも︑こうした風土文化から生まれるオーラに感応したということではないだろうか︒

では︑あらためて実際に︑そうした神話や文化の源泉となった土地土地を訪ね歩いたならどんな印象を与えられるのだろうか︒

︿鵜戸神宮﹀南九州︑日南海岸に面した鵜戸神宮は︑山幸彦海幸彦神話で知られる山幸彦の妻で海神の娘豊玉姫が出産した産屋の跡といわれるところで︑伝承によれば︑この出産の時︑鵜の羽で葺いた産屋に入った豊玉姫は夫に﹁自分はもとの海神の娘の姿にもどって出産するが︑けっしてその姿を見てくれるな﹂と言い置いた︒ところが︑夫の山幸彦はこの禁を破って産屋を覗いてしまい︑そこで鰐の姿にもどり這い回る妻の姿を発見して驚いた︒これを知って恥じた豊玉姫は産み落とした一子を残して父の海神のもとにかえってしまったというのである︒神社は︑海に面した岩山が深々とえぐられたようにできた巨大な洞窟の内部にすっぽりとおさまるように本殿が建

てられている︒境内には︑豊玉姫が置いていく子のために乳房を残していった跡だという﹁お乳岩﹂だとか︑豊玉姫が乗ってきた亀だという﹁亀石﹂だとかがあり︑﹁お乳岩﹂からしたたる雫で練った﹁おちちあめ﹂などというもの

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も売られていて︑全体にそうした神話の雰囲気が濃厚に感じられるが︑なによりも︑その大本となっているのは︑やはり︑周囲を取り囲む風景なのである︒日南海岸のこのあたりは海岸線いっぱいまで岩山が迫り出し︑そこに日向灘の外洋から直接押し寄せてくる烈しい波がぶつかって険しい風景を作り出しているが︑その中でも︑ここは一際海岸線が張り出して正面から海に対峙して

いるところで︑はるか彼方の水平線から一線に走ってくる波が岩に激突し︑岩の裂け目から吹き上がってくるのを迎えいれるように巨大な洞窟がぽっかりと口をあけてあけている︒海の世界と陸の世界がぶつかり︑融合して新しい世界が生み出される︱そうした野生自然の営みを凝縮したような風景であり︑それを映しだしたのが山幸彦と豊玉姫の結婚︑豊玉姫の出産の神話であると実感されるのである︒

さらに︑この神話の続きでは︑この洞窟の産屋で豊玉姫が産み落とした子であるウガヤフキアエズノミコトが豊玉姫の妹である玉依姫に育てられて成長し︑やがてこの叔母と結婚して四人の皇子が生まれる︒そのうちのひとりが天皇家の祖となる神武天皇であり︑神武はこの海岸から東に向かって大洋に乗り出し︑畿内に上陸して大和朝廷を開いたとされる︵神武東征︶が︑この海岸に立ってはるか東の洋上を眺めると︑まさに︑そうした出立の心持ち︱野生自然の営みから生み出された人間が︑その誕生の地を離れて︑はるばる海を渡り︑その先の地に本格的な文明世界を築こうと旅立つ心持ちが感得されるような気もしてくる︒とりわけ︑海の彼方に朝日が昇るのを目にした時︱私が実際

にこの日の出の光景に接したのは︑ここから少し離れた︑しかし︑同じ日南海岸で︑やはり︑山幸彦︑豊玉姫神話にかかわる青島でだったが︱︑その思いは強かった︒九州では︑この他︑天孫降臨の地とされ︑頂上に天の逆鉾のある霧島山高千穂峰や︑同じく天孫降臨の地と伝承される西臼杵高千穂の天の岩戸洞穴など︑レヴィ=ストロースが感銘をうけたと述べている一連の国造り神話にかかわ

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る遺跡を私も順次めぐり歩いたが︑そのどこでも印象深かったのはやはり風景なのだった︒いずれが記紀の言う天孫降臨の地なのか長く争ってきた霧島山高千穂峰と西臼杵高千穂二上山のどちらに登っても私がなるほどと思ったの

は︑そこから見晴らされる近傍峰峰の連なりとその谷間の織り成す眺めが︑スケールの差はあっても︑ともに︑未踏の地から地へと渡り歩きながら国造りをしていった古代人の足跡を彷彿とさせるようなものであることだった︒西臼杵高千穂で︑ここが国見の丘だと案内される場所に立って︑下の方の町並みを見下ろすと︑いかにも︑国を見るという心持ちがこんなものだったのかと感じられるのだった︒

こうした土地の風景から神話がありありと蘇ってあらわれてくるような印象は︑ギリシャ各地の遺跡を訪ねた時の印象と共通していた︒それは︑それら神話がいずれも私にとってなじみ深いものであったからでもあるだろうが︑そ

ればかりでなく︑両神話とも多神教的でアニミズム的であり︑神々と自然がさまざまに交流する様が語られているからであるようだった︒その痕跡が︑神々の方はすっかり滅びてなくなってしまった後も︑風景には刻みこまれて︑遠

い始源の記憶を伝えているようだった︒

︿熊野︑那智﹀畿内を南に下り︑吉野山︑高野山あたりから紀伊山中に入っていくと︑それまでの畿内の文明栄える平地とは一変

して︑人の手がほとんど入っていない鬱蒼たる原生林が続くようになり︑その究極として熊野の地があらわれ︑さらにその先へ行くとはるかに熊野灘の外洋に達する︒

この紀州山地一帯の風土も︑南九州各地の国造り神話にかかわる遺跡群と並んで︑日本人の心性深く根を降ろした精神風景となってきたものだ︒王朝期から中世あたりにかけて︑﹁蟻の熊野詣で﹂とよばれたほど︑都からはるばる

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この山中まで数十日もかけて詣でる人の群れが続いたという︒その中には︑生涯に三十三度までこの熊野詣でをくりかえしたという後白河法王のような例まであるほどの熱心さで︑当時の都人たちがこの野生の地に寄せた畏敬ないし畏怖の念が想像される︒それは︑記紀神話の時代の人々が九州各地の風景に抱いていた感情とはずいぶん異なったものだったろう︒鵜戸神宮や高千穂遺跡などを訪れ︑古事記などを読み返して私が受け取ったのは︑あのあたりの明るく︑のびやかな風光の中で︑自然の営みに抱かれるように︑まるで自然の営みから産み出されるように人々が暮らしていたという印象だっ

たが︑それに対し︑紀州山地︑とりわけ熊野一帯の風土に接し︑そこにくりかえされた﹁蟻の熊野詣で﹂を思うと︑対照的に暗い︑鬱々とした印象が浮かびあがってくる︒十年ほど前︑早春三月の頃︑四日ほどかけて︑熊野路を歩いたことがあった︒白浜から中辺路とよばれる山中巡礼路をたどって熊野本宮まで行き︑小栗判官照手姫の故事で知られる湯の峰温泉︑速玉神社のある新宮︑普陀落渡海に

ちなむ浜や普陀落寺をまわって那智の滝までというコースである︒東京を出る時はまだ肌寒いぐらいだったのが︑南紀はさすがにもう春らしいむっとした空気で︑ちらほら桜まで咲

き始めている︒里から少し行くとすぐ山深くなって︑木々が密生し︑その中を細々と巡礼路が抜けていく︒谷筋からはだいぶ高い峰筋をところどころ起伏をくりかえしながら続く道はかなりけわしく︑これは回峰行のような修行の意味もあるのかと思う︒初めこそちょっとした集落があったが︑じきにまったく人家は途絶え︑ひたすら原生林の中を進んでいく︒それで︑今でさえ︑道の入り口に道中注意の札が立っているぐらいだが︑往時はずいぶん大変なことも

あっただろう︒要所要所に道しるべとして立てられている〜王子〜王子という祠のうちには︑なけなしの路銀を口にくわえたまま行き倒れになった旅人を弔ったものなどもある︒

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そんな風に命懸けの思いまでしてやってきたこの土地の意味は何だったのかと︑見渡すかぎりの樹海を見回しながら考えると︑それは九州の神話遺跡とはずいぶん異質なものだと思えてくるのだった︒記紀神話時代のいわば文明揺籃期にあっては自然の営みと人間の営みがまだ融合一体となっていたのに対し︑この王朝期から中世にかけての熊野詣での時代となると︑人間の営みは完全に自立して︑都に文明の粋を築きあげてい

た︒だが︑その一方で︑まだ人々は︑背後に残してきた自然の存在の重みを感じる心を失っていなかった︒この自然の存在は︑ふだんは忘れかけられていても︑なにかの折りにふいと目の前にあらわれてきて人々を狼狽させたー天変地異や疫病︑生霊や死霊などとして︒そうした人知を超えた力の出現に直面して畏怖した人々は︑そうした力があらわれてくる源を求めて︑都の向こうに広がる鬱蒼とした山中樹海に向かったのだ︒苦行してこの山中樹海に詣でるこ

とによって︑自然から自立したと誇る人間の驕りをはらい清め︑自然の力が鎮まることを願ったのだ︒昼なお暗いような樹海の中をひとりで歩きながら私はそんな風に思った︒蟻の行列のように人々が歩いたという頃

からもう千年近くたって︑今はほとんどほかに人影も見ないほどの変わりようだが︑あたりの山や木の様子は変わっていないようで︑その黒々とした翳の中を蟻の行列の幻が黙々と過ぎていくような気がするのだった︒それは︑鵜戸神宮の海と陸が豪快にぶつかりあう風景から感じた明るく広々とした印象とは対照的に暗鬱な印象で︑折口信夫の﹃死者の書﹄を初めて読んだ時に感じたまがまがしい印象を思いだしたりした︒﹃死者の書﹄は︑熊野詣でが始まった王朝期より前の古代大和を舞台とする物語で︑熊野詣でも熊野も出てくるわけではないが︑非業の死をとげた滋賀津彦︵大津皇子︶が闇の中でめざめ︑絶望的に呼ばわう衝撃的な冒頭の場面か

ら始まって全編を流れる暗澹とした情念の気配が︑この熊野樹海に漂う暗鬱な気配に通じているように感じられたのである︒また︑その一方で︑こうした暗澹とした情念を浄化救済するかのように登場する藤原の郎女が大和二上山に

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落ちる日の向こうに阿弥陀仏の来迎を見て当麻寺に籠もり︑蓮の糸で曼陀羅を織ったという︑その二上山のさらに奥がこの熊野山中なのだという連想もあった︒大阪出身の折口は︑若い頃からしばしばこの熊野を旅して歌集﹃海やま

のあひだ﹄に歌ったり︑熊野から志摩の大王崎にたどりついて出会った熊野灘の眺めから海の向こうの﹁妣の国﹂の着想の機縁を得たりというように熊野とかかわりが深かったが︑そのことは︑現世世界を取り巻くほの暗い他界の世界をまざまざと幻視するような折口民俗学の成立につながるものだったろう︒熊野本宮までたどりついたあとまわった近くの湯の峰温泉は︑小栗判官が照手姫に助けられて業病を癒したという伝説のある名湯だが︑山の霊地は同時に水の霊地でもあるというのが通例である︒熊野の場合は︑それが特に大規模に組み込まれていて︑川湯︑熊野川のほか︑山地が海岸間際で雪崩落ちて熊野灘の外洋に向き合い︑また︑山塊を一文字に断ち割るような那智の大滝が熊野全体の霊性の根源となっているようなところがある︒このうち︑熊野灘は︑若き折口に﹁妣の国﹂の着想の機縁を与えたように︑この世の彼岸として受け取られていたということは︑那智滝の

ふもとの那智浜から何人もの僧たちが海の向こうにあるとされた普陀落をめざし生きたまま小船に閉じ込められて流されたという普陀落渡海信仰からもうかがえる︒そして︑この浜からしばらく山の中へ入ると大滝に出会うわけだ

が︑百メートルをこえるという水柱が微塵の乱れも見せず︑一筋の糸のように垂直に落ちている様は︑まったく︑水という物質ではなく︑霊そのものが流れているという圧倒的な印象だった︒近寄って見上げると︑真上の空の奥から直接水が落ちてきて︑そのまま地中の奥まで貫通しているようで︑まさに天上の世界と地上の世界さらには地下の世界までを貫く垂直軸なのだった︒

こうして︑熊野は︑畿内に栄華を誇った都の文明に対峙する巨大な野生自然のシステムであり︑隠然たる支配を都に及ぼしていたのだ︒後白河法王のような最高権力者から一般人までが蟻の行列をなして熊野詣でをくりかえしたの

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は︑この野生自然の存在がいかに畏怖されていたかを物語っている︒しかし︑やがて︑中世から近世に時代が移る頃からしだいに熊野は忘れられるようになる︒畿内から江戸へ権力が移行したことも引き金となっただろうが︑さらに根本的には︑徳川三百年の安定平和が確立されて︑それまで人々を脅かしていた目に見えない超自然的な力の存在感が希薄になり︑その源泉であった野生自然のリアリティが感じられ

なくなった︱盆栽︑浮世絵に代表されるように︑江戸町人社会において自然は徹底して文化のうちに組み込まれ︑飼い馴らされた︱ということがあっただろう︒人々は︑山深い熊野の代わりに︑そのふもとに開けた平地にある伊勢に詣でるようになり︑その内容も︑熊野詣でのような修行性を失って︑物見遊山を実質とする世俗的なものに変わっていった︒文明が自然を全面的に制覇したのである︒以来︑現在にいたるまで︑こうした熊野の置かれた状況は続いている︒蟻の熊野詣でのようなことが復活することはないだろう︒しかし︑それは人間の側の事情によるのであって︑熊野自体は千年前も現在も本質的には変わらない

のだ︒そして︑往時の記憶は今もなお木々の翳のうちに息づいているように感じられるのだ︒それは︑鵜戸神宮などの場合と変わらない︒

︿恐山﹀九州︑熊野あるいは伊勢︑出雲など様々な日本の神話遺跡あるいは霊地とされる場所をめぐってきた中で私が最も強い印象を受けたのは二十年ほど前に訪れた恐山だった︒本州北端下北半島の原生林を抜けて登りつめていった頂上にぽっかりと開けたこの土地は︑熊野などに比べても︑およそ日常世間から隔絶した︑まさしくこの世の外の別世界だった︒夏の初めの頃だったが︑夕方近く到着するとあ

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たりは冷え冷えとしていて︑硫黄分の多い岩だらけの土地はほとんど草も生えず荒涼としている︒いかにも別世界への入り口といった様子のいかつい門をぬけて中に入ると︑ところどころに熱湯が噴き出して沼となったり︑小屋をめ

ぐらして風呂となっているところもある︒岩山の間を縫うように地獄めぐりの道筋がつけられており︑その行き着く所は極楽浜と名付けられた砂地に面してウソリ︵﹁恐れ﹂のアイヌ読みだという︶山湖という湖水がひっそりと静ま

りかえっている︒美しく澄んだ水だが︑冷たそうで︑生き物の気配もしない︒聞くと︑酸性が強くて︑ほとんど魚もいないらしい︒その向こうには恐竜の背鰭を思わせるようなぎざぎざした姿の岩山がぐるりと取り囲んでいる︒かつ

てここは火山で︑湖水はその火口跡にできたもの︑岩山は外輪山なのである︒怪異な風景だが︑昔の人は︑これを仏の座る蓮華座に見立ててきたのだという︒門内に設けられた宿坊に泊まった私は夜更けてから今一度ゆっくり一帯をめぐってみた︒昼間︑人々が歩きまわっている時でさえ荒涼として不気味な気配が濃かったのが︑真夜中近く︑人ひとりいないとなれば︑凄絶とでもいうよ

うな殺気がみなぎっている︒極楽浜に出ると︑あたり一帯静まりかえった中で︑どういう加減か︑風もないようなのに︑水子供養の風車が何十となくカラカラと音をたててまわっている︒そして︑目の前の湖水は︑月の光に照らされ

て︑まるで凍っているかのように銀色に輝きわたっている︒背後には白々と浮かびあがる外輪山の峰峰︑その上には満天の星をちりばめた夜空︒

この全景をあらためて眺めた時︑私は︑なるほど︑この風景が蓮華座に見立てられてきたことを理解できるような気がした︒夕暮れ方眺めた時には︑恐竜の背鰭めいたぎざぎざの峰峰の姿にただ怪異な印象ばかり受けたのが︑真夜中の今眺めると︑怪異さは変わらないものの︑そこに荘厳な美しさが加わって︑まさしく︑この世を超えた永劫世界の姿とはこのようなものかと感じいったのだ︒

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しかし︑蓮華座などといっても︑元来︑ここが仏教信仰の地として始まったというわけでもないようだ︒現在︑ここには堂々たる恐山菩提寺が建っており︑その沿革をたどると︑九世紀貞観年間に慈覚大師が開いて以来︑千年以上

の歴史を経ているということだが︑さらに︑その以前の︑伝承にも残っていないような昔から︑この地は︑死者の霊の集まるところとされていたらしい︒つまり︑本当の起源は︑歴史以前︑おそらくは太古にまでさかのぼる死霊信仰

の地として始まったのであり︑それがやがて仏教に習合されて今にいたっているということなのである︒﹁恐︵おそれ︶﹂という名についても︑本来はアイヌ語の﹁ウソリ﹂が元になっているというように︑仏教という後代になって中央から入ってきた文化以前の原初土着文化が土台なのだ︒近年ここからほど遠くない青森郊外で発掘された三内丸山縄文遺跡ともそれはつながっているだろう︒

そして︑恐山のこうした原初土着文化性がとくに強い印象を与えるのは︑それが︑記録などにもほとんど残っていない代わりに︑いまなお生々しい感覚として生きているということである︒死者の霊を呼び出すというイタコが今で

も続いているというのはその最たる例だが︑私の場合は︑夜中︑極楽浜まで出た帰りに︑その脇の林を通りかかった際︑木という木の枝枝に無数のズボンや靴などがぶらさがっている光景に出会って強烈な衝撃をうけた︒それらは︑

どれも︑死んだ人々の遺品で︑山に集まってきた霊のために︑近親者たちが運んできて吊るすのだそうだが︑ふだんであれば︑馬鹿馬鹿しい迷信として笑いとばしそうなその光景が凄まじい迫力で訴えてくるのだった︒まさに︑目に見えない死者たちがひとりひとり自分のズボンなり靴なりをはいてぶらさがってでもいるかのような気がした︒ここでは死者の世界と生者の世界がすっかり地続きになり︑重なりあっているのだった︒それは︑まったく︑九州でも熊野でも感じなかったような生々しい実感で︑神話や歴史よりも以前の太古にまでさかのぼるようなこの死生の感覚こそが自分の存在の最も深いところに最古の遺伝子のように生き続けていて︑それがこの場所で蘇ってきたような思い

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がした︒恐山を降りたあとは下北半島の津軽海峡側に面した西岸をバスと船で回ったが︑途中︑仏が浦という景勝を沖合か

ら眺めた︒海べりまで迫った岩山が波の浸食をうけてさまざまな怪奇な姿の岩となっている名所で︑五百羅漢︑如来の首などという名をつけられた岩岩を集めた総称として仏が浦と呼ばれており︑紀行文の大家として知られた大町桂月は﹁神のわざ鬼の手造り仏宇陀︵仏浦のアイヌ語読み︶人の世ならぬ処なりけり﹂と歌ったというが︑そこでうけた説明で私が興味をひかれたのは︑この仏が浦が恐山のいわば奥の院とみなされ︑恐山に詣でた人々がその足でこの仏が浦を巡拝する習わしがあったということだった︒なるほど両方を回ってみると︑恐山の蓮華座とよばれる外輪山の怪異な姿がそのままこの仏が浦の奇岩に続いていると感じるのは不思議でない︒だが︑そこから︑この下北半島全体の地形を巨大な寺院構造に見立てたという昔の人々の想像力に私は感心したのである︒そして︑それとともに︑こうした宇宙的といってよいようなスケールの想像力を人々にかきたてたのは︑つまるところ︑この荒涼とした︑太古

の野生そのものというような土地から発する霊的なエネルギーなのだとあらためて思ったのだった︒

︿西表島﹀九州︵あるいは出雲など西日本一帯︶から始まり︑やがて日本列島中央部にあたる畿内に移動して本格的に開花し

た︑記紀神話と天皇家に代表される大和文明に対し︑その大和文明に押し出されるように︑あるいは︑取り残されるように︑日本列島の両端に︑太古的な文化の痕跡が散らばっている︒そのひとつが恐山の下敷きとなっているアイヌ文化︵北方文化︶であり︑いまひとつが沖縄から八重山諸島一帯にひろがる琉球文化︵南方文化︶である︒この琉球文化には︑柳田国男や折口信夫などの民俗学者たちが日本文化の原型︑古層を求めてさまざまな調査︑考察をおこ

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なったが︑そうした研究の跡をたどって︑素人ながら私も何度か沖縄島各地︑石垣島︑西表島などに旅した︒その中で私が最も強い印象を受けたのは︑数年前に見に行った西表島の節年︵正月︶行事だった︒正月とはいっても︑ここ

では︑旧暦八月の己亥︵つちのとゐ︶︑まだ夏の盛りに古い年を送り︑新しい年を迎える三日間の祭りがおこなわれる︒私が島に入ったのは大みそかにあたる初日の昼過ぎで︑知り合いの待つ部落に入っていくと︑公民館に人々が集まって新年用のご馳走を準備していたり︑家々を清めて新年用に山からとってきたという木の葉やつる草を編んだお守り飾りを旧年中のものと取り替え︑柱や鴨居などに巻き付けたりしていた︒翌日の元旦になると︑朝︑若水を汲み︑祖霊を拝んだりしたあと︑公民館でミリクおこしという最初の行事がおこ

なわれる︒これはその年毎に集落の中で選ばれた年男が面をかぶせられてミリク︵弥勒︶の神様に変身するもので︑福々しく︑とぼけた表情の神様はうちわをふりながらゆっくりとミリクの舞いを披露すると︑幟をたてたお供たちを従えて浜辺に向かう︒そして一同が浜辺に設けられた祭場に到着し︑席につくと︑最も大切な行事であるという船漕ぎ競争が開始される︒二艘の木船に若者たちが乗り込んで沖合の小さな島をぐるりと一周してもどってくる競争で︑

これによって海の向こうから福をたずさえてやってくる神様を迎え︑連れてくるのである︒一番に帰着した船の者がその旨の口上を述べると︑これでめでたく正月がやってきたということになり︑あれこれ祝いの歌や踊りが披露され

たり︑ご馳走がふるまわれたりして︑一段落すると︑いまや海からきた神様になりかわったということになるのだろうか︑ミリクの神様がふたたび人々を従えて福をふりまきながら練り歩き︑公民館に戻っていく︒そしてそこで舞い

おさめをした後︑面をとって神から元の人にもどるのである︒この一連の行事が︑弥勒信仰︵弥勒菩薩が衆生救済のために訪れてくるという信仰︶という仏教習俗と結びついた

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ものとなっているにせよ︱八重山諸島に仏教が入ってきたのは近世十八世紀ごろだったという︱︑元来は海の向こうからやってくる来訪神信仰に基づくものであることは確かだろう︒

この来訪神の意義をとりわけ重視したのは折口信夫である︒﹃古代研究﹄などの著作において︑折口は南方諸島一帯に伝わるこうした習俗︑信仰を熱をこめて考察しているが︑それは︑﹁まやの神﹂︑﹁にいる人﹂などとよばれるこ

れらの神が海のかなたの海上なり海底なりにあるという﹁にいるすく﹂︑﹁にらいかない﹂などとよばれる国からやってきて祝福を与えるというこうした世界観こそが︑折口民俗学の中心的な概念である﹁まれびと︵稀に訪ねてくる神︱客︶﹂思想をはじめとして︑その後の日本文化のさまざまな要素の原型をなすものだとみなしたからである︒話を聞いてみると︑土地の人々には︑必ずしもそんな明確な意識はないらしかったが︑ともかくも︑この祭礼に立

ち会って︑よそ者ながら私に強く実感されたのは海との色濃い親和︑交流ということだった︒南の暖かく穏やかな海であることもそうした印象を強めるのだろうが︑この島と海はまったく一続きで︑その海のむこうに故郷があり︑そ

こから神様や先祖あるいは子孫がやってきたり︑帰っていったりするというのもごく自然なことだと思えてくるのだった︒考えてみれば︑西表にせよ︑そのほかの八重山諸島にせよ︑それら島自体がすでに大洋の中にすっぽり包み

こまれた一部分であり︑海を伝っての交易︑交流が生命線であって︑そのむこうにあるという﹁にいるすく﹂なり﹁にらいかない﹂なりも身近で日常的なものであって当然なのだ︒本土の海辺︑たとえば鵜戸神宮や那智浜などから見渡す大海原はひろびろと雄大で︑そのかなたにあるという﹁妣の国﹂なり﹁常世﹂なり﹁普陀落﹂なりもはるかに遠い幻の次元の世界という印象があるが︑ここでは﹁にいるすく﹂でも﹁にらいかない﹂でも︑まるでとなりの島に行くように海伝いに行くことのできる所のような気がするのであり︑そこからやってくる神様も親しみ深い存在なのだ︒

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また八重山諸島は日本本土よりも台湾の方が近いような位置にあることを考えると︑その﹁海のむこうの故郷﹂とは︑台湾やさらにその先の東アジア沿海一帯にまで通じるものかもしれないということも思われてきて︑柳田国男の説いた﹁海上の道﹂という日本文化南方起源論があらためて思い浮かんでくる︒柳田は若いころ三河の伊良湖岬でたまたま浜に流れ着いた椰子の実を見つけて︑その実のたどってきたはるかな旅路に思いを寄せ︑それが機縁になっ

て︑やがて︑沖縄︑八重山諸島での見聞をふまえ︑日本民族の祖も︑椰子の実同様︑稲作技術と共に︑はるか昔︑南方からはるばるこれら島伝いに海を渡って日本本土までやってきたのではないかという仮説をたて︑最晩年の著作﹃海上の道﹄で提唱したのである︒このうち稲作海路伝来説は︑その後︑考古学的調査の結果では根拠に乏しいと批判されるなどしてきたが︑それでも私は︑何度か南方諸島を訪れ︑とりわけこの西表島の正月来訪神行事に出会っ

て︑稲作はともかく︑東アジア沿海一帯にまで続く海上文化の流れというものを思ったのだった︒この思いは︑後にインドネシア・バリ島での体験によっていよいよ強められることになったが︑たしかに︑沖縄から八重山諸島を経て台湾からその先まで一続きの海の道というもの︑海の道の文化というものがあるように感じられるのだ︒その日の夜は︑集落こぞって新年の祝いということで︑あの家からこの家というように流れ歩きながら︑あちこち

で飲んだり食べたりして回った︒私も知り合いに連れられて歩くうちに︑最初は遠慮がちであったのが︑そのうち酒も回って︑見知らぬ家にもどんどん上がりこみ︑誰がその家の人であるかも気にかけずに︑歌にあわせて手をたたい

たり︑並んでいるご馳走に手をつけたりするような開放的な気分になっていった︒海の中の小さな島のわずかな一角に顔見知りの人々が大家族のように集まって暮らすこの共同体はゆるやかに開かれていて︑私のようなよそ者も自然

に受け入れてくれるようで︑いかにもそれはこのあたりの南の島独特の気配を感じさせた︒海によって閉ざされるのではなく︑海のかなたへ開かれ︑通じているといった様子だった︒その海のかなたから親しく神様がやってきたり︑

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帰っていったりするのというのもうなずけるのである︒旧暦八月︵ないし九月︶という季節に正月を祝うというのもこうした南の風土とかかわっているのかもしれない︒北国では冬になると日が短くなり︑それが冬至できわまった後︑ふたたび日脚がのび始めて春に向かう︑その生命の蘇りとも感じられる折り返しを新しい年の誕生として祝うのはごく自然なことだが︑四季の変化が少ない南方ではそ

うした必然性はあまり感じられず︑むしろ︑収穫の盛りが一段落したところで実りを感謝し︑新たな豊穣を祈願する豊作祭が年の始まりとされることになったのだろうか︒

ともあれ︑これら沖縄以南の諸島を訪れて︑私は︑恐山などのいかにも北方山国的な風土とはまるで対照的な南方海洋的な風土︑その風土の文化への作用を実感したのだった︒祭り最後の三日目︑部落内の井戸をさらって清める行事などを見物した後︑高速船と飛行機を乗り継いで帰途についた︒機上から眺めおろす洋上にぽつりぽつりと浮かぶ島々は夕映えに光る小石のようで︑その小石を伝って一筋の目に見えない道がはるかな海のかなたにまで伸びている姿を私は心に思い描いた︒

キーワード日本的心性︑共同記憶︑風景

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