師走晦日魂祭和歌について
『 大 和 物 語 』 に は、 四 十 九 日 の 章 段( 九 七 段 ) や、 一 周 忌( 九 段 ・ 九 八 段 )、 あ る い は、 死 者 に 関 す る 章 段( 五 段〈 保 明 四 十 九 日 〉 一 三 段 ・ 二 八 段 ・ 二 九 段 ・ 七 〇 段 ・ 七 一 段 ・ 一 〇 一 段 ・ 一 一 六 段 ・ 一 四 二 段 ・ 一 四 四 段 ・ 一 四 七 段 ・ 一 五 〇 段 ・ 一 五 五 段 ・ 一 六 五 段 ) な ど、 哀 傷 に 関 わ る 章 段 が 数 多 く 見 ら れ る も の の、 盂 蘭 盆 や 師 走 晦 日 魂 祭 に 関 わ る 章 段 は 見 ら れ な い。 し か し な が ら、 『 曽 祢 好 忠 集 』( 『 詞 花 和 歌 集 』) 、『 蜻 蛉 日 記 』、 『 宇 津 保 物 語 』、 『 小 右 記 』、 『 枕 草 子 』、 『 和 泉 式 部 続 集 』( 『 後 拾
遺 和 歌 集 』) な ど こ の 時 期 に 限 っ て、 師 走 晦 日 魂 祭 に 関 わ る 記 事 や 詠 歌 が 見 ら れ る。 こ の 現 象 と、 師 走 晦 日 魂 祭 和 歌 の 変 遷 について考えてみようと思う。史料としては唯一『小右記』に見られるので、藤原実資を中心とした年表を末尾に付した。
師 走 晦 日 魂 祭 に つ い て は、 既 に そ の 根 拠 と し て 提 示 さ れ て い る『 日 本 霊 異 記 』 で あ る が、 再 検 証 に 関 わ る の で、 改 め て 提 示すると、上巻「人 ・ 畜
ケモノニ 履
ふまれし 髑
ヒトカシラ髏 の、救ひ收めらえて 霊
あやしき表を示して、現に報いし縁 第十二」に、 高 麗 の 学 生 道 登 は、 ガ ン 興 寺 の 沙 門 な り き。 山 背 の 恵
ゑま満 が 家 よ り 出 で た り。 往 に し 大 化 の 二 年 の 丙 午 に、 宇 治 橋 を 営
つくら む と し て 往 来 す る 時 に、 髑 髏 奈 良 山 の 溪
サハニ 在 り て、 人 ・ 畜
けものの 為 に 履
フマ ル。 法 師 之 を 悲 し び て、 従
ともびと者 万
まろ侶 を し て 木 の 上 に 置 か し め き。 同 じ 年 の 十 二 月 の 晦 の 夕 に 迄
いたり て 、 人、 寺 門 に 来 た り て 白
まうさ く「 道 登 大 徳 の 従 者 万 侶 と い ふ 者
ひとに
一
師走晦日魂祭和歌について
山 崎 正 伸
師走晦日魂祭和歌について二
遇 は む と 欲
ねがふ 」 と ま う す。 万 呂 出 で て 遇 ふ。 其 の 人 語 り て 曰 は く「 大 徳 の 慈
うつくしびを 蒙
かがふり、 頃
コノコロ、 平 安 の 慶 を 得 た り。 然 れ ど も、 今 夜 に 非 ず は 恩 を 報 い む に 由 无 し 」 と い ふ。 輙
すなはち、 万 呂 を 将
ゐて、 其 の 家 に 至 り、 閉 ぢ た る 屋 よ り し て、 屋 の 裏
うちに 入 る。 多 く、 飲
おんじき食 を 設 け た り。 其 の 中 の 己 が 分
わきの 饌
ヨキクラヒモノを 以 て、 万 呂 に 与 へ 共 に 食
くらふ 。 其 の 後
ご夜
やに し て 男 の 声 有 り、 万 呂 に 告 げ て 曰 は く、 「 吾 を 殺 せ る 兄 来 た ら む と 欲
おもふ が 故 に、 早 く 去 に ね 」 と い ふ。 万 侶 怪 し び て 問 ふ に、 答 ふ ら く、 「 昔、 吾 兄 と 共 に 行 き て 交
あきなひ易 し、 吾 銀 を 四 十 斤
ごん許 を 得 た り。 時 に 兄 妬
ウラヤミ 忌
にくみ、 吾 を 殺 し て 銀 を 取 り き。 爾
それよ り 以
このかた還 、
多
あまたの 年
とし歳 に、 往 来 す る 人・ 畜
けもの、 皆 我 が 頭
かしらを 踏 み き 。 大 徳、 慈
あはれびを 垂 れ た ま ひ、 見
けにに 苦 を 離 れ し め た ま ふ が 故 に、 汝 の 恩 を 忘 れ ず、 今 宵 に 報 ず ら く の み 」 と い ふ。 時 に、 其 の 母 と 長
あ子
にと 、 諸 霊 を 拝 せ む が 為 に 其 の 屋 の 内 に 入 り 、 万 侶 を 見て驚き 畏
おそり、其の到り来れる 所
ゆゑ以 を問ふ。 (
60 ・ 61 )(一)
と、 大 化 二 年 六四 六 の 師 走 晦 日 魂 祭 に、 飲 食 を 供 え て 供 養 す る こ と が 数 年 に 亘 っ て い た と 知 ら れ る。 同 じ く、 上 巻「 非 理 に 他
ひとの物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて 奇
あやしき事を示しし縁 第三十」には、 膳
かしはでの臣
おみ広 国 は、 豊 前 国 宮 子 郡 の 少 領 な り き。 藤 原 の 宮 に 宇
あめのした御
をさめ た ま ひ し 天
すめらみ皇
ことの み 代 に、 慶
きやう雲
うん二 年 の 乙 巳 の 秋 の 九月十五日庚申に、 広国忽に死にき。 逕
ふること三日、 戌の日の申の時に、 更に 甦
いきて語りて曰はく「使二人有りき。 (中 略 ・ 以 下 広 国 の 語 っ た こ と の 中 で、 広 国 の 父 親 の 罪 障 と 懲 膺 の 条 で ) 何 の 日 に か 吾 が 罪 を 免 れ む。 何 の 時 に か、 安 き 身 を 得 む。 汝、 忽 に 我 が 為 に 仏 を 造 り 経 を 写 し、 罪 の 苦 を 贖
あかへ。 慎
ゆめゆめ々 、 忘 る る こ と 莫
なかれ。 我 飢 ゑ て、 七 月 七 日 に 大 蛇 に 成 り て 汝 が 家 に 到 り 、 屋
やど房 に 入 ら む と せ し 時 に、 杖 を 以 て 懸 け 棄
うて き。 又、 五 月 五 日 赤 き 狗
イヌニ 成 り て 汝 が 家 に 到 り し 時 に、 犬 を 喚 び 相 は せ、 唯 に 追 ひ 打 ち し か ば、 飢 ゑ 熱
ほとほり て 還 り き。 我 正 月 一 日 に 狸 に 成 り て 汝 が 家 に 入 り し 時 に、 供 養 せ し 宍
しし、 種
くさぐさの 物 に 飽 き き。 是 を 以 て 三 年 の 粮
カリテを 継 げ り 。 我 兄 弟 ・ 上 下 の 次 第 无 く し て 理 を 失 ひ、 犬 と 成 り て 噉
くらひ、 白 く 汁を出す。我必ず赤き 狗
いぬに成るべし』といふ。 (
97 ・ 98 )
と、 蘇 生 し た 広 国 が 見 聞 き し た 父 親 の 罪 障 懲 膺 が 語 ら れ る 中 で、 七 月 七 日 に 大 蛇 に、 五 月 五 日 に 赤 犬 に、 正 月 一 日 に は 猫 に
師走晦日魂祭和歌について三
な っ て 訪 れ、 供 養 物 を 食 そ う と し た と あ る。 後 述 す る が、 正 月 一 日、 五 月 五 日、 七 月 七 日 と、 正 月 ・ 五 月 ・ 七 月 の 節 供 の 供 え 物 を 食 す も の で、 「 報 恩 経 」 に 見 ら れ る 五 月 一 五 日 ・ 七 月 一 四 日 で は な く、 ま た、 二 月 一 五 ・ 八 月 一 五 ・ 九 月 一 六 日 と い った日にちでもない。下巻「 髑
ひとかしら髏 の目の穴の 笋
タカンナを 掲
ヌキ 脱
ハナチテ、以て 祈
ねがひて霊しき表を示しし縁 第二十七」には、 白 壁 の 天 皇 の み 世 の 宝 亀 九 年 戊 午 の 冬 十 二 月 下 旬 に、 備 後 の 国 葦 田 の 郡 大 山 の 里 の 人、 品
ほむちのまきひと知 牧 人 は、 正 月 の 物 を 買 は む が 為 に、 同 じ 国 の 深 津 郡 深 津 の 市 に 向 ひ て 往 き き。 中
みちなか路 に し て 日 晩
くれ ぬ。 葦 田 郡 の 葦 田 の 竹
たかはら原 に 次
やどり き。 宿 れ る 処 に、
呻
によふ 音
こゑ有 り て 言 は く、 「 目 痛 し 」 と い ふ。 牧 人 聞 き て、 竟
よもすがら夜 寝 ね ず し て 踞
うずくまり を り。 明 く る 日 見 れ ば、 一 つ の 髑
ひとかしら髏 有 り き。 笋、 目 の 穴 に 生 ひ て 串
くすぬか る。 竹 を 掲
ぬき て 解 き 免
ゆるし、 自 ら 食 へ る 餉
カレイヒを 饗
あへし て 言 は く「 吾 に 福 を 得 し め よ 」 と い ふ。 市 に 到 り 物 を 買 ふ に、 買 ふ 毎 に 意 の 如 し。 疑 は く は、 彼 の 髑 髏 の 祈
ねがひに 因 り て、 恩 を 報 い た る な ら む か と。 市 よ り 還 り 来 り て、 同 じ 竹 原 に 次 る。 時 に 彼 の 髑 髏、 及
また生 け る 形 を 現 し て、 語 り て 言 は く「 吾 は 葦 田 郡 屋
やな穴 国
くにの 郷
さとの 穴
あなのきみ君 の 弟
おとぎみ公 な り。 賊
あた、 伯 父 の 秋 丸 に 殺 さ れ し、 是 れ な り。 風 吹 く 毎 に、 動
ヤヤモスレ バ 我 が 目 甚 だ 痛 し。 仁
きみ者 の 慈
めぐみを 蒙 り て、 痛 苦 既 に 除 か る。 今 飽 く ま で に 慶 を 得 た り。 其 の 恩 を 忘 れ じ。 幸 の 心 に 勝 へ ず。 仁 者 の 恩
めぐみに 酬 い む と 欲
おもふ。 我 が 父 母 の 家 は、 屋 穴 国 の 里 に 有 り。 今
このつき月 の 晦
ツキコモリノ 夕、 吾 が 家 に 臻
いたれ。 彼
その 宵 に 非 ず は、 恩 に 報 い る に 由 無 し 」 と い ふ。 牧 人 聞 き て、 増
ますます怪 し び て 他
ひと人 に 告 げ ず。 晦 の 暮 を 期
ちぎり て、 彼
その 家 に 至 る。 霊
たま、 牧 人 の 手 を 操
とり て、 屋 の 内 に 控
ひき 入 れ、 具
そなへ た る 饌
よきくらひものを 讓
ユヅり て、 以 て 饗 し て 共 に 食 ひ、 残 れ る は 皆 裹
つつみ、 幷 せ て 財 物 を 授 く 。 良
ややひさ久 に あ り て 彼 の 霊 倏
たちまち忽 に 現 は れ ず。 父 母、 諸 霊 を 拝 せ む が 為 に、 其 の 屋 の 裏
うちに 入 り 、 牧 人 を 見 て 驚 き、 入 り 来 れ る 縁
よしを 問 ふ。 牧 人 是 に、 先 の 如 く に 具
つぶさに 述べたり。 (
319 ~
続的に行われていたと理解される。 と、 宝 亀 九 年 七七 八 大 晦 日 に 前 年 に 殺 さ れ た 穴 君 の 弟 公 の 霊 魂 と と も に、 諸 霊 を 拝 せ ん と あ る の で、 大 晦 日 の 祖 霊 魂 祭 が 継 321 )
次 に、 文 学 作 品 に 出 て く る の が、 円 融 朝 の 天 禄 二 ・ 三 年 九七 一・ 二 の 詠 作 と さ れ る『 好 忠 集 』 の「 毎 月 集 」
(二)の、 「 く れ の
師走晦日魂祭和歌について四
冬」 「十二月をはり」にある次の歌である。 三六七 いとまなみかひなき身さへいそかくれみたまのふゆとむべもいひけり 三六八 たままつるとしのをはりになりにけりけふにはまたやあはむとすらん
(三)こ の 歌 に つ い て、 『 曽 禰 好 忠 集 全 釈 』 の 語 釈 で は、 「 ○ み 霊 の 冬 ― 『 恩 頼 』 と も 書 き、 神 な ど の 加 護 ・ 恩 恵 の 尊 敬 語〈 威( こ と ご と く ) み た ま の ふ ゆ を 蒙 れ り 〉( 紀 神 代 上 )。 好 忠 の 個 性 的 な 用 語 で あ っ て、 こ こ で は 御 霊 の 殖 ゆ の 意。 す な は ち、 御 霊 の 幸 を 受 け る こ と。 「『 冬 』 は「 殖 ゆ 」 を 掛 け る。 『 み 霊 』 は 次 の 歌 の『 霊 ま つ る 』 の『 た ま 』 と 同 じ。 」 と 注 し、 大 意 と し て は「 暇 が な く て、 し か も 生 き る か い の な い わ が 身 で も、 忙 し く 年 越 し の 準 備 を す る こ と だ な あ。 」 と さ れ、 評 は、 「 昔 は 霊 を 冬 に ま つ る と、 み 霊 の 幸 を 受 け、 裕 福 に な る と い う 処 か ら、 歳 暮 に 盆 を 行 っ た。 徒 然 草 に『 亡 き 人 の く る 夜 と て 玉 ま つ る わ ざ は、 こ の ご ろ 都 に は な き を、 東 の 方 に は、 な ほ す る 事 に て あ り し こ そ、 あ は れ な り し か。 』( 十 九 段 ) と あ る。 藤 原 清 輔 の 奥 義 抄 の『 中 釈 』 を 見 る と、 『 み た ま の 冬 と 云 ふ は、 な き 人 の 恩 徳 を 報 ず と て 年 の は て に は こ れ を ま つ る 也。 下 人 は み た ま 祭 と 申 す。 公 家 に は 荷 前 祭 と 云 ふ。 書 に も 黄 帝 昇
レ天 み た ま の ふ ゆ す と あ り。 頼 と か き て よ め り。 日 本 紀 に は 恩 頼 と か き て
よ め り。 』( 日 本 歌 学 大 系 第 壱 巻 ) と あ る。 い う ま で も な く、 奥 義 抄 の 釈( 中 ・ 下 ) は、 歌 語 を 中 心 と す る 勅 撰 集 中 の 語 彙 に つ い て 例 歌 を あ げ て 注 釈 し た も の で あ っ て、 著 者 で あ る 藤 原 清 輔 の こ ろ、 す で に こ の『 み た ま の ふ ゆ 』 と い う 語 彙 が 注 釈 を 要 す る も の に な っ て い た こ と を 知 る。 」 と あ り、 ま た、 三 六 八 番 歌 に つ い て は、 「 ○ 霊 ま つ る 年 の 終 り ― 死 者 の 霊 を 祭 る こ と は、 昔 は 十 二 月 晦 日 に 行 わ れ た。 今 の お 盆 に 当 た る。 八 代 集 抄 は、 『 な き 人 に も、 け ふ や、 ま た も あ は ん と 也。 除 目 に 魂
タママツ祠 る 事、 報 恩 経 な ど の 心 な る べ し。 』 と 説 い て い る。 ○ あ は む ― 亡 き 人 に 会 お う。 」 と あ り、 大 意 は、 「 何 と ま あ、 死 者 の 霊 を 祭 る 年 の 晦 日 に な っ て し ま っ た な あ。 今 日 ま た も 死 者 の 霊 に 会 お う と す る の だ ろ う か。 」 と あ っ て、 「 一 年 の 最 後 を か ざ る に ふ さ わ し い 歌 で あ る。 後 撰 ・ 哀 傷〈 な き 人 の 共 に し か へ る 年 な ら ば 暮 れ ゆ く 今 日 は う れ し か ら ま し 〉( 藤 原 兼 輔 ) も 御 霊 祭
の 歌 で あ る。 」 と さ れ る。
(四)ま た、 松 本 真 奈 美 氏 は、 「 ○ 御 魂 の 冬 ― 死 者 の 霊 魂 を 祭 る 冬。 も と 神 ・ 天 皇 の 恩 恵 の 意。 こ こ
師走晦日魂祭和歌について五
で は 原 義 の『 恩 恵 』 の 意 を 掛 け、 上 句 と 関 連 付 け る。 」 と し、 「 ○ 霊 ま つ る ― 十 二 月 晦 日 の 夜 に 死 者 の 御 魂 を 祭 る 御 魂 祭 を 言 う。○下句 ― 再びこの日に逢うことになるのだろうか。一年後まで命があるかどうかを疑う。▽歳末の詠歎。 」
(五)とする。 三 六 八 番 歌 を 入 集 す る『 詞 花 和 歌 集 』 一 六 〇 番 歌 は、 北 村 季 吟 が、 「 玉 ま つ る と し の お は り に な き 人 に も け ふ や 又 も あ は ん と 也 除 目 に 魂
タママツ祀 る 事 報 恩 経 等 の 心 な る へ し 」
(六)と、 「 報 恩 経 」 に 拠 る と し、 工 藤 重 矩 氏 は、 「 先 祖 の 御 魂 を 祭 る、 一 年 の 終 り の 日 に な っ て し ま っ た。 は た し て 再 び こ の 日 に 逢 え る の だ ろ う か。 ○ 魂 ま つ る 十 二 月 晦 日 に は 先 祖 の 魂 が 帰 っ て く る と 考 え ら れ て い た。 『 十 二 月 つ ご も り の 夜 よ み 侍 り け る な き 人 の 来 る 夜 と き け ど 君 も な し 我 が 住 む 宿 や 魂 な き の 里 』( 後 拾 遺 ・ 哀 傷 ・ 和 泉 式 部 )。 徒 然 草 十 九 段 に は『 亡 き 人 の 来 る 夜 と て 魂 祭 る わ ざ は、 こ の ご ろ 都 に は な き を 』 と あ り、 早 く 衰 微 し た ら し い。 」
(七)と す る。 次 に、 魂 祭 記 事 が 見 ら れ る の が、 『 蜻 蛉 日 記 』 で あ る が、 道 綱 母 の 母 親 に 関 す る も の で あ る の で、 関わるところを掲出すると、 [ 一 六 ] 母 の 死 〈 康 保 元 年 九六 四 秋〈 七 月 初 旬 か 〉〉 さ い ふ い ふ も、 女 親 と い ふ 人 あ る か ぎ り は あ り け る を、 久 し う わ づ ら ひ て、 秋 の は じ め の こ ろ ほ ひ 空 し く な り ぬ。 さ ら に せ ん か た な く わ び し き こ と の、 世 の 常 の 人 に は ま さ り た り。 あ ま
た あ る 中 に、 こ れ は、 お く れ じ お く れ じ と、 惑 は る る も し る く、 い か な る に か あ ら む、 足 手 な ど た だ す く み に す く み て、 絶え入るやうにす。
(八)(
129 ・ 琴 お し の ご ひ て か き な ら し な ど す る に、 忌 な き ほ ど に も な り に け る を、 あ は れ に は か な く て も、 な ど 思 ふ ほ ど に、 あ な と お ぼ え て、 い み じ う 泣 か る れ ば、 人 に も 言 は で や み ぬ。 忌 日 な ど 果 て て、 例 の つ れ づ れ な る に、 弾 く と は な け れ ど、 藤衣流す涙の川水はきしにもまさるものにぞありける ことども終はりて帰る。やがて服ぬぐに、鈍色のものども、扇まで祓などするほどに、 [ 一 七 ] 母 の 一 周 忌 に 琴 を 弾 き、 叔 母 と 母 を 偲 ぶ( 康 保 二 年 九 六 五 秋 ) は か な な が ら 秋 冬 も 過 ご し つ。 ( 中 略 ) あ る べ き 130 )
たより、
師走晦日魂祭和歌について六
いまはとて弾きいづる琴の音を聞けばうちかへしてもなほぞ悲しき とあるに、ことなることもあらねど、これを思へば、いとど泣きまさりて、 なき人はおとづれもせで琴の緒を絶ちし月日ぞかへりきにける(
136 ~ 忌(四回忌)供養の記事もない。そして、 と あ る が、 こ こ ま で の 間 に、 道 綱 母 の 母 親 の 新 盆 の 記 事 は な い。 安 和 元 年 九六 八 七 月 か ら 九 月 の 記 事 の 中 に も、 盆 供 養 も 年 138 )
天 禄 元 年 九七 〇 七 月 十 一 日 ~ 十 三 日?( 道 綱 母 へ 兼 家 か ら 盆 供 養 届 く )( 六 回 忌 ) 七 月 十 余 日 に も な り ぬ れ ば、 世 の 人 の 騒 ぐ ま ま に、 盆 の こ と、 年 ご ろ は 政 所 に も の し つ る も、 離 れ や し ぬ ら む と、 あ は れ、 亡 き 人 も 悲 し う 思 す ら む か し、 し ば し こ こ ろ み て、 斎 も せ む か し と 思 ひ つ づ く る に、 涙 の み 垂 り 暮 ら す に、 例 の ご と 調 じ て、 文 添 ひ て あ り。 「 亡 き 人 を こそ思しわすれざりけれと、惜しからで悲しきものになむ」と書きて、ものしけり。 (
202 ・ 越 え に け り。 そ の ほ ど の 作 法 例 の ご と な れ ば、 記 さ ず。 」 と あ る よ う に、 師 走 晦 日 魂 祭 そ の も の が、 通 常 の 事 で 省 略 し た の と、 盆 供 養 の 記 事 は、 し っ か り と 記 さ れ て い る が、 天 禄 元 年 九七 〇 十 二 月 年 越 え に、 「 そ の 月、 三 度 ば か り の ほ ど に て、 年 は 203 )
か、 記 さ れ て い な い。 天 禄 二 年 九七 一 再 度 の 初 瀬 詣(
254 ~ 中巻巻末記事も、 「年の終はりには、なにごとにつけても、思ひ残さざりけんかし。 」( になりぬ。 (七月一四 ・ 五日にあたる) 」が、 この年の盆供養の記事はない。そして、 天禄二年九七 一十二月晦日『蜻蛉日記』 の 日、 今 日 を ま た 見 む か し と 思 ふ 心 こ り ず ま な る に、 夜 更 け て 見 え ら れ た り。 ( 七 月 七 日 七 夕 )( 中 略 ) そ れ よ り 後 も 七 八 日 258 ) の 時 期 は、 七 回 忌 に 当 た る が、 そ の よ う な 記 事 も な い。 「 ま た
さ ま ざ ま に 嘆 く 人 々 の い き ざ し を 聞 く も、 あ は れ に も あ り、 や す か ら ず も あ り。 四 日、 例 の ご と 調 じ て、 政 所 の お く り 天 禄 三 年 九七 二 七 月 の 盆 供 養 七 月 十 余 日 に な り て、 客 人 帰 り ぬ れ ば、 な ご り な う、 つ れ づ れ に て、 盆 の こ と の 料 な ど、 と、心静かに年の終わりを過ごし年越しをする道綱母であるが、魂祭記事はない。 268 )
文添へてあり。いつまでかうだにと、ものは言はで思ふ。 (
304 )
師走晦日魂祭和歌について七
天 禄 三 年 九七 二 さ て 年 暮 れ は て ぬ れ ば、 例 の ご と し て、 の の し り 明 か し て 、 三 四 日 も な り に た め れ ど、 こ こ に は、 改 ま れるここちもせず。鴬ばかりいつしか音したるを、あはれと聞く。 (
ば、 記 さ ず。 ( 天 禄 元 年 九七 〇 十 二 月 晦 日 )」 ( と、 盂 蘭 盆 は 見 え る が、 大 晦 日 の 諸 事 の 中 に 含 ま れ て し ま っ た か、 直 接 の 魂 祭 記 事 は な い。 「 そ の ほ ど の 作 法 例 の ご と な れ 309 ) 年 九七 一 十 二 月 晦 日 )」 ( 216 )「 年 の 終 は り に は、 な に ご と に つ け て も、 思 ひ 残 さ ざ り け ん か し。 ( 天 禄 二 268 ) と あ る よ う に、 例 年 恒 例 の こ と、 常 の 如 し と し て 書 か な か っ た の だ ろ う か、 日 記 の 筆 を 擱 く 段
に な っ て、 「 思 へ ば、 か う な が ら へ、 今 日 に な り に け る も あ さ ま し う、 御 魂 な ど 見 る に も、 例 の 尽 き せ ぬ こ と に お ぼ ほ れ て ぞ は て に け る 。 京 の は て な れ ば、 夜 い た う 更 け て ぞ た た き 来 な る。 (( 天 延 二 年 九七 四 十 二 月 )) 」(
義孝の死を記している( 尽 き な い 物 思 い に 耽 っ て 年 が 終 わ っ て い っ た。 こ の 年 は 疱 瘡 が 流 行 し て 多 く の 人 が 亡 く な り、 『 蜻 蛉 日 記 』 で も 藤 原 孝 賢・ 363 ) と、 魂 祭 に 例 年 恒 例 の かかりけるこの世も知らずいまとてやあはれ蓮の露を待つらむ( 殿、離れたまひてのち、久しうありて、七月十五日、盆のことなど、聞こえのたまへる御返りごとに、 352 )。師走魂祭を呼び起こしたのであろうか。巻末家集(道綱母集)には、
365 ) と あ り、 「 天 禄 三 年 九七 二 の お 盆 か 」 と 注 す る。 高 橋 由 紀 氏 は、 「 蜻 蛉 日 記 に は 亡 母 の 盂 蘭 盆 の 料 を 兼 家 が 調 じ た と 記 す。 → 補 注 蜻 蛉 日 記 に み え る 亡 母 の 盂 蘭 盆( た だ し、 家 集 二 番 歌 と の 関 係 は 不 明。 )」 と す る。 (九)盂 蘭 盆 詠 歌 は 見 ら れ る が、 師 走魂祭詠歌は見られない。 貞 元 元 年 九七 六 ~ 永 観 元 年 九八 三 頃 の 成 立 と さ れ る『 宇 津 保 物 語 』 の「 嵯 峨 の 院 」 巻 の 絵 指 示 に、 「 こ こ は 政 所。 節 料 配 り、 御 魂 の い そ ぎ す。 松 木、 炭、 餅 な ど あ り。 宮、 つ い た ち の い そ ぎ し た ま ふ。 」
(一〇)と、 正 頼 邸 で の 大 晦 か ら 元 日 の 準 備 を 記 すが、 この魂祭には近時の近親死者がなく、 諸祖霊の魂祭と考えられよう。次は、 文学資料ではなく、 藤原実資の日記、 『小 右記』の記事である。具体的な人物を比定しながら見ていきたい。
『小右記』から、魂祭を検出すると、
師走晦日魂祭和歌について八
長保元年九九 九十二月廿九日、御魂今年於染殿奉拜、入夜依例解除、但着服、不奉幣、子始剋許追儺
(一一)(②
月閠、
寛仁元年一〇 一七十二月卅日、入夜解除、奉幣諸神、次拜 御魂、皆是例事也 、亥剋追儺 (④
加料(一二)80 ) 寛仁二年一〇 一八十二月卅日、余解除奉幣如恒、宰相同解除奉幣、了参内、深夜奉拜御魂、亥剋許追儺 ((一三) 303 ) 治安元年一〇 二一十二月卅日、宰相來云、罷着大祓、已如散樂、奉拜御魂、亥終儺 (⑥(一四) 93 ) 治 安 三 年 一〇 二三 十 二 月 卅 日、 …… 文 應[ 慶 ] 僧 都 車 副 二 人 付[ 侍 ] 男 各 与 絹 五 疋、 甚 過 差、 拜 御 魂、 申 時 許 解 除、 依 神 96 )
93 ) 治 安 三 年 一〇 二三 十 二 月 卅 日、 …… 文 應[ 慶 ] 僧 都 車 副 二 人 付[ 侍 ] 男 各 与 絹 五 疋、 甚 過 差、 拜 御 魂、 申 時 許 解 除、 依 神 96 )
祇官佑[祐]惟感[盛]營申也、平上[旦]奉講陁羅尼品、慶範、子刻計□[許追]儺(⑥
万寿元年一〇 二四十二月廿九日、……奉幣諸神幷解除如常、拜□□[御魂]子刻許追儺 (⑦
(一五)255 ) 未、拂曉向禪林寺、 故 女御 周忌法事日也」 (② (婉子女王) 年の実家での魂祭で、 殊更に「今年於染殿奉」と記したものであろう。婉子女王の一周忌は、 長保元年九九 九七月三日に「癸 と な る。 最 初 の 魂 祭 記 事 は、 染 殿 で 行 わ れ た も の で、 花 山 天 皇 譲 位 後 に、 実 資 室 と な っ た、 女 御 婉 子 女 王 の 魂 祭 で、 没 後 一 82 )
今日故女御周忌日、仍於禪林寺修諷誦、布五十端、 宮 修念佛、 (長保元年九九 九七月十三日 ・ ②
(具平親王) 48)と、盛大な周忌法事が行われている。以後、
51 ) 拜瓫如例、但今年加故女御々料莒、熟瓜十籠送天 台 (覺慶)座主 房、依彼消息、十六日熟瓜會料者、 (七月十四日 ・ ②
止故女御々飯、増加乳母及女房等食、但自進物所御菜少々朝臣[夕]可送女房由令仰也、 (七月十五日 ・ ② 51 ) 故 女 御 改 葬 事 可 行、 其 料 石 率 都 婆 造 立、 今 日 令 給 料 物、 三 石、 招 禪 林 寺 律 師、 申 合 女 御 改 葬 雜 事、 ( 九 月 廿 八 日 ・ ② 51 ) 今夜李 阝 大王 被度天台山西脚隨願寺、明日故女御改葬、依有方 忌、下官相従、依可忌避、 (十月九日 ・ ②
(爲平)62 )
親行、納骨壺草[筺]等、付高昭送彼寺、守隆[源]朝臣 ・ 高昭等爲令見改葬事所差遣也、 (十月十日 ・ ② 今夜故女御改葬地鎮事、仰奉平宿禰、以身代令行、石率都婆運今曉禪林寺、件事委附彼寺座主深覺律師、以僧二口令 64 ) 64 )
と、 婉 子 女 王 の 新 盆 や 改 葬 納 骨 と 続 い て、 長 保 元 年 九九 九 十 二 月 廿 九 日 の 御 魂 祭 が 初 記 録 と な る。 実 資 に は、 婉 子 女 王 逝 去
師走晦日魂祭和歌について九
以前に、室と娘の死が確認される。それは、 廿八日、壬寅、早朝罷出、寅時降誕女子、不逢産間、雖馳向、産已遂了
(一六)(寛和元年九八 五四月 ・ ①
秉燭罷出、 (寛和元年五月 ・ ① 廿 五 日、 己 巳、 早 朝 罷 出、 詣 堀 河 頬、 見 小 兒 之 所 惱、 即 歸 參 院、 御 國 忌 也、 ( 中 略 ) 又 詣 堀 河 邊 見 少[ 小 ] 兒、 歸 參 院、
(村上天皇)と、実資は、娘の誕生を喜んで記している。この娘が病んだ時も、 95 ) 99 ) と、見舞っている。この女児の母惟正女は、寛和二年九八 六年五月八日に没したのだろう、翌年永延元年九八 七五月八日に、 己巳、相當 故
(源惟正女)者忌日 、令修諷誦於天安寺、以嚴康師令齋食、 (①
が、 永 祚 元 年 九八 九 五 月 八 日 の 記 事 に、 「 故 内 方 忌 日、 修 諷 誦 於 天 安 寺、 以 平 實 師 令 齋 食 也 」( ①
(源惟正女)一 周 忌 の 記 事 が あ る。 新 盆 は 寛 和 二 年 七 月 十 四 日、 魂 祭 は 一 二 月 二 九 日 だ が、 『 小 右 記 』 が 欠 落 し て い る の で 分 か ら な い 130 )
に は、 「 今 日、 益[ 盂 ] 蘭 盆 供 如 例 」( ① 180 ) と あ っ て、 七 月 一 四 日 祇 園 御 幣 不 可 奉 之 由 出 河 原 解 除、 内 方 同 出 」( ① 191 ) と 盂 蘭 盆 供 養 が 行 わ れ て い る。 そ し て、 永 祚 元 年 六 月 一 五 日 の 記 事 に、 「 今 日 186 ) と あ り、 一 六 日 の 記 事 に は、 「 内 方 度 室 町 」 と、 室 町 に 移 っ た こ と が 見
え、 ま た、 六 月 一 八 日 に は、 「 内 方 今 夜 従 室 町 歸 度、 所 被 迎 取、 頗 有 相 怨 云 々」 ( ①
( ① 186 )、 二 一 日 に は、 「 晴 空 師 爲 内 方 加 持 」 186 )、 そ し て、 七 月 一 六 日 に は、 「 去 十 二 日 修 善、 此 間 内 方 俄 又 惱 煩、 早 歸 以 令 加 持 也 」( ①
告 送 事、 仍 晩 景 密 々 向 彼 宅、 隔 障 子 言 談、 其 病 極 重、 自 以 下 腫 滿 云 々、 起 居 進 退 只 被 任 人 云 々」 ( ① に、 妻 女 を 娶 っ て い る。 こ の 内 方 に つ い て は 不 明 だ が、 同 年 一 二 月 七 日 の 条 に「 出 二 箇 日 假 文、 舅 前 信 乃 守 永 年 危 急 之 由 有
(藤原)192 ) と あ っ て、 新 着 服 帶 」( ① 舅喪、三 〇 日 の 条 に も、 「 卅 日、 丁 丑、 前 信 乃 守 永 年 朝 臣 卒 去、 即 請 假、 依 可 年 首 早 所 出 也、 今 年 奉 幣 諸 神 ・ 解 除 如 件、 戌 終
十箇日、 216 ) と あ り、 一 二 月
舅 氏、 母 方 の 叔 父 の 意 と な る。 し か し、 『 小 右 記 』 の「 舅 」 表 記 は、 寛 仁 元 年 一〇 一七 一 一 月 二 七 日 の 条 に「 鴨 祢 宜 茂 忠 來 申 222 ) と あ っ て、 藤 原 永 年 は、 『 尊 卑 分 脈 』 に よ る と、 藤 原 尹 文 男 で 実 資 母 の 同 胞 と な る。 「 舅 」 は、 舅 父 ・
(一七)慶、 次 申 被 宰[ 寄 ] 之 郡 事、 其 後 祖 祝 伊 信 參 來 令 申 云、 以 加 階 可 譲
(安倍忠信)与 舅 者、 令 仰 云、 當 社 禰 宜 加 階 譲 与 子、 已 有 裁 許、 作 申
師走晦日魂祭和歌について一〇
文、 以 弁 可 令 傳 申、 隨 亦 可 令 奏 也 」( ④
政 由 了 」( ④ 286 )、 同 二 九 日 の 条 に「 権 弁 重 尹 持 來 下 社 祝 伊 信 以 爵 譲 与 舅 安 倍 忠 信 申 文、 示 可 覽 攝 288 ) と あ っ て、 一 二 月 一 日 の 条 の 割 注 に「 祝 伊 信 譲 舅 安 倍 忠 信、 伊 信 本 位 外 従 五 位 下 」( ④
(鴨)越 在 衡、 准[ 唯 ] 貞 信 公 越 湛 ・ 昇 兩 人 也、 有 其 故、 不 可 爲 例、 定 國 者 延 喜 聖 主 外 舅 」( ②
(藤原忠平)(源)日 の 条 に「 偸 見 先 例、 以 大 將 不 越 先 任 人、 延 喜 聖 代 定 國 大 將、 爲 越 國 經、 通[ 道 ] 明 大 將、 不 越 昇 、 天 暦 御 時 師 尹 大 將、 不
(源)に 従 っ て 神 階 を 進 め る 指 示 が さ れ て い る。 明 ら か に「 舅 」 は、 妻 の 父 を 指 し て い る。 母 の 兄 弟 は、 長 徳 三 年 九九 七 六 月 二 五 289 ) と あ っ て、 申 請 37 ) と あ っ て、 醍 醐 天 皇 の 母 胤 子
の 兄 弟 定 国 を「 外 舅 」 と す る。 同 様 の 記 事 は、 七 月 五 日 の 条( ②
年 配 の 女 が い る こ と も 考 え ら れ よ う。 以 上 の こ と に 拠 っ て、 改 め て、 永 年 の 記 事 を 見 る と、 永 延 元 年 九八 七 三 月 二 日 の 条 に て、 永 家 を 生 ん で い る。 正 光 は、 実 資 と 同 年 齡 で、 長 和 三 年 一〇 一四 二 月 二 九 日 に 五 八 歳 で 没 し て お り、 系 図 に は 無 い が、 同 業 申 云、 舅 道 貞 今 朝 死 去 者 」 と、 「 舅 」 は、 妻 の 父 親 と い う こ と に な る。 『 尊 卑 分 脈 』 に 見 ら れ る 永 年 女 は、 正 光 に 嫁 し
(一九) (橘)貢 之 」 と あ っ て、 保 明 親 王 妃 の 貴 子 の 父 を 舅 と す る。 『 御 堂 関 白 記 』 長 和 五 年 一〇 一六 四 月 一 六 日 の 条 に「 時 々 少 雨、 資
(一八)し て い た の で は な い だ ろ う か。 『 九 暦 』 の 天 暦 四 年 九五 〇 八 月 四 日 の 条 に「 又 延 喜 例 儲 君 之 舅 故 太 政 大 臣 ・ 左 大 臣 非 參 議 而
(保明親王)(藤原忠平)(藤原仲平)37 ) に も 見 ら れ る。 『 小 右 記 』 は、 「 舅 」 と「 外 舅 」 を 区 別
「 左 中 辨 ・ 右
(菅原資忠)中 辨 ・ 前 加 賀 守 ・ 景
(藤原)齊 ・ 永
(藤原)年 ・ 知
(藤原)章 ・ 公
(藤原)信 ・ 懷 光 朝 臣 等 同 以 相 伴 」( ①
殿五十石方送百石帶以之着用
条 に は、 「 丸 鞆 班 犀 帶 放 永 年 朝 臣、 」( ①
其直五百石、即令奉了、室町 (藤原)122 ) と あ り、 永 祚 元 年 九八 九 三 月 二 日 の 五月九日条に「女人相倶今夜度 高 行 宅違方」 (① (大蔵) の 喪 に 服 し て い る こ と か ら、 永 年 女 と の 婚 姻 は、 三 月 か ら 一 一 月 の 間 で は な い だ ろ う か。 こ こ で、 そ の よ う な 記 事 を 捜 す と、 166 ) と あ っ て、 同 年 一 二 月 三 〇 日 に は 前 記 し た よ う に、 十 日 間 舅
證 空 □ 去 十 二 日 修 善、 此 間 内 方 俄 亦 惱 煩 早 歸 以 令 加 持 也 」( ① 180 )、 七月一六日の条に「十六日、 甲午、 室町殿從未時許俄以危急、 (中略)
191 ・ 二 条、 依 小 野 宮 北 垣 葺 □ 替 也、 詣 室 町、 所 被 惱 頗 有 冝 氣、 次 參 故 太 相 府、 □ 退、 女 人 等 相 倶 歸 」( ① 192 )、 七 月 二 〇 日 の 条 に「 女 人 ・ 小 兒 児 相 共 度
月 に は、 婚 姻 が 成 立 し て い た よ う に 思 わ れ る。 な お、 こ の 室 の 没 年 時 で あ る が、 明 確 に 記 さ れ て い な い が、 こ の 室 に 関 係 す 192 ) と 見 え て、 三 ・ 四
る 記 事 を 拾 い 上 げ る と、 正 暦 元 年 九九 〇 一 一 月 三 〇 日 の 条 に「 今 朝 歸 度 小 野 宮、 女 人 度 室 町、 晩 頭 歸 小 野 宮 」( ①
241 )、 一 二
師走晦日魂祭和歌について一一
月 二 五 日 の 条 に「 爲 女 房、 自 今 日 限 五 箇 日 令 修 小 善 」( ①
人 任[ 妊 ] 事、 依 少 邪 氣 之 恐 」( ① 244 )、 正 暦 四 年 九九 三 二 月 六 日 の 条 に「 招 證 空 阿 闍 梨 令 加[ 持 ] 女 云 々」 ( ① 申 云、 未 時 吉 時、 雖 然 相 當 女 人 衰 時、 申 一 點 出 棄 宜 歟、 其 方 可 用 乾 方 者、 仍 申 一 點 使 石 作 忠 莭 令 棄 置 乾 方、 其 處 蓮 臺 寺 南 邊 260 )、 二 月 九 日 の 条 に「 女 人 自 今 曉 重 惱 煩、 辰 時 産、 但 兒 夭 了、 仍 召 内 奉 平[ 縣 ] 問 案 内、
261 )、 四 月 二 四 日 の 条 に「 女 房 自 去 夕 有 惱 煩、 招 覺 縁 師 令 祈 誓 」( ①
不 參、 依 病 者 重 」( ① 273 )、 四 月 二 七 日 の 条 に「 位 記 召 給、 觸 障 由 273 )、 五 月 三 日 の 条 に「 自 今 日 限 七 箇 日 以 證 空 阿 闍 梨、 爲 女 房、 令 修 不 動 調 伏 法、 爲 除 病 也、 伴 僧 二 口、
闍 梨 依 有 所 勞、 以 手 替 師 時 々 令 行 」( ①
275 )、 五 月 二 二 日 の 条 に「 今 日 於 祇 園 令 轉 讀 心 經、 爲 身 及 妻 子 ・ 家 内 人 也 」( ①
と あ り、 こ の 室 の 関 連 と し て 良 い か 不 明 で あ る が、 六 月 四 日 の 条 に「 上 下 惱 煩 者 衆、 仍 所 令 行、 就 中 小 尼 重 惱 煩 也 」( ① 279 ) 六 月 五 日 の 条 に「 小 尼 今 日 不 覺、 仍 兩 度 招 送 證 空 阿 闍 梨 」( ① 281 )、
女 人 及 尼 送 仁 海 師 寺 」( ① う が、 室 町 尼 と 永 年 女( 実 資 室 ) か ら す る と、 室 町 尼 に 対 す る 小 尼 か と も 見 て、 掲 示 し た。 そ し て、 六 月 七 日 の 条 に「 今 夕 尼 を 実 資 女 に 比 定 す る。 前 後 に 授 戒 記 事 は な く、 次 に、 室 が 女 房 と か 女 人 と し て 登 場 す る の で、 実 資 女 と 考 え る べ き で あ ろ 281 ) と あ っ て、 こ の 両 記 事 に つ い て、 『 大 日 本 古 記 録 』 は、 小 281 )、 六 月 八 日 の 条 に「 自 寺 示 送 云、 自 去 夕 尼 頗 有 飲 食、 又 女 房 心 神 如 例、 邪 氣 通 夜 被 調 伏 云 々」
( ①
281 )、 六 月 九 日 の 条 に「 今 朝 女 房 自 寺 歸 出 」( ①
及 中 持 破 子 等 」( ① 281 )、 六 月 一 〇 日 の 条 に「 今 朝 女 房 相 倶 向 仁 海 師 許、 尼 病 平 癒、 餌 袋 破 子 宵 調 伏 」( ① 282 )、 六 月 一 四 日 の 条 に「 女 房 朝 俄 重 惱 煩、 其 躰 似 邪 氣、 仍 招 仁 海 上 人、 深 更 來、 加 持 之 間 邪 氣 出 來、 通 282 )、 六 月 一 八 日 の 条 に「 自 昨 日 女 人 有 煩、 仍 請 證 阿 闍 梨 令 加 持、 邪 氣 出 來、 調 伏 之 後 已 以 平 復 」( ①
(證空)日 で、 天 元 五 年( ① 時 に 集 中 し て、 そ の 後 に は 顕 れ な い。 『 小 右 記 』 の 親 族 関 係 の 忌 日 記 事 か ら 探 っ て み る と、 二 月 一 四 日 は、 父 藤 原 斉 敏 の 忌 282 ) と 一 13 ・ ① 14 )、 寛 和 元 年( ①
81 )、 永 祚 元 年( ①
161 )、 正 暦 四 年( ①
261 )、 長 和 元 年( ③
11 )、 長 和 二 年( ③ 82 )、 長 和 三 年( ③
190 )、 寛 仁 三 年( ⑤
118
)、 治 安 元 年( ⑥
12 )、 長 元 四 年( ⑧
れ て い る。 四 月 一 〇 日 は、 祖 父 実 頼 室 藤 原 能 子 の 忌 日 で、 正 暦 四 年( ① 228 ) に 忌 日 記 事 が 見 ら れ、 東 北 院 で 諷 誦 が 修 さ 271 )、 寛 弘 二 年( ②
108 )、 長 和 五 年( ④
178 )、 寛 仁 二
年( ⑤
12 )、 治 安 三 年( ⑥
152 )、 万 寿 四 年( ⑦
227 ) に 忌 日 記 事 が 見 ら れ、 勧 修 寺 で 諷 誦 が 修 さ れ て い る。 四 月 一 八 日 は、 兄 藤
師走晦日魂祭和歌について一二
原 懐 平 の 忌 日 で、 治 安 三 年( ⑥
156 ) に 忌 日 記 事 が 見 ら れ る。 五 月 八 日 は、 実 資 室 源 惟 正 女 の 忌 日 で、 永 延 元 年( ①
祚 元 年( ① 130 )、 永 180 )、 正 暦 四 年( ①
277 )、 万 寿 四 年( ⑦
藤原実頼の忌日で、天元五年(① 237 ) に 記 事 が 見 ら れ、 天 安 寺 で 諷 誦 が 修 さ れ て い る。 五 月 一 八 日 は、 祖 父 37 )、 寛和元年(①
97 )、正暦四年(①
278
)、長和元年(③
24 )、長和三年(③
( ④ 229 )、長和四年
29 )、 寛 仁 二 年( ⑤
32 )、 万 寿 四 年( ⑦
( 宣 旨 ) の 忌 日 で、 長 和 元 年( ③ 238 )、 に 忌 日 記 事 が 見 ら れ、 東 北 院 で 諷 誦 が 修 さ れ て い る。 六 月 三 日 は、 実 資 乳 母 31 )、 寛 仁 二 年( ⑤
37 )、 長 元 三 年( ⑧
177 ) に 記 事 が 見 ら れ、 清 水 寺 ・ 珍 星 寺 で 諷 誦 が 修 さ
れ て い る。 七 月 一 一 日 は、 実 資 女 の 忌 日 で、 万 寿 四 年( ⑧
49 )、 長 元 四 年( ⑨
さ れ て い る。 七 月 一 三 日 は、 室 女 御( 婉 子 女 王 ) の 忌 日 で、 長 保 元 年( ② 5 ) に 忌 日 記 事 が 見 ら れ、 天 安 寺 で 諷 誦 が 修 51 )、 万 寿 二 年( ⑦
107 )、 万 寿 四 年( ⑧
元 年( ⑧ 5 )、 長 元 64 )、 長 元 四 年( ⑨
日 で、 永 観 二 年( ① 5 ) に 忌 日 記 事 が 見 ら れ、 禅 林 寺 で 諷 誦 が 修 さ れ て い る。 一 一 月 一 三 日 は、 母 藤 原 尹 文 女 の 忌 58 )、 永 祚 元 年( ①
209 )、 長 保 元 年( ②
71 )、 寛 仁 四 年( ⑤
251 )、 長 和 元 年( ⑪
98 )、 長 和 三 年( ③
安 元 年( ⑥ 249 )、 治 70 )、 治 安 三 年( ⑥
228 )、 万 寿 元 年( ⑦
57 )、 万 寿 二 年( ⑦
158 )、 万 寿 四 年( ⑧
38 )、 長 元 五 年( ⑨
ら れ、 道 澄 寺 で 諷 誦 が 修 さ れ て い る。 し か し、 永 年 女 に 当 た る 忌 日 を 見 つ け る こ と が で き な い。 前 記 し た よ う に、 病 気 平 癒 66 )、 に 記 事 が 見 の 加 持 祈 祷 記 事 の 集 中 か ら し て、 正 暦 四 年 九九 三) 六 ・ 七 月 頃 に 没 し た と 想 像 す る。 そ し て、 花 山 院 女 御 婉 子 女 王 と の 婚 姻 に つ い て、 杉 崎 重 遠 氏 は、 「 婉 子 女 王 が 実 資 の 北 の 方 と な っ た 時 期 は、 道 信 が 永 眠 し た 正 暦 五 年 以 前 に 求 め な け れ ば な ら な い こ と は 当 然 で あ る が、 強 い て 憶 測 を 下 す な ら、 正 暦 五 年 に 近 い 過 去 と す る よ り も 花 山 天 皇 が 出 家 さ れ た 寛 和 二 年 に 誓 い 頃 に求むべきであろう。 」
(二〇)とされる。しかし、 これまでの室源惟正女、 室叔父藤原永年女と、 その没後に婚姻していること、 『 小 右 記 』 長 徳 三 年 九九 七 七 月 五 日 の 条 の「 為 故 左 衛 門、 今 日 令 立 率 都 婆 供 養、 以 仁 阿 闍 梨 令 行、 左 衛 門 者 是 如 [
(婉子女王)女 ] 御 之 乳 母、 誰 人 頻 愁 受 所 令 立 之 率 都 婆 也 」 婉 子 女 王 乳 母 卒 塔 婆 記 事( ②
臣道兼息女、
月 十 一 日 の 条 の「 陰 陽 頭 文 高 來、 傳 左 府 室 家 消 息 云、 世 間 無 常、 旦 暮 難 期、 有 一 女 子、 所 思 万 端、 欲 與 於 余 者、
件女子故右大 (惟宗)(藤原顯光)(藤原遠量女)37 ) や、 婉 子 女 王 歿 後 の 寛 仁 元 年 一〇 一七 七 答 云、 染 殿 (婉子女王)女 御 亡 歿 後 深 訓 念 不 可 儲 室 之 事、 無 止 人 々 雖 有 御 消 息 所 不 承 從 」( ④
207 ) の 記 事 か ら 推 し て、 正 暦 四 年 の 後 半 か
師走晦日魂祭和歌について一三
ら正暦五年の前半あたりと推量する。 さ て、 師 走 晦 日 の 魂 祭 で あ る が、 婉 子 女 王 以 前 の 二 人 の 室 の 没 年 時 前 の 永 観 二 年 八九 四 の 十 二 月 晦 日 の 記 事 は、 「 卅 日、 乙 巳、 今 夜 解 除、 奉 幣 諸 神、 是 例 事 也、 秉 燭 參 内、 亥 時 追 儺、 先 是 有 莭 祈[ 折 ] 事、 儺 事 了 退 出、 示[ 主 ・ 花 山 天 皇 ] 密 々 出 御 南 殿 覽 儺、 」( ① 惟 正 女 が 無 く な っ た 年 は、 『 小 右 記 』 の 記 事 は な く、 翌 年 永 延 元 年 九八 七 に は 三 回 忌 の 記 事 は あ る が、 こ の 年 の 七 月 以 降 欠 落 69 ) と あ っ て、 と り た て て 魂 祭 の こ と は 記 さ れ て い な い。 そ し て、 寛 和 二 年 九八 六 五 月 八 日 に 最 初 の 室
し て い る の で、 師 走 晦 日 魂 祭 は 分 か ら な い。 翌 永 延 二 年 九八 八 も、 一 二 月 一 八 日 移 行 が 欠 落 し て い て 不 明。 そ の 翌 年、 永 祚 元 年 九八 九 は、 前 に 永 年 歿 と し て 引 用 し た が、 こ こ に も 魂 祭 は 見 ら れ な い。 婉 子 女 王 没 時 に は、 婉 子 女 王 の 実 家 染 殿 で の 魂 祭 を 記 す。 ま た、 前 記 し た 婉 子 女 王 乳 母 の 卒 都 婆 供 養、 婉 子 女 王 歿 後 の 再 婚 話 不 受 の こ と な ど を 合 わ せ る と、 盂 蘭 盆 供 養 は、 祖 先 の 供 養 と し て 一 般 的 に 行 わ れ、 師 走 晦 日 魂 祭 は、 特 別 な こ と と し て 行 わ れ る よ う に な っ て い た の だ ろ う か。 為 平 親 王 や 染殿関係でも師走魂祭記事を見出していない。 『枕草子』 「花の木ならぬは」に、
花 の 木 な ら ぬ は 楓。 桂。 五 葉。 ( 中 略 ) 譲 り 葉 の い み じ う ふ さ や か に つ や め き、 茎 は い と 紅 く き ら き ら し く 見 え た る こ そ、 あ や し け れ ど を か し。 な べ て の 月 に は、 見 え ぬ も の の、 師 走 の つ ご も り の み、 時 め き て、 亡 き 人 の 食
くひもの物 に 敷 く も の に や と、 あ は れ な る に 、 ま た 齢 ひ を 延 ぶ る 歯 固 め の 具 に も も て つ か ひ た め る は。 い か な る 世 に か、 「 紅 葉 せ む 世 や 」 といひたるもたのもし。
(二一)と あ り、 「 魂 祭 が 行 わ れ る。 亡 き 人 の 霊 は 十 二 月 末 日 午 刻 に 来 て 正 月 一 日 卯 刻 に 帰 る と い う。 」 と 注 す る。 ま た、 萩 谷 朴 氏 は、 『枕草子解環』 「観葉樹」で、 ○ な き 人 の く ひ 物 に し く 『 小 右 記 』 長 保 元 年 十 二 月 二 十 九 日 条 に「 御 魂、 今 年 於
二 テ染 殿
一 ニ奉 拝 」、 同 寛 仁 元 年 十 二 月 三 十
日 条 に、 「 入
レ夜 解 除、 奉 ─
二幣
シ諸 神
一 ニ、 次
イデ拝
二 ス御 魂
一 ヲ、 皆 是
レ例
ノ事 也 」 と あ る。 歳 末 除 夜 の 御 魂 祭 に は、 酒 食 を 祖 先 の 霊 前
師走晦日魂祭和歌について一四
に 供 え る が、 そ の 時、 ゆ ず り 葉 を 敷 く 習 わ し が あ っ た の だ ろ う か。 た だ し、 『 延 喜 式 』 巻 二 神 祇 二、 四 時 祭 下 に は 十 二 月 祭 と し て「 鎮
オオムタマシヅメイムベノ二御 魂
一斎 戸 祭 」 に、 そ の 材 料 と し て、 「( 前 略 ) 米、 酒 各 一 斗。 鰒、 堅 魚、 腊、 海 藻 各 六 斤、 塩 二 升、 瓼 、 水瓫一口、 坯 八口、匏一柄、檞十把、 食
スコモ薦 一枚」とあるのみで、ゆずり葉のあることを見出ださない。
(二二)と さ れ る。 『 延 喜 式 』 に は、 「 園 韓 神 祭 雜 給 料 春 冬 并 同 」 に、 「 瓫 六 口。 堝 五 口。 食 薦 五 十 枚。 弓 弦 葉 五 擔。 蒜 一 斗 葱 二 斗。 蘿 菔 五 十 把。 芹 六 斗。 萵 苣 五 斗。 芸 薹 二 斗。 胡 五 升。 蘭 十 把。 蔓 菁 六 斗。 葵 二 斗。 」(
764 )「 春 日 祭 雜 給 料 春 冬 竝 同 」 に、 「 弓 弦 葉 廿 七 擔。 干[ 菁 ] 柏 六 俵。 炬 油 六 升。 竹 三 擔。 黒 葛 六 斤。 簀 四 枚。 干 柏 三 俵。 食 薦 七 十 八 枚。 鮮 魚 充レ直 」 (
草 各 二 擔 」( 762 )「 践 祚 大 嘗 祭 供 神 料 」 に、 「 檜 葉 眞 木 葉 各 五 擔。 弓 弦 葉 寄 生 各 十 擔。 眞 前 葛。 日 蔭。 山 孫 組 各 三 擔。 山 橘 子。 袁 等 賣
一五三 おく山のゆづるはいかでをりつらんあやめもしらず雪のふれるに 十二月おほ雪のふれるに家にをのこかしらに雪かかりてゆづる葉もちてきたり 一一一 ・ 三五九四番歌( 『古今和歌六帖』四三二九 ・ 四三二五)があるが、師走や正月飾りには関わらない。 『兼盛集』には、 888 ) と 見 ら れ る が、 魂 祭 と い う よ り 継 嗣 に 関 連 す る よ う に 思 わ れ る。 譲 葉 が 和 歌 に 見 え る の は、 『 万 葉 集 』
魂祭用か正月用かは不明である。確証はないが、 『新撰和歌六帖』 「しはす」や「ゆづるは」 一九六 山人のつま木にそふるゆづる葉に春をかけたる色は見えつつ 二五三一 ゆづる葉のときはの色もうづもれぬあしくま山に雪のふれれば 二五三二 春ごとに色もかはらぬゆづるはのゆづるときはも君がためとぞ 二五三三 これぞこの 春をむかふるしるべ とてゆづる葉かざしかへるやま人 二五三四 としごとになづとはすれどゆづるはのかひこそなけれおいのしぼみは 二五三五 いやましにあしくまやまはみゆきふる峰のゆづる葉いそぎをらなん
の 事 例 や 以 後 の 譲 葉 の 歌 か ら 推 し て、 正 月 の 準 備 と 理 解 し て 良 い よ う に 思 わ れ る。 譲 葉 に つ い て 詳 細 に 考 察 さ れ た 佐 藤 喜 代
師走晦日魂祭和歌について一五
治 氏 の「 『 ゆ づ る は 』 考 」
(二四)に も 正 月 の 飾 り 以 外 の 記 述 は な い。 譲 葉 は、 そ の 葉 は 一 五 糎 か ら 二 〇 糎 と 長 さ が あ り 厚 さ も あるが、披針形で幅が五 ・ 六糎で、食い物を載せるに適しているとは思われない。 次の師走魂祭詠歌の事例は和泉式部の歌で、 『後拾遺和歌集』哀傷部には、 敦道親王におくれてよみ侍ける 和泉式部 五七三 いまはただそよそのこととおもひいでてわするばかりのうきこともがな おなじころあまにならむと思ひてよみ侍ける 五七四 すてはてむと思ふさへこそかなしけれきみになれにしわがみとおもへば 十二月の晦のよよみはべりける 五七五 なきひとのくるよときけどきみもなしわがすむやどやたまなきのさと と、 敦 道 親 王 親 王 没 後 の 和 泉 式 部 の 傷 心 が 連 続 し て 配 列 さ れ て い る。 中 で も、 五 七 五 番 歌 の 大 晦 日 の 魂 祭 が 特 異 な も の で あ る。 北 村 季 吟 は、 「 な き 人 の く る よ と 十 二 月 晦 日 に な き 魂 の く る 事 報 恩 経 に あ り 玉 な き の 里 い づ く ぞ や 追 而 可 考 」
(二五)と 注
し、 川 村 晃 生 氏 は、 「 一 こ の 日 飲 食 の 用 意 を し、 死 者 の 魂 を 迎 え る。 二 死 ん だ 宮 と 私 の 魂。 ▽ 死 ん だ 人 が 来 る 夜 と 聞 い て い る け れ ど も 宮 様 も い ら っ し ゃ ら な い、 私 の 住 ま い は『 魂 な き の 里 』 な の か し ら。 ※ 作 者 は 宮 の 死 後、 魂 の 拔 け た 状 態 で い る ( 一 一 六 二 も 遊 離 魂 )。 魂 な き 里 を 地 名 と 考 え る 説 も あ る が 、 或 い は そ の 地 名 に 拠 っ た 詠 法 か 。 ◎ 大 晦 日 に 戻 ら ぬ 宮 の 魂 」
(二六)と 注 さ れ る。 そ し て、 平 田 喜 信 氏 は、 「 今 宵 は 亡 く な っ た 人 が 訪 ね て 来 る 夜 と 聞 い て は い る が、 君 の け は い は ど こ に も な い こ と だ。 私 の 住 い は『 魂 無 き の 里 』 な の だ ろ う か。 和 泉 式 部 続 集『 し は す の 晦 の 夜 』。 ○ な き 人 の 来 る 夜 十 二 月 晦 日 の 夜 は 死 者 が 帰 っ て 来 る 夜 と し て、 死 者 の 魂 を 祭 る 習 慣 が あ っ た。 ( 中 略 ) ▽『 魂 』 の 来 訪 を 実 感 で き な い も ど か し さ、 惻 々 と 迫る喪失感を実感を込めて表出」
(二七)と注される。また、 『和泉式部続集』には、
しはすの晦の夜
師走晦日魂祭和歌について一六
四一 なき人のくるよときけど君もなしわがすむ里やたまなきのさと と あ っ て、 佐 伯 梅 友 ・ 村 上 治 ・ 小 松 登 美 氏 の『 和 泉 式 部 集 全 釈 続 集 篇 』 で は、 「 今 夜 は 亡 き 人 の お と づ れ て 来 る 夜 と 聞 い て ゐ ま す が、 宮 さ ま は い ら っ し ゃ ら な い。 わ た し の 住 む 所 は、 い っ た い『 魂 無 き の 里 』 な の で せ う か。 」 と 通 釈 さ れ、 語 釈 に は「 ○ 亡 き 人 の 来 る 夜 ― 山 中 裕 氏 の『 平 安 朝 の 年 中 行 事 』『 御 魂 祭 』 の 項 詳 し い 説 明 が あ り、 平 安 時 代、 十 二 月 晦 日 の 夜 に は 亡 き 人 の 為 に 飲 食 を 設 け、 死 者 の 魂 を 祭 る 風 が あ っ た。 ○ 魂 無 き の 里 ― ど こ か 不 明。 歌 で は、 こ の 歌 の 他 に【 余 説 】 引 用
の 江 帥 集 の〈 夏 の 夜 は 卯 の 花 月 夜 あ か け れ ば 夜 も 見 つ べ し た ま な き の 里 〉 の 一 首 を 見 る の み で、 江 帥 集 の 歌 か ら 見 る と、 た し か に ど こ か に 実 在 し た 地 名 だ っ た ら し い が、 古 く か ら 不 明 と さ れ て ゐ る。 な ほ『 魂 な き 』 は 福 井 照 之 氏 の 言 わ れ る や う に (「 和 泉 式 部 」 考『 山 口 大 学 教 育 学 部 研 究 論 叢 二 十 三 巻 』) 『 故 宮 の 魂 の 不 在 』 に、 『 わ が 魂 の 不 在 』 を 重 ね て 考 へ る べ き で あ らう。 」とあって、 余説では、 「一、 後撰哀傷、 貫之〈恋ふる間に年の暮れなば亡き人の別れやいとど遠くなりなむ〉 、 同、 同、 兼 輔〈 亡 き 人 の と も に し 帰 る 年 な ら ば 暮 れ 行 く 今 日 は 嬉 し か ら ま し 〉 等 の 古 歌 が、 こ の 時、 和 泉 の 心 に 浮 か ん で ゐ た で あ ら う。 ( 以 下 省 略 )」
(二八)と さ れ る。 和 泉 式 部 詠 は、 敦 道 親 王 薨 去 後、 東 三 条 院 南 院 を 出 て の 師 走 晦 日 魂 祭 詠 で あ る か ら、 自 邸 で の 詠 で、 『 小 右 記 』 の 婉 子 女 王 の 師 走 晦 日 魂 祭 が、 生 家 染 殿 と 婚 家 実 資 邸 で は な い と し た ら、 魂 祭 の 設 え で も あ っ た の だ ろ う か。 そ れ と も、 和 泉 式 部 の 深 い 心 情 を、 吉 野 瑞 恵 氏 は、 「 盂 蘭 盆 の 習 慣 か ら 類 推 す る と、 死 者 の 魂 が 戻 っ て く る 場 所 は、 死 者 が 生 前 に 暮 ら し た 愛 着 の 残 る 自 邸 で あ ろ う。 右 の 歌 の 場 合 は『 わ が 住 む 里 』 と あ る の で、 式 部 が 帥 宮 の 非 在 を か み し め て い る 場 所 は、 宮 邸 で は な く、 宮 邸 を 辞 し た 後 に 戻 っ た 我 が 家 で あ る。 あ り し 日 の 帥 宮 が 式 部 の も と に 通 っ て い た 時 の 思 い 出 に、 宮 の 魂 が 生 前 の ご と く 我 が 家 に や っ て 来 て 自 分 の 身 に 添 う 幻 影 が 重 ね ら れ て い る。 『 君 も な し 』 と い う 表 現 ほ ど 直 接 的 に 死 に よ る 喪 失 感 を 表 す も の は な い だ ろ う。 」
(二九)と さ れ る「 わ が す む 里 」 そ の も の が、 『 和 泉 式 部 日 記 』 冒 頭 の 為 尊 親 王 薨 去 後 の 喪 失 感「 夢 よ り も は か な き 世 の 中 を、 嘆 き わ び つ つ 明 か し 暮 ら す 」
(三〇)と 重 な る も の だ ろ う か。 ま た、 前 記 し
た『曽禰好忠集全釈』などに引かれる藤原清輔の『奥義抄』の記事、
師走晦日魂祭和歌について一七
曾丹集云、 四十六 いとまなみかひなき身さへいそぐかなみたまのふゆとむべもいひけり み た ま の ふ ゆ と 云 は、 な き 人 の 恩 徳 を 報 ず と て 年 の は て に こ れ を ま つ る 也。 下 人 は み た ま 祭 と 申 す。 公 家 に は 荷 前 祭 と 云ふ。書にも黄帝昇
レ天みたまのふゆすとあり。賴とかきてよめり。日本紀には恩賴とかきてよめり。
(三一)と あ っ て、 「 下 人 は み た ま 祭 と 申 す。 公 家 に は 荷 前 祭 と 云 ふ。 」 と す る が、 荷 前 祭 は、 毎 年 一 二 月 に、 大 神 祭( 上 卯 日 か 三 卯
あ る 時 は 中 卯 ) か ら 立 春 の 間 の 吉 日 を 選 び、 天 皇 皇 后 後 続 な ど の 陵 墓 に 幣 帛 を 献 ず る 祭 祀
(三二)で、 師 走 晦 日 の 一 日 に 限 定 さ れ る も の で は な い の で、 諸 注 釈 が 引 用 す る『 徒 然 草 』 一 九 段 の、 「 亡 き 人 の く る 夜 と て 魂 祭 る わ ざ は、 こ の ご ろ 都 に は な き を 、 東 の か た に は 、 な ほ す る 事 に て あ り し こ そ 、 あ は れ な り し か 。」 よ う に 、 早 く 無 く な っ た 行 事 で あ ろ う 。 安 良 岡 康 作 氏 は 、「 兼 好 の 、 関 東 下 向 の 経 験 の 回 想 で で あ る 。」 と さ れ る 。 ま た 魂 祭 に つ い て も 詳 細 に 資 料 を 上 げ て 考 察 さ れ て い る 。
(三三)兼 好 法 師( 弘 安 六 年 一二 八三 ? ― 観 応 三 年 一三 五二 ?) は、 数 度 に 亘 る 関 東 下 向 に お い て 師 走 晦 日 魂 祭 を 見 聞 し た こ と に な る。 兼 好 法 師 に 遅 れ る こ と 六 ・ 七 〇 年 の 宗 長( 文 安 五 年 一四 四八 ― 天 文 元 年 一五 三二 ) の『 宗 長 手 記 』 に は、 「 除 夜 に 今 夜 は な き 玉 歸 く る
事 經 に も い へ り。 詞 花 集 や ら ん。 涙 の 玉 を 手 向 つ る 哉 と も あ り。 宗 長 七 十 九。 お ほ く の 故 人 茶 湯 燒 香 燈 を か ゝ げ て。 我 ぞ 此 道 し る べ し て く べ き よ ひ ま た ゝ き 向 ふ と も し 火 の 影 已 に 大 永 六 年 く れ て。 七 年 正 月 元 日 」(
記 』 上 巻 に は、 「 一 父 祖 の 祭。 父 母 過 去 聖 靈 の 月 忌 齋 粥。 僧 衆 寄 次 第。 座 頭 以 下 餘 り に 多 人 數 は い か に そ や。 盆 悲 願 は 格 別。 と 過 ぎ 行 く 年 に 涙 の 玉 を 贈 っ た と い う 歳 暮 の 情 で あ る。 し か し、 「 お ほ く の 故 人 茶 湯 燒 香 燈 を か ゝ け て 」 と あ り、 『 宗 長 手 一 五 八 六 番 歌「 老 い ぬ と も 又 も あ は む と ゆ く と し に 涙 の 玉 を 手 向 け つ る か な( 皇 太 后 宮 大 夫 俊 成 )」 で、 ま た 来 年 も 逢 お う あ り。 」 と あ っ て、 好 忠 の 歌 を 思 い 出 そ う と し た の だ ろ う か。 「 涙 の 玉 を 手 向 つ る 」 は、 『 新 古 今 和 歌 集 』 巻 第 十 六 ・ 雑 上 の 京 を 往 還 し た 宗 長 だ け に、 駿 河 に は 師 走 晦 日 魂 祭 が あ っ た の か と も 思 わ れ る が、 「 詞 花 集 や ら ん。 涙 の 玉 を 手 向 つ る 哉 と も 310 )」 と あ り、 駿 河 と
(三四)毎 月 人 數 さ た め ら る へ き に こ そ。 一 月 の 中 度 々 の 月 忌 寄 次 第 粥 飯 の 雑 事。 目 に み え す し て 借 物 積 る な る べ し。 」(
290 ) と あ る
師走晦日魂祭和歌について一八