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毘沙門天法の請来と羅城門安置像

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毘沙門天法の請来と羅城門安置像

著者 松浦 正昭

雑誌名 美術研究

号 370

ページ 27‑57

発行年 1998‑03‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006220/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

(2)

見沙門天法の請来と羅城円安置像

東寺毘沙門堂の本尊である国宝・毘沙門天立像(図版I刊)は︑東寺本来

の仏像ではなく︑もと平安京羅城門に安置きれていたもので︑羅城門が転倒

廃絶したために東寺に移されたことは︑すでに﹃東宝記﹄所載の記事によっ

て周知されている︒また鳥形を表した王冠を戴き︑西域風の金鎖甲と海老龍

手で身を固め︑足下に地天女と二鬼を踏んで立つ本像については︑特に﹁兜

抜﹂(建久八年以前のことを記す高山寺本﹃東寺講堂指図﹄による)と称きれ︑

通行の毘沙門天とは異なる特別の存在として受容されていたことも知られる

ところである︒

本考は東寺像に関わる羅城門安置の伝承︑﹁兜抜﹂の意義︑兜抜像様の子

関から唐への伝来とその中国的変化︑日本における像様ならびに経軌の請来

とその受容等について考察を進め︑東寺像が九世紀初めの延暦遣唐使の時代

に最澄によって請来され︑桓武天皇創建の羅城門に安置されたと考える私見

を明らかにするものである︒ただ考察が多岐にわたるため記述量が所定の範

囲を超過してしまったので︑前段については別に詳細を報告することにし︑

ここでは後半における結論的考察を先に報告することを諒解されたい︒また

毘沙門天法の請来と羅城門安置像

方 公

正 日 召

本文での所論は前段における主張を踏まえたものであるから︑最初に前段に

おける主張の要点を述べ︑本文での所論を補うことにしたい︒

東寺像が平安京羅城門に安置きれていたとの伝承は︑﹃東宝記﹄に収めら

れて

おり

それは建久三年(一一九二)七月一日の﹁行宴法眼記﹂に出る勝

定房恵什が報告した像内刻銘を根拠としている

︒﹃勝語集﹄によれば恵什は

保延五年(二三九)十月十一日頃にこの像内刻銘を実見していたことが考

えられるのであり︑またこの像内刻銘は︑寛弘七年(一O

O )

頃に本像が

廃絶した羅城門から東寺へ移安されるに際して︑その旨を像内に銘記したも

のと判断されるから︑像内刻銘にある本像の羅城円安置の記述は移安当時の

直接史料としての意味を持ち︑今さらそれを否定することはできないと考え

られる︒しかし同じ像内刻銘に出るところであっても︑本像が天慶三年(九

O

)

の平将門の乱に際して造立されたとする内容は︑すでに像の移安と銘

記の時点を七十年もさかのぼる伝承事項に属することであるから︑これにつ

いてまでそのまま信用する必要はないのである︒

また本考においては平安京羅城門について︑裏松田禅の﹃大内裏図考証﹄

が引く﹃古本拾芥抄﹄にもとづき︑その規模を﹁二重閣九間﹂とする見解に

従っている︒新都平安京と旧都平城京を主要門の規模で比較すると︑

発掘調

(3)

i

'7'cl 

7L 

査により二重閣五間に復元された平城朱雀門に対し︑平安朱雀門は二重閣七

問であることが﹃伴大納言絵巻﹄によって知られるから︑まず宮城正面の朱

雀門において︑平安京は平城京の規模を拡大していたことが確認される︒

して最近の研究により平城京羅城門が七間門であったことが明らかになった

ので

それを踏まえると︑平安京では京城正面の羅城門についても宮城正面

の朱雀門と同様に平城京の規模を拡大したものと判断されるから︑九聞と七

聞の二説があるうちここでは九間説に従ったのである︒したがって二重閣

九聞の平安京羅城門は︑七聞の平城京羅城門はもちろん︑唐都長安最大の京

城円である明徳門の七間五門道の規模をも超える︑まさに当代随一の巨構と して平安京の正面に建設されたことが考えられるのである

﹃寛

平御

遺誠

に羅城門の高きをめぐる桓武天皇の逸話が伝えられているのは︑平安京羅城

門を特別な巨構として計画した桓武朝廷の新都造営構想がその背景をなして

いると解釈されるのである︒

﹁兜抜﹂については︑承和六年(八三九)

に常暁が請来した

﹃念

講要

経﹄

( ﹃

念諦要経﹄は常暁の﹃請来録﹄と安然の﹃八家秘録﹄に﹁北方毘沙門天王念諦

要経二巻﹂とあるが今は伝存せず︑﹃鵡珠秒﹄と﹃白宝口抄﹄が﹁兜抜﹂につい

て︑その一部を引用している)に出典があり︑

その後訳本と思われる新渡の

﹃蔵王呪経﹄(今は伝存せず︑﹃阿裟縛抄﹄が﹁兜抜﹂について︑

その一部を 引用している)には﹁兜政﹂とあり︑ともに国名として使用されているが︑

それは東トルキスタンのコlタンを指す古代トルコ語のHc σ σ

巳に由来する

との

RA‑スタンの提説により︑経説の﹁兜抜﹂は中国古文献に言う子関

であることが知られる︒すなわち経説の﹁兜抜国﹂は子関国であることが判

明し︑﹁兜抜国王形﹂にて出現したものと説かれる兜抜毘沙門天とは︑子関

国王の姿で表された子関毘沙門天であると理解することができるのである︒

これを造像資料から考証すると︑まず子関国王の姿は︑﹁大朝大宝子関国

大聖大明天子﹂の銘記がある敦煙九八窟の李聖天像によって実際に知ること

ができる︒ここでの子関国王像は︑子関国王李聖天が中国皇帝から冊封きれ

た地位にあることを示すために中国式の晃服も合せ着用しているから︑子関

国王本来の姿がそのまま表されているわけではないが︑中図式の晃旅の下に

見える王冠や長絹頭飾︑あるいは腰に侃く大万横剣︑そして国王の両足を捧

げる脚下の地天女に子関国王としての本来の特徴が示されている︒またそれ

らの特徴は﹃洛陽伽藍記﹄や﹃蔵王呪経﹂などの文献が伝える子関国王乃至

兜抜国王の形像とも一致していることが確認される︒

そして安西検林窟第一五窟の前室マ用道東壁においては︑それら子関国王本

来の特徴をそのまま表現した武装形の子関国王像が描かれ︑さらにそれと対

置する壁面にはこの武装形子関国王に宝塔を持たせて毘沙門天に転化した

像が描かれている︒このように武装形子関国王像とそれを転化した毘沙門天

像を一具として描いた安西検林窟第一五窟の壁画は︑兜抜毘沙門天とは兜抜

国王すなわち子関国王の姿で出現したものであるとする﹃念諦要経﹄ならぴ

に﹃蔵王呪経﹄の経説とよく一致しておりここでは経説がそのまま壁画に

図示されていると考えることができる︒かくして兜抜毘沙門天とは子関国王

の姿と一体化した子関毘沙門天であることは︑造像資料からも実証されるの

である︒

そしてこれら子関国王像およびそれを転化させた毘沙門天像に共通する最

も目立った像様上の特徴は︑その足下に表された地天女の姿であり︑これが

子関毘沙門天すなわち兜抜毘沙門天であることを判別する基本的特徴である

ことが理解されるのである︒この地天女に両足を支えられた子関国王形の毘

沙門天すなわち兜抜毘沙門天の造像が︑実際に子関国で成立し流布していた

(4)

ことを示す例証はスタイン発掘の子関ラワク寺祉の塑像(西暦四

O

O年前

後)︑あるいは子関語銘文をともなった毘沙門天画像(ペリオ収集の二例︒

フラ

ンス国立図書館所蔵)

であ

り︑

ともにその足下には地天女が表現きれている︒

そもそも子聞は毘沙門天にまつわる建国神話を伝えるところで︑子関国王

は毘沙門天の末商を称するなど︑毘沙門天信仰がきわめて盛んであったこと

は︑玄突の﹃大唐西域記﹄が詳述している︒﹃大唐西域記﹄によると︑

この

国の最初は毘沙門天が住するところで︑国王は自ら﹁毘沙門天之併胤﹂と称

し︑毘沙門天神像の額から生れた神童がその神前に出現した地乳によって成

長して国王となり︑その祖先神である毘沙門天を杷る神嗣を営んだことを内

容とする毘沙門天霊験信仰があったことが知られる︒またその国名である崖

薩旦那(クスタナ)

は ︑

旧訳が﹁子関﹂で︑唐訳では﹁地乳﹂となることが

玄突の原注に示されている︒すなわち子関国の毘沙門天信仰は︑毘沙門天の

額から生まれた神童が︑その神前に出現した地乳に育養きれて国王になった

との霊験神話にもとづくものであり︑その国名が由来する地乳を信仰の中心

に置いていることが知られる︒したがって子関国王像およびそれが転化した

兜抜毘沙門天像を特徴づける足下の地天女は︑まさに子関における信仰の中

心である地乳を神格化した表現であると解釈されるのであり︑その地天女を

表した兜抜毘沙門天こそ︑霊験神話にもとづいて子関国で成立した子関独特

の像様であることが知られるのである︒また﹃大唐西域記﹄には︑子関神桐

の毘沙門神像の前に地乳が出現したとあるから︑国王以下が信仰する神洞の

本尊が地天女による地乳表現を示した兜抜毘沙門天像であることはすでに明

らかである︒そして子関の毘沙門天信仰の中心となったのはこの神洞本尊像

のはずであるから︑結局はそれが中国から日本にまで展開した兜抜毘沙門天

の根本像であることが理解きれるのであり︑また唐慧琳の﹃一切経音義﹄に

毘沙門法の請来と羅城門安置像

ト 小n

子関神洞の本尊である根本の兜抜毘沙門天像は︑城中にある七層木楼

上に安置されていたものであることも知られるのである︒

この神桐本尊像を根本とする子闘の兜抜毘沙門天が︑特徴的な王冠と金鎖

甲を

着け

足下には一地天女を表す像様であったことは︑子関語銘文をとも

なった毘沙門天画像︑あるいは敦燈文書の﹃子関教法史﹄の建国神話にもと

づく敦燈一五四窟の二体の﹁毘沙門天王﹂壁画像によって確認することがで

きる︒この子関神嗣の兜抜毘沙門天の像様は︑唐の玄宗時代にあいついで子

聞から中国へ伝えられたことが︑文献に出ている︒すなわち﹃図画見聞誌﹄

は︑車道政が玄宗の勅命で﹁子関国﹂より﹁北方毘沙門天王様﹂を伝えたこ

とを

記し

また﹃毘沙門儀軌﹄に収める安西城毘沙門天霊験記には︑天宝年

聞に安西城より﹁天王神様﹂が玄宗のもとに進上されたことが出ている︒こ

のうち車道政が伝えた像様は︑﹁子関国﹂からのものであることを明記して

いるから︑これは子関神洞の根本像についての像様であることがはっきりし

ている︒一方の安西城が進上した像様はそれとは別のようでありながら︑

」ー

れも実は同じ子関神嗣の兜抜毘沙門天に関わる像様であることは︑この像様

についての安西城霊験縁起の内容に︑﹃大唐西域記﹄に出る子関国の霊験説

話をほとんどそのまま引用した部分があるので説明がつけられるのである

すなわち安西城毘沙門霊験縁起にある﹁金鼠が弓警の絃及び器械を咳みて損

断し

用に堪えぎらしめ﹂て安西攻城軍を退けたとの部分は︑﹃大唐西域記﹄

に﹁諸の馬鞍・人服・弓弦・甲縫・凡そ厭の帯の糸は鼠が皆蓄断した﹂ため

に子関国王が凶奴の軍に勝利したとある個所と同じ題材にもとづく予﹂とが指

摘できるのである︒

かくして玄宗朝に伝えられた兜抜毘沙門天の像様は︑敦燈一五四窟の﹁毘

沙門天王﹂画像のように︑王冠・金鎖甲を着けた子関式武装神形の毘沙門天

(5)

I

'J't

プし

京都・東寺講堂 木造毘沙門天立像

挿 図2

が足下に一地天女を踏む姿であったと考えられるが︑唐に伝来するとやがて

地天座の形式に新たな展開が見られ︑足下の地天女の左右に二鬼を加えた新

しい像様が成立したことが確認される︒地天座の左右に二鬼を加えたこのよ

うな新しい像様が成立したのは︑二鬼を座とする形式の毘沙門天像と︑地天

女を足下に表す子関伝来の兜抜毘沙門天像が唐において結合したことによる

と考えられ︑成立の要因には︑毘沙門天の座として二鬼を説く不空訳出の

﹃金剛頂球伽護摩儀軌﹄の存在が指摘される︒大同元年(八O

)

に空海が

請来した﹃摩詞吠室曜末那野提婆喝曜閤陀羅尼儀軌﹄は︑地天女二鬼座によ

る新形式の兜抜毘沙門天の経軌であり︑同じく空海請来と考えら

智泉本白描毘沙門天図像 京都・醍醐寺蔵

れる智泉本白描毘沙門天図像(挿図

1)

は︑同儀軌が﹁又一本﹂

として説く像様に対応したものであるからこの新形式の兜抜毘

沙門天像様はまず空海が在唐した九世紀初頭以前に成立したもの

であることが確認される︒さらにこの新形式の像様によるペリオ

挿 図l

収集の兜抜毘沙門天諸尊像(フランス・ギメ美術館所蔵秋山光和

解説﹃西域美術﹄第二巻・講談社・一九九五年所載)は︑たとえ作画

年代が遅れるとしても︑その図像的内容が会稽竜興寺釈法忍が貞元元年(七

八五)に彩画した﹁壁画三像﹂(﹃古今図書集成﹄神異典第九十一巻仏像部所収

に一致しているから︑唐における新形式のの唐梁粛﹁壁画三像讃序﹂による)

兜抜毘沙門天像の成立はこれによって八世紀末までさかのぼることが実証

されるのである

唐において新たに成立した地天女二鬼座上に立つ兜抜毘沙門天像には二系

その一は挿図1の智泉本白描図像に見るように︑毘沙門天が子関

式武装神形を示す形式であるがこれとは別に広袖衣を翻転きせ︑裳裾を引

いた唐風武装神形の像様も成立していたことを証するのは︑東寺講堂諸尊中

の存在である承和六年(八三九)に開眼した東寺講の北方天像(挿図

2)

堂諸尊は︑空海の構想にもとづく造像であるから︑そのうちの北方毘沙門天

像も︑空海が唐より請来した新様式による造像と考えられるが︑本像は足下

に地天女と二鬼を踏む唐風武装神形の兜抜毘沙門天の特徴を示しており︑

の系統の像様も空海が在唐した九世紀初頭以前の唐で成立していたことが知

られるのである︒

子関毘沙門天について説く安西城霊験記は︑

の序として

初めて宗叡が請来したものであり︑宗叡以前の入唐僧が請来した

﹃毘 沙門 天

(6)

石造毘沙門天立像

映西省扶風法門寺地宮石門扉 挿 図3

石造毘抄門天立像

四川省大足北山石窟第5号寵 挿 図4

木造毘沙門天立像 江蘇省 蘇州市博物館蔵 挿 図5

毘沙門天法の請来と羅城門安置像

王経

はいずれも序をともなわないものである︒特に同じ長安青竜寺法全に

密教を学びながら︑大中九年(八五五)

求法の円珍と威通六年

(八六五)頃

に求写の{一不叡との間で︑請来の﹃毘沙門天王経﹄について序の有無で相違が

生じ

たの

は︑

両者の経典求得年時に十年の開きがあるのが原因と考えられる

から︑安西城毘沙門霊験記が序として

﹃毘沙門天王経﹂に加えられた時期

は︑八五五年から八六五年の十年間に限定することができる

︒ ﹁

毘沙門天王

経﹄は大暦六年(

七七二以前に不空が訳出したもの

で あ

( ﹃

貞元釈経目録

﹄ )

り︑それとは別に成立していた安西城毘沙門霊験記が序としてこの時本経に

加え

られ

それを貞観七年(

八六

)

に宗叡が請来したのであるが︑宗叡は

同時に法全より付属された﹁毘沙門禎子一副﹂を請来している︒それがどの

ような像様であったか︑{示叡請来の毘沙門天像について想起させるのは︑宗

叡が長安において受法した大興善寺智慧輪が︑戚通十四年

( 八

三)

頃に限

西省法門寺の地宮において石門扉に造立した浮彫兜抜毘沙門天像

(挿

3)

である︒本像は子関式武装神形の兜抜毘沙門天で︑足下には地天女と二鬼を

踏む像様であるが︑従来にない新しい要素が加わ

って

いるのが注目される︒

すなわち挿図3の石門浮彫像では吊帯が腰前を亘り︑その左右が腰帯をくぐ

り︑両前牌にかかって外側に垂下するきまを表現している︒これは天衣と解

釈されることがあるが︑肩にめぐらせる天衣とは別物である︒このような吊

帯は︑唐風武装形では普通のことで︑兜抜毘沙門天においても挿図2の東寺

講堂像等の唐風武装神形では必ず表現されている︒しかしこれは子関の服飾

ではないから︑子関式武装神形の兜抜毘沙門天像では本来は表現されること

はなく︑敦燈第一五四窟像︑ペリオ収集兜抜毘沙門天諸尊像︑挿図1の空海

請来智泉本図像などいずれもこのような腰前をめぐる吊帯は見られないこ

とを認識すべきである︒それが挿図3像においてこのような吊帯が表現され

(7)

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1=1  1f

滋賀・石山寺蔵 木造毘沙門天立像

挿 図6

るに至ったのは︑子関式武装神形の毘沙門天に唐風が一部加わったことによ

ると解釈されるのでありここでは子関式武装神形の兜抜毘沙門天の像様に

新しい展開が見られたことを注目する必要がある︒

すなわち子関式武装神形の兜抜毘沙門天は︑まず脚下に一地天女を踏む子

関神洞様が唐へ伝えられ︑やがて脚下地天女の左右に二鬼を加えた新形式の

像様が成立し︑さらに腰前に吊帯が亘る形式へと展開したことが跡付けられ

るのであるその後の中国各地における造像ではこの腰前に吊帯をめぐら せた子関式武装神形が専ら流布したことは︑大足北山石窟第五号寵(挿図 4)等から知られる蘇州瑞光寺塔から発見された北宋の檀像(挿図5

蘇州

市文管会・蘇州博物館﹁蘇州市瑞光寺塔発現一批五代︑

北宋

文物

﹂﹃

文物

一九

九年第十一期に所載)は︑白巾帯が腰前ではなく左右腰脇をそれぞれめぐる形

式に変化しているまた雲南省昆明にある地蔵寺経櫨像(﹀ロ

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をはじめとする大理国の兜抜毘沙門天像(冨

52 5

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は︑右手で宝塔 を捧げる姿であるがいずれも腰前に吊帯が亘る形式に表されるこのよう

290 

に白巾帯が腰前をめぐる子関式武装神形の兜抜毘沙門天の像様が︑中国におい

ていつ成立したかを考えてみるに︑まず智慧輪が造像を指導した戚通十四年

頃の法門寺の石門浮彫像の存在から︑宗叡が智慧輪に受法した戚通六年(八

六五)頃には︑すでに成立していたと考えられる

しかし空海請来の智泉本 毘沙門天図像にはこのような吊帯は見られないから︑空海帰朝の八O六年よ り後に成立したとすべきであろう

実は石山寺の兜抜毘沙門天像(挿図

6)

を恵運請来様とする本考においては﹂のような吊帯が腰前をめぐる子関式

武装神形の兜抜毘沙門天像は︑武宗による会昌破仏の頃に成立した新様であ

ると考えているのである

まず恵運は承和九年(八四二)に入唐して︑同十四年(八四七)に帰朝し︑

嘉祥元年(八四八)には女御藤原順子発願の安祥寺を創建し︑その開基とな

るが︑貞観九年(八六七)勘録の

﹃安 祥寺 資財 帳﹂ (﹃ 平安 遺文

i

一六

四 文徳天皇御願の﹁毘沙門天王像壱鋪﹂をみずから録出しているから︑これに よって恵運が毘沙門天像を請来していたと考えることができるのである

﹃安 祥寺 資財 帳﹄ の毘沙門天像はすでに現存していないが︑恵運請来様によ

る造像例として考え得るのは︑

石山寺の兜抜毘沙門天立像

(

6)

で あ る本像を恵運請来様であると判断する理由は︑石山寺にこれと同時期の造

立と思われる不動明王像(重要文化財)があり︑

頭頂に恵運請来不動明王様 の特徴である﹁黒警﹂(大正五五/

ω5

に﹁不動尊蔓茶羅一禎

尊有黒警﹂

とある)を表しているからである

すなわち不動明王が恵運請来様で造立さ

れているから︑それと一連の造立である毘沙門天も恵運請来様によると判断

するのである本像は脚下に地天女と二夜叉鬼を踏む兜抜毘沙門天で︑現在

は警を露わにしている頭上に王冠を補った姿を復元して考えれば︑像様は基

(8)

本的には子関式武装神形であり︑しかも腰前を亘る吊帯が表現されているの

である︒この新しい像様が成立したのはつまり石山寺像の存在によって

恵運が帰朝した八四七年以前であったことが知られるのである︒恵運が在唐

中の会昌五年(八四五)には︑武宗の破仏が頂点に達し︑

天下の寺塔は両京

に各三両所を留めるのみとなり︑寺壁の名画の多くが失われたことを﹃歴代

名画

記﹄

は伝えているが︑

やがて恵運が帰朝する前年の会昌六年(八四六)

三月の武宗の死で破仏が終止し︑代って官一宗が即位して復仏の詔が発せられ

ている︒唐王朝の仏教政策がその造像に与える影響は決定的なものがあり︑

仏教造像はここで中唐様式から晩唐様式へ大きく転換する︒子関式武装神形

の兜抜毘沙門天像における新しい像様の成立も︑そうした動向に対応したも

のであり︑恵運と宗叡によって日本へ伝えられたと考えられる吊帯を腰前に

めぐらせた兜抜毘沙門天の像様は︑晩唐様式に当たるのである︒したがって

石山寺像に見る恵運請来の像様は︑承和十四年(八四七)に日本へ伝えられ

ているのであるから︑晩唐様式による兜抜毘沙門天像では最も初期に属する

ものと考えられるのである︒

きて以上の兜抜毘沙門天の像様は空海・恵運・宗叡による請来であるか

寸 じ

hM

挿図7 白描毘沙門天図像 京都・仁和寺蔵 毘沙門天法の請来と羅城門安置像

いずれも東密の入唐僧が伝えたものであるが︑台密において兜抜毘沙門

天像の請来があったことを物語るのは︑叡山文殊堂における二体の﹁屠半

様﹂すなわち兜抜毘沙門天像の存在である︒叡山文殊堂の兜抜毘沙門天像の

こと

は︑

﹃山門堂舎記﹄・﹃叡岳要記﹄・﹃九院仏閣抄﹄に記載されているが︑

三~

の二体は身の太細で区別きれ︑細身の像は最澄が造立し︑太身の像は延暦寺

別当伴国道が造立したことが知られる︒この二体はともに兜抜毘沙門天であ

るから︑持物や脚下地天女二鬼座などの基本的像様では相違はなかったはずで︑

またいずれも像高六尺の立像であるから︑大ききにおいても差は指摘できな

い︒しかしそれを同一形相とはいわず︑身の太細で区別したのは︑像容にお

いてそこに明確な違いがあったからであろう︒先にも指摘したように︑唐代

中国で成立し日本へ請来された兜抜毘沙門天には本体の像容に二様があり︑

一は子関式の武装神形を示し︑他は唐風の武装神形を表し︑それぞれ挿図1

の智泉本白描図像や挿図2の東寺講堂像でその特徴を知ることができる︒両

者の形相上の相違は服制にあり一方が海老寵手と金鎖甲を着けた軽捷な姿

であるのに対し︑他方は鎧の下から広袖と裳裾を翻転させた重々しい出立を

示し︑子関式武装神形は細身に見え︑唐風武装神形は太身の印象を受ける

前したがって﹃山門堂舎記﹂が身の

粧太細でもって区別している叡山文 嗣殊堂の二体の兜抜毘沙門天像は︑

放身細像が子関式の武装神形︑身太 町像が唐風の武装神形であったと解 鵠釈されるのである

︒かくして身細

8 の最澄造立像が子関式武装神形で

悶あり︑身太の伴国道造立像は唐風

(9)

f

'7TI  プし

武装神形であることが知られるのである

さてこの二体の像容についてあらためて考察してみるに︑まずこのうちの

一体

は︑

﹃別尊雑記﹄所収の挿図7

に﹁又文殊堂毘沙門

此様立像﹂とあるこ

とにより︑挿図7

の毘沙門天を立形にした像であることが知られる︒すなわ ち文殊堂毘沙門天の一体は︑挿図

7像をもとに復元することが可能になるの

である︒挿図7

像の特徴は︑毘沙門天本体が広袖衣を着けた唐

風武装神形を

示し

脚下の地天女が東寺講堂像のように右掌を一屑の上で仰ぎ︑左掌を与願

印のように構えることにあるが

これと共通の特徴を備えた立形の兜抜毘沙 門天像の現存例としては︑福岡観世音寺像(挿図

8)

が挙げられる︒本像は 広袖衣や地天女の両手の構えが挿図

7像と共通するだけでなく︑

地天女の陰 から様子をうかがうように半身をのぞかせた左右二鬼の姿も同じであり︑ま た現在は警を露わにした毘沙門天の頭上には本来は挿図

7のように別製の王

冠があったと考えられるから︑

まさにこれは挿図

7

の像様が立像となったも のと理解され︑﹁此様立像﹂とされる﹁文殊堂毘沙門﹂にそのまま一致する

のである︒

すなわち文殊堂兜抜毘沙門天像二体のうちの一方は︑観世音寺像

によって復元され(現状の観世音寺像の右手の構えは︑補修のために若干の改変

があると思われる

これが身太の唐風武装神形である伴国道造立像に相当す

るのである︒

なおこの像については︑

の記事をも

﹃叡岳要記﹄に引用される﹃尊敬記﹄

とに︑本像は伴国道造立でなく︑大伴氏が相伝した行基造立の旧像を︑延暦 寺別当となった国道が文殊堂に納置したとする説(佐伯有清﹁伴善男﹄昭和

四五年︑吉川弘文館)がある︒

しかしこの像様の中国における成立きえ︑

そ こまでさかのぼり得ないのであるから

これは失考とすべきであり︑本像の 造立は︑伴国道が参議でありかつ延暦寺別当であった弘仁十四年(八二三)

五月十四日から天長五年(八二八)十一月十二日に没するまでの聞に行われ たと考えられるのである

本像は﹁文殊堂毘沙門此様立像﹂と注記される

﹃別尊雑記﹄所収の図像(挿図

7)

を典拠にして造立したものであり︑

また

この図像には﹁叡山前唐院毘沙門之様﹂の注記があるから︑伴国道造立像の

典拠は叡山前唐院に伝えられていたことが知られる

そして確かに嘉保二年

(

O

九五

) の﹃前唐院見在書目録﹄には

この図像に相当する﹁毘沙門像 U

兜鉢像也﹂が録出されているのである

前 唐 院 所 蔵 の 法 門 典 籍 苗 は︑円仁の奏請によって貞観六年(八六四)に設立された総持院真言蔵を移 したもので︑最澄と円仁が請来した密教関係の経軌・図像・蔓茶羅等からな

る︒

したがってここに録出されていて白描の兜抜毘沙門天図像は︑最澄と円 仁のいずれかが請来したものと考えられるが

この図像を典拠にして天長五

年(八二八)以前に叡山文殊堂の造像が行われており︑

それは円仁入唐の承

和五年(八三八)以前のことであるから︑

﹃別尊雑記﹄に収めるこの前唐院 本兜抜毘沙門天図像については︑最澄請来であることが確認できるのであ

る︒

またこの図像は唐風武装神形の兜抜毘沙門天像の例として︑空海請来の 東寺講堂像と共通するものであるが︑特に脚下の地天女が右掌を肩の上にひ ろげ︑左掌は与願印のようにして毘沙門天の両足を承ける特異な形相におい

て一致しているのは︑

両者がその成立時期を同じくする像様であることを物 語っているのである

きて文殊堂兜抜毘沙門天像二体のうちの一方は︑弘仁九年(八一八)以前

に最澄が造立したものであることを﹃九院仏閣抄﹄が伝えている

︒またそれ

は﹃叡岳要記﹄等により︑細身の像であったことが知られるから︑最澄造立 像は子関式武装神形の兜抜毘沙門天と考えられるのである

その造像では最 澄請来の像様が典拠にされたはずであるから︑最澄は先に見た伴国道造立像

(10)

の典拠となった唐風武装神形の兜抜毘沙門天図像(挿図

7)

とは別に︑子関

式武装神形の像様についても請来していたことになる︒

そして最澄請来によ る子関式武装神形の兜抜毘沙門天図像である可能性を指摘し得るのは︑

唐院見在書目録﹄に﹁子関毘合門神像一副

苗 春属在之﹂と録出きれてい

る白描図像である︒

承平五年(九三五)三月六日に︑

延暦寺根本中堂は最澄の創建以来初めて 火災によって焼亡した

︒この時中堂以下四十余宇の堂舎が失われたが︑

﹃ 園

大暦

(康永四年四月十四日条)

には﹁常燈不滅︑本尊毘沙門天等悉奉出﹂と あり︑最澄造立の兜抜毘沙門天像は取り出されて無事であったことが知られ

る︒

焼亡した中堂の復興造営は宣旨を受けて開始され︑

天元三年(九八

O )

には座主良源によって供養が行われたが︑その際の﹁仏像修理﹂のため﹁承

平年中﹂に始めて﹁中堂大仏師﹂以下の大仏師職が置かれたことが

﹃叡 岳要 記﹄に出ている

こうしたことが動因となって︑中堂諸仏への関心が高ま り︑その転模像の制作が行われるに至ったことを窺わせるのは︑滋賀善水寺

の林凡天帝釈天四天王像である︒

これら六体は︑金堂本尊薬師如来像の結縁交

名記により︑正暦四年(九九三)

の造立と推定されているが︑六尊の構成と

挿 図9木 造 毘 沙 門 天 立 像 滋 賀 ・ 善 水 寺 蔵 毘沙門天法の請来と羅城門安置像

五尺の像高が︑そのまま中堂の﹁党天帝釈天四天王像立高五尺﹂(﹃山門堂舎

記﹄

) と一致するところから︑中堂像を転模したものと考えられる

また延

暦寺根本中堂では︑天元三年(九八

O ) の堂宇造営に当たり︑良源の命を受

けた弟子昌生が﹁文殊聖僧像一一躯居高二尺五す︑肉色﹂(﹃叡岳要記﹄による︒

﹃渓嵐拾葉集﹄は如意を持つ左右手の相にも言及する)を造立しているが︑

これ

と同じ像高二尺五すに造られた善水寺の文殊聖僧像も︑

やはり正暦四年に中 堂像を転模したものと考えられるのである

こうした正暦四年時の善水寺に おける叡山中堂諸仏の転模が︑薬師堂諸仏だけではなく文殊堂諸仏にまで及 んでいたことを認識きせるのは︑善水寺に現存する像高六尺の兜抜毘沙門天

像(挿図9)である︒本像については︑

その帯喰の形をそのまま墨描で写し

た獅

噛文

が︑

文殊聖僧像の左袖矧面から発見されているので︑本像が文殊聖

僧像と同時一連の造立であることがまず確認されるとともに︑文殊聖僧像と

同じくこれも叡山中堂像からの転模であることを推察させるものである

︒ま

た脚下に地天二鬼を踏んで立つ子関式武装神形を示す像高六尺の善水寺像の

特徴

は︑

文殊堂の二体の六尺兜抜毘沙門天像のうち︑身細の最澄造立像に一 致しているのであり︑叡山文殊堂の最澄造立像は

この善水寺像によって復

克することができるので

ある

︒善

水寺像の現状は

関蔵り︑本来は手甲のない形

洲一回を想定すべきであるが︑

間引本像において特徴的なの

︒ は

︑ 頭 上 の 八 方 面 取 の 王

持物と両手先が候補であ

冠でありこれと同形式

(11)

I

ゲ 巴

Y

の王冠を着けた挿図叩の白描図像(大正図像七/問︒﹁此毘沙顔石蔵定順令図

欺﹂の注記がある)

は︑善水寺像の典拠となった最澄造立の文殊堂像の頭部

を写したものと考えることができるのである︒かくして弘仁九年(八一八)

以前に最澄が造立した子関式武装神形の兜抜毘沙門天の像様は︑善水寺像と

挿図叩像に継承されていると考えられるのである︒

このほか﹁兜抜国王形﹂の毘沙門天のことを説く﹃念諦要経﹄を伝えた常

晩が

醍醐寺理性院に伝来する弓矢を執る二骨武将形の毘沙門天画像(法琳

寺太元堂の本像画像の一として新写したもの)

の典拠となるべき像様を請来し

た可能性があり︑やがてそれによって﹃阿裟縛抄﹄における﹁世人弓ニ箭ヲ

ハケテ引キタルヲ兜抜毘沙門ト云フ也﹂との説が導かれたことも考察したの

であ

るが

脚下に地天女も二鬼も表さないこの像様は︑東寺像と関連すると

ころは少ないと判断されるのでこれ以上の言及は行わない︒

以上は本文での所論に先立ち︑本考前段における主張を要旨としてまとめ

たも

ので

これを前提として考察を進め︑以下において東寺像の請来とその

羅城門安置についての私見を明らかにしたい︒

東寺に安置される兜抜毘沙門天像については︑現在これを唐からの請来像

とする見解に異論は全くない︒しかし本像についての伝承には︑もともと請

来説は一つもなく︑唯一の信頼すべき﹃

東宝

記﹄

の所伝でも平将門の乱に際

しての造立としている︒

江戸時代の延宝二年

(一

六七

)の修理記も︑来朝

唐人の作とするに止めている︒にもかかわらず現在これを唐からの請来像と

することに異論がないのは︑本像の使用木材が育然請来の京都清涼寺の釈迦

像と同じ貌氏桜桃材であると鑑定されているからである︒すなわち北宋薙照

ニ ム

二年(九

八五

)

に張延鮫・延襲兄弟が彫刻したことが明らかな清涼寺釈迦像

と同じ中国産の貌氏桜桃材が使用されていることが主な根拠となって︑本像

はすでに日本作との伝承があるにもかかわらず︑それをすべて退けて︑中国

からの請来木彫像であると考えられて来たのである︒しかし本像の使用木材

について︑清涼寺釈迦像と詳しく比較してみると︑清涼寺像と同じ木材すな

わちいわゆる貌氏桜桃材の使用が確認される個所はどこにも指摘することは

できない︒表面からの実査による限りでは︑本像の用材はいわゆる貌氏桜桃

材ではなく桐材であると判断されるのである︒本像の表面は布貼黒漆層で覆

われ

てい

て︑

その下の木材の素地が観察できる個所は少ない︒しかし鎧裾底

面や左足首にはわずかながら素地が顕われ︑また脚下地天女二鬼座において

は前面が布貼黒漆地で覆われているが︑背面にまわると二鬼の頭部も含めて

大きく素地が顕われていて

ここでは用材の木肌の特徴が明瞭に観察でき

いずれも桐材であることが確認されるのである︒造像における桐材の使用は

中国と日本のいずれにおいても見られることであるから︑本像が中国作であ

るか日本作であるかは使用木材だけでは決定することができなくなるのであ

日本の木彫における桐材の使用は︑まず法隆寺や東大寺に伝来した伎楽面

や舞楽面で指摘されているところであるが︑仏像においてもその使用は奈良

時代までさかのぼることが確認される︒早期の例では法隆寺食堂旧安置の党

天帝釈天四天王像の塑像心木

(従

言われている樟材ではない)

︑法隆寺金堂

の塑造吉祥天像の左手先心木(本体からは別置保存)

︑葛井寺千手観音像の脇

手や台座蓮肉︑岡寺伝義淵僧正像の両手先などがあり︑奈良時代の塑像や乾

漆像の心木として桐材が使用されている︒また木彫像としての使用では︑唐

招提寺の頭部右半分が欠損した菩薩像(現在大宝蔵安置︒乾漆併用仕上げ︒従

(12)

来はクルミ材とされる)︑

またこれと表現様式での類似を示す愛媛県庄部落の

菩薩像︑あるいは金剛山寺金堂の十一面観音像︑同金堂本尊の地蔵菩薩像︑

金剛山寺北僧坊の虚空蔵菩薩像︑平安後期の霊山寺東光院の毘沙門天像など

の一木彫像があるから︑彫刻用木材としての桐材の使用は︑奈良時代から平

安時代にかけては日本ですでに一般化していたことが知られるのである︒

一方 ︑

日本に請来された中国木彫像の実査から中国における桐材の使用を

指摘すると︑承和十四年(八

四七

)に恵運と三修によっ

て唐の明州より請来 された東寺観智院の五大虚空蔵菩薩像︑観心寺の聖僧像︑建長七年

(一

二五

五)に俊初の弟子湛海が南宋明州の大白蓮寺から請来した泉涌寺の伝楊貴妃

観音像・月蓋長者像・章駄天像の三体︑南宋の紹興年中(一二三l

に完成した思渓版一切経とともに請来された岐阜県長滝寺の善財童子像︑ま

た神奈川県清雲寺の観音菩薩半蜘像

(本像には貌氏桜桃材との鑑定があるが︑

同意できない)

をあげることができ︑中国木彫像における桐材の使用もむし

ろ一般的であったことが知られる︒そもそも優填王所造の瑞像信仰にもとづ

いて造立された清涼寺釈迦像は︑﹁白檀五尺釈迦像﹂(

﹃小

右記

﹄永延元年二月

十一

日条

)と考えられていたのであり︑

その用材は粛然が衣鉢を捨てて購入

した

﹁香木﹂であることは︑像内納入の﹃瑞像造立記﹄に明記するところで

あるから︑清涼寺像に用いられた貌氏桜桃材は︑白檀香木に相当する貴重木

材であったことを認識する必要がある︒したがってそれは︑もともと木彫用

材として一般的には使用されることの少ない特別な木材であったと考えられ

るのである︒中国木彫における主要用材が桐材であることは︑先にあげた請

来像から帰納きれるところであり貌氏桜桃材でなく桐材と判断される東寺

兜抜毘沙門天像の用材は︑中国からの請来木彫像としてむしろ一般的なもの

であ

ったことが十分理解できるのであるが︑桐材による木彫像は︑同時に日

請来と羅城門安置像

本でも展開していたのであるから︑桐材の使用だけではそれが中国からの講

来像であるとする決め手にはならないのである︒

しかし本像におけるもう一つの素材上の特徴である練物に注目すると︑そ

れは中国からの請来木彫像に限って使用されるものであり︑日本の木彫像に

は一切行われていないことであるからこれをもって本像が中国からの請来

木彫仏であることを客観的に実証することができるのである︒まず本像にお

いては︑毘沙門天の耳瑞︑毘沙門亀甲を表した金鎖甲︑理培︑腔当の飾り︑

地天女の耳培︑地天女二鬼の頭髪等に練物と呼ばれる捻塑材を使用している

ことが確認され︑それはエックス線写真でその部分が木材部より不透過とな

った影像として提示することができる︒東寺像と同じ練物の使用は︑先にあ

げた桐材による請来木彫像のうち観心寺の聖僧像を除くすべてに見られるの

である︒すなわち東寺観智院の五大虚空蔵菩薩像の耳瑞・胸飾・皆釧・腕釧︑

泉涌寺の伝楊貴妃観音像と月蓋長者像の頭髪︑同章駄天像の鎧の毘沙門亀甲

や縁飾りあるいは帯喰における白色顔料盛り上げの下地︑岐阜県長滝寺の善

財童子像の頭髪・胸飾・管釧における練物の使用をエックス線写真で示す

ことができる︒またこうした練物の使用は︑桐材以外の請来木彫像において

も同様であり︑貌氏桜桃による清涼寺釈迦像の頭髪︑中国主

一 一日う﹁柏﹂に相

当すると思われる木材からなる兵庫県法因仙寺の菩薩像の頭髪︑やはり﹁柏﹂

による造像と思われる岐阜県長滝寺の章駄天像の金鎖甲や装身具の飾りで見

ることができる︒すなわち桐材であるか否かを問わず現存する中国請来木彫

像においては︑頭髪や装身具の表現がない観心寺聖僧像を除くすべての像に

練物が使用されているのが確認され一方それは日本の木彫像では全く見ら

れないことであるから︑練物技法こそ中国請来木彫像であることの決め手と

することができるのである︒かくして練物技法が確認される東寺毘沙門天像

(13)

1

h

y

挿図11木造毘沙門天立像京都・清涼寺蔵 は︑中国からの請来木彫像であることが決定されるのである

なおこれら練 物が使用された請来木彫像の中国での制作地は︑東寺観智院の五大虚空蔵菩 薩像と泉涌寺の伝楊貴妃観音像等三体は史料の所伝により︑また兵庫県法恩 寺像は造像銘によりいずれも明州であることが知られ︑

また清涼寺釈迦像は 台州開元寺で造像きれたことが像内納入品から判明し︑

いずれも江南での制 作となる

岐阜県長滝寺の章駄天像と善財童子像は︑南宋思渓版一切経とと

り︑また神奈川県清雲寺像も同じく南宋彫刻であるから︑結局練物技法によ る請来木彫像は例外なくすべて江南地方で制作されたものが請来されたこと

になる

つまり練物は江南木彫に特徴的な技法と考えられるのであり︑

て同じ練物技法が行われている東寺毘沙門天像は︑

江南で制作されたも のであることが明らかになるのである

きて本像は頭体部を通して前後二材を矧ぐ寄木造の構造からなるものであ り︑本体部と脚下地天女座ともに肉厚を整えて大きく内部を剥り取る発達し た内引技法が行われている

を︑布貼黒漆で地固めした上から白土下地を施して彩色仕上げとする

現状

でも表面の彩色はわずかながら残存している

本像の構造と彩色については 別稿において私見を報告することにしたい

もと羅城門に安置されていた東寺像は︑羅城門が倒壊によ

て廃絶した十 一世紀初頭に東寺に移安されたことは︑先に指摘したところであるが︑この 移安をき

かけとして︑特異な像容の毘沙門天である本像への関心が高ま

たことは︑清涼寺像をはじめとする十一世紀から十二世紀にかけての転模像 が現存していることから推察される

そのうち清涼寺像(挿図日

)

は橿材に

よる一木造で︑

頭体部から脚下の地天女二鬼座まで木心を込めた一材から彫

これに両肩部を矧ぎ付けた構造である

後頭部︑背面腰上︑同腰下︑

地天女頭部はそれぞれ方形に内割引を行い︑各内割引は貫通せず︑各別に蓋板状

の材を当てる

(

︿八︑腰上四四

×

O︑腰下五四

×

O

地天女頭部八×六仰とエクス線写真で計測される

)

保存状態は良好で︑

左手

八五m

(脚下座を含む総高二O)

で東寺像

(像高一九四︑脚下座を含む総高

m)

に比べやや小きく︑

脚下地天女二鬼座は東寺像の直模でなく相当な翻案が加 えられている

しかし毘沙門天本体の形姿は東寺像をよく転模しており︑宝 冠や帯喰獅噛あるいは肩喰先端の刻出雲文などの細部に至るまで東寺像に忠 実である

特に東寺像で失われた左右両腕の全容が︑本像によ

て復元され

るのは重要である

(毘沙門天後頭部・左腰後寄り・腰の飾環左方分に乾漆︑鬼の髪部に塑土が確認さ

)

されており︑技法的には前代からの古い特徴も残きれているが︑

今 ︑

wn H

を小さくし体躯の伸びを際立たせた造形には平安後期風の明快きが感じられ また宝冠の切金斜格子文︑

鎧小札を表した金箔地墨線文︑背面と胴甲に おける朱地に緑青で描かれた唐草文などの装飾文様にも︑

十世紀から十

(14)

紀にかけての特徴を指摘することができるので︑造像の時期は棲霞寺内に清

涼寺が成立した十一世紀初頭であると判断される︒

すなわち清涼寺の地は︑もともと左大臣源融の棲霞観に由来するもので︑

まず寛平八年(八九六)

に融の遺願でここに阿弥陀三尊を安置する棲霞寺が

成立したのである︒

永延元年(九八七)に斎然が宋版一切経とともに請来し

た釈迦如来瑞像は

最初は蓮台寺に安置されて殿上人の参詣を受けたが

正 暦二年(九九二に棲霞寺に移されたことが

﹃塵添塩嚢紗﹂に見える︒粛然

は愛宕山に釈迦瑞像を安置して五台山清涼寺を建設する構想を奏請していた

が︑結局それを実現することなく長和五年(一O二ハ)に没したので︑遺弟

の盛算は棲霞寺内の釈迦堂を以て清涼寺と号することを重ねて奏請し勅許に 至ったと伝えられている︒この時に盛算は藤原道長を頼って棲霞寺内におけ

る清涼寺の開創を実現していたらしい︒それは﹃御堂関白記﹄寛仁二年(一

O

一八)正月十五日条に﹁栖霞寺一切経奉渡︑是故法橋粛然︑従唐持渡経 也︑而遺弟献也︑安置二条西廊﹂とあって︑釈迦瑞像とともに棲霞寺に置か れていた粛然請来の宋版一切経がこの日盛算によって道長のもとに進上され

て︑その二条第に安置されたことが知られ︑そして翌寛仁三年三月十五日に

は盛算を五台山清涼寺阿閤梨に補任する太政官牒(﹃伝法濯頂雑要紗﹄所収)

が発給されていることから推察されるのである︒この時の太政官牒には盛算 について﹁真言宗東寺﹂とあり︑盛算が東寺に所属したことは明らかであ

る︒

なおまた道長の二条第に移った宋版一切経は

のちに法成寺に納められ

たことが︑成尋の﹃参天台五台山記﹄から知られる︒このように長和五年の

高周然没後には︑粛然所願の清涼寺開創とその請来宋版一切経の処置をめぐっ

て︑藤原道長と粛然遺弟盛算との問で交渉のあったことが明らかになるので

あるが︑実はこれと並行する時期に︑平安京羅城門がついに廃絶に至り︑

毘沙門天法の請来と羅城門安置像

こに安置されていた兜抜毘沙門天像の東寺への移安が行われていたのであ り︑その一連の措置にも道長が関与していたと思われるのである

︒そして東

寺に移安された毘沙門天像については︑東寺僧たる盛算も当然承知するとこ

ろであったと考えられるのである︒すなわち先に考察したように︑天元三年

(九

O )

七月九日の大風で倒れた羅城門は︑寛弘元年(一

O

O四)に丹波守

高階業遠がその復興のために重任され︑官

一己目を賜ったことが﹃御堂関白記﹄

の同年間九月五日条と九月十三日条に出ている

︒ ﹃

御堂関白記﹄によれば︑

左大臣道長はここで高階業遠重任のことを定め︑もし羅城門復興を成就きせ

ればそれは﹁大功﹂と書き留めたのであるが︑﹃宇治大納言物語﹄に﹁円融

院の御時︑大風にまた吹たうされにけり︑

其後はつくる事なし﹂とあるよう

に結局は復興はならず︑治安三年(一O

二三)には道長建立の法成寺のため

にその礎石まで取り去られたのである︒こうして羅城門の廃絶とそれにとも

なう毘沙門天像の東寺移安の措置は︑礎石撤去の治安三年以前に行われたこ とがわかるとともに︑寛弘元年の時点ではなおその再建策が講じられている のであるからそれ以降に取られた措置であることも知られるのである

に﹃御堂関白記﹄寛弘七年三月三十日条にはこの日の除目で羅城門復興造

立のために丹波守に重任されていた高階業遠が病により辞任(周年四月十日 死去)したことが記されているから︑羅城門の処分もこの時点に決定された

と思われるのである︒

したがってそこに安置されていた兜抜毘沙門天像の東

寺への移安も︑羅城門の処分決定を受けて取られた措置と思われるから︑

の移安の時期は寛弘七年(一O

O ) 頃と推定することができるのである

きて寛仁三年(一O

一九

) の太政官牒に﹁真言宗東寺﹂とある盛算は︑寛 弘七年の時点でも東寺僧であったと思われるから︑彼は羅城門から東寺へ移 されてきた兜抜毘沙門天像のことを直接に承知する立場にあったことは間違

(15)

I=t 

1f

ワhプし

挿図12 木造毘沙門天立像 奈良国立博物館蔵 挿図13 木造毘沙門天立像

京都・鞍馬寺蔵

いな

︒また肩喰先端の刻出雲文や腰の飾環のような細部に至るまで東寺像

を忠実に転模している兜抜毘沙門天は︑清涼寺像に限られるのである︒

この

ように東寺像に密着した転模が清涼寺において実現した背景としては︑東寺

僧であって清涼寺阿閤梨に補任された盛算の存在以外には考えられないとこ

ろである︒もともと清涼寺は東の比叡山に対抗して王城の西に釜える愛宕山

上に設立するのが東大寺僧たる粛然の所願(﹁花鳥余情﹄所引﹃小右記﹄逸文)

であったから︑愛宕山下とはいえ栖霞寺内に︑粛然遺願の五台山清涼寺を関

創するに際し︑盛算は延暦寺根本中堂の毘沙門堂本尊像に対抗して︑東寺に

移きれた王城鎮護の由緒ある羅城門旧安置像についてその第二伝像を造立

これを以て育然請来の﹁霊山第三伝釈迦等身立像﹂

( ﹃

扶桑略記

﹄ )

ととも

298 

に清涼寺の本尊像としたと考えられるのである︒清涼寺阿閤梨を補任する太

政官牒(﹃伝法濯頂雑要紗﹂所収)には盛算について︑高周然とともに渡海して

五台山と天台山に至ったと述べ︑﹁そもそも往代入唐之人は︑或は五台に詣

るも天台に到らず︑或は天台に圏るも五台に参らず﹂︑

しかるに盛算は二山

の聖跡を札したと賞しておりここにも最澄・円仁・円珍等叡山僧の入唐成

果に対抗する斎然と盛算の自負のほどが示されている︒すなわち盛算が描い

た清涼寺開創構想の中心をなす叡山仏教への対抗意識が︑清涼寺において羅

城門旧安置像の転模を実現させたと考えられるのである︒この時期は承平五

年(九三五)の根本中堂焼亡と天元三年(九八

O ) の復興供養を契機として

叡山毘沙門堂本尊像に対する関心が高まり︑正暦四年(九九三)にはそれを

転模した善水寺の兜抜毘沙門天像が造立されたことは︑先に指摘したところ

である︒おそらく盛算はこうした叡山仏教の動向に対抗して︑羅城門廃絶に

より当時の注目を集めていた東寺像を転模して清涼寺に安置することを構想

するに至ったと考えられるのである︒

羅城門旧安置の東寺像を転模した造像で清涼寺像に次ぐのは︑奈良国立博

物館像(挿図ロ)である︒本像は権材による一木造で︑

両脚部を除く頭体部

をおおむね一材から彫出し︑これにそれぞれ別材からなる両腕部と両脚部を

矧ぐ構造である︒両腕は肩の付根で内部に角やとい柄を入れて体部に接合さ

れているが︑上辺を横木状に連結きせて門型状に造った両脚部を鎧裾底面か

ら内部に挿し込み︑釘で内割引面に固定させる技工は特異である︒頭部には内

引を行わず︑頚部下から鎧裾までの体部内を外面の起伏に沿って大きく内引

し︑背面襟元から鎧裾まで蓋板状に一材を当て︑体前面も帯喰上から鎧裾ま

で芸品板状の一材を矧いでいる︒以上のことはエックス線写真で確認される︒

参照

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