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六朝前期の江南社会と仏教

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昭和四十八年度国内研修報告

六朝前期の江南社会と仏教

大 川 富 士 夫

は じ め に

六朝前期の江南社会と仏教

 ここでいう六朝前期とは︑三世紀初頭の孫呉王朝の成立かち︑五世紀初めの東晋王朝の滅亡北いたる二百年間を指

す︒秦漢時代・中等文化圏の辺境に位置して後進的であった江南は︑こめ期間に本格的な開発がおし進めちれ︑こと

に四世紀初めには︑華北から流寓してきた士人を受け容れて︑文人優位の貴族支配体制を確立ざせた︒かつて私が行

なった調査によれば・努な畢政権であった旦出国の士人は華北系と江南系霜半ばしてゼ導・が確認され奈︑

このことは︑後漢代の循吏的章魚勧農政策によって江南に中原文化が普及した結果︑早くから植民的朋発が進んでい

た呉郡・・会稽郡に中原文化受容層としての士族が成長し︑そのような士大夫社会を背景として江南士人と華北士人と

の合作が成立したものと考えられる︒ともあれ呉国の成立によって︑さらに江南の未開地域の郡県化が進められた

が︑それでもなお︑縁江沿海地方以外の山谷の多くは未開のまま残され︑六朝時代を通じて︑三呉地方が政治経済の        ズ 基礎地域となっている︒したがって︑三国時代以後の江南の社会的開発は︑呉会の豪族層の台頭による豪族的社会の

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発展を︑その主要な内容とするといっても過言ではない︒

 ところでL漢代の豪族が奴碑と編戸の小作人をもったのに対し︑六朝の豪族㊨郷村民に対する支配力ば﹁客﹂の所

有を中核・為ボわれ・が︑その意肇は︑孫呉の内藤︑嬰屯塁の将軍とレて︑多数の部曲野鳥を擁し

て在地勢力を伸長させたとする川嚢雄図の見離・江南豪族の誕を考え・上で貴重であミしかし︑呉会豪族

が孫呉の世襲領兵制や屯田制を私的な豪族勢力の拡大に利用したとしても︑そうだからといって︑郡県の配賦負担者

であ溶編戸を﹁客﹂に組み入れ︑郷村を一円的に支配する武人領主体制にあったとすることには︑なお疑義がある︒

かつて私が考察した呉・肩代の江南豪族の性格には︑武力と財力をもって勢力拡大を図る貨殖的豪族とい︑つ面と儒家        ︵4︶ 的教養をもち︑﹁軽財貴義﹂の徳義を尊ぶ士大夫的側面が相表齎して塾ることが確認ざれた︒豪族が︑郷村に宗族と

して富強であるだけでなく︑県・郡の地方官界に進出し得るような声望を得ることは︑豪族0郷村支幌をより確実ヱ

し︑彼等の支配力を拡大するのに有効な手段であった︒私は︑︑士人ひ郡県における評価つ.まり郷論を︑郷村共同体の

世論と解するよりは︑翻しろ声望によって豪族を政治的社会的に序列づける機構と理解し︑声望の内容をなす儒家理        ︑       ︵5︶ 念を愚挙体制を維持するイデイ二塁ーとする東晋次の見解に興味を感ずるものであるが︑町会の華族が︑儒家的教養

をもつて地方土豪に優越していた事例は︑興国以来の名盤の系譜をひく顧氏が﹂石泳の乱における顧秘︑賦与の乱に

おける顧栄のように︑江南豪族に対して示した見事な指導力にみることがでぎる︒川勝﹁義雄氏は︑最五︑江南豪族

の武人領主的傾向は︑四世紀初頭の北部貴族にぼって華北的先進文化と郷論主義的イデイオロ曙一にくみこまれたと

する見謹書さ恕落様は呉会豪族の綾化の過程・そ︑江南豪馨会の文人優位の傾向を示すものであり︑全

・国的規模で士大夫社会の頂点に立つ西晋の亡命貴族と江南姓族との東晋朝合作やその後の文人支配体制を支︑況る基盤

は︑三国時代以来の江南豪族層の文人士大夫的傾向に求めるべきであると考えている︒

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 かくして︑姓族の台頭を通じてとらえられる六朝前期の江南社会は︑開発の地域的不均衡の著しさに特徴がある︒

呉会など−の急速に開発ざれた地方を除いて︑その大部£がなお未開の要素を残してお町 一方先進開発地域である呉

会では︑・開発地主として倉即した豪族が︑地域社会での階級的支配者で働るだけでなく︑華北的儒教文化を受容する

姓族を中心に︑.士大夫社会を構成する政治的文化的支配層を形成して炉たということになる︒それは著しく後進的江

南社会が︑華北中原文化の影響を受けて植民地的に発展していたことを示す︒ 一︑︑

 本稿では︑このような理解を前提として︑.異国の仏教の伝播が︑江南社会とくに呉会の開発といかなる関連をもっ

たかということを考察することとする︒

一 六朝前期の江南社会と仏教

・江南社会の仏教受容を地域的に考察するのに先立って︑六朝前期の仏教伝播の趨勢について概観しておこう︒

 ﹃弘明集﹄巻十二〜﹁桓玄與省令書論道人応敬王事﹂に︑次のような桓玄の言葉が見える︒

 ︵桓玄︶難じて曰く︑さきに癖人ほ懐仏を奉ずることなし︒沙門墨壷は皆これ諸泉北して︑且つ王者はこれと接せ

 ず︒故に其の旧俗に任港︑これが検を為さざるべきのみ︒今︑主上仏を奉じ︑親しく法事に接し︑事昔之異なる︒

 何ぞ其の礼をして︑准あらしめざるぺけんや︒

東皿呆の桓玄の霧によれば.東園以前の仏教はv異国僧によ領国の宗教であ・て︑あえイ史畢の俗をも・て律す

る必要が起かったという︒そして東晋代︑天子の二仏が行なわれ︑中国の宗教となった結果︑        みだ  京師︑其の奢淫を競い︑栄観︑朝市に紛れ︑.天府之を以て置を傾け﹁名器之が為に穣離す︒役を避くるものは︑百

 里に鑑まり・通逃のものは寺廟に回る︒乃ち一位に数千︑.蘇りに屯落を成し︑邑に遊食の群を聚め︑境に不薦の衆

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 を積むに至る︒其れ︑治を傷け︑政を害し︑仏教を塵津ナる所以にして︑固より己に彼此倶に跨れ︑実に風軌を汚

 すなり︒ ︵﹃弘明集﹄巻十二︑﹁桓玄輔政欲沙汰衆僧与僚属教﹂︶

と︑﹁晋人の仏を奉ずることなき﹂西晋代に対して︑東晋代には︑国政を妨害するまでに奢移的伽藍仏教が盛行する

に至ったとする︒こうした仏教伝播の急激な変化は︑唐の法琳の﹃弁正論﹄巻三に︑仏寺と僧尼の数を

西晋一=尽合寺

陳梁斉宋東  世世世晋

 AAAA

 口  口  口 

寺寺寺寺寺

一百入十所︑

一千七百六十入所

一千九百一十三所

二千一十五所

二千八百四十六所

一千三百三十二所 僧尼三千七百余人 僧尼二万四千人 僧尼三万六千人 僧尼三万二千五百人 僧尼八万二千七百余人 僧尼三万二千人

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としていることによっても確められる︒これらの数等がゼれだけ正確であるかは明らかでないが︑例えば﹃弁正論﹄

で︑嘆息仏教について︑国立大寺四十七所︑王公立寺入百三十九所︑百姓造寺三万余所︑度僧尼二百万とあるのを︑﹁

﹃魏註釈老台﹄の︑世宗の延昌中の天下の僧尼寺一万三千七百二十七所︑武定末の寺三万有余︑僧尼大衆二百万と比

べてみると・前者が・造寺座僧数であ軌後者は総数とい・た違いがあるのに︑言数字は同じである︒唐の遵旦

の﹃釈迦方志﹄巻四﹁さらに志磐の﹃仏祖統紀﹄巻三÷八にも同じ数字をひいズお戦実体はともあれ︑それむは慣

用的な伝承数字であることがわかる︒﹃弁正論﹄の寺および僧尼数を平繍を一として指数化し℃みると︵第一表︶︑東

継代の寺は九・八︑僧尼は六・五倍になっていて︑桓玄の指摘とあわせ考えると︑西晋代に比べて︑東正目代切寺と僧

尼㊨増加は飛躍的であったとしなければならない︒なお北端の一寺平均の僧尼数が︑六六.六人であるのに対して︑

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〔第一、表〕

寺憎尼il層駕

20. 5 13. 6 18. 8 16. 1 29. 0 24. 0

LO

6. 5 9. 7 8. 8 22. 4 8. 7

LO

9. 8 10. 6 1!. !

15. 8 7. 4

壷皿   宋斉梁陳 西町 江南のそれがその半ば以下であるのは︑規模が相対的に小さかウたことを思わせる︒ かくし℃東晋朝の王公貴族の善事による寺と僧尼の量的増大は︑桓玄が﹁事︑昔と異 なり︑准あらじむ.〜し﹂というように︑外来宗教としての段階から︑中国の宗教とし ての在り方が問題とされるに至ったのである︒もっとも︑東三代の貴族仏教は哲学と       ︵7︶ して受容され︑宗教的なものとしては求められなかったとする宮川尚志氏の指摘や︑ また中国古代の宗教を社会集団の信仰とし︑古代社会の崩壊にともなって個人救済の       ︵8︶ 宗教として道教が発展したとするH・マスペロ︑の見解に従えば︑当時の仏教が中国の

宗教としての市民権を獲得するには︑宗教ならざる儒学・老荘学と接触し︑他方︑国

家祭祀や民間の巫祝・神仙道およびそれらを含む道教と対応せざるを得なかったことになる︒仏教と中国在来の思想

宗教との交渉は︑いうまでもなく︑それぞれの地域社会の状況によつで偏差があるど考えられるが︑.六朝前期の先進

六朝前期の江南社会ζ鰍     〔第』二表〕

宋i斉

区分1在住唖蝉晋

9一戸D 9臼1  1 64 1︵︶  1

!126 左山康

江鍾建 建康 11 60︻0  1QU 22 城春灯合南 聖寿胆嚢潅 潅  洒 211  116  311 41 12 371 2 1 7    1

︵b11322   1

 陽塘興杭興稽陰虞寧 銚重 三        刻  富銭骨導永会山上始 余始

且 ノ、

ム 諏

4  2 11 R

山窟川 盧予臨

江.州 5    2    1       ﹁

21

1

4381 9

陽州陵陽昌陵沙西

裏漏江新挙手長江

21

2 11 1

117

漢江州山   蜀 広台益眠

益  州 21 2   1 1

筆海阯

始南交 嶺南

計1・・71・99.i・7・

(「浅野時代の江南仏教」所収高 僧分布表より)

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三下地域である呉会での具体的な仏教受容を考察する忙際して.次に東晋代の再会仏教がどの程度の比重を占めてい

たかを確かめておきたい︒        ︵9︶  一時代の仏教の地域的伝播状況を考察する方法としては︑すでに早蒔早撃によって行なわれた高僧の分布調査法が

あり︑高僧の主要活現地域を手がかりに︑その地域的比重をとらえようとして大きな成果をあげちれた︒統計的方法       ︵10︶ の限界は留意すべきであるが︑かつて︑私が行なった調査では︑梁の慧鮫の﹃高僧伝﹄の正伝・附伝より検出された

僧は︑東晋一〇七︑宋一九九︑斉一七〇にのぼり︑その増減が︑﹃弁正論﹄のそれとほ懐同じ傾向であった︵第二表︶︒

三 表ゴ

〔第

三 宋

高僧数 %

高僧数%

東 晋 高僧数%

80. 5

L1

10. 0

4. 7

L7

1. 7

餅2∬0833

60. 3 6. 0 11. 1 3. 0 11. 0 7. 0

.L 5

mE盟6羽盗3

26. 1 3. 7 30. 8 13. 0 16. 8 8. 4 0. 9

28 S33141891

康洒掃全州三嘆

建潅呉江三三嶺

199 100 1 170 1 100

107 100 計

高僧の主要活躍地域を︑主都建康を一ブロックとし﹁下上を中心に江北の

准酒︑東南の三会︑西方の江州に分げ︑さらに揚子江中流の荊州︑上流の

益州︑嶺南の広州・交州の七地域に分類し︑.高僧の分布を整理したのが第

三表である︒第三表でもっとも注目されるのは︑東晋から南朝にかけて建

康の比重が著しく大きくなっていくことであるが︑その内容の考察は旧稿

に譲り︑ここでは︑.東菊代の呉会の高僧数が建康のそれを凌駕するほどで

あり︑荊州・.江州の高僧教が南朝に入ると急速に減少しているのに対し

て︑その後も着実に発展しだことを指摘したい︒長月が東晋代の貴族の清

遊地でありたことから︑呉会の仏教が園丁の貴族的骨仏の延長として発展

したこどは香めないが︑さきにのべたような︑︑江南の先進開発地域として

豪族層の寮長が顕著であったこととも関連するものと思われる︒第二表の

篭僧の活躍地点は︑呉会に最も多く分布しているが︑呉郡の呉・富陽・銭

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六朝前期の江南社会と仏教

塘.︑呉興郡の池亭・余杭︑会稽郡の山陰・余挑は何れは六朝前期に有力姓族が輩出した地域であるからであ惹︒

 以上のような六朝前期の江南への仏教伝播の起点はどこに求めるべきであろうか︒このことを沙潤の布教修道の場

であり︑仏教の確実な定着を意味する仏寺の造立を手がかりとして考察してみよう︒       ︵11︶ .中国における仏寺造立の起源については︑今日︑後漢の光和二年︵一七九︶以前創建と見られる許昌寺が知られ︑ま

た笙融の浮図寺も福井康順氏の考誠ぱよって初平四年︵一九三︶以前とされ℃いるから︑建初寺をもって︑中国の仏寺

の始まりとナるのは誤りとされる︒梁の慧絞が著した﹃高僧伝﹄幽巻一︑康僧会伝によると︑

.︵薄層会︶呉の赤烏十年を以て︑初めて建鄭に達し︑茅茨を営倉し︑設像行道す︒時に墨画︑初めて沙門を見るを

 以て︑未だ其の道に及ばず︑疑いて矯異と為す︒有司奏して日ぐ︑﹁胡人境に入り︑自ら沙門と称するあり︑﹁容服

 恒にあらず︑こと応に検察すべじ﹂と︒︵孫︶油日く﹁昔︑漢の明帝︑神を夢み︑号称して仏ど為せり︒彼の事う

 る所︑量其の遺風に非ずや﹂と︒即ち会を召して何の霊験あるやと詰問す︒︵中略︶権大いに歎服し︑即ち為に塔

 を建つ︒始めて仏寺有るを以ての故に︑週初寺と号す︒.因って其の地を名づけて仏陀里となす︒是れより江左の大

 法遂に興る︒

とあり︑﹁是れより︑江左の大法︑遂に興る﹂という記述から考えると︑慧鮫が︑建初寺を﹁始めて仏寺有り﹂とい

っているのは︑実は江南における仏寺の起源をさしたものともみることができる︒周知の通り︑後漢の楚耳触の彰城

仏教や窄融の仏教の江南への波及が︑後漢末の戦乱を避けて南遷した華北士人によって行なわれたであろうことは︑

広東地方に﹃理惑論﹄.の著者上子のような仏教信者を出したことがら亀想像される.ことに︑それら南遷したものの

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中に迎接のような翌翌迦識系の大乗仏教を奉ずる月氏人二世がおり︑﹃出三蔵記集﹄巻二に億︑黄武初年より建雪中に

至る間の支謙の訳経三十六部四十入経を挙げているので︑康僧会以前に江南への仏教伝播が啄かりたとはいい難い︒︑

しかし︑支謙が孫権に挙用されて博士となり︑東宮輔導の任につゼたのは︑﹁その博学に㌧て才慧ある﹂知識人として

であって︑呉代の士人に対して仏教知識紹介の役割は果したかも知らないが沙門としての活動はなかったであろう︒

康僧会を迎えた呉国の官吏が︑剃髪胡衣し仏堂を設けて朝夕礼拝する様子を﹁矯異﹂とし︑孫権が﹁仏教の野立か﹂

といっているのは・知識としてはともあ蔽.塘纒礼仏な・の宗教儀礼を伴なう仏教は知・なか・た癖であ・.

 ところで︑﹃仏祖統紀﹄巻三十五︑﹁法運通塞志﹂十七単二に︑江南の造寺として︑後漢霊帝の建言三年︵一七〇︶に

安世高が予土に造立した東寺︑魏の黄初元年︵二二〇︶に孫権が武昌に建立した昌楽寺︑呉の黄竜元年︵二二九︶に濡

夫人が武昌に造立した慧宝寺︑呉の赤鳥五年︵二四二︶に尚書令閾沢が宅を捨てて建てた野面寺を挙げている︒そし

てまた同書には︑孫権の建てた建初寺を︑.赤烏四年にかけているが︑高僧伝に従って建学寺創建を赤烏十年︵二四七︶

とすると︑これ以前に︑東寺・三楽寺・慧宝寺・徳潤寺があったことになり︑建初野を江南最初の仏寺とすることは

困難となるので︑以下この点について若干考察しておこう︒

 先ず安世高が予章の蓬蓬湖廟の廟物をもって造った東寺の記事は︑ ﹃高僧伝﹄巻一︑安清伝にも見え︑安世高濾物

論の初め安息国より渡来し︑小乗経典を訳したが︑霊帝の末︑華北の擾乱を避けて江南に振錫し︑鋸山.詩章.広州 −を経て会稽で横死したといわれる︒﹃出三蔵記集﹄巻六︑﹁安般守意経蔵﹂に︑康僧会が︑

 たまたま︑南陽の韓林︑頴川の皮業︑会稽の陳慧に見ゆ︒この三鼎は道を信ずること篤密︑.徳を執ること弘正︑蒸

 々進々として道を志して倦まず︒余︑従って学問するに︑規同じく矩合し︑義の乖異するなし︒陳慧義を注し﹂余

 助けて斜酌す︒師に非ざれば伝えず︑あえて自ら由らざるなり︒

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六朝前期の江南社会と仏教

と述べていることから︑︑安世高訳の﹃安般守意経﹄が︑会稽㊨陳慧を通して呉術の康僧会に受け継がれていたことは

確かめられるが︑安世高が直接江南に来たかどうかは明らかでないσ安世高の伝記は︑梁の慧鮫時代にすでに多くの

異説があった︒慧較は︑ ﹃別伝﹄に見える晋太康末σ安有道入が桑垣の一事に残した封函に﹁吾が道を尊ぶ者は居士

陳慧︑企画を伝うる者は比丘僧会なり﹂との記事や庚仲南の﹃荊辺垂﹄に引く晋初の沙門安世高の記事をはじめ︑臨

川王の﹃直面記﹄︑曇宗の﹃塔寺記﹄を列挙してその錯誤を論じ︑安世高を後漢末の人としている︒これらの異説が

別人の伝を安世高と混同したものか︑あるいは仮托されたものかは姑く措き︑時代的に矛盾する異説に立脚する東寺

建立説を確証するものは見当らない︒

 次に武昌における昌楽寺と慧宝寺はどうか︒呉の孫権が武昌に都を置いた二二一年より二二九年の間に︑武昌に仏

教が伝播していたことは︑﹃高僧伝﹄巻一︑維砥難伝に︑

 呉の黄武二年︵二二四︶をもって同伴竺起炎と来り武昌に至り︑言葉経︵法句経︶梵本を齎す︒

とあり︑﹃出三蔵記集﹄巻七︑﹁暴露経序﹂にもその傍証を得ることができるので確実である︒しかし︑武昌がまだ邪

と呼ばれていた二二〇年に孫権が昌楽寺を造立したことおよび方丈から建郵に遷都したニニ九年に播夫人が慧宝寺を

建てたということは︑慧鮫の﹃高僧伝﹄にも全く触れられていない︒すでに大谷勝真氏が指摘されたように︑昌楽

寺・慧宝寺どいうような嘉名は後世のものとすべきであろ寵なお唐の女面遠の﹃歴代名画記﹄巻五に・

 王解︑⁝⁝元帝の時︑左衛将軍となり︑武康侯に封ぜらる︒時に鎮軍謝尚︑武昌昌楽寺において東塔を造り︑戴若

 思西塔を造る︒並びに虞に請いて画かしむ︒

とあるのによれぽ︑武昌昌楽寺は東晋初期には著名な仏寺であったと考えられる︒

 最後に地鶏寺減︑﹃仏祖統紀﹄巻三十五の同記事の割注に︑四明慈漢県に在り︑趙宋代の普済寺だとしているから︑

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もし事実であれば︑江南会稽における最古の仏寺ということになるが︑.前記昌楽寺・慈宝寺と同じく〜﹃高僧伝﹄に

は見当らない︒赤鳥五年︵二四二︶創立とされる徳没寺が問題とされる今一つは︑徳潤筆を認めるならば︑﹃広弘明

集﹄巻一︑︑﹁庸主孫権論詰道三宗﹂にみえる建初寺創建の記事と︑訓読と關沢の問答の記事によって﹁閾沢の死亡した

赤鳥六年以前に楽書寺が建てられていたことになり︑馴初寺創建年代は﹃高僧伝﹄巻一︑卸量会伝の赤鳥十年︵二四

七︶よりも・﹃仏祖統紀﹄巻三十五の赤鳥青年︵二四一︶が正しいということになる一大谷勝真氏は︑月氏の居士支謙

が東宮輔導の任にあり︑同じ頃︑財沢が東宮の太傅であったことから︑両者の交渉と閑沢の仏教信仰を推定し︑圃赤鳥

五年の錦塗裂を事実とされる︒・れに対して面木功即言︑﹃出三蔵記集﹄・﹃高僧伝﹄などの唐以前の史料の

懸性を膏評価・・閾四達寺造立を捏造・し︑馴初寺裂を赤皐年・されて雛閾応仁士心による猷

会稽の農夫出身の儒学者で︑余徳の大儒虞翻から呉代の董仲紆と称され︑興国の礼・律の整備に功績があった人物で

ある︒それだけに彼の出身地である慈渓県では︑彼の学徳が偲ばれていたようで︑県城東北二里に閾峯なる名称が残 置唐の房著書の東北選奨いた禦も既沢に因んで徳潤湖・追贈され暫竃徳潤寺の名は﹃高繧﹄にも

﹃続女僧伝﹄に賑見当らないが︑このような著名な会稽の先賢であることから考えると︑徳潤寺が事実であるならば︑

会稽弓隠出身で︑会稽山陰の嘉祥寺の僧である空華がその奉仏と立寺を無視することはあり得ないはずである︒さら

に︑慧絞は︑﹃高僧伝﹄巻十四の自序で︑二十数種の史料を参照したというが︑梁の元帝の﹃金野子﹄巻二︑﹁聚書編﹂

によると︑淫雨に注目されるような蔵書家であったことが知られ︑ ﹃高借書﹄の記述は︑著作の時点ですでに説話と

して固定していたと思われる明帝求法説話などを除いて︑相当に信頼度が高いとしてよい︒﹃広島附集﹄登︑.三主

孫権論仏道三児﹂の出典としてあげる呉書が︑現行三国志の嚢松之注にも引用されていないこととも併せ考えると︑

佐々木功成氏の説くごとく︑闘沢によゐ徳潤寺造立は事実無根というべきで働ろう︒

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六朝前期の江南社会と仏教

 僧伝における徳潤寺の初見は︑宋の賛寧の﹃宋高僧伝﹄.巻二十五︑唐明州徳潤寺遂端伝である︒       あぎな  この寺︑呉の太子太傅都郷侯閾沢の書箱なり︒後捨てて伽藍となす︒・其の題額︑.沢の宇を取るなり︒

とあって︑ただ書堂がのちに寺となったと記されるだけであるが︑宋の羅溶の﹃血紅四明志﹄巻十七には︑

 普済寺︑県東北一里に在り︒本︑呉の太子太傅都郷侯閾沢の書堂なり︒後︑捨てて寺と為すも︑代を歴て鍛廃さる︒

 唐大中二年︵八四八︶︑県令李楚臣︑復︑立てて徳潤院となす︒・沢の字徳潤なるを以て︑故に撒りて之を名づく︒乾

 雨中︵入七四〜九︶︑止して﹁青天﹂と賜う︒・徳潤寺僧文義大師清宴︑石に銘す︒皇朝の大中祥符元年︑改めて今額

 を賜う︒

とあり︑書堂のあとの寺の名は見えず︑大中二年︑つまり五宗の廃仏後に復興された寺が徳島寺であるとあう︒これ

らの記事によれば︑四明徳潤寺は︑桑畑には確かに存在した︒・そしてこの徳当寺が﹃宝慶四明志﹄より四十年あとの

威淳五年に︑四現福泉寺の志磐の﹃仏祖統紀﹄が編纂されたときには︑赤鳥五年にひき上げられたと解釈しうる︒

 以上の考察に従えば︑赤鳥五年の徳潤寺造立説に立脚して建本寺創建を赤鳥四年とする﹃仏祖統紀﹄の記事は誤り

とされる︒唐の許嵩の﹃斜掛実録﹄巻二には︑康僧会の渡来と建初霞創建を赤鳥十年にかけているが︑外典史料も

﹃高僧伝﹄等の記載の正しさを補強しているといえよう︒

 かくて江南における仏教の本格的な発展は︑赤鳥十年の心霊会の渡来ど建初鴬の建立を契機とし︑呉会への仏教伝

播もこれ以後盛んになったと思われるが︑なお呉代の仏教は国王の保護の下に順調な発展を期待することはできなか       ︵18︶ つた︒孫琳︐・孫皓などの為政者の蹄意暴虐によρて祠廟と同じく仏寺・道人が破析されあるいは凌辱された︒流伝後

まだ日が浅い仏教はハまだその独自性が認められていなかったから︑淫祀や道士と周じく衆心を惑わすものとされた

のである.︒孫権に対七て康卑湿が﹁ただ報応の近事を叙べて以て其の心を開ぐ﹂︵康当会伝︶に止まったというのは︑

49

(12)

江南仏教がその流伝の頭初より︑国王権力と結びつくのではなく︑直接的に江南社会を対象とした布教活動を余儀な

くされていたことを物語るものである︒ぞσ意味では︑﹃高僧伝﹄に︑里馬会が六経を博覧し天文図緯を綜乱すると

いう文人士大夫的学殖だけでなく︑舎利感得説話に象徴されるような巫祝的霊験能力の持ち主であったと記されるの

は・初期の巫祝祠廟的仏辮在り方を反映したものといえよう・

50 三

 さて︑江南の先進開発地域である呉会地方は︑古く戦国時代の千国・越国の故地で︑秦漢時代に呉県を治所とする

会稽郡が置かれていたが︑後漢の順帝の永建四年︵一二九︶︑漸江を境として呉郡十三県︑会稽郡十四県に分られ︑

九江郡・窯業郡・蒲江郡・予章郡とともに揚州に属していた︒三国時代になると︑穫漢の揚州六出のうち︑丹陽.

呉・会稽・予章が呉国の揚州に属し︑この領域に十六郡が設けられた︒したがって属県の状態は若干出入があるが︑

後漢代の呉郡は︑呉郡・呉興郡・砒陵郡の三郡︑後漢代の会稽郡は︑会稽郡・臨海郡・東陽郡・建安郡︵町代には暗

雲郡が分立︶の四季︑の七郡の地域に相当する︒歴吏上の用語である呉会︵三国時代︶︑三呉︵塾代︶は︑呉郡と会

稽郡︑あるいは思索・丹陽郡・呉興郡をさすというよりは︑学園すなわち揚子江下流の東側デルタ地域から紹興方面

を含めた総称であって︑ここでは︑首都のある丹陽郡を除いた後漢書の呉会すなわち上記七郡を対象地域としておき

たい︒  これらの地域における仏教受容を検討する方法としては︑﹃高僧伝﹄に.記載される仏寺を地域別に整理し︑各地に

設置された仏寺を中心に︑住僧の布教活動・在俗外護者の状況を考察し︑それぞれの地域の仏教受容の実体をとらえ

ることとする︒もちろん︑寺名不詳のものもあり︑所在や事実考証上の難点も少なくない︒﹃高僧伝﹄巻十三︑法意

(13)

六朝前期の江南社会≧仏教

伝によるど︑法意は鍾山の延賢寺をはじめ五十三寺を建てたというが︑それらは何れも無名に近い小寺である︒また

検出された仏寺が果してその地域にどの程度に重要な意味をもつものかどうかの疑問も残る︒しかし仏寺そのものを

伝える目的で編纂された﹃塔寺記﹄や﹃伽藍記﹄よりも︑ ﹁名あらずとも徳高き﹂僧を録したという・﹃高僧伝﹄に散

見する仏寺のほうがより社会関係をみるには有利かと思われる︒

 ﹃高僧伝﹄より検出される仏寺は︑江南では揚州一四三︑忌明一入︑広州・交州九︑計一七〇寺が数えられ︑華北

を含めると二三〇寺にのぼる︒揚州一四三寺のう略︑建康より早言に至る地域は一二九寺を占め︑そのうちの入入寺

は︑建康周辺に集中している︒建康の仏寺が圧倒的に多いのは︑晋南朝における影壁伽藍仏教の盛栄を示すものであ

るが︑すでに清の黒作森の﹃南朝仏寺志﹄二巻や劉世桁の﹃南朝思考﹄五巻があり︑さらにそれらを参考して塚本善       ︵20︶ 隆氏も夢魔までの仏寺三二寺を挙げて解説されている︒したがってここでは︑前述のように後漢の呉会にあたる呉

郡・呉羅郡・会稽郡など七郡の仏寺四一寺についてとりあげることにする︒なお︑以下に掲げる仏寺表は︑東晋時代

までとせず︑南朝代の動向を観察する便宜上︑﹃高僧伝﹄所見のものをすべて表記した︒また﹃高僧伝﹄以外の史料

に見られる東晋代の仏寺は︑考察の中でとりあげることとする︒

 第四表の丁台・呉興郡に属する十五寺のうち東聖代に創建されたものは︑呉県の虎丘山寺.支山寺.壼寺.通玄

寺.・東雲寺のみで︑銭塘・富陽および呉興郡の武康・余杭の寺は︑何れも南朝期のものである︒ただし︑下郵出身

で︑寒季に寓居した竺法域は︑東立代︑呉下無題潜県の青山石室で講経し︑呉興太守謝安がその山中に訪問したとい

うから︑立項はなされなくとも︑天目山麓の於蟻食への仏教伝播はみられたことになる︒竺法類は︑東晋の簡文帝に

招かれて建康に至り︑斎骸を行なって妖星を払ったというがδ事事中︑会稽若耶山に隠棲し︑郡趨・亡霊緒らと塵外

の交わりを結んでいる︒一見高踏隠遁的貴族風の僧のようにもみえるが︑﹃高僧伝﹄巻五︑寸法洋学には︑

51

(14)

〔第 四 表〕

』地名【寺・刷住僧名醜・寺代出身(姓)陳係俗人・1出無科)、

○虎丘山寺

ノノノノノノ

tl

ノノ

虎丘山東寺

○支山寺

○塞 

 tt

○通 玄寺

○東雲寺 閑居寺

 tt 華山華

道劇 道宝

支曇箭 竺道生

曇諦 僧乱 僧詮 支遁

支三品

道出 田達 畠尼 僧銀 燭業

.翼鏡

晋晋晋末 晋晋晋   宋晋宋宋宋 東東東 東  東東東 晋晋   半半.華 東東

畑入(陸釣)

呉人(張氏)

本月氏人

鍾二人(二二)

亭亭居人 呉  興

呉  』人

遼西海陽人

陳留人(関氏)

︵ソ・

呉  人

井州離石人

(劉 氏)

︷Y・

遼西海陽人

河内人(王氏)

朧酉人(焦目)

解解師解 義義経義 5⑤137︐

解 7 義

律解解解解福 明義義義義.興

11

V4⑥613 福解律解 興義明義 ⑬7117

の祖瑛 陽

ω彰秀 殉

王難王     呉の流 く 恭代丁 張鰭     呉呉 ︵︵︐ 恭郡 張張

.・

髟羽│林三道慧宋個人(三島) 13経師

銭塘「

富陽

.顕明寺 臨泉寺 泉林寺

 tr .

斉熈寺

温品 慧曇 三三 斉斉梁 琳紹琳

道慧道

銭塘人(偶氏)

清河人(張氏)

山陰人  ?

山陰 人

心緒(呉)

.8義解 1!習赤

経経.経 訥訥.諦

12 K!2

繊劇小山寺法訓言河東人(楊氏)沈(燕)之レ・熱 余杭

 斉鞘 当・・  鼻茸

単券早 智僧智

寺寺

顕安〃

方宝﹂ 遼西海陽人

 ? 河東聞喜人

(斐氏)

孟顎,張弓 張敷,戴勃 戴額

解律律 義明明 7⑪11

〔表注〕 ○印は東二代造立仏寺,数字はすべで高僧伝巻数。参お,⑤等は付伝,

 又は伝中の僧名。

52

(15)

六朝前期の江南社会と仏教

 時に東土多く意馬に遇う︒七瀬に慈悲を習い︑兼ねて面輔を善くす︒遂に村里を遊行し︑危急を極救す︒乃ち邑を

 出でて昌原寺に止まる︒百姓の疾む者︑多ぐ之を祈りて効を致す︒鬼を見る者ありて言う︑畷の止長するや︑常に

 鬼神数モ有りて其の前後を衛ると︒時に沙門竺道義︑無量寿像をつくる︒暖乃ちその有縁を率いて大殿を起立す︒

 相伝え℃言う︑木を伐りて旱に遇わば︑暖︑児して水を至らしめんと︒

之あり︑﹂単なる逸民的高僧ではなく︑神児を行ない鬼神を役使して民衆の疾病や旱災を救う神石僧であり︑また信徒

を結集して護法と造寺につとめた興福僧であったことが知られる︒

 ︑﹃高僧伝﹄以外のものからは︵呉県に東還幸帝のとき︑尚書石心が宅を捨てて霊光寺を建てておりハ﹃嘉禾志﹄巻十.

﹃呉無記﹄︶︑・呉県の氏人朱明が捨虚して寺と為した朱明寺がある︵﹃呉郡志﹄巻三一︶︒なお﹃嘉禾志﹄巻十に︑寺記を引

き︑呉の孫権の赤鳥中に湛漬に重畳寺が建てられたとあるがハ真偽は不明である︒古記県には︑東亜威和元年︑酉天

竺の沙門竺霜道が武林山︵飛来峯︶に霊隠寺を建てた︵﹃仏祖統紀﹄巻三六︶とあり︑海塩県には︑東晋の右将軍戴威

       ︵21︶ が資聖寺を建てた︵﹃嘉禾志﹄巻一四︶とあるが︑﹃高僧伝﹄には︑宋・斉代にもこれらの正名が見当らない︒

 ﹃高僧伝﹄所見の東晋代0呉郡の諸寺について考察すると︑毒虫山寺は︑︑東西二軸より成ってヤたようで︑唐の陸

廣微の﹃呉地記﹄に︑

 虎丘山−一⁝竿石西北九里二百歩に在り︑其の山︑本︑晋の司徒王殉と弟司空王眠の別肇なり︒威和二年︵三二士︶︑

 山宅を捨でて東西二寺と為し︑祠を山に立つ︒

とある︒﹃高僧伝﹄巻五︑竺道壱伝の本文には﹁虎甲山﹂とあるのに︑同書巻十四序録には﹁晋σ呉の虎牙東寺﹂.と        ︵22︶ あり︑虎落山寺は虎丘山東r.︑西寺の総称かとも思われる︒﹃呉地響﹄によれば︑聴器山寺は王氏の別塁に建てられた貴

族的仏寺であって︑泉石奇誰たる景勝の地にあったら七い︒だだし︑王導の孫である王殉兄弟は箇文言孝武豊代の人

53

(16)

で︑例沁ば王漏は太元十三年︵三入海︶︑二十八才で卒ルているので︑成和二年創建ならば掌記の出生以前となり︑不

都合といわねばならない︒連丘山に止住した僧は何れも建康仏教との関連が深いが︑この東晋名族王氏の寺に︑呉郡の

姓族陸氏出身の竺道芝が住んでいるのは︑︑螂邪の王氏と呉の姓族霊氏の︑仏教を通じた結びつきを示すものとして興

味がある︒竺道壱は︑王殉兄弟に敬事され︑太和幣屍官寺の古法汰に師事したが︑竺鼠輩および簡文言の死後は虎丘

山に隠棲して山を出なかったという︒呉の五族朱氏出身の僧糠も虎丘山寺に住し﹁宋代には僧正悦衆になってい届︒       ︵23︶

.支山寺は︑呉県西二十五里の支結髪にある竃馬の庵を指すものと思われる︒支遁は成帝末から計量の問に建康・会

稽の貴族仏教界の重鎮であったから︑一代の名流貴族を知己とする支遁が滞空に住したことは凸呉県の姓族と節黒名

族との交渉を密にするのに与って力があった之考えあれる︒

 皇寺は︑﹃比丘尼伝﹄巻二︑玄藻寒寒には太玄墓寺と記される︑支法喜に師事した玄意思は馬呉の斗星の女であり︑ま

た同じく支法済の弟子で︑層面山・建康で学び︑桓玄の礼敬問題で受諾にこもり善道に専念した道祖も呉の人である︒

 東霊代の呉郡の仏教は︑京師建康の貴族仏教の直接的影響下にあレ︑玄談仏教の色彩を示しながら︑呉の姓族や呉       ︵24︶ . 郡出身の僧によって荷われる趨勢にあった︒雄蕊にスると︑呉の花族張郡は︑呉県に閑居寺を︑営営に禅幽寺を建

て︑日興の豪族沈演之は︑武康の小山寺に法器を迎えて小山寺は縮笹の渕叢となったといわれる︒﹃高僧伝﹄巻十一A

僧業伝に︑

呉裏張郡其の貞素懲︑呼乃ち請うて道警還り︑為に閑居寺を造・.甥議︑︑長川を著す疋僧︶業宗

 に居り化を乗り︑訓誘して畷むなし︒三呉の学士輻湊肩慣す︒

とあり︑閑居寺も三面の文化センターとレて重きをなした︒閑居寺にいた昏怠が︑呉郡太守孟顕の創建に啄る活動の

当職寺に入ると︑呉の張暢・豪酒らが外宿しており︑重氏の奉仏活動は呉県以外の射程︒余杭にも及んでいる︒呉郡

54

(17)

六朝前期の江南社会と仏教

出身の僧の活躍も宋代以降顕著になってくる︒銭塘出身の慧基が建康の祇涯寺の慧義に師事していたとき︑たまたま

渡来した僧伽蹟摩に﹁汝まさに江東に道王たるべし︑久しく京邑に止まるべからず﹂︵巻八︑慧評伝︶といわれ︑故郷

四病の顕明寺︑会稽山陰の法華寺・宝林寺や刻県で布教し︑学徒千余人が従っだというのは︑呉郡出身僧の台頭の一︑

例とされよう︒慧基は斉代には︑東土十城僧主に任ぜられている︒

 貴族的玄談仏教に対して︑郷村社会での仏教受容が無異霊験をともなうものとして注目され6のは︑呉県通玄寺の

石像伝説である︒

 ︵慧達︶︑後東して呉県に遊び石像を礼拝す︒此の像︑︑西晋の将に末らん溢する建興元年︵三一三︶︑癸酉の歳︑呉

 松江の濾漬口に浮在す︒漁人︑疑いて海神となす︒巫祝を延いて以て之を迎う︒是に於て風涛倶に盛んなり︒骸催        むか  して還る︒時に黄老を奉ずる者有り︒是れ釜師之神なりと謂い㍉復共に往きて言うる忙︑瓢浪初めの如七︒奉仏の

 居士呉県民朱応有り︒聞いて歓じて日く︑将に大罪の垂応に非ざるかと︒乃ち潔斎し︑東雲寺白砂及び信者数人と

 共に漣濱口に到り︑︑稽首して慶を尽し︑︑至徳を歌唄す︒即ちに風潮調毒し︑遙かに二人江に浮かんで至るを見る︒

 乃牡是の石像なり︒背に銘誌有り︒一は惟衛と名づけ︑二は心葉と名づくつ即ち接え還 ︑0︑通玄寺に安置す︒呉中

 の士庶︑其の霊異なるを薩じ︑帰心する者怪し︒︵慧︶達︑通玄寺に停止す︒︵﹃高僧伝﹄巻十三︑慧達伝︶

 呉の迅玄寺の創建は︑建興元年以前之考えら覧るが︑﹃目地記﹄に﹁呉大帝無権呉夫人捨宅置﹂とあるほどに古い

かどうかは明らかでない︒この話は井州の僧慧達が︑東晋の寧康中︵三七三〜五︶︑阿育王塔像を求めて将陽﹂呉.会

稽への旅行の途次のごとで︑.この石像が︑巫祝・天師道・仏教のそれぞれの神に擬せられたと炉うことは︑当時の民       ︵25︶ 間における宗教事情を如実に物語っている︒該地に巫祝が盛行し︑麗筆や李寛などの道術が流行していだことは周知

の通りである︒そして︑仏教もこれらの巫祝と同一視される中で︑その霊異によって﹁多くの帰心者﹂.を得ていたの

55

(18)

である︒書落居士響応らの庶民的傾向からみるど︑

つたと思われる︒ 通玄寺.東雲寺は︑逸民的貴族仏教とは程紅炉郷村の小仏寺であ56

 次に漸漸以東の会稽郡について考察してみよう︒﹃高僧伝﹄所見の仏寺は︑︑第五表に見られるようにq郡治山陰を

はじめ︑永興・刻・上虞・余挑・章安などに分布しているが︑これらの地方は東晋貴族が好んで隠棲した景勝の地で

貴族の胃壁が多数営まれていた︒そのような関係から︑東苗代の寺も︑山陰県の嘉祥寺.顕義寺.若耶山寺.懸溜精

舎・法華寺晒北寺・楽林精舎・霊嘉寺・越城寺・昌盛寺・雲門寺︑刻県の隠岳寺・元華寺.沃州寺.棲光寺.墓寺.

霊鷲寺︑上運筆の竜仙寺など︑呉郡のそれに比べてはるかに多数にのぼる︒一代の名流貴族や名だたる山口同僧を迎えて

玄談仏教が華やかに展開していたこ老を察せしめる︒

 山陰県には︑第五表以外の東重代の寺として︑酉寺・祇涯︵園︶寺・昏怠寺・霊宝寺のあったことが知られる︒西.

寺は許詞・王滋養票仏典を講じ清談した寺である・とが﹃世説噺語﹄文学篇にみ柔砥霊園︶寺は︑清談家許

禦籍蓼︵三三〇︶ころ・山陰の旧宅を捨てて寺としたもので︑﹃建康実録﹄巻八の許訥の伝には︑

 遂に永興・山陰の二宅を捨てて寺と為す︒家財珍異︑悉く皆是れ給す︒既に成りて啓奏するや︑孝打電して日く︑

 山陰の旧宅を祇煙寺と為し︑永興の新宅を崇化寺と為せと︒訥乃ち崇化寺において四層塔を造る︒物産既に暫く

 も︑猶露盤相輪を欠く︒一朝風雨あり︑相輪等自ら備わる︒

とある︒宋の施宿の﹃会稽志﹄巻入では︑紹興府南二里一百歩にある趙宋の大能仁禅寺を粟麩寺跡に比定しでいるが︑

財産を傾けつくして惜しまない貴族的仏寺造営の典型とみられる︒覚暴悪は︑﹃会稽志﹄巻七に︑義煕十二年︵四一︑六︶

(19)

六朝前期の江南社会と仏教

〔第.五』表〕

地名陸 名騰名解離出身(姓)1間係俗人出典(酬

会稽 山陰

永興

σ 炎 並・二日㌔出初温麺梁膣・皿・並日㌦日日皿日並日済旧基三三 東東 東宋東  東東東東 毒草東東道 宋 壱鹿亡羊進豊郷挙芸無勲章明順畷敬腰弁基幽静基         厳    道 道慧曇支台僧慧慧曇法難法弘智法道吊採薬僧墨筆 寺寺︑塾舎寺寺寺寺塾舎寺寺華華 祥 嘉〃華〃〃攣城門〃原爺傍〃〃灘 嘉  霊 法  楽顕北越雲 昌懸三章  天宝 ○  ○○  ○○○○○○○○

栢林寺 六時寺 弘明  宋 弘明  宋

十三晋晋三筆  晋末   梁晋       三三  宋三三・ 露悪墨 東東東東東東  東宋   斉東

密遁蘭開遁友鏡流開柔緒宗匠斐光護淑蔵   法法.  法     僧   ♂ 支轟轟干支法僧道干僧僧法寮母吊舞舞法

白墨寺  寺  寺 寺  寺  寺

畑光華〃〃〃〃鷲〃〃縣 岳〃〃巌

沃凄元  毫  霊  ︑法  隠.南 ○○○  ○  ○  ○﹂ ○

呉入(陸氏)

北 地 人 長 安 人

達留人(関氏)

長 安 人 呉 興 人 銭 塘 人

  ?   ?

不   詳

  ? 不詳(梁氏)

山 陰 人

智膳人(徐氏)・

下那人(皐氏)

螂邪人(王氏)

山陰人(漏氏)

敦焼人(張氏)

銭塘人(偶氏).

丹陽人(陶氏)

呉 興 入

銭同人(偶氏)

山 陰 人 同 上,

陳留人(関氏)

 同 上 高 陽・人

不   詳

陳留人(居留)

  ? 朧西人(豊富)

  ? 不   詳

融融人(関氏)

  ?・ 臨 海 人

呉 興 人 立   人 不   四 刻   入

  ?   ?・

王曹(榔邪)

王凝(榔邪)』

王義之 孟顎(平野)

孟頻,陳載

顔  竣 周顧・張融

元簡.何胤 張融.周額

.陸威(呉)

解解解解解轟轟解福経解経歴解懸盤解難解解解解

義義義義義要義義興楽楽論講義義興義塾義義義義

56⑦47138⑧⑬12⑤121285⑬⑤128878

12訥経 同上

解解解解解解解解解解解経解解禅福福解

義義義義義義義義義義義諦義義習興興奮 44444④7⑦48812781113⑬⑧

上劇・麺大寺.史埋草剖不 詳塑1昼魏纏・・神異

章一壷 寺発明測距居刈. 1!叢薄

  ・記号は第四表と同じ。

・〔表注〕・雲門寺は「会稽志」7にもとずいて口恥創建とした。.

1』・法華丁丁は「寸寸」巻3によって東台創建とした。

  ・巻12.弘明伝にみえる道樹精舎は県名不明につき省略した。

57

(20)

郭将軍創建とし隅霊宝寺は︑﹃仏祖統紀﹄巻三十六に︑汰元二十年︵三九五︶︑処士戴達が丈六無量寿像を作って迎遇

したとされる寺で︑﹃歴代名画記﹄巻五・﹃集神州三宝感通録﹄巻中にも見える︒

第五表所載の東晋代の山陰県の仏寺も︑昌原寺などを除くと︑このような貴族的色彩が強い︒嘉祥寺は︑邸邪の一

直の創建で︑虎丘山寺より呉県陸氏出身の道壱が迎えられ︑霊嘉寺は王義之の請により支遁が住した寺である︒雲門

寺には晋代の住僧は見えないが︑﹃会稽志﹄巻七に︑義煕三年︵四〇七︶︑王義之の子王献之の故居に建てたとあるの

で︑東二代の仏寺に数えることともた︒この貴族所立の雲門寺に︑藤代には山陰県出身の弘明が住し︑請経・坐禅・

礼慨に精勤し真摯な奉仏活動が行なわれるようになる︒弘明は猛虎を教戒したり︑石姥巌の山精の害悪を懲した勧化

の徳高き僧で︑郷邑に信望が厚かった︒会稽太守孟頻が弘明を道樹精舎に招き︑済陽の玉総が弘明のために永興邑に

昭玄寺を建て︑また永興陶里の土豪董氏が栢林寺を建てたというのはその証左であろう︒東晋代の貴族的仏寺を起点

に︑南朝に入ると山陰・永興の郷邑に在地僧による地方的奉仏が着実に定着していった過程が跡づけられる︒

 建康の貴族玄談的仏教が最も盛んであったのは悪路である︒刻県は曹蛾江の上流にあり︑東側に四開山・天台山︑

西側に会稽山を望む盆地で︑﹃刻録﹄によれば︑東西二七六里︾南北七〇里ばかりの風光睨眉な山永の郷である︒会

稽郡の山陰・永興・上虞・余銚とちがって︑六朝前期には見るべき土豪の成長はない︒

 第五表以外の東晋代の剣県の寺として︑﹃会稽志﹄端野に︑隆和元年︵三六二︶賜号の東仰寺があり︑支遁・白道猷

が止住したとある︒﹃高僧伝﹄巻四︑竺法崇美伝に見える︑王導の弟道宝が住した東仰山はこの寺であろう︒弘法崇

の草庵は葛蜆山にあったというが︑記名は伝わらない﹄同轟く﹃会稽志﹄巻八に︑︐﹂洒晋の太康十一年︵二九〇︶一西域

僧創建の新建寺の名が見えるが確証はない︒また﹃貫録﹄巻三の先賢伝に︑東電代の名士二十六入を挙げているが︑

そのうち套稽出身の駄卸の他はすべて江北系士人である・・の墜謝敷が禦で建てた寺に風林灘ある・

58

(21)

六朝前期の江南社会と仏教

 さて︑誘引の仏教は︑邸邪王氏出身の竺潜が︑上帝の馬長六年︵三四〇︶︑仰山に隠棲してから著しく活発になり︑

以後三十余年︑竺潜は般若学・老荘学を講じて刻県玄談仏教界の指導寒詣揚にあった︒東晋最高の玄学家として著名

な支遁が︑この竺潜を通じて沃豊山に隠棲の地を求めたという話は有名である︵﹃高僧伝﹄巻四︑竺弱電︶︒支遁の沃州

山寺の建立は﹃仏祖統紀﹄巻三十六によれば︑太和二年︵三六七︶とされ︑同寺は﹁僧衆番謡﹂を擁する大教団を構

成していたようである︒唐の白居易の﹃沃洲山禅院記﹄︵﹃刻録﹄︑巻縮所収︶には︑ここに遊んだ高僧十八人と名士馬入

人を挙げているが︑沃洲山寺をはじめ︑第五表所載の東普代の凱県の諸寺は何れもこう七た東晋名流のつどう社交清

談のサロンとして著名なものであったと考えられる︒

 かかる義学玄談的刻県仏教が︑南朝代土着化する傾向は︑他と軌を一﹁にするが︑.注目されるのは東晋初期の剣県仏

教成立期の事情を伝える石城山の隠岳寺の創設︑・つまり未開の山中の開発物語でみる¢吊僧光の石城山への入山は永

和初年︵三四五〜︶でほぼ竺潜と同じ頃である︒当時の石城山は︑猛獣の災がひどく︑凶暴な山神が居て人が近づく

ことのできぬ未開地であったといわれる︒吊僧光は人を雇って道を切り開き︑山神を屈服させたので︑以後人々が出

入するようになり︑かつて山神が栖んでいた石室の境域には︑吊塁砦に宗事し︑楽謀殺倒する者の草屋が建ち並び︑

こうして隠岳寺ができたという︵﹃高僧伝﹄巻十一︑寓三光伝︶︒扇幽光は以後五十三年間︑ここで修禅し︑太元末年

︵三九六︶に卒している︒        ︵28︶  会稽の奥地の山谷地方は︑古来より山神の住む世界であり︑越方とよばれる禁呪が行なわれていた︒仏教がそうし

た山問に伝播するとき先ず接触するのは︑これらの神々を祠る巫祝三型信仰であったろう︒刻県の石城山地方に︑巫

祝が行なわれてい尭ことは︑敦煙の僧竺曇猷が此処を通ったとき∵

 嘗って行きて一行盤の家に到る︒猷︑呪願し慮るや忽ち蝶舩︑食中より跳出す︒パ﹃高僧伝﹄巻十一︑言語猷伝︶

59

(22)

とあることからも知られる︒巫祝信仰の行なわれる会椿地方の山谷に布教して山神を帰信させ︑仏教を受容させた例

は︑縞僧光の他に︑竺曇猷・支曇蘭の二例がある︒

 .吊磨砂伝で︑石城山の山神は︑初め虎や蛇になって威嚇したが︑やがて用僧光に屈して石室を提供し︑自らは章安

県の寒石山に移住すると告げる︒竺重心伝では︑石城山から始豊赤城山に入った竺曇猷を︑同じく虎や蛇の形で脅し

た赤城山神が曇猷の威徳に屈し︑共に住もうという曇猷のすすめに対し︑﹁部属の法化が治ねからず︑ ついに謎語し︑

難しいから﹂とことわって︑家士の住む寒石山に移り住んだ︑と記す︒﹃高僧伝﹄巻十一︑支曇爾伝では︑異形の禽獣

を従えた赤城山神が︑支意業に屈服して家伝の珠欺王の住む卑郷山︵仙居県西︶に移り去るが︑その後三年︑妻子男

女二十三人を従えた瓦之王がやって来て︑家累と共に受戒し︑銭一万︑蜜二器を献じて去っていったとレ︑これは支

曇蘭の禅衆十余人が共に聞翻したことだと付記している︒東豊代︑会稽山陰レより夕汐・剣地方に東晋貴族の別誕が弾

まれるに至り︑さらにその東南方に展開する四明山・天台山が彼らの関心の的となったようである︒支遁にも﹃天台

山銘序﹄があり︑刻より赤城山を経由して天台へのルi杢があっ.たことを伝えている︒東晋初事の石城山の吊威光か

ら︑ついで赤城山の竺曇猷︑そして東晋末の赤城山の支願書の山神調伏説話は︑刻一天台への仏教伝播を反映した

仏教受容伝説として興味がある︒.寒石山は︑天台県の西北七十里にある天台山の一支峯で︑ ﹃赤城志﹄巻二十一に︑

赤城山神が曇猷を避けて此処に徒居したという世伝を引いているが︑同声赤城山の条に︑晋義煕初め︑曇猷が中厳寺

を創建したという記事は疑わしい︒曇猷はすでに太元末に忙中に卒したとされ︑曇西倉には︑義煕末︑隠士神世標が

入山登巌して曇猷のミイラを見たとし︑中厳寺のことには言及していない︒

 ﹃高僧伝﹄巻十一︑慧明伝によると︑斉の建元中︑慧明が猷公のミイラを発見し︑質請にはげんでいたとき︑呂姥

と称する一女神が現われ︑常にこれを護衛していたと語り︑.その事前には︑白援・白鹿・白蛇・白虎が馴伏宛些して

60

(23)

六朝前期の江南社会と仏教

いたどいう︒東晋代の赤城山では︑かの山神の仏教受容伝説が伝えるほどには仏教が定着しないで︑むしろ仏教が巫

祝祠廟信仰の中に同化してしまったかの感がある︒山野に独臥し自習禅論慰する苦節僧には︑論旨の始豊漫布山の僧

従が︑道士楮呑玉と林下の交わりを結んで︑﹁五穀を服せず︑唯︑蚕・粟を餌うのみ︑年百歳に垂んとするに気力休

強︑礼世柄む無し﹂︵﹃高僧伝﹄巻十一︶というように仙道を修める隠士に類するものがあった︒固有の民族信仰の行な

かれる社会が︑異国の宗教を受け入れるため忙は︑あたかも東晋の溶溶仏教が︑五戒を五常にあてはめ︑経中の営営

を以て外書誤配し憶うに・仏教は自らを民族的宗教に擬配する必要があったと思われる・竺曇繁赤城山神に対

して﹁貧道︑山を尋ねて言値うを得んと願えり︒何ぞ共に住まざる﹂と問いかけたことを︑仏教を祠廟になぞちえん

とナる格義と理解することはできないであろうか︒異質宗教間に擬配関係が容易に成立し得るのは︑呪術である︒因       ︵30︶ みに鼠僧光・竺曇猷何れもすぐれた叩几師であったと伝えられる︒

上盤の竜実寺に止ま・霊鳥も・世に麻衣道士と称され・講嘉して至れ・翼竜であ・・その信者に会稽

の謝郡・魏逗之・魏放之の名があるが︑竜山大寺は︑史宗の神異とそれを支持する在地豪族によって支えられた寺で

ある︒  最後に︑四明の鄙塔について考察しておこう︒﹃高僧伝﹄巻十三︑慧智伝に︑

 之を頃くして︑進んで会稽に遠き︑鄭塔を礼拝す︒此の塔亦逼れ育王の造る所なり︒歳久しくして荒蕪し︑基礁を

 示存するのみ︒達︑心を翅し想を束ぬるや︑乃ち神光烙の如く発するを見る︒是れに因って寵瑚を修立す︒のち郡

 守孟顎︑復開拓を加う︒

とある︒四明仏教もまた︑阿育王塔の神異がその契機となっているのである︒・虚業のある鳥石馨にからむ伝説は︑﹁東       ︵32︶ 晋初期に真人が王導に一かつて捧塔飛行して落下してできた︑と語ったとか︑慧達が霊験によって舎利塔を得たとき

61

(24)

空中に飛行していた七梵僧の天が落下して化したもの・嫡様々であ・が︑阿育王肇建てられ房は︑会野守

孟顕が曇摩蜜多と土ハに会稽に出撃していた頃と思われるゆ﹃高僧伝﹄巻三︑曇摩蜜多雪に︑

会深意轟︑深く正法を信じ︑三宝を以て己が任となす︒素より禅味を好み︑敬重盤なり︒碧窪むに及

 び︑請うて共に同意し︑乃ち邸県の山に於て塔寺を建立す︒東境の旧俗︑多く巫祝に趣く︒妙化移る所に及び︑比

・屋正に帰し︑西より東に但ぶまで︑服さざるを思う無し︒

とあり・厨賓僧豪邸蜜多が巫祝信仰の盛んな四明地方に布教した功績を高く評価している︒したがって︑﹃仏祖統紀﹄

巻三十六に︑鄭塔建立を太康二年︵二八一︶にかけているのは誤りで︑ここでは︑﹃延祐四明志﹄−巻十七に︑

 阿育王山広利寺︑県東三十里に在り︒晋の義煕元年︵四〇五︶建つ︒梁の聖帝う阿育王寺の額を賜う︒

とあるのに従い︑東晋末頃としておこうコ

62

暑五 口口

 江南社会が華北中原文化の影響を受けて︑植民地的に開発された六朝前期には︑豪族社会の成長発展に著しい地域

差があるが︑仏教の江南伝播はそのような江醇の地域的不均衡な発展里居にほぼ対応していることが確認された︒と

同時に︑仏教の伝播がそれぞれの地域社会の開発に多大の役割を果していたことが注目される︒

 司会の仏寺の建立と沙門の活躍を通じてみられる呉会仏教の隆盛は︑首都建康の政治藝力に負う所が大きく︑大勢

において︑建康仏教の延長としてとくに貴族的奉仏と玄談仏教を牢軸として発展しながら︑在地の姓族の奉仏へと移

行する趨勢にあっだ◎そうした意馬仏教受容の側面として興味を感じるのは︑末開の山谷への布教に際して︑神異.

霊験的な神兄仏教の意義が極めて大きいことである︒巫祝を道教と同ご灯することはできないが︑巫祝や離多な信仰

(25)

六朝前期の江南社会と仏教

      み  をとりこんだ道教が︑六朝時代を通じて当会地方に広︽信奉されていたことは︑すでに陳寅恪氏の考証によって明ら

かにされている通りで︑巫祝祠廟の俗が盛んな三皇辺海では︑中国的な鬼神を通じて︑仏教を理解することがもっと

も容易であっ嬬ど思われる︒が︑これを単に貴族的仏教に対する地方的庶民仏教としてよいであろうか︒

巫術はもとより仏教の奮ではな噛しかし早くも東晋初期に魏経典が翻訳され・また﹃高僧伝﹄巻九・+に

は︑晋・宋・立代の神異言二十名の伝を立て︑それ以外でも神児を善くし︑神異を行なって教化したという例が極め       ノ て多い︒沙門と巫祝・道士が祈雨・治病・指巻の霊験能力を競・つた事例を一々とりあげる邊はないが︑そうした庶民

の身近な願望に応えるのが巫祝であり︑呪祷仏教であ隻︑しかも霊験の優劣が︑恰も教えの優劣と受けとちれるどこ

ろに︑非仏教的な神呪仏教の盛行する理由がある︒

 さらにまた・神呪霊験仏教は︑雑信仰と類似し同一視されたにしでも︑.邑里や山谷への呪祷仏教の浸透によって低

俗な雑信仰を宗教的に高め︑地域社会が宗教的・・文化的に開発されるという意義も無視し得ないものがある︒しかし       ︵37︶ 当時の江南知識人によっていかに数多くの瓦之小説の類がものされているかということを考えると神呪仏教が︑単に

教養の低い庶民層に限られないことは明らかであろう︒

 六朝前期の江南仏教はともすれば︑憶意の玄談仏教をもって代表させる傾向が強いが︑文人貴族によって展開され

た玄談仏教が格義であったのと同じ意味で︑神異霊験的呪祷仏教も︑江南社会の格義的仏教受容であったと考えるの

である︒       ︵昭和四十九年九月三÷日記︶

   ︹注︺

 ︵−︶拙稿﹁孫呉政権の成立をめぐって﹂︵立正史学三十一号︶および﹁孫呉政権と士大夫﹂︵立正大学文学部論叢三十三号︶参

   照︒

 ︵2︶ 越智重明氏﹁東晋南朝の村と豪族﹂︵史学雑誌七九i一〇︶参照︒

63

(26)

︵3>川勝義雄氏﹁貴族制社会と孫呉政権下の江南﹂︵﹃中国中世史研究﹄所収︶参照︒

︵4︶ 拙稿﹁三国時代の江南豪族について﹂︵立正大学人文科学研究所年報九号︶および﹁晋代の江南豪族について﹂︵立正大学

 ・文学部論叢四十五号︶参照︒

︵5︶東晋次氏﹁後漢末の清流について﹂︵東洋史研究三二一一︶参照︒

︵6︶ 川勝義雄氏﹁孫呉政権の崩壊から江南貴族制へ﹂︵東方学報京都四十四︶ 参照︒

︵7︶ 宮川尚志氏﹁晋代の貴族社会と仏教﹂︵﹃六朝史研究﹄宗教篇二一八頁︶参照︒ ︵・︶畑騰鰹嬬縄﹃道教﹄︵東奨誉版A四︶二頁三鷹

︵9︶ 山崎宏氏﹃支那中世仏教の展開﹄︵昭和十七年清水書院刊︶参照︒

︵10︶ 拙稿﹁劉宋時代の江南仏教﹂︵立正史学二十一・二合号︶参照︒

パー1︶.﹃出三蔵眉墨﹄巻七﹁般舟三味経記﹂に︑光和二年︑煙毒朔が洛陽で訳し︑建安三年︵一九入︶︑許昌寺で校定した︑と

  あるもので︑頃︒コ属ン塗ω℃興︒は︑い①ω○ユσqぎ①ωα︒ド8虚日ロま¢みげひ民国匡︒・一山︒いok⇔口σq.﹄o煽誓巳諺臨p言信ρ日︒ヨ①

  b︒NgH8卜署ρH・電・︒︒刈IHOSに︑楚王英の舅子壷昌が洛陽に建立した寺と推定している︒

︵!2︶福井康順氏﹁道教成立以前の二三の問題﹂︵東洋思想史研究一︶参照︒

︵!3︶﹃建康実録﹄巻二に同様な記事が見えるが︑摩騰・・画法蘭の仏法をのべたあとで﹁今無し︑乃ち其の遺類か﹂と記し︑沙

  門による仏教はないと明言したことになっている︒

︵14︶大谷勝真氏﹁支那に於ける仏寺造立の起原に就いて﹂︵東洋学報十一−一︶参照︒.

︵15︶ 佐々木功成氏﹁支那江南に於ける造寺の起原に就いて﹂︵竜駕大学論叢二四三号︶参照︒

︵16︶ ﹃三国志﹄巻五十三︑閾沢伝注引呉録に︑﹁虞翻称黒日︑面子儒術徳行亦今之仲紆也﹂とある︒

︵17︶ ﹃宝慶四明志﹄巻十六慈漢県条参照︒

︵18︶ ﹃三国志﹄巻六十四︑孫紺伝および﹃高僧伝﹄巻一︑悪僧会伝参照︒なお孫紺伝に﹁又壊浮図祠︑斬道人﹂とあるのを︑唐.

  の許嵩は﹃建康実録﹄巻三で.﹁殿壊浮図塔寺︑斬道人﹂といいかえている︒履代では仏寺をまだ祠とよんで︑祠癩と同一視

  していたものと思われる︒

︵19︶﹃高僧伝﹄巻㎝︑康僧皆伝に︑孫皓が淫祀を禁止すべく︑張子を建艦寺に遣わしたとき︑・寺側に淫祀があっ光と記され︑

  仏寺と淫祀が同居していたことがわかる︒なお︑宮川尚志氏﹁水経注に見えたる祠廟﹂︵﹃六朝史研究﹄宗教篇所収︶参照コ

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