昭和四十八年度国内研修報告
六朝前期の江南社会と仏教
大 川 富 士 夫
は じ め に
六朝前期の江南社会と仏教
ここでいう六朝前期とは︑三世紀初頭の孫呉王朝の成立かち︑五世紀初めの東晋王朝の滅亡北いたる二百年間を指
す︒秦漢時代・中等文化圏の辺境に位置して後進的であった江南は︑こめ期間に本格的な開発がおし進めちれ︑こと
に四世紀初めには︑華北から流寓してきた士人を受け容れて︑文人優位の貴族支配体制を確立ざせた︒かつて私が行
なった調査によれば・努な畢政権であった旦出国の士人は華北系と江南系霜半ばしてゼ導・が確認され奈︑
このことは︑後漢代の循吏的章魚勧農政策によって江南に中原文化が普及した結果︑早くから植民的朋発が進んでい
た呉郡・・会稽郡に中原文化受容層としての士族が成長し︑そのような士大夫社会を背景として江南士人と華北士人と
の合作が成立したものと考えられる︒ともあれ呉国の成立によって︑さらに江南の未開地域の郡県化が進められた
が︑それでもなお︑縁江沿海地方以外の山谷の多くは未開のまま残され︑六朝時代を通じて︑三呉地方が政治経済の ズ 基礎地域となっている︒したがって︑三国時代以後の江南の社会的開発は︑呉会の豪族層の台頭による豪族的社会の
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発展を︑その主要な内容とするといっても過言ではない︒
ところでL漢代の豪族が奴碑と編戸の小作人をもったのに対し︑六朝の豪族㊨郷村民に対する支配力ば﹁客﹂の所
有を中核・為ボわれ・が︑その意肇は︑孫呉の内藤︑嬰屯塁の将軍とレて︑多数の部曲野鳥を擁し
て在地勢力を伸長させたとする川嚢雄図の見離・江南豪族の誕を考え・上で貴重であミしかし︑呉会豪族
が孫呉の世襲領兵制や屯田制を私的な豪族勢力の拡大に利用したとしても︑そうだからといって︑郡県の配賦負担者
であ溶編戸を﹁客﹂に組み入れ︑郷村を一円的に支配する武人領主体制にあったとすることには︑なお疑義がある︒
かつて私が考察した呉・肩代の江南豪族の性格には︑武力と財力をもって勢力拡大を図る貨殖的豪族とい︑つ面と儒家 ︵4︶ 的教養をもち︑﹁軽財貴義﹂の徳義を尊ぶ士大夫的側面が相表齎して塾ることが確認ざれた︒豪族が︑郷村に宗族と
して富強であるだけでなく︑県・郡の地方官界に進出し得るような声望を得ることは︑豪族0郷村支幌をより確実ヱ
し︑彼等の支配力を拡大するのに有効な手段であった︒私は︑︑士人ひ郡県における評価つ.まり郷論を︑郷村共同体の
世論と解するよりは︑翻しろ声望によって豪族を政治的社会的に序列づける機構と理解し︑声望の内容をなす儒家理 ︑ ︵5︶ 念を愚挙体制を維持するイデイ二塁ーとする東晋次の見解に興味を感ずるものであるが︑町会の華族が︑儒家的教養
をもつて地方土豪に優越していた事例は︑興国以来の名盤の系譜をひく顧氏が﹂石泳の乱における顧秘︑賦与の乱に
おける顧栄のように︑江南豪族に対して示した見事な指導力にみることがでぎる︒川勝﹁義雄氏は︑最五︑江南豪族
の武人領主的傾向は︑四世紀初頭の北部貴族にぼって華北的先進文化と郷論主義的イデイオロ曙一にくみこまれたと
する見謹書さ恕落様は呉会豪族の綾化の過程・そ︑江南豪馨会の文人優位の傾向を示すものであり︑全
・国的規模で士大夫社会の頂点に立つ西晋の亡命貴族と江南姓族との東晋朝合作やその後の文人支配体制を支︑況る基盤
は︑三国時代以来の江南豪族層の文人士大夫的傾向に求めるべきであると考えている︒
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かくして︑姓族の台頭を通じてとらえられる六朝前期の江南社会は︑開発の地域的不均衡の著しさに特徴がある︒
呉会など−の急速に開発ざれた地方を除いて︑その大部£がなお未開の要素を残してお町 一方先進開発地域である呉
会では︑・開発地主として倉即した豪族が︑地域社会での階級的支配者で働るだけでなく︑華北的儒教文化を受容する
姓族を中心に︑.士大夫社会を構成する政治的文化的支配層を形成して炉たということになる︒それは著しく後進的江
南社会が︑華北中原文化の影響を受けて植民地的に発展していたことを示す︒ 一︑︑
本稿では︑このような理解を前提として︑.異国の仏教の伝播が︑江南社会とくに呉会の開発といかなる関連をもっ
たかということを考察することとする︒
一 六朝前期の江南社会と仏教
・江南社会の仏教受容を地域的に考察するのに先立って︑六朝前期の仏教伝播の趨勢について概観しておこう︒
﹃弘明集﹄巻十二〜﹁桓玄與省令書論道人応敬王事﹂に︑次のような桓玄の言葉が見える︒
︵桓玄︶難じて曰く︑さきに癖人ほ懐仏を奉ずることなし︒沙門墨壷は皆これ諸泉北して︑且つ王者はこれと接せ
ず︒故に其の旧俗に任港︑これが検を為さざるべきのみ︒今︑主上仏を奉じ︑親しく法事に接し︑事昔之異なる︒
何ぞ其の礼をして︑准あらしめざるぺけんや︒
東皿呆の桓玄の霧によれば.東園以前の仏教はv異国僧によ領国の宗教であ・て︑あえイ史畢の俗をも・て律す
る必要が起かったという︒そして東晋代︑天子の二仏が行なわれ︑中国の宗教となった結果︑ みだ 京師︑其の奢淫を競い︑栄観︑朝市に紛れ︑.天府之を以て置を傾け﹁名器之が為に穣離す︒役を避くるものは︑百
里に鑑まり・通逃のものは寺廟に回る︒乃ち一位に数千︑.蘇りに屯落を成し︑邑に遊食の群を聚め︑境に不薦の衆
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を積むに至る︒其れ︑治を傷け︑政を害し︑仏教を塵津ナる所以にして︑固より己に彼此倶に跨れ︑実に風軌を汚
すなり︒ ︵﹃弘明集﹄巻十二︑﹁桓玄輔政欲沙汰衆僧与僚属教﹂︶
と︑﹁晋人の仏を奉ずることなき﹂西晋代に対して︑東晋代には︑国政を妨害するまでに奢移的伽藍仏教が盛行する
に至ったとする︒こうした仏教伝播の急激な変化は︑唐の法琳の﹃弁正論﹄巻三に︑仏寺と僧尼の数を
西晋一=尽合寺
陳梁斉宋東 世世世晋
AAAA
口 口 口 口
寺寺寺寺寺
一百入十所︑
一千七百六十入所
一千九百一十三所
二千一十五所
二千八百四十六所
一千三百三十二所 僧尼三千七百余人 僧尼二万四千人 僧尼三万六千人 僧尼三万二千五百人 僧尼八万二千七百余人 僧尼三万二千人
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としていることによっても確められる︒これらの数等がゼれだけ正確であるかは明らかでないが︑例えば﹃弁正論﹄
で︑嘆息仏教について︑国立大寺四十七所︑王公立寺入百三十九所︑百姓造寺三万余所︑度僧尼二百万とあるのを︑﹁
﹃魏註釈老台﹄の︑世宗の延昌中の天下の僧尼寺一万三千七百二十七所︑武定末の寺三万有余︑僧尼大衆二百万と比
べてみると・前者が・造寺座僧数であ軌後者は総数とい・た違いがあるのに︑言数字は同じである︒唐の遵旦
の﹃釈迦方志﹄巻四﹁さらに志磐の﹃仏祖統紀﹄巻三÷八にも同じ数字をひいズお戦実体はともあれ︑それむは慣
用的な伝承数字であることがわかる︒﹃弁正論﹄の寺および僧尼数を平繍を一として指数化し℃みると︵第一表︶︑東
継代の寺は九・八︑僧尼は六・五倍になっていて︑桓玄の指摘とあわせ考えると︑西晋代に比べて︑東正目代切寺と僧
尼㊨増加は飛躍的であったとしなければならない︒なお北端の一寺平均の僧尼数が︑六六.六人であるのに対して︑
〔第一、表〕
寺憎尼il層駕
20. 5 13. 6 18. 8 16. 1 29. 0 24. 0
LO
6. 5 9. 7 8. 8 22. 4 8. 7
LO
9. 8 10. 6 1!. !
15. 8 7. 4
壷皿 宋斉梁陳 西町 江南のそれがその半ば以下であるのは︑規模が相対的に小さかウたことを思わせる︒ かくし℃東晋朝の王公貴族の善事による寺と僧尼の量的増大は︑桓玄が﹁事︑昔と異 なり︑准あらじむ.〜し﹂というように︑外来宗教としての段階から︑中国の宗教とし ての在り方が問題とされるに至ったのである︒もっとも︑東三代の貴族仏教は哲学と ︵7︶ して受容され︑宗教的なものとしては求められなかったとする宮川尚志氏の指摘や︑ また中国古代の宗教を社会集団の信仰とし︑古代社会の崩壊にともなって個人救済の ︵8︶ 宗教として道教が発展したとするH・マスペロ︑の見解に従えば︑当時の仏教が中国の
宗教としての市民権を獲得するには︑宗教ならざる儒学・老荘学と接触し︑他方︑国
家祭祀や民間の巫祝・神仙道およびそれらを含む道教と対応せざるを得なかったことになる︒仏教と中国在来の思想
宗教との交渉は︑いうまでもなく︑それぞれの地域社会の状況によつで偏差があるど考えられるが︑.六朝前期の先進
六朝前期の江南社会ζ鰍 〔第』二表〕
宋i斉
区分1在住唖蝉晋
9一戸D 9臼1 1 64 1︵︶ 1
!126 左山康
江鍾建 建康 11 60︻0 1QU 22 城春灯合南 聖寿胆嚢潅 潅 洒 211 116 311 41 12 371 2 1 7 1
︵b11322 1
陽塘興杭興稽陰虞寧 銚重 三 刻 富銭骨導永会山上始 余始
且 ノ、
ム 諏
4 2 11 R
山窟川 盧予臨
江.州 5 2 1 ﹁
21
1
4381 9
陽州陵陽昌陵沙西
裏漏江新挙手長江
荊
州
21
2 11 1
117
漢江州山 蜀 広台益眠
益 州 21 2 1 1
筆海阯
始南交 嶺南
計1・・71・99.i・7・
(「浅野時代の江南仏教」所収高 僧分布表より)
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三下地域である呉会での具体的な仏教受容を考察する忙際して.次に東晋代の再会仏教がどの程度の比重を占めてい
たかを確かめておきたい︒ ︵9︶ 一時代の仏教の地域的伝播状況を考察する方法としては︑すでに早蒔早撃によって行なわれた高僧の分布調査法が
あり︑高僧の主要活現地域を手がかりに︑その地域的比重をとらえようとして大きな成果をあげちれた︒統計的方法 ︵10︶ の限界は留意すべきであるが︑かつて︑私が行なった調査では︑梁の慧鮫の﹃高僧伝﹄の正伝・附伝より検出された
僧は︑東晋一〇七︑宋一九九︑斉一七〇にのぼり︑その増減が︑﹃弁正論﹄のそれとほ懐同じ傾向であった︵第二表︶︒
三 表ゴ
〔第
三 宋
高僧数 %
高僧数%
東 晋 高僧数%
80. 5
L1
10. 0
4. 7
L7
1. 7
餅2∬0833
60. 3 6. 0 11. 1 3. 0 11. 0 7. 0
.L 5
mE盟6羽盗3
26. 1 3. 7 30. 8 13. 0 16. 8 8. 4 0. 9
28 S33141891
康洒掃全州三嘆
建潅呉江三三嶺
199 100 1 170 1 100
107 100 計
高僧の主要活躍地域を︑主都建康を一ブロックとし﹁下上を中心に江北の
准酒︑東南の三会︑西方の江州に分げ︑さらに揚子江中流の荊州︑上流の
益州︑嶺南の広州・交州の七地域に分類し︑.高僧の分布を整理したのが第
三表である︒第三表でもっとも注目されるのは︑東晋から南朝にかけて建
康の比重が著しく大きくなっていくことであるが︑その内容の考察は旧稿
に譲り︑ここでは︑.東菊代の呉会の高僧数が建康のそれを凌駕するほどで
あり︑荊州・.江州の高僧教が南朝に入ると急速に減少しているのに対し
て︑その後も着実に発展しだことを指摘したい︒長月が東晋代の貴族の清
遊地でありたことから︑呉会の仏教が園丁の貴族的骨仏の延長として発展
したこどは香めないが︑さきにのべたような︑︑江南の先進開発地域として
豪族層の寮長が顕著であったこととも関連するものと思われる︒第二表の
篭僧の活躍地点は︑呉会に最も多く分布しているが︑呉郡の呉・富陽・銭
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六朝前期の江南社会と仏教
塘.︑呉興郡の池亭・余杭︑会稽郡の山陰・余挑は何れは六朝前期に有力姓族が輩出した地域であるからであ惹︒
二
以上のような六朝前期の江南への仏教伝播の起点はどこに求めるべきであろうか︒このことを沙潤の布教修道の場
であり︑仏教の確実な定着を意味する仏寺の造立を手がかりとして考察してみよう︒ ︵11︶ .中国における仏寺造立の起源については︑今日︑後漢の光和二年︵一七九︶以前創建と見られる許昌寺が知られ︑ま
た笙融の浮図寺も福井康順氏の考誠ぱよって初平四年︵一九三︶以前とされ℃いるから︑建初寺をもって︑中国の仏寺
の始まりとナるのは誤りとされる︒梁の慧絞が著した﹃高僧伝﹄幽巻一︑康僧会伝によると︑
.︵薄層会︶呉の赤烏十年を以て︑初めて建鄭に達し︑茅茨を営倉し︑設像行道す︒時に墨画︑初めて沙門を見るを
以て︑未だ其の道に及ばず︑疑いて矯異と為す︒有司奏して日ぐ︑﹁胡人境に入り︑自ら沙門と称するあり︑﹁容服
恒にあらず︑こと応に検察すべじ﹂と︒︵孫︶油日く﹁昔︑漢の明帝︑神を夢み︑号称して仏ど為せり︒彼の事う
る所︑量其の遺風に非ずや﹂と︒即ち会を召して何の霊験あるやと詰問す︒︵中略︶権大いに歎服し︑即ち為に塔
を建つ︒始めて仏寺有るを以ての故に︑週初寺と号す︒.因って其の地を名づけて仏陀里となす︒是れより江左の大
法遂に興る︒
とあり︑﹁是れより︑江左の大法︑遂に興る﹂という記述から考えると︑慧鮫が︑建初寺を﹁始めて仏寺有り﹂とい
っているのは︑実は江南における仏寺の起源をさしたものともみることができる︒周知の通り︑後漢の楚耳触の彰城
仏教や窄融の仏教の江南への波及が︑後漢末の戦乱を避けて南遷した華北士人によって行なわれたであろうことは︑
広東地方に﹃理惑論﹄.の著者上子のような仏教信者を出したことがら亀想像される.ことに︑それら南遷したものの
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中に迎接のような翌翌迦識系の大乗仏教を奉ずる月氏人二世がおり︑﹃出三蔵記集﹄巻二に億︑黄武初年より建雪中に
至る間の支謙の訳経三十六部四十入経を挙げているので︑康僧会以前に江南への仏教伝播が啄かりたとはいい難い︒︑
しかし︑支謙が孫権に挙用されて博士となり︑東宮輔導の任につゼたのは︑﹁その博学に㌧て才慧ある﹂知識人として
であって︑呉代の士人に対して仏教知識紹介の役割は果したかも知らないが沙門としての活動はなかったであろう︒
康僧会を迎えた呉国の官吏が︑剃髪胡衣し仏堂を設けて朝夕礼拝する様子を﹁矯異﹂とし︑孫権が﹁仏教の野立か﹂
といっているのは・知識としてはともあ蔽.塘纒礼仏な・の宗教儀礼を伴なう仏教は知・なか・た癖であ・.
ところで︑﹃仏祖統紀﹄巻三十五︑﹁法運通塞志﹂十七単二に︑江南の造寺として︑後漢霊帝の建言三年︵一七〇︶に
安世高が予土に造立した東寺︑魏の黄初元年︵二二〇︶に孫権が武昌に建立した昌楽寺︑呉の黄竜元年︵二二九︶に濡
夫人が武昌に造立した慧宝寺︑呉の赤鳥五年︵二四二︶に尚書令閾沢が宅を捨てて建てた野面寺を挙げている︒そし
てまた同書には︑孫権の建てた建初寺を︑.赤烏四年にかけているが︑高僧伝に従って建学寺創建を赤烏十年︵二四七︶
とすると︑これ以前に︑東寺・三楽寺・慧宝寺・徳潤寺があったことになり︑建初野を江南最初の仏寺とすることは
困難となるので︑以下この点について若干考察しておこう︒
先ず安世高が予章の蓬蓬湖廟の廟物をもって造った東寺の記事は︑ ﹃高僧伝﹄巻一︑安清伝にも見え︑安世高濾物
論の初め安息国より渡来し︑小乗経典を訳したが︑霊帝の末︑華北の擾乱を避けて江南に振錫し︑鋸山.詩章.広州 −を経て会稽で横死したといわれる︒﹃出三蔵記集﹄巻六︑﹁安般守意経蔵﹂に︑康僧会が︑
たまたま︑南陽の韓林︑頴川の皮業︑会稽の陳慧に見ゆ︒この三鼎は道を信ずること篤密︑.徳を執ること弘正︑蒸
々進々として道を志して倦まず︒余︑従って学問するに︑規同じく矩合し︑義の乖異するなし︒陳慧義を注し﹂余
助けて斜酌す︒師に非ざれば伝えず︑あえて自ら由らざるなり︒
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六朝前期の江南社会と仏教
と述べていることから︑︑安世高訳の﹃安般守意経﹄が︑会稽㊨陳慧を通して呉術の康僧会に受け継がれていたことは
確かめられるが︑安世高が直接江南に来たかどうかは明らかでないσ安世高の伝記は︑梁の慧鮫時代にすでに多くの
異説があった︒慧較は︑ ﹃別伝﹄に見える晋太康末σ安有道入が桑垣の一事に残した封函に﹁吾が道を尊ぶ者は居士
陳慧︑企画を伝うる者は比丘僧会なり﹂との記事や庚仲南の﹃荊辺垂﹄に引く晋初の沙門安世高の記事をはじめ︑臨
川王の﹃直面記﹄︑曇宗の﹃塔寺記﹄を列挙してその錯誤を論じ︑安世高を後漢末の人としている︒これらの異説が
別人の伝を安世高と混同したものか︑あるいは仮托されたものかは姑く措き︑時代的に矛盾する異説に立脚する東寺
建立説を確証するものは見当らない︒
次に武昌における昌楽寺と慧宝寺はどうか︒呉の孫権が武昌に都を置いた二二一年より二二九年の間に︑武昌に仏
教が伝播していたことは︑﹃高僧伝﹄巻一︑維砥難伝に︑
呉の黄武二年︵二二四︶をもって同伴竺起炎と来り武昌に至り︑言葉経︵法句経︶梵本を齎す︒
とあり︑﹃出三蔵記集﹄巻七︑﹁暴露経序﹂にもその傍証を得ることができるので確実である︒しかし︑武昌がまだ邪
と呼ばれていた二二〇年に孫権が昌楽寺を造立したことおよび方丈から建郵に遷都したニニ九年に播夫人が慧宝寺を
建てたということは︑慧鮫の﹃高僧伝﹄にも全く触れられていない︒すでに大谷勝真氏が指摘されたように︑昌楽
寺・慧宝寺どいうような嘉名は後世のものとすべきであろ寵なお唐の女面遠の﹃歴代名画記﹄巻五に・
王解︑⁝⁝元帝の時︑左衛将軍となり︑武康侯に封ぜらる︒時に鎮軍謝尚︑武昌昌楽寺において東塔を造り︑戴若
思西塔を造る︒並びに虞に請いて画かしむ︒
とあるのによれぽ︑武昌昌楽寺は東晋初期には著名な仏寺であったと考えられる︒
最後に地鶏寺減︑﹃仏祖統紀﹄巻三十五の同記事の割注に︑四明慈漢県に在り︑趙宋代の普済寺だとしているから︑
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もし事実であれば︑江南会稽における最古の仏寺ということになるが︑.前記昌楽寺・慈宝寺と同じく〜﹃高僧伝﹄に
は見当らない︒赤鳥五年︵二四二︶創立とされる徳没寺が問題とされる今一つは︑徳潤筆を認めるならば︑﹃広弘明
集﹄巻一︑︑﹁庸主孫権論詰道三宗﹂にみえる建初寺創建の記事と︑訓読と關沢の問答の記事によって﹁閾沢の死亡した
赤鳥六年以前に楽書寺が建てられていたことになり︑馴初寺創建年代は﹃高僧伝﹄巻一︑卸量会伝の赤鳥十年︵二四
七︶よりも・﹃仏祖統紀﹄巻三十五の赤鳥青年︵二四一︶が正しいということになる一大谷勝真氏は︑月氏の居士支謙
が東宮輔導の任にあり︑同じ頃︑財沢が東宮の太傅であったことから︑両者の交渉と閑沢の仏教信仰を推定し︑圃赤鳥
五年の錦塗裂を事実とされる︒・れに対して面木功即言︑﹃出三蔵記集﹄・﹃高僧伝﹄などの唐以前の史料の
懸性を膏評価・・閾四達寺造立を捏造・し︑馴初寺裂を赤皐年・されて雛閾応仁士心による猷
会稽の農夫出身の儒学者で︑余徳の大儒虞翻から呉代の董仲紆と称され︑興国の礼・律の整備に功績があった人物で
ある︒それだけに彼の出身地である慈渓県では︑彼の学徳が偲ばれていたようで︑県城東北二里に閾峯なる名称が残 置唐の房著書の東北選奨いた禦も既沢に因んで徳潤湖・追贈され暫竃徳潤寺の名は﹃高繧﹄にも
﹃続女僧伝﹄に賑見当らないが︑このような著名な会稽の先賢であることから考えると︑徳潤寺が事実であるならば︑
会稽弓隠出身で︑会稽山陰の嘉祥寺の僧である空華がその奉仏と立寺を無視することはあり得ないはずである︒さら
に︑慧絞は︑﹃高僧伝﹄巻十四の自序で︑二十数種の史料を参照したというが︑梁の元帝の﹃金野子﹄巻二︑﹁聚書編﹂
によると︑淫雨に注目されるような蔵書家であったことが知られ︑ ﹃高借書﹄の記述は︑著作の時点ですでに説話と
して固定していたと思われる明帝求法説話などを除いて︑相当に信頼度が高いとしてよい︒﹃広島附集﹄登︑.三主
孫権論仏道三児﹂の出典としてあげる呉書が︑現行三国志の嚢松之注にも引用されていないこととも併せ考えると︑
佐々木功成氏の説くごとく︑闘沢によゐ徳潤寺造立は事実無根というべきで働ろう︒
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六朝前期の江南社会と仏教
僧伝における徳潤寺の初見は︑宋の賛寧の﹃宋高僧伝﹄.巻二十五︑唐明州徳潤寺遂端伝である︒ あぎな この寺︑呉の太子太傅都郷侯閾沢の書箱なり︒後捨てて伽藍となす︒・其の題額︑.沢の宇を取るなり︒
とあって︑ただ書堂がのちに寺となったと記されるだけであるが︑宋の羅溶の﹃血紅四明志﹄巻十七には︑
普済寺︑県東北一里に在り︒本︑呉の太子太傅都郷侯閾沢の書堂なり︒後︑捨てて寺と為すも︑代を歴て鍛廃さる︒
唐大中二年︵八四八︶︑県令李楚臣︑復︑立てて徳潤院となす︒・沢の字徳潤なるを以て︑故に撒りて之を名づく︒乾
雨中︵入七四〜九︶︑止して﹁青天﹂と賜う︒・徳潤寺僧文義大師清宴︑石に銘す︒皇朝の大中祥符元年︑改めて今額
を賜う︒
とあり︑書堂のあとの寺の名は見えず︑大中二年︑つまり五宗の廃仏後に復興された寺が徳島寺であるとあう︒これ
らの記事によれば︑四明徳潤寺は︑桑畑には確かに存在した︒・そしてこの徳当寺が﹃宝慶四明志﹄より四十年あとの
威淳五年に︑四現福泉寺の志磐の﹃仏祖統紀﹄が編纂されたときには︑赤鳥五年にひき上げられたと解釈しうる︒
以上の考察に従えば︑赤鳥五年の徳潤寺造立説に立脚して建本寺創建を赤鳥四年とする﹃仏祖統紀﹄の記事は誤り
とされる︒唐の許嵩の﹃斜掛実録﹄巻二には︑康僧会の渡来と建初霞創建を赤鳥十年にかけているが︑外典史料も
﹃高僧伝﹄等の記載の正しさを補強しているといえよう︒
かくて江南における仏教の本格的な発展は︑赤鳥十年の心霊会の渡来ど建初鴬の建立を契機とし︑呉会への仏教伝
播もこれ以後盛んになったと思われるが︑なお呉代の仏教は国王の保護の下に順調な発展を期待することはできなか ︵18︶ つた︒孫琳︐・孫皓などの為政者の蹄意暴虐によρて祠廟と同じく仏寺・道人が破析されあるいは凌辱された︒流伝後
まだ日が浅い仏教はハまだその独自性が認められていなかったから︑淫祀や道士と周じく衆心を惑わすものとされた
のである.︒孫権に対七て康卑湿が﹁ただ報応の近事を叙べて以て其の心を開ぐ﹂︵康当会伝︶に止まったというのは︑
49
江南仏教がその流伝の頭初より︑国王権力と結びつくのではなく︑直接的に江南社会を対象とした布教活動を余儀な
くされていたことを物語るものである︒ぞσ意味では︑﹃高僧伝﹄に︑里馬会が六経を博覧し天文図緯を綜乱すると
いう文人士大夫的学殖だけでなく︑舎利感得説話に象徴されるような巫祝的霊験能力の持ち主であったと記されるの
は・初期の巫祝祠廟的仏辮在り方を反映したものといえよう・
50 三
さて︑江南の先進開発地域である呉会地方は︑古く戦国時代の千国・越国の故地で︑秦漢時代に呉県を治所とする
会稽郡が置かれていたが︑後漢の順帝の永建四年︵一二九︶︑漸江を境として呉郡十三県︑会稽郡十四県に分られ︑
九江郡・窯業郡・蒲江郡・予章郡とともに揚州に属していた︒三国時代になると︑穫漢の揚州六出のうち︑丹陽.
呉・会稽・予章が呉国の揚州に属し︑この領域に十六郡が設けられた︒したがって属県の状態は若干出入があるが︑
後漢代の呉郡は︑呉郡・呉興郡・砒陵郡の三郡︑後漢代の会稽郡は︑会稽郡・臨海郡・東陽郡・建安郡︵町代には暗
雲郡が分立︶の四季︑の七郡の地域に相当する︒歴吏上の用語である呉会︵三国時代︶︑三呉︵塾代︶は︑呉郡と会
稽郡︑あるいは思索・丹陽郡・呉興郡をさすというよりは︑学園すなわち揚子江下流の東側デルタ地域から紹興方面
を含めた総称であって︑ここでは︑首都のある丹陽郡を除いた後漢書の呉会すなわち上記七郡を対象地域としておき
たい︒ これらの地域における仏教受容を検討する方法としては︑﹃高僧伝﹄に.記載される仏寺を地域別に整理し︑各地に
設置された仏寺を中心に︑住僧の布教活動・在俗外護者の状況を考察し︑それぞれの地域の仏教受容の実体をとらえ
ることとする︒もちろん︑寺名不詳のものもあり︑所在や事実考証上の難点も少なくない︒﹃高僧伝﹄巻十三︑法意
六朝前期の江南社会≧仏教
伝によるど︑法意は鍾山の延賢寺をはじめ五十三寺を建てたというが︑それらは何れも無名に近い小寺である︒また
検出された仏寺が果してその地域にどの程度に重要な意味をもつものかどうかの疑問も残る︒しかし仏寺そのものを
伝える目的で編纂された﹃塔寺記﹄や﹃伽藍記﹄よりも︑ ﹁名あらずとも徳高き﹂僧を録したという・﹃高僧伝﹄に散
見する仏寺のほうがより社会関係をみるには有利かと思われる︒
﹃高僧伝﹄より検出される仏寺は︑江南では揚州一四三︑忌明一入︑広州・交州九︑計一七〇寺が数えられ︑華北
を含めると二三〇寺にのぼる︒揚州一四三寺のう略︑建康より早言に至る地域は一二九寺を占め︑そのうちの入入寺
は︑建康周辺に集中している︒建康の仏寺が圧倒的に多いのは︑晋南朝における影壁伽藍仏教の盛栄を示すものであ
るが︑すでに清の黒作森の﹃南朝仏寺志﹄二巻や劉世桁の﹃南朝思考﹄五巻があり︑さらにそれらを参考して塚本善 ︵20︶ 隆氏も夢魔までの仏寺三二寺を挙げて解説されている︒したがってここでは︑前述のように後漢の呉会にあたる呉
郡・呉羅郡・会稽郡など七郡の仏寺四一寺についてとりあげることにする︒なお︑以下に掲げる仏寺表は︑東晋時代
までとせず︑南朝代の動向を観察する便宜上︑﹃高僧伝﹄所見のものをすべて表記した︒また﹃高僧伝﹄以外の史料
に見られる東晋代の仏寺は︑考察の中でとりあげることとする︒
第四表の丁台・呉興郡に属する十五寺のうち東聖代に創建されたものは︑呉県の虎丘山寺.支山寺.壼寺.通玄
寺.・東雲寺のみで︑銭塘・富陽および呉興郡の武康・余杭の寺は︑何れも南朝期のものである︒ただし︑下郵出身
で︑寒季に寓居した竺法域は︑東立代︑呉下無題潜県の青山石室で講経し︑呉興太守謝安がその山中に訪問したとい
うから︑立項はなされなくとも︑天目山麓の於蟻食への仏教伝播はみられたことになる︒竺法類は︑東晋の簡文帝に
招かれて建康に至り︑斎骸を行なって妖星を払ったというがδ事事中︑会稽若耶山に隠棲し︑郡趨・亡霊緒らと塵外
の交わりを結んでいる︒一見高踏隠遁的貴族風の僧のようにもみえるが︑﹃高僧伝﹄巻五︑寸法洋学には︑
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〔第 四 表〕
』地名【寺・刷住僧名醜・寺代出身(姓)陳係俗人・1出無科)、
呉
○虎丘山寺
ノノノノノノ
tl
ノノ
虎丘山東寺
○支山寺
○塞 寺
tt
○通 玄寺
○東雲寺 閑居寺
tt 華山華
道劇 道宝
支曇箭 竺道生
曇諦 僧乱 僧詮 支遁
支三品
道出 田達 畠尼 僧銀 燭業
.翼鏡
晋晋晋末 晋晋晋 宋晋宋宋宋 東東東 東 東東東 晋晋 半半.華 東東
畑入(陸釣)
呉人(張氏)
本月氏人
鍾二人(二二)
亭亭居人 呉 興
呉 』人
遼西海陽人
陳留人(関氏)
︵ソ・
呉 人
井州離石人
(劉 氏)
︷Y・
遼西海陽人
河内人(王氏)
朧酉人(焦目)
解解師解 義義経義 5⑤137︐
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V4⑥613 福解律解 興義明義 ⑬7117
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