奈良教育大学学術リポジトリNEAR
教育における人間的なもの[上] −「教育愛」の 学説的成立とその今日的位置−
著者 岡本 定男
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 44
号 1
ページ 149‑160
発行年 1995‑11‑24
その他のタイトル A Human Affair in the Education [ I ] −The Theoretical Achievement of Pedagogical Love and its Position Today−
URL http://hdl.handle.net/10105/1627
教育における人間的なもの[上]
‑ 「教育愛」の学説的成立とその今日的位置一
岡 本 定 男 (奈良教育入学教育学教室)
(平成7年4月20H受理)
課題意識と対象
学校教育をtとした教育Lの営みが、迅速かつセソセ‑ショナルなマスコミの商魂仕立てによ る粉飾の要素をも伴って、世間の耳目を集める第一級の「事件」として扱われ始めて久しい。
1970年代初頭に発した「校内暴力」をその走りとして、 「いじめ」 「登校拒否」とたてつづけに つながり、 '80年前後の「体罰」から「 (高校)中退」そしで80年代末の「校則」問題へと推移
し、 '90年代判まの今日、それらの一層深刻な質的複合病理に 一般社会の関心が向けられている と言って良い。昨年11月の愛知県西尾市立東部中学校の生徒によるいじめによる「自殺」事件は、
年末から今年1月中旬までの最大の国民的関心を集めた出来事のひとつであった。こうして、学 校教育を主としたf‑育てや教育に関わる悲劇的衝撃的出来事は、少なくともこの25年間、ネタ切 れになること一度たりともなく、 「事件」メーカ‑の最右翼の‑llつとして、最早その位置を不動 のものとした感がある。
こうして教育領域への社会的関心の持続の過程にある1990年代は、これらI‑一連の「事件」の様 相をますます加えつつ、学校や教育を日常的に運営・成立させている当事者(教師・行政機関・
親)のまさに日常性そのものを根底から問い直す方向‑と向かうであろうし、又そうあらねばな らないであろう。
例えば、やや旧聞に属するが、 5年前の1990年7月の僅か1ケ月間で立て続けに起こった「事 件」としての神戸高塚高校の校門圧死事件と福的壱岐中学のいわゆる「生き埋め」体罰事件など は、教育を日常的に支えている当事者の日常性が、世間一般の教育観や学校への期待・信頼とは およそかけ離れた次元において営まれ得ることの、その限りでは何ら「事件」として騒がれるに 足らぬ見慣れた光景の1‑‑表出に過ぎない、と言えるかもしれない。事実としての「死」とその危 険を伴う状況を教師が引き起こしたという限りで、当事者としての教師・学校・行政機関に驚き と反省を促しはしても、児童・生徒の人権や言い分を具体的対応において抑圧ないし無視しがち な日常的意識・機構そのものへの問いかけは、殆ど為されているとは言い難いのではなかろうか?
同じく1990年5月5日の「子どもの口」の社説に、 「かつてない豊かさの中で子どもを育てて いる今日の社会は、親になりきれぬ未熟な親を生みはじめているように見える」(1)として、当時 急増し始めていた「児童虐待」が扱われたが、未熟なのは親だけではなく、プロフェッショナル を自認する教師も同様であろう。この点では、家庭教育に関わる問題事例として近年顕在化しつ つある「児童虐待」は、従来からの「体罰」事件を含む学校教育での「児童・生徒虐待」のコロ ラリーとして捉えることもできるし、先に挙げた'90年7月の衝撃的2事件も、学校にあっての
「児童・生徒虐待」の部分的表出とみることもできよう。
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150 間 も 蝣n y,
教育とは何か、学校はどうあるべきか、という根底的問いかけは、こうして家庭教育と学校教 育を結んで新たな「事件」的様相をみせながら「児童・生徒虐待」の兆候を迎え始めた今日、衆 人注目の一大関心事として私達の前に提起されていると考えて良い。例えばそこで問われている のは、単なる「校則」の弾力的運用や画一管理化された学校組織の部分的手直しではない。学校 や教育がよって立つ社会的歴史的根拠への真撃な問い返しとともに、家庭と学校を問わぬ教育的 営みの原理や本質の批判的究明こそが、今こそ国民的に求められている最重要課題の一一つだと言 えるのではないだろうか。
こうした現下の切迫した生々しい教育的「事件」のめまぐるしいまでの展開によって問われて いる上記課題に対して、教育を科学的総合的な、分析的系統的な学問対象として自律的見地から メスを入れ、人々の教育認識や行為に有効な実践的指針を提示すること、そこにこそ今日的学問 としての教育学が第一義的に果たさねばならない国民的役割が存している、と考えたい。
「校門圧死」も「生き埋め」も、はたまた同じ'90年春に起こった広島安浦町の担任教師によ る「受け持ち児童殺害」も、全て共通して、 (学校)教育の制度的日常的営みが、直接に子ども の命を奪う危険性を改めて世間一般に知らしめた。それは、合法的かつ制度的な営みの線上に生 まれた出来事であるが故に、 ‑一部の教育関係者にとって最早「事件」と呼ぶのさえ相応しくない かもしれない。しかし、重要な点の一つは、これらの肉体的な死とその危険性に子ども達が日々 さらされているという以前に、 「事件」とはなるべくもない精神的心情的な死への危険性が、子 ども達を取り巻いている点であろう。ブラソドや学歴や収入の高低で他人を表面的に評価するこ とに慣らせる今日の社会的傾向と表裏を為して、学校や家庭での教育の主体者としての教師や親 が、どれほど子ども達の知的・技術的・人間的能力向上の意欲や機会を狭めたり奪ったりしてい ることだろうか? 既に述べた如く、今最も必要なこと、それは人々が日常的に行っている教育 が、何をもってその名に値し得るのかを改めて深く問い直すことであるだろう。
翻って、今日の教育の政策的かつ理念的な現実を大本において規定しているのは、 1980年代半 ばに、中曽根内閣直属のもとに設けられた『臨時教育審議会』の答申である。その「臨教審」が 打ち出した諸改革への政策的方策にあって、主要原則とされたものは「個性重視の原則」であっ た。そしてこの原則は、 「もともとは教育の自由化に根ざした発想」(2)であり、さらにこの自由 化の発想は、 「人間を人間として扱う、人間味のこもった人格主義的教育‑の改革」(3)意図に発
していた、と考えられる。そうとすれば、この改革の根源にあったのは、広義の教育(経営)哲 学としての「人間化」への希求であった、とも言えよう。国に臨教審は、その第二次答申(1986 年4月)の中で「教育条件の改善」の立場を、 「児童生徒を取り巻く環境について、豊かな心を 育てるよう配慮するとともに、多様な個性に応じ適切な教育が受けられるようにするため、教育 条件については、教育環境の人間化の観点に立ってその改善をはかる必要がある」(4)と提示して いた。しかし「教育環境の人間化」の施策は、単に施設・設備・学級規模ないしは教職員定数の 改善といった物的側面につきるものではない。それらは必須の前提であり、その意味において緊 急不可欠の現実的課題である。ただ、より根本的な問題は、 「本来人間形成の機関であり組織で あるはずの学校が、その経営の全局面において人間性を喪失して」おり、 「その非人間化が行き 着くところまで進行している」(5)とされる状況をどう直接的に改善できるか、ということであろ う。この点、物的要素はあくまでも間接的なそれであって、より直接的には、教育実践の主体者 である教師(集団)のあり方こそが問われねばなるまい。
その際の一つの前提的な課題は、今日の主たる教育現場としての学校で、教師が子どもとどの
ように人間として向き合う余地があるのか、ということであろう。この点、さしあたって「ただ の教師の位置に自分を置くということ」(6)に徹してきたという高校教師佐藤通雅の以下のような 課題意識と立場は、あらゆる教育的営みの原点として保持されるべき把握であろう。
「現在何か事が起きると、学校は病んでいる、教師は何をしているか、もっと子どもの心をつ かめというたけり狂った反応が出てくるが、そこから直線的に立てる対策は、子どもの内面を 管理する方向にしかいかない。管理してなおはみだす子は、再び管理によって手中に収めよう とするだろう。 ・ (略) ‑そもそも子どもだ生徒だといいながら、そこに起きているのは本質 的には自分の問題だ。であるならまず自分が、この状況をいかに踏みこたえ、いかに突破でき
るかを問題にしなければならない。 」(7)
教師が人間として子ども・生徒と向き合うということ、 (学校)教育のアルファとオメガは、
仝てこゝに存すると言えるかもしれない。それにつけても、こうした「臨教審」以降政策的かつ 実践的にも改めて強調され始めたと言える「教育における人間的なもの」を考察するとき、我が 国教員養成の歴史にあって伝統的に重視されてきたと思われるいわゆる「教育愛」の発想や観点 との異同を問題とすることが必要であるだろう。というのも、 L述の課題意識を論理的に整理す れば、以FのようなI‑一つの整理が成り立ちうる、と考えられるからである。
(彰 冒頭から述べた如く近年の様々な教育を巡る世人の耳目を集める諸「事件」の根底には、
(学校)教育が子どもの権利や内在的欲求を無視ないし抑圧する虐待傾向が存在しており、
それはどこから見ても教育と呼ぶに値しない末期的状況であること。
② こゝで最も鋭く問われているのは、教育とはそもそも当の子どもにとって如何なる意義を 有するものなのかを再確認することであり、教育の本質に立ち返ることが是非とも必要であ
るということ。
(彰 「教育とはなにか」という問いに対する専門的かつ‑一般通念的合意のうち、既に歴史的に 認知されてきた主要な回答の一つが、 「教育は愛である」という命題だと考えられること。
④ この命題の由来と意味を専門的かつI‑一般通念的に捉える際の両者に共通した用語として、
「教育愛」という言葉が使用されてきたこと。
⑤ 従ってこの用語の成立と概念を、改めて検討することが不可欠となるが、その足がかりを この用語「教育愛」の学説的成立に求めるのがひとまず有効だと考えられること。
⑥ そのための教育学説的遺産は、既に戦前に築かれ済みであり、戦前に於ける「教育愛」の 基本的位置と性格づけを捉えることで、その学説的認知とレベルを今後検討していく資料と なるだろうこと。
教育現実と切り結ぶことによってこそ教育学の社会的使命と責任が果たされるということ、そ れは自明の前提であると言えよう。末期的症状としての「児童・生徒虐待」やいじめによる自殺 の増加を予感させる1990年代半ばにあって、 「教育愛」を再検討することは、こうして今社会的 に求められている教育学の学問的責任だと言わねばならない。
本稿は、こうした「教育における人間的なもの」を尊重する立場から、我が国戦前以来の教員 養成にあって、ことさら重視されてきたと言える「教育愛」に的を絞って、その学説的成立を考 察し、併せてその今日的位置・促進要因を検討することをめざしている。
152 I.til ト vl!りl
こゝで、予め、論文構成を示しておく。
課題意識と対象
第I章 「教育愛」の学説的成立前史 1.教育学説の移入性と戦後の「教育愛」
2. 「教育愛」の学説的成立の第1段階 3.ペスタロッチ評価の質的変化 4.第2段階第1期の位置と性格
‑以上本巻、以卜次巻(予定) 第II章 「教育愛」の学説的成立
1.第2段階第2期設定のメルクマール 2.第2段階第2期の内容
3.第3段階の特質と展開
第III章 「教育愛」の今日的位置と促進要田 1. 「教育愛」の歴史的理論的位置
2. 「教育愛」の新たな規定とその促進要川
第I章 「教育愛」の学説的成立前史 1.教育学説の移入性と戦後の「教育愛」
学としての教育学に一定継続的課題的関心をもって接した人には、全く常識化したこととして、
多くの他の学問領域と並んでの我が国教育学の移植・移入的性格がある。兵役・納税と並ぶ:̲大 義務の一つとして設定された就学義務の制度的組織化のモデルが欧米にあったことで、校舎の建 築から教室の採光・備品にそる物的整備や学校教育の法的充実の範をイギリスやフランスに求め
た維新政府は、物・組織・法の充実と並んでその摂取に力を注いだのは、教授法であった。戦前 我が国の教育学の学的構築の端緒は、伊沢修一 二や高嶺秀夫の先導的具体的指導に助けられ、まず はこの教授法の摂取・普及を通じて与えられた。それは、事物に則し子どもの目と手を経て対象 の知的把握を容易にするペスタロッチの直観主義に基づく「開発教授」であり、 「当時我がw ‑ 般教授の所謂注入記諭の廿1習を脱する」(8)ことを狙いとしていた。ただ、初期の翻訳紹介の段階 と伊沢等による応用普及の段階を通じて、その学としての押論的体系的性格は萌芽以上にHiるこ とはなかった。
明治20年代を通じて、ドイツ人エミール・ ‑ウスクネヒトを経由して谷本富や湯原元一一等によっ て紹介普及された‑ルバルト派の教育学も、主たる側面は教授の効率化合理化の便法として受け とめられ、実践主体としての教師は、 「子どもと教材の統一‑者ではなく、所与の教材の伝達名i‑J<s として機能した。しかし、実践としての教授を、教育目的を核とする教育的価値と結びつけ、文 化や知識を人間の歴史的社会的形成の不可欠の要素として位置づけた‑ルバルト及びその学派の 学説の紹介・移入は、我が国においての教育の系統的学問的形成に大きなきっかけを与えた。
続いて、谷本や樋rl1勘次郎等を理論的移入の先達として明治末期から大正期を通じて隆盛した
新教育運動は、一三としてドイツ教育学を中心として、我が国の諸種に亙る継続的学説移入とその 敷術の一大契機となった。社会的教育学、人格的教育学、美的教育学、実験的教育学、批判的教 育学、文化教育学等、主にドイツを中心に世界的に展開された新教育運動の学的形成と関わって、
曲がりなりにも我が国固有とも言える教育学構築に多かれ少なかれ刺激が加えられ、それを通じ て戦前教育学の性格の基本方向が与えられたと言える。
こうしたドイツ教育学を主体として営まれた教育の学問的形成法は、 「一面的なところはある が、教育の科学的研究の一分野を発展させ」 「基本原理を理解したり、それを理論的に展開する ためには大きな貢献をなし」(10)たものとみられる。今日からみて、その移入性・思弁性は否定す べくもないが、その「理論展開と構成における学問的見識の高さ、思索の重厚性」には、 「戦後 の『教育原理教科書』の及びもつかない学的見識の深さと教育学的教養の深さが示されている」(1 1)と見倣すこともできるだろう。つまり、戦前我が国の学としての教育学の体系的構築とその学 的表現である教育学説は、欧米教育の法・物・組織の基鍵の上に教室での教師の教授法の改革志 向を経、大IE期の新教育実践の高揚と直接間接に結びつつ、教育そのものの客観的社会的基礎づ けや連関を目指す方向へと歩みを進めてきたのであり、その全過程を経て欧米教育の運動や学説 に刺激と輪郭を与えられてきた。それは戦後や今日の教育学の内容や方法から見て、教育の卜‑
クルとしてのあり方や方法を原理的に思索・構成する志向性において今尚汲むべき意義を保持し ている、ということである。
こうした把握は、 「教育愛」の学説的成1Lを探るとでも前提を為しているのであるが、その前 に注目しておくべきことがある。それは、 「教育愛」への課題意識にあっての戦前と戦後の大き な質的相違についてである。その顕著な相違は、 tに以下の二点である。
(彰 戦前にあっての「教育愛」への課題意識は、後に概観するように、どこまでも教育そのも のの本質や根本的規定と関わってのものであったのに対して、戦後は殆ゼ教育者又は教師の 基本的態度論といういわば限定的部分的課題へと転じてしまった。
② こうした戦後の「教育愛」の転化に決定的影響を与えたのは、とりわけ1950年代後半以降 の所謂戦後教育の逆コースの時期から、もっぱら教員養成における国家的施策のいわば政策
上の基本タームとして取り込まれ続けてきたことによる〔12)。
これらの結果として、 「教育愛」ないし「教育的愛情」は、単なる教員養成や現職教員用の研 修用語となってしまった感さえある。 「教育的愛情」やましてや観念的で古くさい響きを与えか ねない「教育愛」によってイメ‑ジされる広義の教育者のあり方や理念と、 1970年代以降国民的 関心を集め続けて推移しているところの教育病理や教育「事件」とは、一見余りに隔たりがあり すぎる、という感もあるだろう。しかし既に述べた如く、現下の病理や「事件」は、国民全体に
とって「教育は、子どもにとってそもそも何なのか?」という根本的問いかけをなしているもの に他ならない。従って、むしろ教育の日常が「事件」を通じてその根本的異常性を際だたせてく れる今日にあってこそ、教育と愛情や教育における愛情の問題を、教育の本質論として究明しよ
うとした戦前の「教育愛」の諸論を改めて振り返る必要性がある、と言えよう。
その際、上記二点の課題意識の変化が如何に起こり得たのかという点については、戦後社会や 学校そのものの変化と関わっていると考えられる。しかし、変化の誘因そのものも又、戦前の
「教育愛」の学的成立過程の中に埋め込まれていた、と言うことができる。こうした把握に立っ て、以下の検討を行うこととする。
154
│,Y,I も ;' if
2. 「教育愛」の学説的成立の第1段階
以上の前提や把握のもとに、まずは、 「教育愛」の学説的成立の経緯を概観しておこう。
手近にある大小の教育関係の辞(辛)典類を開いてみて、まず気がつくのは、やや深まった教 育談義や広義の教育研究論議においても、今日尚使用されている「教育的愛情」とか「教育愛」
なる用語(13)が、見出し項目はおろか索引にさえ載っていないものが多い、という点である。 「教 育愛」が見出し項目として載っている比較的新しいものは、 1993年の『新 学校用語辞典』 (ぎょ うせい)であって、中型の辞(辛)典から、複数冊構成の専門的なものまでを含めて索引にさえ ないものが多いのである(14)。ましてや小型の簡易辞(事)典類や、近年幾つか刊行の目につくト レソディな「キ‑ワード」ものの解説や教員採用試験用の参考書頬にも、殆ど登場することはな い。ただ、 「教育における愛」とか「愛」 ‑‑舷の項目を立てて、実質的に「教育愛」の解説を行っ ているものはある(15)。いずれにしても、教育や教育学のまとまった辞(事)興類にも、教育学の 固有で抽象度の比較的高い概念である「教育愛」が余り見あたらない、という理由は何なのか?
「教育愛」は最早死語となったか、 「教育的愛情」は、ことさら辞典類に載せるまでもない自 明の前提と化した用語となっている、という判断なのであろうか。
翻って、我が国における「教育愛」の学説的成¥Aには、大まかに言って3つの段階があったと 考えられる。
第1の段階は、明治初期から大正初期頃にかけての時期である。
この段階は、 「教育愛」を構成する安国たる子ども‑の愛と理解の必要性を、教授目的の効児 的達成を図る便法として位置づけていることをその特徴としている、と言って良い。広義の教授 を「愛情」 「慈愛」などと関わらせて述べてはいるが、 「教育愛」という用語や概念が未だ登場
していない段階であり、従って学説以前の教帥の教授上の ‑艇的心構えの一つとして、散発的に 論究されるに留まっている。但し、この段階にあっても、第1期(明治初期から後期)と第2期 (明治後期から大正初期)では異なり、子ども‑の愛という「教育愛」の要関を教授の便法から 教育の主要な実践原理‑と高めるという質的発展の後を示している。以トにその質的転化を示す 主だった把握を時系列に沿って列挙してみよう。
「教師‑其職業ヲ自愛シ又真実二其教フル所ノ人ヲ愛ス可シー(略) ‑元来児童ノ精神ハ之ヲ 愛スルモノニ由リテ能ク発動スルモノナレ‑ナリ」(16)
「汝生徒卜相交リ之ヲ待遇スル毎二之ヲ愛スル心意及ヒ之ヲシテ善良二至ラシメソトスル情願 ヲ存有シテ主旨卜為サゝル吋ラス」(17)
「父子相愛スルノ情ヲ拡充シテ兄弟姉妹ヨリ遂二朋友二及ホスモノ友愛トナルナリ友愛ノ情款
‑亙ニ相識リ親シク和交‑ルモノゝ間二発生スルモノナレ‑学校二於テ之ヲ養成スル決シテ難 キニ非ス」(18)
これら三つの引用のうち前二者は、ともにアメリカ人のデヴィッド・パ‑キソス・ページ、及 びチャ‑ルズ・ノルゼソトの翻訳であり、三番目の引用もマサッツセッツ州ブリッジウオ‑ター 師範学校校長ボエデソの講義録を卜敷きとした教育書からのものであるが、我が国の近代的教育 学形成の出発点にあっての代表的訳著における愛の位置づけとして注目すべき文献である。ただ、
この明治初期から中期にかけての教育と愛への言及は、先述した如くあくまでも広義の教授効果 を高めるための便法の域を出るものではないし、 「忠君愛国」を確立したこの頃の教育と愛の:]‑:
張の基本は、愛国心や家父長的家族愛の域をでるものではなかった点は見落とせない。
引き続いて、明治後期からの‑主三だった言及を列挙する。
「教師が生徒の心を酌量し、其身を生徒の境遇に置き、共に喜び共に悲み、彼れ生徒等をして、
教師は兵に我が父母に代りて我が幸福を希望するものなり。実に我が利害休戚を念頭に留むる ものなりとの感情を懐かしむるは、教授上欠くべからざることなり0 ・ (略) ‑生徒を愛せよ 教師たるもの親愛の情に富み、生徒を愛する宛ながら我が愛児の如くならば、如何に悪意を懐 く生徒と錐、恰も氷片の日光に融解せらるゝ如く、知らず識らずの内に敬載服従するに至るべ
し。」(19)
「真に児童を好愛するものは、よし教育上の智識経験に欠くる処あるも、常に児童の為に芳心 し自ら適当なる教育法を発見するが故に、其成功を見るに難からざるなり。 ・ (略) ‑教師は 付の代理者なれば、苛も好愛と云ふことなくしては、教育の責に任ずること能はざるなり。」(20)
「教師は陶冶の理想を抱懐して、これを実現するものである。大きな人格の力を発揮して、遺 徳、知識、技芸を師弟に人格化せしめなければならぬ者である。 ‑ (略) ‑随って、教師は師
弟を愛するの人でなければならぬ。古来教育は愛の事実であるとせられたのも即ち是であって、
未成年者に対する愛の心が内に燃え、同情の念が自ら溢るゝの人に由って、最もよく達せられ て店るのも、蓋しこれが為である。 」(21)
これを通覧して、注目されるべき点は何であろうか。知られる如く、明治中期以降の森有礼の 提示した教師の「 :̲気質」 (順良、信愛、威重)と戦前教育の不動の目標を据えた「教育勅語」
の「一切ノ愛情ヲ含有スルモノ‑、即チ愛国ノ心ニシテ、我国ノ為ニー一命ヲ棄ツベキコトアラバ 局モ精忠ノ人」(22)といった愛情観が着実に力を待つつあった時代、教育にあっての、そして教師 にとっての愛が、漸く広義の教授上の便法の域を越え、生徒への人格的陶冶や感化を可能とする 教育実践上の一人原理として認知されて行った点であろう。 「道徳、知識、技芸を師弟に人格化 せしめ」るためにこそ「教師は師弟を愛するの人でなければならぬ」という把握には、 「三気質」
や「教育勅語」的愛国心のレベルでの愛を教育学的に転化発展させる方向が、はっきりと示され ているとみることができるだろう。
3.ぺスタロッチ評価の質的変化
ただもう1一つこの段階の教育においての愛の把握にあって、どうしても見落とせないことがあ る。それは、こうした教育実践Lの愛の位置づけの転化発展の契機と関わっている。
既に述べたように、我が国近代教育の学的構築の初発の契機は、イギリス・フランスの教育制 度や思想の解介とそれに次ぐ「開発主義」の名の下での実物教授法の導入実践によって与えられ た。しかしこのペスタロッチの直感教授を基礎とした教授法が、ペスタロッチ自身の思想・人格・
教育実践そのものの吟味や評価のl二に立たない技術的表面的導入であったことも作用して、明治 20年代初頭には普及の勢いを失い、ヘルバルト派の教育学説や教授法にとって替わられることに
なった。 「教育愛」の学説的成立の第1段階としての明治初期から大正初期にかけての最も注目 すべき契機は、やがてへルバルト派の教授法も形式化形骸化をみせ始める明治30年代初頭にあっ て、伸びペスタロッチ主:.義が復興の兆しをみせ始めることによってもたらされたと言えよう。戟 育と愛との関係把握がこの第1段階にあって、教授の便法から教育実践の主要な原理の位置に逆 転化したとみられるのは、ぺスタロッチ‑の注Hの仕方が明治30年代以降、その単なる教授原理 の技術的摂取のレベルからペスタロッチの教育を根本的総体的に摂取するレベルへと転化したこ とと推行していると考えられるのである。というのも先に引用した如く、教育と愛の把握の明治 初期の特徴は、生徒の善導や知的教授の効果を高めるいわば技術的方便の傾向をもっていたのに
156 M K り
対し、明治30年代以降は、そうした観点と並んで、教育全体のあり方と結びつける次のようなl:̲
張が登場するからである。
「尋常小学校は家族的に近くして、順々にLの方‑往けば国家に近くなる。けれども、要する 所、愛と法とにて丁度剛と柔との二を兼ねるものと看れば宜しい。 ・ (略) =・まこと学校は愛 と法との二つが必要であるといふ車を心得てやらねばならぬ。 」(23)
「生徒を愛せよ‑・ (略) ・‑彼の有名なるペスタロッチー氏がスタンツに於て孤児養育院を組織 し、百事不備の間に処して、幾多の辛酸を嘗め億し、不損4く屈13人余の児童を教育せし当時を 想像し、併せて余の‑一身はすべて是我児童に属す余と寝食を共にし余と苦辛を共にし余と苦楽 を共にして我手を擦り我が顔を仰ぐものは唯我児童のあるのみと日‑る氏の述懐をかんがえる ときは師弟間の愛情ほど勢力の強いものはあらざるべし。 」(24)
学校を愛と法とのいわば二人原理として、しかも小学校のよって立つ教育原理を親f‑の情愛を 範とする愛の原理によってほぼ第 一義的に捉え、その教育実践上の歴史的典拠をペスタロッチに 求める明治32年時点でのこれらの把握は、その後の教育と愛との関係を痢期的な形で象徴したも のと言って良いだろう。この引用の前者は、明治後期の我が国教育学界を代表する谷本富の把握 であるが、彼自身かつての‑ルバルトとその教授法の先駆的移入者の立場を転じて、明治末期に
は既に、 「ペスタロッチー其の人が全く教育学であります」(25)と述べていた。谷本と前後して明 治末期から大正期を通じて我が国教育学の学的構築に多大な影響を与えた沢柳政太郎も、既にこ
の時点で、 「教育者は皆ペスタロッチたるを得べし」として、 「苛も今H教育に従事するもの此 大教育者の指導に依らざるはなく、教育の洋に浴するもの此大教育者の慈悲に漏るゝものなし」(2 6)と言明していたのである。こうしてペスタロッチは明治初期の限定的移入から後期には復活し て、教育者の鑑としての位置を確保することになり、このペスタロッチ評価の部分性から全体的 本質性への転化が、そのまま我が国における教育と愛の関係把握に質的転化をもたらしたと言え
るのである。
4.第2段階第1期の位置と性格
さて、 「教育愛」の学説的成立の第2段階は、大正初期から昭和0年代を通じての時期である と考えられる。この段階は、 「教育愛」という用語がその概念とともに移入され、この用語がそ の概念の移入以前に既に自律的に距胎していた教育と愛との本質的関連についての考察に直接間 接の契機が与えられ、その学説としての準備が整うことをその特質としている。第1段階と同様、
この第2段階にあっても、 「教育愛」の学説としての成立過程を大きく二つの時期に分けること が可能かつ妥当であろう。
まず第1期の主だった把握をやはり時系列的に列記してみよう。
「教師はもとより各種の動機に着眼するを要する。しかし、着眼の中心点は寸時も論理的確信 とこれに伴う愛を離れてはならない。児童は利用によりてのみ動かさるとなすごときは、児童 の性情の誤解であって同時にまた知識の本質の曲解である。 」(27)
「教育の革新は断じて教授法の革新ではない。児童主義、自学主義によりてのみ到達せられ得 るやうなそんな簡単なものでもない。愛のめざめんとする教育者自身の内部的革命こそはあら ゆる教育改造‑否社会改造の根本基調でなからねばならない。 」(28)
「愛からも知識は自然に生まれるが、又知ることも愛する道である。強調してい‑ば知ること は愛することである。 」29)
「凡ての人に愛の教育は人としての暖かみと光とを与える。我が国と我が国の人とをすくふも のは愛の他にはない。 」(30)
これら人iBO年頃の教育と愛との関連把握には、愛を教授Lの便法として功利的に捉えたり、
ペスタロッチ評価の全体性‑の転換と関わって、愛を教育実践上のいわば一大原理として認知し た第1段階のそれとは、明らかに質的相違がみられることに気づくだろう。第1段階にあっては、
たとえ第2期にあっても、教育にあっての愛は、 「道徳、知識、技芸を師弟に人格化せしめ」
(乙竹岩造)るためのやはり広義の手段としての位置を与えられていたし、たとえ愛が教育実践 1二の一一大原理として認知されたと言えても、その論理には家庭における母性愛をシュタソツでの ペスタロッチの教育方針を直接媒介として学校教育上の原理としても採用しようとする安易さが 残っていた。愛と法の二大原理で学校のあるべき姿を捉えようとする谷本的把握には、この限り での愛の原理としての昇格はあっても、そこには多分に愛の抽象的理想化の姿勢が残されていた と言える。
こうした第1段階での教育と愛の把捉に対して、この第2段階第1期のそれは、明らかな質的 深化をみることができる。即ち、教育にあっての愛の位置は、こゝでは単なる一一一原理ではなく
「教育改造の根本基調」 (柳[□謙十郎)として捉えられている、という点である。戦前我が国の 教育実践と理論の形成に大きな影響を残した小原国芳や篠原助市のこの期にあっての以下のよう なIT.張は、このことをより説得的に示している。
「教育が愛であることはい亮,迄もない。 ・ (略)蝣・蝣何といっても『愛』が教育の中心点であるO 愛これが万事を解決する。 」(31)
「 『愛』この 一語を、私は師範学校新卒業生諸君に贈りたい。私は教育は愛であると考えてい る。第1‑・に教育の目的は真理に対する愛、道徳に対する愛、美に対する愛にある。 ‑ (略) i 第二に愛は又教育の唯一の方法である。愛とは全くなるといふことである。半分に切られた環 が、ふたたび元の環にならうとする心である。 ‑ (略)一第 三に愛は又教育の原動力である。
(略) ‥・愛は永久に一一貫して動かない。動かないのはそれが普遍の心であるからである。 . (略) ‑私共は内心の審判にはをののかさるをえないが、世の審判には何の恐れも容赦も必要 ではない。愛に基づき、愛により、愛に迄教育をしているか否か、私共不断の用意は此の一点 に集中せねばならぬ。 」(32)
次に、此の期の把握と第1段階のそれとの相違にあって、もう一つ特筆さるべきことは、教育 の根本展調を愛として捉起したLで、教育における愛の作用を分析的に把握しようとする姿勢が 顕箸化してくる点であろう。先に引用した「知ることは愛することである」という視点を具体化 して、 「教育にはどうしても児童の理解といふことが必要である。理解なしに児童を教育するほ ど教翻こ於ける誤の人なるものはない、それは寧ろ危険である」(33)とする観点には、愛の抽象的 理想化の段階や教授の方便の段階を確実に越え、教育の根本基調としての愛を構成する条件その ものへの分析的態度の表れをみてとることができるであろう。又、 「真の愛は、苦しみと節制と 努力が伴はねばならぬ筈である。気まぐれではいけない。天地の根本と合体し、神仏と働を共に してはじめて『愛』なる言葉は使へるのであろう。軽率にいふまい。 『教育は愛なり』と」(34)と いった主張には、教育の根本基調としての愛そのものを絶えず実践上の吟味・批判の対象として 捉えようとする立場が、意識的に込められていると言うべきであろう0
ところで、既に述べた如く、我が国の教育学の学的構築に対する欧米教育学説の直接間接の決 定的誘因性は、 「教育愛」の学説的成立の準備期間として性格づけられるこの第2段階第1期に
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岡 本 定 男
あっては今だ顕在化してはおらず、以上の特徴的引用例にみられる如く、そこに我が国独自の
「教育愛」の学説的構築の跡を認めることができよう。つまり、ペスタロッチの実物羊義的教授 法と関わりその広義の便法として注目された愛の考察が、やがてペスタロッチの教育を支えた理 念や原理‑の着目という明治後期の教育学全体の動向と重なって、実践Lの1一一人原理としての認 知へとすすみ、漸くこの第2段階第1期に至って、ペスタロッチから一定離れて、愛を「教育改 造の根本基調」として設定するとともに、この教育における愛そのものを分析的批判的に吟味考 察しようとする独自の学的努力の登場をみることになった、と捉えて良いだろう。しかしこの第 2段階第1期の愛についての位置づけや性格づけは、その学説的レベルからこれを眺めたとき、
対象や契機や論の構築における移入性は免れてはいるものの、位置や性格づけ自体が、常に教育 実践上のスローガソや根本原理として設定され、教育の本質や構造と結びついた学的考察として は充分深められたものとはなっていない、と言わねばならない。
〔卜〕へ続く
註 (1) 「子育てはつらくとも」 『朝日新聞』 1990年5月5H
(2) 吉本二郎「臨教審答申と学校経営」日本教育経営学会編『日本教育経営学会紀要 第30号』 、第‑‑汰 規、 1988年、 P.4
(3) 「臨教審」の「教育改革に関する第 ‑次答申」 (1985年6月26日)を受け取った中曽根ノ亡首相の談話。
『内外教育』 、時事通信社、 1985年7月2H、 P.9
(4) 第4次答申(‑最終答申、 1987年8月)では、これがさらに以トのように表現されている。
「教育環境の人間化の観点に立ち、過大規模校の解消を図るとともに、当面四十人学級をn滑にし、
その後は欧米主要国における教員と児童・生徒数の比率を参考としつつ、児童・生徒数の推移等を勘 案とながら、教員配置をさらに改善する。施設・設備については、豊かな人間性の育成、教育方法の 多様化等への対応の観点から改善する。 」 (第二車、第3節の4 「教育条件の改善」 )
(5) ともに、中谷彪『学校経営の本質と構造』 、泰流社、 1983年、 P.68 (6) 佐藤通雅「はじめに」 『生徒一教師の場所』 、学垂書林、 1988年 (7) 同上、 PP.21ト212.
(8) 記念事業会編『高嶺秀夫先生伝』 、培風館、 1921年、 P.71 (9) 稲垣忠彦『明治教授理論史研究』 、評論社、 1966年、 P.442 (10)ともに、海後宗臣『教育原理』 、朝倉書店、 1950年、 P.66
(ll)ともに、稲葉宏雄「『口本教育学体系』解題」、 『日本教育学体系 第 ‑巻』、 H本州菖セソクー、
1989年、 P.7
(12) 50年代後半から始まり、近年における「教育愛」の施策Lの取り込みのエッセンスのみを小すと、
「教師は教育に対する正しい使命感と児童生徒に対する深い教育的愛情とを基盤として、世界的視野 に立った人間的国民的1‑一般教養を備えるとともに、 (以ド略) 」 (中教審茶巾「教員養成制度の改善 方策について」 1958年)
「教職は、教育者としての使命感と深い教育的愛情とを展盤として、 I一般的教養、 (以卜略) 」 (顔 養審答申「教員養成の改善方策について」 1972年)
「教員には、児竜生徒に対する教育愛(以卜略) 」 (臨教審「教育改革に対する第 ‑次答申」 1985年)
「教員については、教育者としての使命感、人間の成長・発達についての深い理解、幼児・児竜・牛 徒に対する教育的愛情(以下略) 」 (教養審答申「教員の資質能力の向L方策等について」 1987年)
などとなっている。
(13)以トの論考においては、特に必要のない限り、 「教育的愛情」など教育実践にあって教師に期待され るところの愛情を意味する用語は、全て「教育愛」として使用する。
14 中型以Lのボリュームをもつにも拘わらず、索引にさえ載っていないものに、例えば以下のようなも のがある。,
『教育研究事典』 、金f・書房、 1954年
『体系教育学大事典(増訂版) 』 、岩崎書店、 1954年
『現代教育事典』 、明治図書、 1961年
(15)この鞍として、近年のものに『現代教育学事典』 (労働旬報社、 1988年)があるが、意識的にか「教 育的愛惜」や「教育愛」の語法を避けているようにみえる。
(16) 『彼H氏教授論』 、 1876年.但しこゝでは、復刻版(国書刊行会) 、 P.500 (17) 『教師必読』 、 1876年.但しこゝでは、前記復刻版(図書刊行会) 、 P.13 (18)伊沢修二『教育学』 、 1882年.但しこゝでは、前記復刻版(図書刊行会) 、 P.13
(19)小学貧翁「小学教授法の研究(承前) 」 『円本之小学教師』第1巻第4号、国民教育学会、 1899年7 月、 P.17
(20)樋日長市『小教育学』 、同文館、 1901年、 P.25
(21)乙竹岩造『教育者の新修養』 、教育新潮研究会、 1915年、 PP.195‑196 (22)井上二哲次郎『勅語術義』 、巻上十丁、巻FHT
(23)谷本富講述「小学校の性質」 『「1本之小学教師』第1巻第1号、国民教育学会、 1899年4月、 P.27 (24)小学貧翁「小学教授法の研究(承前) 」前掲、 P.17
(25)谷本富「新教育者の修養」 、六盟館、 1908年、 P.307 (26)沢柳政太郎「教師及校長論」 、同文館、 1908年、 P.411
(27)篠原助市『学習動機としての論理的確信』 、 1920年.こゝでは同『批判的教育学の諸問題』 、明治図 書、 1970年より再引。 P.200
(28)柳田謙「郎「仝人類愛の教育」 『教育問題研究』第5号、 1920年、 P.33 (29)奥野圧太郎「知ることは愛すること」 『教育関越研究』第14号、 1921年、 P.101 (30)八木 ‑男「愛の保昇と知の道鏡」 『教育問題研究』第16号、 1921年、 P.105 (31)小原囲芳「愛と敬の教育」 『教育問題研究』第28号、 1922年、 P.6
(32)篠原助市「教育は愛である」 『教育問題研究』第12号、 1921年、 PP.ト4 (33)奥野庄太郎「知ることは愛すること」 、前掲、 P.98
(34)小原悶芳「愛と敬の教育」 、前掲、 p.ll
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A Human Affair in the Education [ I ]