197
第一庭社会問題は社会全体の存続発展にかかわる重大な問題であるということ︒第一の点と関連して︑社会的に無
視することのできない多くの個人の問題であり︑それがその社会の秩序をそこね︑あるいは社会の発展に重大な支障 社会問題の本質論には︑後にのべるような著しい立場の相違があるにせよ︑社会問題を論ずるばあいの共通分母ともいうべきものとして︑次のような諸点がみとめられるのではないか︒
まず第一に社会問題は個人的な問題ではなく︑社会Ⅱ公共的な問題であること︒個々人にとつていかに切実な問題
ではあっても︑それが社会的一般性と︑社会的重要性をもたないものである限り︑社会問題というに値しない︒この
点については異論のないところであろう︒ 社会問題の本質についての理論的解明は︑いままで多くの学者によっておこなわれてきた︒しかし理論的にそのすべての問題点が明らかになったとは思われない・その二一の点なりとも明かにしてみたいと思って努力してみたが︑何度も中絶した︒この小論は︑いままで先学の所論にふれた折の断片的なメモにすぎない︒社会問題本質論の概観というに値するものが得られないままに︑脱稿することにした︒とくに問題点のごたついては︑類似の見解をみつけることができなかったから︑独断のきらいもあるかと思う︒大方の御批判を仰ぎたい︒
社会問題論おぼえがき
■ ■ ■ ■ ■
森 ●
正夫
一一I蝿
198
その一つは︑社会問題がとりあげられるばあい︑そこにいう﹁社会﹂は市民社会であるか︑それとも国家であるの
かという点である︒社会問題は厳密には市民社会にかかわる問題であり︑したがって国家に関する問題は社会問題に
︵ワ鐸︶は含まれないという見解もあるようである︒これはおそらく一九世紀的な社会ならびに国家観にもとずくものとおも
われる︒市民社会の自治的な活動にたいして麺国家のいかなる統制干渉をも排除しようとした自由主義的国家観にお
いては︑社会の諸問題は市民社会ことにその経済的機構から由来する問題であり︑市民自らの手で解決すべしとの観
念が根抵にあったものと思われる︒しかし二十世紀にはいってからは︑現実に諸国家の行う機能としては︑産業・経
済・教育・文化・衛生・社会福祉など多方面にわたってきており︑資本主義諸国家の中には社会福祉国家を標傍する 態度を︑問題音黛てくるといえる︒ 第三に社会問題がとりあげられる前提として︑一定の問題意識またはその基礎に一定の価値判断の存することがあげられる︒社会の存続発展にたいして重大な影響をもつ一定の客観的事実があるとしても︑これを社会的な問題としてとりあげることがなければ︑社会問題の登場はみられない︒社会的矛盾という客観的事実は同一の状態にあっても︑一般市民の自覚の向上によって︑あるいはその客観的事実についての知識の増加などによって︑それが社会の価値ま
︵1︶たは価値体系をおびやかす矛盾として意識されるようになるばあいもある︒この一つの事実を︑矛盾として把握する
態度を︑問題意識または価値判断と名づけることができようが︑この問題意識をまってはじめて社会問題が表面にで 代以前の社会にあっては︑封
fられているところであろう︒ をきたす問題として認識されるとき社会問題となる︒この意味では本来の﹁社会﹂の成立していない段階︑つまり近代以前の社会にあっては︑社会問題の発生がみられないことはいうまでもない︒この点も多くの人々によってみとめ
以上の三点は︑社会問題を華
噂ゞここで一二の点を付言したい︒ 社会問題を論ずるほとんどすべての立場に共通したものとして考えることができるだろう︒ただし
199
ものが多い︒とのことを思えば︑社会問題の発生にたいしても︑国家の行う諸方策は無関係であり得ず︑またこれが
解決にたいしても国家の責任が当然要求されるにいたっている︒このような意味で︑社会問題の中に国家の問題を含
.︵︽J︶︑めることが︑むしろ現状により適しているといえるのではないだろうか︒
つぎに︑社会問題がとりあげられるさい︑一つの社会的価値または価値体系がおびやかされることをのべたが︑一
つの社会的価値が明白であるぱあいはともかく︑大きな社会的価値体系の一部がおびやかされるぱあいには︑社会の
構成員の立場︑イデオロギーなどのいかんによって︑そのうけとりかたが異ることが予想される︒したがって同じく
社会問題をとりあげておりながら︑その立場の相違によって︑価値体系の一部に力点がおかれることになる︒この力
点の相違こそ︑いわば社会問題を論ずるばあいの直接的動機とでもいうべきであろうか︒かかる動機としては例え
ば︑人道主義的観点から︑また社会正義の観点から問題をとりあげるぱあいもあろう︒あるいはかっての工場法制定
のいきさつにみられたように産業的︑軍事的のごとぎ政治的︑政策的意図から問題をとりあげるぱあいも考えられ
る︒かかる直接的動機がいかなるものであるにせよ︑それが社会的価値体系を危うからしめる程度の重要性と喫緊性
をもつものとして︑多くの人々によりみとめられるとき︑社会問題となる︒
さいごに︑社会問題が論ぜられるさいに︑注意すべきことは︑その社会がいわゆる開かれた社会であるということ
である︒社会問題は市民社会の問題であるといわれるとき︑そのことはすでに言外の意味として含まれているともい
えるかもしれない︒近代以前の社会と近代市民社会とが区別されるのもこの点にあり︑近代以前の社会にあって本来
の意味における社会問題の登場しなかった理由も︑社会が開かれていないところにあったといえよう︒しか︑し近代社
会においては︑つねに社会問題が正しい姿で登場してくるかといえば︑必ずしもそういえないばあいがある︒現代社
会においてすら︑言論思想の自由が抑圧され︑民衆の声が正しく反映されなかった不幸な歴史をわれわれは数多く知
っている︒社会が開かれており︑言論の自由が保障されることは︑社会問題のあらわれてくる一つの重大な前提をな
)
2側
まず前者について考えてみよう︒前者に属するものといえども︑︲マルクス主義と社会政策学の立場とでは︑その根
抵の世界観においてかなり著しい相違のあることはいうまでもない︒しかしながら第二の立場たる社会病理学のそれ
に比較するとき︑その中にかなり共通的な傾向を見いだすことはできるだろう︒かかる共通的な傾向とはどんなもの
であるか︒まずこれらの見解によれば︑社会問題はすぐれて経済的な問題であり︑とくに労働問題がその中心的位置
におかれている点である︒この見解の根本になっているのは︑現代社会は資本制社会であり︑とくに産業革命以後の労
働者階級の窮乏化の進行により︑また労働運動の激化により労働問題が社会問題の中心としてあらわれるにいたった
との理解であろう︒社会問題は最初から社会問題プロパーとして登場したのではなく︑資本制社会の階級対立の矛盾
から労働問題がはじめにあらわれ︑後に諸種の社会問題が附随してあらわれたものである︒しかし社会問題の中核は
いぜんとして労働問題であり︑またそれはすぐれて経済的な性格の問題として理解される︒つぎにこれと関連して社
会問題が社会の構造的必然として理解され︑つまり社会制度の欠陥にもとずくものであると理解されるところから︑
この解決のためには︑社会問題に苦しむ人々の個人的な責任あるいは欠陥を問うよりは︑社会制度のあり方を再検討
する方向に視点がむけられる︒ただその方法が革命的であるか︑現存制度の枠内で妥協的にないしは漸進的に考える
かの違いがある︒この点でマルクス主義と社会改良主義あるいはその後の社会政策学との立場のちがいがあろう︒唯 すことは注意すべきであろう︒つは︑主としてマルクス+の立場にたつ見解である︒ いままであらわれた社会問題の理論には︑大まかにわけて二つの立場がみられることはよくしられている︒その一
■は︑主としてマルクス主義および社会政策学に立脚するものであり︑他は主としてアメリカに発達した社会病理学
■■■■■
■ ■ ■ ■ ■
201
物史観を是認するか否かのちがいはあるとしても︑これらの見解に共通する傾向としてみとめられるものは︑社会問
題は大なり小なり社会制度の欠陥から生ずるものであり︑したがって社会全体の責任においてこれを解決しなければ
ならないとの認識であるといえる︒たとえば︑ワーグナーにとっては︑﹁百万長者﹂は﹁プロレタリア﹂と同様︑む
しろ前者の存在こそ︑﹁社会的疾患﹂であり︑﹁腫物﹂であった︒﹁上層階級︑就中近世自由競争制度下の営利社会
に於ける最上層階級が︑多くはあらゆる種類の搾取関係と隷属関係とに堕する所の営利関係の全機構を通じて︑獲得
︵身詮︶した所の所得と所有の増大への制限﹂に︑つまりは私有財産制への干渉に﹁国家社会主義﹂の真の途を見いだしたわ
︵戸③︶けであるが︑彼は︑社会政策の究極の目的として︑﹁国家協同体﹂ないし﹁全体社会﹂の利益をおいたといわれる︒
同じく講壇社会主義者の一人︑ブレンターノは︑ワーグナーの国家による分配過程への干渉説を排して︑社会政策的
︵︑穴⑥︶自由主義を唱え︑﹁万人最高の完成﹂を理想としてかかげた︒この両者において見解の内容は著しく異るけれども︑
社会問題解決のよってきたる根源が︑社会そのものの中にもとめられている点は共通しているといえよう︒このよう
に社会改良主義の論者たちの見解の中にすでに︑社会問題にたいするの社会の責任の見解を見いだすことができる︒
かかる見解がすでに一般にうけいれられるようになっていたが故に︑イギリスにおける救貧法の近代的脱皮も可能で
あったし︑COS連動のごとき近代的社会事業の中心思想もあたえられたのであろう︒この思想は︑さらに発展して
社会政策学の諸派にうけつがれ︑二十世紀における福祉国家の思想を︑そして社会保障制度の理念を準備したものと
いえるのではなかろうか︒
つぎにアメリカの社会病理学者たちの見解にうつろう︒その一人としてギリンがあげられる︒氏によれば﹁社会問
題は︑社会変動によってひきおこされた社会的不調整ざ︒巨富匙且旨降日①昌目崖の&どのoo区︒富国蝿にもとずくも
のである︒﹂そして社会問題の内容として﹁貧困︑犯罪︑非行︑疾病︑身体障害︑失業︑不満へ無知︑無能力︑:浪費︑
、 − − − 4
. : 靴
202
︵〃︶・・その他社会の発展を阻害する社会悪﹂をあげている︒このように﹁社会変動による社会的不調整﹂がその見解の中心
にあるわけだが︑このほかに社会的解体の概念を導入している学者もある︒たとえば一一ユーマイャーによれば︑﹁社
会問題の概念は少くとも次の三つの要素または考慮をふくんでいる︒Bそれは個人的解体と社会的解体との客観的状
勢を意味する︒目一つの社会的価値または価値体系が人口の相当部分の人々によって︑そのために危険にさらされて
いると信ぜられること︒白その状勢は適切な社会行動を必要としているとの実感﹂・ここでいわれる﹁社会的解体﹂
については︑論者によって必ずしも一致しないが︑社会問題︑すなわち社会的不調整と同じ事実の異った側面の銑述
︵︑ろ︶であるとなす見解もある︒しかしそれにしても︑﹁社会的解体﹂は﹁社会問題﹂とはその主眼点はかなり異るようで
ある︒エリオットとメリルの共著になる﹃社会的解体﹄によれば︑﹁社会的解体は︑社会的諸力の均衡における変
化︑つまり社会構造の崩壊があらわれたぱあいに︑その結果︑従来の︵行動︶様式が役立たず︑社会統制のいままで
の形式が効果的に働かなくなったときおこる︒⁝⁝社会的解体は︑一つの集団の成員間の人間関係が崩壊しまた弛緩
する過程である︒集団はその成員間の社会関係のかたまりである︒そして社会的解体は文字通り集団崩壊の過程であ
︵Q唖︶る﹂・かかる集団の崩壊としては︑家族︑近隣︑地域社会︑国家社会のそれがあげられている︒これをみれば︑先の
ギリンの﹁社会的不調整﹂と相当異った着眼点にたっているように思われるが︑ここではこの点にくわしくふれるこ
とはさけたい︒社会問題の中核を︑社会的不調整とみるか︑社会的解体としてとらえるかの相違はあるにしても︑つ
ぎのような共通の傾向がみとめられる︒まず社会問題の具体的内容としてあげられるものは︑必ずしも経済的な問題
に限定されず︑精神衛生︑身体衛生あるいは離婚など家族問題にまでわたる︑かなり広範囲なものであることであ
る︒つぎにきわめて重要な点であるが︑社会問題のよってきたるゆえんが必ずしも資本主義社会機構との関連におい
てとらえられていないことである︒すなわちさきにみたごとく︑﹁社会変動によってひきおこされた社会的不調薬﹂
にしろ︑﹁個人的解体︑社会的解体﹂にしるや必ずしも現代資本主義社会にのみ特有の現象とはいえないのではない
203
か︒むしろそれらは規模こそことなれ︑いかなる時代にもみられるもの︑つまり超時代的のものといえるのではない
か︒この意味では社会病理学者による社会問題の理解は︑階級対立の矛盾との関連においてとらえれることもない︒
つぎにこの立場では︑以上の特色の結果として︑社会問題の解決にたいする市民社会全体の責任という観念が︑強調
されることが少いのではないか︒﹁社会的不調整﹂という考え方によれば︑このような事象にたいする社会の連帯的
責任ということよりも︑変動する社会環境にうまくアジヤストできない個々人の拙劣あるいは怠惰が強調されるきら
いがあるのではなかろうか︒不調整現象を全体としてとりあげ︑これをうみ出す社会機構の矛盾の根本にまでさかの
ぼって追求するよりは︑むしろ不調整に苦しむ個人を︑いかにしてアジャストさせるかというその指導助言の技術面
︽︵︑︶に重点がおかれることになろう︒したがって社会悪にたいする社会的責任という観念は強くでてこないように思われ
る︒
社会問題論のなかで︑社会問題を本来の︑または狭義の社会問題と︑社会福利的問題とでも称すべきものと二つに
わけて把握する見解がある︒この見解は前節にのべたところにしたがえば︑社会問題の内容を主として経済的問題と
して理解する立場にたっている︒かかる見解の一二をあげてみよう︒
まずややふるいものだが︑永井享博士の見解がある︒博士によれば﹁社会問題はある社会階級にとっての社会生
活に矛盾があり撞着があり︑何ものか両立しがたいものがあるところに発生する﹂が︑かかる階級対立の姿は時代と
ともにその内容が変化する︒したがって社会問題も時代とともに変化するわけで︑﹁嘗てはそれが宗教問題となって
現はれ︑後には政治問題となって現はれ︑今や経済問題となって現はれた︒だから今日の社会問題を代表するものは
労働問題である︒﹂このように﹁社会問題は階級そのものの問題であり︑階級それ自体の問題である︒﹂また﹁社会
三
205
以上やや詳しく両氏の所説を引用したが︑二つの見解の中にみとめられる共通の傾向へそしてこれは従来の社会問
題論にもあるていど通ずる傾向であるが︑その中の問題点を二三とりあげてみたい︒
まず第一に︑社会問題を狭義の社会問題すなわち労働問題とそれ以外の社会問題とにわかち︑その各々に社会政策
と社会事業とを対応させる見方について考えてみよう︒この見方は上に引用した両氏だけの見解ではなく︑従来の社
会政策学者に一般的に支持された見解のように思われるCしたがってここでは︑両氏の見解以外のものを引用するこ
とは避け︑両氏の見解で代表させることにして︑その問題点をのべてみたい・社会政策はいわゆる社会改良主義者の 度の機構的Ⅱ構造的特質という﹁同一の根拠から成立する﹂ものではあるが︑﹁なんらかの人間関係として表現をみた問題のもっている社会的な意義や性質﹂によって二つの類型にわけられる︒その第一の社会問題たる﹁賃銀労働者をめぐる問題の一群lそれは労働条件の基本問題を中心として提起せられるlは︑このような社会の構造的特質によって︑︒基本的・直接的に︑ないしは集中的・典型的にあたえられたものであり︑同時にまた資本主義制度の社会的生命と存在理由が︑この問題の処理能力や対応方法にかけられているものなのである︒﹂つまり第一種の社会問題は︑社会制度の構造的欠陥そのものの表現でありやその内容は﹁社会の基礎的・本質的課題﹂といえる︒これにたいして︑第一種の社会問題から関係的に派生してきて︑同じく労働者にその担い手を見いだすところの社会的問題がある︒資本主義の経済法則は︑労働者階級の絶対的・相対的窮乏をもたらすが︑このために労働者にとっては︑その生活上の社会的必要の不充足または不完全充足が︑常時の状態となる︒かかる社会的必要の欠如の最下限に貧窮が位置するが︑かかる社会的困難の内容としては︑飲酒︑疾病︑無知︑怠惰︑売淫︑犯罪等がある・﹁この種の社会問題をさきの場合と区別するために︑社会的問題とよぶなら︑︵その現象形態の観察から社会変態問題︑その状態改善への志向から社会福祉問題とよんでもよい︶それは内容的には︑社会における関係的・派生的課題をもって構成されてい
へ必︶るものである﹂と︒
1J
207
はコ団としての階級そのものを対象とする﹂が︑社会福利問題は﹁社会の一員としての個々人﹂を対象とすると︒
この見方はそのまま支持されてよいかと思う︒ただしここでつぎのことを付け加えたい︒それはさきに指摘したよう
に︑博士の社会問題と社会福利問題といわれるもののほかに︑たとえば博士自ら示されているように人口問題︑人種
問題︑婦人問題のごとき重要な社会問題があり︑さらには中小企業問題︑中農問題︑住宅問題といったような問題も
あることである︒そしてこれらの問題の中に︑それぞれ一団としての階級を対象とするものもあり︑個々の人々を対
象とするものもある︒したがって狭義の社会問題は階級を対象とし︑社会福利問題は個々人を対象とするという区分
では︑やや粗雑のそしりをまぬがれないのではなかろうか︒この点についても後にふれるつもりである︒さらにまた︑
博士も指摘されるように︑福利問題といえども︑﹁社会の欠陥に関する問題であり︑その多くは時代の社会組織に伴
ふ産物である﹂とみなされるからには︑社会福利問題といえども︑階級対立の矛盾の直接的とはいえなくとも間接的
表現であり︑これが根本的な解決には︑狭義の社会問題と共通の根抵にまで遡る必要があるといえよう︒孝橋教授も
指摘されるように︑福利問題もその担い手は労働者である︑あるいはもっと広くいえば︑中産階級ないし下層階級で
あるわけで︑この意味で社会福利問題の対象は個々人であるとして簡単に割りきることには問題があるだろう︒右に
のべたような考慮をさしはさむ必要はあるにしても︑博士のいわれるように︑狭義の社会問題︑つまり労働問題は一
団としての階級を対象とし︑博士のいわれる福利問題は個々人を対象としていることだけはみとめられよう︒
社会問題をとりあげる視点の相違から︑社会問題を区別するのに︑孝橋教授のばあいには︑永井博士の所説と若干
類似した点もみとめられるが︑かなり異っておりまた一層明確に表現されている︒さきにも引用したように︑﹁資本
主義制度の社会的生命と存在理由が︑この問題の処理能力や対応方法にかけられている﹂かどうかによって︑教授は
社会的諸問題を﹁社会の基礎的・本質的課題﹂と﹁社会における関係的・派生的課題﹂とに分析され︑前者を社会問題︑
一遍︶︵猫︶後者を社会的問題と規定されたC教授の見解にたいするいくつかの疑問はすでに述べる機会があったので︑いまここ
209
したがってつぎに社会問題解決の本来の責任も︑全体社会に帰せられると考えるべきではなかろうか︒全休社会の
総意といっても︑形式的には︑国家の立法︑行政Ⅱ政策をとおして具現化されるばあいがほとんどであろう︒しか
しこれは︑国家が社会問題の本来の解決責任者としてあると考えるよりは︑全体祇会の碑なる総意で問題をとりあ
げ︑その問題解決の実施を国家に委ねたとみるほうがより妥当な見方といえないだろうか︒つまり問題の性質と内容
により︑国家に委ねられるぱあいもあり︑国家以外の団体に委ねられるぱあいもある︒この様にとらえなければ︑社
会事業その他の民間の自発的な社会的活動の根拠を説明することはむつかしい︒もちろん国家のばあいにあっては︑ まずはじめに︑社会問題を問題として提起することと︑問題の解決責任ということとは︑深いつながりがあるとしてもこれは一応明確に区別する必要があるだろう︒そこでまず問題提起についてのくる・一の社会的事実を社会的問題としてとらえ︑これを社会問題として提唱する主体はいうまでもなく個人であろう︒しかしながら多くの人々の︑ないし社会的承認を経るとき︑これが社会問題としてあらわれることになる︒この際社会問題として認識されるのは︑あくまでも市民社会または全体社会の秩序と繁栄にとって祗大な危機をもたらすか否かということがその基準となるのである︒先にもいったように︑問題認識の動機づけば︑場合によっては同情︑正義観といったものであるぱあいもある︒かかる個人的な認識の動機ずけにもかかわらず︑それが社会問題として一般的にみとめられるのは︑社会的な規模と重要性という点にもとずくであろう︒一部の論者のように︑それが資本制社会の存続と発展にかかわるか否かという視点ないし基準によるものだと果していえるだろうか︒つまりここで問題となる﹁社会﹂は単なる資本制社会ではなく︑社会構成員全体の総意による﹁市民社会﹂ないし﹁全体社会﹂として考えるほうがより妥当なのではあるまいか︒ もう一度要約してみたい︒ 以上従来の社会問題本質論の問題点について︑それぞれの箇所で疑問と私見をのべたつもりであるが︑以下これを
−−̲−マーー−
一一一一一一−−
I
219
全体社会の総意といったとて︑現実には政党の力関係︑ないしは背後の階級対立の力関係に左右されるものであり︑
いわゆる﹁社会的総資本﹂としての本質をもっていることを︑われわれは決して否定しない︒したがって社会政策
のごとき社会問題政策が︑国家によって行われるぱあいには︑その根抵において階級的な性格を露骨にもつであろ
う︒そしてまた現在の資本制国家にあっては︑そのいみで︑資本制経済の再生産にとってはいわば無用の冗費と考え
︵画︶られる︑社会事業などを第二義的なものとして処理することの理由ももちろん理解できる︒しかしながら社会問題の
解決にあたって︑国家の行う政策と全体社会の総意とが矛盾するばあい︑全体社会の声︑すなわち輿論によって︑国
家の政策を変更せざるを得ないばあいも性々にしてあった︒これはつまり︑全体社会の総意によって︑問題の解決の
対策を国家に委譲したものと解したほうが︑より妥当であることを示しているのではなかろうか︒先にものべたよう
に︑現在の国家が資本制国家の形態をとるものが多く︑したがって国家としては︑社会問題群のうち好んでとりあげ
るものと︑しからざるものの別はあるだろう︒労働問題はもちろん︑人口問題︑中小企業問題︑中農問題のごとき︑
直接資本制経済の存続に関係あるものは︑このんで国家の政策としてとりあげられるであろう︒さきにのべた力関係
のありかたから︑ある一時点では国家によりとりあげられない問題も︑情勢の変化と力関係の変化によって︑次第に
国家の政策にくみいれられるものもでてくる︒このように考えなければ︑前世紀末からの救貧法の近代的脱皮や︑福
祉国家の出現︑社会保障制度の出現はどうしても説明できないのではないか︒
また多くの社会問題群のうち︑労働問題と社会福祉的な問題のみをとりあげ︑資本制経済の発展という見地から︑
前者は国家にとって第一義的なものだから社会政策が︑後者は国家により第二義的なもので社会事業が扱うという分
けかたは︑あまりに機械的な見方ではないか︒これは社会政策学の立場からのみみられた社会問題の理解のしかたで
あり︑むしろ論理が逆なのではないか︒つまり︑現実に存在する多くの社会問題群を理論的に分類した結果︑労働問
題と社会福祉的問題にわけられ︑その各々の対応策として社会政策と社会事業があげられたものではなく︑社会政策
録
211
と社会事業という従来からあった社会問題対策にたいして︑社会問題群のうちから任意のものだけをとりだして対応
させたにすぎないのではないか︒それだからこそ︑さきに指摘したように︑いわゆる労働問題と社会福祉問題だけが
ぬきだされ︑それ以外の社会問題は脱落してしまう結果になったのではないか︒社会問題を︑その﹁視点﹂からとり
あげるといっても︑かかりとりあげかた︑分類の方法ではすべての社会問題群の性格分析と︑その位置ずけを説明す
ることはできないように思われる︒
さいごに社会問題のなかにふくまれる社会的困難または矛盾に苦しむ人々の問題︑つまり社会問題解決緩和策の対
象者の問題をとりあげたい︒かかる問題が︑階級的矛盾対立の比較的直接的な表現であるばあいもある︒たとえば労
働問題︑中小企業問題︑中農問題などはこれに属する︒また一方階級構造と直接の連関のないぱあいもあろう︒人口
問題︑婦人問題︑児童少年の福祉問題のごとく︒かかるもののうち︑社会的困難に苦しむ人々のグループが︑社会的
分業上の一環として相似た立場︵いわゆる生産関係上の同一の地位といってもよい︶にあるばあいには︑いわゆる生
産政策といういみで国家の政策としてとりあげられる公算が大である︒社会政策︑中農対策といった形で︒また人口
問題のごときばあいにも︑社会の存続と発展に重大な関連をもつところから︑これまた国家の政策としてとりあげら
れることになる︒これに反して︑いわゆる社会福祉的な問題といわれるようなものはへ階級対立の直接的表現ととら
えられず︑またそれらに苦しむ人々が階級的なグループとしてのまとまりをもつことが多くないところから︑階級問
題としては意識されず︑国家の政策としてとりあげられる公算の少いことは否定できない︒しかしこのような問題に
あっても︑階級的矛盾対立と無縁のものでありえないことはすでにのべたとおりである︒さらにまた生産的な部面に
直接つながらない︑社会福祉的な問題といわれるものでも︑国家の政策として数多くとりあげられるようになってき
ている︒このようにみてくれば︑永井博士の説のように︑/一団としての階級を対象とするものは社会政策︑個々人を
とりあつかうものは社会事業というふうに明快にわりきることに疑問なきを得ない︒このような見解の根抵には︑﹁
213
とをものがたっているのではないか・
これらの一連のうごきはいわゆる﹁福祉国家﹂の理念を出現させ︑社会保障制度を準備したものといえる︒そして
・へ麹︶福祉国家の理念の背景になっているものに︑多元的国家論があるといわれている︒そのいみでは社会保障や福祉国家
の実現をみているこんにちでは︑これに相応した社会問題論を展開する必要があるだろう︒階級国家観的な立場にた
って︑社会問題を労働問題とその他の社会問題とにわかち︑社会政策と社会事業を対応させる見解では︑社会問題を
その正しい姿においてとらえる理論としての適格性を失っているのではなかろうか︒ を︑賃金労働者とそれ以外の貧民または被救伽的窮民というかたちで理解することがもはや現実の事態に即さないこ
註 (3)(2)(1) (8)(7)(6)(5)性)
(9)
大河内一男﹁社会政策思想史L昭和二年︑二四六頁より
大河内︑前掲書二八二頁
ブレンターノ﹃労働者問題L︵森戸辰男訳︶大正八年︑第一章︑第四章︑および大河内︑前掲書二六○頁以下︒
﹈・伊.⑦筐言ごQ○善の厨.のOg巴冠冒匡①日いむ路.屯.認.
因両.言①貝篁︾弓言聾屋号具習の芭卑○亘①旨の.︵シg①国の目の○︒ご○唾o巴困のa①言︑旨邑の﹄岳浅︶によれば︑﹁社会問題
は︑行動が︑それを限定する諸価値よりも急速に変化するごとき︑動的社会の産物である︒⁝⁝社会問題と社会的解体とは︑
このように同一事象を絞述する補足的な方法である︒⁝⁝かくして可社会問題膣研究と﹁社会的解体L研究との間にはなん
らの撞着も存しない︒両者は明瞭に補足的である︒前者は問題を提出するのであり︑後者はその発生の状況と原因を明にす
三.函.z①巨目暑閂.のOg巴勺Ho匡の目のごQ号①○医四目唱口函の○a①ご︾ご認︑詞隠l蝉
河合栄治郎﹁社会政策原理﹂︵現代経済学全集第八巻︶昭和六年︑六五頁河合栄治郎博士は︑国家も全体社会の一部であるという理由で︑国家に関する問題も︑社会問題に包含すべきであるとされる︒前掲書︑六七頁■
富.シ︑向冨ざ茸四国Q蜀・因.富の員篁.の○凰巴己涜︒侭画昌愚武○国.岳9.田.9.
るのである﹂と︒戸 1
214
倒 働 創 剛 ⑲ ( 1 3 m u 6 ) ( ⑤ 鋤 ⑬ ⑫ ⑪ ⑩
社会問題解決の一つの方法としての社会事業が︑アメリカにおいてはとくに技術的体系に力点がおかれている点に関しては︑
孝橋正一可新訂社会事業の基本問題﹂︵昭和三二年︶第三章第二節に詳しく述べられている︒
永井享﹁社会問題L昭和六年︑二八頁
永井︑前掲書︑七四五頁
永井︑前掲書︑三三頁その他
孝橋︑前掲書︑三四四○頁
孝橋︑前掲書︑四一頁
拙槁﹁社会事業本質論にたいする私見L金沢大学法文学部論集︑哲学史学篇第三巻︑︵昭和三○年︶
大河内一男可社会政策の基本問題L︵昭和二一年増訂第三刷︶の中に展開されている見解︑社会政策の対象は﹁生産者とし
ての﹂庶民をとらえるのに対し︑社会事業のばあいには︑﹁消費者としての資格Lにおいてとらえるとされるのも︑これと
同一の考えに立つものと思われる︒
岡村重夫﹁社会福祉学L昭和三一年︑三八頁以下参照
近藤文二司社会保障L昭和二七年︑一六八頁
黒木利克﹁日本社会保障﹂昭和三四年︑一○六一二頁
黒木︑前掲書︑二○頁
坂寄俊雄司社会保障L昭和三四年︑五八頁以下
関嘉彦司福祉国家論の思想史的系譜L︑︵大能信行他﹁現代福祉国家論﹂昭和三四年︑所収︶︑二○二三頁