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- 86 - 第 4 章 まとめ

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第 2 部 長目塚古墳の研究

第 4 章 まとめ

 中通古墳群は、熊本県阿蘇市一の宮町中通に所在する。そこは阿蘇谷北東部の平地部で、阿蘇谷北縁を画 する外輪山から大きく南へ突出した象ヶ鼻のすぐ南側にあたる。古墳群と象ヶ鼻のあいだには黒川が西流し、

その左岸に北流してきた東岳川が合流するが、中通古墳群はそうした東岳川の左右両岸にまたがるように営 まれている。古墳群にはかつて少なくとも 14 基の古墳が存在したが、今は 10 基がその墳丘を残している。

東岳川の西側にある長目塚古墳および上鞍掛塚 A 古墳の 2 基が前方後円墳で、前者は墳長 111.5 m、後者は 65.5m とされる[乙益 1962]。これら以外は円墳である。しかし、円墳とはいっても勝負塚古墳は直径が推 定 58.7m、車塚 A 古墳は推定 47m ときわめて大きい。このように中通古墳群は、熊本県下でも有数の古墳群 であり、1959 年(昭和 34)12 月、熊本県史跡に指定された。

 長目塚古墳は、こうした中通古墳群のほぼ中央に位置し、その地番は熊本県阿蘇市一の宮町中通 1202-1 である。主軸をほぼ東西にし、前方部を東に向ける。かつて、東岳川はそうした長目塚古墳の前方部前面を まわりこむようにして流れており、そのせいもあってしばしば洪水を起こした。それを改善する目的で、東 岳川を直線的に付け替える工事が計画され、その流路が長目塚古墳の前方部を横切ることになった。その工 事の事前調査として、1949・1950 年(昭和 24・25)に長目塚古墳の前方部を対象にした発掘調査が実施さ れた。報告書は 1962 年に刊行されたが[坂本 1962]、埴輪の実測図はほとんど提示されず、また前方部石室 出土遺物についての記述内容にも不十分な点が若干みられた。そのため、墳長が 100 mを超すという熊本県 下でも五指に入る前方後円墳であるにもかかわらず、長目塚古墳の築造時期の評価は一定しなかった。

 そこで、本共同研究では、長目塚古墳出土遺物の再整理作業を実施することによって、少しでも当古墳の 様相を明らかにすることを目指した。その成果は前章までの箇所で詳述されているが、以下ではそれらの要 点を整理し、第 2 部のまとめとしたい。

 第 1 節 墳丘および前方部石室

 墳丘  長目塚古墳は前方部を東に向ける前方後円墳で、1962 報告[坂本 1962]によれば、その規模は墳 長現存 111.5m、後円部径 59.5m、高さ 9.2m、前方部長現存 52m、幅約 30m、高さ約 4m、クビレ部幅約 17m、

高さ 1.8m である。墳丘にそったかたちの幅の狭い周溝および外堤が存在したと考えられている。段築の様 相ははっきりしないが、1962 報告をもとに考えると前方部は 2 段の可能性がある。他方、後円部は 1994 熊 大報告[岩崎・山下編 1994]では 2 段あるいは 3 段の可能性が示唆されたが、3 段なのではなかろうか。葺 石を有し、円筒埴輪と壺形埴輪が樹立されている。なお、前方部の多くは破壊され残存していない。

 前方部石室  1949・50 年調査において、前方部墳頂前端付近のほぼ中央で石室が検出された。主軸を 東西(墳丘主軸に平行)にする石棺系石室である。大きさは長さ 1.85m、幅 85cm、高さ約 95cm である。天 井石は 2 枚である。小口壁の中位から下位には、東小口壁では 1 枚の、西小口壁では 2 枚の板石を立て、そ の上に板状安山岩を小口積みにしている。側壁は、南北いずれも床面からの板状安山岩の小口積みである。

1962 報告では南側壁の東側に空隙部が存在するとされたが、誤認であると思われる。床面は砂質土の上に 粘質土を敷くことによって形成される。床面中軸線上の東側には板石による石枕が設置されている。石枕の 存在と石棺系石室であることを合わせて考えると、被葬者は木棺に埋葬されたのではなく石室床面に直葬さ れたと考えられる。石室の壁面および床面には赤色顔料が塗布されている。おそらくベンガラであろう。な お、被葬者の上胸部付近で出土した玉類に付着した赤色顔料は水銀朱と鑑定された。

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 第 2 節 出土遺物

 1 前方部石室出土遺物

 種類と数  前方部石室で検出された遺物には次のものがある(括弧内は現存数)

 石室内では、銅鏡 1(1)、武器〔鉄刀 2(2)、鉄鏃束 2(2)、刀子 8(刀身部 13)、玉類〔勾玉 4(3)、管 玉 5(4)、ガラス丸玉 43(30)、ガラス小玉 267(157)、ガラス小玉破片 11(3)、滑石製臼玉 26(20)〕が、

天井石上では鉄斧 1(1)が出土した。また、石枕の上で頭蓋骨 1 が検出された。

 各遺物の特徴  銅鏡は仿製内行花文鏡で、B1 式に分類される。櫛歯文帯がきわめて不鮮明である。古 墳時代前期前葉から中葉のものである。鉄刀は出土時よりも銹化がかなり進行している。出土した 2 点とも 把間には二本芯並列コイル状二重構造糸巻きが残る。古墳時代中期中葉から後葉にかけての時期に位置付け られる。鉄鏃束 2 点のうち 1 点は短頸片刃鏃のみ、もう 1 点は長頸柳葉鏃のみからなる。長頸鏃出現期の TK216 型式段階に位置付けられる。刀子は 1962 報告で示されたものよりも多くの点数が確認された。両関 と片関がほぼ同数みられることから TK208 型式段階を中心とする時期に位置付けられる。鉄斧は無肩の有袋 鉄斧である。製作技法は B Ⅰ技法と考えられる。玉類のうちガラス丸玉 10 点ずつが左右の両手首付近で出 土した。それらは手玉であると推定される。ほかの玉類はすべて上胸部付近の出土である。

 被葬者は東枕、仰臥伸展葬の 1 体で、出土した人歯から推定年齢 35 歳くらいの女性と鑑定された。

 2 墳丘出土遺物

 須恵器・土師器  須恵器・土師器は前方部前端から北斜面にかけての位置で検出された。1962 報告で いくつか実測図が提示されたが、とくに須恵器においてはその多くの存在を確認できない。須恵器には𤭯、

無蓋高坏、脚付短頸壺、器台、壺、甕の破片がある。TK216 型式段階のものである。陶邑窯産の可能性がある。

土師器はそのほとんどが高坏と坏で、わずかに壺ないし甕の破片がある。林田編年[林田 2002]の 3 期にみ られる様相に近く、TK216 ~ TK208 型式段階前後の時期に位置付けられる。

 埴輪  埴輪には円筒埴輪と壺形埴輪の両者がある。円筒埴輪は大型と中型に分かれる。大型は口径が 60cm 近くもある口縁部から急激に直径を減じて底部にいたる器形をなし、2 条突帯 3 段構成に復元される。

口縁部段にも透かし孔が 4 方向に穿孔され、その形状には円形のほかに方形ないし逆三角形がある。中型は 通有の円筒埴輪であるが、資料数がきわめて少ないためその全体形状は不明である。樹立数そのものがき わめて少なかったと推定される。壺形埴輪は単口縁と二重口縁に分かれる。いずれも口径 30cm 前後、器高 40cm 前後の大きさである。底部の器壁がきわめて厚く、また胴部の器壁厚も円筒埴輪と同程度であること から、完全に埴輪化した最終段階の壺形埴輪であるととらえられる。1962 報告において、頸部に突帯を有し、

口縁部と肩部に円形透かし孔が穿たれる単口縁壺形埴輪(B 類)の存在が指摘されたが、そうした復元は間 違いであり、その種の壺形埴輪は存在しないことが明らかとなった。なお、円筒埴輪および壺形埴輪とも黒 斑を有しているため野焼き焼成によるものだが、硬質な焼成状態である。時期は、前方後円墳集成編年[広 瀬 1991]6 期から 7 期前半、須恵器編年では TK73 ~ TK216 型式段階に位置付けられる。

 第 3 節 古墳の評価

 古墳の時期  前方部石室の時期は、副葬品のなかでももっとも詳細な編年がなされている鉄鏃をもとに

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第 2 部 長目塚古墳の研究

すると、TK216 型式段階と判断される。これは、前方部の墳丘上で出土した須恵器の時期と同じであり、ま た土師器の時期とも矛盾しない。

 問題は古墳の築造時期である。これまでは、壺形埴輪の従来の年代観を根拠にして、集成編年 5 期とされ ることが多かった[髙木 2008 など]。しかし、今回の再整理作業によって円筒埴輪および壺形埴輪を総合的 に評価した結果、埴輪は集成編年 6 期から 7 期前半に位置付けられるとの結論に達した。これを須恵器編年 に対応させれば、TK73 ~ TK216 型式段階に相当する。

 これが正しいとすれば、上述した前方部石室の構築時期と古墳の築造時期とのあいだにはほとんど時期差 を見積もらなくてもよい、あるいは両者はほぼ同時期であるとみなすことが可能となる。長目塚古墳の中心 主体である後円部埋葬施設の様相がまったく不明であるから断定するまでにはいたらないが、埴輪の時期を 基本としつつ鉄鏃や須恵器の時期をも勘案して、当墳の築造時期は集成編年の 6 期後半から 7 期初頭、須恵 器編年では TK73 型式段階後半から TK216 型式段階初頭と考えておきたい。すなわち、長目塚古墳は古墳時 代中期中葉のうちでも早い段階、実年代では 5 世紀前葉に位置付けられる。

 古墳の史的意義  長目塚古墳の時期をこのようにとらえると、当墳は古墳時代中期中葉前半の熊本県地 域ではもっとも規模の大きい前方後円墳であると認められる(図 57)。これまでにも幾度か指摘したことが あるが[杉井 2010・2012]、古墳時代中期中葉は熊本県地域ではきわめて重要な時期の 1 つである。すなわち、

当該時期には、これまで有力な首長墓系譜が存在しなかった内陸部に前方後円墳が築造されるという現象が みられるのである。その典型が、合志川中流域左岸の熊本市植木町高熊古墳[西嶋編 2004]や緑川中流域(熊 本平野周辺東側)の熊本市城南町琵琶塚古墳[杉井 2006]であり、阿蘇谷(白川上流域)の長目塚古墳もこ

250

300

350

400

450

500

550

600

650

700 5期 1期

2期

3期

4期

6期

7期

8期

9期

10 期

終末期 一期

二期

三期

四期

六期 七期

八期

九期

一〇期一一期

集成編 和田

五期

行末川流域 玉名湾周辺 玉名平野周辺 菊池川下流域

有 明 海 側 菊池川中流域 岩野川下流域 菊鹿盆地周辺西半部 東半部

合志川流域

下流域左岸 中流域左岸 小野川流域 下岩野川流域 白川上流域(阿谷)

熊本平野周辺

北側 東側 南側 宇土半島

北岸 基部北半部 基部南半部 南岸

宇土半島 八代平野周辺

大野川流域 砂川流域 右岸 左岸 球磨川下流域右岸 嶼部左岸 球磨川上流域(人吉盆地) 佐敷川周辺 水俣川周辺 天草島嶼部三角大矢 以南 南半 氷川流域

八 代 海 側

北側 東岸

北岸

西岸 西側 東側

( 河川左岸 ) ( 河川右岸 ) ( 左岸 ) ( 右岸 )

高熊 慈恩寺経塚

長目塚

塚園1

向野田 城ノ越

迫ノ上

弁天山

スリバチ山

天神山 チャン山

御手水

大王山1 有佐大塚 大王山3

楠木山 三角縁神獣鏡 福永舶載B・C・D段階

カミノハナ

城2

千崎

竹島3

長砂連 大戸鼻北 尾張宮

物見櫓

姫ノ城

端ノ城 中ノ城

大野窟 塚原平

国越 松橋大塚

東新城

高取上の山

茶臼山

鬼塚

鬼塚

千崎型式石 千崎型式石

小鼠蔵1

田川内1

仁王塚 道免

楢崎

男塚

女塚

鬼塚 潤野3

椿原

仮又 琵琶塚

三段塚

石之室

花見塚 井寺

将軍塚 ( 丸山6) 小坂大塚

楢崎山5 千金甲1

富ノ尾

長塚

今城大塚

狐塚

甚九郎山 帰帆山

石ノ瀬埴輪 羽山塚

中通

永安寺東 永安寺西

弁慶ヶ穴

下御倉

上御倉 打越稲荷山 鬼塚

石川山

横山

黒松1

左岸台地上の円墳群

椿山 京塚 虚空蔵塚

江田船山

塚坊主

岩原双子塚 竜王山

院塚 津袋大塚 藤光寺

天水大塚 山下

天水経塚 天水小塚

伝左山

稲荷山

大坊

銭亀塚

チブサン

オブサン 中村双子塚 金屋塚

臼塚

河童塚 木柑子 フタツカサン

木柑子 高塚 蛇塚

八代大塚

江田穴観音

岩立C

若宮

白抜きは根拠が明確でないもの。

?はさらに不明確なもの。

図 57 熊本県地域における首長墓系譜

(杉井 2010 を一部改変)

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(4)

- 88 - 第 4 章 まとめ

れらと同様にとらえられる。

 こうした地域は、河川づたいに進む内陸ルートの最重要地点である。とくに合志川中流域や緑川中流域に は、帯金式甲冑や窖窯焼成による精美な埴輪、あるいは朝鮮半島系渡来文化などが色濃く分布する。つまり、

当時の最新の文物、文化要素が優先的にもたらされているのである。こうしたことから想像されるのは、古 墳時代中期中葉の熊本県地域、なかでも有明海沿岸地域では、海岸沿いのルート以上に、河川づたいの内陸 ルートが重視された可能性である。そして、甲冑や埴輪などの動向をみれば、こうした動きには、古市・百 舌鳥古墳群を造営した中央政権が密接にかかわっていた可能性を指摘できる。つまり、これまでとは異なっ た地域の在地勢力と新たな関係を取り結びながら、地方との政治・経済関係を発展させようとした中央政権 側の意図がかいまみえるのである。

 このことを念頭におけば、長目塚古墳は、九州島における情報伝達・文物交流の主要ルートの 1 つとして 阿蘇谷経由の内陸ルートを最重要視するようになった中央政権側からの当地の首長へのつよい働きかけを契 機として築造された古墳であると評価できる。これが、のちに阿蘇市迎平古墳群 6 号墳[島津編 1980]に同 型鏡の画文帯環状乳神獣鏡がもたらされることにつながるのである。

 このように阿蘇谷は古墳時代においてもきわめて重要な地域であったと思われるが、長目塚古墳以外の当 地の古墳の内容については不明な点が多い。なかでも、古墳時代前期の阿蘇谷の古墳動向はほとんど明らか になっておらず、長目塚古墳の出現に至る過程の解明は今後に残された重要な検討課題である。古墳時代の 集落の様相もまったく不明のままである。さらに古墳時代の九州島で阿蘇谷が果たした歴史的役割を明らか にするためには、阿蘇谷のみではなく南郷谷や外輪山周辺部、そして阿蘇の西側では大野川流域、北側では 筑後川流域などにおける古墳動向の検討もあわせて行う必要がある。未報告のままとなっている重要資料も 数多くあるため、それらを世に出す仕事も含めて、今後も調査・研究を継続していきたいと思う。

(杉井 健)

第 2 部第 4 章 引用・参考文献

岩崎充宏・山下志保編 1994「中通古墳群」 『熊本大学文学部考古学研究室研究報告』第 1 集、熊本大学文学部考古学研究室:

pp.1-47

乙益重隆 1962「阿蘇谷の古墳群」 『熊本県文化財調査報告』第 3 集、熊本県教育委員会:pp.41-70

坂本経堯 1962「阿蘇長目塚 附小嵐山古墳」 『熊本県文化財調査報告』第 3 集、熊本県教育委員会:pp.1-40 島津義昭編 1980「塩塚古墳」 『熊本県文化財調査報告』第 46 集、熊本県教育委員会:pp.1-23

杉井 健 2006「琵琶塚古墳再考」 『文学部論叢』第 89 号、熊本大学文学部:pp.1-27

杉井 健 2010「肥後地域における首長墓系譜変動の画期と古墳時代」 『九州における首長墓系譜の再検討』第 13 回九州前方 後円墳研究会鹿児島大会発表要旨集、九州前方後円墳研究会:pp.131-184

杉井 健 2012「マロ塚古墳出現の背景」 『マロ塚古墳出土品を中心にした古墳時代中期武器武具の研究』国立歴史民俗博物 館研究報告第 173 集、国立歴史民俗博物館:pp.541-562

髙木恭二 2008「石棺から見た古墳時代の九州」 『火の君,海を征く!~古墳からみたヤマトと八代~』平成 20 年度秋季特別 展覧会 八代の歴史と文化 18、八代市立博物館未来の森ミュージアム:pp.126-141

西嶋剛広編 2004「高熊古墳第 1 次・第 2 次調査概要」 『考古学研究室報告』第 39 集、熊本大学文学部考古学研究室:pp.1- 20

林田和人 2002「肥後における中・後期の様相」 『古墳時代中・後期の土師器-その編年と地域性-』第 5 回九州前方後円墳 研究会発表要旨資料、九州前方後円墳研究会:pp.117-144

広瀬和雄 1991「前方後円墳の畿内編年」 『前方後円墳集成』中国・四国編、山川出版社:pp.24-26

第 2 部第 4 章 挿図出典

図 57:杉井 2010 を一部改変

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参照

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