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木曽朗生 (2) 明治十四年の政変の真相

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(1)

明治十四年の政変の真相

H

はじめに 第

一 章 大 久 保 利 通 死 後 の 政 局 第 一 節 大 久 保 暗 殺 第 二 節 内 閣 諸 省 の 分 離 第 三 節 憲 法 問 題 と 明 治 天 皇 第 二 章 大 隈 建 白 の 真 相 第 一 節 大 隈 密 奏 と 福 沢 諭 吉 第 二 節 大 限 密 奏 と 三 大 臣

( 2 )  

木曽

朗生

2 1 1  

(2)

第 三 章 開 拓 使 官 有 物 払 下 げ 問 題 第 一 節 払 下 げ 問 題 に お け る 大 隈 と 岩 倉 第 二 節 払 下 げ 問 題 に お け る 黒 田 第 三 節 開 拓 使 官 有 物 払 下 げ の 内 情 第 四 章 大 隈 陰 謀 説 の 真 相 第 一 節 払 下 げ 問 題 の 展 開 第 二 節 大 隈 陰 謀 説 の 真 相

( 以

上 ﹃

架 橋

6 号所収)

212  第

五 章 三 条 有 栖 川 岩 倉 の 確 執 第 一 節 三 条 伊 藤 の 提 携 第 二 節 在 京 岩 倉 の 動 向 第 三 節 明 治 十 四 年 の 政 変

おわりに

( 以

上 本

号 )

(3)

第 五 章

二条有楢川岩倉の確執

第一節

三条伊藤の提携

世上開拓使問題が大問題となり政府内部において大限陰謀説が吹聴された時︑東京の三条︑京都の岩倉︑

北海道東北巡幸に供奉した有栖川の三大臣は︑それぞれ独自の対応をとった︒三条有栖川岩倉の三大臣の対

応は︑明治十四年の政変の真相を知るうえで重要である︒

三条太政大臣は︑民間における開拓使官有物払下げ批判情報が警視庁から伝達されると︑八月二十九日︑

西郷従道に書簡を送りその対処を求めた︒

213 

﹁別冊警視庁より到来候間御廼申候︒一覧後伊藤氏へ御廻し有之度候︒実に言語道断之事と憤激に不堪事に候︒開拓

一件の得失は暫開き如此き乱暴演説を政府に於て放榔致置︑世人をして悪き感触を起せ候は政府之自ら許すに相当り︑

国安を妨害する不浅に候へは己後蛇度取締之着手相成候様︑樺山来帰候はは篤く御談し有之度:︒﹂

国会開設に積極的であった三条は︑民間の﹁乱暴演説﹂を言語道断として支持しなかったが︑開拓使官有

物払下げ問題の収拾に動いた︒政府内部には﹁世上如斯物議を起すに︑今日迄岩公の帰京なきは甚だ不審な

り;﹂とする声があった︒九月三日の﹃東京曙新聞﹄によると︑当時の政府の状況を次のように伝えている︒

(4)

﹁開拓使官有物払下の一件に就ては︑数日以前御巡幸先より某公(有栖川)の電報を以て︑留守某公(三条)に右払

下の許可は暫時中止すべき旨を達せられたりとの説ありて︑漸く一般に広まりたるが如し︒然れども又た一方の説に

よれば︑この一条に向つては内閣中にも種種議論ありて︑或は誓って其議を廃止せしめんと勉めらる﹀人あるにも係

はらず︑堅く払下げの議を執りて動かざるの某公(岩倉)は一命に代へでもこの一条を貫徹せしめんとし︑其気焔殆

んど当るべかざるの勢なれば︑設ひ某公(有栖川)よりの電報は確説なるにもせよ︑所謂暫時の中止に止まりて︑如

何なる変換を生ずるも測り難しと顧慮するものあるが如し;︒﹂︿()は筆者加筆﹀

八月中旬巡幸先で開拓使廃止と官有物払下げが内定されたが︑有栖川は払下げに問題があるとして三条に 払下げ許可を暫時中止するよう要請した︒これに対して京都にあった岩倉は︑一命に代えても強行しようと した︒岩倉は三条に九月六日書簡で︑百事困難の極であるが陸海軍警視庁が我が手にあるので何事もできな

いことはないと書き送り︑強硬姿勢を示した︒

かかる事態を憂慮した佐佐木高行は︑九月九日三条太政大臣に建白書を提出し︑政府の失政は民権論の拡

大に繋がり︑延いてはフランス革命の二の舞に至ると︑政府に慎重な対応を求めた︒

﹁往々国会をも御開設可成と信認罷在候折柄︑若し此際彼等廊廟の失挙を口実と為し︑従前請願する所の民主主権な

る国会開設の議を主張し︑天下を鼓動して︑以て欝々たるに至らしめ︑遂に止む事を得ずして︑其請願を允許せらる

214 

(5)

与如きに歪らぱ︑過激粗暴軽薄好艶者流︑大ひに志を得て︑或は仏国沿革の景況に至る如きあらば︑瞬間を噛むも及ば

ざる儀と奉存候;︒﹂

九月四日の﹃朝野新聞﹄によると︑近来大問題となった開拓使処分を憂慮した某顕官は三条に関西某貿易

会社の一事が事実であるならば国事犯人が起きかねないとし︑もしそうなればこれは政府が自ら招いたこと

で政府の信用地に落ちるだろうと警告したのに対して︑三条は﹁只左まで憂ふべき事にあらず︑又新聞紙上

に喋々する所とは事実大に異なれり;﹂と答えていた︒

払下げ問題の紛糾は︑軍人の政治への介入を招いた︒九月十二日︑鳥尾小弥太中将︑三浦梧楼中将︑谷千

城中将︑曽我祐準少将は︑連名で政体の匡正としての立法権の確立︑国憲創立議会開設及び開拓使官有物払

下再議の三事を有栖川左大臣に上奏した︒天皇の東北巡幸中であったので︑帰還をまって上奏するとの意見

もあったが︑谷が機を失しては他に制されるとしての上奏であった︒

215 

﹁今日政府の組織頗る其大体を失ふ︒古今内外の政度に於て未だ其類例を見ざるが如し︒何となれば︑立法行政司法

の三大権尽く之れを一内閣に統べ︑親政の名ありて其実なければなり︒天下臣民の疑惑を生ずる所以のもの職として

之に由れり︒請ふ︑速に元老院に立法の大権を委し︑陛下親臨して法令を講せしめ︑其決する所に由って之を親裁し︑

以て之を内閣に附し︑施行せしめるの制に改めたまはんことを︒

特に願くは︑速に国憲創立議会を元老院中に開設し︑特命を以て各府県会議員若干を徴集し︑此議会に列せしめ︑

(6)

国憲を制定し︑永世不抜の国基を立て︑民心をして帰着する所あらしめんことを︒

更に陳せさることを得さるものは︑開拓使官物払下の一件なり︒其事たる大ならずと錐も︑天下の人身をして大に

不満を懐かしむ︒是自ら施政上に於て其宜しきを得さる者あらん︒請ふ︑速かに再議に附し︑至公無私の処分に出で

しめんことを︐ t

事態の悪化に︑三条は伊藤はじめ諸参議と熟議し︑開拓使官有物払下げを中止し︑大隈を罷免することで 閣僚の意見を纏めた︒伊藤はそれだけでは人心の鎮定するに足りないとして︑この機会に勅裁に依り憲法実 施の方針を確立し︑国会開設の時期を布告し︑その準備に着手することを建議した︒三条太政大臣を始め閣

員一同は︑伊藤の説に賛成し︑伊藤をその実行方法の調査立案に当らせることにした;︒

伊藤は開拓使払下げを中止するともに国会開設に動いたが︑岩倉や山県の調整に当ったのが井上馨であっ た︒井上馨はかつて大限とともに英国式の議会制度の推進者であったが︑開拓使問題を契機に大隈を除くこ とに熱心となった;︒憲法主義についても大隈と対決する方針を打ち出した井上馨は︑岩倉山県を取り込む

ため︑井上毅の要請を受け独逸の憲法を学ぶことを伊藤に勧めた︒

井上馨は︑七月二十七日伊藤に書簡を送り︑伊藤の元老院改良案は時機を失し︑国会開設を主張するに至

った士族を満足させることはできない︒それは却って急進者に公然と言論を行う場所を与えることになり︑

憲法主義を防ぐは伊藤と宣伝されることは必定である︒大限は人望を得ることを主として今日までその定説

がないことは御承知のこと︑大限が甘言をもって伊藤の元老院説に服してもその害を受けるのは伊藤である︒

216 

(7)

今日の形勢に至つてはやむを得ず独逸憲法を学び︑その法制を綿密にし︑地方議員中から選挙して下関議答 させ︑元老院を基礎に一年ないし二年後に下院開設を布告し︑その後法制を全任させた方が得策であると説

い た

井上馨は明治十年に英国に再留学し︑帰国後︑英国通を自任していたが︑ここに至って伊藤に政治戦略と ︒ して独逸学を学ぶ好機であることを述べた︒井上馨は﹁英政体は其名はコンチシュ!ショナ!ルモ

i ナキな

れとも︑其実は米国之協和政体よりも甚く﹂英国に適しており︑他に学ぶべからざる慣習法に依るもので︑

福沢等の学者もこのことを理解してないと伊藤に説いた;︒伊藤は八月六白井上馨に書簡を送り︑独逸公使

青木に憲法調査の手はずを井上毅から依頼したことを告げた︒一ニ条も岩倉説得に当り︑大限と訣別し井上馨

の意見に参議の意見が一致したことを岩倉に九月六日付書簡で告げた︒

217 

﹁当地内閣にでも執れも苦患仕候事に候︒既に頃日井上参議帰京︑同氏へ御伝言の趣も拝承仕候︒爾後伊藤︑井上︑

山県︑山田︑西郷等内談の慮も粗ぽ井上参議意見に同論︑還幸後︑神速に施行相成度申居り︑この節は執れも必死尽

力︑進退を決し候内意に有之候問︑実に還幸の後は一大変動を生じ候に相違無之と相察し申候︒いかにも内情切迫の

局に有之候故小生に於ても深く苦神仕侯︒大限氏建言以来︑専ら福沢党の気脈内部に浸入の事に至つては︑一向憤激

の模様に有之候問︑此般は到底大隈氏と一和は整ひ難く︑必ず内閣破裂の場合に切迫致候事と存候;︒︒﹂

(8)

第二節

在京岩倉の動向 三条は参議山田顕義を京都に派遣し︑岩倉から内閣が決定した払下げ問題と大限の処遇の同意を取付けよ うとした︒九月十八日︑山田は京都に入り︑岩倉を訪問した︒山田は先に大限の建議によって伊藤と大限の 間にごたごたが起きたのは︑唯だ一時意見が翻離したものと看過していたが︑頃日開く所に拠れば大隈は河 野敏鎌と相謀り︑政党を樹立し︑民権論者と気脈を通じ︑事を謀ろうとしているようだと岩倉に語った︒ま た開拓使官有物の処分について物議を拓いたのは︑大限に関係のある富豪が巨万の金を各新聞社各政談者に 投じ︑官有物払下処分問題を痛論し︑政府を攻撃しているとの説があるが︑この間題も詳細に物件を調査し︑

時価相当の金額を納附せしめたならば︑問題はないだろうとした︒

岩倉は﹁開拓使官有物件の処分は予は当初より其議に輿らざるを以て︑今度に其の可否を断ずることが出 来ぬ﹂と公売による払下げを拒否したが︑山田は開拓使官有物処分の如きは枝葉の問題に過ぎず︑今日の急 は速に憲法制定に着手し国会開設の期を予定することであるとした︒更に山田は﹁大限の議を採用せらる﹀

乎︑又は内閣諸僚の意見を採用せらる

h

乎は︑一に繋て庭断にあるのみ︒若し陛下にして内閣諸僚の意見を

採用せらる﹀に至らば︑断然大限の職を鰍け︑其党与の一切是を排斥せねばならぬ﹂と迫った︒岩倉は憲︑法

制定は一昨年来自分が率先して首唱した所で今日に及んで未だ行はざるは︑如何とする所である︒今併せて 国会開設予定の時期を決議することを奏上するは賛成する所であるが︑大限排斥の一事に至つては伊藤に会 ってみないと同意することが出来ないとした

$110

218 

(9)

岩倉は国会開設そのものには反対していなかった︒

川宮に次のように述べている︒ 岩倉は有栖川宮が左大臣に就かれた際に︑三条と有栖

﹁今や国会開設を請願するもの︑陸続腫を接し︑殆ど応接に逗あらざらんとす︒若し之を放榔して︑其の成行に一任

せん乎︑競激の言論天下を風騨し︑国家の秩序素乱し︑終に収拾すべからざるに至らんも︑未だ知る可からず︒因て

政府は国会開設の時期を想定し︑我が国体を根本と為し︑傍ら欧米各国の良制を掛酌折衷し︑以て憲法を起草する善

しとす︒其の草案成るの日︑天皇は既往に鑑み︑将来を慮かり︑之が利害得失を審かにして︑之を裁定し︑以て億兆

の臣民に昭示し給は£︑葉くは国家の治安を永遠に維持することが出来るであろう

︒ ﹂ : 2

219 

しかし岩倉は︑明治天皇が志向される英国流の民約憲法には異を唱えていた

D

岩倉は明治八年四月に立憲

政体制定の議が起った時も︑有栖川宮が勅命で元老院議長に就任し憲法を起草した時も︑我が国体と相容れ

ざるものがあると事の進捗を遮った︒その後︑勅命により各参議に国会開設の意見を起草させ聖断を仰ぐ事

になったのも︑岩倉が参議を使って明治天皇の考えを改めさせようとしたものであった︒欽定憲法制定を望

んだ岩倉であったが︑欧米視察の経験を踏まえ︑来る国会開設に備えて︑大限と保守政党設立の準備をして

いた︒明治十五年六月十五日︑山県有朋が欧州にいた伊藤博文に大限の改進党の動向を伝えた書簡には︑

﹁計画する所の傾序は第一華族を回来して立党の源を深ふし︑第二早稲田の学校に於て遊説派出の人物を養

成し︑第三大に延して天下の豪商︑豪農を団結し︑以て政府に迫らんとするものに有之哉に被察候

$13

﹂とあ

(10)

る︒岩倉と大限は国会開設に当り︑華族を第一の母体とする政党を組織しょと︑華士族が手懸けた事業に開

拓使官有物を払下げ︑事業を軌道に乗せようとした︒

山石倉は明治十四年九月二十七日︑三条に書簡を送り︑山田との会談の模様を伝え︑自らの考えを明らかに

し た

﹁諒山田顕義態々御差立九月十八日旅館来訪・・︒只一事或人福沢一五々之義頓に承候事に而即答に及ひ難く︑元来伊 ︒

藤内談行蘇りも有之候故︑帰東早々同人に及相談に候上貴答可仕候︒将又此比伝承候処︑今般開拓使一件左府公には

是非御取消し之命令に不相成候而は政府之失体不可言︑若し不被行候は﹀御退職之事に御決心之趣・・︒近比左府公

御説伝聞よりか︑諸省書記官杯申合建白すとか︑華族之輩にも同様種々評論不穏相関候︒・・尤左府公也諸省也夫々

え開拓使御所分不条理之義無之所御通知御往反等も有之候事か承知不仕候得共︑目下在官之輩閣議と如此行違居候事

は遺憾千万に存候(小生開拓使事件終始不存候得共︑山田に承候所に而は彼是申し立候訳無之かと存候

) 8 1

︒ ﹂ 4

220  有栖川のみならず諸省書記官や華族のなかにも払下げ取消を建白する動きがあることに対して︑岩倉は開

拓使の処分に関して不条理なことはなく︑閣議と行き違があることを遺憾千万とした︒岩倉は︑閣議を司る

大限伊藤を抱き込み︑払下げに反対する諸省官吏華族の動きを封じ込めようとした︒

三条は山田の後にも薩摩の川村純義海軍卿を十月一日軍艦で急逮岩倉のもとに送り︑説得に当らせた︒三

条は川村を通じて︑黒田が開拓使﹁工場﹂払下げ問題に関して︑伺出の分は公売に付すれば世論は安定する

(11)

との諸参議の意見に同意した事を伝えた︒川村は岩倉に﹁前日︑山田参議拝謁の際︑陳述したるが如く︑憲

法制定に著手し︑国会開設の待機を予定するのは︑刻下の一大急務である﹂ことを強調した $150 これに対し

て岩倉は﹁予は帰京して時局の為に微力を殺さん︒但だ開拓使官有物処分の件に就ては︑政府既に認可の内

命を伝へた後であるから︑今逮に之を取消すことは穏当であるまい﹂と答え︑﹁足下は宜しく西郷︑大山と

同郷の交誼を以て︑黒田に懇論し︑黒田をして前日の申請を撤回せしむるやう努力せられたい

﹂ : 6

と 述

べ た

岩倉は懇意の大山巌を通じて黒田の申し出を撤回させようとしたが︑帰京した川村から十月六日書簡で︑黒

田には西郷樺山から話が付いており︑開拓使事業の目的を誤らないよう諭された︒

﹁拙者には御先に乍失敬帰京仕候乍恐左様御承知可被下粗御話申上置候北海道枝葉之一条に付ては大に御配慮被為遊

候犠も有之出立之節之事件は申上置候通大を主として枝葉に関し候ては大に御目的に相反候儀も不少拙者発途後尚又

西郷樺山より黒田え及相談候由今日帰京直様両氏へも遂面会申候処御安心被遊侯都合に相成居候間為邦御安意被下置

候様奉願上候 $ 1 7 0

2 2 1  

黒田も一日一は北海道の将来のために払下げが必要だとする立場を取ったが︑本心は開拓使事業は道半ばで︑

財政問題から開拓使が廃止されるのは遺憾であった︒黒田は伊藤から官吏会社への払下げを中止するように

説得されると︑逆に開拓使を存続させるようにと話を蒸し返した︒伊藤は黒田の説得に苦慮したが︑巡幸後︑

明治天皇の親裁を仰ぐことで話を纏めた︒三条は伊藤を労い﹁黒田遂に承服相成候趣至幸之事と安心仕候︒

(12)

偏老台尽力之功能徹底致候事と感保仕候

* 1

﹂との書簡を十月六日に送った︒こうして三条は︑六日軍艦で東 8

京に帰着した岩倉と会談を行い︑岩倉から同意を取付けたことを伊藤に伝えた︒

﹁今朝内談之一条右大臣面会談合候処向意に相成決着仕候︒

候問︑此旨了承有之度候 73

‑・内閣一同を会し候義は明朝右大臣面会之上に取極申

岩倉はこの会見で三条の見解にほぼ同意しながらも︑大限進退の件では伊藤と面談した上で答えるとした︒

三条は夜に予定されている伊藤との協議に同席することを勧めたが︑岩倉は旅の疲れを理由に謝辞した︒

この日︑岩倉は井上馨の面会に応じ︑閣内の情勢を聞いた︒岩倉は井上馨から閣議では岩倉の要望を受入

れ︑憲法を欽定とし︑開拓使処分取消となる代わりに士族就産資金が貸与されることになったという話を聞

かされたロ払下げ問題を機に薩長排撃の動きが強まる中︑岩倉はもしそのような事になったとしても︑内閣

は徹底徹尾団結して死力を尽くすと述べ︑尚も大限の進退に関しては︑伊藤参議との協議によって決すると

し た

2

0 ︒

岩倉が大隈の進退問題に関して消極的姿勢をとってきたのに対し︑黒田は岩倉に大隈罷免を迫った︒黒田

は十月六日岩倉に一書を送り︑天皇還幸前に大限の策略により岩倉が三条︑伊藤等に取り込まれないよう毅

然とした態度をとるよう求めた︒

2 2 2  

(13)

﹁川村より只今関下御帰京の旨︑願聴を請け︑日夜千秋の如く待上兼ねをる︒山田参議︑川村卿より詳細情実御関取

相成りし通で︑実に国体に関する此上なき危急の場合にて苦慮罷在る︒既に明日大限参議帰京の由︑疾くに御了承で

あらう︒近頃恐縮の至乍ら︑御還幸前に閣下︑条公は勿論︑その他伊藤参議等へ協議︑智謀を廻らし︑必ず天下の輿

論とて陰に計策を働くに相違あるまじく︑決して御動揺なく︑彼の術中に陥られぬよう願はしく存ずる︒返す返すも

姑息の情義に惹かれず断然たる御処分なくては後で騰を噛むとも及び申さぬ︒救ふべからざる御難題に立至り︑天下

万民をして塗炭の苦界に陥らしむるは案中にて千歳の遺憾であるから︑是非何こ迄も根本の大病根駆逐︑根軸を堅固

にし︑確固不抜の標準を立てられ︑上は叡慮を安んじ奉り︑下は億兆の民をして堵に安んぜしむるは今日にあり

2 2 3  

黒田は︑大隈と岩倉が関西貿易会社及び開進社へ官有物の払下げを計画してきた経緯をよく知っており︑

大限の岩倉への働き掛け如何によっては大限の意図する国会開設が実現しかねない情勢であった︒伊藤も七

日岩倉と会談し︑大隈に関して数件の例を挙げ国事を共にできない旨を告げた︒その上で伊藤は︑岩倉に国

会開設の必要性を説いた︒岩倉は大限罷免に同意する一方︑黒回が官吏会社への払下げを再考するよう伊藤

に依頼した︒岩倉の再三の要請にも拘らず︑開拓使一件は︑明治天皇の聖断を仰ぐ事となった︒

払下げ問題に関して明治天皇は︑当初︑払下げ後の事業に懸念を示されたが︑北海道巡幸中に現地を視察

され︑官吏会社への払下げを内決された︒払下げ問題が東京で大問題になると︑九月六日︑明治天皇は函館

で宮内省御用掛大河内正質から東京の政情の具奏を受けた︒明治天皇は供奉の有栖川左大臣に命じて︑三条

(14)

太政大臣に真相を報告させる事にした︒明治天皇は東京の三条から報告を受けると︑その報告に納得されな

かったので︑薩長人が団結して某参議を排斥する議ありとの新聞を有栖川左大臣が供した︒明治天皇は︑

﹁巡幸供奉の参議大限重信が︑帰京の後︑実地観察する所を以て開拓使官有物払下廃止を唱えるが如きこと

あらんか﹂と疑念を持たれ︑これは﹁他の参議共同して大限を排斥せんとするなり﹂と推察された

; 2 0

明治

天皇は北海道巡幸において北白川能久親王に命じて亀田郡下湯川村関進社第一会所耕場を代巡させ︑函館行

在所でその情況の報告させた白天皇は関進社が墾回開発に尽力していることを嘉賞し︑特に金百円を賜った

黒田が裁定を委ねた明治天皇の意向が官吏会社への払下げである以上︑払下げ問題は中止を求める三条有

栖川と更なる払下げを求める岩倉との対立となった︒大隈罷免問題では︑払下げ問題における大恨の不実と

国会開設の独断専行を憤った薩長参議を代弁する三条が罷免を主張したのに対して︑有栖川は大限の国会開

設論を擁護するため反対した︒岩倉は大限との情実から罷免には消極的であったが︑大限の意見書問題では︑

有栖川と激しく対立した︒三条と伊藤は︑国会開設の勅諭案を作り天皇の意向を探った︒

岩倉は尚も︑巡幸前に保留となっていた払下げを認めさせようと黒田に働き掛けたので︑十月八日伊藤は

岩倉に書簡を送り︑開拓使問題及び国会開設問題に関する閣議の意向を伝えたロ

2 2 4  

﹁唯今西郷来訪承候処︑黒田一向賜謁の際︑黒田より御直に開拓使一件及言上如何様御処分有之候共異議無之段は︑

御関取被為在候趣︑右にて三大臣公御協議上には御充分なる事と確信仕候︒却説一昨朝供尊覧置候詔書案御発表云々

(15)

の儀も︑今朝西郷へ御談示有之候哉に奉窺候処︑一昨朝も如申上置候此儀は博文大勢を察し︑将来の為に経画する所︑

今日不得止の御処置と千思万考の余に申出候儀︑深御熟察を奉乞度候︒又退て勘考仕候処︑到底国会論の局は早晩御 結無之ては︑明治政府の難難無休時事は申上候迄も無之︑且薩摩中興輔翼の功績も寛に水泡に帰し候而己ならず︑却 て天下後世の為に禍害を残し候様にては不相済事に付︑夫之前後照考の末︑此有極の御処分を申立候次第に御座候

払下げ問題は︑宮中にも不信を招いた︒八日︑明治天皇の外祖父である従一位中山忠能が岩倉に面会し︑

﹁政治の事に渉るべからす﹂との聖論があり︑払下げ世論について奏聞できないので︑岩倉から奏聞してく

れるよう依頼したが︑岩倉は断った

; 5 0

岩倉は九日︑邸宅で三条太政大臣及び各参議を集め︑自らの還幸後

の方策を示した︒

2 2 5  

千住駅に於て車駕を奉迎し︑行宮に於て目下朝野の形態を一一言上の事︒

還幸の後︑三大臣直に談合し︑諸事一決奏聞度断を仰ぐ事︒

大隈参議免瓢処分の順序の事︒

国会開設勅諭の件は何年を期し断行すべき事と議決し︑震断を経て直に宣布の事︒

内閣及元老院章程改正康断を経て施行の事︒

参事院設置如何の事︒

(16)

開拓使官有物払下処分速に相定め︑公衆をして安堵せしむる事

; 8 0

岩倉は︑大限罷免問題及び開拓使問題で三条伊藤と調整を図らねばならなかったが︑国会開設︑内閣及び

元老院章程改正︑参事院設置等の憲法関連問題でも対処しなければならない勢力があった︒十月八日佐佐木

高行土方久元等は岩倉に大限の不正と免職を訴え︑藤長の私をなくするため内閣の組織を変更し才人を挙げ

多数決をもって内閣百般の事を議定することを要望した $270 政府内での薩長排除の動きに対して︑黒田は十

月十日岩倉に書簡を送り︑維新時の岩倉のように毅然とした態度で大事に当るよう要請した︒

﹁政府之威権を復せられ廟堂の基礎を堅くせられんことを渇望に不堪抑大事を為すには最初は如何程確乎たる決意に

でも其事に臨めは又種々の情実出来之に索続せられ機会を誤り終に十分之奏功を得さるは往々人情の所不免殊に今般

の事の如きは実に国家の安危に関し候場合に付初より身を死地に置是非為し遂くるの決心に無之候ては十分之成功は

無覚束若し事成られば散指して後己むと申位にては既に一歩を放著し事機を失ふの基と存候偏に関下御注意之程千析万

祷之至に御座候古今大事を誤り候者績に一瞬間の遅疑に依り遂に回復すへからさるの勢に至り候例不少禍福之機其間

髪を不容広く之を古今に徴する迄も無之王政復古の際徳川慶喜犯関の時に当り伏見鳥羽開戦の後に歪り賊勢強衆の風

間有之朝中紛結既に薩長を瓢くるの説を為す者も有之候位の処独り閣下泰然御動揺無之故大久保参議と共に暴説を排

せられ候に依り遂に慶喜排退之功を奏し今日の偉績を見るに至りしは兼而感銘罷在候儀に有之 $ 2 8 0

226 

(17)

第三節

明治十四年の政変 十月十一日岩倉は千住駅で明治天皇を奉迎し︑行在所で拝謁︑政情を奏聞した︒その内容は﹃五代友厚秘 伝﹄によると︑天皇の巡幸中に大隈の謀略によって東京日日新開の福地源一郎や東京横浜毎日新聞の沼間守 一︑朝野内外の成島柳北︑郵便報知新聞の藤田茂吉︑嘆鳴新誌の島田三郎などはじめ︑京浜の各新聞が筆を そろえて︑北海道官有物払下げ問題を攻撃し︑これに応じて東京の新富座︑井生村楼︑大阪今宮の戎座など で︑肥塚竜︑高梨哲四郎︑益田克徳らの民間有志が演説会を開いて︑薩長出身政治家の専横を非難している︒

また北海道の住民総代がぞくぞく上京して︑手を分けて各参議に面会し﹁官有物の払下げは住民に許可して もらいたい︒その価値は政府指定の時価にして︑利息をつけて年賦償還をする﹂と陳情しているが︑各参議 は﹁払下げはすでに関西貿易会社に決定しているから︑考慮の余地なし﹂と突っ放している︒こうした状態 で︑京浜および京阪神地帯にはごうごうたる政府非難の声が起っている︒速かに御前会議を開いて︑もう一 度払下げについて御考慮を願うというものであった

; s o

岩倉の奏上は︑紋付袴に変装しての奏上であった

227  この日の午後二時四十分赤坂仮皇居に還幸した明治天皇は︑侍講元自永字を召し諸問題を諮諭した︒元田

は大隈の立憲政体に関する意見書に対して︑大隈の意見は同僚に謀らない私論であり︑もしこれを嘉納なさ

れると衆論沸騰し忽ち奇禍が到るとして︑速やかに斥けることを請うた︒元田は今日これを斥けられなくと

(18)

も︑大隈には財政において不正行為少なくないとする世評もあり︑財政問題に聖鑑を垂れることを述べた︒

これに対して明治天皇は︑大限の奏議に関して弁明し︑大限は口頭で奏上する事を希望したが︑自分がそ

れを許さず︑その概略を記述して提出させた︒その際︑大限はこれを他の参議に秘密にすることを誘うたが︑

岩倉右大臣がこれを伊藤参議に示したため紛議が起きたもので︑この事件はそこまで憂うべき問題ではない

と し

た ・

310

元田は巡幸前の七月一日にも︑明治天皇から山県︑黒田︑山田︑井上馨︑伊藤︑大限︑大木の諸参議の立

憲政体に関する意見書を示され︑それに対する所見を奏上するよう命ぜられたことがあった︒翌日奏上した

一元田は︑その時も大限の国会開設の期を布告する議は急進党を促す弊害があり最も宜しくないとし︑伊藤参

議の元老院を更張し公選検査官を置く議を採用されるよう進言していた︒

明治天皇の国会開設問題及び払下げ問題に対する意向が︑大限意見書の採用と払下げの許可である以上︑

三大臣諸参議との衝突は避けられなかった︒還幸奉迎を終えた三条太政大臣︑岩倉右大臣︑並びに伊藤山県

黒田西郷従道井上馨山田の六参議は︑供奉された有栖川左大臣と密議を行った︒元田の内話では︑大限の件

に関して左大臣は大限の建白事件を弁解し︑﹁大隈は建白の体ではなく︑充分見込もなく只口上を書き取り︑

参議へは密にて奏聞して呉れよと申出でたり︑然るに︑右大臣が伊藤に見せ議論となったが︑此の事件は差

程の事柄ではないと﹂としたのに対し︑岩倉は﹁未だ大限の民権に相結びたる事は︑宮にも御存知無之に

付﹂と反論し︑岩倉右大臣と有栖川宮の間に議論が起ったとしている

; 2 0

諸参議は︑寺島参議を筆頭にした連署による立憲政体に関する奏議 833 を大臣の手を経て行い︑国会開設の

228 

(19)

時期を予定し︑挙行の願序を措画し︑大政の禽ふ所を公示し︑人民に廟議の画一なることを知らしむること

にした︒奏議では︑﹁抑も立憲の政体を創るは︑前古未曾有の大局にして︑尚昆後来万世の鴻業﹂とし︑

﹁憲法を定むるに国体を重んするは︑篤く祖宗の遺業を守る所以なり﹂と神武天皇東征時の文明論を踏襲し

た︒その方策として皇族及び華士族からなる元老院を更張し︑国会を開設し︑相互平衡して偏重のないよう

にするとの伊藤の意見が採用された︒奏議は大臣参議の総意として奏上されたため︑明治天皇も諸参議の奏

議を受入れざるを得なかった︒

これに続き大臣参議一一同は︑大限罷免を奏議した︒佐佐木高行の日記によれば︑大臣・参議一一向が﹁大限

免官無之ては政府の御趣旨不相立﹂との申し立てに対して︑天皇は﹁薩長参議にて結合して︑大限を退ける

の議ならん欺﹂と疑惑され﹁大限の儀確証ある哉﹂と尋ねられた︒岩倉右大臣は﹁只今確証御取調と相成り

候ては不容易︑其の事柄は︑福沢門人初め其他より︑十分相分り居り候事にて︑既に薩長の参議而己ならず︑

平素正義論家も︑悉皆其辺は相心得︑憤懇仕候事に付︑若し薩長の事御疑念被為遊候ては︑忽ち内閣も破裂

仕候問︑何分御許容相成度﹂と願い出た︒更に岩倉右大臣は﹁大限さへ免官相成候は︑開拓使の事は黒田に

於て異議無之﹂としたのに対し︑明治天皇は﹁夫れは甚だ不分事也︑一体開拓使と大隈の事は別事なり﹂

﹁大限免官なれば云々︑如何の事歎﹂と申聞かれた︒岩倉右大臣は﹁夫れは申上げ様悪しく候︑開拓使云々︑

思召の通にて異議なき﹂と答えた

; 4

︒御前会議においては︑大限の罷免は認められなかった︒井上参議は大

限が内閣不統一を策謀したという理由で弾劾するよう単独で奏上したが︑天皇は聞き入れなかった︒そこで

再度の大臣の奏聞となった︒

229 

(20)

山間鉄太郎の内話によると﹁昨夜は如何の事欺︑開拓使事件かと思考せるに︑黒田低声なれば余の事件な

らんと︑夫より再度の奏聞ありて︑御間済みを大臣・参議列席の処へ達したるに︑一向安心の景況なり︑其

中黒田は殊更愉快に見へたり︑初めて大隈免官の事を知れり

; 5

﹂と述べている︒﹃伊藤博文伝﹄では︑三条

太政大臣が大限罷免の件を奏請した際﹁事情己むを得ずとするも︑先づ免官の理由を論し︑然る後ち辞表を

提出せしむべし﹂との沙汰があり︑その時誰を大限に免官の理由を諭すか問題となったとしている︒そとで

伊藤が大限と最も深き縁故あるのでその任に当ることを発言し︑西郷従道も伊藤と同行することを申し出た︒

衆議はこれを受入れ︑﹁天皇特に公(伊藤)及び西郷を召して親諭し給ふ処﹂があったとしている︒この時

既に夜半を過ぎていたが︑伊藤と西郷は大隈宅を往訪し︑閣議の決定と叡慮の在る処を伝達した︒大限は︑

﹁是迄微力ながら相勤めたれ共︑何の御用にも不相立︑此の上は薩長二藩にて事を専らに致す形に相見へ候

故︑十分御注意あり度﹂と伊藤に述べた $360

こうして大限は︑明治十四年十月十一日深夜︑政府からの追放されることになったが︑翌十二日︑東京鎮

台は命令一下︑出動体制下にあり︑警視総監は自ら警部巡査を引率して東京市内を警戒し︑まるで内乱にで

も備えているかのような厳戒体制となった

; 7 0

なぜ大限一人を罷免させるのにこのような警備体制をとる必

要があったのだろうか︒薩長政府は︑この決定によって引き起こされる軍内部の反薩長運動への動きを警戒

しての事であった︒そのことは︑開拓使官有物払下げ問題が政治の焦点となった時の岩倉の対応にみられる︒

明治十四年八月二日︑寺島は岩倉に﹁山田参議は対抗運動点検之為昨一日途上宇都宮近傍へ出張致候

; s

﹂ と伝えている︒巡幸先の宇都宮の近郊では八月三日︑四日に陸軍演習があり︑天皇は陸軍歩兵中佐能久親王︑

230 

(21)

陸軍中将西郷従道︑向山田顕義︑宮内郷徳大寺実則︑宮内大輔杉孫七郎︑侍従長米回虎雄︑向山口正定︑フ

ランス公使官隊武官︑近衛将校等を従え天覧した︒山田の﹁対抗運動点検﹂とは︑宇都宮での有栖川左大臣

及び近衛兵の動向調査であった︒八月二十一日︑近衛都替東伏見嘉彰親王は巡幸先の有栖川左大臣に書簡を

送り︑開拓使官有物払下げ問題に関し﹁他日一大国難の発せんも測り難し﹂と憂慮の念を伝えた︒その後政

府内で大限陰謀説が流布されると︑嘉彰親王は十月十日埼玉県幸手で有栖川左大臣と会し︑行在所で天皇に

奏上を行った $390 岩倉が有栖川を恐れたのは︑﹁是れ迄の情誼もあり︑今般の事件を御取消の御尽力なくて

は︑天下の名望を失し︑御威徳も今日限り﹂と深く憂慮する勢力が存在していたからである

: 0 0

近衛総督東

伏見宮を始め参謀長土屋可成は払下げを憂慮し︑﹁少尉以上は天子に得そむかせじと

﹂としていた︒ : 1

この軍の動きは︑西南戦争とそれに付随して明治十一年八月二十三日に起きた竹橋事件と関係していた︒

西南戦争勃発時︑元老院幹事陸奥宗光は同僚の元老院幹事河野敏鎌︑元老院議官柳原前光︑中島信行と計っ

て︑右大臣岩倉具視︑参議大久保利通に紀州募兵のことを鼓吹した︒陸奥はこの機会を利用して内閣改造を

はかり︑木戸を説いて京都行在所の廟議を動かし︑板垣︑後藤を入閣させて︑薩長独裁の風を改め︑内政を

革新し︑挙国一致で西郷隆盛にあたるべきだと主張した

; 2 0

陸奥の議は採用されなかったが︑西南戦争にお

いては元老院議長の有栖川が総督として現地に赴いた

D

陸軍は木戸孝允のもとフランスの民主的な兵制が推

進され︑特に近衛兵は天皇の御親兵として特別な地位にあった︒竹橋事件における近衛砲兵大隊砲卒田島森

助の口供書には﹁近頃人民一般苛政に苦しむにより︑暴臣を殺し︑以て天皇を守護し︑良政に復したく︑そ

れにはしかるべき大将もこれあり

; 3

﹂と有栖川を暗示したものもあった︒竹橋事件後の侍従米国虎雄の内話

2 3 1  

(22)

では︑資金豊富な宮内の金庫を目当てに華族等が拝借を願い出ていたが︑全権を握る岩倉は窮乏華族を扶助

することはなかったとしている︒岩倉が関与した貸出は︑三万円の貸出でも二万円の下付となり残りの一万

円が不明となる怪しいものであった︒竹橋事件で自宅の襲撃を受けた大限は︑小川を渡り岩倉邸に逃げ込み

難を逃れていた︒事件で宮内へ馳せ付けた衆参議は吉井と山田だけで︑明治天皇の逆鱗に触れた︒大隈は翌

日御前で宣告文を読むも戦き読了することが出来なかった︒明治天皇は︑王政復古の事では薩長肥土に数多

の尽カがあり︑これまで四藩に一歩譲歩して来たが︑皇統の隆替と民衆の疾苦に換え難いとして衆参議の措

置を勘考したほどであった

; 4 0

明治十四年十月五日︑侍講の副島種臣は巡幸先の有栖川左大臣大隈に書簡を送り︑天皇が下した開拓使官

有物払下げ中止命令に対し留守政府の有司はこれを拒み︑黒田は自分の主張が容れられなければ陛下を脅し

聖詔を強いる積もりであると訴えた白この書簡で副島は︑近衛都替嘉彰親王が近衛将校の動揺を考慮し死を

以て事に当る旨を告げ︑近衛都替嘉彰親王東伏見宮︑土屋参謀長︑樺山︑烏尾︑谷︑佐佐木︑自分の誰かが

宮中に伺いご座﹂を設けるとした

; 5 0

更に副島は︑今や薩長肥の参議に重職を託すことが出来ないとして︑

聖徳を輔翼し国家の安寧を謀るため議事院を開設し︑板垣を陸軍大将兼陸軍郷に就任させようとした︒副島

は板垣に内密に今度の政府の改革に協力を求めたが︑﹁未だ僕輩の尽力する時に非ず﹂と拒否された

; 6 0

この状況にあって︑井上馨は十月十日︑伊藤に書簡を送り︑十一日の晩の結果如何では西郷山県による有

栖川左大臣の説得が必要であると説いた︒

232 

(23)

﹁今朝承り候得ぱ︑矢野文雄事四五日前御巡幸先きへ到り︑方今事情甚切迫に付左府公説付聖上え強迫して薩長参議

免職辞令書を東京え送達する策を催し候模様︑無論不被行事とは奉存候得共︑余程左府公えは種々の悪説の先入した

るは必然に付︑条岩︿三条︑岩倉﹀両公充分の尽力︑且明晩其結果に因ては︑西郷︑山県十二日の朝︑左府公え罷出

候て︑切迫及論破候事肝要と奉存候︒山県自然病気に候て︑西郷︑品川両人の方可然︑品川は従来の親みも有之︑都

合宜哉に奉存候︒只今より山県えは劣生参り候て︑委曲陳述可仕候

; 7 0

十月十一日深夜に関する土方久元の内話によると︑﹁山県・山田両参議︑左大臣官へ頗る差迫り︑宮も大

限同腹と申様の言葉に渉り︑宮も以て外御不快の景況なり﹂としている $480 山県は有楢川宮から大限罷免の

同意を取付けたが︑御前会議での大限罷免には陸軍内部の反発を恐れて反対した︒かつて山県は陸軍大輔兼

近衛総替の職にあった時︑山城屋和助事件を引き起こし︑近衛兵の反発を買い︑明治五年六月に辞職を余儀

なくされていた︒十月十五日の﹃郵便報知新聞﹄は︑山県の御前会議での様子を次のように伝えている︒

2 3 3  

﹁大隈参議の辞職に付種々討議ありて諸参議は願の通り免さるべしといはる﹀を︑独り山県参議のみ席を進み︑大臣

の去就は往古より忽かせにすべきものにあらず︑況んや別に指すべき廉なき維新以来の功臣を容易く解職せしむるは

国家の不祥と存ずれば︑此儀は簡届けられぬこそよけれと抗論されしを︑有栖川左大臣は初めより説を立て﹀動き玉

はす︑大隈参議は十四年来大政に参して功勲あるを︑争かで俄かに解職さすべきと激論ありしが︑山県君を除くの外

諸参議一一同大隈参議の辞職は間届けられよと奏上せられた

; B O

(24)

明治十四年の政変は︑竹橋事件の陰を引き摺っていた︒竹橋事件直後︑政府は軍人訓戒を出し︑﹁軍人ノ 本分ト相背馳﹂する建白や投書などの政治活動を禁止したが︑明治十三年八月十八日︑東京鎮台歩兵第一連 隊の歩兵伍長・小原弥惣八が赤坂仮皇居の御門前で割腹する事件が起きている︒小原は︑片岡健吉・河野広 中らが太政官に﹁国会ヲ開設スル允許ヲ上願スルノ書﹂を提出せんとするも門前払いをされたとの新聞記事 を読み︑憤激し割腹に至ったのであった︒小原は岩倉を﹁貧位専檀ノ姦臣﹂とみなし︑﹁人民失望ノ色ヲ現

ハシ︑随テ怨嵯憎憎の声﹂を上げているとした

; 0 0

竹橋事件後に軍人訓戒が出され︑明治十四年の政変後に

軍人勅論が出された事も偶然ではなかった︒

明治十四年十月十一日の深夜︑大限の罷免と払下げ中止が決定されたが︑国会の開設の期日は決定されな かった︒保守的な政治志向の岩倉と山県は七年後の明治二十年を主張したのに対し︑民権政治に肯定的な三 条と薩摩参議は十年後の明治二十三年を主張した︒山田と伊藤は七年後でも十年後でも異議なしとした︒大 木は三十年後を主張したが︑明治天皇は十年後の明治二十三年の開設を内決された

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国会開設の時期の決定は︑内閣元老院改革や参事院設置等の組織改革問題と関連していた︒岩倉は保守的 な憲法観をもっ黒田・山県・大木・山田との提携を強め︑三条伊藤西郷等の組織改革積極派の孤立化を謀っ た︒十月十一日の深夜︑岩倉は山田に大限罷免次第の報告方々︑明日の御前会議に関する申し入れを大木に

するよう依頼した︒大限と同じ佐賀出身の大木は︑薩長政府に批判的であっため︑大限と一一緒に追放される

予定であったが︑岩倉の手によって追放は免れた白十一日付岩倉の山田宛書簡では︑山田の大木訪問を岩倉

234 

(25)

から告げられた伊藤が﹁失念﹂ の様相になったことを記している︒

﹁前略︑只今伊藤︑西郷入来︑何人大限面談之次第万好都合に而︑異議なく辞表差出候旨に候︑御安心之為め一筆申

入候︑相時文大木参議事︑元より一点之異議無之義ハ確信候へとも︑同しく参議之列︑如此重事件内談不致訳無之に付︑

乍御苦労今日貴君御退出掛ケ行向之義︑伊藤へ申置候処︑ハタト失念之趣に付︑明早天御行向御談話之義依頼致候︑

右申入度如此候也

; z

︒ ﹂

岩倉は十二日早朝︑佐佐木と面談し︑大隈が民権家と結び陰謀を企てたことを天皇に申し述べることを依

頼した︒岩倉はそれを口実に組織改革を阻もうとしたが︑佐佐木は岩倉の意に乗らなかった︒

235 

﹁勿論大限の不坪は︑充分申上たる通りに有之候︑乍併︑今般は開拓使事件も有る事に付︑双方共極々大事なれば︑

還幸早々︑三大臣にて思召奉伺︑御慶断を以て一度参議を廃止︑更に組織を改正して後︑明々白々の御処分あり度申

述べたる事なるに︑昨夜の義は︑実に薩長の団結になりたる形にて︑甚だ遺憾なり︑乍去︑最早今日は致方無之に付︑

速に公明正大なる組織に致し︑無私なる事を天下に示すこと︑尤も急務なり︑其儀十分御尽力ありたし︑高行も其辺

は奏聞可仕なれ共

; 3

︒ ﹂

この日︑明治天皇は三大臣及び伊藤︑西郷従道︑元自と会談を重ね︑明治二十三年を期して国会を開設す

(26)

る勅論を三条太政大臣に下した︒自らの初志を貫徹した明治天皇は︑勅論で臣僚に国会開設に伴う組織権限

に関し天皇自ら裁定し公布するとした︒

﹁朕祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣き中古紐を解くの乾網を振張し大政の統一を総捜し又夙に立憲の政体を建て後世

子孫継くへきの業を為さんことを期す・・顧みるに立国の体国各宜きを殊にす非常の事業実に軽挙に使ならす我祖我

宗照臨して上に在り遺烈を揚け洪模を弘め古今を変通し断して之を行ふ責朕か拐に在り将に明治二十三年を期し議員

を召し国会を開き以て朕か初志を成さんとす今在廷臣僚に命し仮すに時日を以てし経董の責に当らしむ其組織権限に

至ては朕親ら哀を裁し時に及て公布する所あらんとす

; 4 0

236 

伊藤は政府内部の思想状況を﹁前代の遺老にして︑尚天皇神権の思想を懐き︑荷も天皇の大権を制限せん

とするが如きは︑其罪叛逆に等しと信ずる者﹂がある一方︑﹁彼のマンチェスタ!派の議論が全盛の時代に

於て教育を受け︑極端なる自由思想を懐抱せる有力なる多数の少壮者あり﹂︑政府の官僚には﹁彼の反動時

代における独逸学者の学説に耳を傾くる﹂者がいたとしている

; 5 0

十月十三日明治天皇は︑医僚のなかに制度改革に異論があっため︑大臣︑参議及び各省郷︑元老院正副議

長︑開拓長官等一一同を集め︑異例の強い語気の勅諭を下し︑国会開設に備えるよう命じた︒

﹁昨者詔命を頒ち明かに天下に一示すに朕か意を以てし将に歳を期して立憲の政体を挙行せんとす惟ふに維新以来中外

(27)

草創の事業施行方に半なる者あり百撲の鍍猶整頓を要する者多し爾群臣各々爾の事に従ひ経董周備将来継くへきの緒

を為し以て朕が命を対揚せよ

; 8 0

二十一日太政官職制章程の改正により内閣と諸省の分離制が廃止され︑参議省郷兼任制が復活した︒太政

官に参事院が置かれ︑内閣の命を受け法律規則の起草及び審査を管掌することになった︒参事院の議長に伊

藤が︑副議長に問中不二麿が就任し︑西国寺公望︑井上毅︑清浦肇五日︑伊東巳代治︑平田東助等の若手官僚

が諸般の準備に当ることになった︒

237 

おわりに 明治十四年十月十一日深夜︑廟議は筆頭参議大隈重信を免官とした世に言う明治十四年の政変は︑この年

の三月に大隈が英国風の国会開設を目論んで意見書を上奏したが︑北海道開拓使官有物の払下げに反対した

ため︑政府から追放されたと考えられてきた︒これまで大隈の意見書の上奏は︑有栖川左大臣に促され薩長

参議を出し抜く形で上奏したと見なされてきたが︑その真相は明治天皇の意向を受けたものであった︒

明治天皇は︑明治元年︑紫震殿にて﹁広く会議を輿し万機公論に決す﹂ことを天神地祇に誓い︑明治八年

に漸次立憲政体樹立の詔を下し︑明治九年には有栖川織仁親王を元老院議長に据え︑英国風の憲法草案を起

(28)

草させていた︒明治十四年三月︑大限が英国風議会の開設を上奏したのは︑明治十一年の竹橋事件での失態

を恥じ︑明治天皇の意向を受けて上奏したものであった︒明治十四年の政変の研究において︑大限の行動に

焦点が当てられ︑明治天皇の意向が無視されてきたため︑政変の真相が解明されなかった︒

筆者はこの点を踏まえて︑菱範錫氏が著書﹃明治

1

4 年の政変大限重信一派が挑んだもの﹄で指摘され

た四つの疑問に答えてみたい︒その第一の疑問である︑明治一四年﹁三月﹂︑大限が自身の憲法意見を表明

する際に︑伊藤と事前の協議を行なはなかったのは何故かという問題である︒大限は三菱を後援として福沢

内下の三回一派と結んで薩長勢力を駆逐しようと金てたとされているが︑政変前は長州の伊藤井上馨と蜜月

関係にあった︒特に三井の番頭こと井上馨は︑福沢とは親密な関係にあり︑その親密ぶりは福沢と井上馨と

の雑談から窺える︒

238 

﹁仮に国会開設後の有様を想像して︑政党は斯く分る﹀ならん︑其人物は誰れ彼れならん︑若し其党が政党を得たら

ば誰れが外務郷たらん︑彼れが内務郷たらん︑若し然るときは井上君は即ち一時落路の人なるぞ︑其時には君は一個

の国会議員にして議場に罷出で︑外国国際の事に付き前きの外務卿たる本員に於ては云々の見込など﹀述立る欺︑認

々面白き事ならん;﹂

大限と福沢は井上馨との間で︑国会開設の話を進めていたが︑それでは何故︑大隈は伊藤に相談しなかっ

たのか︒大限には国会開設問題において︑伊藤に相談できない事情があった︒明治十三年十二月に伊藤が上

(29)

奏した立憲政治に関する意見書では︑事が国体の変更に係ることで︑早急になすべきものではないとした上

で︑国会開設に当り︑何の国においても国民は政府に対して猪疑心を抱き官吏を敵視するようになるもので︑

その原因は概ね官吏の﹁濫用厚飲﹂にあるとした︒そのため伊藤は︑立憲の国は先ず﹁財政を広議するのこ

とを立憲の初歩とす﹂としていた︒当時の大隈には︑三菱への補助金問題や岩倉への情実など︑会計検査を

厳密にするとの伊藤の主張を容れる事が出来ない事情があった︒明治十四年の政変の研究史において︑伊藤

の意見書は大限の意見書に比べて評価が低いが︑伊藤の警告は百年の歳月を経た今日でも傾聴に値するもの

で あ

る ︒

次に第二の疑問点︑伊藤は何故︑三月の大限奏議を三ヶ月後の六月に至って問題化し辞意を表明したのか︒

これは︑大限との情実を優先させ奏議を黙認していた岩倉が︑伊藤に大限の奏議を引き出させ︑大限の奏議

に異議を唱えさせたからである︒大擦の奏議を見た伊藤は︑大限政権下での私政治が横行する現状では︑た

とえ大限が英国風の議会を開催しても︑瓦解するのは間違いなく︑否定的な立場を取らざるを得なかった︒

第三の疑問である︑大隈とは廟堂に並び立てないと強く辞意を表明していた伊藤が︑何故一週間ほどで手

のひらを返すように再び出仕したのか︒これは︑伊藤が明治天皇の留意により︑一日一は大限と有栖川との協

調姿勢を示したからである︒

最後に第四の疑問である︒大隈と一旦和解したはずの伊藤︑井上らが大隈一党駆逐の﹁政変﹂へと旋回し

たのは︑三条・伊藤・井上馨の国会開設派が︑開拓使官有物払下げ問題に対する大限の姿勢に不信を抱いた

からである︒これまで明治十四年の政変の説明として︑薩摩の開拓使長官黒田清隆が明治五年以来の開拓使

239 

(30)

の事業を同郷の五代友厚の関西貿易商会に払下げようとしたが︑大隈が反対したため政府から追放されたと

見なされてきた︒しかし︑これには事実の誤認があった︒払下げ問題において︑五代友厚の関西貿易商会と

の関係は︑黒田より大限の方が深く︑払下げを持ち掛けたのは大限であった︒更に大限は牧場工場の払下げ

に関連して︑岩倉の仲介もして居り︑払下げ問題を込み入ったものにさせた︒これだけの問題では︑大限は

政府から追放される事はなかった︒大限が政府から追放されるに至ったのは︑﹃東京横浜毎日新聞﹄に払下

げ問題の機密を漏洩したからである︒大限は﹃東京横浜毎日新聞﹄の沼関守一が三菱批判に向かうのを恐れ︑

矛先を払下げ問題に向けさせたのである︒払下げ批判は︑七月二十六日発行の﹃東京横浜毎日新開﹄に始ま

り︑各種の新聞雑誌が追従し︑各地で政府批判の演説会が行われた︒新聞紙上での黒田への批判は︑黒田の

怒りを貿い︑大限追放の急先鋒となった︒

筆者は本稿冒頭で︑明治十四年の政変の研究において︑鈴木安蔵氏の研究が的を射たものと次の言及を紹

介 し

た ︒

2 4 0  

﹁自由民権運動を明治政府が不穏視したのはもちろんであるが︑かの政商的財閥的な微温的自由主義も明治政府の容

認するところではなかった︒この派が英国の立憲君主制を讃美せるに対し︑明治政府の政権者たちは︑その範を旧独

逸諸邦特に旧プロシア︑バイエルンに求めたのである︒

明治十四年政変は︑岩倉によって代表された当時の諸参議のプロシア的方針と︑大隈によって代弁された財問的自

由主義との抗争の爆発とも言ひ得べく︑この政変によって英国的立憲主義の主張は廟堂内部より政治的に清算され終

(31)

っ た の で あ る ; ︒ ﹂

筆者は鈴木安蔵氏の見解に政変の真相を見るが︑細部に修正を要するものと考える︒その一つは︑明治十

四年の政変劇の意義を︑政府内部における国会開設推進派たる大隈岩倉井上馨の財問的自由主義の自己崩壊

と考える︒取分け欽定憲法下での国会開設を望んだ岩倉が︑積極的に財閥的自由主義を容認した事実は重要

で あ

る ︒

明治十四年十月十一日︑東北巡幸から明治天皇が還幸されると︑北海道開拓使官有物の払下げ中止と大隈

重信の参議解任が決定される︒翌十二日には勅論が発せられ︑明治二十三年を期して国会が開設される事に

なったのは︑明治天皇の強い意向があったからである白北海道開拓使官有物払下げ問題こそ︑大臣参議に譲

歩され中止となったが︑もし国会開催宣言がなされなかったなら︑如何なる事態に至ったであろうか︒

黒回が不測の事態に備え北海道の屯回兵を東京に呼び寄せようとしたのも︑大隈の勢力を恐れたからでは

ない︒大限追放後︑警視庁が厳戒体制を取ったのは︑財閥優先の薩長政府を排撃せんとする軍内部の勢力が

あったからである︒特に近衛兵においては︑予断の許さない状況にあった︒明治政府は官憲を用いて自由民

権運動を押さえ込む事が出来たが︑国民皆兵による軍隊は︑不平等な社会に対する一般大衆の不満の温床で

あった︒この構造は昭和十一年の二・二六事件まで変わることなく︑竹橋事件後に軍人訓戒が︑明治十四年

の政変後に軍人勅論が発っせられたのも偶然ではなかった︒

維新当初︑大限︑伊藤︑井上馨は︑前島密︑渋沢栄一︑山口尚芳︑五代友厚等とともに︑急進的な改革論

2 4 1  

(32)

を唱え頑迷な保守勢力と戦った︒明治四年︑岩倉は大久保︑木戸︑伊藤を率いて欧米視察に赴くと︑大限が

大蔵郷として留守政府を預かった︒この時︑政府内で内務省創設や国会開設の議論が起るが︑これは大蔵省

の権力と共和政治思想を牽制するために起きたものであった︒留守政府にあって︑開明派とされた左院副議

長の江藤新平が︑キリスト教的共和政治思想の流布を阻止せんと︑大蔵省と外務省の反対を押し切って教部

省を設立した事は︑皮肉な事であった︒大久保亡きあとの明治政府は︑大久保政権を支えてきた大限と伊藤

によって指導されるが︑大限は大久保時代の三菱の権益を擁護する一方︑五代友厚らとも殖産興業の振興に

努めた

D

開化政策の進展に伴い︑明治政府内部には﹁政商的財閥的な微温的自由主義﹂も芽生えたが︑財政

問題を機にその勢いは減退し︑やがて保守的思考が圧倒した︒

伊藤は政府内部の思想状況を﹁前代の遺老にして︑尚天皇神権の思想を懐き︑荷も天皇の大権を制限せん

とするが如きは︑其罪叛逆に等しと信ずる者﹂がある一方︑﹁彼のマンチェスタ i 派の議論が全盛の時代に

於て教育を受け︑極端なる自由思想を懐抱せる有力なる多数の少壮者あり﹂︑政府の官僚には﹁彼の反動時

代における独逸学者の学説に耳を傾くる﹂者がいたとしている︒

鈴木安蔵氏は政変の結果︑﹁伊藤が旧プロシア︑バイエルン等の立憲政治の実際と理論とに法的規準を求

めたのは︑畢克明治十四年の岩倉の憲法建白の継承であり︑完成であった﹂としているが︑筆者はこの見解

を全面的に支持するものではない︒この問題を言及するには︑新たに検一証しなければならない事柄もあり︑

次の筆者の課題として︑本稿の考察を終えることにする白

242 

(33)

第五章 註

前掲書︑﹃伊藤博文関係文書﹄玉︑西郷従道宛三条実美書簡︑明治

( 1

4 )

年 8 月

2

9 日 ︑

129 頁 ︒

前掲書︑﹃保古飛呂比﹄十︑

3 5

6 頁 ︒

﹃東京曙新聞﹄明治十四年九月三目︒

前掲書︑﹃保古飛呂比﹄十︑ 3631364

頁 ︒

﹃朝野新聞﹄明治十四年九月四日︒

平尾道雄﹃子爵谷千城伝﹄冨山一房︑昭和

1

0 年 ︑

5021503

頁 ︒

春畝公頒会﹃伊藤博文伝﹄中巻︑統正社︑

217 頁 ︒

前掲書︑﹃保古飛呂比﹄十︑

3 8

7 頁 ︒

前掲書︑﹃伊藤博文関係文書 1

﹄ 塙

書 房

︑ 1973

年︑伊藤宛井上馨書簡︑明治

1

月 4 年 7

2

7 日 ︑

165 頁 ︒

*10

大隈侯八十五年史会編﹃大隈侯八十五年史会﹄第一巻︑原書房︑昭和四十五年︑

838 頁 ︒

*11

同 右

839540

頁 ︒

*12

徳富猪一郎﹃岩倉具視公﹄︑民友社︑

1932

年 ︑ 249 頁 ︒

ネ 1

3 前掲書﹃伊藤博文関係文書﹄八︑塙書一房︑

1980

年 ︑

10516

頁 ︒

*14

前掲書﹃伊藤博文関係文書﹄三︑

101 頁 ︒

*  2 

*  3 

*  4 

*  5 

*  6 

*  7 

*  8  9 

243 

(34)

*15

前掲書︑﹃侯爵山県有朋伝﹄中巻︑

86415

頁 ︒

*16

同 右

︑ 8 6

5 頁 ︒

*17

前掲書︑﹃大限重信関係文書﹄四︑

38011

頁 ︒

*18

前掲書︑﹃伊藤博文関係文書﹄五︑伊藤博文宛三条実美書簡︑明治

( 1

4 )

1 月 0 6

目 ︑ 1 2

9 頁 ︒

*19

右向︑伊藤博文宛三条実美書簡︑明治

1

4 年

1 月 0 6

日 ︑ 1 2 9 頁 ︒

*20

前掲書︑﹃大隈重信関係文書﹄四︑

4 0

5 頁 ︒

*21

前掲書︑大隈侯八十五年史会編﹃大隈侯八十五年史会﹄第一巻︑原書房︑昭和四十五年︑

84819

頁 ︒

*22

前掲書︑﹃明治天皇紀﹄第五︑

53819

頁 ︒

*23

同 右

︑ 4 8

0 頁 ︒

*24

前掲書︑﹃伊藤博文伝﹄中巻︑

22314

頁 ︒

*25

前掲書︑﹃明治天皇紀﹄第五︑

5 4

5 頁 ︒

*26

前掲書︑﹃岩倉具視公﹄︑

2 5

5 頁 ︒

2

7 前掲書︑﹁岩倉具視日記﹂﹃大隈重信関係文書﹄四︑

4 0

7 頁 ︒

*28

前掲書︑﹃岩倉公実記﹄下巻︑ 7731774

頁 ︒

*29

前掲書︑﹃五代友厚秘伝﹄

2 3 8 頁 ︒

*30

向 右

︑ 2 3

7 頁 ︒

*31

前 掲

書 ︑

﹃ 明

治 天

皇 紀

﹄ 第

五 ︑

2 4 4   539140

頁 ︒

参照

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