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東北公益文科大学 総合研究論集

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Academic year: 2021

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ISSN  1 8 8 0 ‑ 6 5 7 0

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東北公益文科大学 総合研究論集

第 37 号

戦前「児童の権利」論者の戦後児童福祉法制に関する言説分析 

−菊池俊諦・田子一民・生江孝之に注目して ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹 原 幸 太 ・・・・・ 3

「児童福祉司」の質保証に関する議論についての一考察 

─2016年「児童福祉法」一部改正に向けての議論に着目して─ 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・白旗希実子 ・・・・27 学校段階別の勤労観・職業観の特徴 

─ ─「みやぎ仕事作文コンクール」受賞作文を対象とした計量テキスト分析から ─ ─ 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡 辺 伸 子 ・・・・47 日本における中学生・高校生を対象とした自己受容研究の動向 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡 辺 伸 子 ・・・・63 インターネット望遠鏡を使った食変光星U Sgeの多色測光 ・・・・・・・・山 本 裕 樹 ・・・・83 Teaching English Pronunciation in Compulsory Speaking Classes  

at the Tertiary Level in Japan ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Edmund Fec ・・・・97 欧州安全保障協力会議(CSCE)プロセスにおける 

周辺的問題の中心化と中心的問題の周辺化 

─紛争の平和的解決問題と地中海地域問題の変容を例として─ ・・・玉 井 雅 隆 ・・・103 CSRが当該日本企業の業績に及ぼす影響に関する実証研究 ・・・・・・・・倉 持   一 ・・・123 社会福祉人物史研究方法論の動向と展望 

─社会福祉従事者論の視点を中心に─ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐 藤 昭 洋 ・・・139 前田京美著・山岸常人監修『日輪兵舎 戦時下に花咲いた特異な建築』 

(鹿島出版会)の歴史的記述における誤謬について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・松 山   薫 ・・・157

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論集 37 号 執筆者一覧

竹 原 幸 太 本学教員(児童福祉論、司法福祉論)

白 旗 希実子 本学教員(教育社会学、専門職論)

渡 辺 伸 子 本学教員(心理学)

山 本 裕 樹 本学教員(物理学、素粒子理論)

Edmund Fec 本学教員(第二言語習得)

玉 井 雅 隆 本学教員(国際関係論、多文化共生論)

倉 持   一 本学教員(企業の社会的責任、経営戦略論)

佐 藤 昭 洋 本学教員(社会福祉施設史、社会福祉人物史)

松 山   薫 本学教員(地理学)

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研究論文

戦前「児童の権利」論者の戦後児童福祉法制に関する  言説分析-菊池俊諦・田子一民・生江孝之に注目して

竹原 幸太

1.先行研究と課題設定

(1)「児童の権利」思想史における子どもの権利擁護論の問い直し

 近年、深刻な児童虐待事件が続いたことから、2019(令和元)年6月に親の 子どもへの体罰禁止や児童相談所の体制強化を盛り込んだ改正児童虐待防止法、

改正児童福祉法が成立した。とりわけ、児童虐待防止との関わりで、「援助理 念」として子どもの権利擁護が強化されつつ、具体的な「援助制度」において は、虐待の未然予防・早期介入システムが強化されてきたことは別稿で論じた

(竹原2019a)。

 2000年代は成年後見制度も広く知られるようになり、「援助理念」として権 利擁護・アドボカシーという概念も一般的になってきている。しかし、成年後 見制度の具体的運用については、手続きの煩雑さ等、様々な課題もあり、2016

(平成28)年に新たに運用を促進するために「成年後見制度の利用の促進に関 する法律(成年後見制度利用促進法)」を制定する等、実践現場では比較的新 しい援助理念である「権利擁護」を具現化していくことに努力が重ねられてい る。

 これに対して、児童福祉領域では、戦前から適切な養育環境にない子どもの 成長・発達する権利を擁護する考え方は浮上しており、戦後、国内では児童福 祉法、児童憲章が制定され、国際的には1989(平成元)年に国連子どもの権 利条約が採択された。そして、日本も同条約を1994(平成6)年に批准したこ とから、1990年代後半から2010年代にかけて、全国の自治体で20を超える子 ども条例も策定されてきた(一場・半田2015)。

 しかしながら、意外なことに、児童福祉法は戦後に何度も改正を重ねたもの の、法理念を示した総則(1~3条)の改正は2016(平成28)年改正までなさ れてこなかったため、現場レベルで認識され、実践理念ともなっていた「子ど もの権利」は明記されていなかった。それゆえ、同改正で1条に「全て児童は、

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児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されること、その生活 を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発 達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有す る。」と子どもの権利保障を書き込んだことは画期的だったとされる(石原 2017:49-51)。

 このような児童福祉法制史を見た場合、子どもの権利擁護が明確な形で児童 福祉法上に位置づけられたのは2010年代となる。しかし、そもそも、戦前か ら児童保護の実践現場で「児童の権利」を説いた論者は、戦後児童福祉法制を いかに見ていたのかという疑問も浮かび上がる。すなわち、実践思想史レベル における「児童の権利」論の位置づけの検討も必要ではないだろうか。

(2)児童福祉法研究における「児童の権利」論の分析視角

 社会福祉研究においては、戦前社会事業と戦後社会福祉事業とを断絶して対 比させて論じる傾向にあったのに対し、吉田久一は戦後GHQ改革下で生成さ れた生存権を根拠とした福祉観は戦前の特に児童保護事業の現場にあったと指 摘し、戦前/戦後の断絶としてではなく、芽生えつつあった生存権が戦時体制 で後退・消滅を迫られ、戦後に再編成していったとする連続・継承の視点を提 起している(吉田1990:491)。

 周知のように、児童福祉法研究については既に一定の蓄積があり、古典的な 研究として小川利夫、小川政亮、寺脇隆夫ら児童福祉法研究会による労作『児 童福祉法成立資料集成 上・下』(ドメス出版、1978~79)、『続児童福祉法成立 資料集成』(ドメス出版、1996)が知られ、児童福祉法研究のバイブルとなっ ている。近時も同研究を軸にしつつ、児童福祉法成立過程で非行児処遇をめぐ る厚生省と司法省との一元化の議論からいかに行政統合の範囲が変遷・拡大し てきたかを分析した研究も現れている(駒崎2017)。

 また、児童福祉法の実施・展開過程については、児童問題史研究会監修『現 代日本児童問題文献選集Ⅱ(全42巻)』(日本図書センター、1983~1988)に 続き、『児童福祉基本法制Ⅰ・Ⅱ(全20巻)』(日本図書センター、2005)にお いて、戦後直後から1970年代初頭までの児童福祉事業の基本文献の復刊を通 じて再注目されている。

 これらの研究では、複数の児童保護・児童福祉法案の発掘・検討を通じて児

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童福祉法成立過程を実証的に検討しつつ(寺脇1978:64-76、1996:18-19)、

児童福祉法制定期の法理念の普及過程を明らかにすることが目的であるため、

戦前から現場で唱えられてきた「児童の権利」論がいかに継承されてきたかと いう観点からの分析ではない。

 こうした研究に対して、戦前「児童の権利」論者で知られる初代武蔵野学院 長の菊池俊諦(1875~1972)の子どもの権利思想の画期性を取り上げた石原剛 志は、先の吉田の指摘等に依拠し、戦前児童保護事業と対比して戦後児童福祉 法制で「児童の権利」論が位置づけられたとする通説を問い直し、戦前・戦後 との連続の中で「児童の権利」論を「再発見」すべきことを主張し(石原 2000、2005、2011)、筆者も石原の研究に依拠し、菊池の人物史研究で戦前児 童保護と戦後児童福祉の連続・非連続を検証してきた(竹原2015a)。

 さらに、石原は戦時中に伊藤清(厚生省児童局)や牧賢一(中央社会事業協 会)らの児童を国家の「人的資源」と見る立場と、菊池や高島巌(双葉園長)

らの児童を「一人格」として見る立場の対立があったことを指摘しつつ、児童 福祉法制定に深く関わった厚生省の松崎芳伸(1913~1997)による児童福祉法 の解説書『児童福祉法』(1948)では同法総則1条を「児童の権利」を規定し たもの述べつつも(後述)、同年の別稿「児童福祉の進路」厚生省児童局編

『児童福祉』では大河内一男の人的資源論の見解に依拠し、児童福祉を経済政 策と関連させて捉えていたことに注目し、松崎の児童観には戦中からの人的資 源論との連続性が内在している課題を指摘した(石原2011:143-145)。

 このように、従来の先行研究では、戦後改革を受けて基本的人権論が法的に 位置づき、児童福祉法制において「児童の権利」が位置づけられてきたとする 見方が前提となっていた。しかし、児童福祉法の解説書で「児童の権利」論に 触れた松崎でさえ、その児童観は実のところ人的資源論に依拠していた事実も あり、近時の児童福祉法研究では、「児童の権利」という用語を政策や解説書 レベルでのみ分析するのではなく、新たな分析視角として、「児童の権利」思 想史レベルでの検討が求められている。

 したがって、戦前「児童の権利」論者やその後継者が戦後児童福祉事業をい かに捉え、「児童の権利」を認識していたかの分析が不可欠であるが、現在ま でのところ、戦後児童福祉法制で「児童の権利」がいかに位置づけられ、戦前

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「児童の権利」論者がそれをいかに見たのかは十分検討されていない。

(3)本研究の目的と方法-戦前「児童の権利」論者の戦後児童福祉観の分析  筆者はこれまで、菊池俊諦の人物史研究において、彼の戦後の「児童の権 利」論の深化とその児童福祉観を明らかにした後、武蔵野学院関係者が菊池の 教護思想をいかに受容してきたのかについて、同院付設の社会事業職員養成所 で菊池の講義を受講して同院へ入職した、森鏡壽、宗像守雄、池田實道及び同 院で戦後活躍した石原登らの教護観に注目して分析してきた(竹原2015b、

2016)1。しかし、菊池の「児童の権利」論に多大な影響を与え、社会連帯思想 に基づく幸福追求事業として生活権保障を通じた社会事業を説いた田子一民や 同じく社会連帯思想や「児童の権利」を唱えた生江孝之の戦後の論考分析から、

彼等が戦後の社会事業改編をいかに捉えていたのか検討することを課題として 残していた。

 そこで、本稿では、戦前から児童保護実務で「児童の権利」を力説した菊池 俊諦を基点に田子一民、生江孝之の戦後の論考に注目して、彼等が児童福祉法 制をいかに認識していたのか、「児童の権利」思想史の観点から検討すること を目的とする。

 研究方法は、第一に戦後児童福祉事業形成期において、戦前児童保護事業が いかに描かれ、その実践知が継承されようとしていたのか児童福祉法の解説書 や主要論文を通じて検討する。

 第二に戦前に「児童の権利」論を力説した菊池俊諦を基点にしつつ、菊池が 特に依拠した田子一民、生江孝之に注目し、彼等が戦後の社会福祉事業、とり わけ、児童福祉法・児童憲章をいかに捉えていたのかを検討する。

 以上を通じて、戦後直後の児童福祉関連文献及び戦前「児童の権利」論者の 戦後の論考を比較検討し、児童福祉法制定期に戦前の「児童の権利」思想の遺 産がいかに継承されようとしたのか明らかにしたい。

 なお、本稿では時代的文脈に即して「児童の権利」、「子どもの権利」と表記 するが、その意味するところは同義である点を断っておく。

1 これらの研究については、国立武蔵野学院百周年記念誌において、再編して寄稿した(竹原2019b)。

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2.戦後児童福祉法関連文献の検討

(1)児童福祉法制定期の文献に見る明るい児童福祉と「児童の権利」の強調  児童福祉法制定期、同法の普及を目指して、松崎芳伸(厚生省児童局企画課 長)や山高しげり(婦人運動家・政治家)等、法制定に関与した人物により児 童福祉法の解説書が書かれてきた。参考まで、1951(昭和26)年に児童憲章 が策定され、児童福祉の充実が再びクローズアップされる前までの主な児童福 祉法関連書(地方への法令通達関係は除く)を整理すると以下の通りである

(表①)。

表① 児童福祉法制定期における児童福祉関連文献

文献名 発行年 備考

(執筆者・復刊有無等)

松崎芳伸『児童福祉法』日本社会事業協会 1948(昭和23)年3月 ・復刊有(2005)

厚生省児童局『児童福祉法とは』(小冊子) 1948(昭和23)年4月 ・復刊有(2005)

山高しげり編『こどものしあわせ-児童福祉法と

はどんな法律か』清水書房 1948(昭和23)年5月 ・復刊有(2005)

厚生省児童局『児童福祉』東洋書館 1948(昭和23)年6月 ・復刊有(1988)

・復刊有(2005)

○伊福部敬子『子供をまもる-児童福祉法の解説』

千代田出版社 1948(昭和23)年7月

○鈴木賀一郎『児童福祉法の話』草美社 1948(昭和23)年7月

厚生省児童局『児童福祉法関係法令通牒』厚生省 1948(昭和23)年9月 ・復刊有(2005)

○菊池俊諦『児童福祉の諸問題について』石川県

社会事業協力会 1948(昭和23)年10月

○亀海清『児童福祉法問答』雄文社 1949(昭和24)年2月 ・亀海は厚生省厚生 事務官

松崎芳伸『児童福祉施設最低基準』日本社会事業

協会 1949(昭和24)年3月 ・復刊有(2005)

厚生省児童局編『児童福祉法関係法令通牒(追録

Ⅰ)』厚生省 1949(昭和24)年3月 ・復刊有(2005)

日本社会事業協会『児童福祉事業運営の知識』日

本社会事業協会 1949(昭和24)年5月 ・復刊有(2005)

・小澤一が執筆 亀海清『児童福祉施設の財務』雄文社 1949(昭和24)年5月 ・復刊有(2005)

厚生省編『児童福祉のために』厚生大臣官房総務

課(小冊子) 1950(昭和25)年4月 ・復刊有(2005)

川嶋三郎編『児童福祉の諸問題』港出版合作社 1950(昭和25)年12月 ・復刊有(1988)

※国立国会図書館リサーチより検索(○は復刊無)

※1988(昭和63)年復刊は、児童問題史研究会監修『現代日本児童問題文献選集Ⅱ』(日本図書センター)

に、2005(平成17)年復刊は、『児童福祉基本法制Ⅰ・Ⅱ』(日本図書センター)に収録

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 同時期の文献の多くは、戦前児童保護事業が要保護児童対策を中心としてい た限界点を指摘した上で、総論として戦後憲法の下、文化国家を目指し、すべ ての児童を対象とした明るい児童の総合法として児童福祉法が誕生した画期性 を強調している。

 例えば、児童福祉の原理として同法総則1条「すべて国民は、児童は心身と もに健やかに生まれ、且つ、育成されるように努めなければならない。すべて 児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」との条文 について、児童の基本的人権を認めつつ〔松崎芳伸、亀海清は「児童の権利」、

山高しげり、浅賀ふさは「子供の権利(=子供も常に要求する権利をもってい る)」、伊福部敬子は「自由独立の人格」と表現〕、それを支える国民の(道徳 的)義務が指摘され、児童福祉事業を総合的に展開していくことが説かれてい る(松崎1948a:46-50、伊福部1948:36、山高1948:3-10、浅賀1948:95、

亀海1949:3)。

 また、同時期の文献は児童福祉法の画期性を強調しつつも、戦前児童保護事 業の到達点も一定程度、整理されている。

 この点は厚生官僚であった松崎が最も整理して記述しており、児童福祉法成 立過程において、要保護児童を対象とした児童虐待防止法、少年教護法、少年 法等を一括した「児童保護法要綱案」が政府から提案されたことに対し、中央 社会事業委員会からは要保護児童という暗い側面だけではなく、児童全般を対 象とした明るい側面も取り上げるべきとされ、「児童保護」から積極的な「児 童福祉」を図るための「児童福祉法案」(昭和22年1月25日)へと名称変更さ れてきたことを解説しつつ、戦前、既に生江孝之が1922(大正11)年独逸児 童保護法等に学びながら、普通児童と特殊児童の両者を対象とした児童保護事 業を提案していたことも紹介している(松崎1948b:8-13)2

2 山高も松崎と同様の点に触れ、特に「児童福祉法が官僚の手からのみ生まれたのではないこと」、

「(児童福祉法-筆者注)原案の作製にもこの度は多くの児童関係者、ことに婦人が母の立場で参加 していたこと」を取り上げている(山高1948:6-7)。もっとも、石原剛志が指摘したように、松崎 は児童保護史を概観しつつ、大河内一男の社会政策論に依拠して、児童政策を経済の外に置くか、

内に置くかの議論は「言葉遊び」に過ぎず、「私は、児童政策を、倫理的色彩からでなく、『経済関 係そのもの裡から、経済機構の必然的発展の裡から、基礎付け』ることによつて始めて児童政策の 進路が開けるのではないかと考えている」とし、「児童福祉法の規定は、あくまで経済循環の中への 志向をもつものである」と述べた(松崎1948b:46-48)。このように、上記の児童福祉法解説書で

「児童の権利」を述べた論者の間でも、その児童観には相違があることが確認できる。

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 その他にも、国際動向に学び生江が「児童保護の最低標準」(1919)を紹介 したことや独逸児童保護法の紹介を機に国内でも児童保護法から児童扶助法案 が議論されたことに触れる文献もあるが(松崎1948a:12、1949:12、日本社 会事業協会1949:50、川嶋1950:8)、当然ながら、戦前児童保護実務家が、

戦後にいかに「児童の権利」論を見ていたのか等の記述はなされていない。

(2)児童憲章制定期の厚生省関係者による児童福祉関連文献に見る児童保護 史記述の後退

 1951(昭和26)年5月5日児童憲章制定以降は、児童福祉の充実の気運が高 まり、厚生省児童局関係者により、児童憲章と併せて児童福祉法解説書が書か れ、川嶋三郎(厚生省児童局企画課長)、高田正己(厚生省児童局長)の解説 書はその後も厚生省関係者に参照された(石井ほか1998:130)。この時期の 主な文献は下記の通りである(表②)。

表② 1951(昭和26)年以降の厚生省児童福祉法関連文献

文献名 発行年 備考

(執筆者・復刊有無等)

川嶋三郎『児童福祉法の解説』中央社会福祉協議会 1951(昭和26)年10月 ・復刊有(2005)

高田正己『児童福祉法の解説と運用』時事通信社 1951(昭和26)年11月 ・復刊有(2005)

高田浩運『児童福祉法の解説』時事通信社 1957(昭和32)年8月 ・高田(1951)の改訂

厚生省児童局編『児童福祉十年の歩み』日本児童

調査会 1959(昭和34)年11月 ・復刊有(2005)

渥美節夫『わが国の児童福祉』日本児童福祉協会 1967(昭和42)年6月

※2005(平成17)年復刊は、『児童福祉基本法制Ⅰ・Ⅱ』(日本図書センター)に収録

 同時期の解説書でも、戦後児童福祉法制の画期性を描く前提として児童保護 事業の変遷が記述されている。

 具体的には国際動向としてエレン・ケイ(E.Key)の「20世紀は児童の世紀」

との主張から、1909(明治42)年ホワイトハウス会議、1924(大正13)年国 際連盟「児童の権利に関するジュネーブ宣言(以下、ジュネーブ宣言)」等が 整理され、国内動向として1900(明治33)年感化法〔1933(昭和8)年少年教 護法へ改正〕、1933(昭和8)年児童虐待防止法、1937(昭和12)年母子保護 法等の単一法の整備と児童愛護デーの実施等が示された後、戦後児童福祉法の

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画期性に光を当てている(川嶋1951:30-66、高田1951:3-8、高田1957:5-8、

厚生省児童局1959:6-14、渥美1967:32-40)。

 ただし、同時期の解説書の多くは戦前の文献引用が少ない共通性もあり、児 童保護史の記述は松崎の解説書『児童福祉法』の歴史部が孫引きされて再生産 され、しかも戦前に児童保護法の要求があったとする生江らの活動記述は徐々 にそぎ落とされ、その記述傾向は時代が後になるほど顕著となり、官僚解説の 性格が強まっていった(川嶋1951:18、高田1957:11、厚生省児童局1959:

17、渥美1967:34)3。こうした記述の背景には、戦後児童福祉行政関係者間で、

戦前社会事業を支えた人物の業績を知る者が減少してきたこととも相関してい るように思われる。

 以上のように、児童憲章制定期以降も戦前の「児童の権利」論の到達点の再 検討がなされることがなく4、むしろ、戦後児童福祉法の画期性を強調する史実 が一般化され、戦後児童福祉法制において「児童の権利」が確立したとする通 説が共有されてきたといえる。

(3)戦前少年教護・少年保護実務家の児童福祉関連文献への注目

 ここで注目されるのは、感化法(少年教護法)と少年法の管轄争いの中で総 合的児童保護法の要求が活発であった少年教護・少年保護領域の一線で活躍し た菊池俊諦(初代武蔵野学院長)、鈴木賀一郎(三代目東京少年審判所長)が 児童福祉法の解説書(小冊子)を著していた点である(表①)。

 これまでの児童福祉法研究では、戦後に活躍した厚生省関係者の児童福祉法 解説書と児童福祉法成立過程に関心が集中し、「婦人の権利」の観点からは、

3 高田正己の解説書において、児童福祉法1条2項「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛 護されなければならない」とする規定は「自然法的に存在する権利」と示された部分も(高田 1951:23)、後に同部分は憲法25条に保障される基本的人権の一態様としてのプログラム規定と解 釈され、「児童の権利」認識は後退していく(穴山1973:31)。

4 同時期、厚生省は児童福祉の動向をまとめた白書的位置にある小冊子『児童の福祉』を1953(昭和 28)年より発行し、その結実として『児童福祉白書』(1963)をまとめた(松原1988)。しかし、児 童福祉白書は1冊で終わり、翌年からは民間の日本子どもを守る会が子どもの権利保障に向けた『子 ども白書』を毎年発行するに至り〔1966(昭和31)年のみ発行されなかったが、以降、現在まで継 続〕、民間で子どもの権利論が唱えられていった。児童相談所の実務要領は、『児童福祉マニアル』

(1951)を底本に『児童相談所執務』を改定する形で変遷していった(柏女2006)。なお、『児童福祉 白書』の編集を担った児童家庭局長の黒木利克は白書の翌年、『日本の児童福祉』(良書普及会)を 著し、性別役割分業に依拠した保育観を示したことから論争を呼ぶ等(一番ヶ瀬1988)、当時の厚生 省の児童福祉観の限界も確認できる。

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GHQの方針で児童局実務に婦人(山高しげり、浅賀ふさ、植山つる、吉見和 江ら)が関わった画期性も焦点化されてきたが(加登田1988:12-14)、その 反面で、戦前少年教護・少年保護分野の先覚者である菊池、鈴木の解説書は埋 もれてきた。

 こうした背景には、単純に菊池、鈴木の文献が未発見であったこと、あるい は戦後に既に一線を退いていた菊池、鈴木の文献に価値が見出されていなかっ たこと等、幾つかの要因が考えられる。しかしながら、2000年代の児童福祉 関連文献の復刊においても、1980年代に復刊されていた文献が一部重複して 復刊される一方(表①)、菊池、鈴木の文献が検討外とされているのは、一線 を退いた戦前実務家の論調には価値が見出されず、戦後児童福祉法の画期性を 描く背後仮説が忍び込んでいたゆえのようにも推察される。

 「婦人の権利」運動と「児童の権利」運動を重ね、社会的排除状況にある 人々の権利保障に向けた実践史の観点からは、戦前に母子保護運動に関わった 山高しげり(別名 金子しげり)、伊福部敬子らの児童福祉法の解説書も興味深 いが、併せて「児童の権利」や総合的児童保護法が議論された少年教護・少年 保護領域の菊池、鈴木の文献は戦前・戦後の児童保護・児童福祉の連続性を捉 える上で重要な文献として注目される。

 なお、菊池と同様に不良化した少年への対応は「社会連帯責任で少年を導い て良くして行かなければならぬというのが今日の観念である」とし、「この観 念で世界各国人が少年を導いて行こう」とする例証として「ジュネーブ宣言」

を参照した鈴木(鈴木1936:132-136)の少年保護史における児童福祉法解説 書の位置づけについては、別に検討したので(竹原2019c)、以下では、菊池 を基点として、田子一民、生江孝之らの児童福祉観の考察を進めることとする。

3.戦前「児童の権利」論者の菊池俊諦が見た児童福祉法

(1)『児童福祉の諸問題について』以降に見る児童福祉観

 菊池俊諦は初代武蔵野学院長(1919~41)・厚生省嘱託(1941~43)として

「児童の権利」を力説し、戦後直後は石川県児童福祉審議会委員及び石川県社 会事業協力会調査研究部委員を務め、後者の活動を通じて1948(昭和23)年 10月に『児童福祉の諸問題について』石川県社会事業協力会(小冊子)を出版

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した。

 同書では少年教護法、児童虐待防止法、母子保護法、少年法等を統一した総 合的児童保護法制定の要求が戦前の児童保護の現場にあったことを回想しつつ、

戦前との連続の中で「児童の権利」や児童福祉法を捉えることを力説し(菊池 1948:9)、児童憲章制定期にも石川県の社会事業界において、児童福祉法・児 童憲章を歓迎し、それを戦前児童保護実務との連続から捉えるべきと実務家に 喚起した(菊池:1952:3)。晩年の手書き原稿においては、より直接的に下記 のように証言している。

 今までは特殊児童に限られていたが一般児童にも及んで広く深くその福祉を 増進することを目的とするようになった。(中略)唯ここで世人の注意を喚起 しておきたいのは、児童憲章や児童福祉法を大戦後の所産と考える人の多いこ とである。少年教護法時代において吾人同志は夙に児童の権利や世界児童憲章 や米の児童憲章の紹介につとめ、或はドイツの保護教育法や少年法や英国の幼 年者法等の紹介につとめたのみならず、我国の単行的児童法を改めて総合立法 とすることを要請した。精薄児童の問題にしてもその必要を論じその教育保護 を主張したのは大正の末頃であった。又校外教護法の制定を叫んだのも教護法 制定後間もない頃であった。一般児童も特殊児童も包括した児童保護法制の要 求は戦前既に存在したことは明らかな事実である。身体障害者の問題も高木

(憲次-筆者注)博士の主喝で多くの人も十分気がついていたことである。夫 れ故、児童憲章にしても福祉法にしても戦後米の押しつけで突然に出来たもの ではない。占領政治下の米国の支配国会議論等、種々なる戦後事情のあったこ とは言うまでもないが、之に到るまでの児童保護当事者の苦心を無視してはな らぬ(菊池1967:115-116)

 ただし、筆者が戦後の菊池の児童福祉活動を整理してみた限り(竹原 2015a)、菊池は安専寺住職を本業としていたため、その主張は石原剛志や筆者 らの研究がなされる近年まで日の目が当らない状況にあったと考えられる。

(2)「児童の権利」の論拠となる田子一民・生江孝之への注目

 戦後、菊池俊諦自体は児童福祉の一線を離れていたが、ここでは観点を変え

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て、菊池の「児童の権利」の論拠となった人物に注目してみたい。

 菊池は1926(大正15)年に武蔵野学院職員ら同志と共に児童保護協会を立 ち上げ、同協会の機関誌『児童保護』の「児童保護問答」等で1924(大正13)

年国際連盟のジュネーブ宣言に触れて「児童の権利」論を取り上げ、以降も

「児童の権利」論を唱えていった(菊池1929:90-92、1937:11-13)。

 菊池の論文では、依拠した文献名は上げていないが、筆者が照合したところ、

田子一民『社会事業』(1922:40)、生江孝之『社会事業要綱』(1923:208)、

賀川豊彦「子供の権利」児童保護協会編『児童保護』2巻7号(1927:17-18)、

倉橋惣三「社会的児童保護概論」長谷川良信編『社会政策大系 第八巻』大東 出版(1927:8-14)を参考としていることが確認できた。

 さらに、最後の著書『児童福祉百題』においては、「嘗て中央社会福祉審議 会委員長であった田子一民氏は、児童には生誕権、養育権、教育権があること を唱えられた」と述べており(菊池1971:54)、特に田子の『社会事業』で描 かれた社会連帯思想に基づく「児童の権利」論に依拠していたことが窺われる。

(3)菊池俊諦と田子一民、生江孝之の接点と戦後の社会活動履歴

 国立感化院長であった菊池は内務省関係者として直接、田子(当時、内務省 救護課長、後に社会局長)、生江(当時、内務省嘱託)に「忠言者」として社 会事業の教えを受けていた(菊池1936:56)5。つまり、学校教育界から転身し て新たに児童保護界に転じた菊池は、児童保護事業を所管する内務官僚であっ た田子、生江が唱えた社会事業観に学びながら感化教育実践に取り組んでおり、

彼等の活動接点時期を整理すると下記の通りとなる(表③)。

表③ 菊池・田子・生江の戦前実務上の接点時期

菊池俊諦 1919(大正8)~1941(昭和16)年、武蔵野学院長

田子一民 1917(大正6)~1922(大正11)年、内務省救護課長〔1922(大正11)年社会局長〕

生江孝之 1909(明治42)~1923(大正12)年、内務省嘱託

※生江孝之先生自叙伝刊行委員会(1958)、田子一民編纂委員会(1970)、竹原(2015a)より作成

5 菊池の還暦記念文集では、1922(大正11)年6月に伏見宮博恭王が武蔵野学院に訪問した際の写真 が掲載されており、田子、生江の二人の姿も確認できる。後年、菊池自身も当日の様子を回想して いる(菊池1936:63-74)。大正期に田子、生江が社会事業従事者養成の中心にいたことは言うまで もない(田子1920、生江1920)。

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 このように見た場合、菊池の「児童の権利」思想のいわば原型となる「権利 に基づく社会事業観」を唱えた田子、生江らが戦後の社会福祉界、とりわけ児 童福祉法制をいかに見ていたのかは興味深い。

 また、内務・厚生省で活躍した両者は戦後社会福祉界においても著名であり、

田子は中央社会福祉協議会初代会長を担い、生江は日本社会事業協会副会長を 担う等、中央で社会福祉活動に関与しており、その活動履歴を菊池の戦後の活 動履歴と比較して整理すると下記の通りとなる(表④)。

表④ 菊池・田子・生江の戦後の社会活動履歴(児童福祉関連)

菊池俊諦 1948(昭和23)~1950年代初頭、石川県地方児童福祉委員会委員、石川県社 会事業協力会調査研究部委員〔前者は1949(昭和24)年児童福祉審議会へ改組、

後者は1951(昭和26)年石川県共同募金会へ改組〕

田子一民 1951(昭和26)~1959(昭和34)年、中央社会福祉協議会会長〔1953(昭和 28)年全国社会福祉協議会へ改組〕

生江孝之 1946(昭和26)~1950(昭和25)年ララ救護物資中央委員会委員、1947(昭 和27)~1951(昭和26)年日本社会事業協会副会長

※生江孝之先生自叙伝刊行委員会(1958)、田子一民編纂委員会(1970)、竹原(2015a)より作成

 以上を見てもわかるように、菊池に比べ、田子、生江は戦後の社会福祉界に おいても一定の影響力を有していたことが確認できるが、先行研究では、両者 の人物史は描かれてきたものの(生江孝之先生自叙伝刊行委員会1958、田子 一民編纂委員会1970)、戦前社会事業と比較して戦後社会福祉事業をいかに認 識していたのかは十分検討されてこなかった。

 そこで、以下では田子、生江が戦前社会事業を踏まえつつ、戦後の社会福祉 事業をいかに見ていたのか検討する6

6 菊池は戦前・戦後一貫して田子を引用している。参考まで、田子の死後に出版された自伝『田子一 民』の回想記を確認した場合、内務省時代の仕事の一つとして国立教護院(武蔵野学院)の設置を 紹介しているが、そこでは国立救護院と誤植され、小河滋次郎の業務に触れているのみであり(田 子一民編纂委員会1970:171)、菊池との交流については確認できない。また、田子のご遺族(孫)

に田子の所持した資料や書簡について尋ねたところ、空襲で資料の多くが消失し、交友関係等につい てもほぼ自伝で総括されているとの回答であった〔2013(平成25)年11月3日開催「第50回企画展

『田子一民-東北振興と社会福祉に尽くして』シリーズ講座② 家族の見た田子一民」(於盛岡市先人 記念館)の翌日、同講座講師の田子弘氏へのヒアリングより確認〕。また、生江も死後に、自伝『我 が九十年の生涯』が出版され、内務省嘱託を務めた1909(明治42)年から1923(大正12)年までの 活動記述もあるが(生江孝之先生自叙伝刊行委員会1958:90-117)、武蔵野学院や菊池との接点の記 述は見当たらない。さらに、同志社大学図書館所蔵の「生江孝之文庫」を調査したところ、菊池俊 諦『武蔵野学院二十年史』(1941)、菊池俊諦氏還暦記念祝賀会編『菊池俊諦氏還暦記念文集』(1936)、

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4.田子一民の社会連帯思想に基づく「権利」としての福祉観の連続性

(1)個々の生活権保障か家族国家観の強化か

 田子一民(1881~1963)は1922(大正11)年に初代内務省社会局長を務め た後、政界へ転出し、社会事業界では大正期に著書『社会事業』において、社 会連帯思想に依拠して、ライフサイクルの観点から幸福追求事業として社会事 業を論じた人物として知られている7

 もっとも、その評価をめぐっては、今日の社会福祉観にも通ずる先見性を含 み、「日本社会事業思想史の記念碑の一つ」(吉田1989:473)として積極的に 評価する見解がある一方で、社会連帯思想に基づく社会事業観は幸福追求とは いえ天皇制家族国家観に立ち、救済される権利を否定するものとの見解もあり

(木村1964:80-81)、評価が分かれるところである。

 1990年代以降の研究においてもその評価は分かれており、『戦前期社会事業 基本文献』(日本図書センター)の26巻として『社会事業』が復刊された際、

改題を担当した笛木俊一は、戦後の『社会事業』誌上の対談(後述の「対談覚 え帖」)で、田子は社会連帯思想の典拠を忘れる一方、「私達の社会」という意 識を奮い立たせるべく、家庭学校の講演で牧野英一が説いた「最後の一人の生 存権」に依拠して社会事業を論じたという証言から、田子の社会事業観のキー ワードは社会連帯思想よりも「最後の一人の生存権」にあり、それが家族国家 観の中で論じられる日本式社会事業論であったと分析している(笛木1995:12)。

 他方で、2000年代に入ると高石史人は、田子が社会事業界に身を投じてい たのは内務省入局の1917(大正6)年から政界に転じる1922(大正11)年まで であり(表③)、田子は政治家となってからの活動の方が長く、また政治家に 転身したのも困った人を救済するのは官僚よりも議員の方が貢献できるという 理由からであったこともあり、田子を社会事業理論家として捉えることには限

菊池俊諦『感化教育に於ける諸問題』(1934)が、それぞれ順に1945(昭和20)年5月17日、29日、

6月29日に同館へ寄贈されており、戦後早い段階に菊池の著作が手放されたことも確認した。

7 田子は人間のライフサイクルに即して、一「出生自由(幸福)事業(胎児保護事業)」、二「成育自 由(幸福)事業(児童保護事業)」、三「職業自由(幸福)事業」、四「生活自由(幸福)事業(防貧 事業・救貧事業)」、五「精神自由(幸福)事業(教化、矯風)」という5大事業を掲げて整理した上 で、「よく生れ、よく養われ、よく教育せられ、よい職業を得て、社会生活の楽しみを得て行くには、

生活自身の幸福、自由を得なければならない」と述べており(田子1922:40)、菊池はこの見解を

「児童には生誕権、養育権、教育権があることを唱えられた」と解釈した(菊池1971:54)。

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界があり、むしろ、「民本主義的『大正デモクラシー』の子の一人として」見 るのが妥当であると分析している(高石2000:16-18)。

 高石の指摘を踏まえれば、田子の社会福祉観、あるいは人間観に迫る上では、

著書『社会事業』の解釈を深めるだけでは不十分であり、政治家に転身してか らの論考分析が必要不可欠であろう。

(2)戦中期の論考に見る政治家としての「原初的」ヒューマニズム

 これまでの田子一民に関する先行研究では社会福祉に携った時期よりも長い 政治家時期の文献分析はあまりなされていないが、政治界では、田子は原敬の 精神を引き継いで岩手から出馬し、高橋是清との僅差で敗北した選挙が有名で ある。

 1928(昭和3)年衆議院選挙初当選後、田子が政治家として目指したのは原 の目指した民本主義の精神を反映した議会政治であり、満州事変でファシズム が忍び寄る時期には『嵐に直面する政党』(1933)を出版し、「ファシズムは社 会の為めの個人のみを認め、個人には自由、権利あることなく服従のみとして 居」り、「立憲政体の廃止、議会政治、自治制度の廃止を意味する」とし(田 子1933:68)、こうした「議会否認、独裁政治の如きは、我が欽定憲法治下に 行はれるべきでないと断言することを憚らないのものである」と述べている

(同前:76)。

 翌年には別稿でも同書について「現代に於ける日本政党論であり、ファシズ ムに対する立憲政体論である」と明言し、「今の日本は、狂人が盲人を案内し て居る感がある」とし、内務省時代(大正8年頃)に外遊して日本に戻ると

「世は戦争景気に酔って居るが、その後に来る社会不安は、まざまざと目に見 え(中略)、官僚は、各省権限の争奪に熱中し、而も、社会大衆の為めに幸福 をもたらすことを忘れて居るのに心を痛めさせられた」とファシズム体制を批 判している(田子1934:30-31)。

 田子は戦局が悪化する1939(昭和14)年12月、衆議院副議長に就任し、

1941(昭和16)年12月には衆議院議長に就任したこともあり、戦後は戦時中 の政治に関わっていたことから、1947(昭和22)年11月に公職追放となった。

 吉田久一は戦時厚生事業下に社会連帯思想はなしくずし的転向が図られつつ も、社会事業家個々の目の前の対象者への救済活動を見た場合、思想以前の

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「原初的」ヒューマニズムも確認されることを指摘しているが(吉田1989:

503-504)、少なくとも、戦時体制に飲み込まれつつある1930年代の政治状況 を批判する田子の論調には政治家としての「原初的」ヒューマニズムが確認で きる。

(3)戦後期の論考に見る社会連帯に基づく権利観

 1950(昭和26)年10月に公職追放が解除され、翌年1月中央社会福祉協議 会初代会長に就任すると、田子は内務省時代の回想や今日の社会福祉の雑感を 執筆した(田子一民編纂委員会1970:645-660)。

 同時期、厚生省社会局が編纂した『社会局参拾年』にも寄稿しており、大正 期の社会事業界を振り返りながら、戦争への防波堤となる日本国憲法等が整備 される動きを辿り、「若し政府も、政治家も、積極的に社会改良を断行し、精 神生活、経済生活を安定し、すべての人に幸福を与え、最後の一人の生存権を 守るならば戦争の悲劇を避け得たであろう」と回想している(田子1950:12)。

 また、『東北公論』誌においては、「新憲法は福祉国家の憲法である。国民の 生活権を規定した憲法である。(中略)生活保護法も、児童福祉法も、身体障 害者福祉法も斯くして生まれたのである」と戦後憲法構造を述べつつ、「かか る空気の裡に、『5月5日』には児童憲章が制定された。憲章は親達の信条ばか りでなく、国民全体の心得」であり、「法律以前の法律である」と児童憲章の 位置づけも解説している(田子1951:16)。

 さらに、雑誌『社会事業』では「対談覚え帖」の第3回に登場し、「しいて 昔と今の相違を探せば昔の人は情熱を傾け自分の一生をかけてこの仕事にうち 込もうといういわば熱と意気一本槍のやり方であったが、今は非常に科学的に なって経営の管理とか対象の研究とか、同じ情熱にしてもその情熱を入れる方 向が異なり、科学的にな」り、「社会連帯の責任」において社会福祉制度が整 備されて、援助技術が専門化されてきた戦前との相違を指摘する。

 他方で、「気の毒な人々を救おうという情熱がなければ、この仕事は出来な い」という共通性も併せて指摘している(田子1952:33)。

 以上のように、田子は家族国家観に依拠しつつも、大正デモクラシーの空気 を吸い込み、著書『社会事業』において、個々の生活権保障を求め、ファシズ ム体制に対しては政治家としての「原初的」ヒューマニズムの表出とも見える

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発言があった。戦後も引き続き、幸福追求・生活権を主張する中で児童福祉法 や児童憲章を捉えるその福祉観は戦前との連続性が見出せ、戦後から「権利に 基づく福祉観」が生じたとする立場とは異なることが確認できる。

5.生江孝之の児童保護史実に基づく社会事業観

(1)社会事業家としての一貫性と戦前児童保護事業の回想

 生江孝之(1867~1957)は、プロテスタントとしてキリスト教精神を基軸に、

著書『社会事業綱要』において、国際連盟委員会委員長を務めたフランスの政 治家レオン・ブルジョア(L.V.A.Bourgeois)の社会連帯思想に依拠して社会 事業を論じた人物として知られ、その社会事業観は田子同様「日本社会事業成 立の一里塚」として高く評価されてきた(吉田1994:140)。

 日本女子大学時代に直接、生江孝之の講義に触れ、『社会福祉古典叢書4生 江孝之集』(鳳書院)で改題を担当した一番ケ瀬康子は、版を重ねた『社会事 業綱要』の改訂点を整理した上で、生江は究極的には人類愛の覚醒の必要性を 説き、戦時中にもその観点がぶれなかったと指摘している(一番ヶ瀬1983:

421)。

 これらの指摘のように、生江の場合は戦前・戦中・戦後を通じて、被援助者 の観点に立った社会事業観を提起しており、戦後は日本社会事業協会副会長等 を担った。また、論文では社会事業の歩みを詳細に論じており、児童福祉法成 立期には、雑誌『社会事業』で「我国児童保護事業の発展過程とその動向(其 の一~三)」(1947)を著し、戦前児童保護の史実を詳細に回想している。

 同論文では児童保護関連の発展過程を描く中で、明治期に社会問題化した棄 児取扱において政府は「極度の緊縮主義、排貧主義」であったことを批判し、

「棄児は何等の罪もなく、養育を受ける権利さえ有する。国家はこれらの保護 教養に対し徹底的にこれに当るべき責務を有する」と大正期に自らも唱えた

「児童の権利」論が児童保護の現場で説かれていた点を指摘している(生江 1947a:29)8。続いて、大正期の立法の動きとして、1919(大正8)年に社会事

8 大正期、生江は貧困家庭の児童が小学校令の就学免除規定を受け、義務教育から疎外されている現 状を憂い、「教育の機会均等を与えよとは、我邦児童の要求であり、児童は之を要求するの権利があ る」と述べて、就学猶予・免除規定の撤廃を主張し、教育権保障として「児童の権利」論を唱えて おり(生江1925:19-20)、菊池も同様の見解を示していた(菊池1927:2)。

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業調査会においてアメリカの母子扶助法を参考に国内でも母子扶助法を議論さ れたことを挙げている。その上で、当時同案は時期尚早と退けられるも、アメ リカで同法が充実したこともあり、1926(大正15)年に政府より「児童扶助 制度に関する件」が諮問され、後に「児童扶助法案」と解題されたが、結局、

他領域の立法と均衡をとるとの理由で成立には至らなかった(一とんざを招い た)点を指摘し(生江1947c:11-12)、単行法として対応していた児童保護立 法から総合法となった児童福祉法の背景が史的に描かれている。

 また、1933(昭和8)年少年教護法制定運動についても触れ、少年教護院へ の入院対象規定において「適当ニ親権ヲ行フモノナキ者」の文言が制定時に

「適当ニ」が削除された事実に触れ、これは「親権万能的な慣習に譲歩した痕 跡」だとし、児童福祉法時代においては、「児童の権利」の観点にも立ち、親 権万能の見直しを要望している(生江1947b:20)。

 さらに、1948(昭和23)年の社会事業を振り返る座談会(参加者 今岡健一 郎・田尻俊郎・塚本哲・生江孝之・山本一雄・松島正儀・牧賢一・谷川貞夫)

でも、児童福祉の議論において、最初は聞き役に回り「沈黙を守っていた」も のの、話題が戦前来から「何十年となく声を大にして強調していた」民生委員 と児童委員の分離に及ぶとその分離を再び強調し、児童福祉法と少年法の対象 をめぐる大正期以降の司法省と厚生省の「縄張り争い」についても、「文化的 法律として好評ある児童福祉法」に少年法を統合・一元化を目指すべきとし、

「我々がこのために猛運動しても一元化せねばならぬ」と力説した(座談会 1948:42)。

 このように、生江は戦前児童保護事業の歩みとその到達点に即しながら、戦 後児童福祉法制に対して発言していることが確認できる。

(2)社会福祉従事者の「人格」への期待

 田子一民に続いて、生江も雑誌『社会事業』の「対談覚え帖」の第4回に登 場し、戦前社会事業と比較して戦後社会福祉事業の諸課題について語っている。

 先ず、生江は田子や中川望(内務省衛生局長)の協力を得て、アメリカの少 年裁判所やニュージーランド、オーストラリアの社会保障制度の視察等を通じ て世界の社会事業を学んだことを回想しつつ、聞き手により、生江が「自分の ために金を費やす」のではなく「人のために」費やす「古風な社会事業家」で

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あることが強調されている。

 続けて、ケースワークの導入等、社会福祉の科学化が進む中、「今は悪くす ると技術と科学で万事足れりと思うのは矢張り間違と思い、公的社会事業にも 人格を中心にしなくてはできないと思れます」と述べ、社会事業の後進世代に 向けて、「技術と科学とを超えた精神」を持つ重要性を説いた(生江1953:65、

68)。

 同時期の相田良雄(内務省嘱託)の追悼論文においても、戦後の社会福祉関 連の法整備と援助技術の進化を評価しつつも、戦前の社会事業実務家のような 事業を支える「人格」を見失わないように注意喚起しており(生江1954:57)、

戦前社会事業を回想しながら、田子と同じく、社会福祉制度が未整備の時代の 社会事業家の熱意や人格を継承するように力説したことが確認できる。

6.結論-戦前児童保護事業と戦後児童福祉法制との連続性認識

 以上、「児童の権利」という用語を戦後の児童福祉政策や児童福祉法解説書 から辿った場合、松崎芳伸の児童福祉法解説書には戦前児童保護事業の歩みと その遺産が記述されていたものの、その後の厚生省関係者の解説書では、児童 保護史の記述は年々そぎ落とされ、そうした記述が戦前児童保護と戦後児童福 祉との非連続的見解を助長し、戦前児童保護事業と対比させて戦後児童福祉法 制で「児童の権利」が位置づけられてきたとする通説を作り出してきたことが 確認された。

 しかし、田子一民や生江孝之の戦後の論考を分析してみた場合、「生活権保 障としての社会事業観」(田子)や「少年保護と児童保護との一元化問題」(生 江)等の戦前社会事業で唱えた視点を軸として、児童福祉法成立期に強調され た「児童の権利」論や児童福祉法に少年法を一元化すべきといった議論を戦前 社会事業の歩みとの連続で認識していく意識的発言も見られた。

 とりわけ、生江は児童福祉法に至るまでの沿革を「我国児童保護事業の発展 過程とその動向(其の一~三)」(1947)で詳述し、大正期に「児童の権利」論 が説かれたことや児童保護立法の拡充に向けた動きがあった史実も紹介した上 で、戦前児童保護事業の不備をカバーするものとして児童福祉法を認識してい ることが確認できる。

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 そして、内務官僚の田子や生江の「児童の権利」論を感化・教護実務で吸収 し、児童保護の現場で「児童の権利」を軸に一般児童を含めた総合的児童保護 法を要求した菊池俊諦の場合、より直接的に戦後児童保護実務との連続性から 戦後児童福祉法制を捉えることを喚起しつつ、児童福祉法の骨格が戦前児童保 護実務の中に存在したと明確に主張しており、この点が田子と生江とは異なっ ていた。その背景として、実際の児童保護実務経験の有無こそが、戦後児童福 祉法制ないし「児童の権利」認識の違いに影響していたと推察でき、菊池は国 立感化院長として内務官僚の「児童の権利」論を現場解釈し、実践反映させた 位置にいたと理解できる。

 もっとも、児童福祉の実践範囲は広範にわたり、本稿では総合的児童保護法 の要求が活発であった教護領域の菊池俊諦を主軸に検討している限界もある。

したがって、「児童の権利」思想史の観点から、教護界全体での議論、さらに 養護、保育、障害、母子保健等の領域とも共同研究を展開し、児童保護全体の 議論を俯瞰しつつ、従来の児童福祉法研究の通説で埋もれていた戦前「児童の 権利」論者の戦後児童福祉法制に関する言説を体系的に明らかにしていくこと が今後の課題である。

※本研究は科研費(基盤研究(B)課題番号19H01587)の研究成果を反映し たものである。

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24

田子一民(1933)『嵐に直面する政党』東京講演会出版部

田子一民(1934)「其の頃の思い出に出発して」『岩手公論』3巻1号 田子一民(1950)厚生省社会局編『社会局参拾年』同局

田子一民(1951)「日常雑記」『東北公論』4巻6号

田子一民(1952)「3回対談覚え帖 社会福祉事業は生涯の仕事」『社会事業』

35巻12号

田子一民編纂委員会(1970)「田子一民年譜」『田子一民』同会

寺脇隆夫(1978)「解題 第三部法案要綱・法案及び成立法」児童福祉法研究会 編『児童福祉法成立資料集成上巻』ドメス出版

寺脇隆夫(1996)「解題 児童福祉法成立前後の新資料をめぐって」同編『続児 童福祉法成立資料集成』ドメス出版

生江孝之(1920)「児童保護」『静岡県開催内務省社会事業講習会講演記録』

生江孝之(1923)『社会事業綱要』巌松堂

生江孝之(1925)「児童の権利」『社会と教化』2巻5号

生江孝之(1947a)「我国児童保護事業の発展過程とその動向(其の一)」『社会 事業』30巻4・5号

生江孝之(1947b)「我国児童保護事業の発展過程とその動向(其の二)」『社 会事業』30巻6・7号

生江孝之(1947c)「我国児童保護事業の発展過程とその動向(其の三)」『社会 事業』30巻8号

生江孝之(1953)「4回対談覚え帖 外国の社会事業と日本的な社会事業」『社 会事業』36巻1号

生江孝之(1954)「相田氏と私-社会事業八十年の歩み』『社会事業』37巻6・

7号

生江孝之先生自叙伝刊行委員会編(1958)『生江孝之先生口述 わが九十年の生 涯』日本民生文化協会

日本社会事業協会(小澤一)(1949)『児童福祉事業運営の知識』日本社会事業 協会

笛木俊一(1995)「田子一民『社会事業』の解題」『戦前期社会事業基本文献26  社会事業』日本図書センター

(26)

松崎芳伸(1948a)『児童福祉法』社会事業協会

松崎芳伸(1948b)「児童政策の進路」厚生省児童局編『児童福祉』東洋書簡 松崎芳伸(1949)『児童福祉施設最低基準』日本社会事業協会

松原康雄(1988)「『児童の福祉』解題」児童問題史研究会監修『現代日本児童 問題文献選集39 厚生省 児童の福祉』日本図書センター

山高しげり(1948)「児童福祉法を語る」同編『こどものしあわせ-児童福祉 法とはどんな法律か』清水書房

吉田久一(1989)『吉田久一著作集1 日本社会福祉思想史』川島書店

吉田久一(1990)『吉田久一著作集3 改訂増補版 現代社会事業史研究』川島書店 吉田久一(1994)『全訂版 日本社会事業の歴史』勁草書房

※虚堂生は菊池の筆名である〔菊池の筆名は、竹原(2015a)を参照〕。

※日本社会事業協会(1949)『児童福祉事業運営の知識』は、まえがきで小澤 一が執筆したと記載している。

(27)
(28)

研究ノート

「児童福祉司」の質保証に関する議論についての一考察

─2016年「児童福祉法」一部改正に向けての議論に着目して─

白旗希実子

1.はじめに

 2016年「児童福祉法」一部改正における第13条の主な改正点は、児童福祉 司の数(第2項)・スーパーバイザー(指導及び教育を行う児童福祉司)の数

(第6項)に関する項の新設、スーパーバイザーに関する項(第5項)の新設、

社会福祉主事ルートへの講習会に関する記述の追加(第3項第5号)、児童福祉 司への研修に関する項の新設(第8項)等である。

 橋本(2019)によると、当該職業の初期研修は「高等教育と現場業務との架 け橋として重要な質保証の仕掛けともなるが、同時にその狭間にあるため、大 学教育─専門職集団─国家から成るアクター群の思惑と方略が複雑に絡むこと になる」という1

 また、統一的な養成ルートの確立は、「量」的な補充・選抜・統制を行うこ とを可能とすると同時に、当該職業従事者の一定の「質」を担保することを可 能とする2。しかし、児童福祉司の任用資格取得過程は多岐に渡るため、職業従 事者の「質」をどのように担保するのかが、1つの論点となると考えられる。

 「児童福祉法」改正に向けて議論がおこなわれた「社会保障審議会 児童福祉 部会 新たな子ども家庭福祉のあり方に関する専門委員会」(以下、子ども家庭 福祉専門委員会)の委員長であった松原(2016)は、2016年の改正を振り返り、

児童福祉司の増員、スーパーバイザーの配置は意義のある改正であり、児童相 談所・市町村における子育て支援拠点ともに「担い手の確保・養成」が1つの 課題となると述べている3

 2016年の一部改正に向けては、主に「子ども家庭支援を担う専門職の資格 化」「専門職の配置・任用要件の見直し」という論点において、第13条関連の

1 橋本鉱市編著『専門職の質保証』玉川大学出版部、2019年、p.4。

2 白旗希実子『介護職の誕生』東北大学出版会、2011年、p.19。

3 松原康雄「子どもの命と成長発達を守る─新たな子ども家庭福祉のあり方に関する専門委員会報告書 と児童福祉法等改正を踏まえて─」『子どもの虹情報研修センター紀要』NO.14、2016年、pp.1-12。

参照

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