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李洪林著『中国における四種の主義』(続)

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(1)

翻 訳

凡例 の翻訳は本誌第七五号に掲載した李洪林著『四種主義在中国』の後半部分ある。翻訳に際し、以下の方針

ぞんだ。

(1)原文が横書だが、翻訳は縦書にした(本誌編集委員会の要請による)

(2)原文中の数字はすべ漢字表記なの、翻訳そのまま漢字表記にした。

(3)文中の( )は原文のままある。訳者による用語の説明は[ ]に入

(4)原文は引用文の典拠脚注形式すが、翻訳引用さた文節の後に*印た。

(5)上記引用文の翻訳は、李洪林の文意に反しない判断した場合には、入手できる限り既存の翻訳使用し、そ

の旨上記注記に補足した。

李洪林著『中国における四種の主義』 (続)

翻訳

・ 解説

 

小   竹   一  

(2)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

中国における四種の主義

李洪林

目次 著者の声明

 四種の主義が並存る――中国のある国情(序に代え

 1.封建主義

   革命のそのものの烙印

   自然経済

   専制主義

   義を重んじ利んじ、思想

 2.資本主義

   発展の不足

   過早な消滅

   資本主義の再認識

   二つの制度の関係[以上、『久留米大第七五号]

 3.社会主義[以下、本号]

   古いモデル新しい試み

   普遍的な貧窮、永遠の闘争

   中国の特色ある社会主義

   歴史が必ず通るき道

   社会主義の再認識

 4.共産主義

(3)

翻 訳    空想から科

   歴史の教訓

   現実

   身辺

 5.中国改革の背景

 後記

3.社会主義

 社会主義の中国における勝利は資本主義の中国における消滅時に進行した。大体のことをえば、一九五六年

に中国は社会主義国家に変化したのある。

 しかし、二三十年おったにもかからず、結局のところ社会主義が何かとは過去には決し

なかったから、回り道むことなった。

 現在も当然ながら完全に明瞭になったはいえない。社会主義という制度は過去に地球上に存在したことがなく、

実践においえず経験るしかないからでただ、現在は要るに過去に比べより明瞭になっ

る。の明瞭さは容易に得られるものないが、一般的にいえば、マル主義の思想路線にもとづき中国の実際

正確に認識すべきである。そしてことを達成しようとすれば思想解放し、現実的に真理追究[原語:実事求

是]しなければならない。つまり、第一にソ連モデルへの盲信べきであり、第二に「一に貧窮、二に闘争」

う「社会主義」底的に放棄すべきであり、第三に、より困難だろうが、マル主義のいくつかの古い結論

(4)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

べきである。

   古いモデルと新しい試み

 一九一七年のロシア十月革命は世界最初の社会主義国家創設した。それはごく自然に圧迫さた民族人民の

希望になった。中国革命が勝利しら、「一辺倒」[社会主義の側に全面的に加担し、資本主義を顧みないう意

味の標語]の方針のもとで国民経済回復し、同じく「一辺倒」の方針のもとで第一次五カ年計画定した。当時

の中国人はソ連の理論を学るばかりく、直接ソ連人の指導のもとで進行した。多くの国家機関

文化部門にはソ連から派遣さ専門家が顧問いた。国際的実務(政府の実務共産党の実務も無条

件に「一辺倒」だった。

 いう歴史的背景現実的条件のもとで、中国人が知るなった社会主義はひとつのモデル、つまりソ連モ

デルだけだった。

 のモデルの基本的特徴は高度の集中ある。

 一、生産手段の全面的公有化。公有化は二つの等級に分かれている。つまり、低級の集団所有制高級の全人民所

有制ある。全人民所有制とは国家所有制ある。

 実は生産関係の作用はそれが生産力に適合るか否かだけにより決定さる。いかなる状況公有制が私有制よ

りも先進的あり、また全人民所有制がかならず集団所有制よりも優越しいうのは全然ないのある。そ

れでも中国人はまさにあの整然一的な公有化モデル私有経済挙に消滅させしまった。実

(5)

翻 訳

際には中国の経済は単に後進的るばかりく、さらに生産力の発展水準がきわ均衡、多層的な経済構

成に適応させることを強く要請しいた。

 、高度に集中した管理体制の特徴は第一の特徴から派生るものある。国家が生産手段の主人ある以

上、当然の理屈、国家が全国の経済なる。実はれもソ連人の発明なかった。マル

主義の理論による、社会主義と資本主義の区別のひとつは計画経済が競争生産の無政府状態に取っこと

ある。計画経済指導[指図う意味]には、おのずから統一した経済計画があるべきである。

度に集中した管理体制が必然的に要求さあるれこそレーニンが述べたころだが「国家経済機関全体

一つの巨大な機構に、数百万の人々が一つの計画に指導さような仕方活動る経済有機体に転化こと

――これこわれわれの肩にかかっいる巨大な組織上の任務ある」

  『列寧選集』第三巻四五五頁[訳文はレーニン「戦争講和についの報告」(一九一八年三月七日)、邦訳版『レーニン

全集』第二七巻(大月書店、一九五八年)、八四

-八五頁、による]

 実際には国家が所管のは全人民所有制経済の「人・財・物」「供給・生産・消費」ばかりなく、集団経済

の生産さえも――農業の栽培計画配方針のように――すべ管理さことになる。

 経済上の集中るのは、政治上高度の集中統一ある。

 現代国家、わけ社会主義国家に、管理体制における適当な集中は、国内経済の発展政局の安定に有利

、国際的地位の向上に有利ある。けれども過度の集中は有害、それは地方、企業および個人の積極性束縛し

まう。さらに現代の経済生活は多くの事が入り組んたご複雑になり、国家が大なるらに複雑に

なり、つの中心からすべ手配しようと考えるのは根本的に不可能なのある。した高度に集中した管理

(6)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

体制のもとで、ある誤った挙動が造りだした混乱は、自発的な市場メカニズムが生みだした混乱よりもいっそう重

大になることがありうる。点は、一九五八年計画の鋼鉄生産量の指標(年産一〇七〇万トン、一九五七年の二

ある)が全国の経済生活にもたらした[大躍進の]災難の結果思い浮かべただけ、明瞭になる。

 三、国家の工業化国民経済の高速度の増加るために「高蓄積・低消費」の方針実行る。そ

工業の優先的発展」、工業製品農産物の鋏状価格差価格シェーレ]の拡大、さらに中国後にいっそう増加

「生産が先、生活が後」などの政策いる。いう方針の本質は労働者の生活水準の切り下げあり、より

多くの国民収入出し再生産過程へ投入ことにより、拡大再生産実現し、社会主義の経済的実力迅速に

増強ものだった。

 高度に集中した体制のもとでういう方針の実行は可能あり、また有効だった。ソ連中国、何度か

の五カ年計画におい工業の基礎、自前の国民経済体系歩的に樹立ことになった。

 しかし、いう方針の代価は高ぎたし、後に生じる結果も重大なものだった。それは国民経済の比例失調さ

せ、労働者の積極性ない、経済停滞招いた。統計数字かなり高い増加速度出現させることがとは

いえ、経済効率はむしろ高くならなかった。それは大量の滞貨、浪費および無益な労働覆い隠した。さらに多くの

製品は最終的に消費過程に入る以前に生産額度も計算ことでの数字にはかなり多くの水増しが含ま

いた。表面からみる、それは生産んじ、消費抑制しとてもうまくりくりできているようだった。もと

より生産が消費決定ことをわかっるが、消費がかえっ推進させるのある。当然ながら、消費

の増加は生産の増加上回ることはきず、そうなければ危機こすだろう。だが、もし生産が消費から

離し、さらには消費の圧迫価にならば、そもまた危機こすだろう。生産費は社会の生産過程

(7)

翻 訳

相互に依存たつの側面なのだから、有機体の新陳代謝のように、の側面が失調し、永続は不可能

になる。

 おおよそ第一次五カ年計画の期間(一九五三~一九五七年)には、中国人は主にソ連モデルにもとづい社会主義

実行した。

 実は中国共産党員は独立思考をできるし独立自主れなかった。以前に教条主義の損害いたから

る。一九四二年の延安整風は教条主義に反対し、書物から解放さとともに、ソ連人の指揮からも解放さこと

になった。中国人民解放戦争の勝利はまさに独立思考の結果だった。ただ建国以降の大規模な経済建設の指導は確か

に経験いたからこそ、ソ連モデルけいことになった。第一次五カ年計画がきわきな成績

実に獲得したことは、肯定しなければならない。だが中国の国情は他国の国情局は異なり、中国社会主義を

設しようとすらかに民主革命じく、中国の実際から出発しなければならず、中国の道

達成できるのある。

 実際にソ連モデルにもとづい済建設展開した時に、中国人はすでみずからの道の探策開始し

た。 一九五五年後半から一九五六年春にかけ中国の社会主義改造は繰り上げ実現した。さらにその方はソ連

異なっいた(小農間的形式に集団経済へ移行させ、私人の資本主義経済に対し平和的な有償

の国有化実行した)の勝利は中国人がみずからの道信念大幅に向上させた。一九五六年四月、毛沢東

は「十大関係」の問題提起した。彼は、重工業面的に発展させる方針真正面から対決し、農業軽工業

いっそう発展させるべきだと提起し、集中統一面的に強調し地方、企業および個人の利益る弊害真正

(8)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

面から対決し地方企業により多くの権力たえるともに個人の利益に注意し各方面の積極性

うに提起した。これこそ中国人がソ連モデルの欠陥識し、社会主義建設の道におい独立思考

ことを予知しいた。

 独立思考う方法は非常に必要なものだった。「十大関係」の提起から「二種類の矛盾」「人民内部の

矛盾」「敵対矛盾」の区分)ま、理論的観点思想傾向だけについえば、いずれも伝統的モデル

離脱し中国の社会主義の道独立にあった。

 スターリンの公式によれば、社会主義建設が発展階級闘争がま尖鋭になる。そし毛沢東の新しい

観点は彼くらか異なっいた。一九五六年九月に開催さた中国共産党第八回代表大会は、大規模な階級闘争が

基本的に終結し、生産力の発展要な任務とす正式に宣言した。これは中国が現代化の道むひとつの好機

だった。 残念ながらこの機会は事実にならずに、翌年には大規模な階級闘争により葬り去られてしまった。

 一九五七年に拡大化した反右派は政治におい人民の民主的生活に重大な打撃与え、人々は普遍的に異なる

意見語らなくなった。これこそ以後の重大な誤りに対る思想的条件準備した。上級がとにかく考えたり

話したりすべ賛ばかりけ取り、いっそう熱烈な反響こすために、のいっそう熱烈な反響

がむしろ上級の熱気らに増加ことになった。一九五八年の「大躍進」はういう空気のもとで出現したの

ある。 積極的な面から言えば、一九五八年は中国がみずからの特色なえた社会主義の道歩もうと企図した年だっ

た。の年に開催さた中国共産党第八期代表大会第二回会議は「大いに意気込み、高い目標目指し、多く・速く・

(9)

翻 訳

立派に・ムダなく社会主義を建設る」総路線定した。の「総路線」の推進により、「社会主義建設の大躍進」

「人民公社化の高まり」が出現した。――これらを「三面紅旗」[三本の赤旗の意]総称した。

 けれどもの試みは失敗した。根本的原因は客観的な経済法則に反したことで。新しい道もうと企図し

失敗したことは、さししいことでない。ただ当時回想、ロマンティシズムの色彩充満させ

いえる。歴史る活動においマンティシズムの役割排除できないのは、歴史の創造者が思想

し感情人だからある。けれどもロマンティシズムが多すぎるうえ冷静な科的頭脳を欠く、災難

だすことがある。あの頃、生産力の面、高い指標気ままに決め、人の主観能動性発揮させさえすれば、客観

条件に依存ことなく、奇跡創造できみなしいた。たとえば、一九五八年の鋼鉄生産量の指標になった

一〇七〇万トンは一九五七年の鋼鉄生産量の五三五万トンを二倍したものある。の主観主義的な指標はあらか

に実現できるものなかったが、そ発動し全民製鋼[全人民による鋼鉄生産]をすなった。鋼は

精錬さとなく、鍋はかえったくさん壊さことになった(製鋼に向けるそ多くの原料がなく、

うど農民が食事のために公共食堂に集中させられていたの、ある地方は製鋼の原料にしようと農民の鍋

させた)。生産関係の面、生産手段の公有化の水準為的に引っ張り上げさえすれば、共産主義へ入ることが

できみなした。当時は成立しか二年の高級農業生産合作社が一気に人民公社化さた。一九五八年八月の

中共中央「農村に人民公社る問題に関る決議」はつぎのように言う。「共産主義の国における実現は、

もはやはるかな将来の事態なくなった。われわれは人民公社の形式極的に用し、共産主義へ移行る具体

的な経路索しなければならない」当時は単一の全人民所有制共産主義へ移行できみなし

こで人民公社の集団所有制が全人民所有制へ移行る期限早ければ三、四年、遅く五、六年定した。

(10)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

、中国は数年以内に共産主義社会へ入るはずになった。

 実は当時の中国の生産力が社会へ提供できる消費物資は、温飽[基本的生活維持いう水準にさえ到達せ

ず、まし共産主義の「各人の必要に応じ」などにもならなかった。

 いう物質的条件のもとで発動さ「大躍進」「人民公社化」、生産力に重大な破壊もたらし

より豊富な消費物資

創造しなかったばかりか

、逆に元来の財貨が浪費さ

れて しまう なった

えば

一九五八年に農村は「腹らませ食う」ばかり、まったく不足した食糧いっそう使いるま

食べしまった。「全民製鋼」が破壊した樹木にいたっ統計をすべもない。

 当時の中共中央は問題発見しるように努力した。しかしながら派生的な問題是正るのに「三面紅

旗」の肯定、そのうえ次の公式に結局は従っいた。つまり「成績は指九本分[九割「欠点は指一本

一割]これで何の役にも立つとはなかったくに一九五九年の廬山会議がまたも「彭徳懐の右

傾機会主義に反対る闘争」、事態はま悪化した。本当は「左」傾に反対しなければならなかっ

たのに、会議が始まるとむしろ右傾に反対した。本当はさらに民主的にならなければならなかったのに、ろいっ

そう意見かなくなった。その結果、誤りは正さなかったばかりか、かえっ「正確な路線」に変ことになっ

につづいて、「反右傾」の闘争う風がかさね国に吹くことになった。だが人は食事をする必要が

あり、食事は食糧によっわれるのある。生産いう実際問題は、ほら吹反右傾」のは解

るものなく、回避できなかった。一九五九年から一九六〇年への変り目に「右傾機会主義に反対る」闘争

が全国勝利して深化しる時にそ、三年間の困難が始まったのある。中国人民はそのせいな代価

払ったのある。

(11)

翻 訳    普遍的な貧窮、永遠の闘争

 「大躍進」の方法による社会主義の建設が重大な挫折被った後に「指九本分指一本分」の公式打破し、実

事求是経験いったん総括し「左」傾切実に是正しれば、一九六〇年以降の中国の歴史はまったくことな

るありさまになっただろう。残念ながらこようにせずろ誤りお天道さまになすりつけ「自然災害」だと

称した。結局、経済工作「調整、強固、充実、向上」の方針実施し、破壊さた国民経済に回復したも

のの、政治思想におい「左」傾の誤りは発展し続けた。

 一九六二年の中国共産党第八期十中全会が重要な一里なった。の中央委員会全体会議は、社会主義の全歴史

的段階に二つの階級二つの道の闘争が存在し、さらにの永遠に止むことない闘争「基本路線」規定

断定した。

 、中国に二つの平行しない軌道が出現し、政治思想の軌道が経済建設の軌道からはずれなった。

当初は、政治思想は経済に干渉ことなく、それぞれ自分のことをいたからこ、経済には進歩がみられ

た。けれどもした状況は永続るはずがなかった。ひとつながりの列車が根本的に平行しない軌道で運行さ

れている、そのう事が起るはずだった。

 本当はある社会の経済、政治および思想は協調すべきであり、上部構造は経済的土台に奉仕しなければならない。

もし相互に連関うならば、両者はどか一方に拠る必要がある。上部構造改造しようとすれば経済的土台に

適応させるし、経済的土台破壊しようとすれば上部構造に「適応」させる。だが、経済的土台の破壊とはどういう

意味か? は社会的生存の物質的条件破壊ことなのある。そし質的生活条件、社会は

(12)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

滅亡はずある。、およそ経済的土台破壊る政治的な力は、最終的に自己崩壊のだが、そ

敗北に経済に巨大な損失あたえ、社会全体に災難をもたらすはずある。

 六十年代の中国うした災難てきた。一九六六年、平行しない軌道を運行してきた列車はついに転覆し

た。政治が経済圧倒したのある。そ数年のあいだ辛苦かさね経済の回復発展のために行ってき

一夜のう「資本主義の道なり「反革命修正主義」になっしまったれを拡大し

建国以来十七年の「革命的左派」の好みにあいあらゆるものがすべ批判の対象になった。

 の転覆は十年におよぶ「文化大革命」「文化大革命」一種の極左の「社会主義」が形成さ

れた

 の「社会主義」は五十年代にソ連から導入した社会主義と異なっいた。ただそれも天から然降ってきたもの

く、そ何年かの発展の結果だった。そは継承もあば創造もあった。およそソ連モデルの欠点はいず

れも継承さた。たとえば高蓄積、低消費、過度の集中的管理、さらに所有制における単純化した処理、および実際

ゆる公有制の高度な形式の追求などは、留保なく受け継がれさらに発展みた。ただし、

極左の「社会主義」のいっそう重要な二つの特徴は、中国の大地から出てきたのある。すなわち、第一に「窮」

あり、第二に「闘」ある。これはそ何年かの「左」傾の誤りの悪性発展の結果ある。

 普遍的な貧窮はの「社会主義」の出発点あり帰結ある。富むと「修正主義」に変はずだからある。だ

から生産力発展させる必要はないうえみながきわ窮な時期利用し生産関係を「一大二公」[規模が大

い公有制ざす標語]へただに移行させようといる両極分化」けるためには、平均主義の分配制

実行しなけれならない。

(13)

翻 訳  生産の発展に努めようとしないのだから、階級闘争の進行に力なる。社会うだけ不十分な

ら、共産党内に「資本主義の道実権派」しだそうとする。国内闘うだけ不十分なら、世界えず帝

国主義と闘い、修正主義と闘い、各国の反動派と闘い、これを「帝・修・反る」略称した。

 以外にもほかの特徴もある。たとえば知識不要し、文化し、愚昧革命の象徴とするなど

も、すべその独特の特徴ある。

 の「社会主義」は中華民族に十年続いた災難をもたらした。もともと中国は貧窮なのに、その結果、闘争

貧窮になり、貧窮になるほ闘争し、国家崩壊の瀬戸際へ追いった。事実は世界にお

社会主義のイメージをひど損なった。

 まさに中国がの「社会主義」のドラの音も馬もっくりかえる大騒ぎの時期に、世界技術革命が進行し

つつあった。多くの国家域が、第二次大戦中に重大な破壊被った日本済がもともと未発達だった一部の地

含め、資本主義に固有な矛盾の悩みけ出さなくも、六十年代から七十年代にいずれもいゆる「経済的

離陸」実現したのある。

 マル主義が世に問われて以来、社会主義は各国の支配階級の圧迫被ってきはいえ。広大な大衆が

思いせる対象だった。それがすばらしい生活味しいたからある。けれども、の極左の「社会主義」は

ろ普遍的な貧窮ことのない闘争ずからの特徴し自負いた。無知蛮がここくる

これは思いよせてきた多くの人々を間違いなく大いに失望させ、当然さらにもとからそに反対し

をひど喜ばせることになった。なぜならこした「社会主義」は他人の反対待つまなく、そ体がも

はや名誉をないつくしいた。大衆がの「社会主義」に対し敬遠しるまいいるのに、そ

(14)

李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)

つけられる人がいるだろうか?

 一九七六年四月五日に北京発生した天安門事件は「四五」ばれるが、人心を深く得いた周恩来

るだけなく、中国人民があの極左モデルの「社会主義」の放棄決心した大デモンストレーションだった。

 「分に安んじ己守る」伝統のある中国人は、我慢しきれなくなるま街頭に出るはずがなかった。まし

化大革命」中のあの封建ファッショ式の「全面独裁」は、大衆る面なん行ってきていた。しかしな

がら数百万の大衆が意外にも期せずし共に天安門広場へ向かったことは、あの極左の「社会主義」がもはや人心

完全に失っとを明らかにしいる。

   中国の特色ある社会主義

 「四五」が鎮圧さとはいえ、もはや歴史の歩みは阻めなかった「左」の恐るべき権威はの鎮圧をと

おし、大衆の眼中すでに昔日の威厳を完全に失い、もはやきなくなった。

 中国は新しい軌道に変る必要があった。だが、の新しい軌道が何かは、誰にもそなかった。

歴史的要求実現るためには、新しい権威が必要だった。だが、権威の交代は以前から非常に困難ある。古い権

威は歴史が投棄したのあり、新しい権威は同じく歴史が選択べきなのある。

 人事の交代にともなっ、中国はついに一九七六年十月[毛沢東夫人の江青らの「四人組」が失脚した]以後に歴

史的転換の関門にいたった。ただ、今後の道のように歩のかう見方は一致しなかったの、二年間は

徘徊した。

(15)

翻 訳  ある人[華国鋒のこと]は毛沢東の晩年の誤り堅持し「プロレタリア階級独裁下の継続革命の理論」の指導の

もとで、「左」傾の道歩み続けようとした。さらにいう観点にもとづいて「四人組」はやはりひどく右より

あり、「右がもっ右になっいけないはずだ」。つまり今後歩は「文化大革命」よりももっ「左」けれ

ばいけないいうのある。

 らかに、これは中国徹底的な崩壊へ導くはずの道ある。

 一九七八年末に開催さた中国共産党第十一期三中全会はの路線放棄し、中国現代化した社会主義強国

る路線確定した。これこそ中国に歴史の転換点をもたらした。新しい時期が始まった。新しい時期の社会

主義は、伝統的なソ連モデルなく「大躍進」の際のロマンティシズムなく、また「一に貧窮、二に闘争」

の極左モデルなかった。今は中国の特色ある社会主義とよばれている。

 の社会主義の細部はまだ明瞭はいえない。施工の設計図はまだないし、した設計図はありえないから

る。それは中国人民の実践そ、しだいに創造ことが

 けれどもまた盲目的な手さぐりなかった。

 新しい社会主義に青真はないとはいえ、それでも最も重要な基準がある。つまり生産力の発展に有利

ある。やや具体的にいうと、つまり、人民の富裕福に有利、国家の興隆発達に有利とである。およ

の基準に適合ことは正しいのあり、行っかなければならない。およその基準に違反ことは、そ

れがいばどれりよく、どれいる誤っいるのあり、行っなら

ない。 の基準は、通俗的な言い方によば、やはり[平が一九六〇年代前半に提起した]あの名言のように「白ネ

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