翻 訳
凡例 この翻訳は本誌第七五号に掲載した李洪林著『四種主義在中国』の後半部分である。翻訳に際しては、以下の方針
でのぞんだ。
(1)原文が横書きだが、翻訳は縦書きにした(本誌編集委員会の要請による)。
(2)原文中の数字はすべて漢字表記なので、翻訳でもそのまま漢字表記にした。
(3)文中の( )は原文のままである。訳者による用語の説明は[ ]に入れた。
(4)原文は引用文の典拠を脚注形式で示すが、翻訳では引用された文節の後に*印を付けて注を入れた。
(5)上記引用文の翻訳は、李洪林の文意に反しないと判断した場合には、入手できる限り既存の翻訳を使用し、そ
の旨を上記注記に補足した。
李洪林著『中国における四種の主義』 (続)
翻訳・ 解説
小 竹 一
彰
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
中国における四種の主義
李洪林
目次 著者の声明
四種の主義が並存する――中国のある国情(序に代えて)
1.封建主義
革命のそのものの烙印
自然経済を崇拝する
専制主義
義を重んじ利を軽んじ、思想で処罰する
2.資本主義
発展の不足
過早な消滅
資本主義の再認識
二つの制度の関係[以上、『久留米大学法学』第七五号]
3.社会主義[以下、本号]
古いモデルと新しい試み
普遍的な貧窮、永遠の闘争
中国の特色ある社会主義
歴史が必ず通るべき道
社会主義の再認識
4.共産主義
翻 訳 空想から科学へ
歴史の教訓
現実と理想
身辺と足元
5.中国改革の背景と前途
後記
3.社会主義
社会主義の中国における勝利は資本主義の中国における消滅と同時に進行した。大体のことをいえば、一九五六年
までに中国は社会主義国家に変化したのである。
しかし、二、三十年おこなったにもかかわらず、結局のところ社会主義が何かということは過去には決してそれほ
ど明瞭でなかったから、回り道を歩むことになった。
現在も当然ながら完全に明瞭になったとはいえない。社会主義という制度は過去に地球上に存在したことがなく、
実践においてたえず経験を蓄積するしかないからである。ただ、現在は要するに過去に比べてより明瞭になってい
る。この明瞭さは容易に得られるものでないが、一般的にいえば、マルクス主義の思想路線にもとづき中国の実際を
正確に認識すべきである。そしてこのことを達成しようとすれば思想を解放し、現実的に真理を追究[原語:実事求
是]しなければならない。つまり、第一にソ連モデルへの盲信を打破すべきであり、第二に「一に貧窮、二に闘争」
という「社会主義」を徹底的に放棄すべきであり、第三に、より困難だろうが、マルクス主義のいくつかの古い結論
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
を突破すべきである。
古いモデルと新しい試み
一九一七年のロシア十月革命は世界で最初の社会主義国家を創設した。それはごく自然に圧迫された民族と人民の
希望になった。中国革命が勝利してから、「一辺倒」[社会主義の側に全面的に加担し、資本主義を顧みないという意
味の標語]の方針のもとで国民経済を回復し、同じく「一辺倒」の方針のもとで第一次五カ年計画を制定した。当時
の中国人はソ連の理論を学習するばかりでなく、直接ソ連人の指導のもとで建設を進行した。多くの国家機関と経済
文化部門にはソ連から派遣された専門家が顧問としていた。国際的実務(政府の実務と共産党の実務を含む)も無条
件に「一辺倒」だった。
こういう歴史的背景と現実的条件のもとで、中国人が知ることになった社会主義はひとつのモデル、つまりソ連モ
デルだけだった。
このモデルの基本的特徴は高度の集中である。
一、生産手段の全面的公有化。公有化は二つの等級に分かれている。つまり、低級の集団所有制と高級の全人民所
有制である。全人民所有制とは国家所有制と同一である。
実は生産関係の作用はそれが生産力に適合するか否かだけにより決定される。いかなる状況でも公有制が私有制よ
りも先進的であり、また全人民所有制がかならず集団所有制よりも優越しているというのでは全然ないのである。そ
れでも中国人はまさにあの整然として画一的な公有化モデルを信じこんで私有経済を一挙に消滅させてしまった。実
翻 訳
際には中国の経済は単に後進的であるばかりでなく、さらに生産力の発展水準がきわめて不均衡で、多層的な経済構
成に適応させることを強く要請していた。
二、高度に集中した管理体制。この特徴は第一の特徴から派生するものである。国家が生産手段の主人である以
上、当然の理屈として、国家が全国の経済を管理することになる。実はこれもソ連人の発明ではなかった。マルクス
主義の理論によると、社会主義と資本主義の区別のひとつは計画経済が競争と生産の無政府状態に取って代わること
である。計画経済を指導[指図という意味]するには、おのずから統一した経済計画があるべきである。こうして高
度に集中した管理体制が必然的に要求されるのである。これこそレーニンが述べたところだが、「国家経済機関全体
を一つの巨大な機構に、数百万の人々が一つの計画に指導されるような仕方で活動する経済有機体に転化すること、
――これこそわれわれの肩にかかっている巨大な組織上の任務である」 *。
*『列寧選集』第三巻四五五頁[訳文は、レーニン「戦争と講和についての報告」(一九一八年三月七日)、邦訳版『レーニン
全集』第二七巻(大月書店、一九五八年)、八四
-八五頁、による]
。
実際には国家が所管するのは全人民所有制経済の「人・財・物」と「供給・生産・消費」ばかりでなく、集団経済
の生産さえも――農業の栽培計画と分配方針のように――すべて管理されることになる。
経済上の集中と適応するのは、政治上でも高度の集中統一である。
現代国家、とりわけ社会主義国家にとって、管理体制における適当な集中は、国内経済の発展と政局の安定に有利
で、国際的地位の向上に有利である。けれども過度の集中は有害で、それは地方、企業および個人の積極性を束縛し
てしまう。さらに現代の経済生活は多くの事が入り組んでごたごたと複雑になり、国家が大きくなるとさらに複雑に
なり、ひとつの中心からすべてを手配しようと考えるのは根本的に不可能なのである。こうした高度に集中した管理
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
体制のもとでは、ある誤った挙動が造りだした混乱は、自発的な市場メカニズムが生みだした混乱よりもいっそう重
大になることがありうる。この点は、一九五八年計画の鋼鉄生産量の指標(年産一〇七〇万トンで、一九五七年の二
倍である)が全国の経済生活にもたらした[大躍進の]災難の結果を思い浮かべただけでも、明瞭になる。
三、国家の工業化と国民経済の高速度の増加を実現するために「高蓄積・低消費」の方針を実行する。それには「重
工業の優先的発展」、工業製品と農産物の鋏状価格差[価格シェーレ]の拡大、さらに中国で後にいっそう増加する
「生産が先、生活が後」などの政策を含んでいる。こういう方針の本質は労働者の生活水準の切り下げであり、より
多くの国民収入を捻出して再生産過程へ投入することにより、拡大再生産を実現し、社会主義の経済的実力を迅速に
増強するものだった。
高度に集中した体制のもとでは、こういう方針の実行は可能であり、また有効だった。ソ連でも中国でも、何度か
の五カ年計画において工業の基礎を築いて、自前の国民経済体系を初歩的に樹立することになった。
しかし、こういう方針の代価は高すぎたし、後に生じる結果も重大なものだった。それは国民経済の比例を失調さ
せ、労働者の積極性を損ない、経済停滞を招いた。統計数字ではかなり高い増加速度を出現させることができたとは
いえ、経済効率はむしろ高くならなかった。それは大量の滞貨、浪費および無益な労働を覆い隠した。さらに多くの
製品は最終的に消費過程に入る以前に生産額を何度も計算することで、この数字にはかなり多くの水増しが含まれて
いた。表面からみると、それは生産を重んじ、消費を抑制して、とてもうまくやりくりできているようだった。もと
より生産が消費を決定することをわかっているが、消費がかえって生産を推進させるのでもある。当然ながら、消費
の増加は生産の増加を上回ることはできず、そうでなければ危機を引き起こすだろう。だが、もし生産が消費から遊
離し、さらには消費の圧迫を代価にするならば、それもまた危機を引き起こすだろう。生産と消費は社会の生産過程
翻 訳
で相互に依存するふたつの側面なのだから、有機体の新陳代謝のように、どちらの側面が失調しても、永続は不可能
になる。
おおよそ第一次五カ年計画の期間(一九五三~一九五七年)には、中国人は主にソ連モデルにもとづいて社会主義
を実行した。
実は中国共産党員は独立思考をできるし独立自主を恐れなかった。以前に教条主義の損害を喫していたからであ
る。一九四二年の延安整風は教条主義に反対し、書物から解放されるとともに、ソ連人の指揮からも解放されること
になった。中国人民解放戦争の勝利はまさに独立思考の結果だった。ただ建国以降の大規模な経済建設の指導は確か
に経験を欠いていたからこそ、ソ連モデルを受けいれることになった。第一次五カ年計画がきわめて大きな成績を確
実に獲得したことは、肯定しなければならない。だが中国の国情は他国の国情と結局は異なり、中国で社会主義を建
設しようとすると、あきらかに民主革命と同じく、中国の実際から出発しなければならず、中国の道を歩んでこそ目
的を達成できるのである。
実際にソ連モデルにもとづいて経済建設を展開していた時に、中国人はすでにみずからの道の探策を開始してい
た。 一九五五年後半から一九五六年春にかけて中国の社会主義改造は繰り上げて実現した。さらにそのやり方はソ連と
異なっていた(小農を中間的形式を通して徐々に集団経済へ移行させ、私人の資本主義経済に対しては平和的な有償
の国有化を実行した)。この勝利は中国人がみずからの道を歩む信念を大幅に向上させた。一九五六年四月、毛沢東
は「十大関係」の問題を提起した。彼は、重工業を一面的に発展させる方針と真正面から対決して、農業と軽工業を
いっそう発展させるべきだと提起し、集中統一を一面的に強調し地方、企業および個人の利益を軽視する弊害と真正
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
面から対決して、地方と企業により多くの権力をあたえるとともに個人の利益に注意して、各方面の積極性を引き出
すようにと提起した。これこそ中国人がソ連モデルの欠陥を意識し、社会主義建設の道において独立思考を開始する
ことを予知していた。
独立思考という方法は非常に必要なものだった。「十大関係」の提起から「二種類の矛盾」(すなわち「人民内部の
矛盾」と「敵対矛盾」の区分)まで、理論的観点を別として思想傾向だけについて言えば、いずれも伝統的モデルを
離脱し中国の社会主義の道を独立で探索することにあった。
スターリンの公式によれば、社会主義建設が発展するほど階級闘争がますます尖鋭になる。そして毛沢東の新しい
観点は彼といくらか異なっていた。一九五六年九月に開催された中国共産党第八回代表大会は、大規模な階級闘争が
基本的に終結し、生産力の発展を主要な任務とすると正式に宣言した。これは中国が現代化の道を歩むひとつの好機
だった。 残念ながらこの機会は事実にならずに、翌年には大規模な階級闘争により葬り去られてしまった。
一九五七年に拡大化した反右派運動は政治において人民の民主的生活に重大な打撃を与え、人々は普遍的に異なる
意見をあえて語らなくなった。これこそ以後の重大な誤りに対する思想的条件を準備した。上級がとにかく考えたり
話したりすると、すべて賞賛ばかりを受け取り、いっそう熱烈な反響を引き起こすために、このいっそう熱烈な反響
がむしろ上級の熱気をさらに増加することになった。一九五八年の「大躍進」はこういう空気のもとで出現したので
ある。 積極的な面から言えば、一九五八年は中国がみずからの特色をそなえた社会主義の道を歩もうと企図した年だっ
た。この年に開催された中国共産党第八期代表大会第二回会議は「大いに意気込み、高い目標を目指し、多く・速く・
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立派に・ムダなく社会主義を建設する」総路線を制定した。この「総路線」の推進により、「社会主義建設の大躍進」
と「人民公社化の高まり」が出現した。――これらを「三面紅旗」[三本の赤旗の意]と総称した。
けれどもこの試みは失敗した。根本的原因は客観的な経済法則に反したことである。新しい道を歩もうと企図し
て失敗したことは、さして珍しいことではない。ただ当時を回想すると、ロマンティシズムの色彩を充満させてい
たといえる。歴史を創造する活動においてロマンティシズムの役割を排除できないのは、歴史の創造者が思想を有
し感情を有する人だからである。けれどもロマンティシズムが多すぎるうえ冷静な科学的頭脳を欠くと、災難を生み
だすことがある。あの頃、生産力の面では、高い指標を気ままに決め、人の主観能動性を発揮させさえすれば、客観
条件に依存することなく、奇跡を創造できるとみなしていた。たとえば、一九五八年の鋼鉄生産量の指標になった
一〇七〇万トンは一九五七年の鋼鉄生産量の五三五万トンを二倍したものである。この主観主義的な指標はあきらか
に実現できるものでなかったが、それで大衆を発動し全民製鋼[全人民による鋼鉄生産]をすることになった。鋼は
精錬されることなく、鍋はかえってたくさん壊されることになった(製鋼に向けるそれほど多くの原料がなく、ちょ
うど農民が食事のために公共食堂に集中させられていたので、ある地方は製鋼の原料にしようと農民の鍋を持ってこ
させた)。生産関係の面では、生産手段の公有化の水準を人為的に引っ張り上げさえすれば、共産主義へ入ることが
できるとみなした。当時は成立してわずか二年の高級農業生産合作社が一気に人民公社化された。一九五八年八月の
中共中央「農村に人民公社を樹立する問題に関する決議」はつぎのように言う。「共産主義のわが国における実現は、
もはやはるかな将来の事態ではなくなった。われわれは人民公社の形式を積極的に運用し、共産主義へ移行する具体
的な経路を模索しなければならない」。当時は単一の全人民所有制を樹立すると共産主義へ移行できるとみなし、そ
こで人民公社の集団所有制が全人民所有制へ移行する期限を、早ければ三、四年、遅くても五、六年と規定した。こう
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
して、中国は数年以内に共産主義社会へ入るはずになった。
実は当時の中国の生産力が社会へ提供できる消費物資は、温飽[基本的生活を維持する]という水準にさえ到達せ
ず、まして共産主義の「各人の必要に応じて」など話にもならなかった。
こういう物質的条件のもとで発動された「大躍進」と「人民公社化」運動は、生産力に重大な破壊をもたらし、
より豊富な消費物資
を 創造しなかったばかりか
、逆に元来の財貨が浪費さ
れて しまう こ と に なった
。 た と えば
、
一九五八年に農村では「腹をふくらませて飯を食う」ばかりで、まったく不足していた食糧をいっそう使いきるまで
食べてしまった。「全民製鋼」が破壊した樹木にいたっては統計をするすべもない。
当時の中共中央は問題を発見して是正するように努力した。しかしながら派生的な問題を是正するのに「三面紅
旗」の肯定を前提とし、そのうえ次の公式に結局は従っていた。つまり「成績は指九本分[九割]」、「欠点は指一本
分[一割]」であり、これでは何の役にも立つことはなかった。とくに一九五九年の廬山会議がまたも「彭徳懐の右
傾機会主義に反対する闘争」を発動すると、事態はますます悪化した。本当は「左」傾に反対しなければならなかっ
たのに、会議が始まるとむしろ右傾に反対した。本当はさらに民主的にならなければならなかったのに、むしろいっ
そう意見を聞かなくなった。その結果、誤りは正されなかったばかりか、かえって「正確な路線」に変わることになっ
た。それにつづいて、「反右傾」の闘争という風がかさねて全国に吹くことになった。だが、人は食事をする必要が
あり、食事は食糧によって行われるのである。生産と生活という実際問題は、ほら吹きと「反右傾」のやり方では解
決するものでなく、回避できなかった。一九五九年から一九六〇年への変わり目に「右傾機会主義に反対する」闘争
が全国で勝利して深化している時にこそ、三年間の困難が始まったのである。中国人民はそのせいで深刻な代価を支
払ったのである。
翻 訳 普遍的な貧窮、永遠の闘争
「大躍進」の方法による社会主義の建設が重大な挫折を被った後に、「指九本分と指一本分」の公式を打破し、実
事求是で経験をいったん総括し、「左」傾を切実に是正していれば、一九六〇年以降の中国の歴史はまったくことな
るありさまになっただろう。残念ながらこのようにせず、むしろ誤りをお天道さまになすりつけ、「自然災害」だと
称した。結局、経済工作では「調整、強固、充実、向上」の方針を実施し、破壊された国民経済を徐々に回復したも
のの、政治と思想においては「左」傾の誤りは発展し続けた。
一九六二年の中国共産党第八期十中全会が重要な一里塚になった。この中央委員会全体会議は、社会主義の全歴史
的段階に二つの階級と二つの道の闘争が存在し、さらにこの永遠に止むことのない闘争を「基本路線」と規定すると
断定した。
こうして、中国に二つの平行しない軌道が出現し、政治思想の軌道が経済建設の軌道からはずれることになった。
当初は、政治思想は経済に干渉することなく、それぞれ自分のことを行っていたからこそ、経済には進歩がみられ
た。けれどもこうした状況は永続するはずがなかった。ひとつながりの列車が根本的に平行していない軌道で運行さ
れていると、そのうち事が起きるはずだった。
本当はある社会の経済、政治および思想は協調すべきであり、上部構造は経済的土台に奉仕しなければならない。
もし相互に連関を失うならば、両者はどちらか一方に拠る必要がある。上部構造を改造しようとすれば経済的土台に
適応させるし、経済的土台を破壊しようとすれば上部構造に「適応」させる。だが、経済的土台の破壊とはどういう
意味か? それは社会的生存の物質的条件を破壊することなのである。そして物質的生活条件を破壊すると、社会は
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
滅亡するはずである。こうして、およそ経済的土台を破壊する政治的な力は、最終的に自己崩壊するのだが、それが
敗北するまでに経済に巨大な損失をあたえ、社会全体に災難をもたらすはずである。
六十年代の中国こそ、こうした災難を経てきた。一九六六年、平行しない軌道を運行してきた列車はついに転覆し
た。政治が経済を圧倒したのである。それまで数年のあいだ辛苦をかさねて経済の回復と発展のために行ってきたす
べてが、一夜のうちに「資本主義の道を歩む」ことになり、「反革命修正主義」になってしまった。これを拡大して
建国以来十七年の「革命的左派」の好みにあわないあらゆるものがすべて批判の対象になった。
この転覆は十年におよぶ「文化大革命」を引き起こした。「文化大革命」では一種の極左の「社会主義」が形成さ
れた。
この「社会主義」は五十年代にソ連から導入した社会主義と異なっていた。ただそれも天から突然降ってきたもの
でなく、それまで何年かの発展の結果だった。それには継承もあれば創造もあった。およそソ連モデルの欠点はいず
れも継承された。たとえば高蓄積、低消費、過度の集中的管理、さらに所有制における単純化した処理、および実際
を離れたいわゆる公有制の高度な形式の追求などは、すべて留保なく受け継がれ、さらに発展をみた。ただし、この
極左の「社会主義」のいっそう重要な二つの特徴は、中国の大地から出てきたのである。すなわち、第一に「窮」で
あり、第二に「闘」である。これはそれまで何年かの「左」傾の誤りの悪性発展の結果である。
普遍的な貧窮はこの「社会主義」の出発点であり帰結である。富むと「修正主義」に変わるはずだからである。だ
から生産力を発展させる必要はないうえ、みながきわめて貧窮な時期を利用して生産関係を「一大二公」[規模が大
きい公有制をめざす標語]へただちに移行させようとしている。「両極分化」を避けるためには、平均主義の分配制
度を実行しなければならない。
翻 訳 生産の発展に努めようとしないのだから、階級闘争の進行に力を集中することになる。社会で闘うだけで不十分な
ら、共産党内に「資本主義の道を歩む実権派」を探しだそうとする。国内で闘うだけで不十分なら、世界でたえず帝
国主義と闘い、修正主義と闘い、各国の反動派と闘い、これを「帝・修・反を埋葬する」と略称した。
それ以外にもほかの特徴もある。たとえば知識を不要とし、文化を不要とし、愚昧と野蛮を革命の象徴とするなど
も、すべてその独特の特徴である。
この「社会主義」は中華民族に十年続いた災難をもたらした。もともと中国は貧窮なのに、その結果、闘争するほ
どますます貧窮になり、貧窮になるほどますます闘争して、国家を崩壊の瀬戸際へ追いやった。この事実は世界にお
いて社会主義のイメージをひどく損なった。
まさに中国がこの「社会主義」のドラの音で人も馬もひっくりかえる大騒ぎの時期に、世界では技術革命が進行し
つつあった。多くの国家と地域が、第二次大戦中に重大な破壊を被った日本や経済がもともと未発達だった一部の地
方を含めて、資本主義に固有な矛盾の悩みを抜け出さなくても、六十年代から七十年代にいずれもいわゆる「経済的
離陸」を実現したのである。
マルクス主義が世に問われて以来、社会主義は各国の支配階級の圧迫と歪曲を被ってきたとはいえ。広大な大衆が
思いをよせる対象だった。それがすばらしい生活を意味していたからである。けれども、この極左の「社会主義」は
むしろ普遍的な貧窮と止むことのない闘争をみずからの特徴とし自負としていた。無知と野蛮がここまでくると、そ
れにこれまでは思いをよせてきた多くの人々を間違いなく大いに失望させ、当然さらにもとからそれに反対していた
人々をひどく喜ばせることになった。なぜならこうした「社会主義」は他人の反対を待つまでもなく、それ自体がも
はや名誉を損ないつくしていた。大衆がこの「社会主義」に対して敬遠して関わるまいとしているのに、それに引き
李洪林著『中国における四種の主義』(続)(小竹)
つけられる人がいるだろうか?
一九七六年四月五日に北京で発生した天安門事件は、「四五」運動とよばれるが、人心を深く得ていた周恩来を追
悼するだけでなく、中国人民があの極左モデルの「社会主義」の放棄を決心した大デモンストレーションだった。
「分に安んじ己を守る」伝統のある中国人は、我慢しきれなくなるまで街頭に出てくるはずがなかった。まして「文
化大革命」中のあの封建ファッショ式の「全面独裁」は、大衆を鎮圧する面ではなんでも行ってきていた。しかしな
がら数百万の大衆が意外にも期せずして共に天安門広場へ向かったことは、あの極左の「社会主義」がもはや人心を
完全に失っていたことを明らかにしている。
中国の特色ある社会主義
「四五」運動が鎮圧されたとはいえ、もはや歴史の歩みは阻めなかった。「左」の恐るべき権威は、この鎮圧をと
おして、大衆の眼中ではすでに昔日の威厳を完全に失い、もはや回復できなくなった。
中国は新しい軌道に変わる必要があった。だが、この新しい軌道が何かは、誰にもそれほど明瞭でなかった。この
歴史的要求を実現するためには、新しい権威が必要だった。だが、権威の交代は以前から非常に困難である。古い権
威は歴史が投棄したのであり、新しい権威は同じく歴史が選択すべきなのである。
人事の交代にともなって、中国はついに一九七六年十月[毛沢東夫人の江青らの「四人組」が失脚した]以後に歴
史的転換の関門にいたった。ただ、今後の道を結局どのように歩むのかという見方は一致しなかったので、二年間は
徘徊した。
翻 訳 ある人[華国鋒のこと]は毛沢東の晩年の誤りを堅持し、「プロレタリア階級独裁下の継続革命の理論」の指導の
もとで、「左」傾の道を歩み続けようとした。さらにこういう観点にもとづいて「四人組」はやはりひどく右よりで
あり、「右がもっと右になってはいけないはずだ」。つまり今後歩む道は「文化大革命」よりももっと「左」でなけれ
ばいけないというのである。
あきらかに、これは中国を徹底的な崩壊へ導くはずの道である。
一九七八年末に開催された中国共産党第十一期三中全会はこの路線を放棄し、中国を現代化した社会主義強国とし
て建設する路線を確定した。これこそ中国に歴史の転換点をもたらした。新しい時期が始まった。新しい時期の社会
主義は、伝統的なソ連モデルでもなく、「大躍進」の際のロマンティシズムでもなく、また「一に貧窮、二に闘争」
の極左モデルでもなかった。今ではそれは中国の特色ある社会主義とよばれている。
この社会主義の細部はまだ明瞭とはいえない。施工の設計図はまだないし、こうした設計図はありえないからであ
る。それは中国人民の実践を通してこそ、しだいに創造することができた。
けれどもまた盲目的な手さぐりでもなかった。
新しい社会主義に青写真はないとはいえ、それでも最も重要な基準がある。つまり生産力の発展に有利ということ
である。やや具体的にいうと、つまり、人民の富裕と幸福に有利で、国家の興隆発達に有利ということである。およ
そこの基準に適合することは正しいのであり、行っていかなければならない。およそこの基準に違反することは、そ
れがいわばどれほど耳ざわりよく、どれほど響きわたっているとしても、すべて誤っているのであり、行ってはなら
ない。 この基準は、通俗的な言い方によれば、やはり[鄧小平が一九六〇年代前半に提起した]あの名言のように「白ネ