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座談会 東 敏雄教授を送る

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東 敏雄教授を送る

出席者 保坂宗重 栗村芳實 佐藤恵一 斎藤典生 帯刀 治(司会)

司会  本日は,お忙しいところお集まり頂いて     かなければなりませんが,お手元に資料を ありがとうございます。東敏雄教授の退官     斎藤先生から用意して頂きましたので,こ を機会に,東先生とご親交が厚くて,また     れを参考にしてお話を伺えればと考えてお 本学の退官という点では少し先輩に当たら     ります。

れますお二人の先生,つまり教養部長をお      それではまず,お年の順といってはなん 務めになりまして1996年に退官されたドイ     ですけど一番親しくご交流のございました ッ文学,ドイツ語学の保坂先生,現在茨城     保坂先生の方から東先生とのご親交の中で 大学名誉教授でおられます。それからまた,    最も印象に残っておられることを含めまし 理学部部長をお務めになりまして退官され     て,東先生との関わりについてお話を頂け た化学の栗村先生,栗村先生は現在放送大     ればと思います。

学茨城地域学習センター長を引き続きお務  保坂  はい。ここに東さんからちょうだいしま めになられていますし茨城大学名誉教授で     した『響鐘一あるゼミナールの大学史』と もございます。それに,東先生から親しく     いう書物を持参したわけですが,この『響 指導を受けまして,そしてその教えを引き     鐘」の中に二回私が書いております。これ 継ぐことになります西洋経済史の現在茨城     は1972年の6号・「除夜の鐘を聞きつつ」

大学人文学部社会科学科の教授であります     というのが一つと,それから88年14号・

佐藤恵一先生,また学部時代からのゼミナー     「東さんの出版記念にあたりて」と。まあ ルの指導生でもあり,現在同じく茨城大学     ここのところに活字として私の東さんに対 人文学部社会科学科の地域経済論を担当し     する気持ちというのはもうすでに書いてあ ていただいております斎藤典生先生,以上     りますので,彼の人柄とか私との関係等と の四名の先生方によりまして茨城大学での     いうものは,ある程度この『響鐘」の記事 東教授の足跡といいますか,その人となり     を読んで頂いてもおわかり頂けると思って といいますか,あるいは研究・教育面での     おります。それが一つですね。それからちょ 業績,さらには大学改革などの学内行政と     うだいしました年譜にそって申し上げると,

いってよいのでしょうか,ともかく東教授     私が茨城大学に参りましたのは1955年なん が在任中に残された数々の業績について,     です。それで東さんが1961年ですから彼が 親しくお話しして頂ければと思います。      6年後れてここに来られた。それが丁度こ

本来ならば,皆さんにお話し頂く前に司     こ地域総合研究所の一番古い建物でして,

会の方で東教授の年譜と研究業績目録から     当時いろいろな先生方が研究室として使っ       茨城大学での東先生の足跡を振り返ってお     ておられたんですが,後から来られた東さ

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んは研究室がなくて,細長い奇妙なところ     けですが,ここの地域総合研究所の古いと      一

を東さんの研究室というかたちで使ってお     ころに,教養部の教官が部屋を借りていた られたんです。そして茨城大学が初めてゼ     んです。私自身は人文学部棟内の東さんの ロックスの複写機を入れたときに,ここの     研究室を半分貸してもらったんです。そし 建物の中に入れて,それの管理を東さんが     て私は東さんの研究室に教養部棟が解除さ 請け負ったんです。そういう時代のことを     れるまでずっと同居していたわけです。そ ちょっと覚えております。これはもう非常     のことはこの『響鐘』にも書いてあります。

に印象的でした。あの当時公費でやるのに     とにかく東さんには助けてもらいました。

今のように職員がついて管理するというこ     今でも忘れられないのは,大学内での対策 とではなくてね。便利だからまず入れよう     の会議があって,そのときに彼が眼帯をし ということになりまして,東さんの部屋の     て駆けつけてきて私の援助演説をやってく すぐ側に置いてあったもんですから東さん     れたんです。前の日にどこかから帰ってく が管理を引き受けられたのでしょう。詳し     るときに,列車が当時まだポッポポッポ煙 いことは東さんに聞いて頂ければわかると     を出すやつでですね,その煙の中の石炭の 思いますが。       粒が彼の目の中に入って負傷したんです。

それからこの年譜で申し上げますと1969     それの手当を受けて眼帯をつけて駆けつけ 年の12月にですね,東さんが茨城大学学生     てきて,私の援助の演説をやってくれまし 会館改革委員会の委員になられたとありま     た。だから69年のときの彼の友情は今もな す。ちょうどそのときに関学長のもとに二     お忘れがたいものがあります。

つの委員会が作られました。一つがその学      それから後この年譜でいきますと1975年 生会館改革委員会,もう一つが,厚生補導     ですね。75年の8月茨城大学総務,栗村さ 組織改革委員会,そういうことだったわけ     んもこの時期総務でしたねえ。それで当時 です。それであのときの学長関さんから頼     の市村学長が,というのもその前の関学長 まれて東さんは学生会館,厚生補導は私と     がですね,ここにある年譜にもありますよ いうかたちで両方に分かれて学長を支えた     うに病の途中で,任期を全うしないでお辞 こと。それは何故かといいますと,ご承知     めになって,その後市村さんが学長になら のように学生会館が全共闘系の学生により     れたわけですが,茨城大学をどうするのか。

封鎖されて,それから更に教養部の封鎖が     それはやっぱりもう全学部統合しかないだ ありましてね。69年の1月に学生会館,そ     ろうということで,市村さんは大いに張り れから6月に教養部が封鎖されて,それか     切って学部長たちだけでなく,いわゆるな

ら3ケ月後に教養部封鎖が解除され,学生      んといいますか学長を中心にした学部長会 会館は翌年に,だいたいまあ無血解除され     議というものだけに頼らない,もっと若手 ました。それで彼らとの引き替えの条件が     に頼るんだということで総務会を作って,

大学改革をやれ,その大学改革は,厚生補     それでその総務に各学部からそれぞれ働き 導組織とそれから学生会館,二つあるとい     盛りの人を呼んでということだったんです。

うことでね。それで東さんが片っ方,もう     そのときにたぶん栗村さんと私,それから 一つが私というかたちでやったんです。そ     農学部の白坂さん,それから赤塚氏もいま れが69年の12月に発足したと書いてあるこ     した。それから工学部が山城さんですか,

とが東さんと私の関わりです。教養部が封     それから教育学部の馬場さん,そういう方 鎖されたときに私たちは行き所を失ったわ     たちが市村さんのブレインということでね。

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そのときちょうど図書館長が交替の時期     政治的な状況判断というのがほぼゼロに近 で教養部が当番になっていたんです。それ     い。かけたエネルギーとそれが空しく終わっ で,今まで図書館長はほとんど名誉職であっ     たその空しさですか,これはひどかったで たんですが,こういうときはむしろあまり     すな。だから帰ってきたらば東さんから,

行政的に負担のかからない図書館長を,大     「いやあ保坂さん,歯が全滅しちゃったよ」

いに働いてもらおうということで,私が図     といわれてね。まあその罪滅ぼしに,82年 書館長になったわけです。図書館長になっ     に東さんに在外研究の短期が当たっていた たのが75年の7月でした。もうそのとき私     んです。ドイッに行くというので私が2月 は,文部省の在外研究で76年から出張する     に彼と1ケ月一緒にドイッをまわったんで ということがわかっていたにもかかわらず,     す。要するに罪滅ぼしですな。その前の時 図書館長にさせられたんです。そして7月     の78年に秋田先生が学長になられて,もう から翌年の2月いっぱいまでの私の図書館     一度農学部の統合をやろうと言うことになっ 長の後,東さんが図書館長を引き受けられ     たんです。そして東さんと私と栗村さんが,

たんです。それでこのことも『響鐘』の中      また引っぱり出されたわけです。ところが に書いてありますが,私は7月から翌年の     あげくの果てにこれも潰れたわけです。結

2月いっぱいまでそう大して長いこと務め     局,前の市村先生のときと秋田先生のとき たわけではないんですけど,その後の東さ     の罪滅ぼしということで,もう農学部統合 んは丸2年図書館長で,まあ市村さんを支     はできないということがはっきりした段階 えたわけです。東さんは歯の良いこと,目     で,東さんと私とでドイッにまるまる1ケ の良いこと,記憶力が抜群,この三つが人     月行って,82年の10月に今度は東さんがひ に勝ると自負をしておられたのですが,結     とりで文部省在研の短期2ケ月行ったんで 局,視力は衰える,歯が歯槽膿漏で全部こ     した。そういうことがありました。

のとき入れ替えです。歯ががたがたになっ      あとは,私が1983年から87年まで教養部 ちゃってね。おわかりのように東さんとい     長やりました。私は本来ならばこの時期に う方はとても気持ちの優しい人でね,私は     東さんに人文学部長をやってもらいたかっ からだが大きくて心の優しい人というふう     たんです。ところが何度目の正直だかわか に彼を名付けるわけですけれど,ストレス     らないけれど,担ぎ出されて東さんの方が がかかったんですな。市村先生を支えるこ     票が上なのにね,ふたを開けてみたら東さ とは大変だったでしょう。それで私がドイ     んがなっていないということでね。いった ツから帰ってきて会った日に,「いやあ保     い人文学部は何をやっているんだとものす 坂さん,ひどい目にあったよ。歯が全部入     ごく腹が立ったことがありましたね。だか れ歯になっちゃったよ」といわれたことを     ら私が教養部長をやっているときは東さん 忘れもしません。これは申し訳ないことし     は何もやらないでいたんです。その後部局 たと,本来ならば私が2年まるまる引き受     長として重なったのは私が91年の5月から けるべきところを,私は6ケ月ぐらいでお     93年の4月まで学生部長をやったとき,そ さらばした。その後,彼がまるまる引き受     のとき東さんが人文学部長だったんです。

けたことになります。ご承知のように市村     忘れもしない私が学生部長になって人文学 さんのときの大学改革は失敗しました。6     部長の彼の部屋にあいさつに行ったとき,

年,これはもう空しかったですな。市村先     「いやあ保坂さん,熱烈歓迎」そう彼がい 生はお気持ちは純粋であったでしょうが,     うわけですよ。というのはね,そのときの

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学長は浜田学長だったんですが東さんの提     が,これは眼に見える形で成果が得られた 言が一つも取り入れられない。それでこの     わけです。このときの概算要求の内容は,

ときの学部長連中はみんな浜田さんの肩もっ     それに続く理学部改組でも大変参考にさせ て,あるいは浜田さんの性格が強引だった     て頂いたわけです。いずれのときも年は僕 からかもしれないけれど,東さんの言う提     の方が東先生よりも三つ位上なんだけれど 言は誰一人聞き入れない。彼は部局長会議     も教わることばかり多くて,東さんが兄貴 でまったく孤立していたみたい。それで私     のように感じて,相談して有益な助言をも が学生部長になったときには「いやあ保坂     らったものです。先ほどお話が出ましたけ さん,熱烈歓迎」といってね,彼は喜んで     ど総務をやっているときはとにかく徹夜の ました。部局長会議で私が多少東さんをサ     連続で,委員一同新しい大学を作ることに ポートしたので,彼だけが発言をしても,    燃えてやっていたんですが,いろいろなご 誰も耳を傾けないでばっさり浜田さんに引     とがあって,それが必ずしも実を結ばなかっ 導を渡されるという状況は少しはなくなっ     たんです。そんなときに先ほどの話にもあ たことでしょう。まあこの年譜にそって申     りましたが束先生は歯をぼろぼろにしまし し上げれば,だいたい以上です。        て,総務会で「今日は3本抜いた」とか 司会  それでは引き続いてでございますが,栗     「この次は2本抜くんだ」とかね。それで

村先生にも同じように振り返って頂いてこ     丈夫な歯が殆どなくなってしまったんです 交流の足跡についてのお話しをお願いした     よ。これは先ほど保坂先生が言われたよう いと思います。      にやはり非常に大きな精神的なストレスが 栗村  私は67年の文理改組のときにこちらの大     あって,それと肉体的な疲労があったと思 学にきたわけですけど,しばらくの間,東     います。ただ僕が非常に驚いたのは,そう 先生と親しくしていただく機会はありませ     いったときでも例えばプールに行って泳い んでした。東先生は改革とか紛争とか何か     だり,スキーに出かけたりしてリフレッシュ ある事あるごとに委員になって出てきて先     しておられた。ところでスキーに行って骨 頭になってやっていただいたわけです。例     折し,外科に入院し,お見舞いに行ったら,

えば最初一緒に仕事をしたのが1975年のと     「元気だけど足の方が動かないから,ちょっ き市村学長直属の総務になり,それから図     としばらく休ませてくれ」という時期があ 書館長に76年になったのですが,この辺り     りました。確かこの時期に教養部改革案

はずっと一緒に仕事をしました。統合移転     (青表紙)を作ったんですよね。

の問題は,東先生が一番苦労したのではな  保坂  青表紙は,古井さんのアイディアですよ。

いかと思います。それから浜田学長のとき     古井さんが教養部解体をあの時期に打ち出 に改革案が検討されて,これら全部に東先      してね。文部省には注目されたんですよ。

生が関与しています。浜田学長のときに第     だが学内ではまだ,そんな雰囲気ではなく 一分科会(将来計画委員会)の委員長とし     て…  。

て改革構想を練られていたときも一緒に仕  栗村  それでこの時期に東先生とご一緒させて 事をしました。更に比較的最近では,人文     もらいました。その今保坂先生が言われた 学部の大学院の設置と学部改組ですね。こ     ようにあの内容はかなり評価されたんです れが理学部の大学院の設置とだいたい同じ     よね。具体的に言うと文部省へある大学の 時期にあたっている。このときはこれまで     先生が聞かれたらね,「この茨城大学の改 とは違った意味で大変苦労されたわけです     革構想を読んで勉強してくれ」と,文部省

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で言われたと,だから教養改組の先例を切っ     特に語学・体育のカリキュラム改革の内容 たものでもあった。それが内容的に全部が     について,改革案のほとんどの原稿を作ら 全部というわけではないが,部分的にでも     れたのですが,あと1ケ月ぐらいで完成す それが活かされることがあまりなかったと     るというときに浜田学長は突如としてこれ いうことが残念に思っています。         までの改革案を破棄して,学長案なるもの それからもう一つ,もっと大変な時期と     を提出された。あのときの東さんの悔しさ いえばそうかもしれませんが秋田学長のと     は大変よくわかっているつもりです。その き農学部統合があと一歩というときに頓挫     案をもう少し詰めて最後までやっていたら,

があったのではないかと思っています。そ     これらを通してですね,私にとっての東さ ういう時期もご一緒しました。私はあまり     んというのは,ウソをつかない,それから 働きませんでしたが,東さんや保坂さんと     相談に行くと親身になって相談にのってく 一緒にお話を聞いたり顔を合わせたりする     れる人でした。理学部の大学院博士課程を 度にこのときのことを思い出します。       作るときに,いろいろと助言してもらって,

斎藤  そのときでしょうか,ずいぶん痩せられ     とても参考になることを教えてもらったの たことがございましたよね。      ですよ。

栗村  ええっとねえ,もっと後じゃないかと思  保坂  まあ,これからの茨城大学にとって茨城 うんですがねえ。そうでしたかねえ。僕も     大学の歴史を熟知した方がいなくなるとい ちょっとはっきり覚えていないんですけど。     うことで,非常に寂しいという感じがしな 最近では大学院設置のときでしたかねえ。     いでもないです。

かなり痩せらたれてましたねえ。      司会  それでは続きまして佐藤先生に今度は少 司会  でも,やっぱり農学部統合をめぐっての     し東先生の学内行政をめぐるご活躍という ご苦労が大きかったのでしょう。        よりはむしろ,ご研究の中味についてお話 栗村  いずれにしても,とにかく一つの考えに     しを頂きたいと思います。

基づいて,コッコッと理論的な裏付けを持っ  佐藤  年譜で申し上げますと,私は1970年の4 てやっておられたと,これは私どもいい加     月に茨城大学に参りましたのでそれ以来長 減な人間にとって大変参考になったと思い     い間ご指導頂いていて,今春退官されると ますね。それに東さん特有の字ですねえ。     いうのが実感をもてないというところが実 今みたいにワープロを使わないから,あれ     際のところです。それで私どもの方で東先

(字)をパッと出されるとすぐに先生の字     生の退官記念の本を準備しているところで だとわかるわけですよ。それが毎回毎回分     して,その巻末に東先生の人となりと業績 厚いのを持って来てね,読むだけでも大変     について載せたいと思っています。先生の なものをあの忙しい時期に作ってこられた     ご研究の領域が広く,非常に多彩な活動を わけです。東さんの特有の文字が今でも鮮     されている方なので,それを四つぐらいに 烈に印象に残っているわけなんです。       分類して,それぞれについてのコメントを ところがそういう頓挫もいくつかあって     加えるようなものを準備しております。正 やり残されたものも多いと思いますが,浜     確にはそれを参照して頂ければ東先生の研 田学長のときの改革ですねえ。これももの     究教育活動というものがわかると思います。

すごく印象に残っているんですが,第一分     個人的なところでいいますと,年譜にまた 科会の委員長としてカリキュラムの問題,     戻りますが,私が70年にまいりまして,70

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年の8月に(東先生が)勝田市史編纂委員     も。資本論研究会は毎月続けて,その中で 幹事に委嘱されるとなっていますけれども,    本の読み方,人の見解の整理の仕方といい ですから丁度この年に当ります。それで東     ますか論点の整理の仕方,こういうものを 先生はこの勝田市史というお仕事に精力を     たまたま素材は『資本論』なんですけれど 込めておられたと思います。農業経済論は     もそれを越えたところのものを私は学ばせ もとより市史編纂に精力的に取り組んでお     てもらったと思っています。それから授業 られたということで,実地調査といいます     でも,教養部に複数で出ていくという体制 か聞き取り調査についてのお話は折に触れ     が改革の目玉の一つとしてやられて,東先 てよく伺いました。農業経済論という分野     生もそれに出講されたんだと思います。そ なのでおそらくそういう聞き取り調査をや     れで教養部に出講することについて人文の られるんだろうなという,そういうイメー     社会科学科(当時は経済学科)はずいぶん ジで最初は考えていたんですけど,いやい     教養部と話し合いをしながら授業をしてい やこれは大事業で構想されていたんだなと     たということがあったんです。複数で出て 後でわかりました。もう一つ別の面で,東     いくという形をとって,東先生や斎藤先生 先生ご自身はもともとドイッの農業問題を     など2人や3人でずっと授業を受け持って 専攻されていた。その関係で東先生のお名     いて,そういう授業の組み方の中にもおそ 前は知っていたんですけれども,私が茨城     らく東先生の教育に対する考え方が込めら 大学に来たときにはすでに,東ドイッの農     れていたと思います。実際に行動しながら 業問題はもうやっておられないといいます     身につけていくというか,理論だけではな か,一段落された段階だったんだろうなと     い部分を私は常日頃から教えていただいた 思います。そういうことで東先生はドイッ     と思います。そういう中で他学部の先生方 の問題あるいはヨーロッパの問題にもいう     とずいぶん交流をもちました。確か東先生 いろ見識の深いところがございまして,そ     が教務委員をやっておられたときに一緒に ういう学識を折に触れて指導していただけ     教養部教授会ヘカリキュラムの説明にいっ るということだったんですが,同時に研究     たことがあるんですが,そのときに他の集 の面でいいますとですね,ちょうど70年の     団の会議に出るという経験をしました。びっ ときには始まっていて何回目かになってい     くりしたですねえ。そういうことがあって たと思うんですが,東先生が主催する研究     研究,教育,行政が一体の感じでやられて 会があったんですね。それは「資本論研究     いたといいますか,それぞれが別のもので 会」というタイトルで毎月1回ですね,教     はないということを実践されていたという 官も社会に出ておられている方も交えて,    点が非常に印象的です。そういう中でドイ

まったく定期的に開催されたわけです。東     ッのことや世界経済全般のことを議論した 先生は必ず,先ほど栗村先生のおっしゃっ     りしました。他の学部にもいろんな研究会 たように,独特の字で独特のまとめ方とい     があると思うんですけど,東先生が主催す いますか保坂先生もいわれる『東メモ』な     る研究会というのは,自由な発想で何を言っ るようなものをですね,用意された。だか     ても良いけど,そこで今まで気づかなかっ ら学内行政でみられる整理の仕方とか論点     た論点や見落としていた論点をそれぞれが の詰め方というのは,東先生の学問の中で     自然に会得するように導くという独特の人 おそらく身に付いていたものを応用された     柄をもっておられたのではないかと思いま のではないかなあと思っていたんですけど     す。それは貴重な要素ではないかと思いま

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すねえ。それで先ほどのお話で思い出した     ナールの一員としていろいろ教えを受けた んですけど保坂先生のお話の中に東先生が     というのが,私と東先生との関係の出発点 ドイッに2ケ月いっておられたということ     なんですね。当時ゼミでは,東先生がおい に触れられましたが,東先生は非常に楽し     くつぐらいでしたか,非常に精力的な先生 そうにそのときのお話をされておりました     で,今でも思い出すのは,当時僕らが文理 ねえ。それは日常のいろんな出来事につい     学部の最後の世代でして,旧兵舎を利用し てやドイツのいろいろな問題についてです     た木造の校舎の一角でゼミをやった記憶が ねえ。私は後になって東先生からドイツの     あるんですね。それでゼミの最中には必ず 農業問題についての業績をいろいろ勉強さ     今も売っていますが両切りのピース,缶入 せてもらったこともあるんですけれども,     りのピースとか箱入りのピースを何箱か積 それでやはりあの東ドイツの独特の農業構     まれて,そのピースをうまそうにふかしな 造,特に農業労働者の状態という問題です     がら議論といいますか我々にいろんなこと ね,東先生は日本の農業問題を考えながら     を教えてくださったという光景が思い出さ ドイツの問題をやられたんじゃないかなと     れます。それからこれも忘れられないんで いう印象を持っています。どうして東ドイ     すけど,当時ゼミナール協議会という学生 ツの農業問題,特に農業労働者の問題を最     の組織がございまして,これをそもそも立 初に論文に書かれたのか,どうしてその間     ち上げたのも東先生のゼミの僕らより2年 題から始められたのかということをストレー     ぐらい先輩の方たちなんですが,まあその トに聞いてみたいという思いがあったんで     ゼミ協(ゼミナール協議会)も現在ではな すけれども,最近少しずつわかってきたか     くなるかどうかという微妙な状態のようで なあという感じです。そのドイッのことを     して非常に隔世の感があります。ゼミナー 文献の上で勉強された東先生が何十年後か     ル協議会ができて,関東ブロックなどのブ に実際にドイツに行って来られて,調査し     ロックごとのゼミナール大会と全日本経済 たことで頭の中で考えていたことが,説明     系学生ゼミナール大会の二つありまして,

がつくようになったということを言われた     その二つの大会にその頃からしばらくの間 ことがあったことを思い出します。それで     参加していたのは東先生のゼミだったんで 退官されたら何度でもドイツに行かれて,    すね。僕が4年の時だったと思いますが,

まだ解明し残している問題があれば,それ     埼玉大学で関東ブロックの大会が開かれま を徹底探求してみるのも良いんじゃないか     した。会場へ向かうバスの中で,前段でど なあと思っています。とりあえず私からは     ういう話があったのか忘れましたが,東先 そんなところです。      生が突然,「明日からタバコをやめるぞ」

司会  それでは斎藤先生には, (東先生とは)     と宣言されたんですね。それがタバコを止 学部生の時からのおつき合いですから,そ     められるきっかけになって,その後ずっと のときのことも含めて少しお話しをお願い     続いて今日に至っているんです。つまり,

します。      僕らは意志が弱いんですけど,東先生はいっ 斎藤  私は1968年の4月に,当時文理学部経済     たんこうと決めたら徹底的にこだわるとい

学科の先生のゼミに入りました。現在は農     う,そういう面でのセルフコントロールは 業経済論ゼミナールといいますが,当時は     非常に強烈なものを持っておられる方だな 確か地方経済論ゼミナールという名前でし     あということを,そのときから感じていま た。とにかく3年,4年と地方経済論ゼミ     す。東先生の人柄についてはいろいろ出ま

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したが,僕が見ていてキーワードを一つあ     う書名で東先生の退官を記念する研究書が げうといわれたら,手抜きは徹底的に嫌う,    出る予定でして,その末尾には先生の業績

「手抜きはしない」,この一言につきるので     紹介も盛り込まれます。これは4人が分担 はないかと思っています。言い換えれば     執筆するというかたちになっておりますが,

「全力投球」ということです。これは学生     まあ大きく分けますとドイッ農業史,ドイ に対してもそうですし,学内行政の面でも     ッ農業労働者の研究という領域が一つ。二 そうですし,もちろん研究の面でもそうで     つ目は茨城大学に来られてから手がけられ すが,あらゆる面で手抜きはしないと,や     た地域農業史,具体的には茨城県農業史で るときは徹底的にやると。ただこれだけで     すが,単なる歴史叙述に終わらせないで東 すと,やや頑固というか偏屈みたいなイメー     先生の場合には,東北大学で薫陶を受けら ジが出てしまうんですけど,そうではなく     れた宇野弘蔵先生という方がおられますけ て,手抜きはしないで徹底的にある局面や     ど,その宇野理論と現実あるいは歴史的な るけれども,それが終わった後は逆にいろ     事象をどういうふうに関連づけながら社会 んなことを楽しんじゃおうと。例えば先ほ     構成体としての動向なり,それを支える人々 ど佐藤先生から資本論研究会のお話が出ま     の営みや考え方,思想や行動というものを したけれども,レポーターとは別に東先生     どう解釈していったらいいか,それを理論 は該当個所のレジュメを必ず作って来られ     的な関わりの中で検討されるというのが先 るんですね。研究会で出たいろんな論点を     生の一・貫した姿勢ではないかと思います。

次の会に先生なりに整理して,それを出さ     そういう裏打ちを持った,理論研究との関 れるんですよね。そういうこだわりといい     わりを絶えず意識したかたちでの茨城県農 ますか,手抜きをしないで真正面からきち     業史の研究の分野と,それから三つ目は現 んと取り組むということをされつつ,研究     状分析もしておられまして,ちょうど1960 会が終わると必ず一杯飲むんです。そうで     年代の後半の時期に精力的に県内のいくつ すねえ,大学のそばに今でも思い出します     かの農村を,あるいは新潟県の典型的な水 けど「五香」(ウーシャン)という中華料     稲単作地帯の調査などをしておられるんで 理屋がありまして,そこへ行ってはビール     す。そのような実態調査に基づいた現状分 を飲み鮫子を食べ,そのときは徹底的に酒     析が三つ目の領域だろうと思います。それ を楽しむんです。つまり,研究会の席でき     から四つ目として設定できるのが,本日司 ちんとやるときはきちんとやる,これは手     会をされている帯刀先生が退官記念論集の 抜きはしない。でもそれが2時間なり3時     中に「地域社会史研究の地平一束敏雄『聞 間なりして議論が終わった後は,今度は逆     きがたり農村史」の方法をめぐって一」と に大いに楽しんじゃおうという。ただ手抜     題して論文をお書きくださったんですが,

きをしない全力投球をするというのではな     先生の研究の方法論にも関わる業績でして,

くて,その後に必ず「楽しみ」をセットす     「聞きがたり」という独特の名称による研 るという形での手抜きをしない,全力投球     究領域です。具体的には3冊の『叢書・聞 をする,これが東先生の何事に対しても共     きがたり農村史』が刊行されています。以 通する姿勢といいますか,生き方なのでは     上四つの研究領域において,従来にない新 ないかと思っております。      しい知見を学会に提示されたということが 先ほど佐藤先生からお話が出ましたが,     先生のこれまでの学問的な営為という面で 今年の春,『地域社会の歴史と構造』とい     強調できるのではないかと思っております。

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司会  どうもありがとうございました。最後の     生がキーワードという言葉を言われたので 斎藤先生のお話に関連していうと,東先生     思い出したのですけど,「心・技・体が三 の「聞きがたり農村史」の研究成果に関し     位一体である」というふうに表現すること ては,経済史の研究としては画期的という     にしているんです。「心」は精神力ですね ように書評なんかでも評価されています。     え。「技」は学問や行政での力,「体」は体 こういう研究上の新しい地平を開拓されて     力そのものですねえ。ですから本当に局面 いること,また,例えば先ほど栗村先生や     局面で東先生がいたから乗り越えられたと 保坂先生からお話のあった学内行政のとこ     いう場面がずいぶん人文学部という単位で ろでも東先生は十分にその力を発揮されて,     もそうなんですが,おそらく大学というレ また佐藤先生も斎藤先生もおっしゃってく     ベルでもそうなんだと思います。そういう ださったように与えられた課題や取り組ま     局面があっても,しかしそのことを東先生 れた課題については徹底的に全力投球をな     自らは語らないタイプですよね。愚痴をこ さって,それでもちろん成果の挙げられた     ぼさなかったし,人を非難したりというこ ものもあったし,学内行政の面では必ずし     とをなさらなかったという度量の大きさが もタイミングというか,周辺の理解を得ら     あって茨城大学は何とかここまで来てると れなかったような点もおありになるような     いうふうに感じましたですねえ。それで東 印象ですね。       先生が生まれ育った時代というのは,東先

これまでに,研究・教育面でのご活躍,     生の人格形成に随分作用を及ぼしたのでは または学内での節目,節目の重要な時期で     ないかと思います。そのときに身につけた の各種委員会なり,図書館長,人文学部長     抵抗力というものがずっと活かされてきて としてのご活躍についてお話を聞いたわけ     いるのではないかということを感じており ですが,大変なご苦労があり,その上に現     ますね。

在の人文学部なり,さらには茨城大学の姿  司会  ただこれはですねえ,ここにいる若手み があるわけですよね。これまでのお話を踏     たいに戦後派というか戦後民主主義教育世 まえて,お気づきになったエピソードなど     代というか,その世代のひ弱な感じでいう お話し頂きたいと思います。今度は佐藤先     と,やっぱり東先生たちの世代は,やはり 生から口火を切ってもらいましょう。       価値観とかですね,幾分若い世代とは異な 佐藤  今いろいろお話を伺って一つ気がついた     るものをお持ちになっているのではないか のは,どうも東先生は茨城大学の分岐点に     と思います。戦前から戦後の民主化という 必ず出てきておられますねえ。分岐点とい     大きな転換が起こるわけじゃないですか。

うかある意味では重大な局面に出ておられ     それを乗り越えられてというか新たな変化 ると。しかし,いずれも非常に申し訳ない     に対応されようとして,やっとそれに対応 ことというか,私たちの力が足りなかった     しようかなというときに今度は,高度成長 ということなんですが,必ずしも東先生の     に入っていって大学も大衆化するわけです。

考えの方に道を辿らなかったということな     私は以前に人文学部で学部長をなさってい んです。しかし,そこが東先生の精神力の     た西洋史の荒井先生が「今の学生は進駐軍 強さだと思いますけど,にもかかわらず二     だ」というふうにおっしゃって,「ガムを 度三度挑戦されている。その精神力ですね     かんで足が長くて,帯刀さんよ,ああいう え。ですから私先ほど言い忘れましたけれ     のはむかし進駐軍といったもんだ」という ども東先生を一言でいえば,先ほど斎藤先     ことを覚えているんですが,(荒井先生と)

(10)

学生委員を一緒させていただいたときに     革の問題とか,いろんな学内行政に関わる そういうふうに教えていただいたことがあ     問題の渦中におられたときの精神衛生をど るんですよね。だから東先生たちの年代の     ういうふうに保たれたのか,まあ一つはス 人たちは共通してそういう価値の転換があっ     ポーツかなあと思いますが,その辺を保坂 て,その中で変化に対応していかなければ     先生,栗村先生に何かお気づきになってい ならなかったので,やはり私たちとは異な     る点がおありならば。

る価値観というか,考え方をお持ちだと思  司会  それではその点について栗村先生からお うんです。ただ東先生は割と挫折に強いと     願いします。

いうか,農学部統合移転問題についても,  栗村  どうして東先生は,七転び八起きではな 普通だったら「もう,やめた」というふう     いけど,そういう復元エネルギーの源はど になるじゃないですか。私だったら絶対二     こにあるのかと絶えず思っていましたけど,

度とやらないと思うけど,繰り返し改革の     結局,特技を持っているんじゃないかと思 炎を燃やし続けられるというエネルギーと     うんです。要するにスイッチの切り替えで いうかパワーの源は…  。       すね。普通だと家に帰ってもくよくよ考え 斎藤  そのエネルギーの源はどこにあるのかと     るでしょう。それが見ていると(東先生は)

思いますよねえ。我々が一緒に酒飲んだり,    スッと切り替えられると思うんですよ。例 普段お茶飲みながらしゃべっていても,内     えば家に帰るとビールを飲んで(スイッチ 面の苦しさみたいなものは,愚痴は我々に     を)切り替える。手抜きをしないけど自分 は少しもこぼさない。その点では,同僚で     の時間は結構大事に使っておられるんです あったり近い世代の保坂先生とか栗村先生     よ。だから学長が夜に電話してももう出て にはいってたかもしれませんね。(笑)      こないんですよ。これは自分の時間だから

それで先生はもちろん大学の研究者です     と。

から,研究者としてきちんとした業績を残  斎藤  そういえば夜は早くお休みになっておら したり学会に提示したいという気持ち,こ     れましたよねえ。

れが人一・倍強いと思うんですよ。何事も一  栗村  奥さんの内助の功というのがかなりある 生懸命,何事も手抜きをしないということ     のではないかなあと思います。またものす で,確かに学内行政も一生懸命取り組んで     ごく忙しい最中でも,例えば「明日からス おられるんですけど,何かやはり「俺はこ     キーにいってくる」というふうに切り替え んなはずはない」,「俺はもっと時間があれ     できる人だなあと思います。

ば研究の方に費やしたいんだ」という絶え      それで僕も夜はなるべく電話しなかった ずその思いを抱きながらの学内行政への一     んですよ。

生懸命さであって,そういう意味では今度  司会  とにかく夜は早いですよね。

定年退官されますが,むしろ非常なるハッ  保坂  早寝して朝4時とか,起きて朝仕事する ピーリタイアメント。 「やりたいことは山      んだ,というライフスタイルをとっておら ほどある」と日頃から言っておられるので,     れましたよね。

誰にも気兼ねなくすべての時間を研究や資  佐藤  いわゆる「朝型」ですね。

料収集,あるいはヒアリングに投入できる  斎藤  それが一つの工夫だったのかもしれない 日の到来を待ち望んでおられるのが今の東     ですね。  

先生ではないのかなと思うんです。ただい  栗村 そういう何か緩衝作用的なものを生活の中 まお話がでました農学部の統合とか大学改     に取り入れて,それを非常にうまく使って

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おられた。       たんです。

司会  保坂先生はその辺について何かございま      これはねえ,たまたまそこのところに引 せんでしょうか。       き込まれたということが一つあります。こ 保坂  今さっきちょっと考えていたんですけれ     の茨城大学の内部の事情というのは他の大

ども,学長との関わりが私たちの世代は強     学とは違う。他の大学にはない学友会とい かったんです。まあ,一・番最初は二方さん     う右翼系の学生がいましたから。そして民 が学長になったときに,生協,寮の封鎖解     青系,それに今度新左翼が加わるという複 除の問題で関わったんです。このときに私     雑な状況の中でイヤでも関わらざるを得な たちは生協設立の発起人というかたちのグ     いというそういう状況がひとつあったと思 ループとして関わったんです。これが学内     います。それから東さんも私も随分学内の

のいろいろな業務に関わる最初でしたね。     行政,政治的なことでエネルギーを使った       ●

アのときはまだ肩書きが何もなく,生協設     けれども,逆に言えば学問だけをやってい 立の発起人として二方学長とはいろいろな     るよりはその中で揺さぶられていることで,

かたちで関わり合いました。それで二方氏     ある貴重な人生の一面をみたのかもしれな が二期目をやるつもりでいたのが,やめな     いし,その中で結局でたらめなことを言う さいと言われて結局4年で辞めたんです。     人のことをほっとけないという気持ちが私 その後工学部から徳江さんが出て,徳江さ     にも東さんにもあったと思いますよねえ。

んが「ダルマさん」というあだ名でね,学     だから「逃げない」ということについては 生からこっちといわれるとその学生の何々     世代的に共通しているかもしれません。つ を書いて,あっちの学生からあっちといわ     まり研究・教育だけではなくて,やっぱり れるとまたその学生の何々を書いてという     行政も含めて大学全体のことに関わってい 具合でした。学内はあの当時3分裂ですよ。     く。一度関わったら途中で逃げない。ある いわゆる,運動会系の学友会,それと寮を     いは逃げられなかったのかもしれないとい 中心とする民青系,それから新左翼ね。そ     うことでは共通しているかもしれないです れでもう学内が乱れに乱れて,二方さんは     ね。これが世代的にいえばだいたい昭和7 平時であれば名学長だったでしょうが,そ     年ぐらいまでの人たち。昭和10年以降生ま こを裁ききれないで,それで結局年中酒飲     れの人たちには私はきわめて違和感が強い。

んでてね。生協設立が二方さんのときにあっ     まだ(昭和)8年9年ぐらいまでの人は共 たんですけれどもね,二方さんのお宅へ外     通感があるような気がするんです。どうも からじゃんじゃん抗議の電話がかかってき     昭和一桁というのは世代的に合う感じがあ てね。自民党系の人たちがものすごい圧力     るんです。これは逆に言えば大学を出てす をかけてきて,それで二方さんは年中酒飲     ぐ大学にきた世代であるけれども,ただ雑 んで,学生との話し合いの席に酒の臭いを     用とか教育がイヤだという人たちとはちょっ プンプンさせて出てきたときもありました。     と違ったという点があったと我々は思いま

このときがやはり東さんと私が大学に関     す。

わりをもった一番最初だったでしょう。そ  斎藤  保坂先生は東先生と非常に親しくされて,

してその次が市村さん,そして秋田さん,     先ほどお話にもあったようにドイッで1ケ 浜田さん。だから学長のとき関わりがなかっ     月間行動を共にされたわけですよねえ。そ たのは徳江さん,それから秋田さんの次に     のずっと前からも,生協問題から始まって なった黒木さんのときはあまり関係がなかっ     公的な会議の場ではいろんなかたちで空間

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を共有されたといいますか,そういう場面     メートルリレーの場合に,800メートルの が多かったと思いますが,そこを離れてプ     中で200メートルを一人一人一生懸命走っ ライベートな面で研究室をお互いに訪問し     て,次にバトンタッチするわけですけども,

合うとか,あるいはお茶を飲みながらとか,    次にバトンを受けてくれる人がいると思う そんな日常会話のレベルで,先ほどでまし     から200メートルを一生懸命走ったのに,

た愚痴の件ですが… 。       「おまえよく走ったからもう一回走ってく 保坂  私は愚痴を年中聞きました。         れ」と言われたってこれはもう走れないん 斎藤  例えばどんな類の愚痴なのでしょうか。     だということなんです。だから与えられた 保坂  誰だって自分で耐えている部分はあるん     期間は一生懸命やるけれども,その後は誰 ですよ。やっぱりそれを誰かに話したいと     かがきちんと受け継いでくれなければ事態 いうことはあるんじゃないですか。だから     が進まないんだということをよくおっしゃっ 私は年中愚痴を聞いていました。それから     ていましたねえ。ところが,どうも一生懸 さっきお話ししたように体が大きくてしか     命やったから有能だからもう一回やってく も心の優しい人でしたね。優しすぎる面も     れということが結構多くてということ… 。 あったかもしれない。とにかく彼は年中傷  保坂  まあ,ぎりぎりまでお話しするならば,

つきました。だから彼から愚痴を聞かされ     結局100メートル全力で走ったらまた200メー るとこうしていられなくなるという気持ち     トル,200メートル走ったら300メートル。

でした。       二方氏の生協設立のときはともかくとして,

まあやっぱり人間というのは強いばかり     関さんのとき,市村さんのときでもう終わっ ではなくて必ず弱い面もあるわけで,その     ていたんですよ。そしたら秋田さんのとき 弱い面が誰かに守られているときにはもう     にもう一回やったわけです。東さんと私と 片っ方も強くなれるわけでね。だから例え     で。これで彼は心身ともにガタガタになっ ば私だって彼がいなければがんばらなかっ     たんですよ。これは「利用の体系」に組み たと思いますよ。彼も同じだと思います。     込まれたという感じがしますなあ。しかも やっぱり彼のことをわかって彼のことを支     利用の体系は表だっては,何といいますか,

えてくれている人たちが彼の周りにいたか     大義名分があって,その利用の体系の中に ら彼だって我慢するんですよ。それともう     私たちはいつの間にか組み込まれていて,

一つ申しておきたいことは,私は長い茨城     そして力尽きていたという感じでしたなあ。

大学の中で常に「人材利用の体系」があっ  斎藤  そういう利用の体系に組み込まれてしまっ たということです。これについて私と東さ     て,しかしその体系から離れるには空間的 んは一貫して極めて怒りを感じているんで     にも離れるしかない。つまりドイッという す。つまり東さんと私はある意味では利用     地に行かれていた保坂先生との1ケ月間と

されたという面があるわけです。これに対     か短期の在外研究で行っておられた2ケ月 する抵抗感というのは東さんと私は極めて     間というのは,東先生にとっては非常に精 強かったと思いますよ。       神的にも肉体的にも伸びやかに…  。 斎藤  確かに僕も何回か東先生から伺ったこと     (笑)

があるんですが,東先生は高校時代に陸上       しかも東先生は先程お話にでたように,

の選手だったんですよね。一時は800メー     博士論文は東ドイツの農業労働者に関する トルリレーだったでしょうか,埼玉県の記     研究ですし,大学院の若い時代から茨城大 録保持者でもあったそうです。つまり800    学に赴任してからの数年間はもっぱらその

(13)

テーマで研究されていましたからね。でも     くて半分の500ミリリッターのやつで,か ドイッには行かれていないんですよ。先生     れは1リッター飲んで,「もう一杯飲む」

がドイッに初めて行かれたのは保坂先生と     と言うから頼んだら,もう一杯持ってきて のときが最初でしょう。そのときの東先生     くれたんですが,あそこはおもしろいとこ の行動様式というか,どのような話をされ     ろで,最初に飲んだ色と違う色のビールを たのか,どういうところへ行かれたのかに     持ってくるんですよ,2杯目には。それか ついて少しご披露いただければと思うので     らもっとおもしろかったのは,私の側にね,

すが。       なんだか非常に寂しそうな女が座って飲ん 保坂  そのときは私は76年にドイッに1年行っ     でいて,ああいうミュンヘンのホーフプロ て,図書館長を6ケ月ぐらいで彼にバトン     イハウスというのは若い男女がきてどんちゃ

タッチしちゃったわけでしょ。だから彼が      らどんちゃら騒いでダンスやっているとい       5

cり2年まるまる図書館長やったんですか     うようなとこなんですよ。ところが私と東 ら,それで彼は心身ともにぼろぼろですよ。     さんとは男2人だけ,私たちの側には女の だからそれを償うという気持ちもあったし,    人が1人いてビールを飲んでいるんですよ。

秋田さんの農学部移転がつぶれ,この二つ     だれも側にいないんです。そしたらウェイ で彼も私も本当にもうぼろぼろですよ。そ     ターがきて「いつまでいるんだ」というわ れで在研に行くということが前の年の10月     けです。そしたらもう一・杯ビールを注文し 頃に決まっていましたから,言葉ができる     て,今度は我々のとこに彼女が来るんです かどうかは別としてドイツでどういう仕方     よ。そして「一緒に飲みたい」というんで で生活し,旅行し,滞在をするかというこ     す。それで我々はこんなのはつきあってら とは見ていればわかるんですよ。東さんは     れないというわけで,外に出ちゃったんで ああいう人だからじっと見てて,「ああな     す。だからそれまでに東さんは2杯飲んで るほど,こういう風に言えばいいのか」と     いて,飲んで外に出たら東さんが,「ちょっ

… 。(笑)      と保坂さん,トイレに行きたい」といって,

それで私が彼から金を預かっておいて,     私が「さっき行ったばかりじゃないか」と 支払は全部私がやったんです。そしてお金     いうと,「だってさっき2リッター飲んだ

を使ったときに東さんに報告して,足りな     んだから」というんですよ。

くなったらまた東さんから金もらって,そ  全員  わはははは(大笑)

して金を全部私が持って,支払は全部私が  保坂  ミュンヘンの後,日帰りでザルッブルク やって,飲むときは全部東さんが飲んで     まで列車で行ったんです。ザルッブルクも

…  。(笑)      見たかったので…  。

支払は平等にして。(笑)        斎藤  そのとき,農村などもお二人でいらっしゃっ それでね,今でも覚えているのはミュン     たんですか。

ヘンに行って何日か泊まったんです。まず  保坂  いやあ,全然。要するにドイツ人との日 彼はミュンヘンのホーフプロイに行くんだ     常生活でのつき合い方とか旅行の仕方とか ということで「保坂さん,あんたは絶対に     のノウハウを吸収したいということだった 証人になれ」と「俺はあそこで1リッター     んじゃないでしょうか。彼はその後またミュ で2杯飲む決意を決めているんだ」と言う     ンヘンに行って,ミュンヘンというのは極 んですよ。それでそこのホーフプロイに行っ     めて人柄は明るくて愉快な人たちが多いと て注文したんです。私は1リッターではな     ころですね。彼の場合もああいう人柄だか

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