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Raymond, et al., Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959, p. 5. (以下、OCI

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(1)

誰もが自分をありのままに見せようとはしない。そして、誰もが他者をそのあ るがままの姿において見ようとはしない。いかにすれば真の人間的なコミュニケ ーションは可能となるのか。ルソーはたしかにこの課題に生涯取り組んだ。「自 分と同じ人間仲間に、ひとりの人間をその自然のままの真実において見せてやり たい。そして、その人間というのは私である(1)」という前口上とともに始まる自 伝『告白』は、存在と外見の一致をなんとか一個人の名において回復させようと した試みである。しかし、自分をありのままに見せることも、また見てもらうこ とも絶対的に不可能な〈論争〉という場に巻き込まれたとき、論敵という名の他 者が圧倒的な悪意をもって自分に対峙してきたとき、この「繊細なる魂の持ち主」

はいかに振舞ったのであろうか。以下の論考は、語用論ないしは発話行為の言語 学の観点から、論争家としてのルソー像を浮き彫りにしようとしたものである。

その際には、ルソーが用いている様々な説得的手段のうち、とりわけ「カリカチ ュア」に焦点を当てた。そもそも「カリカチュア」とは何かという定義的議論に は深入りせずに、それが実践されている現場そのものにとにかく立ち会って、そ れが展開される様を描写・分析することに焦点を置いた。

資料体としては、1751年にルソーが刊行した「グリムへの手紙」を選んだ。

プレイヤード版にして20ページ足らずの小品であり、本格的な論考の対象とし

(1) J.-J. Rousseau, Œuvres complètes, I, éd. sous la dir. de B Gagnebin et M.

Raymond, et al., Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959, p. 5. (以下、OCI

略述)

──────────

ルソーによる、ルソーのためのカリカチュア

──「礼節」を込めて──

越   森 彦

(2)

て取り上げられたこともないマイナーなテクストであるが、『ボーモンへの手紙』

や『山からの手紙』などの後の論争書に散見される説得的レトリックが凝縮して いる。このテクストに関して、論旨を理解するうえで必要な情報のみを紹介した (2)。「グリムへの手紙」(以下、「手紙」と略述)とは、1750年に刊行された

『学問芸術論』(以下、『学芸論』と略述)をめぐる論争の際にルソーが書いた書 簡形式の反駁文である。「グリムへ」とあるが、実際にその標的となっているの は、ジョゼフ・ゴーティエという司教座聖堂参事会員である。つまり、ルソーは 当時まだ友人であったグリムへ語りかけるという体裁を取りながら、175110 月の「メルキュール・フランス」に「1750年にディジョンアカデミーの賞を獲 得したある論考の反駁」(以下、「反駁」と記述)と題する文書を発表した論敵ゴ ーティエに反論を試みているのである。

さて、本稿では、カリカチュアを、論敵の意見を意図的に歪曲した形で読者の 前に提示する技術とだけ定義したい(3)。たとえば、それは次のような発言に用い られている。

彼(ゴーティエ)の反論は容易に予想がつきます。彼はこう言うでしょう。「読 み書きもできない野蛮人を賞賛してみせるような恥知らずな作家達を信用せよとい うのか。素っ裸で歩き回る人間達にも慎ましさはあるし、生肉を食らうような人間 達でも美徳を持ち合わせているなどと考えろというのか」と(4)(OCIII, p.61)

(2)

より詳しくは、以下の文献を参照されたい。Dictionnaire de J.-J. Rousseau,

pub. sous la dir. de R. Trousson et F. S. Eigeldinger, Honoré Champion, 2001, pp. 513-514. / G. R. Havens, (éd.), Discours sur les sciences et les arts, Modern Language, New York, 1946.

(3) Cf. A. Duprat, « Dérision-Contestation », Hermés, N° 29, 2001.

(4) J.-J. Rousseau, Œuvres complètes, III, éd. sous la dir. de B Gagnebin et M.

Raymond, et al., Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1964, p. 5. (以下、OCIII

と略述)

──────────

(3)

このようにルソーはゴーティエの反論内容を想像している。注意すべき点は、

その際に論敵の主張の一部だけを取り上げ、いわば拡大解釈して、故意にその内 容を誇張している点である。別の箇所では、ゴーティエの反論の仕方について、

ルソーはより辛辣なカリカチュアを行っている。

ゴーティエ氏は私に反論するのには私がノンと言ったすべての箇所でウイと言い、

私がウイと言ったすべての箇所でノンと言えば、それで事足りると考えているので あります。(OCIII, p.62)

このようなまとめ方は誇張hyperboleをたぶんに含んだものであり、ゴーティ エの主張を客観的に提示することを目的としたものでない。引用文は、読者の笑 みを誘おうという明確な意志に貫かれている。

しかし、なぜルソーはかくも執拗にカリカチュアを用いてゴーティエを攻撃す るのか。そこには、礼節politesseにともなう存在と外見の不一致という問題が 横たわっている。ゴーティエのディスクールにおいて、それは発話内容と発話行 為の不一致という形で現れる。実際、「反駁」は、礼を尽くすように見せかけな がらも、ルソーをひたすら攻撃していた。しかも、その攻撃はほのめかしによっ てなされているだけいっそう陰湿である。「反駁」の導入部において公の討論へ の参加を正当化するにあたって、ゴーティエはポーランドのスタニスラス王を引 き合いに出している。つまり、「無知を賛美する」学説が反論されなかったらば、

「スタニスラス善良王の名誉が後世傷つけられるだろう」というのである。ちな みに、ゴーティエは自分の地位をスタニスラス王に負っていることを付言してお こう。同様に、『学芸論』の作者を脅かそうとしながらも、それを直接的に行う のは避けるために、「今世紀に対して向けられた嘲笑的な言葉」によって標的と されたものとして、「歴代のフランス国王」によって擁護されてきた「パリ大学」

を筆頭とする「尊敬すべき機関」を取り上げている。ゴーティエの言葉が狙って いるのは、パリ大学の教授陣を経由してスタニスラス王からフランス国王までの

(4)

高い地位にある者たちの間に不安と怒りを引き起こすことである。ゴーティエの このような陰険なやり口をルソーは次のような言葉でカリカチュアしている。

いたるところで、ゴーティエ氏はこれ以上ないくらい礼儀正しく(« avec la plus

grande politesse »)私を扱ってくれているにもかかわらず、いかなる機会も逃さ

ないようにして私に対して敵を煽動するようにしているのです。この点に関しては、

彼は学校の教師から最高権力者にいたるまで目配せをしています。(OCIII, p.67)

ここでカリカチュアの対象となっているのが、ゴーティエの「礼節」に他なら ない。ゴーティエの攻撃の巧妙さは、自分の真意を決して表明しないことにある。

「弁論者に特有の華々しさ」でもって語りはするものの、肝心な点になると暗示 的にしか語らなくなるのである。ルソーのほうでは、「今世紀ほど正直な言葉遣 いが見受けられることはないと思うのですが、これこそまさにゴーティエ氏を驚 嘆させる点なのです」とゴーティエの「善意のなさ」(OCIII, p.68)を皮肉るこ とで最初は満足している。しかし、反撃の矛先を少しずつ鋭くしていき、ゴーテ ィエが偽りの礼節に惑わされているだけでなくて、自分自身が率先して実践して いるのだと指摘する。さらに、批判の内容が辛辣になるにつれて、カリカチュア もより嘲笑的なものになっていく。

当世風の礼儀作法は、それを守るならばたくさんの利益をもたらします。ゴーテ ィエ氏が私に反論するのも、つまりは礼儀作法によるものなのでしょう。彼はあら ゆる予防策を張って、あらんかぎりの術策を用いながらも、実際は誰にも自分の意 見を信じてもらおうなどとは思っていないのです。

そうだからこそ、私に対する反論の中でのっけからぬけぬけと、「自分が擁護す る主張は自分が語りかけている集団(=ナンシー・アカデミー会員たち)および自 分がその法のおかげで優雅な生活を送れている偉大な王(=スタニスラス王)の幸 福に関わるものだ」などと主張できるのです。

ゴーティエがナンシーのアカデミー会員の前で述べた言葉を、ルソーは脅迫的 言辞として捉えた。そして、次のようなカリカチュアによって、ゴーティエの暗 黙的脅迫をこだまのように響き返している。

(5)

これはまさに彼が次のように言っているようなものです。「諸君、あなたがたは 私の主張を正しいと思わなければなりません。さもないと、あなたがたの尊敬する 保護者に対して忘恩の行為を犯すことになりますよ。(中略)だから、あなたがた がどのような側面から私の論議を検証するにせよ、それがちゃんとしたものかにつ いて、あなたが難色を示すことなどありえないと確信する権利が私にはあるのです」

(OCIII, p.67)

さらに、追い討ちをかけるように、ルソーはゴーティエの(想像上の)脅迫的 言辞を次のように批判している。

はっきり言って、このように話す人というのは、人に自分の説を納得してもらお うというよりも、他人の口封じをすることに躍起になっているのです。(OCIII, p.

67)

そ し て 、 ゴ ー テ ィ エ の 「 善 意 」 に 疑 い の 目 を 向 け て 、 そ の 文 書 を 偽 装 simulationと隠蔽dissimulationの産物であるとみなしている。

彼は習俗の腐敗の結果を原因と思わせ、すべての良識ある人に彼の言う諸原因な るものの第一原因にまで自分で遡ってみるように勧めています。その巧みなやり口 にご注目ください。また、自説のもたらす結論を読者に自分で考えてもらおうとし て、彼がどんなに無知を装っているにかにもご注目ください。実際には彼が知らな いということはありえないようなこと、そしてすべての歴史家の見解が一致してい るようなこと、つまり、アテナイ人の習俗と政府の頽廃は雄弁家達の仕業であると いうこと、この点についてまで無知を装っているのです。(OCIII, p.68)

ゴーティエの「反駁」を特徴づけているのは、語る主体としての「私」が徹頭 徹尾統一性を欠いている点である。ルソーはそこに偽装の匂いを嗅ぎつける。ゴ ーティエは文明の腐敗の原因と結果について誰よりも熟知しているにもかかわら ず、原因と結果を取り違えて考察しているかのような「フリ」をしている。その 目的はなにか。それは、「巧みなやり口」(« art »)を駆使することによって、「す べての良識ある人」を騙してみせることである。ここで用いられている« art » という言葉は、蔑視的なニュアンスを有しており、読者を欺くための策略を暗示 的に意味している。また、ゴーティエは隠蔽工作を働く者としても見なされてい

(6)

る。「実際には彼が知らないということはありえないようなこと」、「すべての歴 史家」によって認められている歴史的事実を「知らないふりをしている」からで ある。ゴーティエが知らないわけがないとルソーが断定するのにはわけがある。

それは、ゴーティエが「歴史学の教授であり、数学の教授でもあり、ナンシーの アカデミー会員」であるという事実である。このような肩書きの人物がすべての 歴史家に認められているような基本的事実を知らないわけはない。あるいは少な くとも、知っていると見なされてしかるべきである。それにもかかわらず、彼は 知っていることを否認している。彼は「誠実に」話していないとルソーが判断す る所以である。ルソーはゴーティエに発話内容の責任を負わせることができない。

発話行為の背後に、隠れているもう一人の語り手の存在を看取してしまうのであ る。発話行為において中心的な位置を占めているのは、つまり「心情の奥底」に より近い場所を占めているのは、もう一人の他者なのではないか……そこでルソ ーは、先の引用箇所の直後で、次のように言い切っている。「しかし、こうした ことは、単なる推測にすぎないのであって、それが真実であるとまで請け負うつ もりはありません」(OCIII, p.68)。つまり、今自分が述べたばかりのことについ て、今度は彼のほうが自分の言ったことについて責任をもたないというのだ。

このように、ゴーティエの真似をして、ルソーもまた自分自身の発言の責任者 として自己を規定することを拒否している。この観点からすれば、ルソーがゴー ティエの反論に答えなかったというヘイヴンスとコールマンの解釈には若干の修 正が必要であろう(5)。なぜなら、ルソーはゴーティエの反論の仕方を忠実に真似 ているからである。ルソーもまた、「心情の奥底」では自分と分離した内容の発 言をすることを戦略的に選択したのである。この点で注意したいのは、ルソーが ゴーティエをその悪意ゆえに信じるに足らないと思っている素振りを見せている 点である。「私はゴーティエ氏に反論する必要があるとは思えません」とルソー は「手紙」の冒頭部において述べている。ゴーティエの「反駁」に反論する価値 がないのは、そのやり口があまりに陰険だからである。「反駁」の冒頭部分でゴ ーティエは自分がこれからする議論をこうまとめている。「ここで扱われるのは、

(5) Voir G. R. Havens, op.cit., p. 38. / Dictionnaire de J.-J. Rousseau, (op.cit.), p.513.

──────────

(7)

賛成でも反対でも何でも論じて見せるような文学的パラドックスではありませ (6)」。この文章に関して、プレイヤード版の註には、「ルソーに対する非難がゴ ーティエによって述べられているわけではない」(OCIII, p.67, n. I.)とあるが、

実際は、これ以上ないぐらいの皮肉的ニュアンスが込められている。「ここで は」、つまり、〈私(ゴーティエ)の〉ディスクールにおいては、「文学的パラド ックス」はありえないが、(暗示的に示されている)「あそこでは」、つまり、〈彼

(ルソー)の〉ディスクールにおいては充分ありえる話である、といった意味内 容のニュアンスがゴーティエの発言には含まれている。それはルソーに対する

「非難」以外の何物でもない。自分の「エートス(7)」を損なうことなく、また、

「おしつけがましい様子」(« air contrariant »)を見せることもなく、人を傷つけ るような当てこすりallusionを駆使する礼節の言語のもう一つの具体例といえよ う。ルソーはゴーティエの悪意に満ちた当てこすりにはっきりと気づいており、

こう言い返している。「ゴーティエ氏は私が自分の弁護している主張をまったく 信じていないと自信たっぷりに非難していますが、彼にしても本気でそう言って いるわけではないのです」(OCIII, p. 67)。これは典型的な« Tu quoque »(お前 も同じ)型の論法である。つまり、論敵からある行為について批判されたときに、

それと類似した行為を相手もまた犯していることを指摘することによって、論敵 の批判を無効にするのである。換言すれば、ルソーは敵の武器(自分の言葉を信 じていないという批判)を取り上げて、それを使いながら反撃に出ている(8)。敵 によって放たれた「人に訴える議論」(argument ad hominem)を自分に有利に なるようにして送り返すのがルソーの常套手段である。それが遺憾なく発揮され

(6) R. Trousson, J.-J. Rousseau. Mémoire de la critique, Presses de l’Université de Paris-Sorbonne, 2000, p. 51.

(7)

この「エートス」という言葉を筆者は、R. アモシーにならって、「話し手が聴き 手の信頼を得るために自分自身に与える自己像」という意味で使っている。Cf.

Images de soi dans le discours. La construction de l’ethos, sous la dir. de R.

Amossy, Delachaux et niestlé, 1999.

(8)

ルソーの反論は常に同一の原理に従っている。論敵の土俵にあえて身を置いて、

「論敵から取り上げた論敵自身の武器によって攻撃を仕掛ける」ことからなる「逆 ねじ」rétorsionを論争法として採用している。Cf. M. Angenot, La Parole

pamphlétaire. Typologie des discours modernes, Payot, 1980, p. 219.

──────────

(8)

たのが、次のようなほのめかしである。

私はゴーティエ氏より多くの根拠をもって、彼は密かに私と同じ意見なのではな いかと疑っているのです。彼が占めている地位や置かれている状況が、私に対して 反対の立場を取らせるようにしているのではないでしょうか。(OCIII, p.67)

ルソーは論敵の人格をその社会的地位によって判断している。大学教授にして ナンシーのアカデミー会員という華々しい肩書きは、通常では作者としての権威 を高めるものである。しかし、論敵にとって有利なはずのこの点をルソーは逆手 に取る。そして、論敵の議論を突き崩すことに利用している。つまり、学問と芸 術を擁護するのにゴーティエはあまりにふさわしい社会的地位をしめている、そ れがゆえに、彼は学芸の擁護にふさわしくない人物である、という論法である。

端的に言えば、ゴーティエは立場上やむをえないので反駁しているにすぎないと ルソーはほのめかしている。一切の議論を封じるために、ゴーティエには「真面 目さ」が足りないとルソーは反撃しているが、それはまさに自分がされたことを 相手にそっくりそのままやり返しているのである。

ゴーティエは「手紙」が発表された後にもう一度反論を発表した。その際には、

議論を回避したルソーが「反論のための小冊子が何巻にもおよぶものになる」こ とを危惧すると言いながらも、「何も言うつもりはないと言うために30ページも 費やしている(9)」ことを批判している。しかし、それこそがまさにルソーの策略 なのである。「手紙」というテクスト全体が、「ある一つのディスクールにおいて、

話し手が実際には言っていることを言わないと言う(10)」ことからなる、一種の逆

(9) Observations sur la Lettre de M. Rousseau, de Genève, à M. Grimm (1752), etc.

par M. Gautier, Chanoine Régulier, Nancy. Voir L. Tente, Die Polemik um den ersten Disours in Frankreich und Deutschland, thèse dact., Kiel, 1974, p.367.

(10) M. Aquien et G. Moliné, Dictionnaire de rhétorique et de poétique, Livre de Poche, 1990, p.320.

──────────

(9)

言法ないしは暗示的看過法prétéritionを形成している。それは偽装に基づいた レトリックである。自分の発している言葉と自らを切り離すがゆえに「真面目さ」

と「善意」を欠いた論敵に対する報復措置として、これ以上に適したものはある まい。実際、この暗示的看過法を用いることで、ルソーもまた言葉と行動の断絶 に特徴づけられた礼節の言語を実践している。次に引くのはその一例である。

したがって、私はゴーティエ氏に反駁するつもりはありません。これはもう決ま ったことなのです。真面目に反論に答えたり、それを逐次検討するようなことはで きそうにもありません。あなた(=「手紙」の宛先人であるグリム)にはその理由 がお分かりになるでしょう。辛辣な嘲笑、皮肉、厳しい揶揄を用いるようなことは、

ゴーティエ氏が光栄にも私に与えられた賛辞の数々を認めないことになるでしょ う。(OCIII, p.68)

実際には、ここで使用を避けたいとうそぶいている嘲弄的なレトリックのすべ てをルソーは用いている。痛烈な皮肉の込められた「揶揄」の具体例としては、

次のようなアレゴリーが挙げられよう。「絵を公開して展示する画家が、鑑賞者 の目を詳しく検診して、もし必要とあらば眼鏡を提供するなどということは聞い たためしがありません」(OCIII, p.60)。眼鏡のアレゴリーによってルソーが暗示 的に嘲笑っているのは、「反論している作品を理解せず、理解しようともしない」

ゴーティエの知的不誠実さである。ルソーは自分に寄せられた反論に対して逐次 対応することはしない。むしろ、読者の笑いを自分の側に引きつけることによっ て、論敵の矛先を鈍らせる戦術を取っている。そのために用いられている言述的 手段が、カリカチュアによる引用である。つまり、わざと滑稽な形に論敵の主張 を歪曲したうえで、論敵がさも本当にそう述べていたかのように読者に紹介する のである。具体例を一つ引用しよう。

礼節に関する話の中で、ゴーティエ氏が明らかにほのめかしているのは(« Il

fait entendre très clairement que … »)

、善行の人となるためにはまず偽善者とな るのがよく、虚偽は徳に到達するための確実な道であるということです。(OCIII,

p.59-60)

このように、ルソーは間接話法によってゴーティエに語らせている。その目的

(10)

はゴーティエの言葉を突飛で場違いなものとして読者に提示することにある。実 際、ルソーのディスクールを通じて浮かび上がってくるのは、安易で退廃的な順 応主義の産物でしかない。ゴーティエの主張を報告する« Il fait entendre très clairement que… » という導入文に注意しよう。« faire entendre »という成句動 詞は、« très clairement » という様態要素的形容詞に付き添われている。それは、

二つの点を前提としている。 接続詞の« que » に続く従属節内では充分に説得的 な内容の言説が展開されるであろう、という点が一つ。ゴーティエはその発言内 容の有効性に対していささかの疑いももっていない、という点がもう一つ。とこ ろが、実際は、従属節内で提示されている思想は、「善行の人となるためにはま ず偽善者となるのがよい」という馬鹿げたものであり、このうえなくパラドック スに満ちていて不条理かつ常軌を逸しているとすら言える。少なくとも、ルソー によってそのようなものとして提示されている。ここで注意すべきは、ゴーティ エの不条理な思想に対して、ルソーがいかなるコメントもしていないことである。

まるで怒りを通り越して醒めきっているかのようである。つまり、対立はあまり に根源的であるうえに、ゴーティエの主張の不条理性はあまりに自明であり、も はや何も読者に述べることはないというわけである。これは、「沈黙に訴える」

型の議論の一例であろう。軽蔑的な沈黙を保つことで、自説の優位を示すのであ る。読者の方では、自分の判断の正しさを確信しきっているゴーティエの傲慢な 態度と彼が表明している思想の間に存在する滑稽なまでのズレを確認するよう促 されている。同じことは以下の導入文にも言える。

−ゴーティエ氏は誇らしげにこう私に尋ねます。(OCIII, p.60)

−ゴーティエ氏は私が引用してもよい作家を私のために選ぶのを適切なことだと お考えです。(OCIII, p.61)

−ゴーティエ氏は私が以下のように述べたと責めておられます。(OCIII, p.65)

うぬぼれた男、傲慢不遜な批評家、攻撃的な難癖屋、という印象をそれぞれの 導入文が与えている。どれもゴーティエのエートスを破壊することに貢献してい る。

ここで、先に問題となった« faire entendre très clairement » という動詞句に 戻ってみよう。一見すると、« dire » « répéter » « annoncer » などといった動詞

(11)

と同様に、それは純粋に描写的な価値しか有していないように思われる。つまり、

これらの動詞が使用されているとしても、それ自体ではなんらかの解釈を強要す るものはない。ところが、 « que » 以下の補足節において伝達された情報の内容 によっては、« faire entendre très clairement » という成句的動詞は、なんらか の価値判断を下すことを暗々裏に読者に要求することもありうるのである。当然、

この場合の価値判断とは否定的なものであり、その判断の対象は« que » 以下に 引用されたディスクールの話し手であるゴーティエに他ならない。そして、判断 をするのは読者である。では、ルソーは何をするのであろうか。ルソーのほうで は、肯定的であれ、否定的であれ、なにも判断を下さない。引用されたディスク ールの単なる発話者あるいは報告者という立場を保っている。いかなる意見を持 っ て い る の か は 不 明 で あ る 。 こ の よ う に 、 ル ソ ー は 直 接 的 な 「 人 身 攻 撃 」

(« personnalités »)によって自分のエートスを危機に晒すような事態を慎重に避 けつつも、論敵の知的能力に懐疑的な視線を投げかけることに成功している。

ところで、O.デュクロは会話という言語的交換が機能するための条件として、

必要なことのすべてと必要なことのみを述べるという「網羅性の法(11)」を挙げて い る 。 ル ソ ー が や っ て い る の は 「 情 報 の 故 意 の 言 い 落 と し 」(« rétention d’information »)であり、網羅性の法に対する明らかな違反行為である。ルソー によれば、善行の人となるためには偽善者となることから始めなければならない とゴーティエは主張している。しかし、実際には、ゴーティエはそんなことはま ったく主張していない。歴史学者としてのゴーティエの主張の要諦は、礼節とは 一つの社会的規範であり、各人はそれに基づいて行動せねばならぬという点にあ る。原初的で自己中心的な衝動に均衡を与えることを望む自然の「欲求」から生 まれたのが礼節なのである。このようなゴーティエの(本来の)主張をよく踏ま えて「手紙」を読むと、ルソーが徹頭徹尾一種の取り違えquiproquoを演じてい ることが分かる。無論、ルソーは戦略的に取り違えているフリをしているのであ って、本当にゴーティエの主張を理解していないわけではない。公開の討論の場 では、取り違えという偽装戦略が用いられる。そのことをルソーはよく知ってい た。この点は次の発言にも明らかであろう。

(11) O. Ducrot, Le dire et le dit, Minuit, 1984, pp.210-213.

──────────

(12)

我が論敵たちに聞いてみたいのです。どちらを私に非難してほしいのかと。きわ めて明晰な意味の文章でも意味を読み取ることのできないあなた達の頭なのか。あ るいは、その意味を理解していないかのように振舞っているあなた達の不誠実さな のか。(Lettre à Lecat, OCIII, p.102. 下線部筆者)

論敵たちは自分の考えを理解しなかったかのようなフリをしている。そこで、

ルソーは自分もまたそういうフリをしてみせるのである。礼節が必要なのは、社 会秩序にうわべだけでも円滑さを与えるからである。そのようにゴーティエが礼 節を社会的有用性に安易な形で結びつけたことは事実であろう。しかし、ゴーテ ィエは「善行の人」になるためにはまず「偽善者」でなければならないとはまっ たく主張していない。ちなみに、「善行の人」も「偽善者」もゴーティエの原文 には一度も出てこない言葉である。礼節の起源を説明することで、礼節の社会的 な道徳調整機能を正当化するのがゴーティエの真の狙いであった。

この点で、ゴーティエの「反駁」には、ラ・ロシュフコー以来のモラリストの 伝統が脈々と流れている。『箴言集』の作者もまた、社会生活が円滑に機能する ためには、純粋にうわべだけであっても美徳があるふりをすることは有益である と考えていた。『考察』に収められた「社交について」と題された小論では、礼 節に関して、次のような功利的な発想が展開されている。

紳士の交際には一種の礼節が必要である。これによって冗談を言っても冗談だと 分かってもらえるし、あまりにもつっけんどんで愛想のない話し方によって人を傷 つけることも人に傷つけられることもなくなる。こうした話し方は、自説を熱心に 主張する時に、とかくそのつもりでなくても、つい出てしまうものである(12)

「手紙」においてルソーは、ラ・ロシュフコーがまさに避けようとしていること、

(12) La Rochefoucauld, Maximes, éd. J. Truchet, « Classique Garnier », Garnier Frères, 1967, p.187.

──────────

(13)

つまり、「あまりにもつっけんどんで愛想のない話し方」を意図的に実践してい る。礼節の理論家によれば、交際を快適なものとするには、各人は「自己愛」を 剥き出しにしてはいけない。他人の「自己愛」をいたわらなければならない。そ のためには礼節によって本心を偽装することが必要不可欠なのである。ゴーティ エの礼節を批判しながらルソーの念頭にあったのは、偽装行為の社会的有用性を 認めるラ・ロシュフーコーのような「悲観的」な思想であったに違いない。啓蒙 の世紀になると、ランベール夫人は礼節を次のように定義している。

礼節は社交に最も必要な資質である。礼節とは誠実さの模倣であり、人間を本来 ならば内面においてこうでなければいけないという姿で外側に提示することであ (13)

ランベール夫人によれば、内面の誠実さがうわべの誠実さに勝るのが事実とし ても、実際に心地よい人間関係が成立するためには、それが目に見える形となっ て現れている必要がある。根が誠実だとしても、それだけでは人に好かれること はできないのである。だからこそ、内面の誠実さが外に現れるのを助ける手段と して礼節が必要になってくる。この点で、ゴーティエの反駁文の成立過程におい て決定的な役割を果たしているのがパラディ・ド・モンクリフである。「人に気 に入られたい欲望」という表現からして『人に気に入られる必要性とその手段に ついての試論』の中の一章に由来するのであって、そこには次のように書かれて いた。

紳士にふさわしい性格を持ち合わせていて、多くの美徳をもっているというと、

さぞかし愛すべき人物なのだろうと思うだろう。ところが、実際は、その生活上の 原則と習慣はたしかにすばらしいのだが、いざ交際してみると実にとっつきにくい 人がよくいるものである。そういう人は一目に値するし、尊敬せずにはいられない のだが、あまり近寄りたくはないものである(14)

(13) Œuvres choisies de Paradis de Moncrif, (1748), tome I, Lenoir, 1801, p. 31, cité par E. Bury, Littérature et politesse. L’invention de l’honnête homme 1580-1750, PUF, 1996, p.196.

(14) Ibid., p. 196.

──────────

(14)

いくら美徳を兼ね備えていても、それだけで人に愛されるわけではない。人に 気に入られる術が一つの技として身についていなければ、美徳すらも傲慢不遜と 捉えられてしまう可能性がある。言い換えれば、ラ・ロシュフーコーやモンクリ フらの社交生活の理論家達にとっても、うわべだけでない本当の意味での美徳と いうものが確かに存在するのである。美徳を備えているかのように振舞うのは、

まさに美徳を重視しているからである。「そうであらなければいけないもの」に なるために、そうであるかのように見せようとするのである。「そうであらなけ ればいけないもの」そのものを愚弄するためではない。

以上概観したようなラ・ロシュフーコー以来のモラリストの伝統をゴーティエ は引き継いでいる。その主張をまとめれば以下のようになるだろう。礼節という

〈型〉をきっちりと体得することによって、美徳という中身が伴ってくる。とこ ろが、ルソーが伝えるところによれば、ゴーティエは「不誠実であることが美徳 に到達するための確実な道のりである」と主張しているという。ルソーは社交生 活の伝統的な理論家たちに抗して、「礼節」を「不誠実」の同義語とすることで、

論敵たちのキーワードを自分の都合のいいように再定義している。たった一つの 言葉を配置転換するだけで文章のすべての意味が変わってしまうということ。ル ソーはそれを重々承知したうえでやっている。ゴーティエが展開した議論を部分 的にしか読者に報告しないことで、ルソーはここでも戦略的に「取り違い」を演 じているのである。論敵の思想が馬鹿げたものに見えるようにすべく、論敵が実 際には主張していたのとは違うことを理解したかのようなフリをしている。

次に、この主観的再構成の方法について検討してみよう。それは、連合関係の 軸において行われる。ゴーティエの考えを伝える(かのように見える)文章のう ち、たとえば次のようなものを検討してみよう。

礼節によって飾られた悪徳なら、世に蔓延することなどないと彼はまた言ってい ます。(« Il dit encore que les vices ornés par la politesse ne sont pas

(15)

contagieux ». OCIII, p. 60)

一般的に、間接話法を導入する動詞としての « dire » は中立的であり、« que » 以下の補足節になんらかの発話内容があるということを指し示すにすぎない。と ころが、引用文における« dire » には、価値評価的な意味合いが込められている。

端的に言えば、それは話し手の軽蔑感を色濃く反映している。同様に、発話行為

の副詞« encore » もあまりにくだらない議論が続くのを前にした憤慨を表明して

いる。では、礼節の規範という社会的圧力の下に「美徳を真似る」ことを余儀な くされた人を、ゴーティエ自身はどのように語っているのだろうか。

彼の悪徳が世に蔓延するようなことはあるまい。私の論敵(=ルソー)が懐かし がっているような粗忽さをもって剥き出しになって現れたならば、そうなるであろ うが。

(« Ses vices ne sont pas contagieux, comme ils le seraient, s’ils se présentaient

de front avec cette rusticité que regrette mon adversaire. »)

これがゴーティエ本人が実際に述べたことである。しかし、ルソーによれば、

ゴーティエは次のように「言っている」ことになっている。

礼節によって飾られた悪徳ならば世に蔓延するようなことはあるまい。粗忽さをも って剥き出しになって現れたならば、そうなるであろうが。

(« Les vices ornés par la politesse ne sont pas contagieux, comme ils le seraient, s’ils se présentaient de front avec rusticité.

»)

一見すると、ルソーがゴーティエのものであると引用しているディスクールは 原文と意味的に同価値にあるように思われる。事実、« vices » 、« contagieux » とりわけ « comme ils le seraient, s’ils se présentaient de front avec (la) rusticité » といったゴーティエの原文にある語および語群のほとんどすべてが忠 実に再現されている。しかし、ルソーはここでゴーティエにあらぬ嫌疑をかけな がら、その評価を戦略的に貶めようとしている。二つのディスクールを比べてみ るならば、ルソーは密かに読者の解釈を一定の方向に導くために、ある一つの言 葉を配置している。その言葉とは、« les vices ornés par la politesse » という連

(16)

辞の中に配置された « ornés » という形容詞である。文法的な観点から言えば潜 在的に置換可能な言葉の体系の中から、この形容詞がわざわざ選ばれているとい う点を忘れてはならない。« les vices ornés par la politesse » という言葉の連な りにおいて、 « ornés » という単語は、« accompagnés » や« protégés » ないし

« dirigés » ですらもありうる。« ornés » という形容詞は二つの理由で価値中

立的な言葉ではない。最初に、「礼節」という言葉は、ゴーティエにあっては、

人は向上心や理性の仕業によってのみ動くものではないという人間の心理的動機 付けに関する醒めた見方にその基礎を置いているが、ルソーの言葉はそのような 知的背景を遠く後景へと追いやっている。情念のもつ圧制的で無法的な力に屈服 しないためには、礼節の規範がもたらす「絶えざる警告」が必要となる。これが モラリストの伝統を引き継いだゴーティエの見解である。ゆえに、礼節は悪徳を 隠したり、それを美しく見せるために身に着ける「飾り」などでは決してない。

礼節とは人間が情念に抗して作った一種の防波堤なのである。さらに、« ornés » という形容詞には価値に関するコノテーションが含められており、読者の判断を 誘導している。礼儀作法について語るために装飾のメタファーを用いなければい けないようなコンテクストなど何もない。問題の形容詞はまったく個人的・主観 的なものであり、礼節という議論の対象に対してルソーがどのような立場を取っ ているのかを明確に示唆している。たしかに、「装飾」にまつわる言葉(« orner »

« orné »)はそれ自体としては何も価値評価的な要素を含まないとしても、『学

芸論』を参照してみるならば、にわかに軽蔑的なニュアンスをもって読者の前に 立ち現れてくるだろう。実際、進歩の批判者としてのルソーはデビュー作におい て、「あの卑しい装飾」(OCIII, p.8)や現代の画家が生活費を稼ぐために「二人 乗りの馬車の鏡板を猥褻な絵で飾っている」(OCIII, p.21)こと、あるいは同時 代人の精神を「飾り立てている」(OCIII, p.24)教育について批判している。つ まり、文明批判のたびに「装飾」をめぐる一連の語群が要請されているのである。

さらに、ルソーのカリカチュアは「不条理に訴える議論」を援用することで、

より明白で人目を引く形で行われている。社会における農業の位置づけについて 論じた次の箇所などはその典型であろう。

無益な仕事から我々を引き離すために、自然は我々に必要な労働を課したのです。

(17)

しかし、ゴーティエ氏は農業に対して軽蔑感を示されています。もし仮に何でも彼 の一存で決められるとしたら、農夫達はみな畑をほっぽり出して、学校で議論する ことになるでしょう。こんなふうに議論にかかずらうことが、ゴーティエ氏や他の 多くの教授達に言わせると、国家の安寧にとって最も重要な仕事なのです。(下線 筆者、OCIII, p.64)

ゴーティエの主張は、それがもたらすであろう事態の不条理性によって滑稽き わまるものに見える。しかし、それは、ゴーティエが推論によってたどり着こう とした結論とはまったく違う別の結論をルソーがわざと検討しているからであ る。論敵が馬鹿げたことをまくし立てているとルソーは信じているフリをしてい る。また、そのように読者に信じさせようとしている。この観点からすると、

「軽蔑感」(« mépris »)という言葉が選択されていることは重要である。それは 明らかな誇張hyperboleであり、論敵の言葉の価値を貶めることを目的としてい る。実際、ゴーティエは農業に対して「軽蔑感」などいささかも「示して」など いない。彼はナンシーのアカデミー会員に対して、こう呼びかけているのであ る。

ルソー氏によれば、あなた方が社会のためにどんなに日々貢献しようとも、適所 適材で選ばれたご自分の仕事を立派に勤め上げたとしても、あなた方は市民と呼ば れるのにふさわしくないのです。この肩書きは農民達のものなのです。それが欲し いなら、大地を耕さなくてはいけないと言うのです。すべての身分において優れた 市民を輩出しているような国をこのように愚弄しようとは、一体いかなる了見なの でしょうか(15)

この原文を読むと、ゴーティエが抱いている「軽蔑感」とはルソーの主張に向 けられているのであって、農業ではまったくないことが分かる。とはいえ、ゴー ティエが『学芸論』の内容を好き勝手に歪曲した形で伝えていることも事実であ る。そして、ルソーもまた同じやり方によって反駁している。つまり、カリカチ ュアという同じやり方で。

(15) R. Trousson, op.cit., p.60.

──────────

(18)

最後に、カリカチュアの特殊な使用法について言及しよう。ルソーは一種の読 解プログラムを提示するためにカリカチュアを使用している。つまり、カリカチ ュアによって、読者にイロニーの支配する世界へ入っていくことを告げているの である。話し手orateurの言説にはあいまいな表現が意図的に配置されている。

この点を意識して読むように読者は誘われている。この話し手はあくまで発話行 為によって創出された言説上の存在être de discoursであり、発話内容の責任を 帰せられる現実の作者écrivainとは異なる存在である。言説上の存在でしかない がゆえに、話し手は作者が真に思っていることとは別のことを表明する場合があ る。「手紙」の冒頭部分において、このような内容の「読書契約」が実は極めて 暗黙的な形でなされている。ゴーティエの主張を読者に伝える次のディスクール がそれである。

自己を偽る技術が進歩したならば、他人の真意を見抜く技術だって進歩したのだ とゴーティエ氏は主張しています。その人に気に入られているか、あるいはその人 の役に立っているか、どちらかでないかぎり、他人を信用してはいけないことぐ らい常識だというのです。いくら礼儀正しくても、うわべだけの言葉というのはそ れとなく分かるものであるということです。それは、おそらく、こういうことなの でしょう。たとえば、二人の人間が互いにお世辞を言い合ったとしましょう。そし て、一人がもう片方に心の奥底で、「私はあなたを馬鹿扱いする。そして、私はあ なたを嘲っている」(1)と思っているとしましょう。すると、もう片方のほうでも 心の奥底ではこう思っているのです。「私はあなたが厚顔にも嘘をついていること を承知している。しかし、私だってできるだけのお返しはしてみせるつもりだ(2)

と。私はゴーティエ氏に対してこれ以上ないぐらい辛辣なイロニーを用いようなど とは思いもしませんでした。しかし、もしも思ったとしたならば、だいたい以上の ようなことを申し上げることもできたかもしれません。(下線部筆者、OCIII,

p.60)

二人の男が互いに相手にとって心地よい言葉を並べているのだが、それは本心 からではまったくない。ルソー自身がパラグラフ末尾で言及しているように、二 人の男の空想上のやり取りは「イロニー」(« ironie »)によって成り立っている。

引用箇所において下線を引いた部分は原文ではイタリック体で書かれているが、

(19)

それは作家ルソーが架空のディスクールと自分を切り離していることを読者に目 配せしているのだと考えられる。実際、下線部(1)は作家の立場を反映させた ものではない。それは、ゴーティエのように裏表のある言葉を用いる「礼儀正し き」人々の立場なのである。(1)の発話は作家とはまったく別の発話的審級に よって担われており、この意味で、同じテクスト内における他の発話とは性質を 異にしている。その意味内容をゴーティエの真意に属するものとするならば、ゴ ーティエの評価を貶める性質のコノテーションが暗黙的に込められていることも 明らかだろう。

下線部(2)の発話に関しては事情がまったく異なる。ここでは、混声現象が 発生している。作家ルソーの声とその批判の対象となっている者の声。二つの声 がかぶさっている。たとえイタリック体で記述されていようとも、また、「イロ ニー」として提示されているとしても、(2)のディスクールは作家自身の声を 伝えている。さらには、これから始まる「手紙」を通して作家が採用し続けるこ とになるであろう言説上の戦略を入れ子構造の形で提示している。一見すると、

(1)と同様に印刷上の配慮を施すことで、作家は(2)の発話で表明されてい るような陰険な敵意は自分のものとして引き受けないかのように装っている。し かし、それはもはや、フリfeinteではない。イタリック体になっているにもかか わらず、ゴーティエというほかの審級にパロールが委託されているわけではない。

「私はあなたが厚顔にも嘘をついていることを承知している」という想像上の引 用文において、ゴーティエの見かけだけの礼節に騙されるほど単純ではないとほ のめかしている声。それは作家自身の声に他ならない。論敵が使ったのと同じ手 段を用いて即座に反撃する用意があることを作家は警告しているのである。「私 だってできるだけのお返しはしてみせるつもりだ」と。この観点からすると、ル ソーはここでもまたカリカチュアを用いているのだが、今回はその様式が二段構 えになっている。最初に、イタリック体と「イロニー」によって、虚偽の礼節を 礼賛するゴーティエのカリカチュアされた考え方と距離を置いているかのように 見える。本心を偽ったまま相手にお世辞を述べるという行為は、人間同士のコミ ュニケーションについて歪んだ考え方をしている何よりの証拠であるからだ。し かし、実際は、(2)の空想的ディスクールを作家は自分自身のものとして引き 受けている。なぜなら、自分の発言に対して距離を置く技術=礼節を駆使する論

(20)

敵に対抗するためには、自分も自分自身の言葉に対して距離を置き、責任の引き 受けを回避するしかないからである。

フランス流の礼儀作法に関するルソーの議論は、同郷人であったミュラルトの 議論をそのまま引き継いでいる。例えば、ミュラルトの『イギリス人とフランス 人および諸々の旅行についての手紙』(1728)では、日常生活におけるフランス 人の行動が次のように批判されていた。

フランス人の会話の仕方と振舞い方といえば、礼節を欠かすことはできない。フ ランス人たる者、傍若無人な発言で人を傷つけなければそれでよしというわけには いかない。礼儀正しさによって人の注意を惹きつけて、一目を置かれるようでなけ ればいけないのである。まったく彼らときたら、どんな機会も逃さずに礼儀正しく 振舞うのが実にうまい。(中略)つまらないことにも実に細やかな気遣いを見せる し、どうでもいいようなことでもうれしそうにやってみせるのである。そうすれば、

彼らの礼儀正しさはよりいっそう価値のあるものとなるし、日常生活のすべての行 動と発言内容に礼節が要求されるようになるというわけである。(中略)フランス 人は礼儀正しく手を差し伸べ、礼儀正しくその手を引っ込める。別の部屋へ行こう とする御婦人に付き添うときなど、あたかもその移動が一大事であるか、あるいは 足元が危険であるかのように、御婦人のもとへ駆け寄っては手を差し出すという始 末である(16)

ここでミュラルトが批判している事態を会話分析論の観点から捉えなおすなら ば、フランス人の礼節は本質的に「実定的(17)」であるといえよう。たしかに、フ ランス人たちは周囲の人間にとって不愉快であるような行為を慎むであろう。し かし、彼らの礼節はこのような戦略的回避にとどまるものではない。それはより 生産的かつ積極的なのであり、なにがなんでも人の自尊心をくすぐるような行為 をすることにその本質がある。その目的のためにはフランス的礼節はどんなに皮

(16) B. L. de Muralt, Lettres sur les Anglais et les Français et sur les voyages (1728), Paris, Libraire ancienne Honoré champion, 1933, p.196.

(17) Voir C. Kerbrat-Orecchioni, La Conversation, Le Seuil, 1996.

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(21)

相な言語的手段をも辞さない。これこそが、フランス人の馬鹿丁寧な手紙文句に 関してミュラルトが皮肉った点であった。

フランス人は自分の宛先人に手紙を書くことを「名誉」としている。彼の「下 僕」、彼の「非常に卑しい下僕」、彼に「服従した下僕」であること、それも「完璧 に」「多大の敬意と尊敬の念を込めて、きわめて特別に、きわめて融通無碍に、き わめて完璧に」彼の「下僕」であることを「名誉」としている(18)

あのモンテーニュのように(19)、ミュラルトもまた、純粋に形式的で上っ面だけ の儀礼表現に対して拒否的反応を示している。ただ、それらの儀礼表現の数々を フランス人が用いるのは相手の「面子(20)(« face »)をつぶさないようにするた めである。

フランス人たちは誰に対しても礼儀正しくあろうとする。自分よりも身分の高い 者に対してだけでなくて、自分と同等の者に対しても礼をつくそうとする。こうな ってくると彼らのやっていることは服従の交換である。たいていの場合、彼らは自 分たちの卑しくも忠実な下僕であることを名誉にしている者たちの卑しくも忠実な 下僕であることを名誉にしているのである。それはまるで何時間も互いに頭をでき るだけ深く下げあっている蝿たちの戯れに似ていないこともない(21)

蝿のメタファーまで用いたミュラルトの風刺的な言説において、フランス人は あらゆる手段を用いて話し相手の「面子」に高い価値を与えようとしているよう に見える。そうすることで、彼らは相互にいたわりあっている。しかし、このよ うな礼節をめぐる現象は、あくまで相互性に基づいていなければならない。つま り、ナルシズムに陥ったフランス人が他者に自分自身のイメージ―もちろん肯定 的なイメージ―を押し付けたいがためにやっているのである。換言すれば、彼ら は自分の「フェイス・ワーク」(face-work/ figuration)にしか興味がないのであ

(18) B. L. de Muralt, op.cit., p.197.

(19) Voir Essai, I, 40, Ed. Villey, 1988, p.252-253.

(20) Voir E. Goffman, Les Rites d’interaction, Minuit, 1974.(石黒毅訳『行為と演技

――日常生活における自己呈示』誠信書房, 1974年)

(21) B. L. de Muralt, op.cit., p. 197.

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(22)

り、他者に気に入られることを通じて、自分に肯定的なイメージを与えることし か頭にない。つまり、フランス流の礼節とは、自分の「面子」を守りたいという 相互的欲求に打開策を与えるための手段である。ミュラルトを憤慨させたのは、

そのやり方がいかにも「演劇的」であり、技巧に満ちたものであった点であった。

彼は同郷人に対してこう呼びかけている。

それがフランスの礼節だと言うならば、我々はあえて無作法者(grossier)でいよう。

(中略)あえて言おう。そんなものは猿真似同然の卑しいこびへつらいであると(22)

「手紙」における「無作法者」というルソーのエートスは、このようなミュラ ルトの礼節批判と関連付けて考察する必要があるだろう。実際、「手紙」のルソ ーは「無作法者でいよう」というミュラルトの呼びかけに応えているのである。

「礼節に自己の感情を偽る術を教えてもらう」ことを拒否しながら、ルソーは

「礼節などに拘泥しない男」(OCIII, p.68)として自己を提示することに成功して いる。そして、率直だがぶしつけな「誠実さ」を偽りの物腰柔らかな礼節に対し てぶつけている。『人間嫌い』のフィラントはかつて、他者の「面子」をいたわ るディスクールを「善意の嘘」(« pieux mensonge »)と呼んだ。ルソーはそれ よりも、真実をずけずけと述べるほうを選ぶと主張する。とはいえ、実際には、

そのような主張は本当に実践されたのだろうか。「手紙」を読み終えた今、私た ちはそう問うことができるだろう。たとえ人を傷つけても真実を告げるのだ、と いう主張自体が暗示的看過法の一形態を成していなかっただろうか。「手紙」の 作者はゴーティエと同じか、それ以上に「礼節」をわきまえているように見える。

彼こそ自分自身の言葉に対して最も距離を置いていたのだから。しかし、それだ けが、礼節という名の偽装術に対抗できる唯一の手段であったのだろう。

(22) Ibid., p. 198.

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