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(1)

﹂   0・W・ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論・ とは何であつたのか︵⊥ハ・完︶  卜 ︑      ︐

ーW・ジェイムズW.C・S・パースのプラグマティズムを分析視座としてー

   目 次 .    序    ゜     .        ︑︐    ︑

     第一章 O司W・ホームズのプラグマティズム ー ﹇以上第四十一巻第一号︑同二号︑第四十二巻第一号﹈

     第二章 O・W・ホームズの﹁ポリス・パワー﹂理論       ﹇以上第四十三巻第一号﹈

     第三章 0・W・ホームズの表現の自由理論

      第一︑節 マサチューセッツ州最高裁時代の判例

      第二節 連邦最高裁時代の判例︵主に一九一九年以前︶

      第三節 一九一九年の諸判例      .

         1 00︒庁Φ50匠判決ー呵8ゲ綱Φ完判決ーOΦぴm判決

         2 表現の自由の探究者たちーE・フロインド・Z・チェイフィー・L・ハンド

       ︑  ︑       ﹇以上第四十三巻第二号﹈    ・   ︑︐

         3 >穿p目m判決と﹁思想の自由市場﹂論         ・         ﹇以下本号﹈

      結論    ︑       °       ︐

  0°W°ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶︐  ︵都法四十四ー一︶ 二〇一

(2)

二〇二

第三章第三節︵承前︶

 3 >宮p昌゜︒判決と﹁思想の自由市場﹂論

 ついに︑我々は︑あの一九一九年十一月を迎える︒本稿の前号において︑OΦげ︒︒判決までを読み直した我々の視線

が︑いかに本件に交差させられるのかが問題となる︒

      ︵411︶

○﹀げ日日゜・<°己巳古Φ巳ooけ巴Φ゜︒°

 エイブラムズ︵qPOOぴ ﹀ぴ吋Pbρω︶はじめユダヤ系ロシア国籍の五名は︑一九一八年にニューヨーク市内で︑英語と

イデイッシュ語︵㎡巳合︒力庁︶で書かれた文書ビラをばら撒いた︒この文書ビラは︑労働者たちに熱狂的に呼びかけて︑

当時︑対ドイッ戦の最中︑ロシアのロ︒一゜・冨く声政権に対して派兵した≦﹂一゜︒05大統領を批判して︑資本主義国アメリ

カを罵倒し︑ロシア革命と同志を守るために︑軍需産業労働者にゼネストを唱道するものであった︒これら一連の行

為が︑延いては︑対ドイッ戦への妨害に繋がるとして防諜法違反で有罪とされたことに対して︑エイブラムズらは上

訴した︒臼巴汀裁判官法廷意見は︑当該文書ビラから抜き出した多くの文章を吟味しながら︑これらすべてが合衆

国政府の形態を侮辱し︑戦争遂行を妨害するためのゼネストを唱道したものと認めて︑°︒合巴窪判決︑田oプ乞Φ済判

決︑OΦ∀︒︒判決その他を先例として引用しつつ︑有罪判決を支持した︒ホームズは反対意見︵ブランダイス同意︶を

執筆して︑かの﹁思想の自由市場﹂論を展開した︒

(3)

︻ホームズ反対意見︵ブランダイス同意︶︼

 本件の訴因は四つ申し立てられていたが︑大きく分ければ︑︵一︶戦時中に合衆国政府の形態を侮辱した共同謀議︑

︵二︶戦時中に合衆国政府に抵抗し︑戦争遂行に必要な物資の生産を削減することを煽動した共同謀議の二つを問題︐

としていた︒ホームズが判断するところ︑︵一︶については︑当該文書ビラの内容は該当せず︑︵二︶については︑防

諜法および反政府活動取締法の構成要件に該当してはいるが︑しかし︑︵二︶について規定する条項は︑﹁そのような

生産削減によって︑合衆国の戦争遂行を不能にし︑もしくは︑妨害する意図をもって﹂なされたものを犯罪となすご   

とを要求しており︑ホrムズは︑まずは︑この﹁意図﹂という単語を厳密に解釈してこう述べる︒ 

1 意図について       .     °      ︑

  ﹁私は︑通常の法律論で漠然と使用されている﹃意図﹄という語が︑意図されていたと言われる諸帰結が確実とな

るだろうという︑行為時の認識のことを意味しているにすぎないことを承知している︒そこまでいかなくても︑民事︑

責任および刑事責任についての一般原理は充足されるだろう︒行為の諸帰結を個人的に予見できたにせよ︑できなかっ

たにせよ︑そのような諸帰結が継起するだろうことが︑共通経験︵OObP白P∩二口 ①×︹ワ①︼ ︐︼°Φ︼口OΦ︶によって諸事実から証明

される場合に︑その諸事実を行為時に認識していた者は︑損害賠償を支払わなければならないかもしれないし︑投獄

ざれるかもしれないし︑コモン.ロー上では絞首刑に処されるかもしれない︒しかし︑文言を正確に使用する場合︑

ある帰結がある行為の目的でない限り︑その行為は︑その帰結を生む意図をもってなされたのではない︒その帰結が

継起するだろうことは明白でありえ︑行為者にとっても明白でありえるなら︑たとえ彼がその帰結を悔い改めている

のだとしても︑その責任を負わされうるが︑その帰結を生む目的が特定行為の近接的動⁝機︵胃o×旨巴Φ日o江く①︶で

   0・W・ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四ー一︶ 二〇三

(4)

      二〇四

ない限りは︑背後に何らかのヨリ深い動機が存在しているかもしれないとしても︑その帰結を生ずる意図をもって行       ︵⁝⁝︶ 為したとは言えないのである﹂︒

 ホームズの﹁意図﹂理論について適切に理解するためには︑かつて彼が﹁意図と犯罪﹂について詳細に論じていた

﹃コモン・ロー﹄第二講を読んでみることが有益であろう︒

 ホームズは︑﹃コモン・ロー﹄第一講で︑初期の法からの歴史的進化を跡づけて︑あらゆる法的責任が﹁復讐﹂に       ︵611︶ 由来することを突き止めたのち︑第二講﹁刑事法﹂において︑﹁犯罪と刑罰﹂について詳論し︑法を個人の道具とし       ︵711︶ てではなく︑﹁個人を一般の福祉を増進させるための道具﹂として位置づけた上で︑刑罰の目的を︑単純な応報理論

でも︑単純な予防理論でもなく︑﹁復讐を一つの要素とする害の予防﹂という︑いわば折衷理論に求め︑刑事法の目        ︵811︶ 的の大部分を﹁ルールへの外的な服従︵8昆o﹃巨身︶をもたらすこと﹂とした︒そこから︑刑事責任のテストは︑

非難可能性を伴ってはいるが︑外化・客観化されてきており︑﹁個的な人の動機や意図における害悪の程度︵夢Φ合西        ︵911︶ 器Φo吟①<巳からは独立したもの﹂となってきているとされ︑その判断の際には︑﹁訴えのときに陪審によって再現

される理念的存在者︵巴誉巴ぴΦぎ西三Φ買Φ切Φづ汁9ξ汗Φ甘昌︶﹂としての﹁平均人︵薯零pσqΦ日9︶︑すなわち︑        ︵021︶ 通常の知性と合理的な賢慮を有する人物の概念﹂が要請されるという︒そして︑陪審という間主観的探究共同体によ

るそのような理念的平均人による諸帰結の予見性︵⌒oお︒︒﹂σq宮o吟8霧Φρ已Φ昌8乙・︶こそ︑最良の基準であるとされる        ︵121︶ ︵ホームズは︑この基準をコ般的経験︵σq巴胃巴Φ巷日窪8︶﹂とも言い換えている︶︒それでは︑予見性とは具体的

には何であるのか?ここにおいて︑本稿第三章で幾度も目にしてきた﹁状況︵O↑﹃O已﹇bPooけ∩戸出﹁O①oo︶﹂が重要概念となる︒

(5)

   ﹁諸帰結の予見とは︑事物の現在の状態についての認識により喚起される事物の将来の状態の像であって︑ここで︑

      ト         将来とは︑効果をもたらす関係において現在に対して存在するものとして考えられている︒⁝予見性の基準は︑当の .

      コ         犯罪者が予見した事柄ではなくて︑合理的な賢慮を有する人物が予見したであろう︵≦o巳臼︶事柄を計るものである︒

  他方で︑ある行為を危険なものとなす現在の諸事実についての現実的な現在の認識も存在するに違いない︒・当該行

 為はそれだけでは充分ではない︒実のところ︑行為は︑一定の意味で︑意図を含んでいる︒行為とは︑筋肉収縮以上

  のものを指しているのである︒痙攣は行為ではない︒筋肉収縮は意欲されなければならない︒そして︑自らの主人で

 あるところの成人が︑彼の内面での﹇精神におけるー筆者﹈努力に継起するであろう外面での﹇肉体におけるー筆者﹈調

 節を︑神秘的な正確さをもって予見するときに︑その調節は意図されたものであると述べることができる︒しかし︑

 行為に必然的に付随する意図は︑ここで終わる︒環境︵①口く口o口日o巳︶がなければ︑当該行為から帰結するものは何

        もないだろう︒すべての行為は︑それを取り巻く状況︵O一﹃O已目oo古P昌OΦ◎o︶と切り離して考えられると︑法には無関心        へ          なのである︒たとえば︑一定の実力をもって人差し.指を曲げることは︑ピストルの引き金に指をかけていようといま

 いと同一の行為である︒ゼストルが装填されて撃鉄が起こされたという状況︑そして︑明らかにそのピストルの射程

 範囲に人がいるという状況だけが︑人差し指を曲げる行為を不正なものとするのである︒これゆえ︑いかなる健全な       ︵221︶  原理によっても︑損害の近因が行為であるということは︑責任についての充分な基礎とはならないのである﹂︒﹈同一

㌦の原理によっで︑行為一般における犯罪性は論理的に決定されるべきである︒諸々の行為は︑既知の状況下でのその

 行為の傾向性︵けΦa窪自︶によって判断されるべきなのであって︑その行為に付随する現実の意図によって判断され         ︵321︶      ︑  ︑るべきではない﹂︵強調筆者︶︒

0・Wどホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂︑論とは何であったのか︵六・完︶︑  ︵都法四十四ーデ︶.二〇五

(6)

      二〇六

 つまり︑犯罪となるかならないかを決定する考慮要素としての状況は︑ピストルの例が示しているように︑普遍的

なものである︒なぜなら︑平時であろうと戦時であろうと謀殺と判断される状況は同じだからである︒まさに状況概

念は︑﹁理念的平均人から見れば︑これこれならば︑なになにであろう﹂という仮言的行為としての予言の基盤なの        ︵421︶ であり︑パースが彼の思想の基盤に据えている﹁習慣︵庁pぴ﹂げm︶﹂とアブダクションとの関係と類似の関係にあるも        ︵521︶ のであって︑ホームズ真理観に言うδ9︹出Φ一旦︑から.6彗︑古出Φ甘︒︒.︑への間主観的移行と同様︑普遍化可能性を潜

在させたものなのである︒

 ところで︑ホームズにとっては︑犯罪性の要素としての﹁意図﹂はまったく不要なのであろうか︒引き続き︑﹃コ

モン・ロー﹄ではこう述べられる︒      

  ゆ  り        り       ゆ    ゆ  り  ゆ  ゆ     ゆ  ゆ  り       ゆ  ゆ  ゆ    む      む  ゆ     ゆ  ゆ  ゆ  ゆ    ゆ  ゆ  ゆ  ゆ     ゆ  ゆ  ゆ  ゆ  ﹁いかなる行為にせよ︑それを処罰する理由は︑一般的に︑その行為がなされる状況の下で︑その行為に継起する

ゆ     ゆ     ゆ       ゆ  ゆ  ゆ  ゆ  ゆ  り  ゆ  ゆ  ゆ  ゆ  ゆ     む  ゆ        ゆ  ロ  ゆ  ゆ     ゆ  ゆ     む     む     ゆ  ゆ 可能性があるとして予見されるような何らかの害を予防することでなければならない︒大抵の実質的な犯罪において

は︑そのような可能性が依って立つところの根拠とは︑経験によって示されるような自然的原因の共通の働きなので

ある︒しかし︑ある行為が︑自然的な効果として当の状況の下で有害でないのに処罰される場合︑そのような根拠だ

けでは不充分であろう︒別の行為が継起しなければ有害とはならないのに︑なされた行為の効果が有害となるだろう

ことに関連して︑当該行為に別の行為が継起するだろうと予期する理由が存在しなければ︑蓋然性というものは存在

しないのである︒しかし︑事実上︑そのような別の行為が継起しなかったときには︑一般的に︑もし行為者が妨げら

れなかったなら︑そのような別の行為が継起しただろうことを︑単になされた行為のみから当然視することはできな

い︒そのような別の行為は︑行為者が選択しなかったのなら︑なされた行為に継起しなかったであろうから︑行為者

(7)

         へ   がそのような別の行為を選択したであろうことを証明するたあに一般的に利用できる唯一の方法としては︑行為者が

      の        °行為をなした時に︑そのような別の行為を意図していたことを証明する以外にない︒その場合︑付随的意図が︑それ ゜ ∨

       

  以外の場合では無垢無害である行為を有害なものとするのは︑その意図に継起して︑全体的に︑結果として害を生じ

       ッ       

  るような別の行為または出来事を惹起させるであろうという蓋然性を︑その意図が生起させるからなのである︒意図

へ      む         の重要性は︑当の行為が邪悪なものであったことを示すことにあるのではなくて︑当の行為に有害な諸帰結が継起す   ゜° ° °°°°°°°°°°°°°°°°°°°︵621︶   る可能性があったことを示すことにあるのである﹂︵強調筆者︶︒

   以上のように︑ホームズにあっては︑間主観性から要請される基準の外化・客観化に伴い︑意図も︑害を発生させ︐

  る継起的行為を蓋然的に推定する一要素として読み替えられている︒そして︑犯罪性は︑理念的平均人の視点から見        ︵721︶   て︑一状況と害の発生という﹁危険の程度︵庄①合σq器Φo市音5σQΦ蔦﹂により判断されることになる︒本件﹀げ墨日切事

  件に戻ると︑問題となっている条項の﹁意図﹂解釈にも︑この見解が適用されており︑あくまで︑﹁帰結を生む目的

  が特定行為の近接的動機である場合﹂に限定していることが判る︒つまり︑ここでの意図とは︑現実の継起的行為と

  ほぼ同等に客観化されているのであって︑この段階で︑曖昧漠然どした主観的な基準である﹁悪しき傾向の基準﹂は

  厳しく排斥されることになる︒そこで︑続けてホームズは本件をこう評価する︒

且 ﹁明白かつ切迫した危険の基準﹂

 ﹁私には︑°︒合8︒犀判決︑写oプ≦①済判決︑O①げ゜︒判決︵引用略︶で唯一扱われた法律問題が正当に判断されたこと

については︑何ら疑うべき理由は見当たらない︒謀殺の説得を処罰することが正当化されるのと同様の推論によって︑

   0・W・ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場し論とは何であったのか︵六・完︶  ︵都法四十四ー一︶ 二〇七

(8)

      二〇八

合衆票・合憲的に予防しようとすることができる特定の実質的害悪︵°・已ぴω藝ぎ豊を直ちに︵h・・覧け庁︶

もたらすような晩白かっ鋤遊レか危険︵巳Φ胃pa一日日巨Φ巳巳p口σq隅︶を生じ︑または︑そのように生ずるように意

図された言論を︑合憲的に処罰できるということに︑私は一瞬たりとも疑いを差し挟むことはない︒この権限は︑疑

いなく︑平時より戦時の方が大きい︒なぜならば︑戦争は︑他の時期には存在しない危険を開く︵ObΦ昌︶からであ

る︒しかし︑戦争に特有な危険に対しても︑他の場合に対するのと同様に︑自由な言論の権利に関する諸原理は同一        む り         り ゆ である︒唯一︑即時的恒審惑にっいで伽勢をの危険︵買ΦωΦ巳合5σq雲o︹旨日昆一巴①Φ<巳︑もしくは︑そうした危 険を亮客.γ鱗裂讐けが︑称禦関か・窟い愛・ぽ︵書§b・ぎ§菖・・§§︒︒・§邑︑連邦

議会が意見の表明に制限を付すことを正当化するのである︒国民の心を変えようとするすべての試みを連邦議会が禁

じることなど・明らかに不可能である・さて・枠富亮物︵§§き§︶にお憲かレ㍑兇㍑㌫馨

の発律が︑それだけで︑その意見による政府軍の軍務遂行を妨害し︑もしくは︑妨害するようなそれとわかる傾向性

を有しているという即時的な危険︵旨日Φ合巴①合品零︶を何であれ個的現前化する︵買Φ゜︒⑦巳︶であろうとは︑誰に

も考えられない︒⁝本法によって要求された意図というものを︑被告人の言葉のすべてのうちに誰がどのようにした         ら見出すことができるのか︑私には理解できないのである﹂︵強調筆者︶︒

まず︑目に留まるのは︑﹁嚢の説得を処罰する・﹂と歪当化されるのと同様の推論に三肥Lとい.つフレ|ズで

ある︒これは︑既述した﹁言論の自由は︑予防接種からの自由と何ら異ならない﹂という書簡や︑先ほど引用した

﹃コモン・ロー﹄の﹁意図と犯罪﹂についての論述が︑主として︑謀殺をめぐって考察されていることからしても︑

平灰があっている・結局・戦時であろうとなかろ・つと︑当該行萄﹁状況﹂という普遍的基準か・り⊇口への近接度L

(9)

 という﹁程度﹂を考慮するものである以上︑ホームズが告白しているとおり︑既述した゜︒合Φ昌筈−写o古乞Φ済判決ー

 OΦぴ︒︒判決とも一致している︒しかし︑私がすでに論じたように︑言論も他の物理的行為も同様に推論は可能である ︑が︑やはり︑言論が他の物理的行為のような﹁実力﹂を獲得するには時間的幅が存在する分︑言論の余地が拡大され

 る結果となるのであって︑乙︒合8昆判決での﹁明白かつ現在の危険の基準﹂はその表れであったが︑さらに︑この反       ゜︵031︶  対意見では︑﹁明白かつ切迫した危険の基準﹂.として一層厳格化が図られているとも解釈できよう︒それゆえ︑﹁即時

 的な危険を何であれ個的現前化﹂しない限りは言論を禁止することはできないのである︒つまるところ︑ここでも︑

 繰り返されているのは︑第一章以来︑長々と論じてきたホームズのライト・モチーフの再演のみであり︑付言するこ

 とがあるとすれば︑﹁害への近接度﹂を形容する単語が︑ヨリ切迫性を帯びたものに変換され︑かつ︑頻繁に執拗に  

 出現しているということである︒おそらく︑ホームズは︑︑意識的にそうしたのだろうー反対意見という最大の自己表     ゆ   現の場で︒ただ︑°︒︒冨口品その他一連の判決の捉え方が︑ホームズと法廷意見とでは異なっている点は︑興味深い︒

 この現象は︑・ホームズの思考に独特の立場を読み込んで解釈してきた私見を支持するものだろう︒   ︑︑

  しかし︑我々は︑この反対意見における判断基準を論じている箇所を一瞥するだけで容易に気づくことなのに︑誰 ︐・も指摘しなかったことに目を疑うことになる︒あれほど︑ホームズが生涯こだわってきた﹁状況﹂という単語が︑こ

 の箇所のどこにも現れていないのだ︒この概念が︑何ら断りもなく消去されているとは︑二体︑どうしたことか︒

  ここで︑ホームズが︑政府の言論規制﹁権限は︑疑いなく︑平時より戦時の方が大きい︒なぜならば︑戦争は︑他

 の時期には存在しない危険を開くからである︒しかし︑戦争に特有な危険に対しても︑︑他の場合に対するのと同様に︑︐

自由な言論の権利に関する諸原理は同一である﹂と述べる文意から察するに︑私がω合Φ口品判決以来主張してきたと

 おり︵﹁戦時﹂と﹁平時﹂の区別ではなくて︑いつであろうと︑言論が実力を伴って現出する場であるところの﹁状

    0.W.ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四ー一︶ 二〇九

(10)

      二一〇

況﹂が実質的に問題とされていることが理解されうる︒私があえて不自然な゜日本語で﹁危険を開く︵ObΦ昌︶﹂と訳し

たのは︑﹁戦時﹂‖﹁危険な状況﹂であるという意味ではないことを示すたあである︒法の基準それ自体は︑平時も  ︐

戦時も同一なのである︒戦時は︑特有の混乱状態であるがゆえに︑たまたま結果として︑なされた行為とその行為の

現出したところの状況との関係において︑危険な害の発生の蓋然性が高くなるにすぎないのである︒したがって︑

﹁状況﹂概念の内包は確かに述べられていると言える︒

.しかしながら︑この箇所のみならず︑反対意見全体にわたって﹁状況﹂という語自体を避けているのは意図的とし

か思えず︑一層説得力ある説明が必要とされるだろう︒その説明のたあにも︑我々は︑本稿の主題である﹁思想の自

由市場﹂論へと足を踏み入れざるをえない︒なお︑﹁私権が関わらない場合には﹂という意味不明瞭なフレーズの解

釈については︑皿の最後で独自の分析が企てられるだろう︒

        ︵231︶      . 皿 思想の自由市場論

 ﹁意見表明に対する迫害は︑私には論理的︵﹂o管︒巴︶であるように思われる︒あなたが自分の前提や権力に何ら

疑いを持たず︑心底︑一定の結果を望む場合には︑あなたは︑当然︑自分の願望を法の中に表明して︑すべての反対

意見を排斥するものである︒言論による反対を許すことが示しているのは︑ある人が円積問題を解いたと述べたとき

のように︑あなたがその言論を無力なものであると考えていることか︑あなたがその結果を一意専心には関心を持っ        ていないことか︑あなたが自分の力または前提に疑いを抱いているかのいずれかであるように思われる︒しかし︑時

の経過によって︑多くの戦う信条︵注σq江巨西叶巴庄゜︒︶が覆されることを人々が悟ったとき︑自分たちの行為の基盤

だけを信じるよりも・紮亮葬極意・観念麓昌由恒山寡ピ芸㍑零震亮繧い・γ・寡−量

(11)

    ス    ノ       り      ね         コ           の最良のテストは︑市場競争において自らを受容せしめるたあの思想の力であること︵窪Φ巳江日巴ΦσqoOO合︒︒一号ΦP

    ﹂︒・琶§吋§匡げ二冨Φけ邑①﹂三言・・﹁け匡§げ︒・・二Φ⁝︒=§=︒・§︒︒§﹃︒ごすΦ§已σq宮8σqg

    ↑詰Φ罵p8Φ暮昆芦9ΦOo日bΦ古↑註80断庄①目知済9︶︑そして︑真理こそ︑人々の願望を無事に実現できる唯一の根

       り       コ           拠であることを信じるようになるのかもしれない︒いずれにせよ︑これが我が憲法の理論である︒それは︑すべて人

      ト           生が実験であるように︑一つの実験である︒毎日ではないにせよ︑毎年︑我々は︑不完全な知識に基礎づけられた何

    らかの予言︵肩o冨Φ自︶の上に︑我々の救済を賭けていかなければならない︒私が思うに︑その実験が我々の体系

    の一部である限り︑我々は︑︑我々がひどく嫌悪し︑死を伴ったものであると信じているような意見表明をチェックす

    る試みに対しては永遠に警戒を怠らないようにすべきであるが︑ただし︑それは︑そうした意見に︑合法的かつ緊急

   .な法の目的に即時的な干渉を生ずる虞があまりに切迫して存在しているので︑即時的なチェックが国民を救うために

    要請されるというようなことがない場合に限ってである︒私は︑第一修正が文書煽動罪に関してコモン・ローの効力

    を存置したという政府の議論には︑完全に同意しかねる︒私には︑歴史はζのような考えに反対しているように思わ        ノ ・   れる︒⁝害悪の矯正を時の経過に委ねることが即時的に危険なものとなるような緊急事態だけが唯一︑﹃連邦議会は

    言論の自由を縮減する法律を制定してはならない﹄という包括的な規定に何らかの例外を認めることに正当化を与え

    るのである︒もちろん︑°私は×ずべで本件で述べられた意見表明および勧告についてのみ語っているのである︒しか

    し︑本件正式起訴に基づく有罪判決において︑被告人らが連邦憲法上の諸権利を剥奪されてしまづたという私の信念       ︵1︶     を︑ヨリ印象的な言葉で言い表せないことを残念に思う﹂︵強調筆者︶︒      

     合衆国判例史上︑稀にみる格調高い文章を︑ヨリ文芸的な言葉で翻訳できない︑ことを残念に思うが︑本件のみに関

       0・W・ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四ー﹈︶ 二一一

(12)

       二一二

わるものとして宣言されたにすぎず︑当時の連邦最高裁判例にとっても小さな一歩にすぎなかったこの名文が︑いつ

しか﹁思想の自由市場﹂論という本反対意見中には出現しない名で呼ばれ︑表現の自由の偉大な一歩とし工口同く称揚

され︑やがて最高裁法廷意見の首座を占めることになり︑現代に至るまで判例・研究文献等に頻出するに至る一方で︑

名文であるがゆえに︑後代の人々を幻惑させる一大要因ともなったことは︑もはや旧聞に属しよう︒

 考えてみれば︑本件の反対意見の主旨は︑先ほどの﹁意図について﹂と﹁明白かつ切迫した危険の基準﹂の箇所で

充分に述べられており︑この思想の自由市場論は︑一見すると蛇足以外の何ものでもないようにも見える︒しかし︑

﹁状況﹂という単語の消滅と合わせて考えたとき︑ここでは新たな仮説が形成されうる︒すなわち︑ホームズは︑﹁状

況﹂概念をめぐる誤解を払拭し︑表現の自由に関する一般理論を展開するために︑﹁思想の自由市場﹂概念に代替し

たのではないか?ということである︒

 この奇抜な仮説を検証するために︑何はともあれ︑ホームズ流のオリジナルな﹁思想の自由市場﹂論を解明するこ

とが先決問題となる︒そこでの問いは︑以下の二つである︒

︵1︶o︒9§︒犀判決における﹁劇場﹂メタファーと﹀ぴ日日︒︒判決反対意見における﹁思想の自由市場﹂メタファーと

の間には︑いかなる連関が存在しているのか︒

︵2︶﹁思想の自由市場﹂とは何か︒

 第一の問いについて︒ホームズの理論が一貫しているなら︑o︒︒ゴΦ口○オ判決−寄o古乞Φ完判決ーOΦぴ゜︒判決の一連性を

規定する最初の判決における﹁劇場﹂メタファーと︑﹁思想の自由市場﹂メタファーとの文言上の相違が整合的に説

(13)

 明されなければならないはずである︒o︒合①⇒筈判決の分析において︑私は︑ホームズが﹁﹃明白かつ現在の危険﹄と

 いう名フレーズを用いて︑ホームズに一貫する﹃害への近接度﹄の基準の値を厳格化し︑公共的理性の再現ないし再

 演︵﹃①買Φ゜︒Φ巳巴︷8︶の場の比喩としての﹃劇場﹄ー・§§Sミミき§Sとしてのーを崩壊させるような緊急事態に       ︵531︶       ︑︑

フみ事後処罰を許容しようとしたのであろう﹂と解釈した︒わざわざ﹁劇場﹂を持ち出した必然性に︑ホームズが一

 流の教養人.文芸人であったことも加えれば︑このような解釈は不合理ではない︒この︿テアトルム・ムンディ﹀と

 しての再現ないし再演の場は︑まさに︑パース上ホームズ流実在論的真正プラグマティズムの間主観的探究として︑        ︵631︶  ︑  普遍的なるものをミーメーシス︵b﹈H日Φco戸o力︶する場に他ならない○それは︑必然的に﹁公共﹂に関わり︑国家におい

 ては︑議会における代表者︵器賢Φ゜・Φ暮巴↑<Φ︶や公開討議︑裁判所における﹁公開法廷における証拠および弁論によっ    ︵731︶     偏︶  てのみ﹂行われる対審といった形式として現れる︒

  さて︑思い出すべきことがある︒°︒臼雪良判決および一連の判決について︑その被告人たちは︑言論が害の発生に

 近接していたという共通の事実が認められたほかに︑どのような共通の立場にあったであろうか︒シェンクは有名な        ︵931︶  社会党書記長であった︒写o古≦Φ品は新聞社の編集者・発行人であった︒デブスは現在でもその名を知られる社会党

 の大統領候補者であった︒彼らの思想信条の共通性が問題なのではない︒そうではなくて︑これらの人物は皆︑日常

 的な意味で﹁公︵共︶的な地位﹂にあったということである︒それに対して︑本件では︑まさにホームズが公式の裁  い   ・

 判記録上の表現とは思えないような言葉で形容したように︑エイブラムズらは﹁貧弱で取るに足りない無名者たち       ︵041︶  ︵boo﹃p邑鴉ξ巴o昌日け一︒°・︶﹂であり︑その﹁名もなき人物による愚かしいリーフレットの内密の発行﹂が争点

 となったのであった︒ちなみに︑幻の判決なってしまった一九一八年のCd巴言隅判決︵ホームズは反対意見草稿を執   ︐︐

﹁筆して︵被告人たちの無罪を主張した︶における被告人たちも︑ただの平の社会党員であった︒ここまでくると︑も

    0・W・ホ﹈ムズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶  ︑︵都法四十四ー一︶.︑二三二

(14)

      二一四

はや偶然とは思えない︒ホームズの思考には︑公共的理性の再現ないし再演に巻き込まれざるをえない公︵共︶的地

位にある者は・あたかもかつての宮廷における仮面劇のように︑合理的探究のための諸制約というbΦ吟・︒︒昌餌︵日p︒︒犀

ではない壌をかぶり・・ゴスの代弁者とならなければならず︑私的言説という讃での個的塑毘︵bー汁p古9

により公共空間としてのくテアトルム・ムンディVを混乱に吃める者は排除されざるをえないという論理が存在して

いたように解釈できる︒かたや︑シェンク・写9乞Φ済ポデブスは︑普遍的な冨肩①・︒Φ暮巴↑05に対してくいま︑こ

こにVとしての鴉Φ゜︒Φ巳p江o口の反乱を煽動する異端者に他ならないーまさに︑胃Φ゜︒Φ暮合白σqΦ吋!こなた︑エイブラ

ムズやbd巴言円は無名な一介の市井の人にすぎない︒つまり︑昨今の﹁公共性﹂ブームの火付け役となった不朽の名

作⁚カント﹃啓蒙とは何か﹄における用語で言えば︑前者は﹁理性の私的使用﹂の立場にある者たちであり︑後者は

﹁公衆一般﹂に向かって訴えるべき﹁理性の公共的使用﹂の立場にある者たちであったのであり︑﹁自分の理性を公的

に貫まことは︑いつでも畠でなければな・りない︑・﹂れに反して自分の理性を私的に糟する.﹂とは︑時として

著しく制限されてもよい︑そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない﹂︒以上から︑問︵一︶

の答えはこうである︒ホームズは︑公的言説空間としての﹁劇場﹂メタファーとは別のコミュニケーション︒フォー

ラムである私的言説空間を確保するための前提として︑﹁市場﹂メタファーを導入する必然性があった︒

第二の問いについて︒いわゆる﹁思想の伯由市場﹂論と呼ばれている箇所をもう一度挙げておこう︒

 ﹁時の経過によって︑多くの戦う信条︵叶↑σq古9σq︷巴庄・︒︶が覆されることを人々が悟ったとき︑自分たちの行為

の基盤だけを信じるよりも︑欲求される究極善は︑観念における自由な交易によってヨリ良く達成されるということー

(15)

真理の最良のテストは︑㎡市場競争において自らを受容せしめるための思想の力であること︵庄Φ巳古旨巴ΦσqOo巳

巳Φ゜・﹇芭﹂︒・ぴ①江Φ二§プΦ二二・ΦΦ古邑Φ↑三§︒・︑ー叶匡§げΦ・・二Φ⁝︒﹇§古三・・§b︒5・︒ごg§已σq江

19σq9旨Φ罵p8Φ宮Φ匹一口庄Φ8日罵註江80﹇庄Φ日①完9︶︑そして︑真理こそ︑人々の願望を無事に実現できる

唯一の根拠であることを信じるようになるのかもしれない︒いずれにぜよ︑・﹂れが我が憲法の理論である︒それは︑

すべて人生が実験であるように︑二つの実験である﹂︒

      ここでも︑誰も言及しなかった不思議なことがある︒原文を表記した箇所を見れば判るように︑ホームズは︑﹁観

 ◆   念における自由な交易﹂︵以降︑﹁観念の交易﹂と略す︶は︐﹁ヨリ良い﹂ものであり︑ダツシュで繋げたのちに︑﹁市

     場競争﹂は﹁最良のテスト﹂であると言い換えている︒一体︑この比較級と最上級の違いは何を意味しているのであ

     ろうか︒      ︐ ・

      パースが﹁信念の固定法﹂として挙げていた四つの方法を思い返してみよう︒探究の方法としては︑﹁固執の方法﹂

   ←﹁権威の方法﹂←﹁アプリオリな方法﹂←﹁科学の方法﹂というように︑独断的主観的なものから公共的客観的な

.   もめへと進化せざるをえないが︑実在論的立場から︑統制的原理としての無限の探究者のコミュニティによる間主観        ︵341︶      的な理念的コミュニケーション過程に指導された﹁科学の方法﹂こそが最適とされていた︒なぜならば︑カントも認

     めていたように︑﹁真理とみなすための試金石とは︑・確信であるにせよ︑単なる説得であるにせよ︑外面的には︑そ              れを伝達し︑万人の理性にとって妥当するものと認められるという可能性である﹂から︒これを﹁思想の自由市場﹂

     論に当ではめてみればべむしろホームズは︑﹁個執の方法﹂.﹁権威の方法﹂.﹁アプリオリな方法﹂を最初から排除し

     ・て﹁科学の方法﹂のみに焦点を当てた上で︑統制的理念としての無限なコミュニティによる理念型としての﹁思想市

        0°W°ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四−一︶ ご二五

(16)

      二一六

場﹂を﹁最良﹂として︑しかし︑現実的なレベルとしては︑有限なコミュニティによる﹁科学の方法﹂を﹁ヨリ良い﹂

ものとせざるをえないことを正当に言明しているように思う︒いわば︑経済学の初歩的知見によれば︑﹁観念の交易﹂

とは共同体内における原始的交換を指しており︑しかし︑﹁市場﹂メタファーを用いることで︑無限の共同体間の        ︵541︶ ︿境界Vとしての﹁市場競争﹂ーそれは︑理念的な普遍化に他ならないーを表そうとしたのではないだろうか︒そして︑

この理念型としての﹁市場競争﹂に指導された﹁観念の交易﹂過程を通じて︑やがて︑個々の︒.○昌♂=巴b.︑は︑国       ︵641︶ 民の多数票としてのδ彗♂国︒■°・︒として︑コつの真なる結論﹂に至ることだろう︒そして︑それは︑J・ハーバー        ︵741︶ マスが描いたように︑公共的言説空間である﹁劇場﹂に観客の声として結果的に影響を与えることになろ・%しかも︑

       ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵1︶       ︑ \ この﹁思想の自由市場﹂は︑人々の実存を賭ける予言の基盤であるのみならず︑﹁我々の体系の一部﹂である﹁一つ

の実験﹂としての憲法それ自体をも生み出す母体ー﹁私は︑被告人によって徒に援用されている連邦憲法を公布する

権利を政府が有しているのと同様︑本件の二枚のリーフレットを発行する権利を被告人が有していたことを信じてい ︵941︶      ︵陶︶ る﹂ーでもある真理探究の場であり︑究極善なのである︒いわば︑この﹁思想の自由市場﹂とは︑パース研究から導

き出された︑K.0・アーペルの言う﹁理想的コミュニケーション共同体のアプリオリ﹂︑または︑ハーバーマスの        ︵151︶ 言う﹁理想的発話状況︵己Φ巴Φ︒︒肩Φ合c︒↑99江o口︶﹂であり︑﹁公正かつ適正な合理的コミュニケーション﹂の必然的

前提条件なのである︒これゆえ︑無限の探究の場としての﹁市場﹂における言論内容には︑A・スミスを出すまでも

なく︑一時の多数派による国家規制は極力避けられなければならないことになるー﹁今日最もゆるぎないものと思わ        ︵251︶ れている意見は︑明日には流行後れのものと見なされてしまう﹂のだから︒﹁我々は︑我々がひどく嫌悪し︑死を伴っ

たものであると信じているような意見表明をチェックする試みに対しては永遠に警戒を怠らないようにすべきであ

︵1︶ る﹂のであり︑一九二九年のG︒合目日日隅判決の反対意見でホームズが述べたように︑﹁他のあらゆるものにもまし

(17)

  

ト至上命令として嚢を要求ζ連邦憲法に何りかの原理があるとすれば︑それは︑田心想の畠の原平し⊇︑

  我々に賛同するような人物のたあの思想の自由ではなくて︑我々が嫌悪するような思想のための自由なのである﹂︒

  有限で可謬的な人間には︑無限の批判的で熟慮的な討議のためのできる限り自由な空間が開かれていなければならな

− いのである︒以上かγり︑問︵二︶の答えはこうである︒ホームズは︑現実の﹁観念の交易﹂過程の重要性を訴えるの︑

  みなちず︑パース流の統制的理念としての普遍的な﹁科学の方法﹂を規範的に措定するために﹁市場﹂メタフブーを         ・    ︵551︶   導入する必然性があった︒

  ここで︑我々は︑Hで保留しておいた問題に注目したい⑩Hの引用箇所中の﹁私権が関わらない場合には︵≦冨お

 買オpけ①註σq宮ω胃Φ昌9bo昌8昌Φ画︶﹂というフレーズの解釈である︒﹁唯一︑即時的な害悪についての現在の危険ハ

 もしくは︑そうした危険をもたらそうとする意図だけが︑私権が関わらない場合には︑連邦議会が意見の表明に制限

 を付すことを正当化するのである﹂ということは︑裏返せば︑﹁私権が関わる場合には︑即時的な害悪についての現

 在の危険︑もしくは︑そうした危険をもたらそうとする意図がなくてもべ連邦議会が意見の表明に制限を付すことも

 できる﹂という風に読むこともできる︒ここから︑論者によっては︑言論内容が私的なものである場合には﹁明白か          つ現在の.危険の基準﹂が適用されないことを示唆したものと解するものもあるが︑本稿全体の考察からは︑もっと説゜

 得力ある解釈が導出可能である︒すなわち︑もし私見のように統制的理念としての﹁思想の自由市場﹂を解釈するこ゜

 とができるのな・レ︑それは﹁対等な探究者たちの無限のコミュニティによる最も純粋に公正かつ適正な自由なフォー

 ラム﹂でなければならないはずであり︑したがっ.て︑その現実形態化である﹁劇場﹂ど﹁観念の交易﹂は︑その理念

 にできる限り近づくように制度設計されなければならない︒そして︑既述したように︑卜公共的言説空間である﹁劇場﹂

  ° O°・W°ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四一一︶ 二一七

(18)

      二一八

には多くの制度的制約が設けられることになるが︑私的言説空間である﹁観念の交易﹂過程においても︑公正・適正

さを確保するための制度的制約は最小限設けられることになる︒今風に言えば︑内容規制ではなく︑内容中立規制は

許容されるのであり︑私人間の名誉殿損やプライヴァシー侵害からの保護・救済の正当化の余地もあろうが︑なかん

ずく︑参加者の実質的平等を確保すべく︑いわゆる﹁アクセス権﹂等が認められなければならないことになる︒私的

言説空間の保障のための﹁観念の交易﹂過程を提示した本反対意見において︑あえて︑﹁私権が関わらない場合には﹂

という留保を付けたことを想起すれば︑しかも︑﹁意見の表明に制限を付すこと﹂ができるという点も考慮すれば︑

これは合理的な解釈であろう︒以上は︑ホームズ思想からの内在的な要請であるが︑それを裏付ける外在的な補強証

拠がいくつか存在する︒まずは︑﹃コモン・ロー﹄第二講の叙述が想起されるべきである︒そこでは︑刑罰の予防理

論が各人の平等な自由の侵害に当たり不道徳であるという反論に対して︑平等の教義は個人間の日常的な範囲に限ら

れるものだと応答する文脈で︑ホームズは興味深い見解を述べていた︒

 ﹁あなたが隣人と論議することができるのは︑あなたが全ぐ信じていないとしても︑当座の間︑隣人があなたと同

じくらい賢明であることを認めるときに限られる︒同じように︑あなたが隣人と取引できるのは︑両人に選択の自由

があったとしても︑平等な処遇を受け︑両人に同一のルールが適用されるときに限られる︒⁝人が社会で生きる場合

には︑彼自身がそれ相応に遇されていることに気づく責任がある︒人々が到達してきた文明の程度は︑疑いなく︑人

が他人から遇されるだろうように︑他人を遇したいという熱望によって示される︒社交的本能︵°︒o巳巴ぎ︒・江口9°・︶

が成長して︑反社交的境遇においてさえ︑人間行為を絶対的に支配するように至るだろうということは︑人間の運命

であるのかもしれない︒しかし︑社交的本能はまだそこまで成長していないのであって︑法のルールは︑一般に受け

(19)

入れられている道徳性に基づいているか︑基づくべきであるので︑絶対的に利己的でない理論に依拠したルールが確        ︵751︶ 定されると︑必ず︑法と︑実際に作用している信念との間に亀裂が生じてしまうことになる﹂︒    ﹂

︐ここでは︑厳格なカント的平等を貫徹することは現段階では無理であるとしても︑人間の社交的本能の全面的発展

が運命づけられていることが告白されており︑現段階では︑いわば︑共にルソーを敬愛していたカン下とスミスの二        /     ︑       ︵851︶ 人が﹁同感﹂を媒介に﹁引カー斥力﹂・﹁非社交的社交性︵巨西①゜・Φ巨西ΦΩΦ゜・①巨σq犀⑦詳︶﹂のうちに相互に対話可能であ

    ︵951︶ る程度には︑ホームズにあっても︑隣人との相互行為における平等は前提されている︒ここには︑当然︑コミュニケー

ションにおける相互承認が現れているのである︒       ︵061︶  次には︑ホームズが生涯信奉していたJ・S・ミルの﹃自由論﹄への愛着や︑本稿の目的内在的に独自の視点から

解釈を構成した一連の社会的経済的関係の諸判決における対等当事者による﹁公正かつ適正なコミュニケーション﹂

過程︵特に︑﹁平均的な利益の相互性︵互酬性︶﹂にこだわった一九二二年の勺8器工くp巳知Oo巴Oo°<°ζ芦8の      ︐       ︵161︶ 法廷意見や︑社会的ダーウィニズムを否定した一九〇五年のPoOぎ隅く°之薯ぺo完の反対意見など︶が挙げられる

だろう︒さらに︑経験を重視するプラグマティストであれば︑現代社会における﹁第四権力﹂とさえ呼ばれるに至っ        ︵261︶      .  ︵囎︶ た肥大したマス・メディアを目の当たりにしたら︑︐内容中立規制としての﹁アクセス権﹂の出現を﹁その時代に感ぜ     ︵1︶         ︵燭︶      ︑      \       . られた必要﹂と見なすであろう︒

 さて︑当初の問題である仮説の検証に戻らなければならない︒果たして︑ホームズは︑﹁状況﹂概念をめぐる誤解

を払拭し︑表現の自由に関する一般理論を展開するために︑﹁思想の自由市場﹂概念に代替したのではないか?

   0・W・ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四−一︶ 二一九

(20)

      二二〇

 これまでの考察を振り返れば判るように︑ホームズは︑思想的にパース流の普遍的なるものを追究していたのみな

らず︑法理論的にもそうであった︒そして︑﹃コモン・ロー﹄以来︑表現の自由の裁判においても︑馴染みの﹁状況

︵O一吋O已b﹈oo一ρ口OΦ◎◎︶﹂概念をパース流の﹁習慣﹂概念同様に自己流に読み替えることで︑普遍化可能性を示すものとし

て扱ってきた︒しかし︑パースがジェイムズに誤解されたのと同様︑私が解釈したハンドとの書簡のやり取りに見ら

れるように︑ホームズの﹁状況﹂概念は︑一般には︑唯名論的で相対主義的なものとして受け入れられてしまった︒

その誤解を払拭するために︑﹁状況﹂という語に代えて﹁市場﹂という語を用いたのであり︑しかも︑最も重要なこ

とは︑このことによって︑従来は審査基準レベルの一考慮要素にすぎなかったものが実体論レベルのものへと高めら

れることで︑不動の表現の自由擁護論が構築されたということである︒これゆえ︑﹁明白かつ現在の危険の基準﹂と       ︵661︶ いう審査基準の恣意的な運用も︑﹁理性のルール︵﹃β﹂Φ O⌒ ﹃ΦPooO︼P︶﹂として︑実体論的に規制されるはずであった︒

プラグマティズムに則った外的・客観的な︵表現内容による質的差別化をしない量的な︶﹁明白かつ現在の危険の基

準﹂と﹁思想の自由市場﹂が一体となって︑はじめて︑真正の表現の自由擁護論が完成されたのである︒かつて︑

OΦげ゜・判決の正当性を訴えた書簡の中で︑﹁言論の自由についての多くの談義が交わされたが︑私も︑初期のケースー

       ゆ   ゆ       り

゜。 Bけ巴穿判決と印︒庁≦Φ済判決で幾分略式ながら︵°︒o日Φ≦す巴゜・信日日巴↑百︶論じた︒折りよく︑その談義に与する多

数派よりも蓋然的にもっと議論を進めるべきであるが︑部分的には︑そのことを理由として︑首席裁判官が法廷意見       ︵761︶ の執筆を私に割り当てたのだろう﹂と述べていたホームズは︑まさに︑確固たる表現の自由理論の全貌を提示するた

めに︑﹁第一修正に関する自らの最も深遠な思想を開陳させるに至らしめるほど明らかに不当な有罪判決を連邦最高       ︵1︶ 裁が下すときまで︑時機を待っていた﹂のであろう︒いまや︑私的言説空間である自由な﹁観念の交易﹂過程にあっ

て︑﹁明白かつ切迫した危険﹂の蓋然性もなかったエイブラムズら市井の人は︑普遍的な思想﹁市場﹂の中で﹁公衆

(21)

       ︵961︶      一般﹂に対して自由闊達に発言する﹁世界公民的社会の一員﹂に列せられたのであった︒  ︐

      こうして︑ホームズ思想においては︑天上の理念的極限としての純粋な﹁思想の自由市場﹂を統制的原理にして︑

     経験的大地に向かって︑まずは︑公共的言説空間たる﹁劇場﹂の層が︑その下に私的言説空間たる﹁観念の交易﹂の        ︵071︶      層が︑理念型の現実形態化として存在する宇宙観が出現することになる︒°

      しかしながら︑注意しなければならないのは︑この﹁思想の自由市場﹂は理念型であるので純粋なものであって︑        ・︵171︶      決して︑︑民主政の形式としてのみ把握されるのではないことである︒かの大王が述べたように︑必ずしも︑民主制が

     思想・表現の自由の不可欠の前提であるわけではないからである︒我々は︑民主主義によって生きるかもしれないが︑

    ㎡民主主義のために生きるのではない︒﹁思想の自由市場﹂はそれ自体自己目的的であり︑我々の実存自体を成り立た       ノ      しめている︑もっと大きな包括的な我々の生の実験場なのである︒もちろん︑パースーホームズ思想の基底にある間       ︵271︶      主観性は︑複数性としでの民主制︵Op戸バロ巴冨一︶を要請するだろう︒それでも︑﹁思想の自由市場﹂‖﹁政治過程﹂

     という図式は︑統制的原理としての﹁思想の自由市場﹂︐の可能性を楼小化するものである︒民主政プロセスは︑あく       ︵371︶︵川︶︑      まで一つの形相でしかない︒それは同時に︑経済領域に適用ざれれば︑﹁経済市場﹂として現象するのであって︑﹁経

     済的メタファー﹂°などではない︒それどころか︑あらゆる人間活動は言語と不可分であるのであって︑その意味では︑       ︵571︶      三九二五年のΩ巨○乞判決における反対意見で﹁すべて思想は煽動である﹂とホームズが述べたように︑思想と行為

    の連関を重視するプラグマティズムはまさに正鵠を射ている︒別言すれば︑我々は言葉ー正確には︑﹁記号﹂ーに

  ︑ よって生きるのみならず︑言葉のために生きているのであるーというのも︑ペースが言うように︑﹁人間は記号であ﹂       ︵671︶   ︵m︶  .      り︑﹁私の言語は私の自我の総体であ﹂り︑﹁有機体は︑思考の道具でしかない﹂のだから︒

      表現の自由とは・ホームズの死後︑B・N・カードゥゾウ裁判官が法廷意見で述べたように︑﹁ほとんどすべての

        0・W・ホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四ピ一︶ 二二一

(22)

       二二二        ︵871︶      ︑︑︑ 他の形式の母体であり︑不可欠の条件である﹂︒﹁思想の自由市場﹂とは︑我々が自己の生そのものを賭けるよすがで

あり︑いわば︑生の形式としての﹁言語ゲーム﹂そのものを成り立たしめている前提ー一つの宿命である︒そうで

あるからこそ︑この﹁国民の諸権利を擁護する唯一のパラス神像︵ 勺P巨①創一已目︶﹂である﹁文筆の自由︵呵邑古Φ吉巳胃   ︵971︶      ︑︑︑︑      ︵蜘︶ 国江胃︶﹂は︑実体法上︑他の諸権利自由よりも原理的に優越的地位にあることになるのである︒

W 小括       

こうして︑ホームズ思想の内在的連関のうちに︑﹁思想の自由市場﹂論の全貌は解明された︒要点をまとめておこう︒

ω﹁思想の自由市場﹂は︑﹁対等な参加者による公正かつ適正なコミュニケーシゴン・フォーラム﹂の理念的極限概

 念であり︑統制的原理として働くものであり︑パース流の﹁科学の方法﹂類似のものであること︒

②﹁思想の自由市場﹂は︑従来のホームズ法思想における普遍化可能性を潜在させた﹁状況︵O﹂﹃O已日ooひΦ50Φoo︶﹂概

 念への誤解を払拭するために導入された普遍概念であること︒

③﹁思想の自由市場﹂は︑﹁状況﹂概念に代替されることで︑単なる審査基準レベルの⊥要素から︑実体論へと高め

 られたこと︒       ・        ノ ω実体論としての﹁思想の自由市場﹂論は︑審査基準としての﹁明白かつ現在の危険﹂基準とセットでこそ︑真正

 の表現の自由保障論であること︒

⑤理念的極限としての﹁思想の自由市場﹂を理念型として︑公共的言説空間としての﹁劇場﹂︑私的言説空間とし

 ての﹁観念の交易﹂過程が現実形態化するが︑その際︑制度設計のための内容中立規制が﹁劇場﹂では多く︑

(23)

﹁観念の交易﹂過程では少なく現れること︒

   しかし︑この表現の自由の擁護論は︑本稿が論証したように︑従来のホームズ思想と整合的なものであり︑変説し

ノ           たわけでもないのにもかかわらず︑﹂ホームズ自身が︑先ほど言及したΩ︷自o≦判決における反対意見の中でバ﹁私が

  

@﹀げ.冒・︒判決反対意見で繍した確信はあまりに深遠なものであったので︑・.・法が肇されたとは今までのところ私.

   には信じることができない﹂と述べていたほどに非常に哲学的であったために︑その後のホームズの裁判意見からは        ノ    明示的には言及されることはなかった︒そればかりか︑﹁明白かつ現在の危険の基準﹂という量化のための審査基準

   である正義の女神の天秤の支点としてのこの実体論は︑その後の多数意見にはほとんど真面目に考慮されず︑支えを   ︑

   失った﹁明白かつ現在の危険の基準﹂は︑戸アド・ホヅクな︑まさに唯名論的二般プラグマティックな基準として・白    ︐

   にも黒にもなる基準として濫用された挙句︑その意書体をも懐疑されて・蓑去られてしまつ︵棚・他方で・﹁思想

㌃  の自由市場﹂論自体は︑固有の文脈から完全に切り離されて︑その真意を探究されることなく・論者によって独断的

   な31難に晒されてきた︒そのすべての51難を検討するてとは本稿の範囲を越えるものであるが︑代表的な批判にのみ

   応答することで︑オリジナルな﹁思想の自由市場﹂論を敷術しτおきたいと思デつ︒

    代表的な批判としては︑ω真理観自体についての批判︑②﹁思想の自由市場﹂の失敗にっいての批判︑③﹁思想の

   自由市場﹂自体の基礎づけについての批判などがある︒

  ・︑︐ωについては︑たとえば︑﹁思想の官由市場に荘せておけば︑真理に到達できるのか?﹂︑﹁プラグマティズム流の

  真理観では︑真理が各人まちまちのものになってしまう﹂︑h危険な思想や誤謬がはびこる虞がある﹂といったものが

  ︐挙げりれるだろう︒これらは相互に関連した批判であるが︑まずは︑このような批判には暗黙のうち呉珊者の真理観

     CW.→ムズ裁判官の恵想の畠市場L論とは何であつたσか︵六・完︶ ︵都法四+四⊥︶二三=

(24)

       二二四

が前提とされてしまっていることを指摘しなければならない︒プラグマティストは︑人間の有限性と可謬性を所与の

前提としており︑デカルトのような﹁真理の直観﹂を否定するところから始まる︒ホームズの真理観は﹁○餌昌︑古

匿bc・な国民の多数票﹂であって︑→ス流の実在論的.zフグマテ・ズムに近いものである・﹂とを考慮して︑絶対的

真理というものは統制的原理として措定されていることを繰り返しておこう︒現実の実践においては︑合理的な理由

を伴って多数者の合意が成立するどこかでいわばく小さな真理V︵パース流に正しく言えば︑﹁信念﹂︶を決断しそれ

に則り行為するしかないのだけれども︑その決断自体も常に批判および責任追及の道に開かれておらねばならず︑議

論自体は永遠的に遂行されなければならないーというよりも︑そのようにしてしか︑人間は生きていられない︒確か

に︑時には︑マッカーシーイズムやナチスといった歴史的事実が示すとおり︑独善的な正義の名の下︑国際的機構の

議論も無視して国民のp8一p日Φ江oとともに地獄への進軍がなされることもあろう︒しかし︑問題は︑そのこと以上

に︑圧倒的多数の合意を得た一時的支配層が︑自らを生み出した母である﹁思想の自由市場﹂それ自体を廃止したり︑

内容規制に三て歪めたりしてしまうことに誘・忌想の畠市場L論は︑短期的には問題のある信念も︑長期的

には真理に向かって自己修正されるだろうという予言に立脚しているのであり︑だからこそ︑それは常に自由に開か

れていなければならないのである︒これは楽観的な見通しではない︒﹁思想の自由市場﹂が最も恐れているのは︑真

理の判定能力についての﹁人間の可謬性﹂と﹁政府の無能性﹂を否定することにより︑対話の場を喪失させることに

他ならない∴冷めきった談話Lという己機−人間が有限で可謬的であることを自覚する限三民主制はそのこと

を前提としているはず£縛︶・理念的極限としての絶対的真理を前提せざるをえないというのは必然であり︑だか

ら︑国家権力の干渉なしに︑他者の承認と寛容を前提としたコミュニケーションは不断に継続されざるをえないので 都・

(25)

     ②については︑一番問題とされやすいのは︑巨大なマス〆メディァ等の出現による思想の自由市場への参加者の不︐

    平等ということである︒その先駆的論者であるJ・バロンは︑有名な論文の冒頭で︑﹁我々の憲法理論は︑表現の自

    由についてのロマンティックな構想︑.っまり︑﹃思想市場﹄に自由にアクセスできるという信念に束縛されている︒

    自動制御的な思想市場が今までに存在したことがあ・ったとしても︑長きに亘り︑存在しなくなっている︒マス・メディ

    アが思想への反感を強めていることにより︑︑新奇で不人気な思想がフォーラムに確保されるには︑法的介入が要請さ・      ︵1︶    °れる﹂と述べて︑いわゆる﹁アクセス権﹂構想をうち出した︒しかし︑オリジナルな﹁思想の自由市場﹂は︑パース       ㌔     流の﹁科学の方法﹂に類似したもので︑﹁対等な探究者たちの無限のコミュニティによる最も純粋に公正かつ適正な

    自由なフォーラム﹂の理念型であるので︑その現実形態化である﹁劇場﹂および﹁観念の交易﹂過程には︑アクセス        ︵981︶     の平等を確保するための︑内容規制に至らない内容中立規制であれば許容以上に内在的に要請されているし︑第一︑

    ホームズ自身は︑﹀宮pヨ゜・判決反対意見の中で︑﹁﹃思想の自由市場﹄はレッセ・フェールである﹂などと述べた箇所

    は皆無であり︑対抗言論のための時間的余裕がないほどの﹁明白かつ切迫しだ危険﹂が存在する場合や︑﹁私見が関       ︵⁝⁝︶     わらない場合には﹂︑限定的にのみ︑規制を認めていたのである︒このバロンの批判は︑﹁思想の自由市場﹂論自体へ

    の原理的批判とはなっておらず︑それを前提とした上での現実の制度設計を論じているものと解されるーそもそも︑        ● ︐   バロンが自説を主張すること自体が︑規範理論としての﹁思想の自由市場﹂にコミットしている何よりの証拠である︒

    さて︑もちろん︑相手がマス・メディア等の私人ではなくて︑国家当局である場合には︑こうした問題に煩わされる ︑    ︑

    必要はない︒対国家的な﹁知る権利﹂や﹁自己情報コントロール権﹂は︑﹁思想の自由市場﹂のコロラリーとして当        ︵191︶       ︑     然に国民に帰属することとなる︒公共性は公開性を要請するからー∧見るー見られるVという視線の交差点としての

 .  b隅゜︒05p︒したがって︑表現の自由は︑相互人格承認の場として︑単に発信者についてのみならず︑受信者について

       0・W︐ごホームズ裁判官の﹁思想の自由市場﹂論とは何であったのか︵六・完︶   ︵都法四十四ー一︑︶ 二二五

参照

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