中国における農民工移動に関する研究
―「ルイス転換点」の検証―
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目 次
はじめに
1 問題意識・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2 2 中国地図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 3 中国行政区の概況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
第1章 中国農村経済制度の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5 1 戸籍制度による都市と農村の分離・・・・・・・・・・・・・・・・・・5 2 農業集団化の展開過程・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9 3 農家経営請負制の導入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 4 郷鎮企業の発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
第2章 中国における就業構造の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・15 1 中国の現状・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 2 人口移動の推移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
(1) 計画計画期・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
(2) 改革開放以降の人口移動・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
第3章 中国における「ルイス転換点」の論争・・・・・・・・・・・・・24 1 ルイス・モデルとレニス=フェイ・モデル・・・・・・・・・・・・・24 2 転換点論争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
「肯定派」蔡昉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
「否定派」丸川知雄、厳善平、中兼和津次・・・・・・・・・・・・・・27
第4章 中国における「転換点」の見方・・・・・・・・・・・・・・・・31 1 「民工荒」現象背景 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31 2 中国における「転換点理論」の検証・・・・・・・・・・・・・・・・43 3 終わりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50 参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
2 1、問題意識
近年の30年来、中国の経済社会は大きな変化を成し遂げた。その著しい経済発展を 可能にしたのはある新集団の出現と切り離すことはできない。大勢の内陸農村の若者が 賃金の高い沿海地帯に流れ込み、低賃金労働力となり、「世界の工場」を支えたからで ある。農民でありながら、農業と全く関係のない仕事に従事し、常住する場所も農村で はなく大都市である人が増え、「農民工」という新しい身分が世界から注目されるよう になった。1989年、農村移動労働力は改革開放初期の200万人から3000万人に上り、
一年一度の春節には農民工の帰省による鉄道、高速道路の充満、渋滞から「民工潮」と いう言葉が流行りはじめた。
一般的に先進国の経験では、一国の大きな経済格差の存在は必然的に労働力の流動を 誘発する。中国も基本的にその例外ではないが、少なくとも1980年代前半までこうし た現象が一般化しなかった。その背景には、中国の特徴的な社会制度である「戸籍制度」
によって、農民が都市に流入するのを制度的に制限してきた経緯がある。しかし、改革 開放のもとで経済諸制度の自由化が急速に進み、生産諸要素の流動が著しい現在の中国 にあって、もっとも重要な生産要素の一つである労働力の流動だけに厳しい規制を設け ることは、今後の経済発展を達成する上で大きな障害になることは明らかである。戸籍 制度は部分的とはいえ近年徐々に緩和され、市場経済の進展の流れとともに1980年代 中盤から徐々に労働力の流動現象が顕著となってきた。近年、中国国内の理論家の中に も、市場経済のいっそうの発展のために労働力流動を活発化させ、従来の戸籍制度によ り移動を制限されてきた労働力を段階的でありながらも自由化すべきであるとの意見 も広く受け入れられるようになってきた。
ところで、2004年頃から、福建省の東南地域をはじめ、珠江デルタ地域、浙江省の 東南地域に相次いで農民工が不足する事態が現れるようになった。「民工荒」と呼ばれ るこの現象は非熟練工も含めて製造業の実質賃金の上昇をもたらしている。13億人以上 の人口を抱えている中国が労働力不足に陥るとのニュースは人々の耳を疑わせた。農村 労働力の供給と都市の労働力需要との間に、どのような不均衡、または逼迫の関係が生 じたのか。果たして、中国の余剰労働力は枯渇に近づいているのだろうか。労働力不足 による賃金値上がりは中国の経済にどのような影響を与えるのか。こうした中国の労働 力不足現象を機に、「ルイス転換点理論」をめぐる議論が盛んになっている。中国にお ける農村労働力移動をめぐる学界の論調を整理し,その上で中国政府による政策展開と 関連させながら、中国における農村労働力移動をめぐる問題の要に迫っていきたい。
3 2、中国地図
環境渤海経済圏
長江デルタ
福建東南地域 珠江デルタ地域
4 3、中国行政区の概況
「民工潮」、「民工荒」の地理上の移動線をつかむために、中国全図を掲げる。
中国の地方行政区には、日本の都道府県に当たる「1 級行政区」は、31 の省・直轄 市・自治区(少数民族自治体)と二つの特別行政区からなる。31の「1級行政区」(台 湾を含まない)のうち、省は 22(河北、山西、遼寧・吉林・黒龍江、江蘇、浙江、安 徽、福建、江西、山東、河南、湖北、湖南、広東、海南、四川、貴州、雲南、陝西、甘 粛と青海)、直轄市は4(北京、上海、天津、重慶)、自治区は5(内蒙古、広西壮族、
チベット、寧夏回族と新疆ウイグル)、特別行政区は2(香港とマカオ)となっている。
省・自治区の下には「地区」または「地級市」→県(「自治県」を含む)または「県 級市」、市轄区→郷または鎮が置かれている。直轄市に管轄される区または県は省・自 治区の下にある県や市轄区とは異なり、「地区」または「地級市」に相当する。
中国の市は、①省・自治区と同格の直轄市、②県を管轄する地区級市、③県と同格の 県級市、④行政上は地区級市ではあるが、管理権限などにおいて省並みの権限を持つ副 省級市(計画独立市、日本の政令指定都市に相当する)など四つのランクがある。2008 年末現在、副省級市には瀋陽・大連(遼寧省)、長春(吉林省)、ハルピン(黒龍江省)、 南京(江蘇省)、杭州・寧波(浙江省)、アモイ(福建省)、済南・青島(山東省)、武漢
(湖北省)、広州・深圳(広東省)、成都(四川省)、西安(陝西省)など15の市がある。
◆ 中国三大地域分類
東部地域 北京市、上海市、天津市、遼寧省、山東省、江蘇省、浙江省、福建省、
広東省、海南
中部地域 黒龍江省、吉林省、河北省、山西省、河南省、安徽省、湖北省、湖南 省、江西省
西部地域
新疆ウイグル族自治区、甘粛省、内蒙古自治区、寧夏回族自治区、陜 西省、青海省、チベット自治区、四川省、貴州省、雲南省、広西チワ ン族自治区、重慶市
◆ 中国四大外資投資地域
長江デルタ地域 上海市、江蘇省(南京、蘇州、無錫、常州、揚州、鎮江、南通、泰州)、
浙江省(杭州、寧波、湖州、嘉興、紹興、舟山)
珠江デルタ地域 広東省(広州、深圳、珠海、佛山、江門、中山、東莞、恵州、恵陽、
恵陽、恵東、博羅、肇慶、高要、四会等)
福建東南地域 福建省の5沿海都市(福州、厦門、泉州、漳州、莆田)
環渤海湾地域 北京市、天津市、河北省、遼寧省、山東省
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第1章 中国における農村政策と農村労働力移動の変遷
一般的に先進国の経験では、一国内部の地域や産業構造における大きな経済格差の存 在は必然的に労働力の流動を誘発する。つまり、産業構造の高度化は、労働力の農業か ら非農業への産業間移動、あるいは人口の農村部から都市部への地域間移動を伴うもの である。中国も例外ではなく、改革開放以来、急速な高度経済成長を実現してきた過程 においては、大規模な労働力移動が発生した。1989 年、農村移動労働力は改革開放初 期の200万人から3000万人に上り、「民工潮」1という言葉が流行りはじめた。その「民 工潮」が中国の急速な経済発展に大きな原動力となったことは疑いない。
しかし、2004 年から、福建省の東南地域をはじめ、珠江デルタ地域、浙江省の東南 地域において相次いで農民工が不足する事態が現れた。「民工荒」2と呼ばれるこの現象 は非熟練工も含めて製造業の実質賃金の上昇をもたらしている。
中国における経済発展と農村労働力移動の関係を考える際には、前提として、中国の 特殊性を理解しておかなければいけない。本稿では、農村労働力移動、とりわけ農村か ら都市へ、地域を超えた移動が発生するまで、どのような社会経済的背景があったのか を近年発表されている文献資料などの成果を用いて検討する。
1、戸籍制度による都市と農村の分離
中国の戸籍制度は、全国人民代表大会が1958年1月に公布・施行した「中華人民共 和国戸口登記条例」3(以下、「戸籍登記条例」と略す)および、国務院が64年8月と 77年11月に了承した公安部の戸籍移転規定に基づいている。
戸籍制度の変遷について以下の3つの時期に区分して見ることができる。1953年か ら55年上半期にかけての第1期、1955年下半期から78年の第2期、さらに1978年
1 中国語で「民工」とは農民出身の労働者、あるいは、農民の身分を残したままで都市に 出稼ぎに来た労働者の略であり、「潮」とは文字通り巨大なうねりを意味する。春節(旧正 月)前後の時期になると、沿海地域、北京、上海などの大都市においては、毎年のように こうした大規模な出稼ぎ労働者の流れが生じており、鉄道、水運などの交通機関を混雑さ せる。
2 「荒」は中国語でひどい欠乏、不足という意味。「民工荒」は労働力不足現象を表してい る。
3 中国では戸籍を「戸口」というが、その意味は日本語の「戸籍」と異なり、一種の社会的 身分として規定されている。さらに、中国の戸籍は社会的な移動を制限する役割もあるた め自由な戸籍移転は認められない。
6 以降の第3期である4。
第1期:1949 年~ 1958 年:戸籍制度の形成期(自由な移動が可能)
新中国建国初期の戸籍制度にかかる課題は、当時の政治状況を反映して、「人民の移 動の自由を保障し」、「反動分子を発見し拘束する」ことに置かれた。1950 年 8 月に、
公安部は「特殊人員の管理に関する暫定規則(草案)」を定め、反共産党、反人民共和 国勢力、国民党の残留分子・スパイ等の「特殊人員」に対する管理・監視を強化した。
1951 年 7 月に、公安部が制定した「都市戸籍管理暫定条例」は、新中国の最初の
統一的な戸籍管理に関する法規であり、これにより全国の都市部の戸籍制度が統一され た。条例は、都市部の住民を対象として、転出、転入、出生、死亡、結婚、離婚等につ いて、登録・申請する義務を定めた5。
また、1955 年 6 月には、国務院が、「通常の戸籍登記制度の樹立に関する指示」を 発表し、都市と農村に共通する戸籍登録制度を定め、全国に適用される戸籍管理制度の 形が一応整えられた。この時期の戸籍管理は、単に現状・変更の登録を求めるものであ り、都市・農村を問わず、移動や移住を制限するようなものではなかった6。
1956年3月に開催された「第1回全国戸籍工作会議」では、戸籍制度の基本機能と して、①公民の身分の証を証明し、公民としての権利行使と義務履行に資すること、② 人口動向の統計を作成し、国民経済、文化、国防のための資料を提供すること、③反革
4 この部分の記述については以下の論文と本を参照。
・張英莉「新中国の戸籍管理制度(上)戸籍管理制度の成立過程」『埼玉学園大学紀要.
経営学部篇』2004 年 12、PP.19-32。
・張英莉「新中国の戸籍管理制度(下)戸籍管理制度の改革過程と現状」『埼玉学園大学 紀要.経営学部篇』2005 年 12、 PP.21-35。
・大島一二『中国の出稼ぎ労働者―農村労働力の現状とゆくえ』芦書房、1996 年、 PP.18
-25。
・鎌田文彦「中国における戸籍制度改革の動向―農民労働者の待遇改善に向けて」『レファ レンス』国立国会図書館、2010 年 3。
・厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社 2002 年 PP.59-81
5 鎌田文彦「中国における戸籍制度改革の動向―農民労働者の待遇改善に向けて」レファ レンス(国立国会図書館)2010 年 3。
6 この点を、象徴的に示しているのは、1954 年 9 月に新中国で最初に制定された憲法で ある。この通称 54 年憲法の第 90 条は、公民の居住・移転の自由を定めている。公民の 居住・移転の自由が明記されたのは 54 年憲法のみであり、後に改定された 75 年、78 年、
82 年のそれぞれの憲法には、このような規定は置かれていない。
7
命分子および各種犯罪分子およびさまざまな犯罪活動を発見し、未然に防ぐために協力 すること、と規定された7。ここでも、戸籍管理と公民の居住・移転の問題は、まだ結 びつけられてはいなかった。
建国時から 1957 年までの間に、数千万人が農村から都市に移動したと見られてい る。政府は、急増する都市人口により、就業機会、食糧、住宅、教育・交通・医療等の 公共サービスの提供が困難となり、社会秩序が混乱することを恐れるようになった。そ
こで、1953 年から 1958 年にかけて、人口の流入を抑えると共に、流入した人口が農
村に戻るよう求める指示・通達をたびたび発した。最初は、企業が許可なく農村から労 働者を募集することを禁止するとともに、流動人口に呼びかけて自発的に農村に戻るよ う説得するような内容であったが、人口流入が止まらないため、指示・通達は次第に統 制色の濃いものとなっていった。
1957 年 12 月に、中国共産党中央と国務院は、「農村人口の盲目的な流出の阻止に
関する指示」を出し、厳しい統制の方針を鮮明にした。その内容は、次のようなもので ある。①「盲流」を阻止するため、民生部を中心とする専門機関を設ける、②鉄道・交 通部門は、主要な鉄道沿線等の監視を強化する、③民生部は、都市や工業地域に流入し た農民を農村に送り返す。流入者による乞食行為を厳格に取り締まる、④公安機関は、
戸籍管理を厳格に行い、流入した農民に都市戸籍を与えない、⑤食糧部門は、都市戸籍 を有しない者に食糧を供給しない、⑥都市の企業による無断の労働者募集を禁止する。
ここに至って、移動を阻止するための手段として、戸籍管理と食糧供給が結合される こととなった。1958 年に、この方針が制度化されることとなる8。
第2期:1958 年~ 1978 年:厳格な統制の時期(戸籍の移動の制限)
1958 年 1 月に、「中華人民共和国戸籍登記条例」9が制定された。戸籍登記条例は、
現在も有効であり、その後の中国の戸籍管理制度の土台となっている。戸籍登記条例の 第 1 条は、「社会秩序を維持し、公民の権利及び利益を保護し、社会主義建設に資する ために、この条例を制定する」との立法趣旨をうたっている。当時の状況からみると、
この場合の「社会秩序の維持」とは、もはや建国初期の「特殊人員」への対応ではなく、
農村から都市への大量の人口流入の阻止を意味していた。戸籍登記条例の核心的な規定
7 厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社、2002年。
8 張英莉「新中国の戸籍管理制度(上)戸籍管理制度の成立過程」2004 年 12、PP.19-
32。
張英莉「新中国の戸籍管理制度(下)戸籍管理制度の改革過程と現状」2005年12、PP.21
-35。
9「中華人民共和国戸口登記条例」中国政府法制情報網。
8
は、第 10 条 2 項に「公民が農村から都市に移転する場合には、都市の労働部門の採 用証明書、学校の入学証明書、又は都市戸籍登記機関の転入許可証明書を持参し、常住 地の戸籍登記機関に申請して、転出手続きをとらなければならない」と定められている。
一見すると、この条文は、農村から都市への転出を認めているように見えるが、実際に は、必要書類である証明書の取得に厳格な統制がかけられたため、農村から都市への移 転の道は、事実上閉ざされることとなったのである。
1962 年 12 月に、公安部は、「戸籍管理業務についての意見」を公布し、戸籍移動
の際の原則を①農村から都市への移動は厳しく制限する、②都市から農村への移動はす べて定住を許可し、制限しない、③都市間の正常な移動は許可してもよいが、中小都市 から大都市への移動、特に北京、上海、天津、武漢、広州の 5 大都市への移動は適切 に制限しなければならない、と定めた。
またこれに先立って、かつて農村から都市に移動して定着していた農民を農村に送り 返し(返郷動員)、都市の青年学生を、積極的に農村に送り込む運動(下郷動員)も行 われていた。「返郷運動」が展開されたきっかけは、1958 年から 1960 年にかけて、
「大躍進政策」の失敗と天候不順などの影響で、全国的規模で食糧不足が深刻化したこ とである。農村から都市に入り込んだかつての農民を、説得や強制・半強制的手段によ り農村に送り返した。その数は2000 万人に上ったと言われる。また、政府は、1950 年 代前半から、都市部の青年の就職問題解決のために、計画的・組織的に青年を農村や辺 境地域に送り込む政策をとっていたが、「大躍進政策」の失敗により、この「下郷動員」
が、より大規模に行われるようになった。1962 年以降、都市部の青年は、国営農場に 就職するか、農村の人民公社の生産隊に入隊するかの選択を迫られたという。
また、1966 年に「文化大革命」が始まると、多数の青年が「貧農・下層中農による 再教育を受ける」ために農村に赴いた。文化大革命時期の 1966 年から 1976 年まで に、1600 万人の青年が農村に移動したと推測されている。この時期に、「農村戸籍」
と「非農村戸籍(都市戸籍)」が厳格に区別され、約 8 割の農村住民と約 2 割の都市 住民とが、まったく異なった社会を構成し、異なった社会的待遇を受けるという「二重 社会構造」が定着したのである10。
第3期: 1978 年~:部分的な緩和の時期(戸籍移動の半制限)
1978 年 12 月に開催された中国共産党第 11 期 3 中全会を期に、鄧小平の強力な
改革開放政策の推進に伴い、中国社会は大きな変貌をとげることとなった。農村地域で は、農家による土地請負制が普及され、人民公社が解体された。また、都市部では、多 様な経営形態(個人経営、外国資本との合弁経営など)が生まれ、国有企業の改革が始
10 この節の内容については、前掲注(8)記載の張英莉論文―(上)を参照。
9
まるなど、経済活動が活発化し、それまで厳格だった戸籍制度は徐々に様々な形で緩和 措置が講じられるようになった。
1984年10月に国務院は、農村に大量に設立された「郷鎮企業」の経営者やその従業 員を対象とし定められた措置として、「農民の集鎮への転入・定住に関する通知」を公 布した。この通知は、集鎮(小都市)で固定の住所を持ち、工業、商業、サービス業を 営む経営能力がある者とその家族、または郷鎮企業で長期にわたり働いている者に対し、
その集鎮への戸籍転入を認めるとしている。但し、彼らは食糧配給の対象とはならず、
食糧は自弁するものとなるため、「食糧自弁戸籍」と呼ばれる新型戸籍の保有者となっ た。彼らは、初めて制度的農村戸籍から離脱できるようになったが、都市住民(非農村 戸籍)が受けているような食糧配給、医療・年金等にかかる社会的待遇を、享受できる わけではなかった。つまり、その戸籍は、農村戸籍でもなく都市戸籍でもない、言わば 中途半端なものであった。沿海部の活発な経済活動に伴い大量の労働力需要が発生する と、高収入を求めて農村から都市へと再び人口の移動が始まった。当初、この動きは規 制の対象とされていたが、徐々に農民労働者の役割が積極的に評価されるようになった。
そんな中、1985 年 7 月、公安部は「都市暫住人口管理暫定規定」を公布し、農民 労働者が「暫住戸籍」11を申請可能とした。
その後、中国の経済発展にとって農民労働者の役割は必要不可欠であると認識され、
移動に対する規制はほとんどなくなった。しかし、戸籍制度の基本的な枠組みは、変わ っておらず、農民労働者が都市で働いても、その農民労働者が非農村戸籍への転籍、お よび都市住民と同等の社会的待遇を受けることはできない。依然として存在する「二重 社会構造」という壁が農民の農村からの離脱を名目上でしか許していない。中国社会の 変化とともに、様々な形態の戸籍制度の改革が試行されているが、基本的な枠組みの改 革までは至っていない。かつて、都市住民と農民は空間的に分離され、それぞれの場で 生活を営んでいたが、今や同じ空間で、都市戸籍を有する特権住民と農村戸籍または暫 住戸籍を有する住民が共存することとなった。ここにきて、中国の戸籍制度が内抱する 矛盾が、ますます顕在化することとなったのである12。
2、農業集団化の展開過程
新中国成立後の2,3年間で、共産党の強力な指導による農地改革が行われ、長年に わたる地主制度が消減し、土地私有の自作農制度が作り上げられた。土地改革後、農業
11 「暫住戸籍」は、文字通り、「暫くの間都市に滞在することを認める」ものであり、都 市住民が享受する社会的待遇がそのまま適用されるものではない。労働力に対する需給の 関係から、大量に都市に流入する農民の現状を追認した措置といえる。
12 張英莉「新中国の戸籍管理制度(下)戸籍管理制度の成立過程」を参照。
10
生産における共同化集団化13は、互助組14から始まり初級合作社へ、さらに高級合作社 の形成へと進んでいく。初級合作社および高級合作社は、農村の社会主義改造の一環と して、基本的に政策的動機に基づき設立されたものであり、農業生産はそのようにして 形成された新たな組織・体制を所与のものとしつつ集団経営で実施されるようになった のである。
この2種類の合作社の基本的相違は、初級合作社が現物農業税を国家に納め、投資資 金として一定額を控除した純生産額を各農家に土地配当と農業労働力配当として分配 するのに対し、高級合作社は土地を集団所有しているために労働力配当しか行わないこ とにある。半社会主義的性格の初級合作社から、さらに完全な公有制の高級合作社へと 漸進的なプロセスを辿るべきとされ、全過程は3つの五ヶ年計画を要するものとされた。
第1段階の初級合作社は土地合作社とも呼ばれる。初級合作社が全国に普及されたの は 1953 年以降のことであり、農地、役畜および大型農機具の私有制を維持しながら、
合作社はそれらを統一的に使用し、農家の労働力も合作社の共同作業組織に編成された。
分配は、労働の供出量をも配慮するものの、主として株式化された農地や農機具などの 持分に応じた配当相当量に依拠した。その意味で初級合作社は半社会主義性質のもので あった。
第2段階の高級合作社は、いくつかの初級合作社を合併したものであり、すべての農 地や農機具などを集団所有とする完全な社会主義的農業組合であった。分配は集団労働 参加の労働点数のみに依拠した。1955 年に公布された「農業合作化の問題に関する決 議」、「合作社の模範定款」を契機に互助組から初級社への移行が加速され、農業合作化 の第1の高潮が形成された。そして、1956年6月に全国人民代表大会で承認された「高 級合作者の模範定款」を受けて、初級社から高級社への移行が急速に進み、合作化運動 の第2の高潮が現れた15。「1956年12 月までの半年足らずで中国農民はほとんどが高
13 集団化とは、1950 年代中頃以降展開された農業合作化運動と人民公社化運動を総称して 言うものであり、初級合作社、高級合作社、人民公社と 3 つの段階を経て完結したもので ある。
14 互助組は 1950 年代初頭の中国農村に存在した個別農家間の労働互助組合である。農地 改革後、自作農制度に潜む諸問題を解決するために、中共中央は 1951 年 12 月に「農業生 産の互助組合に関する決議」を行い、農地や役畜の私有制維持、農家の自発的な意志と相 互利益の原則に基づく共同労働の互助組織の設立を推進した。
15 農業生産合作社の発展過程の記述は以下の書籍を参照。
・河原昌一朗『中国農村合作社制度の分析』農林水産政策研究所、2008 年、PP.120-125。
・山本裕美『改革開放期中国の農業政策』京都大学学術出版社、1999 年、P.7。
・厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社、PP.31-35。
11 級社に加入させられた」16という。
1958年8月、中共中央は「農村人民公社の設立に関する決議」を発布し、人民公社 の方向を正式に決定させ、急速な展開をたどることになった。初期の人民公社は、原則 としてすべての生産手段は公社が所有し、公社が統一的に経営管理を行い、供給性と賃 金制を併用した分配制度を取ったが、現実の農業生産の実情等とはかけ離れたものであ ったため、その弊害は極めて大きかった。さらに、11 月には 99%以上の農家が人民公 社に加入させられただけではなく、5000 世代以上、2 万人から構成される公社を1つ の採算単位とし、数十万人の県を1つの公社に編成した。しかし、大きすぎる組織の非 効率と分配上の不平等などが原因で、農業生産は公社成立当初から大きな減産を続けた。
その上、「大躍進運動」17の失敗や自然災害も加わり、中国全体、とりわけ広大な農村 地域の農民が深刻な食糧危機に見舞われ、62年までの4,5年間で数千万人の餓死、非 正常死が発生したと言われている18。
その後、1960年11月には、「農村人民公社の当面の政策的問題に関する緊急指示」
が提起され、人民公社の見直し、調整の動きが公式に開始された。そして、1962 年開 催された8期10中全会で確定した人民公社の3級所有制―生産隊を基礎とする体制は、
1978年に改革開放政策が開始されるまで比較的安定して存続する。しかし、その後「四 清運動」19「文化大革命」20などの政治的動乱が相次いで起き、一層の貧困を増幅し、
腹いっぱいに食べることすらできない農民に「造反」を促すことになった。安徽省の農 村では、法令違反でありながら自己責任で農業経営を行い、経営の成果も努力に応じて 返報される農家経営請負制を導入した。その結果、農家経営方式の有効性などが評価さ れ、鄧小平の政治的復活とともに全国に普及することになった。20 年間も存続した農 村社会経済の最も基本的な制度―人民公社は、終わりの幕を下ろした。
1953年制定の「食糧管理制度」21と1958年制定の戸籍管理制度とを組み合わせで作
16 厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社、P.34。
17 社会主義改造済みの中国にて、数年間で経済的に米英を追い越すことを目的に、毛沢東 が農村の現状を無視した強引なノルマを課して 1958 年から 1960 年まで施行した農工業の 大増産政策である。
18 厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社、2002 年、PP.35-36。
19 1963 年 2 月に中共中央が工作会議を開催して農村での推進を決定した社会主義教育運動 である。人民公社各級組織の幹部の横暴、腐敗などに反対することを直接の目的としてお り、人民公社集団経済の経営管理、幹部と社員の関係などに一定の積極的な役割を果たし たとされるが、もともと階級闘争をその思想的背景として実施されたものである。
20 1966 年から 1977 年まで続いた、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義 文化を創造しよう」という名目で行われた改革運動である。
21 国家への強制供出制、消費者に対する配給制および流通・加工は国家による一元経営を
12
られた「人民公社制度は、実際、国営企業とともに国家の工業化のための制度的装置で あった。農村・農業が国民経済の大部分を占める状況の下では、国家の工業化のための 資本蓄積を農業に求めざるを得なかった。そのため、農民を組織し、生産・流通・価格 など経営に関する主要な側面を厳しい指令計画で指導することが必要であった」22とい う。
人民公社は工業化優先策のための産物であるともいえる。このような偏った政策は、
結果として、第3次産業の発展を抑制した。その当時は、第3次産業は富の創出がない ため本当の生産ではなく、さらにサービス業や商業などは資本主義の制度であるという 認識があった。こうした認識が都市部の交通、エネルギー、通信、さらには環境衛生な どの部門の発展を大きく遅らせ、また金融業、商業、サービス業の萎縮をもたらした。
就業問題を見ても、都市のサービス業が制限されていたため、この分野で就業機会の 増大は制約されたものだった。こうした制約条件も働いて、都市住民の雇用の機会は制 限的であり生活を維持するための最低限の収入に甘んじ、政府の工業部門への投入資金 を増やすことに大きく貢献したにもかかわらず、工業発展と就業機会の増加は都市部人 口の自然増加には追いつかなかった。このような状況の下で、都市は、その内部の労働 力さえ十分に吸収し得なかったため、農村地域の余剰労働力を吸収するのが困難であっ た。そのために、農村人口を農業部門に滞留させておく必要があったのである。
このように、制度的な二重構造の強化は産業構造と就業構造の不均衡的な構成を形づ くり、農村余剰労働力は非農業部門からの就業機会を得られず、生産性の低い農業部門 に押し込められることになったのである。
3、農家経営請負制の導入
上述のように、農村での農業生産請負は、安徽省鳳陽県小岡村で始まったが、請負制 による農業生産体制の改革は、地域差はあるものの、段階的に順次全国に進められた。
1978 年から 1981 年頃まで、全国的に比較的広く採用されたのは、個々の農家に生 産を請け負わせるのではなく、生産隊の統一計算及び配分を前提に、生産作業を生産隊 の中の作業組に請け負わせる「包産到組」(作業組生産請負)という方式である。その 他、「包産到戸」(農家生産請負制)23、「包幹到戸」(農家経営請負制)24がある。
内容とする食糧の統一買付・統一販売制度である。
22 厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社、2002 年、P.43。
23 土地の集団所有制を維持するという前提の下に、農家が土地の耕作を請け負い、生産は 農家自らが采配するが、生産量請負部分は依然として統一分配を受ける。すなわち、土地 を請け負った農家が任務を完成した後、生産量請負部分を生産隊に渡して統一計算し、労 働点数にしたがって分配するものとし、一方で超過部分は全部農家のものとし、減産部分
13
これらの制度について、社会主義体制と矛盾するのではないかとの懸念から、実施を 躊躇する地域も多かったが、1982 年、中共中央は、農家経営請負は土地公有制の基礎 の上に成立し、農家と集団は請負関係を保持し、集団が土地を統一的に管理し使用して いる。・・・したがって、農家経営請負は合作化以前の私有的個体経済とは異なるもの であり、かつ、社会主義農家経済の構成部分である、と規定して、農家経営請負が社会 主義体制と矛盾しないことを公認した。
これ以降、農家経営請負は全国的に急速に拡大していく。このようにして、中国の農 村は 1978 年の改革開放政策の開始後、1983 年には人民公社(生産隊)による統一経 営から農家経営請負による生産体制への移行転換をほぼ終え、個々の農家を実質的な経 済単位とする新しい産業構造を整えることとなったのである25。農業余剰の所有主体と なった農民は、自ら蓄えた財産を手元に激しい勢いで非農業領域に進出することとなっ た。これは、郷鎮企業の発展に大きく影響した。
4、郷鎮企業の発展
郷鎮企業26の原型は人民公社時代の「社隊企業」27である。郷・鎮とは、行政的には 県以下の郷とやや都市的な鎮のことであり、その下の行政区分として村があり、日本で いえば郡や町・村に当たる。それぞれに地方政府があるが、市あるいは県の行政管理下 にある。郷・鎮は、計画経済段階における人民公社が廃止されて地域的まとまりのある 組織が名称変更されたもので、もともと人民公社の一部であり、人民公社の生産大隊が 郷・鎮の下の村にあたる。これまで人民公社の中の社隊企業(人民公社の「社」、生産 大隊・生産隊の「隊」)が、農民の生活物質、農業生産に必要な物質の生産・修理など の需要に応えていた。「社隊企業」から国民経済の重要な構成部分となっている郷鎮企 業までのプロセスは、農業部門の分類によれば表1に示した6つの成長段階があるという28。
は農家が賠償する、という方式である。
24 土地の耕作を請け負った農家が、国家への売渡義務と集団への一定数量の現物または現 金の上納義務を果たせば残りの生産物はすべて農家のものとすることができるという方式。
25 河原昌一朗『中国農村合作社制度の分析』農林水産政策研究所、2008 年、P.282。
26 1996 年 10 月の全人代で採決された「中華人民共和国郷鎮企業法」の定義によれば、郷 鎮企業とは、農村の集団経済組織または農民個人の投資を主とし、郷鎮または村の起こし た、農業支援の義務を有する、さまざまな企業の総称である。郷鎮企業の所有形態は集団 所有制でも私有制でもかまわない。投資の半分以上または経営に対する実質的な支配権が 集団経済組織または農民にあればよく、郷鎮企業の経営範囲も特に限定されない。
27 人民公社と生産大隊の資金と労働を基礎とした集団所有制企業である。
28 厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版社、2002 年、P.120。
14 表 1 郷鎮企業の成長段階と政策背景
成長段階 主要な政策・法規 主な動きと政策内容 1.試行錯誤
段階
(1949-78)
中共中央:人民公社の諸問題 に関する決議・58年
国務院:農村の副業生産の発 展促進についての指示・65年
①「大躍進」期間、公社工業の全面的 促進。②60 年代初頭の整理による公 社企業の消減。③60 年代後半から副 業としての農産物加工や農業機械な どの発展の推奨。
2.始動段階
(1979-83)
中共中央:農業の発展促進に 関する決定・78年
国務院:社隊企業発展の諸問 題について規定・79年
①社隊企業の発展の促進。②大都市周 辺農村の国有企業下請。③国は融資、
税制面で社隊企業を優遇し企業の生 成、成長を支援。
3.高度成長 段階
(1984-88)
農業部:社隊企業の新局面の 開拓に関する報告・84年
84-86 年各年の中央1号文
件(農村経済関連の基本方針)
①社隊企業の郷鎮企業への改名。②社 隊の集団企業だけでなく個人企業や 共同企業の発展の奨励。③農産物加工 だけでなくすべての業種の経営許可。
④資材調達と商品の販売の広域化。
4.整理段階
(1989-91)
国務院:郷村集団所有制企業 条例・90年
農業部:農民株式合作制企業 暫定規定・90年
①マクロ経済の過熱問題処理のため 郷鎮企業の活動を制限。②税制・融資 面の優遇措置の削減。③集団所有企業 の発展重視。④急成長した個人経営企 業の協同化。
5.全面的改 革 と 発 展 の 段階
(1992-96)
国務院:郷鎮企業の持続、健 全 な 発展 促 進に つい ての 通 達・92年
農業部:郷鎮企業の財産権制 度改革に関する意見・94年 全人代:郷鎮企業法・96年
①国民経済における郷鎮企業の支柱 的地位の確認。②内陸地域の郷鎮企業 の成長促進に政策的支援。③現代的企 業制度の確立に向けて財産権改革に 着手。④社会主義市場経済への移行に 伴う郷鎮企業の法整備。
6.新たな成 長段階
(1997-)
中共中央:農業と農村の重要 問題に関する決定・98年
①郷村集団企業に対する所有制改革 と私有化、民営化の同時推進。②株式 制を中核とする現代企業制度の構築。
出所:厳善平 『農民国家の課題』名古屋大学出版社、2002年、P.120
厳によると、「1983年までの数年間、郷鎮企業の前身である社隊企業は全国的にはま
15
だ重要な存在となっておらず、各指標の値が 10%以下に留まっていた。この時期にい ち早く農村非農業企業が成長していたのは主として長江デルタ地域の先進的農村と大 都市の周辺農村であり、一般の農村地域ではその兆候すら見られなかった」29という。
ところが、1984 年、中国国務院農牧漁業部によって「郷鎮企業」と名称変更され、
農村経済の飛躍的発展の担い手となった。その背景には、これまでに表面化しなかった 農業労働力の過剰問題が次第に顕在化し、農村内部における労働力移動の規制緩和と相 まって、余剰資金と過剰労働力は、より高い利潤と所得を求めて、予想を超えた速度と 規模で非農業領域に流れ込んだのである。市場化が進む中、物不足時代の背景に、郷鎮 企業は大きな躍進を遂げ、時の経済成長を力強く支える存在となった。上野によると
「1989年に中国農村地域に展開する郷鎮企業は1868.6万、従業員数9366.8万人、生
産額8401.9 億元であり、その数字を郷鎮企業へ変名した1984 年と比べると、企業数
で3.1倍、従業員数で1.8倍、生産額で4.8倍となった」30という。
しかし、中国における郷鎮企業の発展は、過剰な人口を農村内にとどめるという「離 土不離郷」(離農しても離村せず)、「農民選廠不選城」(工場労働者になっても都市に居 住しない)であり、農民の、郷鎮企業への就職を通して、非農業部門への産業移動を実 現したものの、生産と生活の空間的移動を伴うものではなかった。つまり、都市・農村 間の労働力移動を、原則的に禁止するという都市・農村戸籍制度の残存を前提としてい るものであった。
80 年代後半になると、買い手市場を目前にして郷鎮企業は、企業改革で活気を呈し はじめた国有企業や、大挙して進出してきた外資系企業、さまざまな私営企業と真正面 から競争せねばならなかった。その上、所有権の曖昧さに加えて、郷村政府の企業経営 に対する過度の干渉などによって、農村余剰労働力の受け皿としての役割を果たしてき た郷鎮企業の成長速度は鈍化し、雇用吸収力も低下する傾向を示した。それに伴い、農 業過剰労働力の離農も急激に減少し、1989年と90年には郷鎮企業から農業への労働者 の逆流現象さえ発生したのである31。
これらの状況変化に応じて、農民には農村外部に新たな働き道を求める方法しかなか った。一方、都市経済の発展に伴って、低賃金労働者への需要が急増し、都市における 農民の就業機会が増えたことと、戸籍制度の緩和、都市と農村における所得格差が拡大 したことなどが相まって、農民は都市へと出稼ぎ目的を移しはじめ、「離土又離郷」(離 村を伴う離農)と呼ばれる、地域を超えた移動を開始したのである。
6,000万人以上とも言われる農民が新たな活路のため都会に進出し、空前の規模の「民
工潮」を形成した。
29 厳善平『現代中国経済―農民国家の課題』名古屋大学出版会、2002 年、P.122。
30 上野和彦『現代中国の郷鎮企業』大明堂、1993 年、P.7。
31 厳善平『中国農村・農業経済の転換』勁草書房、1997 年、P.30。
16 第2章 中国における就業構造の変化
第1章においては、出稼ぎ現象を取り巻く社会・経済の背景に関する分析を行った。
前章で記述したように、農民は長期間にわたり、職業選択と移住の自由が厳しく制限さ れてきた。都市と都市の間、あるいは同じ都市の内部での個人の意思による移動ですら 容易ではなく、農村から都市への自由な移動はほとんど不可能に近かった。
しかし、改革開放の時代になって規制が緩和されると、農村から都市への大規模な労 働力移動の現象がみられるようになった。1990 年代に入って、対外開放の加速で外資 の沿海進出が激増し、地元の労働供給は市場の需要拡大に追い付かなくなった。大勢の 内陸農村の若者が賃金の高い沿海地帯に流れ込み、労働市場に大きな変化をもたらした。
1、中国の現状
『中国統計年鑑』によると、2009年の中国の総人口は13億3474万人(香港特別行 政区、澳門特別行政区、台湾を除く)であり、そのうち都市の人口は6億2186万人で 農村の人口は7億1288万人であって農村人口の比率は53.41%である。そして、労働 力人口は、都市部が39.9%(3億1120万人)、農村部が60.1%(4億6875万人)とな っている。また、就業者数の推移をみると、1999年の7億1394万人から2009年の7 億7995万人へと、過去10年間で6601万人が増加した。
中国統計局が発表した『人口統計』によると2011年に都市部に住む人の数が、農村 部の人口を歴史上初めて上回ったことを明らかにした。それによると、2010 年末時点 の都市部の人口は、全人口13億5000万人の約51%を占めたという。
図 1 農村、都市別人口、就業者数変化
単位:万人
『中国統計年鑑』2012より筆者作成。
0 20000 40000 60000 80000 100000 120000 140000 160000
0 20000 40000 60000 80000 100000 120000 140000 160000
農村人口 都市人口 都市就業者数 農村就業者数
17 図 2 産業別就業者数変化
単位:万人
『中国統計年鑑』2012より筆者作成。
第1次産業の就業者数は1980年の2億9122万人から1990年3億8914万人で、10 年間に1億人余りが増えてピークを達した。2002年頃2次ピークを過ぎて徐々に減少 し、2009年には2億9708万人で30年前とほぼ同じ水準に戻った。第2次産業と第3 次産業の就業者数はほぼ同じ成長率で伸びてきたが1993年からは第3次産業の就業者 数が第2次産業就業者数を超えて急速に成長する。
1978年当時は、典型的な農業を主体とする経済構造により、第1次産業における就 業者の構成比率は70.5%、第2次産業、第3次産業における構成比はそれぞれ17.3%、
12.2%を占めた。ところが、1997年から第1次産業の就業者数はすでに50%を下回る
傾向を見せた。
このように、30 年という期間は就業構造に大きな変化をもたらしたが、第1 次産業 の占める割合は依然として高いことがわかる。
0 10000 20000 30000 40000 50000 60000 70000 80000 90000
0 10000 20000 30000 40000 50000 60000 70000 80000 90000
総経済活動人口 第1次産業 第2次産業 第3次産業
18 2、人口移動の推移
(1) 計画経済期
新中国が成立した建国当初の数年間は、土地の私有制、私営企業の存在は認められた が、1953年第1次五か年計画が始まると、農業の集団化運動、商工業の社会主義的改 造運動が進められ、わずか3,4年間で生産手段の公有制(集団所有制、国有制)の実 現と共に、農村部の人民公社、都市部の国営企業は計画経済体制の下の基本的経済単位 となった。1953年の食管制度、1958年の戸籍登記制度など計画経済体制を機能するた めの制度が続々と制定、公布され、農民の自己意思による地域間、産業間の移動は制限 されつつあった。
計画経済期における移動人口の規模変化から、厳は以下の4つの特徴を挙げている32。 表 2 計画経済期人口移動の展開特徴
時期 特徴 流動人口規模 移動率 第1期 1949 年
~ 1958 年
急増期 2000万人~3000万人 4%~5%
(人口移動の相対水準は 高いとはいえない。) 第2期 1958 年
~ 1963 年
過度期 高い移動水準~
1500万人以下
2%まで低下
第3期 1963 年
~ 1977 年
低迷期 1500万人前後 1.5%~2%
(きわめて低い。)
第4期 1978 年
~ 1988 年
大規模な人口移動発生 依然として相対的水準が 低いことは変わらない。
出所:厳善平『農村から都市へ一億三千万人の農民大移動』岩波書店、2009年より筆者が作成
第1期:急増期 (1949年~1958年)
戸籍登記制度を実行し始めた 1958 年までは、地域間の人口移動規制が比較的緩く、
移動人口の総数は2000万人あまりから3000万人へと急増した。1958年の大躍進運動 の活発化も移動人口急増に拍車をかけたとみるが、他方で、総人口に占める移動人口の
32 厳善平『農村から都市へ一億三千万人の農民大移動』岩波書店、2009 年、PP.11-13。
19
比率(移動率)は、4%から5%程度であり、人口移動の相対水準は高いとは言えない。
第2期:過度期 (1959年~1963年)
1959年、60年の高い移動水準は、大躍進の失敗後の農村から動員された大勢の労働 力人口及びその家族の農村帰還を原因とする。調整期に入った1963年には移動人口が 1500万人を割り込み、移動率は2%くらいにまで低下した。
第3期:低迷期 (1963年~1977年)
第3期は文化大革命を挟む十数年間の低迷期である。年間の移動人口数は1500万人 前後で推移し、移動率は 1.5~2%にすぎなかった。計画経済体制における人口移動は 極めて低い水準に抑えられたことが窺える。
第4期:1978年以降の10年間
農村や辺境に下放された都市出身の知識青年33、文化大革命期に都市部から追い出さ れた幹部や労働者が都市への帰還を許されたため、1979 年をピークとする前後の数年 間に、大規模な人口移動が発生した。しかし、1980 年代に入ってから、自営業者に対 する移動の規制緩和、農業生産請負制の普及及び自由市場の復活、成長によって、自己 都合での地域間移動が可能となり、戸籍転出入を伴わない流動人口が急増した。そのた め、実際どれくらいの人口が流動したか公安部門の戸籍転出入統計には表されないが、
移動率は依然として低いと推測される。
そして、毛沢東時代における地域間人口移動は以下のような事情で計画的に進められ たという34。
①建国初期、新政権の樹立に伴い多くの共産党幹部が北方から南方へ送り込まれた。
②新しい工業基地の建設や中西部地域での三線建設35を支援する形で沿海都市から 多くの技術者、労働者が動員されて移動した。
③新疆、黒竜江、雲南など辺境地域の開墾のために山東、河北などから組織的な移民 が行われた。
④沿海都市の既存大学から一部の学部が中西部に移転されたのに伴い、多くの教職員 が移動を余儀なくされた、⑤都市の就職難などで数多くの中高卒者、労働者、幹部が農 村地域へ下放された。
その結果、人口移動の方向は先進地域から後進地域へ、都市から農村へと、先進国の
33 知識青年とは基本的に非農業戸籍を持つ都市住民の子弟である。文化大革命最中に幾つ もの学年の若者が動員され人民公社の生産隊、集団農場および新疆自治区、黒竜江省など に下放された。「知識青年の下放政策」は、都市生まれの若者に貧農などからの教育をうけ させ、厳しい環境にも耐えられる経験を積ませ、農村建設などに有用な人材を育てようと することを目的としたものである。
34 沈益民・童乗珠 『中国人口遷移』中国統計出版社、1992 年。
35 国防戦略上、沿海地域(一戦)や平原部(二線)が敵に攻め込まれ占領された場合、抵 抗を継続するための軍需工業基地を、内陸山間部(三線)に建設する方針。