天平の風流 : 遣新羅人歌における宴
著者 廣岡 義隆
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 16
ページ 15‑34
発行年 2005‑06‑26
URL http://hdl.handle.net/10076/6623
天
平
の
風
流
達新羅使人歌における宴
‑
‑
廣同義隆
○キーワード‖=書き換え、訓字主体表記、風流、実録、婁の場
一、はじめに
『萬葉集』巻十五は、前半約三分の二が天平八年派遣の「達
新羅使人歌」(一四五首)、後半約三分の一が「宅守・弟上娘子贈
答歌」(六三首)で、この二大歌群からなっている。後半部をな
す「宅守・弟上娘子贈答歌」についてはこれまでに発言したこ
とがある(注1)。前半部の「達新羅使人歌」についても遣使の
側面から考究したことはあるが(注2)、今回、改めてこの歌群
について考える機会があったので、ここにそれを記しとどめる
次第である。
「達新羅使人歌」については、「斉録風な創作」(注3)との見
方が影を落として久しい。当論は、該当歌群を風流意識にもと ついた宴での「実録」と見るものであるが、歌稿そのものが収録されたものではなくて、訓字主体表記から仮名主体表記への書き換えがされていることについて言及することになる。
二、冒頭歌群について
この歌群について、「萬葉集目録」には「天平八年丙子夏六月
遣使新羅囲之時使人等各悲別贈答及海路之上働旅陳愚作歌井嘗
所領詠古歌一首四十五首」と記されていて、「題詞」との違いを
有している。両者を並べて示すと以下のようになる。×印はそ
の個所に文字のないことを示すものである。
‑15‑
天平八年丙子夏六月遣使新羅園之時使人等
×××××××××達×新羅×××使人等
各悲別贈答及海路之上働旅×陳息作歌
×悲別贈答及海路××働×情陳思××
井嘗所謂詠×古歌一首四十五首
井嘗所諦×之古歌××××××
目録 題詞 目録 題詞
「題詞」が意味するところは、次の(ア)〜(エ)の四項目
からなっている。
(ア)遣新羅使人等
(イ)悲別贈答
(ウ)海路働情陳思
(エ)皆所領之古歌
この(ア)の「遣新羅使人等」は、遣新羅使一行が主体であ
ることを提示したものであり、続く(イ)〜(エ)はその歌詠
内容をさし示しており、(イ)の「悲別贈答」は、冒頭に位置す
る難波での送別の宴における夫と妻との悲別贈答詠を中心とし
た三五七八〜三五九三番歌をさすものである。即ち、三五七八〜三五八八番歌の「右十一首贈答」(三五八八番歌左注)に、「右
一首秦間満」(三五八九番歌左注)、「右一首驚還私家陳思」(三五九
〇番歌左往)、「右三首臨単之時作歌」(三五九三番歌左往)という十
六首をさして「悲別贈答」としたものである。(ウ)の「海路働
情陳思」は、三五九四⊥二六〇一番歌の「右八首乗船入海路上 作歌」(三六〇一番歌左往)に該当し、(エ)の「営所領之古歌」は、柿本朝臣人麻呂の歌を中心とした古歌請詠の三六〇二〜三六一一番歌に該当する。
このように見るとその題詞は、全歌群一四五首を統括するも
のではなく、冒頭から古歌涌詠の三木二番歌までの三四首に
該当するものとなる。この事実については、吉井巌氏が既に指
摘しており(注4)、最近では新編日本古典文学全集本『高菜集』
や新日本古典文学大系本『萬葉集』がその注で採用している。
旅程から見ると、船発ちの難波から「安胡乃宇良」(三大二じ番
歌)がさす「安塵郡の倉橋島附近」(澤演久孝氏『萬葉集注釈』)ま
でとなる。この地名を一々押さえると(イ)の「悲別贈答」歌
群での地名は、
大伴能美津(三五九三)
であり、続く(ゥ)の「海路働情味思」歌群は、
牟故能宇良(三五九五)武庫浦(武庫川河口) 印南都麻(三五九六)(加古川河口付近) 多麻能宇良(三五九八)玉の浦(倉敷市玉島か) 神嶋(三五九九)(福山市神島町) (輌浦)(三六〇〇く二)(福山市輌町)
となり、摂津国から順に備後国へと移動している。また(エ)
の「嘗所謂之古歌」に見られる地名は次のようになる。
思可麻河泊(三六〇五)飾磨川(姫路市飾磨港付近) 乎等女(三六〇六)(敏馬(神戸市灘区)か、処女塚(神
‑16‑
野嶋我左吉(三六〇六)
藤江能宇良(三六〇七)
安可思能門(三六〇八)
武庫能宇美(三六〇九)
安胡乃宇良(三六一〇) 戸市東灘区)付近か)淡路島北端(津名郡北淡町)藤江浦(明石市藤江付近)(明石海峡)武庫海(武庫川付近)
安胡浦(安芸郡倉橋島付近)
船上での古歌葡詠ゆえにその地名は多少前後するが、摂津国
武庫から安芸国辺りまでの範囲となる。このように、その題詞
は全一四五首を統括するものではなく、この冒頭歌群三四首に
対応している。巻十五までの「萬菓集目録」は編纂当時のもの
であることが明らかとなっているが(注5)、その「天平八年丙
子夏六月遣使新羅囲之時使人等各悲別贈答及海路之上働旅陳思
作歌井首所請詠古歌一首四十五首」という表現は、現行巻第十
五の原形が一旦成立して後に作成されたものであり、「天平八
年丙子夏六月」という年次と共に「一首四十五首」という総歌
数も後補されたものと理解することが出来る。
三、路順を追って
右で見たように、この「遣新羅使人歌群」は冒頭部三四首に
一一一首が増補される形で形成されている。吉井巌氏や伊藤博
氏は、全体を三部に分け、
冒頭部三四首……A 続く一〇六首……B家島での五首……C
とし、このB部が実録個所であり、A部とC部は、大伴家持に
ょって物語的に補われた個所であるとし、またB部にも一部家
持の手が入っているとしている(注6)。しかし、冒頭部三四首
に続く一一一首(B一〇六首+C五首)の歌に見られる地名を追う
と、冒頭歌群の「海路詠」則ち、(ウ)の「海路働情陳思」の後
を繋ぐ形で詠まれている。
長井浦(三六一二〜四)
風速浦(三六一五〜六)
長門嶋・浦(三六一七〜二九)
麻里布浦(三六三〇〜七)
大嶋鳴門(三六三八〜九)
熊毛浦(三六四〇〜三)
分間浦(三六四四〜五一)
筑紫舘(三六五二〜六七)
韓亭(三六六八〜七三)
引津亭(三六七四〜八〇)
狛嶋亭(三六八一〜七)
伊波多野(三六八八〜九六)
浅茅浦(三六九七〜九)
竹敷浦(三七〇〇〜一七) (三原市糸崎町)(広島県豊田郡安芸津町)(安芸郡倉橋島)(山口県岩国市)(大畠町瀬戸)(上関町室津)(中津市)(福岡市中央区)(福岡市西区宮浦)(糸島郡、糸島半島西側)(唐津市神集島)(壱岐郡石田村)(内浅海か)対馬島
(樽ケ浜)対馬島
17
家鳩(lニ七一八〜二二)(姫路市飾磨港西南の群島)
‑
*
‑
*
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*
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‑
右は、冒頭部三四首に一一一首が増補される形で形成されて
いると見るのが良く、途中から展開している実録歌群に冒頭部
を補ったと見るのは不自然極まりない。この点において、吉井
巌氏や伊藤博氏の説には難がある。その後補歌群は国郡の行政
単位を詳しく記している特徴がある。
備後園水調郡長井浦
安重囲長門嶋
周防圃玖河郡麻里布浦
豊前園下毛郡分間浦
筑前園志麻郡之韓亭
肥前園松浦郡狛嶋亭
萱岐嶋封馬嶋浅茅浦
播磨国家鳴
このように、冒頭歌群の「神島」と輌浦を受け継ぐ形で、各
国の地名が次々と詠まれている。その内、歌数の多い詠作地と
その歌数は、
安芸郡倉橋島の「長門嶋」「長門浦」での十三首 山口県岩国市の「麻里布浦」での八首
中津市の「分間浦」での八首(佐婆海中遭難後の詠)
「筑紫舘」での十六首 壱岐島石田の「伊波多野」での九首(雪宅満挽歌三群)対馬の
「竹敷浦」での十八首
となっている。
往路が路順を追うようにして歌が詠まれているのに対して、
帰路はわずかに家島での五首に過ぎない。これについては次の
ように言及されている。
・副使大伴三中の羅患に由来か(粂川定一氏、注7)。・大使の死去事件のためか(武田埜口氏『高菜集金註釈』)。
・冒頭歌一一首の「妹」と「秋」を核とした虚構作品に由
来(伊藤博氏、注8)。
・録事の死没により歌ノートが竹敷浦で閉じられたため(八
木雅代氏、注9)。
この件については、次項で言及する。
四、病禍の中で
この天平九年(七三七)の遣新羅使一行の上京航路は歌作どこ
ろではない悲惨な有様であったことが判明している。以下、『続
日本紀』により、録して行く。
・達新羅使大判官従六位上壬生使主宇大麻呂、少判官正七位
上大蔵忌寸麻呂等入京。大使従五位下阿倍朝臣縫麻呂泊津
嶋卒。副使従六位下大伴宿祢三中染病、不得入京。
(天平九年春正月辛丑(二六日)条)
18
・遣新羅使奏、新羅園、失常礼、不受使旨。於是、召五位巳
上井六位巳下官人惣四十五人干内裏、令陳意見。
(同年二月己未(一五日)条)
・諸司奏意見表。或言、遣使問其由、或、餐兵加征伐。
(同年同月丙寅(二二日)条)・遣新羅使副使正六位上大伴宿祢三中等升人拝朝。
(同年三月壬寅(二八日)粂)・遣使於伊勢神宮、大神社、筑紫住吉八幡二社及香椎宮、奉
幣、以告新羅元礼之状。(同年夏四月乙巳(九日)条)・参議民部卿正三位藤原朝臣房前亮。
(同年同月辛酉(一七日〉条)・大事管内諸園、疫瘡時行、百姓多死。
(同年同月突亥(一九日)粂)・廃朝。以百官宮人患疾也。(同年六月甲辰朔・散位従四位下大宅朝臣大園卒。(同年六月契丑
・大事大弐従四位下小野朝臣老卒。 〓日)条)(一〇日〉粂)
(同年六月甲寅・散位正四位下長田王卒。(同年六月辛酉・中納言正三位多治比真人額守亮。
(同年六月丙寅 (二日)粂)(一八日)条)
(二三日〉条)・賑給大倭伊豆若狭三園飢疫百姓。散位従四位下大野王卒。
(同年秋七月丁丑(五日〉粂)・賑給伊賀駿河長門三園疫飢之民。 (同年同月壬午(一〇日)条)・参議兵部卿従三位藤原朝臣麻昌美。
(同年同月乙酉(一三日)粂)・散位従四位下百済王郎虞卒。(同年同月己丑(一七日)条)
・…上略…、就右大臣(=藤原朝臣武智麻呂)第、授正一位、拝
左大臣。即日、亮。(同年同月丁酉(二五日)条)・中宮大夫兼右兵衛率正四位下楕宿祢佐為卒。
(同年八月壬寅(一日)条)・参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合亮。
(同年同月丙午(五日)条)
大事府においては天平七年(七三五)に「比日、大事府疫死者
多。」(八月乙未(一二日)条)とあり、「自夏至冬、天下患碗豆瘡〔俗
日裳瘡〕。天死者多ご(同年是歳粂)とあって、既に天平七年時に
天然痘(注10)が流行していた。遣新羅佳人一行は往路九州においてそれに雁患した模様で、旅中で既に発病し、元者を出し
ている(「到萱岐嶋、雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首井短歌」15・
三六八八〜九〇、題詞)。そういう大変な情況で新羅へ吼かったの
であり、新羅側はその対応に苦慮したことが想定される。新羅
側の「失常礼、不受使旨。」というのは従来からの険悪な外交関
係(注11)から納得出来るものではあるが、その上に疫病神を
伴っていたということで、厄介払いされたに違いない。新羅に
あっての遣新羅使一行は、緊迫した外交関係から歌作の余裕が
なかったに相違いないが、仮に宴を開く余裕があったとしても、
19
倭の地を離れた異国にあっての宴は漢詩の宴であるはずであり、
倭歌はあり得なかった。その上に天然痘の疫禍に悩まされてい
たということになる。
右の『続日本紀』記事で確認し得たように、大使は帰路に対
馬で病死していたし、一行は一月二六日に入京したが、副使の
大伴三中は病ですぐには入京出来ない有様であった。遣新羅使
が正式な報告を行ったのは、入京半月後(二月一五日)であった
し、副使大伴三中らが拝謁したのは一行が入京したニケ月後の
三月二八日になっていた。その後、藤原四兄弟は恐らくこの天然痘禍で次々と死亡して行った。即ち、房前(四旦七日)、麻
呂(七月l三日)、武智麻呂(七月二五日)、宇合(八月五日)と、一
公三卿はこの世から身を隠してしまったのであった。こういう
情況であるので、都はおろか、難波においても宴を開く余裕は
全くなく、帰路の家島での五首がせめてもの終宴という有様で
あった。家島五首中、末尾の「御津の濱松」(15・三七二一番歌)
及び「大伴の御津」(15・三七二二番歌)の詠歌二首が、歌意上わ
ずかに旅立時の「難波」詠に対応するものとなっている。
以上のように、当時の情況をつぶさに見ると、この一連の詠
歌は「実録風な創作」というものではなく、天平八〜九年の実
態をそのままに反映した「実録」そのものであり(その表記につ
いては後述)、前半部の三四首に、後半部のニー首が追補され
て現在の姿になっているものと見てよい。
往路が路順を追うようにして歌が詠まれているのに対して、 帰路はわずかに家島での五首に過ぎないということについては、種々の要素がからんでいて、一つに帰し得ないと言えるが、その理由は次のように挙げることが出来よう。
・天然痘の疫禍に悩まされていて、宴を開いての歌作どこ
ろではなかった。
・彼地では緊迫した外交関係から歌作の余裕がなかった。
・宴がもたれた場合、倭の地を離れた異国にあっての宴は
漢詩の宴であるはずであり、倭歌の宴ではあり得なかっ
・旅路の常として、往路は全てがもの珍しくて宴も多くも た。
たれ、従って歌も多く作られることになるものであるが、
帰路は都路をめざしての単なる旅路にすぎないものとな
る。
五、竹敷歌群の性格
当論で取り上げるのは歌群も末尾に位置する「竹敷歌群」と
「家嶋歌群」である。「竹敷歌群」は対馬の竹敷浦での歌群で、
対馬を旅立って目的地新羅へ向かおうとする直前の歌である。
また「家嶋歌群」は対馬から帰還しての瀬戸内の家島での歌群
で、帰路における唯一の歌群となっている。
さて、「竹敷歌群」は十八首からなっている。即ち、「竹敷浦
舶泊之時各陳心緒作歌十八首」とあり、この十八首は前半九首
ー20‑
と後半九首に大きく分かれる。即ち前半九首には作者が明記さ
れていて、大使(三七〇〇)、副使(三七〇一)、大判官(三七〇二)、
小判官(三七〇三)、対馬娘子玉槻(三七〇四〜五)、大使(三七〇
六)、副使(三七〇七)、大使(三七〇八)とあり、大使阿倍朝臣継麻呂、副使大伴宿祢三中、大判官壬生使主宇太麻卑小判官大
蔵忌寸麻呂といった遣使中のハイクラスの宮人と宴席に侍した
現地の遊行女婦玉槻であることがわかる。また後半九首には名
が録されていなくて、それより下位の宮人たちの詠と考えられ
る。この二群は同じ宴でも席を異にしており、歌詠においても
微妙に異なって来る。この前半九首を順にa歌からi歌とする
と、以下のようになる。
a安之比奇能山下比可流毛美知菓能知里能麻河比波計布仁聞
安留香母(15二二七〇〇、大使)
b多可之伎能母美知乎見礼婆和垂毛故我麻多牟等伊比之等伎
曽伎ホ家流(15・三七〇一、副使)
。多可思吉能宇良未能毛美知和礼由伎皇可倣里久流末伍知里
許須奈由米(15・三七〇二、大判官)
d多可思吉能宇倣可多山者久礼奈為能也之保能伊呂ホ奈里ホ
家流香聞(15二二七〇三、小判官)
e毛美知婆能知良布山連由許具布祢能ホ保比布米但亘伊侵皇
伎布家里(15二二七〇四、封馬娘子玉槻)f多可思吉能多麻毛姦婦可之己垂侵奈牟君我美布祢乎伊都等
可麻多牟(15二二七〇五、封馬娘子玉槻) g多麻之家流伎欲吉奈替佐乎之保美皇婆安可受和礼由久可反
流左ホ見牟(15・三七〇六、大使)
b安伎也麻能毛美知乎可射之和我乎礼婆宇良之保美知久伊麻
太安可奈久木(15・三七〇七、副使)i毛能毛布等比等ホ波美要締之多綿毛能恩多由故布流布都奇
曽倍ホ家流(15二二七〇八、大使)
この前半部九首は、以下に見るように「黄葉」歌群と言って
よい展開をしている。これは一連一四五首の冒頭部に位置して
いる次の歌、
秋さらばあひ見むものをなにしかもきりにたつべく
なげきしまさむ(15・三五八一)
に見られる帰還の「秋」を意識してのものであることは「b歌」
から理解できる。「錦繍歌群」と名付けよう。
aぁしひきの山下ひかる
叫笥ば可
ち引別の叫判明叫は
けふにもあるかも(15・三七〇〇、大使)
bたかしきの引現場を見ればわぎもこがまたむといひ
し
ときそきにける(15・三七〇t、副使)
。たかしきのうらみの引利現われゆきてかへりくるま
で
ちりこすなゆめ(15・三七〇二、大判官)
dたかしきのうへかた山は
引叫瑚謝d「ヨ聞d「い」剖に
なりにけるかも(15・三七〇三、小判官)e引利別咽のちらふ山連ゆこぐふねの呵欄叫にめで▼て
いでてきにけり(15二二七〇四、封馬娘子玉槻)
21
fたかしきのたまもなびかしこぎでなむ君がみふねを
いつとかまたむ(15・三七〇五、封馬娘子玉槻)
gたましけるきよきなぎさをしほみてばあかずわれゆ く かへるさに見む(15二二七〇六、大使)h封剖再剖の引功ちlをかざしわがをればうらしほみち く
いまだあかなくに(15二二七〇七、副使)
・1ものもふとひとにはみえじしたびものしたゆこふる
に.首勺へはける(15二二七〇八、大使)
右の歌々は次のような展開をしている。
a
もみちばのちりのまがひ
b
もみち
C
もみち
d
くれなゐのやしほのいろ
e
もみちば
f
にほひ 時そ来ぬ
h
あきやまのもみち 即ち、秋山の色付いた菓を詠んでいないのは、 月そ経ぬf・g・iの
三首に過ぎない。e・f歌は宴席に侍った現地の遊行女婦であ
る玉槻の二首であり、その内の一首(e歌)はテーマの「もみち
ば」「にほひ」を詠み、続く第二首で「君がみ船」を詠って別離
の悲しみという第二テーマを形成したのであった。大使のg歌 はこの第二テーマに応えたものである。また大使のi歌は、副使のb歌に見られる「時そ来にける」に応えたもので、「月そ経にける」と結んだと理解できるものである。
これに対し、後半九首は様相を異にしている。
①伊敵豆刀ホ可比乎比里布等於伎倣欲里与世久流奈美ホ許呂
毛皇奴礼奴(15・三七〇九)
②之保非奈婆麻多母和礼許牟伊射遊賀武於伎都志保佐為多可
久多知伎奴(15・三七一〇)
③和我袖波多毛登等保里皇奴礼奴等母故非和須礼我比等良受
波由可自(15・三七〓)
④奴婆多麻能伊毛我保須倍久安良奈久ホ和我許呂母亘乎奴礼
皇伊可布勢牟(15・三七一二)
⑤毛美知婆波伊麻波宇都呂布和伎毛故我麻多牟等伊比之等伎
能倍由気婆(15・三七一三)
⑥安伎佐礼婆故非之美伊母乎伊米ホ太ホ比佐之久見牟乎安気
ホ家流香聞(15・三七一四)(第四句「佐」ハ刃・蘭ニヨル)
⑦比等里能未伎奴流許呂毛能比毛等加婆多礼可毛由波牟伊倣
梓保久之皇(15二二七一五)
⑧安麻久毛能多由多比久礼婆九月能毛美知能山毛宇都呂比ホ
家里(15・三七一六)
⑨多碑林皇毛母奈久波也許菱和伎毛故我牟須批思比毛波奈礼
ホ家流香聞(15・三七一七)
即ち、「家」「我妹子(妹)」などの家人思慕がメインテーマと
22
なって展開する歌群となっている。
①当いqに.れぴをひりふと
おきへよりよせくるな功 に
封〕初旬でぬれぬ(15二二七〇九)
⑦U感びなばまたもわれこむいざゆかむおきつu間引 み
たかくたちきぬ(15二三二〇)
③渕飼禍は出羽uqとほりて刻刈ぬともT」ひわす刈羽叫
とらずはゆかじ(15・三七二)
④ぬばたまの日朝がほすべくあらなくにわがqろ一朝瑠
を
刻河ていかにせむ(15・三七一二)⑤封塾い蜘ばはいまは引づ句割
当が
またむといひ
し.羞.へ廟明確(15・三七三一)
⑥勅封封れば」叫u初日引を〓め一にだにひさしく見む を
あけにけるかも(15二二七一四)
⑦ひとりのみきぬるd句も‑の
笥とかば
たれかもゆは
む
叫→どほくして(15二二七一五)
⑧あまくものたゆたひくれば九凡西
巻の山も
舅
づ旬刊にけり(15二二七一六)
⑨たびにてももなくはやこと
習が
むすびし叫引
は
なれにけるかも(15二二七一七)
漢字を当てて相互対照すると以下のようになる。
① 家裏
衣手
滞る
貝 浪
づと
④
⑤
⑦ ⑥ 家夢
衣手
滞る
我妹子
妹
恋しみ
衣
紐解く
⑧
⑨
我妹子
この後半九首歌群は、その歌い出しに葛旅詠としての歌語「家
潮干
潮騒 袖 手本
滞る
恋忘貝 裏」が置かれたことが契機となり、以下九首の家人思慕というテーマを形成することになったものと考えられる。①歌の末句「衣手濡れぬ」は後代の歌語とは異なってあくまでも海の波にょるものにとどまってはいるが、「わが袖はたもととほりてぬれぬとも」(③)、「わがころもでをぬれていかにせむ」(④)と受け継がれ、これが「きぬるころものひもとかば」(⑦)とか、「わぎもこがむすびしひも」(⑨)という恋情をもよおす表現へと展開し、家人思慕をより色濃くしていることは留意してよい。
②歌の「潮干」「潮騒」の表現は、前半九首中のb歌「清き渚」
やi歌「浦潮満ち来」を承け、また前歌①の「見」「浪」を受け
つつ、「潮干なば」と歌い出し「沖つ潮騒高く立ち来ぬ」と結ん
だ詠である。①歌の「家裏」表現を受けることはなく、「いざ行
かむ」と視線を新羅へ向けての大夫心で言立てた歌となってお
り、家人思慕は見られない。歌語「潮騒」(「潮さゐ」1・四二)
を踏まえつつ格調高く歌い上げた一首と言ってよい。ところが
③歌において、①歌の「貝」を踏まえつつ「恋忘貝」と展開し
ー23‑
たことにより、この歌群が家人思慕で彩られることとなった。
即ち、「妹」(④)、「我妹子」(⑤)、「妹」(⑥)、「家」(⑦)、「我
妹子」(⑨)と家人思慕が展開し、歌群のテーマとなった。⑤の
「我妹子」は前半九首中の副使のb歌、
たかしきのもみちを見れば
笥が
またむといひ
し
ときそきにける(15・三七〇一、副使)
を踏まえての表現である。⑨歌では「我妹子が結びし紐」と展
開しており、これは一四五首全体の冒頭部に位置する、
わぎもこがしたにもきよとおくりたるころものひも を
あれとかめやも(15二二五八五)
といった歌詠内容に通底する感情であり、これは遣使一行に共
通する思いであったに違いない。⑦歌の「衣」「紐解く」も同様
である。こういう次第でこの後半九首は家人思慕がメインテーマとなっており、豪人思慕歌群」と名付けてよい。しかしなが
ら、前半九首を受け継いだ以下のような展開が見られる。 ざし」(b)と賞賛している「錦繍賞美歌群」である。ところが、後半九首においては、「もみちばはいまはうつろふ」(⑤)「九月のもみちの山もうつろひにけり」(⑧)と同じ「黄葉」を詠じながらも錦繍賞美ではなくて「移ろひ」(即ち嶺色)を詠じているのである。これは「ときのへゆけば」(⑤)「あきされば」(⑥)という時の「移ろひ」(即ち時の経過)を心に抱いてのものであり、家人思慕を念頭に置いてのものであることがわかる。実はこの表現は前半九首においても、「わぎもこがまたむといひし日割そきにける」
(b)や、結びの
黄葉
移ろふ時の経行く
秋去る
⑧ 九月
黄葉
移ろふ
前半九首を先に「錦繍歌群」と名付けたが、後半九首はその
前半九首とは趣きを異にしている。前半九首は「黄葉」を「山
下ひかるもみちばのちりのまがひ」(a)、「ちりこすなゆめ」
(C)、「くれなゐのやしほのいろになりにけるかも」(d)、「も
みちばのちらふ…・:にほひ」(e)、「あきやまのもみちをか ものもふとひ七にはみえじしたびものしたゆこふる
に
ヨ(i、大使)
に見られた表現を引いてのものであることがわかり、歌群一四
五首全体の冒頭に位置する、
わがゆゑにおもひなやせそ秋風のふかむそのつき
あはむものゆゑ(15二二五八六)
といった秋には帰京できるという共通理解を前捏としての嘆き
になっていると見ることができる。
以上、対馬の竹敷浦での十八首(竹敷歌群)は、前半九首は「錦
繍賞美歌群」、後半九首は「家人思慕歌群」と大きく二群に分か
れている。
伊藤博氏は、冒頭二首と照応していて、「妹」と「秋」とが
核となっており、これは作品の虚構に由来するものであると説
いている(注望。また同氏は後に、⑤〜⑨の五首は「言葉の上
‑24‑
で前四首とかかわる歌が一首もない」として、「後の加工である
可能性が高い」としている(注ほ)。しかし、右で考察したよう
に、それ以前の歌句と表現上強い関連を有しており、創作によ
る虚構というものではなく、遣新羅使人一行の心理の必然がこ
ぅした歌作をなさしめたものと見るのがよい。単なる虚構では
ない竹敷浦という「場」と、封馬娘子玉槻が侍る「宴」に即し
た詠があると共に、宴席詠に見られる詠作上の流れも如実に見
て取ることが出来るのである。このことについては、吉井巌氏も次のように指摘している(注空。
おそらく大使たちの歌宴は、その作の内容からみて、現存
の作の順序に歌いつがれて行ったと考えられる。このこと
は歌宴の記述が忠実に残されたことを推定させるし、…下
略…。作者の名を記述しない九首は、大使たちの作と歌の場面を
異にしているように思われる。おそらくは浜べに近く設け
られた屋外の宴ではなかったか。貝拾いなどの浜べの遊び
から歌は次第に家郷への思いに移つている。(所収本七九貢)
大、家島歌群の展開
次に、帰路の瀬戸内の家島で持たれた宴での歌群五首を見よ
ぅ。その題に「廻来筑紫海路入京到播磨国家嶋之時作歌五首」
とある。この題詞は、次の四条に分けられる。 廻来筑紫……圭…‥(ア)海路入京………(イ)到播磨国家嶋…‥…・(ウ)之時作歌五首………(エ)(ア)の「廻来筑紫」は、新羅をめぐつての帰還を意味している二筑紫」とは九州全体をさしての呼称であり、難所玄海灘を経て九州に到達したことを意味している。(イ)の「海路入京」は瀬戸内航路を経ての上京をいう。玄海灘以遠は「海路」とは言い難い大海原そのものであるが、瀬戸内は島伝いによる「海路」だというのである。(ウ)はその路中の家島という歌作の場を意味し、「到」には帰還の安堵感が投影している。もう明石は旦那の家島まで到達したという万感が見られるのである。そうして(エ)
の五首が展開される。
⑩伊倣之麻波奈ホ許曽安里家礼宇奈波良乎安我古非伎都流伊
毛母安良奈久ホ(15二二七一八)
⑪久左麻久良多綿布比左之久安良米也等伊毛布伊比之乎等之
能倍奴良久(15二二七一九)
⑫和伎毛故乎由伎皇波也美武安波治之麻久毛為ホ見延奴伊倣
都久良之母(15二二七二〇)
⑬奴婆多麻能欲安可之母布祢波許垂由可奈美都能波麻末都麻
知故非奴良武(15・三七ニー)
⑭大伴美津能等麻里ホ布祢波皇々多都多能山乎伊都可故延
伊加武(柑・三七二二)(第一句「大伴」ハ次点本系諸本ニヨル)
ー25‑
この五首は、三首と二首に分かれる。即ち、⑩〜⑫の三首は
「竹敷歌群」の後半九首を承けを形の家人恋慕詠となっている。
⑩叫→しl剖はなにこそありけれうなはらをあがゴ叫き
つる
再現もあらなくに(15二二王八)
⑪くさまくらたびにひさしくあらめやと叫もlにいひし
を.賀u跡.へ由らく(15・三七一九)
⑫習を
ゆきてはやみむ封はlぢしまくもゐに見え ぬ
再.ヨらしも(15・三七二〇)
⑩歌は、「家嶋」の名に「家」という家人を連想する初句と、
それが下旬において⊥あがこひきつるいももあらなくに」とい
う恋慕故の慨嘆「なにこそありけれ」に転じる悲哀となって歌
が形成されている。⑪歌は第五句の「としのへぬらく」に極ま
り、「竹敷歌群」後半九首中の「ときのへゆけば」(⑤)と同じトーンでの詠と亨フことが出来るが、天平九年と年が改まって
いるので、「歳の経ぬらく」の表現となっている。この⑪歌にも
「妹」の語が第四句にある。⑫歌は、⑩歌同様に今度は島名「淡
路島」に「逢は」・という動詞を見ての作で、やはり「名」に触
発されての詠で、「我妹子」に「逢ひ見む」という患いと、「家
つく」(=家が近付く)という想念で固められた歌である。以上、
この三首は家人恋慕歌である。吉井巌氏は、三六二七番歌との
照応を指摘する(注ほ)。そうした照応も多少はあろうが、むし
ろ竹敷浦後半歌群からの流れの方を重く見るのが良かろう。続
く二首は、 ⑬ぬばたまのよあかしもふねはこぎゆかな功づ内周剖
封づ=剖ちl召軸(15二二七三) 笥胡d勾引判別に
ふねはてゝ
ヨ山を
い
つかこえいかむ(15・三七二二)
とあって、歌詠の場所は家島でありながら、その視線は出船地
の「御津の浜松」(⑳)、「大伴の御津の泊まり」(⑭)に注がれ
ており、更にその先の「龍田山」(⑭)へと向かつている。歌群
一四五首全体の冒頭部に位置する、
大伴のみ津にふなのりこぎ出てはいづれのしまに
いほりせむわれ(15二二五九三)
に対応するものであり、また龍田山は、
ゆふさればひぐらしきなくいこま山こえてそあがく る
いもが目をほり(15・三五八九、秦間滴)
いもにあはずあらばすべなみいはねふむいこまの山 を
こえてそあがくる(15二二五九〇)
の「射駒山」に対応する。即ち、龍田山は生駒連嶺の端に位置
しており、総称としての生駒山の一部と言うことができる。冒
頭歌群との対応は、当論の最初に指摘した原形部(三五七八〜三
六二番歌)と増補部(三六一二〜三七二二番歌)との対応というこ
とになるが、そういう対応以前の問題として、旅立ち時の惜別
の歌々は一行の心に深く刻み込まれていた歌であり、心理の必
然として自ずと口をついて出て来た詠と見てよい。
また、⑬歌の「みつのはままつまちこひぬらむ」の表現は、
26
「山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌」の題詞を持つ、
去来子等早日本遠大伴乃御津乃濱松待懸奴良武の歌(1・六三)を想起させるものであり、作者は遣使の先輩と
しての山上憶良詠を下敷きにして詠作したのである。この六三
番歌が憶良真作か否かは別として、遣使一行にあっては人麻呂
の古歌以上に意味を有していた先輩詠であり、また切実な思念
を宿した歌として一行の人たちの心に大きく位置していた歌と
言ってよいものであった(注空。その歌を本歌にしての作であ
る。
先に言及したように、吉井巌氏や伊藤博氏はこの家島五首を
編者大伴家持による増補詠とし、実録とは見ていない。しかし、
遣新羅使人詠全体を編者の立場から創作して締め括るというの
であれば、その歌巻の構成からして「難波」歌群から始まって
いるので、難波での宴歌で結ぶのが順当というものであろう。
また遣使という側面からは、服命上京、節刀返上、直会韓宴と
あるべきものであり、都の雅宴での詠歌で閉じられてもよいD
ところが、都でも難波でも明石でもない家島での詠歌で結ばれ
ているのは、実録そのものの結果であると見てよい。しかも、
その詠作内容は、竹敷歌群を踏まえているのである。
七、天平の風流
旅先で詠む歌に、政治や国家意識が見られないのは何故なの か。遣使として派遣されている官吏の詠にこうした意識の昂揚が見られないのは、遣使としての使命に欠けるのではないか。こうした問題について提起したのは高木市之助氏である。高木氏は、次のように分析している(注け)。
彼らがもし真に朝廷の新羅差遣という使命を支持しようと
していさえすれば、これらの歌のどこかに新羅へー・とい
ぅ関心が感じられるはずではないか。(所収本二〇六貫)
万葉の文学が受け伝えていることはそうした朝廷の外交で
はなくて、そのような外交を、民族がどのように受けとめ
たかという関連にほかならない。(所収本三〇貢)このことは、一行の詠歌中に「妹・我妹子」(家)がしばしば
詠みこまれることと関連して来る。高木氏は言う。
それにしては一行の歌があまりにも過剰に都の人たちを想
い、旅愁を嘆き、路次の自然に傷心でありすぎるようであ
る。
(所収本二〇八貢)
旅先で家人を歌に詠むことについて、当該歌ではなくて大伴
家持の次の歌、
河口之野連ホ塵而夜乃歴者妹之手本師所念鴨(6・一〇二九)
について、
歴史に残る旅をしながら大の男が妻のことを歌にするとは
何とも女々しいと思うのは現代の発想であり、当時は偽ら
ない気持ちを歌に詠みこむのが「みやび」であった。『伊勢
物語』初段ではこれを「いちはやきみやび」としている。
27
と言及したことがある(注18)。
右のことは、流布本『伊勢物語』の第一段(初冠の段)の増補
部分のコメントに、「むかし人はかく〓雪をなむ
しける」と出てくる。「をんなはらから」へ恋歌をおくる男の行
為について「みやび」と評価を下しているのである。この『伊
勢物語』における言及は時代がくだることになるが、知られて
いるように、天平期は「みやび」の意識が一種のウネリとして
高まっていた時期である。その「みやび」については、『武智麻
呂俸』(『家侍下』)、『続日本紀』、『高菜集』の例を引きつつ、か
って言及したことがある(注19)。その中で、「みやび」という
文芸概念について「都会風な洗練されたハイセンスをいう」と
した。『黄葉集』において、「みやび」の語は、
風流(名詞、4・七三)・美也備多流(連体形、5人至)
の形で各一例出る(注空。その「みやび」を所作として身に付
けた男を「みやびを」と呼んだ。用例としてはこの方が多くて、
風流士(二例、2二二六、2二二七)
遊士(五例、2二二大、2二二七、6二〇宗、7二二九五、ラー四二九)
がある。また題詞・左往の類には、「風流」(2二二大左縁、5人五 毒)
以外に、風流意気之士(6二〇〓序)
風流秀才之士(6二〇宗左)
風流娘子(16主八〇七左)
の例がある。『萬葉集』巻二では、女心を解さない大伴田主に ついて、石川女郎が「遊士」とは聞いていたが「於皆の風流士」(巻2二二六)と「謳戯」の歌を送っている。ここに見られる裏返しされた表現に、女心を解することが「みやび」であるという用法が如実に示されており、この流れが『伊勢物語』に見られる「いちはやきみやび」となって展開していると解することが出来よう(注聖。
そうであるからこそ、大伴家持は粋がって妹を思慕する歌を
旅中で口にしたのであり、遣新羅使人も同様に竹敷浦(往路)
や家島(帰路)で妹を思慕する歌を詠んだのである。こうした心
の奥底には当時の人々に広く支持される文芸意識が流れている
と見るのがよく、宴の席においては、その文芸意識の流れの中
で歌い上げられていったと見るのがよい。高木市之助氏が言う
「民族意識」という大袈裟なものに由来しているのではなく、
宴という場から来る必然であったと見るのがよい。別の言い方
で迫徹朗氏は、「私人の心を盛る道具としての和歌」ということを指摘している(注讐。そのことを認めつつも、それ以上に、
宴という場における文芸意識に由来していると見るのがよい。
なお、真下厚氏は、天平十二年の聖武東国巡幸歌群(6・一〇
二九〜一〇三六)についての言及であるが、
これらの(妻恋ひ)の歌は、旅の安全を保証するタマフリの
機能をもつものとして
詠歌され、またそのことを伝えようとしたとする(注望。池田
三枝子氏は、天皇の「徳沢流拾」の理念の下に「みやび」の歌
‑28‑
が詠出されているとする(注讐。私はそういう習俗や理念にも
とづいての詠ではなく、宴という場からくる文芸意識に基づき、
かつは旅にある者の心理の必然としての詠歌であると見るもの
である。
八、原資料の表記とその書き改め
以上、『萬菓集』巻第十五に載る遣新羅使一行の歌々の全てを
実録として見、その歌に見られる文芸観を概観した。
この「遣新羅使人歌群」を実録と見たが、これは歌詠内容に
関してであって、その表記についてのものではない。巻第十五
は、その後半部の「中臣宅守狭野弟上娘子贈答歌群」を含めて、
その全体が一字二音を主とする萬葉仮名で表記されており、そ
の仮名表記の中に、
浦・鳥・大船・君・海・秋
などと言った少数の正訓字を交えて表記している。このような
画数の比較的少ない正訓漢字を交用する方式は『古今和歌集』
以下に見られる一般的な書式であり、それが『萬菓集』にも見
られるということであり、これは「巻第十四」や、「巻第十九を
除く家持歌日誌」の表記と軌を一にしている(巻第五については
別個に考えるのがよいと見ている)。このことを考えるのに絶好の資料がある二営所請之古歌」と
『萬葉集』所収歌との比照である。 Al多麻藻可流乎等女乎須疑皇奈都久佐龍野嶋我左
吉ホ
伊保里須和礼波(15二二六〇六)
A2柿本朝臣人麻呂歌日敏馬乎須疑皇
又日
布祢知可
豆伎奴(15・人麻呂歌日)
と巻第十五は掲載している(以下、A2に見られる「柿本朝臣人麻呂
歌日」を略し、引用末尾の(15・人麻呂歌日)の形で略称)。これに対
し、巻第三の「柿本朝臣人麻呂罵旅歌八首」には、
al珠藻苅敏馬乎過夏草之野嶋之埼ホ舟近着奴
(3二一五〇)
a2虞女乎過而夏草乃野嶋我埼ホ伊保里為吾等者
(3・一本云)
という正訓字を主体とする表記で示されている。A2とalが
対応し、Alとa2とが対応することはすぐわかる。同様に続
く例を示そう。
Bl之路多倍能藤江能宇良ホ伊射里須流安麻等也見
良武
多批由久和礼乎(15・三六〇七)
B2安良多倍乃
又日
須受吉都流安麻登香見良武(15・
人麻呂歌日)
bl荒拷藤江之浦ホ鈴寸釣白水郎跡香将見旅去吾乎
(3ニー五二)
b2白樺乃藤江能浦ホ伊射利為流(3二本云)
Cl安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久礼婆安可思能
29
門欲里伊倣乃安多里見由(15・三六〇八)
C2夜麻等思麻見由(15・人麻呂歌日)
Cl天離夷之長道従懲来者自明門倭嶋所見(3二重
五)
C2家門営見由(3二本云)
‑
*
*
‑
‑
*1
Dl武庫能宇美能ホ波余久安良之伊射里須流安麻能
都里船奈美能宇倍由見由(15・三六〇九)
D2気比乃宇美能
又日
可里許毛能美太礼呈出見由
安麻能都里船(15・人麻呂歌日)
dl飼飯海乃庭好有之苅薦乃乱出所見海人釣船
(3ニー五六)
d2武庫乃海舶ホ波有之(不渡好有之)伊射里為流
海部
乃釣船浪上従所見(3二本吾
El安胡乃宇良ホ布奈能里須良牟乎等女良我安可毛 能須素ホ之保美都良武賀(15・三六一〇)
E2安美能宇良
又日
多麻母能須蘇ホ(15・人麻呂歌
日)
el鳴呼見乃浦布船乗為良武撼嬬等之珠裳乃須十二
四賓三都良武香(1・四〇)
右のことについて、かつて次のように指摘したことがある。
巻三の高市黒人の「馬旅歌八首」に関しての言及であり、その 論未に補記したものであるので、ここに再録する。鹿瀬本萬葉集の二本歌注記」としているのは、高市黒人の二七六番歌の「一本云」の歌をさしてのものである。
初校提出後、中京大学で開催された「万葉集の編纂と成
立を考える会」において、右の「2歌群が意味するもの」
について披露した二九九九年九月一二日)。この席上、大浦
誠士氏から「表記の位相の相違とその資料」について教示
を受けた。この指摘によって修正するのがよいと考えたの
で、ここに補記する。
右の中で、風(=鹿瀬本萬葉集)の「一本歌注記」につい
てこの事き込みは「十五巻本万葉集成立後のいつかの時点」
としたが、人麻呂覇旅歌八首中の「一本云」の表記が正訓
字表記を主とするものであるのに対し、巻十五の「当所請
詠古歌」が一字二号表記を主体とするものであって、表記
の位相が異なるところから、「巻十五」そのものを資料にし
た注記と見るよりも、遣新羅使人(天平九年正月、帰任)によ
る巻十五歌群の「歌稿」(その原資料)に基づいたものと考
えるのがよい。また、黒人馬旅歌八首における一本注記の
歌が現萬葉集に存在せず、一方、人麻呂罷旅歌八首中の注
記歌は現萬菓集に存在するという不整合があったが、「十
五巻本萬葉集」に基づいたものではなく、それぞれ別個の
歌稿資料に基づいた注記と見ると、双方の一本注記におけ
る資料上の整合性が出てくる。以上により、人麻呂馬旅歌
‑30‑
八首及び黒人罵旅歌八首における一本注記は十五巻本萬葉
集による注記ではなく、歌稿レベルに基づく注記であると
訂正する。
なお、連動する事項がある。遣新羅使人歌群について実
録風創作論があるが、私は巻十五の後半歌群を含めて、共
に実録であり虚構ではないと見ている。右の件は、遣新羅
使人歌群中の「当所請詠古歌」記録が実在したことを証す
るものとなり、実録論の一傍証となろう。次に、巻十五の
「当所請詠古歌」中の「柿本朝臣人麻呂歌日」の注記は巻
三「人麻呂鶉旅歌八首」の左往注記と同時並行的な作業と
想定していたが、右により、巻十五の注記は巻三の注記より後のものと位置付けられよう。とすると、人麻呂顎旅歌
八首及び黒人罵旅歌八首の一本注記は十五巻本萬葉集成立
前の段階における注記である可能性が大きいと言うことが
出来よう。〓九九九・九二三、補記)
(注讐
右のことは、遣新羅使人の歌稿の原資料にあっては、……魔女乎過而夏草乃野嶋我埼ホ伊保里為吾等者(a2)
と記されていたことを示すものである。それを『萬菓集』巻第
十五編纂者は、
(多麻藻可流)乎等女乎須疑皇奈都久佐龍野嶋我左吉ホ伊
保里須和礼波(Al)
とその表記を改めたということを意味している。乾善彦氏も当
歌群を取り上げて、書き改めたものと言及している(注讐。B 1に対応するのはb2である。b2は第三句までしか示されていない。ということは第四五句はblと同じということを意味している。しかしながら、Blの第四句には「也」とあり、blの第四句には「香」とある。この助詞の相違については無視されたものと見るのもー案ではあるが、或いは「歌稿」においては助詞「カ」という形で存したものと見るのがよいのかも知れない。同様のことがClの第二句「乎」とClの第二句「従」とにあり、これについても同様に解釈できることになる。次にDlの第二句「ホ波余久安良之」とd2の第二句「舶ホ波有之」は検討を要する。紀州本以外の古写本には「舶」「軸」「船」
の
異同こそあれ、「舶ホ波有之」の本文になっているが、武田祐吉
氏の『高菜集全註釈』が紀州本萬菓集の二本云」(叉木説也)を
採用してその本文を「爾波好有之」としている。その後この本
文を採るのは鶴久氏・森山隆氏編『萬葉集』(桜楓社)及び最近の
新日本古典文学大系本『萬葉集』(いずれも「爾」は「ホ」の表記)
にすぎないが、「舶ホ波有之」の本文をとる『萬葉集釈注』(伊藤
博氏)においても、
もともと一本歌の系統を引く15三六〇九の第二句のよう
に「本渡余久安良之」とあったものが誤ってこうなったと
見るべきであろう。
と言及する通りであり、d2の「舶ホ波有之」が原姿とは考え
られないことを考慮すべきである。Elについては、巻一はe
2に相当する編集時の校異音き込みが存在しない。
ー31‑
その事き改めた編者としては、早くに森本治吉氏が用字面から家持の手になったことを指摘し(注㌘、その後、増田正氏が
その詳細な用字上の考察から、
本巻の現在書式の筆録者(それは同時に編纂者)は一人‑‑或は家持
‑
であるといふ従来説に根拠を与へ得たかと
息ふ。と指摘している(注讐。大伴家持と見てよい。古屋彰氏は大伴
三中を示唆するが(注讐、古屋氏は巻十五が書き換えられてい
ないことを想定しており、右に見た次第からその書き換えは避
けられず、古屋氏の三中説は困難となり、やはり大伴家持とい
うことになろう。
九、おわりに
以上、「遣新羅使人歌群」の一四五首は実録に基づいた歌々で
あり、『萬葉集』巻第十五は同じく実録を基とする「宅守弟上娘
子贈答歌群」と共に風呂敷で包みこむように一括された巻であ
るが、その原表記は現在見る一字一昔の仮名主体表記とは異な
った訓字主体表記であったことが明らかとなって来た。
その詠歌中に、家人を思慕する表現が多く見られるのは、宴
という場から来るものであり、その底に当時の文芸意識が存在
していたということを明らかにした。
虞岡義隆「中臣宅守茅上娘子贈答歌」(森淳司氏編『万葉集研究入 注
門ハンドブック』雄山閣、一九八八年二月)。
廣同義隆「山川隔る恋」(森淳司氏編『万葉集相聞の世界恋ひて
死ぬとも』雄山間、一九九七年八月)。
廣岡義隆「波涛を越えて ‑遣新羅使人の旅‑」(高岡市万葉歴史
館編『水辺の万葉集』同館論集1、笠間書院、一九九八年三月)。
大濱厳比古氏「巻十五」(『萬菓集大成』第四巻訓話篇下、平凡社、
一九五五年二月)。
吉井巌氏「遣新羅使人歌群」(『日本古代論集』一九八〇年九月、同
氏『萬葉集への視角』所収)。
伊藤博氏「万葉集の形成目録のなりたちをめぐつて」(『萬菓集研
究』第三集、塙書房、一九七四年六月、同氏『古代和歌史研究』2、
所収)。
北井勝也氏「廣瀬本万葉集目録に関する二三の問題」(『美夫君志』
五四号、一九九七年三月)。
吉井巌氏、注4に同じ。
伊藤博氏「一つの読み ‑遣新羅倭人らの悲別贈答の歌について
ー」(『日本語と日本文学』第二号、一九八二年一一月、同氏『古代和
歌史研究』8、所収)。
伊藤博氏「万葉集巻十五の原核 ‑遭新羅使人歌群をめぐって‑」
(『古典の変容と新生』明治書院、一九八四年一一月、同氏『古代和
歌史研究』8、所収)。
伊藤博氏「万葉の人格」(『萬葉』第一二八号、一九八八年二月、同
‑32‑