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〈魂の物語〉としての『豊饒の海』 : 戦後社会における〈魂〉と〈肉〉の合一の試み

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(1)二〇〇三年度 兵庫教育大学大学院学位論文. ︿魂の物語﹀としての﹃豊饒の海﹄        ー戦後社会における︿魂﹀と︿肉﹀の合一の試みi. 教科・領域教育専攻 言語系︵国語︶コース.  MO二一二九−.    木下圭文.

(2)   第一節 松枝清顕の否定     ・・・・⋮   第二節 月修寺の庭     ・・・・・・⋮. 第五章  ﹃豊饒の海﹄との関連︵その三︶.   第一節松枝侯爵・清顕親子の場合    ・・   第一一節 本多繁邦・透親子の場合     ⋮   第三節 予言された行為     ・・・・⋮. 第四章 ﹃豊饒の海﹄との関連︵その二︶.   第一節 洞院宮と綾倉聡子の場合     ⋮   第二節 洞院宮と本多繁邦の場合     ⋮   第三節 剥奪される﹁聖性﹂     ・・⋮. 第三章  ﹃豊饒の海﹄との関連︵その一︶.   第三節 瞼の裏に昇った﹁日輪﹂の意味するもの.   第一節 ﹃神風連史話﹄受容    ・・⋮   第二節 ﹃神風連史話﹄の再構成     ⋮. 第二章  ﹃神風連史話﹄と﹃奔馬﹄との関連.   第︸節 神風連の特性     ・・・・・⋮   第二節 剥奪される﹁純粋性﹂   ・・・⋮   第三節 模倣される行為     ・・・・⋮. 第一章 ﹃神風連史話﹄の﹁純粋性﹂. 序章   ・・・・・・・・・・・・・⋮. 次. 終章   ・・・・・・・・・・・・・⋮. ■ −. 191611. 322925. 504643. 625856. 757066. 目.

(3)    凡  例. ﹃豊饒の海﹄の引用にあたっては、とくに混乱を来すと思われる場合に、﹃春の雪﹄は︵春OO頁︶、﹃奔馬﹄ ︵奔OO頁︶、﹃暁の寺﹄は︵暁OO頁︶、﹃天人五衰﹄は︵天OO頁︶と記した。. 引用文献の発行年はすべて西暦に統一した。.  ﹃豊饒の海﹄は新潮社刊行の初版︵﹃春の雪﹄一九六九年一月、﹃奔馬﹄一九六九年二月、﹃暁の寺﹄一九七 〇年七月、﹃天人五衰﹄一九七一年二月︶により、それ以外は﹃三島由紀夫全集﹄︵新潮社、一九七三年四 月∼一九七六年六月︶によった。なお、引用の際、旧漢字は新漢字に改めた。 二 は 三.

(4) 序 章.  ﹃豊饒の海﹄は、 ﹁新潮﹂に一九六五年九月号より一九七一年一月号まで連載された﹃春の雪﹄ ︵一九六五年. 九月号∼六七年一月号︶、 ﹃奔馬﹄ ︵一九六七年二月号∼六八年八月号︶、 ﹃暁の寺﹄ ︵一九六八年九月号∼七. 〇年四月号︶、 ﹃天人五衰﹄ ︵一九七〇年七月号∼七︸年︸月号︶の四巻からなる作品である。これは、作者が. ﹁ライフ・ワークともいふべき大長篇﹂として構想し、 ﹁唯識の哲学を基礎に、王朝文学の﹁浜松中納言目記﹂. を下敷に、夢と生まれかはりを基調にした四巻物の小説﹂として構成されたものである︵注1︶。作者は﹁生ま. れかはり﹂の着想が一九五〇年頃にはすでに抱かれていたことを、当時のノートに書き残された﹁輪廻の長さ﹂. ﹁転生諄﹂といった言葉をあげて述べているが︵注2︶、これは﹁生まれかわり﹂や﹁輪廻﹂ ﹁転生﹂などの導. 入が決して思いつきではなく、十分に醸成されて来たことを物語っている。自明のことではあるが、このような. 言葉は﹁﹃豊饒の海﹄ノート﹂においても繰り返されている︵注3︶。作者が、転生の主体として﹁肉体から遊. 離した個別的な霊魂の存在﹂を意識していることは確実と言えるが︵注4︶、次の引用を見るとき﹁霊魂﹂には 違った意味が付与されていることがわかる︵注5︶。.    私は﹁豊饒の海﹂を四巻に構成し、第一巻﹁春の雪﹂は王朝風の恋愛小説で、いはば﹁たわやめぶり﹂あ.   るひは﹁和魂﹂の小説、第二巻﹁奔馬﹂は激越な行動小説で、 ﹁ますらをぶり﹂あるひは﹁荒魂﹂の小説、.   第三巻﹁暁の寺﹂はエキゾテイックな色彩的な心理小説で、いはば﹁奇魂﹂、第四巻︵題未定︶は、それの.   書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説で、 ﹁幸魂﹂へみちびかれゆくもの、といふ風に配   列し︵以下略︶た。.                                   ︵﹁﹁豊饒の海﹂について⋮⋮﹂︶. 一1・.

(5)  これは、作者が﹁霊魂﹂に関連したもので最初に発表したものである。各巻に﹁和魂﹂ ﹁荒魂﹂ ﹁奇魂﹂ ﹁幸. 魂﹂という四つの﹁霊魂﹂が配されているが、これらは転生の主体と言うよりも、神話に見られる上代の神霊観 の性質を持っていると言うべきであろう︵注6︶。.  しかし、発表当時、反近代的とされる﹁唯識﹂ ﹁生まれかはり﹂ ﹁霊魂﹂をモチーフとした小説が正面から受. け止められたとは言い難い。野口武彦は、 ﹃文化防衛論﹄との関連で︿﹃春の雪﹄1﹁たわやめぶり﹂ー﹁文﹂. ﹁菊﹂﹀ ︿﹃奔馬﹄ー﹁ますらおぶり﹂ー﹁武﹂ ﹁刀﹂﹀と捉えている︵注7︶。長谷川泉は、先の﹁﹁豊饒の. 海﹂について⋮⋮﹂が掲載された後であったにもかかわらず︿﹃春の雪﹄1﹁優雅﹂ ﹁美﹂﹀ ︿﹃奔馬﹄1﹁崇. 高﹂﹀と捉えており、作者の言う四つの﹁霊魂﹂には触れていない︵注8︶。初めて﹃豊饒の海﹄四巻を対象と. した磯田光一も︿﹃春の雪﹄ー﹁悲恋﹂ ﹁優雅﹂ ﹁みやび﹂1﹁たをやめぶり﹂﹀ ︿﹃奔馬﹄1﹁政治的ラジカ. リズム﹂ー﹁純粋性﹂﹀と捉えており︵注9︶、野口の流れを出るものではない。つまり、 ﹃春の雪﹄ ﹃奔馬﹄. を対象とした野口の解釈が﹃豊饒の海﹄の解釈の方向を決定したと言え、それは今なお変わっていないと思われ る。.  そうした状況を佐伯彰一は、 ﹁魂の永世、蘇りというばかりか、およそ魂というものの存在自体に疑いの目が. 向けられているのが現代だとすれば、この三島四部作は、現代に幅広くゆきわたった通念、現代人の常識に対す. る、神話的認識の側からの挑戦状といえるだろう﹂と述べている。これは﹁魂︵霊魂︶﹂や﹁神話﹂を軽視する. 文壇と作者との関係を現しているだけでなく、作者の意図が﹁神話﹂にあることを指摘している点で重要と思わ. れる︵注10︶。作者も自分の発想と文壇の評価の軸が大きくずれていることは承知していたようで、そのような 意識のもとに﹃豊饒の海﹄は書かれ続けていたと思われる︵注11︶。.  一方、作者が﹃豊饒の海﹄の執筆と併行して自衛隊への体験入隊や楯の会結成など政治的な行為を始めるのは. ﹃春の雪﹄の脱稿前後とされている︵注12︶。同時代の著書にも天皇や神、あるいは武士や青年に関するものが. 一2一.

(6) 次第に増え、それは政治的な行為と同様、最後の年まで途切れることはない︵注B︶。そのような中で顕著なの が﹁精神﹂と﹁肉体﹂についてへの言及である。.  次の引用は、 一九六九年七月に出版された﹃若きサムライのために﹄の﹁あとがき﹂である。 ︵注14︶.   その︵精神−引用者による︶存在証明は、あくまで、見えるもの︵たとへば肉体︶を通して、成就されるの.   であるから、見えるものを軽視して、精神を発揚するといふ方法は妥当ではない。行為は見える。行為を担.   ふものは肉体である。従つて、精神の存在証明のためには、行為が要り、行為のためには肉体が要る。かる   がゆゑに、肉体を鍛へなければならない、といふのが、私の基本的考へである。.    文字によつても言説によつても、もちろん精神は表現されうる。表現されうるけれども、最終的には詑財.   されない。従つて、精神といふものは、文字の表現だけでは足りない。これが私自身の、当然導かれた結論   である。.  ここには、見ることの不可能な﹁精神﹂を見ることの可能な﹁行為﹂によって証明しようとする作者の﹁基本. 的考へ﹂が述べられている。 ﹁肉体を鍛へ﹂るのは﹁行為﹂の限界を高めるためであり、それはすべて﹁精神﹂. を証明することにつながっている。作者にとって﹁精神﹂が優位に置かれていることは明らかである。それに続. けて﹁精神といふものは、文字の表現だけでは足りない﹂と﹁精神﹂の証明には﹁文字の表現﹂では不十分なこ. とが述べられており、作者が文学の限界を意識していたことが窺えるものである。しかし、このような意識も約 半年後には次のようになっている。 ︵注15︶.    変革とは、このやうな叫び︵剣道の掛け声ー引用者による︶を、死にいたるまで叫びつづけることであ.   る。その結果が死であつても構はぬ。死は現象に属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それ   を現象への融解から救ひ上げ、精神の最終証明として後世にのこすことだ。.                                       ︵﹁﹁革命の思想﹂とは﹂︶. 一3一.

(7)  ﹁魂の叫び﹂とは、不可視とされる﹁魂﹂が﹁肉体﹂を通して声や言葉となることで認識可能になったものと. 考えられる。作者にとっての作品に他ならない。これが﹁精神の最終証明として後世にのこす﹂ものとされてい. る。これは、精神と肉体の関係はそのままであるが、 ︿文学の限界﹀を示したものとは矛盾する内容である。. ﹁死﹂が繰り返されていることも大きな変化と言え、作者の尋常ならない心境が現れていると思われる。推測の. 域を出るものではないが、この半年の間に少なからず作者にとって重大な事件が起こったと思われる。この頃の. 作者の心境を窺えるものに﹃暁の寺﹄脱稿直後の﹁不快﹂について述べたものがある。次の引用は﹁不快﹂の原 因と考えられる箇所である。 ︵注16︶.   ﹁暁の寺﹂の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢ.   られると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、そ.   れを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に.   携わつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、 一方は.   紙屑になつたのだ。それは私の自由でもなければ、私の選択でもない。.                                         ︵﹁小説とは何か﹂︶.  ﹁作品外の現実﹂が﹁紙屑﹂になることは、 ﹁作品外の現実﹂である﹁現実世界﹂と﹁作品世界﹂の﹁二種の. 現実の対立・緊張の関係﹂を︿創作衝動﹀とする作者にとって危機的状況が訪れたと言えるだろう。これは﹁現. 実世界﹂における︿精神﹀証明のための︿行為﹀の可能性が断たれたことを意味しているつまり、 ﹁現実世界﹂. に関わる﹁肉体﹂の存在価値がなくなったのである。 ﹁﹁革命の思想﹂とは﹂で︿文学の限界﹀が撤回され、一. 九六七年一月段階で﹁大長編の完成は早くとも五年後のはず﹂であった計画が変更された︵注17︶のも﹁作品外. の現実﹂が﹁紙屑﹂になったことが原因と思われる。しかし、 ︿創作衝動﹀を失った作者にとって残された第四. 巻の執筆、 ﹃豊饒の海﹄の完成は重荷でしかなかっただろう。それは﹃天人五衰﹄の執筆までに二ヶ月を要した. 一4一.

(8) ことにも現れている。.  次の引用は、第四巻﹃天人五衰﹄の掲載が始まった直後﹁サンケイ新聞﹂に掲載されたものである。 ︵注18︶.    個人的な問題に戻ると、この一一十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそ.   れはほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでい.   いが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近   代主義的妄信を根底から破壊してやらうと思って来たのである。.                                        ︵﹁私の中の二十五年﹂︶.  ここには、 ﹁二十五年﹂にわたる作者の創作姿勢、先述したような文壇と作者の意識のずれが述べられている. が、それ以上に︿創作衝動﹀を失った作者が﹁私は何どか、私の肉体と精神を等価のものとする﹂ ︵傍点は引用. 者による︶と述べていることに注目する必要がある。作者は、 ︿創作衝動﹀を生み出すために紙屑となった﹁現. 実世界﹂に代わる新たな﹁現実世界﹂を便宜上作る必要があったのである。作者は﹃天人五衰﹄の執筆に先立. ち、一ヶ月間自衛隊の演習に参加することで、 ﹁私は何とか、私の肉体と精神を等価﹂にすることができたと思 われる。.  このように見てくると、作者の考えた﹁行為﹂による﹁精神﹂の証明、あるいは﹁魂の叫び﹂である作品によ. る﹁精神﹂の証明は、 ︿神/天皇﹀や︿武士/青年﹀に関する描写が希薄になる﹃暁の寺﹄ ︵第二部︶、 ﹃天人. 五衰﹄においても継続されていたと考えられる。.  以上の点を踏まえ、本稿では、 ﹃豊饒の海﹄が﹁魂﹂や﹁精神﹂などの︿不可視の存在﹀を証明しようとした. 作品であるという立場から、 ︿神/天皇﹀や︿武士/青年﹀の記述がもっとも顕著で、独立した冊子の体裁をと. る﹃神風連史話﹄を軸に﹃奔馬﹄、及び﹃豊饒の海﹄との関連を明らかにしたいと考えている。.  なお、第一章では、神風連の特性を確認し、それと﹃神風連史話﹄の主な人物を対比させることで﹃神風連史. 一5甲.

(9) 話﹄の﹁純粋性﹂を明らかにする。第二章では、一章で確認したことを踏まえ、 ﹃神風連史話﹄と﹃奔馬﹄との. 関連を明らかにする。第三章から第五章では、 ﹃神風連史話﹄と﹃奔馬﹄に共通する内容を手掛かりとして﹃豊 饒の海﹄との関連を明らかにする予定である。. ︵1︶ ﹁私の近況ー﹁春の雪﹂と﹁奔馬﹂の出版﹂ ︵﹁新刊ニュース﹂、一九六八年一一月。 ﹃三島由紀夫全.     集﹄第三三巻 、 五 一 八 頁 ︶ Q. ︵2︶ ﹁﹁豊饒の海﹂について﹂ ︵﹁毎目新聞﹂、一九六九年二月二六日。 ﹃三島由紀夫全集﹄第三四巻、二七   ∼二八頁︶。. ︵3︶ ﹁﹃豊饒の海﹄ノート﹂ ︵﹁新潮﹂一月臨時増刊︿三島由紀夫読本﹀一九七一年一月、七〇∼八九頁︶。.    ﹁転生の宿願﹂ ︵﹃春の雪﹄ノートより︶、 ﹁回教徒は転生を信じない﹂、 ﹁ベナレスで転生の強烈な信.   仰に触れる﹂、 ﹁輪廻転生節﹂、 ﹁唯識﹂、 ﹁本多転生を疑ふ﹂ ︵﹃暁の寺﹄ノートより︶、 ﹁輪廻をのが.   れし﹂、 ﹁アラヤ識の権化、アラヤ識そのもの﹂ ︵﹃天人五衰﹄ノートより︶. ︵4︶石上玄一郎﹃輪廻と転生−死後の世界の探求﹄レグルス文庫 一九八一年五月二〇〇頁.    石上は、 ﹁輪廻思想の根本である霊魂﹂についても﹁民族と風土と歴史の相関により無数の複雑な因子が.   絡みあって﹂おり、多くは﹁高度な形而上学的な体系を持っている﹂とし、 ﹁古代中国で﹁たましい﹂を意.   味する言葉は、鬼、魂、魂の三種類あり、鬼は死人の遊魂を意味し、魂は﹁精神﹂で死ねば昇天するもの、.   塊は肉体を支配するもので、死んで土に帰るものとされて﹂おり、 ﹁古代インドで霊魂を意味する言葉は数.   え切れないほどだが、最古の讃歌﹃リグ・ヴェーダ﹄に伝えられる限りでは﹁アス﹂と﹁マナス﹂の二種類.   になっている。このうちアスはやはり気息でありマナスは心意を意味﹂していると述べている。. 一6一. 注.

(10)   また、 ﹁﹃天人五衰﹄ノート﹂に見られた﹁アラヤ識﹂については、 ﹁﹁万法唯識﹂の哲学︵後の法相宗.  −引用者による︶﹂において﹁阿頼耶識は事実上、我の基本となるから、それは当然、輪廻の主体である﹂   ︵一九三頁︶と述べている。. ︵5︶前掲︵2︶。先立つ一一月の﹁私の近況1﹁春の雪﹂と﹁奔馬﹂の出版﹂と同年四月の﹁出版案内リー. みさき.  フレット﹂に掲載された﹁﹁豊饒の海﹂について⋮⋮﹂から判断して、 ﹃春の雪﹄ ﹃奔馬﹄の宣伝を狙った.  ものと推察され る 。. ︵6︶ ﹃目本書紀﹄ ﹁巻第九 神功皇后摂政前紀﹂には﹁和魂は王身に従ひて寿命を守り、荒魂は先鋒として.                          にきみたま              みいのち        あらみたま    みい く さ ふ ね.  師船を導かむ﹂︵四二七頁︶﹁是に天照大神、講へまつりて日はく﹁我が荒魂、皇后に近くべからず﹂﹂.   ︵四三九頁︶など見られ、 ﹁巻第一 神代上一書第六﹂には﹁是の時に大己貴神問ひて日はく、 ﹁然らば汝.  は是誰ぞ﹂とのたまふ。 ︵大三輪の神︶対へて日はく、 ﹁吾は是汝が幸魂・奇魂なり﹂といふ。﹂ ︵一〇五.  頁︶が見られる。 ﹃古事記﹄ ﹁中巻 仲哀天皇﹂には﹁即ち墨江大神の荒御霊を以て、国守の神と為て、祭.  り鎮めて、還り渡りき。﹂ ︵二四八頁︶が見られ、古代より神の霊魂に四種あると考えられていたようであ.  る。 ︵頁数は﹃目本書紀﹄は﹃新編日本古典文学全集2 日本書紀①﹄、 ﹃古事記﹄は﹃新編日本古典文学.  全集1 古事記﹄によった。︶また、斎藤英喜︵﹃アマテラスの深みへ 古代神話を読み直す﹄新曜社、一.  九九六年一〇月、四九∼五〇頁︶︶は、 ﹁後世の資料だが、 ﹃大倭神社注進状﹄には、大物主神は大己貴神.   ︵大国主神︶の﹁和魂﹂として神代より三輪山に鎮まっていることが記されている。﹂と述べていることも  付け加えておく。 ︵7︶野口武彦﹃三島由紀夫の世界﹄ ︵講談社、 一九六八年二一月、二三八頁︶。.   野口の場合は、先に引用した﹁﹁豊饒の海﹂について⋮⋮﹂が掲載される前だったためこのような捉え方  に問題はないと思われる。. 一7一.

(11) ︵8︶長谷川泉﹁作品論 豊饒の海﹂ ︵﹁国文学﹂五月臨時増刊︿三島由紀夫のすべて﹀一九七〇年五月、七三  ∼七九頁︶。. ︵9︶磯田光一﹁﹃豊饒の海﹄四部作を読む  “滅び“の構図の行方  ﹂ ︵﹁新潮﹂一月臨時増刊︿三島由  紀夫読本﹀ 一九七一年一月、三〇〇∼三〇六頁︶。 ︵10︶佐伯彰一﹃評伝三島由紀夫﹄ ︵中公文庫、 一九八八年一一月、四三〇頁︶。. ︵H︶ ﹁私の中の二十五年﹂ ︵﹁サンケイ新聞﹂、一九七〇年七月七日。 ﹃三島由紀夫全集﹄第三四巻、四二三  頁︶。.   作者は、作家としての姿勢を﹁個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶ.  ん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたこと.  ではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その.  実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやらうと思って来たのである。﹂と述べて  いる。. ︵12︶山口基の﹁三島由紀夫略年譜﹂ ︵﹃三島由紀夫事典﹄勉誠出版、二〇〇〇年一一月、六八七頁︶.   自衛隊への最初の入隊は一九六七年四月、楯の会の結成は一九六八年一〇月であるが、自衛隊入隊の意志.  が固まるのや楯の会の母胎となる青年たちと出会うのは、それより早い一九六六年末頃とされている。 ︵13︶ ・﹃豊饒の海﹄と同時期に書かれた︿神/天皇﹀に関する作品︵抜粋︶   ﹃英霊の声﹄ ︵﹁文芸﹂ 一九六六年六月︶.   ﹃対話・日本人論﹄ ︵番町書房、一九六七年一月︶.   ﹃﹁道義的革命﹂の論理﹄ ︵﹁文芸﹂一九六七年三月︶   ﹃文化防衛論﹄ ︵﹁文藝春秋﹂一九六八年七月︶. 一8一.

(12)   ﹃反革命宣言﹄ ︵﹁論争ジャーナル﹂一九六九年二月︶.   ﹃日本文学小史﹄ ︵﹁群像﹂一九七〇年六月︶など.  ・﹃豊饒の海﹄と同時期に書かれた︿武士/青年﹀に関する作品︵抜粋︶   ﹃葉隠入門﹄ ︵カッパブックス、一九六七年九月︶.   ﹃現代青年論﹄ ︵﹁読売新聞﹂一九六九年一月一目︶   ﹃若きサムライのために﹄ ︵目本教文社、 一九六九年七月︶.   ﹃行動学入門﹄ ︵﹁ぎ艮9パンチ○げ!﹂一九六九年九月∼七〇年八月︶.   ﹃革命の思想とは﹄ ︵﹁読売新聞﹂一九七〇年一月二〇∼二二目︶.   ﹃革命の哲学としての陽明学﹄ ︵﹁諸君!﹂一九七〇年九月︶など.    ﹃豊饒の海﹄でこのような︿神/天皇﹀や︿武士/青年﹀に関する記述が顕著なのは﹃奔馬﹄であるが、.  その中でももっとも顕著なのが独立した冊子の体裁をとった﹃神風連史話﹄である。. ︵14︶ ﹁あとがき﹂ ︵﹃若きサムライのために﹄目本教文社、一九六九年七月。 ﹃三島由紀夫全集﹄第三四巻、.  一一六頁︶全集には﹁あとがき︵﹁若きサムラヒのために﹂︶﹂とあるが初出は﹁若きサムライのために﹂  である。. ︵15︶ ﹁︻革命の思想レとはレ ︵﹁読売新聞﹂、一九七〇年一月二〇∼二二目。 ﹃三島由紀夫全集﹄第三四巻、.  三四二頁︶。. ︵16︶ ﹁小説とは何か﹂ ︵﹁波﹂、一九六八年五月∼七〇年一一月。 ﹃三島由紀夫全集﹄第三三巻、二六九∼二.  七五頁︶。. ︵17︶ ﹁年頭の迷ひ﹂ ︵﹁読売新聞﹂、一九六七年一月一目。 ﹃三島由紀夫全集﹄第三二巻、四八八頁︶。.   この後に続けて作者は、 ﹁そのときは私も四十七歳になつており、これを完成したあとでは、もはや花々. 一9一.

(13)  しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬといふことだ。英雄たることをあきらめるか、それともライ.  フ・ワークの完成をあきらめるか、その非常に難しい決断が、今年こそは来るのではないかという不安な予.  感である。﹂と記しており、この時点で﹁英雄﹂たる行為を意識していることが窺える。なお、当初の計画.  の変更については、小島千加子﹃三島由紀夫と壇一雄﹄ ︵構想社、一九八九年四月、四五∼四六頁︶によっ  た。 ︵18︶前掲︵n︶に同じ。. 一10一.

(14) 第一章 ﹃神風連史話﹄の﹁純粋性﹂ 第一節神風連の特性.  ﹃豊饒の海﹄で︿神/天皇﹀や︿武士/青年﹀に関する記述が顕著なのは﹃奔馬﹄である。その中で、全四十. 章の一章︵第九章︶を割き、分量も全体のほぽ一割を占める﹃神風連史話﹄は、独立した冊子の体裁をとってい ることもあり﹃奔馬﹄を構成する重要な要素と考えられる。.  ﹃神風連史話﹄に関して、早くは松本徹が﹁神風連の心が主人公の心であり、作品全体を貫くもの﹂、 ﹁﹁神. 風連史話﹂を読んだ勲は、そこに﹁純粋﹂と云うに足るものを見出した﹂など的を射た指摘をしているが、内容. にまで立ち入った検証はなされていない︵注/︶。また、許昊、乾昌幸らは、典拠となった資料を丁寧に取り上. げているもののその指摘に留まっている︵注2︶。そのような中で山口直孝は、 ﹃神風連史話﹄と先行文献の差. 異をその特徴として列挙した上で、 ﹃神風連史話﹄が﹁三島の創作﹂によって﹁神風連像が一元的に理想化され. たもの﹂、 ﹁いわば﹁純化された物語﹂とでも言うべき性格を備えた書物﹂であると述べている︵注3︶。山口. がその内容に触れる形で特徴を上げている点は評価できるものの、 ﹁神風連像が一元的に理想化されたもの﹂と. する捉え方は松本同様不十分と言わざるを得ない。と言うのも、山口が特徴としてあげた﹁乱後自刃せずに生き. 延びた者に対する関心を持っていない﹂のでは、副首領の加屋霧堅と参謀の緒方小太郎が﹁一元的に理想化され.                             はるかた. た﹂神風連像から除外されることになる。そのような矛盾は、神風連志士たちを一括りにして﹁桜園のラデイカ. ルな国学者の忠実な実践者﹂と捉えている点にも現れている。このような矛盾を解消し、 ﹃神風連史話﹄の﹁純. 粋﹂を明らかにするためにも内容に踏み込む必要がある。ここではとくに山口が特徴としてあげた﹁太田黒の宇. 一11一.

(15) 気比の場面から始まる﹂こと、 ﹁桜園先生の昇天秘説の訓へ﹂、 ﹁軍備が刀剣類に限られたこと﹂、そして﹁乱. 後自刃しないで生き延びた者﹂ ﹁自害者の最期﹂に見られる﹁自刃・自害﹂を手掛かりにして神風連の特徴を確 認していく。.  ﹃神風連史話﹄は、神風連と呼ばれる集団の首領太田黒伴雄による﹁宇気比﹂の神事で始まっている。 ﹁宇気. 比﹂とは、言挙げする内容の後に﹁可也﹂と書いものを一枚、 ﹁不可也﹂と書いたものを三枚、それぞれ玉にし. て﹁三實﹂と呼ばれる台に載せ﹁御幣﹂で﹁三寳の上を左右左に打ち振つて潔め、ついで、心を平らかにして、.                みてぐら. 三寳をゆつくりと静かに撫し﹂、引き上げたときに﹁御幣﹂についていた紙玉によって占う神事である。そこで. 御幣に付いた紙玉の内容が、そのまま神の御言葉として絶対の﹁神命﹂とされるのである。これは、御幣の切り. 方や紙玉の丸め方、あるいは御幣の振り方によって条件の変化する実に不安定なものと言える。それを支えるの. がこれもまた不安定な要素である﹁心を平らかに﹂することである。いずれにしても宇気比を行う者には﹁心を 平らかに﹂できるだけの修練が要求されると言えよう。.  このような方法は、神風連の師とされる林桜園によって提唱されたものである。桜園は、 ﹁真淵・宣長らの古. 典の解釈にあきたらず、古典によって古神道をあきらかにし﹂ようとし、漢学、蘭学、果ては﹁厄勒祭亜のソコ. ラテス﹂にまで言及するほどの碩学とされ、そうして行き着いたのが﹃宇気比考﹄である。それによれば、この          うつ      あきつみかみ                かく      とほつみかみ. 神事における神は﹁現し世の顕御神である天皇﹂と﹁幽り世の遠御神﹂とされている。ただし、 ﹁神事は本也。. 現事は末也﹂と考えられていることから、不可視とされる﹁幽り世の遠御神﹂がより重視されていると考えられ. る。その神の意志を伺う方法が﹁宇気比﹂である。桜園は﹁中古以来﹂絶たれている﹁政祭一致﹂のまつりごと を﹁宇気比﹂という古神道に見られる方法によって復活させようとしているのである。.  ﹃神風連史話﹄の冒頭の神事は、桜園の死後﹁祭司者﹂としての役割を継いだ太田黒伴雄が彼らの取るべき行. 動を﹁幽り世の遠御神﹂に伺おうとしているものである︵注4︶。神風連の志士たちは、桜園の教えに見られる. 一12・.

(16) ﹁宇気比﹂による神の御言葉を絶対の行動規範としているのである。. 次は﹁桜園先生の昇天秘説の訓へ﹂についてである。.   人は神の子であるから、その身心にもろもろの罪繊を犯さず、神ながらの古道を履んで、直く、.  清々しければ、現し世から死・滅の境を脱して、天に昇つて、神となることができるのである。. 正しく、.                                              ︵六七頁︶.  ﹁神ながらの古道﹂とは先の宇気比による神の御言葉に従って行う政祭一致のまつりごとのことである。ここ. では﹁直く、正しく、清々し﹂い行為によって浄化された︿魂﹀が﹁幽り世﹂へ入ることで﹁神﹂になると考え. られている。桜園は﹁中古以来﹂絶えていた宇気比によるまつりごとを﹁混迷の世︵木下注、幕末から明治にか. けての世のこと︶に復活せしめようとした﹂のであるが、それは﹁現し世﹂と﹁幽り世﹂とをつなぐ試みでもあ. った。これは﹁中古以来﹂存在していない、あるいはその存在を無視され続けている﹁幽り世の遠御神﹂の回復 を意味するものである。これは﹁神世の復古﹂と呼ばれ、志士たちの目的にもなっている。.  あらためて確認するならば、 ﹁神世の復古﹂を目指そうとする﹁宇気比﹂ ﹁昇天秘説﹂は共に古神道に根差し. た林桜園の教えであり、神風連志士にとって﹁宇気比﹂は絶対の行動規範、 ﹁昇天秘説﹂は目的になっている。.  さて、 ﹁軍備が刀剣類に限られたこと﹂にはどのような意味があるのだろうか。本文には次のようにある。.    剣を奪はれては、一党の敬ふ神を護る手段はなくなるのである。一党はあくまで神の親兵を以て自ら任じ                                    やまとごころ   てゐる。神に仕へるには敬度きはまる神事を以てし、神を護るには雄々しき倭 心の日本刀を以てする。.                                              ︵七〇頁︶.  ここでの二党の敬ふ神﹂とは先の﹁現し世の顕御神である天皇﹂と﹁幽り世の遠御神﹂を指していると思わ. れる。神風連志士にとって刀剣とは、そのような﹁神を護る﹂ための﹁倭心﹂、いわば︿大和魂﹀とも言うべき. ものなのである。それ故、西洋から輸入された大砲や銃、あるいは弓矢などの飛び道具の類はその魂には不適と. 一13一.

(17) されている。彼らにとっての﹁目本刀﹂とは、肉体と一体化したものであり、 ﹁神に仕へる﹂ための﹁敬度きは まる神事﹂である﹁宇気比﹂と対をなす重要なものと考えられる。.  最後は﹁自刃・自害﹂についてである。 ﹁二 受け日の戦﹂で首領太田黒の自刃が、 ﹁三 昇天﹂では﹁鶴田. 親子﹂ ﹁阿部夫婦﹂などを含む主に﹁若い志士たち﹂の自刃が繰り返し描かれている。この志士たちは、 ﹁死﹂. ﹁自刃﹂を美化しているだけでなく、それに対する病的とも言える執着を持っているように思われる。桜園の教. えに﹁自刃﹂に関するものがなかったことを踏まえるならば、神風連には桜園の教えとは別に死や自刃を美化す. る特性があったと考えられる︵注5︶。確かにこれは山口が指摘したように作者による自刃を美化した意図的な. 創作と考えられる。しかし、すでに指摘したように山口の﹁神風連像が一元的に理想化されたもの﹂という捉え. 方では、副首領の加屋霧堅と参謀の緒方小太郎がそこから除外されることになる。この二人に﹁純粋﹂な面を見 出すことはできないのだろうか。              もののふ.  ﹃神風連史話﹄では、 ﹁刀剣﹂ ﹁自刃﹂に関係している者は﹁もののふ﹂と呼ばれている︵注6︶。太田黒に. 詰め寄る若い志士たちは、 ﹁武夫すでに刀剣を奪はれては生甲斐がない。先生はいつわれらを死なせて下さるの. か﹂と自分たちのことをそう呼んでいる。強い自負心の現れとも、思い込みともとれるこの台詞には、彼らの情. 熱が桜園の教えである﹁昇天秘説﹂よりも、ただ死ぬことにのみ傾けられているように感じられる。もう一箇所. は、語り手が戦で生き残った緒方のことを﹁もののふ﹂と呼んでいる。先の志士と比べこのように他者を介在さ せていることは、緒方が﹁もののふ﹂であることの信愚性を高めるものになっている。.  ﹃神風連史話﹄における﹁もののふ﹂とは、先の﹁刀剣﹂ ﹁自刃﹂に関する内容を踏まえるならば、次のよう に定義できるだろう。.   ︿神/天皇﹀に仕え、魂とも言うべき刀剣を所持し、自刃を希求する者。.  ここで留意すべきは﹁自刃を希求する﹂ことである。この定義には、戦後生き延びた緒方はむろん自刃できな. 一14一.

(18) かった加屋も含まれることになる。                                 い     ひせい  りかく.  加屋の志は、明治六年の宇気比で第一に言挙げされた﹁死諌を当路に納れ、枇政を萱革せしむる事﹂であり、. 廃刀令に対して他の志士たちと行動を別にしながら﹁数千言に及ぶ侃刀奏議書﹂を政府に送ることであった。加. 屋の志に見られる﹁死諌﹂とは、命を捨てて主君︵為政者︶を諌めることとされる。また、 ﹁侃刀奏議書﹂は、 ﹁記紀の時代より現在にいたる日本の歴史において、刀剣がいかに重んじられ、日本精神を作興し来つたかを﹂. 説いたもので、政府に刀剣の所持を認めさせようとするものである。このような加屋の志、行為は﹁もののふ﹂ に値するものである。.  以上見てきたように︿神風連﹀とは、 ﹁昇天秘説﹂を目的とし、 ﹁宇気比﹂と﹁もののふ﹂であることを行動. 規範とする集団と考えられる。この行動規範は共に目本古来の伝統に根差しており、 ︿神/天皇﹀を媒介につな. がるものである。そして、これらと志士たちを対比させることで﹃神風連史話﹄に描かれた﹁純粋﹂の実態が明 らかになるものと思われる。.  さて、 ﹃神風連史話﹄は、戦に負け、宇気比に従って生き延びた緒方の︿戦に対する疑問﹀で終わっている。. これは構成上最後に置かれたことで、戦に対する批判を帯びるものになっている。この内部告発とも言うべき疑. 問は、同志の戦う姿が﹁手弱女﹂のごとく惨めに映ったことに発している。最初、 ﹁神﹂に向けられた怒り、恨.                     た を や め. みは行きどころがなくやがて収束を見せるが、そのことが却って敗戦の原因が﹁神﹂以外にあることを浮かび上. がらせている。最後まで宇気比に従い、疑問を呈した緒方を﹁もののふ﹂と呼んでいることが、 一層それを強調. することになっている。敗戦の原因は、宇気比の神事を行った太田黒に向けられる。宇気比の場にいたのは彼だ. けである。ただし、緒方の疑問は戦に向けられたものであり、戦の後の﹁自刃﹂に向けられたものではないこと に留意しておく必要がある。. 一15・.

(19) 第二節 剥奪される﹁純粋性﹂.  宇気比による神の御言葉を絶対の行動規範とする神風連にとって宇気比を行う者、すなわち、司祭者や巫者、. 呪術者などの役割を持った人物が重要なことは言うまでもない。神風連の志士たちの多くは神社の神主として宇. 気比を行うが、その中にあってもっとも能力を持つと考えられるのが首領の太田黒伴雄である。太田黒は、明治. 三年に林桜園が死んだ後を継いで首領になったが、桜園の教えを忠実に実践しているとは言えない。それはは、 明治七年に行われた神職の試験での志士たちの解答に顕著である。               いてき.   この派の人々がまるで申し合せたやうにその答案に、 ﹁人心が正され、皇道が興隆すれば、弘安元冠の如   く、忽ち神風吹き起つて、夷秋を掃擁するであろう﹂と説いた︵以下略︶.                                              ︵六六頁︶.  これによって﹁この派の人々﹂が︿神風連﹀と呼ばれることになるのであるが、本来ならば、ここに桜園の徹 底した教化の成果が現れていなければならないはずである。しかし、志士たちは﹁皇道が興隆すれば、弘安元窟. の如く﹂と答えているのである。これでは、 ﹁中古以来﹂絶たれたはずの政祭一致のまつりごとが﹁弘安元冠﹂. のときに行われていたことになる。桜園の死後四年足らずで、志士たちの認識は変容してしまっていると言わね. ばならない。このように︿教え﹀の変更に気づけない、ただ無批判に受容している志士たちを山口の言うように. ﹁桜園のラデイカルな国学の忠実な実践者﹂と呼ぶことはできない。このような原因が桜園の死後集団の指導者. になった太田黒にあるのは明らかであろう。太田黒の教えが桜園の教えから乖離した原因は、教えの真髄とも言 うべき宇気比を変更したことにあると考えられる。                さけみか.   ﹁宇気比考﹂は、神武天皇の酒甕・水飴を用ひた宇気比を奨めてゐるが、太田黒は宇土の住吉神社に伝はる.   伊勢大神宮系統の宇気比の秘伝によつてまづ桃の枝を撰んでこれを正しく削り、美濃紙を切つてこれに附し. 一16一.

(20) て御幣を作り、諾否如何の部分を空けた返りごとの祝詞を作った。.                                               ︵六四頁︶.  ここでは、方法よりも桜園の奨励した﹁神武天皇﹂と太田黒の採用した﹁伊勢大神宮系統﹂に注目する必要が. ある。たとえば、神話の一つ﹃日本書紀﹄では、神武天皇が第一代天皇とされているのに対して、天照大神が最. 終的に伊勢の地に祠を建てて祀られるようになるのは第一一代垂仁天皇のときとされる。その天照大神が宮中よ. り外へ遷座されたのは第一〇代崇神天皇﹁六年﹂のときとされている。その原因は、前年の﹁疫病﹂及び人民の. 混乱と考えられている。斎藤英喜は、崇神天皇が﹁早朝から深夜にまで及ぶ、研ぎ澄まされた意識による、不可. 視の神との神秘的な交流﹂の中で﹁己の心身がもはや神とは遠く離れ、神との﹁共殿同床﹂の不可能なことを覚. 知﹂するようになったと述べている︵注7︶。ここに︿不可視の神︵天照大神︶﹀と︿呪術者としての天皇︵崇. 神天皇︶﹀の関係は断たれることになったと考えられる。 ﹃宇気比考﹄での宇気比が﹁神武天皇﹂に基づいてい. ることは、桜園が神人の分離する以前の世界を理想としていたためと思われる。それに対して太田黒は、神人が. 分離してから祀られるようになった伊勢天照大神を崇拝しており、桜園が説いた﹁神ながらの古道﹂とは一線を. 画している。このような変更は、太田黒が﹁伊勢大神宮の分祠新開皇大神宮祠官の養嗣子﹂であるために安易に. 行われたものと思われるが、同時にそれは、太田黒が﹃宇気比考﹄の真髄を理解できていなかったことを物語る. 結果になっている。これは、太田黒が桜園のような多岐にわたる学問の受容や﹃宇気比考﹄に行き着く過程がな く、ただ桜園の教えを絶対のものとして無批判に受容していたことが原因と思われる。.  太田黒の特性は、三回行われた宇気比の神事の直前を見ることでも明らかにされる。一回目は、明治五年に神. 祇省が教部省、さらに寺社局と格下げられたことを受けて明治六年の夏に行われている。ここで奉伺された宇気. 比は二つある。第一は、加屋霧堅の志で﹁死諌を当路に納れ、枇政を螢革せしむる事﹂である。これは、 ﹁他の. 同志が、■むしろ実行を危ぶんでいる﹂。第二は﹁闇中の劔を揮い、当路の姦臣を朴す事﹂である。これに対して.                            ふる               たお. 一17一.

(21) 太田黒は﹁もし神慮に叶えば、これもやむをえまいと考へてゐる﹂。ここには宇気比には従うが、太田黒にとっ. てこの内容が最良の策でないことは明らかである。 ﹁やむをえまい﹂という考えを抱いて宇気比に臨んだと思わ    かいこう. れる。二回目は、明治七年に佐賀の乱が起こった後の早春に行われている。このときの太田黒は﹁君側を清め、. 皇運を恢弘するには、義兵を起こして、まず熊本鎮台を奪取﹂するという軍略があったため﹁この機を逸すべき ではないと思2ており、前回とは一転して積極的な姿勢である。そして、三回目が明治九年の廃刀令が出され. た後、初夏の五月に行われたものである。このときの太田黒は、迫ってくる若い志士に対して﹁侃刀がいけない. のなら、袋刀にして持ち歩くがよからう﹂とその場しのぎとも言える対応を見せている。しかし、それでも納得. できない志士に﹁武夫すでに刀剣を奪はれては生甲斐がない。先生はいつわれらを死なせて下さるのか﹂と再度.         もののふ. 迫られて宇気比に臨んでいる。太田黒には、前回のような﹁軍略﹂はなく、戦に対する積極性、神風連の精神を. 骨抜きにしようとする政府の政策に対する憤りは微塵も見られない。ここでの太田黒には、若い志士たちの希望 を叶えることが求められていたと考えられる。つまり、 ﹁死なせて﹂やることである。.  言挙げされた内容に﹁やむをえまい﹂という判断を下したり、そのときの状況によつて姿勢の変化する太田黒. に、宇気比を支える﹁心やすらか﹂な面を見出すことはできない。太田黒は、状況に左右されやすく、気まぐれ. であり、司祭者には不適な人物と思われる。三回目の宇気比だけ神事の場面がなく、太田黒の報告によって納れ. られたことが伝えられているが、このような描写がされているのも太田黒の特性との関連からであろう。また、. この場面は﹃神風連史話﹄を模倣しようとした飯沼勲が決行日時を決める際に嘘をついたときの状況に酷似して いることも指摘しておきたい。            まなじり.  太田黒は、無謀にも﹁砒を決し、同志の退却の勧めもきかず、敵陣に躍り入らうと﹂して胸を射抜かれてい. る。このような太田黒の行為は、若い志士たち同様死ぬことを目的にしていたように思われる。さらに、瀕死の. 身を助け出された太田黒は、自分の首を刎ね、それを﹁軍神の御霊代﹂と一緒に﹁新開大神宮﹂に祀るよう命令. 一18一.

(22) して自刃する。最後までただ私欲のために首領の権力を行使する人物に首領としての姿を見ることはできない。. また、このような太田黒の行為は、自分の死、及び死後のことにまで意志を介在させようとするものと言える。.  以上見てくると、敗戦の原因が太田黒にあるのは明らかであろう。桜園の教えの核心とも言うべき宇気比を変. 更したり、その宇気比に意志を介在させる太田黒を桜園の教えの忠実な実践者と呼ぶことはできない。また、志. 士たちを﹁死なせて﹂やるために戦を決起し、自分の﹁自刃﹂を最優先させている太田黒に、 ﹁もののふ﹂の姿. を見ることはできない。太田黒は、首領でありながら、神風連にあるべき特性を備えていないのである。したが. って、太田黒から山口が指摘したような﹁神風連像が一元的に理想化された﹂側面、あるいは、 ﹁純化された﹂. 側面は剥奪されることになる。ちなみに、太田黒が信仰している伊勢天照大神は、明治新政府の神道国教化政策. のもと﹁伊勢神宮を本宗として、全国の神社をピラミッド型に編成し、神宮・神社の祭祀を画一化﹂することで. 成立した﹁国家神道﹂の最高神として︵注8︶ 、 ﹁天皇家の始祖神であり、天皇と国家の守護神﹂になったの. である︵注9︶。太田黒から︿理想﹀ ︿純粋性﹀が剥奪されたように、新政府の政策上最高神とされた伊勢天照 大神からもそれは剥奪されるのである。. 第三節 模倣される行為  ここでは、太田黒と対照的な副首領加屋審堅を見ていく。.  加屋は、 ﹁人となり方正厳属、胆気は体内に満ち、熱誠は眉宇に溢れて﹂おり、 ﹁文に於ては、詩・歌・文章. をよくし、武に於ては、四天流の剣法に達し﹂た人物である。これは﹁古典によつて古神道をあきらかにし、人. 心を正して、この世を清々しい神世に復し、天佑を待とう﹂と決心した林桜園の教えが反映されていると思われ. る。加屋は、桜園の教えに従い﹁古典﹂である﹁詩・歌・文章﹂を嗜み︵むろんここには﹃宇気比考﹄が含まれ. 一19・.

(23) る︶、 ﹁人心を正﹂すべく﹁剣法﹂に携わっている︵これには﹁もののふ﹂の面もある︶。そうして行き着いた. のが今の姿である。現在の加屋は﹁人心﹂の正された状態と言うことができるだろう。そこには、太田黒のよう. な﹃宇気比考﹄だけを絶対とする姿勢や感情的な面は見出せない。加崖は、桜園の教えを忠実に実践しているの である。それは宇気比の受容にもっともよく現れている。.  最初の宇気比は、明治六年である。第一に言挙げされたのは、加屋の志で﹁死諌を当路に納れ、砒政を麓革せ. しむる事﹂であった。これは納れられない。次は、明治九年の廃刀令が出された後である。加屋は、 ﹁錦山の祠. 官の職を榔つて、数千言に及ぶ侃刀奏議書﹂を県令に提出すべく、戦に向かう神風連とは行動を別にする。これ. は志の実践でもあった。しかし、これも神に納れられない。その後は、 ﹁単身上京して元老院にこれ︵侃刀奏議. 書−引用者による︶を呈上し、その場で割腹する覚悟を決めていた﹂のだが、これも神に納れられない。結局、 加屋の志は、四回の宇気比すべてで﹁不可﹂とされたのである。.  最後は、神風連が臨む戦に加屋の参加を言挙げしたものである。加屋は当初、この戦を﹁無謀にして勝算の乏. しい﹂ものと見て参加を拒み別行動を取っていた。しかし、若い同志から戦への参加の要請を幾度も受け宇気比. にそれを委ねている。納れられたため戦に参加することになるが、言うまでもなくこれは加屋の本意ではない。. しかし、 ﹁わずか三目前の神示に従つて一党に和したのちは思ひ残すことは一つもない﹂と言い、 ﹁今は何の逡. 巡もなく、神意を受け﹂ていると考えている。これは、加屋が最後まで私欲を出すことなく、宇気比を絶対のも のとして受容していたことを意味している。.  さて、戦での加屋はどうだろうか。加屋は、 ﹁剣を掲げて、周囲の同志を指揮し、自ら先に立つて奮進﹂して. おり、その直後、集中砲火によって急所を射抜かれ即死している。加崖は、太田黒とは対照的に最後まで神風連. のリーダーとしての責任を果たしていると言えよう。若い志士たちが再三にわたって加屋に戦への参加を要請し. たのも、神風連にとって宇気比による神意や首領太田黒だけでは不十分であることを物語るものである。加屋は. 一20一.

(24) 神風連の精神的支柱であり、実質的な指導者であったと考えられる。.  しかし、集中砲火を浴びて死んだことは加屋にとって三重の悲劇であった。加屋は、桜園の説いた﹁神世の復. 古﹂を自分が﹁死諌を当路に納れ﹂ることで遂げようと考えていたのである。本意ならざる戦への参加ばかりか. 諌死もできなかったのである。さらに、この戦が太田黒の作為によるものであることが加屋の死を一層無駄なも のにしている。.  ここで、神風連のもう一つの行動規範である﹁もののふ﹂と加屋との関連について確認しておく。.  加屋にとって﹁もののふ﹂は、 ﹁四天流の剣法に達し﹂ていることや、すでに述べたように﹁死諌を当路に納. れ、枇政を贅革せしむる事﹂とする志、 ﹁錦山の祠官の職を榔つて、数千言に及ぶ侃刀奏議書﹂を県令に送ろう. とする行為などに現れていた。加屋はこれらを﹁明治三年の薩摩藩士横山安武﹂に倣っている。.  清水昭は、横山安武が新政府の﹁権力を手に入れ、驕奢をほしいままにする退廃の生活﹂を糾弾すべく﹁建白. 書﹂を書き、それを提出後﹁諌死﹂したと述べている。新政府樹立以来初めての諌死が、 ﹁同情と共感﹂をもつ. て受け入れられたのは、新政府の在り様や世相が安武の指摘した通りだったからであろう︵注10︶。加屋も﹁同. 情と共感﹂をもって受け入れた一人と思われる。そのような横山安武の姿勢が﹁死諌を当路に納れ、枇政を贅革 せしむる事﹂に現れていると思われる。.  神風連の行動規範である宇気比ともののふの源泉は、加屋の場合、国学者の林桜園と武士で陽明学者の横山安. 武と言うことができる。奇しくも二人は明治三年に死んでいる。国土のことを真剣に考え、それを護ることに人. 生を捧げた人物がいなくなった翌年には、西洋諸国との不平等条約が締結されており、その後は堰を切ったよう. に西洋化が押し進められ、日本的なものは排除されて行くことになる。神風連の行動規範は、目本古来の伝統に. 根差して作られた行動のあり様である。言うなれば、加量はこの二人の日本的な︿魂﹀を受け継ぐためにその生. き方を徹底的なまでに模倣していたと考えられる。最後まで一貫してその姿勢を変えなかった加屋は、 ﹃神風連. 一21・.

(25) 史話﹄でもっとも純粋な人物と言えるだろう。.  一見すると、 ﹃神風連史話﹄は、戦、及び死に収敏される︿純粋な神風連﹀が描かれているように見える。し. かし、桜園の教えとの対比、構成上最後に置かれた緒方小太郎の疑問によって明らかにされたのは、 ︿純粋性﹀. を剥奪された太田黒伴雄ともっとも︿純粋﹀な加屋霧堅の姿である。加屋は、桜園と安武の生き方を忠実に実践. しながらも、何一つその志は実現されていない。以上のことから考えられることは、﹃神風連史話﹄は、志士た. ちが﹁幽り世の遠御神﹂につながるように見せることで、加屋に担わせた︿純粋﹀を隠蔽した作品と言うことが できる。. ︵1︶松本徹﹃三島由紀夫論−失墜を拒んだイカロスー﹄ ︵朝目出版社、一九七三年一二月、三〇四∼三〇   五頁︶.    松本は﹁私心を一切排して﹁宇気比﹂によって事を決し、復古と政祭一致を望むままに、夷独の武器たる.   銃を採るのをいさぎよしとせず、勝敗を度外視して生命をすてる﹂神風連の志士たちに﹁純粋な﹁目本人の.   心﹂﹂を見ている。しかし、志士たちを一括りにして捉え、 ﹁純粋﹂を﹁目本人の心﹂と捉えている点で十   分な検討がなされているとは言えないものである。. ︵2︶許昊︵﹁﹃奔馬﹄論ー﹁神風連史話﹂を中心にー﹂ ﹁日本と日本文学﹂、一九九二年九月、二六∼二.   七頁︶は、熊本に行く前に三島が﹁木村邦舟﹃血史﹄・小早川秀雄の﹃血史熊本敬神党﹄・石原醜男の﹃神.   風連血涙史﹄など、神風連関係の資料のうち大事なものは殆ど読んで﹂おり、さらに熊本で﹁﹃桜園先生遺.   稿﹄及び荒木氏の著書﹃神風連烈士遺文集﹄などを入手した﹂と述べている。その上で、 ﹁﹃奔馬﹄に出て.   くる﹁神風連史話﹂は﹁山尾綱紀著﹂となっているが、多分綿密な調査と豊富な資料に基づいて三島が作成. 一22一. 注.

(26)  したのであろう﹂と述べている。乾昌幸︵﹁三島由紀夫の旭日コンプレックス﹂ ﹁明治大学教養論集﹂、一.  九九三年一二月、五四∼五五頁︶は、神風連の乱の資料として﹁木村弦雄﹃血史﹄前編︵一八九六年刊︶、.  国龍会編﹃西南記伝﹄上巻二︵一九〇八年刊︶、小早川秀雄﹃血史熊本敬神党﹄ ︵一九︸○年刊︶、福本目.  南﹃清教徒神風連﹄︵一九一六年刊︶、石原醜男﹃神風連血涙史﹄︵一九三五年刊︶、荒木精之﹃神風連烈.  士遺文集﹄ ︵一九四四年刊︶﹂などがあり、三島はこれらすべてを読んでいた﹂と述べた上で、 ﹁﹃奔馬﹄.  中の﹃神風連史話﹄は、むろん実在の書ではなく、いましがた列挙した神風連関係の著作のエッセンスを抽  出して三島が作り上げた文書である﹂と述べている。.   ︵3︶山口直孝﹁﹃奔馬﹄の構造   ﹃神風連史話﹄の解体と再生1﹂ ︵﹁昭和文学研究﹂、一九九六年  二月、   ↓〇六∼一〇七頁︶。 ︵4︶村上重良﹃天皇の祭祀﹄ ︵岩波新書、 一九七七年二月、四頁︶。.   村上は、 ﹁時代の隔たりや権力の規模とかかわりなく、およそ王権は、宗教的基盤を離れては存在しえな.  い。王は何らかの意味で神聖な存在なのである。古代国家の王の性格や、未開の王︵首長︶の実態を類型化.  して、王の神聖性を、巫王、祭司王、呪王の三型態に分類する説が広く行われている。巫王とは、自ら神が.  かりして神の言葉を宣べ、神と直接交流し、神と一体化した王である。祭司王とは、自己が統治する社会集.  団を代表して宗教儀礼を主宰し、神に働きかける王である。また呪王とは、自ら呪術者であって、呪力、霊.  力を運用する王である。これらの三型態は、しばしば複合して現われるし、王自身が、巫者、呪術者、祭司.  である事例と、王の身近に、職能的に分化した専門の巫者、呪術者、祭司等が存在する場合がある﹂として.  いる。ここでの太田黒は、神風連という集団にあって﹁宗教儀礼を主宰し、神に働きかける﹂ ﹁司祭者﹂と  考えられる。 ︵5︶八切止夫﹃切腹の美学﹄ ︵秋田書店、︸九七一年三月︶。. 一23一.

(27)   八切は、切腹が美化されるきっかけとなったのは、細川政元の守護代であった薬師寺与一が反乱の餐で切.  腹を言い渡された際、見事に死んだ︵一五〇四年︶ために、それ以後﹁﹁武士らしい死に方は、切腹﹂とい.  つたように、処罰か自殺か判らないような有様﹂になってしまったのではないかと指摘している。それ以降.  武士が切腹を美化する傾向は、軍人に引き継がれ一九四五年まで続いているようである。. ︵6︶ ︵注5︶では、自刃を美化している集団を﹁武士﹂と呼んでいるが、 ﹁武士﹂と﹁もののふ﹂は重なる部.  分はあるものの発生時期やその特性に違いがあるため、単純に同じものとして扱うことはできない︵﹃日本  国語大辞典 第二版﹄第一二巻、小学館、二〇〇一年一二月、二二六一頁参照︶。. ︵7︶斎藤英喜﹃アマテラスの深みへ 古代神話を読み直す﹄ ︵新曜社、 一九九六年一〇月、四四∼四五頁︶。 ︵8︶村上重良﹃国家神道﹄ ︵岩波新書、 一九七〇年︸一月、一頁︶。. ︵9︶前掲︵7︶に同じ︵八五頁︶。. ︵10︶清水昭﹃西郷と横山安武明治維新の光芒﹄ ︵彩流社、二〇〇三年一月、一一〇八∼二二〇頁︶。.   横山安武の建白書には﹁朝鮮征伐﹂や﹁アイヌ弾圧政策﹂に対する批判が加えられており、最後は﹁今日.  の急務は先づ、綱紀を建て政令を一にし、信を天下に示し、万民を安堵せしむるにあり﹂と足元を固め、国.  力を上げることが切に説かれている。西洋列強の圧力や新政府の腐敗した状況が﹁隠に土崩の兆しあり﹂と  映ったため、国土を護るために諌死をもつて建白書を提出したと考えられる。. 一24一.

(28) 第二章 ﹃神風連史話﹄ ﹃奔馬﹄との関連. 第一節 ﹃神風連史話﹄の受容.  昭和神風連を企てる飯沼勲が﹃神風連史話﹄に出会うのは昭和七年五月頃である。 一月後には、同志集めのス. ローガン﹁神風連の純粋に学べ﹂として、その後、堀中尉にこの本を貸す際には﹁僕たちの精神はみなこの中に. あります﹂と言うなど、勲が﹃神風連史話﹄の影響を強く受けていることが窺える。とくに勲の﹃神風連史話﹄. 受容を知る上で重要と思われるのが、第二回公判における裁判長の尋問に対して勲が答えた﹁私や同志の心に誓. つてゐたこと﹂である。これは、勲が偽証した棋子を守るために偽証した後に述べられたものであるが、ここで. の勲は、自分の﹁純粋性﹂を守らなければならない状況に追い込まれていたため信懸性の高いものと言える。.    誰が天へ告げに行くのか? 誰が使者の大役を身に引受けて、死を以て天へ昇るのか?それが神風連の志.   士たちの信じた宇気比であると私は解しました。    天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天ど地を紬ぶにば、何か決然だむ純粋0行.   為がい澄みで歩。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を賭さなくてはなりません。身を龍.   と化して、龍巻を呼ばなければなりません。それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空   へ昇らなければなりません。.    もちろん大勢の人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天に昇るといふことも考へました。が、さ.   うしなくてもよいといふことが次第に分かりました。神風連の志士たちは、日本刀だけで近代的な歩兵営に.   斬り込んだのです。雲のもつとも暗いところ、汚れた色のもつとも色濃く群がり集まった一点を狙へばよい. 一25一. と.

(29) のです。カをつくして、そこに穴をうがち、身一つで天に昇ればよいのです。.                                              ︵三七五頁︶.  ここでの﹁暗雲﹂は、 ﹁日本の未来を閉ざ﹂し﹁現下日本の頽廃﹂ ﹁農村の疲弊と貧民階級の苦難﹂の原因と. される﹁政治の腐敗を、その腐敗を己の利としてゐる財閥階級﹂の要人を喩えたものである。それは﹁上御一人. の御仁慈の光を遮る根﹂でもある。 ﹁天﹂に存在しているのは、勲が教練の指揮を執る堀中尉の頭上に見た﹁太. 陽﹂、つまり﹁陛下のまことのお姿﹂である。勲は、政財界の人問によって﹁まことのお姿﹂を遮られている天. 皇の回復を願っているときに﹃神風連史話﹄に出会ったのである。勲は、それを短期間の内に受容して行為に及. んでおり、その影響力の強さは甚大と言える。勲を行為へと一転させた﹃神風連史話﹄には、 ﹁陛下のまことの. お姿﹂を回復するための方法が描かれていたと考えられる。それは、 ﹁身命を賭﹂し﹁目本刀だけで﹂ ﹁雲のも. つとも暗いところ、汚れた色のもつとも色濃く群がり集まった一点を狙へばよ﹂く、 ﹁大勢の人手と武力﹂を必. 要としないものである。そしてそれを支えているのが、 ﹁天へ昇る﹂ための﹁昇天秘説﹂、 ﹁神風連の志士たち. の信じた宇気比﹂、もののふの魂とも言うべき﹁目本刀﹂、そして、 ﹁天ど地を結ぶ﹂ために必要とされる﹁純. 棒み往為﹂である。勲は、天皇の本来の姿−桜園の言うところの﹁幽りの世の遠御神﹂1を回復するために. ﹃神風連史話﹄に描かれた志士の﹁純粋な行為﹂をモデルにしているのである。 ﹃神風連史話﹄でもっとも﹁純. 粋﹂、かつ一人で行動したのは前章で確認したように加屋霧堅である。序章で触れた﹁精神の存在証明のために. は、行為が要﹂るという作者の考えを踏まえるならば、勲は加屋の行為を模倣することで﹃神風連史話﹄でもっ. とも﹁純粋﹂とされる加屋の精神、魂を継承しようとした思われる︵注1︶。しかし、勲は単純に加屋の行為だ. けを模倣したわけではなさそうである。それを解明するには、勲の純粋についての考え方、宇気比に対する認識 などを確認する必要がある。.    あの神風連の師父林桜園が、人はみな神の子と説いたやうな意味で、勲は自分を無垢であり純粋であると. 一26一.

(30)   思つたことはなかつた。ただ純粋といふものへもうちよつとで指が届きさうになつてゐるといふ焦燥がたえ.   ずあつて、それも危い足場の踏台に乗つて辛うじて指先が触れるのであるが、一方その踏台は一瞬一瞬崩れ.   かけてゐるのが感じられた。桜園先生が説いた宇気比の神事も、不可能になつた現代だといふことはわかつ.   てゐる。ただ彼は、神意を窺はうとするあの宇気比には、やはり、今にも崩れさうな危い踏台の要素があつ.   たと思ふのである。その危ふさこそ罪でなくてなんだらう。その不可避であつたことほど、罪に似たものは   ないのである。.                                             ︵一七七頁︶.  勲は自分のことを﹁純粋﹂な存在などとは思っておらず、ただ﹁純粋﹂を求め、もう少しで手が屈きそうなと. ころにいると考えている。そのような勲が乗っている﹁踏台﹂は、 ﹁危﹂く、 二瞬一瞬崩れかけてゐる﹂よう. に感じられるものである。勲は、 ﹁宇気比﹂に﹁今にも崩れさうな危い踏台の要素﹂を見出し、それを﹁罪﹂と. 捉えている。そして、それはすでに述べたように人為の介在を容易にする宇気比の方法そのものにあると思われ. る。ここではそれ以上に、勲が太田黒の行為にそのような﹁罪﹂の面を見出していたと考えていいだろう。勲は. ﹁罪﹂とも言える太田黒の行為を﹁踏台﹂にして﹁純粋﹂を手に入れようとしていると思われる。しかし、勲の. ﹁宇気比の神事も、不可能になつた現代﹂とする認識は、 ﹁宇気比﹂によって﹁天と地を結ぶ﹂ことが不可能で. あることを意味している。勲が目的を果たすには、その問題が解決されなければならない。  勲は﹁純粋﹂について次のようにも考えている。.    純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含漱薬の味のやうな観念、優しい母の胸にすがりつくや.   うな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血し.   ぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。 ﹁花と散る﹂といふときに、血みどろの屍体は.   たちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。. 一27一.

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期におけ る義経の笈掛け松伝承(注2)との関係で解説している。同書及び社 伝よ れば在3)、 ①宇多須神社

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〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

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