はじめに
中国西南端に位置する雲南省には︑漢族以外にも二三も の少数民族が住んでいる︒本稿では雲南少数民族の一つで ある白族 ︵ペー族︶ の民間芸能である 「 大本曲 」 に注目し︑ その歴史と現状について考察する︒なお白族の言葉である 白 語 ︵ ペ ー 語 ︶ は 大 理 州 北 部 の 中 部 方 言 ︵ 剣 川 方 言 ︶︑ 大 理 盆 地 を 中 心 と し た 南 部 方 言︵ 大 理 方 言 ︶︑ 雲 南 西 北 部 の 北 部方言 ︵碧江 方
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言 ︶ とに分けられる ﹇徐琳等編著 1984 : 4 ﹈︒ 本稿で注目する大本曲は︑南部方言地域に伝わる芸能であ る︒このため特に説明をしない場合︑白族とは南部方言地 域の白族を︑白語とは南部方言のことを示す︒本文中の白 語の発音は︑現行のローマ字白文によって示す﹇楊応新等 編写 1995 ︑王鋒編著 2014 ﹈︒ローマ字白文と国際音声表記 ︵ I P A ︶と の 対 応 は 文 末 に 示 す︒ ま た 引 用 文 中 の ︵ ︶ 内 は引用者による説明︑ ︹ ︺ 内は引用者による補足である︒
大理白族について
白 族 の 人 口 は 約 一 九 五 万 人︵ 二 〇 一 〇 年 ︶︑ そ の う ち の 約 一〇〇万人が雲南省西部の大理白族自治州︵以下大理州と 略 称 す る ︶ に 多 く 暮 ら し て い る﹇ 王 鋒 編 著 2014 : 5 ﹈︒ こ の 大理州の中心が大理盆地である︒大理盆地における白族の 民 俗 誌 に つ い て は︑ フ ィ ッ ツ ジ ェ ラ ル ド︵ C. P . F itzg er ald ︶ が 中 華 人 民 共 和 国 成 立 以 前 の 一 九 三 六 年 か ら 一 九 三 九 年 雲南省大理白族の 大本曲の歴史とその現状 立 石 謙 次
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論 説 │││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││ 中国の芝居
㧚 km N ブラマプトラ河
金沙江
元 江
紅河
タンルウィン河
メコン河
怒江 瀾滄江
エーヤワディ河
中国及び周辺諸国 雲南省
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○
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タイ王国
ベトナム 雲南省
海南
チベット 四川省
貴州省
ラオス ミャンマー
インド
˹ǽّ
広西地区
チェンマイ 景東 保山 瀘水 麗江
昭通 香格里拉
ヴィエンチャン ヤンゴン
チェンマイ
海口 瀘州
西昌
曲靖 昆明 楚雄
景東 文山
蒙自 大理
景洪 普洱
玉渓 芒市 保山
臨滄 瀘水 麗江
昭通
南寧
ハノイ 貴陽 香格里拉
ヴィエンチャン マンダレー
ヤンゴン
地図1 雲南省地図
に︑ 大 理 に お い て 当 時 「 民 家 」 ︵ Min Chia ︶ と 呼 ば れ て い た白族の生活・文化・宗教・言語などの幅広い関心のもと に 調 査 を お こ な い︑ 紹 介 し て い る﹇ Fitzg er ald 1941 ﹈︒ ま た フ ラ ン シ ス・ シ ュ ー︵ Francis L. K. Hsu ︶ も 中 華 人 民 共 和 国 成 立 以 前 の 大 理 地 方 の wester n t
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ow n の 調 査 を も と に︑ そ の 生 活 を 叙 述 す る﹇ Hsu 1971 ﹈︒ 横 山 廣 子 は 一 九 八 〇 年 代 から大理盆地の白族の調査をおこない︑その周辺に暮らす 漢族やイスラーム教徒である回族との関係性を明らかにし た﹇横山 1987 ﹈︒ 現在の研究では︑白族の先祖は現在の雲南地方を中心に 展 開 し た 南 詔 国︵ 八 世 紀 半 ば
/八 −九 〇 二 ︶・ 大 理 国︵ 九 三 七
−一二五三︶の支配層である
「 白蛮 」 と呼ばれる集団 だと考えられている︒一二五三年︑大理国はモンゴルのモ ンケ・カアン︵在位一二五一
−一二五九︶の命を受けた弟 のクビライに滅ぼされる︒しかし大理国皇帝家の段氏は元 朝 に よ っ て 官 職 を 与 え ら れ 存 続 が 認 め ら れ る﹇ 林 1996 : 6 ‒ 9 ﹈︒ 『 元 史 』 巻 一 六 六 に は︑ 大 理 国 最 後 の 皇 帝 た る 段 興 智の弟である段信苴日の伝が立てられている︒これによれ ば 段 信 苴 日 は 「 僰
ほく人
じん」 と さ れ て い
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る ︒ 元 の 李 京 『 雲 南 志 略 』「 雲 南 総 叙 」 に よ れ ば︑ 「 古 く は 中 慶︵ 今 の 雲 南 省 昆 明︶ ・威楚︵今の雲南省楚雄︶ ・大理・永昌︵今の雲南省保 山 ︶ は 皆 な 僰 人︹ が 住 ん で い る ︺︒ 転 じ て︹ 彼 ら は ︺ 白 人 ともされている 」 という︒このように元朝統治下に組み込
㧚 km N
洱 海 程海
剣湖 瀾 滄 江
怒 江
黒 恵
江
怒 江 漾濞江
瀾 滄 江 礼 杜江
金 沙 江 金沙江
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洱源
大理市
(下関)
剣川 鶴慶 蘭坪
永勝
雲龍
永平
巍山 保山市
南澗 弥渡
祥雲 賓川
漾濞 上関
喜洲鎮大理
鳳儀鎮 海東
大 理 白 族 自 治 州
石宝山
鶏足山 五台峰
中和峰
巍宝山 水目山
地図2 大理白族自治州地図
まれた雲南において白蛮は︑ 「 僰人 」 ︑あるいは 「 白人 」 と 記 さ れ る よ う に な る︒ 現 在 白 族 の 自 称 の 一 つ で あ る 「 ber p nid 」 は︑この 「 白人 」 に由来する︒ ただし現在の白族のほとんどは︑自分たちを南詔国・大 理国の末裔であるとは考えていない︒自らの先祖を明・洪 武一四年︵一三八一︶前後に︑中国の南京よりこの地に移 り住んだ漢人だと考えている﹇牧野 1985 : 149 ‒ 157 ﹈︒ この説話が広く白族に伝わっている背景には︑以下のよ うな歴史的状況がある︒明の洪武一四年︑明朝軍は大挙し て雲南に侵入した︒翌洪武一五年︵一三八二︶閏二月︑明 軍は大理を占領した︒大理国皇帝の末裔である段世が捕え ら
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れ ︑ 段 氏 家 は 滅 亡 し︑ 元 朝 統 治 下 の 雲 南 は 征 服 さ れ た ﹇ 奥 山 2003 : 206 ﹈︒ そ し て 大 理 盆 地 に は 大 理 府 城 と 太 和 県 が設置された︒さらに明朝は雲南制圧のために︑雲南全土 に衛所を設置して︑大量の漢人を移入させ︑雲南社会に大 き な 変 化 を 与 え た と い う﹇ 方 国 瑜 2003 : 151 ﹈︒ し か し 前 述 のように︑これ以前にも雲南における白人の存在は史料上 確認できるため︑白人の祖先のすべてが明代以降中国から やってきた漢人であるとするのは疑わしい︒ 時代が下り︑明・天啓年間︵一六二一
−一六二七︶に劉 文 徵 が 纂 修 し た 『 滇
てん志
し』 巻 三 〇 「 種 人 条 」 の 白 人 の 項 に は︑ 「 滇 郡︵ 現 在 の 雲 南 省 昆 明 ︶ お よ び そ れ 以 西 の 諸 府 で は︑過半数がこれ︵白人︶である︒習俗は華人とそれほど 遠くはない 」 と記さ れ
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る ︒これによれば昆明以西の多数派 である白人たちの風俗習慣は漢人たちに近いと認識されて いた︒しかし白人の居住地域は次第にせばまっていったと 考えられる︒康熙三三年︵一六九四︶序刊︑李斯佺等修の 康 熙 『 大 理 府 志 』 巻 一 二・ 風 俗 条 に は︑ 「 趙 州︵ 今 の 大 理 州鳳儀︶ ︑雲︵雲南県︑今の同州祥雲・弥渡県︶ ︑賓︵今の 同州賓川県︶には︑だいたい漢人が多く︑太和︵今の同州
大理市︶ ︑鄧川︵今の同州洱源県鄧川鎮︶ ︑浪︵浪穹県︑今 の同州洱源県︶には︑だいたい白人が多い 」 と あ
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り ︑清・ 康熙年間︵一六六二
−一七二二︶になると︑大理府の中で も︑大理盆地の太和県とその北の鄧川・浪穹にのみ︑なお 白人が多かったとされる︒この分布は︑現在の大理州中央 部における白族の居住地域の分布に近い︒さらに同書同巻 同 条 の 太 和 県 項 に は 「 ︹ 太 和 県 の ︺ 種 族 に は 白 人 が 多 い︒ 習俗は漢人と等しい︒ その外より来て長く ︵時がたつと︶ ︑ 子孫も今はまた土着︵白人︶となった 」 とあり︑当時︑白 人 の 習 俗 は 漢 人 と 「 等 し い 」 と 称 さ れ る よ う に な っ て い た︒一方では流入した漢人が現地の文化に取り込まれると いうこともあった︒ 前述のように白人はまた 「 民家 」 とも呼ばれていた︒中 国による雲南征服後︑漢人の多くは軍人として雲南地方に 移り住み︑軍戸として王朝支配に組み込まれた︒一方︑土 着の白人たちは民戸に組み込まれたことによると考えられ る︒民家の名称は︑一九四九年の中華人民共和国成立後に も使用され︑一九五六年にはじめて正式に 「 白族 」 の名称 が用いられることにな っ
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た ︒
白語と白文
白族は白語と呼ばれる独自の言語をもっている︒白族の 全人口一九五万人中︑白語の話者人口は︑約一三〇万人と さ れ て い る﹇ 王 鋒 編 著 2014 : 5 ﹈︒ 白 語 が ど の 言 語 に 属 し て いるかという問題については︑いまだ確定しておらず︑大 まかにみると以下のような説があげられる︒⑴チベット・ ビルマ語派イ語系︑⑵あるいはチベット・ビルマ語派白語 としてチベット・ビルマ語派の中で独立しているもの︑⑶ 漢語との密接な関係に注目し︑漢・白語派白語という独立 言語とみなすものがある︒ただし現状ではチベット・ビル マ語派に属する言語だというみかたが主流である﹇王鋒編 著 2014 : 5 ﹈︒ 白 語 が ︑ 大 き く 三 つ の 方 言 区 に 分 け ら れ る こ とは︑先に述べたとおりである︒ 白族およびその先祖は︑基本的には自分たちの文字を持 たず︑文章は漢語を用いて書いた︒ただし一部で 「 白文 」 ︵ ペ ー 文 ︶ と 呼 ば れ る 漢 字 を 用 い て︑ 白 語 を 書 き 写 す 方 法 をもっていた︒白文は︑本稿で問題とする大本曲など民間 芸 能 の 曲 本︵ 台 本 ︶ や︑ 宗 教 書 な ど に 用 い ら れ る こ と が あ っ た﹇ 張 錫 禄 等 主 編 2011 ﹈︒ 侯 冲 は 白 文 の 使 用 用 途 や 使 用範囲の狭さから︑民族文字として普及することは難しい と考えた﹇侯冲 2002 : 126 ﹈︒ 雲南において漢字を用いて自民族語を表記する方法は︑ 八世紀半ばから一〇世紀初頭の南詔国時代からみられる︒ 宋・李昉撰 『 太平広記 』 巻四八七 「 蛮夷四・南詔 」 には︑ 『 玉 渓 編 事 』 を 引 い て 南 詔 国 の 清 平 官︵ 宰 相 ︶ で あ る 趙 叔
達の詩が載せられている︒
法駕避星回 法
こうてい駕 は 星
たいまつ回 の明かりを避け 波羅毘勇猜 波
トラ羅 や 毘
ウマ勇 さえも彼が誰なのかを 猜
うたがった 河濶氷難合 河は広く氷が張ることもむずかしい 地暖梅先開 大地も暖かくなり︑もう梅の花がほころ んだ 下令俚柔洽 皇帝は 俚
たみ柔 が仲むつまじくたれと命ぜら れ 献琛弄棟来 人びとは珍しい宝を献じて 弄
ろうとう棟 ︵今の姚 安県︶より赴いた 願将不才質 願わくは︑この不才をもって 千載侍遊台 永
ながくこの遊台にて皇帝のそば近くに侍っ ていたいものだ 同詩には漢語では解釈できない語句が含まれている︒たと え ば 「 星 回 」 ︵ た い ま つ ︶ に つ い て︑ た い ま つ の こ と を 現 代 白 語 で も 「 xif huit 」 と 発 音 す る︒ 南 詔 国 語 と 現 代 白 語 と の 関 係 は な お 不 明 な 部 分 は 多 い も の の︑ 「 星 回 」 は 南 詔 国 語の 「 たいまつ 」 に相当する語彙に対し︑漢字を用いて表 記したものだと解釈できる︒また 『 太平広記 』 の同詩に対 する注には 「 波羅は虎なり︒毘勇は馬なり︒驃信は昔︑こ こ に 行 幸 し︑ 野 馬 や 虎 を 射 た こ と が あ
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る 」「 俚 柔 は 百
たみ姓 な
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り 」 と あ る︒ 現 代 白 語 で は ト ラ を 「 laot 」 と 発 音 す る の で︑ 「 波 羅
0」 と い う 語 彙 と の あ る 程 度 の 関 連 が み ら れ る︒ 「 毘 勇 」 や 「 俚 柔 」 と い う 語 と︑ 現 代 白 語 と の 関 連 は わ か らないものの︑とにかく南詔国語を漢字で書き写すという 方法は原理的に白文と同じものだと考えられる︒なお前述 の注にみられる 「 驃信 」 は南詔国・大理国で用いられた君 主 の 自 称 で あ る︒ 『 新 唐 書 』 巻 二 二 二 中 「 南 詔 下 」 に よ れ ば︑南詔国七代の尋閣勧︵在位八〇八
−八〇九︶が即位す ると驃信と自称した︑と あ
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る ︒これも自国語の語彙を漢字 によって記す例といえる︒ また元朝時代︵一二六〇
−一三六七︶までには史料上︑
漢語の著作を白文に翻訳していたと推測できる︒元・至大 庚 戌︵ 三︶ 年 五 月 甲 辰︵ 二 八︶ 日︵ 西 暦 一 三 一 〇 年 六 月 二 五 日︶に今の昆明郊外の玉案山筇竹寺に立てられた 「 大元洪 鏡雄辯法師大寂塔銘 」 には︑以下の記述がある︒
世祖□□破大理之明年︑師始至中國︑留二十五年⁝中 略⁝︑其歸□而國人號雄辯法師︒□烏僰人説法□□□□ 嚴 經・ 『 維 摩 詰 經 』 □ □ □ □ □ 以 僰 人 之 言︑ 於 是 其 書 盛 傳︑解其益衆︒
同碑文には欠損が多いものの︑清・康熙年間︵一六六二
−
一七二二︶に釈圓鼎が著した 『 滇釈記 』 巻一には︑前述の
碑文をもとにしたとみられる洪鏡雄辯法師の伝が立てられ ている︒そこには以下のような記述が確認できる︒
洪鏡雄辯法師は︑善闡城︵今の昆明︶に生まれた︒姓 は李氏である︒幼い時に国師たる楊子雲に仕えて高弟と なった︒世祖︵クビライ・カアン︶が大理国を破った翌 年︵ 一 二 五 四 年 ︶︑ 師 は 初 め て 中 国 に 赴 い た︒ 留 ま る こ と 二 十 五 年︑ 四 人 の 師 に 仕 え た︑ ⁝ 中 略 ⁝ 其 の 国︵ 雲 南 ︶ に 帰 り︑ 雲 南 の 人 た ち は︹ 彼 を ︺ 雄 辯 法 師 と 呼 ん だ︒師は僰人の言葉を解していたので︑本を書いた︒そ の本は盛んに伝えられ︑学ぶものは多くなってい っ
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た ︒
雄辯法師は大理国時代の雲南の善闡︵昆明︶に生まれ︑僰 人︵ 白 人 ︶ の 言 葉 に も 通 じ て い た と い う︒ 碑 文 や 『 滇 釈 記 』 には明記していないものの︑彼自身が白人であった可 能性は非常に高い︒雄辯法師が僰人︵白人︶の言葉によっ て書物を書いたとすれば︑おそらく漢字を用いたのであろ うという指摘がある﹇方国瑜 1984 : 1059 ﹈︒ 漢伝仏教の内容を︑白人の言葉に翻訳するという例は︑ 後の時代にも見られる︒清・康熙癸未歳︵四五年︶三月朔 旦︵ 一 日 ︶︵ 西 暦 一 七 〇 三 年 四 月 一 六 日 ︶ 序 刊︑ 高 奣 映 撰 の 『 鶏 足 山 志 』 巻 二 「 阿 闍 世 石 」 条
﹀12︿
に 「 ︹ 阿 闍 世 石 は ︺ 阿 闍 世 王 が 迦 葉 尊 者 を 礼 拝 し た と こ ろ で あ る︒ 元 旦 に な る と︑ 数 万 人 が 山 に 向 か い︑ 僰 談︵ 白 語 ︶ を も っ て 「 方 広 経 」 を唱え︑この石の所に至る 」 とある︒清代大理地方の 仏教霊山の一つである鶏足山の阿闍世石には元旦になると 白 人 が 集 ま り︑ 「 方 広 経 」 な る 白 語 の 経 を 唱 え た と い う ﹇ 侯 冲 等 点 校 2005 : 9 8 ﹈︒ こ う し た 漢 伝 仏 教 の 教 義 内 容 を ︑ 漢語から白語に翻訳するというあり方は︑少なくとも元代 には始まり︑清代を経て現在の大理白族の間にもなお存在 する﹇張明曽等 2004 : 32 ‒ 33 ﹈︒ さらに︑少なくとも明代になると白文による碑文が作ら れ る よ う に な り︑ な お 現 存 し て い る︒ 「 山 花 一 韻 」 と 呼 ば れ る 碑 文 は︑ 明・ 成 化 一 七 年︵ 一 四 八 一 ︶ に 立 て ら れ た 「 処 士 楊 公 同 室 李 氏 寿 蔵 」 の 裏 側 に 刻 ま れ て い る︒ こ の 「 山 花 一 韻 」 碑 は︑ 現 代 の 「 大 本 曲 」 の 「 三 七 一 五 」 の 形 式︵後述︶をすでに備えている﹇周祜 2002 : 109 ‒ 113 ﹈︒ さ ら に 大 理 州 喜 洲 鎮 に あ る 聖 元 寺 に 「 詞 記 山 花 咏 蒼 洱 境 」 ︵ 通 称 「 山 花 碑 」 ︶ と い う 白 文 詩 の 石 碑 が 刻 ま れ た︒ 「 山 花 碑 」 は︑ 明・ 景 泰 元 年︵ 一 四 五 〇 ︶ に 立 て ら れ た 「 聖 元 西 山 記 」 の 裏 面 に 刻 ま れ て い る︒ こ の た め 正 確 に 同 碑 が 刻 ま れ た 年 代 ま で は わ か ら な い も の の︑ 「 山 花 碑 」 も 明代碑と考えられている﹇雲南省少数民族古籍整理出版規 劃 弁 公 室 1988 : 4 ﹈︒ 同 碑 の 冒 頭 部 分 に は 以 下 の よ う に 記 さ れる︵発音と解釈は︑徐琳等﹇ 1980 ﹈を参考とする︶ ︒
︿白文﹀ ︿日本語訳﹀ 蒼洱境鏘翫不飽 蒼洱 ︵大理︶ の風景は見飽きることなく Cax hher t jex c aol g er x bet bux 造化工迹在阿物 自然の営みの痕跡はあらゆる処にあり Ca ol hual gu jif z ex at vux 南北金鎖把天關 南北の金鎖 ︵大理の上関 ・ 下関︶ は N ad be jif soux ber x heil guer f 天険により 鎮青龍白虎 青龍・白虎を鎮守となす Z ep qier l n vd ber p hux こ の 碑 文 は 完 全 な 漢 文 で は な く︑ 一 部 分 は 白 語 の み に よって解釈しうる︒また同碑もやはり︑最初の三行が七文 字︑ 最 後 の 一 行 の み が 五 文 字 に よ っ て 一 段 が 構 成 さ れ る 「 三 七 一 五 」 の 形 式 を と り︑ 大 本 曲 の も の と 一 致 す る﹇ 段 伶 1998 : 28 ‒ 31 ﹈︒ さらに明代には︑雲南を訪れた漢人にも︑白文の存在が ある程度知られるようになったと考えられる︒たとえば漢 代から明による雲南征服までの雲南の歴史を述べた書物と して楊愼の 『 滇載記 』 がある︒同書の後跋には︑次のよう な記述がある︒
私は罪にかかわって︹雲南という︺辺境に送られた︒ ︹それからというもの︺蒙氏︵南詔国︶ ・段氏︵大理国︶ の 歴 史 を 図 や 書 物 な ど で 探 し て み た が で き な か っ た︒ ︹これに関する︺書籍を旧家において尋ねてみると︑ 『 白 古 通 』『 玄 峰 年 雲 志 』 と い う 書 物 が あ っ た︒ そ の 書 物 に は僰文があったものの︑その意義は民衆に対する教化も 含んでいたため︑多少削除・訂正して︑読めるようにし た⁝後略︒ 楊愼は明・正徳六年︵一五一一︶に科挙の状元︵首席︶と なったものの︑嘉靖帝︵在位一五二二
−一五六六︶の継嗣 問題を端緒として展開した︑帝の生父母などの尊号・祭祀 などに関する 「 大礼の議 」 にかかわった︒これにより嘉靖 帝の怒りを買い︑嘉靖三年︵一五二四︶には雲南西部の永 昌︵ 今 の 保 山 ︶ に 流 さ れ て 軍 に 充 て ら れ
﹀13︿
た ︒ 彼 の 『 滇 載 記 』 は︑ 雲 南 の 民 間 に あ っ た 『 白 古 通 』『 玄 峰 年 雲 志 』 を 「 削 除・ 訂 正 し て 」 著 さ れ た と 述 べ て い る︒ し か も 『 白 古 通 』『 玄 峰 年 雲 志 』 は い わ ゆ る 僰 文︵ 白 文 ︶ に よ っ て 書 か れ て い た と 述 べ て い
﹀14︿
る ︒ 『 白 古 通 』 は 『 白 古 通 記 』 な ど の 名 称 で 呼 ば れ︑ 『 玄 峰 年 雲 志 』 と と も に 現 存 し て い な い︒ ただし雲南の地方志などに多く引用され︑その佚文は王叔 武 に よ っ て ま と め ら れ た﹇ 王 叔 武 1981 : 50 ‒ 72 ﹈︒ し か し 現 存するこれら佚文はすべて漢文による説話集である︒この ため楊愼のいう 「 僰文 」 が︑現在の白文と同じものなのか については︑いまだ議論の余地がある︒少なくとも雲南に
存在していた 「 僰文 」 とよばれる表記法について︑明・嘉 靖年間には楊愼が言及していたことはいえる︒ 白文による 『 白古通記 』 が清代に至るまで存在していた 可能性は︑ほかの史料によっても伝えられている︒清・康 熙 四 五 年︵ 一 七 〇 六 ︶︑ 大 理 喜 洲 に あ る 聖 元 寺 の 住 持 で あ る 寂 裕 は 『 白 国 因 由 』 と い う 書 物 を 刊 刻 し た﹇ 立 石 2004 : 263 ‒ 265 ﹈︒ こ の 史 料 は 「 観 音 に よ る 一 八 の 導 き 」 と い う テーマを軸に︑大理地方の開闢と南詔国・大理国の歴史を 説 く 説 話 で あ る﹇ 立 石 2006 , 2010 ﹈︒ 『 白 国 因 由 』 末 尾 に あ る寂裕による跋文には以下のような記述がある︵引用は立 石﹇ 2004 : 289 ‒ 290 ﹈による︶ ︒
この場所︵大理︶におおよそ一八の導きがあるという 話は︑みな 『 僰古通 』 に掲載されている︒本︹聖元︺寺 の仕切り扉に描かれている内容は︑一八の導きのうちの 僅かに幾段のみである︒⁝中略⁝各段の縁由は︑もとも と僰語であった︒ただ僰字はわかりづらいため︑僰音を 漢 語 に 訳 し︑ み た 者 は こ れ で 一 目 瞭 然 と な り︑ 『 僰 古 通 』 をみていなくとも大体の内容から外れることはなく な っ
﹀15︿
た ︒
康熙年間︵一六六二
−一七二二︶に書かれた
『 白国因由 』 は︑ も と も と 『 僰 古 通 』 ︵ 『 白 古 通 』 ︶ に 基 づ い て い る と さ れる︒これは僰字によって書かれていたために︑漢語に翻 訳して誰にでもわかるようにしたという︒明清代になると 白文は碑文や歴史・説話集などに用いられ︑その一部は︑ 現地の知識人にも知られていたことがわかる︒ とはいえ白文の存在は︑大理外部の人間に広く知られて いたわけではなかった︒近代以降︑白文の存在が知られ︑ 研究されるようになる︒早くは一九四〇年に趙継曽が前述 の 「 山花碑 」 を紹介し︑碑文の内容を白語によって解釈し よ う と 試 み た﹇ 趙 継 曽 1940 ﹈︒ 一 九 四 二 年 に 石 鍾︵ 石 鍾 健 ︶ は 前 述 の 「 山 花 碑 」 や 「 故 善 士 趙 公 墓 誌 」 ︑ や は り 前 述の 「 故善士楊宗墓誌 」 と︑その裏面に刻まれた 「 山花一 韻 」 碑 を 紹 介 し た﹇ 石 鍾 健 2004 ﹈︒ さ ら に 一 九 五 七 年 に も 石 鍾 健 は︑ こ れ ら 白 文 碑 を 考 察 し て い る﹇ 石 鍾 健 1957 ﹈︒ 石鍾健が論文を発表した当時︑一般的には白文の存在すら 疑われていたものの︑石鍾健は大理地方で発見した白文石 刻史料によって︑その存在をようやく証明した︒ただし石 鍾健はこの論文の中で︑白文が明代︵一四世紀後半
−一七
世 紀 前 半 ︶ に は す で に 失 わ れ た と 結 論 し て い る﹇ 石 鍾 健 1957 : 135 ‒ 138 ﹈︒ しかし実際には︑白文は現代に至ってもなお使用されて いた︒雲南省民族民間文学大理調査隊編著﹇ 1960 ﹈には︑ 「 白 文 」 や 白 文 を 用 い た 現 在 の 民 間 芸 能 に つ い て 略 述 さ れ ている︒このように一九六〇年代に入り現在まで使用され
写真1 大本曲の上演 (2016 年8月筆者撮影)
る白文の実態が明らかになりつつある︒では次に現代の白 文と︑白文を用いる芸能である 「 大本曲 」 ついて述べてい こう︒
大本曲について
大本曲は︑歌い手と三絃︵三味線︶の伴奏の二人でおこ な い︑ 中 国 の 「 曲 芸 」 ・ 「 説 唱 」 ︵ か た り も の・ う た い も の ︶ に 近
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い ︒ 大 本 曲 の 名 前 の 由 来 は︑ 「 大 き な 本 子︵ テ キ スト︶の曲 」 である︒ひとつのテキストで最低でも二〜三 時間は歌われる︒伝統的には何昼夜もかけて歌われること もあった︒大本曲について︑一九五七年には︑大本曲の流 派のうち︑大理盆地の洱海西岸にある大理古城から南に伝 わる南腔と︑その北側に伝わる北腔との大本曲の音楽を紹 介し︑ 楽譜に記録している ﹇楊漢等弾唱 ・ 禾雨記釈 1957 ﹈︒ また大本曲の研究ではないものの︑大理白族の民間伝説を 題材に︑大本曲の音楽をもとに作られた演劇︵大本曲劇︶ の 台 本 が つ く ら れ︑ 発 表 さ れ る﹇ 金 湧 等 編 劇 1957 ﹈︒ た だ し歌詞はすべて漢語である︒ 一九八六年には︑楊漢等弾唱・禾雨記釈﹇ 1957 ﹈と同様 に︑大本曲で用いられる調子の楽譜が紹介され︑その芸能 についての概要や音楽的特徴・文学性の考察および芸人の 小 伝 な ど が 掲 載 さ れ て い る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 1986 ﹈︒
二〇〇〇年には︑大本曲芸人である劉沛の伝記と彼が所 蔵する曲本六編とが紹介される︒同書の曲本テキストは白 語部分もふくめて原本の内容が記載されているとおもわれ るものの︑残念ながら漢語による解釈や音声記号も付され ていない︒このため白語・白文に通じていないと理解でき な い 部 分 も あ る﹇ 楊 政 業 主 編 2000 ﹈︒ 同 年 に は︑ 同 じ く 大 本曲芸人楊漢の生誕一〇五周年を記念して出版された文集 がある︒内容は︑⑴ 楊漢の伝記および回 顧録︑⑵大本曲につ いての評論︑⑶楊漢 所蔵の曲本三編の内 容紹介︵ただし白語 部分は漢語訳になっ て い る ︶︑ ⑷ 大 本 曲 の調子の説明と楽譜 による紹介︑という 四編から構成される ﹇李晴海主編 2000 ﹈︒
二〇〇三年には︑ 大本曲の芸能として の概要や様式などが
写真2 大本曲曲本
説 明 さ れ る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 ﹈︒ 大 理 市 文 化 局等編﹇ 2005 ﹈では大理市における大本曲に関する調査報 告と曲本内容について紹介する︒曲本内容の翻訳・釈読と しては︑張錫禄等主編﹇ 2011 ﹈があり大本曲の曲本の内容 を明らかにしている︒二〇一一年に董秀団は文化人類学的 な視点から︑大本曲が大理地方におこなわれた歴史的背景 や︑その芸能の形式︑芸人について︑さらには社会的機能 な ど を 総 合 的 に 検 討 し て い る﹇ 董 秀 団 2011 ﹈︒ さ ら に フィールドワークをおこないながら大本曲の曲本の表記に ついての分析をした﹇遠藤等 2013 ﹈がある︒ なお伝統的な大本曲の演目は︑白族独自の内容のものは 少 な い﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 38 ﹈︒ 伝 統 的 な 曲 目の八割近くが中国の演劇などから題材をとる﹇大理白族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 32 ‒ 38 ﹈︒ 二 〇 〇 三 年 ま で の 段 階 で 現 存 の 曲 本 は 八 二 本︑ 演 目 の み が 伝 わ っ て い る も の が 六 六 本︑確認されている︒さらに現代になって創作されたもの が 四 二 本 あ る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 32 ‒ 37 ﹈︒ 大 本曲の演目と解題については董秀団﹇ 2010 : 411 ‒ 436 ﹈が参 照できる︒ 曲本は 「 詩 」 ・ 「 科白 」 ︵せりふ︶ ・ 「 歌 」 より構成される︒ この形式は︑中国の説唱芸能や︑民間宗教の宝巻のものと 近 い︒ こ の う ち 詩 と 科 白 と は 漢 語 に よ っ て 記 さ れ る︒ 一 方︑歌は漢語と白文を併用する︒白文は下線によって漢語 と区別される︒歌詞の様式は︑基本的に最初の三行が七文 字ずつ︑最後の一行が五文字の合計四行で一段が構成され る︒前述のように︑この形式は明代の 「 山花一韻 」 や 「 山 花碑 」 の形式とほぼ一致する︒ 自民族語のなかに漢語︑あるいは漢語の中に自民族語を 単語単位で挿入・混在させる例は︑たとえば満洲人の 「 子 弟書 」 などの中国非漢民族文学・芸能でもみられる﹇岡田 2010 : 455 ‒ 457 ﹈︒ し か し 大 本 曲 の 場 合︑ 二 つ の 言 語 を 完 全 に区別しながら︑かつ併存させるという点でこれらとは異 なる︒また大本曲の曲本は中国の芸能からそのまま白語に 翻訳しただけでなく︑地名︑習俗や季節の情景などの細か い部分において︑大理の人々の創作が加わっている︒これ
ら 曲 本 は 基 本 的 に 自 分 の 師 匠 や 別 の 芸 人 か ら 借 り 受 け た り︑耳で覚えたものを書き写したりするため︑同じ演目で も芸人によって曲本の細部は異なる︒ 大本曲の成立年代については︑不明な部分が多い︒前述 の よ う に 大 本 曲 が 用 い る 歌 の 形 式 は︑ 現 存 す る 「 山 花 一 韻 」「 山 花 碑 」 な ど 白 文 碑 に よ っ て 明 代 に は 成 立 し て い た こ と が わ か る︒ 現 存 す る 最 も 古 い 曲 本 は︑ 清・ 光 緒 年 間 ︵ 一 八 七 五 下のような記述がみられる︒ 六︶序のある鈔本で程近仁修 『 趙州志 』 巻四 「 雑記 」 に以 いう白族の先祖による芸能については︑乾隆元年︵一七三 の実在は確認できない︒しかし白語と漢語とを併用すると −一 九 〇 八 ︶ の 写 本 で あ り︑ こ れ 以 前 の 大 本 曲
民家の曲︒民家の言葉でおこなわれる︒声の調べは単 調でなく︑音の調子はゆったりとして人を感動させる︒ また演じて芝居をすれば︹民家語に︺漢語を混ぜたりも する︒これを 「 漢僰楚江秋 」 と い
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う ︒
少なくとも一八世紀前半には大理盆地南部の趙州︵今の大 理 市 南 部 か ら 祥 雲 県・ 彌 渡 県 に か け て の 地 域 ︶ に 民 家 語 ︵ 白 語 ︶ で お こ な う 曲︵ 曲 芸・ か た り も の ︶ が 存 在 し て い ることがわかる︒これが白・漢併用のかたりものであった かは記されていないものの︑白語と漢語とを織り交ぜて演 ずる芝居も存在していたとみられる︒ また演目について︑前述のように伝統的な曲本のほとん どが中国の芸能からとられている︒雲南に中国の芸能がい つ 普 及 し て い っ た か に つ い て も 不 明 な 部 分 が 多 い︒ し か し︑たとえば前述の四川出身で後に雲南の永昌︵今の雲南 省保山市︶に追放された楊愼は 「 升菴︵楊愼の号︶の北調 ︵ 北 曲・ 元 曲 ︶ は︑ い ま だ 雅 や か な 音 律 を 尽 く し て い る と は言えないものの︑最も素晴ら し
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い 」 という評価を受ける 北曲の名手でもある︒楊愼が雲南に追放されて後︑雲南の 知識人たちは多く彼に師事して い
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る ︒このため明代後半期 の雲南に中国の芸能が全く伝わっていなかったとは考え難 い︒ ま た 明 末 の 旅 行 家 と し て 有 名 な 徐 宏 祖 の 旅 行 記︑ 『 徐 霞客遊記 』 巻一〇 「 滇遊日記三 」 には︑以下の記述がみら れる︒
︹ 崇 禎 戊 寅︵ 一 一 ︶ 年 ︺ 九 月 初 八 日︵ 西 暦 一 六 三 八 年 一 〇 月 一 四 日 ︶︑ 霑 益 州︵ 今 の 雲 南 省 宣 威 市 ︶ の 役 所 よ り進んで東門に到着した︒龔起潜の旧邸に投宿しようと したものの︑その家の門が閉まっているのをみた︒怪し んで門を叩いてみると︑ちょうど中で演劇をしていると ころだとわか っ
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た ︒
ここで述べられる 「 演劇 」 が中国の演劇そのものであっ
たかは明らかではない︒しかし中国の知識人である徐宏祖 が 「 演劇 」 と認識できる芸能が明末雲南でおこなわれてい たことだけはわかる︒以上のことから明末雲南には少なく とも知識階級・上層階級の間では中国の芸能が伝わってい たと推測できる︒このため大本曲は明代までには白族の祖 先の間に存在した韻文の伝統と中国の民間芸能とが融合し て︑少なくとも清代には作りだされた芸能であると考えら れる︒ しかしその後の清末から民国にかけての地方志などから も大本曲に関する記述は管見の限り確認できない︒大本曲 は︑当時の知識人からは軽視・忌避すらされてきた可能性 がある︒たとえば大本曲の演目の多くが中国の民間宗教で 用 い ら れ る 宝 巻 の 内 容 と 一 致 す る﹇ 董 秀 団 2011 : 90 ‒ 93 ﹈︒ 宝 巻 は 中 国 の 知 識 人 か ら は 忌 避 さ れ る こ と が あ っ た︵後 述 ︶︒ まず大本曲の代表的な演目の一つ 「 黄氏女対金剛経 」 を 例 に み て い こ う︒ 「 黄 氏 女 対 金 剛 経 」 は 「 黄 氏 女 游 陰 」 と も 題 さ れ る 演 目 で︑ そ の 内 容 は 以 下 の と お り で あ る︒ 趙 令
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芳 の妻である黄桂香︵黄氏︶は︑篤く仏教を信奉し︑吃 斎して善いおこないを続けていた︒彼女が 『 金剛経 』 を念 ずるたびに冥府では閻魔王府すら揺れてしまうため︑閻魔 大王は黄氏を冥府へ召すこととした︒黄氏は冥府の童子に 導かれながら地獄を巡り因果応報を目の当たりにする︒黄 桂 香 の 魂 が 地 獄 を 巡 り︑ 『 金 剛 経 』 を 念 じ さ せ ら れ て い る 間︑黄桂香が死んだと勘違いした夫の趙令芳は︑妻の体を 火葬してしまった︒閻魔王の命により︑黄桂香は男性とし て生まれ変わり︑富貴を得たという物語である︒ この演目に関連して︑明代の 『 金瓶梅詞話 』 第七十四回 「 宋御史索求八仙鼎 呉月娘聴黄氏巻 」 には︑ 「 黄氏女巻 」 と い う 宝 巻 が 読 み 上 げ ら れ る 場 面 が あ る﹇ 陶 慕 寧 校 注 2000 : 981 ︑ 小 野・ 千 田 訳 1969 : 119 ‒ 124 ﹈︒ 「 黄 氏 女 巻 」 と は︑早くは澤田瑞穂が指摘するように 『 仏説黄氏女看経宝 巻 』『 三世修行黄氏宝巻 』 ︑あるいは単に 『 黄氏宝巻 』 など と よ ば れ る 宝 巻 で あ る﹇ 澤 田 1963 : 142 ‒ 143 ︑ 澤 田 校 注 1972 : 106 ﹈︒ 宝 巻 と は 当 時 中 国 に あ っ た 民 間 宗 教 の 経 典 の ことである︒ 『 金 瓶 梅 詞 話 』 第 七 十 四 回 の 一 節 の 内 容 は︑ 現 存 の 『 三 世修行黄氏宝巻 』 などの 宝
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巻 や大本曲 『 黄氏女対金剛経 』 の 内 容 と 一 致 す る 部 分 が あ る︒ 大 本 曲 の 『 黄 氏 女 対 金 剛 経 』 は︑少なくとも明代には中国で知られていた物語が白 族 の 間 に 伝 わ っ た も の と い え る︒ し か し 『 黄 氏 女 対 金 剛 経 』 の内容は︑中国の知識人によっては眉をひそめるもの であった︒清・道光一〇年︵一八三〇︶に直隷広平府清河 県 の 知 県 に 任 じ ら れ た 黄 育 楩 は 在 任 中︑ 「 邪 教 」 に 関 心 を も ち︑ 『 破 邪 詳 辯 』 を 著 し て︑ 一 つ ひ と つ 宝 巻 の 内 容 を 批 判 し て い る﹇ 澤 田 1972 : 19 ﹈︒ そ の 中 で 黄 育 楩 は 『 仏 説 黄 氏女看経宝巻 』 を挙げて︑地獄巡りの内容が全くのねつ造
写真3 『鍘美案』曲本 部分
写真4 『黄氏女対金剛経』曲本 部分
と し て︑ こ れ を 「 邪 教 」 と 決 め つ け た﹇ 澤 田 1972 : 107 ﹈︒ 本来︑宝巻は民間における 「 勧善 」 を目的としたものであ る︒現代のわれわれの目からみれば黄育楩の指摘が妥当か どうかは疑わしい︒しかし少なくとも中国の知識人たる黄 育楩は︑ 「 黄氏女対金剛経 」 の内容を批判すべきと考えた︒ さらに現存の大本曲の歌詞内容をみていこう︒曲本の歌 詞 中 に は︑ 「 笑 料 」 と 呼 ば れ る 部 分 が あ る︒ 笑 料 は 荒 唐 無 稽な顛倒歌︵あべこべ歌︶や一般民衆の生活についてユー モアと皮肉を込めて表現する︒笑料は直接物語の内容とは かかわらない部分も多いので︑複数の演目の中にも共通の ものがみられる︒まず顛倒歌の一部分をみていくと以下の ようなものがある︒典拠は︑大本曲芸人王祥氏所蔵の 『 鍘 美案 』 である︵写真
3 参照︶ ︒
︿白文﹀ ︿日本語訳﹀ 安母頭罷汝駄怎︒ メス鴨に荷を担がせて︑ A ma ox ded bal ssvt z et z ed 套 迷頭蹈山登︒ ロバは巣を守ります︒ Toul loul mier d ded dap se z def 倒偉筐來汝莊水︒ 目籠を使って水を汲んでも︑ Da ot w eix n vx leid ssvt z ouf xuix 阿點本漏恨︒ 少しも漏れません︒ A t dieif bet hhet hel 直耳呆很罷王馬︒ 針の穴に馬を急いで駆けさせます︒ Z if nioux da op hel bal wap mer x 干保阿菜王通恨︒ 馬を一往復︑駆け通させました︒ Ga ba ot at ceil wap tu hel 嗎好之 𠮵 罷虎猪︒ か や ぶ き 小 屋 の 上 で 豚 を 火 で あ ぶ っ て も ︑ Ma ha ot zi na o bal hux deip 阿怎本燒恨︒ 一本︵の茅︶も焼けません︒ A t z ef bet sv hel
同じく王祥氏所蔵 『 黄氏女対金剛経 』 にも︑庶民の生活 について皮肉やユーモアを込めて以下のように歌詞が記さ れ る︵ 写 真
よる︶ ︒ 2017 : 3 0 4 参 照︑ ま た 訳 文 は 立 石・ 吉 田﹇ ﹈ に
︿白文﹀ ︿日本語訳﹀ 提坑那 艮等伙︒ 女どもときたら til he nal n vx nid det huo 初一十五佛門日︒ 一日・十五日には寺の門をくぐり wer f y i zip m ux w eip meid ni 初一十五去拜佛︒ 一日・十五日には仏を拝みに行き wer f y i zip m ux ng er d ber z w eip 衣褲 𠮵 本洗︒ 服やズボンも洗いやしない yif guaf na o bet seix 上頭堆自阿窩窩︒ 三人で集まり座り込み sal ded z eix zil at w ouf w ouf 四頭端自阿堆堆︒ 四人で座ってひとかたまり xi ded zuax zil at z ei z ei 佛那本拜雙嚇斗︒ 仏も拝まずおしゃべりばかり weip nal bet ber z sua xiaf doud 自變事面非︒ 本末転倒だ zil bieil mieil f ei 確証はないものの清代大本曲の曲本にすでに 「 笑料 」 が 備わっていたとすれば︑大本曲は伝統的な中国知識人の目 に は︑ 大 本 曲 が 荒 唐 無 稽・ 野 卑 な 芸 能 と 映 っ た 可 能 性 が あ
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る ︒これが清代・民国時代の地方志などに本曲に関する 記載がみられない理由の一つだとも考えられる︒自身が大 本曲芸人であった黄永亮は︑中華人民共和国建国以前︑大 本 曲 が 「 高 台 叫 花 」 ︵ 舞 台 に 上 が り 物 乞 い を す る も の ︶ と し て︑ さげすまれてきたとも述べている ﹇黄永亮等 2000 : 41 ﹈︒
人民共和国建国直後の大本曲
一九四九年の中華人民共和国成立以後も大本曲だけでは なく︑一部の演劇・戯曲の演目内容は批判すべきものとさ れ た︒ 中 国 全 体 で の 状 況 で あ る が︑ 『 人 民 日 報 』 一 九 五 〇 年七月二九日第三面の 「 文化部戯曲改進委員会組成 首次 会議確定戯曲節目審定標準 」 によれば︑中華人民共和国成 立直後に中央人民政府文化部が一部の悪影響を及ぼすとみ なした演目の禁止を決定している︒これに関連して 『 中華 人 民 共 和 国 公 報 』 一 九 五 七 年 二 一 期 ︵ 一 九 五 七 年 五 月 一 七 日付︶の 「 文化部関於開放禁戯曲的通知 」 をみると︑やは り一九五〇年から一九五二年まで二六の演目が禁止されて いたことがわかる︒そしてこれらが 「 百家斉放 」 のスロー ガンのもと︑一九五七年に解禁されたということで あ
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る ︒
一 九 五 〇 年 に 禁 止 さ れ て い た 演 目 に は 京 劇 の 「 殺 子 報 」 「 双釘記 」 や︑北方の民間芸能の一つ︑ 「 評劇 」 での 「 黄氏 女游陰 」 ︵ 「 黄氏女対金剛経 」 と同じ︶が含まれていた︒こ れらは大本曲の演目にも存在する﹇大理白族自治州文化局 編 2003 : 35 ﹈︒ 一九五七年五月にこれら演目は︑文化部によって正式に 解禁されることとな っ
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た ︒しかし 『 戯劇報 』 の一九五七年 第一二期の記事のように︑解禁後も 「 黄氏女対金剛経 」 な ど の 演 目 に 対 し て 批 判 的 な 見 方 が 存 在 し て い た﹇ 鄒 幼 □ 1957 ﹈︒ そ の 批 判 の 理 由 と し て︑ 地 獄 に つ い て の 演 出 描 写 が 極 端 に 劣 悪 な 恐 怖 の み で あ る と し︑ 「 社 会 主 義 時 代 に︑ 人民の舞台上でこのような劇が出現すれば︑どうして人々 に大きな苦痛を与えないでいられようか 」 と述べて い
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る ︒ 一旦︑解禁した演目にもかかわらず︑このような批判が出 た 背 景 に は︑ こ の 記 事 が 出 さ れ る 同 月 に 反 右 派 闘 争 が 始 まったこととも関連しているかもしれない︒こうしたなか 白族の 「 黄氏女対金剛経 」 も唯物論的観点から批判的に紹 介 さ れ て い る ﹇ 雲 南 省 民 族 民 間 文 学 大 理 調 査 隊 1960 : 275 ‒ 282 ﹈︒ それでは中国の伝統的演目に対して厳しい目が注がれる 一九五〇年代の大本曲芸人たちはどのように活動したので あ ろ う か︒ こ の 問 題 に つ い て︑ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 ﹇ 2003 : 1 ‒ 8 ﹈ の 記 載 を 中 心 に︑ 建 国 後 の 中 華 人 民 共 和 国 全 体との関連から大本曲の活動の意義を探っていこう︒ まず一九五四年に︑大理県文化館幹部の馬沢斌が大本曲 音 楽 を 基 に し た 演 劇 で あ る 大 本 曲 劇 「 入 社 前 後 」 を 創 作 し︑ 民 間 芸 人 楊 顕 臣 に よ っ て 白 語 に 翻 訳 さ れ る︒ そ の 翌 年︑同演目は 「 施善沢入社 」 に改編され大理の湾橋公社倶 楽 部 で 上 演 さ れ る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 2 ﹈︒ 董 秀団によれば同演目の内容は以下のとおりである︒中華人 民共和国建国初期に農業初級社︵初級合作社︶が設立され た︒しかし農民の施善沢自身が富裕であったため︑入社を 望まなかった︒ところが周辺の援助もあり︑認識を改め合 作社へ加入することになったという﹇董秀団 2011 : 431 ﹈︒ 当時の中国の政治的状況からみると︑一九五二年後半か ら 一 九 五 三 年 の 前 半 に か け て︑ 「 過 渡 期 の 総 路 線 」 が 提 唱 された︒一九五四年まで農村では︑二〇〜三〇戸が農繁期 に共同作業をおこなう程度の 「 生産互助組 」 が組織された だけだった︒その後急速に農業の集団化を進め︑一九五六 年までにはほとんどの農村が 「 初級合作社 」 ないし 「 高級 合 作 社 」 に 組 み 込 ま れ た と い う﹇ 久 保 等 2012 : 152 ﹈︒ 同 演 目の創作には︑このような中国全体の社会状況が影響して いることがわかる︒ 一九五六年には︑大本曲芸人の楊漢が北京の 「 全国音楽 周 」 ︵ 音 楽 祭 ︶ に 出 席 し︑ 彼 が 演 出 し た 「 大 理 好 風 光 」 が 上演された︒ 『 人民日報 』 によれば︑ 「 第一届全国音楽周 」
が 八 月 一 日 に 北 京 で 開 催 さ れ︑ そ の 出 演 者 の 中 に 「 民 家 族 」 すなわち白族をはじめとした中国各民族の音楽界関係 者四千人が出席すると報道される︒さらに推薦されている 演目内容として 「 歴史革命闘争を反映したもの︑社会主義 建設中の重要事件をほめたたえたもの︑軽快な内容で人民 の新生活を反映したもの 」 などがあげら れ
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る ︒この音楽祭 は︑ 「 百 花 斉 放 」 の ス ロ ー ガ ン の も と 開 催 さ れ た と も 報 道 さ れ
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る ︒このように同音楽祭には中国の国家建設をたたえ る目的があり︑大本曲芸人たちもこれに組み込まれたか︑ あ る い は 積 極 的 に 関 わ っ て い く こ と に な る︒ ま た 同 年 に は︑大理において︑大理県周城文芸宣伝隊が成立した︒頻 繁 に 大 本 曲・ 「 吹 吹
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腔 」 が 上 演 さ れ て い る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 3 ﹈︒ 白 族 の 大 本 曲 や 吹 吹 腔 が 政 治 宣 伝 に 利用されていったことがわかる︒その後も︑大本曲芸人た ちをはじめとする︑大理白族の芸人たちと中央との関係が しばしば確認できる︒
一九五八年︑白族女性杜徳平が全国曲芸会にて︑大本曲 「 紅 塔 」 を 上 演︒ 周 恩 来 主 席 の 接 見 を 受 け る︒ 本 来︑ 大 本 曲の上演は男性に限られていた︒一九五四年に白族女性の 黒必良が舞台にあがって以来︑この慣習が破られて現在に 至 っ て い る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 2 ‒ 3 ﹈︒ 『 人 民 日報 』 の記事によれば︑一九五八年一月八日に北京におい て 「 全国曲芸会 」 が開催され︑漢・モンゴル・タイ・白・ 満などの民族が出席し︑二〇〇以上の演目が上演された︒ こ の 会 議 は 公 開 さ れ︑ 北 京 の 街 頭 で も 上 演 し︑ 「 八 一 建 軍 節 」 を祝うための宣伝活動に参加 し
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た ︒八月四日には︑周 恩来の接見を受けて い
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る ︒ 一九六〇年︑大本曲芸人の楊紹仁が第三回中華全国文学 芸術工作者代表大会に出席︑毛沢東主席ら党と国家指導者 の接見をこうむる ﹇大理白族自治州文化局編 2003 : 3 ﹈︒ 『 人 民日報 』 には楊紹仁の名はみられないものの︑一九六〇年 七月三〇日に︑中国文学芸術工作者代表大会が各部会の代 表大会・理事会に展開していったと報道される︒その中で 中 国 曲 芸 工 作 者 協 会 副 会 長 の 陶 純 は︑ 「 曲 芸 」 の 工 作 者 ︵職能者︶の任務について以下のように述べている︒
急ぎ思想改造を行い︑新たな曲芸の舞台を拡大・育成 する︒曲芸創作を発展・向上させ︑大いに群衆曲芸創作 運動を行う︒大胆に曲芸音楽および表現芸術を革新させ る︒継続的に伝統的曲芸作品を発掘・整理し︑農村の人 民公社と地域に対して曲芸工作を展開さ せ
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る ︒
中国の伝統的曲芸は社会主義思想をもとに︑新たに創作さ れ︑これを農村において展開するよう求められた︒楊紹仁 が同大会に出席したのも︑先にみた大理地方社会での大本 曲の役割を期待されたためとおもわれる︒また一九六一年
一一月二〇日に︑中共雲南省委宣伝部が発した 「 関於建立 傣・ 白・ 僮・ 彝 四 箇 民 族 劇 団 的 通 知 」 ︵ 中 国 戯 曲 志 編 輯 委 員会等﹇ 1994 : 708 ‒ 709 ﹈所収︶によれば︑大理白族自治州 白劇団︵吹吹腔・大本曲・白族民間歌舞を含む︶が設立さ れた︒ただし︑これに先立つ一九五九年二月に正式に命名 さ れ て い た と も い う﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 3 ﹈︒ そして前述の楊漢・楊紹仁が教員を担当した︒この大理州 白劇団は︑一九六三年前後に多くの現代劇を大本曲や吹吹 腔 に 移 植 し て い る﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 3 ﹈︒ こ のように大理社会でも大本曲等の現地芸能を通じて︑社会 主義思想が宣伝されていったとみられる︒ これと前後して雲南省文化局が一九六二年四月八日に発 した 「 関於加強戯曲・曲芸伝統劇目・曲目的挖掘工作的通 知 」 によれば大本曲を含む戯曲・曲芸の伝統的な演目を保 護するための通達もなされている﹇中国戯曲志編輯委員会 等 1994 : 711 ‒ 712 ﹈︒
一九六四年一〇月︑李明璋・何芳秀の歌唱︑黄永亮の伴 奏で大本曲 「 試験田中一枝花 」 が全国少数民族業余文芸観 摩大会で披露される︒毛沢東ら党と国家指導者の接見をこ う む っ た と い う﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 4 ﹈︒ 大 本 曲 「 試 験 田 中 一 枝 花 」 が 北 京 で 発 表 さ れ た こ と に つ い て は︑ 『 人 民 日 報 』 一 九 六 四 年 一 二 月 二 八 日 第 六 面 に て 写 真 入りで報道されている︒さらに毛沢東による接見について も︑ 『 人 民 日 報 』 同 日 付 第 一 面 に 報 道 さ れ て い る︒ そ れ に よれば毛沢東は︑全国少数民族業余文芸観摩大会出席の五 〇余りの 「 少数民族業余文芸戦士 」 と 「 中央民族学院新疆 幹部訓練班学員 」 に接見したことが報道される︒その後︑ 一九六五年には大理において大理白族自治州大本曲協会を 設 立 す る も の の﹇ 大 理 白 族 自 治 州 文 化 局 編 2003 : 4 ﹈︑ 一 九 六六年に文化大革命が起こる︒雲南省でも劇団が次々に整 理・解散させられていった︒前述のように雲南省では︑一 九 六 一 年 一 一 月 二 〇 日 に は︑ 傣 ︵ タ イ 族 ︶︑ 白 ︵ ペ ー 族 ︶︑ 僮 ︵チワン族︶ ︑彝 ︵イ族︶の四つの民族劇団が設立されて いた︒ところが一九七〇年六月二〇日付の雲南革命委員会 「 関 於 雲 南 専 業 劇 団 人 員 状 況 的 報 告 」 に︑ 雲 南 省 の 地 方 で の専業劇団の状況が記されている﹇中国戯曲志編輯委員会 等 1994 : 743 ‒ 744 ﹈︒ こ れ に よ れ ば 雲 南 省 に 三 つ あ っ た 民 族 劇団が文革開始後に二つに減らされ︑この報告書が出され た段階で全くなくなった︒そのうち白劇団は一九七〇年に 消滅しており︑残された少数の人たちは大理州文芸宣伝隊 に参加したという ﹇中国戯曲志編輯委員会等 1994 : 437 ﹈︒ この後︑大本曲に関わる活動が明らかになるのは文革終 結以降のこととなる︒文革時期に大本曲の活動が押さえつ けられていたとおもわれる︒たとえば芸人たちが芸能の禁 止をこうむったり拘束されたことは前述の楊漢や劉沛の伝 記 か ら も か い ま み え る﹇ 李 晴 海 2000 : 8 ︑ 楊 政 業 主 編 2000 :
4 ‒ 5 ﹈︒文革中の大本曲と芸人たちの動向の詳細は︑現状で 史料上確認できないため︑今後の課題となろう︒
大本曲の現状
文革終了後︑大本曲の活動も徐々に表にでてくるように なっていく︒また前述したように大本曲に関する書籍も多 くなっていった︒さらに近年になりメディアの発達によっ て︑大本曲のⅤCD︵ビデオCD︶なども現地でも販売さ れるようになった︒大理の街や村を歩いていると︑まれに これらが鑑賞されている場面にも出くわす︒現在でもそれ なりの需要があるとおもわれる︒ し か し 大 本 曲 の 将 来 は︑ そ れ ほ ど 楽 観 的 な も の で は な い︒董秀団が二〇〇四年の段階で把握している大本曲の歌 い手は︑わずかに二〇名である︒しかもそのうち四〇代の 芸 人 は わ ず か に 一 人 だ け で あ る﹇ 董 秀 団 2004 : 239 ‒ 242 ﹈︒ 董秀団がこの段階で把握していない芸人や︑これ以降に芸 人になった者がいたとしても︑現状でもやはりその人数は 二〇人を超えないと考えられる︒文革終了後︑大理地方で は大本曲をはじめとする伝統芸能の保護︑芸人の養成が試 みられている︒しかし大本曲芸人が増加しているとは考え られない︒そうしたなか︑現在も芸人として活躍している 人たちは︑どのような活動をしているのであろうか︒ 大理古城内の清代建築の一つである蒋公祠は︑現在では 一般に開放され白族文化を紹介する施設であり︑中国国内 の観光客も多く訪れる︒蒋公祠では大本曲の上演もおこな われている︒私は二〇一五年三月一五日にここを訪れて︑ 現地でも有名な大本曲芸人である趙丕鼎氏による大本曲の 上演を拝見・拝聴できた︒趙丕鼎氏は 「 国家級民族文化伝 承人 」 にも認定されている︒しかしここを訪れる多くの観 光 客 は ツ ア ー 中 で 時 間 も 限 ら れ て い る こ と も あ る だ ろ う が︑大本曲の上演を好奇の目で一瞥したり︑写真を撮った りするだけで︑内容自体に関心を示す様子は︑ほぼなかっ た︒上演は休憩をはさんで一時間半ほどおこなわれた︒趙 氏によると客がいなければ途中で切り上げることもあると い う︒ 趙 氏 の 一 家 は 息 子・ 娘 も 大 本 曲 の 歌 い 手 で︑ こ の 日︑趙氏の伴奏を務めていたのも彼の孫であった︒また趙 氏一家は同じく大理古城内にある電影博物館でも毎週金曜 日に大本曲の上演をおこなっている︒ このように趙氏家では︑一家を挙げて大本曲を盛り立て ようとしているものの︑大本曲芸人の中で︑このような取 り組みはむしろまれである︒もともと大本曲芸人のほとん どは︑芸能活動だけで生計を立てているわけではない︒大 本曲芸人の数は減少しており︑後述するように︑伝統的な 白文の曲本を一冊歌い切れる芸人はかなり少ない︒蒋公祠 の例でもわかるように︑大理地方では大本曲を観光資源と
写真5 大本曲 VCD
写真6 蒋公祠での大本曲上演 (2015年3月筆者撮影)
写真7 大本曲上演の掲示 (2015年3月筆者撮影)
写真8 反邪教を宣伝する大本曲の上演
写真9 麻薬・賭博を戒める本子曲VCD して利用しようとしているものの︑実際にはうまくいって いないようにおもわれる︒しかも趙氏のように︑観光施設 で伝統的な大本曲を披露すること自体まれなことである︒ 芸人が大理盆地にあるいくつかの観光施設の中で︑観光客 に対して大本曲を披露することがある︒しかしこうした場 合は︑大本曲の曲調を用いて漢語で数分間歌うという場合 が ほ と ん ど で あ る︒ ま た 春 節 な ど の 「 節 日 」 ︵ 祝 日 ︶ の 際 に︑呼ばれて伝統的な大本曲を上演する場合もある︒ただ 政府関係のイベントなどに招かれた場合︑白 語を用いた伝統的な曲本一冊全部を歌うこと はほとんどない︒このため比較的年齢の若い 大本曲芸人の中には︑白文に通じていないも のも存在する︒ また大本曲を宗教活動の中に取り入れる動 き も あ る︒ 大 理 地 方 の 習 慣 で は︑ 人 が 亡 く なった際︑現地では祭文を読み上げるが︑祭 文の作成・読み上げを大本曲芸人に依頼する ことがある︒祭文を大本曲の形式で歌い上げ る 方 法 は︑ そ れ ほ ど 古 い も の で は な い と い う︒黄永亮氏の教示によれば︑大体三〇年ほ ど前から始まったという︒大本曲芸人たちは 自らの技術・知識を葬礼の中で生かそうとし ていると考えられる﹇立石 2014 : 79 ‒ 80 ﹈︒ さらに現在の大本曲は政府の宣伝活動などにも利用され ることがある︒これは前述のように︑すでに五〇年代から おこなわれていることである︒たとえば政府が 「 邪教 」 や 「 迷 信 」 と み な す 民 間 宗 教 を 信 じ な い よ う に 大 本 曲 を 通 じ て 宣 伝 し た り す る 場 合 が あ
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