◎論説小特集◎東亜同文書院百年
東亜同文書院中国調査の評価と分析凋天喩・劉柏林
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実証科学の方法によるアジア︑アフリカ︑ラテンアメリ
カの国と地域についての詳細な社会調査は︑西洋諸国が植
民地主義を推進し︑世界統一市場を建設するために取り組
んだ長期的な活動である︒西洋諸国による中国についての
社会調査は︑明清時代のイエズズ会士にまでさかのぼるこ
とができるが︑大規模に行なわれるようになったのは︑一
九世紀の中葉以降である︒すでに半植民地へと転落してい
た中国の地理︑歴史︑経済︑政治︑軍事︑社会組織︑風俗
習慣︑宗教信仰︑文物古跡がすべて欧米列強の調査範囲と
なり︑宣教師︑学者︑外交官︑商人︑軍人等がこの仕事に 加わった︒西洋人のアジア調査は︑政治面からいえば植民
地政策の産物であり︑学術面からいえば近代実証主義の調
査方法のアジア世界における展開であった︒これは︑われ
われがこのような活動を評価︑分析する際にとらえるべき
二つの観点であり︑そのうち一方の側面によって︑もう一
方の側面を排除したり︑否定したりする必要はない︒
日本は後発の資本主義国であり︑中国に深い歴史的︑文
化的な淵源を有する近隣でもある︒両国は﹁一衣帯水﹂︑コ
葦可航﹂(小舟で渡ることができる意)の地にあって︑近代
初期にはともに西洋の植民侵略に脅かされた︒このため︑
日本は幕末以来︑中国の阿片戦争︑太平天国といった諸事
態に大いに関心をよせ︑一八六〇年代初中期には︑四度も
上海に使節を派遣し︑日本による近代中国調査をはじめた︒
東亜同文書院中国調査 の評価 と分析
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これについては拙著﹃﹁千歳丸﹂上海行日本人一八六二
年的中国観察﹄(商務印書館︑二〇〇一年)に詳述した︒明
治維新以降︑日本の国勢はにわかに高まり︑﹁中国経略﹂﹁海
外雄飛﹂の戦略をうち立て︑次第に中国を侵略占領する﹁大
陸政策﹂を企てるようになり︑これを実行に移した︒こう
した情勢のもとで︑日本の中国にかんする調査研究の程度
と規模は︑欧米諸国にくらべ︑遅れたものが先のものを追
い越す勢いがあった︒
近代日本の中国調査活動で大量の文献資料を残し︑系統
的に行なわれたものには以下のようないくつかの種類があ
る︒
第一は︑学者︑官吏︑商人︑軍人︑浪人の個人訪問記で
あり︑一九世紀の中後期から二〇世紀の初中期における高
杉晋作︑日比野輝寛︑名倉予何人︑竹添光鴻︑岡千初︑安
東不二雄︑宇野哲人︑内藤湖南等による中国旅行日記︑随
筆などがある︒ゆまに書房から平成九年(一九九七年)に
出版された小島晋治監修﹃幕末明治中国見聞録集成﹄二〇
巻︑平成=年(一九九九年)に出版された小島晋治監修﹃大正中国見聞録集成﹄一〇巻はこれら紀行文の精選であ
り︑このなかから近代日本人による中国旅行見聞の範囲と
深さを知ることができる︒
第二は︑日本の中国駐在領事部門が中国の商業事情︑政
治︑社会︑文化について行なった地域ごとの調査であり︑ 外務省は明治一四年から︑領事報告を﹃通商彙編﹄年刊と
して編纂し︑以後半年ごとに出版した︒農商務省は明治一
八年から二一年に﹃農商工公報﹄(月刊)を発行し︑各号に﹁領事報告﹂を載せた︒明治一九年以降︑外務省に属する
﹃通商彙編﹄は﹃通商報告﹄と名称を改め︑明治二二年末に
は休刊となり︑明治二七年に﹃通商彙纂﹄として復刊した︒
漢口総領事の水野幸吉著﹃漢口﹄︑内田佐和吉著﹃武漢巷
史﹄といった類の書籍は︑領事部門による調査の副産物で
ある︒筆者が愛知大学図書館で見た﹃特調班月報﹄(一九四
一年)は︑上海日本総領事館特別調査班の調査報告集で︑
中国侵略戦争と密接に関係している︒
第三は︑南満州鉄道株式会社調査部が東北︑内蒙古︑華
北︑華東について行なった﹁慣行調査﹂であり︑すでに出
版されている大部の著作﹃満鉄調査資料﹄がある︒
第四は︑日本軍の北平情報機関がスクラップ形式で作成
した中国調査⊥木次情報資料(広西師範大学出版社から
一九九四年にこの資料の中国語部分が出版されている)で
ある︒
第五は︑日本の各実業団体による中国の経済︑商業事情
の調査である︒筆者は日本興業銀行の一九四二年︑一九四
三年︑一九四四年の﹃調査月報﹄と南亜海運株式会社の﹃調
査内報﹄(一六巻)を閲覧したことがあるが︑中国の経済貿
易および交通分野にかんする調査が非常に詳しい︒
以上数種類のうち︑満鉄調査が最もよく知られ︑その資
料は内外の学者に広く利用されている︒米国籍の華僑学者
黄宗智による華北の小農経済についての研究や長江デルタ
の小農家庭についての研究(中華書局からすでに二冊の中
国語訳が出版されている)は︑主に満鉄の調査資料に基づ
くものである︒米国の社会学者杜賛奇(Prasenjit])ロ碧9)の
著書﹃文化︑権力与国家‑一九〇〇ー一九四二年的華北
農村﹄(江蘇人民出版社から一九九四年に王福明訳で出版さ
れている)は︑華北地区の村の構造を研究したもので︑や
はり主要な資料は満鉄の調査によっている︒しかしながら︑
調査活動の持続期間の長さ︑調査地域の分布の広さからい
えば︑第一位にランクされるのは東亜同文書院の中国旅行
調査である︒
東亜同文書院のルーツは︑日本を盟主として西洋の勢力
に対抗しようとした興亜論者荒尾精(一八五八‑一八九七)
が一八八六年に創設した漢口楽善堂(漢口漢水の岸辺にあっ
た)にさかのぼることができる︒漢口楽善堂は︑明治期の﹁中国経略﹂の伝奇的人物である岸田吟香(一八三三ー一九
〇五)が創設した上海楽善堂の支店であり︑表向きには目
薬(精錆水)︑漢方薬材料︑書籍︑雑貨を営業販売し︑一方 で経費を提供して︑﹁中国調査の試行調査﹂を行なってお
り︑その範囲は西北︑西南地区に重点をおいた︒たとえば
漢口楽善堂の堂員山崎並{三郎は雲南︑貴州に深く分け入っ
て調査を行ない︑浦敬一は一八八八年に西北に調査に赴き︑
一八九九年には蘭州から伊黎に向かう途中で消息を絶った︒
中西正樹は直隷︑河南︑陳西︑四川︑雲南︑貴州を旅行し
た︒石川伍一の四川にかんする調査報告はたいへん詳しい︒
松田満雄は四川の山中に分け入って調査を行ない︑足跡は
ム チベット辺境の地にまで及んでいる︒漢口楽善堂の﹃外員
の探査すべき心得﹄によれば︑調査した人物には君子︑豪
傑︑長者︑侠客︑富者が含まれ︑その姓名︑住所︑年齢︑
行跡が詳細に記載されている︒調査内容には各地の山川土
地の形状︑人口の粗密︑風俗の善悪︑貧富︑被服糧秣など
ムヨ が含まれる︒荒尾精は一八八九年に帰国し︑参謀本部に二
万六〇〇〇字の﹃復命書﹄を提出し︑中国の朝廷︑内政︑
人物︑兵事︑欧州四大強国(イギリス︑フランス︑ドイツ︑
ハ ロシア)の対中国政策について詳細な分析を行なった︒
一八九〇年︑荒尾精はまた上海で日清貿易研究所を創設
し︑場所を上海のイギリス租界大馬路泥城橋のたもと(翌
年競馬場前に移転)に置いた︒同年末︑荒尾精の陸軍士官
学校時代の学友根津一(一八六〇1一九二七)が後を引き
継いだ︒この研究所は一五〇名の日本人学生を募集し︑入
学後は中国語(北京語)を学び︑中国の商業習慣および社
東亜同文書院 中国調査の評価 と分析
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会状況を調べることを任務としていた︒学生の修業年限は
四年︑初めの三年間は学科で︑最後の一年は実地調査と実
務であった︒こうした方法は後の東亜同文書院の先駆けと
なった︒一八九二年に根津一は漢口楽善堂と上海日清貿易
研究所の中国実地調査資料に基づき︑﹃清国通商総覧日
清貿易必携﹄を編纂した︒全部で二編三冊︑二三〇〇頁余
りからなり︑地理︑交通︑運輸︑金融︑産業︑習慣などの
項目に分かれ︑当時の日本人が対中事業に携わる際の百科
事典となった︒また現代人が清末の社会(とくに経済生活)
を研究する上で貴重な文献でもある︒運営資金が底を突い
たため︑日清貿易研究所は一八九三年八月に活動を停止し
たが︑所属の日清商品陳列所は存続した︒
一八九四年に日中戦争が勃発し︑日清貿易陳列所が閉鎖
された︒一八九七年には荒尾精が台湾でペストにかかり逝
去した︒翌年︑﹁東亜同文会﹂が東京で設立され︑会長はア
ジア主義者で公爵︑日本貴族院議長の近衛篤麿(号は霞山︑
一八六三‑一九〇四)が就任した︒近衛は﹃同人種同盟︑
附支那問題研究の必要﹄という文章を発表し︑﹁東洋の前途
は終に人種競争の舞台たるを免かれじ︒⁝⁝最後の運命は
黄白両人種の競争にして︑此競争の下には支那人も日本人
バ も︑共に白人種の仇敵として認めらるる﹂との考えを示し
た︒日本軍の参謀総長川上操六は一八九七年に神尾先臣大
佐を中国に派遣し︑両江(江南と江西)総督劉坤一︑湖広 (湖北と湖南)総督張之洞を訪問させ︑二人に近衛のこうし
た思想を受け入れるよう求め︑張︑劉は従来の﹁連ロ拒日﹂
から日本と連合し西洋に対抗する方針へと転じた︒
近衛篤麿は一八九九年一〇月に中国を訪問し︑南京で両
江総督劉坤一に面会し︑東亜同文会の中国での学校設立に
ついて協議し︑劉の同意を得た︒この年の一二月︑義和団
事件勃発の前夜︑劉坤一は東亜同文会の代表たちに謝意を
フ 表し︑彼らの教育に対する努力は﹁宗教と無関係である﹂
と述べるとともに︑とくに﹁その立教要綱は四書五経を宗
とし︑これを西洋の諸科学で補うもので︑まさに体と用が
そなわっている﹂と賞賛した︒
一九〇〇年五月には︑南京同文書院が創設され︑院長に
は根津一が就任した︒義和団事件のため︑書院は一九〇一
年四月上海に移り︑﹁東亜同文書院﹂(住所は上海高昌廟桂
塁里)と名称を改め︑初代院長には根津一が就いた︒学生
は日本の各府県から集められ︑各府県二名の学生は公費待
遇を受けることができた︒修業年限は三年で︑主に中国語
および中国の歴史︑政治︑経済などを教授した︒東亜同文
書院は日本の知識青年から﹁幻の名門校﹂とされ︑あこが
れの対象であった︒一九一七年に校舎は上海徐家匪虹橋路
に移った︒一九三七年一一月には︑虹橋路校舎が焼失し︑
一九三八年に校舎は徐家匿海格路の元交通大学の校舎に
移った︒一九三九年︑東亜同文書院は専門学校から大学に