第5章「巻き矢印を使った反応の表記」
1. 有機反応を「電子の動き」を通して理解する
有機化学の反応を理解するには、反応の前後で電子がどう動くかに注目することが重 要である。その理由は、有機化学の反応の多くが「共有結合の切断と生成」を伴ってお り、この時に必ず「共有されている電子」の配置が変わるためである。「どの電子がど のように動くか」を調べることで、有機化学の反応を合理的に理解することができる。
多くの有機化学反応では、電子は「対を作ったまま」動く。これは、電子が対を作っ ている状態の方が、分子が安定になる場合が多いためである。一部の反応で、電子対が 別れて「不対電子を持つ中間体」を生成することがあるが、このような反応はどちらか というと例外的である(後の章で学ぶ)。ここでは、有機化学反応の多くを占める「対 を作ったまま電子が動く」反応について、考察していく。
分子中の電子の中で、特に動きやすいのは、「エネルギーの高い」電子である。これ まで学んだ中では、ローンペア電子と、二重結合・三重結合のπ電子がこれに該当する。
エネルギーの高い電子は、可能ならばエネルギーの低い状態に移行しようとする傾向を 持つ。このため、反応に関与しやすい。
エネルギーの高い電子がエネルギーの低い状態に移行しようとするとき、その電子の
「行き先」がなくてはならない。行き先となるのは、「電子が不足している部分」であ る。一般的には、「正に分極した原子」が行き先となることが多いが、「空軌道を持つ原 子」が行き先になることもある(後で述べる)。
「エネルギーの高い電子対」と「電子不足の原子」の間で起きる反応のことを、極性 反応 polar reaction と呼ぶ。有機化学反応の大部分は極性反応である。
極性反応において、エネルギーの高い電子対を持つ物質を求核剤 nucleophile、電子 N
H
H H
C C H H H
H
H O δ+ H
δ–
H Br δ+ δ–
N H
H H H O
δ+ H δ–
+ C C
H H H
H
+ δ+H Brδ–
不足の原子を持つ物質を求電子剤 electrophile と呼ぶ。「〜phile」という英語は、「〜を 好む」という意味である。求核剤は「原子核 nucleusを好む」という意味で nucleophile と呼び、求電子剤は「電子 electron を好む」という意味で electrophile と呼ぶ。
2. 電子の動きを巻き矢印で記述する
NH
3と H
2O の反応について、電子の動きに注目して考察する。この反応は、酸塩基
反応であり、下のようなものである。電子の動きに注目するため、すべての価電子を明 示してある(形式電荷も忘れずに正しくつけること)。
この反応の第一のポイントは、「N のローンペアが、H2
O
のH
原子に向かって移動 する」ことである(注1)。移動した電子は NとH
の間で共有され、「N–H」結合が新 しく作られる。この反応では、もう一つ電子対の動きがある。それは、
H–O
結合の電子である。H
は1本しか結合を作れないため、H
がN
と新しい結合を作ると同時に、H–O
の結合電 子はO
に向かって押し出され、O
のローンペアになる。有機化学では、「どの電子対がどこに動いたか」を巻き矢印(曲がった矢印 curved
arrow
)を用いて表す。上の反応では、電子対の動きが2つあるので、それを下のように示す。
N H
H H H O
δ+ H δ–
+ C C
H H H
H
+ δ+H Brδ–
N H
H H H O
H
+ N
H
H H
H
O H +
N H
H H H O
H
+ δ+ N
H
H H
H
O H +
N H
H H H O
H
+ N
H
H H
H
O H +
巻き矢印は「電子対の移動」を表すものであるから、出発点は必ず「電子対」、つま りローンペアまたは1本の共有結合となる。特に、結合電子対が移動するときの巻き矢 印の書き方に注意すること。結合の真ん中から矢印が始まるように、注意深く書く必要 がある。
注1:上の反応式を見ると、「N–H結合もHが正に分極しているから、OのローンペアがNH3
のH原子に向かって移動してもいいのでは?」と思えてくる。また、Nのローンペアが別の NH3
分子のHに向かって移動する、あるいはOのローンペアが別の H2O分子の H に向かって移動 してもいいのでは、とも思える。実は、これらの反応はすべて起こりうる。特に、「Oのローン ペアが別のH2O分子のHに向かって移動する」反応は、水の自己解離である。すべてが起こり うる中で、「最も主要な反応」となるのが上に示した反応である。なぜこれが主要な反応である とわかるのか? それは、「Nのローンペアの方がOのローンペアよりもエネルギーが高い」こ と、および「O–H結合の方がN–H結合よりも分極が大きい」ことによる。これらはどちらも、
N と O の電気陰性度の違いによって説明できる。「アンモニアを水に溶かしたら NH4+と HO– ができる」というのは自明な反応だが、その背景にこれだけの理由があることを知れば、化学を より深く理解できるようになる。
巻き矢印の先の書き方にも注意する。下の図の一番左が正しい(印刷では、矢印の先 が塗られているように見えるが、手書きの際に塗る必要はない)。巻き矢印に限らず、
有機化学では矢印の形に意味を持たせることがよくあるので、自分の勝手な好みで矢印 を選ぶのではなく、正しい書き方を身につけること。
○ × × ×
3. 巻き矢印を正しく書く方法
巻き矢印を正しく書くことは、有機化学の理解を深めるのに非常に役に立つ。本節で は、反応式が与えられているときに、巻き矢印を正しくつける方法について説明する。
例として、下の反応を取り上げる。
最初に、すべての価電子を明示したケクレ式を正しく書く。下のようになる。
N H
H H H O
H
+ N
H
H H
H
O H +
H O
H
CH3Br + –OH CH3OH + Br–
次に、反応式の両辺を見比べて、「なくなる結合」「なくなるローンペア」「新しくで きる結合」「新しくできるローンペア」にすべて印をつける。この反応では、なくなる のは左辺の「C–Br 結合」と、「O の上のローンペア1組」である。新しくできるのは
「C–O」結合と、「Brの上のローンペア1組」である。このほかの電子対は、どれも反 応前後で変化しない。
続いて、それぞれの「なくなる結合・ローンペア」がどの「新しい結合・ローンペア」
に対応しているかを判別する。ここで、電子の数は両辺で保存されているから、「なく なる結合・ローンペア」の数と、「新しい結合・ローンペア」の数は、常に等しい。し たがって、必ず一対一の対応をつけることができる。
対応をつけるときには、どの電子対についても「一方の電子は反応前後で同じ原子に 所属する」ようにする。上の反応について、「正しい」対応付けと「正しくない」対応 付けを下の表に示す。正しくない対応付けだと、Oから
Br
に移動したローンペアにつ いては、電子が2つとも「所属を変えている」ことになってしまう。電子対の対応 同じ原子
正しい 対応付け
C–Br
結合 → BrのローンペアBr O
のローンペア → C–O結合O
正しくない対応付け
C–Br
結合 → C–O結合C O
のローンペア→Br
のローンペア なし(誤り)すべての電子対の対応が正しくついたら、その電子対の移動を巻き矢印で表現する。
電子対の移動の仕方によって、巻き矢印の書き方は決まっている。大事なのは、巻き矢 印の「出発点」と「終着点」である。すべての移動の仕方について、巻き矢印の「出発 点」と「終着点」を次に示す。
① 結合電子がローンペアになる場合:出発点=結合線の真ん中、終着点=新しいロ ーンペアを持つ原子。
② ローンペアが新しい単結合の電子になる場合:出発点=ローンペア、終着点=新 しく結合する原子。
③ ローンペアが多重結合の電子になる場合:出発点=ローンペア、終着点=新しく C
H H
H
Br + O H C
H H
H
O H + Br
C H H
H
Br + O H C
H H
H
O H + Br
多重結合になる結合の真ん中。
④ 結合電子が新しい単結合の電子になる場合:出発点=結合線の真ん中、終着点=
新しく結合する原子。
⑤ 結合電子が多重結合の電子になる場合:出発点=結合線の真ん中、終着点=新し く多重結合になる結合の真ん中。
先ほどの反応の場合は、「C–Br 結合→Br のローンペア」は①のケース、「O のロー ンペア→C–O結合」は②のケースに相当する。実際の巻き矢印は、次のようになる。
③、④、⑤のケースの例を下に挙げておく。これらについて、ケクレ式から巻き矢印 を書いてみて、確かに下のようになることを自分で確かめること。
4. 巻き矢印から反応を組み立てる
今度は、巻き矢印が書かれているときに、その反応の生成物を導き出す手順について 説明する。この手順は、未知の反応の生成物を推測する目的で使うことができるため、
有機化学を研究するための有力な手段である。
正しく書かれた巻き矢印は、前節の①〜⑤のどれかのケースに分類できるはずである。
巻き矢印の出発点・終着点が「ローンペア」か「結合の真ん中」かによって、どのケー スになるかをまとめておく。
C–Br
Br O
C C
H H
H
Br
+
O H CH H
H
O H + Br
H C O
Cl H
C O
H H + Cl
C C H H
H H
+ H Br C C
H H
H H H
+ Br
C O H H
H
C O H H
+ H+
出発点 終着点
ケ ー
ス どんな反応か 形式電荷
ローンペア
(原子 A
上)原子
(X)
②A
上のローンペアが一つ減少結合
A–X
が生成A は +1 X
は–1
結合
(A–X)
③A
上のローンペアが一つ減少結合
A–X
の多重度が一つ増加A は +1 X は –1
結合
(A–B)
原子 (A) ① 結合 A–B が切断 (*1)
A 上のローンペアが一つ増加
B
は +1A は –1
原子(X)
④ 結合 A–Bが切断 (*1)結合
A–X
またはB–X
が生成B
またはA
は +1 (*2)X
は–1
結合 (A–X) ⑤ 結合 A–Bが切断 (*1)
結合 A–X の多重度が一つ増加
B
は +1X
は –1 (*1) A–B が多重結合の場合は、多重度が一つ減少(*2) 結合 A–X が生成した場合は Bが +1, B–X が生成した場合は A が +1
前節に挙げたケース①〜⑤の反応例を用いて、生成物を導き出せることを自分で確認 すること。
上の表には、形式電荷の変化についても記した。極性反応に伴う形式電荷の変化は、
下のようにまとめることができる。
・
A
上のローンペアがA–X
結合になった場合、A
の形式電荷は1増え、X
の形式 電荷は1減る。(理由:A
は、自分が持っていた2個の価電子のうち1個をX
と 共有する。A
の価電子は1減り、X
の価電子は1増える。)・
A–X
結合がA
上のローンペアになった場合、A
の形式電荷は1減り、X
の形式 電荷は1増える。(理由:A
は、X
と共有していた価電子1個を自分のものにす る。A
の価電子は1増え、X
の価電子は1減る。)・
A–B
結合がA–X
結合になった場合、B
の形式電荷は1増え、X
の形式電荷は1 減る。(理由:A
は、B
と共有していた価電子1個をX
との共有に切り替える。B
の価電子は1減り、X
の価電子は1増える。)5. ルイス酸とルイス塩基
求電子剤の特別な場合として、ある原子上に空軌道を持つ分子がある。空軌道には2 個の電子が入れるので、ローンペアを持つ原子と空軌道を持つ原子の間で2つの電子を 共有して、新しい結合を作ることができる。この結合は共有結合の一種であるが、特に 配位結合 coordination bond と呼ぶことがある。
このような反応を、一種の「酸・塩基」反応と見なす考え方がある。これをルイス Lewis の酸・塩基の定義と呼び、「酸とは電子対を受け取って共有結合を作るもの、塩基とは 電子対を与えて共有結合を作るもの」と表される。
ブレンステッドの酸・塩基は、すべてルイスの酸・塩基でもある。H+
は電子対を受
け取って共有結合を作ることができるし、すべての(ブレンステッド)塩基は、H+ と 結合するために電子対を使う。つまり、ブレンステッドの酸・塩基は、ルイスの酸・塩 基の要件を満たしている。ブレンステッド酸でない化合物でも、ルイスの意味での酸として働くことがある。三 フッ化ホウ素 BF3、ボラン BH3
(注2)、塩化アルミニウム AlCl
3、臭化鉄(III) FeBr3などである(注3)。
注2:ボランの B–H結合は、Hが負に分極している。このため、H+を放出するのは困難であり、
ブレンステッド酸としての酸性度は非常に弱い。
注3:後の2つには「水和物」と「無水物」があるが、ルイスの意味での酸として働くのは無水 物のみである。
有機化学では、「H+
を放出しないがルイスの意味では酸であるもの」を特にルイス酸
Lewis acid と呼ぶ。本来の意味からすれば、「ルイス酸」は「ブレンステッド酸」を含
む概念だが、有機化学では習慣的に「ブレンステッド酸でないルイス酸」のみを「ルイ ス酸」と呼ぶ。また、ルイスの意味での塩基を「ルイス塩基」と呼ぶが、これは実質的 には「ブレンステッド塩基」と同じ意味である。
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【教科書の問題(第2章)】
45, 49, 51
B F
F F
+ CH3 O
CH3 B
F F
F O
CH3 CH3