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「長崎さるく」にみる観光資源の再発見

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(1)

「長崎さるく」にみる観光資源の再発見

囲 光

1.はじめに

近年、地域振興における観光のあり方について、従来とは異なる意識の高まりがみられるよう になった。単に観光施設を巡るだけの観光の時代は終わり、観光客だけでなく、観光客を受け入 れる地域住民の関与の重要性もが主張されるようになったのだ。

一般的に、観光を主導してきた行政は、主として経済的な「振興」にばかり目を向けてきたた め、観光客集めを中心に考え、受け入れる側の地域住民を無視した観光事業を行ってきた 。 しか し、このような観光事業の多くは長くは続かず、たとえばパフ'ル期前後に相次いで、作られたリゾー トとしての観光施設は、東京ディズニーランドを残しその多くが衰退した。

このような、地域性や地域住民を無視した観光開発は現在では見直されるようになり、全国各 地で地域住民主体の観光まちづくりが行われるようになった。国土交通省の観光政策審議会の答 申

(2000

12

月)では、「観光における自然・社会環境との共生

J

r 地域住民と旅行者との交流の 促進」などが重要な要素として指摘され、観光によってその地域特有の文化や伝統を守りながら 魅力的なまちづくりを行い、地域アイデンテ ィティーの確保や連帯、地域住民の誇りや生きがい

につなげることが提案された。

2006

年に長崎市で開催された「長崎さるく博

'06J

も観光まちづくりの

l

つの例である 。「長崎 さるく博

'06J

は、全国で初めて行われた「まち歩き博覧会」である 。「長崎さるく博

'06J

と従 来の観光や博覧会とのあいだには、単に「まちを歩く」という点だけでなく、それまで観光資源 と見なされなかったものの価値が再発見され利用されているという点でも大きな違いがある 。本 論文では、この「長崎さるく」における観光資源の再発見に焦点を当て、この「まち歩き博覧会」

の可能性を検証していくこととする 。

観光資源の再発見とは、町並みや伝統とい った長崎固有の文化が観光のための資源として新た に見出されることを意味する 。こうした「文化資源 J は、たとえば文化資源学会の「設立趣意書 J

(2002

6

12

日採択)において次のように定義されている。

文化資源とは、ある時代の社会と文化を知るための手がかりとなる貴重な資料の総体であり、

これを私たちは文化資料体と呼びます。文化資料体には、博物館や資料庫に収めきれない建 物や都市の景観、あるいは伝統的な芸能や祭礼 など、有形無形のものが含まれます

i

l文化資源学会・設立趣意瞥 (http://www.l.utokyo.ac.jp/CRJacr/overview/shuisho.htrnl)

(2)

「長崎さるくjにみる観光資源の再発見

このように、文化資源は「ある時代の社会と文化を知るための手がかり」であり、その意味に おいて観光のための資源になりうるのである 。本論文では、この観光資源が「長崎さるく J の中 で新たに発見し直されていることを明らかにし、そうした「観光資源の再発見」の過程における 地域住民の関わりについても考察する 。

2 . 長崎の観光

‑1.観光開発と観光客数の推移

長崎県で最初に外国人観光客が訪れていた場所は雲仙である 。明治の初年に、外国人は長崎の 外国人居留地から山駕寵に乗って雲仙に登っていた 。

1892

年(明治

25

年)の

8

月には

60

人を超え る外国人がひと夏滞在したといわれている 。その後も外国人向けのホテルが作られるなど雲仙の 開発が進められると共に、外国人観光客は増加していった(嘉村

1989:359‑260)

一方、長崎市も戦前から多くの観光客が訪れるまちであった。外国人観光団は古くから来訪し ていたが、大団体の来訪は

1909

年に始まったという記録が残っている 。その後、国際貸借改善の 一助として外国人客誘致策が本格的に進められ 、長崎市は観光課を新設して専門に観光を取り扱

う人材を配置するようになった。

このように、長崎は戦前からすでに観光地としての体制を整え、観光地長崎をアピールしてい たが、

1945

年に原子爆弾が投下されたことにより長崎の町はいったんは焼失した。 しかし、長崎 は戦災復興に合わせて観光諸施設の充実を推し進め、また

1950

年に毎日新聞によって行われた日 本観光地百選の都邑の部門で

l

位に当選するなど、長崎は観光地として全国に知られることと なった 。

戦後、整備された観光諸施設は観光パスの運行に伴い観光コースに取り入れられたことで観光 スポットとして定着していった 。戦後の復興に合わせた観光地の整備により

1951

年には

20

万人 だった観光客数が、

1954

年には

120

万人に まで増えるなど、

3

年間に

6

倍もの増加率を示すよう になった(長崎市総務部調査統計課

1956: 1543‑4)

観光客数はその後も増え続けたが、

1990

年に

600

万人弱の観光客を集めてからはほぼ横ばいの 傾向が続いている

20

2 ‑2.

長崎における主要観光スポットの定着

たとえばグラパー園や原爆資料館といった主要観光スポットでは、

1990

年代後半からの訪問客 の減少は明らかである 。こうした観光客数の停滞にはいくつかの要因が考えられるが、その一つ は、主要観光スポッ ト の定着、すなわちマンネ リ 化が挙げられよう 。

そうした主要観光スポットの定着を、過去に発行された長崎の観光パンフレットから見ること ができる 。表

1

1937

年から

1957

年頃に発行された

6

つの観光パンフレッドに掲載されている

r

長崎県観光統計平成918年度版J

3それぞれのパンフレットについては参照資料欄を参照のことなお発行年が明示されていないパンフレット については、掲載されている観光スポットなどから発行年を推定した。

83 

(3)

卒 業 研 究 閤 光

観光スポットを抽出し、表にしたものである 。

観光スポ ット

1937

1955

1956

19

同年

1955‑ 1957

以前 59

以降

諏訪神社 ・ 諏訪公園

O  O  O  O  O  O 

眼鏡橋

O  O  O  O  O  O 

崇福寺

O  O  O  O  O  O 

大浦天主堂

O  O  O  O  O  O 

出島墜岸・出烏蘭館跡

O  O  O  O  O  O 

如己堂 × 

× 

× 

国際文化会館 ×  ×  × 

O  O  O 

平和祈念像 ×  ×  × 

O  O  O 

浦上天主堂 × 

O  O  O  O 

× 

グラパー邸 × 

× 

O  O  O 

丸山 O 

× 

×  ×  × 

表1

各パンフレットにおける観光スポットの掲載

ここから分かるように、諏訪神社、眼鏡橋、崇福寺、大浦天主堂、出島は全てのパンフレット に載っており長崎の主要観光スポットだと 言え る。戦後は原爆関係の施設が作られ徐々に定着し ていった。 これらのことから、長崎が観光業に力を入れていく中で主要観光スポットが定着し、

一時的に観光客は増加したものの、これらの主要観光スポットの定着こそが、その後の観光客数 の停滞・減少に繋がったとも考えられるのである 。

3 . 長崎さるく

3 ‑1. 

i 長崎さるく博'

06J概要

長崎の観光地としての表退傾向を打破しようと企画されたのが、日本で初めてのまち歩き博覧 会と言われる「長崎さるく博'

06J

だった。2004 年、長崎が持つ豊富な資源を再発掘し、長崎の より深い魅力を全国に発信するため、そして長崎市民が自分のまちに誇りをもって楽しむことが できるまちを創造するために「長崎市観光2006 アクションプランJが策定された 。このアクショ

ンプランの基本理念は「まち活かし・人活かし J であり、そのコンセプトは「まち歩きが楽しく なる仕組み・仕掛けづくり」と「長崎の新しい楽しみ方の情報発信 J であ った。これに則り、「長 崎さるく博'

06Jが企画された。

企画趣旨は

2

点ある 。ひとつは、これまで発信されず、楽しまれることの少なかった多くの素 材の楽しみ方を創造し、発信し、「長崎での新しい時間の過ごし方j として定着させる契機とす ること 。そして、市民が観光資源を「市民の財産」として再認識し、交流に関わる様々なノウハ ウを取得する契機とすることである 。実施の基本方針は

3

つあるが、本論文の主題との関連にお いては特に、「全てのイベントを市民が企画し、市民が実施する」という点に注目したい。

「さるく博jでは、イベントの企画やコースマップの作成を担うのは市民プロテ ・ ュ ーサーであ

り、ガイドも長崎市民が行う。平成

16

年1

0

月2

3

日から

11

月23 日まで、および平成

17

7

月3

0

日か

(4)

「長崎さるく」にみる観光資源の再発見

10

月1

6

日ま での

2

回にわたりプレイベントが行われた。本イベントは平成1

8

4

1日か

10

月29 日まで行われ、本イベントののべ参加者数は

1

023

3

千人だ、った 。

長崎さるく博'

06

は、基礎イベント・会場イ ベント・演出イベント ・記念イベント・長崎体験・

タイアップイベントの 6つで構成されている。基礎イベントはさらに 3つに分かれており、内容 としては次の通りである 。「長崎遊さるく J は

42

コースあり、参加者がコースマップを持って各 自散策するというものである。「長崎通さるく J には3

1

のコースがあり、さるくガイドの資格を 持つガイドが同行し説明を行う 。「長崎学さるく」は7

4

テーマで開催され、それぞれのテーマの 専門家の講義を聴いて、なおかつガイドが同行するツアーに参加するというものである。

3 ‑2. 

r 長崎さるく」概要

長崎さるく博'

06

で開催されたものを、その後も定着させるために継続して行われることになっ たのが平成

19

4

1日から始まった「長崎さるく」である

。内容は2

006

年の博覧会とほぼ同じ であり、「遊さるく

Jでは45

コース、「通さるく」では3

3

コース、「学さるく」では6

4

テーマが実 施されている 。

2007

年の「長崎さるく」において際だつ特徴は、その参加者の内訳にある 。長崎市役所さるく 観光推進課の資料によれば、

2007

4

月から

9

月までの「通さるく」の参加者は、長崎市民の参 加者9

851

人に対して、市外からの参加者(観光客)は6

252

人と、市民参加者の比率が高い。 これ は

2006

年の「さるく博

'06J

における市民参加者3

.4

万人、市外からの観光客7

.4

万人という数字 と比較すれば明らかな違いである 。継続された「長崎さるく」は、市民による市民のためのイベ ントという特徴を持つことが分かるだろう。

4 . 通さるくコース分析

筆者は卒業研究において「長崎通さるく J

10

コースについて、案内される観光スポ ットについ

ての詳細な分析を行った40 ここではその中の一つ、「文人墨客も思案した?~丸山巡遊~J を取

り上げる 。このコースは「長崎通さるく J のコース別参加者数で

2

番目に人気の高かったコース である 。

このコースの舞台である丸山には花街という特殊な歴史的背景がある 。丸山は

1937

年に長崎観 光旅館連盟から発行されたパンフレット「ながさき

Jや

1956

年に日本交通公社から発行された パンフレット「雲仙・長崎」では紹介されているが、近年特に観光地として取り上げられること はなかった(表

l

を参照のこと) 。市民プロデューサーとしてこのコースの制作を手がけた山口

広助氏によると、丸山という場所は 50~60代の人には抵抗があるうえ、行政的に蓋をされてきた

場所でもあり、これまでは観光地とは認識されてこなかったという。

4

紙幅の都合上、ここでは資料と分析のほとんどを掲載することができない。よって、本稿では概要のみを示 すことにする 。詳細なデータは卒業研究を参照されたい。

5

本論文で使用する長崎観光ガイドブ ッ クは、長崎国際観光コンペンション協会が発行している『長崎観光ガ イドブッ ク

j

で ある 。

85 

(5)

卒 業 研 究 囲 光

観光スポット 観光ガイドブック さるくコースマップ 通さるく

思案橋跡

O  O 

見返り柳と思切橋 O  O  O 

丸山公園 O  O  O 

史跡料亭花月 O  O  O 

向井去来句碑 O  O  O 

梅園身代り天満宮 O  O  O 

中の茶屋

O  O 

山之口・大門(二重門)跡 ×  O  O 

角海老ピル ×  O  O 

長崎検番 ×  O  O 

梅塚 ×  O  O 

歯痛狛犬 ×  O  O 

ぽけ封じ撫で牛 ×  O  O 

長崎ぶらぶら節文学碑 ×  O  O 

富菊が奉納した手水鉢 ×  O  O 

行満院跡 ×  O  O 

永門商庖 ×  O  O 

「加登松 J 跡 ×  O  O 

丸山オランダ坂 ×  O  O 

料亭青柳 ×  O  O 

大崎神社 ×  O  O 

二宮病院跡

×  O  O 

長崎丸山花街跡の碑 ×  O  O 

暗渠① ×  ×  O 

足袋屋さん ×  ×  O 

暗渠② ×  ×  O 

昔からある石畳の川 ×  ×  O 

梅園通りの裏門 ×  ×  O 

えびす様の顔をした岩 ×  ×  O 

昔からある松の木 ×  ×  O 

石の壁 ×  ×  O 

人力車が通っていた道 ×  ×  O 

表2

r

文人墨客も思案したりスポットの分析

2

に 見 ら れ る よ う に 、 こ の ル ー ト で は い わ ゆ る 観 光 ガ イ ド ブ ッ ク

5

に 掲 載 さ れ て い る ス ポ ッ

トよりも、さるくコースマ

ッ プ に 掲 載 さ れ て い る も の の 方 が は る か に 多 く 、 し か も 実 際 に ガ イ ド

が 解 説 を 加 え て 紹 介 す る ス ポ ッ ト は さ ら に 多 く な っ て い た。 そ の 多 く が 従 来 は 観 光 資 源 と し て 認 識 さ れ な か っ た も の で あ り 、 そ れ ら が 「 さ る く 」 に お い て 改 め て 発 見 し 直 さ れ た こ と が う か が え

る。

このような分析を「通さるく J

10コース

で、行った結果、全てのコースにおいて何らかの形で観

(6)

「長崎さるく」にみる観光資源の再発見

光資源、が再発見されていることが明らかとなった 。長崎観光ガイドブックに掲載されているス ポットと比較してみると、全てのコースにおいてこのガイドブックよりもさるくコースマップに 載っているスポットの方が多かった 。さらに、コースマップに載っているスポットよりも通さる くに参加して得られる情報の方が多く、ルートの基本はコースマップであるものの、ガイドによっ てルートや内容に違いがみられた 。この点については、次節で論じることにする 。

5 . 長崎さるくにおける 3 つのアクターの関わり

5 ‑1. 

r 再発見」する

3

つのアクター

従来、観光について考える場合、観光に関わる人々はホスト(観光客を受け入れる社会)とゲ スト(観光客)に分類して考えられてきた

(cf.

山下

1996)

。この枠組みを当てはめれば、長崎 さるくにおける「ホスト」を長崎もしくは長崎市民とすると、「ゲスト」は外部から長崎を訪れ る観光客となる 。 しかし、長崎さるくの場合は長崎市民もゲストとして参加しているので、ホス トとゲストのどちらにもなり得る 。従って、長崎さるくのような地域住民主体の観光まちづくり について考える場合、「ゲスト/ホスト J というこ分法は適用しにくい。

長崎さるくにおいては「市民プロデユーサー」および「さるくガイド」、そして参加者である 長崎市民という

3

つのアクターに分類して考察するのが、さしあたり適切であろう。これら

3

つ のアクターにはそれぞれの役割があり、それぞれのレベルで観光資源を再発見していると言える のだ。

まず、市民プロデューサーの役割と、彼らによる観光資源の再発見について考察しよう 。市民 プロデューサーは、「遊さるく j と「通さるく j で利用されるコースマップの作成に携わってお り、長崎の歴史に関する資料や文献、そして地元の人からの聞き取りをもとに観光資源を発掘し ている。そして、その再発見された文化資源を取捨選択し、観光資源としてコースマップに掲載 したのである 。 このことに関しては、通さるくのコース「長崎はローマだった 西坂の丘から愛 と祈りの小径へ J で市民プロテ・ューサーとさるくガイドを兼任している貞住史華氏も、コースマッ プの作成過程において観光資源の再発見があったと述べている 。

次に、さるくガイドの役割と観光資源の再発見について考えてみよう 。 さるくガイドは、再発 見された観光資源に説明を加えて長崎の魅力を伝える役割と、自分の体験を長崎弁で話しながら 参加者との交流をするというこつの役割を担う 。 さるくガイドはコースマップに記載されている スポットだけを紹介するのではなく、独自に見出したものや、自分が伝える必要性を感じたスポッ トや話をコースに組み込んでいる 。そのため通さるくでは往々にしてガイドに よってルートや内 容に違いがみられるのである 。このように、通さるくで紹介されるスポットや話に関しては、ガ イド研修への参加や自発的なコース散策、他のガイドが行っている通さるくへの参加により個々 人のレベルで観光資源の再発見がなされているのだ。

最後に、アクターとしての長崎市民について述べておこう。長崎市民は、市民プロデユーサー が再発見してコースマップに載せたものと、さるくガイドが独自に再発見したもの、そしてガイ

ドが話す体験談などから、自らが住まう長崎の魅力を新たに発見し認識する機会を持つ 。

87 

(7)

卒 業 研 究 囲 光

以上のように、長崎さるくにおいては

3

つのアクターにより、いわば共同作業で「観光資源の 再発見jが行われているのだ。

この中で特筆すべきは、さるくガイドの果たす役割である 。長崎さるくにおけるガイドの役割 は観光資源に説明を加え、体験や方言 を交えながら参加者と交流をするという 一般的な役割に加 え、参加者にコース全体を物語として体験させるという役割も果たしているのである 。以下の節 ではこの点を詳しく見てゆくことにしよう 。

5 ‑2.

さるくガイドの果たす役割

観光におけるガイドの役割について田中は、沖縄戦跡ツアーでの観察をもとに次のように述べ ている 。

ときにガイドはたんなる雇用者という立場を超えて、知識や思想の伝達という確固たる使命 を持つ 。その場合、ガイドは教師や宣教師の役割に近いとも 言 える 。そして、観光客は生徒 としてあるいは信徒として、ガイドの主張や実践に付き合うことになる 。 こうした使命はし ばしばみずからの体験に結びついている 。体験を語る、あるいは体験を通じて地域の自然や 文化を語り始めると、ガイドは「語り部j となる(田中

2006: 419)

観光におけるガイドの使命とは「知識や思想の伝達」である 。 この使命を果たそうとする中で、

伝達すべき内容と自らの体験が結びついたとき、ガイドは「語り部 J となるのである 。通さるく においてガイド役を担う地域住民は、この意味においてまさに「語り部」の役割を果たしており、

提供される情報は、単なる観光案内を超えて、時には物語性を帯びることにもなる 。

この理解を前提として 、卒業研究において取り上げた

10

コースの中で特に起承転結構造が明確 であ ったコースと、歴史の追体験がなされたコースについて、次に詳しく見ていこう 。

5 ‑3. 

I アンゼラスの鐘の丘を訪ねて」における起承転結構造

このコースにおけるルートは、出発点から終着点までが起承転結の構造にな っている 。 まず、

このコースに含まれるスポットを順番に並べて検証しよう 。

(1)

被爆当時の地層→(

2)

原爆落下中心地碑→(

3)

下の)

1 1

(当時の石畳)→(

4)

浦上天主堂の被爆遺 壁→

(5)

狛犬雨どい→

(6)旧松山町防空壕→(7)

平和の泉→

(8)

平和公園と平和祈念像→

(9)

世界各国 から集められたオフゃジ、エ→(lO)旧長崎刑務所浦上刑務支所の基礎遺構→

(11)

浦上刑務支所の外壁 遺構→同聖フランシスコ ・ ザベリオ堂跡→同市立山里小学校→

(14)

防空壕→

(15)

白山墓地

被爆当時の地層

(1

) から防空壕

(14)までは原爆に関するもので構成されており、白山墓地同から最

後の被爆マリア像チャペル倒までは原爆とキリシタンの歴史の両方を語るもので構成されている 。 原爆落下中心地(

2)

が原爆の話の始まりだと位置づけられ、この物語の中の「起jの部分に当たる

ものは被爆当時の地層

(1

) から下の川

(3)までである

。「

承j に相当する部分としては、浦上天主堂

(8)

「長崎さるくJにみる観光資源の再発見

の被爆遺壁(

4)

から防空壕(

14)

までである。

(15)

白山墓地→同如己堂→仰永井隆記念館→同浦上天主堂鐘楼ドーム→仰)被爆した聖人の像→

側獅子像→仰浦上天主堂→仰)被爆マ リア像チャペル

そして、「転 J にあたる部分が白山墓地(

15)

である 。 白山墓地はキリシタンの墓地であり、そこ にある墓碑には原爆が落とされた昭和

20

8月 9

日やそれに近い日に若くして亡くなった人々の 名が数多く刻まれている 。白山墓地は、ルート前半の「原爆 J のストーリーに、浦上地区の「キ

リシタン」という要素を加える重要な役割を果たすと言えよう 。

そして、「結」の部分にあたるのが同如己堂から仰)被爆マリア像チャペルまでである。原爆の プロットから、白山墓地を経て隠れキリシタンのプロットへと誘われた参加者は、浦上天主堂被 爆マリア像チャペルで正午のアンゼラスの鐙の音を聴き、この物語を締めくくる。

このコースのコースマップを見ると、それだけでも

1

つの物語になっていることがわかる 。 し かし、そのコースマップを持って歩いたとしても、点在するスポットを

1

つの線で結んで散策す るだけに留まる 。そこにガイドの話が加わることによって、はじめてひと続きの物語として機能 するのである 。 さらに、筆者が参加した時のガイドが被爆二世だっ たということも物語に深みを 加え、このコースの物語性を強くしていた 。

5 ‑4. 

r 婿祖様と唐りゃんせ」における「追体験」

「嬬祖様と唐りゃんせ J では物語の起承転結はないものの、公式ルートではなくガイドの判断 で構成されたルートにより唐人の足跡を辿る追体験がなされた 。 また、このコースではガイドの 方が長崎市民であり、なおかつ唐人屋敷の周辺に住んでいるということもあり、地元に密着した 話を聞くことができた 。

「婿祖様と唐りゃんせ」のコースマップでは長崎新地ターミナルを出発点とし、そこから直接 唐人屋敷に向かうようになっているが、筆者が参加した時は新地中華街の中の新地蔵跡の前で「新 地は唐からの輸入品を置く場所で、唐の人は新地にその品を置いてから唐人屋敷に行った」とい

う説明があり、江戸時代の「唐の人」の足跡を辿るという演出がなされた。

また、このコースの途中にはまちづくり情報センターが組み込まれているが、筆者が参加した 時にはまちづくり情報センターに触れられることはなかった。このように唐人たちの「追体験」

に関係のないものが排除されるということも、参加者を物語に引き込む要因になっていると考え られる 。

さらに、参加人数という要素も参加者を物語に引き込む要因であると考える 。例えば、「婿祖 様と唐りゃんせjのコースに参加した時の参加者は筆者を含め

2

人であったのに対して、「アン ゼラスの鐘の丘を訪ねて」のコースに参加した時は筆者を含め

10

人以上が参加していた。物語性 の内容は異なるものの 、参加人数が少数のほうが話しに引き込まれやすいと言える。

このコースの場合、ガイドによってコースが再構成されずコースマップのままであれば、物語 性を感じることはできない。市民プロテ・ューサーと参加者の聞にガイドが入り、参加者とガイド

89 

(9)

卒 業 研 究 閤 光

との関わりがあってこそ、そこに物語が発生するのである。

6 .   まとめ

さるくガイドは田中

(2006)

が述べたガイドの「使命 J を果たしており、通さるくの中では「語 り部 J として実体験に基づく話を語っていた。

これまで述べてきたように、長崎さるくでは市民プロデューサーによって観光資源が再発見さ れ、それを参加者に伝える役割を果たすのが長崎市民で構成される「さるくガイドjである

。彼

らはコースマップだけでは伝わらない長崎の魅力を引き出し 、自らの中で再構成して参加者に伝 えているのである。さらには、市民プロデューサーと参加者の聞にさるくガイドが介入すること により、再発見された観光資源をそのまま見せるのではなく、ガイドなりの工夫をこらすことで、

コースによってはより強い物語性を発揮する

。つまり、通さるくの1

つのコースの中で何に重点 を置くか、何をコンセプトにするかはガイド次第である

また、ガイド自身が何を「資源j とし て再発見するかも人によって異なるため、「通さるく J ではガイドによって、そして参加者の顔 ぶれによって内容に違いが生まれるのである。

同様の事例は島根県松江市における「ぐるっと松江 堀川めぐり j などについても報告されて おり、地域住民と参加者との関わりが発展していく傾向にある。

長崎さるくにおいては、地域住民、とりわけ長崎市民によって構成されるさるくガイドとの関 わりがあるからこそ、観光客にとっての「新たな発見」にとどまらず、参加者である長崎市民に

とっても「長崎の再発見」につながっているのである。

謝辞

本論文を執筆するにあたり股張一男(長崎市観光部さるく推進課主幹)、山口広助(市民プロ デューサー ・ さるくガイド)、貞住史筆(市民プロデューサー・さるくガイド)の各氏には多く のことをご教示頂きました。お礼を申し上げます。

参考文献

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r

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r

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国土交通省総合政策局観光都(監修)・観光まちづくり研究会(編) 2

r

新たな観光まちづくりの挑戦jぎょ うせい

田中雅一 2

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旅が照射する沖縄戦一二つのオキナワ バトル サイト・ツアーをめぐってJ西井涼子・田 辺繁治(編)

r

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山下晋司 1996 

r

観光人類学案内ー 〈文化〉への新しいアプローチ」 山下晋司(編)

r

観光人類学』新曜社

報告書

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『長崎県観光統計j 長崎県商工労働部観光物産課平成9年度 平成18年度 パンフレット類

『ながさきj 長崎観光旅館連盟 1937年

(10)

『ながさき』 旅 館 み ふ ね

( 1

955年以前と推定)

『雲仙長崎j 日本交通公社 1956年

『県営パス 長崎市内めぐり』 長崎県交通部 1956年

『ながさきj 長崎パス (1955年から1959年の聞と推定)

『ながさきj 長崎自動車株式会社業務部観光課 (1957年以降と推定) インターネット資料 2

8年 2

4日参照

長崎さるく博'06ウェプサイト htゆ:lIwww.s回 同haku.comJ 長崎さるくウェプサイト http://www.s訂 此u.info/

「長崎さるく」にみる観光資源の再発見

文化資源学会設立趣意書 httpIIwww.l.utokyo.ac.jp/CRlacr/overview/shuisho.html

91 

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つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

システムであって、当該管理監督のための資源配分がなされ、適切に運用されるものをいう。ただ し、第 82 条において読み替えて準用する第 2 章から第

(2011)

① 小惑星の観測・発見・登録・命名 (月光天文台において今日までに発見登録された 162 個の小惑星のうち 14 個に命名されています)