アル トーの二つの 「 上奏文」
高 橋 純 ア ン トナ ン・アル トーの フランス語版全集 は1956年か ら刊行 が開始 され た が, その企画 は彼 の死 (1948年 3月4日)に少 し先立 って計画が進め られて いた。 そ して, 出版社 主のガ ス トン ・ガ リマール と契約 を交 わす以前 にアル トー は, 自分 の全集 の稔序 と言 うべ きPreambule(序 言)を したためてお り, これが死後刊行 され た第一巻 の巻頭 を飾 ってい る1). ア イル ラン ド旅行 に続
く十年 に及ぶ精神病院生活 とい う運命 に見舞 われて公 的世 界か ら隔離 されて いた彼 に とって,全集 の企画 は, 回顧 的に過去 の作 品 を総覧的 に再刊 す るこ とよ りも,最近 の著述 を世 に問 うこ とに こそ意味が あった。 そ こで彼 は,坐 集 の各巻 に, それ ぞれ に収め た過去 のテ クス トに併せ て,必要 に応 じて新 た に彼 が書 いた もの を挿入す る旨の提案 を出 していた。結果的には, 第一巻 が 死後 八年 に して 出版 され た事 情か らして, この提案 はその第一巻 に しか実現 を見 なか った。 ただ し, その よ うに して迫補 され たのは前述 の 「序 言」 だけ ではなか った。(この一文 は,アル トー 自身の予想 を も超 えて今 日も未完結 の 全 集 全体 へ の序 文 と見 倣 す こ と もで き よ う し, あ るい は,第 一 巻 所 収 の
『ジャ ック・リヴ イエー ル との往復書簡』‑ の言及 も多い こ とか ら, 当該巻 向 けの前書 きと捉 えるこ とも可能 だ ろ う。)この 「序 言」と, それ に続 く最初期 のテ クス ト群 とのあいだには,や は りこの全集企画 に併せ て書かれた二つ の
「上奏文 」が収め られてい る。一つ は 「ローマ教 皇‑ の上奏文」(1946年 10月
1)AntoninArtaud,auvyleSCOmPle7es,t.I,1970,ed.Gallimard,pp.9‑15.なお, 引用の訳については邦訳のあるものは参照 させて頂いたが,筆者の解釈に従 っ た部分 も少な くない。 〔『アン トナン・アル トー全集1』現代思潮社,『神の裁 き
と訣別す るため』宇野邦‑釈,ペ ヨトル工房〕
1日の 日付 )であ り, もう一つ は 「ダ ライ‑ラマへ の上奏文 」 (本文 には 日付 はないが,1946年 12月2日に郵送 され た もの) であ る2)0
この全集 第‑巻 にはアル トーが シュー ル レア 1)スム運動 に没頭 した時期 の テ クス トもま とめ られてお り, その 中に上記の もの と同 じタイ トルの二つの
「上奏文」が収 め られてい る (いずれ も 『シュール レア リスム革命』第 3号, 1925年 に掲載 された ものであ る3))。 こち らの 「上奏文」は雑 誌掲載時 には署 名 が なか ったが,種 々の証 言か らアル トー 自身の執筆 が確証 されてい る4)。こ
の こ とは,後年彼 が 自分の 全集 のため に同題 の 「上奏文」 を書 き直 してい る こ とか らも確 か と思 われ る。 そ して,彼が残 した二対 の 「上奏文」 を付 き合 わせ て見 る と, その異 同の中に彼 の意図の なにが しかが窺 われ る と推測 して もおか し くはない。彼 は,1946年 12月2日郵送 の「ダ ライ‑ラマへ の上奏 文」
に添 えた手紙 に こ う述べ て い る, 「教 皇へ の手紙 の後 に入 れ るつ も りの ダ ラ イ‑ラマへ の上奏文 を同封 しま した。 これ で私 の全集第一巻 は ぐる りと巡 っ て収支 がつ くはず です,根本 的に5)。」
「ロー マ教 皇へ の上奏文」 の書 きだ Lは こ うであ る (1946年 の もの)0
loJerenielebapteme.
20 Jechiesurlemom chretien.
2)実は1956年刊の第‑巻には,1946年に書かれた二つの 「上奏文」は掲載 されて お らず,1970年の増補改訂版で初めて 「序言」の後に挿入されたのだった。こ れには,当初,それ らの内容が冒涜的であるとして出版元の自主規制で収銀 さ れなかったが,アル トーのテクス トがその後あらたに発見され,また,アル トー 評価の高ま′りとともに,大幅に改訂を加 えた増補版が出された際に, これらの 二丈 も加えられたとい う経緯がある。従 って,1970年版の方がアル トーの意図 に忠実であることは疑いない。例 えば,MLqaZinelitieJym'71e,No.287,1991,pp.80
‑81.≪L'AffaireArtaud≫ 参 照 。
3)≪AdresseauPape≫,≪AdresseauDalai‑Lama≫,OCI,pp.383‑339,340‑341.
4)ibid.pA39,440.(notesdel'editrice) 5)ibid.pA40.
30Jemebranlesurlacroixdedieu (ma主slabranlette,PieXII,n'a jamaisetadansmeshabitudes,ellen'y entrerajamais. Peut‑etre devez‑vouscommencer畠mecomprendre).
4oC'estmoi(etnonJesus‑Christ)quiaetacrucifiさauGolgotha,etje l'aiをtepourm'etreelv芭contredieuetsonchrist,parcequejesuisun hommeetquedieuetsonchristnesontquedesideesquiportent d'ailleurslasalemarquedelamaind'homme;etcesidさespourmoi n'ontjamaisexist66).
同 じく 「ダライ‑ラマへの上奏文」の書 きだ し。
Voilacombiend'epoquesouperiodesthibetainsd'annさes,quevous tenezmomcorps,
moncorpsamoi,AntoninArtaud,
prisonnierdevosbibliothさquesenboisdeguitounescreuses,parmiles interminablesbandesdepeaux,lesinnum吾rablesrouleauxcata‑
loguesdetouteslesastucesdel'etre,contremoiquin'ensuispas un,ma主suncorpssoumis畠saloipropre,celledemalibre volonte.
j'aiえvousdirequevous,lamas,desIndes,delaChine,delaMongolie, etduTthibet,
etestousdessaligauds, yoglenplus
etgourusfoutus.
6)≪AdresseauPape≫,ibid.p.17.
Vousn'avezpasdeglotteenbouche,ma主srienqu'uncu (sic)damsle cerveau7).
いずれ もが スカ トロジ ックなあ るいは張雑 な言辞 の頻 出す る激烈 な非難 に 終始す る攻撃 の文 で あ る。一 言 で言 えば, これ は, 肉体 蔑視 の干 か らびた精 神 的権 威 主義 に染 まった宗教 (的 イデ オ ロギー) に向け た告 発 なのだが, 呪 誼 に も近 い乱暴 な言辞 を除 いて この よ うに内容 を抽象化 す る と, その宗教 批 判 は こ とさ ら新奇 な もの ではない と言 え よ う。独特 なのは,錯乱や 幻覚 に突 き動 か され て い るか の よ うな異様 な切 迫感 が蔽 って い る点 であ る。 なぜ アル トー は この よ うな文体 で批 判 をあげつ らわねば な らないのか と問 うと, そ こ には否 応 もな く彼 の特殊個 人的経験や病 歴がかか わ って きて,彼 の思想 を客 観 的 に抽 出す る努 力 を阻 もうとす るか の よ うなのだ。事実, た とえば 「教 皇
‑ の上奏文」 の冒頭 Jerenielebapteme「私 は洗礼 を否認す る」 は, 反 キ リ ス ト教 的信 念 の表 明 であ りつつ も, 同時 に, この一文 の執筆 に先 立つ彼 の病 的体 験 の余 波 を感 じざるをえない。 い くつかの施 設 を移 され た後 アヴェイロ ン県 は ロデー ズの精神病 院 に到着 した (1943年 2月11日)アル トー は宗教 的 錯乱 の直 中に あったが,彼 の信 念 は毎週 の よ うに くる くる と変 わ った。「私 は 自分 が イエ ス ・キ リス トに改宗 したな どと馬鹿 なこ とを言 って しまった。 だ が キ リス トこそは私 が常 に もっ とも嫌悪 して きた もの なの です。 またこの 回 心 こそは,恐 るべ き呪縛 が私 に私 自身の本性 を忘 れ させ た結果 にほか な らな い‑‑・」 (ア ン リ・パ リゾ宛書簡8))。 そ して この信 念 の 「変更」 は再 々繰 り返 され たのだ った。
あ るいは,dieuetsonchristnesontquedesidさes 「神 とその キ リス トと
7)iAdresseauDalallLLama:),ibid.p.21.
8)≪Lettre畠HenriParisot,le7sept.1945≫,OCIX,p.63.この時期 にアル トー が置かれていた状況 と,そこでの振 る舞いについては,JrL.Brau,Antonin Artaud,LaTableronde,1971 〔『アン トナン・アル トー』安堂信也訳, 白水社〕
に詳 しい。
は観念 にす ぎない」 とい う言 明に一つの思想 を読 み取 るこ とは不可能 ではな い として も,C'estmoi(etndnJesus‑Christ)quiaetacrucifieauGolgotha
「ゴル ゴタで傑刑 に され たのは イエス ‑キ リス トではな くこの私 だったのだ」
にいた る と, これは観 念の表 明に違 いない とは して も, シュ レーバー並 みの 精神分裂症 的妄想 に染 まっている とす るほ うが真相 に近 いよ うだ。 これ を L も思想的表現 とす るな らば, まず われわれ 自身の 「思想」 とい う観 念 その も のの変更が必要 とな るだろ う。
す でに指摘 した よ うに, これ ら二つの 「上奏文」 は,二十余年 前の同題 の テ クス トの修正 を念頭 に書かれ た と見徹 しうる。 その先行 の 「上奏文」 を見 てみ よ うO まず 「ロー マ教皇へ の上奏文」(1925年)の一節。
LeConfessionnal,cen'estpastoi,6 Pape,C'estnous,ma主s, Comprends‑notlSetquelacatholicitenouscomprenne.
Aumom delaPatrie,aunom delaFamille,tupoussesえlavente de占ames,えlalibretriturationdescorps.
Nousnesommespasaumonde.0Papeconfinedamslemonde, nilaterre,niDieuneparlentparto主.
Lemonde,C'estl'ab至medel'まme,Papedejete,Papeexterieurえ 1'まme,laisse‑nousnagerdansnoscorps,laissenos急mesdansnos急mes, nousn'avonspasbesoindetoncouteaudeclart69).
これ もまた一種 の攻撃文書 ではあ るが,制度宗教 としての キ リス ト教 的 イ デ オロギー の拒否の姿勢 は明 白に表 しなが らも,本源的 な精神性‑ の憧情 も 窺 える。 そ してそれは, 身体 性 を排 除 しない精神 性, いわば 肉体 の生 と融合
9)《AdresseauPape≫,OCI,p.338.
した存在 の充溢 として期待 されてい る。
〔キ リス ト教 〕社会 は, 身体性 と精神性 の融和 に対 立す る阻害物 と見倣 され る。 引用 の後半 に こ うあ る : 「われわれは現世 の俗 界にいや しない。 その俗 界に閉 じ込 め られ た教 皇 よ,大地 も神 もあん たの 口を通 じて語 るこ とな どあ
りは しない。俗 界 こそは魂 に とっての深淵 だ。老 い篭れの教 皇 よ,魂 の部外 者の教皇 よ, われわれに 自分 の 肉体 の なか を自由に泳がせ よ, われわれの魂 を自分 の魂 の中に安 らわせ よ, われわれはあんたの光 明の刃 な どは欲 し くも ない。」ここには,精神 性 の象徴 として 「神 Dieu」とい う言葉 も見 られ る。 そ して この精神性 の実現 の拠 り所 を して, この時期 のアル トー の期待 は非 キ リ ス ト教 的宗教 に向け られていた。同 じ時期,同 じ雑 誌 に掲載 され た「ダ ライ‑
ラマへ の上奏文」 は こ う書 きだ され る0
Noussommestestresfidelesserviteurs,8GrandLama,donne‑ nous,adresse‑nousteslumieres,dansun langage que nosesprits contaminesd'Europeenspuissentcomprendre,etaubesoin,change‑
nousnotreEsprit,fais‑nousun esprittouttourneverscescimes parfaitesoも1'Espritdel'HommenesouffrepluslO).
「われ らはあなたの串実 な る僕 です,偉大 な るラマ よ」で始 まる一文 は,先 の 「教皇へ の上奏文」 と対照 的 なのは歴然 としてい る。 ただ し, ここでのチ ベ ッ ト密教 ‑ の傾斜 は知 的好奇心 と感情的 な憧博 に支配 されてお り, またキ リス ト教文化へ の反樽 に動機づ け られ た ものだ ろ う。この引用の先 には,「ラ マ よ, われわれに物質 的空 中浮揚の術 を教 え よ, いかに して もはや大地 の支
えな しにい られ るのか を教 えよ11)」とあ るように,これは魂 の 自由‑ の憧 れの 叙情的表明 であ る。
10)≪AdresseauDala‑i‑Lama≫,ibid.p.340.
ll)ibid.
Car,tusaisbien畠quelleliberationtransparentedes急mes,良 quellelibertedel'Espritdamsl'Esprit,6Papeacceptable,6Papeen l'Espritveritable,nousfaisonsallusion12).
「なぜ な ら, あなたは よ く御 存 じだか らだ,魂 の どれほ どの透 明な 自由 を,
『精神 』の中の 『精神』の どれほ どの 自由 をわれわれが言わん としてい るかが, おお, われ らが正 当な る教 皇 よ,真 の 『精神』の教 皇 よ。」つ ま り, ここでの
「プラ イ‑ラマ」はあ りうべ き 「教 皇」なのであ り, あ りうべ き精神 性 (つ ま り身体性 を排 除 しない仝‑ 的 な生) の象徴 であ る。
1925年 の二つの 「上奏文」か らは, 当時の シュール レア リス トの誰 もが呼 号 していた反西欧文化へ の傾斜 と,上位 の現実 の存在へ の信仰表 明に近 い期 待 が唱 われてい るこ とが わか る(事実 これ らは, シュー ル レア リス ト グルー プの一月 としてのアル トーが無署名 で掲載 した ものだ).対す るに,1946年 の 二つ の 「上奏文」 は, す でに見 た ように激烈 な告発 と非難 に貫かれてい る。
この相違 に こそ, アル トーが全集所収 テ クス トの年代順 を敢 えて無視 して も 後者の二つの 「上奏文」 を書 こ うとした意図が あ るのではないだ ろ うか。
1946年 の 「ダライ‑ラマへ の上奏文」 の一節 に次 ぎの よ うにあ る。
Vousn'etesquedessalesEuropeensaprestouscarleveritableOrient futnordique,
dupらleinfernalsud
quivousatoqjoursfoutulafrousseauxcoudesenattendantdevous algrirlecu(sic)13).
「御 身 ら 〔ラマ た ち〕はつ まる ところ汚 らわ しい ヨー ロ ッパ 人にす ぎぬ, け
12)ibid.
13)≪AdresseauDala.lLLama≫,ibid.p.23.
だ し,真 の東塵 は北欧の ものだ った,地獄 もか くや の南極 に属す るものだっ た. ‑・・・」 ここにアル トー の認識 の変化 が一つ指摘 で きよう。かつ ては彼 に おいて賞揚すべ きイメー ジ としてあったチベ ッ ト密教 に象徴 され る東洋 の精 神世 界 は, 晩年 にはキ リス ト教 的西欧文化 とひ としなみに否認 され るのだ。
100guerresontpassedepuis100000ansenEurope;etquis'enest apereu
a
Lhassa.Lequeldeγosmoinesyaperduunejubilationsexuelle,ouunrepas14).
「過去 十万年 来, ヨー ロ ッパ では百 の戦争 が過 ぎ去 った。 その こ とに ヨー ロ ッパ は ラサ で気付 いたのだ。御 身 らの僧侶 たちの,いったい誰が,そこで, 性的快楽 を失 った ろ う,一 回の食事す ら失 っていないのだ。」ここでは, アル
トー の文化 ・歴史の認識 の妥 当性や それ ぞれの宗教 ‑ の理解 の深浅 を検討す るのが 目的 ではない。 そ もそ も彼 は実証的検討 を試 みてい るわけで もな く, 理論 的批判 を展 開 してい るわけ で もない。 そ うであ る以上,彼 の言辞 の背後 に文化 的 ・哲学的教養 を深読 みす るこ とも, あ るいはその言辞 を病理 的症状 (幻想,脅迫観 念)に還 元す るこ とも等 し く悪意的 で危険 と言 え るか らであ る。
ここで重要 と思 われ るの は,時代 を隔てた二つの テ クス トの間の差異 であ り, そこに垣 間み られ るアル トー の基本姿勢 の変化 であ る。 この基本姿勢 とは, 彼 の表現行為 (それが文学的 な ものであれ,理論的 な もの であれ, さらには 幻覚 的 な ものであれ)の主体 のあ りよ うを規定す る もの と考 え られ る。
車、
ここで,主体 とは存在 す る ものではな く,生成す るものであ る とい う構造
14)ibid.p.24.
論 的常識 を確 認 してお く。通常 は単一存在 と考 え られてい る個 人は, いか な る形 であれ あ らか じめ それ 自身で主体 であ るよ うな存在 ではない。近代 の知 識 において主体 ‑客体 (対象) とい う対 の関係が大前提 とされ る として も, 主体 お よび客体 とな るべ きものが あ らか じめ存在 して, しか る後 にそれ らの 間に関係 が結 ばれ るの ではない。事 態 はその道 であ り,人間につ いていえば, 誰 しも最初 か ら孤 立 した個 人 として 自分 を見 出す者 はな く,必ず他 の存在者
との歴史的,社会 的,経 済的等々の関係性 の中で, 自己 を個 人 として考 え, 律す るこ とを学ぶ のだ。諸個 人の間にアプ リオ リに存在 す る主体 ‑客体 関係 はあ るはず はな く,あ るの は,二項 の間の置換可能 な間主観 関係 であ る。従 っ て,個 人であ る とは,人 を個 人 として認知 す る関係性 に身 を置 くこ とであ り, 主体 であ る とは, この関係性 を自己 自身 との間 に作動 させ るこ とと言 え る。
つ ま り,主体 とは, この関係性 に同一化 したか ぎ りにお いて認識 され る一つ の生成状態 として捉 え られ るべ きものなのだ。そ して この生成状 態 を維持 し, 強化 しよ うとす る関係性 の組織 が制度 と呼 ばれ る。 さらに, この関係性 が人 の 自己の 自己 自身 との関係 に全面的 に内面化 されれば, 人の意識 (主観) は 自らの裡 に全世 界 を独 占す る (可能性 を持つ) こ とにな り, その世 界 の主体 は無論意識 (主観性 ‑主体性) を持 った 自己同一 的存在 者 であ る。 ただ し, その 自己同一性 は存在 の根拠 にあ らか じめ具備 され た ものではな く, あ くま で も生成 された ものであ る。つ ま りこの同一性 は変容 も消滅 もしうる もので あ り, もしもこの同一性 (内在化 され た世 界 との合 意)が人間性 の証 として 強要 され るな ら, 必ずや そこには,主体 を特定 の関係性,特定 の世 界 に従属 させ る力 (権 力) が稼働 して いるはず なのだ。 その よ うな権 力 は, 人間に対 して, その権力が認める生 とは異なる別の (外部の)生の可能性を禁 じてしまう。
アル トーが まさに身 を以て こ うした認識 を持 っていた こ とを推測 させ る一 例 として,彼 の心 身に係 わ る疾 患 とその治療経験 を挙 げ るこ とがで きる。彼 が,五才 の時に罷 った脳骨髄膜炎の後遺症 の頭痛や発作 (身体 的 な圧迫感, 圧縮感) の対症療 法 に麻薬剤 を服用 していたこ とや,精神病院 に監禁 されて いた当時, 電撃療法 を再 々強 い られていた こ とは周知 の事実 であ る。 それ ら
の効果が どれほ どの ものであったか よ りも, その事実 が彼 の主体 (意識) に 対 して持 った意味 を考 えてみ る必要があ る。医療 関係 もまた,個 人 を社会 の 中で一個 の主体 として構成 し,維持 させ る技術 である.患者 は治療 を施 され る 「対象」 であ る以前 に,患者 である (と自らを認め る) こ とに よって この 医療関係 を実現す るれ っきとした 「主体」なのだ (患者sujetは主体 sujet/に はか な らない)。アル トー は,一人の病者 であ るこ とに よって,主体 とは生成 す るもの (従 って解体 しうるもの) であ り, また主体 の 自己同一性 とは, そ の生成 を促す関係性の維持 によって (あ るいはその維持 を保証す る権 力関係 に よって)可能 となるこ とを知悉 していたのだ。
Jesaisassezqu'ilexistedestroublesgravesdelapersonnalite,et quipeuventmemeallerpourlaconsciencejusqu'畠1apertedeson individualite:1aconsciencedemeureintactemaisnesereconna壬tplus commes'appartenant(etnesereconna壬tplus畠aucundegre)15).
「私 は人格 の深刻 な諸障害が存在す るこ とは充分承知 してい る。それ らは ついには意識 まで をも冒 し, その個性 を失 わせ るこ とさえある。 とい うよ り,意識は依 然 として無庇 ではあって も, もはや 自主性 をもっていると自 覚 で きな くな るのだ。‑‑・」アル トー は,精神 の病 とは,主体 の 自己統制 力の障害であ るこ とを承知 してい る。ただ しその際,人格 が深刻 に冒され,
もはや個性が失われて しまうまでになれば,そ こには主体 の苦悩 angoisse が生 じる余地 もない。主体 がそ もそ も存在 していないのだか ら。 いわばそ
こには人間の苦 しみはないのだ。
Ilyadestroublesmoinsgraves,oupourmieux diremoins
15)≪LettreえMonsieurleLegislateurdelaLoisurlesStupefiants≫,ibid.p.81.
essentiels,maisbeaucoupplusdouleureuxetplusimportantspourla personne,etenquelquesorteplusruineuxpourlavitalite,C'estquand laconsciences'approprle,COnna壬tvraimentcommeluiappartenant touteunes6riedephenomenesdeladislocationetdissolutiondeses forcesaumilieudesquelssamatさrialitesed吾truit16).
「深刻 さ とい う点 では これ よ り軽 い,とい うか,よ り本質 的 な らざる障害が あ る。 ただ しそれ らは, 人間に とっては, は るかに苦痛 にみ ち,重大 で,坐
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命力 に とっては どうや ら一層破 滅的 な障害 であ る。 それは,意識が その諸力 の一連 の解体,崩壊現象 に対 して, それがすべ ておのれに固有 を ものであ る こ とを自認 し,承 認 して しま うときだ。 その一連 の解体,崩壊現象の真 っ直 中で, 意識 の具体 性 は崩 れ きるのであ る。」人格 の完全 な喪失 ではない故 に深 刻 さ とい う点 では軽 いはずの こち らの障害が,人間に とっては るか に苦痛 な のは,主体 が主体 た りうる条件 であ るはずの 自己管轄権 を奪 われてゆ く過程 にあ るこ とを, 当の主体 が認識 してい る (主体 には 自己喪失 とい う自己意識 のみが あ る)か らであ る。 そ して, それが生命力 に とって一層破滅的 なのは, 動物 的生命 の即 日的 (即 時的) 自己充足性が失 われ てい る (身体 的生命感情 の喪失,意識 と身体 の疎 隔)故 に,狂気 とさえ呼ぶ に値 しない生命感情 の消 滅 (「意識 の具体性 は崩 れ さる」)に行 き着 くだろ うか らであ る。 アル トー に してみれば, この生命感 情 を抜 きに して正気や狂気 を云々す るこ とは欺橘的 なのだ。
Luciditeounon‑1ucidite,ilyauneluciditequenullemaladiene m'enleverajamais,C'estcellequimedictelesentimentdemavie physique. Etsij'aiperdumalucidit杏,lamedecinen'aqu'unechose畠
16)ibid.
faire,C'estdemedonnerlessubstancesquimepermettentderecouvrer l'usagedecettelucidit617).
「正気 だ とか狂気 だ とかい うが,いか なる病気 に よって も決 して奪 われない 正気 とい うものが あるのだ。す なわち,私 の肉体的生命感情 を私 に伝 えて く れ るものが それだ。‑‑」主体 の解体 を身 を以て経験 しつつ あ るアル トー に
とって,先験的に存在す る主体, そこに同一化す るこ とに よって諸個 人に社 会 的共通性 を帯び させ る規範 としての主体性 といった ものはひ とつの虚構 の 強制 で しか ない。 それは,直接 的な生命感情 に課 され る文化的 ・社会 的 な枠 にす ぎない。彼 はその生命感情 を失 ってい る故 にこそ, それが一つの作 られ た装 置で しかない こ とを知 っている。 この装置は, この装置 (関係性 を生み 出す装置) に よって構成 され る主体が, 自らを自然的存在 と思 い込み,従 っ て 自分 を構成す る当の装 置 もまた先験的な 自然的存在 であ ると思 い込 ませ る べ く,法律 で偽装 した権 力 を行使す る。「正気」 (肉体 的生命感情)の回復手 段 として麻薬剤 を服用 した経験のあるアル トー は, この点 を見抜 いていた.
Laloisurlesstupefiantsmetentrelesmainsdel'inspecteur‑ usurpateurdelasantepubliqueledroitdedisposerdeladouleurdes hommes,'C'estunepretentionsingulieredelamedecinemodernequede vouloirdictersesdevoirs畠1aconsciencedechacun. Touslesbele一
mentsdelacharteofficiellesontsanspouvoird'actioncontrecefaitde conscience:畠savoir,que,plusencorequedelamort,jesuislema壬tre demadouleur. Touthommeestjuge,etjugeexclusif,delaquantite dedouleurphysique,ouencoredevacuitementalequ'ilpeuthonnete‑
mentsupporter18)・
17)ibid.pp.81‑82.
18)ibid.p.81.
「麻薬剤 に関す る法律 は,公衆の健康 の検 閲官兼纂奪 者の手に,人間の苦悩 を左右す る権利 を委 ねて しまうものだ。人 それぞれの良心の上 に, 自らの義 務 な るもの を押 しつけ ようとす るのは,現代 医学の奇妙 な 自惚 れである‑‑」
麻薬剤 は人の健康 と正気 を損 な う,故 に法律 はこれ を規制す る。 な らば,法 律が定め る健康 と正気の規範が あるのか といえば,直接 的にはそ うではない。
法律 に抵触 しない ように医療関係が構成 され, その関係 に諸個 人が 自らを対 象化 してゆ くところに, おのず と法律 を遵守 しつつ その医療関係 を実現す る 主体 (患者)が形成 されてゆ くのだ。 アル トーはその よ うな主体 を拒否す る。
彼が被 った電撃療法 につ いて も事情 は同 じである。 これは法的権力の代行 と して, 身体 に直]妾加 え られた暴力に他 な らないのだか ら。逸脱 (狂気) に対 す る規範 (正気)の側 か らの制裁 であ り,順敦 の技術 といえる。 アル トー は, その ような主体形成 (拘束)の関係性 の技術 (詐術)を断 じて認め ない。 「す べ ての人間は,誠心誠意 自分 が どれだけの肉体的苦痛 に耐 え, どれだけの精 神的空虚 に耐 え られ るか を判定す る裁判官であ り, それ も唯一 の裁判官なの
だ。」
この よ うに、十全 に 自分 自身に対す る唯一の裁判官 である人間 とい うのが, アル トーの求め る主体 であるはずなのだが, これは,純粋状態 であ らか じめ 存在す る個 人ではあ りえない.(Ilyadesimbecilesquisecroientdesetres, etresparinneite19).「われ こそは存在す る人間だ,先天的に存在す る人間だ
と信 じてい る馬鹿者 どもがい る。」)それは, あ らゆ る関係性へ の主体化 (従 属)の拒否 を通 じて 自己を探 り, その関係性 の外 で 自己を実現 しよ うと図 る, 皮 ‑主体 である。 これは, いか なる関係性 (意味性) をも呼び込 む以前の地 点に しか あ りえない故 に,ゼ ロ記号 として概 念化 で きそ うではあるが,実走 的に指示 しうる固定 した単一存在 ではないo この反 ‑主体 は,与 え られた関 係 に主体化 してゆ く (自らを対象化 させ る)技術 を行使 しない (拒否す る)
19)≪Prさambule≫言b3'd.p.ll.
故 に,半面盲 目ではあるが,思考 す るこ とをやめ ない。 そ してその思考 は, 生 その ものに主体化 しようと願 うのだ。
・‑‑jen'appellepasauoirdelapense'e,moi,voirjusteetjedirai memeDenserjuste,avoirdelapensee,pourmoi,C'estmaintenirsa pensee,etreenetatdeselamanifesterえsoi‑memeetqu'ellepuisse repondre畠touteslescirconstancesdusentimentetdelavie. Ma主s principalementsere'i)Ondreatsoi20).
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「私 は,思想 を持つ とい うこ とで,正 しく見 る とか,さらには正 し く考 える とい うこ とを意味 しているわけではない。私 に とって思想 を持つ とは, 自分
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の思考 を維持 しつづ け るこ と,自分 自身にそれ を明示 しうる状態にあること, そ して思考 が感情 と生のあ らゆ る状況 に呼応 しうるものであ るこ とを意味す る。 とりわけ重要 なのは, 自分 自身に対応 しうるとい うこ とである。」この よ うな思考 す る主体 (皮 ‑主体) は, そ もそ も主体 とは関係性の中で 自らを主 体 として実現す るこ とに よって構成 され るものであるか ぎ り,現実 の中に場 を持 ちえない。 とはいえ, それは存在す るはずである。 なぜ な ら,存在‑の 意欲 としてのその反 ‑主体 が なければ, いかなる関係性 を前提 して も, その 関係性 を現実化 す る主体 が生成す る契機 もあ りえないか らであ る。
Ilestsidurdeneplusexister,deneplusetredamsquelquechose. Lavraiedouleurestdesentirens°ideplacersapensee. Ma主sla penseecommeunpointn'estcertainementpasunesouffrance.
J'ensuisaupointoもjenetoucheplus畠1avie,maisavecenmoi touslesappetitsetlatitullationinsistantedel'etre. Jen'aiplusqu'une
20)≪LettreえMonsieurleLegislateur・‑・・≫,ibid.p.81.
occupation,merefaire21).
「もはや存在 しない,もはや なにかの中にいない とは,実 に辛 い。真 の苦痛 とは, 自分 の中で思考 が位 置 を変 えてゆ くと感 じるこ とだ。 だが,一つ の点 の ような思考 は,確 かに苦 しみ ではない。/今や私 の到 り着 いた地点 では, 私 は もはや生 に触 れていない, だが,裡 には,存在‑ の噂欲,存在 の執物 に くす ぐる快感 を抱 いた まま。 もはや私 の仕事 はただ一つ,私 自身 を作 り直す こ とだ。」これが,アル トー の生涯 の企 て となる。ただ し,このアル トー の「私」
とは,作 品 を生み 出す主体 で もなければ (Lえ Oも d'autresproposentdes αuvresjenepretendspasautrechosequedemontrermonesprit22).「他 の連 中が作 品 を差 し出す ところに,私 は 自分 の精神 以外 の なに もの も示 すつ も りはない」),作 品化 され た主体 で もない (Cequevousavezprispourmes
∝uvresn'etaitquelesdechetsdemoi‑meme,cesracluresdel'まmeque l'hommenormaln'accueillepas23). 「君 らが私 の作 品 とみた ものは,実 は私
自身の裁 ち屑,通常 の人間には受 け入れ られぬ魂 の削 り暦 で しか なか った」)0 では, この 「私」 とは何 なのだ ろ うか。
令
アル トー は, 「私」と語 る人間の起源 に 「主体 」を見 出 さなか った。 この主 体 が解体 してゆ く経験 の過程 で, なお も 「私 」 と語 る身体 に行 きつ いた。 し
か しこの身体 もまた起源 ではあ りえない。 身体 を介 して人間は歴 史の 中に投 錨 され,様 々 な関係性 を実現す る主体 として形成 されてゆ くのであ るか ら, この身体 もまた, この関係性 に従属 す る主体 の下支 えであ る。人間は, 身体 に よって, それ以上分割不可能 な個 人 として関係性 の中に登録 され, その身
21)≪LePese‑Nerfs≫,ibid.p.117.
22)≪L'OmbilicdesLimbes≫,ibid.p.61. 23)≪LePese‑Nerfs≫,ibid.p.114.