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雑の研究(中間報告)

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雑の研究(中間報告)

著者 大岩 圭之助

雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =

Annual report of the Institute for International Studies

巻 20

ページ 29‑43

発行年 2017‑10‑01

その他のタイトル About "Zatsu"

URL http://hdl.handle.net/10723/3261

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雑の研究

圭之助

本稿は2016129日に行われた、共同研究「雑の研究」のメンバー二人による公開の対談 をもとに、その後加筆を重ねてできたものである。これをもって、三年計画の共同研究の二年目 となる2016年度の研究活動の中間報告としたい。

ザッツ・イット!

~雑をキーワードにポスト7・26時代を考える~

対談者:高橋 源一郎 ×辻 信一(大岩 圭之助)

場所:横浜市戸塚区善了寺

辻:皆さん、こんばんは、カフェ・デラ・テラへようこそ。まず前置きですが、このカフェ・デ ラ・テラはぼくのゼミの学生たちと、この善了寺と、戸塚東口商店会の方々とが、組んでつくっ NPO です。カフェ・デラ・テラという名の通り、カフェとテラとが結合して、さらに大地の テラをかけて、エコロジーの運動を展開する。また寺とはそもそもコミュニティにとってのカフ ェのようなものなのではないか、という発想で、現に、こうして毎週のように“カフェ”を開き、

イベントを行っています。ぼくとゼミにとってここは一種のキャンパスでもある。学生諸君はこ こでのイベントの度に料理や飲み物を用意しています。将来的にはこれを本物のカフェに育てよ うという思いを抱いてやっています。

さてカフェ・デラ・テラでは、2016 年)夏以来、シリーズとして一連の集いを催してきまし た。7・26 事件、つまり、あの相模原の障害者施設での痛ましい殺傷事件をきっかけに、「ポス 726」という議論の場をつくったわけですが、今回が三回目となります。今日は、以前の

「弱さの研究」に続いて、現在「雑の研究」にぼくと一緒に取り組んできた高橋源一郎さんに来 ていただき、これからトーク――「雑の研究会」なので、ぼくは“雑談”と呼ぶ――を始めたい と思います。

そもそも「雑」とは何か。広辞苑によると、種々のものが入りまじること、主要でないこと、

粗くて念入りでないこと、といった意味をもっている。これらの意味はどれも、効率性や均質性 や合理性を特徴とする現代社会においては負の価値や否定性を表しているようです。「雑という 弱さ」という言い方もできるでしょう。その意味で「雑の研究」は、同じ二人で以前やっていた

「弱さの研究」を引き継ぐ試みでもある。そして、「雑という弱さ」が秘めている可能性に光を 当てることで、深まる現代社会の危機を越えるための道筋を見出したいという思いなんですね。

そんなわけで、今日のこの集まりがここにある、ということをなんとなく理解していただけた ら幸いです。では、高橋さんの方から、お願いします。

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高橋:では、今日の基調報告という感じでまず話してみます。

辻さんは「ザッツ・イット」ですが、僕の仕事は「ザッツ・エンターテイメント」かなと思っ ています。ところで、みなさん、知っていますか、ミュージカルの名場面を集めて作った映画で

「ザッツ・エンターテイメント」という作品があるのを(観客数名手をあげる)。よかった(会 場笑)。最近わかったことなんですが、みんな知っているだろうなと思って話して、実はほとん どの人が知らない、ってことが多いんです。この前、衝撃的だったのが、大学で「シン・ゴジラ」

の話をしたんです。それは核兵器と映画、核と映画というテーマで話しているときのことで、

「シン・ゴジラ」は観ていないかもしれないので、とりあえず、同じようなテーマで作られた映 画で、誰でも観ていると思って、「風の谷のナウシカ」の名をあげて、観た人は、と訊ねたら、

七分の一ぐらいしか手が挙がりませんでした。そこにいたみなさんは、学生だったんですが。

「風の谷のナウシカ」は国民作家といってもいい、宮崎駿監督の最高傑作です。核の恐怖を描い たアニメといってもいいと思うんですが。若い世代にはあまり観られていないんですね。あんな にテレビでもやっているのに。国民的教養というか、世代を超えて共有される文化というものは もう存在しないのかもしれません。それどころか、どんどん細分化されていて、それでもこれぐ らいは共有されているだろう、というものすら無くなっていく。コミュニケーションが存在する ためには、共通の何かが必要です。言葉であるとか、共通の文化とか。それがないとコミュニケ ーションの前提が揺らいでしまう。そんなわけで、話の途中で一瞬、絶句してしまいました。よ く古典的な教養という概念がなくなった、とか、そもそもみんな本なんか読まなくなった、とい うのは当然としても、アニメとか漫画とかテレビとか、そういうサブカルチャーだったりエンタ ーテイメントのものすら同じ運命をたどっています。音楽もそうです。レコード大賞を取った曲 について、50 人に訊ねたら、誰一人知らなかった、なんてこともある。もうみんな、完全に蛸 壺の中に入っている、という前提で考えなきゃならないのかもしれません。

そんな中で、共通しているのはいわゆる「スマホ」とか、「フェイスブック」といったツール です。ぼくの家庭でも、二人の子供がまだ小学生なんですけど、ほとんどテレビを見ないんです。

なぜか、知ってます? YouTube のせいです。彼らはカリスマユーチューバーの動画を見てるん です。この間、PenPineappleApplePen って流行りましたよね。ああいうのはもちろん知っている。

ほんとに初期の頃から。今小学生の9割、いやもしかしたら、100パーセント近く知っているカ リスマみたいな大学生のユーチューバーは何百万もフォロワーがいて、彼がアップした動画を見 て何十万人もが反応するわけです。じゃあ、その大学生のユーチューバーが何をやっているかと いうと、おふざけやダジャレみたいなものなんですね。それ見てげらげら笑ってパパ面白いでし ょってぼくに言ってる。それで小学生同士が盛り上がっている。ということを親はほとんど知ら ないんですね。とにかく、テレビはあまり見ない。そういう、蛸壺というか分断、文化的分断が 爆発的に進んでいます。僕は、時々、iPad を子供に貸すんですが、そこによくわからない履歴 が残っています(笑)。何一つ理解できない。そういう、大人たちとはまったく異なった文化圏 に彼らは生きている。でも、彼らは、少し前までは、ジブリ観てたんですけどね。最近は観ない けど。

辻:そうか、そういえば以前は毎年のようにジブリをテーマにする卒論があったのに、ここのと

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ころ出なくなった。

高橋:今の子はあまり観ません。ただ面白いのは、ジブリの映画は観なくなったけど、この夏は うちの子供たちも、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」は観にいったんです。そして、感動してい ました。だから、ひとつの事実としては、若い世代ともっと上の世代の間に文化的分断がある。

でもうひとつの事実は、そんな分断があるにもかかわらず、内実はそんなに変わってないのかも しれない、ということです。つまり、絶望と希望がある、ということですね。その上でちょっと お話をさせてもらいます。

辻さんと僕で「弱さの研究」というテーマで共同研究をやりました。それはどういう内容かと いうと、まあすごく単純化して説明すると、こうなります。この社会には社会的弱者がいます。

それは認知症の人だったり身体障害者だったり、難病でもう寿命が残り少ない人だったり、社会 的には彼らは弱者で役に立たなくてできたらいないほうがいいとされているんですね。相模原の 事件が示しているように、です。でも、そうじゃない。弱いと思われている人たちが、実はその 周りの人びとに力を与えてる例がたくさんあった。もしかしたら、この社会は、そんな弱さこそ を必要としているのではないか。そんな研究を僕たちは3年にわたってしてきたわけです。それ は、実のところ、そんなに難しいことじゃありません。たとえば、家の中に病人がいるとするで しょ。家族が、お父さんお母さんが倒れたらどうしようと思いますよね。でもその時になって初 めてお父さんを介護する、お母さんを介護するとなった時、今までにしなかった経験をすること で周りの人間が新しい段階に踏み込むことができるんです。介護するときって、最初はうまくサ ポートできないんですよね。弱い人間に向かい合ったことがないわけですから。だから、変わら ないとサポートできない。つまり弱い人がいるおかげで、自分も変わらざるをえなくなる。じゃ あ、変わってどうなるのか。ある意味で強くなる。でも、単純に、ではありませんが。とにかく、

ある困難な事態を前にして人間が変わっていく、その中心には「弱さ」がある、というのが「弱 さの研究」のテーマだったわけです。

「弱さ」についてはある程度、見通しがついたので、次に何をやろうかということになりまし た。そこで、辻さんから提案があったのが、「雑」という問題です。いいな、って思いました。

「弱さ」というのは、具体的にイメージできますよね。弱い人間、弱者、というふうに。でも

「雑」は難しい。なんでもあり、だから、具体的にイメージしにくい。とにかくやってみよう、

というわけで共同研究を始めました。実は辻さんとの共同研究と並行して、僕は朝日新聞で論壇 時評という名の社会評論を2011 年から丸5年書いていました。そこでは、一応社会について考 え「現場」に行き、言葉にする作業をずっとやってきたわけです。その仕事が一段落つきそうに なったところで、「雑」というテーマが与えられた。そこで、その「社会に関する研究」で自分 がやっていることを改めて見返してみると、これは「雑の研究」じゃないか、って気づいたんで す。最初から「雑」ということを考えていたわけじゃありません。次々、目の前に現れる社会の 変容と事件を言葉にしていったとき、これは要するに「雑」を扱っているんじゃないか、って気 が付いたんですね。

色んな例があるんですが、例えばロシアのクリミア侵攻問題です。ロシアとウクライナがクリ ミアを巡って戦争状態になった。これはもともと政治の問題であり国家と国家の問題です。この

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問題について、たくさんの「専門家」がいて、そういう人たちが色んな本を書いたり、色んなと ころで説明や解説をしていた。そこで書かれたものを読んでも、正直何一つピンとこなかったん です。何か足りないなあと思っていました。ところが、雑誌「現代思想」のクリミア問題をめぐ るロシア特集を読んで、初めて腑に落ちた気になったんです。そこでは、専門家ではなく、ロシ アの作家たちが、クリミア問題について書いていました。専門家たちは、ロシアやクリミアの言 い分について書いていました。しかし、作家たちが書いたのは、中でも、僕の好きなイリヤ・ウ リツカヤという作家が書いたのは、クリミアという場所の歴史と描写だったんです。世界が問題 視しているクリミアってどんなところか知っていますか? 実は、誰も知らない。みんな、抽象 的な政治や情勢や国家の話だけをしている。実は、問題となっている場所がどんなところかを教 えてくれる人は一人もいなかった。ただ、ウリツカヤのような作家だけが、それを教えてくれた のです。クリミアは、ウリツカヤにとってふるさとのような場所でした。また、同時に、彼女は、

そこがたくさんの異なった民族が混じり合う場所であることを知っていた。彼女には憤りがあっ たと思います。そこには生きている人たちがいて、歴史があった。なのに世界中で話されている クリミア問題には、そのことが一つも触れられてはいない。実際には、クリミアは無視されてい た。だから、私がクリミアを描写する、と決めたのだと思います。そして、彼女が書く文章の中 に、生々しいクリミアは立ち上がってきた。つまりクリミアという時空間の複雑性がそのまま立 ち上がってきた。何かを論じるとき、それを政治の問題に還元してしまう。それは、単純にする、

ということでもあるのです。要するに、クリミアを政治の言語に翻訳してしまうのです。本来は、

とてつもなく複雑なクリミア問題を単純なクリミア問題にしてしまう。それこそが、政治の目標 でもあるわけです。それに対して作家は「ただ私はクリミアの歴史を描写する」と言った。そし て、そのことを実行した。もちろん結論なんか出ない。「私のクリミア」あるいは、「一人一人の クリミア」が浮かび上がってくるだけなんですから。

作家の仕事は複雑なものを複雑なまま表現することです。でも、いま、ぼくたちが目にしてい るのは、なんでも、複雑なものを単純化して理解する、単純なものにして比較すること。それが 当たり前になってるんですね。学問もそうです。フィールドワークして、結論を出す。100 人の 人間をフィールドワークしてそれを分析してまとめる。その結果、最初にあった100人の「雑」

は消えているわけですよね。でも、これはある意味しかたがない。単純化、あるいは抽象化しな いと、理解するのが困難だからです。

でもそれを運命だと言っていいのかということですね。そういうとき、セオリーとか原理に還 元するのではなく、生々しい歴史と事実、そこから出ないという選択があるんです。それこそが、

複雑性の問題、要するに「雑」ということだと思います。ぼくたちが今問われてる多くの問題が 生まれる理由は、「雑」を消去してもっと単純な何かに還元する、一種の還元主義のせいなのか もしれない。

ここで、この問題を強引に相模原事件に引きつけて言うと、まず、目につくのは、犯人が「障 害者は役に立たない」という非常にシンプルな考え方に陥っていることです。20 人、30 人と障 害者がいれば、みんな違うわけじゃないですか。障害の質も、度合いも、個々人の歴史も。しか し、そんな、個別の違いは無視されてしまう。なぜなら、社会がそうしているからです。いわゆ

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る「健常者」と「障害者」の間には、無限のグラデーションがあるはずなのに、とりあえず「障 害者」と名付け、彼らは単に保護されるべき対象に過ぎない、と告げて、そこに本来あるはずの

「雑」を消去してしまう。

彼らは弱いから役に立たない。だからお金出して助けてあげる存在だ。だから、おとなしく社 会の片隅にいろというわけです。相模原事件の犯人は、「障害者は役に立たないから死んだ方が いい」と言っています。それは、彼の思想というより、実は、「社会の声」なんだと思います。

いや「隠された社会の本音」です。障害者は役に立たないから死ねというのは、還元された社会 の言葉なんです。そういう社会の洗脳の中でぼくたちは生きている。洗脳されるのは、単純なこ とばによって、です。複雑なものを洗脳することはできない。単純なものと複雑なものとの歴史 的なバトルが始まっているのかなと感じています。

辻:単に複雑なものが大切だというのではなく、複雑なものを複雑なものとして掴もうとするこ とが大事だということですね。その複雑さを何かに還元したり縮減したり、リデュースしないで。

そうした還元や縮減が合理主義の特徴です。そうやって縮減し、単純化し、整理していくという 流れの中では、文学とか人類学は、よく「雑学」と見なされ、バカにされる。両方とも、どこか 複雑さを複雑さのまま掴むとか、提示するとかいうところがあるから。

高橋:もう1つだけいうと、相模原事件って匿名なんです。名前がない。どういうことかという と、あそこで殺されたのは「障害者たち」であって、××さんという固有名詞は避けられている。

それに対して、文学は基本的に登場人物全員に名前をつけるんです。主人公、兄、弟、じゃない でしょう? 名前をつける。それは、ここに個人がいると宣言することなんです。根本的には全 ての人間に名前をつけて、登場人物には全て違った経歴がある、それがぼくたちの仕事なんです ね。だから複雑なものを複雑なままでということは、具体的には、まず名前をつけることでもあ る。名前をつけると A B で違いがでてくる。同じ病気、同じ背格好、同じ家族であっても違 うんです。その時、初めて違う人間がいるってことに気づく。

辻:容疑者が「障害者は生きる意味がない」と言ったことと、名前がなくされてしまったという ことは、実に響き合ってしまっていますよね。意図せず同じ次元に立ってしまっているという気 がします。

つい数日前、NHK の若い人たちが相模原事件のことをドキュメンタリーにしたのを見たんで す。事件のあった施設の元職員二人が、自分たちは犠牲者になった人たちにかつて会ったことが あるんじゃないか、彼らのことを思い出すことができるかもしれないという思いを抱いて、自分 の足で取材して歩くんです。その犠牲者たち一人ひとりの生きざまに少しでも触れ、確かに生き ていたんだ、という実感とか、温もりのようなものに触れたいと思ったようです。

一人の犠牲者の女性は、番組では名前も出ないし、写真もぼかされて見えないんですが、とて もリボンが好きだったという証言に基づいて、「リボンさん」と仮に名前をつけて、その痕跡を 探していくわけです。彼女が行っていたという食堂に行くと、そこのおかみさんが、確かに「あ の人、リボンが大好きだったのよ」って。何のリボンかというと煎餅とかが入っている袋を閉じ るのに使うリボン。リボンがひらひらと動くのが好きだったらしい。それから食べた後の袋で、

カシャカシャと音をたてながらいじるのが好きだったらしいんです。そのことを思い出しながら、

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おかみさんは感極まってしまって涙を流す。そして、それを喜んでくれていたあの人の姿を思い 出して、今わかった、と言う。実はそれは彼女だけじゃなく、私にとっても喜びであったという ことが、と。

意味がない動作ですよね。空の袋をカシャカシャするなんて。こんなことに何の意味もない、

と片付けそうですよね。しかしその一見意味のないそのことをめぐって、生きているもの同士が ちゃんと、心を通わせて、コミュニケーションをとって、繋がるという場面が間違いなくそこに あった。そのことをぼくたちは、意味がない、などと簡単に片付けられるか、ということです。

普通ぼくたちが「意味がある」とか「ない」とかと言うのは、その社会特有の意味の体系の中 に特定の位置を占めているか、いないか、ということです。言い換えれば、「意味がある」って ただそれだけのことで、それ以上のことではない。「生きる意味がある」と言うのも、だから日 本の現代社会にある広がりをもった通念にすぎない。「働けなくなったら生きている意味がない」

とか、「入学試験に落ちてしまったら生きている意味がない」とかと当たり前のようにいうけど、

人々にそう感じさせる社会的な枠組みの外に出たら、そういう考えは、それこそ「意味」がなく なってしまう。つまり、「意味がある」、「ない」って相対的なことなんですね。それに気づけば、

意味のシステムの中に自分が生きていること自体が問題になってくる。それを当たり前で済ませ ておいていいのだろうかって。

高橋:生きている意味、それは弱者であろうと病人であろうと全ての人間にあって、我々自身、

生きている意味は何かと言われたら呆然とせざるをえない問題ですよね。ところで、今朝ラジオ の収録をしてきたんですが、今日のゲストは少し変わった人で、W さんという介護離職の専門 家の人でした。介護離職とは介護するために職をやめることです。年間 10 万人ずつぐらい増え ているそうです。つまり認知症が増える、高齢者が増えるといった中で、あまり気づかれなかっ た介護離職の問題が浮上してきた。ほとんどの人は、家の誰かが要介護者になったらどうしたら いいかわからないんです。行政って、こちらから出向かないと教えてくれないんですよね。だか らみんなパニックになってしまいます。そもそも誰に聞いていいかさえわからない。それで問題 を抱え込んで職を辞めて、要介護者と共倒れしていくんです。W さんはそこから逃れたんです が、W さんはずっと介護離職に取り組んで、去年母親がうつになって、自分も介護をするよう になったそうです。そしたら、この問題のプロなのに、本当に大変で母親を殺しそうになってし まったとおっしゃったんです。母親はうつと認知症が進んで全く言うことがわからなくなってし まった。薬も飲んでくれないため、薬飲ませてペットボトルを無理やり口に突っ込んだ。食べ物 も食べないから柔らかくなったキュウリを口の中にギュウギュウ押し込んだりした。そしたら突 然、このままだと母親を殺してしまうと思って自分の部屋に逃げ込み、外に出られないようにド アにトランクを積んだそうです。自分が外に出たら殺すかもしれないから。それから、結局お母 さんを施設に預けることにして、少しずつ、落ち着きを取り戻してゆく。それぐらい、介護って 孤独でつらいところがある。でも、介護には別の側面もある。辻さんと「弱さの研究」をした時 わかったのは、そういう苦しみを経て辿り着くのは、生きることそのものに価値がある、という 気づきなんですね。それまでは親ともそんなに仲良くなくて、なるべく関わりたくなかったけれ ど、晩年介護するようになって世話をして、ふと気がつくと母親の手を握っていたりする。50

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年ぶりに。そして、手を握れてよかったと心の底から思って、その時、大きな自己肯定ができる んです。生きていてよかったと。何のために生きていたか。それは、最後にお母さんの手を握り しめるためだった、と気づく。自殺したり殺してしまったりする人間もいる中で、それを乗り越 えて辿り着く場所は、その弱い親と共に生きることで生まれる大きな自己肯定なんですね。自分 は生きていてよかった。お父さんもお母さんも生きていてよかったんだ。ある意味で、宗教的か もしれないですが、実は誰でも辿り着ける。結局生きる価値は何かっていうと、自己肯定するこ とだと思うんです。しかし自己肯定って一人じゃできないんですね。他の誰かがいて、その人間 を肯定できた時、向こうの方からお返しのように自己肯定がやってくる。そういう構造なんです ね。それが「弱さの研究」でわかったことですが、同じことを、今回 W さんの話を聞いて思い ました。

いま生きる価値が何かということが問われて、それから何かを殺すってものが目の前に現れる 時、こちらからやっぱり生きる価値はこれだってものを出さないと弱いですよね。というか、生 きる価値があるよっていう言い方はそもそも弱いものなんです。あるかなきかのものですね。

辻:そう言えば、「意味」と「価値」を、吉本隆明さんは区別していましたね。ぼくたちの暮ら しは意味のない時間に満ちている。「こうしていることにどういう意味があるのか」なんて考え ないし、もし考えるとしたら、それこそ、人間本来のあり方からは遠ざかっているんじゃないか。

一見意味のない、無名な人たちの生き方にこそ、価値があるって・・・

このことを考える上で参考になるのが、先日ここで、やはり「ポスト 7・26」の集いに来てい ただいた三好春樹さんの言葉です。よく介護をめぐって、「・・・に意味があるか」といったよ うなことをよく言うけれど、「意味」がなくちゃいけないのか、「意味」なんかなくていいんじゃ ないか、と三好さんが言うんですね。三好さんは人類学が好きで民族誌をよく読んでいているだ けでなく、介護関係の人たちを連れて毎年インドのスラムに通ったりして、自分が依って立って いる意味の体系が揺さぶられるという実体験を大切にしてきた。だから文化相対主義的な考えは 三好学の基本なんですね。だからこそ、「意味がある」とかというその意味なんて大したことで はない、という発想が自然に出てくるんでしょう。

三好さんとのこの場でのイベントには、伊永紳一郎さんという方がわざわざ遠くから来てくれ ていたんです。実は、この伊永さん、726 事件が起きるちょっと前に「ブリコラージュ」とい う三好さんが編集主幹をやっている雑誌に、介護者による虐待という問題について寄稿していた。

「介護げんばの虐待論」という特集だったんですが、726 事件以降、あれこれ読みながら考え ていたぼくは、彼の文章に感銘を受けたんです。

虐待をしてしまう、あるいはしそうになってしまう介護者が少なくない。でも、虐待のニュー スに接する時の介護者の反応には、「自分にはそれほど関係がない」と言いたげなものが多いと 伊永さんは思った。そして、「これこそが、虐待が連綿と続いていく根本的な原因なのではない か」と言うんです。

だから今度の7・26事件でも、それをきっかけに介護者の中に蘇ってくるものがいろいろある。

「もしかしたら俺も、何かがちょっと違っていたら、殺してしまったかもしれない」と、そうい うことを考える人がとても多いというんです。で、伊永さんの726事件前の文章から少し引用

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すると、2000 年に導入された介護保険制度によっての、保険の基準が「要介護度」となった。

彼によると、「要介護度とは社会に対する迷惑度のランキング」なんだ、と。

「人を迷惑度で測る精神性が、ひとを大事に扱うだろうか。虐待はすぐそこにあるのではない か」10頁)と伊永さんは書いています。そして、次が、ぼくが特に気に入ったくだりです。

「僕らが虐待するのは、僕らと同じように、経営効率や誰かの保身のために冷遇されている存 在だ。相手をよく見てほしい。僕らはこのよくできたシステムの上で、共食いさせられているの かもしれない。虐待なんかさせられるんじゃない!」11頁)

これをちょっと言い換えると、私たち介護者はある意味の体系の中に取り込まれることによっ て、共食い、つまり、虐待させられている。「虐待なんかさせられるんじゃない!」というのは 強烈な一言で、ぼくにはとても気持ちよかった。いつまでもそんなシステムにとどまっていない で抜け出そうよ、というわけですが、じゃあ、どこへ、と言えば、それが「雑」なんだろう、と 思うわけです。

せっかく「雑」が出てきたので、もう一つ、つけ加えさせてください。実はこれも、「ブリコ ラージュ」の同じ特集号に出てくる介護職の藤渕安生さんという方の文章で、やはり感動的なも のです。彼も「介護現場の虐待」について書くよう依頼されたんですが、「僕が伝えたいのは、

虐待のことではない。僕たちから見えてるこの豊かな世界だ」23 頁)と言う。彼の言う「豊か な世界」とは何かというと、無意識に繰り返される日常の生活習慣、特に三大介護と言われる

「食事、トイレ、お風呂」です。大事なのは、それは単に被介護者だけでなく、介護者にとって も同じだということ。しかし、生活習慣の大部分が無意識に行われるから、繰り返されるその行 為の重要性に気づきにくくなる。そこで藤渕さんが言うには、「僕たちの仕事の大部分は、この 一人ひとりの生活習慣を支えることに費やされる。それそのものが重要な仕事であるし、このこ とを僕は最強に誇りに思っている」22頁)

生活習慣という毎日の暮らしに、意識的に向き合うという地点に戻ることが今こそ必要になっ ている、と藤渕さんは思うわけです。それは単に老人の介護についてだけでなく、一見ただ淡々 と、何気なく日常の暮らしを送っているかに見える介護者自身の生活を大事にするということで もあるんだ、と。言い換えれば、虐待という問題は、加害者自身の日常生活が疎んじられている ことに起因するのではないか、ということです。

単純な日々の繰り返しというのは、普通、「雑用」とか「雑事」とかとしてくくられるもので す。これにぼくたちはほとんど向き合わない。でも、ちゃんと向き合ってみると、実はものすご く面白いと藤渕さんは言うんです。そして、単純な日常というのが、実は、「まったく単純では なく繰り返しでもないのだということにすぐ気づく」23頁)と。

でもほとんどの人が気づかないで、日々の暮らしの大部分を「雑事」や「雑用」のバスケット に放り込んだまま、それらを軽蔑したり、疎んじたりしてきた。だから、藤渕さんはその「雑な るもの」の側に立って、こんなふうなスローガンを並べる。

「基本的な介護は時代遅れ、それでもいい」(22頁)

「もっと無駄をつくれ、合理的だというやつはウソだ、捨てろ、まずは一緒にいることにだけ、

本気で注視しろ。とにかく回り道をしろ」23頁)

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これらをまとめて英語(?)で言うと、「ザッツ・イット!」(笑)

――休憩――

辻:休憩中に蓄音機を聴いていただいたわけですが、生まれて初めてという人も結構いたと思い ます。ぼくは最近これにはまっていまして。今夜はやはり「雑の研究」ということで、「雑音」

というものの素晴らしさに改めて注目してみたい、と思ったわけです。思えば、CD で聴く音楽 というのは、選ばれ、整えられ、「雑」を切り捨ててしまった後の音。今聴いてもらった蓄音機 とは、同じ音楽でありながら、異次元に属しているほどかけ離れている。それを実感してもらえ たでしょうか。

ぼくが選んだ曲はルイ・アームストロングの「ダム・ボーイ」“馬鹿な奴”といった意味です ね。前半の話ではないが、「意味がない」として「馬鹿」にされたり、蔑まれたりすることに、

ぼくたちはもう少し気持ちを向けていかなければならないのかな。自分の中の「馬鹿な奴」をも っと大切にしたい、ですね。

高橋:去年『ぼくらの民主主義なんだぜ』という本を出しましたが、今月そのパート2を出しま した。

辻:そうそう、これが最初のに負けずに良い本なんです。

高橋:タイトルが、『丘の上のバカ』というんです。もともとビートルズの「THE FOOL ON

THE HILL」に由来しているんですね。皆さん「丘の上のバカ」と聞いておわかりの方いました

か?(会場ざわつく)いまは、結構知らない人が多いんです。「この意味は何ですか?」って。

辻:あの曲はビートルズのオリジナルでは・・・

高橋:ええ、THE FOOL ON THE HILLは、もちろんビートルズの曲なんですが、実はガリレオ のことを歌っているんです。ガリレオが当時、天動説ではなく地動説を唱えたことで、「あいつ は頭がおかしい」と周りから言われました。そのことを歌っているんですね。歌詞はどうなって いるのかというと、「丘の上にバカがひとり突っ立っている。ボーっとして空を眺めている。皆 はあいつのことをバカだ、バカだというが、実は彼は宇宙が回るのを見ているんだ」という歌詞 なんですね。つまり、バカな人間だと世間が勝手に認定する。それって少数派ってことですよね。

世間の人たちは常識にとらわれていて、その常識にとらわれない、そこから逃れた人間がいると、

バカだと言うんです。これは相模原事件にもいえることなんですけど、犯人はある意味で世間の 代表だと思うんです。彼が主張しているのは彼個人の意見ではなく、障害者なんかいらない、あ んなバカなやつらは、という社会の考えなんだと思います。

ところで、今公開セミナーを明治学院大学で行っているんですが、途中で中島岳志さんという 政治学者の方とお話をしました。彼は、いわゆる「秋葉原事件」(池袋連続殺傷事件)について、

本を書いています。今回の相模原事件は障害者を明確に狙った殺人でした。しかし、「秋葉原事 件」は違います。犯人は誰でもいいから殺したかったのです。彼は事件の前に何度か SNS など のメディアをつかって、今の社会の非情さについて訴えていました。そして、こういう社会が嫌 だ、誰か僕に答えてくれる人はいないかと呼びかけたんです。だが、結局彼に答えてくれる者は

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誰もいなかった。彼は、誰かに止めてほしかったんだと思います。自分が孤独であることが最大 の理由だった。だから、だから誰かが声をかけていれば彼の場合はギリギリで止めることができ たんですね。しかし今回の相模原事件はもう誰にも止められなかった。お前は一人ぼっちだ、っ ていう声で、最初は池袋へ人を導いたけれど、今回はさらに命令が強化されてしまった。

辻:“宇宙塵”というニックネームをもつ脳性麻痺のぼくの友人も断言していました。「彼は一度 すでに殺されている」と。

高橋:つまり彼自身がこの社会では意味がない、価値がない人間にされていた。だから、自分だ けが価値がないその状況は不公平だと思ったんです。少なくとも障害者は自分と同じように無価 値であるべきだと。結局それは、障害者に対してだけではなく、すべての人間に向かって言って いるんです。社会の中で抑圧され、鬱屈があって、その憤りがぶつけられている。そして、社会 の声に従って洗脳された結果、彼の憤りは障害施設に向かってしまった。この社会が産み出した 悲劇なんだと思います。

辻:あのあと彼に共感するという意見がネット上で広がっていたそうですね。さきほどの宇宙塵 が言っていたのは、それを「正しくない」として無視したり、とるに足らないものとして切り捨 てようとする態度はよくない、ということだった。メディアももっとそのことを正面から議論す べきだ、と。

確かに犯人がやったことは「わかりやすい」という反応はありましたよね。ぼくが授業で学生 たちに感想をきいた時にも、結構あった。

高橋:おおっぴらに賛成はできないけれど、それでいいんだという沈黙の声があったと思います。

さすがに「殺せ」とまではみんな言えない。もちろん、ヘイトスピーチの中には殺せという声も ありますが。さすがにそこまでは一般化していない。でも、不気味に、共感する声は広がってい る。社会が分断され、格差が作られてしまったとき、そんな社会に住む我々の気持ちは、はけ口 を求めて、どうしても弱いもの向いてしまう。前半で話した介護人の W さんの話ですが、介護 に対して知的で、きちんと状況がわかってる人ですら、介護の対象を殺そうと考えてしまう。ぼ くたちの中に、鬱屈や苦しみの末に、他の誰かを殺してしまう人間は潜んでいると思います。み んな、自分が生きている社会というものに根源的な不満を持っているんです。相模原事件は障害 者に向かっていったけれど、ほんとうは、社会に対して不満があったと思うんです。彼は事件の あと、自分が社会に受け入れられる気がしないと言っていました。つまり一緒に自滅してくれる 誰かを求めていたのでしょう。どうなるかわからないけど、今が辛いからとりあえず社会を壊し てしまえ、これ以上悪くなりようがないから壊してしまおうという考え方がきっとあるんですね。

辻:実際に植松容疑者はこの事件に関して、「ヒトラーが降りてきた」とか「世界平和のためだ」

とかという言葉を使っている。「そのために私は世界中の障害者を殺す用意ができている」とも 言っていた。そういうあまりにも単純で呆れてしまうようなことを言ってますよね。

高橋:でも彼の言葉は彼個人の考えではなく、社会に対して疑問を抱く人は多くいますね。

辻:世界がどんどん単純化の方向に向かい、単純であればあるほど人気を生むという傾向も増え ているという気はします。そういうのには要注意だと思います。前にいった還元主義、縮減志向 ともつながっている。その単純化志向が今回のような事件を引き起こしてしまう背景にあると思

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います。だから726事件は決して孤立した事件ではない。テロと区別すべきだ、という議論も 耳にしましたが、ぼくとしては、あれはテロに通じるものがある、一種のテロと考えていいと思 っています。また「日本的」だと考えすぎない方がいい。日本での事件だけど、世界中の状況と 切り離しがたくつながっている、と。

高橋:テロの問題もありますが、あれも根本的にはすべて自爆テロです。確かにイスラーム国の ように大きな被害をもたらすグループもあります。でも彼ら自身、最終的に自分たちがすべて殺 されると決心して行動している気がします。

辻:なるほど。ここでひとつ質問があります。『丘の上のバカ』の中に出てくるル=グインの話 はツイッターで流したのですか? 30 編ほどのものがバラバラにネットに出ているのを見ました が。

高橋:ツイッターで送ったものもあります。

辻:マメですね。あの長い式辞を訳して、それを小刻みにしてツイッターで流すなんて。ル=グ インは「左利きの卒業式辞」で、ぼくたち、特に男性たちの、縮減志向や単純化原理のようなも のを、女性として批判していますよね。でもユーモアたっぷりに。

高橋:良いなと思う人や言葉って、調べてみると、それを書いたりしゃべったりしているのは、

女性・マイノリティ・弱者の場合が多い。逆に男性・マジョリティ・強者のことば、ってつまら ないんです。

辻:「エリート」なんでしょうね。

高橋:そうそう、ことばがつまらないんです。だから、全然胸を打たなくて、説得力がないんで すよ。マイノリティの度合いが強いほど、ことばに、なんていうか、強度がある。典型的なのが、

女性でしかもユダヤ人の哲学者だった、ハンナ・アーレントですね。少数派に属する人間には、

多数派の人間よりずっと社会の矛盾が見える。ル=グインは先住民の研究をしていた父(文化人 類学者アルフレッド・クローバー)の影響のもとで、フェミニズムの香りの強い SF やファンタ ジーを書きました。要するに SF やファンタジーなんだけれど、どこか人類学の本のような、民 族や人種に関する描写がある。ぼくが引用したのはある大学の卒業式での式辞なんですが、それ が「左ききの卒業式式辞」です。この式辞の中に、実は左ききの話は一つも出てこないんです。

タイトルだけにしかない。左ききは、マイノリティを象徴することばなんですね。たとえば

SUICA は右きき用で作られていて、左ききの人間は手を交差してタッチしなければならない。

右ききの人間は、そのことを知らないけれど、左ききの人間は知っている。自分たちに向けては 作られてはいない、ということを、マイノリティは知っているけれど、自分たちに向けて作られ ていることに、マジョリティは気づかないんです。この式辞はある女子大で話されたものです。

女性はこの社会で、いわば「左ききの存在」だとル=グインは語りかけています。男性社会の中 で、負けずに戦うためにはどうすればいいのか。そして、戦う場所はどこなのか。彼女は、卒業 してゆく若い女性たちに、それは皆さんの足元にある、と言っています。女性は大地に根を張り、

その豊かな闇の中ですべてを見てた。男性たちが、いつも「空」を見上げて、空疎で観念的なこ とばを振りまいていたときに。だからこそ、よく知っている豊かな大地を見つめて、そこをあな たたちの戦う場所にしなさいと語っています。イデオロギーや宗教は、見上げた「空」の彼方に

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ある。だが、生きてゆくのに必要なものは、みんな大地から収穫されるのだ、と。男は、「空」

を見上げて戦争に行くけれど、そのさなかも、あるいは終わった後も、食事を作るのは女性の仕 事でした。そして、食事がなければ人間は生きてはいけない。そんな情景を歌った有名な短歌が ありましたよね。

辻:そう、それは土岐善麿の歌のことですね。鶴見俊輔さんがそれについて書いていました。

「あなたは勝つものとおもっていましたかと老いたる妻のさびしげに問う」という歌。

高橋:夫が、生活の足元を見ず何年も空気のようなものを見て生きていたことを、妻は知ってい た。でも、最後に夫もそのことに気づく。これはいつも同じです。マジョリティはずっと「上」

を見て生きてゆくけれど、マイノリティは、地べたを見てきたんです。

辻:男の方では、女性はバカで意味のないことばかりやっている、と信じている。

高橋:そうそう、俺たちは価値のあることしているんだぜと思っているんですね。でも実際はこ のざま。

辻:「このざま」ってぼくを指差さないでください(会場笑)

高橋:でもこれは、別に男と女の間で争えといっているのではありません。気付きが、まずやっ てくるのがマイノリティの方なのだ、といっているんですね。

辻:ガンディーの話なんですが、彼は問いを自分でたてて、それに答える、という書き方をよく していますね。これはインドの古代から続く知的伝統なんだと思う。それでガンディーは、まず こんなふうに自問する。

ガンディーさん、あなたは世界的な大セレブで有名人なのに、なんで口を開けば、玄米茶がう まいとか菜食がいいだとか、糸車を回せとか、そんな女の人みたいなことつまらないことばかり 言ってるんですか? もっと政治の大改革とか経済の大改革の話をしてほしいのに。

これって、もちろん、男の人からの質問を想定しているんでしょうね。それに対してガンディー はこんな感じで答える。

それはね、政治や世界の大改革も確かに必要でしょう。でもあなたは大改革が成し遂げられる まで、子どもたちのために朝晩、食事の支度をしたり、たまには家の掃除をしたりしないで済ま すことができますか、と。

そしてガンディーはこう言う。「自分の日々の暮らしさえちゃんと立てられない人に、果たし て政治や経済の大改革を実現することができるでしょうか?」。これが答えなんです。弟子たち によると、どうも彼は日々のお祈りの中で、「今日もまた女性に一歩近づけますように」と唱え ていたようです。

高橋:なるほど。

辻:つまり下へ、足元へ、雑へ・・・という方向に向かっていく、ということですね、この教え は。

高橋:では、その下に何があるかというと、泥なんですね。泥と闇でぐちゃぐちゃになった何か です。生活とか現実というものは、いつもそうです。確かに、上を見上げると、鳩が飛んでいた りお日様があって美しい。いつも上だけ見て暮らしていければ幸せかもしれない。でも、「下」

は、我々が生きている現実は、混乱しているし、ぐちゃぐちゃだし。でもそこに、我々が拠って

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立つべき全てがある。

辻:「生物多様性」は環境問題を考える上のキーワードですが、実は、多様性という言葉では言 い足りないんですね。無限ですから、自然界って。それでいて完全な調和を作り出している。多 様性を言い換えると「雑」です。その「雑」が実は調和であるという一種の理想を表現している のが自然界だと思うんです。

高橋:では、具体的にはどうすればいいのか。実は、決まったやり方はないんですね。まさに、

様々で雑なんです。例えば、最近、ぼくは、その時々で考え方がしょっちゅう変わるんですよ(笑) 辻:まさに「雑」だ。

高橋:昨日と今日で気分が変われば、結論も変わる。それでいいんだと思うんです。ある重要な 問題について意見を求められたとき、「以前はその問題に反対していたけど、今日のところは、

どっちともいえない」と言うと会場が凍りつきますけどね(会場笑)。だって、日々暮らし、

日々考えてゆけば、考えてゆくことも変わってゆく。いつも、途中経過しかない。真剣に考える と、そうなってしまうんじゃないでしょうか。だから、出たとこ勝負(笑)

辻:なんだか雑な方法論ですね。そして今日の結論としても雑(笑)

高橋:だからとりあえず今日はこんな感じっていうと怒られるんですよね、真面目な人から。昔 はぼくも真面目だったんですが、段々雑になってきたような気がします。思想家で詩人の吉本隆 明さんは、だれよりも論理的かつ精密でシリアスに、社会が抱える問題を考えてきた人でした。

その吉本さんが、晩年に出した対談本のタイトルが『だいたいで、いいじゃない』だったんです

(笑)。これには、ほんとうに感動しました、というより、不意打ちを食らった感じでした。だ って確かに現実ってものすごく複雑なのに、どうして結論をあっさり出さなきゃならないのか。

そして一度決めた結論を護らなきゃならないのか。厳密に考えれば考えるほど、物事なんて、だ いたいのことしかわからないものじゃないのか。思えば、吉本さんにとって、ある意味で思想的 には最大のライバルだったはずの、哲学者の鶴見俊輔さんのバックボーンになっていたプラグマ ティズムという哲学は、根本に「非原理主義」、何ものも型にはめない、まさに雑の世界の思考 だったように思えます。

辻:型があったら崩して行く。まさに鶴見さんが「不定形の思想」と呼んだものだな。

高橋:結論が出ても、そこに留まらず、またそれを元に戻して見直してゆく。時間がたって条件 も変わり、自分も変わってゆく。だから、絶えず見直さなきゃならない。そのためには、いつも 目の前の世界を柔らかく見て行く。でも、そういう無駄なことをやる人間は、社会にとっては

「バカ」なんですよね。

辻:ぼくが鶴見さんと会ったのは、カナダの大学に客員教授で来た彼の最初の講義で、その時の テーマが「転向」だったんです。英語で彼は「転向」という言葉を“リディレクション”と訳し ていた。これがぼくには新鮮に思えた。それまでは「転向」って、すごく重苦しい言葉だったか ら。

高橋:思想や信念を強制的に変えられてしまう、とか、裏切る、とか、そんなものではなく、単 に方向を変える、というものだと考えるわけですね!

辻:そう、ただそれだけ。普通は転向というと、宗教の転ぶというconversionとかものすごく重

(15)

い言葉をあてる。その重さはある種の罪の意識と関係していると思う。でも彼はただそれを

redirection と訳して、それを聞いたぼくは、爽やかな風が吹きわたるのを感じたんです。そう考

えたら毎日ぼくたちは朝から夜までの間にも転向するし、気分も感情も体の調子も違うから毎日 が転向ではないですか?

高橋:そう、それで良いと思います。ぼくは、人間がすごいと思うのは変わりゆくから、あるい は変わりうるからだと思うんです。だって、どんなことでも厳密に考えれば考えるほど何が何だ かわからないじゃないですか。そして、もう一つ大切なのは、考えることと行動は、まったく別 ものだ、ということだと思います。例えば、何か社会の現実を変えるために、3 年くらい家に引 きこもって学んで考えて、誰もたどり着いたことのない立派な「政治思想」が完成したとします。

そして外に出てみたら、その「思想」で解決するはずだった現実が、すっかり変わってしまって いたりする。すべてを準備して、思想的に武装して、現実に立ち向かう。そんなことをする必要 はない、とぼくは思います。必要があれば、思いつきで行動する、発言する、街頭に出る、誰か と話す。そして、同時に、生活し、本を読み、好きなことをする。そのときそのとき必要と思う ことを、さっさとすればいい。

辻:そしてその合間合間にも、子供の世話をしたり、また掃除をしたり、ご飯作ったり、庭仕事 したり・・・。

高橋:ぼくは、ここ数年の政治的な動きを見ながら、やはり、政治学者の丸山真男がかつて言っ たように、ふつうの人たち、市民は、政治にパート参加すればいいと思うんです。全面的に関わ るか、何もしないか、ではなく。出来るとき、やりたいとき、動けるときに参加する。だって、

他人事ではないんだから。今日出た話のように介護だって、何もかも自分で全部やろうとするか らきついんです。できることだけやったらいい。Wさんが13年かけて出した結論が、できるこ とだけやる。それは当たり前でしょう? ところがみんな全部やれっていうんですよね。たとえ ば、反安保闘争に参加した人が他の運動に参加しないと、それはおかしい、とか。そんなことは ない。やりたいことやれることをやって、できなかったり気の進まないことはやらない。それで いいんです。これも雑の思想だと思うんです。いつも「途中」なんです。今日はできないけれど、

明日、もしかしたらできるかもしれない、明後日は腰が痛くてできないかもしれない。それなら 腰痛のために整形外科に行けばいい。こんなふうに、自分をメンテナンスしながら、日々自分も 変わり自分の考え方も変わり、そうすると変わって行く自分に応じて世界も変わってゆく、とい う中で生きていくしかないんです。そもそも、生きるということは雑を生きるということ以外に ないはずなんだから。だって原理を生きるとテロに走るしかなくなっちゃうでしょう(会場笑)。

でも社会はそういう、単純化する傾向を持っていますよね。社会には「原理」があるから。

辻:そうですね。それでその原理化の傾向が加速してますね。

高橋:はい。まさに原理化まっしぐら、です。ぼくたちが学生の頃は卒業しないでどこかへ消え てしまうことは、まったく普通だった。そんなものだと思ってました。でも、最近の学生たちの 方が、ぼくたちよりずっと真面目に卒業して就職してゆく。そうじゃないとまずいという洗脳が、

以前よりずっとしっかりされていますよね。だから「どうしたらいいでしょう」と訊かれて、

「就職しようと、就職活動やめようと、どちらでもいいんじゃない?」って生徒にいうと、「先

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生、もっと真剣に考えてください。」っていわれるんです。でも他人のことだから、わからない し、真剣に考えられないよね(会場笑)

辻:そういえば高橋さんが書かれた『丘の上のバカ』に、鶴見俊輔さんのことが出てきて、我々 にできることって心身に水をやることくらいだって。ちゃんと丁寧に水をやること。

高橋:うん、水をやっておいてください。乾かないように、って。

辻:それとそっくりなことをやはりぼくが大好きな EF.シューマッハーが『スモール・イ ズ・ビューティフル』の「結び」で言っている。色々話してきたけれど、結局ぼくたちが実際に できることは何かという問いをたてておいて、こう言う。

「答えは簡単であって簡単ではない。各自が自分の心をととのえること」。これが、あの有名 な『スモール・イズ・ビューティフル』の、まあ言ってみれば、結論なんです。

そういう日々の水やりとか心の手入れを怠って、多くの人が政治思想だとかイデオロギーに走 り、意味のシステムに取り込まれていく。掃除機に吸い込まれるように。今ものすごい勢いで 人々がそっちへ吸い込まれていってる気がします。

高橋:そうやって、社会が冷たくなって行くことに対して、抵抗する側も実は社会と同じような 顔つきで抵抗している。向こうが冷たいなら、反対に、温かく、楽しくやろうとか、真正面に対 するのではなくて 45 度斜め向こうから立ち向かうとか、でないと。この社会の中で、毎日「戦 い」ばかりしていたら、こちらも病気になってしまいますよね。介護しなければならないし、子 供の世話もしなければならないし、仕事をしなければならない。時に競馬に行かなきゃならない

(笑)。忙しいんです。だから、できることをやっていくしかない。だって、ぼくたち人間は、

いろんな「部分」でできているんだから。まさに雑の思想の根本は、ぼくたち自身が「雑」その ものであることです。真面目に政治のことを考える自分がいれば、宗教的な自分もあり、趣味で 競馬をやる自分もいる。そんな複「雑」な自分を肯定しないと戦うこともできない。よそ行きの 自分だけ出していては。だから雑として戦う。楽しくなきゃ続かないんですよね、なにごとも。

だから、ザッツ・エンターテイメント!ですよね!(笑)

<出典>

『ブリコラージュ 特集:介護げんばの虐待論』(七七舎)、20168・9月号。

E.F.シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』(講談社学術文庫)、1986年。

M.K.ガンジー『ガンジー 自立の思想』(地湧社)、1999年。

鶴見俊輔『詩と自由―恋と革命』(思潮社)、2007年。

高橋源一郎『丘の上のバカ〜ぼくらの民主主義なんだぜ2』(朝日新書)、2016年。

NHK番組「シリーズ相模原障害者施設殺傷事件」『匿名の命に生きた証を』(2016126NHK・Eテレ)

本報告書は、国際学部付属研究所共同研究「雑の研究」の中間報告書である。

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参照

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