畠山重忠の年代記 第3 編 1
第
3 編 畠山重忠の年代記
目次
(1)武士の発生(645 年~1160 年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3-001 (2)平家の時代(1160 年~1180 年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3-020 (3)源平の合戦 その前夜(1180 年~1180 年)・・・・・・・・・・・・・・3-032 (4)源平の合戦 戦いの始め(1180 年~1183 年)・・・・・・・・・・・・・3-058 (5)源平の合戦 平家の滅亡(1183 年~1185 年)・・・・・・・・・・・・・3-080 (6)鎌倉幕府 義経の悲劇(1185 年~1187 年)・・・・・・・・・・・・・・3-112 (7)鎌倉幕府 全国制覇(1187 年~1192 年)・・・・・・・・・・・・・・・3-131 (8)頼朝の死(1192 年~1199 年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3-152 (9)重忠の死(1199 年~1205 年)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3-164 (最終p186)(
1)武士の発生
○大化元年(645 年) 大化の改新 645/6/19。 中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を滅ぼした(乙巳い っ しの変)。新政権は、蘇我氏など諸氏族の 私地私民を廃し公地公民を標榜し(班田収受法)、豪族の勢力による支配から律令による国の 管理を目指した(律令制度)。即ち、天皇―中央貴族―国司の支配体制下における国司・公領 制度がスタートしたのである。 大化の改新以来のこの国司・公領制度から荘園領主・荘園への変化、即ち土地公有制度か ら土地私有制度への変化(厳密には公領・荘園併存制度)が、武士の台頭の歴史である。 家永三郎は、歴史展開の中で政治権力の交代というものが、「支配階級の底辺にあり生産力 をになう農民」の力が基盤となるという文脈の中で、「いわゆる武士の勃興というものは、決 して貴族対武士という階級内部の権力争奪の過程に終わるものではなく、武士は在地の豪農 である名主層の中から出てきた新興勢力であって、武士の勃興とはとりもなおさず農民大衆 の間でつちかわれた下からの勢力が、弥生時代以来ほぼ連続的に支配権力を握りつづけてき た古代国家支配階級に取ってかわろうとする、革命的変革の進行を意味するものにほかなら なかった」と言う(家永三郎「日本文化史」岩波新書p113~114)。 ただし、坂東八平氏や武蔵七党など、地方豪族は先祖を辿ると皇族・藤原氏・源氏・平氏な ど元支配階級の者たちであった。彼らは更に、中央有力者と何らかの関係を維持してその名 声・権威を背景に勢力拡大をしたと言う点も注意せねばならない。 ○宝亀11年(780 年)軍団兵士制の廃止 780/2。 8 世紀奈良時代の律令制度下の軍制は、一般の農民である公民一戸から一人を徴兵する軍 団兵士制と呼ばれる高度に発達し組織化された総兵力20 万に達する大規模軍隊であった。軍 団兵士制は対新羅朝貢要求や対新羅軍事侵攻を目的とする対外戦争軍隊で、朝廷はその財政 的負担の軽減のためこれの削減を決定し(780/2)、奥羽・大宰府管内諸国を除き全廃した(792 年)。他方、国内の軍事的鎮圧のための大規模兵力徴集には、国司が朝廷の許可を得てこれを 行った。国内の治安・警備においては、国司は「百姓の弓馬に便なる者」を調査登録し、いつ でも緊急動員できるようししていた(参考:下向井龍彦 講談社日本の歴史07「武士の成長畠山重忠の年代記 第3 編 2 と院政」p14―18)。 ○延暦11 年(792 年)健児こんでいの制 792/6。 朝廷は、軍団兵士制を廃止して(一部の国を除く)、東北地方の蝦夷の反乱や外的に備える ために国ごとに郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でたもの20-200 人の志願兵を募る新しい 軍隊を編成した(健児制)。 弩ど などの強力殺傷武器による集団的律令制軍事体制(俘囚ふ し ゅ うを含む農民戦力)から弓を用い ての騎馬戦(武士による個人戦)へ変化し、軍事体制における武士の地位がより重要になっ て来る。 (参考―合戦の種類) 「戦い」には色々な呼称がある。概ね次のように使われていうよう だ。「合戦」は比較的大規模な戦闘(源平の合戦、壇ノ浦の合戦など)、「変」及び「乱」は朝 廷又は幕府を巻き込む反乱(乙い つ己しの変、壬申じ ん し んの乱、平将門の乱、平忠常の乱、保元の乱、正中 の変など)、「役」は外国との戦い(前九年・後三年の役、文永・弘安の役など。前九年・後三 年の役と“役”が使われているのは、当時は奥州を〝夷えびすの国“として異国並に考えていたた め)。他に単に「戦い」と言う例も多い(石橋山の戦い、倶利伽羅峠の戦いなど)。また、「壇 ノ浦の合戦」など、「壇ノ浦の戦い」と言う用法も多く、あくまで感覚的で、厳密な定義で用 いられているとは思えない。蛇足ではあるが、「1931 年 9 月 18 日日本陸軍の関東軍が中国の 柳条溝おいて南満州鉄道を爆破し、これを口実に総攻撃し東北3省を占領した」と言う事実 に対して、「柳条溝事件、満州事変、9・18 事変、日中戦争、15年戦争」などといろいろの 呼称がある。学者の見解の相違で呼称が異なったり、政府が意図的に呼称を変えたるするこ とがある。 (参考―合戦の方法) 平安・鎌倉期の合戦は、おおむね個人戦の要素が強かった。先ずは 互いに使者を送り合戦開始の日時を決める。戦いが始まれば、個々の武将が互いに馬上で名 乗り合い、15 間から 9 間に来てから相手を前方に見て弓合戦が始まる。次に、互いに相手を 左(弓手ゆ ん で)に見て戦うが、その後は並走することも有り得る。この場合、相手の右(馬手め て)に 付けば、自分だけが相手を弓手に見て、有利に戦えることとなる。鎧の構造も、左が防禦重 視、右が弓を射る動作重視となっている。矢が尽きれば、次は槍、次は刀、最後は組打ちとな る。相手が倒れると、脇差により相手の頸を斬り落とし、戦果の報告として持ち帰る。名将 の首を取ると最大の勲功となる。 ○延暦17 年(797 年)坂上田村麻呂、初代征夷大将軍 蝦夷の伊治こ れ は るの呰あ ざ麻呂ま ろは伊治城、多賀城を攻め東北方面の勢力となった(780 年)。朝廷は大軍 を派遣したが大きな成果が無かった。朝廷は、紀き の古佐こ さ美みを征東大使に任命し(788 年)、「坂東 の安危はこの一挙にあり」と激励され5 万余の大軍を向けたが、平泉周辺で蝦夷の族長阿あ 弓流て る 為いの率いる軍に敗北した。大伴弟お と麻呂ま ろを征東大使、坂上田村麻呂ら 4 人を副使に任命した (791/7)。2 年の準備の後、10 万の大軍は胆沢の地を制圧した。坂上田村麻呂を征夷大将軍 に任命し(797 年)4 万の兵を与え、志沢城築城まで及んだ(803 年)。 ○昌泰2 年(889 年)延喜東国の乱(889-901)、 僦しゅう馬まの党の横行。 9 世紀末から 10 世紀初頭、坂東に郡盗がたびたび蜂起し、東海道、東山道では、荷の運搬 と安全を負う 僦しゅう馬まの党(地方の富豪小豪族の子弟)が徒党を組み、逆に馬や荷の強奪を行う ようになり、諸国の被害は大きかった。一方、西国の山陽道、南海道では海賊が横行し、同じ く富豪小豪族の子弟によるものであった。
畠山重忠の年代記 第3 編 3 これらの 僦しゅう馬まの党の横行を鎮圧したのは、桓武平氏の高望王や、越後の利仁将軍と言われ る藤原利仁や、ムカデ退治の俵藤太こと藤原秀郷らである(初期の武士)。彼等は押領使とし て派遣され勲功を挙げ、「負名」として土着し、国衙から国内治安維持機能を期待された(岩 波講座日本通史6 巻 朝尾直弘他編p188 1995 年発行)。 (参考―僦馬の党) 「僦馬の党」の「イ+就」の字は、「人に金を出して雇う」と言う意味 のもので、運搬業者たちを意味した。当時の荷の運搬の主なものは調庸を京へ運搬するもの であり、それを担ったのは群司・富豪層の子弟である。 ○寛平元年(889 年)高望た か も ち 王、平の姓を賜る(桓武平氏の誕生)889/5。 垣武天皇(在位 781-806)の子・葛原く ず は ら 親王は、上野国利根郡長野牧を拝領(811/10)、常 陸守(830 年)、上野守(838 年)、常陸守(844 年)を歴任し、東国に荘園を持ち支配力があ った。その子高見た か み王は生涯無官無位に終わった。高見王の子(垣武天皇曽孫)高望王は「平たいら」 の姓を賜り( 平たいらの高望た か も ち)、鎮守府将軍上総介となって関東に下った(889/5)。その後、その子 (国香、良兼、良将、良繁、良文、良正など)も下総に住み、一族も多く関東地方に土着し、 やがて坂東ば ん ど う八平氏(畠山、千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾など)や伊勢平 氏となる。 (桓武平氏の系図) 桓武天皇―葛原親王―高棟た か む ね王―平惟範---略---平経方―平知信―平時信―時子(清盛妻) 桓武天皇―高見王 ―高望た か も ち王―平国く に香か―平貞盛―略―平正盛―平忠盛―平清盛 平貞盛―略―平直方―略―北条時政 高望王―平良将よ し ま さ―平将門 高望王―平良よ し文ぶ み―平忠頼-―略---平忠常---略---千葉一族 平良よ し文ぶ み―平忠頼―略―秩父一族 高望王―平良茂―平良正―略―三浦党 平良正―略―鎌倉党 (参考―王) 現在では「王」とは、鉄鋼王、発明王の如く「偉大な人物」と言う意味で使わ れている。日本の律令制度の下では、皇族の男子の呼称であった(高明王、以仁王など)。例 え天皇の子でも親王宣下を受けていないと親王ではない(後白河天皇の子・以仁王など)。 (参考―賜し姓せ い) 「姓を賜る」とは、皇族を離れ天皇の臣下即ち朝あ臣そ んになることであり、実質 的には自活の道を歩むことで、皇族の口減らしであった。 (参考―坂東八平氏) 「八」は必ずしも8 つではなく、“末広がり”、“八百万や お よ ろ ず”の八である。 (逸話―神奈川県の平塚市の由来) 高望王が関東に赴く途中に、娘が亡くなり埋葬し塚を 築いた。そこで、「平家の塚」即ち「平塚」と言われる。一説には、「塚が砂のため、上が平ら になったため平塚と言う」と言われる。 ○寛平 3 年(891 年)村岡五郎良文(秩父一族の祖)、源宛と争う。 村岡五郎良文(平良文、高望王六男、源平闘諍録は第 12 末子とする)は大里群村岡(熊 谷市南部)の荒地を開墾し、荒川の流れを灌漑と水運とに利用し、或いは市場を開設して 商業を興し、以って大いに領内を潤した。さらに、彼は数百騎の家人郎従を養い、盛んに 武術を練習し、富国強兵に努め、其の勢力は四隣を圧するに至った。 坂東平氏祖・高望王の子(国香・良兼・良持等)らは常陸国に勢力を張り、平将門の乱 (935-940 年)の中心となっている。村岡良文は、高望王の子であるが国香・良兼・良持等と
畠山重忠の年代記 第3 編 4 異なり、高望王の坂東下向には随伴せず京に留まり、成長してから坂東に住みついたと 言われる。 「村岡良文の居所 熊谷市村岡」 「村岡城址 藤沢村岡城址公園」 良文の居住地については、武蔵国大里郡村岡(熊谷市)、相模国村岡郷(藤沢市)や下 総国結城郡村岡(茨城県下妻市、平忠常の先祖)などが比定されているが、確かな史料は 無い。 今昔物語に、平将門、藤原純友の逸話に続き、 源みなもとみつる充(宛)と平良文の合戦の逸話があ る。鴻巣宿の北の箕田郷が、嵯峨源氏の箕田源氏の発祥地と伝えられている。この逸話や 秩父一族との関係から推察すると、熊谷市村岡が良文の根拠地の一つと考えられる(参 照:今昔物語集巻第25第3:源宛との一騎討ちの説話)。 ○寛平9 年(897 年)滝口の武者を置く。 地方における律令制の乱れる中、弓矢や馬で武装した集団が現われ、自ら荘園を守り、 武力で土地や農民の支配を拡大した。これらの武士団が国司と結びつき勢力を増大し、押 領使や追捕使に任ぜられる者も出てきた。やがて、朝廷ではこれらの者から“滝口の武 士”として皇居の警備に当たる者、貴族や寺社の警備に利用される者を採用した。 押領使とは、国司や郡司のなかでも武芸に優れた者が、地方の治安維持のために警察権 を行使する権限を与えられるもので、地方豪族など地域の有力武士が任命された。 追捕使とは、同じく地方の治安維持のために警察権を行使する権限を与えられるもの で、特に臨時的に海賊や盗賊の追捕を目的に任命されるものであった。 ○寛平9 年(897 年)蝦夷俘囚の陸奥往還。 朝廷は、蝦夷政策の一環として同和化政策をとった。帰順の意を示す蝦夷を俘囚とし、租 税の優遇等を与え全国へ分散配置した。また、近江、下野、常陸など俘囚を受け入れた国に は人数に応じて俘囚料を払った。受領は俘囚の騎馬戦の技量を利用して、治安警察の武力に 用いた。群盗追捕のために給養していたはずの俘囚が逆に群盗化するという皮肉に直面した 朝廷は、俘囚を蝦夷に往還させる政策に出た(詳しくは、下向井龍彦 講談社日本の歴史07 「武士の成長と院政」p29-41)。 ○承平元年(931 年)の頃、六孫王(経基王)、源の姓を賜る(清和源氏の誕生)。 清和天皇の曽孫(貞純親王の子)六孫王(917-961)は、源の姓を賜り(源経基)、近畿地方 に勢力をはった。 源経基は、武蔵介(権守:興与王、郡司:武蔵武芝)として赴任した(939 年)。しかし、 平将門の乱(935-939)では平将門追討の副将軍となったが平定できず、結局藤原秀郷と平貞 盛らが乱を平定した。その後、(藤原純友の乱(939-941)の平定に功を挙げた。
畠山重忠の年代記 第3 編 5
○承平
5 年(935 年)承平・天慶の乱。
承平の乱(平将門の乱 935-940)。 天慶の乱(藤原純友の乱 939-941)。 京都朝廷の政治が藤原一族により支配され腐敗する時、東国には平将門による承平の乱が、 西国では藤原純友による天慶の乱が同時に起こった。 朝廷は承平の乱を治める力は無く、結局、これを治めたのは力を蓄えた東国武士であった (平貞盛と藤原秀郷ら東国の豪族)。 また、天慶の乱は律令体制下の衛府と検非違使及び西国の国衙の軍隊を動員して、小野好 古と源経基らが鎮圧した。 平将門が新皇を号したのは画期的であるが、当時は未だ天皇家に代わって政治を支配する 意識は醸成されていなかった。平将門や藤原純友の反中央政権意識が、武士による政権樹立 にいたるには更に 250 年の歳月を要するのであった。しかし、朝廷と藤原氏の腐敗政治が 続く中、一旦起った「武士の力の芽」は、承平・天慶の乱―平忠常の乱―前九年・後三年の 役―保元平治の乱―源平の合戦と着実に育って行った。 日本歴史における不思議の一つとして、天皇世襲制が存続したという事である(浮き沈み があり、万世一系でないにしても)。中国その他の国では、王が適切でなければ交代させ、 新たな王朝が誕生した(中国には天命により王を交代と言う思想があった。しかし、日本で は天皇が天命であった)。 また、もう一つの不思議は、官位官職が常に名誉と権威を持ち続けたということである。 平将門にしても、都に出て官位官職を得て帰国する予定であったが果たせず、地元では領土 争いが発生してしまったのである。それ故、「官打ち(朝廷が分不相応な官位官職を与えて、 敵対者を自滅させる方法)」などと言う高慢な戦術が成立したのである。源頼朝も、後白河 法皇のこの戦術に困らされ、幕府の許可なしに御家人が官位官職を受ける事を禁止したが、 違反者が出るほどであった。そして、義経が無断任官で頼朝の信頼を失って、やがて滅びる。 ○天慶3 年(940 年)朝廷、将門追討の褒章を約す 940/1/11。 坂東八カ国を慮掠りょりゃくした将門に国家的な危機を感じた政府は、在地武力を将門追討に起用す ることを策し、「官軍の黠慮か つ り ょ」の中に憂国の士を求め、「田夫で ん ぷ野叟や そ う」の中に忘身の民を求め、官 田功爵をもって殊功の輩を遇する旨の官符を諸国に下した(野口実「伝説の将軍 藤原秀郷」 吉川弘文館p38 2001 年発行)。 律令制下の「国司―国衙軍」の体制では、既に私的な武士団の反乱を抑えることも、動因 することも出来なくなっていた。朝廷は、武士団への恩賞を餌に「毒をもって毒を制する」 の策に出た(これは朝廷の取る常道であった。蝦夷対策の俘囚、承平・天慶の乱の東国豪族、 義仲を抑える頼朝、頼朝を抑える義経など)。やがて、将門の乱を平定した藤原秀郷は東国武 士としては高位の従四位下を与えられ下野守・武蔵守になり(940/3/9)、平貞盛は従四位下・ 鎮守府将軍となり(941 年)、彼らの子孫が東国支配をする基礎を造ることとなった。そして やがて、京都朝廷貴族の終焉を迎えることとなる。 ○長元元年(1028 年) 平忠常の乱(1028-1031) 前上総及び下総介平忠常は国司の徴税・懲役に対する反抗から反乱を起こし、三年にわた り上総・下総・安房3国を支配した。忠常は、上総・下総・安房に多くの私営田を経営し在庁 官人であった。畠山重忠の年代記 第3 編 6 朝廷は検非違使・平直方を追討使に、検非違使・中原成道を追討使次官に任じ、追討使を 支援すべく摂関家に仕える源頼信を甲斐守に、平維時を上総介に、平致方を武蔵守に、平正 輔を安房守に、藤原兼資を常陸介に任命した。平忠常の乱の折り、平直方は兵糧米徴集と称 して強引に坂東諸国から収奪したため、農民は離散し在地武士から反感をかって、何らの協 力も得られずに時を過ごした(下向井龍彦 講談社日本の歴史07「武士の成長と院政」p158)。 朝廷は何ら効果的対策を取らない直方を解任し、甲斐守源頼信を追討使に任命した。摂関 家に仕える追討使・頼信・頼義父子は、摂関家の権威を利用し東国武士団を味方につけ、平 忠常と和平し反乱を制圧する。忠常は上洛途上、美濃国で病のため死去した。頼信・頼義父 子は、忠常の一族を寛大に扱い保護した(後の千葉一族)。 源頼信は美濃守、頼義は武蔵守となった。地方豪族は競って源氏に所有地を寄進した。こ こに坂東八平氏の棟梁が、平家から源氏へと移行することとなる。 源頼朝の時代は、所領安堵と奉公という封建的主従関係であったが、それ以前の源氏の棟 梁への期待は、中央政権への仲介者としての役割であった(参照:棚橋光男「大系日本の歴 史④王朝の社会」小学館ライブラリー 1992 年発行 p217)。 (平忠常の系図) 平忠常―千葉常将―千葉常長―千葉常兼―千葉常重―千葉介常胤(頼朝の重鎮) 千葉常長―千葉常時―千葉常澄―上総介広常(頼朝の重鎮) (参考―平直方)平直方は鎌倉に屋敷を持ち、後に源頼義が直方の聟となる。ここで八幡太 郎義家が生まれ、鎌倉が源氏の根拠の基となる。 (参考―国司) 武蔵守とか上総介と呼ばれるのは、国司の官職「守か み―介す け ―椽じょう-属さかん」を示す ものである。それでは、安房守は上総介より上位の官職かと言うと、必ずしも正しくない。 常陸国・上総国・下野国は、親王任国と言われ、形式上親王が「大守(長官)」となり、次官 の介は他国の守と実質的に同等の位である。因みに、国には格があり、大国「播磨、河内、大 和、武蔵、上総、下総、常陸など」、上国「安芸、豊後、相模など」、中国「土佐、安房など」、 下国「淡路、伊豆など」に分かれる。 (逸話―金太郎) 源頼光(摂津源氏祖)・源頼信(河内源氏祖、義家や頼朝の先祖)兄弟は 藤原道長に仕えていた。 追討使・源頼光及び頼信は、箱根を超えて平忠常討伐の歩を勧め た。 足柄山の金太郎は、京へ帰還する源頼光に拾われ京都に同伴し、坂田公時という四天 王(坂田金時、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光)の一人といわれる侍になった。 ○永承6 年(1051 年)前九年の役(1051-1062) 大和朝廷成立以来、出羽・陸奥は俘囚の族長が支配し、俘囚の族長の安倍氏が奥六郡(北 上川沿いの胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)を統一し支配をするようにな った。安倍氏は、形式的には中央派遣の鎮守府将軍の支配下にはあったが、中央とは独自の 距離を置いていた。 摂関家と結んだ源頼義(源頼信の子、義家の父)は陸奥守兼鎮守府将軍として奥州に下り、 一時安倍頼時はこれに服した。しかし、東北の蝦夷の俘囚長として勢力を築いていた頼時の 子安部貞任・宗任兄弟は、陸奥国司・鎮守府将軍源頼義による圧政と侮辱に耐えかねて反乱 を起こした。 源頼義・義家父子は、出羽の豪族清原氏一族に莫大な財物の貢物をし、臣下の礼をとるご とき要請をし、その援軍をうけ(頼義軍7 軍のうち 6 軍は清原軍と言う状態であった)、安部
畠山重忠の年代記 第3 編 7 氏を倒し声望を得た。源頼義は伊予守、源義家は出羽守、清原武則は鎮守府将軍となった。 (逸話―八幡太郎義家)八幡太郎義家は、飛ぶ雁の列が乱れているのを見て、伏兵ありと覚 った。 かつて義家は、当代随一の学者大江匡房から“優れた武将だが兵法が分かってない” と評され、その門人となったことが活かされた(参考:古今著聞集巻第九武勇第十二「源義 家、大江匡房に兵法を学ぶ事」)。 ○康平5 年(1062 年)~寛治元年(1067年)頃 秩父氏館の構築 秩父氏初代・平将常は、平忠頼と平将門娘・春姫と の間に生まれ、秩父郡を拠点として秩父氏を称した。 将常と武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九 年の役に従軍して秩父別当に就任した。その息子・秩 父武綱は前九年の役で戦功を挙げ、後三年の役に従軍 して先陣を務めるなど秩父氏を発展させ、秩父郡吉田 郷に秩父氏館(吉田城、鶴ケ窪城)に居住したと云わ れる(秩父氏館:秩父市下吉田3833)。 (秩父氏の系図) 平良よ し文ぶ み-平忠頼-平将常-秩父武基-秩父武綱-秩父重綱-秩父重広-畠山重能-畠山重忠 ○延久元年(1069 年)記録荘園券契所の設置。 大化の改新による公地公民制度は、土地開発による荘園という私有地の拡大を抑えること が出来なかった。私有地の拡大を抑えるため朝廷は再三に渡り荘園整理令を出したが、荘園 の拡大は止まらなかった。 藤原氏を母としない後三条天皇によって大規模な荘園(藤原氏の経済基盤)禁止を断行し た(1069 年)。即ち、1045 年以後新設の荘園を停止し、それ以前のもでも券契の不明(宣 旨官府のないもの)で国務の妨げとなるものは停止した。更に、従来国司が管理していた荘 園整理を、記録荘園券契所を設けて国が管理した。 (荘園整理令の一例) 延暦3 年(781 年)王臣家・諸司・寺家などの山林兼併を禁ずる。 延喜2 年(902 年)延喜の荘園整理令―勅旨田・田宅・山川藪沢の占取買収禁止。 寛徳2 年(1045 年)寛徳の荘園整理令―前任国司任期中以後の新立荘園の停止。 延久元年(1069 年)延久の荘園整理令―寛徳 2 年以後の新立荘園の停止、及び不明な 荘園の停止。 寛治5 年(1091 年)源義家への荘園寄進禁止。 寛治6 年(1092 年)源義家がたてた荘園禁止。 保元元年(1156 年)保元元の荘園整理令―前年以後の新立荘園の停止。 (荘園の管理体制) 荘園は、荘園領主―荘園領主の代官―名主―荘民という管理体制下にあった。荘園領主は、 中央貴族(皇族及び藤原氏など、後には源氏及び平家)・寺社である。荘園領主の代官は、預 所・荘預・下司・田所・公文・総検校・検校・専当・別当・庄司(荘司)などと呼ばれ、主に 開発領主が世襲的に当たった。初期荘園では荘園領主が直接に耕作農民を管理したが、平安 中期以降の荘園の発展に伴い、やがて地主的性格の田た堵と(名主)が現れ、田堵が領主から土 地(名田)を請作するようになった。
畠山重忠の年代記 第3 編 8 (参考―荘園の支配) 荘園制度は、律令制下の公地公民制度と併存しすることとなり、こ れを荘園公領制度と言う。鎌倉時代には、さらに守護・地頭制度が加わり、相互の権益の抵 触が発生する。畠山重忠も、文治3 年(1187 年)重忠が地頭である伊勢神宮荘園(御厨) で、伊勢神宮御厨代官と地頭代官の争いから窮地に陥れられる(沼田御厨事件)。 (参考―総検校職し き) 畠山重忠の父畠重能は総検校職し きであったという。これは、畠山荘を含 めた荘園の代官総代であったこと示す。 ただし、総検校職し きなる官職が有ったかも疑問視さ れ、且つ、畠山荘が邑ではなく荘園として実在したか否かには異説がある。庄司とは「庄司 相当の者」を意味するに過ぎないとも言われる。 ○永保3 年(1083 年)後三年の役(1083-1087) 政府は、奥州における俘囚の管理を俘囚の族長たる安倍氏や清原氏にその統治を行わせる 同和政策をとっていた。清原氏は、前九年の役の功績により鎮守府将軍(陸奥・出羽国の兵 士を統率する鎮守府の長官)に任ぜられ、安部氏の旧領を併合し奥州に勢力を拡大した。そ の清原氏に家督相続に絡む内紛(真衡・家衡・清衡の家督争い)が起った。 (清原氏の系図) 清原武則―清原武貞―清原真衡 清原武貞―清原家衡(母:安倍頼時娘・元藤原経清妻) 清原武貞―清原清衡(藤原清衡、奥州藤原氏祖) 清原武衡―清原武貞―女(城資国妻)―城資永(木曽義仲と戦う) 藤原頼遠―藤原経清―藤原清衡(清原清衡、清原武貞養子) 陸奥守として入国した源義家は、清原氏の内紛に乗じて清原清衡(後の藤原清衡、奥州藤 原氏の祖)を助けこれを平定した。 前九年・後三年両役とも陸奥守となった源家による収奪を目的とする奥州侵略戦争であり、 且つその戦争も結局は清原氏に頼らざるをえないものであった。 白河上皇・関白藤原師実は義家の武名の向上を恐れ、後三年の役を私闘であるとしてなん ら褒賞を与え無かった。そこで義家は私財をもって兵に報いたため、源頼義・義家は東国武 士の信頼を得て源氏が関東武士の棟梁となり、源氏への地方豪族の私有地の寄進が盛んとな った。 他方、清原氏が奥州支配権を獲得して行った(奥州藤原三代=清衡・基衡・秀衡、源義経は 秀衡を頼り奥州へ行った)。 この義家―清衡の関係は、やがて頼朝政権下では、頼朝―泰衡の関係となり、頼朝の奥州 征伐となってゆく。約100 年強の後、頼朝により源氏の目標が達成されたこととなる。 (逸話―鎌倉党と三浦党の昔話) わずか 16 歳で後三年の役に出陣した鎌倉権五郎景政は、 先頭にたって戦っていた。右の目を敵の矢に受 けたが、なおも戦い敵を倒し陣に戻った。之を 見た三浦平太為継は、景政の顔を踏んで矢を抜 こうとした。すると突然、景政が為継を突き殺 そうとした。驚いた為継に対して景政は、「弓 矢に当たって死ぬのは 兵つわものの望むところだが、 生きて顔を踏まれるは耐えがたい」と言った。
畠山重忠の年代記 第3 編 9 三浦為継は、鎌倉時代の三浦義明・和田義盛ら三浦党の先祖に当たる。鎌倉景政は、同じく 鎌倉時代の大庭景親や梶原景時ら鎌倉党の先祖にあたる。鎌倉景政を祀る「権五郎神社・御 霊神社」が鎌倉長谷にある。 権五郎神社(鎌倉市坂ノ下3-17)は、江ノ電「長谷」と「極楽寺」の中間、線路脇にある。 小泉今日子・中井貴一主演テレビドラマ「最後から二番目の恋」の撮影中であった。 ○応徳3 年(1086 年)秩父武綱、白幡を賜る。 秩父武綱は、後三年の役(1083-1087)にて源義家に従い先陣をつとめ出羽の清原武衡を討ち 白旗を賜った。 やがて源頼朝が挙兵し(1180 年)、武蔵国へ入ると畠山重忠以下の秩父武士が平家を離れ これに従う。重忠は、先祖の秩父武綱の白幡を持ち参陣し、源頼朝に忠誠を誓ったという。 義経記に言う、「秩父十郎重国(武綱)が先陣を賜りて、奥州へと打ち下り、阿津賀志の城 を攻めける、、、」と(義経記「吉次が奥州物語の事」、但し、前九年の役のこととしている)。 源平盛衰記に於いて、重忠が頼朝軍に参陣した理由を「君(頼朝)の御先祖八幡殿(八幡太 郎義家)、宣旨を蒙らせ給ひて武平(清原武衡、清原武貞弟)、家平(清原家衡、清原武貞子) を追討の時、重忠が、四代祖父秩父の十郎武綱、初参して侍りければ、此白旗を給て先陣を 勤め、武平以下の凶徒を誅し候畢ぬ」と述べている(源平盛衰記「重忠推参」)。 ○応徳3 年(1086 年)院政(1086-1192)。 中央官職及び国司職は藤原氏に独占されていた。下級貴族は、受領(国司の地方赴任代理) となり私的蓄財をし、摂関政治に対抗する院政に近づいた。院政(天皇位を譲位した上皇の 政事ま つ り ごとを実質的に支配すること)は、藤原摂関政治への対抗であると同時に天皇制の否定であ り、それにまつわる旧勢力の破壊であった。そこには体制の乱れ、実力主義など武士団発生 の芽が宿っていたと言える。北面の武士は、院政を守る武力的裏付けとして設けられる。院 政は中央政権内部の混乱となり、結果的に貴族政治の崩壊を早めることとなった。 院政: 白河上皇(1086-1129)、鳥羽上皇(1129-1156)、院政空白(1156-1158)、後白河上皇(1158-1192)。白河上皇により院政が始まり、後白河上皇まで1世紀続く。 天皇親政と院との性格の相異: トップ(天皇、上皇)、居所(内裏、仙洞)、中央機関(朝廷・朝臣、院庁・院司)、命令 (宣旨、院宣)、神仏(神事・仏事、仏事)、警護(衛府、北面の武士)、経済基盤(公領・ 荘園、荘園)、しきたり(規制、自由) 権力の系列: 天皇―摂関家藤原氏―朝臣―源氏 上皇―反摂関家貴族―院の近臣―平家 (異説―院政) 院庁を開設することは藤原摂関家の政所政治(摂関政治)を廃止し、院庁 による政治(院政)という図式は正しくない。院はあくまで上皇の私的家政機間で荘園管理 などを行うが、国政は朝廷で行われ、院庁で行われたわけではない。白河上皇は摂関家と対 立する意図はなく摂関家と協調した(詳しくは下向井龍彦 講談社日本の歴史07「武士の成 長と院政」p218-221)。 (異説―院政) 白河上皇の院政は、摂関政治を押さえるためではなく、父後三条の遺志で あった弟輔すけ仁ひと親王の即位を押さえ、自らの子・堀河天皇を皇位につけることに始まった。す
畠山重忠の年代記 第3 編 10 なわち、皇位継承決定権を確保する方法であった。これは天皇の母方の尊属である外戚が摂 関政治を握ったのに対して、父方の尊属が院政を通じて実権を握ること―父系相続の意図― であった(岩波講座日本通史7 巻 朝尾直弘他編 p8 1995 年発行)。 ○寛治元年頃(1087 年頃)北面の武士(院の北面) 北面の武士は、院の警護・治安維持のため白河上皇の時、はじめて設置された律令制度外 の機関である(令外の官)。院の警備機関としては既に院武者所、院御随身所があり、滝口・ 衛門・左右近衛などによって兼任されていた。特徴として官職位階に拘わらず、北面の武士 は院個人との特殊な縁故関係によって採用された。よって、かならずしも地方武士団を院政 政権に組織化するために計画的に設置されたものではない。 ○寛治5 年(1091 年)源義家・義綱兄弟の対立 1091/6/11。 都に近い河内国において藤原実清と清原則清が所領を争って戦った。藤原実清は源義家の 郎党であり、清原則清は源義綱(義家弟)の郎党であった。そのため、義家・義綱兄弟は京の 都で戦うのではないかとの噂が広がり、京中が蒼然となった。ともに強大な武力を持つ義家・ 義綱が京で戦っては大変と、朝廷及び藤原氏は両者を説得し戦いを避けることができた。 ○寛治6 年(1092 年)源義家の設立した諸国の荘園の停止 源義家は父祖代々摂関家の侍として仕え、武力で奉仕することで貴族社会内に地歩を固め てきた。義家の武士としての名声が高まり、その庇護を求めて諸国の豪族が義家に荘園を寄 進した。 白河上皇は、まず義家への荘園寄進を禁止し(1091 年)、源義家・義綱の京での対立を避 けるためとして義家が兵を率いて入京することを禁止し、更に義家の設立した諸国の荘園の 停止をした(1092 年)。白河上皇は、摂関家に近づく源義家を牽制し、平家を重んじた。 武力という勢力を身に着けて来た源氏と平家は、天皇・藤原氏・院との複雑な駆け引きの 渦に巻き込まれて行く。それは、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇の院政の歴史であり、平治 の乱から源平の合戦へと続いく戦乱の歴史であった。 ○寛治7 年(1093 年)源義綱、出羽国騒擾事件解決 源義綱が陸奥守の時、出羽国で出羽守藤原信明が平師も ろ妙た えらに襲撃され館を焼かれる事件が 勃発した。 義綱はこれをすばやく鎮圧し武名をあげ、源義家の対抗馬として中央でも重用 されるようになった。 ○承徳元年(1097 年)平正盛、白河法皇へ寄進。 平正盛は、伊賀国鞆と も田だ村・山田村の田畑・家屋あわせて20 町を六条院(白河法皇の最愛の 皇女郁芳門院の菩提所)へ寄進した。正盛のこうした努力が、10 年後に源義親追討使となり、 義親を討ち正盛がのし上がる遠因となる。 ○承徳2 年(1098 年)源義家、院昇殿を許される。 白河上皇は 前さきの陸奥守源義家の勢力増殖を畏れ、義家への荘園寄進禁止、義家が兵を率いて 入京禁止等を行ったが、その実力は認めざるを得ず、懐柔策として「院への昇殿」(「内裏へ の昇殿」ではない)を許した。 平正盛と源義家がしのぎを削って院との関係を争う様子が伺える。平正盛―平忠盛―平清 盛の三代に渡ってのしのぎの結果、平清盛が平治の乱で源義朝を破り天下取りに成功する。 しかし、それもつかの間、やがて治承の兵乱をへて源頼朝に平宗盛がその座を追われる。ま さに、平家物語の「盛者必衰のことわり」である。
畠山重忠の年代記 第3 編 11 ○康和3 年(1101 年)源義親、大宰府で乱行。 対馬守源義親(源義家の子)は、大宰府管内で国衙と箱崎宮領荘園との紛争に介入した。 義家の郎党藤原資通す け み ち(佐藤資通、義朝が殺されるとそれを追って自害した鎌田正清の祖父) が太政官の召喚使と共に派遣されたが、資通は召喚使を殺害した。結果、義親は隠岐に配流 となった。 ○嘉承元年(1106 年)源義光・義国、常陸にて合戦。 後三年の役以後に源義光は常陸国久慈郡佐竹郷を本拠として、常陸国に勢力を延ばした。 常陸国では常陸国住人平重幹と下野国豪族足利基綱とが互いに領地を巡って争いがあり、義 光は平重幹と共に足利基綱・源義国(源義国は源義家と足利基綱女との間に産まれ、その子・ 義康が足利を継ぐ)と戦った。 (源氏の系図) 源頼義―源義家―源義親―源為義―源義朝―源義平(母:相模国三浦義明女) 源義朝―源頼朝(母:尾張国熱田神宮・藤原季範女) 源頼義―源義家―源義国―新田義重―里見義俊―里見義成 源義国―足利義康―足利義兼―畠山義純(畠山重忠を継ぐー源氏畠山) 源頼義―源義光―佐竹義業―佐竹正義(常陸源氏) 源義光―武田義清―武田信義―一条忠頼(甲斐源氏) (背景―義家と義光) 後三年の役では、兄弟協力して戦った源義家と源義光であった(美 談として伝わる)。しかし、義家の子孫・源頼朝が、義光の子孫・佐竹正義と戦うこととなる (本書「佐竹征伐」1180/11/15 の項)。武士の世は、親兄弟が互いに戦う厳しく悲しい時代で もあった(武士の世だけでは無いか?)。 ○嘉承元年(1106 年)頃 鎌倉景政の大庭御厨の寄進。 16 歳で後三年の役に出陣し勇名をはせた鎌倉権五郎景政は、浮浪人を集めて相模国鵠く げ沼ぬ ま郷 (現在の茅ケ崎周辺)を開発し伊勢神宮に寄進した(大庭御厨)。 (参考:大庭御厨) 大庭御厨は、その後、鎌倉党と三浦党の争いの場となる(大庭御厨乱入 事件1145/3)。やがて、鎌倉権五郎景政の子孫たちは、頼朝の挙兵に際して、兄大庭景義は源 氏に、弟大庭景親・俣野景久は平家に組し、梶原景時は平家に組した後、源氏に転向した。大 庭景親は、石橋山の合戦では平家の大将として頼朝を破った(石橋山の戦い 1180/8/23 夜)。 ○嘉承2 年(1107 年)平正盛、源義親を討つ。 隠岐に配流されていた源義親は、蜘く も戸との城で謀反を起こし出雲目代を殺害し(1101 年)、 因幡守平正盛に討たれた(1107 年)。 源義家も義綱も藤原氏寄りであり、院は強力な武力的補助者として平正盛を起用し始めた のである。平正盛は白河上皇に近づき力をつけた。 ○天仁2 年(1109 年)源為義、義綱を捕らえる。 源義綱(源義家の弟)・義明父子が検非違使・源義忠(源義家の子)を殺害した咎と がにより、 検非違使・源重時が義綱邸を襲撃し義明を殺害した。義綱と子息達は京を退去する途中、源 為義(源義家の孫、源義親の子)に捕えられ、義綱の子息は自害した。源義綱は佐渡へ配流と なり殺害された。
畠山重忠の年代記 第3 編 12 (源頼義の系図) 源頼義―源義家―源義親―源為義―源義朝―源義平 源義家―源義忠(検非違使) 源頼義―源義綱―源義明 ○永久元年(1113 年)横山党の抵抗、1113/3。 横山党(小野岑守を祖とし武蔵国西部を支配する一族、横山氏・海老名氏・平子氏・愛甲氏 などを含む)は、同族の愛甲内記太郎及び相模国目代を打ち殺したため、相模を含む関東五 カ国に追討の宣旨が出た。政府から追討宣旨を受けた秩父権守重綱(畠山重忠の曽祖父)、三 浦平太為次(三浦義明の父、重忠母・真鶴姫の祖父)、鎌倉権五郎景政らが横山党を攻めた。 しかし、横山隆兼は源為義の被官であり、その保護の下に危機を脱した。中央政府の命令だ けではもはや東国を支配出来なくなっていた。 朝廷では常陸・相模・上野・上総・下総の各国司に命じて、横山党の追討をさせている。5 カ国の国司に追討を命じたということは、横山党の武力やその行動の規模の大きさ(東国武 士団の形成)を示すと言える(安田元久「武蔵の武士団」有隣新書p22 1984 年発行)。 阪東八平氏(三浦氏、鎌倉氏、秩父氏、上総氏、千葉氏など)や武蔵七党(横山党、児玉党、 猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党など)と言われる相模・武蔵の豪族たち が互いに領地を争い、これに源氏の諸派が絡か らんで関東が不穏な情勢となってくる。 ○永久元年(1113 年)三浦荘、摂関家領荘園となる。 当時の荘園寄進(本年代記に係るもの): 嘉承元年(1106 年頃)大庭御厨(鎌倉権五郎景政)、伊勢神宮領。 永久元年(1113 年)三浦荘(三浦義明)、摂関家領 保安3 年(1122 年)榛ケ谷御厨(小山田有重)、伊勢神宮領 大治4 年(1130 年)相馬御厨(千葉常重)、伊勢神宮領 保延年間(1135~1140 年?)下川辺荘(下河辺行義)、鳥羽院領=>八条院領 ○元永元年(1118 年)平清盛誕生(生没 1118-1181 年) 元永元年(1118 年)平忠盛の嫡子として生まれる。実は白河院の落胤で、母は祇園女御の 妹とも言われる。懐妊後、白河院より忠盛に下賜された(源平合戦事典 福田豊彦外p107 吉川弘文社)。 (逸話―祇園女御)白河法皇が寵愛の祇園女御を尋ねる途中、怪しき者が道を塞ぎこれに法 皇は怯お びえた。さては妖怪かと平忠盛に退治を命じた。忠盛は相手が何者かわからぬのに弓を 射ることはできぬと判断し組みつくと、それは老僧であった。法皇は忠盛の武勇と冷静さを 愛めで、祇園女御を忠盛に与えた。そこで生まれたのが清盛である。祇園女御は清盛の優しい 母であった。京都祇園の厳島神社は、清盛が女御のために勧請したものである(平家物語巻 第六「祇園女御」)。 ○1122(保安 3 年) 榛はんケ谷や御厨 当時朝廷は、源義家への荘園寄進を禁止していた。保土ヶ谷一帯(旭区二俣川から保土谷 区)を支配した豪族小山田有重(畠山重忠伯父、稲毛重成父)は、伊勢神宮(内宮)に荘園を 寄進した。これは自分の領地を有力な貴族や寺院に寄進して、毎年、米や絹布を収めること によって自分の領地を守るものであった。 榛ケ谷御厨につては、保土ヶ谷の神明社(相鉄線天王町駅近く)の説明板によると、「平安
畠山重忠の年代記 第3 編 13 時代の中ごろの天禄元年(970 年)、保土ヶ谷の地が榛はんケが谷やと呼ばれていた時代、天照大御神 が榛ケ谷の峰に降り立ち、川井・二俣川・下保土ヶ谷へと三遷した。その後嘉禄元年(1225 年)に神託があって、神明の外宮を建て当地を神戸(カミト、現在も近くに「神戸町」の名が残 る)と号し、榛ケ谷御厨八郷の総鎮守とした」とある。 後年、稲毛重成の裏切りにより畠山重忠は、鶴ケ峰にて無念の最期を遂げる。この時、重 忠を待ちうけていた北条軍がいた場所が、榛ケ谷御厨の一部で馬の放牧をしていた牧の原で あった。後にここは万騎ケ原と呼ばれるようになる。 左「神明社」 右「相鉄バス半ケ谷バス停」 「保土ヶ谷」は、榛ケ谷から由来するとの説もあるか確かではない。現在、「榛ケ谷」と呼 ぶところは見つからないが、「半ケ谷」と言うバス停留所(相鉄バス二俣川南口―希望が丘 路線)が「さちが丘130 番地、さちが丘小入口」にある。万騎ケ原の近くの低地にあり、昔 は「榛ケ谷」と呼んでいたと想像される。 ○保安4年(1123 年)崇徳天皇即位 1123/1/28 鳥羽院の第一子が崇徳天皇(母:待賢門院璋子)として即位(愚管抄巻第二崇徳p108)。 一宮崇徳院位につきておわしましけり。四宮(雅ま さ仁ひ と親王、後白河法皇)・五宮(本仁親王) 皆待賢門院の御腹なり(愚管抄巻第四崇徳p208)。 ○保安3 年(1123 年)平忠盛・源為義、延暦寺僧徒を撃退 延暦寺座主寛慶は、越前守平忠盛の訴えにより、寺役人を検非違使庁に渡した。延暦寺僧 徒(大衆)はこれに抗議し座主寛慶は山を逃げた。僧徒は日吉神輿を奉じて、座主寛慶を逐お い入京を企てた。院は平忠盛・源為義らに撃退を命じ、僧徒は神輿を捨てて退散、一部は祇 園社に立て篭もった。 白河法皇はままならぬものとして、「僧兵の強訴、鴨川の氾濫、赤子の泣き声」を「天下の 三不如意」と呼んだ。衛府や検非違使庁の役人では、既に彼らに対処出来なかった。そこで、 源氏や平家の私兵を使わざるを得ない状況となっていた。 ○天承元年(1131 年)平忠盛、内裏昇殿 1131/3/13。 平貞盛の子・平惟衡は、伊勢守となり伊勢国・伊賀国に勢力を伸ばした(伊勢平氏)。平惟 衡の子・平正盛は白河法皇のもと北面の武士となった。白河法皇は藤原氏-源氏に対抗する ため平家を重用した。平正盛の子・平忠盛は、鳥羽上皇のもと瀬戸内海に勢力を伸ばし、西 国の受領を歴任し豪族を支配下に置いた。そして鳥羽上皇のために得長寿院千体観音堂(三 十三間堂)を造り、功により但馬守をへて刑部卿となり、天皇が宮廷に臣下を集めて開く節会せ ち え に招かれ、はじめて武士として昇殿(天皇のいる清涼殿・殿上の間に入ること)が許された。 白河上皇(院1086-1129) ===>平正盛(生没??-1121?) 鳥羽上皇(院1129-1156) ===>平忠盛(生没 1096-1153) 後白河上皇(院1158-1192)===>平清盛(生没 1118-1181)
畠山重忠の年代記 第3 編 14 ○長承元年(1132 年)殿上闇討事件。1132/11/23 平家物語は、祇園精舎の条に続き平忠盛殿上闇討未遂事件(1132/11/23)から始まる。 曰く、「その夜、忠盛が清涼殿に入ると、武士のような下賎げ せ んな輩やからが殿上人になることを喜ば ぬ貴族たちが、いやがらせに清盛を襲おうとした。忠盛はキラリと刀を抜くと、傍らには忠 盛の家来・平家貞がはべり、“主人闇討ちの噂を聞き、主人の最期をみとどけようと控えてお ります”と言った。貴族は怯えて逃げた。実は、刀は銀箔の木刀であった」と。 この当時、侍は貴族の番人に過ぎず、殿上人達は驕お ごりの気持ちから平忠盛を排斥しようと する。貴族等はやがて没落してゆくが、その過程で長い年月に渉わ たって復活のための行動(平 清盛との妥協、木曾義仲の利用、源義経の利用、源頼朝との妥協、承久の変、建武の中興な ど)をとる。そして、貴族も平家も源氏も滅びて行く。 ○長承2 年(1133 年)法然、誕生(1133-1212) 1133/4/7 浄土宗開祖・法然は、美作国久米南条稲岡庄の漆間う る ま時国の子として生まれ、幼名を勢至丸 という(大橋俊雄「法然上人絵伝」の法然上人行状絵図第一)。 法然が専修念仏による救済者となるまでの修行時代は平家の栄華の時代である。そして、 民衆を救うために立つのは、鎌倉幕府の成立時代である。その間旧宗教は、僧兵等により仏 をかざして権力闘争に邁進していた。まさに「力は正義なり」といった時代であり、武士の 台頭を生み出す時代である。朝廷も武士も寺院も、民衆を救うことを考えることは無かった。 民衆を対象として宗教を考えはじめたのは空也であり、法然である。 ○保延年(1141 年)法然(9 歳)の父殺害される。 押領使であり地方官人であった法然の父漆間時国は、在地勢力の拡大に努める堀河天皇領 稲岡荘の預所明石定明と対立し、その夜襲にあい負傷し没する。父の遺言「敵をうらむ事な かれ。もし遺恨をむすばば、そのあだ世々につきがたかるべし。俗をのがれ、家を出て我が 菩提をとぶらい、みずからが解脱を求めよ」により、勢至丸は菩提寺に入り観覚の弟子とな った(大橋俊雄「法然上人絵伝」の法然上人行状絵図第一)。 ○康治2 年(1143 年)相馬御厨侵入事件 上総権介千葉常永の嫡子常兼が死亡すると、下総国相馬郷を開発し領有する弟の常時が家 督を相続した。常時は常兼の子常重を養子とすると共に相馬郷を割譲した(1126 年)。常重 は相馬郷を伊勢神宮に寄進した(1130 年)。ところが下総国司は、常重を捕らえ滞納官物の 納入を命じた。常重・常胤父子はやむなく相馬の私領を国司に進上した(1136 年)。 常時の家督を継承した常澄は、相馬郷を常重に割譲したことを快く思わず、かねてから東 国に勢力の拡大を狙う源義朝を利用して相馬御厨に侵入し領主権を主張した(1143 年)。義 朝は中央の法皇・藤原氏・寺社の圧力を回避するため、相馬郷を伊勢神宮に寄進した(1145 年)。また、常胤はそれまでの滞納分に見合うものを国府に収めたので、常胤は相馬郡司とな り、土地は常胤に戻った(1146 年)。 (千葉氏の系図) 千葉常永―千葉常兼―千葉常重―千葉常胤(妻:畠山重忠伯母) 千葉常永―千葉常時―千葉常澄―上総介広常(頼朝の重臣、1183/12/16 頼朝に暗殺される) (相馬御厨をめぐる経緯) 1130/6/11 下総権介常重、相馬郡布施郷(我孫子市布施)を伊勢神宮に寄進、御厨下司職 に任ずる。
畠山重忠の年代記 第3 編 15 1145/6 源義朝は、千葉常澄と組み相馬郷を伊勢神宮へ寄進。 1146/8/10 千葉介常胤、相馬郷を伊勢神宮へ寄進(平常胤寄進状)。 1161/1 佐竹義宗、相馬郷を伊勢神宮へ寄進(源義宗寄進状)。 当時の荘園公領併存制の下において、国衙管理者の国司と荘園管理者の伊勢神宮の対立に、 平家と源氏が介入して行くさまが伺える。この相馬御厨をめぐる常澄vs常重争いは、頼朝 政権下の広常vs常胤につながり、やがて上総介広常暗殺という鎌倉幕府内の最初の内紛事 件を起こす。 ○天養2 年(1145 年)法然(13 歳)、比叡山に登る。 法然は、美作国菩提寺観覚の勧めにより故郷を離れ、比叡山北谷の地法房源光に師事する。 その後、東塔西谷の功徳院肥後阿闍梨皇円に学び、15 歳で授戒する。 宗教界でさえ立身出世は、皇族、貴族や名門の影響が大きかった。法然の師・観覚は自ら の師源光を推薦し、源光はより地位の高い藤原一門の出身である皇円を推挙している。法然 がそれだけ期待され、その師に恵まれ、立身出世の道を歩んでいた。 ○久安元年(1145 年)源義朝、大庭御厨乱入事件 1145/3。 境川は上流では武蔵国と相模国の境であり、河口付近では鎌倉郡と高座た か く ら郡の境であった。 相模大庭御厨は鵠く げ沼ぬ ま郷(高座郡)にあり、鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した。源義家は、 この寄進は自らになされるべきで、伊勢神宮へなされたことに不満であった。 (鎌倉党の系図) 平良茂 ---略---鎌倉権五郎景政---略--大庭景忠―大庭景義 大庭景忠―大庭景親 大庭景忠―俣野五郎景久 鎌倉権五郎景政---略--鎌倉景長―梶原景時 大庭御厨は、権五郎景政の子孫の大庭氏が支配していた。三浦党と鎌倉党(大庭氏)は領 域的に接しており、領域争いが絶えなかった。三浦義明は源義朝に援助を求めた。源義朝は、 高座郡内の鵠く げ沼ぬ ま郷を鎌倉郡と称して(境川河口の氾濫で土地の出入がはなはだしかった)、相 模国在庁官人と共に三浦義継・義明ら 1000 騎を率いて、相模大庭御厨に乱入した。背後に は、受領と武者をあやつり摂関家を抑圧しようという院政の方針があった。 後に頼朝挙兵の時(1180 年)に、鎌倉党大庭景親が平家を代表して頼朝を石橋山に攻め破 った(大庭景義は頼朝方に付き、梶原景時は始め平家方であったが頼朝方に転向した。三浦 義明ら三浦党は頼朝方に付いたが暴風雨のため参陣できなかった)。 ○久安3 年(1147 年) 頼朝誕生 1147/4/8 頼朝は、源義朝の三男として、尾張国熱田(名古屋市熱田区)の熱田神宮大宮司・藤原季範 の娘(由良御前)を母として、熱田にて生まれた。幼名は鬼武。 ○1149(久安 5 年)法然(18 歳)、法然房源空と名乗る。 法然は世俗化した宗教界を離れ、仏法を極めるため西塔黒谷の慈眼房叡空の室に入り、法 然房源空と名乗った。 ○久安6 年(1150 年)頃、相模国府、餘よ綾ろき郡へ。 相模国の国府が、大住郡(平塚八幡宮界隈、平塚市役所付近)からより西部の餘綾郡(守公 神社界隈、大磯町国府本郷)へ移された(1150 年ころ)。 位置は、西から順に、新国府―旧国府―大庭御厨―義朝の拠点鎌倉―三浦半島となる。相
畠山重忠の年代記 第3 編 16 模国衙の移動は、鎌倉を基地に勢力を伸ばす義朝・義平に対して、在来の国衙系領主が結集 し、これに鳥羽院とそれにつながる国司が防衛にあたるためではなかったか。空白となった 鎌倉周辺では、大庭氏が波多野・海老名・山内・毛利氏と相模川東岸部の武士を糾合して「東 国の御後見」としてのしあがってくる(神埼彰利外「神奈川県の歴史」p72 山川出版社 1996 年発行)。 ○久寿2 年(1155 年)比企群大蔵館の合戦 1155/8。 この時期、院の勢力が相模・武蔵にも及び、武蔵国比企群には鳥羽院領が散在した。源義 朝は鎌倉を本拠地として相模・下総などの在地武士団の組織化に務めていた。他方、崇徳上 皇を背景とする源為義・義よ し賢か た父子は武蔵国多胡群を中心に勢力を拡大し、鳥羽院領にも侵入 して来た(本書1113 年「横山党の抵抗」)。 源義賢は、武蔵国多胡郡の住人秩父二郎大夫重澄(河越重隆)の養子となって、武蔵国比 企郡の大蔵館にあった(源平盛衰記巻二十六「木曾義仲謀叛」)。大蔵館は、中山道と坂東を 結ぶ重要拠点であった。 鳥羽院は院宣により下野守源義朝に源義賢の追討を命じた。源義朝の長男・悪源太義平は、 武蔵国比企群大蔵館(嵐山町、鎌倉上道沿い)で叔父源義賢(木曾義仲の父)とその養君秩父 重隆(河越重隆、畠山重忠伯父)を討ち、鳥羽院領に侵入した。このとき、義平は畠山重能 (畠山重忠の父)に、「源義賢の子・駒王丸(後の木曾義仲)を尋ね出して必ず打ち殺せ。生 き残しては後年の災いになるであろう」と命じた。しかし、重能は駒王丸を助けようと、斉 藤実盛に預けた。斉藤実盛は駒王丸を木曾の中原兼遠のところにかくまってもらった(源平 盛衰記「木曽義仲謀叛」は、久寿 2 年 2 月とし、義賢養君を秩父重澄としている。延慶本平 家物語は、久寿2 年 8 月 16 日としている)。 中原兼遠は娘二人(葵御前・巴御前)を義仲にめあわせ、息子二人樋口兼光・今井四郎を義 仲の側近とした。 やがて、保元の乱にて両者(鳥羽院・後白河院・源義朝vs崇徳院・源為義)は雌雄を決す ることとなる。義朝vs義賢の対立は、後に頼朝vs義仲の対立として再現される。 秩父一族は、源氏の貴種たる源義賢と組んで、武蔵おける秩父武士団の強化を図った。し かし、それは失敗し源義朝の武士団の勢力が拡大し、保元の乱では東国武士団の多くが源義 朝の下で活躍する。やがて、それも平治の乱で平家一族に代わる。更に源平の合戦を経て、 源頼朝を中心に東国武士団が結集される。 (逸話―斎藤実盛)寿永 2 年(1183 年)倶利伽羅峠の戦いで、木曽義仲は平家に大勝した。 義仲は逃げる平家を追撃し篠原の戦いで更に平家を破った。平家方の多くの武蔵・相模武士 がそこで命を落とした。その中には白髪を染めて戦った斎藤実盛がいた。実盛は、義仲に撃 たれることを喜びとして受け入れたと言う。清盛は、頼朝の謀反に激怒し墓前に頼朝の頸を 備えろと言ったと言う。この説話も対照的で印象深い。 (参考―中山道)中山道(中仙道、正式には東山道と う さ ん ど う )は、京都から岐阜・信濃・甲斐・上野・ 下野の内陸部を通って奥州へ続く道であった。律令時代に「五畿七道」の一つであった東山 道は、国を含めた地区名である(当時北海道は存在しなかった)。江戸以降の中山道と区別し て東山道を通る道という用語から中仙道と呼ばれるようである(江戸時代に街道整備が行わ れ、東海道を大津で分かれ中仙道を通って日本橋までの道は中山道と呼ばれた)。 因みに関東の街道整備がされる以前の平安前期まで、武蔵国は東山道に属していた。その
畠山重忠の年代記 第3 編 17 当時、道としての東海道は武蔵国を通らず、三浦半島走水から房総半島を経て常陸国へ抜け ていた。 (参考―中三兼遠)木曽義仲の育ての親・中原兼遠は、中三兼遠とよばれる。「中原の三男兼 遠」を略して呼ぶ慣わしである。他の例として、悪源太義平は、「悪(剛の者)の源義朝の太 郎・義平」を示すものである。 ○保元元年(1156 年)法然、南都遊学 法然は、西塔黒谷にて源信の浄土教を代表する教義「往生要集」を学び、更にこれを深め、 すべての人々を救う教えを求めて山を下り、洛西嵯峨の清涼寺(釈迦堂)に参寵、南都(奈 良)へ行くことを指示する夢を見て後、南都の諸師を歴訪する。この時、後に専修念仏の本 義を得るに至るキッカケとなる中国の僧永観の「往生捨因」に接する。 永観の「往生捨因」には、善導の観経疏かんきょうその散さん善ぜん義ぎ(観経疏は玄分義、序分義、定善義、散善 義の四巻からなる)の引用があり「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行 住ぎょうじゅう坐臥ざ がに時節の久近 を問わず、念々に捨てざるもの、これ正業と名つく」とあった。宇治の法蔵(平等院の経蔵) に善導の観経疏があることを知り、これを借用し学んだ。 浄土宗の本質は、出家僧の行う難行苦行の聖行道のみではなく、在家信者の専修念仏と いう易行道によっても極楽往生が出来るとするものである。それでは何故極楽往生できる かと言うと、阿弥陀如来が専修念仏の者が必ず極楽往生できることを願い・決心し・実行 され・実現されたからであるとする。南無阿弥陀仏とは「阿弥陀如来に帰依いたします」 と言うことで、自らを愚者と知り、阿弥陀如来の絶対他力を受け入れることである。 このような考えは、浄土真宗七高僧(龍樹―世親-曇鸞<往生論註>-道綽<安楽集> ―善導<観経疏>-源信<往生要集>-法然<選択本願念仏集>)に始まり、親鸞<教行 信証>で完成する。即ち、専修念仏は法然の特許ではなく、法然は貴族たちに占有されて いた仏法を民衆に易しく広めたのである。 保元元年は、武士の力が中央政府においても不可欠であることを示した年であると共に、 仏教界における新たな光が放たれた時である。 法然は多くの武将や貴族から信頼され、殺戮に暮れる武士でも阿弥陀仏は救ってくれる と言う法然の教えに帰依する者が多かった。畠山重忠もその一人であった(本書 1195 年 畠山重忠、明恵上人に会う。実は法然上人に会った)。 ○保元元年(1156 年)鳥羽法皇、源義朝らに禁中・鳥羽院を守らせる。 1156/6。 源義家は藤原摂関家との結び付きが強いとして院政から粛清され、源為義の時代には中央・ 東国での勢力が衰えていた。源義朝は三浦義明娘(悪源太義平母)等との婚姻政策で東国で の根拠を広め、次ぎに藤原季す え範の りむすめ女(頼朝母)との婚姻により鳥羽上皇への接近を果たした。 藤原季範は鳥羽院の寵臣、兄範雅は鳥羽院の北面の武士、姉大進局は鳥羽院寵愛の待賢門院 璋子の女官、もう一人の姉も鳥羽院皇女上西門院の女官と、鳥羽院との関係の深い人物であ った。 源義朝のこれらの工作が実って、鳥羽法皇は源義朝らに内裏及び鳥羽院の警護に当たらせ た(1156/6)。
畠山重忠の年代記 第3 編 18 (源義朝の系図) 源頼信―源頼義―源義家―源義親―源為義―源義朝―源義平(母:三浦義明娘) 源義朝―源頼朝(母:藤原季範) 源義朝―源義経(母:常盤御前) 重忠の母は三浦義明娘(真鶴姫)であり、悪源太義平の母も三浦義明娘であり、義平は重 忠にとって年長の従兄弟という事になる。しかし、重忠の誕生(1164 年)は、義平が死んだ (1159 年平治の乱)後なので直接の関係は無い。 ○保元元年(1156 年)保元の乱 1156/7/11 近衛天皇(17 歳)の早世で、崇徳上皇は復帰の期待をした。しかし、鳥羽法皇は後白河天 皇を臨時暫定的天皇として即位させ、後白河天皇の皇子(二条天皇)を皇太子とした(1155 年)。崇徳上皇は自分の直系を天皇にできず、自らが院政もひけないため不満がつのった。 (天皇の系図) 白河天皇7 2 ―堀河天皇7 3 ―鳥羽天皇7 4 ―崇徳天皇7 5 ―重仁し げ ひ と親王 鳥羽天皇―後白河天皇7 7 ―二条天皇7 8 ―六条天皇7 9 鳥羽天皇―近衛天皇7 6 第 72 代白河天皇(1053 生-1072 皇位-1086 院―法皇-1129 没) 第 74 代鳥羽天皇(1107-1123 皇位ー1129 院-1141 法皇ー1156 没) 第 77 代後白河天皇(1127 生-1155 天皇-1158 院-1170 法皇ー1192 没) 鳥羽法皇が死去すると(1156/7/2、54 歳)、崇徳上皇・藤原頼長・源為義側と後白河天皇・ 藤原忠通・平清盛・源義朝側が緊張関係に入った。平清盛・源義朝・足利義康・源頼政らは、 崇徳上皇の白河殿を夜襲し上皇方を破り、戦いは早朝の数時間で決着がつき、崇徳上皇側が 敗北した(1156/7/11)。 この戦いは、武士の力が政事ま つ り ごと(私的権力抗争に過ぎないが)に大きくかかわるものとして 現れた。と同時に肉親同士が争う悲惨なものであった。 (保元の乱の対立) 天皇側(里内裏:高松殿):後白河天皇(弟)、藤原忠通(兄)、藤原通憲(信西)、 平清盛(甥)、平信盛、平惟繁、平頼盛、平盛兼、 源義朝(子)、源頼政、足利義康、源光保、源重成 上皇側(院:白河殿):崇徳上皇(兄、隠岐流罪)、藤原頼長(弟、逃走中死亡)、 平忠正(叔父、斬首)・長盛・忠綱・正綱父子、平正弘・度弘・家弘・安弘・頼弘・ 光弘祖父子、 源為義(親、斬首)・源為朝(弟、伊豆大島流罪)・頼賢・頼仲・為宗・為成父子、 源頼憲・盛綱父子、源親治、 この時、源義朝軍には多くの武蔵武士が参陣している。秩父一族、横山党を含む武蔵七党、 斉藤実盛、熊谷直実、大庭景義、大庭景親、上総介広常、千葉介常胤などである。更に、鎌倉 防衛線の箱根・足柄山には、三浦介義明、畠山重能、小山田有重などが馳せ参じた。 (参考―死罪) 律令制度の下では、「笞ち ・杖じょう ・徒ず ・流る ・死し 」などの刑罰があり、死罪もあっ た。平将門の乱(935-940 年)で将門は打ち首となっている。その後死罪はしばらく停止されて いたが、保元元年(1156 年)保元の乱では、源為義が斬首ざ ん し ゅ となっている。しかし、皇族・貴 族は死罪になることはなく、保元の乱での崇徳上皇の隠岐流罪の如く、最も重いものでも流
畠山重忠の年代記 第3 編 19 罪であった。 (参考―畠山重能の動向)保元物語は言う、「これより急ぎ東国へ下向し、この度の合戦に参 向か候はぬ三浦介義明、畠山庄司重能、小山田別当有重などを召し寄せて、仰せ合わせられ、 中坂東に城郭を構え、足柄・箱根を打ち塞ぎ、、、」と(保元物語・中「為義降参の事」)。 (逸話―鎮西八郎源為朝)強弓で知られる鎮西八郎源為朝は平家一門と対峙してこれを撃退 し、次ぎに源義朝の一軍と対した。大庭景義は小さめの弓を持って源義朝軍に参陣し、大炊 御門河原にて為朝と対したとき、はじめ弓手ゆ ん で(左側)にあったが、これでは不利とすばやく 馬を操あやつり馬手め て (右側)に廻ったが、為朝のはなった矢は景義の膝を貫いた。若し、為朝の弓 手にあったならば景義の命は無かった。これは、馬術の大切さと、弓矢は小さめにすること の大切さを語るものであった(吾妻鏡巻第十一1191/8/1「大庭景義の回顧談」)。 ○保元3 年(1158 年)後白河院政始まる。 後白河天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位した(1158/8/12、愚管抄第二p112)。目的は、 信西入道から政権を奪回するためともいわれる。鳥羽院の近臣たちは後白河上皇派と二条天 皇・美福門院派に分裂した。後白河上皇の院政開始当初は、天皇親政派とされる美福門院、 藤原伊通、藤原経宗、藤原惟方らの勢力が強かった。院政派の中には、信西と藤原信頼の対 立、平清盛と源義朝の対立があり、藤原信頼が台頭して来る。 (参考)サテ主上二條院。世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ。押小路東洞院ニ皇居造リテ ヲハシマシテ。清盛ガ一家ノ者サナガラ其辺ニトノ居所ドモ造リテ。朝夕ニ候ハセケリ。イ カニモイカニモ清盛モ誰モ下ノ心ニハ。コノ後白川院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバイ カガトノミ思ヘリケルニ。清盛ハヨクヨクツツシミテイミジクハカライテ。アナタコナタシ ケルニコソ(愚管抄巻五p239)。 (朝廷の対立構造) 鳥羽上皇(親)vs崇徳天皇(子) 崇徳上皇(兄)vs後白河天皇(弟) 双方とも待賢門院を母とする。 後白河天皇(親)vs二条天皇(子) ○平治元年(1159 年) 清盛 42 歳・頼朝 13 歳の遭遇。 1159/6/19 二条天皇の中宮(上西門院、鳥羽天皇皇女、母:待賢門院)が院号を賜り、殿上始めがあっ た(1159/6/19)。そこに別当・判官・主殿代・蔵人など女院庁の職員の顔合わせが行われた。 その夜の宴に、清盛は殿上人の筆頭として臨んでいるが、その初献の献盃をしたのが、蔵人 に任ぜられたばかりの頼朝であった(別冊太陽平家物語絵巻・村井康彦「史実平家物語」p 43)。 ○平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9~12/26 保元の乱以後の朝廷内には、専制的な上皇も指導力ある摂関家もなく、一種の空白状態で あった。こんな状況の中で院の近臣や天皇の廷臣て い し ん達は主導権争いをしていた。藤原通みち憲より(信 西)は、関白家が権力の地位を独占し、それを「源氏の番犬」が支えていることに強い反感を 持っていた。信西は平家と組み、ことあるごとに源氏の失墜を企てた。 信西の権勢に不満を持つ藤原信頼の ぶ よ りは、同じく不遇である源義朝と組んで、平清盛が熊野参 詣中に信西を攻め滅ぼし政権を奪取した(1159/12/9 夜)。この時の除目じ も く で、源義朝は左馬頭 から播磨守に、頼朝は従五位右近衛佐す けとなった。頼朝が「佐す け殿ど の」と呼ばれるのはこの官職に よる(衛府における「督か み―佐す け― 尉じょう―志さかん」の第二番目の職位)。