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1 2013 年度一橋大学社会学部 中北浩爾ゼミナール ゼミナール論文

1990 年代以降における労働政策決定過程の変化-審議会を中心として」

一橋大学社会学部社会学科3 年 渡辺 泰士(4111227z)

目次

はじめに 第一章 戦後日本の労働政策形成過程 1.政労使三者構成原則の国際的受容 2.三者構成原則の日本における展開―審議会方式 第二章 1990 年代以降における変化 1.トップダウン型官邸直属機関の抬頭 2.審議会機能自体の動揺 3.国会対策による法案修正への傾斜 おわりに-民主党政権下の労働政策過程 参考文献一覧

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はじめに

本論文の問題意識は、いかなる政策過程に民主的統制が効いているのかという一点にあ る。具体的に言えば、労働政策の決定過程において、政党政治の外におかれた公労使三者 構成の労使合意にもとづく審議会方式、労使団体の政党への国会対策と政治家による国会 審議を中心とする政策過程、首相直属機関をはじめとする官邸主導、政治主導のトップダ ウン型決定方式、様々な政策の策定プロセスがあり、また相互に関連、併存、衰退あるい は隆盛する中で、民主的な政策決定過程とは一体何であるかという点である。 この問いには、伝統的な集団的労使自治では解決できない今日における労働の諸問題の 登場、グローバル化に伴う労働環境の激変、少子高齢化等との関係の中での労働政策課題 の多様化、労働組合組織率の低下、非正規雇用の増大といった政策側の多様な変数と同時 に、「決められる政治」といった多数決型民主主義か、代表制に重きを置く合意形成型民主 主義かというデモクラシーのあり様のような政治の側の変数も存在し、安易に一つの最適 解が直ちに導かれるものであるわけではない。 とはいえ、このテーマを問うことは、「労働」という多くの働く人々の生活に関わる身近 なトピックが、「政治」という社会全体に及ぶ物事を決する営みの中でどのように扱われて きたのかを解きほぐすものである。それは、われわれの日常とデモクラシーとは何かとい う政治の根源的な問いをつなぎ、その不可分性を認識させるものであると感じており、そ の問い自体に取り組むことにこそ意義があると筆者は考える。 本論文の構成は、第一章において、戦後の日本で三者構成原則とともに展開された労働 政策の決定過程を分析する。第二章では、そうした政策過程が1990 年代後半以降において 変化してきた事例を検討し、近年の日本政治の舞台の上で労働政策決定過程がどのような 動きを見せたのかを分析する。

第一章

戦後日本の労働政策形成過程

1.政労使三者構成原則の国際的受容 国家レベルでの政策形成のプロセスはその行政分野、政策領域によって多様である。労 働政策の形成プロセスについては、世界の多くの国々において政労使三者構成による協議 というあり方が一つのスタンダードとして、歴史的にもコンセンサスを得ながら普遍性を 帯びた制度として受容され、規範として定着している。本節では、労働政策分野における この三者構成原則の成り立ちについて概観したい。 労働政策分野において政労使三者構成による政策形成システムが世界で初めて規範的に 確立されたのは第一次世界大戦後に遡る。20 世紀初頭のヨーロッパを中心とする先進諸国 では、高度な産業社会が本格化し、多数の労働者層が生み出されて盛んな労働運動が展開

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3 され始めていた。労働運動の勃興は社会主義思想の抬頭にも連動し、1917 年に起きたロシ ア革命は先進諸国にとって国際的に協調した労働者保護の必要性を痛感させる大きな契機 となった。こうして1919 年、第一次世界大戦後のパリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条 約において、労働条件の国際的規制のための常設機関(国際労働機関、以下 ILO)を国際 連盟の姉妹機関として創設することが合意されたのである。その中で、ILO 総会に出席す る加盟国代表の議席配分が政府2票、労使各1票とされたことが、いわゆる政労使三者構 成原則の濫觴である。 ILO の活動はその後戦間期にわたって低調であったが、第二次大戦後の活動活発化に向 けた1944 年のフィラデルフィア宣言で三者構成原則は再確認され、1976 年の ILO 第 144 号条約(国際労働基準の実施のための三者協議)及び1978 年の ILO 第 150 号条約(労働 行政)において、国内労働政策の立案過程における政府、使用者、および労働者の間での 協議機構を設けることを具体的に要請し、加盟国による批准を経て世界各国における労働 政策形成過程のグローバル・スタンダードとしての定着を見るに至った。 このようにILO を通じて加盟各国に労働政策形成のための普遍的システムとして波及し ていった政労使の代表による三者構成スタイルであるが、その発想の根本にはもちろん近 代市民社会の原理である私的自治原則の延長線上としての労使対等の「労使自治」の思想 がある。しかし本来、労使自治の考え方は私人間の契約の発想であるが、産業の発展やそ れに伴う労働者の組織化とともに各職場レベルでのミクロな労使自治は、産業別レベル、 全国レベルでの頂上団体交渉による労働協約の締結を行なうようになり、その労働協約が 定める労働条件は次第にマクロな国家権力の定める制定法と同等の一般的拘束力を有する 性格のものとなっていった。これは代議制民主主義における国民代表による立法府の審議 を経た法の制定とは異なるルートによって事実上国家レベルで適用される立法がなされる に近い現象といえる。 こうした現象に対応して、むしろ国家機構という公的な場の中に労使の代表を参加させ、 そこでの政府と労使の協議に基づく政策決定をなすシステムが20 世紀に登場するコーポラ ティズムである。ゲルハルト・レームブルッフはこうした第二次世界大戦後の大陸ヨーロ ッパで登場するネオ・コーポラティズムを代議制民主主義原理とは異なるデモクラシーの あり方として「団体主義的交渉デモクラシー」と呼び、コリン・クラウチは中世以来のヨ ーロッパの社会的亀裂によって生まれた各階層を代表する利益集団による協議の伝統と社 会民主主義的思想が結合して20 世紀のコーポラティズムが生み出されたと説明する1。つま り、ILO によって提唱された三者構成協議のシステムも、労使自治の拡大に伴い、その協 議を国家機構にビルトインする20 世紀のコーポラティズムと軌を同じくするものと捉える ことができるだろう。 1中野聡(2007)「西欧コーポラティズムと社会統治:ネオリベラル経済秩序下の労働市場」 『豊橋創造大学紀要』第11 号。

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4 2.三者構成原則の日本における展開―審議会方式 前節で世界各国に受容されるに至った三者構成原則の成り立ちを概観したが、本節では、 日本における審議会方式という形での三者構成原則の確立と展開について考察したい。 ILO 設立時からの加盟国である日本であったが、加盟当時は労働組合法も存在せず、合 法的な労働者の組織化が進んでいなかった。そのためマクロな政策決定の場での三者構成 はもとより、ミクロな産業社会領域での労使交渉という概念の一翼を担う労働者を代表す るアクターとしての労働組合の法的・社会的基盤が確立されていなかった。 しかし、終戦直後に労働組合法等の制定のために設けられた労務法制審議委員会におい て、官庁10 名、学識経験者 7 名、国会議員 6 名、事業主 6 名、労働者 5 名という五者構成 の変則的な形ではあるが、官僚・学識経験者・議員という公益代表の人間と、労使代表の 二者が同じテーブルでパブリックな政策決定の場に参加したという点で、これを日本にお ける三者構成原則受容の出発点とみなすことができるだろう2。なお、この委員会によって 制定に至る労働組合法には、公労使から構成される労働委員会が規定された。その後制定 された労働基準法には労働基準委員会が、職業安定法には職業安定委員会が設けられ、い ずれも公労使三者構成の形が取られ、後に労働大臣の諮問機関としての「審議会」という 名に改称される。こうして労働省が所管する労働政策の基準系統から職安系統、均等系統 へと各分野へ三者構成原則が拡大されていくこととなった。 その後、1950 年代から 60 年代初頭にかけては、労働政策は与野党対決の大きな対立軸、 いわば政策課題の花形として争われたが、高度成長が進むにつれて労使いずれも政党を経 由せずに直接官僚(労働省)と交渉するようになり、労働政策が政治争点化しなくなる「非 政治問題化」現象が見られるようになった。労働政策以外の他の行政分野においては、い わゆる「族議員」など与党による官庁での政策立案プロセスへの干渉が多くみられたが、 労働官僚は労使の代表以外(他の政府機関、政党、国会議員など)による労働政策過程へ の干渉・介入を忌避しながら、労使の間に立ってバランスを調整し、あくまで三者という 限定的アクターのみで「非政治」的に安定的に具体的政策を決定していくスタイルを定着 させていったのである。 こうした「非政治問題化」については、高度成長による経済のパイの拡大は自動的に雇 用の拡大と連動しており、労働政策に政治家が関わることは票集めに寄与しにくく、特に 「族議員」の発達した建設や農政といった地域利害の絡む他の行政分野と比較すると「票 にならない政策分野」であったという事情が大きな理由として挙げられる3。また、企業別 労組主体のミクロな労使交渉による労働問題の分散的処理に加えて、労働政策を政党政治 の枠組みから外し、政党政治の外側で頂上的かつマクロな利害調整の場を設けた審議会の あり方は、労働を大きな政治的争点に浮上させない仕組みとして自民党の長期政権を支え 2濱口桂一郎(2008)「労働立法と三者構成原則」有斐閣『ジュリスト』No.1369。 3猪口孝・岩井奉伸(1987)『「族議員」の研究』日本経済新聞社。

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5 る機能を果たした一面もある。4 1970 年代になると、労働省は三者による審議会での政策決定過程の前に、労使を除いた 審議会の公益代表である学識経験者のみによる「研究会」を設置し、労使の議論のたたき 台を作る方式を一般化させてゆく。これ以後の労働政策のテーマとなった労働時間、男女 均等、労働者派遣、高齢者雇用などは立法過程で精緻かつ専門的な知見からの制度設計が 必要とされたため、まず学識経験者による研究会で論点を洗い出す方式は有用なものとし て機能した。 ここで、戦後日本で形成された労働政策決定過程をまとめると、学識経験者による研究 会での専門的知見による研究会報告をたたき台に、公労使三者(公益委員・労働者委員・ 使用者委員の各10 名の計 30 名)による審議会での協議で労使の合意形成を行なった上で、 厚労(労働)大臣に建議を出し、それを受けた厚労省(労働省)が法案要綱を作成し、大 臣が審議会に法案要綱を諮問し、審議会での議論による答申を経て国会提出へ至るという プロセスである5。ただし、すでに審議会の場で労働政策の当事者である労使間の合意が形 成されている以上、国会提出後に修正されるケースは1980 年代までほとんどなく、あくま で審議会が政策決定の中心であった。 こうした審議会方式の中でも特に、労働省-厚生労働省における労働分野の審議会の中心 的な存在である労働政策審議会は、1966 年の雇用対策法、1974 年の雇用保険法改正、1987 年・2003 年の労働基準法改正などの重要な労働政策の転回には必ず関与し、労働のあり方 の方向性を決定する主体として機能してきた。 以上のように、労働政策が「非政治化」した高度成長期以降の日本では、法案の内容を 決定する実質的な主体は国会ではなく、本来は代議制民主主義による立法を補完するため の存在に過ぎない審議会であったことが分かる。こうした特性はやはり、第一節で見たILO 条約の存在によるところが大きいと考えられる。労働政策における審議会を他の行政分野 における審議会のあり方と比較すると、三者構成原則を求めるILO 条約の批准を根拠とし て、公労使三者による代表制が担保されており、審議会における諮問・答申の手続が運用 規則上義務付けられている点で他との大きな違いを見ることができる。 ところが、日本の審議会方式を ILO の三者構成原則と照らし合わせたときの評価は今日 でも論者によって様々である。元労働官僚として審議会に関わった経験のある濱口桂一郎 は、審議会方式はILO の三者構成原則の普遍的規範の忠実な再現であると論じ6、政治学者 の久米郁男は、労働分野の三者構成審議会方式を「日本で最もコーポラティズムの定義に 近い政策過程」と評している7 一方で、労働法学者であり中央労働基準審議会会長をはじめ各種審議会での公益委員を 4飯尾潤(2008)「労働政治の復活」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』579 号。 5安枝英訷(1998)『労働の法と政策』有斐閣。 6濱口桂一郎(2007)「労働法はどのようにして作られるのか」『労働法研究会報』No.2406。 7久米郁男(2005)『労働政治―戦後政治の中の労働組合』中公新書。

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6 長らく務めた花見忠は、自身の経験から三者構成審議会はILO 三者構成原則とはかけ離れ た「企画・立案と立法プロセスを官僚が支配する場合の道具」であるとし、「全く普遍的で はなくて日本特有のものである」との評価を下している8。その理由として花見は、諸外国 における「政労使」三者構成のあり方との大きな違いとして、日本の審議会方式は「公労 使」による構成であり、労働代表・使用者代表の二者に学識経験者である公益委員を中立 な立場の「公」として三者目に加えることで、役所はその三者の外からコントロールでき る形態を敢えてとり、また、対外的にも、三者構成を「隠れ蓑」として、官僚が政党や議 員、国会に対する政策の企画・立案の主導権を維持し、立法プロセスを管理することので きる官僚主導システムに過ぎなかったと論じている。 花見の公労使審議会に対する官僚主導との評価は、例えば人選面での三者の代表委員各 10 名の選出にあたっては、役所側が外部からの推薦や名簿の提出など一切なく一方的に決 定する点や、役所側が審議会の前段階の研究会も含めて公益代表委員の学識経験者と事実 上協力関係を持って一貫して立案を指導している点なども踏まえると、強ち誤った見方と は言い難く、確かに妥当と言える部分もある。 しかしながら、審議会の答申にあたっては、全会一致の原則のもとに、公労使三者の代 表委員による合意がなければ答申の決定ができないという点もまた事実である。また、労 働省および公益代表委員が研究会等で議論のたたき台を作り、審議会を主導しているとは いえ、久米による各省の官僚に対する面接調査によれば、「労働省は審議会および関係団体 の影響力を他省庁よりも強く感じている。 同時に、政策形成や執行に際しての調整が困難 である相手方として審議会をあげる比率が最も多かったのが労働省であった」9と指摘され ており、労働省および公益委員は膨大な時間とエネルギーを審議会における労使間の利害 調整に費やしていたのである。すなわち、労働官僚と公益委員のお膳立てとコントロール によって官の意に沿うままの労働政策過程が進められていなかったことが伺える。 以上を踏まえると、審議会方式は、公益代表委員の存在という特徴は持ちつつも、実質 上の機能的には労使の頂上団体による交渉・合意形成に基づく政策決定システムであり、 国家機関に組み込まれた政労使三者合意というコーポラティズム的要素を多分に含む性格 のものとみなすことができる。また、ILO 条約の普遍的規範を反映している意味では一つ の正統性を持つシステムだと評価できるのではないだろうか。私的自治原則の延長である 労使自治の考えに任せた労使二者の団体交渉だけでは、企業別労働組合が中心の日本の労 使関係では、大企業や官公セクターにおけるものに留まってしまいがちである。その点、 中小・零細企業のような現実的には労使の団体交渉が充分機能していない領域の労働条件 を包括的に代理交渉する場10としても、三者構成の審議会はマクロなコーポラティズム的機 8花見忠ほか(2008)「<鼎談>労働政策決定過程の変容と労働法の未来」『季刊労働法』222 号。 9久米郁男 (1998) 『日本型労使関係の成功』有斐閣。 10神林龍・大内伸哉(2008)「労働政策の決定過程はどうあるべきか―審議会方式の正統性。 についての一試論」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』第579 号。

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7 能をある程度果たしてきたと評価するのが妥当であろう。

第二章

1990 年代以降における変化

1.トップダウン型官邸直属機関の抬頭 前章で、ILO 三者構成原則を拠り所として戦後形成された公労使による審議会方式につ いて見てきたが、1990 年代後半~2000 年頃からそれまでスムーズな政策立案に成功してき た審議会に混乱が見られ、次第にその機能不全や地位低下といった現象が見られるように なった。本章ではそれらの事例を検討していく。 1990 年代はバブル経済の絶頂からの崩壊とともに幕を開け、日本経済は「失われた 20 年」の長期不況へ突入していった。高度成長期に確立し、1980 年代には経済成長の立役者 としてもてはやされるに至った「終身雇用・年功序列・企業別労働組合」(ジェイムズ・ア ベグレン)の雇用慣行を基調として、メインバンク制や株式持合、金融界の護送船団方式 に代表的な国家による市場規制、稟議制のようなボトムアップ型の集団主義などの特徴を 総称する「日本的経営」は、経済界においては過去の遺物と見做されて克服の対象へと変 わり、代わって、冷戦崩壊とグローバリゼーションの波の中で、1980 年代に整理解雇の嵐 を見た市場原理主義的なアメリカ型の経営方式が称揚されるようになっていった。例えば、 日経連は 1995 年に「新時代の『日本的経営』 ―挑戦すべき方向とその具体策」を示し、 経営環境の変化に対応すべく従来の日本的雇用慣行を克服し、従来の長期雇用の対象を経 営のコアとなる労働者に限定し、他をフレキシブルな雇用に代替する労働市場の流動化を 提唱した11。グローバル化による市場主義的改革の流れは政治の世界にも波及し、政治改 革・行政改革・規制緩和が政治課題の中心に掲げられるようになっていった。 このような90 年代の背景の中で、労働政策決定過程にも変化が見られるようになってい く。90 年代半ば以降、労働政策決定のプロセスに、従来の労働省における審議会とは別の 強力な政治力をもった組織の影響力が見え始めたのである。それは、1994 年に総理府に設 置された行政改革委員会の下に翌1995 年 4 月に発足した、オリックス社長(のち会長)宮 内義彦を議長とする「規制緩和小委員会」である12。規制緩和小委員会はその後、規制改革 委員会、総合規制改革会議、規制改革・民間開放推進会議などへの改組を繰り返すものの、 宮内は1995 年以来 2007 年 1 月に小泉内閣の任期満了をもって規制改革・民間開放推進会 議が終了されるまで10 年以上にわたって連続して議長を務めた。また、小泉内閣に続く第 一次安倍晋三内閣は規制改革会議を再設置し、民主党への政権交代によって終了するも、 第二次安倍内閣が発足した際も規制改革会議の復活を閣議決定している。 11大原社会問題研究所(2006)『日本労働年鑑』第 70 集 旬報社。 12中村圭介(2008)「逸脱?それとも変容?-労働政策策定過程をめぐって」労働政策研究・ 研修機構『日本労働研究雑誌』第571 号 。

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8 これら官邸直属の委員会は「民間有識者」13~15 名程度によって構成されているが、小 泉内閣期における規制改革・民間開放推進会議時代は、議長の宮内はじめ奥谷禮子(ザ・ アール代表取締役社長)や河野栄子(リクルート代表取締役会長兼CEO)といった経営者 10 名、労働経済学者の清家篤(慶應義塾大学教授)や八代尚宏(日本経済研究センター理 事長)など学識経験者 5 名によって構成され、その他の期間においても弁護士や新聞社論 説主幹などのメディア関係者も見られるが、基本的に経営者・学識経験者によって占めら れており、2001 年 4 月の総合規制改革会議以降、労働界からは 1 人も参加していない。同 じ首相直属の規制緩和を推進する諮問機関でも、かつて1980 年代の第二臨時行政調査会に は委員数9 名のうち 2 名は総評 1 名、同盟 1 名とナショナルセンターからの労働代表が参 加していたのに比べると大きな違いと言える13。当然、労働代表を除外した官邸直属の委員 会・会議の選好は、経営側の選好に大きく偏る結果となる。 こうした委員会・会議で決められた規制緩和・改革計画はトップダウンで閣議決定に付 され、その後、労働政策分野のものに関しては労働省-厚生労働省の審議会に下されること になる。しかしながら、1997 年から 1998 年にかけて労働省の審議会において審議された 裁量労働制に関する労働基準法改正にあたっては、審議会の労働代表委員を送り出してい るナショナルセンターの連合によれば、「労働基準法関係の規制緩和も『規制緩和推進計画』 に盛り込まれ、政府決定」したことを前提に「『すでに政府決定がなされた』という枠組み のなかで、どの部分を緩和するかという技術論に終始するという、これまで経験したこと のない異例の条件の中で行なわれた」14という、これまでの第1 章で見たような審議会方式 が経験したことのない「異例」に直面することとなったのである。しかしその後も1999 年 の労働者派遣法のネガティブリスト化にあたっても同じことが起こり、規制改革小委員会 が労働省の審議会の外で描いたシナリオを閣議決定による内閣のお墨付きを得てから審議 会に下すことで、審議を外側から強力にコントロールすることがこの頃から常態化するよ うになったのである。こうした官邸直属機関のトップダウンによって主導された98 年労基 法と99 年派遣法の 2 つの改正法案に対し、連合は集会、座り込み、署名活動により、規制 緩和小委員会への激しい抗議抵抗運動を行なった。 このような 1990 年代後半における現象は、1950 年代における労働省外の政府機関によ る労働基準法の規制緩和の圧力という極めて類似した事例と比較すると興味深いことがわ かる。1952 年の連合国軍による占領終了に伴い、占領下の改革を「国情に合わせる」とい う名目で検討し直すために、内閣の直属機関として設けられた「政令改正諮問委員会」は、 公職追放の解除、占領下で定められた独占禁止法や教育制度の再改革などに着手した。そ の際、労働法分野においても経営側の強い後押しを受け、政令改正諮問委員会は労働基準 法の大幅な規制緩和を労働省に対して求めた。その際、労働省は政令諮問委員会による原 13中北浩爾(2008)「連合と政治」生活経済政策研究所『生活経済政策』第 137 号。 14日本労働組合総連合会(1999)「職場に生かそう 改正労働法 Q&A」日本労働組合総連合 会。

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9 案なしに白紙で省内の中央労働基準審議会に諮問を行い、公労使によるかなり穏当な答申 を得て、当初の政府の政令諮問委員会が要求した改正案に比べ極めて小規模な改正にとど めたのである。つまり、政権の決めた枠組みに縛られず、あくまで公労使の合意に基づき 労働政策を決定していくその後の労働政策決定スタイルを、労働省が三者構成を楯にして 他の政治的アクターに対外的に示し、確立させていった始まりがこの出来事であった15 この三者構成の審議会方式黎明期の出来事と奇しくも同じ労働基準法改正にあたって、90 年代後半の審議会はもはや政府の規制改革小委員会に対抗することができなかったという 点で、官邸直属機関の抬頭による外部からのコントロールとは別の現象として、長らく機 能してきたはずの審議会機能自体が内部から弱体化していることを示しているのではない だろうか。 2.審議会機能自体の動揺 前節で検討したように、90 年代後半の労働政策決定過程は、規制改革委員会といった官 邸直属機関によるコントロールという新たな局面を見た。しかし、それらの委員会による 閣議決定を付された計画も、三者構成の審議会の審議を経なければならなかったことに変 わりはなく、依然として戦後確立された審議会方式は健在していたのである。それにも関 わらず、50 年代との比較で見たように、内閣の決定した枠組みに対抗することができなか った。本節では、労働省―厚生労働省における三者構成の審議会内部からの弱体化、機能 不全化の経緯について事例をベースとして論じていきたい。 ここで取り上げる事例は、労働契約法の制定に向けた一連の労働政策審議会労働条件分 科会である。2004 年 3 月開催の労働政策審議会では審議のスタートとして、第 1 章 2 節で 見ている通り、審議会の前段階にあたる公益代表委員(学識経験者)による議論のたたき 台としての研究会設置の報告が事務方サイドからなされた。この研究会は、2003 年の労働 基準法改正による判例法理の成文化によって純然に民事的規定となった労基法の部分を新 たな民事法として制定する作業にあたり、03 年の労基法改正の際の、労働契約に関する民 事法制定にあたっての専門家による調査研究の場を設ける旨の衆参の付帯決議にもとづい て、明治大学法科大学院教授の菅野和夫を座長とし、有力な労働法学者をメンバーとして 発足させたものであった。 しかしながら、労働代表委員から、このような専門性の高い研究会に対し「学者の方だ けにお任せするのではなくて、労使の代表を入れて議論したらどうですか」「もし労使の代 表が(研究会に)入らないのだったら、研究会報告にはこの分科会(労働政策審議会労働 条件分科会)は縛られませんというのははっきりさせてほしい」16という異例の見解が出さ 15濱口桂一郎(2008)「労働立法と三者構成原則」有斐閣『ジュリスト』No.1369。 16中村圭介(2008)「逸脱?それとも変容?-労働政策策定過程をめぐって」労働政策研究・ 研修機構『日本労働研究雑誌』第571 号。

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10 れたのである。研究会報告はあくまで専門家による論点の洗い出しと審議会の議論でのた たき台に過ぎず、1970 年代に研究会が初めて設置されて以来、審議における労使双方から の研究会報告への批判を経る中で研究会報告そのままの形で法案化されることはあり得な かった。それでも専門家による論点作りとしての機能は労使双方からも重宝されてきたた め、当然、研究会報告が専門家だけでなされること自体への反発が労使委員から出ること はこれまでの審議会ではなかった。労働側による研究会への不信はこの時1 回に留まらず、 2005 年 4 月の労働時間法制に関する同審議会においても、研究会発足の事務方からの趣旨 説明の際に同様の懸念が労働代表委員によって出されている。 結局、予定通り研究会は専門家のみで2004 年 4 月から 28 回もの会議を重ね、2005 年 9 月に労働契約法制定に関する研究会報告がなされた。しかし、その報告に対して、かねて から研究会に不信を募らせていた労働側のみならず、使用者側からも研究会報告と審議を 切り離すべきだという意見が出されるに至った。連合が「『研究会報告』はあくまでも研究 者による報告であり、審議会における議論のたたき台ではない」と発言するのと同様に、 経団連も「これらはあくまで研究会の取りまとめであるので、これに縛られることなく」 と表明したのである。つまり、1970 年代から労働政策の複雑化の中で生まれた、専門家に よる審議会の議論のたたき台作りに対して、労使双方からそれを否定する反応が初めて出 される事態となったのである17。こうした労使の反応に対し、専門家である公益委員はあく まで研究会報告は議論の素材に過ぎないことを強調してその場を収集している。 さらに、2006 年 6 月の同審議会 58 回目の会議において、厚労省の事務方から提案され た「中間とりまとめ」に対し、労使双方から厳しい反対意見が出され、その後の審議が中 断されると言うボイコット事件が発生した。結局その後も労使の真摯な議論は行われずに、 こうした一連の紛糾の結果、2007 年 3 月に労働契約法は労使の真っ向からの対立が合意を 得られぬまま、労使双方の反対意見付き答申という形で諮問された法案要綱として、国会 への法案提出に至った。この法案は当初の研究会における研究者の理論的研究成果は反映 されず、法的効力の明確ではない規定が多くなり、判例法理(一部法学者からは批判の多 いものも含め)の単なる列挙と化し、内容面において労使双方にとって多くの問題を抱え たまま、労働法学会を始めとする専門家からは「労働契約法」という名に値しない貧弱な 内容と酷評される18法案として提出されることとなった。 このように、労働契約法、労働時間法制等の2000 年代前半における審議会では、第 1 章 で概観したような戦後に確立した、専門家(公益代表委員)による研究会報告から国会提 出へ至るまでの審議会方式の一連の流れ、特に専門家による介在に対する労使双方からの 不信と反発が生まれ、従来のスタンダードとされた方式が揺らぎ始めたことがわかる。 17花見忠ほか(2008)「<鼎談>労働政策決定過程の変容と労働法の未来」『季刊労働法』 222 号 18神林龍・大内伸哉(2008)「労働政策の決定過程はどうあるべきか―審議会方式の正統性 についての一試論」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』第579 号

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11 すなわち、この頃に至って審議会は、1987 年の労働基準法改正(労働時間規制強化)に おいて公益委員の学識経験者が裁定者の役割として、合意の見出せない労使の決着の道を 開いたケースを最後とするような80 年代までの審議会の姿とは異なっており19、従来のよ うな合意形成機能が不全に陥るようになったといってよいだろう。労働省の事務方が多大 な時間とエネルギーを割いて労使の利害調整に奔走し、公益代表たる専門家が主要なアク ターとして法技術的に精緻な理論を練りその利害調整と擦り合わせて審議会の場で法案を 完成状態に仕上げたかつてとは異なり、労使双方にとっても不利な点を含んだままの粗雑 な法案として国会に提出されることを労使がもはや是認するようになったことを意味する。 その要因を次節において探る。 3.国会対策による法案修正への傾斜 前節で見たとおり、従来的な審議会方式で特徴的な役割を果たしてきた専門的知見を持 つ学識経験者(公益委員)への労使の反発が強まり、審議会としての合意と利害調整を尽 くした法案提出に労使双方が拘らなくなった背景として、それに先立って、90 年代から労 使それぞれが友党・支持政党への国会対策を強めることによって、自らに不利な部分の法 案修正を国会の労働委員会における審議の場で勝ち取る経験を積んできたことが大きく考 えられる。 使用者側は、1993 年の労働基準法附則 131 条改正(翌 1994 年 4 月 1 日からの週法定労 働時間40 時間制の実施)において、審議会では労働代表の欠席によって合意が得られなか った中小企業事業主における猶予措置の46 時間への延長を、商工会議所等の政党への働き かけを通じた国会での修正によって獲得したケースを持つ20 労働者側については、1 節で前出の 1998 年の労働基準法改正(裁量労働制導入)、1999 年の派遣法改正(ネガティブリスト化)、2003 年の労働基準法 18 条の 2(解雇ルール)の 修正において、連合による友党の民主党・社民党への国会対策が一定程度の成功を収めて いる21 こうした経験を背景として、2 節で挙げた労使双方が不満を抱えたまま提出された労働契 約法案自体も、2007 年の第 166 回通常国会では成立せずに継続審議に入り、その後行われ た第21 回参議院議員選挙による与党自民党の敗北で生じた「ねじれ国会」となった第 168 回臨時国会で成立することとなった。この際、参議院選の勝利によって政治的発言力を強 めた民主党による格差是正やワーク・ライフ・バランスといった労働側のニーズをダイレ 19梅崎修 (2008) 「労働基準法の 1987 年改正をめぐる政策過程オーラルヒストリー・メソ ッドによる検証の試み」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』第579 号。 20中村圭介(2008)「逸脱?それとも変容?-労働政策策定過程をめぐって」労働政策研究・ 研修機構『日本労働研究雑誌』第571 号。 21三浦まり(2001)「代表性・説明責任・政策有効性:派遣法改正の政策形成過程を政策評 価する一試論」日本労働研究機構『日本労働研究雑誌』。

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12 クトに反映させた、民主党案での修正を経ての法案成立であった22。特に、民主党案での修 正による労働契約法 3 条 3 項に定められた「仕事と生活の調和への配慮」を義務付ける規 定の新設は重要なものとして評価され、労働法学者からは法技術的稚拙さは指摘されてい るものの、今後はこの規定を根拠とする裁判例の登場が待たれている。つまり、労働契約 法は審議会での答申は労使双方に不満を抱えたままであったものの、その後の選挙・国会 情勢によって力を持った民主党によって運よく労働側が成功を収めた事例と言える。 以上第2 章で分析してきた 90 年代以降における、官邸直属機関の抬頭や労使双方の国会 対策重視傾向に見られる審議会に対する「政治」の優位現象は、高度成長期に見られた労 働政策の「非政治課題化」のまさに逆をいくものであり、労働政策の再「政治課題化」と も言える。 例えばワーキング・プアの増大によって最低賃金の水準が生活保護の水準と比較された り、 年金受給額との連関が論じられたり、育児や介護といった問題と働き方の問題が密接 に絡み合ってくる等、他の政策分野との連関の重要性が増してきている現在の労働を取り 巻く状況では、 労働政策が既存の狭い意味での労働問題の枠の中だけで考えることが困難 な国民的課題になってきているのは事実である。このような状況において、労働政策とし て三者構成審議会で取り上げる課題が、労働法学者中心のあくまで法律専門家集団である 公益委員と、労使二者間の頂上交渉で決着させるのにはそぐわない性質を帯びたものが多 くなるという変化も考えられる23 従来、労働問題の宿命的当事者である労使の合意形成が得られることが、審議会が事実 上の政策決定の場として正統性を持ってきた根拠であった。しかし、審議課題が労使交渉 だけで決めることがそぐわなくなってくれば、当然その正統性は揺らぎ、より大きな政治 過程である国民代表たる政治家による国会での決定プロセスに比重が移っていくのは当然 とも言える。加えて、1990 年代の政治改革による選挙制度改革と二大政党制というウエス トミンスターモデルの多数決型デモクラシーへの政治制度的な志向が、労働政策の「政治 問題化」の動きを後押ししたと言えるのではないだろうか。

おわりに-民主党政権下の労働政策過程

2009 年 8 月の第 45 回衆議院議員総選挙で民主党は「政治主導」を掲げて自民党からの 政権交代を果たし、民主・社民・国民新の三党連立による鳩山内閣が発足した。民主党政 権は、自民党政権下における経済財政諮問会議や、労働界を排除した規制改革を進めた規 制改革会議などを休止し、その代わりとして、雇用戦略対話や新成長戦略実現会議といっ 22神林龍・大内伸哉(2008)「労働政策の決定過程はどうあるべきか―審議会方式の正統性 についての一試論」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』第579 号。 23飯尾潤(2008)「労働政治の復活」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』579 号。

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13 た様々な会議をつくり、連合を始めとする多様なステークホルダーを取り込むことに力を 入れたため、前政権時代に比べて労働界にとっては労働の分野のみならず政策過程への参 加機会が増えることとなった24 ところが、民主党政権下における労働政策過程において、労使合意と政治主導をめぐり、 労使から不満が出される出来事があった。2010 年の派遣法改正である。2010 年 3 月に鳩 山内閣は連立 3 党の党首級による基本政策閣僚委員会を開いた。その委員会の場で、厚労 省提出の製造業への派遣原則禁止などを盛り込んだ労働者派遣法改正案に対し、福島瑞穂 少子化担当大臣(社民党党首)が「労働政策審議会がつくった法律を 1 ミリたりとも動か さないのはおかしい。政治主導というなら変えるべきだ」として、労働政策審議会におけ る労使合意に至った、派遣先企業が派遣社員を受け入れる前に実施する「事前面接の解禁」 を削除するよう厚労省提出案の修正を要求した。長妻昭厚労大臣や平野博文官房長官が難 色を示す中、菅直人副総理が「削除の前提で引き取らせていただきたい」と委員会の会議 を締めくくり、労働者派遣法改正案の修正がなされた。 これに対して、「政治主導」によって労使合意が覆されたとして労使のトップからの批判 が相次ぎ、連合の古賀伸明会長は「我々は公労使三者による答申は尊重されるべきだと主 張してきた」と不快感を表明し、経団連の御手洗富士夫会長は「経営側と労働側が何とか ぎりぎりの線で決めたことが覆ったのは非常に遺憾だ」とした。連合の幹部からは「今回 は規制強化の方向に修正されたから、連合としてはいい方向だ。けれどこれが政権がまた 代わって逆の方向へ行ったら大変だ」という懸念の声が上がった25 この事例は、当時の民社国三党連立の鳩山内閣が、沖縄の在日米軍基地の普天間飛行場 移設問題をめぐる社民党との亀裂を恐れ、労働政策分野で社民党の意向を配慮した連立与 党内の政治的事情を反映した結果であるが、労働界側の支援を受ける政党による規制強化 の「政治主導」が審議会での労使合意の覆した異例なケースとして印象的である。 自民党政権下で官邸直属機関を通じて「政治主導」として労使合意の場である審議会を トップダウン式にコントロールし、労働側の反発を受けた事例と労使の利益は逆であるが 類似したケースとも言える。ところが、この民主党政権のケースでも労働側から懸念の声 が上がるところを考えると、公労使三者構成の審議会機能はかつてに比べてゆらぎつつも、 連合幹部の言葉にあるように、やはり労使の合意に到達することのできた部分については 政権に関わらず尊重してほしいという意向が労使双方から表れていることが見てとれる。 まさしく、政治主導重視と合意形成重視の異なるデモクラシーの原理がせめぎ合った事 例である。たしかに、派遣社員の立場を考えれば、社民党党首の要求による政治主導の修 正は利益となった。一方で連立の政治的駆け引きの中、少数与党の一声によって労使合意 を覆したとも言える。「はじめに」でも述べたとおり、民主的な労働政策の決定過程がいま 24伊藤光利ほか(2011)「民主党政権の政策と決定システム―鳩山内閣期を中心に―」『連合 総研ブックレット』No.6。 25朝日新聞2010 年 3 月 18 日朝刊 2 面「労使合意より連立」。

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14 だどうあるべきかが必ずしも定まっていないところに、本テーマの面白さを見出すことが できるだろう。今後も引き続き研究を続けたい。 参考文献一覧 ・逢見直人(1996)「現代日本のマクロ・コーポラティズム」稲上毅ほか『ネオ・コーポラ ティズムの国際比較』日本労働研究機構。 ・朝日新聞2010 年 3 月 18 日朝刊 2 面「労使合意より連立」。 ・飯尾潤(2008)「労働政治の復活」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』579 号。 ・伊藤光利ほか(2011)「民主党政権の政策と決定システム―鳩山内閣期を中心に―」『連 合総研ブックレット』No.6。 ・稲上毅(1989)『転換期の労働世界』有信堂高文社。 ・猪口孝・岩井奉伸(1987)『「族議員」の研究』日本経済新聞社。 ・梅崎修 (2008) 「労働基準法の 1987 年改正をめぐる政策過程オーラルヒストリー・メソ ッドによる検証の試み」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』第579 号。 ・大原社会問題研究所(2006)『日本労働年鑑』第 23 集、第 25 集、第 70 集 旬報社。 ・神林龍・大内伸哉(2008)「労働政策の決定過程はどうあるべきか―審議会方式の正統性 についての一試論」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』第579 号。 ・久米郁男 (1998) 『日本型労使関係の成功』有斐閣。 ・久米郁男(2000)「労働政策過程の成熟と変容」労働政策研究・研修機構『日本労働研究 雑誌』第475 号。 ・久米郁男(2005)『労働政治―戦後政治の中の労働組合』中公新書。 ・白井泰四郎 (1987) 「労働時間法改正をめぐって」 『日本労働協会雑誌』 第 338 号。 ・中北浩爾(2008)「連合と政治」生活経済政策研究所『生活経済政策』第 137 号。 ・中野聡(2007)「西欧コーポラティズムと社会統治:ネオリベラル経済秩序下の労働市場」 『豊橋創造大学紀要』第11 号。 ・中村圭介(2006)「改革の中の逸脱―労働政策」東大社研編『「失われた 10 年」を超えて II』東京大学出版会。 ・中村圭介(2008)「逸脱?それとも変容?-労働政策策定過程をめぐって」労働政策研究・ 研修機構『日本労働研究雑誌』第571 号。 ・日本労働組合総連合会(1999)「職場に生かそう 改正労働法 Q&A」日本労働組合総連合 会。 ・野川忍 (2007) 『わかりやすい労働契約法』商事法務。 ・濱口桂一郎(2007)「労働法はどのようにして作られるのか」『労働法研究会報』No.2406。

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15 ・濱口桂一郎(2008)「労働立法と三者構成原則」有斐閣『ジュリスト』No.1369。 ・濱口桂一郎ほか(2010)『政労使三者構成の政策検討に係る制度・慣行に関する調査』労 働政策研究・研修機構。 ・花見忠(2007)「迷走する労働政策―政策決定システムの凋落―」『季刊労働法』217 号。 ・花見忠ほか(2008)「<鼎談>労働政策決定過程の変容と労働法の未来」『季刊労働法』 222 号。 ・三浦まり(2001)「代表性・説明責任・政策有効性:派遣法改正の政策形成過程を政策評 価する一試論」日本労働研究機構『日本労働研究雑誌』。 ・三浦まり(2002)「労働規制―新しい労働政治と拒否権」樋渡展洋、三浦まり編『流動期 の日本政治「失われた十年」の政治学的検証』東京大学出版会。 ・安枝英訷(1998)『労働の法と政策』有斐閣。 ・ロナルド・ドーア(2005)「書評論文 中村圭介/連合総合生活開発研究所編『衰退か再 生か労働組合活性化への道』」日本労働研究機構『日本労働研究雑誌』第544 号。

参照

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