• 検索結果がありません。

中国初期のくつわをめぐって - 西周時代のいわゆる角形鑣を中心に - 髙濱秀 ( 金沢大学歴史言語文化学系 ) Ⅰ. はじめに中国の馬文化が西方から来たことは 多くの研究者によって認められている 特に車輛について言えば 西アジアでは紀元前 4 千年紀の橇のようなものから始まる発展系列が明らかになって

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中国初期のくつわをめぐって - 西周時代のいわゆる角形鑣を中心に - 髙濱秀 ( 金沢大学歴史言語文化学系 ) Ⅰ. はじめに中国の馬文化が西方から来たことは 多くの研究者によって認められている 特に車輛について言えば 西アジアでは紀元前 4 千年紀の橇のようなものから始まる発展系列が明らかになって"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

*KURAに登録されているコンテンツの著作権は,執筆者,出版社(学協会)などが有します。 *KURAに登録されているコンテンツの利用については,著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲内で行ってください。 *著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲を超える利用を行う場合には,著作権者の許諾を得てください。ただし,著作権者 から著作権等管理事業者(学術著作権協会,日本著作出版権管理システムなど)に権利委託されているコンテンツの利用手続については ,各著作権等管理事業者に確認してください。

Author(s)

髙濱, 秀

Citation

金沢大学考古学紀要 = ARCHAEOLOGICAL BULLETIN

KANAZAWA UNIVERSITY, 35: 25-44

Issue Date

2014-03-31

Type

Departmental Bulletin Paper

Text version

publisher

URL

http://hdl.handle.net/2297/36916

(2)

Ⅰ . はじめに  中国の馬文化が西方から来たことは、多くの研究者 によって認められている。特に車輛について言えば、 西アジアでは紀元前 4 千年紀の橇のようなものから始 まる発展系列が明らかになっているのに対し、中国で は前2千年紀後葉、商代後期になって初めて殷墟など で馬車が発見される。それも原始的な構造のものでは なく、かなり発達した型式のものがいきなり出現する。 また馬車の持つ社会における役割にも西方と似たもの があることが指摘されている [ 林 1959: 278-279]。そ のようなことから、馬車が西方から伝わってきたこと に疑いの余地は殆どないとはいえ、ユーラシア東部に は馬車の伝播を示す実物の発見がまだなく、その具体 的な道筋などについては、完全に明らかになっている とは言い難い状況である。  中国の馬車の構造やその部品については、すでに幾 人かの研究者による業績があり、西方との対比なども なされている。しかし馬を御するために直接馬の身に 着けて使う馬具、なかでも銜と鑣については、他地域 との比較研究が、あまり行われていない。  そのなかで、最近井中偉によって、商周時代に見 られる釘歯鑣が、西方のものと比較された [ 井中偉 2013]。前 2 千年紀前半、黒海北岸からウラル地方に かけて、内側に突起をもった骨角製の円盤型の鑣が多 く知られている。オリエントにおいても、たとえばパ レスチナのガザなどで、内側に突起のある金属製の円 盤型鑣と銜の組み合わせが知られており、形は草原地 帯のものとある程度の類似を示している ( 図 1)。井中 偉は、それらと中国のものとの間に何らかの影響関連 を想定したが、それは正しいと思われる。  突起のある円盤型の鑣は、タジキスタンのザルジャ・ ハリファにおいても発見例がある ( 図 2)。そしてそこ では両端にループの付いた、銜と考えられる棒状の青 銅器を伴っていた。図の縮尺を見ると長さ 10㎝ほど であり、幾分短すぎるようにも思えるが、これが実際 に鑣であれば、草原地帯では最も早い金属製の銜とい うことになる。また後述するような、中国の商周時代 に見られる棒状の銜との関係も想定できるであろう。 山東省前掌大では、方形の鑣の内側に釘歯鑣を重ね、 青銅製の棒状銜を配していた ( 図 3)。これは、構造と してはザルジャ・ハリファやさらに西方の円盤型のく つわと同じことになる。  最近中国では、三門峡虢国墓地、天馬曲村晋侯墓地、 平頂山応国墓地などの大規模な墓地の発掘に伴い、馬 具の研究もかなり進んできた。孫機、朱鳳瀚、呉曉筠 などが、馬車や青銅器の研究の際に馬具の型式につい ても触れているし、平頂山応国墓地の発掘報告では、 馬具を含む主要な出土遺物が、それぞれ類例を挙げて 詳細に考察されている。それらにより型式学的な分類 などの大綱はすでに定まったように見える。しかしこ こでは中国における銜や鑣の発達をさらに詳しく検討 してまとめ、西方との関連についても、現在知られて いる資料から再考してみたい。中国の馬文化が元来西 方から来たと想定できるならば、一旦伝播した後にも 何らかの関連を持っていたと考えたほうが自然であ る。また商周時代の青銅器、特に中国北辺で出土する 青銅器については、常にシベリアのカラスク文化など との関係が問題にされており、何らかの形での影響関 係があったと考えてもおかしくはないのである。 Ⅱ . 今までの鑣の研究  商代から西周時代に及ぶ金属製のくつわには、幾つ かの種類が知られている。銜では棒状銜といわゆる二 枝式の銜の2種類があり、鑣は、方形、円形、角つの形の ものなどがある。銜と鑣は別々に作って組み合わせて 使うのが一般的であるが、特に円形の鑣では、それら が一体に作られたものがある。  方形の鑣は商代後期の殷墟に現れ、西周時代前期頃 まで使用された。全体に方形を呈し、中央に孔があり、 それを挟む両辺に管が通る ( 図 4)。管の一つの外側に

中国初期のくつわをめぐって

-西周時代のいわゆる角形鑣を中心に-

髙濱 秀

( 金沢大学歴史言語文化学系 )

(3)

ブリッジ状の環がつけられることが多い。管の断面形 などによってさらに分類が行われている。  円形の鑣は、動物や鳥が渦を巻くような形をしたも のが多い ( 図 5)。中央には孔があり、裏面には鈕が 2 ~ 4 つ付く。外側にブリッジ状の環が付くことも多い。 方形鑣と異なり、銜と一体に組み合わせて作られるこ ともある。西周時代の前期及び中期頃に使用された。  呉曉筠によると、方形の鑣は、円形と角形のものに 取って代わられるが、円形のものは流行期間が長くな い。角形は立体的なものから扁平なものに変化し、弧 形の平たいものになって、裏側に鈕が付く。最後には 春秋時代の遺跡から出土する細長条形のものになると いう [ 呉 2002: 225]。全体の変化としては、その通り であろう。 この小文では、方形、円形のものはさておいて、特 に西周時代から春秋時代前期に至る角形の鑣について 具体的に考察したい。  3 年前、筆者は中国の西周時代に発見される鑣の一 種について一文を草した [ 髙濱 2011]。問題にしたの は骨角製の棒状の鑣である。それは角の形を呈し 3 つ の孔が開けられるが、そのうち中央の孔は他の 2 孔と は異方向に開けられる。この種の鑣は、中国では、西 周時代の幾つかの墓地のほか、夏家店上層文化の墓地 などに見出される。同種の鑣は、ザバイカリエ、南シ ベリア、ウラル地方、フェルガナ、黒海沿岸に広まっ ており、さらに西方のヨーロッパでは 30 点以上知ら れている。ヨーロッパではこの種の鑣はおよそ青銅器 時代末のものであるが、フェルガナではチュースト文 化、南シベリアではカラスク文化の後期、ザバイカリ エでは板石墓文化など、東方でもほぼ同じ段階の文化 で発見されており、年代も、中国の西周時代とほぼ同 時期である。すなわちこの種の骨角製鑣は、およそ前 10 ~ 9 世紀を中心とする時期に、西はイギリスから 東は中国まで、きわめて広い地域に広まったと考えら れる。  雪嶋宏一の最近の論文によると、ウクライナのホル ディイフカ 5 号墳出土のものは、前 13 世紀にまで遡 ると考えられているという [ 雪嶋 2014: 256]。そうす るとこれがこの種の鑣では最古の例となるであろう。 いずれにせよ、おそらくこの種の鑣は、元来分布の西 の方で発明され、中国へ達したと考えてよいであろう。  また草原地帯において、青銅器時代の後に来る初期 遊牧民時代の初期には、同方向の3孔をもつ鑣が出現 するが、フェルガナやシベリアにおいては、異方向3 孔と同方向 3 孔の鑣が併存することがある。この現象 は、夏家店上層文化の墓 ( 小黒石溝 92NDXA Ⅱ M11) においても見ることができる。この 2 種の鑣の型式的・ 編年的な位置が、中央アジア、シベリアと中国北辺に おいて、ほぼ同じであったことの傍証である。  異方向の 3 孔をもつ鑣に関連して筆者がさらに指摘 したのは、骨角製のこの種の鑣を模倣した青銅製の鑣 が、中国の西周時代に見られるということであった。 これは中国だけの現象ではなく、中央アジアでも、ま たモンゴルや中国遼寧省などでも例がある。ここでは、 まず異方向の 3 孔をもつ中国出土の骨角製の鑣を再び 紹介し、それを原型としたと考えられる青銅製鑣の発 展について述べていきたい。 Ⅲ . 鑣の変化 1. 骨角製鑣  西周時代のこの種の骨角製鑣は、北京琉璃河 M105、 M53、北京昌平白浮 M3、山西天馬曲村 M6130、河南 洛陽北窯 6 号墓、河南平頂山 M232、M242、陝西張家 坡 M165、M284、山東済陽劉台子出土品が知られてい る ( 図 6)。これらの墓の年代は報告によると以下のよ うである。それぞれの報告書については、図の出典を 参照されたい。 琉璃河 M105、M53  西周前期 北京昌平白浮 M3   西周前期 天馬曲村 M6130  西周前期の少し晩い頃 洛陽北窯 M6   西周前期 平頂山 M232   康王期の晩い方 平頂山 M242   西周前期の晩い方 張家坡 M165   夷厲共和期 張家坡 M284   昭穆期 張家坡のものを除くと、他のものは西周前期の中に 納まるようである。  ただ、後の時期に類例がないわけではない。遼寧省 井溝子墓地は春秋時代と考えられているが、そこでも この種の鑣が出土している。これは、関連の深い夏家 店上層文化との関係で説明できるであろう。また戦国 時代の陝西黄陵寨頭河戎人墓地 [ 陝西省考古研究院等 2012: 図 5, 図版 5-2] や寧夏回族自治区の遊牧民の文化 の墓地でも発見されている。これらは現在どのような

(4)

系統のものか、明らかではない。この小文では、後の 時期のものでもあり、それらについては特に触れない こととする。 2. 青銅製異方向三孔鑣および類似した鑣 骨角製のものと同じ構造を持つ青銅製の鑣が、一連 の西周時代前期の墓から出土している ( 図 7)。これら は、骨角製のものを青銅で模して作ったように見える。 発掘品の中で最も骨角製のものと似ているのは、陝西 省宝鶏の茹家荘 M1 出土品や、長安張家坡 M248 から 出土したものであろうが ( 図 7-1, 2)、茹家荘 M1 は西 周の穆王期、張家坡 M248 は夷厲共和期とされており、 西周中期・後期である。しかしその2例を除くと、西 周前期の墓から、孔の配置が骨角製と同じで原型を かなり留めたものが出土している ( 図 7-3~10)。商末 から西周前期とされる北京琉璃河Ⅰ M22、成王・康 王期とされる 国の竹園溝 M20、山西省天馬曲村の M6081、M6231、M6214、康王期とされる竹園溝 M1、 洛陽北窯 M310、陝西省灃西 M28 などの墓の出土品で ある。  天馬曲村 M6130 および M6195 出土の鑣は、平面形 と孔の配置は似ているものの断面形は円形ではなく、 弧形を示している ( 図 7-11, 12)。天馬曲村 M6081 か ら出土したもう一セットのくつわは、正面の孔の上下 にループの付くもので、すでにかなりの変化が見られ る ( 図 7-13)。同じ墓から出た孔の開く鑣は伝世であ ろうか ( 図 7-5)。平頂山 M242 出土の鑣も、裏側にルー プが付いている ( 図 7-14)。北京琉璃河Ⅰ M53 出土の 鑣と、北京昌平白浮 M3 出土鑣は三日月形の似た形を しているが、断面の形はこの段階のものと類似してい る ( 図 7-15, 16)。中央の孔が端にずれているところは、 次の巻首形と呼ばれる鑣との共通点である。 陝西普渡村、琉璃河Ⅱ M205、豊鎬遺跡の車馬坑、 扶風召李村から出土した鑣は、広いほうの端部が大き く巻くような形になり、中央の孔が円形あるいは方 形に囲まれ、大きくなっている ( 図 7-17~20)。平頂山 M210 出土品と張家坡 M284 出土品は、外側に方形の 環が余計についているが、一応この仲間に入れること が出来よう ( 図 7-21, 22)。平頂山 M210 の例は孔の原 型を留めている。また竹園溝 M7 出土の鑣も、環が一 つ多く付いた他に類例のない形であるが、この段階に 置いておく ( 図 7-23)。  ここに挙げた銜を出土した墓は、昭穆期と考えられ ている張家坡 M284 や穆王期とされる平頂山 M210 を 除いて、多くのものが西周前期と考えられている。 3. 「巻首形」① 全体の形が、上記の鑣から変化したと思われるのが、 河南省平頂山応国墓地の発掘報告で「巻首形」と記さ れている型式である ( 図 8)。一端が広く他端が狭い形 で、角形に曲がった平面形を保っているが、前述のも のより全体にずっと平たくなり、中央あるいは広い端 部近くに大きな円形に囲まれた孔がある。表面には中 国銅器と共通する何らかの紋様が表される。裏面には 表面の凹凸が反映されており、孔の周りに 2 つあるい は 3 つの紐通しの鈕がある。広い方の端部は、巻いた ような形になり、本体との間に曲線による三角形の隙 間が形成される。これは西周時代の鑣の中でも代表的 な型式であるが、このような例の多くは西周時代中期 の墓から発見されている。墓の年代は、報告書による と以下のようである。 平頂山応国墓地 M50  穆王期 平頂山応国墓地 M86  穆王期後期 平頂山応国墓地 M205  恭王ないし懿王期 北京琉璃河Ⅱ M205  西周前期 宝鶏茹家荘 M1  穆王期 陝西銅川王家河  昭穆期 甘粛崇信於家湾 M104  西周中期 山西永凝堡 NDM4  西周中期  また陝西華県東陽 M65 や天馬曲村 M6384 出土品な どは、中央部内側に2つのループが付いた変化形であ る ( 図 8-15, 16)。 平頂山 M50 の鑣は裏面の鈕が一つであるが、その 代わりに側面に孔が2つ開いている ( 図 8-1)。以前の 型式からの名残であろう。また例えば平頂山 M205 出 土品のように ( 図 8-7)、裏側の鈕が 3 つになっている のは、同時代の円形鑣からの影響であろう。 天馬曲村 M7092 および M7095 からは、角形に曲がっ た紋様のない鑣が発見されている ( 図 8-17, 18)。中央 の内側にループが 2 つ付く。孔とループの関係からみ ると、華県東陽 M65 や天馬曲村 M6384 出土のものと 似ている。全体に細く紋様のない点は、骨角製鑣を模 した青銅製鑣から別の発展を遂げたものと言えなくも ない。墓は西周中期とされている。 弓魚

(5)

4. 「巻首形」② 少し変化の現れたものをここに入れておく ( 図 9)。 平頂山 M86、M84、張家坡 M204 出土品、山西棗園村 徴集品などは、広い端部の三角形の隙間がなくなった 代わりにその下に枠による孔がつけられた変化形であ る ( 図 9-1, 2, 3, 4, 5)。長安張家坡 M206、M73 や濬県 辛村M4出土品では中央の孔の傍に小孔が2つあり(図 9-5, 6, 7)、陝西扶風強家 M1、洛陽東郊 C5M1135、洛 陽北窯 M513、濬県辛村 M62 出土品は、孔もなくなっ ている ( 図 9-8, 9, 10, 11)。これらは、平頂山 M86 出 土品を除くと、全体の幅が細くほぼ一定になってきた と言えよう。報告書によると、各墓の年代は以下のよ うである。 平頂山 M86  穆王期の後期 平頂山 M84  恭王期 張家坡 M204、M206  夷厲共和期 扶風強家 1 号墓  孝夷期 洛陽東郊 C5M1135   西周後期 洛陽北窯 M513  西周後期 前述のものに比べて、年代が下がって来ていること が窺われる。 5. 西周後期から春秋前期の鑣  この時期の代表的な墓地としては、三門峡市上村嶺 の虢国墓地が挙げられる。これは 1999 年の報告書で は西周後期とされているが、春秋前期に入れる考え方 もあり [ 朱鳳瀚 2009: 1541-1547; 彭裕商 2011] 筆者に は判断できない。ここでは全体としてこの時期を、西 周後期から春秋前期として扱うことにする。  角形鑣の次の大きな変化は、中央にあった孔がなく なったことである。ほぼ幅の等しい弧形を呈し、裏は 平らで鈕が 2 つ付く。孔がなくなったことに伴い、銜 との関係が大きく変化した。この時期の鑣には、幾つ かの種類があるが、三門峡虢国墓地の報告書で使わ れている分類を採用したい [ 河南省文物考古研究所等 1999: 102-105]。主なものは以下の 4 種類である。  ①: 一端が円形でそこから巻くような形で本体部分 が出るものである ( 図 10)。表面には蝉紋や重環紋な どが表される。裏面には 2 つの鈕が付く。三門峡虢 国墓地 M2001、M1052、韓城梁帯村 M502、長安張家 坡 M351、洛陽馬坑 MK693、山西永凝堡、洛陽東郊 C5M906、豊鎬遺跡の車馬坑、陝西扶風黄堆老堡など から出土している。 ② : 大きな一端が龍頭を表し、そこから巻くよう な形で本体部分があり、その端にも龍頭が表される もの ( 図 11)。これも多くの墓から出土している。上 村嶺虢国墓地の虢季墓と呼ばれる M2001、梁姫墓と される M2012、虢太子墓とされる M2011、M2006、 M2008、M2013、韓城梁帯村 M502、M586、張家坡 M 2、灃西大原村、臨潼などで出土している。 ③ : また外形は上の二つと似ているが、端部の膨ら んだ部分が環になり、他端に龍頭が付くものがある ( 図 12)。本体の部分には紋様はなく、稜が通ること が多い。梁帯村 M27、M28、山西永凝堡、山東莒県西 大荘 M1、三門峡虢国墓地 M2001 で出土している。龍 頭のないものもあり、三門峡虢国墓地 M2008、M1617 号、M2119、梁帯村 M18、M28 で出土している。 ④ : 環も龍頭もなく、単なる弧形を呈するものが ある ( 図 13)。稜の通るものが多い。三門峡虢国墓 地 M2001、M2008、M2010、M2011、M1767、梁帯村 M502、M586、天馬曲村 M5160、M5189、張家坡 M 2、 河南省告成 M3、洛陽潤陽広場 C1M9950、洛陽唐宮西 路 C1M7984、山西上馬 M4078、M4094 などから出土 している。また三門峡虢国墓地 M1711 や M2118 で出 土したような、弧形というより折れた形のものもある。 Ⅳ . 銜の変化 続いて銜の変化を追ってみたい。商代・西周時代の 遺跡から発見される銜には、一本の棒状の銜と、2 部 分が鎖状に組み合わさったものがある。 1. 棒状の銜 まず棒状の銜を挙げると陝西省西安老牛坡から出土 したものがある ( 図 14-1)。これは 2 頭の馬が納めら れた馬坑 (86XL Ⅲ 1M17) から出土したもので、両端 にループ状の環のある棒状の青銅製銜が馬の口に挿 入された形で発見された。ともに長さは 26㎝である。 この他にそれぞれの馬の頭あるいは頸部近くからしず く形の飾板が発見されている。この馬坑は老牛坡の商 代文化四期に属し、これは殷墟文化の四期に相当する という [ 劉士峩編著 2001: 335]。ここで出土した銜の 26㎝という長さは他のものと比べるとほぼ倍である。  洛陽北窯墓地からは 4 点出土したという。M20 の ものは、太めで断面は楕円形、両端の環はしずく形で ある(図 14-2)。M367 のものは、軸部が細めで幾分

(6)

曲がって断面が方形を呈し、両端の環はほとんど三角 形である(図 14-3)。両墓とも西周前期に属している。  河南鹿邑太清宮長子口墓から 2 点出土している(図 14-4)。両端がしずく形の環になっている。  山西洪洞永凝堡 NM9 で出土したのも、軸部が曲がっ て両端の環は三角形に近い形を呈する。この墓は成王・ 康王期とされている ( 図 14-5)。  山東滕州前掌大からは 4 点発見されたが、車馬坑 M41 のものは環があって方形の鑣を伴っていた(図 14-6)。M18 のものは、同じく両端に環があり、軸部 は捩じった形をしている(図 14-7)。同じ墓から方形 の鑣が出土している。M41、M18 ともに前掌大の 2 期に編年されており、この時期は西周前期の早い時 期と考えられている [ 中国社会科学院考古研究所編著 2005: 510-524, 564]。  天馬曲村からも 1 点出土している(図 14-8)。軸部 は僅かに曲がり、両端に環が付く。この銜の出土した M6210 は西周前期と考えられている。  甘粛焦村西溝で 1985 年に村民の発見した西周墓か らの出土品と考えられるものが報告されているが、な かに棒状銜と思われるものがある [ 慶陽地区博物館 1989: 図 3-11]。両端がしずく状を呈し、軸部がわずか に曲がったものである。しかし記述によると長さ 6㎝ であり、これは短すぎる。何らかの間違いであろうか。 この墓からは方形の鑣と釘歯鑣が出土しており、墓は 西周後期とされている。 これらの例を総合してみると、この種の銜は商代後 期から西周前期のものとみてよいであろう。 タジキスタンのザルジャ・ハリファや西アジアの棒 状銜の前 2 千年紀前半という年代からはかなり時期が 隔たっており、また商代よりもむしろその後の西周前 期の例が多いのが問題点である。しかし後に述べるよ うに、黒海北岸やヨーロッパにおいても、青銅器時代 後期の棒状の銜は知られている。むしろ直接的にはそ ちらとの関係を問題にすべきであろう。前 2 千年紀前 半の銜は、共通した祖型として捉えるべきと思われる。 2. 8字形の二枝式の銜   二枝式の銜は、両端に環の付いた2部分が、鎖状 に組み合わされたものであるが、各々の部分が8字形 を呈している。これには 2 種類ある。第一種は共に 8字形のものを 2 つ組み合わせたものである ( 図 15-1~5)。この場合、外側の 2 つの環は互いに 90 度捩じれ た状態になる。第二種は、一つは8字形のもの、もう 一つは2つの環を 90 度捩じった形のものを組み合わ せ、両端の環が同一平面にある状態にするものである。 後者の組み合わせ方が、二枝式の銜の普通の形である。 第一種 河南安陽殷墟において、第一種の8字形銜が2点出 土している。一つは殷墟西区の車馬坑である ( 図 15-1)。1981 年に発掘されたこの車馬坑 (81AGSM1613) で は、一輌の車に 2 頭の馬が付けられた状態で発見され た。そして2頭の馬の口中に、それぞれ鎖状の銜が発 見され、馬の口の両側から方形の鑣が合わせて 4 点出 土した。他にも多くの飾金具が発見されている。この 車馬坑の年代は殷墟の第 3 期、出土した木炭の樹輪較 正年代は今から 3225±145 年前という。 殷墟西区ではさらに 1 点、同様の第一種の8字形銜 が M216 で発掘されている ( 図 15-2)。これも方形の 鑣や車馬具を伴っていた。この墓は殷墟の陶器によっ て四期に編年されたなかの第四期とされている。  やはり第一種の8字形銜と思われるものが、洛陽 北窯の西周前期墓 M311、陝西岐山賀家村の西周墓 M 5や陝西省華県東陽の M109 から発見されている ( 図 15-3, 4, 5)。岐山賀家村 5 号墓のものは、外側の環は 三角形に近い形に見える。円形の鑣を伴っており、4 セット発見された。この墓は成康期と推定されている。 洛陽北窯のものは長さが 7.4㎝というが、これは一部 分の長さであろうか。華県東陽からは2点発見されて おり、方形の鑣を伴っていた。 第二種 第二種の8字形の二枝式の銜は、北京琉璃河Ⅰ M22、湖北省随州葉家山西周墓 M1、洛陽北窯 M122、 宝鶏竹園溝 M7、長安張家坡 M183、天馬曲村 M6195、 6231、河南平頂山 242、M50、M210 で出土している ( 図 15-6~15)。 北京琉璃河Ⅰ M22  商代末から西周前期の早い 頃。角形青銅製鑣と共に出土。 葉家山 M1  成康期 洛陽北窯 M122  西周前期 竹園溝 M7  康王晩年か昭王前期   張家坡 M183   方形の鑣と共に出土。昭穆期と推 定 平頂山 M242  角形青銅製鑣が伴出。西周前期の

(7)

晩い時期 平頂山 M50  典型的な巻首型の鑣が伴出。西周 の比較的早い頃、穆王期か 天馬曲村 M6195  西周前期 天馬曲村 M6231  西周前期の少し遅い頃 平頂山 M210  穆王期か  西周前期を中心に、中期の早い頃まで用いられてい たことが分かる。琉璃河Ⅰ M22 などのように、環が 三角形を呈するものも比較的早い頃から現れたようで ある。 3. 軸部の長い銜  次の段階では、軸部が長くなり、全体の長さも以 前より長くなった。平頂山 M210、M86、天馬曲村 M6071、甘粛崇信於家湾 M158、M156、M104 出土品 などがこれに当たる ( 図 16)。外側の環は小さめで、楕 円形や長方形に近いものもある。天馬曲村 M6071 の銜 は外側の環がしずく形であり、幾分早い型式かもしれ ない。報告書による各墓の年代は以下のようである。 平頂山 M210  穆王期 平頂山 M86  穆王後期 天馬曲村 M6071  西周中期 於家湾 M158  西周前期 於家湾 M156  西周中期 於家湾 M104  西周中期 この型式は西周中期のものと思われるが、於家湾 M158 だけは、出土した鬲と当盧を根拠に、西周前期 の墓と考えられている [ 甘粛省文物考古研究所編著 2009: 136]。しかし銜の型式は、この段階のものと考 えられよう。 4. 西周後期から春秋前期の銜  鑣と連動して、この時期には大きな変化が起こっ た。まず、外側の環が大きくなった。これはそこへ鑣 を差し込むようになったからである。全体の大きさも、 前の時期よりずっと大きくなった。西周時代前期に は長さが 13㎝ほどであったが、中期、つまり軸部の 長い銜には 15㎝を超えるものが現れ、後期から春秋 時代前期には一挙に 20㎝ほどになっている。出土例 には、天馬曲村 M5189、三門峡虢国墓地 M2011、虢 M2012、M2013、M2119、山西芮城 M1、山西洪洞永 凝堡 BM5、韓城梁帯村 M28、M502 出土品などが挙 げられる ( 図 17)。 Ⅴ . 小結  上述したことをまとめると、以下のようになるであ ろう。 商代のいつの時期か、草原地帯の西方から馬文化が 到来した。馬具についていえば、ザルジャ・ハリファ の例から考えると、銜は両端に環の付く青銅製の棒状 のもので、その両側に付く鑣は、内側に突起の付いた 骨角製のものであったと思われる。商代後期の中国で 青銅製の方形の鑣が生まれ、単に 2 つの8字形を組み 合わせた形の二枝式の銜も発明された。  西周時代になると鑣は円形のものも製作され、それ が銜と一体になったものも工夫された。ほぼ同時に西 方から異方向に 3 つ孔の開く骨角製の鑣が伝えられ、 その形が青銅で模して作られた。方形と円形の鑣は西 周中期くらいまでで消滅し、角形の系統が後の中国の 鑣の主流となる。銜は、西周時代前期の初めに、8字 形の 1 つが捩れた形に変化し、外側の環が三角形を呈 するものも現れた。角形の鑣は、初めは立体的な形を 留めて、中央の孔とは 90 度異なった方向に 2 つの孔 が開いていたが、孔は鈕にとって代わられ、およそ西 周中期には扁平になって、「巻首形」と呼ばれる形に 変化した。同時期に銜は軸部分が長くなり、内側の環 は大きなしずく形を呈し、外側の環は小さくなって、 楕円形あるいは長方形に近い形をとるようになった。  西周時代後期から春秋時代前期にかけて、銜と鑣全 体に大きな変化が起こった。銜は外側の環が大きくな り、そこに鑣を差し込む型式に変わった。これは構造 上の大きな変化である。また、大型化したのもこの時 期の重要な特徴である。鑣はそれに伴い全体に細身に なり、中央の孔がなくなった。裏面の鈕も、西周中期 には 3 つのものもあったが、この時期には 2 つだけに なった。 Ⅵ . 幾つかの課題 次に、上に述べた中国のくつわの発展・変化に関連 して、幾つかの問題を指摘しておきたい。 1. シベリアのくつわとの関係について シベリアにおいて、初期遊牧民時代最初のクルガン とされているのはトゥバのアルジャン 1 号墳である が、そこでは両端の環が三角形を呈する二枝式の銜と、

(8)

3 つの孔が同方向に開いた鑣が現れる。このような鑣 は、黒海沿岸では先スキタイ時代のチェルノゴロフカ 型の鑣に相当するものである。 L. S. マルサドーロフによると [Marsadolov1998: 11-12]、前 9 世紀の末にアルジャン・タイプの鑣が現れた 後、アルタイにおいて前7世紀には、小さな T 形の 突起がある鑣や、枝が付いて全体に У 形を示す鑣が 使われた。西アジア、中央アジアやカザフスタンなど においても、前 8-7 世紀には、鑣と銜を一体に作った り、銜の先を鑣の中央の孔に入れたりするものが知ら れている。しかしその後これらに取って代わったのは 同方向に二孔の開いた鑣であり、この型式がその後長 く続くことになる。この交代は、以前は前 6 世紀の末 か、前 5 世紀になってからと考えられていたが、近年 ではもう少し早い時期であったと考えられるように なってきた。前 7 世紀後半か前 6 世紀初めには、トゥ バのアルディ・ベリⅠ、21 号墳出土品のような、二 孔の鑣を銜の外側の環に入れる型式が出現し ( 図 18)、 前 6 世紀にはこれが一般的なものになったという。 このシベリアにおける 2 孔の鑣を銜の外環に挿入し て使用するくつわは、中国において、西周後期から春 秋前期に出現した型式と ( 例えば図 19)、型式上明ら かに一致している。両者の間に関係があったと想定す るのが妥当であろう。 出現した年代でいえば、中国では前 800 年頃と考え なければならないのに対し、シベリアでは今のところ、 早く見ても前 650 年ごろであるから、150 年ほど、中 国のほうが早いことになる。 また型式的には、中国では、孔が 1 つと裏に 2 鈕の あった鑣が、全体に細長くなって孔がなくなり、銜 も、外側の環が大きくなるという比較的自然な変化で ある。これに対し、シベリアでは、同方向 3 孔のアル ジャン 1 号墳の鑣のあと、試行錯誤的なさまざまな型 式が現れ、その後に 2 孔の鑣ができたことになる。 このくつわの型式に関する限り、中国からシベリア へ影響を及ぼしたと考えたほうが自然である。 2. 製作法について 西周時代の銜を考える上に注意すべきもう一つのこ とは、その製作法である。東京国立博物館所蔵品に、 琉璃河Ⅰ M22 出土品との類似から西周時代初め頃の ものと思われる銜がある ( 図 20)。これは8字形と、 捩じれた8字形の 2 部分が組み合わされているが、捩 じれた8字形部分には、その周りを取り囲むように、 水平方向に范の合わせ目の突線が巡っている。上下2 枚の鋳型で鋳造したと思われる。内側の環の孔の内壁 は真っ直ぐであり、おそらく鋳型のなかに円筒形のも のを水平方向に入れたのであろう。そして鋳造しあ がったものを8字形の部分と組み合わせたのである が、その方法は明らかではない。8字形部分の内環の 一部には、何らかの痕跡が見られる。あるいは8字形 部分を鋳造する際には、一部分を開けておき、捩じれ た8字形部分を嵌め込んでから、鋳造で閉じたものか もしれない。同様な痕跡は、筆者の実見したところで は、三門峡虢国墓地の M2001 出土の銜にも見られる。 また平頂山墓地出土の銜にも同様な痕跡があり、報告 書において、上述のような解釈がなされている。台湾 の国立歴史博物館で実見したところによると、同様の 痕跡をもつ銜は、春秋時代中期と考えられる輝県琉璃 閣出土品にもあった。西周時代からこの頃までは、こ のような製作法が行われていたと考えられる。 もう少し後の時代になると、その製作法は変化する ようである。春秋戦国時代と思われる幾つかの銜、例 えば早稲田大学會津八一記念博物館の例では、同一 平面にある部分の周囲に范の合わせ目の線が巡ってお り、環の捩じれた部分の内環に、何らかの痕跡が見ら れる ( 図 21)。これはおそらく平面的な方を上下 2 枚 の合わせ型で鋳造し、それを他の部分に嵌め込むよう な形で鋳造したのであろう。山西省侯馬の鋳造址にお いても、銜の平面的な部分を鋳造したと考えられる 鋳型が発見されており ( 図 22)、この遺跡の後期、前 450-380 年頃のものと考えられている [ 山西省考古研 究所1993: 444]。似た痕跡を持つ銜はシベリアのタガー ル文化にも見られ、その鋳造工程は、V. V. ラドロフ、 M. P. グリャズノフ、Yu. S. グリシン等によって考察さ れている ( 図 23)。 この二つの鋳造法が中国においていつ交代したの か、興味ある問題である。後の時期に行われたと考え られる製作法は、南シベリアのタガール文化の銜にも 普通に見られるし、中央アジア、ウズベキスタンの初 期サカの古墳群ウイガラク出土の銜にも見ることがで きた。また南ロシアの先スキタイ文化の銜の一部も、 筆者の今まで見たものについては、その方法で作られ ているように思われる。

(9)

3. 黒海北岸草原地帯発見の最古の馬具との関係について  雪嶋宏一は最近の論文において、黒海北岸のホル ディイフカ古墳群やヴィーンヌィツャ州で発見された 墓の出土品中に見られる馬具を紹介し、その重要性を 述べている。ホルディイフカ古墳群は 3 期に編年され、 その 2 期と 3 期の古墳から馬具が出土した。2 期に属 する 5 号墳からは骨角製の異方向に孔の開く鑣の破片 が発見された。墓の年代は前 13 世紀まで遡るという。 34 号墓からは青銅製の二枝式の銜が出土した。この 種の青銅製銜では東欧最古の例だという ( 図 24)。こ の墓はこの古墳群の 3 期に属すると考えられており、 年代は前 1200-900 年とされている。ヴィーンヌィツャ 州発見の崩壊した墓からは、両端に三角形の環の付く 棒状の青銅製銜と、外環が同様に三角形を呈する二枝 式の青銅製銜が 2 点ずつ発見された ( 図 25)。この一 括遺物も、ホルディイフカ古墳の 3 期に相当すると考 えられているという。 現在ユーラシア草原地帯で最古の金属製銜とされて いるチェルノゴロフカ型、あるいはトゥバのアルジャ ン 1 号墳で出土した銜の年代は前 9 世紀であり、これ らの銜は、それよりも一段階古いことになる。どのよ うに成立したのか、解決の待たれる問題である。そこ で問題になるのが、ここで検討した中国の銜と関連が あったかどうかということである。 年代だけでいえば、棒状の銜は商代の老牛坡で出土 しており、可能性はあることになる。西周前期のもの は、形もよく似ている。 二枝式の銜も商代から既に発見されているが、外環 が三角形のホルディイフカ 34 号墳出土品と類似して いるのは、西周になってからのものであろう。なかで も西周中期の初めごろ ( 前 10 世紀 ) と考えられる平 頂山 M210 出土のものは、輪郭はかなり良く似ている ( 図 26)。年代でいえば、中国の例は西方に比べて少 し遅めかもしれない。しかし中国の二枝式の銜は形の 上で商代からの変化を無理なく辿れるので、この時期 に西方から来たとは考えにくい。今のところは資料の 増加を待つほかないであろう。いずれにせよ、広大な ユーラシア草原地帯を挟んで遠く離れた二地域で、初 期遊牧民文化の成立する少し前のほぼ同じ時期に互い によく似た馬具が見られるのは極めて興味深い。 Ⅶ . 結びにかえて  上に述べたような、シベリアやさらに西方との関係、 そして型式の一要素としての製作技法、これらの問題 を念頭において研究を進めることは、中国の馬の文化 を世界の馬文化の中に正しく位置づけることにつなが ると考えている。草原地帯だけでなく西アジアの馬文 化も考慮する必要があるであろう。中国の馬の文化は 独自の発展があったとはいえ、世界から孤立したもの ではなかったはずである。  この小文では中国初期の馬具のうち銜と鑣だけを問 題にしてきた。しかし当然ながら馬具は銜と鑣だけで は成り立たない。銜と鑣がその一部をなす頭絡や、鞍 あるいはそれにあたる初期段階のもの、そして胸繋、 尻繋など多くのものから成っている。馬具に発展や影 響関係などがあったとすれば、それは銜や鑣だけでは なく、そのような多くの部分にも何らかの形で表れて いるはずである。それらについても今後全体的に比較 検討を行っていきたい。 大谷育恵さんには、資料収集にあたって多大のご尽力を 賜った。末尾ながら記して謝意を表したい。 参考文献 <日本語文献> 髙濱秀 2011「西周時代の骨角製の鑣の一種について」 『金沢大学考古学紀要』第 32 巻 , 1-12 頁 . 林巳奈夫 1959「中国先秦時代の馬車」『東方学報』京都  第 29 冊 , 155-284 頁 . 雪嶋宏一 2006「前2千年紀前半中央ユーラシアの円盤型 鑣について」『西アジア考古学』7, 21-34 頁 . 雪嶋宏一 2014「黒海北岸草原地帯における青銅製銜の始 原について」髙濱秀先生退職記念論文集編集委員会 編『ユーラシアの考古学 髙濱秀先生退職記念論文集』 249-262 頁 . <中文文献>( 日本語読み五十音順 ) 衛新 1988「山西平陸棗園村出土一批西周車馬器」『考古 與文物』1988-3, 106-107 頁 . 王長啓 2002「西安豊鎬遺址発現的車馬坑及青銅器」 『文物』 2002-12, 4-14 頁 . 郭寶鈞 1964『濬県辛村』( 考古学専刊 乙種第十三号 ) 科学 出版社 . 河南省文物考古研究所・三門峡市文物工作隊 1995「上村 嶺虢国墓地 M2006 的清理」『文物』1995-1, 4-31 頁 . 河南省文物考古研究所。三門峡市文物工作隊 1999『三門

(10)

峡虢国墓』( 第一巻 ) 文物出版社 . 河南省文物考古研究所・三門峡市文物工作隊 2000a 「三門 峡虢国墓地 M2010 的清理」『文物』2000-12, 4-22 頁 . 河南省文物考古研究所・三門峡市文物工作隊 2000b「三 門 峡 虢 国 墓 地 M2013 的 発 掘 清 理 」『 文 物 』2000-12, 23-34 頁 . 河南省文物考古研究所・三門峡市文物考古研究所 2009 「河南三門峡虢国墓地 M2008 発掘簡報」『文物』2009-2, 18-31 頁 . 河南省文物考古研究所・周口市文化局 2000『鹿邑太清宮 長子口墓』中州古籍出版社 . 河南省文物考古研究所・平頂山市文物管理局編 2012『平 頂山応国墓地Ⅰ』大象出版社 . 夏名采・劉華国 1996「山東青州市蘇埠屯墓群出土的青銅器」 『考古』1996-5, 21-28 頁 . 甘粛省文物考古研究所編著 2009『崇信於家湾周墓』文物 出版社 . 莒 県 博 物 館 1999「 山 東 莒 県 西 大 荘 西 周 墓 葬 」『 考 古 』 1999-7, 38-45 頁 . 慶陽地区博物館 1989「甘粛寧県焦村西溝出土的一座西周 墓」『考古與文物』1989-6, 24-27 頁 . 呉曉筠 2002「商至春秋時期中原地区青銅車馬器形式研究」 北京大学中国考古学研究中心・北京大学古代文明研究中 心編『古代文明』第 1 巻 , 180-277 頁 . 湖北省文物考古研究所・随州市博物館 2011「湖北随州葉 家山西周墓地発掘簡報」『文物』2011-11, 4-60 頁 . 山西省文物工作委員会・洪洞県文化館 1987「山西洪洞永 凝堡西周墓葬」『文物』1987-2, 1-16 頁 . 山西省考古研究所 1994『上馬墓地』文物出版社 . 山東省文物考古研究所・山東省博物館・済寧地区文物組・ 曲阜県文管会 1982『曲阜魯国故城』斉魯書社 . 周原博物館 2005「1995 年扶風黄堆老堡子西周墓清理簡報」 『文物』2005-4, 4-25 頁 . 周原扶風文管所 1987「陝西扶風強家一号西周墓」『文博』 1987-4, 5-20 頁 . 朱鳳瀚 2009『中国青銅器綜論』上海古籍出版社 . 斉国故城遺址博物館・臨淄区文物管理所 1988「山東臨淄 斉国故城西周墓」『考古』1988-1, 24-26 頁 . 井中偉 2013「錣策・釘歯鑣与鏑銜-公元前二千年紀至前 三世紀中西方御馬器比較研究」『考古学報』2013-3, 297-324 頁 . 陝西省考古研究院 2009「陝西韓城市梁帯村芮国墓地 M28 的発掘」『考古』2009-4, 3-15 頁 . 陝西省考古研究院・渭南市文物保護考古研究所・韓城市文 物旅游局 2007「陝西韓城梁帯村遺址 M27 発掘簡報」『考 古与文物』2007-6, 3-21 頁 . 陝西省考古研究院・渭南市文物保護考古研究所・韓城市景 区管理委員会編著 2010『梁帯村芮国墓地-二〇〇七年 度発掘報告-』(陝西省考古研究院田野考古報告 第 59 号 ) 陝西省考古研究院・延安市文物研究所・黄陵県旅游文物局 2012「陝西黄陵寨頭河戦国戎人墓地発掘簡報」『考古与 文物』2012-6, 3-10 頁 . 陝西省考古研究所・秦始皇兵馬俑博物館編著 2006『華県 東陽』( 陝西省考古研究所田野考古報告 第 42 号 ) 科学 出版社 . 陝西省考古研究所・北京大学考古実習隊 1987「銅川市王 家河墓地発掘簡報」『考古與文物』1987-2, 1-9 頁 . 陝西省博物館・陝西省文物管理委員会 1976「陝西岐山賀 家村西周墓葬」『考古』1976-1, 31-38 頁 . 陝西省文物管理委員会 1986「西周鎬京附近部分墓葬発掘 簡報」『文物』1986-1, 1-31 頁 . 孫 機 1985「 中 国 古 独 輈 馬 車 的 結 構 」『 文 物 』1985-8, 25-40 頁 . 鄧林秀 1987「山西芮城東周墓」 『文物』1987-12, 38-46 頁 . 中国社会科学院考古研究所安陽工作隊 1984「殷墟西区発 現一座車馬坑」『考古』1984-6, 505-509 頁 . 中国社会科学院考古研究所安陽工作隊 1988「安陽郭家荘 西南的殷代車馬坑」『考古』1988-10, 882-893 頁 . 中国社会科学院考古研究所豊鎬工作隊 1987「1984-85 年灃 西西周遺址・墓葬発掘報告」『考古』1987-1, 15-32 頁 .  中国社会科学院考古研究所豊鎬発掘隊 2004「陝西長安県 灃西大原村西周墓葬」『考古』2004-9, 39-44 頁 . 中国社会科学院考古研究所灃発掘隊 1988「1984 年長安普 渡村西周墓葬発掘簡報」『考古』1988-9, 769-777, 799 頁 .  鄭州市文物考古研究所・登封市文物局 2006「河南登封告 成東周墓地三号墓」『文物』2006-4, 4-16, 46 頁 . 鄭州市文物考古研究院・登封市文物管理局 2009「河南登 封告成春秋墓発掘簡報」『文物』2009-9, 21-42 頁 . 徳州地区文化局文物組・済陽県図書館 1985「山東済陽劉 台子西周墓地第二次発掘」『文物』1985-12, 15-20 頁 . 北京市文物管理処 1976 「北京地区的又一重要考古収穫- 昌平白浮西周木槨墓的新啓示」『考古』1976-4, 246-258, 228 頁 . 北京市文物研究所 1995『琉璃河西周燕国墓地 1973-1977』 文物出版社 . 北京大学考古系・山西省考古研究所 1993「1992 年春天馬 -曲村遺址墓葬発掘報告」『文物』1993-3, 11-30 頁 . 北京大学考古学系商周組・山西省考古研究所編著 鄒衡主 編 2000『天馬-曲村  1980-1989』科学出版社 . 彭裕商 2011『春秋青銅器年代綜合研究』中華書局 .

(11)

洛陽市文物工作隊 1995「洛陽東郊 C5M906 号西周墓」『考 古』1995-9, 788-791, 801 頁 . 洛陽市文物工作隊 1999「洛陽東郊西周墓」『文物』1999-9, 19-28 頁 . 洛陽市文物工作隊 1999『洛陽北窯西周墓』文物出版社 . 洛陽市文物工作隊 2003「洛陽市唐宮西路東周墓発掘報告」 『文物』2003-12, 12-28 頁 . 洛陽市文物工作隊 2009「河南洛陽市潤陽広場 C1M9950 号 東周墓葬的発掘」『考古』2009-12, 18-31 頁 . 洛陽市文物工作隊 2011「洛陽 014 中心春秋墓 M8781」『中 国国家博物館館刊』2011-8, 6-14 頁 . 羅紅侠 1994「扶風黄堆老堡三座西周残墓清理簡報」『考古 與文物』1994-3, 16-27, 15 頁 . 羅西章・呉鎮烽・尚志儒 1976「陝西扶風県召李村一号周 墓清理簡報」『文物』1976-6, 61-65 頁 . 劉士莪編著 2001『老牛坡』( 西北大学考古専業田野発掘報 告 ) 陝西人民出版社 . 劉得禎・許俊臣 1988「甘粛慶陽春秋戦国墓葬的清理」『考 古』 1988-5, 413-424 頁 . 臨潼県文化館 1977「陝西臨潼発現武王征商簋」『文物』 1977-8, 1-7 頁 . 盧連成・胡智生 1988『宝鶏 国墓地』上下 , 文物出版社 . <欧文文献>

Bobomulloev, Saïdmurād, 1997, Ein bronzezeitliches Grab aus Zardča Chalifa bei Pendžikent (Zeravšan- Tal),

Archäologische Mitteilungen aus Iran und Turan. Band 29 (1997): ss.121-138. Grach, A. D.: Грач, А. Д., 1980, Древние кочевники в центре Азии, Наука. Grishin, Yu. S.: Гришин, Ю. С.,1960, Производство в тагарскую эпоху, МИА No.90.: сс.116-206. Marsadolov, L. S.: Марсадолов, Л. С., 1998, Основные тенденции в изменении форм удил, псалиев и пряжек коня на Алтае в VIII-V веках до н.э. В кн.: Снаряжение верхового коня на Алтае в раннем железном веке и средневековье, Изд-во Алтайского Государственного Университета.: сс.5-24.

Potratz, Johannes A. H., 1966, Die Pferdetrensen des Alten

Orient, Roma.

Val'chak, S. B.: Вальчак, С. Б., 2009, Конское снаряжение в

первой трети 1-го тыс. до н.э. на юге Восточной Европы,

ТАУС, Москва . 図出典

図 1 Bobomulloev 1997: Abb.3-12,13, Abb.4

図 2 Potratz 1966: Fig.46b 図 3 1. 中国社会科学院考古研究所編著 2005: 図 265-3、 2. 中国社会科学院考古研究所編著 2005: 643 頁 , 図 2. 図 4 1. 中国社会科学院考古研究所安陽工作隊 1988: 図 12-1 2. 中国社会科学院考古研究所編著 2005: 図 265-7. 図 5 1. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図版 147-2  2. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図版 147-4  3. 洛陽市文物工作隊 1999『洛陽北窯西周墓』図版 85-3 図 6 1. 北京市文物研究所 1995: 図版 107-5 2. 北京市文 物研究所 1995: 図版 107-6 3. 北京市文物管理処 1976: 図 18-4 4. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 655-9 5. 北 京 大 学 考 古 学 系 商 周 組 等 編 著 2000: 図 655-7 6. 洛陽市文物工作隊 1999『洛陽北窯西周墓』 図版 60-3 7. 河南省文物考古研究所等編 2012: 図 31-2  8. 河南省文物考古研究所等編 2012: 図 74-1 9. 中国 社会科学院考古研究所編著 1999: 図 247-3 10. 中国社 会科学院考古研究所編著 1999: 図 247-2 11. 徳州地区 文化局文物組等 1985: 図 2-3. 図 7 1. 盧連成等 1988: 図版 171-1 右 2. 中国社会科学院 考古研究所編著 1999: 図 167-7 3. 盧連成等 1988: 図 版 106-4 4. 北京市文物研究所 1995: 図版 86-2 5. 北 京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 513-2 6. 北京 大学考古学系商周組等編著 2000: 図 612-5,13 7. 洛陽 市文物工作隊 1999『洛陽北窯西周墓』図 79-3 8. 北 京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 468-6 9. 盧連 成等 1988: 図版 68-1 10. 中国社会科学院考古研究所 豊鎬工作隊 1987: 図 16-3 11. 北京大学考古学系商周 組等編著 2000: 図 655-5 12. 北京大学考古学系商周組 等編著 2000: 図 532-13 13. 北京大学考古学系商周組 等編著 2000: 図 513-1 14. 河南省文物考古研究所等 編 2012: 図 71-5 15. 北京市文物研究所 1995: 図 133-4  16. 北京市文物管理処 1976: 図 19-1 17. 中国社会科 学院考古研究所灃西発掘隊 1988: 図 8-4 18. 北京市 文物研究所 1995: 図版 86-4 19. 王長啓 2002: 図 23-5  20. 羅西章等 1976 21. 河南省文物考古研究所等編 2012: 図 173-3, 4 22. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図 167-2 23. 盧連成等 1988: 図版 57-1. 図 8 1 . 河南省文物考古研究所等編 2012、図 149-3, 4 2. 河 南省文物考古研究所等編 2012: 図 149-5, 6 3. 河南省 文物考古研究所等編 2012: 図 215-1 4. 河南省文物考 古研究所等編 2012: 図 215-4 5. 河南省文物考古研究 所等編 2012: 図 215-2, 3 6. 河南省文物考古研究所等 編 2012: 図 242-1 7. 河南省文物考古研究所等編 2012: 図 242-3 8. 北京市文物研究所 1995: 図 133-2 9. 盧 弓魚

(12)

3. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 468-1 4. 北 京大学考古系等 1993: 図 16-5 5. 北京大学考古系等 1993: 図 31-1 6. 山西省考古研究所 1994: 図 71-5 7. 北 京大学考古系等 1993: 図 31-2 8. 河南省文物考古研究 所等 2009: 図 7-8 9. 河南省文物考古研究所等 2000a: 図 36-11 10. 河南省文物考古研究所等 1999: 図 244-3  11. 鄭州市文物考古研究所等 2006: 図 24-9 12. 鄭 州市文物考古研究所等 2006: 図 24-10 13. 山西省考 古研究所 1994: 図 71-6 14. 河南省文物考古研究所等 1999: 図 296-3 15. 陝西省考古研究院等 2010: 図 61-6  16. 陝西省考古研究院等 2010: 図 61-5 17. 陝西省考 古研究院等 2010: 図 23-9 18. 河南省文物考古研究所 等 1999: 図 90-1 19. 洛陽市文物工作隊 2009: 図 12-8  20. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図 167-8  21. 鄧林秀 1987: 図 10 22. 洛陽市文物工作隊 2011: 図 9-8 23. 中国科学院考古研究所編著 1959: 図版 53-5. 図 14 1. 劉士莪編著 2001: 図 253-1, 2 2. 洛陽市文物工作 隊 1999『洛陽北窯西周墓』: 図版 42-6 3. 洛陽市文物 工作隊 1999『洛陽北窯西周墓』: 図版 42-5 4. 河南省 文物考古研究所等 2000『鹿邑太清宮長子口墓』: 図版 48-2  5. 山西省文物工作委員会等 1987: 図 13 左  6. 中国社会科学院考古研究所編著 2005: 図 264-5 6. 中 国社会科学院考古研究所編著 2005: 図 264-6 7. 北京 大学考古学系商周組等 2000: 図 544-6. 図 15 1. 中国社会科学院考古研究所安陽工作隊 1984: 図 3-9 2. 中国社会科学院考古研究所安陽工作隊 1979: 図版 16-2 3. 洛陽市文物工作隊 1999『洛陽北窯西周 墓』図版 42-3 4. 陝西省博物館等 1976: 図 9-4 5. 陝 西省考古研究所等 2006: 図版 30-7 6. 北京市文物研 究所 1995: 図 133-1 7. 洛陽市文物工作隊 1999『洛陽 北窯西周墓』: 図版 42-4 8. 湖北省文物考古研究所等 2011: 図 82-4 9. 盧連成等 1988: 図版 57-2 10. 中国社 会科学院考古研究所編著 1999: 図 166-3 11. 河南省文 物考古研究所等 2012: 図 71-1,2 12. 北京大学考古学 系商周組 2000: 図 531-8 13. 北京大学考古学系商周組 2000: 図 612-1. 図 16 1. 河南省文物考古研究所等 2012: 図 149-1, 2 2. 河 南省文物考古研究所等 2012: 図 173-5, 6 3. 北京大 学考古学系商周組 2000: 図 632-4, 5, 6 4. 河南省文物 考古研究所等 2012: 図 241-1, 2 5. 河南省文物考古研 究 所 等 2012: 図 214-1, 2, 3 6. 甘 粛 省 文 物 考 古 研 究 所編著 2009: 図 78-6, 7 7. 甘粛省文物考古研究所編 著 2009: 図 78-3, 4, 5 8. 甘粛省文物考古研究所編著 2009: 図版 28-4 上 , 図 78-8. 図 17 1. 北京大学考古学系商周組 2000: 図 560-3, 4, 5, 6 連成等 1988: 図 222-2 10. 陝西省考古研究所等 1987: 図 9-1 11. 陝 西 省 文 物 管 理 委 員 会 1986: 図 47-10  12. 甘粛省文物考古研究所編著 2009: 図 78-2 13. 劉得 禎等 1988: 図 18-9 14. 山西省文物工作委員会等 1987: 図 14-2 15. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 703-2 16. 陝西省考古研究所等編著 2006: 図 124-7  17. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 746-4  18. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図版 120-2. 図 9 1. 河南省文物考古研究所等編 2012: 図 215-5, 6 2. 河 南省文物考古研究所等編 2012: 図 281-1, 2, 3 3. 衛新 1988: 図 1-7 4. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図 167-1 5. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図 版 148-2 6. 中国社会科学院考古研究所編著 1999: 図 167-6 7. 郭 寶 鈞 1964: 図 版 94-4 8. 周 原 扶 風 文 管 所 1987: 図 8-1 9. 洛陽市文物工作隊 1999: 図 20-7  10. 洛陽市文物工作隊 1999『洛陽北窯西周墓』図版 101-1 11. 郭寶鈞 1964: 図版 94-9 図 10 1. 河南省文物考古研究所 1999: 図 90-4, 5 2. 中国 科学院考古研究所編著 1959: 図版 36-1 3. 陝西省考古 研究院等 2010: 図 23-5 4. 中国社会科学院考古研究 所編著 1999: 図 167-4 5. 洛陽市文物工作隊 1999『洛 陽北窯西周墓』図 176-1 6. 山西省文物工作委員会等 1987: 図 14-3 7. 洛陽市文物工作隊 1995: 図 3-3 8. 王 長啓 2002: 図 23-3 9. 羅紅侠 1994: 図 3-1 図 11 1. 河南省文物考古研究所等 1999: 図 90-2, 3 2. 河南 省文物考古研究所等 1999: 図 192-2, 3 3. 河南省文物 考古研究所等 1999: 図 244-2 4. 河南省文物考古研究 所等 2009: 図 7-10 5. 河南省文物考古研究所等 1995: 図 25-1 6. 河南省文物考古研究所等 2000b: 図 25-7  7. 陝西省考古研究院等 2010: 図 61-1, 2 8. 陝西省考古 研究院等 2010: 図 23-3 9. 陝西省考古研究院等 2010: 図 61-3 10. 中国社会科学院考古研究所豊鎬発掘隊 2004: 図 4-3 11. 臨潼県文化館 1977  12. 山東省文物 考古研究所等 1982: 図版 89-4. 図 12 1. 陝西省考古研究院等 2007: 図 18-10 2. 陝西省考 古研究院等 2010: 図 139-1 3. 山西省文物工作委員会 1987: 図 10-6 4. 莒県博物館 1999: 図 7-3 5. 河南省文 物考古研究所等 1999: 図 90-6 6. 陝西省考古研究院等 2010: 図 191-4 7. 陝西省考古研究院等 2010: 図 191-5  8. 河南省文物考古研究所等 1999: 図 7-9 9. 河南省 文物考古研究所等 1999: 図 90-7, 8 10. 河南省文物考 古研究所等 1999: 図 296-4, 5 11. 中国科学院考古研究 所編著 1959: 図版 22-3 12. 郭寶鈞 1964: 図版 40-6 図 13 1. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 468-3  2. 北京大学考古学系商周組等編著 2000: 図 560-2 

(13)

 2. 河南省文物考古研究所等 1999: 図 89 3. 河南省 文物考古研究所等 1999: 図 244-1 4. 河南省文物考古 研究所等 1999: 図版 99-4 5. 河南省文物考古研究所 等 2000b: 図 15 6. 河南省文物考古研究所等 1999: 図 296-1, 2 7. 鄧林秀 1987: 図 9 8. 山西省文物工作委員 会等 1987: 図 13 右 9. 陝西省考古研究院 2009: 図 7-2  10. 陝西省考古研究院等 2010: 図 23-8, 4, 6. 図 18 Grach1980: Синхронистическая табл. I-40 図 19 陝西省考古研究院等 2007: 図 18-10 図 20 筆者作成 図 21 筆者作成 図 22 山西省考古研究所 1993: 図 80-3 図 23 Grishin1960: Ris.12 図 24 雪嶋 2014: 図5を改変 図 25 Val'chak2009: Ris.27-1 図 26 河南省文物考古研究所等 2012: 図 173-5 1. 琉璃河 M105 2. 琉璃河 M53 3. 昌平白浮 M3 4. 天馬曲村 M6130 6. 洛陽北窯 M6 7. 平頂山 M232 8. 平頂山 M242 9. 長安張家坡 M165 10. 長安張家坡 M284 11. 山東済陽劉台子 図 2 ザルジャ・ハリファ出土の骨角製鑣と金属製銜 図 1 パレスチナ、ガザ出土の金属製くつわ 図 6 中国出土の骨角製鑣 ( 約 1/4) 図 3 前掌大出土の 釘歯鑣と釘歯鑣の 装着の復元 図 4 典型的な方形鑣 1. 安陽郭家荘出土 2. 山東前掌大出土 3. 洛陽北窯 1. 長安張家坡 M22 2. 長安張家坡 M47 図 5 円形鑣の例 5. 天馬曲村 M6130

(14)

1. 茹家荘 BRM1 3. 竹園溝 BZM20 4. 琉璃河Ⅰ M22 5. 天馬曲村 M6081 6. 天馬曲村 M6231 7. 洛陽北窯 M310 8. 天馬曲村 M6214 9. 竹園溝 BZM1 10. 灃西 M28 12. 天馬曲村 M6195 11. 天馬曲村 M6130 13. 天馬曲村 M6081 17. 長安普渡村 15. 琉璃河Ⅰ M53 16. 昌平白浮 M3 18. 琉璃河Ⅱ M205 19. 豊鎬遺跡 20. 扶風召李村 23. 竹園溝 M7 14. 平頂山 M242 22. 長安張家坡 M284 21. 平頂山 M210 2. 長安張家坡 M248 図 7 青銅製異方向三孔鑣および類似した鑣 ( 約 1/4)

(15)

1. 平頂山 M50 2. 平頂山 M50 3. 平頂山 M86 4. 平頂山 M86 5. 平頂山 M86 6. 平頂山 M205 7. 平頂山 M205 8. 琉璃河 M205 9. 茹家荘 BRM1 10. 陝西銅川王家河 11. 陝西鎬京長家村 12. 甘粛崇信於家湾 M104 13. 甘粛慶陽 14. 山西洪洞永凝堡 NDM4 15. 天馬曲村 M6384 16. 陝西華県東陽 M65 17. 天馬曲村 M7092 18. 天馬曲村 M7095 図 8 「巻首形」鑣 ①(約 1/4)

(16)

1. 平頂山 M86 2. 平頂山 M84 3. 山西平陸棗園 4. 長安張家坡 M204 5. 長安張家坡 M206 8. 扶風強家 M1 9. 洛陽東郊 C5M1135 10. 洛陽北窯 M513 11. 濬県辛村 1. 三門峡虢国墓地 M2001 2. 三門峡虢国墓地 M1052 3. 韓城梁帯村 M502 4. 長安張家坡 M351 5. 洛陽北窯 693 6. 山西洪洞永凝堡 NDM4 7. 洛陽東郊 C5M906 8. 豊鎬遺跡 9. 扶風黄堆老堡 M42 6. 長安張家坡 M73 7. 濬県辛村 M4 図 9 「巻首形」鑣②(約 1/4) 図 10 円頭形鑣(約 1/4)

(17)

1. 三門峡虢国墓地 M2001 2. 三門峡虢国墓地 M2012 5. 三門峡虢国墓地 M2006 3. 三門峡虢国墓地 M2011 4. 三門峡虢国墓地 M2008 6. 三門峡虢国墓地 M2013 8. 韓城梁帯村 M502 7. 韓城梁帯村 M586 9. 韓城梁帯村 M586 10. 灃西大原村 11. 陝西臨潼 12. 山東曲阜魯国故城 M30 1. 韓城梁帯村 M27 2. 韓城梁帯村 M28 3. 山西洪洞永凝堡 BM5 4. 山東莒県西大荘 M1 6. 韓城梁帯村 M18 7. 韓城梁帯村 M18 8. 三門峡虢国墓地 M2008 9. 三門峡虢国墓地 M2001 5. 三門峡虢国墓地 M2001 10. 三門峡虢国墓地 M2119 11. 三門峡虢国墓地 M1617 12. 河南濬県辛村 図 11 龍頭付鑣(約 1/4) 図 12 環頭鑣(約 1/4)

(18)

1. 天馬曲村 M5160 2. 天馬曲村 M5189 3. 天馬曲村 M5189 4. 天馬曲村 M1 5. 天馬曲村 M1 か 6. 山西侯馬上馬墓地 M4078 7. 天馬曲村 M1 か 8. 三門峡虢国墓地 M2008 9. 三門峡虢国墓地 M2010 10. 三門峡虢国墓地 M2011 11. 河南登封告成 M3 12. 河南登封告成 M3 13. 山西侯馬上馬 墓地 M4094 14. 三門峡虢国墓地 M2118 15. 韓城梁帯村 M586 16. 韓城梁帯村 M586 17. 韓城梁帯村 M502 19. 洛陽潤陽 広場 C1M9950 18. 三門峡虢国 墓地 M2001 20. 長安張家坡 M2 21. 山西芮城 M1 22. 洛陽 014中心 M8781 23. 三門峡虢国墓地 M1767 24. 三門峡虢国墓地 M1711 図 13.弧形鑣(約 1/4)

(19)

1. 西安老牛坡 XLIII1M14 2. 洛陽北窯 M20 3. 洛陽北窯 M367 6. 山東前掌大 M41 7. 山東前掌大 M18 4. 河南鹿邑長子口墓 M1 8. 天馬曲村 M6210 1. 平頂山 M210 2. 平頂山 M86 4. 平頂山 M205 3. 天馬曲村 M6071 6. 甘粛崇信於家湾 M156 5. 甘粛崇信於家湾 M158 7. 甘粛崇信於家荘 M104 図 14 棒状の銜(約 1/4) 1. 殷墟西区車馬坑 81AGSM1613 2. 殷墟西区 M216 3. 洛陽北窯 M311 4. 陝西岐山賀家村 5. 陝西華県東陽 M109 6. 琉璃河Ⅰ M22 8. 洛陽北窯 M122 7. 湖北随州葉家山 M1 9. 竹園溝 M7 10. 長安張家坡 M183 13. 平頂山墓地 M242 11. 山西天馬曲村 M6195 12. 天馬曲村 M6231 14. 平頂山 M50 15. 平頂山 M210 図 15 8字形銜(約 1/4) 図 16 軸の長い銜(約 1/4) 6. 山西洪洞永凝堡NM9

(20)

1. 天馬曲村 M5189 2. 三門峡虢国墓地 M2001 3. 三門峡虢国墓地 M2011 4. 三門峡虢国墓地 M2012 5. 三門峡虢国墓地 M2013 6. 三門峡虢国墓地 M2119 7. 山西芮城 M1 8. 山西洪洞永凝堡 BM5 9. 韓城梁帯村 M28 10. 韓城梁帯村 M502 図 17 西周後期・春秋前期の銜(約 1/4)

(21)

図 18 トゥバ、アルディ・ベリ 図 19. 韓城梁帯村 M27

図 20 東京国立博物館所蔵銜 図 21 早稲田大学會津八一記念博物館所蔵銜

図 22 山西省侯馬鋳銅遺址出土銜鋳型

図 23 シベリアの銜鋳造法復元図

図 18 トゥバ、アルディ・ベリ 図 19. 韓城梁帯村 M27

参照

関連したドキュメント

実際, クラス C の多様体については, ここでは 詳細には述べないが, 代数 reduction をはじめ類似のいくつかの方法を 組み合わせてその構造を組織的に研究することができる

この条約において領有権が不明確 になってしまったのは、北海道の北

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

賠償請求が認められている︒ 強姦罪の改正をめぐる状況について顕著な変化はない︒

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

1970 年代後半から 80 年代にかけて,湾奥部の新浜湖や内湾の小櫃川河口域での調査