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龍谷大學論集 474/475 - 028森田喜治「非指示的遊戯療法の治療的意味II : 関係学的視点からの解釈」

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(1)

非指示的遊戯療法の治療的意味

1

1

一 一 関 係 学 的 視 点 か ら の 解 釈 一 一

森 田 喜 治

し は じ め に

非指示的遊戯療法の治療的意味

I

においては,遊びの意味と,非指示性の理 論的背景について述べた。本論文では,この理論を受げて,実際場面におげる, 共感と受容の治療的意義について,対人関係論の視点から考察することにする。 我々の持つ世界は,過去の生活の歴史から得てきた体験をペースとして知覚 される。生後すぐの子どもにとっては当初体験するあらゆる存在は漠然とした もので,全く無意味のものであった。「知覚は,主体がある具体的で特殊な環 境を次元として設定することから始まる。よって意味は,全体論的世界におい てわれわれが個別的・特殊的に環境に適応することから生じる」のであり, 「幼児は始め,言葉を漠然とした相対として把握するのであり,そこから浮き 出てくる表現手段の一つ一つが,一種の往復運動によって相対の手直しを引き 起こすことになる。」知覚される様々な物,人,動植物,言葉,などは,それ を提示しかかわりをもっ人との関係の中で意味付与がなされ,子どもにとって は始めてそれが意味あるものとして存在化する。しかし意味が付与されないも のについては,その存在は存在として知覚されず,存在そのものが意味を失わ れてしまうことになる。すなわち,子ども達が知覚したあらゆるものは,かか わる対象に意味が付与されることによって,その対象に対する特有の知覚を持 ち,それが子どもにとって特有の存在として現前する。その際知覚されたもの には「すでに他者の意思が入り込んでいる。」のである。そしてその存在は子 どもに提示する大人側の意思伝達によって作られた関係の中にある特有の意味 を持つことになる。このことは,必ずしも,人間という対象にのみ向げられた ものではなしそこにある様々なものすべてにおいてもいえる。 事例

1

継母による虐待が原因で施設に入所した幼児Aは,担当の保育士に抱かれる 龍谷大学論集 -151一

(2)

ことを極端に拒んだ。他の保育士であれば,抱きつき行為もあり,視線も合わ すことが可能であった。しかし,その担当の保育士に対してはそれが不可能ど ころか,近づくだげでも,それを拒んだ。しかし,また時に,その担当保育土 をもとめることもあり,求めに応じて拒否されるといった混乱した状態が続い た。保育士はそれに悩み,様々な方法を試みるも,それに対して

A

は全く反応 を示すことがなく改善もみられなかった。そのため,担当を変えることとなっ たが,その保育土にとれば,それが何に起因しているのかわからなかった。保 育士としての自分の在り方に何らかの問題があるとするなら,それを改善して おかなければ,今後の子どもとの関係にも影響が出ることになるため,その原 因を探ることにした。そして明らかとなったのが,保育士の好む服装の色が虐 待者である

A

の母親と全く同じものであるということである。

A

にとっては, 担当保育士の服装の色である黄色と,虐待によって体験する不快感情とが結び つき,その色の服に,あるいは,黄色そのものに,

A

特有の意味が付与されて いたのである。そのため, Aは,同じ色の服を着た人が,母とは全く違った行 動をとったとしても,初期体験の中での色に意味づけられ,知覚された色に対 する拒否行動をとったのである。そのため,その保育士の服装の色と違った服 を着ている保育土に対しては拒否的な態度はみられず,子どもを抱くことがで きた。

A

の行動は,彼の持つ過去の体験によって意味付けられ,黄色が危険信号と しての意味を持ち,それを拒否することになった。そのため, Aにとっては同 じ色の服を着るものが,同じような行動を行うことが予想され,自己防衛のた めにそれを避けようとする行動をとったのである。しかし,母親との間で,そ の環境に適応しようとするために作り上げた愛着行動と拒否する行動とが交互 に現れ,周囲のものにとっては, Aの行動が理解できず混乱することになった。 このように,子どもは他者との体験の中で培われてきた「意味」を自分の中に 構成し,外界にあるものに対する彼ら特有の判断の基準にしている。それらは,

o

r

g

a

n

i

s

i

n

g

p

r

i

n

c

i

p

l

e

として,外界を理解する母体となっている。我々が常識 と考えているものの多くはこの文化の中で培われてきた「意味」の付与された 存在であるということができる。ポンティは子どもたちが見せる習慣を「単に 無意識の行動パターンであるというより,その意図が無意識化した行動ノ Tター ンである。」とし習慣とは「行動の自動化であり,この自動化によってわれわ れは環境に慣れていく。」のであり,さらに「われわれが環境に慣れるという ことは,環境のあり方を自分の行動に取り込むことであり,逆に言えば,環境 152 非指示的遊戯療法の治療的意味 II(森田)

(3)

がわれわれの中に浸透してくること」であるとしている。子どもたちの行動特 性は,彼らの過去に体験した環境の中で固定されてしまい自動化された行動で いわゆる習慣として子どもの内界にとらえられていることがわかる。 また一方これらの状況は,子どもにかかわる我々について,同じようにそれ ぞれ特有の意味が存在しているために,子どもの理解においても,自分自身の 内的世界や自己の歴史の理解がなげれば,その子どもの本当の意味での理解に つながることはない。それぞれの文化の違いが,人間同士のかかわりに誤解を まねくことになり,また,それが,子どもを理解することを難しくさせている ことになることが多い。 例えば子どもにとって母という存在は,母というものそのものが厳然とある のではなし子どもの眼前にある存在(人)に対して,母という意味を付与し たにすぎない。最初から母という存在があるのではない。いわば,身近にいる 人を母と名のつくものにしたに過ぎず,その母親が,子どもを愛し,育てる行 為をすることによって,母性の特徴が作り出されたのである。そのため,この 母という存在のあり方は,子どもたちの文化にきまった形をもって,存在して いるのではなしそれぞれ違ったものである。しかし,意味づけされたものが 一定の文化の中で,他のそれぞれ個人の文化と,それほど大きな差がなく,平 均的であるところに,共通した母性という概念をつくりあげていったのである。 子どもが生まれてすぐの段階で r人生の最早期から知覚の性質の抽象的表 象を形作りそれに従って行動する。」子どもは,自分の目に入った身近な存在 を,自分にとって頼るべきものとしての抽象的表象を最初にもち,長い時間を かげ,母親とのかかわりを体験して後,それに母という意味を持たせる。そし て,子どもはその母という意味をもったものから逃れることはできないでいる。 そのため,その母という意味をもった存在が,子どもに与える,かかわり方の スタイルで学習されたものがその子どものパーソナリティー成長の基本となり, 子どもは,その基本に従って,その後の生活の中で獲得していくべき対人関係 のスタイルや価値基準を作り上げていくことになる。それぞれの家庭の中にあ る,母なるものの意味は,様々ではあるが,それが一つの文化となり,そこか ら得たものが,その子どもの「対人関係のシステム」となり,また,その子ど もの,生活の中心となり,それらは,長年にわたって,子どもたちの内的世界 に固定され,パーソナリティーの一部に組み込まれていく。 心理療法の対象になる子どもは,心理的,社会的な問題を招くことになる不 安定な家庭がその背景にあることが多く見受げられるが,これも,子どもたち 麓谷大学論集

(4)

-153-が,家庭の環境に意識的にではなしその不安定な家庭環境の中で生きるため に身につけてきた適応の方法であったということができる。そして rいった ん形成されると一生涯を通じて活動を続ける「かかわり合いの領域」であり, それぞれの領域における病理は,生涯を通じ,どの時点でも起こりうる」ので ある。子ども達との関係の中にいる親たちの価値観念が統一されず,頻繁に入 れ替わったり,親の勝手で基本的な価値基準がしばしば変更させられることに よって子どもたちは不安定になり,将来に問題を残す可能性が高くなる。これ は,愛着研究で述べられているように,親の子どもに対する無秩序的なかかわ りや,モラトリアム的な愛着傾向をなす子どもに,人格障害の発生が高いこと を述べられていることにつながる。これら,子どもが示す行動特性は,彼らの 歴史の中で培われてきたひとつのスタイルである。子どもの心理療法では,こ のような子ども達の状況が理解され,受け入れられることによって,基本的な 変容を遂げていくことを目的としている。そのひとつの方法として非指示的遊 戯療法があることは r非指示的遊戯療法の治療的意味

1

Jですでに述べた。 そして,その治療法の中で治療者の態度として重視されるのが,共感的理解と 無条件の受容である。 この原則は,心理療法,教育を含め,対人間のアプローチにおいては無視で きない重要な原則である。教育の現場においては,教える立場の人聞が,教わ る側の人聞の状況を吟味し,共感的に相手の理解を深めて後に,教育,しつけ を行っていくことが必要であり,社会福祉の中では相手のさまざまな観察を通 して相手の状況に共感的になることで,よりよいケアの可能性が生まれる。と りわけ,心理療法における共感は表面的な,比較的浅いレベルでの共感だけで はなく,より深いレベルでの共感的理解が必要で,無意識レベルまで要求され ることがある。

2

,共感について

共感は対象が言語にしなくとも, (遊戯療法の場合は子どもを対象とする), その対象が体験していることを,治療者(以後Th.とする)も同じように体 験し,それを同じように感ずることのできる能力を意味する。しかし,現実に は対象と閉じように感ずることはほとんど,あるいは,まったく不可能である。 クライエント(以後Cl.とする)の体験する世界は, Cl.の歴史の中で形作ら れ, Cl.の文化の中で感じ,特有のスタイルを持って表現されるものであって, 他者がそれと全く同じように感じ,その体験を言語化することはできない。し -154一 非 指 示 的 遊 戯 療 法 の 治 療 的 意 味 II(森田)

(5)

かし,

C

1.と

T

h

.

との関係の中で,ともに,体験している何かは,共通の場, 時間の中で,感じることはある。それが同じア・プリオリな一人の人間として 感ずるものを言語化することで,その体験を出しあい,

T

h

.

の体験が

C

1.の体 験と同じではないにしても,できる限り近似的なものであるかどうかを吟味す ることは可能である。その際,

C

1.を深く知ろうとする態度,相手を理解しよ うとする

T

h

.

側の態度が,いわゆる,治療的関係を形成することになる。共 感は「テクニックではなく感性で」あり rこうした感性の,時折のではなく, 一貫して適用に専心することからもたらされるのであ宮。」共感的感覚は,現 実の出来事から体験された

C

1.自身の感覚そのものではなしそれにまつわる, 情動の調和を意味し,それは,それぞれの,

C

1.と

T

h

.

の個人的体験に基づい て形作られるもので「治療者の心の理論を治療者の主観性から切り離すことは できない。」ことを

T

h

.

は常に自覚し,同じ現実的体験がその両者に同じ感覚 をもたせるとは限らないことを知り,ある現実によって引き起こされる

C

1.の 何らかの情緒的体験をその治療者もまた,閉じ情動を持ちえるかどうかを吟味 する必要がある。

T

h

.

C

1.との間で情動調律が成立し,その自らが持った感 覚を基準にして,対象である

C

1.を理解しようとする態度が共感である。そし て「共感的傾聴のスタンスから派生する応答は,相手の情緒体験と,その体験 の本人にとっての意味の,代理制の体験に基づいている。焦点は,類似のコン テクストにおいて,われわれがどう感じるかにではなく,患者がどんなふうに 感じていると我々が感じ取るかにある。」のである。したがって,

C

1.の表現す る内容について,

T

h

.

が同じ体験を持たねばならないというのではなく,現在 の

C

1.が示している「今,ここ」にある状況から

T

h

.

C

1.の感じている状況 を適切にどう感じうるかである。それは,具体的な体験内容ではなく,そこか ら導き出されてくる,

C

1.の感覚が基本になり,

T

h

.

が体験的に感じ取った感 覚を言語で表現しながら,

C

1.の持つ感覚と照らし合わせ,検討し理解してい こうとする。「持続的共感的探索態度」であるといえよう。しかし,

T

h

.

C

1. との関係の中で

T

h

.

が「共感不全」に陥った場合 r治療者から共感されてい ないと患者が感じ,患者の主観の中で自己対象鮮が途絶した状態」になり,

C

1.の変容は期待できず関係は破綻する。それに対し「共感の成功」がなされ ることで,自己対象紳が形成され, Th.との関係が肯定化する。すなわちTh. はC1.から独立したひとつのパーソナリティーを持つ存在であり,また, C1. は同じように,ひとつのパーソナリティーを持った存在である。そのつながり は,この

T

h

.

側の

C

1.に共感していこうとする態度,状況にあり,また,

C

1. 龍 谷 大 学 論 集 ー 155一

(6)

はTh.に対して自己の体験を様々な方法を持ってメッセージを送ることで, 共感させようとする態度にある。これらの資質は,言葉にならない

C

l.のメッ セージを主観的ではあるが, Th.のCl.へ向ける肯定的つながりが, Cl.の示 す行動の理解を助け,お互いが違った文化環境にあることを,理解することに よって,自己の感覚にとらわれるのではなく, Cl.とのやり取りの中で修正し ていくことができるようになる。このように,子どもが表現している内的な内 容について,それを,言語に置き換えて適切に表現することは難しい。共感は, ノンパーパルレベルの子どもの態度,雰囲気の中から,子どもの心の内容につ いて他者が感じ取ることを示しているが,我々は,常に,対象から受ける雰囲 気の中で,それを,それそのものとしてとらえることはできず,子どもたちに 自分自身を鏡像として投影することによって,内的なものを理解しており, 我々は,そのようにしか他者を理解することはできない。たとえ,それが,客 観的とされる数字を用いた研究であっても,研究の方向性は主観的なものにし かなりえず, (つまり,研究の対象を選別するにしても,そのための資料収集 における,質問の内容,検討,統計,分析の方向性はある一定の主観的な方向 を持って行われているのである)数字を検定する以前の段階で,研究者自身の 鏡像がそこに見られ,必ずしも,それが客観的なデータであるとはいえない。 これらのデータは,研究者の主観的な投影が,無意識に行われている可能性が ある。心理治療の場合,我々が関わるのは,言葉にならない,あるいは,言葉 にすることのできない,子どもの内的な現象の理解であるために,子どもの行 動や,服装,雰囲気,態度の中から子どもの状況を予測していく必要性があり, それらは,多くの場合,子どもの内的な世界の表現が,子ども自身も,それと 気づかずに表現されているものなのである。そして,そこで行われる共感的理 解も,

C

l.の行動が,それに関わる Th.に対する反応として動いており,また, Th.自身も, Cl.の動きの反応として動いているものであることをTh.自身が 理解しておく必要がある。 このように, Th.とCl.の関係はお互いの反応のしあいの中で,様々な行動 が規定されており,その束縛から逃れることはできない。基本的に人間の行動 は,お互いの関係の中で,惹起されるのであり,それらは,必ずしも,一方的 な対象の動きだけで,判断できるものではない。「表現はただ何かを陳述する だけでなく,何かについて語っている。つまり,表現はただ事実を有するだけ でなく,また,なんらかの対象に関係している」のであり r他人との関係に おいて掲示され,維持され,変容されるものであ宮。ことを忘れてはならない。 -156一非指示的遊戯療法の治療的意味 II(森田)

(7)

事例2 中学

1

年の男児

C

は,施設の中では,攻撃性が強く,手に余る行動が再三に わたって見受けられ,治療を受けることになった。治療の中で,

c

は,箱庭を 作りながら,男性の人形を攻撃する。そのときに,具体的な職員の名前が表現 される。

Th.

はその名前が,彼のために,家を開放し,時聞があれば,彼ら のために,時聞を割いて子ども達と遊んでやっている職員であることがわかっ た。 Cは思わず出てしまった自分の言葉に困惑しながらも,この職員が自分の ことを親しげにあだ名で呼ぶことについて語った。 「自分はかつて友人からこの名前を使っていじめを受け,暴力を振るわれて いた。実はその名前で呼ばれることを何よりも嫌だったが,周りの大人はそう いった自分のことには関係なしに,その名前で自分を呼ぶため,いつもいらい らしていた。それをわかってくれない。」 くそのことについてはいえなかったの〉という治療者の言葉に 「そんなことをいうと,ここの生活の中では自分は否定されてしまう。でも, その名前を呼ばれるたびに苛苛して,怖くなった」と語った。 子どもの攻撃的行動は,子ども自身の自己防衛のための方法であり,そして, それは,

c

のかつての体験の中で培われてきた恐怖でもあった。 Cは職員から あだ名で呼ばれるたびに,否定的な様子をそれとなく表現してきてはいたが, わかってもらえず,しだいに否定的な様相を行動として出してしまうことにな った。そして, Cが攻撃的になると,周りの大人たちは職員の側からすれば肯 定的なはずの呼び名でさらに

C

を呼ぶため,攻撃的行動は激化していった。小 学生の頃はそれでも攻撃性はそれほど強く表現されることはなく,職員のコン トロールの中にはあったが,思春期という不安定な精神状態と,体も大きくな り体力がつくと,

c

は自己防衛のために,周囲を支配して回り,攻撃性が激化 することになった。 特に生活が安定しない子どもは,衝動のコントロールが難しい。そのため, 恐怖や,いらだち,欲求を現実と照らしあわせながら,自己を統制していく力 に乏しい。さらに,過去の体験で恐怖を感じた場合に,それをコントロールし ていくことができないでいるため,たやすく行動化してしまっている傾向があ る。しかし,一般的に攻撃性を発散する子どもは,ほとんどその攻撃性をむけ る対象があり,その対象との関係の中で,彼らの攻撃的行動は出現している。 つまり,子どもの行動は関係の中で起こっていることなのである。子どもの個 人的な資質として問題を表しているのではない。子どもの行動をすべて子ども 龍谷大学論集 -157

(8)

自身の問題として責任をおしつけてしまうのではなく,子どもの行動の意味を よく理解しながら,子どもの状態に共感することによって,子どもの行動の意 味を理解していくことができていれば,

C

の攻撃行動は,固定されずに不適応 行動は減少させることは可能であったかもしれない。しかし,我々は,主観的 に自分の内的歴史に応じて対象を理解し,自分たちの体験の中から,相手にと ってよい方法を模索するものであるが,それが必ずしも対象である子どもの状 況に適したものであるとはいえない。子どもは,自分の体験してきた過去の歴 史に照らして行動し,防衛的になる。同じように,大人は自分の歴史の中で得 てきた体験を持って子どもにかかわろうとする。そのために,子ども自身がど うであったかは問題にされない。この事例にもみられるように,子どもとの距 離を接近させるために,我々が一般的に用いる方法で親しげにあだ名で呼ぶよ うにすることはよく見かけることである。しかし,子どものわずかな表情や行 動の変化からこういった当たり前と思われる接近法が対象である子どもにとっ て肯定的なものであるかどうかは常に考慮されなければならない。子どもの歴 史とそれに関わるものの歴史との聞には違いがあり,またこの体験の違いは, 子どもにとって傷つきとなる体験であっても,他者にとっては傷つきではない ことは多くある。共感とはこれらの内容に応じて,相手を細かなところまで見 抜く力であり,相手を感ずる力と,また, Th.のもつ感覚さえもが,相手その ものを理解しえているのではなしそこに自分自身の投影のあることを感ずる 力であろう。ノンパーパルな行動の理解や,共感とは時には都合のいいものと して用いられがちになる。というのも,その内容が,周囲のものにはわからず, また当の本人にさえもわかりにくいものでもあるために,独りよがりな判断に なってしまう危険性を有している。ただ,それが,しっかりとした共感的な感 覚であると感ずることができるのはその対象者である,この場合は

C

l.に限定 される。 共感はそのレベルに応じて深い共感もある。それは,その関係の中で何がい ったい流れているのか他者には全く理解できないような1対1の直感的世界で あり,また,時にはTh.側の勝手な解釈であると解されるような状態のこと であることも多い。ただ,共感しあっている当人たちだけが理解しあえている 内容のものであって,客観的にその正否を判断することは難しい。 事例3 不登校児D子は。家庭に何らかの問題や不安定な状況があるとはその生育暦 からはみえない。両親共に優秀で,本人に対しても厳ししあるいは,過保護 -158一非指示的遊戯療法の治療的意味 II(森田)

(9)

に接しているわけではない。本人も,なぜ自分が学校に行けなくなってしまっ たかわからない。学校でいじめを受けているわげでもなく,友人もそれなりに おり,親友と呼べる相手もいる。成績もよく,学校に行けなくなってしまった 理由が外部には全くといっていいほど存在しない。話を聴いていても,

C

l.は ただわからないとしかいえず,

T

h

.

にもその原因はわからないとしか言いよう がない。何の手立ても見つからずに数回の面接が過ぎ,

T

h

.

は,学校に行くた めの外的な方法に目を向げてしまっている自分に気づく。そのときに,なぜか,

T

h

.

は胸の締め付げられるような悲しみがこみ上げてきた。それも,突然のこ とで,その悲しみが

T

h

.

自身のものであるのかどうかもわからず,ただ,

D

子を目の前にし,その話に聞き入っているときに突然現れた感覚であり,

T

h

.

自身がとまどった。 〈話を聴いていると,何か無性に悲しくなった。なぜなんだろうかわ

C

l.はわげのわからない顔をしていたが,

D

子がまず涙を流した。 「先生,何か私も悲しい」 それから,数週間後,登校を始めた。その後順調に登校を続け,期待遇りの 進学校に行き,その後は順調にいっている。 乙こで何が起こったのか,

T

h

.

にはわからない。これを深い共感であるとい うならそうかも知れないし,別段特別なことではなく,自分の勝手な思い込み によって生じたことであり,

D

子はただそれに反応して,転移関係の末に,治 療者に呼応したに過ぎないといえばそうかも知れない。しかし,宗教家たちの 体験する通常人には理解できない一種の特別な体験に似ているようにも思える。

R

o

g

e

r

s

C

.

R.が

r

Cl.が洞察にいたったとき,教会の鐘が聞こえ,

C

l.との聞 で宗教的感覚が流れた」と述べたことに通ずる。 事例 4 大学

3

回生の

E

子は欝的な状況にあり,大学のほうには通つてはいるものの, 自分の感覚がどうも他の人とは違い,実感がわかない。生きている感じがしな い。どちらかというと離人感があり,常に悩まされていた。数ヶ月の面接の後, 面接日でないときに,治療者に突然不安が起こり,面接日ではないのに関わら ず,今日はなんとしても

E

子に会わなければならないといった感覚に取り付か れ,理解不能な行動をする。面接の中でよく耳にした喫茶庖を

3

軒まわり,

E

子を探し,それでもみつからず,挙句の果てに,

C

l.の自宅を住所から探し出 し訪れることになる。平屋の大きな家は,道路に面して大きなガラス戸の入り 口がある。玄関といった感じはなく,お庖と住まいが一緒になったようなとこ 龍谷大学論集 -159一

(10)

ろで,道からすぐに土聞になっているような,都会にしては珍しい田舎家であ る。前面ガラスであるせいなのか,カーテンがしっかり閉められており,ひっ そりとして,人がいる感じがない。留守かと思いながら,呼び鈴を鳴らすと, 母親と思われる人が暗い疲れたような顔を出す。家の中はよく見たわけではな いが,暗く,家全体から感じられる雰囲気に似ている。自己紹介すると,母親 が顔を曇らせ,今朝病院から帰ってきたことを簡単に告げる。すぐE子が顔を 出す。なぜ来たのかという驚き,迷惑そうな顔と同時に,またそれを当たり前 のことであるかのような感じで話す。 「昨日自殺未遂をした。」 両手首と首に包帯が巻かれている。両手首を

1

7

針,首を

3

箇所

1

針ずつ, 合計

2

0

針縫うけが。さらにタバコ

2

本をウイスキーで飲み,病院へ行って,胃 洗浄される。タバコはウイスキーの飲みすぎにより泥酔状態になり,寝ていた ために吐いてしまう。そのため影響は少なかった。一命を取り留め,現在は教 員として仕事をしている。

T

h

.

がこのときに感じた焦燥感や不安は客観的な事実として説明することは 難しい。ともかく,突然沸き起こってきた「会わねばならない」という感覚は, Cl.との深いつながりの中で起こったものであると解することができる。それ は,何らかの現実的な説明のつくものではなさそうである。これを深い共感と 呼べるものであるといえるかもしれない。心理治療の内容が外部にもわかるほ どの深い内容が展開されていなくとも,深い共感関係にあると何でもないよう な遊びの中で子どもはどんどん直っていくものである。 これらの共感関係は,言葉にならない,あるいは,できない何らかの感覚の 無意識的なつながりの中で成立する。そして,それは,

D

.

スターンが陽性転 移関係が成立するところで,治療は進んでいくと述べたところにもつながる。 以上のように,共感は,心理療法において,

C

l.の内的な言葉にならない感 覚の無意識的な伝達に関係があり,そして,それは言葉をまだ持たない子ども と母親の関係の中で,子どもに対して抱く母の心の状態に近いものがある。そ して,それは,対象である子どもを育てる,基本的な態度であるのと同時に, この無意識的な関係が子どもの心の成長につながるのである。「要点は,治療 煮は何を考え,何を感じるかではなく,患者が何を考え,何を感じるかであ る。」 -160ー 非 指 示 的 遊 戯 療 法 の 治 療 的 意 味 II(森田)

(11)

3

,受容について

非指示的技法において,受容もまた,共感と並んで中心的な原則である。し かし,受容を許容(是認)や受動と取り違えられているところが多く見受砂ら れる。 子どもの行動を受容だけしていては,子どもはわがまま放題になってしまっ て,社会秩序につながらない,子どもには指示的に指導やしつけが必要だとい われる。確かにそのことについての異議はない。しかし,子どもの行動の理解 がないところでのしつげ,教育,指示

t

f

F

圧に通ずる。

R

o

g

e

r

s

C

.

R.の人聞 は「十全に機能しようとする存在

4

1

8

J

1

9

6

3

)

blind-M

の,子どもは「よ り高次への発達を求める存在J (1

9

4

7

)

であるという仮定に基づくならば,子 どもの内的世界に共感し,十分に受容してやることによって子ども自らが周囲 に順応的になり,より高次の人間関係を求めるようになるのである。丸田が 「本当に心を聞き,文字通り自由に自分を語るときがくるとすれば,それは, まず自分の受げ止め方の妥当性が受け入れられた時である。J

(

2

0

0

2

)

と述べ, 子ども自身が彼らの歴史を通して表現された,特有のとらえ方を否定されたり, 評価されたりするのではなしあるいは,我々が信じている正しいと思ってい る方向に引きずられていくのではなし子どもの在り方そのものをそれとして そのまま受け入れられる体験を通して,自由になることを示している。「非指 示的遊戯療法の治療的意味しでも示したように,子どもは周囲に共感されず, 理解されず,受容されなかったときにストレスを生じ,その内的現象に表現と して問題とされる行動が出現するのである。「自分が「受けとめてもらえる」 という確信があって始めて,子どもは受げとめてくれる人を信頼するようにな り,その裏側で自分に自信と自己肯定感をはぐくむことができ,こうして次第 に「私は私」と言えるような自分の心,つまり主体としてのありょうがなりた ってくる」のである。人聞は自己を受け入れられ,その存在を存在として認め られたときに,心の平安を得,それは,母親と子どもとの関係の中で成立する 感覚に似ている。そしてその体験をベースとし,肯定的な体験を繰り返す中で, 子どもは他から認められる自分,かけがえのない存在として,この世に存在す ることを許される感覚を得る。「子どもの適応的な行動は,結局親が子どもの 要求に答えることで強化さ抗」逆に「親の世話や注目と引き換えに,自分の真 の考えや感情を無視しなければならない子どもは,自分の演じなければならな い役割に自己を同一化して,真の自己感覚を持つことはない」といわれるよう 龍 谷 大 学 論 集 ー161ー

(12)

に,子どもの中で起こる本来の感覚が受容される体験を繰り返すことで,適応 的な行動を招くのである。しかし,この認められた感覚をもてなくなると,も はや,他者は自分にとっては,邪魔な存在だけではなく,自己の信頼や,肯定 感を向げる対象ではなくなり,かかわりを持つために,自らの欲求を抑えたり, 他者との関係を考え,身につげるべき対人関係を習得しようとする内発的動機 づげが持てなくなり,独りよがりな,ナルシスティックなパーソナリティーの 成長を遂げることになる。

Kohut

理論によれば

r

子どもの太古的誇大感が外 傷的な形で消沈させられると,誇大感そのものと,その誇大感の映し出しを通 じて養育者にも参与してほしいという子どもの希求は,再外傷を防ぐため抑圧 される」ことになり「この,太古的誇大感の封鎖は,空虚感,生気欠知,無価 値感など,自己愛枯渇症状としてあらわれる。」ことになる。 早期の母子関係において,母親から受け入れられる感覚を体験することがで きなかった子どもは自ら成長することをやめる。スピッツは乳児院で生活する 戦争孤児達が,栄養はあたえられているのにもかかわらず,次々に全身衰微の 状況になって命を落としていくか,アナクリティック・デプリペーションの状 況になり,周囲とコミュニケーションを一切とろうとしなくなり,いずれにし ろ,乳児の8割以上が何らかの形で命を落とすか,対人関係に深刻な問題を抱 えてしまうことになった。そのため,病院で赤ん坊を抱く行為が奨励され,実 行されるようになると,ほとんどの子どもが死ぬことがなくなり,また,深刻 な問題も減少していったという報告をしている。この実際例に照らすならば, 子ども達の最初の存在感の獲得は,母親に抱かれる,つまり,子ども自身の存 在を物理的に受け入れられ,抱えられるといった無条件のノンパーパルの物理 的関係が最も初期にあり,それらによって,子どもはこの世に生命を維持する ことができるのであることがわかる。受容とは,そのノンパーパルレベルの存 在そのものを受げ入れる物理的な作業であり,それは,成長して後の

C

l.に不 足している一つの姿であるとみることもできる。つまり,多くの治療対象とな る子どもに,家庭の事情や,親の状況によって,その母親に受け入れられてこ なかった体験を抱えていることが,治療経過の中で見受けられる。しかし子ど もを

1

0

0

パーセント受砂入れるということは,子どもの成長に従って難しくな る。子どもの自我の成長と共に,表面に現れてくることは,子どもの内的,外 的体験によって,大きく査められてしまい,彼の真の要求は内的現象として起 こっている生の形とは違ったスタイルで表現されてしまう。そして,その表現 スタイルは彼らが受げ入れられてこなかった体験の中でつちかわれてきた,環 -162一非指示的遊戯療法の治療的意味 II(森田)

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境に適応していくために自らが作りだしてきた手段であり,その中には貧欲で, 強烈な自己存在感の維持のための欲求が組み込まれている。そのため,成長す るに及んで,その表現の仕方は周囲に否定的な感覚を持たせることになり,そ の受け入れは難しくなる。しかし,彼らの内的な世界には受け入れを要求する 真実が隠されており,その受け入れなくしては,彼らを理解することはできな い。多くは受け入れられるべき時代に,母親から彼らの存在そのものがかけが えのないものとして受け容れられてこなかったところに原因を見出すことがで きる。その原因を作り出す環境は様々で,必ずしも,その母親の持つパーソナ リティー特性から,子どもをうげいれる能力が母親に欠けていたといった結論 を出すのは早計である。家庭の中で起こる様々の事象は,母親の子どもへの注 意を阻害する出来事も起こりうる。不幸にも,そういった環境にはいると,た とえ母親に問題がなくとも子どもへの母J性的愛情は不足することもある。また, 子どもの安定感はそういった家族のメンバーによるものだけではなく,家族を 取り巻く,近隣の人々との体験も,大きな影響をもたらす。親との関係の中で, 子どもは人聞に対する信頼の基本を作り上げるが,その後の,母を含め,環境 からの肯定的なかかわりがあって,安定した成長を保証できる。しかし,いく ら初期の母親との関係が安定していたとしても,子どもはその後激しいトラウ マティックな体験をさせられると,それが原因で不安定感をもって成長させら れることになることもある。単純に,子どもの問題とされる行動が母親との

1

対1関係の中だけで作られていくものではなし周囲による否定的なアプロー チが子どもの問題を作り出していることもあろう。そのため,治療関係の中で は,この共感的な感覚にあわせて母からのアプローチも含めた子どもの全背景 に目を向けることも必要で,その中で,

C

l.がもっにいたる否定的な感覚の受 容も同時に必要なものとされる。 また,さらに,この受容の関係は,必ずしも,

T

h

.

からの一方的な受容関係 で成立するものではない。治療者は

C

l.によって,受容される必要があり,そ れは,相互受容関係の上で成立する。すなわち, Cl.は,遊びを媒介にして, 治療者との肯定的な関係を結び,その上で,

C

l.が

T

h

.

を肯定的対象として認 識したときに, Th.のかかわりに自己肯定感を結びつけ, Th.を自分にとって の肯定的な意味ある対象として位置づけ,

C

l.は

T

h

.

との関係の中で肯定的な 自己像を構築していくのである。 このように受容とは, Cl.の体験の中で得ることになった感情に対して,生 の形のものを感覚,体験,感情に対してなされるものであり,盲従,追従を意 龍谷大学論集

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-163-味するものではない。 Axline,V. M.の述べる遊戯療法の8原則の1番目の原 則である「治療者はできるだけ早く良いラポートができるような子どもとの暖 かい親密な関係を発展させなければなりません」やRogers,

C

.

R.の治療者.と Cl.は「心理的関係を結ぶ」という 6原則のうちの1番目にあげているのは,

C

l.と治療者.が肯定的な相互受容関係を初期に形成することに重きをおいてい ることがうかがえる。 以上の状況から考えると受容と許容(是認),受動がその性質上まったく違 うものであることがわかる。しかし,一般的にはかなり混同して用いられてい る。許容,受動はロジャーズがあってはならないとする,盲従であり,追従で あり,そこには治療的な意味はない。子どもは盲従されることによって,自己 の原初的な万能感が刺激され,支配者となり,枠のない行動を開始することに なる。「非指示的遊戯療法の治療的意味

I

I

I

J

で述べる予定だが,ここに,非指 示的遊戯療法における重要な原則が, Axline, V. M.の原則の8番目の原則で ある r治療者は治療が現実の世界に根を下ろし,子どもにその関係における 自分の責任を気づかせるのに必要なだけの制限を設け宮」という最低限度の制 限を設げる必要のあることにつながる。しかも,それは,子どもと,治療者が お互いに肯定的な存在であることを認め,そしてその関係が肯定的な関係であ ることをお互いが意識し,その関係を作り上げる必要から設定されているもの である。無制限に,子どもの行動に非指示的に付き添うことで,子どもの行動 を黙認し,受容と称する許容にはむしろ子どもの心の世界を共感的にかかわろ うとしない治療者側の態度が明確となる。 許容的態度は,子どもの表面的な言動に対して,お互いが重要な他者である 関係を崩し,子どもは内的な衝動に従って,先述したように外的な制限によっ てコントロールされない衝動に翻弄された行為に対して,受容を許容(是認), という放任に取り違えることで,子ども達のコントロールできない行動化を誘 発させてしまい,収拾のつかない事態を生じさせてしまっている例がある。 事例

5

カウンセリングマインドが流行し,教育の世界でもカウンセリングマインド, 特に,非指示性と共感,受容を強調し, C.R.Rogersの3原則を掲げて子ども 遣のアプローチが行われた。中学において喫煙の問題が噴出した際,教員はカ ウンセリングマインドでいう受容の態度として,子どもがタバコを吸うことを 受け入れるということで,生徒指導室内での喫煙を許可した。隠れて吸うので はなしむしろ,タバコを吸うという行為を受け入れようとした。しかし,こ -164一 非 指 示 的 遊 戯 療 法 の 治 療 的 意 味 II(森閑)

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れは明らかに行動の許容であり,歴然とある制限がなされなかったところに, 大きな問題があった。そのために,生徒指導室は子ども達の喫煙室さながらの 状況になり,その後,禁止をすることが難しくなり,学校内は混乱した。その 結果学校では受容はよくないという結論に達し,制限,指導する方向に転じた。 受容とは,人対人の関係性の問題である。事例は,子どもがタバコを吸うと いう行為に至る内的な現象に着手するのではなく,子どもの行動そのものを許 容することになり,行動は逆に激化することになった。喫煙は子どもの一つの メッセージである,喫煙をする子ども達の多くに,家庭の両親から否定的な自 己像を形成させられ自己主張がうまくいかないいらつきが隠されていることが 多く見られる。また,学校で当たり前の存在としてあることが自己の存在感を 薄れさせ,あるいは消えてしまう恐怖をもち,家庭においても,学校のように 自己主張できない子どもに喫煙が見られる。子どもの持つそれぞれの能力が十 分に発揮できる環境が子どもに応じて提供されている場合はよいが,子どもが それを感じることができないと,ルールを破る形を持って自己主張し,目立ち, 自己の存在をアピールする。喫煙はそういった子ども達の訴えであり,その訴 えに耳を貸す教員側の姿勢が必要であったろう。確かに行動を認めていくこと は,そのことに注目させるということで,彼らにとっては,特別扱いされる快 感を味わうことにはなるが,喫煙行為は,法律によって規制されているlレール である。ルールは何らかの理由をこね回すのではなく不退転の壁なのであり, それはどうしても動かすことのできないことである。もちろん規制にはそれな りの意味づけはなされようが,そこにはどうしようもないルールがあり,その Jレールは人が生きていくための秩序を維持するために必要不可欠のことなので ある。したがって,最低限度のルールの中でわれわれは自己主張することがで き,それを守ることが前提とされる。それは,治療的アプローチの中で言われ る,お互いの尊厳を守るという関係性につながる。しかも,教員はそれぞれの 子どもの持つ特性に目を向け,それぞれの存在を十分に理解しかかわる姿が要 求されるのであり,そのための子どもからのメッセージだったのである。しか し,単純に子どもの行動を許容することは,子どもの内的な現象に目を向けず, 単純に行動を放任するという,安易な方法に走ってしまったことに問題がある。 子ども達の内的な現象に目を向け,タバコを吸う行為に隠されている彼らの内 的な叫びに耳をかすことなしでは,行動は激化するのみで,減少することはな い。盲従,追従では彼らは,自己の内的な叫ぴを,無視されることになるため, 彼らはより自己主張の度合いを強めねばならないことになる。つまり,行動に 龍谷大学論集 -165一

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隠されている彼らの心の真実にかかわらないかぎり,彼らは満足することはな いばかりか,それが,彼らの自己主張の手段として学習され,根付き,ノTーソ ナリティーに組み込まれていくことになる。そこには心理的な受容は加味され てはいない。そのため,それにかかわる教員たちは,いらいらしながら,ある いは問題を感じながらも,それに対処することができず,ただ,見て見ぬふり の態度をとるしかなかった。そのため,子ども達は,自分たちの内界の理解を 得られないまま,そこからくる不安,大人の世界への表面的な興味と背伸びの 世界で,内的な成長が奪われていってしまったことが考えられる。彼らは,大 人たちが自分たちに衝動のコントロールをしてくれる外的な自我,力として臨 んでくれることを求めたに過ぎず,さらに自分達の存在のアプローチであるこ とを行動を通して訴えたがそれを得ることができずに,不安が強くなり,行動 は激化することになった。大人が特に社会通念を子ども達に学習させるために は,時には痛い仕打ちが必要になる。しかし,それは,彼らが現実化するため の行動のコントロールを意味するのであって,彼らの内的現象としてみられる 心の真実については無条件に受け入れることが必要である。この事例では,ま だ,行動の規制はある程度可能であったにもかかわらず,受容の言葉の理解の 間違いによって,単純に行動の許容が行われることで,子ども達の不安は増大 し,また,無理解のための行動化が目立つようになっていった。子どもたちの 内的世界の真実としての受け入れは必要であるが,自の前で繰り広げられてい る,現実的行動に対する許容はこの際必要ない。 受動については,実際の治療の場面で間違った対応として見受けられること が多い。制限破りに対するコントロールのできないことが時おり見られるが, 治療関係の中では原則に従った制限は守られているのが一般的である。しかし, 実際の治療の中で見られる問題として,受容,非指示の意味のとり違えとして, 受動・許容の姿勢が治療者に見られることが多い。 事 例6 小学校4年男児のプレイをしている Th.Mは,初心者であるということも あるが,子どもとの戦いの末,常に殺される役を持たされる。死ねといわれる と,死ぬ。 Cl.自信が有利になるようにされたルールのためCl.に勝つことは ない。ゲームをするときにも,常に, Cl.の1レールのため,どうしても, Th. が勝つことはない。非指示だからということで, Cl.の言われるままに行動す るo しかし,なぜそのような大変理不尽な扱いを受げなければならないのかは, わからないまま, Cl.のいうことに従って行動した。挙句の果て, Cl.は,治療 166ー 非 指 示 的 遊 戯 療 法 の 治 療 的 意 味 II(森田)

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のルールさえも,自分に都合のよいようにするように要求する。さすがに,原 則的には,そのルールは破ることができないために,断るが,そうすると, Cl.の理不尽な扱いはエスカレートする。どうしようもなくなって, Cl.に対す る否定的な感情がTh.に生まれ,関係が悪化することになった。 Mは経験の少ないTh.であり,治療理論についても,書物から自分なりの 解釈の中ででしか,理解していなかった。 Th.にとって,その訓練中に実際の セラピーの経験と,きっちりとしたスーパーヴィジョンを受けておくことは必 要不可欠の作業である。これらの経験のあるものとないものとの間では,訓練 終了後実際のケースを持ったときに,その差は歴然とする。実際の場面で,熟 練者からの指導を受けることは,文字通りの言語的解釈を自分なりに行うので はなく経験によって培われてきた,様々な意味をもった多彩な理解,解釈に触 れることができる。 Mは,非指示,受容を子どもの行動をそのまま受げ入れる ことであり,その際に自分の中で起こってくる否定的な感情に抑圧を加えるこ とと理解していた。少なくとも,子どもの言うがままになることが受容である という理解の下で,かかわっていた。しかし,前述のように,心理療法は,治 療者という役割を持つ者と,

C

l.という役割を持つ者との人間関係の中で成立 する作業であり,それは,子どもの内的な世界とのかかわりである。そこには, もちろんTh.側の自己一致,純粋性が重要になる。否定的な感情が起こって きたときには,自分がこのかかわりに否定的な感じが起こっている体験を,子 どもとのセラピーの中で共有する必要がある。この感情の共有は,子どもの内 的世界とのつながりを持っていることが多く, Th.に起こってくる感覚は,ま た,子ども自身の問題でもあることがある。つまり, Th.として経験させられ ている何か理不尽な体験は,子ども自身の理不尽な体験と結びついていること が多く,治療の中でみられる治療者と Cl.との関係は彼らの,過去の家庭,他 者とのかかわりの中で体験し身につけてきた人間関係のスタイルであり,その スタイルが,他者との関係に甑臨が生じ,それがセラピーを受けることになっ た原因である。そのCl.は他者に対する否定的な感情を起こさせるかかわり方 をスタイルとして抱えてしまっていることが想像できる。これらは,

C

l.との 関係の中でTh.が体験したことを言語として表現し,お互いにそれを検討す ることが必要になる。

C

1.に対する否定的な感情を,治療者はもってはならな いのではなしそこでおこってくる治療者自身の感情に素直になることそのも のが治療的な意味をもっ。むしろ自分の中で沸き起こってくる否定的感情を抑 圧するほうが問題である。心理療法は行動を通したCl.と Th.との人間関係で 龍谷大学論集 -167一

(18)

あり,子どもは他者と出会い,自由な環境の中で,自分自身が体験してきた否 定的な感情を表現する。そのため,それにかかわる

T

h

.

が否定的な感情を抱 いたとしてもそれは,

C

l.の内的世界に呼応することである。であるがゆえに,

T

h

.

の内界に起こってくる感情は

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h

.

側がそれを言葉にすることで,

C

l.はそ れが自分の気持ちである可能性に気付く。

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l

i

n

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V

.

M.

の原則の

4

番目であ る r治療者は,子どもの表現している気持ちを油断なく認知して,子どもが 自分の行動の洞察を得るようなやり方で,その気持ちを反射してやります」と いうことにつながるものである。

C

l.が

T

h

.

に対してこの感情が起こるような 行為をなぜするのかということを考え,言語化し,それについての検討がなさ れないまま,ただ,受けいれるだけであっては,

C

l.がなぜ

T

h

.

に対してその ような扱いをするかという,心の真実に出会うことはない。 事例の子どもは,虐待を受けての施設に入所してきた子どもである。特に身 体虐持は,親との関係の中で極端な支配,服従の関係を形成する。この関係の 中で,子どもは常に理不尽な支配にであい,子ども自身はそれに服従するスタ イルをとり続けざるをえない。そのため否定的な感情を持ち続ける

C

l.は,自 由を与えられることで,他者,つまり,

T

h

.

を支配するという,パーソナリテ ィーに固定された対人関係スタイルをもって,かかわっていた。その行為は, 日常の生活の中でも見られるところで,生活上の問題として表現されており, そのスタイルが治療者,

C

l.の両者との関係の中でも表現されていたことが伺 える。そして,そのかかわり方は,

C

l.にとっては,当たり前のかかわり方で あって,そこにある問題については自覚できていない。そのために,

T

h

.

の体 験している内容について言語化することがアクスラインのいう,感情のオウム 返しになり,また,それが,子どもの洞察を促すことができるのである。 受容は,許容や受動という盲従や追従と違い,

C

l.の内的世界とのかかわり であり,表現されている表層のかかわりを意味するものではない。しかも,受 容と共感はひとつのセットとして存在し,切り離して存在することはできない。 子どもの内的世界に共感的であるがゆえに,受容が可能であり, Cl.は共感さ れ,その赤裸々な体験が

T

h

.

によって受け入れられる体験をし,自己肯定感 が生まれる。そして,その関係の中で

C

l.の体験が認められる体験を積み重ね ていくことになる。「初期の養育関係に情緒応答性が欠如すると,経験の制約 や後の自己愛的人格障害の発達という危険につながるようである。他方,初期 の養育関係において不適切で過剰な情緒が生じた場合(特に敵意,拒絶,虐 待)情緒の防御や,次の世代で子は親になったとき親役割を果たせないという -168ー非指示的遊戯療法の治療的意味 II(森田)

(19)

障害に見られるような神経症的な葛藤的構造の危険につなが宮。」 これらの認められる体験は,理想的家庭では,母親と子どもとの関係の中で, 子どもが体験し,この肯定的な承認の中で,自我の強化がなされ,他者との関 係においても,その他者の受げ入れ,望ましい形での対人関係を形成する基本 になるものである。その際に,子どもは肯定的な自己イメージを形成し,また, 肯定的内的モデルをつくることができる。また,この形成過程は,初期のCl. Th.の間で,一方的な方向性で行われるのではなく,相互に行われるものであ り,また,その後の,子どもが周囲から十分に受けいれられる体験を繰り返す ことによって,他者との肯定的な受け入れの関係は成長していくことになる。 参考文献 (1) 河野哲也 (2000) rメルロ・ポンティの意味論」 創文社 p176 (2) 同 p181 (3) 同 p196 (4) 同 p94 (5) 同 p125 (6) Alvarez, A.(1992) Live Company: P砂choanalyticPsychotherapy With Autistic, Borderline, Deprived and Abused Chidren 千原雅代,中川純子,平井正三 訳 (2002):こころの再生を求めて 岩崎学術出版社 p101 (7)森田喜治 (2005)対人関係システム 龍谷大学大学院臨床,心理相談室紀要創刊号参照 (8) 丸田俊彦 (2002) 間主観的感性 岩崎学術出版社 p53

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l

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参照

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