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 中央大学論集 第35号 2014年 2 月 はじめに   ﹁ 尖 閣 諸 島 ﹂ 問 題 を 理 解 す る に は、 関 連 す る 歴 史 を あ る 程 度 は 知 っ ておく必要がある。   尖 閣 諸 島 ( 図 1) は、 遠 く 中 国 地 域 明 朝・ 清 朝 の 時 代 に も、 ま た 一 九 四 〇 年 以 降 か ら 現 在 に 至 る ま で も 無 人 島 で あ る が、 日 本 政 府 は 一八九五年一月一四日、日清戦争の末期に領有を決定し、日本人が居 住を開始して一九四〇年まで居住し、生産活動を行なっていた。明朝 と マ ン ジ ュ ( 満 洲 ) 族 清 朝 が 尖 閣 諸 島 の 領 有 を 主 張 し た こ と は な く、 日本人の居住期間およびその後も一九七〇年に至るまで、清朝も中華 民国 (一九一二年樹立) も中華人民共和国 (一九四九年樹立) も、尖閣諸 島について公式に領有を主張したことはまったくなかった。   し か し、 中 華 民 国 ( 台 湾 ) と 中 華 人 民 共 和 国 は 一 九 七 〇 年 か ら 領 有 権を主張し始め、 中華人民共和国政府は現在、 ﹁日本が釣魚島を盗んだ﹂ と 非 難 し て い る。 ﹁ 盗 ん だ ﹂ と 言 う な ら、 尖 閣 諸 島 は 明 朝・ 清 朝 の も のであったことが論証されなければならないの だが、そのような論拠 は あるのだろうか。

 

尖閣諸島問題をめぐる歴史

  筆者は当初、 ﹁尖閣問題総論﹂ (はじめに、 Ⅰ.尖閣諸島問題をめぐる歴史、 Ⅱ. ﹁尖閣諸島 中国領﹂ 論の系譜、 Ⅲ.党国家主義と ﹁近代国家﹂ の枠組、 Ⅳ. 日本のマスコミ論調と尖閣シミュレーション、 Ⅴ. 結論、 Ⅵ. 尖閣関連参考文献、 Ⅶ.尖閣関連資料) を発表するつもりだったが、分量等の関係で一度に まとめて出すことが不可能になった。本稿は、そのⅠの部分である。 Ⅱ の 一 部 (﹁ 二 一 世 紀﹃ 中 国 ﹄ エ ピ ゴ ー ネ ン﹃ 尖 閣 ﹄ 論 批 判 ﹂) は 中 央 大 学 図1 南西諸島 沖縄県立図書館史料編集室編集『沖縄県史資 料編Ⅰ民事ハンドブック 沖縄戦Ⅰ(和訳 編)』(那覇出版社 1995年3月)

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中 央 大 学 論 集 人 文 研 紀 要 ﹄ ( 二 〇 一 四 年 一 〇 月 出 版 予 定 ) に 発 表 す る の で、 参 照 さ れ たい。     な お、 引 用 文 中 の ︹   〕 内 は 斎 藤 に よ る 注 で あ り、 引 用 文 中 そ の 他 のゴチ・ルビも斎藤による。 1.琉球国・明朝・清朝   日本の本州・九州と南西諸島の関係については、七二〇年に完成し たとされる﹃日本書紀﹄の卷第二十二﹁推 す い こ 古天皇   豊 と よ み け か し き や 御食炊屋 姫 ひめの 天 すめら 皇 みこと ﹂に次の記載がある。現代語訳で見てみよう。    ﹁二十四年 ︹西暦六一六年〕 春一月に桃・李 すもも の実がなった。     三 月、 掖 や く 玖 ( 屋 久 島 ) 人 が 三 人 帰 化 し て き た。 五 月、 屋 久 島 の 人 が七人帰化した。秋七月、また屋久島の人が二十人来た。前後合せ て 三 十 人。 す べ て 朴 井 ( 岸 和 田 辺 か ) に 住 ま わ さ れ た が、 帰 郷 を 待 た ず 皆 死 ん で し ま っ た ﹂ ( 宇 治 谷 孟﹃ 日 本 書 紀( 下 )﹄ 一 〇 八 頁   講 談 社   一九八八年八月) 。     ﹁二十八年秋八月、 屋久島の人が二人、 伊豆の島に漂着した﹂ (﹃日 本書紀(下) ﹄一一〇 頁) 。   浦野起 たつ 央 お は、 ﹁掖玖人﹂ を ﹁琉球人﹂ としているが (﹃ ︻増補版︼ ︻分析 ・ 資 料・ 文 献 ︼ 尖 閣 諸 島・ 琉 球・ 中 国 ︱︱ 日 中 国 際 関 係 史 ﹄ 八 七 頁   三 和 書 籍   二〇〇五年五月) 、﹁掖 や く 玖﹂ と読むなら宇 う じ 治谷 たに 孟 つとむ 訳のように ﹁屋久島人﹂ とするのが正しいのだろう。ただ、 ﹁掖﹂の音は﹁えき、 やく﹂であり、 ﹁玖﹂の音は﹁きゅう、く﹂なので、 ﹁掖玖﹂が﹁屋久島﹂のみを指し たかどうか、あるい琉球を指した可能性があるのかどうかなどは検討 の余地がある。   江戸時代の儒学者、 新井白石 (源君 きん 美 み ) も、 ﹃南島志﹄ で ﹃隋書﹄ に ﹁夷 邪 久 国 人 ﹂ と い う 記 述 が あ る こ と、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ に﹁ 掖 や く 玖 ﹂ と あ る こ とを引き、 それは ﹁琉求 (琉球) ﹂ のことであると記している。 ﹃南島志﹄ 現代語訳者の原田禹 のぶ 雄 お は、真境名安興の﹃沖縄一千年史﹄が﹁掖 や く 玖﹂ は﹁ 琉 求 ﹂ と 書 い て い る こ と を 訳 文 の 注 に 記 載 し て い る (﹃ 新 井 白 石   南島志   現代語 訳﹄   榕 樹社   一九九六年四月) 。   続 く﹃ 日 本 書 紀 ﹄ 卷 第 二 十 三﹁ 舒 明 天 皇   息 おき 長 なが 足 たらし 日 ひ 広 ひろ 額 ぬかの 天 すめら 皇 みこと ﹂ の﹁元年﹂ (六二九年) には、次の記載がある。     ﹁ 夏 四 月 一 日、 田 た べ の 辺 連 むらじ を 掖 や く 玖 ( 屋 久 島 ) に 遣 わ し た。 こ の 年、 太 歳己丑﹂ (﹃日本書紀(下)一〇八頁﹄ ) 。     ﹁三年春二月十日、 掖 や く 玖の人が帰化した﹂ (﹃日本書紀 (下) 一二八頁﹄ ) 。   以後、南西諸島からの入貢や帰化が続き、七三五年、太 だ 宰 ざい 府 ふ は南島 に遣使を送り、標識を建設したという (浦野八七頁、八九頁) 。   日本の本州・九州と南西諸島の間には、古くから連絡・往来があっ たのだということがわかる。中国地域では、隋 ずい 王朝が滅び、唐 とう 王朝が 興起した頃である。   地理概念と国家概念の区別    中国地域には、いくつもの集団︱︱ それは便宜的に﹁民族﹂と呼ばれる︱︱がさまざまな王朝を建ててき た。 周 しゅう 王 朝 は 羌 きょう 人 ( チ ベ ッ ト 系 ) と さ れ る し 、 中 国 地 域 最 初 の﹁ 統 一 帝国﹂と呼ばれる秦王朝も中原の部族集団ではなく、 ﹁西 せい 戎 じゅう ﹂集団だっ た。隋王朝・唐王朝も一部鮮 せん 卑 ぴ 系とされる。宋 そう 王朝も一部テュルク系 沙 さ 陀 だ 族の可能性があり、元 げん 王朝はモンゴル王朝であり、元朝を倒した の は﹁ 漢 族 ﹂ と 呼 ば れ る 集 団 の 明 王 朝 で あ っ た が、 ﹁ 漢 族 ﹂ と は、 と らえどころのないファジーな集団である。この明朝を倒したのは、マ ン ジ ュ ( 満 洲 ) 族 の 清 王 朝 だ っ た。 清 朝 は﹁ 漢 族 ﹂ に と っ て は 異 民 族 だ っ た の で、 ﹁ 反 満 ﹂ 意 識 が 形 成 さ れ、 辛 亥 革 命 ︱︱﹁ 中 華 ﹂ 民 国 の

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 樹 立 に つ な が っ て ゆ く こ と に な る。 と こ ろ が、 ﹁ 近 代 国 家 ﹂ 概 念 ( 中 華民国、 中華人民共和国) としての ﹁中国﹂ を地理概念としての ﹁中国﹂ と混同して﹁近代国家﹂中国の領域は﹁固有の中国の領土﹂と思いこ ん で い る 場 合 が 少 な く な い こ と は 注 意 を 要 す る ( 斎 藤 道 彦﹃ ア ジ ア 史 入 門﹄   白帝社   二〇一〇年一〇月) 。   ﹃ 隋 書 ﹄ に よ れ ば、 隋 朝 の 煬 よう 帝 だい の 臣 朱 寛 が 六 〇 七 ( 大 業 三 ) 年 と 六 〇 八 年 に﹁ 流 求 ﹂ に 至 っ た。 浦 野 は、 ﹁ 流 求 ﹂ は﹁ 琉 球 ﹂ を 指 す と し て い た ( 浦 野 八 七 頁 ) 。﹃ 隋 書 ﹄ の﹁ 流 求 ﹂ は﹁ 台 湾 ﹂ を 指 す と す る 説 が 中 国 史 学 会 で は 主 流 で あ る が、 ﹃ 大 明 一 統 志 ﹄ ( 李 賢 等 奉 勅 撰・ 長 沢 規 矩 也・ 山 根 幸 夫 編﹃ 和 刻 本 大 明 一 統 志 ﹄  汲 古 書 院   一 九 七 八 年 一 一 月 ) に よ れ ば、 隋 の 大 業 年 間 ( 六 〇 五 ~ 一 六 ) に﹁ 琉 球 ﹂ に 人 を 派 遣 し た こ と が あ り、 ﹁ 本 朝 ( 明 ) の 洪 武 年 間 ( 一 三 六 八 ~ 九 八 ) に こ の 国 ︹ 琉 球 〕 は 三 つ に 分 か れ て、 中 山 王、 山 南 王、 山 北 王 に な っ た ﹂、 と ﹃ 隋 書 ﹄ の 記 述 を﹁ 琉 球 ﹂ ( 沖 縄 ) と 解 し て お り、 こ こ か ら は﹁ 琉 球 ﹂ ( 沖 縄 ) だということになるが、ここでは二説あるという理解でよいだろう。   台湾には王朝は成立しなかったが、沖縄には王朝が成立した。琉球 国 ( 琉 球 王 国 と も 呼 ば れ る ) が 成 立 し た の は、 一 一 八 七 年 ご ろ、 舜 天 が 中山 (沖縄本島中部) の中山王に即位したのが始まりとされる。   一 四 世 紀 中 頃 に は、 沖 縄 本 島 に 北 山 ( 山 北 ) ・ 中 山・ 南 山 ( 山 南 ) と いう三王国が成立した。 明朝期   明 朝 ( 一 三 六 八 ~ 一 六 四 四 ) の 洪 武 帝 ( 在 位 一 三 六 八 ~ 一 三 九 八 ) は、 北 山 ( 山 北 ) ・ 中 山・ 南 山 ( 山 南 ) の 三 者 に 王 号 を 送 り、 中 山 王 は 一三七二年に初めて明朝に入貢した。三王国は、 明の朝貢国となった。   明 朝 は、 一 四 〇 四 年 に 初 め て 冊 封 使 を 送 っ て き た。 中 山 の 按 あ じ 司 ( 領 主) 尚 しょう 巴 は 志 し (一三七二~一四三九) は一四二九年頃、 三王国を統一し、 琉球国を成立させた。琉球の人々は当然、明朝の冊封使船が来るは る か 以前から尖閣諸島を知っていたに違いない。近年の研究によれば、 沖縄人は縄文人であるという。   琉球から明朝への進貢船は当初、一年一貢とされ、のちには二年一 貢とされた。琉球王朝は、進貢船のほかに接貢船、接封船、謝恩船、 慶賀使船、護送船などを送り、使船は明代に一七一回送られ、明朝は 冊封船を一五回、 清朝は八回、 合計五〇〇年間に二三回送ってきた (尾 崎 重 義﹁ 尖 閣 諸 島 の 帰 属 に つ い て ﹂  国 立 国 会 図 書 館 調 査 立 法 考 査 局﹃ レ フ ァ レンス﹄第二五九号、 第二六一号、 第二六二号、 第二六三号   一九七二年八月、 一〇月、一一月、一二月) 。   足 あ し か が 利 義 教 は 一 四 四 一 年、 薩 さ つ ま 摩 の 島 津 忠 国 に 琉 球 国 を 与 え た ( 浦 野 八八頁、九四頁) 。   一方、 琉球が初めて明朝に進貢使を派遣したのは、 一三七二 (洪武五) 年であり、 一八七九 (明治一二) 年まで続き、 計二四一回にのぼった (浦 野 五 四 ~ 五 五 頁 ) 。 明 朝・ 清 朝 か ら の 琉 球 冊 封 使 の 琉 球 渡 来 は、 明 朝 時 代 に一五回ないし一六回、清朝時代に八回、計二三回ないし二四回で あ った。   明 の 永 楽 帝 ( 一 三 六 〇 ~ 一 四 二 四 ) は、 雲 南 出 身 の ム ス リ ム ( イ ス ラ ー ム 教 徒 ) で 宦 か ん が ん 官 の 鄭 てい 和 わ ( 一 三 七 一 ~ 一 四 三 四 頃 ) に 一 四 〇 五 年 か ら 一 四 三 三 年 に か け て 七 回、 南 海 大 航 海 を 行 な わ せ た (﹃ ア ジ ア 史 入 門 ﹄ 一六六頁) 。この船団が尖閣諸島を見たなどと言っているものもあるが、 鄭和がわざわざ尖閣諸島近辺を通過したなどということは遠回りなの だから、当然ありえない。

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中 央 大 学 論 集   薩摩藩の島津家久は江戸時代の一六〇九年四月五日、琉球国を制圧 し た ( 浦 野 九 五 頁 ) 。 一 方、 琉 球 は 明 朝・ 清 朝 を 宗 主 国 と し た (﹃ ア ジ ア 史入門﹄二二五頁) 。   清朝時期 (一六四四~一九一一)   マンジュ (満洲) 族清朝の康 こ う き 煕帝 てい (一六五四~一七二二) は一六八三年、 澎 ほ う こ 湖諸島を攻撃し、 ついで台湾の鄭 てい 氏を降伏させ、 翌一六八四年、 ﹁福 建省﹂の管轄下に﹁台湾府﹂を設置した (﹃アジア史入門﹄一七九頁) 。   一八四四年、 フランス船が琉球に来航し、 通商を求めた (浦野三九頁) 。   一八四五年六月、イギリス軍艦サマラン号が尖閣諸島海域を測量し た (浦野三九頁) 。   一 八 五 三 年 六 月 三 日、 ﹁ 黒 船 ﹂ で 幕 末 の 日 本 に 現 れ た ア メ リ カ 東 イ ン ド 艦 隊 司 令 官 マ シ ュ ー・ カ ル ブ レ イ ス・ ペ リ ー ( Matthew Calbraith Perry ) が 一 八 五 四 年 六 月、 琉 球 に 現 れ、 七 月 一 一 日、 修 好 条 約 を 締 結した (浦野三九頁、九九頁) 。   徳川幕府時代の尖 閣諸島調査としては、美里間 ま 切 ぎり の役人大城永保が 一八五九年に久米赤島・久場島・魚釣島の地勢・植物・鳥類を探査し た (浦野三九頁、四〇頁、一二八頁) 。   徳 川 時 代 に お け る 琉 球 の 謝 恩 使 上 京 は 、二 〇 回 に 達 し た ( 浦 野 八 七 頁 ) 。   明治維新 (一八六八年) 以後   日 本 政 府 は 一 八 七 一 ( 明 治 四 ) 年、 ﹁ 琉 球 国 ﹂ を 鹿 児 島 県 に 編 入 し、 一 八 七 二 ( 明 治 五 ) 年、 ﹁ 琉 球 藩 ﹂ を 設 置 し て 外 務 省 直 轄 と し、 琉 球 国 王尚泰を琉球藩主とした (浦野一〇四頁) 。   日 本 海 軍 は 一 八 七 三 ( 明 治 六 ) 年、 琉 球・ 台 湾 海 域 を 測 量 し た が、 尖閣諸島海域には及んでいなかった (浦野三九頁) という。   日本政府は一八七三年三月、久 く 米 め ・宮 み や こ 古・石 いしがき 垣・西 いりおもて 表・与 よ な く に 那国の五 島に国旗掲揚を命じた (浦野一〇四頁) 。   一八七三年作成の柳樽悦編﹃台湾水路誌﹄は、イギリス版﹃シナ水 路誌﹄の抄訳で、尖閣諸島に関する記述があり、魚釣島は﹁甫亜賓斯 島 ( ホ ア ビ ン ス ) ﹂、 南 小 島 と 北 小 島 は ﹁ 尖 閣 島 ( ピ ン ナ ッ ク ル ) ﹂、 黃 こう 尾 び 嶼 しょ は﹁ 地 亜 烏 斯 島 ( チ ア ウ ス ) 、 赤 せき 尾 び 嶼 しょ は 刺 例 字 島 ( ラ レ イ ジ ) ﹂ と な っ ていた (浦野七六頁) 。これによれば、 英語 pinnacle の訳語に発する ﹁尖 閣 ﹂ と い う 名 称 が 用 い ら れ て い る が、 ﹁ 魚 釣 島 ﹂ の 名 称 は ま だ 用 い ら れていない。   一 八 七 四 ( 明 治 七 ) 年、 琉 球 は 日 本 政 府 内 務 省 の 管 轄 と な っ た (一九七〇年九月一七日﹁琉球政府声明﹂ 。浦野七五頁、二二八頁) 。   一 八 七 四 年 一 〇 月 の 海 図﹁ 清 国 沿 海 諸 省 図 ﹂ は、 ﹁ イ ギ リ ス 人 が 書 いた清国沿海図および清人が編算した大清一統図﹂によったもので、 朝鮮 ・ 琉球群島 ・ 米亜哥列島 (宮古) とともに、 ﹁和平山﹂ (魚釣島) ・﹁黃 尾嶼﹂ (久場島) ・﹁赤尾嶼﹂ (大正島) が画かれていた (浦野七六頁) 。   一八七五 (明治八) 年三月、 琉球の尚泰王が清朝に進貢使を派遣した。 日本政府は七月一四日、冊封停止措置をとった (浦野六三頁) 。   伊 地 知 知 貞﹃ 沖 縄 志 ﹄ ( 一 八 七 七 年 ) に は、 尖 閣 群 島・ 釣 魚 台 等 の 記 載 は な か っ た ( 楊 仲 揆﹃ 中 国・ 琉 球・ 釣 魚 台 ﹄ 一 四 八 頁   香 港   友 聯 書 報 発 行公司   一九七二年五月) 。   日 本 陸 軍 参 謀 局 の 木 村 信 卿 編﹁ 大 日 本 全 図 ﹂ ( 一 八 七 七 年 ) に は、 尖 閣諸島は記入されていない (浦野七七頁) 。   明 治 政 府 は さ ら に 一 八 七 九 ( 明 治 一 二 ) 年 四 月 四 日、 ﹁ 琉 球 藩 ﹂ を 廃 止 し て﹁ 沖 縄 県 ﹂ を 設 置 し、 本 格 的 測 量 が 開 始 さ れ た ( 浦 野 三 九 頁 ) 。 清 朝 は、 ﹁ 沖 縄 県 ﹂ の 設 置 に 抗 議 し た が、 沖 縄 の 帰 属 問 題 は 日 清 戦 争 ( 一 八 九 四 ~ 一 八 九 五 ) に よ っ て 決 着 し た。 ﹁ 決 着 ﹂ と は、 そ の 後、

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 一八九五年から一九四五年まで六〇年間にわたって、清朝も中華民国 も中華人民共和国もそれを問題にしたことはなかったということであ る。   し か し 当 時、 清 国 が﹁ 抗 議 ﹂ し た と い う こ と は、 琉 球 は 清 国 の も の と い う 領 有 権 の 主 張 に つ な が る 可 能 性 を 含 ん で い た。 琉 球 は、 江 戸 時 代 に 薩 摩 に 服 属 す る 一 方、 清 朝 と の 間 に 朝 貢・ 冊 封 関 係 が あ っ たことがその根拠だが、すでにアヘン戦争に敗北して南京条約が結ば れ ( 一 八 四 〇 ~ 一 八 四 二 年 ) 、 清 仏 戦 争 ( 一 八 八 四 ~ 一 八 八 五 年 ) に 敗 北 し て ベ ト ナ ム が フ ラ ン ス の 植 民 地 と な り、 イ ギ リ ス が ビ ル マ を 領 有 し ( 一 八 八 五 ~ 一 八 八 六 年 ) 、 さ ら に 日 清 戦 争 後 に は 朝 鮮 が﹁ 独 立 ﹂ に 向 か うという﹁中華秩序﹂の崩壊過程に見られるように、歴史が大きく前 近代から近代に転換してゆく中にあって、琉球の清朝への服属関係の 維持・確認を求める清朝の要求はアナクロニズムでしかなかった。   一 八 七 九 年 の 柳 田 赳 編﹁ 大 日 本 全 図 JAPAN ﹂ に は 尖 閣 諸 島 の ﹁ 和 平 山 Wahensan ﹂ ( 魚 釣 島 ) ・﹁ 黄 尾 嶼 ﹂ ( 久 場 島 ) が 日 本 領 土 と し て 記 入 さ れ た ( 浦 野 三 九 頁 ) 。 こ の ほ か、 ﹁ 凸 山 Nakadaka San ﹂ ( 南 小 島、 北 小 島などの総称) 、﹁嵩 す う び し ょ 尾嶼﹂ (赤尾嶼、 大正島) の名があった (浦野七六頁) 。   一 八 七 九 年 の 松 井 忠 兵 衛 編﹁ 大 日 本 全 県 図 ﹂ 英 文 版 で も、 ﹁ 和 平 山 Wahensan ﹂ (魚釣島) ・﹁黄尾礁﹂ (久場島) ・﹁嵩尾嶼﹂ (赤尾嶼、大正島) ・ ﹁凸島﹂が日本の版図の中にあった (浦野七六~七七頁) 。   一八七九年日本内務省地理局刊行﹁大日本府県管轄図﹂には、琉球 諸島の中に尖閣諸島があり、魚釣島は﹁花 か へ い 瓶島﹂の名で出てくる。そ れは、 Hoa-pin-sun の翻訳だった (浦野七七頁) 。   「 琉 球 分 島 案 」   一 八 八 〇 ( 明 治 一 三 ) 年、 琉 球 帰 属 を め ぐ る 日 清 間の対立について、日本が清国における通商権を得るかわりに、琉球 列島を日本領と清朝領に分ける﹁二分島案﹂ないし①宮 み や こ 古・八 や え や ま 重山両 島 を 清 国 に 割 譲 す る、 ② 沖 縄 本 島 は 独 立 国 と し 日 清 両 属 と す る、 ③ 奄 あま 美 み 群 島 は 日 本 領 と す る と い う﹁ 三 分 島 案 ﹂ が 提 案 さ れ、 二 分 案 で い っ た ん 合 意 し た が、 清 国 側 の 反 対 で 流 れ た ( 西 里 喜 行﹁ 琉 球 分 割 交 渉 と そ の 周 辺 ﹂  琉 球 新 報 社 編﹃ 新 琉 球 史 ︱ 近 代・ 現 代 編 ﹄ 所 収   琉 球 新 報 社   一九九二年一二月。浦野一一九~一二〇頁) 。   日本政府内務省地理局 ﹁大日本全図﹂ (一八八〇年、 一八八一年) には、 尖閣諸島は記入されていない (浦野七七頁) 。   日 本 の 地 図 と し て は、 尖 閣 諸 島 が 日 本 領 の 中 に 記 入 さ れ る の は 一八七九年~一八八一年が転換点になっているようである。   奥原敏雄によれば、 一八八一 (明治一四) 年の﹁大日本府県分轄図﹂ に は 沖 縄 県 の 中 に 尖 閣 列 島 を 含 め て い る (﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビ ュ ー﹄ 通 巻 一 〇 号 夏 季 号・ 一 九 七 二 年 第 二 号 ) 。 楊 仲 揆 も、 尖 閣 群 島 と い う 用 語 は お そ ら く 明 治 一 四 年 ︹ 一 八 八 一 年 〕 に 内 務 省 地 理 局 編 印 の﹁ 大 日 本 府 県 分 割図﹂ で初めて用いられた (一九七〇年八月二二日 ﹃中央日報﹄ ) と言っ て い る。 浦 野 起 たつ 央 お に よ れ ば、 一 八 八 一 ( 明 治 一 四 ) 年 の﹁ 大 日 本 府 県 管 轄 図 ﹂ の 沖 縄 県 図 に は、 ﹁ 魚 釣 島 ﹂ と﹁ 黄 こ う び 尾 嶼 しょ ﹂ ( 久 く ば 場 島 ) が 記 入 さ れ て い る ( 浦 野 七 七 頁 ) 。﹁ 魚 釣 島 ﹂ の 名 が 地 図 に 用 い ら れ る の は、 こ れが初めてであろうか。以上の﹁大日本府県分轄図﹂ ・﹁大日本府県分 割図﹂ ・﹁大日本府県管轄図﹂は、同じものだろう。   福 岡 県 八 や め 女 郡 の 古 こ が 賀 辰 たつ 四 し 郎 ろう は 一 八 八 四 ( 明 治 一 七 ) 年 三 月、 大 阪 商 船﹁ 永 康 丸 ﹂ で 尖 閣 諸 島 を 探 検 し、 ﹁ 黄 尾 嶼 ﹂ に 上 陸 し た。 以 後、 古 賀 は 石 垣 島 を 根 拠 地 と し て 尖 閣 諸 島 で ア ホ ウ 鳥 の 羽 毛 や 魚 介 類 の 採 取、 鰹 かつおぶし 節 の 製 造 な ど に 従 事 し た。 古 賀 は 一 八 八 五 ( 明 治 一 八 ) 年、 ﹁ 黄 尾嶼﹂の開拓許可を沖縄県令に申請した (浦野一二八頁、一三一頁) 。

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中 央 大 学 論 集   一八八四年一〇月一日、フランス軍は一八六三年に開港された台湾 の基 キー 隆 ルン を占領したが、一八八五年に撤収した。   日本政府内務省は一八八五年一月、沖縄県令西村捨三に命じて尖閣 諸島の現地調査をさせた (浦野一二八頁) 。   沖縄県職員石沢兵吾は一八八五年九月二一日、 ﹁久米赤島﹂ ・﹁魚釣島﹂ の調査を行ない、 一一月四日、 報告書を提出した (浦野四〇頁、 一二九頁) 。   沖縄県令西村捨三は一八八五年九月二二日、内務卿あて上申書で、 一〇月に﹁出 い ず も 雲丸﹂が帰ってくるので、これを使って﹁とりあえず実 地 踏 査 ﹂ し、 そ の 結 果 を ご 報 告 す る の で、 ﹁ 国 標 取 り 建 て 等 の 儀 な お 御指揮を請いたく﹂と上申した。   沖縄県令は一八八五年一〇月二一日、出雲丸による尖閣諸島の実地 調査を行ない、 一一月二日、 調査報告を提出した (浦野四〇頁、 一三〇頁) 。   久 米 慶 長﹃ 沖 縄 県 管 内 全 図 ﹄ ( 一 八 八 五 年 ) に は﹁ 魚 釣 島 ﹂ の 記 載 が あるが、同年の﹃沖縄、宮古 八重山諸島地質見取図﹄には釣魚島・尖 閣 群島の記載はない (楊仲揆﹃中国・琉球・釣魚台﹄一四八頁) 。   賀田貞一編 ﹁日本沖縄宮古八重山諸島見取図﹂ (一八八五年) には、 ﹁魚 釣島﹂と﹁黄尾嶼﹂が記入されている (浦野七七頁) 。   海 軍 水 路 部 は 一 八 八 六 年 三 月、 ﹃ 寰 か ん え い 瀛 水 路 誌 ﹄ に 尖 閣 諸 島 に 関 す る 調査結果を発表した (﹃朝日アジアレビュー﹄一九七二年夏号) 。   一八八六 (明治一九) 年の下村孝光編 ﹁大日本測量全図並五港之全図﹂ に は、 ﹁ 和 平 山 ﹂ ( 魚 釣 島 ) ・﹁ 凸 列 島 ﹂ ( 南・ 北 二 小 島 な ど ) ・﹁ 黄 尾 礁 しょう ﹂ ( 久 く ば 場 島 ) ・﹁ 嵩 すう 尾 嶼 ﹂ ( 赤 せ き び し ょ 尾 嶼、 大 正 島 ) の 記 載 が あ る ( 浦 野 七 七 頁 ) 。 吉 川秀吉編﹁洋語挿入大日本與地図﹂も、同じである (浦野七七頁) 。   日 本 軍 艦﹁ 金 剛 ﹂ は 一 八 八 七 ( 明 治 二 〇 ) 年 八 月、 日 本 軍 艦﹁ 海 門 ﹂ は 一 八 九 二 ( 明 治 二 五 ) 年 八 月 に 尖 閣 諸 島 に 対 す る 本 格 的 な 調 査 を 行 な っ た (﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビ ュ ー﹄ 。 浦 野 七 七 頁 、 一 三 一 頁 ) 。 た だ し、 二 〇 一 二 年 四 月﹁ 台 湾 外 交 部 条 約 法 律 司 文 書 ﹂ は、 ﹁ 海 門 ﹂ に よ る 調 査は中止され、行なわれなかったと指摘しているが、わたしは確認で きていない。   清朝は、 日清戦争開始八年前の一八八六年、 ﹁台湾府﹂を﹁台湾省﹂ に昇格させた (﹃アジア史入門﹄一七九頁) 。   一八八八 (明治二一) 年の海図 ﹁日本︱︱自鹿児島海湾至台湾﹂ には、 ﹁ 魚 釣 島 ﹂・ ﹁ 尖 閣 群 島 ﹂ の 記 入 が あ る ( 浦 野 七 七 頁 ) 。 こ こ で も、 ﹁ 尖 閣 群島﹂の名が用いられている。   沖縄県知事は一八九〇年一月一三日、内務大臣に標杭建設を再度上 申した (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   一 八 九 〇 ( 明 治 二 三 ) 年 の 嵯 峨 野 彦 太 郎 編﹁ 大 日 本 全 図 ﹂ で は、 魚 釣島は花瓶島となっている (浦野七七頁) 。   一 八 九 一 年 ( 明 治 二 四 年 ) 、 伊 沢 矢 喜 太 ( 熊 本 県 ) が 沖 縄 漁 民 と と も に魚釣島・久場島に渡り、海産物とアホウ鳥の鳥毛を採取したが、気 象条件などのため、 長くはとどまれず、 石垣島にも どった (奥原敏雄 ﹁尖 閣列島と領有権帰属問題﹂   ﹃朝日アジアレビュー﹄一九七二年第二号) 。   一 八 九 三 年 ( 明 治 二 六 年 ) 、 花 本 某 ほ か 三 名 の 沖 縄 漁 民 が 永 井・ 松 村 某 ( 熊 本 県 ) と 久 場 島 に 赴 い た が、 食 料 が 尽 き て 失 敗 し た (﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビ ュ ー﹄ ) 。 同 年、 伊 沢 矢 喜 太 が 再 び 渡 島 し、 採 集 に 成 功 す る が、 帰路、 台風に会い、 中国大陸の福州に漂着した。同年、 野田正 (熊本県) ら二〇人近くが魚釣島・久場島に伝馬船で向かったが、風浪のため失 敗した (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   一八九三年、永井喜右衛門太・松村仁之助が黄尾嶼でアホウ鳥の羽 毛を採取した。同年、伊沢矢喜太が魚釣島・久場島でアホウ鳥の羽毛

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 を採取した (浦野一三一頁) 。   沖縄県知事は一八九三年、内務大臣に尖閣諸島の所轄決定と標杭建 設について三度目の上申を行なった。 2.日本の尖閣諸島領有から東アジア太平洋戦争終結まで    (一八九五年~一九四五年) 2―1.明治後期/清朝時代   日 清 戦 争 ( 一 八 九 四 ~ 九 五 年 )    朝 鮮 で は 東 学 党 の 乱 ( 一 八 九 四 年 ) が発生し、朝鮮王朝は清朝に出兵を要請した。日本は、朝鮮王朝の出 兵 要 請 に 応 じ た 清 朝 の 朝 鮮 に 対 す る 出 兵 が、 天 津 条 約 ( 一 九 八 五 年 ) が規定した朝鮮出兵のさいはお互いに相手国に事前に通知するという 日清間の取り決めに対する違反であることを咎めて、朝鮮に出兵し、 日 清 戦 争 ( 中 国 名 甲 午 戦 争 ) が 開 始 さ れ た。 日 清 戦 争 は、 主 と し て 朝 鮮をめぐる日清間の対立が戦争に発展したものなので、日本による清 朝 に 対 す る 侵 略 戦 争 と し て 始 め ら れ た も の で は な く、 ま た 日 本 が 一 方 的 に﹁ 発 動 ﹂ し た わ け で も な か っ た。 日 本 陸 軍 は、 朝 鮮 の 牙 が ざ ん 山 で 清 朝 軍 を 破 り、 戦 線 を 広 げ、 マ ン ジ ュ ( 満 洲 ) の 遼 東 半 島 か ら 遼 西 に 兵 を 進 め た。 日 本 海 軍 は 、 清 朝 北 洋 艦 隊 を 壊 滅 さ せ、 一 八 九 五 ( 明 治 二八) 年二月、山東半島の威 い 海 かい 衛 えい を占領した。   日 本、 尖 閣 諸 島 領 有    日 本 政 府 は 一 八 九 五 ( 明 治 二 八 ) 年 一 月 一 四 日、 尖 閣 諸 島 を 領 有 し、 国 標 を 建 て る こ と を 閣 議 決 定 し た ( 国 立 公 文 書 館 所 蔵。 高 橋 和 夫﹃ い ま 知 り 学 び た い 日 本 の 領 土 と 領 海 ﹄  日 本 文 芸 社   二 〇 一 二 年 一 一 月 ) 。 こ の 決 定 は、 ﹃ 官 報 ﹄、 新 聞 各 紙 に は 掲 載 さ れ て いない。   日本政府は一月二一日、沖縄県知事に対し、一月一四日の閣議決定 に基づいて尖閣諸島に標杭を建設すべく指令した。   こ の 閣 議 決 定 で、 言 及 さ れ て い た の は 魚 釣 島 と 久 場 島 ( 黄 尾 嶼 ) だ け だ っ た ( 豊 下 楢 彦﹃ ﹁ 尖 閣 問 題 ﹂ と は 何 か ﹄ 五 九 頁   岩 波 書 店   二 〇 一 二 年一一月) 。続く沖縄県八 や え や ま 重山郡への編入措置にも、赤 せ き び し ょ 尾嶼は含まれて いなかった (豊下五九頁) という。   李鴻章狙撃    日清交渉の清朝代表・李鴻章は一八九五年三月二四 日、談判所春帆楼から宿舎に帰る途上、凶漢にピストルで 撃たれ、顔 面 左 眼 下 を か す め ( 一 八 九 五 年 三 月 二 八 日﹃ 都 新 聞 ﹄) 、 負 傷 す る と い う 不 祥 事 が 発 生 し、 犯 人 は そ の 場 で 取 り 押 さ え ら れ た ( 一 八 九 五 年 三 月 二五日﹃都新聞﹄ ) 。李鴻章は、一命を取りとめた。李鴻章狙撃の犯人 ・ 小山豊太郎は一八九五年三月三〇日、山口地方裁判所において﹁無期 徒刑﹂の判決を受けた (一八九五年四月二日﹃都新聞﹄ ) 。   日清両国は一八九五年三月三一日、 ﹁休戦定約﹂ を公布した (一八九五 年四月二日﹃都新聞﹄ ) 。   李鴻章の息子の李経方 (日本の新聞では ﹁芳﹂ ) は、 李鴻章全快まで ﹁談 判 代 辨 ﹂ の 電 命 を 受 け ( 一 八 九 五 年 四 月 二 日﹃ 都 新 聞 ﹄) 、 四 月 七 日、 全 権大臣に任命された (一八九五年四月九日﹃都新聞﹄ ) 。   馬 ば か ん 関 ( 下 しものせき 関 ) 講 和 条 約    日 本 と 清 朝 は 一 八 九 五 年 四 月 一 七 日、 馬 関 (下関) で講和条約を結んだ。この条約で、 日本は清朝に遼東半島 ・ 台湾・澎 ほ う こ 湖諸島を﹁割与﹂させた (﹃アジア史入門﹄ ) 。    * わたしは、認識不足から﹃アジア史入門﹄で﹁日本呼称下関条 約 、 中国呼称馬関条約﹂と書いたが、 当時、 日本では地名は﹁馬 関﹂とも﹁下の関﹂とも呼ばれていた。やや不正確であったの でここで訂正する。しかし現在、日本では﹁下関条約﹂と呼ば れ、中国では﹁馬関条約﹂と呼ばれているという点は間違いで

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中 央 大 学 論 集 はない。   一八九五年五月一〇日 (光緒二一年三月二三日) ﹁勅令﹂ は、 ﹁下の関﹂ で締結された講和条約を公布した (一八九五年五月一六日﹃都新聞﹄ ) 。   台湾・澎湖諸島は一八九五年六月二日、日本に引き渡された。この 間の経緯において、日清どちらの側も尖閣諸島には言及しておらず、 尖閣諸島は﹁割与﹂対象には入っていなかった。日本が台湾・澎湖諸 島の﹁割与﹂を認めさせたことは、当時の戦争処理の慣例に基づくも のではあったが、今日の視点から言えば、帝国主義的行為であったと 言えよう。   一八九五年の水谷延次編﹁大日本全図﹂は、尖閣諸島を日本の版図 に入れている (浦野七七頁) 。   浦 野 に よ れ ば、 日 本 政 府 は 一 八 九 六 ( 明 治 二 九 ) 年 三 月 五 日﹁ 勅 令 第一三号﹂により﹁尖閣諸島の行政区画﹂を﹁沖縄県八 や え や ま 重山郡尖閣群 島﹂とし、八重山郡に編入し、四月一日施行された。沖縄県知事は、 魚釣島 ・ 久場島 ・ 南小島 ・ 北小島を国有地と決定した (浦野一三三頁) 。   奥原敏雄は、沖縄県知事が一八九六年四月、尖閣諸島を八重山郡に 所属させた (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) とする。   豊下楢彦によれば、魚釣島と久場島の国内法上の領土編入措置が完 了したのは、一八九六年四月一日勅令で﹁八重山郡﹂に編入されたと き で あ る ( 豊 下 五 九 頁 ) と い う。 こ の﹁ 勅 令 ﹂ は、 正 確 に は﹁ 三 月 五 日発布、三月七日﹃官報﹄掲載、四月一日施行﹂である。   井上清は、 ﹁勅令第一三号﹂によって尖閣諸島が﹁八重山郡に所属﹂ し た と い う 点 に つ い て 異 を 唱 え て お り、 ﹁ 勅 令 第 一 三 号 ﹂ に は﹁ 尖 閣 群 島 ﹂ の 名 は 書 か れ て い な い と 主 張 し て い る ( 井 上 清﹃ 釣 魚 諸 島 の 史 的 解 明   ﹁ 尖 閣 ﹂ 列 島 ﹄  一 九 七 二 年 一 〇 月 ) 。﹁ 勅 令 第 一 三 号 ﹂ に 尖 閣 諸 島 が 書かれていないのは事実なのであるが、日本の外務省も法学者たちも その点については特にコメントしていない。   日本政府は一八九六年九月、古賀辰四郎に国有地、尖閣諸島の開拓 許可を与え (一九一〇年一月三日 ﹃ 沖縄毎日新聞﹄ ) 、﹁三〇年間無償貸付け﹂ とした。   古 賀 は 一 八 九 六 年 九 月、 当 初 五 〇 人、 一 八 九 八 年、 五 〇 人、 一八九九年、二九人、一九〇〇年、二二人﹂の労務者を尖閣諸島に派 遣した (山田友二年表、 ﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   古 賀 は 一 八 九 七 ( 明 治 三 〇 ) 年、 尖 閣 諸 島 の 開 発 に 着 手 し、 埠 ふ と う 頭 を 建設し、 カツオ節等海産物加工工場や宿舎を建造した (浦野一三八頁) 。   古賀辰四郎は一八九七年三月、出稼ぎ移民三五名を尖閣諸島に送り こんだ (一九一〇年一月一日﹃沖縄毎日新聞﹄ ) 。   古賀は、 一八九七 (明治三〇) 年から大阪商船 ﹁須磨丸﹂ (一六〇〇トン) をチャーターし (一九一〇年一月三日﹃沖縄毎日新聞﹄ ) 、毎年数十人の季 節労働者を送りこんだ。前記山田年表と少し食い違いがある。   古 賀 は、 農 作 物 も 植 え、 一 九 〇 九 ( 明 治 四 二 ) 年 ま で に 九 九 戸 二 四 八 人 が 移 民 し、 ﹁ 古 賀 村 ﹂ が 生 ま れ た ( 一 九 一 〇 年 一 月 八 日﹃ 沖 縄 毎 日新聞﹄ 、 浦野一三八頁) 。   清 朝 は、 日 清 戦 争 の 敗 北 ( 一 八 九 五 年 ) を う け、 一 八 九 八 年、 近 代 化をめざす﹁戊 ぼ 戌 じゅつ の変法﹂に取り組んだが、わずか百日で﹁戊 ぼ 戌 じゅつ の政 変﹂が起こり、挫折した (﹃アジア史入門﹄ ) 。   台 湾 総 督 府 民 生 部 文 書 課 発 行 の 台 湾 総 督 府 第 一 統 計 書 は 一 八 九 九 年、 彭 ほううかしょ 佳嶼 (アギンコート島) を台湾の極北とした (インターネット﹁ ﹃釣 魚島﹄ 主權不屬中華民國﹂ (中国語正字∧繁体字∨、 日付不詳。中に ﹁二〇一二 年九月一三日﹂の日付が含まれているので、 九月ないし一〇月掲載であろう。

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 二〇一二年一〇月アクセス) 。   古賀は一九〇〇年五月三日~二〇日、尖閣諸島に﹁永康丸﹂を派遣 した。調査団には、古賀依頼の宮島幹之助、校命によって沖縄県立師 範学校教諭黒岩恒、 八重山島司野村道安が参加した (山田友二年表   ﹃朝 日アジアレビュー﹄ ) 。   臨 時 沖 縄 県 土 地 整 理 事 務 局 は 一 九 〇 一 ( 明 治 三 四 ) 年 五 月、 尖 閣 諸 島の実地調査を行なった (浦野一三八頁) 。   ド イ ツ Andress Handatlas 第 四 版 一 四 〇 頁 に は、 釣 魚 嶼・ 花 瓶 嶼 の記載がある (楊仲揆書一四八~一四九頁) 。同じく楊仲揆の言うドイツ ﹁ 考 伯 ﹂ 発 行 の﹁ 標 準 世 界 図 ﹂ ( 一 九 〇 〇 年 ) に は、 ﹁ 尖 閣 群 島 ﹂ の 名 は あるが、島の名は﹁釣魚嶼、花瓶嶼等﹂としている (楊仲揆書一四八~ 一四九頁) 。 Andress   Handatlas とドイツ ﹁考伯﹂ 発行 ﹁標準世界図﹂ は、同じものか?   清朝時代には、台湾島の北側に所在する﹁棉花嶼 しょ ・ 花瓶嶼 ・ 彭佳嶼﹂ の三島は﹁台湾の行 政区域の中に含まれていなかった﹂が、日本統治 下 の﹁明治三四年 ︹一九〇一年〕 か、 あるいは明治三八年 ︹一九〇五年〕 の い ず れ か の 時 点 で 基 隆 庁 の 行 政 範 囲 に 含 め ら れ た よ う で あ る ﹂ ( 尾 崎重義、 ﹃レファレンス﹄ ) という。   こ れ ら 三 島 は 、こ の と き 以 来 、台 湾 に 行 政 的 に 組 み こ ま れ た の で あ る 。   沖 縄 県 は 一 九 〇 二 ( 明 治 三 五 ) 年 一 二 月、 尖 閣 諸 島 を﹁ 石 垣 島 大 浜 間 ま 切 ぎり 登野城村﹂の行政管轄とした。沖縄県は同年同月、臨時土地整理 事務局により列島に対する最初の実地測量を行なうとともに、各島の 正確な縮尺図を作成した。 この測量に基づき、 魚釣島 ・ 久場島 ・ 南小島 ・ 北小島の四島 (国有地) は、 石垣島の土地台帳に正式に記載された (浦 野一三八頁) 。   福 岡 県 鉱 山 監 督 署 は 一 九 〇 七 ( 明 治 四 〇 ) 年 八 月 一 九 日、 古 賀 辰 四 郎に尖閣諸島での燐 りん 鉱採掘願を許可した (浦野一三八頁) 。   熊 本 県 営 林 局 は 一 九 〇 八 ( 明 治 四 一 ) 年 七 月 一 三 日、 尖 閣 諸 島 四 島 の 国 有 林 台 帳 を 沖 縄 県 か ら 引 き 継 い だ ( 浦 野 一 三 八 頁 ) 。 同 年、 ﹁ 沖 縄 県島嶼特別町村制﹂が施行され、尖閣諸島の地番は﹁八 や え や ま 重山村字 あざ 登野 城﹂となった (浦野一三四頁) 。 2―2.大正・昭和/中華民国時代 (一九一二年~一九四五年)   清朝は、 辛 しん 亥 がい 革命によって倒され (﹃アジア史入門﹄ 二四四~二四五頁) 、 一九一二年一月一日成立した中華民国はその後、一九四九年に中国共 産党軍に追われ、台湾に移動したが、それまでの三八年間に尖閣諸島 の領有を主張したことはやはりなかった。   一 九 一 四 ( 大 正 三 ) 年、 八 重 山 村 は 石 垣・ 大 浜・ 竹 富・ 与 那 国 に 四 分割され、 尖閣諸島は ﹁八重山郡石垣村﹂ に編入された (浦野一三四頁) (図2) 。   日本海軍水路部は一九一四年四月、測量船﹁関東丸﹂で尖閣諸島の 実地測量を行なった。日本海軍水路部は一九一五年五月にも、測量船 能野丸で尖閣諸島の実地測量を行なった。日本海軍水路部は一九一七 年にも、尖閣諸島の実地測量を行なった。   奥原敏雄によれば 、一九一五年頃、尖閣諸島への労働者の長期派遣 が 止まった。それは、 ﹁基 キー 隆 ルン の台湾肥料会社へのグアノ (鳥糞) の積出 船価が第一次大戦のため高騰し採算ベースに乗らなくなったことと、 鳥も採集の対象となっていた阿呆鳥が濫獲や猫害等によって極端に減 少 し て し ま っ た か ら ﹂ で あ っ た が、 ﹁ 魚 釣 島、 南 小 島 な ど で の カ ツ オ 節製造、カツオ鳥、アジサシなど海鳥の剥製、森林伐採のための事業

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中 央 大 学 論 集 が継続され、季節労働者が太平洋戦争直前まで列島で働いていた。こ の事業が終止符をうったのは、わが国の石油需要が逼迫し、船舶用燃 料 が 配 給 制 と な り、 事 業 を 困 難 な る も の と し た か ら で あ っ た ﹂ ( 奥 原 敏雄、 ﹃中国﹄一九七一年六月号) という。   ﹁ 現 ︹ 一 九 七 二 年 〕 琉 球 中 央 図 書 館 正 門 に か け ら れ て い る 大 正 五 年 ︹ 一 九 一 六 年 〕 出 版 の﹃ 沖 縄 県 管 内 全 図 ﹄﹂ に は、 釣 魚 台・ 尖 閣 群 島 は 記載されていない (楊仲揆書一四九頁) 。   古賀辰四郎は、一九一八年八月一五日に死去し、その事業は次男の 古賀善 ぜん 次 じ に継承された (浦野一三六頁) 。   「 中 華 民 国 駐 長 崎 領 事 感 謝 状 」   一 九 一 九 ( 大 正 八 ) 年、 中 華 民 国 福建省の漁民三一人が遭難し、魚釣島に漂着した。同島で活動中の古 賀 善 次 ら は 彼 ら を 救 助 し、 中 国 漁 民 た ち は 中 華 民 国 に 送 還 さ れ た ( 奥 原敏雄、 ﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   ﹁ 中 華 民 国 駐 長 崎 領 事 馮 ふ う め ん 冕 ﹂ は 一 九 二 〇 年 五 月 二 〇 日 付 け で、 救 助 に 当 た っ た 石 垣 村 長 豊 川 善 佐・ 古 賀 善 次・ 玉 代 勢 孫 伴 ・ 松 葉 ロ プ ナ ス ト に 対 し、 四 名 そ れ ぞ れ に、 漁 民 三 一 人 が 遭 難 し、 ﹁ 日 本 帝 国 沖 縄 県八重山郡尖閣列島和洋島 ︹魚釣島〕 ﹂に流れ着いたさい、救助してく れたことについて﹁感謝状﹂を出した。奥原敏雄によれば、現存する ものは当時、石垣村雇でその後同村助役となった﹁日本帝国沖縄県八 重 山 郡 石 垣 村 の 雇 主 玉 代 勢 孫 伴 君 ﹂ あ て の﹁ 感 謝 状 ﹂ だ け ( 石 垣 市 資 料 室 保 管、 ﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビ ュ ー﹄ ) と の こ と だ っ た が、 宝 島 本 ( 小 西 健・ 加 藤 直 樹﹃ 決 定 版! 尖 閣 諸 島・ 竹 島 が 日 本 の 領 土 で あ る 理 由 が わ か る 本 ﹄ 一 七 頁   宝 島 社   二 〇 一 二 年 一 〇 月 ) お よ び 高 橋 和 夫 (﹃ い ま 知 り 学 び た い 日本の領土と領海﹄ (三五頁   日本文芸社   二〇一二年) では写真入りで ﹁日 本帝国沖縄県八重山郡石垣村村長豊川善佐﹂あての﹁感謝状﹂が八重 山博物館にあることが明らかにされた。 図2 1918年(大正七年)古賀辰四郎の釣魚台での事業は、その次子、古賀善次に継承された。

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史    「中華民国駐長崎領事の感謝状」   ﹁ 中 華 民 国 八 年 冬、 福 建 省 恵 安 県 の 漁 民 で あ る 郭 合 順 ら 三 一 人 が、強風のため遭難し、日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋 島 ﹇魚釣島﹈ に漂着した。   日本帝国八重山郡石垣村の 玉代勢孫伴氏の熱心な救援活 動により、彼らを祖国へ生還 さ せ た。 救 援 に お い て 仁 を もって進んで行なったことに 深 く 敬 服 し、 こ こ に 本 状 を もって謝意を表す。 中華民国駐長崎領事   馮冕 中 華 民 国 九 年 ︹ 一 九 二 〇 年 〕 五月二〇日﹂ (日本外務省HP)   これは、中華民国が尖閣諸島を日本領と認識していた材料のひとつ である。   ﹃ 沖 縄 県 治 要 ﹄ ( 一 九 二 一 年 六 月 ) に は、 釣 魚 台・ 尖 閣 群 島 の 記 載 は ない (楊仲揆書一四九頁) 。   日本政府は一九二一年七月二五日、 ﹁赤 せ き び し ょ 尾嶼﹂ を﹁大正島﹂ と改めた (浦 野 二 七 一 頁 ) 。﹁ 久 米 赤 島 ( 大 正 島 ) ﹂ は 一 九 二 一 年 七 月 二 五 日、 国 有 地 に指定された (山田友二年表、浦野一三九頁、豊下五九頁) 。   沖 縄 県 維 新 史 料 編 纂 会 編 印﹁ 沖 縄 管 内 地 図 ﹂ ( 一 九 二 三 年 。 現 東 京 大 学 図 書 館 蔵   県 警 察 所 所 長 辻 本 正 一 郎 寄 贈 ) に は、 釣 魚 台・ 尖 閣 群 島 の 記 載はない (楊仲揆書一四九頁) 。   小 川 琢 治 編﹃ 日 本 地 図 帖 ﹄ ( 一 九 二 四 年 ) は、 ﹁ わ が 国 ︹ 中 華 民 国 〕 漁 民の呼称である尖閣群島﹂を記載しているが、各小島の名は書いてい ない (楊仲揆書一四九頁) 。   一九二六年九月、尖閣諸島の三〇年の無償貸与期間が終わり、古賀 善次は日本政府に地租を納入した (浦野一三七頁) 。   沖縄営林署は一九三一年、尖閣の測量を行ない、農林省は資源調査 を行ない、気象局は測候所を建設した (浦野一三二頁) 。   尖閣諸島は一九三二年まで国有だったが、古賀善次は一九三二年三 月、日本政府から尖閣国有地四島の払い下げを申請し、三月三一日認 可された (浦野一三七頁) 。   イギリス出版の Joseph ʼReference Atlas 参考地図R六五は、釣魚台 を中華民国版図に入れている (楊仲揆書一三六頁) という。   一九三七年七月七日の盧溝橋事件をきっかけとして日中全面戦争が 始まった。   日本政府農林省は一九三九年五月 二三日~六月四日、資源調査団を 派 遣した (浦野一三二頁) 。   大日本地理学会発行 ﹃大日本府県別地名集録﹄ (一九三九年) には、 ﹁釣 魚嶼 ・ 花瓶嶼 ・ 尖閣諸島﹂ の名はないという (一九七〇年八月三〇日台湾 ﹃自 立晩報﹄馬廷英論文、楊仲揆書一四九頁、浦野二三四頁) 。   馬廷英はまた、同論文で﹁尖閣諸島というのは、日本学者が戦後に 台 湾 漁 場 の 一 つ の Tiau-su ( 釣 嶼 ) と Hwa-pin-su ( 花 瓶 嶼 ) に 変 え た 新 しい名前にすぎない﹂ (浦野二三四頁) と断じているが、 一八七四年に ﹁尖 閣島﹂ 、一八八八年に﹁尖閣群島﹂の使用例があることは、 すでに見た。   一九四〇年、南台航空の阿蘇号が魚釣島に不時着し、旅客機の乗客

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中 央 大 学 論 集 一 三 名 を 救 助 す る た め、 八 重 山 警 察 署 の 警 官 が 現 地 に 急 行 し た (﹃ 朝 日アジアレビュー﹄ ) 。   一九四〇年、 尖閣諸島は無人島化したが、 奥原敏雄は、 古賀辰四郎 ・ 善次親子の一八九六年以来の尖閣諸島の有効利用の事実は﹁一般に列 島などに対して国際法上要求される実効的支配の程度をはるかに上ま わって、わが国がこれをおこなってきたこととなる﹂と主張している (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   イギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領フランク リン・ローズベルトは、一九四一年八月九日から一二日まで会談し、 アメリカとイギリスは八月一四日、領土拡大の意図をもたないとする ﹁大西洋憲章﹂に調印した。カイロ会議宣言と合わせて、 ﹁領土不拡大 原則﹂と呼ばれるが、その対象はヨーロッパ地域と意識されていたと いう。しかし、カイロ宣言は明らかに日本を対象としている。   日本軍は一九四一年一二月八日、マレー・コタバル上陸、ハワイ真 珠湾 攻撃により東南アジア戦争、太平洋戦争に戦線を拡大した。   日 本は一九四三年九月二一~二九日、尖閣諸島で気象測候所設置の 予備調査を行なった (浦野一三二頁) 。   中 華 民 国 国 防 最 高 委 員 会 の も と に 設 置 さ れ た 国 際 問 題 討 論 会 は 一 九 四 二 年 四 月、 ﹁ 中 日 問 題 解 決 の 基 本 原 則 ﹂ に お い て﹁ 琉 球 は 日 本 に帰属する﹂と明記した (豊下五六頁) という。   一九四三年一一月二二日にはカイロ会議 (ローズベルト ・ チャーチル ・ 蔣介石) が開かれ、 ローズベルトが蔣介石に﹁琉球を望むか﹂ときき、 蔣介石は﹁琉球の共同占領および米中共同での国際信託統治ならば賛 成 す る ﹂ と 答 え た ( 豊 下 五 七 頁 ) 。 カ イ ロ﹁ 会 議 ﹂ 宣 言 の 内 容 は 一 二 月 一 日 に 発 表 さ れ た。 一 九 四 五 年 二 月 四 日 ~ 一 一 日 に は、 ヤ ル タ 会 談 (ローズベルト・チャーチル・スターリン) が行なわれた。   米軍は一九四五年三月二六日、 沖縄慶 け ら ま 良間諸島に上陸し、 四月一日、 沖縄本島に上陸し、さらに宮古群島、八重山群島 、奄 あま 美 み 大島群島に占 領を展開し、尖閣諸島を含む沖縄を一九七二年まで掌握した。   浦野起央によれば、一九四五年六月三〇日、台湾に疎開途中の石垣 町 民 一 八 〇 人 が 米 軍 機 の 銃 撃 で 魚 釣 島 に 漂 着 し、 八 月 一 三 日、 救 出 さ れ た と い う が ( 浦 野 一 四 〇 頁 ) 、 奥 原 敏 雄 一 九 七 〇 年 論 文 に よ れ ば、 一 五 〇 人 中 五 〇 人 が 栄 養 失 調 そ の 他 で 死 亡 し た (﹃ 季 刊 沖 縄 ﹄ 一 九 七 〇 年三月号) 。 3.東アジア太平洋戦争終結後 (一九四五年~一九六八年)   一 九 四 五 年 七 月 二 六 日 に は、 ﹁ ポ ツ ダ ム 宣 言 ﹂ ( 米・ 英・ 中 華 民 国 ) が 発表され、日本は同年八月一四日、ポツダム宣言を受諾して連合国に 降伏し、日本は九月二日、降伏文書に調印した。   中 華 民 国 国 民 政 府 ( 中 国 国 民 党 独 裁 政 権 ) は 一 九 四 五 年 八 月 二 九 日、 台湾省行政長官兼警備総司令を任命した (豊下四〇頁) 。   中華民国は同年九月二〇日、台湾省行政長官による﹁組織条例﹂を 公布し、一〇月二九日、正式接収手続を行ない、台湾省の最北端は台 湾北東部五六㎞にあ る彭佳嶼 しょ とし、 尖閣諸島は含めなかった (田川実、 ﹃月刊学習﹄二〇一二年一一月号) 。   台湾では同年一〇月二五日、日本軍の降伏を受け入れる受降式が行 な わ れ た (﹃ ア ジ ア 史 入 門 ﹄ 四 一 八 頁 ) 。 中 華 民 国 は、 同 日 に は 台 湾 を 正 式に中華民国の領土に組み入れたが、尖閣諸島を中国領に編入する措 置は取らなかった (豊下四〇頁) 。   GHQは一九四六年一月二九日、北緯三〇度以南の南西諸島を日本

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 から分離した (山田友二年表) 。   沖縄には、日本の敗戦後すぐ﹁琉球アメリカ軍政府﹂が設置され、 一九四六年には日本人を含む﹁沖縄民政府﹂が発足した。琉球アメリ カ 軍 政 府 は 一 九 五 二 年、 ﹁ 琉 球 列 島 ア メ リ カ 民 政 府 ﹂ に 改 編 さ れ、 さ らにそのもとに﹁琉球政府﹂が設置された。琉球政府立法院の議員は 公選で、行政府主席はアメリカ民政府長官が任命した。   一 九 四 六 年 一 月 二 九 日 連 合 国 最 高 司 令 部 ( G H Q ) 覚 書 で、 米 軍 は 北緯三〇度以南の諸島は日本の行政管轄外とし、尖閣諸島もその中に 含 ま れ た ( 浦 野 一 四 一 頁 ) 。 同 日、 日 本 外 務 省 が 連 合 国 最 高 司 令 部 に 提 出した﹁南西諸島一覧﹂には、赤 せ き び し ょ 尾嶼・黄尾嶼・北島・南島・魚釣島 の名をあげて尖閣諸島が含まれ、沖縄県に含めていたが、連合国の一 員 で あ っ た 中 華 民 国 が 抗 議 を 行 な っ た 形 跡 は ま っ た く な い ( 芹 田 健 太 郎﹃日本の領土﹄一二七頁   二〇一〇年一二月中公文庫版) という。   中華民国国民政府は、 一九四六年から四七年にかけて﹁琉球の領土 主 権の中国への返還﹂ を主張した (豊下五七頁) 。中華民国国民政府は、 東アジア太平洋戦争の終結にあたり、尖閣諸島の名をあげて要求した こ と は な か っ た が、 一 九 四 七 年、 ﹁ 琉 球 ﹂ ( 沖 縄 ) は﹁ 中 国 の 領 土 ﹂ と 主張した。これが、 今日の﹁尖閣諸島﹂問題の伏線となった (図3) 。   し か し、 戦 後、 中 華 民 国 で 編 修 さ れ た 文 献 は、 台 湾 本 島 か ら や や 北 の 彭 佳 嶼 を 台 湾 省 最 北 端 と し て い た。 台 湾 お よ び 北 京 で 発 行 さ れ た 地 図 も、 尖 閣 諸 島 を 中 国 領 に 含 め ず、 琉 球 群 島 の 一 部 と し た ( 芹 田 一二八頁) 。   一九四九年一〇月一日、中華人民共和国が樹立されたが、中華人民 共 和 国 政 府 ( 中 国 共 産 党 独 裁 政 権 ) も 成 立 以 来、 一 九 七 〇 年 ま で 尖 閣 諸 島について領有を主張したことはなかった。日本政府の中華人民共和 国承認は、二三年後の一九七二年九月になる。   琉 球 大 学 は、 一 九 五 〇 年 三 月 ~ 四 月、 一 九 五 二 年 三 月 ~ 四 月、 一九五三年七月~八月、一九六 三年五月の四回にわたって尖閣諸島の 生 態学術調査を行なった (浦野一四九頁) 。   中華人民共和国外交部 「領土問題要綱草案」 (一九五〇年五月二五日)   誕生したばかりの中華人民共和国外交部は一九五〇年五月二五 日、 ﹁ 対 日 和 約 ( 対 日 講 和 条 約 ) に お け る 領 土 部 分 の 問 題 と 主 張 に 関する要綱草案﹂ を作成し、 ﹁琉球の返還問題﹂ の項で ﹁琉球は北 ・ 図3 『申報』1946年10月23日社論「琉球は中国に帰還すべし」

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中 央 大 学 論 集 中・南の三つに分かれ、中部は沖縄諸島、南部は宮 み や こ 古島と八重山 諸島 (尖頭諸嶼 しょ ) ﹂と述べ、 ﹁尖頭諸嶼﹂ (尖閣諸島) は琉球の一部とし、 ﹁琉球の境界画定問題﹂の項で、 ﹁尖閣諸島を台湾に組みこむべき か ど う か 検 討 の 必 要 が あ る ﹂ と 述 べ、 ﹁ 釣 魚 島 ﹂ と い う 名 称 は 用 い ず、 ﹁ 尖 閣 諸 島 ﹂ と 呼 ん で い た。 同 文 書 は、 北 京 の 中 華 人 民 共 和国外交部檔 とう 案 あん 館に収蔵されており、 非公開扱いとなっているが、 時 事 通 信 が そ の コ ピ ー を 入 手 し た ( 二 〇 一 二 年 一 二 月 二 八 日﹃ し ん ぶん赤旗﹄ ) 。   中華人民共和国外交部は、この時から﹁琉球の返還﹂を日本に要求 す る か ど う か、 ﹁ 尖 閣 諸 島 ﹂ を﹁ 台 湾 に 組 み こ む べ き か ど う か ﹂ と い う問題をたて、検討を開始したが、その結論は一九七一年一二月まで 持ち越されたのであった。中国は、この文書の存在を認めたが、この 文書には﹁署名﹂がないとの理由で取り上げる価値がないかのように 扱 っ た が ( 二 〇 一 三 年 一 月 一 日﹃ 朝 日 新 聞 ﹄) 、 こ の 文 書 の 重 要 性 は 否 定 しがたい。   朝鮮戦争    朝鮮民主主義人民共和国は一九五〇年六月二五日、朝 鮮の統一をめざして三八度線を突破し、大韓民国に攻めこんだ。朝鮮 戦争の勃発である。同年九月一五日、国連軍の旗を掲げた米軍が仁川 に 上 陸 し た。 こ れ に 対 し、 ﹁ 中 国 人 民 志 願 軍 ﹂ が 一 〇 月 一 九 日、 鴨 緑 江を渡り、米軍と交戦するに至った。一九五三年七月二七日、朝鮮休 戦協定が成立した。朝鮮戦争では、米中は引き分けであった。   「群島組織法」    一九五〇年八月四日公布の米軍政府第二二号﹁群 島 組 織 法 ﹂ は、 八 重 山 群 島 の 範 囲 に 尖 閣 諸 島 を 含 め た (﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビ ュ ー﹄ ) 。 一 九 五 〇 年 九 月 一 日 施 行 の﹁ 群 島 組 織 法 ﹂ は、 宮 古 島 群 島 に大正島を、八重山群島に他の諸島を含めた (浦野一四一頁) 。   ﹁アメリカ大英百科全書﹂ (ブリタニカ?) 末巻地図部分 (二四頁、 二八頁) は、釣魚台を﹁わが国﹂ (中華民国) 版図に入れている (楊仲揆書一三六 頁) という。   「 サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約 」   朝 鮮 戦 争 中 の 一 九 五 一 年 九 月 三 日、 ﹁ サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約 ﹂ ( 略 称、 ﹁ サ 条 約 ﹂) が 締 結 さ れ た。 中華民国も、新たに成立した中華人民共和国も、ソ連も、サンフラン シスコ講和会議には不参加であった。   「 サ 条 約 」 第 二 条 ( b ) は、 ﹁ 日 本 国 は、 台 湾 及 び 澎 湖 諸 島 に 対 す る すべての権利、権原及び請求権を放棄する﹂とした。   同 条 約 第 三 条 は、 尖 閣 諸 島 の 名 は あ げ て い な い が、 ﹁ 北 緯 二 九 度 以 南 の 南 西 諸 島 ( 琉 球 諸 島 及 び 大 だ い と う 東 諸 島 を 含 む ) …… を 合 衆 国 を 唯 一 の 施 政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合 衆国のいかなる提案にも同意する﹂とされた。   こ う し て、 尖 閣 諸 島 は 沖 縄 と 共 に 日 本 本 土 か ら 切 り 離 さ れ、 一九五一年、 久場 島と大正島は米軍占領下に置かれ、 米 軍射爆場となっ た (浦野一四五頁) 。   ダレス米国代表発言    サンフランシスコ講和会議において、ダレ ス 米 国 代 表 は、 ﹁ 琉 球 諸 島 及 び 日 本 の 南 及 び 南 東 の 諸 島 ﹂ に つ い て、 連 合 国 の 間 に は 意 見 の 違 い が あ っ た が、 ﹁ 合 衆 国 は、 最 善 の 方 法 は、 合衆国を施政権者とする国連信託統治制度の下にこれらの諸島を置く ことを可能にし、日本に残存主権を許すことであると感じました﹂と 発言した (日本外務省HP) 。   米 軍 占 領 下 尖 閣 諸 島 は 琉 球 の 一 部    緑 間 栄 は、 ﹁ サ 条 約 ﹂ 第 三 条 は尖閣諸島の名を明示的にはあげていないが、米国民政府布告第一一

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 号﹁ 琉 球 列 島 の 地 理 的 境 界 の 再 指 定 ﹂ ( 一 九 五 一 年 一 二 月 一 九 日 公 布 ) 第 一 条、 米 国 民 政 府 布 告 第 二 七 号﹁ 琉 球 列 島 の 地 理 的 境 界 ﹂ ( 一 九 五 三 年 一 二 月 ) 、 米 国 民 政 府 布 告 第 六 八 号﹁ 琉 球 政 府 章 典 ﹂ ( 一 九 五 二 年 二 月 二 九 日 公 布 ) が 尖 閣 諸 島 を 含 み、 米 国 民 政 府 布 告 第 一 二 五 号﹁ 琉 球 列 島 出 入 管 理 令 ﹂ ( 一 九 五 四 年 二 月 一 一 日 公 布 ) 、 布 令 一 四 四 号﹁ 刑 法 並 び に訴訟手続法典﹂ (一九五五年三月一六日公布) が尖閣諸島を適用範囲と していること、米国は沖縄の軍事占領において、連合国最高司令官総 司 令 部﹁ 外 郭 地 域 の 行 政 分 離 に 関 す る 覚 書 ﹂ ( 一 九 四 六 年 一 月 二 九 日 ) に対して日本外務省が提出した﹁南西諸島観﹂一覧が尖閣諸島を沖縄 県の範囲に含めていること、米国民政府布令第二二号﹁群島組織法﹂ ( 一 九 五 〇 年 八 月 四 日 公 布 ) が 行 政 区 域 に 尖 閣 諸 島 を 含 め て い る な ど 旧 沖 縄 県 の 行 政 地 域 を そ の ま ま 引 き 継 ぎ、 尖 閣 諸 島 も 島 名 を 列 記 し て 沖 縄 県 の 範 囲 と し て 扱 っ た こ と を 指 摘 し て い る (﹃ 尖 閣 列 島 ﹄ 一 一 〇 ~ 一一二頁   ひるぎ社   一九八四年三月) 。   「 日 米 安 保 」   日 本 と ア メ リ カ は 一 九 五 一 年 九 月、 ﹁ サ 条 約 ﹂ 締 結 と同時に ﹁日米安全保障条約﹂ を締結し、 一九六〇年、 改訂延長された。   ア イ ゼ ン ハ ワ ー 大 統 領 発 言    ﹁ 岸 信 介 総 理 大 臣 と ア イ ゼ ン ハ ワ ー 大 統 領 と の 一 九 五 七 年 共 同 コ ミ ュ ニ ケ ﹂ に お い て も、 ﹁ 琉 球 及 び 小 笠 原諸島に対する施政権の日本への返還について﹂ 、﹁大統領は、日本が これらの諸島に対する潜在的主権を有するという合衆国の立場を再確 認した﹂ (日本外務省HP) 。   つまり、一九五〇年代にはアメリカ政府は尖閣諸島を含む沖縄に関 する日本の﹁残存主権﹂ 、﹁潜在的主権﹂を認めていたのであった。   沖 縄 祖 国 復 帰 運 動    一 九 五 一 年、 ﹁ 沖 縄 群 島 議 会 ﹂ は 日 本 復 帰 を 決議し、同年、 ﹁日本復帰促進期成会﹂が発足し、一九六〇年、 ﹁沖縄 県祖国復帰協議会﹂となり、 一九六〇年代に活発な運動が推進された。 一九六八年には、 琉球政府主席公選が実現し、 屋 や 良 ら 朝 ちょう 苗 びょう が当選した。   国共内戦に敗北し台湾に移動した中華民国政府は、一九五二年二月 か ら の 日 本 と の 講 和 交 渉 で は 琉 球 ( 沖 縄 ) の 帰 属 問 題 は 提 起 し な か っ た (豊下五七頁) 。   中華民国政府が琉球の領土要求をやめたのは、国共内戦に敗北した という条件のもとで、①アメリカがすでに沖縄を占領し利用している こと、②アメリカの反共東アジア戦略による支援を必要としていたこ と、③日本との国交関係を維持する必要があったこと、などのためだ ろう。   演習地域指定    一九五一年、 久場島 (黄尾嶼) ・ 大正島 (赤尾嶼) に、 米 海 軍 の 爆 撃 演 習 海 域 が 設 定 さ れ、 久 場 島 は 特 別 演 習 地 域 ( 永 久 危 険 区 域 ) に 指 定 さ れ た。 ( 演 習 地 域 指 定 に と ど ま っ た と い う こ と か?)   国 有 地の大正島は一九五六年四月一六日以降から演習地域に指定され、民 有 地 で あ る 久 場 島 は 一 九 五 八 年 に 軍 用 地 基 本 賃 貸 契 約 が 結 ば れ た ( 緑 間一一五頁) 。   「琉球政府章典」    琉球政府設置法である一九五二年二月二九日の 米国民政府 布令第六八号﹁琉球政府章典﹂第一条は、琉球政府の政治 的 地 理 的 管 轄 区 域 を 定 め 、 そ の 中 に 尖 閣 諸 島 を 含 め た (﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビュー﹄ ) ことはすでに触れた。   「 日 華 平 和 条 約 」   日 本 と 中 華 民 国 は 一 九 五 二 年 四 月、 ﹁ 日 華 平 和 条約﹂を締結し、国交関係を維持した。これについて、日本外務省H Pは次のように述べている。     ﹁ 日 華 平 和 条 約 に お い て、 日 本 は サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約 第 二 条に基づき、台湾及び澎湖諸島等に対する全ての権利等を放棄した

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中 央 大 学 論 集 ことが承認されていますが、日華平和条約の交渉過程ではこのよう な経緯からも尖閣諸島の領有権は一切議論されていません。このこ とは、尖閣諸島が従来から日本の領土であることが当然の前提とさ れていたことを意味します。 ﹂ (日本外務省HP)   「 琉 球 政 府 」 発 足    一 九 五 二 年 四 月 一 日、 奄 美・ 沖 縄・ 宮 古・ 八 重山群島を統合する﹁琉球政府﹂が発足した (浦野一四二頁) 。   『 人 民 日 報 』 ( 一 九 五 三 年 一 月 八 日 ) 記 事「 尖 閣 諸 島 」 は「 琉 球 諸 島 」 の一部   一九五三年一月八日中国共産党機関紙﹃人民日報﹄記事﹁琉球 諸島人民の米国占領反対闘争﹂は、次のように書き、その中で日 本名﹁尖閣諸島﹂を使用して報道した。 ﹁ 琉 球 諸 島 は、 我 が 国 ( 注: 中 国。 以 下 同 様 ) の 台 湾 東 北 部 及 び 日 本の九州南西部の間の海 上に散在しており、尖閣 諸島、先島諸島、大東諸 島、 沖 縄 諸 島、 大 島 諸 島、トカラ諸島、大隈諸 島 の 七 組 の 島 嶼 か ら な る。 そ れ ぞ れ が 大 小 多 くの島 とうしょ 嶼からなり、合計 五〇以上の名のある島嶼 と四〇〇あまりの無名 の 小 島からなり、全陸地面 積は四六七〇平方キロで ある。諸島の中で 最大の島は、沖縄諸島における沖縄島 (すなわ ち 大 琉 球 島 ) で、 面 積 は 一 二 一 一 平 方 キ ロ で、 そ の 次 に 大 き い の は、大島諸島における奄美大島で、七三〇平方キロである。琉球 諸島は、一〇〇〇キロにわたって連なっており、その内側は我が 国の東シナ海 (中国名 : 東海) で、外側は太平洋の公海である﹂ (日 本外務省HP) 。     この当時、中国共産党の対外政策は﹁向ソ一辺倒、親ソ反米﹂戦略 をとっていた。この記事は、この当時の中国共産党の認識では尖閣諸 島は日本領であったことを示している。   一九五三年﹃中華人民共和国分省地図﹄は、尖閣諸島を中国領土に 入れていない (浦野七九頁) 。   奄 あま 美 群 島 返 還    奄 美 群 島 は 一 九 五 三 年 一 二 月 二 五 日、 ﹁ 奄 美 返 還 協定﹂が発効し、日本に返還された (﹃レファレンス﹄ ) 。   「 琉 球 列 島 の 地 理 的 境 界 」 等    一 九 五 三 年 一 二 月 二 五 日 の 米 民 政 府 布 告 第 二 七 号﹁ 琉 球 列 島 の 地 理 的 境 界 ﹂ お よ び 一 九 五 五 年 四 月 九 日 の 米 民 政 府 布 告 第 一 四 四 号﹁ 刑 法 並 び に 訴 訟 手 続 法 典 ﹂ 第 二 部 第 一 章 第 九 条 は 、 い ず れ も 尖 閣 諸 島 を 適 用 範 囲 に 含 め た (﹃ 朝 日 ア ジ ア レ ビュー﹄ ) 。   このように、アメリカの施政権は、尖閣諸島を含む﹁サ条約﹂第三 条の地域の領有権が日本に帰属しているという前提のもとで行使され た (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   「米華相互防衛条約」    アメリカと中華民国は一九五四年一二月、 ﹁米華相互防衛条約﹂を締結した。   「第三清徳丸」事件    一九五五年三月二日、 日本船﹁第三清徳丸﹂

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斎藤:尖閣諸島問題をめぐる歴史 一 五・ 三 九 ト ン ) が﹁ 国 籍 不 明 ﹂ ジ ャ ン ク 船 二 隻 に 銃 撃 さ れ、 乗 組 員 九名中三名が行方不明となった。琉球立法院は三月五日、米民政府・ 日 本 政 府 な ら び に 国 際 連 合 等 に 対 し 事 件 の 調 査 を 要 望 す る 決 議 を 行 な っ た。 奥 原 敏 雄 が 引 用 し て い る 邱 宏 達 ( 台 湾 国 立 政 治 大 学 客 員 教 授・ 国 際 法 ) 論 文 (﹁ 釣 魚 台 列 嶼 問 題 研 究 ﹂) に よ れ ば、 こ の﹁ 国 籍 不 明 ジ ャ ンク船﹂は﹁中国の帆船﹂であった (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   こ の 事 件 後、 琉 球 ( 沖 縄 ) の 漁 民 は こ の 海 域 へ の 出 漁 を 控 え る よ う になったという。   「刑法並びに訴訟手続法典」    一九五五年四月九日米民政府布令第 一四四号﹁刑法並びに訴訟手続法典﹂第二部第一章第九条も、尖閣諸 島を適用範囲に含めた (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。   久場島、軍用演習地化    アメリカは一九五五年、民有地である久 場 島 を 空 軍 の、 そ れ 以 降 は 海 軍 の 軍 用 演 習 地 と し て 使 用 し た。 ( 前 出 ﹁演習地指定﹂の項と日付にずれがある。 )   ﹁ こ の 周 辺 海 域 が 危 険 海 域 と な り、 沖 縄 漁 民 の 漁 業 活 動 が 不 可 能 に な っ た こ と ﹂、 一 九 五 五 年 第 三 清 徳 丸 が こ の 海 域 で ﹁ 国 籍 不 明 船 ﹂ か ら 銃 撃 を 受 け た こ と な ど に よ っ て、 ﹁ 沖 縄 漁 民 は 身 の 危 険 を さ け る た め同列島周辺で操業を中止﹂した (緑間七五頁) 。   米 民 政 府 は 一 九 五 八 年 七 月、 久 場 島 に つ い て は 琉 球 政 府 を 代 理 人 と し て 所 有 主 で あ る 古 賀 善 次 と の 間 に 基 本 契 約 賃 貸 借 契 約 を 結 ん だ。 米 民 政 府 は、 賃 貸 料 を 年 額 五 七 六 三 ド ル、 一 九 六 三 年 以 降 は 一万〇五七六ドル支払ってきた (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) 。琉球政府は、 この契約以前から古賀善次所有の四島に対し、固定資産税を徴収して きたが、賃貸料収入に対してもあらたに源泉徴収を行なった (﹃朝日ア ジアレビュー﹄ ) 。   大正島、軍用演習地化    一九五六年四月一六日以降、日本国国有 地 の 大 正 島 ( 赤 尾 嶼 ) を 海 軍 軍 用 演 習 地 と し て 使 用 し た (﹃ 朝 日 ア ジ ア レビュー﹄ ) 。   日本の国連加盟    一九五六年一二月、日本の国連加盟が承認され た。   中華人民共和国発行の﹃中国省別地図﹄ (一九五六年第一版、一九六二 年 版 ) に は、 釣 魚 島 が﹁ 尖 閣 列 島 ﹂ と 表 記 さ れ て い た が、 そ れ は 日 本 軍占領中に刊行された地図を﹁踏襲﹂したか、 ﹁影響﹂されたものだっ た と 鍾 しょう 厳 げん 論 文 は 釈 明 し て い る ( 一 九 九 六 年 一 〇 月 一 八 日﹃ 人 民 日 報 ﹄。 浦 野 二 七 一 頁 に も 所 収 ) 。 要 す る に、 地 図 と い う も の は い ろ い ろ あ り、 領 土領有の決定的根拠にはできないということを認めたことを意味する が、鍾厳本人がそれを意識していたかどうかは定かではない。   「 高 等 弁 務 官 」 設 置    一 九 五 七 年 に は、 沖 縄 統 治 の 最 高 責 任 者 と してアメリカ軍人の﹁高等弁務官﹂が置かれた。   「 高 等 弁 務 官 布 令 二 〇 号 」   ﹁ 米 民 政 府 ﹂ は 一 九 五 八 年 七 月 一 日、 ﹁ 高 等 弁 務 官 布 令 二 〇 号 ﹂ に 基 づ き、 私 有 地 の 久 場 島 ( 黄 尾 嶼 ) に つ い て、所有者古賀善次と﹁軍用地基本賃貸借契約﹂を結んだ。米民政府 は、これに基づき、年額五七六三ドル九二セントを支払い、一九六三 年からは﹁一万〇五七六ドル﹂を支払ってきた。山田友二年表では、 ﹁一万一一〇四ドル﹂ (﹃朝日アジアレビュー﹄ ) である。   また、琉球政府は古賀善次所有の四島に対し固定資産税を賦課し徴 収した (芹田一二九~一三〇頁) 。   一 九 五 八 年 中 華 人 民 共 和 国 発 行﹃ 世 界 地 図 集 ﹄ は、 ﹁ 尖 閣 ﹂ を 中 国 領に含めていない (浦野七九頁) 。   中華民国内政部審査 ・ 認定の ﹃台湾省五市十六県詳図﹄ (一九六〇年)

参照

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経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

〔付記〕

(公財) 日本修学旅行協会 (公社) 日本青年会議所 (公社) 日本観光振興協会 (公社) 日本環境教育フォーラム

ここでは 2016 年(平成 28 年)3

日本遠洋施網漁業協同組合、日本かつお・まぐろ漁業協同組合、 (公 財)日本海事広報協会、 (公社)日本海難防止協会、

目について︑一九九四年︱二月二 0

十四 スチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法 十五 エチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法