明治時代における会社制度と会計制度の生成史 配当政策にかかわる制度を中心に
政策研究科博士課程 佐 野 義 彦
要旨
現在、上場会社の経営者は、「株主総会で株主 に対して配当性向120%ないし30%2」を表明す るケースが多い。このような株主と経営者の関係 について株主は、毎年同様の配当性向で満足する のか、と疑問をもった。商法は、配当性向だけで なく株主の会社に対する判断を多様化するため金 庫株の解禁、現物配当などを可能にし株主優待券 の配布など緩和している。株主と経営者の関係 は、利益を獲得しこれを株主に配当することにあ る。先の表明のような前年と同様の配当性向率で あるから納得してほしい、と固定化した発想であ れば株主を蔑ろにしていることになる。
わが国は、1868(明治元)年以降、資本主義化 を進め、今年で151年が経過した。株式会社制度 は、それまでの封建的社会であった江戸時代を民 主主義に転換するものであった。江戸時代まで大 きな事業は、藩が所管していた。株式会社制度の 導入により民間が、その事業を行うことを可能に した。この時代の民主主義による自由主義的発想 の基底となったのが、渋沢栄一と福澤諭吉であ る。当初、渋沢は、官主導の会社を積極的に導入 し会社設立を急ぎ株式会社制度の環境を整えてい った。福澤は、著書『学問のすゝめ』において自 立性を養うため学問の必要性を説いた。
わが国において明治維新と時を同じくして導入 された株式会社に求められたものはどのようなも のであったか、とくに株式会社の配当について明 治政府が、当時株式会社の設立の活性化の喧伝に 利用されただけであったのかを検討課題とした。
このようなことから、明治時代(1868年―1912 年)初期について渋沢や福澤の思想を考慮しなが ら会社制度、商法、税法が導入された背景事由を 本稿によって明らかにする。
Key word: 明治時代 配当率 配当性向 明 治時代 資本制度 渋沢栄一 福澤諭吉
目次
第1章 研究目的及び研究手法 ……… 19
第1節 研究目的 ……… 19
第2章 会社制度の導入、普及と商法の導入 … 20 第1節 会社制度の導入 ……… 20
第2節 会社制度の普及 ……… 21
第3節 明治時代の商法 ……… 22
第3章 会計制度の導入と普及 ……… 24
第1節 会計制度の導入 ……… 24
第2節 会計制度の普及及び会計教育 …… 25
第4章 結論 ……… 27
第1章 研究目的及び研究手法
第1節 研究目的
わが国の明治初期の株式会社制度導入の発端と なったのが、福澤諭吉の『西洋事情』による民間 への啓蒙であった。
福澤諭吉は、江戸幕府の命により1860(安政7)
年にアメリカ、1862(文久2)年にヨーロッパへ 遊歴し、その後、『西洋事情』1866(慶應2)年 を著した。これによれば西洋の会社について、「大 商売を為すに、一商人の力に及ばざれば、五人或 いは十人、仲間を結いてその事を共にす。之を商 1 配当性向(%)=1株当たりの配当額÷1株当たりの当期純利益×100
2 樋口達ほか『株主還元の実態調査』商事法務, 2016年, p.4。
人会社と名づく。既に商社を結めば、商売の仕組、
元金入用の高、年々会計の割合等、一切書に認め て世間に布告し、「アクション」と云える手形を 売て金を集む。3」として、会社制度の見聞を描 写している。大型の設備投資をおこなうことで大 量生産が可能となり相応の利益が期待できるので あれば一人の資金で間に合わなくても、人数を多 くし資金を集めるという株式会社制度の効用を伝 えている。また、会計報告(もしくは、利益計画書)
により増資等をし、資金を集めることも伝えた。
また、会社の配当政策については、「例えば商 売の元金百万両入用なれば、手形百万枚を作り、
一枚の価を一両と定め、自国他国の人に拘わら ず、この手形を買うものには商社より年々四、五 分の利息を払い、且つ商売繁盛して利潤多けれ ば、右定めたる利息のほかに別段の割合を与うべ しとの約束を為す4。」と、今となれば株式を手 形と表現している不明瞭な文章もあるが、持株数 により配当がおこなわれていたと会社の株式発行 から配当の支払いまでの概要を記している。
株式会社制度の導入は、明治幕府の殖産興業5 の一環であった。明治45年の株式年鑑6で確認す ると配当は、8分から1割2分ほどの配当率7で 安定していた。本来、配当率は、会社が獲得した 利益の配分であるから一定した利益が期待できな い以上、配当率が一定となることには疑問があ る。
このような傾向は、現在でもみられる。つまり、
わが国は、会社制度導入から配当率の一定化につ いて株主、経営者、法律、会計制度及び政府の政 策などの誘導性があるのではないかと疑われる。
本稿では、会社制度、法律、会計制度の観点から
この誘導性を論じることを目的とする。
本講においては、明治時代に会社制度導入のた めに配布された渋沢栄一『立会略則』及び複式簿 記最初の書福澤諭吉の『帳合之法』を参考にし会 社制度に求めた思想を研究する。そのような思想 と法整備を対比し、わが国の会社が支出する配当 制度の初期の背景を研究する。
第2章 会社制度の導入、普及と 商法の導入
第1節会社制度の導入
1860(安政7)年、日米修好通商条約による派 遣により会社制度の必要性は、江戸時代末期には 一部で認識されていた。菅野和太郎の指摘すると ころでは、幕臣小栗上野介(1827年-1868年)は、「外 国に於て商業の盛んであるのは主として会社企業 によるがためである、と看破して、帰国後泰西に 存在せしむコムパニーに倣ひて商社を設立すべき ことを主張した8。」とある。
小栗上野介は、勘定奉行塚原但馬守、同服部筑 前守、勘定奉行並星野豊後守の四名で江戸幕府 へ、兵庫港開港のために商社を設立することを獻 策した9。これにより1867年(慶應3)年資本金 100万両の兵庫商社が設立された。兵庫港開港に あたって日本有利の貿易を目指し、貿易の担い手 と期待された大阪の特権商人に出資させ、その代 わりに兵庫港での貿易独占権と金札発行を認める 共同組織の設立をおこなった10。しかし株式会社 の特徴のひとつである有限責任制は、導入されな かった。また、1867(慶應3)年1月鳥羽伏見の 戦いがはじまると幕府の許可での営業であったこ
3 福澤諭吉 西川俊作編『西洋事情』慶應義塾大学出版会, 2009年, p.26。
アクション 株式、元金 株式 4 福澤諭吉 同書, p.26。
5 殖産興業
明治政府が、西洋諸国に対抗し機械製工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の育成を目指した政策 6 『株式年鑑』野村徳七商店調査部, 明治45年。
7 配当率(%)=配当÷払込資本金額×100
8 菅野和太郎『日本会社企業発生史の研究』経済評論社, 1971年, p35。
9 菅野和太郎 同書, pp34-35。
10 菅野和太郎 同書, pp82。
とから、この時期をさかいに営業が再開されるこ とはなかった。
その後、福澤諭吉は、1869(明治2)年に早矢 仕有的(ハヤシユウテキ)を指導して横浜に会社 組織の丸屋商社(現在の丸善株式会社)を設立さ せた。1870(明治3)年に改組して有限責任株式 会社となり丸善株式会社が誕生している。つま り、1870(明治3)年以前は、株式会社の重要な 特徴である有限責任でなかったことから株式会社 組織は採用されていなかった。
諸説があるが一般的にわが国最初の株式会社創 設は、1873(明治6)年渋沢栄一を主導にして設 立された第一銀行である。設立当初の資本金250 万円で、ほぼ三井組と小野組が、各自100万円を 拠出した。出資者の責任は、有限責任であったこ とから最初の株式会社とされている。商法の制定 以前に設立されたことから経済の発展は、法律に 先行することの顕著な事例でもあった。
明治初期の政府は、国益のために会社を増やそ うとした。富裕者は、政府から資本などの負担を 強いられることがあった。富裕者は、政府から資 金を取り上げられ破産者が続出した。次第に株式 会社制度は普及が進み爆発的に増加するに至るが していったが法の未整備のために破綻する会社も 増加していった。
また、現代での株式会社制度は、有限責任を当 然とみるが、1884年(明治17)年銀行の設立にあ っては、一般に無限責任であった。また、一般会 社においても定款において有限責任の明記があっ ても一般に周知しなければ第三者への効力はない ものであった11。つまり、有限責任といえども無 限責任を免れない不安定な状況であった。
第2節会社制度の普及
① 会社制度の思想
わが国の会社制度は、各地の通商会社・為替会 社の設立により、導入がすすめられた。しかし、
それらは政府の上からの勧奨、誘導、保護等に よるものであり民間からの発願ではなかった12。 1871(明治4)年に三井組から銀行を設立したい との嘆願書が提出された。社会の株式会社制度の 機運を高めた渋沢栄一『立会略則』13、福地源一 郎『会社弁』の書籍の流布により、全国に株式会 社制度が通用し始める。会社設立にあたり参照さ れた渋沢の『立会略則』の概略は、次のとおりで ある。
1.取締役の選出
株主間で協議して、相応の身分があり、多くの 資本金を拠出したものから選出すること 2.意思決定の方法
投資額の少ない案件は、代表取締役に扱いを委 任し、大きな案件は、株主総会にて決議する。
3.利益分配の方法
利益は、所有株数に応じて全額分配してもよ い。また、当期利益の1-2割を利益準備金とし て積み立ててもよい。(利益の全部もしくは8 割を配当にする)
4.株主平等の原則
株主の損益に偏りがあってはならない。利益を 計上できた場合は、保有株式に応じて平等に分 配するべき。
また、福澤諭吉は、『学問のすゝめ』、『帳合之 法』、『西洋事情』を著し、とくに『学問のすゝめ』
全編17編は、延べ発行部数340万部が販売された14。 1872(明治5)年の人口は、3,480万人であった。
ベストセラーとなり本書は、多くの人に読まれ た。福沢諭吉の思想が、明治の社会に対して大き く影響を与えた。
有限制度の導入については、「合本企業の長い 歴史を有するイギリスにおいてすら、全社員の有 限責任の法制的成立や株式形態の広範な採用が19 世紀後半にいたるまでみられなかった15。」こと
11 高村良助『会社の誕生』吉川弘文館,1996年, p.71-72。
12 高橋亀吉『日本近代経済形成史』東洋経済新報社, 1968年, p.784。
13 渋沢栄一『立会略則』大蔵省, 1869年。
14 工藤栄一郎『我が国における会計基礎教育の歴史』日本公認会計士協会, 2019年, p.21。
15 西川俊作『産業化の時代4』岩波書店、1990年, p.377。
からすると株式会社の急激な増加は、福澤によっ て社会が株式会社制度を受け入れる素地を作った 者といえる。
② 会社資本金の払込状況
実際の資本払込の状況において払込資本金の推 移は、下表の通りである。1889(明治22)年払込 資本が、合計90,821千円であり、1894(明治27)
年148,353千円、1899(明治32) 年397,687千円と、
1889(明治22)年から1894(明治27)年で63%の 増加、1894(明治27)年から1899(明治32)年では、
168%の増加と急激に増加し株式会社制度の隆盛 をみることができる。
工業や鉄道について大幅な上昇率(工業 1899
/1889年比 385%、 鉄道 1899/1889年比 879
%)を確認することができる。当初の株式会社は、
大量生産による大工業化と急激な鉄道網の整備に
重点がおかれていた。資金の使途によって明らか である。株式会社制度によって、大規模な実現で きたのである。翻って、零細な農家が多かったこ とから農業については、一定した金額であった。
第3節 明治時代の商法
明治時代の殖産興業の一環として株式会社制度 は急速に普及した一方で、民法及び商法などの法 制の整備が遅れていた。わが国最初の株式会社で ある第一国立銀行、1873(明治6)年に設立され た。しかし旧商法の制定は、1890年(明治23)年 であり、最初の株式会社設立から17年遅れて制定 された。
明治初年から会社が設立されたため、政府も統 一法典の必要を認めて、1878(明治11)年には、
海軍省起草の日本海令草案が、1881(明治14)年 には、会社条例の草案が作成された。この条例は、
表1 会社払込資本金の動向 (単位:千円)
部門 1889年(明治22年) 1894年(明治27年) 1899年(明治32年)
農業 2,560 1,188 2,304
工業 29,237 32,871 112,727 紡績 7,500 14,338 35,509
製糸 3,472 2,064 4,547
織物 2,576 3,916 9,124
酒造 550 1,254 6,133
煙草 352 43 11,321
造船 273 5,012
セメント 705 1,268 4,078
製薬 688 1,211 3,012
製紙 1,865 2,780 6,265
電灯 981 2,379 7,909
鉱業・精練 3,555 9,339 27,147
鉱業・精練 7,234 10,020
石炭採掘 974 14,241
運輸 35,270 82,560 198,147 鉄道 17,849 65,973 156,967 水運 15,564 13,887 38,684 商業貸金 19,217 20,015 49,393 合計 90,821 148,353 397,687 出所:内閣統計局『日本帝国統計年鑑』第10, 15, 20回から筆者作成。
政府が商法典編纂の方針を定めていたことから施 行に至らなかった16。次に民法編纂とともに資本 主義社会で重要な役割を果たす商法典の編纂は、
1881(明治14)年の太政官の決定からドイツ人の ロエスレル17によってはじめられた。ロエスレル の草案は、イギリス、フランス、ドイツなどを参 照した混合的なものであった18。
1842(明治15)年には、為替手形約束手形条例 が、手形流通を保証するため公布された19。会社 条例に代わって、1842(明治15)年に草案が完成 していた商法典は、1849(明治22)年に可決した。
ロエスレルの草案完成から7年後であった。
経済活動が優先され会社条例が未制定であった ことから、1882(明治15)年の不況においては会 社倒産が、続発した。この対応策として東京府は、
会社条例を発した20。政府による会社法の制定よ り前に当時の東京府や大阪府などの地方官等によ り規制が始まったのであった。
配当に関しては、旧商法156条において利益の 範囲内での配当をなすべきとして規定している。
これは資本金に対して1/4に達するまで配当を 行うたびに利益に対して利益準備金1/20を積み 立てることを要求している。いいかえれば、資本 金の1.25倍までを毎期、利益の5%を積立て、資 本を充実させた。
明治時代の商法(1911(明治44)年施行)は、
商法290条(昭和23年改正、利益の配当)のよう な直接的な配当可能利益についての計算方法の規 定はない21。つまり、商法の基底である債権者保 護を優先させ資本の欠損がなければ、配当をおこ なってもよいと規定し配当の原資については、規 定をしなかった。以下、当該条文を示す。
290条 利益の配当
① 利益の配当は、貸借対照表上の純資産額よ り次の金額を控除した額を限度として、実 施することができる。
一 資本の額
二 資本準備金及び利益準備金の合計額 三 その決算期に積み立てることを要する利益
準備金の額
四 第286条の2(開業準備費の繰延)及び第 286条の3(試験研究費及び開発費の繰延)
の規定により貸借対照表の資産の部の計上 した金額の合計額が、前二号(二号・三号)
の準備金の合計額を超えるときはその超過 額
五 第210条第五号に掲げる場合(閉鎖会社が 売渡請求をして取得した場合)において又 は第210条の2第①項(取締役又は使用人 に譲渡するため取得した場合)もしくは第 210条の3第①項(閉鎖会社が株主の相続 により取得した場合)の規定により取得し て有する株式につき、貸借対照表の資産の 部に計上した金額の合計額
六 資産について時価を附した場合(時価評価 の強制及び低価法の適用の場合を除く)に おいて、その附した時価の総額が取得価額 の総額を超えるときは,時価を附したこと により増加した貸借対照表の純資産額 ② 前項の規定に違反して配当をしたときは、
会社の債権者はこれを返還させることがで きる。
旧商法(1899(明治32)年施行)
第156条
株式会社ハ七人以上ヲ以テシ且政府ノ免許ヲ得ル ニ非サレハ設立スルコトヲ得ス
16 石井良助『法制史』山川出版社, 1964年, p.294。
17 Roesler, Karl Friedrich Hermannドイツの公法学者で明治時代での御雇外国人。ロストク大学教授。 1878年 11月来日。外務省および太政官の法律顧問であった。
18 高田晴仁『ロエスレル商法草案『緒言』法学研究』2009年,慶應義塾大学, 82巻12号 p.670。
19 大竹秀男他『日本法制史』青林書院新社 1975年, pp.291-292。
20 『会社条例変遷委員会 商社法第一読会会議筆期』pp.157-158。
21 稲葉威夫他『改正史から読み解く会社法の論点』中央経済社, 2008年, pp.258-259。
第219条
利息又ハ配当金ハ損失二因リテ減シタル資本ヲ 填補シ及ヒ規定ノ準備金掴取シタル後ニ非ラサレ ハ之ヲ分配スルコトヲ得ス
準備金カ資本ノ四分一ニ達スルマテハ毎年ノ利 益ノ少ナクトモ二十分一ヲ準備金トシテ積置クコ トヲ要ス
1895(明治32)年の商法改正では、免許制の文 言は消えた。旧商法の設立免許主義に代わって準 則主義が採用された22。また、配当可能利益につ いては、商法194条にて利益準備金の積立を旧商 法156条と同様としている。
商法(1911(明治44)年施行)
第194条
会社ハ其資本ノ四分ノ一ニ達スルマテハ利益ヲ 配当スル毎ニ準備金トシテ其利益ノ二十分ノ一以 上ヲ積立テルコトヲ要ス
額面以上ノ価額ヲ以テ株式ヲ発行シタルトキハ 其額面ヲ超ユル金額ハ前項ノ額ニ達スルマテ之ヲ 準備金ニ組入ルルコトヲ要ス
第195条
会社ハ損失ヲ填補シ且前条第一項二定メタル準 備金ヲ控除シタル後ニ非サレハ利益ノ配当ヲ為ナ スコトヲ得ス
前項ノ規定二違反シテ配当ヲ為シタルトキハ会 社ノ債権者ハ之ヲ返還セシムルコトヲ得
資本の払込が、昭和23年商法改正まで、4回ま での分割払によることを認めていた。そのため、
明治時代以降の決算書には、未払込株金(会計判 断は、将来入金があることが認められるため債権 的要素とし計上していた)の表記が多くみられ た。資本充実の責任は、会社とされていたのであ る。昭和23年商法改正により一括払込へ改正され た。また、昭和25年授権株式制度へ改正されてい る。授権株式制度は、定款に記載するなどある一 定の条件のもと株主総会で資本金の将来の限度額 を定めれば、取締役会にて資本金を増資すること
が可能とする制度である。現在の会社法と比較す ると明治時代の商法の大きな特徴である。
社債については、明治時代 商法200条によっ て資本金を超える社債発行が禁止されていた。こ のため活用されていない。日本郵船株式会社の社 史70年史で1892(明治25)年に225万円一回発行後、
昭和2年まで社債の発行は、確認できなかった。
商法200条
社債ノ総額ハ払込タル株金額ニ超ユルコトヲ得 ス
最終ノ貸借対照表ニ依リ会社ニ現存スル財産カ 前項ノ金額ニ満タサルトキハ社債ノ総額ハ其財産 ノ額ニ超ユルコトヲ得ス
明治政府は、株式会社制度を認めながらも対応 は、遅かった。株式会社制度の特徴である債権者 に対しての有限責任と無限責任について統一的政 策がなく混乱は、続いた。
配当については、債権者保護の観点から利益準 備金の規定(利益に対し1/20の積立を要する)
を設けたのみで、配当可能限度額の算出方法の規 定は、存在しなかった。
第3章 会計制度の導入と普及
第1節 会計制度の導入
明治時代の殖産興業の推進とともに政策により 西洋式の会計システムが導入された。最初に実 務レベルで利用できるようにしたブラガ(V.E Braga)は、であった。明治政府は、1872(慶應4)
年に大阪に造幣寮の建設を行い、香港のイギリス 王立鋳造局の貨幣鋳造機械を購入し、その際に鋳 造技術指導のため香港のイギリス造幣局長であっ たキンダー(T.W.Kinder)たちを雇用した。この なかに香港生まれのポルトガル人「勘定役兼帳面 役」のブラガがいた。大阪造幣寮の会計システム は、ブラガが構築する。その構築内容は、次のよ うに西川孝治郎によって、解明されている。
① 原始証憑 Voucher(証拠)
② 仕訳のための下書 Waste Journal 22 西川俊作他編 前掲書, p.373。
③ 仕訳帳 Journal
④ 総勘定元帳 General Ledger ⑤ 日々の残高一覧表 Daily Balance
⑥ 定期的な決算書 Balance Sheet 及びProfit
&Loss Account
ブラガが示した記帳方法は、近代会計学の父と 言われるパチョーリが『スンマ』において示した 記帳方法を踏襲していた。異なる点として指摘で きるのは、『スンマ』が店先でおこなわれたすべ てを日記帳に書き取ることを求めたのに対して、
ブラガは、定型化された取引毎に原始証憑に書き 取ることを求めた点である。ブラガは、大阪造幣 寮のような閉塞した環境での利用であったことか らここから普及することはなかった23。
この後、ブラガは、大蔵本省にて「簿記計算法 取調方」の職位を与えられ簿記の講習を行った。
ブラガの大蔵省内の複式簿記の導入の成功により 1878年(明治11)年に「計算簿記条例」が大蔵省 より通達され「各庁金銭ノ出納計算ハ総テ複式法 に拠テ帳簿ヘ記入スヘシ」(第一条)が発令され 日本の政府会計が、複式簿記を採用された24。 福 澤 諭 吉 は、『帳 合 之 法』 に よ っ て、 世 に 簿 記を普及させた。この本は、米国の簿記教育書
『Bryant=Stratton=Packard』 を翻訳したもので あった。『帳合之法』は、既に述べたように『学 問のすゝめ』と同時期に発売されたこともあり、
会計知識にかんする社会的普及に大きく貢献し た。
同時期に発刊された第一国立銀行の会計システ ムを立案したアランシャンドの『銀行簿記精法』
は、大蔵省より発刊された。初版1000部であった。
また、銀行での利用であったこと、銀行簿記であ ることからその利用は、限定的であった。
この時期に我が国に導入された西洋の会計は、
静態論による会計思考であった。しかし、導入当 初静態論の導入つまり西洋化への会計が、どのよ うな思考をもちどのような結果をもたらすかは、
当時の西洋簿記を普及するために作成された書籍 福澤諭吉『帳合之法』25、アレクサンドル・アラ ンシャンド『銀行簿記精法』26、そして教育教科書 として作成された森島修太郎『民間簿記学』27、『簿 記学例題』28などからは、確認できない。第一国 立銀行創設の以降、株式会社制度を国全体に普及 させことを第一義に考慮し債権者保護思想を背景 とした。貸借対照表による利益測定に重きを置く 静態論の会計は、資産負債の測定で換金性によう る評価を中心として考えるものである。債権者へ の報告制度の一環としてとらえる。
債権者の保護を主とする20世紀初頭から静態論 から動態論への変化があった。動態論は、売上に よる現金流入と費用による現金支出の差額を利益 としてとらえようというものである。会社の視点 が、債権者重視から株主重視へ移行していき収益 力に着目すことになったからである。このような 会計の視点の変化とともに会計が普及した。
第2節 会計制度の普及及び会計教育
わが国において、会計教育が、社会的なものに なったのは明治初期である。江戸時代からの寺小 屋などによって教育を受けていたため識字率がた かかった。文部省の行った『日本教育資料』によ れば、寺小屋は、全国的に出現し明治初年ごろま でに15,000程度あったとされている。識字率の高 さにより書籍の流布は、他国に比較すると浸透し やすかった。
複式簿記は14.15世紀に航海毎の損益計算をお こなう口別計算として機能した。株式会社制度の 一般化とともに損益計算と同時に財産計算の側面
23 工藤栄一郎『我が国における会計基礎教育の歴史』日本公認会計士協会,2016年 p.16。
24 工藤栄一郎 同書, p.16。
25 福澤諭吉 訳『帳合之法』慶応義塾出版局, 1873年。
アメリカで19世紀後半に三者共著により普及した簿記書『Bryant=Stratton=Packard』の翻訳。
26 Shand, Alexander Allan『銀行簿記精法』大蔵省, 1873年。
27 森島修太郎『民間簿記學』中近堂, 1884年。
森島修太郎は、和歌山県出身の士族で慶應義塾で学び、三菱商業学校の教師、三菱本店副支配人を務めた経歴 28 森島修太郎『簿記學例題』三菱商業学校, 1884年。
からも利益を算出する手段となった29。複式簿記 之の普及に大きく担ったのは、『帳合之法』であ る。まず、『帳合之法』を出版後に慶應義塾出版局、
丸屋商社等、複式簿記を実施させ、また、各所で 講習を行う。次に、明治五年八月「学制」を領布 して小・中学校で記簿法を教えることになる。初 めはこの書がただ一つの教科書として全国に広ま った30。その後、森島修太郎など福澤の門弟たち によって簿記の方法が深化していく。ただし、株 式会社制度は、経営の分離を前提とするのだが、
官主体、三井家などの大株主による株式保有形態 であったため資本と利益計算においては資本と株 主の分離はまだ明確ではなかった。
明治初期は、会計教育が重視された。1872(明 治5)年に学制が定められて学制公布後1873(明 治9)年の『文部省年年俸』によると、福澤の『帳 合之法』や加藤 斌の翻訳『商家必要』、それに文 部省が出版した小林儀秀『馬耳蘇氏記簿法』など が教科書であった31。これらは、初等レベルの教 科書として出版されており、専門教育としての商 業教育としてではなく一般教育としての初等段階 で教育されていた。明治時代では簿記教育からも 明らかなように必要性が、重要視されていた。
学制については、太政官布告第二百十四號(明 治五壬申年八月二日)「人々自ラ其身ヲ立テ其産 ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノ ハ他ナシ身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スルニヨルナ リ而テ其身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スルハ學ニア ラサレハ能ハス是レ學校ノ設アル」と、学校を設 置する理由について示されている。人々が自分自 身で立身し、その財産を管理し、その事業を盛ん にして、そうすることでその一生を全うすること ができるのはなぜかというと、それはほかでもな い、身を修め、知識を広め、才能や技芸を伸ばす
ことにある。身を修め、知識を開き、才能や技芸 を伸ばすことは、学問によらなければ不可能であ る、と記している。『学問のすゝめ』の発刊は、
1872(明治5)年2月で学制が1872(明治5)年 8月の発令であった。このことから『学問のすゝ め』が、学制に影響を与えたが事が推察できる。
福澤が、『帳合之法』の翻訳を行った背景には、
同時期に発行された『学問のすゝめ』で、確認で きる。教育の基礎について、「勤むべきは人間普 通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文 字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽 古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学 ぶべき箇条ははなはだ多し32」と、帳合(記帳)
を五十音の取得と同レベルに考えていたのであっ た。知識は、書によって獲得できるので文字の普 及を第一にしていた。次に帳合、算盤、天秤など 数値化し科学的な思考によって自立した商売や、
科学現象をとらえるべきことと考え教育の基礎と したのであった。
学問について、知識の習得が本来あるべき姿で ない。これを福澤は、「経書・史類の奥義には達 したれども商売の法を心得て正しく取引きをなす こと能わざる者は、これを帳合いの学問に拙き人 と言うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金を 費やして洋学は成業したれども、なおも一個私立 の活計をなし得ざる者は、時勢の学問に疎き人な り。これらの人物はただこれを文字の問屋と言う べきのみ33。」と、学問の結果、自立した個人で、
生きることがでなければ、学問を習得したものと 言えない、とした。福澤が、学問をすゝめること の大義は、江戸時代まで大きな事業を藩がおこな い、職業について座によって継承され、納税につ いて五人組34などの制度によって管理されていた 世の中を変革すため、自立ある人間を育成するこ 29 茂木虎雄『近代会計成立論』未来社, 1969年, p.263。
30 福澤諭吉訳『帳合之法』雄松堂出版, 1985年, 解題 p.12。
31 石井義正『複式啓蒙記簿階梯』、森下岩楠『簿記学階梯』、遠藤宗義『小学記簿法』、安部迪吉編『初学必携通 俗簿記法』、城谷謙『小学記簿法独学』、呉新一『簿記学精理』、塚田正教『小学記簿法初編』、吉田忠健『小学 記簿法』、山田尚景『小学記簿法』などである。
32 福澤諭吉『学問のすゝめ』青空文庫, p.2。
33 福澤諭吉 同書, p.6。
34 日本史の五人組とは、江戸時代に領主の命令により組織された隣保制度。連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であ り、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。
とだった。
とくに数値管理の重要性については、「事業の 成否得失につき、ときどき自分の胸中に差引きの 勘定を立つることなり。商売にて言えば棚卸しの 総勘定35のごときものこれなり。」や「平生、智 徳事業の帳合いを精密にして、勉めて損亡を引き 受けざるように心がけざるべからず。」とし、事 業について損益計算を行い、損失を被らないよう 日々、心がけることを示唆している。
福澤の『帳合之法』は、複式簿記を訳したもの である。明治時代初期までは、単式簿記の大福帳 によって縦書きの帳簿を作成(和式帳簿)してい たことから、当時、複式簿記の翻訳が難航した。『帳 合之法』は、教科書として利用されていたので実 際の記帳方法を記している。例えば、日々の仕訳 帳を漢数字の縦書きで記帳し、仕訳帳から手形帳 などの転記を行っている。これだけでも、取引を 2つに分け、その分けたものを転記していく作業 について理解をしやすくした。
第4章 結論
明治時代の記帳制度は、福澤諭吉による『帳合 之法』によって全国の教科書の図書になり全国に 広まった。同年に出版された『学問のすゝめ』も 大きく影響した。また、渋沢栄一『立会略則』の 流布によって株式会社制度に対する理解が進んで いった。福澤は、学問をすることによって、それ までの身分社会から他者と対等に生きることを広 めた。その実践のために『帳合之法』を発刊した。
『帳合之法』は、訳書であり、その訳に苦労した 福澤の痕跡は、借方(debit)及び貸方(credit)
の訳や簿記書には、算用数字の横書きをどのよう に表現するべきか相当の苦労が窺える。また、『西 洋事情』によって、株式会社制度の見聞を国民に 啓蒙した。
明治初期の銀行等の株式会社は、政府主導によ る官民会社であった。政府が官民会社で株式会社 制度を確立する一方、国民に対し会社制度を理解 させていったのは、福澤の功績である。
福澤は、国民が、自立した経済を自身で行って
くみたてることであった。福澤の求めた会社像の 理解は、今も重要である。
江戸時代は、藩が大きな事業を管轄しており、
庶民がその恩恵にあずかる機会はなかった。ま た、身分制や座などにより職業を定められていた こともあり国民自身は、教育を受けても役立つ意 味を理解できなかった。教育に対しての消極性が 多分にあった。福澤は、このような状況を打開す るために教育を政府にまかせるのでなく、福澤自 身が教育機関の設置をし福屋などの商売で販売す る。
福澤は、西洋の黒船により自信を失った国民 が、教育によって対等に西洋人と交渉することが 重要であると考え、かつ西洋人との公平性を保つ ことを基軸にする。福沢の求めた株式会社制度 は、国民自身が経済的自立を構築するための一機 関であったといえる。
一方、渋沢栄一は、資本制度を早急に取り入れ ることが肝要であると考えていた。渋沢は、大隈 重信の要請により大蔵省に勤務する。殖産興業を 進める部署として改正係を置き、鉄道の敷設、電 信の開始、郵便制度を開始する。また官営工場と して富岡製糸場を開設する。
均衡財政を維持しようとしない政府首脳に嫌気 をさして大蔵省を退官した後は、第一銀行を皮切 りに多くの株式会社の設立に携わる。渋沢は、他 の財閥とは異なり、支配株主として株式会社を支 配しようとすることはしなかった。まず国民を豊 かにして、その結果として税収が増え、国を豊か にしようとした。
福澤は、国民自身が経済で独立した営みをもた せようと努力し、渋沢は、国民が、独立した経済 の環境を整えることに奔走したことであった。こ の二者によって株式会社の礎が、できたのであっ た。福澤がみた西洋の株式会社は、株式会社によ って資本を集中し、大量生産を可能にし、その結 果、株主が配当を得られる株式会社制度であっ た。幕藩体制の当時、民自らが、積極的に大きな 商売を行って、その利益を平等に民たちに分配し た西洋のシステムが、明治初期の福澤の株式会社 制度である。
35 大辞泉では、総勘定の意味を「収支の全体についての勘定。」としている。
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