• 検索結果がありません。

内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業. こっていることである.これが,. 序章. 問題意識と課題. 内蒙古自治区(以下内モンゴル)は,青海,. 「過放牧」が. 砂漠化を起こしているという認識の原因にも なっている.その正否を検証するためには,そ. 新選,チベット,甘粛とともに中国の「五大牧. れぞれの牧畜地域において実証的研究を行い,. 畜地域」を成している.これらはすべて少数民. 砂漠化のメカニズムを明らかにすることが重要. 族地域であり,経済的には中国で最も遅れた地. である.. 域である.五大牧畜地域は牧畜が基幹産業であ. サハラ砂漠の南緑に東西に広がるサヘル地域. り,辛,ヤギ,午,局,ラクダの五種類を主と. は,砂漠化が最も深刻な地域である.サヘル地. している.これらの家畜を「牧畜的家畜」とし,. 域は農耕と牧畜の中間地域であり,農牧交錯地. 鶏や豚などの「非牧畜的家畜」と区別し1),両. 帯である.その地域に昔から継永されてきた産. 方を含めて「畜産」とする.. 業は遊動畑,焼畑と遊牧である.遊動畑などの. 内モンゴルは,歴史文献では「塞外」と呼ば. 伝統的農法においては,一つの土地で2-5年. れ,万里の長城の外であることが強調されてい. 農作を行ったらその土地の地力が落ちるため休. る.そのことは,遊牧民族と農耕民族が対立す. 耕し,休耕期は20年という長期にわたる.し. る歴史において政治的に特殊な地域であること を示唆する.万里の長城沿線,中国の東北三省. かし1960年代に入ってから,人口増加の圧力. との境界線に沿って,早くから畑作を中心とす. した.これが地力の低下,さらに砂漠化を起し. る耕種農業が浸透し,農牧交錯地帯と呼ばれて. たのである.. きた.. 本論文は,このような内モンゴル地域を対象 とし,牧畜経営の本来のあり方,耕種農業の浸. 等によって休耕期が10年,時には5年と短縮. 「過放牧」による砂漠化問題は否定できない が,その「過放牧」の原因として移民による人. 透とその影響などを取り上げ,同地域農業の持. 口圧力の増大,草原開墾による放牧地の減少, 定住化による草原負荷の増加などが指摘され. 続可能な発展の課題を明らかにすることを目的. る.サヘル地域で未開拓の牧草地に井戸を掘っ. とする.. て「過放牧」問題を解決するという支援計画が 先進国によって実施されたが,井戸に家畜が集. 1既往研究と研究課題 (1)牧畜への文明論的アプローチ 内モンゴルの牧畜経営がかかえている諸課題 のなかで,世界の牧畜に共通するものがいくつ かある.一つは世界の牧畜地域に砂漠化が起. まり,周辺の牧草を食い尽くすため,かえって 砂漠化が急速に広がっていったという指摘があ る2).この現象は1990年代以降のモンゴル国 にも起きている.. 北アメリカにおいても,カナダで1860年代.

(2) 22. (370). 横浜国際社会科学研究. 第11巻第3号(2006年9月). 上述の二つの説は,いずれも一種の文明論的. から1930年代にかけて行われた定住化,草原 開墾,アメリカでの第一次世界大戦時の食料不. 仮説であり,牧畜社会のあり方∴牧畜地域の遅. 足によって加速した草原開墾は,それぞれその. れている原因を解明するためには,さらなる実. 後に起きた砂嵐の原因であることが指摘されて. 証的研究と理論的分析が必要である.. いる3).またソ連における「自然改造計画」の 失敗も,世界における砂漠化の原因を考えるう. (2)研究テーマの変化. えで欠かせない事例である.. 集中し,清未までは伝統的経営方式を維持して. 中国における牧畜経営は主に少数民族地域に. もう一つは,世界の牧畜地域において経済の. きた.しかし,それ以降は農耕民族の入植,翠. 発展が遅れていることである.この現象が何を. 閥による開墾などによって,牧畜社会の経営構. 意味しているのかは,多くの牧畜研究者たちが. 追,民族構成が大きく変わった.さらに中華人. 頭を悩ましてきた.. 民共和国成立後は,体制転換の過程において, 牧畜社会が農耕社会へと変容し始めた.. この間題についての先行研究として以下の二. 中国の政治,経済の枠組のなかで,内モンゴ. つがあげられる.第一は,古くから知られてき た牧畜起源説の一つで,狩猟・採集の生活から. ルあるいはそれを含む少数民族地域の牧畜を取. 遊牧の生活を経て,農耕-進化してきたという. り上げた研究は,主に中国本土における研究で. 直線的進化論に基づく生活様式の発展段階説で. ある,外国の研究者たちにとっては,中国の牧. ある.この説の始まりは古代ギリシアに遡る.. 畜経営問題より,内モンゴルという歴史の舞台. その後,旧石器時代人を狩猟民,新石器時代人. であった地域の社会変容,遊牧のあり様とその. を牧畜民4),青銅器時代人を農耕民と解したこ. 現状,あるいは自然そのものが,主たる研究対. となどによって支持を得,. 象であった.これは,外国研究者の多くが,人. 19世紀の終わりま. でヨーロッパの学会を支配する5).これは,遊. 類学,生態学,考古学の視点からモンゴルを研. 牧は農耕より低い発展段階にあり,従って遊牧. 究してきた原因であろう.. 民も定着農耕民より低度の段階にあるという認. 中国本土における牧畜研究は,おおむね二つ. 識を示している.この説は,現在は必ずしも支 持されなくなったが,なお遊牧が農耕より後進. の時期に分けられる.一つは,中華人民共和国 成立の1949年から1970年代末までで,生産量. 的と見なす人は少なくない.. を増加させることが至上命令であった.戦乱が. 第二は,遊牧国家説で,遊牧国家の興亡は支. 収まった直後で,国民にとって腹いっぱい食べ. 配者,政権の掌握者の交替に過ぎず,社会の歴. られること,政府にとって外国に頼らず国家体. 史的発展と無関係であるという「くりかえし」. 制を維持することと,国民に対して「社会主義」. 説がある.それに,ラティモア6)は遊牧国家の. が「資本主義」より先進的であることを証明す. 興亡を,政治権力の集中・強化期と分散・弱化. ることが重要であった.このような非常時の状. 期との交替とし,社会は前者のとき二歩進歩し,. 況に強いられ,政府は基本産業である農業,内. 後者のとき一歩退歩し,全体として進歩するの. モンゴルでは主に牧畜経営の生産量を短期間に. だという「らせん」説を説いた.この考え方を. 増加させることに関心を払った.研究機関も政. 支持し,. 府の指示を受け,人工繁殖,品種改良,災害防. 「遊牧経済+Ⅹ-発展」という外部要. 素促進説を主張したのが松田寿男7)である.. X. 止などを中心に研究を行った.さらに,人氏公 「宰畜率」 (食用. とは,戦争,交易,貢物,農耕文化の導入など. 社ごとに,家畜の「出産率」,. の外部要因で,牧畜経済は内部的発展要素を持 たないという説である.この説は未だに多くの. のため殺した家畜の割合)の規準を設けるなど. 研究者たちに支持されている.. のノルマ制度を採用した. ところが,. 1980年代に入ってから研究の制.

(3) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). 限がなくなったこともあり,研究方向は一変. (371). 23. (3)実証研究の変遷. し,一時は当時の最大の話題であった「生産請. 内モンゴル牧畜におけるフィールドワーク. 負制」や「市場経済化」に向けられた.しかし その多くは,政府の宣伝とも言うべきもので,. は,古代における旅行記事などを除けば,はっ きりした目的を持ち,かつ全面的なものは,宿. 十分に議論されたものではなかった.この時. 朝時代から始まる.その目的はモンゴル地域の. 期は同時に砂漠化が深刻化した時期でもあり,. 統治であり,その文章からは「遊牧は後進的で,. 1995年以降の畜産物価格の低迷が重なって,. 遊牧民は野蛮である」という認識が容易に読み. 研究の中心は牧畜そのものではなく,環境問題. 取れる10).. にシフトしていった.. 日本においては,. 環境問題は,その原因の研究が盛んであり,. 1910年前後に鳥居竜蔵夫. 妻が蒙古踏査を行った.. 大体三つにまとめることができる.. ①過放牧に. よる砂漠化, ②開墾による砂漠化,. ③気象悪化. 1930年代には満鉄調 査科による牧畜調査11)が残されているが,そ の目的は資源調査,あるいは地理調査であって, 当時の牧畜の実態を十分に反映したとは言いが. による砂漠化の説である8),しかし,その研究 手法は様々であり,歴史学的,生態学的,農学. たいものである.. 的,気象学的,法学的,経済学的などの視点か. 藤富男の研究は,後に江上の騎馬民族国家説と. ら分析されている.. 後藤の内陸アジア遊牧民社会研究に体系化され. このなかで,歴史的研究と生態学的研究で. る12).. 1940年前後の江上波夫と後. 1944年に行われた今西錦司,梅樟忠夫. は,降雨量の少ない高原地域である内モンゴル. らのフィールド調査の成果が戦後に発表され,. 地域に適するのは牧畜であり,農耕ではないと. 注目を集めた.それは内モンゴル牧畜の調査で. いう見解が共通している. 法学的,経済学的研究では,それぞれ生産手. もあり,牧畜一般の調査でもあった.両氏は家. 畜と人間の相互関係という視点において,その. 段の共有制から請負制へ,計画経済体制から市. 後の人類学的研究に大きな影響を与える13).. 場経済体制への転換のなかで,農民はどういう. その後は両国の政治的理由により,内モンゴ. 行動をとるか,その行動がどういう結果をもた. ルにおける現地調査が中断され,再開するのは. らすかといった農民の行動研究が中心である.. 1970年代以降である.日本人学者による現地. 中華人民共和国成立後,さらに改革開放後の環. 調査の目的には明らかに変化が現れた.研究の. 境悪化は人為的行為によるもので,この意味に おいては,法学的,経済学的研究が大いに期待. テーマは牧畜一般ではなく,牧畜社会の変化に 移った.その中で最も盛んなのが環境問題と,. されるが,研究の幅,深度からして不十分であ. 内モンゴル東部地域における社会構造の変化に. るといわざるを得ない.. ついての研究である14).. 2001年以降は第三の時期とも言える. 年は「放牧禁止」を実施し始めた年であり,. 2001. 「放. これらの研究を整理すると,三つの大きな欠 落があるように思われる.一つは,研究の視点. 牧禁止」によって,経営方式の転換とコスト増. として歴史学,人類学,生態学,社会学の立場. 加を余儀なくされ,環境問題は牧畜民個々人の. から内モンゴルの牧畜あるいは農耕浸透問題を. 収益に関わる身近な問題となった.. とらえているのが圧倒的で,経済学の視点から. 「放牧禁止」. により,牧畜問題は,牧畜だけではなく,農民, 農村問題に発展した.その焦点となるのは, 態移民」, 「放牧禁止」,. 牧畜経営,または内モンゴル地域の生産構造の 「生. 「社会変遷」等である9).. 変化を把握しようとした研究は非常に少ない. 次は,実証的研究の少なさと断片的な点であ る.近年,北京大学,清華大学などの学部生に よる農村調査報告書が話題を呼び,国務院の高.

(4) (372). 24. 横浜国際社会科学研究. 第11巻第3号(2006年9月). い評価を受けたこともあり,農村調査が認めら れるようになった.これにより実証的研究も台. モンゴル牧畜が,経済と環境の両面において困 難に直面しているがゆえに,その最大の課題は. 頭してきたが,内モンゴル地域においてはまだ. 牧畜経営の持続可能な発展の問題であるといえ. 目立つ動きが見られない.今までの数少ない実. よう. 農業の「持続可能な発展」問題においては,哩. 態調査の多くが,日本人の研究者,日本へ留学 した内モンゴル出身の研究者,学生によって行. 論的枠組みとして,まず,第一にその地域に最も. われたものである.環境問題についてはホルチ. 適する農業形態は何かを正確に判断する必要があ. ン地域に,牧畜についてはシリンゴル地域に集 中して調査が行われてきたが15),内モンゴル地. る.農業形態は,それぞれの地域の極相に即して 生業として成り立ち,営まれていくという環境要. 域を全体的に把握しようという視点がやや欠け. 素と,土地生産性の高い,土地面積当たりカロリー. ているといえよう.. 生産力,人口扶養力の高い生業が支配するという. または,研究の枠組として,内モンゴル牧畜. 経済要素の兼ね合いで決まる19).従って,内モン. を,単なる遊牧文明の発祥地としてとらえるこ. ゴルの地理,気候,資源条件に最も相応しい農業. とと,内モンゴルという地理的枠組のなかでと. 形態は「牧畜」か「農耕」か,言い換えれば,砂. らえることが多いのに対し,中国という社会的,. 漠化はいかに,そしていつ発生し,いつ悪化した. 政治的,経済的環境のなかで,内モンゴル牧畜. のかを検証することが,あらゆる政策設計の前提. の本来のあり方とそれの外部要素の影響によっ. となる.. また,内モンゴル地域においてみると,牧畜. て変化してきた過程を解明しようとした研究が. 経営は伝統的産業であるが,清末とりわけ中華. 少ない.. 2. 人民共和国以降は耕種農業の浸透が著しい.こ 「伝統文 れに伴い, 「砂漠化」という環境問題,. 問題意識と課題. 化の崩壊」という社会変容,. 内モンゴル地域において,牧畜経営は何千年. 「放牧地の転用」. にもわたって営まれてきた伝統産業であり,旬. という経済現象が起こっている.その直接的原. 奴,東胡,鮮卑,柔然,テエルク,キッタン,. 因は,牧畜経営がその経済的優位を失ったこと. モンゴル16)という世界史に名を残す遊牧国家17). である.そこで,第二に内モンゴル牧畜がどう して遅れたのかを明らかにすることが求められ. を支えてきた.しかし,今日の内モンゴル牧畜 は,砂漠化を引き起した「張本人」とされ,. 「放. る.. 牧禁止」政策まで打ち出された.生産請負制を. 本稿では,第一の課題である環境問題につい. 実施してから1990年代末までは放牧地の一部. ては,牧畜と農耕の相互関係の変化,その背景, 影響を,歴史記載と統計データをもって実証的. を耕地に換えて兼業収入(野菜,飼料を作って 牧畜経営は優勢でなくなり,牧畜をやめて農耕. 「農業形態」, に分析し,さらに「勢力・政策」, 「環境」を給合的にとらえることを試みる.第. を行うようになった.牧畜経営は環境,経済の. 二の課題である経済問題については,牧畜経営. 両面において窮地に陥ったのである.. を,その本来のあり方を解明したうえで,中国. 支出を減らす)を得ていたが,. 「持続可能な発展」の概念が,. 2001年以降は,. 1987年にG.. Brunland18)によって提起され,人々の注目を 集めた.この概念を農業においてみた場合,農. H.. という枠組のなかでとらえ,外部要素と内部要 素の相互作用,とりわけ国家政策の影響を分析 し,今日における政策課題を明確にする.. 業が環境にやさしい生産方式をとって継続でき ることと,農家がそれを生業として生活を維持 できることが農業の持続可能な発展となる.内. 第一章. 内モンゴル牧畜の展開. 内モンゴル地域を舞台にした諸遊牧国家は強.

(5) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (373). 25. 表ト1内モンゴルにおける農業経営変化の推移 朝代 原始的. 時期. 前奏. 前222まで. 秦漠. 前221-219. 支配勢力. 農業経営形態. 遊牧民族. 段階 氏. 農耕民族. 磨 族. 魂晋-惰朝. 220-618. 遊牧民族. 経 史. 演. 唐、五代. 遼金元 的. 私 有 経 演. 明清民. 計画経済期 段. 619-946. 947-1367. 1368-1948. 農耕民族. 遊牧民族. 農耕民族. 1949-1981. 社. 社会と環境. 原始的牧畜. 馬と絹の交易. 狩猟. 原始的自然. 第一次草原開墾. オルドス地区砂漠形成. 遊牧北上. 正式な関市設立. 遊牧復帰. 環境回復. 遊牧南進. 牧畜技術の発展. 草原開墾. 毛烏蘇砂漠形成. 農耕が東部-浸透. 草原退化. 遊牧繁栄、発展. 商業都市形成. 農耕を導入、制限. 官営牧場登場. 第二次草原開墾. 草原退化. 農牧構造定着. 商人商社進出. 第三次草原開墾. 人民公社制. 農牧並行型経営. 環境悪化. 耕地の分配. 生産請負制. 農牧補助型経営. 環境問題を重視. 放牧地の分配. 市場経済体制. 農牧兼業型経営. 持続可能な発展概念提出. ′∠ゝ ユヾ. 主 義 階. 経 演. 過渡期. 市場経済期. 1982-1991. 1992-現在. (出所)筆者作成.. 大な武力によって世界を制覇したことで知られ ている.彼らが世界史に与えた影響,東と西, 農耕地域と牧畜地域の交流に果たした貢献は大 きいものであった.彼らの歴史は彼らに侵略さ れた民族によって善かれ,. 「残酷」, 「野蛮」と. 1中華人民共和国以前の牧畜経営 (1)氏族経済期 前奏時代は,中国全土において統一政権が形 成されていなかった,. 8000-7000年前の新石 器時代,内モンゴル地域では狩猟,放牧を生業. イメージされ,近代社会においては遊牧国家そ. としていた.. のものが歴史の舞台から退けられていった.と. クダ,ロバなどが家畜化されていた20).春秋時 代に入ると,内モンゴル地域は中原地域におい. はいえ,環境悪化が世界的に問題視されてきて から,牧畜社会の生産のあり方,遊牧文明が, その活躍した土地の地理,気候状況により相応. 4000年前に既に牛,局,辛,ラ. て馬の産地として知られ,北から馬,南から絹 というまさしく「馬と絹の交易」フうミ盛んであっ. していたことが指摘されるようになった. 内モンゴルの歴史では,遊牧勢力の盛衰に. た.. 伴って,万里の長城一帯の農牧交錯地帯におい. なく,むしろ支配者の間に額繁に行われていた.. て牧畜と農耕の消長が繰り返して行われた.こ. その後に秦,漠という巨大王国が成立し,北. 「馬」と「絹」のいずれも,日常必需品で. はなく,賓沢品であり,当時の交易は民間では. のような歴史過程における勢力,農業形態,環 境の相互関係を把握するために,大きくは中華. 方地域では旬奴という奴隷制政権が形成され,. 人民共和国以前と中華人民共和国時期に分けて. ここから,中原と北方勢力の交流,衝突,浸透. 論じることにする.さらに原始的段階と歴史的. の歴史が幕を開く.秦は万里の長城を建て始. 段階と分離し,歴史的段階を氏族経済期,私有. め,北方勢力の侵略を食い止めようとした.万. 経済期,社会主義経済期に分けて論じる.詳細. 里の長城が軍事的防御機能を果せたかどうかは. は表1-1である.. 別として,国境線として機能しながら,中原. 内モンゴルの歴史で初の階級社会が創られた.. と北方の交易場になっていったことは確かであ.

(6) (374). 26. 横浜国際社会科学研究. 第11巻第3号(2006年9月). (出所)筆者作成23).. 図ト1内モンゴルにおける草原開墾の略図 る.. に農耕をやらせた.前2年の時点で,西部内モ この時期は,戦乱の時期でもあった.始皇静. 32年(前215年),秦が旬奴を打ち破り,. 700. ンゴル地域で漢民族が既に100.5万人に達し, 当該地域人口の57%を占めるようになった.. 壁(秦,漠代の行政区画の名)の土地を占領し,. こうして大規模な草原開墾によって,生態環境. オルドス地域に大規模な農耕を行った.中国古. が破壊され,農耕が継続できなくなった.. 代朝廷によるいわゆる「移民突辺」政策が始ま. 東漠朝廷がこれら地域の移民に食料と旅費を与. るのである.始皇帝37年,中原地域が混乱に 陥り,旬奴が再びその地域を占領した.約一世. え,故郷に帰らせた.この2世紀も続いた草原 開墾が閉幕したのである.図1-1にみるように,. 紀後,西漠が現在の内モンゴルのパインノール. オルドス市は黄河の口形に湾曲した部分に位置. 盟21)とオルドス盟で開墾を行った.囚人を釈. し,黄河の北側のパインノール盟とともに河套. 放する,あるいは平民に爵位を与えるなどの条. 地域と呼ばれるが,秦漠時代に草原開墾が繰り. 件で占領した地域に移住させ,農耕民が自主的. 返して行われたため,今日ではアラシャン盟に. に移住して農耕を行ったものではなかった.前. 次いで砂漠の多い地域である.庫布斎砂漠はこ. 127年,さらに河南地域(黄河の南側)を占領 し, 10万人を送り出して移住させた.前120. の時期に形成したと推測されている22). 秦漠時代に,牧畜経営は飛躍的発展を遂げた.. 年,山東地域での水害により,大勢の農耕民が. そのきっかけは去勢技術の使用であり,遊牧民. 飢優に見舞われた.その難民70万人を甘粛と. 族にとって画期的な発明であった.. く. ぶ. 48年,. ち. 内モンゴル地域に移住させた.前110年,現在. まず生産の面では,雄牛間の争いを人為的に. の内モンゴル地域で宮田を作り,兵卒60万人. 防ぎ,能力の高い種牛と交尾させることに成功.

(7) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (375). した.牧畜研究において,氏族,地域の間で種. 漠南は勅勘人の居住地となった.その生活ぶり. 牛を頻繁に交換することが指摘されているよう. は『楽府詩集』の『勅勘歌』から分かる.. に,種牛を交換することによって家畜群のなか. 勘川,陰山下,天似考慮,龍蓋四野;天蒼蒼,. で交尾することも防げた.これにより,家畜の. 野荘荘,風吹草低限牛羊」. 改良も可能となった.. 広がり,風が吹くと草の中から牛,羊が見える). が. また軍事力の面では,遊牧民族が「騎馬民族」 「馬」も家畜の一種で. ししゅう. 「勅. (青空の下,原野が. と当時の様子が描かれている.. とも呼ばれているように,馬をうまく操ること が何より重要であった.. ふ. 27. 鮮卑族が中原-侵入してから,漠族の農耕文 化の影響を受け,塞外(長城の外側)の遊牧地. ある以上,いくら馴化されても交尾期に発情し. 区でも農耕を試みた.その地区は現在のフフホ. て,操る人に反発する.軍隊の食糧としての家 畜の群れの管理にもより多くの手間がかかり,. どう. 戦闘するどころか,家畜の管理で手一杯になっ. 地域において,土地を分・剖し,定住化を図った.. てしまう.去勢技術によって,一つの群れに一 匹の種馬を置けば群れの管理も簡単にできるう. どこまで進んだかは不明だが,おそらく長くは. ト市とウランチャブ盟の南部にあたる.北魂の. 続かなかったと思われる.. え,去勢した馬を戦争に起用すれば軍事力は常 に保たれる.. ぷてい. 道武帝が政権を固めるために,内モンゴル西部. 唐,五代の時代に,北方の遊牧地域が再び中 原勢力の支配下に入った.唐朝が現在の内モン. 去勢技術が歴史記述に登場するのは西漠. ゴルの河套地域を「国の北門」と位置づけ,辛. きょえんかんかん. (『居延漠簡』に記されている)であり,しかも. 原開墾を行った.その範囲は,トクト県,河套. 漢民族によって記載されたことからして,その. 地域,包頭市とフフホト市付近,ジュンガル. 発明あるいは使い始めたのはそれ以前であるこ. 旗まで及んでいた.紀元9世紀初頭,ホリンゴ. とが推測できる.内モンゴルの歴史で,初の遊 牧民族国家ができあがったのは旬奴国であり,. ル県とオルト前旗でも農耕が行われ,現在の う 毛鳥蘇砂漠がそのとき形成した.そしてこの時. その軍事と経済を支えた背景に去勢技術があっ. 代に,内モンゴル東部のシラムレン流域とロー. たと考えられる.従って,前奏時代を牧畜の原 始的段階とし,秦以後の時代を牧畜の歴史的段. ハ淀城の80強ケ所で開墾が行われた.これは, 農耕が内モンゴルの東部へ浸透してきたことを. 階とする.去勢技術を日常的に使うことによっ. 意味する.その具体的位置は図1-1のホルチン. て,牧畜は社会経済活動の一環として成り立ち, 原始的牧畜経営から離れた.すなわち,人間に. 地域である.. も. とって家畜は単なる自然資源的存在であったも のが,人間の意志によって完全に制御し,再生 産を行うことができた点に画期的変革があった といえよう. 魂晋から階朝までは,中原地域にいくつかの. そ. (2)私有経済期 遼金元時代は,北方地域にとって軍事,経済, 環境各面において最盛期であった.逮,金,元 の時代,遊牧民族の勢力の拡大に伴い,牧畜も 発展し,それを基礎に商業が発達した.遼の上 京は内モンゴル歴史上初の城都であり,当時商. 政治力が同時に存在していた.内モンゴル地域. 品交易の重要な場所となっていた.金の時代も,. はほとんど遊牧民族によって支配され,牧畜も. 10ケ所以上もの互市(国境の市場)を造った.. ー定の発展を遂げた. 386年に,鮮卑が北魂を 建て, 2世紀にわたって内モンゴル地域と山西 省を支配することになる.北魂の太武帝が占領. 元の時代,現在のシリンゴル盟とウランチャブ 盟領内の互市が非常ににぎやかであったとさ. ちょくろく. れる.そして当時の上都は有名な商業都市で知. した浜北(ゴビ砂漠の北側)の勅勘族の10万. られていた.中原,中央アジア,ヨーロッパの. 戸を家畜と一緒に漠南に移住させた.それから. 商人達が金属器物,日常製品を,家畜,畜産品.

(8) 28. 横浜国際社会科学研究. (376). 第11巻第3号(2006年9月) みん. しりようろく. 「遊牧民は酒で. と交換していた.元の時代には官営の畜産加工. 民がその著作の『使遼録』で,. 業が現れた.. 馬を麻酔させ,肺の手術をしている」と記して. 1276年,上都で軟皮局(革製品). 1263年,元の上都に「恵民薬局」が造. が設立された.そして1279年に豊州毛子局(毛. いる.. 製品), 1283年に上都毛子局, 1285年に雑造鞍 子局(総合製造)が次々と設立された.また馬. られた.また,北方遊牧民族の獣医処方を解釈 せん. き. つうけんろん. した『症旗通賢論』がまとめられた24). そして何よりも,牧畜技術の進歩と家畜の増. 乳酒をはじめ,多種類の乳製品が官営工場に. 加により,モンゴル社会の基本的生産,軍事組. よって作られた.. 織に変化が現れたことに革命的意義がある.モ. 遼,金,元の時代のもう一つの特徴は,遊牧. 11世紀までは民族的共. 民族が政権を支配していたものの,農耕が牧畜. ンゴル社会において,. 地域に浸透してきた点である.このことは,モ. 同体の所有に基礎をおく「グリエン」組織が支. ンゴル社会,とりわけモンゴルの支配階級にお. 配的であった.. いて,農産物に対する需要があったことを意味 する.逮,金,元の時代,遊牧民族の勢力が中. 氏族が解体し,それに代わって私的所有に基礎. 11世紀から12世紀において,. をおく小さな単位「アイル」. 原地域へかなり拡張し,その支配下に入った農. 7うミ現れた.この「ア イル」組織は血縁親族の集団ないし地縁的組織,. 耕民族はモンゴル地域に自由に出入りできるよ. すなわち大家族である.そしてこのアイル共同. うになった.言い換えれば,農産物に対する需. 体が, 13世紀初頭の「千戸制」25)の中に組み込. 要があって,また農作の担い手が現れたことに. まれていく.. よって,農耕が遊牧政権の下でモンゴル地域に. そこで,. 「グリエン」から「アイル」へとい. 浸透したのである.この時期の農耕を,従来の. う社会・生産組織の変化はなぜ発生したのか,. それと区別してみる必要がある.従来の草原開. またそれがその後の牧畜社会にどのような影響. 墾は,中原勢力がその支配した土地に強制的か. を与えたのかは牧畜経営を理解するうえで重要. つ組織的に行っために対し,この時期は,耕作. である.. の条件が比較的に整った地区で,自主的かつ小 規模で行われた.さらに,元の朝廷は,草原の 『黒秘事 濫開発を法令によって厳しく禁じた. へいだ. 第一に,このような基本組織の変化の背後に 牧畜経営の発展があった.アイマグ(氏族)的. し. 集団である「グリエン」は,生産組織であり,. りゃ. 略』によると,モンゴル帝国は「草が繁茂して. 軍事組織でもあった.それを必要とした背景に. いる土地を開墾するもの,失火して草を燃やす ものを処刑する」とはっきり定めた. 1270年, 各地で百荷(ウマゴヤシ)を植えさせた.この. は,経済条件が考えられる.牧畜の競模,技術 条件などによって氏族が行動を共にし,牧畜の. 百荷は乾燥地域に最も適した栄養の豊富な植物. 同作業が不可欠だった.同時に,当時の牧畜社. で,今日でも緑化活動に使われている.. 会は衝突,闘争が毎日のように起こり,アイマ. この時期に,牧畜の質的変化が現れ始めた. 経営方式の変化,所有形態の変化と技術の発展. グを離れて生活することは許されなかった.. 世紀から12世紀において,いくつかの規模の. を遂げたのである.まずは官有の牧場の出現で. 大きいアイマグ集団が形成され,移動の範囲も. ある.遼朝が五つの官有の牧場を設立し,官職. 広がった.また牧畜が著しく発展し,家畜群を. を設置した.金朝は遼朝の牧場をそのまま残し,. 分離する必要が生じた.. さらに四つの牧場を増設した.元代に入ると,. 補助手段として狩猟も行わなければならず,共. 第二に,氏族の解体,すなわち「アイル」共. 官有の牧場が14ケ所となり,家畜に官印をつ. 同体の形成が,牧畜社会のさらなる発展を可能. けて区別するようになった.. にした.. 「アイル」共同体の規模は,所有する. ちょうしゆん. そのうえ,獣医技術も発達した.宋朝の張舜. 家畜の規模,種類によって異なり,家畜を「ア. ll.

(9) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (377). 29. イル」単位で共有する場合も多かったが,それ. た. 1881年,イギリスが天津で香上銀行を設. は血縁的大家族であり,地縁的大家族の場合は. 立し,モンゴル地域から皮,毛を購入していた.. その組合員である小家族が家畜を私有する.こ の「アイル」という基本的社会組織を基に,モ. 翌年,帰化城と張家口に支店を設置した. 午,天津を通じて輸出した毛類は250万キロを. ンゴル社会の封建的私有制経済26)が成立する. 上回った.. のである.. 1911. 民国初期,政府と民間人が株式会社を追っ. 明清民国時代に,蒙古社会は群雄割拠状態に. ていたが,. 入り,とりわけ清朝時代に内モンゴル牧畜は転. 1930年代に入ってから,外資株式 会社が主役となった. 1927年,ロシア人がハ. 換期を迎える.政治上北方地域における勢力. イラル盟(現在のホロンボイル市)に沃倫索夫. を固める目的と経済上財政危機を解決するため. 乳製品工場を造った.. お. ろん. そ. に,主に清朝と民国は内モンゴル地域へ「移民. 1933年,スイス人が宝 昌県に乳製品工場を建てた. 1938年,日本財. 入植」27)を行った.具体的には,明の時代に,. 閥が包頭市に蒙彊皮革株式会社包頭工場を造っ. 現在の河套地域-短期的移民と定住移民が自発. た. 1938年から1941年にかけて,日本人が内. 的に入り, 1570年から1582年までの間にその 1902 数は70.5万人にも達した.清の時代に,. モンゴルの中部と西部に三井,三菱等の八つの 株式会社を造り,内モンゴル地域の畜産物市場. 年から1908年までの間で,内モンゴル西部地. を独占した.. ふ. もうきょう. 域で50万haの草原,東部地域で160万haの草. 民国時代,畜産物が廉価に買い取られていた. 原が開墾された.民国に入ってからも,清朝の. とはいえ,外国人による家畜の品種改良が行わ. 「蒙地漠化」政策を引き続き,. れたことは見逃せない.十月革命前後,ロシア. 1912年から1947 年までの僅か30数年間で,清朝を上回るほど の草原開墾を行った.人口は1911年の辛亥革 命前の150万人から1949年の中華人民共和国. 人がフビジヤル馬,オルルフ馬,シモンタル牛, フビジヤル牛等の改良品種を導入し,ホロンボ. 成立時点での608.1万人に達している.蒙漠人. イル市の鉄道沿線に駐留していた.上述した品 種の家畜を地元の家畜と交配させることによっ. 口比は1対5.6となった.宿,民国を経て,内. て,ハイラル馬(今日の三河馬の祖先)が出産. モンゴル地域の生産方式と社会構造が変わっ. された.このハイラル馬は当時の上海,大連,. た.今日の定住化生産方式と牧区,農区,半農. 香港の競馬場で人気を集めていた.. 半牧構造が大体この時期に形成された28). 明の時代,国境の互市において中原地域と商. 2. 中華人民共和国成立後の牧畜経営の転換 (1)計画経済期. 品交換を行っていた.清朝になって,長城周辺. 計画経済期の内モンゴル農業の転換として,. の馬市を廃止し,少数の互市だけを残し,内モ 19世. ンゴルヘ商人を派遣するようになった. 紀初期,帰化城(今のフフホト市)に大盛魁, げんこうとく ぎ とく. だいせいかい. 生産の集団化と経営の「農牧結合」フうミあげられ. 源興徳,天義徳という三つの大商社が市場を独. る.生産の集団化は互助組一生産合作社一人民 公社という段階を経て実現され,農業は個別経. 占し,毎年牧区から30万匹の羊と2万匹の馬. 営から集団経営-と変わった.. てん. を購入していた.他の小商社を入れると,その. 今日では人民公社制を否定する声が多いが,. 規模は羊が80万匹,馬が10万匹,羊毛が500. 当時は集団化する必要がいくつかあった.中華. 万キロに達していた.ホロン城(ホロンボイル. 人民共和国成立直後は,政府にとって政治の面. 市)に五つの大商社があり,毎年162.5万ルー. で社会を安定させることが何よりも重要な課題. ブルの畜産物をロシア-輸出していた.アヘン. であった.民国から引き継がれた社会的矛盾が. 戦争後,外国商社も内モンゴル地域に進出し. 二つあった.一つは農耕民と地主(牧主)の衝.

(10) 30. 横浜国際社会科学研究. (378). A. 並行型. 一. 第11巻第3号(2006年9月). B. 耕地. 野菜地. 補助型. 兼業型. C. 放牧地. [=コ. 「 l I. 「. ■`. I l. 農家単位. (出所)筆者作成29). 図1-2. 経営形態及び土地利用のイメージ図. 突であり,もう一つは牧畜民と農耕民の問の摩. 的に行われていたため,牧畜経営と正面から. 擦である.国内戦争時,共産党のスローガンは. 対立するまでには至らなかった.それをイメー. 「誰でも平等で,誰でも農地を持てる」であった.. ジしたのが図ト2のAであり,この時期を「並. 中華人民共和国成立後は,それを実現すること. 行型」段階と呼ぶ.牧畜地域は,畜産物は国. が第一の使命となり,地主の土地,財産を没収. に供出し,食糧は自給するという状況(農耕. するより,集団化するほうが実行しやすかった.. が全く適さない地域は別として)を強いられ. 内モンゴルにおいて,牧畜民と牧主の矛盾は農. た.これにより,家畜数は1947年の773.7万. 耕民と地主のそれほど激しくなかったが,相当. 頭から1952年の1,332.3万頭-. の財力,人力を持った牧主たちが独立運動に走 りかねないため,政府としても慎重に対応しな. を見せている.. ければならなかった.牧畜民と農耕民の間の. 所有する家畜の多寡によって配当を決めるなど. 摩擦は清,民国から続いてきた放牧地をめぐる. の規定が出され,集団化が行われたが,その実. 衝突である.放牧地を均分化すると,先住民で. 施過程で政策の暖昧さと説明不足により,牧畜. ある牧畜民が損失を受け,移住民である農耕民. 民は個人で家畜を処分するケースが多く発生し. との衝突が激しくなる.また家畜が耕地に入っ. た.. て農作物を食べてしまうなどにより,農耕民と 牧畜民の衝突が民族紛争にまで発展する恐れが. 方的に生産量を追求したため,. あった.. いる.. 経済の面では,経済基盤が脆弱で,農家は資 本,技術,情報を持っていなかった当時,集団 化が,物資の調達,品種の改良,新技術の開発,. 172%の増加率. 1952年から生産合作社化が始まり,農家が. 1958年からは人民公社制が導入され,一 1965年の家畜. 数は1952年と比べて250%の増加率となって 1966年から1976年までの文化大革命期. は,家畜数は増加が見られず,横ばいとなって いる30).. 1958年の人民公社制の導入から1976年の文. 設備の導入などにおいて,大いに機能したこと. 化大革命が終わるまで,いわゆる第三次の大規. は否定できないであろう.. 模草原開墾が行われた.. 人民公社制は同時に国が工業化を実現する. 1958,. 1959年の一方. 的農耕振興政策の実施と1960年代初期の国民. ための制度であり,人民公社はできるだけ多. 経済の困難時期の無計画的開墾,それに1965. くの農産物を国に供出することを義務づけら. 年から1976年までの「自分の米を自分で作る」. れた.そのため,内モンゴル地域に一貫して. 戟略が加わって,. 実施されたのが「農牧結合経営」政策である.. 1958年から1976年までの18 年間で206.7万haの草原が開墾された.牧畜民. その下で質のいい草地が開墾されたが,集中. たちにとって最も不幸なことは,この環境悪化.

(11) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (379). を起こした大規模草原開墾が「牧畜民の生活を. 内モンゴル地域の牧畜経営における請負制は,. 支援する」名目で行われたことである.. 正式な名称として「草畜請負制」と呼ばれてい. 計画経済期における牧畜社会の変容として,. 31. るが,放牧地の請負の始まりは1992年以降で. 遊牧から定住-変化したことがあげられる.内. あり31),そこまでは単なる家畜の請負に過ぎな. モンゴル地域において,定住生活は農耕民の移. かった.農耕地の利用権が個人に配分されたが,. 住によって始まるが,遊牧民が大量に定住化す. 放牧地の利用権は配分されなかった.すなわち. るのは清朝に入ってからであり,全域にわたっ. この時期は,人民公社制期に開発された農耕地. て短期間で定住化が行われるのは中華人民共和. が分配され,個人によって管理された.図1-2. 国成立後のことである.. のBのように,宅地周りに垣を作って野菜畑を 営むことが許された.この時期は依然として牧. 牧畜民農家の定住化によって,牧畜は従来の 季節的に移動する伝統的経営方式から定住的日. 畜が主であり,分配された農耕地と新たに開発. 帰り放牧を行うようになった.広い放牧地を持. された野菜地は生活の補助手段として営まれて. つ地滅では,冬営地に生活が定住し,夏は夏営 地に放牧を行うのが一般的である.固定の放牧. いたため,. 地に日帰り放牧を行うようになった地域でも,. 年間で,全自治区の家畜数は380万頭も減って. 「遊動する」という伝統的牧畜の原理を最大限. いる.これは人民公社制下の統計の正確性が疑 われるうえ,当時の牧畜民たちが政府の新しい. に利用して,冬は草刈地,農耕地に,夏は一般. 「補助型」段階と呼ぶ.. 生産請負制を実施してから1985年までの3. の放牧地で放牧を行うようにしている. 定住化による生活の質の改善は言うまでもな. 政策を十分信頼していなかったことも考えられ. い.学校,病院,商店などの施設の集中的建設 によって,社会の福祉,サービスの提供が充実. ル∵トであったが,個人による市場での取引も 許されるようになっていたため,淀通は活発. した.頻繁に移動するという手間のかかる作業. であった.家畜の出荷率が高く,繁殖率とほぼ 同じだったため,家畜規模がそれほど増加しな. からも開放された.牧畜経営の面では,災害防 止,人工的交配などがより効率的となった. その反面,定住化によって放牧地の環境負荷. る,この時期は,まだ国家の買付けが主な流通. かった.. この10年間,牧畜民の生活水準も大幅に上. が増加し,遊牧によって草原を合理的に利用す. 昇した.畜産物の価格が高い水準を保ったため,. ることができなくなった.また,計画経済期. 牧畜民が放牧地を耕地として貸し出したり,開. の「農牧結合経営」政策の方針により,農耕指 導の名目で他省から大勢の農耕民が移住させら. 墾して農耕を行うことが少なかった.そのため,. れ,生産請負制が実施される際に家畜が配分さ. (3)市場経済期. れた.市場経済期に入ってから,他省の商人が 出入りするようになり,地元の人と結婚したり,. 1992年の部小平の「南巡講話」を境に,中 国は本格的に市場経済期をむかえることにな. 村の幹部に賄賂を贈ったりして戸籍を手にした. る.生産と流通が完全に農家の個別経営に任せ. 人が少なくなかった.. られるようになった.さらに,. 1992年に放牧地の分配. 環境問題はそれほど深刻化しなかった.. 1992年から放. が行われた際に,これらの人々も村人として放. 牧地の利用権の配分が行われたことが加わっ. 牧地を分配された.こうして,牧畜の経営規模. て,土地の利用形態が農耕民の判断によって決 められるようになった. 1993年と1994年は,. がより零細化し,人口庄も深刻化した. (2)市場経済への過渡期 1978年に従来の政策が見直されるが,生産 請負制が実施されるのが1982年のことである.. インフレの影響と個人仲買人の進出許可によ り,畜産物の価格が上昇し,牧畜民の収入も顕 著に上がったが,翌年の1995年から下落し始.

(12) 32. (380). 横浜国際社会科学研究. 第11巻第3号(2006年9月). めた.畜産物の供給が増加したのも事実だが,. 必要であり,それの近距離供給,あるいは自給. その主たる原因は牧区における畜産物の需要が. を図り,新たな草原開墾が起こることも十分考. 減少したからである.まず,従前の国営買付機. えられるからである.. 関が経営不況に陥り,次々と潰れて行き,牧畜 民は個人の仲買人に頼ることになった.すなわ. この時期に,中華人民共和国成立後の牧畜社 会におけるもう一つの大きな変容があった.そ. ち,仲介組織がなくなったことにより,需要が. れは牧畜経営が「専業」フう、ら「兼業」. 不安定となり,流通コストが高くなった.また,. たことである.中国社会において,. この時期に都市周辺の農区でも家畜を飼養する. いった場合,. ようになり,都市から遠く離れた牧区に大きな. るが,内モンゴル地域においてはそれが比較的. 打撃を与えた,このような市場動向に応じて, 農民は放牧地の一部を自作耕地あるいは貸出耕. に少ない.ここで言う「専業」とは,牧畜を専 業として営むことを指し, 「兼業」とは牧畜を. 地に変えた.さらに,牧畜をやめ,農耕を行う. 営みながら耕作を行うことを指す.人民公社制. 牧畜民も現れた.そのイメージ図は図卜2のC. 期は,集団で牧畜と農耕を同時に行っていたが,. であり,. 「兼業型」段階と呼ぶ.. -変化し 「兼業」と. 「出稼ぎ労働」がすぐ浮かび上が. 農家単位で兼業が進んだのは農耕地の分配後, すなわち1982年以降のことである.. 従来と違って,牧畜民自らが行った草原開墾. 農家の兼業化が進んだ背景として,物的基礎. が統計資料,研究論文であまり指摘されていな いが,その規模と破壊力は大きいものであった.. としての土地の分配があげられる.まず1982. 2001年に入ってから,環境問題の深刻化に配 慮し,政府側は放牧禁止政策を打ち出し,. 年に耕地の分配が行われ,個人が農家単位で農 「放. 牧」に変わって「舎飼い」を進めるようになっ. かなり進んでおり,余剰労働力と時間的余裕が あった.これによって牧畜民が農耕技術を身に. た.従来は自然の資源条件に応じて放牧を行う という伝統的経営方式であったのに対し,. 耕を行うようになった.この時点では定住化が. 「舎. 集約的経営方式である.そのため,資本と市場・. つけることになり,最初は農地を貸し出す農家 も多かったが, 2,3年経つと自分でも作れるよ うになった.さらに, 1992年から放牧地の利. 需要を前提条件とする.しかし内モンゴルの牧. 用権が個人に委ねられ,より大規模な農耕が可. 畜地域は,ほとんどの農家が貯金を持っていな. 能となった.当時多くの地域において,牧畜. いうえ,金融システムが整備されていないため, 別のルートでの資本調達も不可能である.また,. 経営に必要となる飼料の確保が容易であったた. 飼い」方式は,市場での出荷を目的とする資本. もともと条件不利地域で,流通システムが整備 されていない状況下で,. 「舎飼い」経営にとっ. め,目の前の利益を追求して一部の放牧地を農 耕地として貸し出すことも少なくなかった. 兼業は,畜産物価格の低迷によって急速に普. て,市場の確保はより困難である.すなわち,. 及した.. 現在の状況下では,内モンゴルの牧畜地域に「舎. 主に放牧を行いながら農耕を行っていた.牧畜. 飼い」方式を普及させることは不可能である.. 経営の収益が高かったため,先住民は依然とし. 「舎飼い」経営は,将来的に目指すべき方式で. て牧畜に専念していた.しかし,畜産物価格の. はあるが,上述した資本と市場の条件が整った. 下落と飼料不足によるコスト増加などにより,. としても,それを実施するに当たり,それによっ. 牧畜と農耕を平行して行うようになった.しか. て生じかねないマイナスの面も十分承知してお く必要がある. 「舎飼い」方式の普及による畜. もそれは放牧地を耕地に転用しても,家畜規模. 産物供給の増加が,価格の下落を招くこともあ りうる.また「舎飼い」経営には大量の飼料が. 最初は,放牧地を分配された移住民が. を減らさないという略奪的経営であった. 「兼業」の普及は牧畜社会にどのような影響 を与えたか.農家は,. 「兼業」によって飯米,.

(13) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (381). 33. 表2-1所有制と経営形態の推移 所有制 期間 1949-. 過渡期 計画 経済期 過渡期. 1957 1958-. 198i 19821991. 市場. 1992-. 経済期. 現在. 経営形態 放牧地. 耕地. 共有. 私有. 共有. 共有. 共有. 私有. 私有. 私有. 政府統制. 協同経営 集団経営. 密済体制. 農村政策. 生産自由. 互助組. 定住化政策. 流通統制. 生産合作制. 農牧結合政策. 生産統制. 人民公社制. 定住化政策. 流通統制 個別経営. 生産自由. 農牧結合政策 生産請負制■. 農牧結合政策. 流通統制 個別経営. 生産自由. (協同経営). 聯産到組 双層経営制. 農牧結合政策. 菰通自由. 放牧禁止. (出所)筆者作成.. 飼料への現金支出を減らすことができたが,同. 表にみる土地の所有とは,利用権の所有であり,. 時に自給自足経済システム化と環境破壊を促し. 所有権は国に属する.二つの過渡期では,放牧. たといえよう.しかし,その責任と代償を農民. 地の利用権が共有で,耕地の利用権が私有であ. に求めるわけにはいかない.その背後に制度,. る.これと対照的に,計画経済期では放牧地と. 政策の影響があった.それを次章において検討. 耕地がともに共有となっており,市場経済期で. する.. はともに私有となっている. 第二章. 牧畜政策の諸問題. 中国における計画経済から市場経済への体制. 1982年の生産請負制の導入によって,中国 社会は大きく変容し,その成果は画期的である が,内モンゴルの牧畜経営において放牧地の農. 転換は,所有制の共有から私有へ,経営の集団. 家単位での請負が適切かどうかはまだ議論の余. 経営から私有経営への変化を土台とする.いわ. 地がある.放牧地の農家単位での区分によって,. ば生産の自由化が基本であり,これを基礎にさ. 家畜が十分な栄養を採れなくなる(限られた場. らに10年かけて流通の自由化を実現したわけ. 所で同じ草を食うため),草原の負荷が増加す. である.内モンゴルの牧畜問題においても,所 有制と経営形態の分析が基本であり,そのうえ. る(草が毎日食われ,草地が毎日家畜に踏まれ. で洗通・市場の問題,生産と流通の仲介機構・ 農民組織の問題を明らかにすることが重要であ. 地を囲うのに大量の資金を要し,家畜の管理に. る.. 単純に放牧地の共同利用を維持しても問題を解. るため),牧畜経営のコストが増加する(放牧 人力がかかる)などの不利が生じる.しかし, 決できない.家族経営を基本とする体制の下で. l農業における・所有制と経営形態の影響 (1)所有制と経営形態の変化 中華人民共和国成立後の中国は,生産手段の. は不平等が生じ,農家に経済的余裕が生まれた ら争って家畜規模を拡大させることも考えられ る.その鍵となるのは,農家間の調整により,. 所有制と農業の経営形態において,何回かの改. 家畜と放牧地のバランスを図る協同のシステム. 革を行っている.それを,内モンゴル地域にお. だと思われるが,その点は今後の課題にしたい. 経営形態は,表2-1に見るように,. 「協同経. いて見てみよう. まず所有制においては,中華人民共和国成立. 営」から「集団経営」を経て,. 前の放牧地の旗(農区の県にあたる行政単位). 定着している.. 単位での共有32)と家畜の私有から,中華人民. が実施されたとはいえ,. 共和国成立後は表2-1のように変化してきた.. で,特に内モンゴルでは「協同経営」がほとん. 「個別経営」に. 1992年からは「双層経営制」 「個別経営」フうミ圧倒的.

(14) 34. (382). 横浜国際社会科学研究. >. 第11巻第3号(2006年9月). 『内蒙古統計年鑑 2005年』により,筆者作成33).. 図2-1全自治区家畜と耕地. ど行われていなかった. れてからは, とされ,. 「集団経営」が否定さ. 「個別経営」が最も生産力が高い. 「協同経営」がほとんど議論されなく. ら行われた鉱工業の大深模建設があった.それ によって食程をはじめとする主要農産物の需要 が一気に増加した.政府は「初級合作社」を組. なった.牧畜社会における「グリエン」と「ア. 織することによって貧農,中農,富農を動員す. イル」組織は,いずれも生産の「協同作業」を. ることができた.. 基盤としている.内モンゴルの実態からみると,. 1958年から1965年までは,工業化が本格的. 市場経済化が進むなかで,流通における協同が. に進められた時期である.工業化を実現するた. より重要となっているといえよう.. めに農村において人民公社制を導入し,農業の. (2)砂漠化の通説と現実. 増産を図った.その成果が図2-1に現れている.. 所有制と経営形態については,環境問題・. しかし,耕地の規模には激しい変化が見られる.. 砂漠化問題をめぐってのいくつかの説があり,. すなわち1960,. 「共有地のわな論」と「市場メカニズム論」に. それは,. 1958,. 59年の一方的農耕振興政策の. 代表される.内モンゴルにおける環境問題・砂. 実施と,. 1961,. 62年の全国的飢健を背景に行. 漠化の原因について定説はないが,よくあげら. われた大規模草原開墾によるものと思われる.. れているのが草原開墾と過放牧である.そこで,. 61,. 62年には急増している.. 1966年から1976年までは文化大革命期であ. 耕地と家畜規模の変化を表示したのが図2-1で. り,人民公社制が1982年まで続く.図2-1に. ある.上述の二つの説を,実際のデータで検証. みるように,この時期は耕地と家畜の規模が横. してみよう.. ばいとなっている.政治的非常時下,生産を怠っ. まず, 1947年から1952年までは耕地と家畜. たことは周知の通りであるが,耕地規模が変. の規模が大幅に増加しているが,それは地主制 度が廃止され,自作農制度が作り上げられたか. わっていないことは理解しがたいものである.. らである.いわば,政治的安定を背景にした生. ローガンの下で大規模な草原開墾が行われたこ. 産回復である.この時期は,新民主主義経済思. とが明らかにされているが,この図には現れて. 想が全面的に実施された唯一の時期であり,部 小平の指導による社会主義市場経済体制の雛形. いないからである.統計の真実性が疑われるが, 内モンゴルの多くの地域において農耕が不適合. であると指摘されている34). 次は, 1953年から1958年までで,農耕と牧. であり,開墾された土地がすぐ放置されるとい う現象が多く発生した.これが,耕地規模がさ. 畜が急成長している.その背後に,. ほど変化していない原因ではなかろうか.. 1953年か. というのは,文化大革命期に「自力更生」のス.

(15) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (383). 35. 1982年から1992年までの時期を市場経済へ. 低迷し,出荷が少なかったことが主な原因であ. の過渡期と位置づけたが,今日では最も議論さ. ろう.内モンゴル地域では,家畜の出荷は秋の. れている時期でもある.生産請負制によって,. 10,. 内モンゴル地域で家畜が分配されたが,放牧地. ない場合に,翌年の秋を待つことになる.メス. は依然として共同利用であった.放牧地が共同. で利用されていたため,農家は争って家畜を増. の家畜の場合は子家畜が生まれる.これが家畜 規模の拡大に繋がる.. やすという「共有地のわな論」がある.または,. 砂漠化の「二大要素」とされる家畜規模と耕. 1982年の人民公社制の崩壊後,多様多彩な商. 地面積の変化を各時期においてみると,砂漠化. 品が現れ,それによって刺激された現金需要を. の主たる原因として,草原開墾による草原表土. 満たすために,家畜規模を拡大させなければな. の破壊,遊牧から定住への転換,放牧地の分配. らないという「市場メカニズム論」もある.こ. による環境負荷の増加などが考えられる.また,. の二つの説はいずれも過放牧の原因についてで あり,家畜を生産手段として強調している点で. 過放牧問題は存在しているが,その原因は放牧. 共通している.しかし,家畜は生産手段である. である.家畜規模の拡大による過放牧は,. と同時に消費手段でもあり,とりわけ経済的余. 年以後のことであり,その原因は牧区における. 裕がない状況下で,家畜の消費手段としての性. 畜産物価格の低迷である.. 11月に集中するため,この間に出荷でき. 地の転用(開墾,採鉱,観光地開発など)が主 1995. 格が牧畜民の経済行為に大きな影響力を持つ. 「共有地のわな論」で言う. と, 1982年か. ら1992年までが「過放牧」を起した時期で,. 2. 流通制度と牧畜経営 中国における農産物流通体制の変遷を大まか. 1992年からはそれが収まるはずである.しか. に区分すれば,. し,事実はそれと正反対である.その原因とし. 売)制度,. て,まず当時は家畜規模を自分の意志によっ. という三つに分けることができる.. て拡大させる資本が牧畜民になかった.彼らに. 制度は1950年代初期から1980年代初期までの. できることは,販売を減らして家畜群の自然的. 計画経済期に,. 拡大を促すしかなかった.しかし,生活と生産. 期から1990年代初期までの市場経済-の過渡. を維持するためには販売を減らすことも困難で. 期に,. あった.もう一つの原因もこれと関連するが,. ぞれ当てはまる.しかし,この三つの制度をもっ. 過渡期に国営の流通機関が機能していたうえ,. てすべての農産物を論じるのは十分ではない.. 個人の仲買人も多く現れたため,出荷率が高く,. 20世紀の90年代まで,. これが家畜規模の拡大を防げた.. めに,多くの国によって「食糧管理法」フう言出さ. 「市場メカニズム論」で言うと,. 1982年以後,. 「統購統鏑」. 「契約買付」制度,. (統一買付,統一販 「市場調整」制度 「統購統錆」. 「契約買付」制度は1980年代初. 「市場調整」体制は市場経済期に,それ. 「食糧安定確保」のた. れた.経済基盤が弱く,政治的にも安定してい. とりわけ1992年以後は家畜数が増えることに. なかった中国にとって,. なる.図2-1で,. 1994年までは家畜と耕地が ともに横ばいとなっており, 1995年から急増. も重要であった.食糧として定められた農産物. している.. る.そしてこれら食糧をめぐって,. 1992年までの変化は上述したとお. りであるが,. 「食糧管理」は何より. は米,麦,莱,トウモロコシ,食用油などであ 「食糧流通. 1992年から1994年までは,畜産 物の価格が上昇し,出荷が多かったため,家畜. 制度」ができあがった.もちろん人民公社制が. 数が増加しなかった.. 1995年以後は,家畜が 急増しているが,その原因は「市場メカニズム. 統一的に管理された.生産請負制が導入されて. 論」のそれでは説明できない.畜産物の市場が. が,食程は依然として厳しく管理された.この. 廃止されるまでは,すべての農産物が例外なく, から一般の農産物は政府の管理から開放される.

(16) 36. 横浜国際社会科学研究. (384). 第11巻第3号(2006年9月). ことは同時に, 「統購統鏑」制度は計画経済体 制に特有のものではなく,国家の戦略によるも. 売し,営利目的の長距離運送・販売も一部で見. のであることを意味する.人民公社制が形成さ. られるようになった.. れた背後に,社会主義的改造の政治的目的と工 業化優先戦略の経済的目的以外に,食糧の自給. は,主要食糧以外の余剰農産物を自由市場で販 1985年に農産物の「続 「契約買付」制度が 騰統鏑」制度が見直され, 新たに導入された.農家は市場価格より安い値. を図った「食糧安定確保」の目的もあったと言. 段で一定量の食糧を国に供出する義務を負うか. えよう.そして,人民公社制が崩壊した1980. わりに,国から安価な農業生産資材(肥料,農. 年代でも,食糧問題は国家の安定に関わる問題. 秦,農業用ガソリンなど)の提供を受ける.国は,. として,引き続き国家管理下に置かれた.食糧. 供出義務を果たした後の余剰農産物を協議価格. の流通を統制した点では,日本と同じく,食糧. で買い上げる.この二重価格制の導入によって, 農家経済が活発になった.生産請負制の導入に. の全量政府売渡義務,全流通ルートの一本化政 策などをとったのである. 「人民公社制」が崩壊し,市場経済が浸透し ていくなかで,農産物の流通制度が少しずつ変 化していくのである.内モンゴル地域では,上. よって生産が大幅に延びたが,家畜規模はさ ほど変わっていない.その原因として,商品経 済の発達によって現金需要が増加し,畜産物の 出荷を促したことと,二重価格制によって流通. 述した全国並みの統一管理が行われたが,育. ルートが確保されたからと考えられる.すなわ. 産物流通においては「等級」制度が用いられ. ち,家畜の増加率と出荷率がほぼ同じだったこ. た. 「一級」の畜産物は国家の厳密な統制下に. とを意味する.またこの時期,牧畜経営の収益. 置かれ,. が高かったため,放牧地の開墾は少なかった.. 「二級」の畜産物は国家によって計画. 的に管理され,. 「三級」の畜産物だけが自分で. 1992年からは,流通が完全に自由化された.. 処分することができた.生体の牛,辛,ヤギ. 国営液通機関が次々と廃止され,個人の仲買. は,. 人が内モンゴルの奥地まで出入りするように. 1959年に「二級産品」として扱われてい. たが1961年に「一級産品」に定められ,人民. なり,畜産物価格は1994年まで絶好調を見せ. 公社制の崩壊まで続いた.. たが,. 品」となり,. 需要の低下ではなく,供給の増加であった.. 1983年に「三級産 1986 「統一買付」から外された.. 1995年から低迷し始めた.その原因は. 年に再び「契約買付」の対象となった.そし. 1993,. て1988年から完全に自由販売となった.毛皮, 毛は計画経済期に「統一買付」の対象であった. 郊外に家畜の「舎飼い」を行う畜産業者が多く. 94年の畜産物価格の上昇によって,農区,. 現れ,僕給が増えた.これによって都市から遠. が, 1981年に牛皮,羊皮,カシミヤのみが「契. く離れた牧畜地域の個別経営農家が大きな打撃. 約買付」の対象とされた.その後,ヤギ皮,辛. を受けた.これがインフラ建設,流通システム. 毛,ラクダ毛も「契約買付」の対象として追加. の整備の遅れた原因でもある.このような流通 問題が表面化した状況下で, 1996年に放牧地. されたが,. 1984年に再び除外された.. 1991年. からはすべての畜産物が「市場調整」,つまり. の最終段階の分配が行われ,牧畜をやめて農耕. 自由経営となった.. を行うという放牧地の転用を促進させることに. 各時期の流通制度は牧畜経営にどのような影. なる.流通の自由を基盤とする市場経済体制の. 響を与えたか.これまで中国農村経済の研究に. 下で,牧畜経営は立ち遅れ,目立たぬ存在となっ. おいては,所有制と経営形態の変化に重点が置. た.. かれ,流通問題に十分な関心が寄せられなかっ た.人民公社制期は「統購統鏑」制度によって, 畜産物が低い価格で集荷された.. 1980頃から. 3. 農民組織の変化 農民組織は,農業において生産力が低かった.

(17) 内モンゴルにおける牧畜経営と耕種農業(巴困). (385). 37. 時代ではもちろん,工業化が進んだ市場経済の. を必要とし,家畜を狼から守ることを含めて. 今日でも重要である.内モンゴル牧畜について. の災害の予防と救済なども共同作業を必要とす. 第二章で述べたように,. る.もう一つは恒常的組織で,共同で放牧する. 11世紀頃に氏族共同 体を単位に行われていた「グリエン」組織から. 互助組である.組合員が家畜を集めて,シフト. 小地域共同体としての「アイル」組織に変化し. で放牧するか,分業することで労働力不足を補. た. 「グリエン」組織は財産の全てを共同体で. い,効率を上げていた. 農家を互助組に再組織したのは単に生産性を. 所有し,分業はあるが生産,生活を共にすると 「アイル」はいわ いう単純な氏族社会である. ば大家族である. 「アイル」組織のなかに含ま. 高めるためではなく,生産の集団化を実現する. れる親戚の家族は生産を共にするが,生活は独. 区における農業集団化の最も初歩的な形態で,. 立している.しかし,全ての「アイル」の組合. 個人経済を基礎とする集団労働の組織である.. 員が,互いに血縁的繋がりがあるとは限らない.. ためでもあった.. 「互助組」は内モンゴルの牧. 農業集団化過程における政策視点として増産. 家族員の少ない家同士が互いに「アイル」を組. と集荷の二点があげられる35).この「互助組」. むか,他の「アイル」組織に属するという形に. 段階においては,基本的に生産の回復・増産視. なる.. 「アイル」組織の中心となる家族の家長. 点に立ち,土地改革による農民の生産意欲の昂. がリーダーとなり,作業の分担,放牧地の利用,. 揚の下で,一方において貧農,下層中農の集団. 畜産物の販売と資材の購入などを決める.牧畜. 化(互助組)を進めると同時に,他方において. 社会は従来から最も平等な社会であったと言わ. 富農,上層中農を動員して増産を励まし,. れているが,当然「アイル」組織のなかにも搾. 年の大豊作をもたらした.. 取的な性格が含まれている.. (2) 「初級合作社」段階(1953-1957年). (1) 「互助組」段階(1949-1952年). 1953年になって,国民経済の大規模な建設, 特に工鉱業における急速な建設が行われ,食糧. 中華人民共和国成立後,内モンゴル牧畜地域. 1952. に「互助組」フうミ組織された. 「互助組」とは中. をはじめとする主要農産物に対する需要を一気. 国の伝統的農業に元来から存在していた組織で ある.中央政府の指示に従い,自治区政府は物. に増加させた.これに対して農産物の集荷は思 うようにはかどらなかった.貧農,下層中農に. 資的支援を行い,. おいては,従来土地を持てなかった,もしくは. 「アイル」組織を基礎に「互. 助組」の形成を促進した.当時,遊牧を行って. 少量の土地しか持てなかった農民が土地を分配. いた地域において「アイル」組織が維持されて. され,生産意欲が高まったとはいえ,それだけ. いたが,定住化した地域では農家単位での個別 経営が主であった. 「アイル」と「互助組」の. 多くの零細自営農家を作り出したことになる.. 違いは,後者の組織には政府が関与したことと,. 上昇したにもかかわらず,農産物の市場での供. 前者は血縁的集団が多かったのに対し,後者は. 給が伸びないという現象が生まれた.このため,. 地縁的集団が中心となったことである.. 食糧,綿花,その他主要農産物に対する「統. 牧畜地域の「互助組」を二つの類型に分ける. 自給的農家が増えたことによって,生産水準が. ことができる.一つは臨時的組織で,季節的で,. 一買付,統一販売」が相次いでとられていく過 程で,集団化,農業の社会的改造の方針が明確. 最も一般的な互助組である.農繁期に臨時的に. にされた.つまり農産物流通の統制が始まった. 組織され,個別農家では出来ない作業を行うの が目的である.例えば,分娩,去勢,毛刈,衣. のである.これが集団化第二段階の開始であり, 富農ならびに高利貸,投機商人への攻撃の第一. 畜移動,引越移動,仔畜訓練,予防,草刈,秦. 歩であった.換言すれば,増産視点の上に集荷. 畜薬浴,家畜交配といった牧畜作業は共同作業. 視点が導入されたのである.そのために用いた.

(18) 38. (386). 横浜国際社会科学研究. 第11巻第3号(2006年9月). のが「初級合作社」である. 内モンゴル地域初の生産合作社は1952年に,. 治区党委員会によって出され,中断された.全. オンノード旗において設立された. 1953年12 月, 「第一次牧区工作会議」が行われ,牧畜経. 対し,ほとんどが「初級合作社」の組織を持っ. 営を含めての牧区経済の社会主義改造を行う方 針が明確化され,それに「互助合作」形態を導 入することも指示された.. 1955年9月に毛沢. 自治区で, 19の高級合作社が組織されたのに て,牧区の社会主義改造を完成させたのである. (3) 「人民公社」段階(1958-1981年) 人民公社制期は全国的に第四段階に当たる が,内モンゴル地域では「高級合作社」が実現. 東が編集した『中国農村の社会主義高潮』で,. しなかったため,第三段階になる.初級合作社. 「オンノード旗に12の生産合作社が作られて牧. から人民公社への移行が一挙に実現したため,. 畜が発展した」という調査報告書が選ばれた.. 当時高い生産水準を維持していた富農,上層中. この影響を受けて,内モンゴルの牧区における 生産合作社は年初の20社から年末の258社ま. 農の抵抗が何らかの形で生まれることは当然予. で急増したのである.. 階に入ると同時に,新増産視点が確立された.. 想しうるところであった.したがって,第三段. 1956年の集団化の全国的急進展は,集団農. 完全集団化によって,集団農民と非集団農民の. 民と非集団農民との平和な競争という漸進的方. 矛盾が解決されたといえるが,集荷の問題が解. 式の継続を中経し,上層中農はもちろん,元地. 決されたことにはならない.増産視点も集荷視. 主,富農をも一挙に集団化する方向に進んだ.. 点も,農民が対象であり,土台であるかぎり,. このことは,従来の増産視点に立つ漸進的集団 化方針を,集荷視点に立つ飛躍的な集団化方針. 農民の存在形態とそれに伴う意識構造の変容が. に切り替えたことを意味する.その組織が「高. 1958年から工業化を優先する産業政策が導. 究極の問題となる.. 級合作社」と呼ばれた.この高級合作社が導入. 入され,当時は国際的に孤立し,国内は資本,. された背後には1955年の出来事があったと思. 技術が十分ではない状況下で資本,労働の統一. われる.同年春季は,食糧問題が再び緊迫した. 支配を図り,戸籍制度を導入し,労働力の移動. 時期であり,出荷視点の発動が強化された.そ. を制限した.また低賃金を維持するために,物. の反面,富農,元地主を始め,上層中農の一部 が資本主義的方向に走り,政府の集荷政策に対. 価の上昇を防ぎ,. 抗し始めたということも指摘された36).. 流通を完全に統制したのである.. 内モンゴル地域においては,集団化運動はほ. 「統一買付,統一販売」を実. 施すると同時に地域間の分業を抑えた.生産と (4)組織なき段階(1982-現在) 1982年に「人民公社」が解体され,新たな. かの地域ほど強制的ではなかった.毛沢東は少 数民族地区の土地問題について, 「少数民族地. 行政組織として「鎮」,. 域の社会主義改造は最も大事で,慎重に,区別. 合作社は姿を消した.農民の自主組織が再び組. 的に対応しなければならか、」と述べている37).. 織されることはなかった.. 「郷」フうミ組織され,経済. 少数民族地区では,集団と非集団との対抗関係. 農村の基本組織「アイル」の最も基本的特徴. だけではなく,民族間の対立も存在するため,. は,生産面での協同と流通面での協同であると. 社会安定を図るうえでも,慎重に行う必要が. いえる.計画経済期は,流通が国の「統購統鏑」 制度によって統制されていたため,生産面での. あった.. 「高級合作社」は1956年から内モンゴ. ル地区で推進されたが,. 1957年の牧区工作会. 協同だけが果たせた.しかし,市場経済-の移. 議で「生産水準から見て,初級合作社は内モン. 行を契機に,その基盤が薄まっていった.定住. ゴル牧区の現状に適しており,高級合作社を実. 的かつ零細的個別経営に協同がそれほど重要で. 施するのは困難である」という報告が内蒙古自. はなくなったが,市場経済体制の下での個別経.

参照

関連したドキュメント

It is inappropriate to evaluate activities for establishment of industrial property rights in small and medium  enterprises (SMEs)

業務効率化による経費節減 業務効率化による経費節減 審査・認証登録料 安い 審査・認証登録料相当高い 50 人の製造業で 30 万円 50 人の製造業で 120

調査地点2(中央防波堤内側埋立地)における建設作業騒音の予測結果によると、評

1アメリカにおける経営法学成立の基盤前述したように,経営法学の