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C
/ r TL , 細 外
伝 域 研 究 第 13 集
耐 火 煉 瓦 の 町
一一岡 山 県 三 石 町 ‑
岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会
21101168220
岡山大学附膚園雷館
三 石 町 会
三 石 小 中 学 校
三 石 町 市 街 地
船 坂 随:追
琶i
福 祉 セ ン タ ‑
三 石 駅 の ' 荷
ろ う 石 の 蕗 天 採 掘 場
ク レ ー 乾 燥 場
ろ う 石 斜 坑 坑 口
ろ う 石 の 原 出 し
は し が き
地域研 究第15集 として. 「耐火煉 瓦 の町 ‑ 岡山県三 石町 ‑ 」を公刊す る。 15集 ともな ると, シ リーズ として夷質がそなわ って くる。それだけに喜び も大 き く,寮任感 もひ としおで あib
項現の 「耐火煉瓦の町 」については,異議 を く即 藍に一決 したO これ程簡単 に帯電が決 ま ったの は例が なtJq.それだけ,三石町仕 ,耐火煉瓦 に金敷されていた訳である。三 石 とくに明治以降の歴 史は,耐火 レンガとともにあ った とい って よい。三 石結 ,耐火煉瓦 の消長 とともに起伏 して きたの である。本稿が .工
菜
にか な Dの ウエイ トをさVl九の も,この意味にかいてである。 もちろん明治 に至 るまでの三石の歴史に も相当の概略が盲かれてVlる し,工業 と並行 して盛英 商業 交通 社 会 文化 もとbあげ られているO こうして三石町の全体像が ともか く描 き出され るとととな った.しか し,その三石町はlい せ比 なく,昭和4 6年 4月 1日偏新 町 と合併 し,術前市 として新発足 した.広域行政は時代 の波であ D.産葵立地構造 の変化 に伴 う再嗣 好 も時代 のす う勢である。そ う した変化に即応 して三 石町は脱皮 したわけである。 だが ,発展的解消 とはいえ,三 石町の名が消え ることはいかに も寂 しいO とくに三石町民忙 とっては.ひ としおそ うか と思われ る0本稀がそ うし た三石町 を記念 し,三 石町民に こたえ るモニユメ
ソ4
^,なものになることがで きれば しあわせ これ に こした ものはないOもっとも,三年次生の実地指導 を中心 とした朝昏書であるだけに,欠落 した部分 もある し,聞達 い もあるか と恐れている。この点 かゆるLを願いたい。 しか し, ともか く公刊で きたのは ,炎暑を もの ともせず頑
張b
めいた学生の努力 もさることなが ら,調査 を通 して ,終始暖かい卸協力 をいた だいた町長壮 じめ教育長 助役 総務課長 町会温良 文化財保硬委員 教育委且 金 町役場各課 町民各位 のお蔭である。 また,備前市三 石支所長 にもなにか と御配慮いただいたO心か らお礼 申 し 上げ るとともに「層の精進 を誓いたいD昭和4 6年 6月
参 加 教 官
谷 口 澄 夫 藤 沢 晋
三 浦 道三郎 高 重 進
米 村 昭 二 宗 田 克 己 参 加 卒 業 生
高 田 正 規 上 田 賢 一 泉 和 男 森 元 辰 昭 参 加 学 生
松 田 恭 子 万 代 博 子 藤 井 正 夫 守 屋 宏 道 森 田 孝 一 山 本 和 子 明 石 千鶴代 巽 坂 道 子 成 本 久美子
山 下 孝 子 藤 原 博 帝 樋 口 貞 子 牧 野 尊 三 末 屈‑・ 啓 二 福 武 満 子 藤 本 佳 子 上 原 黄沙子 柘 野 其智子
虫 明
机
高 橋 達 郎
妹 尾 幹 夫 萩 原 一 之 中 野 美智子
島 村 輝 子 孝 虐 加律子 中 村 哲 子 佐 藤 澄 子
大 野 房 子 尾 崎 明
林 由美子 福 江 附 子
佐田野 孝一郎 洩 倉 秀 昭 山 口 和 子 山 崎 和 光 井 上 啓 美 日 下 裕 美 楢 崎 晶 康 岡 本 利 昭 石 倉 登志子 梶 谷 豊 子
も く じ
窮 1 章 三石町の沿革 と現況 ̲.̲̲̲日 ̲= ̲̲一日 ̲̲̲̲= ̲" " " ̲" ‥ ̲" ̲̲
1・ 三石町 の概観 ̲̲̲̲̲‑̲H H ̲̲̲I̲̲̲̲̲̲̲̲二日 ̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲
21 三石町の沿革 ̲‑̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲I̲H T.̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲̲" ̲̲
1
1 ヱ
i 現 況 一一‑‑ 一一一… ‑‑‑I‑‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑一一一‑ ‑̲̲̲‑̲ 4 第 2牽 自然環境 一一日 ‑‑ ‑ ‑一一一‑ 一一一一一一・十 一rrH ‑一一日 ‑ ‑̲̲̲" ̲ 7 1・ 地 形 一一一一一‑一一一一‑ ‑一一一一‑‑一一一‑ ‑ ‥ ‑ ‑ 一一一‑ ‑‑ 一一 7 2・ 地 質 一一‑ ‑‑ 一一一一‑ ‑ 一一一日 一‑ 一一‑ ‑ 一一‑ 一一‑‑ 一一一一 1 5 第 5 章 人 口と集落
11 人 口僻肝 とその変動 ・‑‑ ‑‑I‑ ‑1日 一日 一一二日 ‑ ‑二一一一‑ ‑‑ 一一 19 2・ 中心集落 としての三石町 = 一一‑‑‑‑一一一 ‑一一一一一‑I‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑‑‑ ‑ 2 5 弟 4章 古代 ・中世の三 石 一一一‑ ‑ ‑ ‑一一‑ 日 日 ‑‑‑‑‑‑ ‑‑= ‑ ‑‑ = ‑I 5 2 1・ 古代 山陽道 と坂長研 一‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑一一一‑ 一一一一一一一‑ 一一 52 2・ 三石保 一 一一一 」一一‑ 一一‑‑‑‑‑‑一一‑‑‑ ‑ 一・一・一‑ ‑‑‑ 一日 一一一一 5 4 5・ 古代 ・中世 の船坂峠 一一一一一一一一‑一一一一一一‑一一一一日 ‑一一一一一一一一一一日 5 5 4.浦上氏 と三 石城
第 5牽 近世の三石
1・ 虚村 の経済構造 と支配体制 (1) 土地所有 と島民層分解
5 5 4 0 40 4 0
(2)免状 と在地支配 ・一日 ‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑一一一一一一一一一一一一:‑ 一一一 44 (5)新 田開発 一一‑ ‑‑ 一一‑‑ 一一1‑‑ ‑‑一一一一1‑I‑‑‑ll‑‑‑‑日 一一一 4 9 (4) 近世三石の産業 ・‑‑ 一日 ‑ 一日 一一‑ 一一一‑ 一一‑ ‑ ‑I‑‑ = ‑ ‑ ‑ 5 1 2・ 山陽道 と三 石 ‑H H 1‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑ 一r‑ T■‑,一一一一一一一一一一日 ‑‑ 5 5 (1)三石宿の町並 の構成 1‑:‑‑ 一一一 ‑一丁一・二一=・‑‑‑ ET‑I‑‑‑一日 一一一‑‑‑ 55 (2)三 石宿の機能 ‑一日 ‑一一一一一一‑‑1'一・一一一日 ‑‑一日 ‑一一日 = 一一一‑‑ 5占 (5)宿駅 に対する藩の援助 ‑‑‑‑‑ ‑‑‑ = 一一1‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑ ‑‑一一‑ 58 (4)船坂峠 と茶屋 一一日 ‑ 一一‑一一‑ 一一‑‑ 一一一‑J ‑‑‑一一一一一‑‑ ‑ ‑一 一 一 占 1 柿 餅国境間領 一‑ ‑‑ 一一‑ ‑‑一一一一日 ‑∴ = 一十 ‑ ‑ 一一日 ‑‑‑ 占 5 第 6準 近代化‑の胎動 ‑I‑‑‑‑‑ ‑‑I‑‑‑‑‑‑‑.‑日 ‑‑‑.‑‑‑一一一∴ ‑‑ 一日 ‑‑ ム 9
1・ 地方 自治 の展開 2・ 産業近代化の萌芽 第 7章 三 石の経済構造 r
1
・出
業 一一一一一‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑m ‑ ‑ 一一一‑ ‑ ‑一一一一一 9 0(1)姓菓技術 と生産力の発展 一一一一一一一一一一一一一一一日 一一日 一一日 一一日 90
(2)労働力の構成変化 一日 ‑ 一一‑一一‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ I‑ ‑‑ 一一一‑ ‑ 9 4 (5) 商品作物 の盛 栄 一一一‑ ‑ 一一一‑ ‑ ‑ ‑ 一一一一一一日 ‑‑ ‑ 一一一一 9 ム
(4)土地所有の変化,農民層分解 一一‑‑ 一一一日 ‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ 1 0 2 2・ 林 業 一日 一一一一日 一一日 一一一一一一日 ‑ 一一一日 一一日 一一一一一一一一 1 1 5
(1)入会地の解体 一一一一‑‑ ‑ 一一‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑ ‑ 一日 ‑ 1 1 5
(l)三 石におけ る鉱 ・=業の特色 と推移 一一一一一‑ ‑ ‑‑‑‑I‑ ‑ ‑‑ ‑ 1 2 1
(2)耐火煉瓦 (5)蝋 石 (4) ク レ ー
(5)資本 と労働力の偶成 ‑‑ H H H ‑ ‑ ‑‑‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 一一
(占)鉱工業 と三 石 =‑‑ ‑‑ ‑一一一一一一‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑
(鉱 ・工業の経済的財政的効果)
4・ 商 業 一一一‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 一一‑ ‑ 一一一‑ ‑ ‑‑‑
(1) 商業の推移 と現況 ‑H H H H 一一一日 ‑H H H H H H H 一一一一
(2)商=会の活動 ‑I‑= ‑ ‑‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑一一一‑ ‑ 一日 ‑ ‑ 一一 第 8
章
交通通信の発展 一一一一‑ ‑‑ ‑ 一日 一一一一‑ ‑ 一一一一一‑ 一一一‑ I‑1・ 鉄道 輸送 と三 石
2・ 道路輸送 と三 石 = 一一一一一一一日 一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 12 ム 15 ム 14 5 1 4 8
1 5 0
1 5 5
I 5 5
1 ム l
I7 1 171 2 1 占 2 1ム (2) 風道2号 線の道路輸送 と三 石 ‑ ‑ 一一‑ ‑‑ ‑一一一一一一‑ 一一‑ 一一一 2 18 (5)片上港 ・日生港か らの海上輸送 と三 石 一一‑ 一一一‑ ‑ ‑ ‑‑‑ 一一一 2 2 2 5・ 郵便 .唱信 ・屯話 と三 石 ・‑
(1)郵便事業の創設 とその発展 (2)電信問詰事業の充実 罪 9 茸 社会構造
1・ 家 族 ・一一一一1‑‑‑ ‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑2 4 5 (1)家族構成 ̲̲" ̲‥ ‖ ‖ ̲… ‑̲̲̲̲̲̲̲̲̲" ̲̲̲‑" ̲̲= ̲2 4 5 (2)役割分担 ̲‑̲̲H H H ̲一日 ̲̲̲̲̲̲̲̲一日 ̲̲̲‑̲̲̲̲̲̲̲̲2 4 8 21 同族 と親族 ̲̲̲I" ̲" ー̲̲̲̲I̲̲I̲̲" ̲̲… ̲̲̲̲" ̲= ̲ 2 5 5 (1)同族 の構成 と変 化 一日 ̲̲‑̲" ̲̲̲̲̲̲̲" … ̲̲̲" " ̲̲̲̲2 5 5 (2)親族 の乾 固 と分布 ̲̲̲̲̲̲… ̲̲" " ̲̲̲" ̲= ̲" " ̲̲̲̲2 占 5 5・ 機能集 団 I̲‑̲̲̲̲̲̲… ̲̲̲‥ 一日 ̲̲I̲̲̲̲̲̲I̲‑" ̲̲= ̲2 8 4 4・ 婦人 会
,
狩隼田 ̲̲̲一一‑= ̲一一‑‑一一‑‑ ‑ ‑ ‑ 一一‑ ‑ ‑̲̲2 8 7 第 10 章 宗教 と民族 一一‑ 一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑一一一‑ 一一一一一2 9 5 1・ 神 社 .= 1‑日 ‑ 一一一一一‑‑1一一一一一一一‑‑一一一一一一‑ ‑一一一一2 9 5 2・ 年中行 ・gi H 一一一‑‑‑一一一一‑‑‑‑一一‑‑一一一‑ 一一‑ ‑ ‑ ‑‑‑‑150 占 5・ 民 家 ・一一一一一一一日 ‑一一一一一一一一一一一一一‑‑ 一一一‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑5 1 占 第 1 1葦 教 育 一一‑ ‑‑ 一一‑ ‑‑ ‑一一‑ ‑‑I‑‑ ‑‑ ‑I‑‑ ‑‑ ‑‑5 2 占 1・ 近世教育 の特色 一一一一‑‑‑‑‑‑‑ 一一一‑ ‑‑ 一一‑‑‑‑‑‑ ‑ 一一一・5 2 占 (1) 関谷学校 と三 石 ‑‑I‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑ 一一一‑‑‑5 2 占 2・ 近代学校数 官制慶 一= 一一一一1‑ ‑ ‑‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑‑ ‑ ‑ 一一一5 5 4( 1 )
成立 と発展 一一一一一一‑‑‑‑ ・‑‑一一一一一‑ ‑ ‑‑‑一一一一一一日 ‑5 5 4 5・ 社 会教 育 ‑一一‑一一一日 一一一一一一一一‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑‑‑ ‑ ‑一日 ‑‑5 4 4 (1)三 石町 骨年学 級 ・一一一一‑‑I‑一一一一‑‑‑‑一一‑ 一一一‑ ‑ ‑ 一日 5 4 4 (2)社 会教育 団体 一・一‥ 一一‑ ‑‑‑ ‑‑H H H H H ‑‑‑ 一一‑ ‑‑558第 1 章 三 石 町 の 沿 革 と 現 況
1
三 石 町 の 概 観西椿の野か ら兵庫 ・岡山県境の山地にさしかか D,県境 の船坂峠 の トンネルを抜 ける と間 もなく.
山陽本線は狭い谷間を下 りは じめ ,やがて谷 間のやや的けは じめた ところで列車は徐行 して三石駅
に
すべ 9こむ.高みにある駅か ら兄 かろ して ,まず 目につ く三石 の韓 の景観は ,黒ずんだ屋根屋根 と , その間か ら飛び出た ,何本 もの商い煙突である。
これ らの煙突は耐火 Vンガ工場の ものである. ̲ 熱斜が変化 したせL^で あろ )か ,昔 の ようを巌
鮎 あげてい ないo町のところどころには ,す l鞍 山 ・ ベて金になるとい うろ う石 を含んだ黄 色い土が
つみあげ られている。街の北に迫 る急斜の山腹 の ,あるかなきかの山道 をか きわけふみわけ . あえ ぎあえ ぎ城山 rLよじのぼ るo中世のつわも のどもが夢のあと‑ ‑ 三石城虻は草木に h おおわれて ,その面砂 もさだかな らぬ廃城 と化
しているOその城山に立 つ と ,す ぐ白の
鮒
に台 山の沓天堀 bの現場が望 まれる. シ・。ベルカー が )とめ阜 ,ダン プカーが右往左往 しているO 山 の上半分 の緑がほ とんど削 り硬 られ ,白い山 肌 をむき出 し忙 したこの ZJう石 の山の婆比 ,高 い煙突の林立 とともVC,三石の町 の現代の象徴 かと思 われる。この ような県境の町 ,全国 有数の ろ う石産地
・耐火 Vンガの町 として知 られている三石は , どんな町で あろ うかo せず三石町 の概略を述べ よう。
岡山県和気郡和気町は ,東経 154 014.
†′〜 159 819.5 ′ ・北練 54 045.
よ ぎ r +̲
一 二1,こ iL
写真 1‑ 1‑ 1 三石町の市街地
写美 1‑ 1‑ 2 台 山のろ う石の破天掘 b
る′〜 54 049.ム′'に位嗣 し .商か ら
L &
忙かけては和安部 日生 町 ・備前町 ,西か ら北 に壮和気郡吉永町 .. 北か ら兼にかけては兵庫 県赤穂 郡上部町 ・赤穂桁
に接 して お D.南北如 7Km,東西約8Km,面秤目 19 Kni'の地域に , 1409世帯5 615人 (昭和4 1年 5月 1日現在 )が住んでいる0‑ 1‑
三石町 の大部分 は山地で 占め られ .平地に乏 しい。耕地は狭い谷底平野が利用 され ているにす ぎな いので ,その面和は僅 めて少 ない。山地は ,約5 0 0mの起伏を有す る壮年期山地であるo吉備高原 の東商端 に位値 す るが ,苦情高原の特徴である広い平坦面は ,この地域 では認 め られないc Lか し山 頂高度は定苗性 を もつ畿つかの群 にわけ ることがで きる。 この山地 を切 って直線状 の河谷が発達する。
甫西 に走 る帆坂峠 一 福石の谷 ・余気寺越えの谷 .東微北 一西微雨方向の大谷川 の谷 .北東 ‑爾西方 向の ものでは山陽道の通 る船坂峠 一三石 ・八木 山 一 四軒屋 の谷 な どがその主 な ものである。 これ ら の谷は断層谷 と考え られているo谷底平野 絃極めて狭V,Q谷 を流れ る河流 は金剛川 に集め られ ,和気 町に下 って吉井川に合流す るO南西部 の河流は ,備前町で伊里川 に集 め られ瀬戸内海 に注 ぐO搭州か ら備前 に通 じる交通路 と しては ,古 くか ら船坂峠や帆坂峠 を越えて .これ らの谷沿いが利用されて き た。谷底 の平地がやや開けた ところに三石の集落がある.三石が ,延盲式 の硬
度駅
,山陽道 の宿妙町 として発達 したのは .こうした地理的条件 に 上る といえ よう。現在 もこれ らの谷を通 る国鉄山陽本娘・国道2号線 の交通は繁多 を梶めて おD,それ らと赤穂 ‑三石 ,和気 一三石 の主賓県道が交差 してい るD
山地 を構成す る地質 は ,主 として流紋岩質汝灰岩で あるO この流紋岩質疑灰岩 の中にろ う石鉱床が 含 まれ ているo ろ う石 は慶長年間に発見 された といわれ て おり,彫刻に使用 され た D ,石額に使 われ た bしていたが ,明治 の中頃か ら,耐火Vンガの原料 として用い られ る ように なったDさ らに クV‑
・モル タル等 の原料 と して幅広 く利用される ようにを D,今 日の三石町の産某 を支え るもの とをっも
2
三 石 町 の 沿 革つ ぎ忙三石町 の歴史的背景を概観す る。三石町吐 ,現在和気部に属 してい るC和気郡は ,その昔 , 磐梨県 と呼 ばれ ,国郡制歴の時 ,赤坂郡 となった。その後 .赤坂 ・邑久2郡の地か ら割いて藤原郡を 社宅 5年 (7 2 1年 )忙置 き .これを藤野郡 と改め ■さ らに和気郡 と改 めて今 日に至 っている。
大化 の改新の際 ,駅伝の制を定 め ,大化2年 (占46年 )畿内 の酷国に駅馬 ・伝馬 を髄 いたO大童 の令制に エb ,さ らに これ を諸国 に隆 くことになったO延着の制では ,駅伝馬 ・牛牧等皆兵部省 に属 し,その数 を定 めることになったO三石 は ,遮音 5年 (905年 )の延書式に坂長駅 として記されて お9 ,播億 の境の船坂を中心 とした山陽道の要衝 であった。
8世紀の中頃か ら次第に荘園が発達 して くるが ,三石付近に おいて も三石保 とい う荘 園がで きたO これは三石 ・五石谷 ・田倉の三村の ことを言 っていたO
鎌倉時代の初期 には ,梶原景時 土肥東平が備前 の守藩で あったが ,のち加治長柄が守護 とな り,逮 武の中興には松 田盛朝が守雄 と怠った。 ところで三石宿においては .鎌倉時代 より伊東氏一派が拠有 し,‑勢力 を結成 していたO伊 東氏は ,元弘の乱 (15 5 1年 )のため赤松 氏 と結んで備前 の支配者 である佐 々木 (加地 )氏 との間に捨抗 を生 じ,終に これを追い出 して兼備における覇権 を確立 したの である。
建武 の中興が失敗に終 D,尊氏が天下 を握‑るや備前 も尊氏の もの と怒ったOの ち尊氏紘赤松則祐 を 等鼓 とし ,赤松氏 は持 貞 ・満祐 に まで至 ったが ,満祐が144 1年に将 軍森教 を抹殺 したため .満祐
‑ 2‑
紘 ,諸将に討伐 され た (罫書 の乱 )。そ のため一度討伐 され た山名氏が復興 して ,山名持豊 が備前 の 守護 とな った。
応仁 の乱 (1467‑ 77)が頼 と った時 .赤松政則 は応亡 2年 (14 7 7年 )にそ の家臣で ある浦 上AIJ宗に 山名の守車代で ある/川島大和守を逐 わせて ,浦上則宗 を守護代 として三石城で統治 させたo なお備前 の西半分は松 EEl元隆 が噸 代であった。 その後 ,浦上則宗 の孫 で ある村宗は播磨西半 国 と備 前 東半部 を領有 して権 勢 をふ るった。村宗 の子宗東の時 ,字音 多直家の輔 現 を得て 播 州三部 と備前 半国 を押領 したo束の赤松 ,西 の松田 ともに衰 えた なかで ,浦上 氏が独 b勢力 を振 るったが,天正の始 め字青田氏 に逐 われ ,浦上氏は液亡 し,その後 まもな く三石城 も廃城 と化 した。 なお三石城 は ,元弘
5年 (1555年 )伊東大和 九郎宜祐 (伊東大和二郎 ‑ 太平記巻7 )に エb建 られ た ものであ った。
室町幕府が滅び ,戦国時 代 にはい った頃 には ,備前 に比字音多氏 ,備中 には三村氏 ,契作 には後藤 氏が割拠しわ 9,この 5国 は ,毛利 と織田の抗争 の地であったO まず ,備 中兵 の乱( 15 7 4‑ 5年) で三村氏がた かれた。 158 2年の高松役後 ,甫 敬川 を境 として ,西 を毛利領 ,東 を字音田領 としたO 字音多氏は関 ケ原の吸いで滅んだOそ こで備前は .秀幸の死後 ,家康 に従い ,その功 に よ b播磨国
52万石 を封ぜ られた池 田輝政の次男である池 田忠継の支軒 下におかれた。
三石 が宿場 とを 9,駅属 20頭 をか く上うにな ったの は ,豊臣秀吉の全国統一杏葉 のあ とであろ う と言 われているo勿論 .戦国時代 まで 「坂環 」とし(5ものが あ った ことは文献 の上か らもうかが われ るO関所 が あった とい うこ とも地理学的 条件か らみて )なず け る。三石 の
「l
娼川
」は 「和気 の関 」の 名残 りだ と伝 え られ てい るo三石はその地理的条件に上b
,源 平 の合戦の時 に も ,また南北朝時代に
もか な
b
重要 な役割 を 占めてい る。救国 時代の初期 には .三石 壮赤松 ・浦 上両氏の勢力争卒の キイポ イン トだ ったo ところが鉄砲が伝来 してか らは ,磯術 の変化 に より要害堅 固を誇 った山塞 比役 に立た 表し・,ようになったoそ こで三石 の軍事的蔑要性 は万一の補え程度 とな D ,さ らに江戸時 代 に なると太 平 ム‑ ドが締いたので ,備前藩東部関門 と しての交通 上の要衝 にす ぎな くなったo Lか し宿場町 であった三石rLは ・本陣 と脇本陣が 卦かれていたO
つぎに三石町 に至 る まで の経過について ,少 し述べてみ よ うO まず大字三石 は ,前述 した ように , 往 古には 藤野 郡坂畏駅 といい ,駅属 20豆白と廉商 になるまで おいた。字 は '楕 ・粥川 ・船坂 ・福石 . 土師神根 ・渡瀬 ・守石 ・五石
上b
成 9 ,三石保 と呼 ばれた と ともあったo大字三石 の中の五石 は ,宝 永 年間 ,関谷学校 創立 に際 して ,附属 の学田 として開鼓 された土地 で あるO大字八木山は ,字は本村 ・二軒屋 ・四軒塵 より成 D ,往古吐伊里郷 に威 しrいたO大字野谷 は ,辛 紘 ,本村 ・畑 ・石山 ・野谷 ・新田の五部落か ら成 っている。 もと金剛
庄
忙属 していた。 この )ち新 田 は .元禄年間 に鯛墾 された もので ,野谷新田村 とい ぅていたが ,明治4年に野 谷村 に合併 した。いず れの大 字 も ,明治4年の熊啓伍 県に与b
岡山県に所属 し'明治 2 2年町村制定施行 に 上って ・三石 ・ 八木 山 ・野谷の三村が合併 して三石村 となり,明治59年町 制施行に より三石町 となって現在に至 っ た。三石町 を考 える上で忘 れては な らflいろ う石鉱 東については .慶長年 間に三石 の八木山村の へ木 浄 慶が 八木山石 として発 見 した といわれ ,これに彫割 を施 して宿場の名物 として もてはや されていたQ
‑ 5‑
これが やがて耐火Vンガの原料 として脚光 をあび るので あるが ,明治 の初期 においては ,印材 ・ 文具 ・解物 に使 用され る程度だったO明治5年の学制施行後 ,小学校芋虫 用品 として石筆が需要 増 加 したため ,加藤忍 九郎がその製造 な しは じめたo ところが .その うち学童が石筆 を使 わな くな っ た こ とや石筆 の原料 に浸る よう75ろ う石 の産出が減少 した ことを どが 原田で ,石準はあせ b製造 さ れな くなったo Lか し明治1 8年
に
ろ う石 に よる耐火Vンガの製造に成功 した こ とが ,石筆の製 造か らVンガを製造す る町へ と導 き ,やが て県下で も有数 の耐火 Vンガを生産す る町 となった,,耐 火Vンirの熟達 は大正期 か ら昭和 1 0年代 にかけて旺盛 を悔め .戦後 ま もな くは生産情動が一時 停 滞 したが ,現 在は鉄鋼業の発達に ともなって需要 も増大 している。 ろ う石 を原料 としてい るのは耐 火V ンガだけで 夜 く ,製紙の私道 に不 可欠 を原料 で ある クV一産業 やそのほかモル タルの私道 夜 どが 三石町 に おいて行 われてい るO
三石 町 の学校の沿革 は次 の ようで あるO 明治 5年8 4番 小学校が創立 され ,同 17年三石小学校 と 改 名 ,そ の後明治25年に三石尋 常′」\学校 さ らに三石尋常高等小学校 .昭和16年三石 国民学校 と変 遷 を経 て ,昭和2 2年三石町立三石小学校 とを D ,今 日はd DO名近い児丑が学 んでい る。牌和2 2 年には ,学 校 教育法施行 に よって 三石町立三石中学校が創立され ,現在 は約5 0 0名の生徒が在学 し ているO幼稚 園 としては ,昭和1 8年 にBlJ設された三石町立幼稚 園が あ D,また臓和1n年の井殿氏 の私設 託児所から始まった保育 園は ,昭和56年 には町立保育所 と して発足 した。
その昔 ,山陽道 の要衝 で あった三石 は .今 日で も交通 の幹線上 に位置 してい るO旧山陽道は ,中国 地方 第一 の主要幹線道路 である1級国道2号線 に変貌 し,さ らに最近の事柄 の激増 .交通の大型 化に よ‑)て交通停滞が著 し くなったの で ,昭和5 8年には三石の市帯地 を避け て国道 三石′iJI/1スが 完成 ずれ ,船坂山 墜道や2つの匡1遥 ′り パス トンネルの君通 とあい まって ,交通 の機能は著 しく向上 した0 7fた国道2号線 と交差 して ,県道 の三石 ‑赤穂線 ・三石 一和気線 .三石 一 日生娘が あ り ,交通の便に は恵 まれてい るD鉄道は ,明治2 2年山陽線 が 三石町 を通過 し ,三石駅 が設置 されたD
3
現 況三石町は ,ろ う石 を原料 と した耐火Vンガ ・ 表 11‑ 5‑ 1 三石 町 の産業別事業所数 ・従業者数 (昭 和4 1年7月1日) ク V‑ ・モル タルなどの産業 を中心 とす る第2
●●
次産業が盛ん 夜町で ある。ろ う石の生産は年産 1
40万 トンに も及び ・全国生産 のほほ丁 を占め ・ 耐火 レンガは年産1 8万 トンで ,全 国生産 の8
% といわれてV,るO 三石町の産業業 種別 の串楽 所数 ・従業者数 は蓑 1‑ 5‑ 1の ようで あるO 従業者数の比率か らみ る と ,三石町 の全産業従 頚者数5 2 7 7人に対 して, 15の鉱業所 の従 業者数 は約1 5% ( 5 7 7人 )で あ 9.2 7の 剰遵御 某所 の従英者数 は約6 0% (1985人)
産 業 覇 業所数 従弟音
数
1鉱 業 1
5
5 7 7建 設 業 7 占 4
馳 造 築 2 7 1.9 8 5
卸 売 業 ′ト 売 菓 10 7 2 占 5
金 融 保 険 業 5 4 5
不 動 産 業 ‑ ‑
運 輸 通 信 業 1 5 1 2 4 電気 .カ'R .水 道 業 4 1 2
サ ー ビ ス 業 4 7 2 0 5
‑ 4‑
忙お よぶ。軸造築 の内訳 は ,前表 とは:頻計時期がい くらかずれ るが ,蓑 1‑ 51 2に示すo 義 1‑ 5‑ 2 三石町の製造 第第種 別統計 (昭和 40年 12月 5 1日)
L 輔 粕 稔従 赦 ‑業 1㈹ 男 子者 数 総 二・額.[
食 料 品 2 ∬ I a a
木 材 木 製 品 1 X X I こr
家 具 装 備 品 2 ーr Lr 、:ど 、方
出 版 印 刷 関 連 産 業 1 ∫ X 37 I
業 土 石 製 品 18 1.781 1,21占 5,154.090 5.125,540
機 械 5 1占9 150 228.470 19占.450
これ を見 る と ,三石町 の全乱造 弊 (29秘薬所 )の なかで窯業土石製品畢9造築 の占める割合 は , 18の都築所 で全興造菜従業者数 の90% (1701人 k)従弟者 を持 して ,製造品 出荷額約 5 1億 円の 生産をあげている ことになる。以上壮統計 にあ らわれた数字で あるが ,ろ う石 ・耐火 Vンガ関係 の産
業
に直接 .間接 に従事す る人 の実数はさ らに多い と考 え られ る。三石町住民の産弟別就業人 口構成 を見 ると(義
1‑ 51 5 ),第2次産 業就業人 口が= 5 1人 表 1‑ 5‑ 5 ≡石町の壷井月賦 業^ 口 で ,全就菜人 口 (28 8 2人 )の 6 1%を占め
てい る。以上 のことは.三石町の住民が ‑いか にろ う石 ・耐火 レンガ関係 の産業 に依存 しているか を 物誇 ると共 に ,これ らの産菜 の労働力の需要を三 石町在住者だけでは まか ないえない ことを示 して い る。各事業所 で紘 マイクロ/(スを使 って従業者 の送迎 をす るなど して ,三石町内外 か らの労働者
(昭和 40年10月1日 国勢調査 ) 産 幕 別 実 数 構 成 比
塀 1 次 産 業 227人 8.5% 貌 2次 産 業 1.占 5 1 ムD.8 務 5次 産 業 8 2 2 5 0.i
不 詳 2 G.1
捻 数 r2.68 2 100.」 の確保に努力 しているが .労働力不足の悩 みは ,若年牌 の番市‑ の流出な どの現象 も加 わ って ,iす 壊す深刻の よ うで あるO
ろ う石 ・ 耐火 レンガ 関係の産業の見漉 しは ,吸後間 もな くは耐火 Vンガの生産は停滞 してい たが . 鉄鋼黄の伸展 とともに需要は年 々拡大されて さてお
b
.当分の見通 しは明 るい。 しか し耐火 Vンガの 前額は鉄鋼業 に依存 する割合 が大 きVlので ,鉄珊薬 の景気 ・動向に左右 され る爆念 が ないで もない。三石町 の盛業 は あま りふ るってい るとはいえ ない。蓑 1‑ 5‑ 4に示 され るよ うに,農家数 は258 戸 ,全戸数の18%程度 で あるOその うち専業良家はわず か5戸にす ぎない。第1種兼 業楚 家 すら2 戸で あ D,実に 9 8%が第2鰍 蕪農家 とい うことに漁る。三石町 の農等 が不振で ある理由の1つ と して ,自然条件 VC恵 まれてい ない ことが あげ られ よう.LLlが ちで平 地は金 剛川 とそ の支流沿tJlの細長 い谷間に存在 す るにす ぎ孜いoそのため耕地面額 比全面楢 の2・2% しかない。その上 ,労働 力が ,ち う石 ・耐火 レンガ関係 の産業 昨季 われて しま うことが .農業 を不振 にす る大 きな原 因 となる.そ こで 紘 ,典薬 壮片手間に行 うことになる. したが って経営濃集 も零細 な らざるをえない。そ う した なかで
‑ 5・・‑
の ,三石町の集額 の最近 の動 向 と しては ,水田の 省 力化 を計 ること ,樹園地 を増 して経営規模 の拡 大化 を計 るこ とな どが進 め られてい る。 45年度 か ら 5年計画 で山林 を開重 し ,菜 園を造成 する こ とに よって袋巣所得の向上を計 ろ うとしている。
粟栽培 を選んだ理由の1つは .粟 は人手 をほ とん ど必要 としない ととで ,第2次産業 に依存 してい
表1‑ 5‑ 4 三石 町 の農家数
(昭 和40年2月1日 ) 種 別 & # &
専 業 長 束 さ
第 1感 兼 業 良 家 2 第 2魯 兼 業 点 2 55
るこの地域 の典薬の姿の一端 といえ よう。
三石 町の中心部 の商店は ,主 として 日常品 を扱 った商店が道 をは さん で両側 に点在 してい るが , 商店街 とい うほ どには発達 していないo近 くに岡山 ・娼格 とい う大都市が あ り ,大 きな買い物 は それ らの都市 の商店に依存す るためで あろ うかo また ,町 の中心部は狭 い谷底平野 の葱かに商店 ・ 住宅 ・工場 を どが入 b交 少,ひ しめいてい る状態 なので ,商店街 の形成が阻 まれてい ることもあ
ろ うoそ の上 ,衛 星町村 もな く,新開地 もない ので ,商 店 と渦紋者 との関係が固定 してい るc L たが って スーパー マーケ ットの ような ものの進出 も ,あせ り期待 で きない ようで ある。三石町の 商店 の概況 を表 1‑ 5‑ 5に示 したo以上の ような状態が 三石町 の商業の現況 であ るD
以上 のほか三石町で特記 すべ きことは ,厚生福祉活動 の盛ん を町 であるとい うことで あるOそ の 1つ として町民皆スポーツ とい うス ローガ ンを掲げて ,生活 の なかにス ポー ツを坂 b入れ ,ス ポー ツの普 及 ・日常化 に よって町民 の健康 を増進 しようとしてい るこ とが あげ られ るDそ のため の.没傍 もか な り整 って お り,晒和5 8年に町営 の産業体育鍋や グラン ドが建設 され ,町民 の健 康 作 Dの場 ,憩 いの場 となってい る。 またBLJ和45年 には町民 の憩 いの場 ,研修 ・教育 の場 と して の施設 ,町営福祉 センターが完成 した。
表1‑ 5‑ 5 三石町の商店業種別統計 (昭和4 1年7月1日)
商 店 数 従業員数 年 間 販 売 額( 1,0 0 0円 ) 手数料 そ の他 のサー ビlス料 の収入額(1,000円)
射】 先 業 5 9 2 2 116.55 0,5 5 0 織物 .衣服 .身 の廻 り品
小売業 9 15
飲 食 料 品 ′ト 充 業 4 5 12 2
飲 食 店 17 55 2 8,84 0
自 転 車 ,荷 車 小 売 業 5 5 2.0 ム0 50 0 家具 .建具 .什
音
別、売業 7 15 5 6.170 2 50 そ の 他 の 小 売 業 18 5 5 1 17.5 20 20 0(松 田 恭 子 )
‑ 6‑
第 2 葦 自 然 莫 境
1
地 形兵庫県境近 くの三石 地域は ,吉備高原の兼南端部 に当 D,平均 高度約 50 0mの壮年末期 の山地 の 地形 を示 してい るo また この地
域
には教本の直線状 の断層谷が走 り・数多 くの リニアメソ トを引 きう るO 、その方向は ,ほほE‑W系の ものが中心であるが ,他に NE‑SW系,NW‑SE系の ものも ある。山地は これ らの断層谷に よって プロ,ク化 されてお
りそ の艮蝕面は ,予測 として 5段に区分す ることができるOその形成 に関 しては ,断層 に よる彫切 を強 く受 けている ものと考 え られ るO また , 本地域 の山地の特 色 として .その山頂部が極めて丸味のあ る ,葱だ らかそ形 を成 してい ることをあげることがで きるOそれは地質 (流紋岩 を主体 とする )との隣
保
に よるものであると考え られ るO次に
平野部をみ ると金
剛
川及びそ の支流irC沿 って ,略 の狭 い谷底平野 を形成 し ,水 田 として利用 されてい るoなお ,金剛州 は台山付近 において ,蛇行 してい るのが 自立つo一般 に三石町付近 の地形は .起伏の′」\さい山地が大部分 を占め ,それを貫 いて数本 の直線状 の断層 谷が走 っているのが特 色であ b,以下山地 と谷 とに分 けて ,三石町周辺 の地形 を考察 してみ るo
(1) 山 地
( a)
吉備高原中国地方は ,平野 の大 きな ものは少 く,その大部分 は山地である。中国地方 の山地は ,一般 に次の 5つの侵蝕面に区分 され るのが普通で あるQ
(
り 中央部を走 る中暫皆梁山地 (高度約 1,000‑ 1,200m)‑ これ を高位面 または道後山面 と呼ぶo(
う 山陽側の吉備高原 と山陰側 の石見高原 (高度約 400‑ 500m)‑ これか 中位面 と呼ぶ。( ∋
轍戸内海沿岸部及び島部に存在する小丘陵面で .旧板戸内面 の海底 もしくはその延長上 に形成 された侵蝕面 (高度約100‑ 200m)‑低位面 または瀬戸内面 と呼ぶQこの中で ,吉備高原は兵庫県か ら山 口県
に
至る山陽側
に分布する礎起伏 の侵蝕平 坦面である。吉備 高原 は ,日本で も代表的75隆起準平原 として有名であるが ,それは完全に準平原化 された後に隆起 し た ものではな く,それ よbも酌の段階で造山運動に 上って隆起 した もの らしいO とい うのは吉備高原 面の起伏をみる と,世界でも代表的 な他の準平原 に比べた狙合 ,かな b起伏 をもっているか らである。そ して背架山地に発源す る河川 (吉井川 ・旭川 ・高梁川 ・太田川 など )仕全て吉備高原を深 く下刻 し て ,い くつかの部分に区切 っているので ある。 また書簡高床に発源する河川は面上 に榎 勾配の滞格 を
もち ,速急点
(Enick point)
を作 って峡谷をな しているO以上 のような吉備高原の一般的性格 を位 も典型的 に示 しているのは ,中国地方 中央部の広島 ・岡山 県境付近であるO この地峡では高度仕 5 0 0‑ 占 0 0mと高 く.また高原面の残存状熊 もよく'かな b連続的であるo これに対 して ,吉備高原 も漸次東 ・市 ・酉にいくにつれ て高度は2
0 0m
位 まで低 下 し,その性質 も不明瞭 となって くる0‑ 7‑
三石 町付近の地域 は ,吉備高原 の常南部 に位博 し ,高度技約4 0 0‑ 20 0mと低下 し,高原面の 残存状態 は悪 くな ってい る。岡山県下では芯梁川 周辺 の地域が負 も侵蝕の ステージが若 く,吉井 川周 辺 の地 域が最 も侵蝕が進ん でい る。旭川 はその中間で ある。 したが って ,本地域 は 岡山県下で も最 も 偉蝕のス テ‑ ジが進んだ地域で あるが ,本地域 か ら海岸部 にかけて断層 が発達 して複雑 さを加味 して い る。
( b)
各 地区 の地形本地域は .5万分の1地形図播州赤穂 .和気図倍に含 まれ る。前述 した如 く .山地は直線状の谷に よってい くつか に ブE]ック化されてい るが ,ここでは図2‑ 11 1(折 b込み)の ように区分 した。
これ を もとに して ,各山地の断面図 を作成 し,その形状 よb特色 を導 き出 してみ よう。 「計測作業 に は2.5万分の 1地形図三石 ・和気図倍を用いた。〕
図2‑ 1‑ 2 各 ブロ ックの山稜の断面図
‑ 8‑
岡 2‑/ ‑2 ふ プロヅ7の心象 の断面図
(争 三石図帽 の南端部で .北は備前町正蕪寺 か ら大谷 を通 って ,日生町 寺山に至 る断層頑A)に よっ て切断され ている.分水紋 かは このUr層谷 に対 してか な b不規則では あるが全体的 には平 行 して い る。 また高度壮中央部 において5 7 0‑ 5 987nO清い面 舌 もつ。
(参 南を断層4(A)に ,北 を三石町八木山か ら福石 を適 って赤穂市
輿
に至 る断層谷 (福石断屑谷) ( B)
に よって ,それぞれ切断 された山地である0分水塊3両A)の大谷付近 よb西では ,陀ゞ中央かむ し頁B)に近いのに対 して ,大谷以東で域A)に塩 めて景近 してい る。そ し
可A)
と平行 してい る。 し たがって分水線 よb
頬側 の斜面は短 く.北側で長 く食ってい る。高度 は大谷付近か ら岳山 にかけ て5 5 0‑ 5 8 0mと芯 く,それ よb
東 の福 石地付近 まで仕 2 7 0‑ 2 9 0mと低 くなってい るoこれは図2C
②
'lCおいて も, 2枚 の山頂面 として表 わされているQまた山頂高度は南側 で約570 mと高 く,北側 では5 0 0‑ 2 7 0mと低 くなってい る ことがわか るo これは この山地 の北恨jと・南側 を断層谷 が‑3̲‑ってい ることか ら考えて ,断層 忙伴 う地盤 運動 に伴 って ,商に よb大 き く北に /トさ く隆起 する とい う傾動 的 を運動 を した ことが予想盲れ るo
@ 福石断層
鎖B)
以北 の山地で ,分水綻
参は硝石 以西 で碩B)
にかた b漢近 し パ高石以東 では離れて い るが,(B)
に対 して平行 してい る。高度は福石 以西 で 2 00‑ 2 4 0m,中央部 の帆坂峠の北で5 9 07tl.東部で4 10‑ 4 5 0mと高 くをってい るo
㊨ 北 を金剛川 の流れる和気断層承C)に切断 され ている。分水砥
げC)
に平行 し,高度は酉で200‑ 2 5 0mと低 く東に 500‑ 540mと高 く在 っているo
昏
) 幽幅北端部の山地 で ,商 を深谷 ,滴 か ら新田 を通b
吉永町費岩山の北 を通 って倉吉 に至 る断層 寓 D)て切断 されてい るO分水砿 参画D)に平行 して いるO高 度 は石堂丸山付近で5 8 0‑ 4 2 0mI 西の竜泉山付近で5 6 0mと商 いが ,中央部の兵御 幸.野 谷峠 の部分で2 7 0‑ 5 0 0rnと低 くな なっている。㊥
北 東工 ) )
に切断 された小地芸で ,高 さは5 00‑ 5 5 0mで あるD城山付近 には 280m位の面 が あるC図 2⑳ 1ら もわか る よう喧D)の谷 を仕手んで ,北倒lc㊦ は この付近 では約400r n
‑ 9‑
と高 く,㊥ との差は最大lDOmあ るo この こ とは ,断層 に よって相対的
に
㊦ の方カ㊥ よDも大 き く 隆起 した こ とが予想 されるo㊥ 伊.,%町伊 里中か ら三石 町中心部 を通 って船坂峠 に至 る山陽道 に沿 って走 る三石 断層
4(
氏)
より東 の山地 で ある。分水線 己旭 E)と平 行 してN E‑ SW方向 に走 ってい るo高度は約 2 0 0‑ 2 50 mと低い面 を形 成 してい るのが特 色で ある。図2‑ I ‑ 3 飾層 Å 肉 刺 の 心 象 の断 面可
次に図
2‑1‑
5は ,(イ桓 断層頑B)
を ,(ロ)は断層項A)
をそれぞれ基線 と して ,そ の谷噴斜面の峰 の 部分 を トt/‑ス した もので あるO(イ)をみ ると断岡谷 の北側つ ま 畑 の斜面 は ,谷底 か ら山頂に殆 ん ど 直線状に急便斜 を示 してV,るのに対 して ,南側 つ ま り⑤ の斜面はか な b階段状に 売 って か D ,北側 よ りも頓悟斜 であるO この北 と南の斜面 の形 の違 いは ,後 述するよ うに谷 の形 に も現 われて くるO この 原因は明瞭 でないが ,断屑運動
に伴 う隆起時期か ら⑧ の山地 よDも⑪ の山地 の方が新 しい とい うこと‑ 10‑
も考え られ るO
以上各地区の形態 を列挙 したが ,各山地は節
用
に 上る野轡 を強 く受けてい るものと考え られ る。( C)
5つの侵蝕面前述の各山地 の形態 を把握 した上で,2.5万分の1地形 図三石図幅 よb作成 した切谷面図 (囲 ま省 略),及び各山地の分水線の高度変化 (図 2‑ 1‑ 5)と現地観察か ら推察 して .この地域の山地は
次の5段の侵蝕面に区分することが可能 である。
喝 2‑/‑5I A 山地 の体 線 の鳥丸 象 It.
(イ) 高度約 5 5 0‑ 5 8 0mの間 にみ られる侵蝕乱 その分布をみ ると ,分水賦 Dの中央部天狗山 付近か ら
東
に連 なる峰 ,分水縦令の大谷方 向の岳山付近 の峰 ,① の帆坂峠北方の峰 ,廷)の竜泉山 及び石筆丸山付近 の峰 な どが あげ られる。 これ らは前述 した ように.ほゞE‑ W方向の直線状 の 断層谷に よって区切 られてVlるO(ロ) 高度
約270 m
にみ られる俊蝕面O分水綿雪の福石地付近 の峰 ,城山付近 などにみ られ るo
い) 高度的 2 D 0mの侵蝕面o伊里町か ら船墳峠 にかけて山陽道沿いの東 に連 なる。他 に分水賦9 の西端 にみ られるO
以上5段の面が考 え られるO
なお写奨Ⅰは深谷 ,滝付近か ら福石地 出方 の山 を写 した ものであるO これか ら も高度の異をる侵蝕面の存在が わか るO 前方の低い面が首度約2 8 0mて③ の侵 蝕面 に相当 し,後方の高い蘭が5 70‑
580mて① の面に相当す るO
‑
殻
に高度の異 なる侵蝕面の形成 に関 して比,次の2つの考 え方が あるDせずそ の1つは.最初高位の侯蝕面が形成 されて .その後 の侵蝕作 用の結集 ,その周辺 に低 写素 2‑ 1‑ 1 三 石町地域の山地
‑ 11・‑
位の面 が形成 された とす る もので ある。つ ib輪廻 を異 にす る異暗面で ある とす る ものであ るO これ に対 して他の1つ披 ,もともと同一時代 にで きた一連 の侵蝕面が ,断刑 な どの稲造的変化 を受け るこ とに よって高 度 を異にす る2つの面 にな った とす るもので ,同時異苗 の考 え方 であるO との2つの考 え方は ,中国山地全体 について ,つ まり高位面 と中位面の形成機構に関 して論惑 されて きた ことで も ある。
三石 町地蚊に おけ るこれ ら侵蝕面形成 に関 しては ,更に広域 にわた る調査が必要 であ るため ,三石 町の調査 だけで は不十分 であるが .前述 した ように三石 .和気 ,日生 ,片上 な どの地域には ,断層が 多 く認 め られ ,また山地は明瞭 を直線状 の断層谷 に よって切断 され .各分水線 は断屈谷 に支配 されて ほ ゞ平行 となってい ることなどか ら考 えて ,この地峡は断層 に よる影響が強 く,後者 の考え方が適用さ れ うる と考 え られ る。
( a)
山の型 と山地 の土地利用前述 した如 く,この地域 の山地 は断層に よって寸断されてい るために ,山地 は平野 の面か ら直按に, かな り急勾配 で突 き出た形 となD ,ゆるやかなすそ野は持た ないOそ して山腹 を削 って′ト谷が よ く発 達 し ,その範には谷 か ら押 し流 された岩塊 や土砂 に よって形 成 された崖錐が各所 に発達 してい るO と の盤錐 の先端部 には家屋が建 ってい る所 もあるo
また山頂 の塾 をみ ると .にぷい丸み を もった ,なだ らかを ものが多 いo これは この地域 の地質 を触 成 してい る流紋岩 が ,細かい砂状 もしくは シJL,ト状 に風化す るために .侵蝕の進み方が鋭角的 にな ら
ないか らである。 このこ とは .砂状 に風化 した流紋 岩の地肌は ,雨に よる流失が激 しい ことを意味 し てお9 ,三石町地域 には ,はげ山や植生の悪い山地が多い原因 となってい るo
( 山 T 孝 子 )
( 2 )
谷( a)
断層谷 の発達前節 においては .山地 とい う面 か ら三石町の特徴 をと らえてみ たが .この節 に おいては谷 とい う面 か ら三石町の特徴 をとらえてみたが ,この節 にかいては谷 とい う面か らそれ を見てみ る ことに した。
三石 町の谷系 を知 るために Iその最初 の段階 としてや った ことは水 系園の作成 である。そ こで気付 いた ことは ,せず 1)ニ7 メソ トが それぞれ 一定 の方 向を持 ち ,相互 に鉛走 してい ることで あ D,さ ら
至E)
に またその 1)ニ7ノン トを示 している谷に対す る支谷が ,これ らに対 して直角 ,あ るいはその中のひ とつの谷 に対 して ある方 向性 をも って入 ってい るとV,うの も特徴 で あ るO これは水系図 を作 成 してみ た地域 ,即 ち日生 ・和気 ・三石 .片上の中 の どの通 常谷の形状 と対比 してみて も,その差 異は顕著 で ある。 第三に船坂峠 .帆 坂峠 の ような分水 界 も .)ニ7メソ トの中 に見 うけ られたO以上の これ らの特 改姓 ,この谷 に おいて直接 に断 層を見ると とはで きなか ったが ,断層谷 を示 してV,るとい うことが貫 え よう。
そ こで主な 1)ニ7メン トの方 向 (即 ち断層谷 の方向 となる )を ,大 森鵜秦氏が 『岡山県両帝部のろ う石鉱床 と地質構造 との関係 』の中で解か れているのを引用 して主 な ものを挙げ てみ ると次の ようで ある。
‑ 12‑
Oはゞ山陽道 に沿 ったN と:‑ SW系の三石断層谷
o
帆坂峠 を通過す るNW系の桶石断屑谷o寺山 ・大谷川 を通過す るEN E‑ VJSW系の もの oNS系の伊里断層谷
o
EW系の和気断層谷 及び 日生断 層谷o吉永 ・新田 ・深谷の滝 を通過 す るEW系の もの 0本村 ・新 田野谷峠 を通滑 す るN S系の もの
o
渡瀬 の東南の谷 か ら南東
に向か って筒石にぬけ る方 向即 ちNW ‑ Shn系の もの また これ らの断層谷 の方向は ,この姻戚の地賓を衷 わ した構造 谷で もある。注 )リニアメン トとは大陸 の輪 淵とか河川 の コース ,奉 るい姓山地 の‑ りなどが ,割合直線的 な方 向 を もってt′ゝる時 ,しば しばそれを T)ニア メソ tと呼 ぶので あ り,それ kt基喝 とな る地質構造
と密接 に馳併 し ,結合 してい るので あるとい う意味 であ るO
次 に,これ らの断層谷 をさ らに詳 し く知 るために三石町の東南 IK位地 す る福石 一帆坂峠 の断層 谷 , そ して これの南に仕僚する大谷川一寺山 の断層谷 をと
b
上げてみたO前者の谷 に おいては谷底でわずかなが ら繭か ら北 に1 る額 憤斜が み られ ,この谷 を境 に北仰 の谷 と 南側 の谷 を比較 してみると ,北側 では ,深 く・kf‑!い谷 で ,控 とん どⅤ字型 に近 い急使 斜で あるOそ して 支谷がほ ゞ直角 に入 っているの 忙対 し ,痢側の谷では ,ほ とん どの ものに遜魚点が存 在 し ,大谷川一 寺山の断値谷に尾板が非常 に篠近 してい るため頓慣斜であ るOこれ らの点は ,冒集 で啓 いたの よD, 次の図で さらに明確に理解で きるこ とゝ思 う。
次 VC大谷川 一寺山の断傾谷 を境 とし て ,前 と同様 に北側 と南側 の谷 を対比 す るとその結
果
は ,先の もの とはゞ同 感忙 なるOつ まり北側 の谷 は ,尾根が 塩端 に断層谷に近接 してい るq)で急傾 斜であ 9.南側 では ,杏急点 を もった 谷が見 うけ られ る。以上か ら,次 の こ とが予測 され る.
つ ま 9 ,両者の断層ITはさ まれた所
に
おいて ,現在の島根 にあたる部分が隆 起 したの で ,この北脚が串傾 斜 に ,南 側が急傾斜 に75:少 ,さ らに北側の谷
に
見 られ る愚 息点 は ,新 しい侵食を示 し てい るので妓女いか とい うこ とである。
句 2 ‑I ‑6
‑ 151
(b)谷底平 野 と土堺
次 に ,船坂峠か ら三石町に .さ らに野谷 に‑ と下 って くるに従 い ,谷底平野 が 広が って くるo Lか し雫 しい発達 が見 られ る とい うものでは ないOそ して この壮年期に入 った床谷 の形成 をみ るとき ,二 つ の過程が考え られ るOすなわち ,谷に この地域 一帯 の醗紋岩葬砂質土堺が堆 積 されてで きた ものか , それ ともⅤ字型 の谷が両側 を侵食されて現在の よ うにな ったのか とい うことであるが ,これは谷床に 砂畔が見 られ るか ,基舷が Eiられるかで究明され ようD
次に土熊に ついて見 ることにするOこれは三石 町山 菜協 同組合 におい て作 成 してい る施肥土塀FiI分 図を参考 に したO図211‑7に示九四つの施肥土塀区 1,2 ,5 . 4は全て砂 堺土 であ り, 1は下層が 抄又 は砂喋層型2紘心土が砂土 あるいは砂壌土 ,鋤 朱層 及び下屑に斑鉄 並びに マンガン結核の群書 な 埠頓塾,5は 下同が耕 土 あるいは砂 噸土 の沖樽型 4は母岩 の石 英粗面岩が風化 ・権柄 してで きた水 田 で ,下層に母岩や風化の新 しい もの も見 られ る弱濃元型 と呼ばれ るものであるO
つまb ,以上か らこの地域の土壌 は ,風化 の しやすL,n流紋岩頬 の砂硬質土壌が大部分 を占め てい る とい うことが で きよう。
(常 田 由岐 子 )
‑ 14‑
2 地 質
図 2‑ 2‑ 1は 日本 の地質桝道 の区分を示 したもの で あるが ,これか ら岡山県の位骨 をみ ると大部 分が三部
帯
に属 し '‑部舞熱帯 及び丹波帯 が入 ってい る。 三部 帯 とは≡郡変改岩 と呼ばれ る ,古生層 か ら変化 した結晶片岩 や華片岩 (千枚岩 )の 上うな鷲成岩 が分布 す る。又変成 を受 けてい ない生 の Ti tの古生厨の所 もあるO これは主に英田郡赦野町 ・火磨郡久世町 ・勝山町 ・落合町 ,久米部旭町 ・中 央町 などに分布 してい る。次 に舞鶴帯 とQj:,丹波帯 と三 ま弼符を分けてい る狭い地帯 で ,古生周 や古生 府・火成岩 な どが穆雑 夜地質榔進 を夜 してt/,るo丹攻彬 とは主 として古生厨 か ら成 っていて花 樹岩に
貫 かれてい る。
同 2‑2 ‑I E)太 の 地 箕 凍 通 丘 か
(生 卵 を県 他 項鹿 重 岡 鼓 明 春 536)
\1 」■ t
以下三石 周辺 の地質 創 拙昭す るが ,そ の特 色壮碕軟岩‑の広樹 を分布 におおわれ てい ることにある.
( 1 )
地質概略岡山県菜南部一帯 ,特 に和気部三石 ・音永和気 ・術前 ・日生町 周辺 か ら英田郵英田町 ・作 東町 南部
‑かけては ,古生層 (美紀町では三母紀層 )を主体 とす る基軽の上
に
,不粋合に
,広範囲
に渡 って流 紋岩類 が分布 しているDそ して石英 根 岩 ・花樹閃撮岩 ・花 尚岩 ・花樹群岩 ・翰岩 などの岩体が この 流紋岩鞄 を潰 しへてい る。また.所 に よっては ,これ らの措舎軒 をか か って洪碑世 の砂軌 堺が分布してレ\も (図2‑ 2‑ 2参照 ) 古生屈の分 布は三石町 台山京部 ・吉永町校庭 宮部 キビ
に見 られ る0台山瀬部 では粘板岩 ・挫緑凝灰岩 ・チ ,‑ r ・砂岩 などの互肝か らな り,走向は一般 に,N‑4 00‑ 7 0CEで , 小帯 曲を く り返 してレ、るOこの地峡の涜紋岩頬は ,中生代末期 の火山活動I{上る嘩物で あって ,秘解かの巌灰岩頻 ・溶岩押 ・
‑ 15‑
お よび火山活動末期 に官入 した と考 え られ る貫入岩体 の5棲帯に大別 す る ことが で きる。 しか し ,港 岩類 や貫 入岩体 の分布は一 部 に限 られ てお り ,大 部分が凝灰岩類 か らなってい る。
(図 2‑ 2‑ 2‑ 4参照 )
そ して凝灰岩類 のある特 定の層準 の ところに層状 ない しレンズ状 を皇 して .ろ う石範床が肱胎されて い る。 中で も .台 山地区 .板屋地区 をは じめ多 くの君 鉱 床は .凍灰岩類 中の結晶凝灰岩や細粒凝灰岩の 中に腫胎 されてい るのであ るO
(2 ) ろ う石鉱 床
との地域 にはろ う石鉱床が 多 く分布 してい るが .特 に鉱床の既存範 囲が広 く .また良質 の もの を産す る地域は .台山 (八木 山 .兄坂 を含 む )・板 屋 (金谷 を含 む )地区 であ 9 .との地区 に多 くの鉱味が衡 壊 してVlるO (図 2‑ 2‑ 5参照 )。 すべ ての鉱山の うちで巌 も開発規模の大 きい代表 的 な鉱山は台 山 地区の大平 鉱山であ る。 (図2‑ 2‑ 6参照 )。
(山 下 孝 子 )
‑‑16‑
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三方・ 吉永地色 市史の地 異
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‑ 17‑
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色 砂 紛 市 河岡2‑ づ‑̀ 鹿 珂 両喝
(注記 )
1)図2‑ 2‑ 2は次か ら引用 した。
岡山県(1965):岡山県地Jjq図。
2)図2‑ 2‑ 5‑ 6は次か ら引用 した。
大森尚専 (19日 ).1岡山県南東 部のろ う石鉱床 と地質牌壷 との関係。 岡山大学地学研 究鶴 告第1号
‑ 18‑
第 3 章 人 口 と 集 落
1
人 口梅 成 と そ の 変 動三石町の現住人 口は.昭和42年5月末において,姓帝政 1,454戸,総 人 口5.占5 1人,男 2,9 0 4人.女2.9 2 7人 ,一世帯人員ま9 2人である。三石町の人口は.現在 に至 るまで どの よ う な過程 をた どって きたのか .各種の賀料を もとに考察 してみ 上うO
(I) 人口増加 か ら近年の淑少傾向
192 0年 (大9)年10月を第1回 とす る国勢調査 に基 き,世帯数 ・総 人口 ・男女別 人口の変化 を第1表に まとめている. 1920 年10月においては世帯数82占戸 ・総人 口
5.5 84人 ・男1.8占 7人 ・女1,7 17人 ・ 一世帯人員は4・5 4人であった。それが
19 4 5(紹4 0 )年の国勢調査では,それ ぞれ, 1,5 75戸, 5,5 8 1人. 2,占 占 2人 ,
2.9 19人, 4.08人 とな D,世帯教では 54 9戸,総人 口では, 1,9 9 7人,男 795 人,女1.2 0 2人の増加,一世帯人員は0.28 人の淑少 とな ってい る。男女に 4 0 7人 もの
窮 1表 三軍町総人 口 ・男女別人 口 (国勢調査 ) 世帯数 総人 口 甥 女 1920年 82占 5,584 1,8占7 1.717 19 2 5 808 5.517 1.808 1.709 19 5 0 951 5,758 1,894 1,8占4 1 9 55 952 4.501 2.165 2.158 19 40 1,051 4,占15 2.515 2.500 19 47 1,122 5,155 2
.
402 2.751 1950 1,177 5.599 2.579 2.8.20 19 5 5 1,192 5,554 2,占59 2.875 19 4 0 1,288 5J 45 2,7占7 2.979 19 4 5 1,575 5,581 2.占82 2,919 資料 は岡山県統計年報に よる。差が あるのは,太平洋戦争 に よる男の死亡が大 きな原因で ある0 19 4 0(大1 4 )年で仕男2.515 人.女2.5 0 0人 とわずか に男が多か ったのが戦後19 4 7(昭22)年の臨時国勢調
査
に よれば男2,4 02人,女2.75 1人 と.一挙 に逆の数字 を示 し.現在 まで志 っている。 とこで総人 口の増加 の 削合は19 2 0年 に比べて, 5 5・{7%で.これ紘岡山煉全体の人 口増 加翠 5 5.1%と比較す る とか な b大 きい数 字である。 国勢調査 に よって最近の人 口変動 をお うととが で きるが.それ以 前の三石町 と い うもの は どうで あったろ うか。三石町統計末 ・戸藤住民登 録苛・務一驚 表月報 に エ9, 18 9占(明 2 9 )年以降の 幣科 を得 ることがで きたので,第1図忙グラフに してみたD昭和年代の前半の戦勲 は , 国勢調査 咋 よる他 な く不十分ではあるが, これ を与る と明治 の後半か らの三石町の人 口変数の様子 を 大 まかにつかむ ことがで きる. 189 6年の数字 をみる と世帯数50 1戸,総人 口2,4 18人.男
1.44 1人,女1.27 7人 であD.現在 は当時のいずれ も2倍以上 LrLなっているが ,単 に漸次増加 し てきたわけで仕 恵hc 人口資財に大 きな質素 を占める明治大正期の転 出入について少 し触れてみ ようO 第2園 と第 5園が転出入人 口についてのグラフでちb,第2表 にその合計 を妙で示 した。 明治汝軌 他市娘,他郡市 ,他町村 よ9人寄 留 してい る者の取か .他府県 .他郡市 ・他町村‑ 出寄 留 してい る者 の教 を相当上回 っていた。 しか し,大正にたると,他府県‑ 出寄 留す る ものの数が激抑 し, また朝鮮
‑19一 ・・・・
台湾 など‑ 渡 J,てい く者 もあ らわれは じめ,転 出超過 と なってい る。 こ うして,増 加 '淑少 ・停滞 とい ろいろな 変化 を繰 b返 してか D,第1図 か らわか る よ うに人 口増 加が 著 しいのは,昭和年代 に入 ってか らで ある.三石町 は, 明治の初期 ;加藤 忍九郎氏 が ろ う石 を発見 した こと に よD,以後大正末期 頃か らは 「ろ う石 ・煉瓦の町」 と して発展 す るわけで あるが , これが人 口増 加の大 きな委 棄 を な していた ととはV',うまで もない ととだろ う. この 時期 にかける人 口流動状態 を明 らかにする資料 が なか っ たの は或念 で ある。 この よ うに.昭 和5 0年前 後 まで人 口増 加は著 しい わけで あるが ,その後,停滞 あるいは減 少傾 向 にある.一番最 近の国勢調査 1 9 i 5年 に卦いて 紘,前回 に比べ.総 人 口5.7 4 5人 ,男2.7 6 7人.女 2,9 7 9人 か ら,男1 0 5人 .女 8 0人減少 している.
とれ 仕偶然 では な く.三石町 か らの人 口流 出傾 向 を示 し てVlる と思われ る. これ は図5‑ 1‑ 1の グ ラフを見 る と明 らかであ るC
(2)人口の流 出
人 口淑少の原因は,おそ ら くどの町村 に も共通 してみ られ る若年層 の他府県 及び他 市町村 ‑の流 出.特 に都 会 への流 出で あろ うと思 われ るの で,その 点につい て考察
してみ よう8
辞 1図に人 口変動 と共
に
,本藤 人 口に対 す る現 任人口 の割 合の変化 を一房
に タ ラフVELて示 してい るが .これ はそ の年の総人 口をその年の本頼人 口で削 った数 字であ る. これ仕割 合が 大 きければ他所 か らの三石 町‑ の寄 留 人 口の多い こ とを示 し,,」、さければ逆に本来三石町 に本第2表 三 石 町 転 出 入 人 口 転 入 転 出 転入超過 明治5 0年 5 2 2 1 5 8 1 8 4
5 1 4 1 2 1 5 1 2 8 1 52 4 4 5 1 4 2 5 05 5 5 4 1 1 18 5 2 2 8 5 4 5 5 7 1 9 1 1 4 6 5 5 5 7 9 2 4 0 1 5 9 5 8 4 2 6 2 2 5 2 05 5 7 4 9 2 2 5 8 2 5 8 5 8 d O 9 5 1 1 2 9 8 5 9 5 8 4 8 4 5 2 0 48 6 5 7 2 9 0 5 4 7 4 1 6 2 2 5 0 5 5 17 4 2 4 4 8 5 2 5 1 2 5 4 5 5 8 7 2 78 1 17 4 4 5 6 8 2 7 1 9 7 大 正 元 年 5 8 2 5 1 0 7 2 2 5 6 9 5 7 0 ‑ 1 5 55 1 5 6 9 ‑ 1 8 4 4 1 8 4 5 4 ‑ 5 8 5 5 8 2 9 5 1 ‑ 5 4 9 占 4 4 2 4 8 7 15 5 丁 7 2 0 4 9 8 2 2 2 8 5 9 4 5 1 7 7 9 9 6 2 0 5 5 1 6 9 1 0 5 9 0 6 4 2 ‑ 5 2 l l 5 8 1 6 9 5 ‑ 1 12 1 2 4 0 2 7 0 0 ‑ 9 8 1 5 4 0 5 7 5 4 ‑ 1 5 1
籍 を持 ってい る人間が他 所‑流 出 してい る ことを示 して 頃科 は三石町 統計表 に よる
い るC先に述べ た明治大正年PpLlの転 出入人 口の様相 をあ らわ した象 2表 と窮 1回 とを比較 したが らみ てみ る と,伽 雪対応 してい るこ とが わか るo最 近三石町 に卦 いては ,現住人口は ,昭和56年 を ど‑
クにわずかづつ淑 少 しつつ あるの忙対 し,本鮪人 口は逆に現在 も漸次増加 を続 けてい るので あ D,従 って木 藤人 口に対 する削合は昭和58年以 降低下 をた どっている。例 えば ,昭和5 6年 の総人 口5.900 人,本鵜 人 口も 5 09人,割合はO19 5 5.昭和42年総人 口5,6 5 1人 ,本 飴人 口6.1 9 9人 ,刺 合018 日 であ る. こ うして本紫 人 口に対 する現住 人口の割合の低下に よって.人 口流 J・.現象の傾 向 が ある ことをみ たが ,そ れを具体 的に所 出す る人口の年齢層, また彼 らの転 出先 を明 らかに したい と
‑2ロー
思 うO ここで昭和40年度の国勢調査 を もとに.三石町の男女 年齢別の人 口桃成忙 つ い てみ てみ よ う。
句 3L,‑,'逼 吉雄 ‑芸TLaI,a:hhf 鴫 化
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周3‑I‑1 三 石 Tq‑̲特 出人口 ま)すガ 止ま,G町
軸
によ る句3 ‑ I ‑ 3 三石町素人人口
; 五井叶1 三 石T l 叫 長・ ‑ よ
る即 十 ゲ 鞭
細
入 佃 ミ,r ‑ 粟 冊‑21‑
黄 5‑ 1‑ 5 男女年齢別人 口構成J1‑一七./ I
三 石 町 岡 山 市 (旧 ) 倉 敷 市
総人 口 男 女 総人 口 男 女 総 人 口 男 女
0
〜 4才 85 4.4 エ9 aO 4.1 ま9 8.8 4.4 4.2 5 一一 9 86 4.D 4.6 7.1 ま占 5.5 7.4 エ8 ま占 10〜 1 4 9,4 4.9 4,5 7.2 5.7 5.5 7.8 4.D ま8 1 5〜 1 9 10̲0 4.8 5.2 ll.4 5.3 A̲1 ll.2 5.4 5.8 2 0〜 2 4 7.7 ま4 4.5 10.0 4.5 5.5 9.4 4.4 5,0 2 5‑〜2 9 79 4.0 5̲9 a8 4.2 4.8 8.8 4.4 4.4 5 8〜 5 4 a8 4.5 4,5 9.2 4.5 4.7 a8 4.4 4.4 5 5‑ 5 9 7.8 4.2 ま6 &1 4.0 4.1 7.5 5̲9 エム 4 0〜 4 4 5.9 2.4 ま5 i2 2.8 5.4 5̲9 2.7 5T2 4 5〜 Jt9 5.0 2.0 iO 4.9 2̲2 2.7 4.9 2.2 2.7 5 0〜 5 4 5.5 2̲5 まO 4.9 2̲5 2.4 5̲0 2.4 2.i 5 5〜 5 9 5.2 2.5 2.9 4.2 2.0 2.2 4ー5 2.1 2.2 4 0〜 8 4 i7 1.7 2.0 ま占 1.7 1.? ユ5 1.7 1.8 6 5〜 49 2.5 1,5 1.2 2.8 1.5 1.5 乙9 1.4 1.5 7 0〜 7 4 一.5 0.占 0.9 1.8 0.8 I.0 1.7 0.8 0.9 7 5以 上 2.2 u7 1,5 1.8 0.7 I.1 2.5 0,8 1.5 軒科性■昭和 40年 度 国勢 調 査報告それは表5‑ 1‑ 3と図
5‑1 ‑4
に示 した ようで あるが .岡山市 .旧倉敷市絞岡山県 では 比敏的 褒薬 も開発 され ておD
,若 年層 の人 口 も多い土地 と思 われ るので.三石町 と比較 す るために.岡山市 と (旧 )倉敷市 を共 に響いたo ここで若 年層 といわれ る中学校卒算 か ら大学卒葵 して しば ら くの年齢 の15‑24才 で比,乳 三石町は, 岡山市,旧倉敷市 の 9・870に比べ て82970,女 は 岡山市の11・6% ,旧倉敷 市の1 01870に対 して9・5野 ,総数 では岡山市2 1・470.旧倉敷 市2 0・占%I三石町17・7
% とかなD下 回 ってい る ことが特に目につ くO これは14才 までの非労働 者人 口の割合は逆
に.
岡山市倉政市 な どを上回 ってい る ことか ら考 えて明 らか に,中学卒井 後,高校卒業 後.甘年 た ちが ど こか‑
析 出 してい ってる ことを示 してい る と思 われ るO でQ:I.実 際に三石町 の所動 人口について具体的 に三 石町住民移動栗
経
に塞 いての駒査 苛科 をみてみ よ う。昭和4 1年 ・42年の最近2年愉だけの砥果 し か飼養 で きな くて不十分 では あるが.近年の傾向 をみ る ことは充分 可能 と思 われ るO表5‑ 1‑ 4 転 入 人 口
総 計 局 女 0‑ 4才 5〜 9 10〜 14 15一ヽ一19 20〜24 25一一29 4 1年 22 占 12 2 1 0 4 1 9 10 8 5 1 占4 40 4 2 2 78 12 4 15 2 28 10 l l 5 5 占 9 4 5
総 計 男 ‑ 女 50〜 59 一0〜 49 50〜59 dt)〜 49 7 0以上 41年 2 2‑6 12 2 10 4 5 2 l l 5 5 5
‑22‑