博 士 ( 理 学 ) 大 谷 優 介
学 位 論 文 題 名
核の量子効果を考慮したab initio 分子動力学法の開発 学位論文内容の要旨
近年、コンピュータの性能向上によりab initio分子動力学(AIMD)法が広く用いら れるようになってきている。AIMD法はab initio電子状態計算から各原子に働くカを 計 算し、Newtonの運動方程式を数値的に積分することによって反応をシミュレート する方法である。原子核がポテンシャルエネルギー曲面上を運動する様子を追跡する ことにより、ポテンシャル曲面の形状からではわからなぃ化学反応の動的な描像を理 解することができる。ポテンシャル関数を必要とせず、任意の分子系へと適用可能な 汎用性の高い手法であり、これからも応用範囲は広がっていくと考えられる。下図に AIMDの 概念図 を示す。 ある時 刻fで の核座標X(t)に対し て電子 状態を計 算し、p番 目のポテンシャル曲面上で各原子核に働くカF″(めを計算する。Newtonの運動方程 式に基づきFu(t)を用いて分子系の座標を微小時間△fだけ進め、X(t十△めを計算す る。この手続きを繰り返し、分子の古典軌道を得る。
X( め Hれ ‑矼 帆
ー 堂 堕
x繊 x( t) 矼 , F″ = ― 群 矼 , Fp= ー 護
AIMD法では 原子核を古典的に扱っており、核の量子効果が考慮されていない。ポ
テンシャル曲面が擬縮退するような領域では分子系を一方の断熱状態にアサインする 描像は崩れ、非断熱遷移を考慮する必要が生じる。また、水素のように軽い原子では 量子的なトンネル効果が見られる。多原子分子系の原子核の運動を量子力学に基づき シミュレートすることは計算コストの観点から不可能であるため、古典的な分子動力 学の範囲で量子効果を適切に考慮する手法が必要になる。そのような取り組みは古く からあり、非断熱遷移やトンネル効果を分子動力学法の枠組みで取り扱う近似的な手 法がいくっか提案されているが、長らくその適用は簡単なモデル系に限定されていた。
しかしこ こ数年AIMD計算が可能になってきたため、これらの近似法もようやく実際 の分子系 ー適用 する実践の段階となった。本研究ではこれらの手法をAIMD法に実装 し、応用計算を通して核の量子効果を考慮した実践的なシミュレーション手法の開発 を行う。
非断 熱遷移 を考慮する方法として、Surface Hopping(SH)法のーっであるTullyの 最少 遷移数ア ルゴリズム[1]を採用した。SH法は時間依存のSchrodinger方程式を数 値的に積分して電子波動関数の確率振幅の時間発展を追跡し、原子核が滞在する電子 状態から遷移確率に応じて別の電子状態へ乗り移らせる方法である。また、多くの古 典軌道を走らせることにより反応生成物の分岐比の議論も可能である。トンネル効果
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を 考 慮す る方 法に は、Makri‑Millerの 半古 典 法[2]を 採用 した 。本 方法 で は古典的に許 さ れ た 領 域 内 で 古 典 軌 道 を 走 ら せ 、 反 応 生 成 物 の 方 向 に 軌 道 が 衝突 する 度 に半 古典 (WKB)近似[3] の もと で透 過波 の 振幅 を計 算し 、単 位 時間 の透 過波 の振 幅 から、透過確 率 、 ′二 極小 ポテ ンシ ャ ルの トン ネル 分裂 な どを 見積もる 。計算手続きはきわめてシン プ ル で あ り 、 コス ト も大 きく ない こと か ら、 電子 励起 状 態や 大き な分 子系 へ の適 用が 期 待 でき る。
Tullyの 最 少 遷 移 数 ア ル ゴ リ ズ ム をAIMDに 実 装 し 、 例 と し て ア ゾ ベ ン ゼ ン の 弧 ^ 励 起 状態 にお けるcis‑trans光 異 性化 反応 をと りあ げ 、シ ミュ レー ショ ン を通して反応 経 路 、 励 起 寿 命 、 量 子 収 率 に つ い て 詳 細 に 解 析 を 行 な っ た 。 ア ゾベ ンゼ ン はAIMD計 算 の 対 象 と し て は 大 き め の 分 子 で 計 算 時 間 が か か る た め 、 フ ェ ニル 基のCH伸縮 振動 を 拘 束 す る こ とに よ り長 いタ イム ステ ッ プの 適用 を可 能 にし 、計 算コ スト の 削減 を図 っ た 。 内 部 自 由 度 を 拘 束 す るRATTLEア ル ゴ リ ズ ム[4]をAIMDに 実 装 し 、CH伸 縮 振 動 へ の 拘 束 が 他 の 自 由 度 やSH法 の 精 度 に 影 響 を 与 え な ぃ こ と を確 認し た 上で アゾ ベ ン ゼ ン へ と 適 用 し た 。 反 応 機 構 は 基 本 的 にNN結 合 を 軸 に フ ェ ニ ル 基 が 回 転 す る
¨rotation¨ に分 類 され るも ので あっ た が、cis→trans異性 化は 従来 考え ら れて いた rotationと は 異 な りNN部 分 が ね じ れ る よ う に 回 転 す る こ と で 構 造変 化し て おり 、フ ェ ニ ル 基 の 動 き を 最 小 限 に と ど め る 機 構 であ る こと がわ かっ た。 ま た、cis‑trans、 trans‑cis共に 励 起寿 命と 量子 収 率は 実験 値と 良く 一 致し 、非 断熱 遷移 が かかわる動的 な 現 象を 第一 原理 計算 に より 再現 する こと に 成功 した 。
Makri‑Millerの 半 古 典 法 をAIMDプ ロ グ ラ ム に 実 装 し 、 ア ン モ ニ ア の 傘反 転運 動、
マ ロ ン ア ル デ ヒ ド の 分子 内水 素 移動 反応 へと 適用 し た。Makri‑Millerの 方法 は、 作用 が 量 子 化 さ れ て い る 古典 軌道 を 走ら せな けれ ばな ら ない とい う制 限 があ り、 実際 の分 子 系 に 対 し て は 適 用 が難 しい 。 本研 究で は応 用計 算 を通 して 問題 点 を探 り、 簡便 な解 決 法 を 与 え 、 計 算 精 度、 適用 可 能性 にっ いて 検証 を 行っ た。 アン モ ニア の傘 反転 運動 は 面 外 振 動 の ほ ば 一 次元 で表 わ され るシ ンプ ルな 運 動で あり 、本 シ ミュ レー ショ ンに よ ル ト ン ネ ル 分 裂 に 関し てお お むね 実験 値と 一致 す る結 果が 得ら れ た。 一方 、マ ロン ア ル デ ヒ ド は 重 原 子 間 で 軽 原 子 が 移 動 す る 典型 的なheavy‑light‑heavyシス テム であ り 、 固 有 反 応 座 標 が 遷移 状態 の 前後 で大 きく 曲が る 。マ ロン アル デ ヒド に対 し各 モー ド に 零 点 振 動 エ ネ ル ギー を与 え て古 典軌 道を 走ら せ ると 、自 由度 間 で大 きく エネ ルギ ー が 移 動 し 量 子 条 件 を保 っこ と がで きな い。 また 、 古典 軌道 が障 壁 を越 えて しま うケ ー ス も 見 ら れ 、 そ の まま ではMakri‑Millerの 処方 箋 は適 用で きな ぃ こと にな る。 そこ で 本 研 究 で は 、Makri‑Millerの 定式 が振 動数 と作 用 にし か依 存し な いこ とに 注目 し、
量 子 条 件 は そ れ ほ ど 厳 し い も の で は な い と の考 えの もと 全 自由 度を2っ に分 け、 トン ネ ル 効 果 に 重 要 な 自 由度 のみ に 量子 的な 零点 振動 エ ネル ギー を与 え 、残 りの 自由 度に は温 度 に対 応す る古 典的 な エネ ルギ ーNk7` (Nは自 由度 の数、たはボルツマン定 数、丁 は温 度 )を 分配 する こと と した 。そ の結 果 、非 物理 的な エネルギー移動は起こら なくな り 、 ト ン ネ ル 分 裂 は 実 験 値 と お お む ね 一 致 す る こ と が 確 認 で き た 。
本 研 究 で はTullyの 最 少 遷 移 数 ア ル ゴ リ ズ ム とMakri‑Millerの半 古典 的手 法 を導 入 す る こ と に よ り 、 非 断 熱 遷 移 お よ び ト ン ネ ル 効 果 を 考 慮 し たAIMD法 の 開発 を 行な っ た 。 具 体 的 な 分 子 系 へ の応 用計 算を 通し て 計算 上の 問題 点 をー つー つ解 決し 、 実際 に シ ミ ュ レ ー シ ョ ン を 行 う際 の計 算ス キー ム を確 立す ると と もに 、非 断熱 遷移 あ るい は ト ン ネ ル 効 果 が 重 要 と なる 化学 反応 のシ ミ ュレ ーシ ョン に 成功 した 。今 後は 、 両者 の 効 果 が 複 合 的 に 関 わ る 「励 起状 態非 断熱 反 応に おけ るト ン ネル 効果 」が 重要 と なる 反 応 系 へ の 適 用 を 目 指 す 。
Reference
[1] J. C. Tully, J. Chem. Phys. 93,1061 (1990).
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[2] N. Makri, W. H. Miller, J. Chem. Phys. 91, 4026 (1989).
[3] 1: D. Landau and E. M. Lifshitz, Quantum Mechanics Nonrelativistic Theory (Butterworth‑Heinemann, 1981).
[4] H. C. Andersen, J. Comp. Phys. 52, 24 (1983).
学 位論文 審査の要旨 主査
副査 副査 副査
教授 教授 教授 准教授
武 次 徹 也 武 田 定 鈴 木 孝 紀 野 呂 武 司
学 位 論 文 題 名
核の量子 効果を考 慮した ab initio 分子動力学法の開発
分子科学においてBorn‑Oppenheimer近似により電子の運動と原子核の運動を分離して取 り扱うアプローチが提案されて以 来、原子核の位置を固定して電子状態のシュレーディンガ ー方程式を解く「電子状態理論」 と原子核のダイナミクスを研究する「反応動力学」は長年 にわたり互いに独立した分野とし て発展してきたが、近年の分子理論の進展と計算機の著し い発達は、電子状態の方程式を解きながら原子核の運動を古典的に追跡するab initio(第一 原理)分子動力学(AIMD)法のアプ ローチを可能にした。AIMD法の登場により、一般の多原 子分子系に対して全自由度を含む 信頼性の高いポテンシャル曲面上での動力学研究が可能 となり、プログラムの普及ととも に応用研究も増加傾向にある。一方、AIMD法では核の運 動は古典力学に従って扱われるた め、核の量子効果を取り込んだ動力学手法の開発が望まれ ている。一般に核の自由度をすべ て量子力学的に扱うことはコストの観点から不可能である ので、AIMD法に核の量子効果を取 り込むことができれば、第一原理シミュレーションで扱 うことのできる化学事象の領域は 大きく広がることになる。特に最近は光化学で重要となる 電子励起状態におけるダイナミク スに焦点をあてた理論開発が盛んになっており、世界的に も競争の激しい分野になっている 。電子状態理論においても励起状態のポテンシャル曲面を 高精度に見積もる手法が開発され 、ポテンシャル勾配や非断熱結合項の計算も可能となって きたため、これらを利用して励起 状態の動力学を研究する手法の開発が展開されている。
本論文は、核の量子効果として 代表的な「非断熱効果」と「トンネル効果」に焦点をあ て、AIMDプログラムに状態遷移法 および半古典トンネルモデルを実装して汎用的なプログ ラムを開発することを目指したも のであり、それぞれの効果にっいて具体的に多原子分子系 への適用を行って各手法の問題点を探り、より実用的な手法となるように展開を図っている。
非断熱遷移を考慮する方法として はTullyの最少遷移数アルゴリズムを採用し、トンネル効 果を考慮する方法にはMakriーMillerの半古典法を採用している。MakriーMillerの方法では、古 ‑ 1218一
典的に許された座標領域内で古典軌道を走らせ、反応生成物の方向に軌道が転回する度に半 古典(WKB)近似のもとで透過波の振幅を計算し、透過確率、トンネル分裂などを見積もる。
ト ンネル効 果を考慮したAIMD法の開発は世界的にもまだ例が無く、本研究がきっかけとな って今後発展していくことが期待される分野である。
非断熱遷移を考慮したダイナミクスでは、アゾベンゼンのmr゛励起状態におけるcis‑trans 光異性化反応をとりあげている。計算コストを削減するための工夫として、一部の分子自由 度 を 拘 束す るRATTLEア ル ゴ リズム をAIMDコー ドに実 装し、反 応ダイナ ミクス にあまり 関 与しそう にないフェニル基のCH伸縮振動を拘束して長いタイムステップの適用を可能に した。この工夫によって計算コストを十分のーに減らすことに成功し、数百本の古典軌道を 走 らせるこ とが可能となった。シミュレーションの結果、反応機構については単純なNN周 り の回転で はなく、NN部分が最初にペダルのような動きを示してフェニル基の動きを最小 限にとどめながら構造変化することを示し、励起寿命と量子収率についても実験値を非常に 良く再現することに成功しており、その内容は高く評価される。
トンネル効果を考慮したダイナミクスでは、適用対象としてアンモニアの傘反転運動とマ ロンアルデヒドの分子内水素移動反応を取り上げている。アンモニアの反応については比較 的簡単にトンネル分裂の実験値を再現したが、マロンアルデヒド(9原子分子)の反応は固 有反応座標が遷移状態の前後で大きく曲がることから自由度間のエネルギー移動が大きく、
古典軌道の中には古典的に障壁を越えてしまうケースも見られた。そこで本論文では、マロ ン アルデヒ ドの自由度を2っに分け、トンネル効果に重要な2由度には量子的な零点振動エ ネルギーを与え、残りの自由度には古典的なエネルギーを分配することにより非物理的なエ ネルギー移動を避ける手法を考案し、同位体置換体を含めトンネル分裂を定量的に見積もる ことに成功している。
こ れを要す るに、 著者は、 非断熱 効果とト ンネル効 果を考 慮した実用的なAIMD法の開 発に成功したものと評価でき、第一原理シミュレーションの適用範囲の拡大に対して貢献す るところ大なるものがある。
よ って著者は、北海道大学博士(理学)の学位を授与される資格があるものと認める。
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