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中間層技術人材形成過程としての海軍工廠技手養成制度の変遷(PDF)

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Academic year: 2021

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中間層技術人材形成過程としての

海軍工廠技手養成制度の変遷

谷口雄治

能力開発システム

Changes of the ‘Gite’ technician training system in the

shipyard of naval arsenal as a formative process of the

intermediate technological human resources

TANIGUCHI, Yuji

Human resource development system

Yokosuka shipyard is the first of the large-scale modern factory which made a starting point of the industrialization of Japan. The shipyard managed the factory school for training the middle class technical talented persons for about 80 years. Therefore, the shipyard is in positioning precious as a model which looks at formation and its education of the technical manpower in the industrialization development process of Japan. In this paper, the author assumes the development model which is made gradually, and examines how the education/ training in the factory school was formed and what kind of relations are seen between the formation of the education/ training and that of the technical talented persons who formed the concept of technician.

Keywords: Yokosuka shipyard, factory school, middle class technical talented persons, formation of the education/ training

1.はじめに 本稿は、海軍工廠造船部門における養成教育が造船 所の発展との関係でどのように形成され、それがテク ニシャン概念をもつ中間層技術人材の形成とどのよう な関係をもったのかについて明らかにすることを目的 とする。 今日、製造分野をはじめとして情報通信や医療分野 等において、その職業専門技術が複雑化・多様化する なかで、実践的な専門技術領域を担うテクニシャンの 範疇および労働市場は拡大している1)。だが、テクニ シャンの職務が多様で幅広いために、わが国では訳語 を含めて共通した概念が合意されているとは言い難い 2)。テクニシャン範疇の典型は、製造企業の中では、 技術知識に明るくしかも製造技能にも熟達し、技術者 と技能者との“橋渡し”的役割を担う職能である。テ クニシャンが一定の層として定着している欧米では、 テクニシャンの概念に生産組織ヒエラルキー上あるい は職業資格上の階層としての意味も伴う。しかしなが ら、テクニシャンの概念が意識されその教育が議論さ れたのは比較的新しい。たとえば、米国では 1950 年代 後半から 60 年代における技術革新を背景とした技術 教育の拡大強化の過程でテクニシャンの概念が次第に

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明確にされた。このとき得られたテクニシャン概念に 関する一つのクライテリア3)は、技術者と熟練労働者 の間の複雑化し多様化した中間的職務を表現するもの であった。この同時代に、フランスではIUT(工学 短期大学)やリセのSTS(高等技術者科)の開設、 イギリスではポリテクニクスの創設があった。岩内は、 第二次大戦後のわが国産業界においてテクニカルマン パワーの階層化がみられないのは、テクニシャンが職 務によって規定されるものと捉えられているからであ ると理由付けている4)。しかしながら、戦前のわが国 には、「技手」「工手」と呼ばれる明らかな中間層の技 術人材が存在した。たとえば、昭和 13 年から終戦まで 技術科士官であった福井静夫は、当時の海軍工廠にお ける技手・工手の位置づけや職務について次のように 述べている。 「数十種もある造船関係の職種、その一職種のボス が工手である。つまり、工手の下には同じ職種の組 長が数人いる。…(中略)この上が係員となり、技 手または工手の中から選ばれた工長(旧称、特務工 手)が長になる。係員は部員の下について、ある所 定の艦の仕事を全般を担当する、担当係員である。 したがって技手はその工場の各職種を統括する一方、 職種を空気関係(鉸鋲、穿孔、填隙など)や木工関 係に大別して、その一つを担当する5) このように、技手・工手は中間層として生産管理を担 っていた。また、かつて技手として海軍工廠に勤務さ れた方々を対象に筆者が行った聞き取り調査では、設 計部門で設計に従事する技手・工手がいたことを聞い ている。こうした証言を上述の 60 年代アメリカのクラ イテリアに照らせば、技手・工手はテクニシャンの範 疇といえる。さらに戦前には、技手の養成を目的とし た教育機関もあった。その一つである「海軍技手養成 所」は、文字どおり技手養成を標榜した教育機関とし て海軍工廠内に設置されていた。この養成教育の端緒 を幕末期に求めることができる。横須賀造船所に設置 された養成教育機関は、いくつかの変遷を経て最終的 には技手養成所に繋がると考えられる。では、それは 当初からテクニシャン概念をもつ中間層の養成という 明瞭な目標をもっていたのであろうか。筆者の先行研 究6)によれば、当初のフランス海軍技師ヴェルニーに よる「設立原案」およびその実践における教育の目標 像にはテクニシャン概念をもつ中間層がみられないと 結論づけた。つまり、フランスから移植された教育が 初期から明確な目標の下に完成したのではなく、テク ニシャン概念をもつ中間層技術人材はむしろゼロから 開始し近代的な大規模造船所へ発展する経過で徐々に 形成したのではないかと考える。しかも、その教育は 工場内学校であるために生産部門あるいは工場労務と 濃密な関係をもち、相互互換的に進められたはずであ る。つまり、横須賀造船所7)は、わが国工業化の起点 となった大規模近代工場の嚆矢であり初期から幕を閉 じるまでの約 80 年間にわたって工場内学校を運営し たという点で、わが国の工業化発展プロセスにおける テクニカルマンパワーの形成とその教育を見るモデル として貴重な位置づけにある。そこで本稿では、この ように徐々に創り上げられるという発展モデルを想定 し、造船所の発展とともに造船場内学校での養成教育 がどのように形成され、それが中間層技術人材の形成 とどのような関係をもったのであろうかという点につ いて検討する。 2.「技手養成所」へと連なる教育の変遷 「技手養成所」へと連なる海軍工廠内に設置された 教育機関の卒業生は、「学友交誼会」という同窓会をつ くっていた。同会では会員名簿を発行し、第1回目の 発行は 1920 年である8)。横須賀海軍工廠では職長教育 や見習職工教育に相当する教育も行われ、また度々の 名称変更や所属の変更、時には閉鎖による空白期があ ったにもかかわらず、学友交誼会では明治初期の黌舎 を濫觴として 1919 年に設置された技手養成所へと連 なる一つの系統を定め、同一の同窓会としている。す なわち、黌舎(士官生徒、1870 年・1873 年・1874 年・ 1875 年卒業)-造船所黌舎(1876 年卒業~1888 年卒 業)-海軍造船工学校(1889年卒業~1894年7月卒業) -海軍技手練習所(1894 年 12 月卒業~1896 年卒業) -海軍造船工練習所(1901 年卒業~1908 年卒業)-海 軍技手養成所(1922 年卒業~)の同窓会である。図表 -1は同窓会構成者の履歴書9)をもとに入学年月・卒 業年月の軌跡を整理したものである。こうした生徒の 在籍軌跡から養成教育機関の改変があっても連続性を 確認することができる。

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図表-1 入学・卒業の経過 (入学年が明らかになった者) 年 1870(M3) 1871(M4) 1 1872(M5) 1 1873(M6) 2 2 1874(M7) 2 1875(M8) 1 4 11 1876(M9) 2 0 1877(M10) 1 0 1878(M11) 0 1879(M12) 5 0 1880(M13) 5 0 1881(M14) 4 7 14 1882(M15) 3 1 0 1883(M16) 7 1 4 1884(M17) 3 10 11 1885(M18) 3 6 1886(M19) 0 1887(M20) 1 3 3 1888(M21) 1 8 10 1889(M22) 1 1 3 7 1890(M23) 9 2 2 6 1891(M24) 7 1 4 1892(M25) 2 8 8 1893(M26) 16 18 1894(M27) 10 20 1895(M28) 7 8 3 3 1896(M29) 7 1897(M30) 7 0 1898(M31) 22 1 0 1899(M32) 15 0 1900(M33) 11 0 1901(M34) 20 22 25 1902(M35) 10 16 17 1903(M36) 4 11 11 1904(M37) 1 20 27 1905(M38) 2 10 19 1906(M39) 4 10 1907(M40) 1 2 14 1908(M41) 14 1919(T8) 1920(T9) 海軍造船工練習所 職工学校 (変則) (職人黌舎) 黌舎第一分舎 黌舎(4年制) (伝習) 海軍技手養成所 入学 卒業 同 窓 会 名 簿 卒 業 数 海軍造船工学校 黌舎(5年制) 技手練習所 では、幕営時代の横須賀造船所の「伝習」に始まる これらの教育の変遷について、時系列により整理しよ う。 幕営時代の「伝習」: 幕営時代の横須賀製鉄所内での 教育は、「伝習」と記されるのみで教育機関に該当する 名称の記録は残されていない。その伝習は「技術伝習 生徒」および「職工生徒」の二つのカテゴリーに分け られていた。「技術伝習生徒」の伝習は士族の子弟を対 象として 1866 年に、「職工生徒」の伝習は横須賀近村 の少年を対象として 1867 年に始まった。これらの伝習 は、江戸幕府の終焉によって 1868 年 5 月 24 日に廃止 され、短期間であったために“卒業者”に該当する記 録はない。幕営時代の最初の技術伝習生徒 4 名は、そ の氏名が明治政府移管後の史料にみられないことから、 廃止とともに生徒身分も消滅したと考えられる。他方、 職工生徒は新政府移管時の現員報告で 22 名という記 録がある。これらの職工生徒の措置について推測する 史料がわずかにある。1867 年 3 月に 鑢やすり見習職として 入業した角井留吉の履歴の最初に、「雇仏人マンスニ就 キ仕上、機械組立術ヲ学ブ」と記されている。「神奈川 県平民..」の角井が 1867 年の入業後にフランス人から学 んだのは「職工生徒」の伝習であろう。角井の履歴は、 「職工生徒」の伝習が「廃止」の陰で継続していたこ とを証拠づけるものである。 「黌舎」(正則)および職工学校(職人黌舎または変則): 明治新政府に移管された造船所では、1870 年3 月に「黌 舎」を設置し、1871 年 12 月 28 日には「通学工夫」制 度を開始した10)。1876 年にヴェルニーが離任に際し て残した日本政府あての報告書では、黌舎におけるフ ルタイムによる伝習を「正則」、パートタイムによる職 工生徒の伝習を「変則」としている。政変による経営 主体の交代にもかかわらず、技術指導側は同じくフラ ンス人であり、そのリーダーであるヴェルニーも引き 続き就任したため、造船所における伝習の基本軸はほ とんど変わっていないはずである。したがって、「正則」 「変則」二つのコースは、幕営時代の二つの伝習カテ ゴリーを継承するものと考えられる。 黌舎第一分舎: ヴェルニーの解任(1875 年 12 月 31 日)を契機とした造船所の‘フランス離れ’は、教育 組織の改変を余儀なくした。まず、1876 年 9 月 21 日 に職工学校(変則、職人黌舎)を「黌舎第一分舎」と した。また、「在勤官吏ノ子弟及技倆優等ノ青年職工ニ 普通学科ヲ教授スベキ学舎」として 1875 年 3 月 11 日 に開設した教育施設「講習舎」が、海軍の裁可を経て いたにもかかわらず早々に1878 年2 月4 日に廃止され た11)。職工学校の改変の一方、フランス人の撤退によ る黌舎(正則)の教師不足という事情のために黌舎予 科教育を外部教育機関に委託することが検討され、結 局、東京開成学校で1877年1月から委託が開始された。 黌舎(修業職工): 1876 年 9 月に設置された第一分 舎および第二分舎は、約1年半後に廃止となった。だ が、第一分舎の職工生徒が黌舎所属下の「修業職工」 として継続したため、実質的には第二分舎のみの廃止

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といえる。1878 年 12 月 24 日の黌舎庶務順序等規則の 経緯説明「職工若年ニシテ将来見込アルモノヲ黌舎ニ 於テ半日宛習学セシムル12)」は、第一分舎における職 工生徒から黌舎における修業職工への継承性を示して いる。約1年半で消滅した黌舎第一分舎という名称は、 結局、職工生徒教育をフランス人主導から日本人主導 のものとする改変・整備のための調整期間を象徴する ものといえよう。なお、黌舎生徒は、予科教育の委託 後、その募集を止めていたが、1880 年 5 月 1 日に黌舎 生徒の学則を補ったものの、1882 年 12 月 8 日に「造 船官ノ養成ハ工部大学校ニ於テ行フコトトナリ」、黌舎 では修業職工の教育のみを行うこととなった。これ以 後、造船所内の学校における養成目標像から技術官が 完全に除外されたことを意味する。 海軍造船工学校: 1889 年 5 月 28 日に鎮守府条例の 発布により横須賀造船所は横須賀鎮守府造船部となり、 同日の「海軍造船工学校官制」により海軍造船工学校 が設置された。鎮守府条例は、すでに 1884 年 12 月 15 日に横須賀鎮守府の所属となっていた横須賀造船所を 完全に鎮守府の一部門とした。これは、造船所の独立 性の低下を意味するが、一方では造船所の熟練職工の 徴兵を免除する意図があった。「海軍造船工学校官制」 は、造船所内の教育機関に関する最初の官制であり、 「海軍」を冠した学校名称どおり、海軍の学校として の独立性を高めるという意味をもった。造船工学校生 徒を「下士ノ次席」として軍属(兵籍)に編入された ことにより徴兵免除の対象となる。海軍造船工学校の 新設に伴い、「本校ハ本年五月ノ創設ニ係リ造船部造船 所工夫ニシテ技工トナルヘキ者ヲ教育スル所ニシテ其 学期ハ五年トス而シテ旧造船所黌舎生徒四十五名ヲ更 ニ練習生トシ其学力ニ応シ相当学年期ニ繰入レタリ1 3)」との措置により黌舎は事実上廃止となった。この 措置14)は、先の図表-1で生徒(練習生)が黌舎か ら海軍造船工学校へ跨って在籍していることからも確 認できる。 技手練習所: 1893 年 11 月 29 日の海軍機関学校条例 により、海軍機関学校の付属として「技手練習所」が 設置された。‘海軍三校’といわれた士官養成学校の一 つである海軍機関学校は、1887 年に一旦廃止されたが、 1893 年に再設置された。この再設置のタイミングで海 軍造船工学校を廃止し、技手練習所を海軍機関学校の 付属とした。海軍造船工学校と技手練習所との連関は、 条例制定に関する解説「従来本部ニ付属セシ海軍造船 工学校ハ同時ニ廃止セラレ新ニ海軍機関学校ニ技手練 習所ヲ置キ15)」や生徒の履歴書で確認できる16)。海 軍機関学校付属の技手練習所の設置は、練習所生徒に 海軍の兵籍をもたせて有為の技術人材を徴兵から守る という考え方をさらに進めたものといえよう。 海軍造船工練習所: 1897 年 9 月 3 日の海軍造船廠条 例により、横須賀鎮守府造船部から横須賀海軍造船廠 となった。造船廠は鎮守府の所属ではあるが、造船組 織としての独立性は高まったと考えられる。海軍造船 廠条例公布と同日に海軍造船工練習所条例が公布され、 造船廠付属として海軍造船工練習所が設置された。‘元 の鞘に納まる’かたちの海軍造船工練習所の設置は、 軍事機構のラインから一歩後退したことを意味する。 海軍技手養成所: 海軍造船工練習所が 1907 年 3 月 31 日に廃止され、海軍技手養成所が設置される 1919 年 3 月 26 日までに 12 年間の空白があった。これほど の空白期があるが、両者間に継承性があると判断でき る材料は少なくない。すなわち、通学年限がともに 3 年間であること、入学条件がともに年齢 21 歳以上であ り現業経験 3 年以上であること、卒業後は「前条ノ卒 業証書ヲ有スル者ハ海軍技手トナルベキ資格アル者ト ス」(海軍造船工練習所条例第十一条、海軍技手養成所 規則二十九条)として、同じ資格が得られることであ る。また、海軍技手養成所の開所式に際して、工廠長 が式辞の中で次のとおり従前の再興であることを述べ ている。 「練習工廃止以来巳ニ十有二年此ノ間海軍技手養成 ハ唯国内各地ノ高等工業学校ニ俟ツノ方針ヲ取リタ ルモ真ニ海軍特 種(ママ)ノ進歩ニ伴フベキ優良ナル技 術者ヲ得ントスルニハ従前ノ如ク海軍ニ養成所ヲ再 興シ…17) 1919 年 3 月 26 日に公布された海軍技手養成所令第 一条に「横須賀ニ....海軍技手養成所ヲ置ク」(筆者傍点) としている。「横須賀ニ」とは、横須賀鎮守府でも横須 賀海軍工廠でもなく、たんに物理的な場所を示す意味 である。「所長ハ横須賀海軍工廠長ニ隷シ所務ヲ掌理ス」 (同第四条)としているが、養成所そのものの所属を

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意味するものではなく、工廠との関係を表しているに すぎない。海軍技手養成所規則第一条「海軍技手養成 所ニ関スル教育綱領ハ海軍大臣ノ認可ヲ受ケ海軍技術 本部長之ヲ定ム」は、まさに海軍省主導による教育で あることを示すものである。 以上のように、海軍技手養成所に至る教育の変遷を 時系列によって確認したが、併せてこれを主導した主 体にも移り変わりがあることを確認した。当該教育を 主導した主体でみるならば、①幕営時代伝習・職工学 校(職人黌舎/変則)=フランス人主導期、②第一分舎・ 黌舎(修業職工)=日本人による造船所主導期、③海 軍造船工学校・技手練習所=海軍省主導期、④海軍造 船工練習所=造船廠主導期、⑤海軍技手養成所=海軍 省主導期に区分できる。 3.技手養成所系統の教育の養成機能 前節で確認した教育の変遷の概略と養成目標に関す る条項をまとめると図表-2のとおりとなる。これほ どまでに度々繰り返された改変は、堀内が指摘する18) フランス海軍下士学校をモデルとした技術教育が完全 に移植されるまでには至らなかったことを示している といえよう。つまり、模索ともみられる変遷は、技術 伝習に始まるものの、「移植」ではなく日本人による「創 造」のプロセスであろう。このような理解で、以下で は教育を主導した主体の意図についてテクニシャン範 疇形成の視点から検討することにする。 フランス人主導期(幕営時代の「伝習」、職工学校(職 人黌舎/変則)): フランス人が主導した幕営時代の 「職工生徒」の伝習および明治政府移管後の同伝習(職 工学校)においては、その養成目標を示す規則等が不 明である。このため、この時代の職工学校の養成目標 についてはいくつかの理解に分かれる。まず、岩内に よる「正則学校と併存していたときは熟練職工の養成 19)」とする熟練職工養成説がある。堀内は、ヴェルニ ーの署名文書から「職工長」であろう20)とみる職長 養成説である。また、古賀比呂志による「熟練職工な いしは職長・下級技術者養成の役割を果たすべく設立 された22)」と幅広くみる「熟練職工・職長・下級技術 者の3つの階梯カバー」説がある。上記図表-2のフ ランス人主導期の不明欄を埋めるべく、先にあげた史 料(履歴書事例)を分析してみよう。 まずは、幕営期から明治政府移管期である。「職工生 徒」と思われる角井は、15 歳で製鉄所に入業し、1871 年までに機械副頭目の「マンス」から機械組立技能の 伝習を受けている。その後、「明治四年頃当時造船所ニ 設ケアリシ学校(黌舎以前ノ学校)ニ於テ雇仏国人ロ ーランニ就キ仏学、数学、及機械学等ノ大意ヲ学ヒ」 と記述している。「明治四年頃当時造船所ニ設ケアリシ 学校..(黌舎以前ノ学校..)」(傍点筆者)とは、何を指す のであろうか。この手掛かりとして、1869 年 5 月に填てん 隙 げき 見習いとして入業した蛭田佐太郎の履歴には「同所 入業中同所設立ノ夜学校........ニ入リ仏蘭西人クロンボト氏 ニ就キ明治三年五月ヨリ同五年十二月迄制作学ヲ授カ ル」(傍点筆者)という記述がある。つまり、職工学校 の開始は 1871 年 12 月 28 日とされるが、それ以前から 夜間開講の非公式な職工学校を始めていたことになる。 つまり、1868 年 5 月 24 日に廃止となった伝習が、少 なくとも「職工生徒」に限っては非公式なかたちで続 けられていたのである。さらに、「半日参校」方式によ る職工学校が設置された後も、その「通学工夫」に漏 れた職工の教育ニーズに応えるために夜間開講の学校 は非公式ながら存続させたと考えられる。履歴書にそ うした教育歴の表現を「卒業」と締め括れないのは非 公式の故であろう。『横須賀海軍工廠技術官及職工教育 沿革誌22)』では、1875 年 3 月 11 日の講習舎の開設に ついて「講習舎ノ公設..23)(傍点筆者)という見出し を設けている。つまり、非公式あるいは私設を公のも のにしたという意味である。講習舎は 1876 年 9 月に黌 舎第二分舎と改称されたが、結局、1878 年 2 月に廃止 されたのは、教育を主導し教師役を担っていたフラン ス人の撤退が原因といえよう。 「職工生徒」の教育が公式の半日参校方式と非公式 の夜間開講に分かれたとするならば、両者を基本的に 同じものと捉えるフランス人達が行った「職工生徒」 の教育は、幕末期から撤退するまで一貫していたこと になる。それは、出来るだけ多くの職工のための教育 機会とするものであるから、職長養成でも技術者養成 でも特種な熟練伝承でもなく、ましてやエリート養成 でもない、普通の製造技能とそのために必要な基礎学 力を目的とした教育であろう。 日本人造船所主導期(第一分舎・黌舎(修業職工)):

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日本人が造船所を主導することになり、教育も自らが 造り上げる最初の段階といえる。フランス人の撤退を 契機として、黌舎(正則)予科教育の外部委託、第二 分舎の廃棄、第一分舎の教育の継続という改変を行っ た。では、半日参校方式の職工学校を継承した第一分 舎の教育のみを手元に残したのはなぜであろうか。 まずは、フランス人による伝習の終結という方針は、 黌舎予科教育レベルの教師を造船所で確保することを 困難にさせる。東京開成学校への委託は苦肉の策とい える。他方、第二分舎の教育は、教育内容が普通学中 心であるから、当時横須賀では造船所の拡大とともに 外国語・数学等を教える私塾が次々と開かれ、こうし た私塾が受け皿になったと考えられる24)。結局、外部 に頼ることができない第一分舎の教育は、必要である ために廃止されなかったのであろう。 さて、こうした一連の改変は、フランス人の撤退か ら生じた言わば外的要因に基づくものであり、フラン ス人が行った教育を否定する動機ではない。事実、第 一分舎は半日参校方式の職工学校を継承している。こ の意味で、1876 年 9 月 8 日に急ごしらえで教則を定め て海軍省に申告した下記の第一分舎の教育目標は、フ ランス人の考え方を基本的には継承したものといえる。 なお、下記目標に規定される養成人材像は、非常に実 利主義的な考え方によって職長でも技術者でも特殊熟 練工でもなく普通の熟練工であることを示している。 「博学多識ヲ要スルニ非ズ唯各艦船及蒸気機械ノ学 理ヲ了解シ且平常工業上ノ各図ヲ調製シ若ハ求積等ノ 算法ヲ実際ニ応用スルヲ以テ足レリトス故ニ其ノ教育 ハ細密ノ理論ニ渉ラズ主トシテ実際上ノ科程ヲ修メシ メ以テ速ニ工業ニ裨益アルヲ目的トス25) 上記の言わば仮の規則で時を稼いで作り上げた規則 が、ようやく 1878 年 12 月 24 日に施行された26)。そ の際の造船所黌舎規則第一条に「修業職工ノ儀ハ定期 ノ学科ヲ卒業シタルモノハ工手以上或ハ一職場ノ長ニ モ抜擢スベキ者」という養成目標が示されることとな った。下級技術官吏または職長が養成目標である。つ まり、第一分舎でのフランス人の残した熟練工養成の 継承を早くも取り下げたことになる。造船所内の学校 による養成目標から熟練工としての職工が除外された のである。実際、この規則施行後最初の卒業生達(1881 年卒業)は、揃って 1 年 6 ヶ月後に工手(四等)に昇 任している27) 海軍省主導期(海軍造船工学校・技手練習所): この 時期は、官制によって海軍省が現業部門の造船所から 教育の主導を奪うと同時に、学校としての独立性、軍 事機構への組み込みが進められた。これには、二つの 背景が指摘できる。第一は、これまで船体担当の造船 専攻と動力機構担当の造機専攻による艦船製造の区分 で要員を育成してきたが、搭載する兵器製造のための 造兵専攻の要員需要が伸びてきたことへの対応である。 だが、兵器製造部門は造船とは異なる組織立てで形成 された兵器廠の領域である。造兵専攻を設けるために は、学校を造船現業部門から切り離す必要が生じたか らであると考えられる。事実、技手練習所には造兵専 攻を追加した。 第二は、海軍軍政の実施機関であり内戦部隊の要と なる鎮守府が各地に置かれ、各鎮守府内に造船部の設 置が計画されるようになったことへの対応である。つ まり、当該技術要員の教育は海軍全体で共有すべきも のという考え方が出てきたと考えられる。換言すれば、 海軍省は海軍造船工学校で養成する人材像とその価値 がみえてきたといえる。こうした背景での養成目標は、 次のように規定された。1889 年 5 月 28 日に発布され た海軍造船工学校官制第一条の「工夫..ヲ教育スル所ト ス」(傍点筆者)を 1891 年 8 月 16 日の官制改正では「造 船ニ従事スベキ技手出身志願ノ生徒.........ヲ教育スル所トス」 (傍点筆者)とした。工夫の中でも技手へと昇進する ことを自ら希望する者に対する教育とした。つまり、 1893 年の技手練習所設置の前にすでに 1891 年の官制 改正で「技手」の養成を明瞭に打ち出しているのであ る。この間の 1890 年 6 月に「職工練習所」が設置され た。職工練習所の設置に際して、「技工..ノ養成所トシテ ハ造船工学校ノ設ケアルモ職工長...ノ教育所ナキニ依リ 現今ノ職工長ハ多年ノ実業ノミニテ学識欠乏シ計画ト 相違セル図面ヲ製造スルガ如キコトアルニ依リ28) (傍点筆者)という趣意を述べている。これは、海軍 造船工学校が職工長の養成を目的としていないという 認識があったことを示すものである。また、ここには 「技工」と「職工長」との概念上の区別もみられる。 また、それは海軍造船工学校の養成目標像から職工長

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を除外させたことを意味するのであ る。 ところで、技手養成を明瞭に打ち 出した 1891 年 8 月 16 日の官制改正 では、入学最低年齢を 17 歳から 21 歳へ引き上げている。図表-3のと おり、1891(明治 24)年の官制改正 以前と以後の両生徒の造船所入業年 齢はほぼ変わらない。つまり、入学 前の造船所での現業経験年数を長く したのである。学業の途中で徴兵年 齢に達することを嫌ったのであろう。 徴兵から外れた者を入学対象者にす ることを意図したと考えられる。また、技手を育成目 標とした場合、少年期の基礎教育の上に現業経験でゴ ールを目指す方式から現業経験ある青年に対する養成 教育でゴールを目指す方式への転換であるともいえる。 造船廠主導期(海軍造船工練習所): 1897 年 9 月 3 日の鎮守府造船部から造船廠への機構変更に合わせ、 海軍機関学校付属の技手練習所を廃止し、造船廠付属 として海軍造船工練習所を置いた。造船廠が所属する 鎮守府との関係でいえば、海軍造船工練習所は 1884 年 12 月 15 日から 1886 年 4 月 22 日の間の黌舎と同じ 位置付けになる。つまり、やや独立性が高まった造船 現業部門へ教育の主導が復帰したことを意味する。だ が、造船廠の動向とは無関係に技手練習所を扱うこと もできたはずである。にもかかわらず当該教育を造船 部門に戻したのはなぜであろう。 技手練習所は学校としての独立性はあるものの、造 船現場との関係では距離を置くことになる。技手練習 所が短期間で終わったのは、学校が伝統的に継承して きた造船現業部門との関係で問題が生じたのではなか ろうか。半日参校方式から発展した現場実習(「実業2 9))は、造船現業部門の協力による教育である。技手 練習所における現場実習(「工業」)は、以前のそれと 比較すると明らかに異なっている。技手練習所以前で は、各学年とも座学と実業とを組み合わせた教科編成 であったが、技手練習所では最初の 2 年間をフルタイ ムの座学とし、現場実習を最終学年に集約するという 編成であった。つまり、技手練習所では、練習生は造 船現場から長期間完全に離れることになる。そうした 問題の反省があるとすれば、擬似的な工業学校とは異 なる、現場との統合によって育成される人材を海軍造 船工練習所に求めたのではなかろうか。このために、 造兵専攻を外して造船現業部門との関係を取り戻し、 「半日ヲ学術ノ練習時間ニ充テ半日ヲ実業ノ時間ニ充 ツ30)」方式を復活させた理由が理解できる。また、目 標とする人材像も実業のあり方から浮かび上がる。す なわち、実業では造船・造機専攻それぞれの分野で職 種全般をローテーションで経験するよう組んでいるこ とから、入学前の現業経験による熟練がありながら専 攻分野全般に通暁する人材像である。このような人材 の供給を海軍造船工練習所は造船廠の主導により 10 年間担った。 海軍省主導期(海軍技手養成所): 海軍造船工練習所 の廃止から 12 年間の空白期を経て、造船・造機・造兵 の 3 専攻を設ける海軍技手養成所が設置された。設置 の理由は、先に引用した工廠長の開所式の式辞にみら れる。すなわち、海軍技手の養成は各地の高等工業学 校に期待していたが、海軍造船工練習所を廃止して以 降 12 年の間に海軍には著しい技術進歩があり、これに 対応できる「優良ナル技術者」を得ることが難しくな ったという理由である。確かに、1900 年・1910 年・1920 年の 3 期における海軍と民間造船業に在籍する高等工 業学校卒技術者数の推移をみると、その変化は、海軍 の 39 名(1900 年)→154 名(1910 年)→221 名(1920 年)に対して、民間造船業が 26 名(1900 年)→106 0 5 10 15 20 25 30 35 40 0 5 10 15 20 25 30 35 40 (歳) 明治 図表-3 入業年齢(入学年別)

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名(1910 年)→614 名(1920 年)となっている31) 民間造船業の 1910 年から 1920 年までの 10 年間は、き わめて著しい増加である。第一次世界大戦の大戦景気 による民間造船需要の活況は、海軍の技術者の採用そ のものを困難にさせていたのである。この状況では、 元来造兵科技手の供給を工業学校に頼っていた造兵部 門も自らの養成教育に駆り立てられることになろう。 さて、養成する技手の職能・位置付けについては、同 開所式における司令長官の訓示で「将来海軍工業ノ中 堅トナリテ上級技術官ノ意ヲ承ケ計画ノ真義ヲ諒解シ 直接職工ノ指導ニ任ズベキ海軍技手」と述べられてい る32)。ここに、本稿の冒頭で述べた、技術者と技能者 との“橋渡し”的役割を担うというテクニシャン範疇 の典型をみることができる。その教育の特徴は、3 年 以上の現業経験の上に毎日午後は「実業教育」に充て るというものである。 以上のとおり、教育を主導した各主体が求めた養成 機能は、次のようにまとめることができる。 フランス人主導期(1867-1876 年)=普通の熟練工、 日本人造船所主導期(1876-1889 年)=高級技術者以 外の範疇[職長・下級技術官吏が未分化]、海軍省主導 期(1889-1897 年)=熟練工・職長以外の範疇[現業 部門との関係が希薄でも育成可能と考えた]、造船廠主 導期(1889-1907 年)=テクニシャン範疇[擬似的工 業学校の否定]、海軍省主導期(1919 年-)=テクニ シャン範疇[造船廠主導期の継承] 4.考察 海軍技手養成所に至る一連の教育の変遷過程を追っ て、一応の完成形とみなされる海軍技手養成所の教育 がテクニシャン教育にほかならないことを確認した。 それは、教育を特徴づけた入学前の現業経験と入学後 の「実業」とによる仕組みを形づくる過程でもあった。 以下に、その特徴の意味について考察する。 入学前の現業経験の意味と養成人材像: 入学条件と して一定の職工現業経験を初めて要求したのは、1878 年 12 月 24 日施行の造船所定雇職工黌舎通学試験規則 第二条(「定雇職工ニシテ無病強壮1箇年以上入業ノ者 ニアラザレバ入学ヲ許サズ」)である。その後、1889 年 9 月 28 日制定の海軍造船工学校条例では「六箇月以 上」に短縮されたが、まもなく 1891 年の同条例の改正 で「三百日以上」となり、この現業経験の条件は海軍 機関学校所属となる技手練習所でも引き継がれた。同 教育機能が1897年9月に古巣の造船部門の付属に戻さ れ、現業経験の条件は海軍造船工練習所条例で「満三 箇年以上」となった。現業経験 3 年以上とする入学条 件は、1919 年に再開される海軍技手養成所でも同様で あった。つまり、1897 年 9 月の海軍造船工練習所条例 以前は、現業経験の条件は長くて1年である。入職後 1年間の新人は、せいぜい各職の下働き程度の仕事し か関われないはずである。したがって、海軍造船工練 習所より前の教育は、入学前に修得したある程度の熟 練レベルを前提としていないといえる。多少なりとも 現業経験を条件としたのは、「無病強壮」と勤務態度を 確認することの意味であろう。しかしながら、1897 年 9 月以降の 3 年間以上という現業経験を条件とする教 育は、一定の熟練レベルを前提にしたものと考えられ る。3 年は条件としての最短期間であり、実際の生徒 は条件以上の現業経験をもって入学している可能性が ある。そこで、収集した学校修了者の履歴書をもとに 入業から入学までの期間を集計してみた。入業から入 学までの期間すなわち現業経験は、1897 年以降の入学 生(平均 5 年 11 ヶ月)が 1897 年より前の入学生(平 均 2 年 6 ヶ月)より明らかに長い。また、図表-4に 示すとおり、1897 年以降の入学生は、ばらつきも大き い。1897 年より前の入学生は、ある程度の熟練レベル に達するには入業から入学までの期間があまりに短い と思われる。1891 年から入学対象年齢を 21 歳以上に 引き上げたことは、入業年齢が明治初期から明治 30 年代末まで大きく変わっていないことから、入業職種 の技能習熟期間を長く取らせることを意味している。 「実業」と養成人材像: 造船の現業部門の各職をロ ーテーションで経験する「実業」が確立したのは 1897 年の海軍造船工練習所である。同練習所が一旦閉鎖に なり、12 年間の空白期を経て海軍技手養成所を設置し た際に、12 年前に閉じた教育の仕組みを全面的に継承 した。海軍技手養成所の設置は、「優良ナル」高等工業 学校卒業生の採用が困難になったことが第一の理由で ある。しかしながら、海軍技手養成所では高等工業学 校のコピーを設置するという選択をしなかった。テク ニシャン層は多様である。理論に長けた‘学校出’テ

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クニシャン、秀でた熟練をもつ‘叩き上げ’テクニシ ャン、その両者に通暁するテクニシャン、そうした多 様な中間層によって生産が支えられている。空白期の 12 年間は、海軍造船工練習所卒業者と工業学校卒技術 者との違いを確認するには充分な時間であっただろう。 3 年間を通じて毎日午後に行う「実業」で職種全般を 経験するいわゆるジョブ・ローテーションにはどのよ うな意味があるのだろうか。垂水四郎は、「30 に垂ん とする各課の仕事自身が、ややもすれば生ずるであろ う混流を防いで巧く流すのには、課間の意気の投合が 肝要で、したがって管理者たる者は阿吽の呼吸を呑み こんでいなくてはならない33)と総合工業である造船 の特徴を述べている。海軍技手養成所に求めた養成機 能は、そうした巨大で複雑多岐にわたる生産プロセス を見通すことができ、プロセス間の調整ができる人材 であろう。 5.おわりに 横須賀造船所の技手養成所系統の養成教育は、官 制・規則等による改変が4~5年ごとに繰り返された。 この過程で確立した養成目標像は、必ずしもすべてが 意図的ではないが、「消去法」によって形成されたとも いえる。養成目標像から最初に除外した部分は、「造 船官」と呼ぶ高等官技術者であった。続いて、熟練工 という最も大きなかたまりを除外した。さらには、職 工長も除外した。このように、造船官、熟練工、職長 の削り取りを経て、残余部分の輪郭が次第に明瞭にな っていったのである。こうして形づくられた海軍技手 養成所の教育は、入学前の現業経験、入学後の現業各 職をローテーションで経験す る「実業」を特徴とする独特 のものである。その形成過程 は、まさにわが国のテクニシ ャン教育の成立を示している といえよう。 註 1) 谷口雄治「米国におけるテ クニシャン教育の動向と課題」 『産業教育学研究』第 24 巻第 1号、1994 年、45-52 頁 2) 「中間技術者」、「中・下級技術者」、「技術的技能者」、 「実践的技術者」等の言い方がみられる。 3) クライテリアは以下である(『世界教育史大系 32 技術教育史』講談社、1978 年、439 頁) ①科学者・技術者の指導のもとでの、(a)科学的な研 究・実験、(b)新製品の設計、開発、計画修正、②設備、 制御システムの据付けの計画と監督、③設備、制御シ ステムの保守と修理、④大量生産でのマンパワー・材 料・機械の効果的な活用のための管理スタッフとして の生産計画、⑤技術的設備・製品の製造・流通に関す る助言・計画・コスト評価、⑥機械、水力学、重圧、 電気、電子に関するシステムのテストとその報告書の 作成、⑦技術設計・スケッチの準備と解釈、⑧技術標 準、ハンドブック、研究物など技術情報の選択と整理、 ⑨技術工の決定に益するための関連する情報の分析・ 診断・解釈など 4) 岩内亮一『世界教育史大系 32 技術教育史』(講談 社、1978 年、155-156 頁) 5) 福井静夫『日本軍艦建造史』(光人社、2004 年、 304-305 頁) 6) 拙稿「わが国における“テクニシャン”概念の起源 に関する考察-『横須賀海軍船廠史』における「技手」 を巡って-」『産業教育学研究』第 28 巻第1号、1998 年、53-60 頁 7) 創設期の「横須賀製鉄所」から度々の名称変更があ るが、本稿では各々の時点の事象が特定される場合に は当該時点の名称とするが、特定されない場合には便 宜的に「横須賀造船所」とする。 0 2 4 6 8 10 12 14 16 18 20 0 5 10 15 20 25 30 35 40 (年) 明治

図表-4 入業から入学までの年数(入学年別)

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8) 木村作助氏(1884 年卒業)の編纂による第1回目 の名簿は未入手であるが、第3回目名簿(1925 年 11 月発行)の序言に「大正九年 始(ママ)メテ全卒業生諸賢ノ 同窓名簿ヲ調製」との記述による。 9) 海軍文官の人事文書録である『海軍職員進退録』 ( 防衛研究所図書館所蔵)に綴られている履歴書・経 歴書である。本稿での履歴書等に関する引用は、こと わりがない限り同史料による。なお、本稿では当該養 成教育の「海軍技手養成所」に至る過程を対象として いるために、1907 年までを抽出の区切りとした。1907 年までの同窓会名簿者 270 名のうち 183 名分を収集・ 抽出した。 10) 『横須賀海軍船廠史』第二巻(296-298 頁)の「黌 舎沿革摘要」に「通学工夫ヲ創設セシハ明治四年十二 月二十八日」との記述を引用したため「通学工夫」と したが、「通学工夫」という呼称は「黌舎沿革摘要」を 記述した 1884 年当時のもので、同船廠史における明治 初期の記述では「職工生徒」を用いることが多い。 11) 『横須賀海軍工廠技術官及職工教育沿革誌』、1937 年 3 月、19 頁および 30 頁 12) 前掲 8)、第二巻、121 頁 13) 前掲 8)、第三巻、43 頁 14) たとえば、1885 年 8 月に黌舎に入学した川副藤三 郎の履歴書には、「明治二十二年五月二十八日 造船工 学校ノ設置ニヨリ造船練習生ト改称」と記述している。 この官制による学校の改変では、在学途中の生徒は教 育の継続が保証された。 15) 前掲 8)、第三巻、170-171 頁 16) 1892 年 7 月に海軍造船工学校に入学し、1895 年 7 月に技手練習所を卒業した長坂辰三郎の履歴書には、 「明治二十六(1893)年十一月二十九日 海軍造船工学 校ヲ廃シ海軍技手練習所ヲ設置セラレ技手生徒ヲ命セ ラル」との記述があり、卒業時には変更後の名称で卒 業証が出ている。 17) 前掲 10)、103 頁 18)堀内達夫「補論 技術教育の成立における日仏関係」 『フランス技術教育成立史の研究』多賀出版、1997 年、 233-253 頁 19) 岩内亮一『日本の工業化と熟練形成』、38 頁 20) 堀内達夫『フランス技術教育成立史の研究』、 237-238 頁 21) 隅谷三喜男編著『日本職業訓練発達史(上)』、17-18 頁 22)『横須賀海軍工廠技術官及職工教育沿革誌』(芳文 閣、1937 年)は、横須賀海軍工廠によってまとめられ た。 23) 前掲 10)、19 頁 24) 黌舎への予備校的な役割を果たしたと思われる私 塾は、収集した履歴書に散見できる。複数の黌舎卒業 生の履歴書に明治 10 年代では「汐留町斉藤夜学舎」、 「進修学舎」がみられる。 25) 前掲 8)、第二巻、72 頁 26) この経過は、1878 年 12 月 24 日の黌舎庶務順序等 の施行に際して述べられた経緯、すなわち「去九年九 月八日本所職工若年ニシテ将来見込アルモノヲ黌舎ニ 於テ半日宛習学セシムル旨届出テ置キ翌十年六月十八 日ニ至リ該舎庶務順序並ニ生徒入舎規則及舎則罰則等 ヲ定メ度旨本省ニ上申セシニ其後数回改補ノ末本日ニ 至リ左ノ通施行スベキ旨指令セラレタリ」(前掲 11)、 30 頁)から、規則全体として完成するまでに充分時間 をかけたことがわかる。 27) 等外吏である「工手」は、1884 年 3 月 15 日に廃 止されたが、実際には1886 年5 月24 日の官制(「技手」 に代わる)まで移行措置として存続したとみられる。 28) 前掲 8)、第三巻、99-100 頁 29) 「半日参校」制の単なる現業労働でしかなかった 「実業」が、次第に教科としての意味を形成し、最終 的にはローテーション方式による完成形となった(谷 口雄治「横須賀造船所養成教育における現場実習指導 の形成過程」、『産業教育学研究』第 32 巻第 1 号、2002、 47-54 頁)。 30) 前掲 10)、82 頁。海軍造船工練習所規則第十七条。 31) 内田星美「明治後期民間企業の技術者分布」、『経 営史学』、第 14 巻第 2 号、1979 年、7 頁、および内田 「大正中期民間企業の技術者分布」『経営史学』、第 23 巻第 1 号、1988 年、3 頁 32) 前掲 10)、102 頁 33) 垂水四郎「浦賀船渠の技能者養成」、『技能者養成』 ダイヤモンド社、1954、310 頁

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