言語・ メタフ ァー・ こころ
田 畑 博 敏 (昭和62年 5月31国受理) `よ じめに 先 にわた しは,メ
タファーが「 こころの描写Jに
必須 な言語装置であることを, とくに痛みの こ とばを例 にしてその素描 を試みた伊その際の痛みの ことばは,自分以外の他者が使 う痛みのことばを 主 として考 えていた。 つ まり,痛
みの ことばが意味充実を完成 させ るのは,具
体 的に痛みを経験 し た ときである。 したがって,各
個人の痛みの ことばの意味 は「個人的な痛み」 にその源 を持 つのだ か ら,痛
みの ことばはいわば各個人の専用語である。Aと
いう人物の「いたい/」 とい うことばは, 「痛みA」 を表現することばであ り, Bと
い う人物の 「いたい/」 とい うことばは,「 痛みB」 を 表現することばである。 それゆえ,(他
者専用語だか らその意味が本来わか るはずのない)Aが
,B
の「いたい/」 とい う発言 を理解するということは,B専
用の「 いたい/」 とい うことばに,Bに
は体験で きないA自
身の痛み,つ
まり「痛みA」を意味 として結びつける,つ
ま リメタファー としてAは B専
用の「いたい/Jと
い う語 を理解す るとい うこと?こ
れが要点であった。言い換 えるな ら ば,他
者の痛みの ことばの理解 を,他
者理解の一形態 と捉 え,そ
こにメタファーの構造 を見 るとい うのが,狙
いであった。 さて本論 では,「こころの描写法」としてのメタファーを,自
分 自身の こころの描写法 として記述 したい。 したがって,
もう一度痛みの ことばが登場 することになるが,こ
こでは,基
本的には,自
分の痛みを描写す る場合 を念頭 に置いている。 つ ま り,「他者理解Jと いう枠 ははず し,一
般 に自分 の「 こころ」の描写,
こころの働 きをことばで表す という場面 を考 え,そ
こでのメタファーの果た す役割 を具体的に記述することが,本
論の目的である。更 に,痛
みの ことばの外 に,感
情 (喜び・ 怒 り・悲 しみ)の
ことばを考察する。その際,わ
れわれの方法に対する疑義の一部 を予め除去す る ことを主眼 として,こ
とばに対す る見方,言
語観,
というものの検討か ら始 めることにす る。痛み や感情 といった こころの働 きをメタファーで描写す るということは,す
でに形 あるこころの働 きに 対 して,あ
らためて ことばのラベルを貼 りつけることではない。言語 を道具 である と見 な し,
しか も,道
具で しかない という見地 に立つ言語観 に,え
て してこの「 ラベル貼 り」の考 え方が根強い。敏 畑 マーケ ッ トの商品に価格 を表示するレッテル を貼 るように,痛みや感情 をことばであ らわす ことが, すでに明瞭な こころの働 きに単 なる分類用の標識 を当てが うことだ
,と
い うので,あ る。 これ に対 し て は,こ
ころの働 きはは じめか らそれほど明瞭な形 を持 ってはいないのであ り,こ
とば を与 えるこ とは,こ
ころの働 きに形 を与 え意味 を与 え,明
瞭 な ものへ と造形することだ,
と答 えたい。 また他 方では,こ
とばで表現で きるはずのない事象 に,無
理 にことばによる枠 を当て はめ,丁
度連続 な も の を恣意的に区切 るように,こ とばによる過度 に単純 な分節化 を強制 している,とい う非難 もある。 これに対 しては,こ
とばの限界 を認 めるに菩かではないが,こ
とばによる四苦八苦の工面 (それが メタファー という言語装置の使用であるが)に
よって,い
わば近似的に事象その もの に接近す るこ との正当性 を弁護 したい。いずれにせ よ,メ タファー とい う言語現象が事象 を,し
たが って世界 を, 構成 し創出する働 きの一翼 を担 うことを強調 したい。そのために,言語 は世界 にラベル を貼 るもの, という仕方で しか言語 を捉 え得ない言語観 を退 けて,言
語 による世界の構成 。世界 の創 出 というも のを認 める言語観 を準備する必要がある。 この ような言語観 に依拠 してはじめて,メ
タファーの働 きの十全 な評価 も期待で きるか らである。 したが って本論 は,メ
タファーの具体 的な働 きの記述 を 通 しての,ふ
さわ しい言語観 を背景にしての,メ
タファー弁護論で もある。Sl
二つの言語観類型 メタファーはなによ りもまず言語現象 として現れ る。 しか しそれはどのような言語現象であるの か?同
じ言語現象 を捉 えるにしろ,そ
もそ も「言語」 とい うものをどのように理解 し,位
置づけて い るかによってぅ その捉え方・ 評価の仕方 は変わって くるに違 いない。そこで まず最初 に,言
語観 の二つの類型 を考 えてみたい。むろん,言
語 についての見方 をここで網羅 しようとす るのではな く, また言語観が二つの系列 に完全 に収 まると主張す るので もない。あ くまで これ ら二類型 は,メ
タフ ァー という言語現象 を理解す るための,当
座の,言
語観 の図式であ り模型であるにす ぎない。 しか し,事
態 を単純化 し尖鋭化することによって,逆
にある線 ない し形が くっきりと視界 に浮 び上が る はずである。第一の言語観類型 を「道具主義 。代表主義」の言語観 と名づけたい。 この言語観 によれ ば,言
語 はコミュニケーションの道具であ り,言
語 は表現 され る事物・事象の代理物 (代表)で
あ る。他方,第
二 の言語観類型 を「 自律主義・ 創造主義」の言語観 と呼ぶ ことにする。 この言語観 に よれば,言
語 はコ ミュニケーションのたんなる道具ではな く,コ
ミュニケーションその もの を一部 構成 するという自律性 を持 ち,表
現 されるものの創造 に参与 するものである。以下,
この二つの言 語観類型の内実をやや詳細 に追 ってい くことにする。(1)「
道具主義・ 代表主義」の言語観 ①言語 は もの ごと (事物・ 事象)を
表現 し,伝
達 し,理
解す るための道具,つ
まリコ ミュニケーシ言語・ メタ フ ァー 。こころ ョンの道具である。 ②道具 としての言語 は
,表
現 され るべ きもの ごとを可能 な限 り忠実に反映 し,代
表 しなければな ら ない。 ③道具 としての言語 は,
もの ごとを忠実 に代表 するとい う目的の手段であるか ら,手
段 としての分 をわ きまえていなければな らない。すなわち,代
表 。表現 され るべ きもの ごとを押 しのけて,そ
れ らの前面 にしゃしゃ り出てはならない。言い換 える と,言
語 は,も
のごとがそれ を通 して透 け て見 えるほどに透明でなければならず,も
の ごとが曇 って,ま
たは歪 んで見 えるほどに不透明で あってはな らない。(透明性 の要求,ま
たは“出 しゃば り"禁止令) ④ コ ミュニケー シ ョンが円滑 に行われるためには,発
信者 (発話者・ 送 り手)の
意図が誤解の余地 な く直ちに受信者 (聞き手)に
理解 されねばな らない。 そのためには明確 に定 め られた規則 (コ ー ド)に
基づいて,言
語 は使用 されねばな らない。 その際,誤
解や曖昧 さを誘発 する最大の元凶 の一つが ことばの意味の多義性であるか ら,一
つの ことばには一つの意味 しか対応すべ きではな い。(こ とばの一意性,One valuednessの要求) ⑤一つの ことばに一つの意味ない し概念が一旦対応 したな らば,そ
の対応す る意味や概念 は一定 し た もの,固
定 した ものであ り続 けねばな らない。意味や概念 は変化・ 流動 しない方が よい。意味 の「ずれ」,「ぶれ」,「揺 らぎ」,「振動」,「たわみ」,「ね じれ」,「ひね り」等 は排除すべ きである。 (意味の固定化の要求) ⑥同様の目的のために,コ
ミュニケーションの現場において,言
語は,そ
こに現れたことば (と そ のコー ド)の
みによって情報伝達の機能を十全に果たすべきであって,言
語使用の状況 。文脈 と いった,言
語を取 り巻 く場に付随する非言語的要因に依存 してはならない。(文脈からの独立性の 要求) ⑦ どんな二つの言語 も原理的には一―直接的な翻訳ができない場合は第二の言語を媒介にする等の 方策によって一一翻訳可能である。さもなければ,そ
もそもコミュニケーションが成立 しない。 (コ ミュニケーション成立の要求,ま
たは翻訳可能性の要求) ③二つの言語間の翻訳が原理的に可能であるためには,二
つの言語の見かけの,な
いし表層の文法 構造がいかに異なっていようとも一一例 えば,ギ
リシア語 と日本語の文法構造が語順や届折の有 無においていかに異なっていようとも一一それ らの言語の深層構造あるいは論理構造は同一でな ければならない。つまり,二
つの言語の間には常に,第
二の深層言語ないし普遍言語が潜在的に 存在 し,こ
れが媒体 となって三言語間の翻訳が可能になる。(深層言語 。普遍言語の存在の要求) ⑨われわれの思考は,③
で述べ られた普遍言語によって翻訳 されるから,少
な くとも言語に関わる 文化の相違は,帳
消 しになる。 この普遍言語によって,文
化の相違に無関係に,す
べての思考が 普遍的に表現 され,理
解 される。26 田 以上が「道具主義・代表主義
Jの
言語観の内実である。 これ と,言
わば正反対 の方向性 を有す る 「自律主義・創造主義」の言語観 を,次
に通覧す る。 確)「
自律主義・ 創造主義」の言語観 (1)言語はそれ 自体,自
律′性を持つ文化現象である。 (2)言語は,他
の目的の手段 としてではな しに,そ
れ独 自の 自律的運動・ 変化 をする。 したが って, ものごとを忠実 に反映・代表 しているか否かは,あ
る意味ではどうで もよい ことである。(自律性 の要求) は)言語 は,他
の何かの表現手段であるよ りもむ しろ,そ
れ 自体で表現 し,理
解 され るものである。 例 えば詩の言語 に典型的に見 られ るように,言
語 自体が絵 として,音
楽 として,パ
フォーマンス の担い手 とな り,独
自の自律的な価値 を持つ。つ ま り,言
語 はいい意味で不透明である。言語の もつ身体性―一音声や文字列の図柄 としての側面――が,表
現のいわば「様相」mOdalityと して, 表現 とい う活動 その ものの一部 を構成す る。(不透明性の要求) は)一つの ことばには,多
数の異なる意味や概念が対応す る。(多意性・ 多義性の要求) 低)一つの ことばが担 う意味 は固定することな く,時
々刻々・場合 ばあいで変化・ 流動す る。それ は 意味の「ずれ」,「ぶれ」,「たわみ」,「きしみ」,「ね じれ」,「ひね り」,総
じて「意味の弾性?と
い う形で現れ る。 これ こそ,新
しい意味の創造の契機 となる,こ
とばの もつ意味の著 しい特性であ る。(意味の流動性・ 弾性・創造性の要求) 脩に とばの意味 は,発
話の状況 。文脈 を参照 しなければ十全 には与 えられない。 ことばは,発
話の 文脈 とコー ドとが 〈こみ〉になって初 めて意味 を持つのであって,文
脈 か ら切 り離 してその こと ばのみを孤立 させ隔離 して考察 して も,無
駄 である。(意味の文脈依存性 の要求) 7)二つの言語 は原理的に翻訳不可能である。(翻訳不可能性の要求) 偲)言語はわれわれの文化 に根づいているものであるか ら,文
化 とは切 り離せない。異 なる二つの文 化間での真の理解・翻訳が不可能であるのに応 じて,二
つの言語間での真の理解・ 翻訳 は不可能 である。(理解不可能性 の要求) (働われわれの思考や判断 は日本語・英語等,い
わゆる母国語である自然言語 に完全 に依存 している。 ところで言語 も文化 に根づいているか ら,わ
れわれ は自らが育 った文化の外 には出 られない。 し たがって,わ
れわれの思考や判断 も,わ
れわれの文化 に相対的にしか妥当 しない。文化 に中立な, 絶対的・ 普遍的 に真 なる思考や判断は存在 しない。(文化相対性・ 言語相対性 の要求) さて,こ
れ ら二 つの言語観類型――「道具主義・代表主義」 と「自律主義・ 創造主義」一― を比 較 してみよう。二 つ とも,現
実の言語の姿 を無視 した,言
語 に対 する極端な思い込 みを有 している と言わざるをえない。「道具主義・代表主義」は「世界Jと
「言語Jと
をきわめて単純 に分 けて しま 敏言語・ メタ フ ァー 。こ ころ
27
う一―少な くとも,分
け得 るとい うことは暗黙の前提である。「世界」とま,そ
しておそ らくわれわ れ の「思考」 も,言
語 には依存 しない,言
語か らは独立である。道具 としての言語 は,
もの ごとを包 む衣裳の ような ものである (言語衣裳観い)。 その衣裳 は,
もの ごとの裸身が一― その形状 。構造 ま で もが一―透 けて見 えるほどに透明であるべ きだ という。つ まり,も
の ごとを忠実 に反映す る言語 ほど優れた言語 である,と
い う価値基準の前提が ここで働 いている (①,②,③
)。 したが って,世 界か らは独立な言語 コー ドとい う考 えは出て こない し,ま
して思考がそのような言語 コー ドに依存 ・影響 されはしまいか という配慮 も,言
語 コー ドか らの冒険的逸脱 を工夫す ることの意義 を評価 す る態度 も,出
てはこない。言語 は世界 を写す鏡であ り,世
界の構造 に言語がいわば従属的に合致せ しめられ るべ きである,という一方的な要求 。前提 しか ここにはない伊その ような前提 ない し偏見 は 容易 に,コ
ミュニケーションの成立 を第一義 とす る,一
種 の機能主義 と結 びつ く (④,⑤,⑥
)。曖 昧 さを極力排除 し,文
脈 の参照 という手間 を省 く,機
械的な処理の可能な言語 を是 とす る言語観 で ある。そ して この機能主義 には,翻
訳可能性や深層構造の要求 という,普
遍主義 が接続す る (⑦, ①,⑨
)。 他方,第
二の言語観類型一― 「自律主義・創造主義」の言語観一― はどうであろうか ?こ れ も, その ままの形では,実
際の言語か らはかけ離れた,極
端 な前提 に先導 された ものになっていること は,い
うまで もない。た しかに,言
語の自律性・ 創造性 を強調すべ き場面 はあろう (例えば,詩
の 言語の場合)。 しか し,文
字通 り完全 に世界 か ら独立 した言語 などはあ りえない。言語の不透明性 も 程度問題であ り,そ
れの積極性 を評価するあま り,そ
れを言語の常態 とす ることは狭す ぎる見方 と 言わざるをえないだろう 《1),(動 ,0))。 意味の多義性・流動性 も,文
脈依存性 もそれが極端 になっ た場合,言
語が もはや「謎」 と化 し,他
者 との対話 はもとよ り,自
分 自身 との対話 ない し独 白す ら ままならぬ事態 に立 ち至 るであろう((4拷 (5),俗))。 翻訳不可能性 を極端 に強調 しす ぎることも問題 である。言語 を異 にす る他者 との交信 は,言
語間のゆるやかな翻訳可能性 を前提 に しなければ成立 しない。他者の行動の,言
語 を交 えない観察だ けで,他
者 との交信が可能であるとは思 えない。 し か し,現
実 には,多
少の間違 い 。誤解 はあろうが,言
語 を異 にする他者 とのコ ミュニケーションが 行われている。厳格 な虚構のケースをいたず らに振 り回す ことは,生
産 的な議論で はない。厳密に 言 うのな らば,二
十年前の自分 自身の言語 と,い
ま自分が使 っている言語 との翻訳可能性 も,当
然 疑われることになる。 しか し,二
十年前の自分の 日記 を読んで,翻
訳可能性 を疑 う人 は,現
在のそ の人の神経症 こそ疑わ るべ きではないか。(もちろん,二十年前の自分の考 えや気持 ちが理解で きな いことはあろうが,そ
の「不理解Jは
ことばの意味の「理解」を前提 にしているのではあるまいか。) したがって,文
化相対論や言語相対論 も,い
わゆる「強い形」では成 り立 たない と思われ る α7), (8〉 (9))。 むろんわれわれは,ぬ
るま湯 につかっている体 の折衷案 に首肯するのが 目的ではない。 しか し,敏 言語に対する信頼 と不信 との狭間 に
,わ
れわれ は常 に立 た されていることは,紛
れ もない事実であ る。一方で,わ
れわれは言語 を信頼 したい と願 う。われわれの思考や感情 をあるが ままに表現 し, 世界 をあるが ままに記述で きることを,言
語 に期待す る。 しか し,そ
の期待 はす ぐに裏切 られ る。 この苦 しい胸 の内 をことばで言い表す ことは とうていで きない と思 うし,モ
ーツァル トの音楽のあ の美 しさは筆舌 に尽 くせ るものではない と確信す る。言語への不信・ 不満である。 もちろん,言
語 がなければわれわれは手 も足 も出ない。言語 な しではまともな,い
や初等的な思考 さえままな らな いことは,う
す うす と,い
や はっきりとわれわれは思 い知 っている。言語への不信・不満 をもちな が らも,言
語 を信頼せ ざるをえない という,こ
の抜 きがたいディレンマの責め苦 にさいな まれたあ げ く,せ
めて,言
語 とはこうした ものだ という安定 した言語観 を持 ちたい,と
われわれは望 む。 そ の結果でき上がったやや極端 な言語観が,「道具主義・代表主義」の言語観であ り,「自律主義・ 創 造主義」の言語観である。 二十世紀 の哲学が言語 に関す る根源的な関心 によって特徴づけられるという喧伝文句―― いわゆ る「言語論的転 回」の主張―― も,こ
の ようなわれわれの積年の言語への「半信」,信
頼 と不信のな い混ぜの感情の,哲
学的吐露ない し発散 ととれな くもない。 ところで,「言語論的転 回」は日常言語 への「不信」 を基調 として,「道具主義・ 代表主義」で言 うところの (③)「透明な言語」 を理想言 語 とする哲学運動か ら始 まった。 そして後 には,後
期 ウィ トゲンシュタイン・ オーステ ィンらを経 て,さ
らにヨーロ ッパ大陸での レ トリックの復興 (ニュー・ レ トリック)や
記号論 の隆盛 も巻 き込 んで,「自律主義・創造主義」の言 う言語の「不透明 さ」ないし「半透明 さ」―一 言語が もの ごとを 反映・ 写像 すると同時 に,そ
の反映 。写像の「仕方」が,反
映・写像その ものに参与・ 貢献すると いう視点―― の再評価へ と,大
きく「転 回」 していったp
さてそれでは,メ
タファーないし比喩の再評価―― たんなることばの飾 り,あ
るいは言 いに くい ことを言い易 い事柄 にして語 るという一種 の「逃 げ」の方法 という消極的評価ではな く,そ
の創造 的な働 きに注 目す ること一― と親和性 を持つの は,ど
のような言語観であろうか?それが「道具主 義・ 代表主義」の言語観ではな く,む
しろ「自律主義・ 創達主義」の言語観 ない しはこれ に近 い言 語観であることは,見
やすい道理であろう。 メタファーの意義が再評価 されるには,「道具主義」的 な言語観か ら「創造主義」的言語観への「転 回」が積極的に促進 され る必要があ り,そ
してそれは 現在少 しずつではあるが進行 していると言 える。 もちろん この ことは,「道具主義」を きっぱ り捨て て,「創造主義」に完全に帰依することを必ず しも要求す るものではない。 しか し「道具主義」の言 語観 しか認 めない立場では,メ
タファーの意義が十全 に評価 されないことも事実である。 その こと は強調 さるべ きである。 メタファーを評価 する立場 を堅持 したいならば,戦
略的に,「創造主義」の 言語観 を前面 に押 し出す必要がある(極端 に走 る弊 を除 くことを念頭 に置 きつつ…)。 そ こでわれわ れ も,一
見ぬるま湯の折衷案(実は紳士的態度 であるのか もしれないのだが)との外観 を呈 した(か言語・ メタファー 。こころ
29
もしれない)これ までの論調 をここで一旦捨 てて,「創造主義」寄 りの言語観 に立脚 して「 メタファ ー評価」の陣営 に力日担す ることを宣揚 し,あ
わせて,メ
タファーを不当に低 く評価す る傾 向を持 つ 「道具主義」の言語観 (この際,悪
者 になって もらう)に
果敢 に (野蛮 に?)宣
戦 を布告す ること にす る。旗懺鮮明であ ることは,論
者のたんなる戦略であるにとどまらず,論
旨を明確 に読者 に提 出するための義務であると信 じるか らである。 とまれ,メ
タファーの積極的評価 を可能 にす るであろう言語観が,「自律主義・創造主義」の言語 観 ない しそれに近 い言語観 であることは,確
認 で きた としよう。 §2
メタファー 前節でわれわれは二 つの言語観類型 を想定 し,メ
タファーを積極的に評価 してそれの もつ可能性 を探 ることに親和性 を示す言語観 は第二のそれ―― われわれが「自律主義・創造主義」の言語観 と 呼んだ もの一― であろうと予測 した。それでは,そ
の ような言語観の もとで具体的には どの ような 形で,メ
タファーが捉 えられ るのであろうか ?こ の ことを,と
くにメタファーの「構造」 との関連 で,考
察 してみたい。 もとより,第
二の言語観 は,言
語が世界 を完全 に写 しうるという意味での言語の「完全性」 につ いては疑問視す る。 というよ りむしろ,言
語 と世界の二 つをきっぱ り分 けて,一
方が他方 を反映す るという発想 その もの を退 ける,と
言 うべ きであろう。 もちろん,言
語以前の世界,言
語で分節化 する前の混沌―一感覚 される以前の光,色
彩,形 ,音
,に
おい,味 ,痛
み,等
の感覚の素材や,喜
怒哀楽の感情―― の存在 を想定することはで きる。 そ してそれは,言
語化 される以前 に五感 によっ て「知覚」 され,こ
ころによって「感 じ」 とられ る。た とえば強い光,明
るい色,角
ばった形,け
たた ましい音 と知覚 され,か
ぐわ しい香 り,ぴ
りっ とする刺激的味,ズ
キズキす る痛 さ として感覚 され るし,ま
た,喜
び 。怒 り・悲 しみ・楽 しさとして感 じとられる。 これ らは,言
語以前 に存在 し, 言語以前に感覚 によって受容 され る。 これ らの領域 は,あ
る意味で言語の無力が もっ とも鋭 い形 で 顕わになる領域である。なぜなら,言
語 はこれ らの ものを「作 り出す」 ことはで きない し,
これ ら の「代替 となる」 こともままならぬか らである。 しか し,こ
れ らの感覚経験や感情 は,そ
れ らが言 語の介在 を受 けない以前 においては,な
お混沌であ り,未
分化であ り,貧
弱でさえある。言語の分 節化――誤解 を被 りやすい言い方なが ら敢 えて用い る一― を手助 けとして初めて,
これ らの感覚経 験や感情 はそれ自体独 自な,豊
かな領域 を形づ くる (この ことをわれわれは次節以下 で詳 しく見 る ことになる)。 つ まり,少
な くとも感覚経験や感情 の領域では,世
界 と言語 とを,そ
れ ほ どきっぱ り と分 けることはで きない。 この ことは,強
調 され るべ きである。.
もちろん言語 は,言
語化が よ り容易で適切 な領域 において も,完
全無欠 というわ けで はない。わ敏 博 れわれが扱 いうる言語 は
,手
段 。道具 としてはきわめて限 られている。多様 で無限の世界 に対処す るには,わ
れわれの言語 は,あ
まりに無力で貧弱である。 そのために言語 は,手
持 ちの道具 を工夫 し,や
り繰 り算段 して,そ
の能力不足 を補 うよう迫 られ る。その ような言語的工夫の一つが,メ
タ ファーであった。標準的な説明では,メ
タファーは,本
来Xな
る事物 を表す言語Xを , yな
る事物 (これは本来Yな
る言語表現で表わせ る)を
表現す るのに流用す る,言
語使用である。 これは,次
の ように図示で きよう。ヽ しか し
,何
のために流用す るのか,流
用の条件 はいかなるものか ?メ タファーに関す る議論 は, これ らの問 いにまつわ るさまざまな論点の攻防である。 これ らについては,わ
れわれはすでに一通 りの概観 を行 っている0の で,こ
こでは以下の点 を確認す るに とどめたい。事物yを表現す るのに, 言語表現Xを
流用す るという場合,そ
の流用 は「やむをえぬ流用」である ということである。なぜ 「やむをえぬ」のか と言 えば,そ
れ は主 として二つの理由があるか らである。一つは,事
物yを表 す言語表現が存在 しない場合がある,
とい うことである。つ ま り,次
の図で表 され る事態 にある場 合に,「やむをえぬ」流用が生 じる。X
() これはつ まり,表
現 され るべ き事物 はすでに存在す るに もかかわ らず,ひ
とえに言語装置の不備 によって,表
現手段がない という事態である。二つ 目として,さ
らに一歩進 んで,表
現 されるべ き 事物 yと ぃ ぅものその ものが混沌 としている場合がある。図で示す と一―与
\
i
すなわち,表
現 され るべ き事物yが
存在することははっきりしているものの,事
物yその ものを言 語抜 きで提 えることが きわめて困難である一― したがって,そ
れ を本来的に表現す るはずの言語手 段をも欠いている一― という事態である。これ ら第二,第
二 の事態 に対処す るための言語的工夫 は, やむをえぬ「流用」ないし「転用」 として,「濫喩 (乱H命)」 (カタク リーシス)の
名 で,伝
統的には 呼ばれて きたpゎ
れわれ としては,濫喩 とい う名 をもつ言語的工夫 もメタファー として一括 して扱 う ことにす る。 そ して この,第
二・ 第二の事態でのメタファー こそが,わ
れわれが とくに注 目したい 言語現象なのである。 というのは,こ
れが,メ
タファー とい う言語現象に特有の「流用・ 借用」 と一
\
一
言語・ メ タ フ ァー 。こ ころ いうことが
,
もっとも尖鋭 な形で現れ る場合だか らである。混沌たる事物y,っ
まり(y)に は,い
まだ形がない。 それ は言語 に捉 えられてはじめて,事
物 として も明確 に存在する。 したが って,通
常,メ
タファー成立の条件 ない し手掛か りとされ る,事
物Xと事物yの類似性 も,こ
のメタファー においてはほ とん ど効 いて こない。Xとyが
類似 しているとい うことは,Xと
yを ともに包含 す る 類の存在が前提 されていることになろう。 しか しこの場合 には,そ
のような前提 を当初 か ら当てに はで きない。(y)の存在 を明確 にするために,い
わばXの
属す る領域 を越 えて,言
語表現Xが
借用 され るのである。われわれ は(y)にあたるもの として,こ
ころの働 き,
とくに (自分の)痛
み,お
よび喜怒哀楽の (自分の)感
情 を考 えたい。 それ らは元来,存
在することが感 じられはす るものの, 明確 なそれ らの形 は言語抜 きでは捉 えがたい ものであるか らである。 §3
メタファー としての痛み 痛みはわれわれ に親 しい ものであ りなが ら,あ
る捉 え難 さをもつ,こ
ころの働 きであ る。先天性 無痛覚症などの特殊 な場合 を除いて,だ
れ もが痛みを経験 する。 うっ とうしい頭痛,コ
リコリする 首の痛み,押
しかぶせ るような肩の痛み,が
まんできない腰痛,ぴ
りぴ りと刺す ような手足の関節 痛,重
苦 しい胸 の痛み,差
し込 むような腹 の痛み,な
ど,「生 きられ る自己空間」としての身体 を持 つ人間にとって,これ ら多様 な痛みの経験か ら逃れ ることはで きないp同
時 に,痛みの経験 は,人 間 の「生のあか しJで
もある。身体の異常の警報信号 としての痛み―一例 えば,歯
の痛みは歯が歯病 の細菌に冒されていることの兆候 であ り,吐
き気 を伴 う右下腹部の痛みは虫垂炎 を疑わせ,後
頭部 か ら首筋にかけてのズキズキ切 り込むような痛みは顔面神経麻痺の前ぶれか もしれない一― そのよ うな痛みを欠 くな らば,直
ちにわれわれのいのちに関わ る事態 を招 くことになるし,
また自分の痛 みの経験があって こそ,他
人の痛み,他
人の苦 しみ も想像で きるよのにも拘 わらず,わ
れわれは痛み について どれほどの ことを知 っているのだろうか ?自 分の痛みをどれほど正確に捉 えることができ るのだろうか?痛
みを本来表す ことばをわれわれは持たない。痛みに専用のことばはないより,心理学 的に も痛みの定義 はむずか し く,研
究者たちも痛みの単一の「本質」 を捉 えた定義 には,未
だ到達 していないのが現状である」動痛みは,身
体的・感覚的経験であるとともに,苦
痛 (苦しみ 。不快感) の問題で もあ り,精
神的苦悩 にもまたが る幅広 い こころの働 き 。現象だか らである。 痛みの「科学的研究」が遅れている(131こ ととは無関係 に,わ
れわれ は痛みに日々直面 している。 痛みを表現する専用の語彙が不足 しているとはいえ,な
ん とかや り繰 り算段 して痛 みをことばで表 さざるを得ない。 それ らの表現がいかに主観的であろうとも,痛
みの「客観的」記述が不可能であ れば,“痛みを理解す るには,痛
みの主観的側面か らの接近が最善の方法 であるЦlつ とい うことにな るのである。痛みを理解 し,痛
みを訴 える手段 は,結
局 はことば以外 にないのであ る。 そ こで,痛
敏 博 畑 みの表現 はメタファー として現れ ることになる。本来他の事柄
,他
の概念 をあ らわす言語表現 を, 痛みの表現 として借用す るのである。 もちろん,言
語表現 によって痛みが十全に表現で きる と主張す ることは,大
きな思 い上が りとな る。腹が きりきりと痛 む,思
わず手で押 さえる。 自然 と背中が丸 くなる。顔 がゆがむ,あ
ぶ ら汗が 滲み出る。激 しい腹痛 を訴 えて駆 け込 んで来 た患者 を診 て,そ
の振 る舞いだ けか らで も医者 は大方 の診断がで きるか もしれない。 いつごろか ら,身
体 の どの辺 りに発生 したか,持
続 的か断続的か と いった痛みの起源や有様,ま
た,吐
き気 は伴 っていないか,熱
はないか,呼
吸や脈拍 に異常 はない か等の,痛
みに随伴す る症状の有無 を,医
者 は更 に確認す るだろう。診断のための判断材料 として の痛みは,
もちろんそれだ けを孤立 して考察 したので は意味がない。他のいかなる症状 をどのよう な状況下で伴 った痛みなのか,を
調べないと痛みの原因 は特定で きない。 しか し,痛
みその ものの 質 (性質・ 特性)を
ことばで表す ことは,以
外 にむずか しい。医者 は「 どんな痛みですか ?ち くち く刺す ような痛みですか?焼
けるような痛みですか?」 と聞 く。患者 は,い
ま彼 を襲 っている苦痛 の原因 を一刻 も早 く知 って もらって,適
切 な治療 を受 けたい と,自
分の腹 の痛 みを表現で きる「 こ とば」 を必死 になって探す。「何 と言 った らいいのか…… ここら辺が錐のような鋭 いもので刺 されて いるような……,いやそうじゃな くてペ ンチで締 めつけ られているような……」。ほかで もない自分 自身の痛みであ りなが ら,相
手 にわか って もらえるように,そ
れを的確 にことばで表現す ることの いかに困難なことか。 こうい うことばで言って も,こ
の痛みの感 じが相手 に伝わ ったのか,医
者 は この痛みの こういう,え
も言 えぬ感 じをわかって くれたのか ?こ の痛みの感 じを表 す表現 として, こうい うことばでよかったのか,も
っ と別の ことばはなか ったのか ?も どか しさ,い
らだち,更
に は不安。自分の ことなのに表現できない,こ
の口惜 しさ,情
けなさ。痛みを訴 えたい ときほ ど,
こ とばの無力 を実感す るときはない。 それで もなん とか して,痛
みをことばで表現 しな くてはな らない。形のない痛 みに,
ことばで形 を与 えてや らねばならない。 メルザ ック と トーガ ソンは痛みを表現することば (英語)を
集め,そ
れ らを三 つのカテゴリーに分 け,そ
れ をさらに16個の下位 クラスに分類 して,そ
れ らの ことばで表 わされ る痛みの満 の強 さの関係 を調べているよ9英
語での痛みの ことばの分類例 として この研究は興 味深い。 ここに分類の結果 を引用 して(対応す る日本語 を付 ける),痛
みの ことばが メタファーであ ることの確認作業の基礎資料 として,活
用 させて もらうことにする。I.感
覚に関わ る,感
覚 としての痛みの表現 (1)時間的な (時間に関わる)痛
みの ことば flickering ゅ らめ く, ちらつ く, かすかな, ゆ らぐ quering (か
すかに)揺
れる,震
える,振
動す る言語 。メタファー・ こころ
33
pulsi軽_―
律 動す る,拍
動す るthrobbin射
鼓動す る,脈
打つ,震
えるthumping
ドン ドンと叩 く,動
悸がす る,ゴ
ツンゴツンと打つbeating (規
貝J的に)打
つ,(続
けて)叩
く,鼓
動す るpounding
ドン ドンと強打する,
ドン ドン と叩 く 痛みは,絶
え間な く,ひ
っきりな しに続 くこともあれば,断
続的・ 間歌的に襲来す ることもある。 突然,何
の前ぶれ もな く起 こることもあれば,規
則的・定期的に生ず ることもある。痛みには リズ ムがあ り,律
動がある。痛みは時間的な相貌 を持 つ。痛みは運動の変容である。 うね りをもって押 し寄せ る波であ り,と くとくと脈打つ血流であ る。(出血 を伴 うひ どいけがの とき,脈
拍 とともに痛 みを感 じる。)痛
みの時間的な表現 は,時
間や運動の様相 という形のメタファー となる。 (2)空間的な (空間に関わ る)痛
みの ことば spreading――広 が る,広
まる,拡
散する,放
散す る jumping庁 ― 飛ぶような,跳
ね上が る radiating‐―発散す る,射
出する,放
射す る flashing一二 きらめ く,閃
光 を発する,放
出す る,ほ
とばしり出る shooting―― ズキズキする,刺
すような,飛
び出すような われわれは身体 という自分 自身 に固有な空間,わ
れわれ 自身の専有空間を持 っている。痛みはこの 空間内を,い
わば自由に運動す る。広が り,拡
散 し,全
身 に放射する痛みもあれ ば,侠
ま り,凝
集 し,収
縮す る痛 み もある。走 るように素早 く,鋭
く身体 を貫 く痛み もあれば,じ
わ― っ とゅっ くり 広が る痛み もある。 また,身
体の表面の痛み (ピリピ リする皮膚のや けどの痛み)や ,身
体 の内部 の痛み (何かに蹴 つまづいて向 こう腫 をいや とい うほど打 った ときの,骨
にまで泌み込 む ような痛 み)も
ある。内臓 の痛 みのような,身
体の奥深 い ところの痛み もある。右手首か ら右肩・ 首筋へ, 腰 のあた りか ら左膝へ,
といった方向性 を持つ痛み もある。空間的存在 としてのわれわれは,痛
み にその運動の (あるいは跳梁の)場
を提供 している。身体 は,痛
みの存在空間であ る。 しか し,痛
みの存在空間 は一種 の幻空間である。ある場所が痛 くて も,そ
の痛みの原因がその近傍 に在 る とは 限 らない。 とんで もない遠 くの場所か ら,痛
みが放散 していることがある(いわゆる関連痛)。 一見 関係のない場所 をもみほ ぐす ことによって,痛
みが和 らぐこともある (種々の神経痛・ 神経麻痺)。 痛みは,空
間の中に固定 した場所 を必ず しも持 たない し,一
様 に分布す るもので もない。痛みは変 幻 自在 に身体空間内部 を跳 び回る。痛み自体 は空間的なのか?空
間内部 に広が り,空
間内部 で感 じ られ るという点で は空間的である。現代の生理学 は,脳
が痛みを「感 じている」 ことを教 える。で は,痛
みは脳 に在 るのか?われわれの素朴 な感 じではそうではない。痛みは,い
ままさに痛 む身体 の部分 に場所 を占める。 けっして脳 とこはない。だか ら,痛
みの表現 は,身
体空間のメタファー とな34田
畑 博 敏 る。 は)断続 的 な圧 迫 感 としての痛 みの こ とばprickin射
尖 った もの で突 き刺 す ような,疼
く,チ
クチ ク刺 すbOring
穴 をあ けるよ うな,穿
つ ようなdrilling (キ
リな どで)穴
をあ けるような,penetratin射
浸透 す る,貫
き通 す,泌
み込 むpiercing
貫通 す る,突
き刺 す ような,泌
み透 る stabbing―― 突 くよ うな,刺
す よ うな,突
き立 て る よ うな lancinating nlす よ ぅな,引
き裂 くような,ズ
キ ンズ キ ンす る は)鋭い圧 迫感 としての痛 みの こ とば sharp―― 鋭 い,激
しい,激
葬(な,強
烈 なcuttin肴
鋭不Uな , 痛烈 な, 切 り裂 くような lacerating_―引 き裂 くよ うな,裂
くよ うな,ズ
タズ タ に裂 くよ うな (5)締めつ ける,圧
縮 的 な圧 迫感 としての痛 みの こ とばpinchin肴
袂 む よ うな,挟
んで締 めつ けるよ うな,つ
ね る よ うなnippin射
辛辣 な,厳
しい,身
に泌み る tight一 ― ぴ った り締 まった,
きつい,詰
まった pressing十 一 差 し迫 った,圧
迫 す る,押
しつ ける よ うなgnawin肴
噛 るよ うな,さ
い なむ,蝕
む,差
し込 むbinding
縛 る よ うな,縛
りつ け る,固
め る,締
めつ ける gripping― 一 締 めつ ける,キ
リキ リす る,差
し込 む よ うな,(腹
痛 に よ くあ る)差
し込 む′
bitin射
咬 み切 る,膚
を刺 す, ヒ リヒ リす る,食
い込 む,身
を切 るような,き
つ く締 め る squeezing .tTし潰 す,押
し込 む,詰
め込 む,絞
りだす,圧
搾 す るcrampin獅
めつ ける,け
いれ んす るよ うな,引
きつ け るcrushin射
押 し潰 す,絞
り出す (6)引 き離 す (牽 引的)圧
迫感 としての痛 みの ことばtuggin射
引 く,引
っ張 る,引
き出すpullin射
引 っ張 る,
もぎ取 る,引
き抜 くwrenching
捻 る,ね
じる, もぎ取 る,ね
じ取 る われわれの専有空 間 であ る身体 は,さ
まざまの外部 か らの働 きか け 。刺激 に日々晒 されてい る。 そ の中で も物理 的 な圧力・ 圧迫 は きわ めて卑近 な もので あ る。下着,眼
鏡,上
着,靴
な ど常時身 につ けてい る ものか ら受 ける圧迫。箸,茶
碗,コ ー ヒー カ ップ,万
年筆,鞄
,
ドアの把手,書
物,椅
子,言語 。メタファー・こころ
35
机 な ど,
ときとして身 に触れ るものか ら受 ける圧迫。痛みを惹 きおこすのは,器
物 の とり扱 いを誤 つて,不
必要 な圧迫刺激 を受 けて しまう場合である。慣れない針仕事 をやるはめになって,こ
ころ な らず も針や ピンで皮膚 を刺 した り,キ
リで手 を突 いて しまった り,ハ
サ ミ・ 包丁・ カ ミソ リ・ ナ イフで指 を切 って しまうことがある。あの ときの刺す ような,切
るような独特の痛 み。ペ ンチで締 めつける痛み,戸
棚 に指 を挟んだ痛み。 これ らは締 めつけ,き
つ く圧迫する痛みである。鞭で叩か れた り,平
手で頼 を張 られるときの ヒリヒリす る痛 み。金槌のような鈍器で殴 られ るときの押 し潰 され るような痛み。毛虫や蜂 に刺 された ときの ピリピリ疼 く痛み。われわれをとりまく環境――道 具的環境,人
的 。社会的環境,動
植物 な どの 自然環境 か ら,さ
まざまの感覚 を伴 う刺激 を受 け,そ
れを痛み と感 じる。痛 みの感覚的性質のメタファーは,器
物 に代表 されるわれわれの環境世界か ら 切 り離せない。 (7)熱に関わ る,ま
た は“熱い"と感 じる痛みの ことばhOt―
熱い,激
しい,熱
っぽい,熱
したbuming―
―燃 えるような,燃
えるように熱 い,焼
けつ く,焼
けるように熱い scalding――火傷す るような,火
傷す るように熱い searing――功モけるような,焦
がす,焼
きつけるような 「熱 さ」 は度 を越 す と「痛み」 に変わ る。やけどの場合,最
初の瞬間 は熱 さと痛みが入 り混 じって 区別がない。皮膚が冷 えて くると,徐
々 に痛みが主流 となる。 それ も他の痛み とは違 う,熱
がいつ まで も籠 っているような痛み となる。 このやけどの ときの熱いような,熱
の籠 もった痛みの感覚 は 独特の もので,よ
く記憶 に残 る。 それがメタファー となって,必
ず しも熱 を伴わない痛みの表現 に 現れ る。それは感覚が誤 ったのではない。感覚 はそのように感 じたのである。熱がな くとも,あ
た か も熱の こもった痛みであるように感 じたのである。その「感 じ」,そ
の「痛み」を偽 りと呼ぶ こと イよマaき ま↓ゝ。 偲)明白な,は
っきりした痛みの感覚 を表す ことば tickling_― むずがゆい,
くす ぐったぃ tingling た く, ヒリヒリする,か
っか とするitChy―
岸 い,む
ずむずす る,う
ず うずす るsmartin射
落 く,ヒ
リヒリする,ズ
キズキす る,泌
みる stinging―一束」す ような,チ
クチクす る, ヒリヒリす る,た
く (9)にぶい,鈍
重 な痛みの感覚 を表す ことば dull――鈍 い,ぼ
んや りとした,和
らいだ blurred―― ばんや りとした,曇
った,鈍
った,
くすんだ,か
すんだSOr―
苦痛 を与 える,ひ
どい,つ
らい,炎
症 を起 こした,痛
みを起 こす36田
畑 博 敏drawin射
引いて行 く,退
きつつある,後
退す る,遠
のいているnumbing
痺れ るような,無
感覚 にさせ る,ぼ
一っ とさせ る,麻
痺 させ るhurtin射
損 なわせ る,傷
つける,け
が をさせ る,け
が をしたaching
疼 く, うず うずする heかリーー重々 しい,ず
しん とす る,鈍
重 な,
しつ こいsteady
じっと変わ らない,頑
固な,
どっか と腰 を据 えた 痛みにも,快
い午後の うたた寝 を突然中断 させ るような,強
い,明
確 な痛み もあれば,ぼ
んや りと 鈍い,ほ
とん ど痛 み とは感 じられない弱 く,淡
い痛み もある。痛みはわれわれ を覚醒 させ る。逆 に, 覚醒 している ときしかわれわれは痛みを感 じない。痛 みが『生のあか し」である一つの理 由が,こ
こにある。 はっき りした意識 をもっているか らこそ,痛
みに精神 を集中 させ ることが可能であ り, 痛みを感 じることがで きる。薬物や催眠によって,意
識 を低下 させて痛みを感 じな くさせ ることは, いわば半分死 なせ ることである。十全に生 きていてはじめて痛みを感 じることがで きる。もちろん, 痛みは苦 しみで もある。生 きているがゆえに痛 みの苦 しみを受 けるとして も,生
きることそれ自体 が苦 しく思われ るほど痛みが激 しい とき,一
時的に も意識 を低下 させて痛みを和 らげる必要がある か もしれない。 その意味では,「生のあか し」としての痛みは,両
義的である。痛みは意識があるこ と,つ
まり生 きていること,の
確証 を与 えるものであ りつつ同時 に,生
きることに苦 しみを与 える もので もあるか らだ。 10多方面 にわたる感覚 としての痛みの ことば tender――弱々 しい,穏
やかな,触
れ ると痛 む,ピ
リピリした taut―― ピンと張 った,張
り詰めた,緊
迫 したraspin射
きしるような,ギ
シギシきしる, きしむ,ギ
シギシとしたtearin射
破 る,引
き裂 く,か
きむしるような splitting――割れるような,裂
けるようなH.感
情的,情
緒的なことばに訴 える痛みの表現 OD緊張,緊
迫 としての痛み nagging‐ ― がみがみ小言 を言 って悩 ますような, うるさ く迫 るdraggin靖
引 きず るような,だ
らだ らした,の
ろの ろといつまで も終わ らない tiring―― ぅんざ りす る,我
慢で きない,Vゝやになる,う
っとうしい fatiguing十一 骨の折れ る,疲
れさせ るexhaustin射
枯渇 させ る,疲
労困悠 させ る,消
耗 させ る,心
身 を疲れ さす こか自律的,自
動的,無
意識的な痛みの ことばnauseating
吐 き気 を催 す,悪
心 を伴 う,ひ
どく不快 な言語 。メタファー・ こころ
choking_―
息苦 しい,息
が止 まりそ うな,窒
息 しそ うな,息
が詰 まりそうな sたkening‐ ―病気 にな りそうな,む
かつ く,吐
き気 を催 す,む
かむかする suffocating――窒息するような,息
が詰 まる 痛みは苦 しく,つ
らく,不
快 な ものであ り,喜
ばしく,愉
快な ものではない。で きれば避 けたい, 取 り除 きたい,迷
惑な客である。 しか し痛みは,そ
のようなわれわれの気持 ちにはお構 いなしに迫 って くる。痛みの表現 として,痛
みに対するわれわれのそのような情緒的・ 感情的反応 を示すメタ ファーが多いの も頷 ける。 なによ り,痛
みは嫌 な ものである。忌避す る気持 ちが昂 じて,完
全 な拒 絶反応 を呈するようになる と,「吐 き気 を催 す」痛み となる。胃の中の食物 を吐 き出すの と同様 に, 痛み も吐 き出さるべ き もの となる。 10不安,恐
れ としての痛み fearful一一恐 ろ しい,
もの凄 い,怖
いほ どの,不
安 に陥れ る dreadful――恐 ろしい,ひ
どい,セゝやな frightftll―― す さまじい,も
の凄 い,恐
ろしいほどの,驚
くべ き,恐
怖 に陥れ る terrifying BT・ をつぶすほどの,お
そるべ き 苦 しい痛みは,わ
れわれ を不安 にさせ る。 これ以上痛みに耐 え得ないのではないか?痛
みの苦 しさ のためにまいって しまうのではないか?あるいは,痛
みが意味す る身体の異常,疾
病への不安 も起 こるだろう。悪い病気 にかかったのではないか ?こ の まま死ぬのではないか?痛
みその ものが恐 ろ しいの と同時 に,痛
みが象徴的に表す ものを恐れ るのである。痛みが表す身体の異常が予めわかっ ているものならば,ま
だ よい。痛みが どこか ら来ているのか,何
が原因で痛 むのか不明の場合,一
層不安が募 る。痛みは不安 と一体化 して増幅する。痛 むのではないか,
と恐れ る。す る と通常痛 く もない注射 も,ひ
ど く痛 く感 じるよ。そして さらに不安 になる。不安 は痛みのメタフ ァーであ り,逆
に,痛
みは不安 のメタファーである。 1ゆ罰 としての痛み punishing_―懲 らしめる,ひ
どい目に会わす,苦
しませ る gruelling―一 ひ どぃ仕打 ちの,ひ
どい罰 となる racking―一拷間にかけるような,苦
しめる cruel―― ひどぃ,む
ごい,残
酷な,無
慈非な1
cious一一邪悪な,御
し難 い,非
難すべ きtorturin射
拷間 にか けるような,ひ
どく苦 しい,苛
烈な killing 死ぬほ どの,死
に到 るほ ど苦 しいぅ殺 され るほどの,破
壊す るような 痛みは単 なる感覚ではな くち「文化的」経験である。例 えば,分
娩時の痛みは民族 によって も感 じか たが異なるらしいようわれわれの文化 においては,出
産 は女性 の一生の一大事であ り,出
産 に伴 う痛38 田 博 み 。苦痛 も相当大 きい もの とされている。出産 をさほどの大事 ともせず
,ま
た出産 に伴 う痛み も驚 くほどの ものではない,
と見なす文化 を生 きる人々 もいる。痛い と思 えば一層痛みが増大するよう に,社
会的に教 えられ る痛み というものが広範囲にある。痛みは文化的なのである。罰 としての痛 みの観念 は,そ
ういう痛みを規定する文化的背景の中で も際立 った ものであろう。宗教的な贖罪の 手段 としての痛みは,超
越者か ら命 じられた絶対 に履行すべ き義務であ り,遭
遇すべ き体験 である。 この考 えを喜んで受 け入れる者 にとっては,痛
みに耐 えることは崇高な行為 であるが,そ
うでない 者 にとっては拷間であ り,地
獄の責めである。 1)情緒的,評
価的,感
覚的の三者の混合型 grinding‐― す り潰す,す
り砕 く,つ
らい,ギ
スギス痛む,す
り減 らす ような, きじるような wretched一一悲惨 な,不
幸 な,不
快 な,い
やな awful― ― ひ どぃ,お
そるべ き,す
さまじい,
とんで もない,凄
惨 な wicked――悪性 の,た
ちの悪い,ひ
どい,激
しい,有
害な,不
快な blinding‐一 目を くらます,音
めっぽうな,分
別 を失わすほどの H。 痛みを評価 する表現distractin吋
気 を散 らす 。そ らす, まごつかせ る,混
乱 さす annoying― ― ぃ らい らさせ る,悩
ます,苦
しめるtroublesom_ゃ
っかぃな,面
倒 な, うるさいbearabl―
耐 え得 る,我
慢 で きるmiserabl―
み じめな,ひ
どい,惨
僧 たる,悲
惨 なugly
不快 な,い
やな,み
に くい,険
悪な intense――強い,激
烈な,激
しい olent――激烈な,猛
烈な,暴
力的な,極
端 にひ どい,は
なはだ しい agonizing―― はげしぃ苦 しみを伴 う,苦
悶 に満 ちた,悶
え苦 します savage― ―揮猛 な,狂
暴な,残
忍なunbearabL―
一耐 え難 い,我
慢で きない,や
りきれない intolerabL― ―耐 えられない,我
慢で きない,持
ちこたえられない これ ら痛 みを表す ことば (英語)を
見 て驚 くことは,メ
ルザ ックらも言っているように(硝 七 きわ めて多方面 に互 っていることである。 その ことは,痛
みが決 して単一 な性質の感覚経験 ではない, ということを雄弁 に物語 っていると言 えよう。「痛み」ということばは,こ
の多様 で複雑 な経験の複 合体 に,い
わば申 し訳程度 に付 された便宜的名称 にす ぎない。「痛み」という一語で,
この経験 は決 して語 り尽 くせ るものではない。 しか しそれで も, ことばで痛みを語 ろうとすれば,数
々の ことば 敏言語 。メタフ ァー 。こころ
39
を一―借 り物 の ことばを,つ
まリメタファー を一一繰 り出 さざるを得ない。メルザ ック らは,一
応 の分類規準 として, I感
覚的,H情
緒的(感情的),Ⅲ
評価的 と三つに大 きく分 けているが,こ
れ ら は, I間
主観的,H主
観的,Ⅲ
客観的,
とい う伝統的な二部法 に対応す るものではない ことに注意 すべ きである。Ⅲの評価的 とされる語彙群 は,客
観的な数量化 を容易 に受 け入 れ る意味 を持つ もの ではない。 これ らは,き
わめて主観的な色調 を帯 びた「評価」語である。Iの
感覚的 とされる語彙 群 も同様である。 その意味では, I,■
,mの
いずれの語彙群 もすべて「主観的」 な色 あいを持 っ ている。 したがって「主観的」 という語 は,説
明項 としてはここでは無力である。 む しろ,こ
れ ら の語彙群 はメタファー として,す
なわち,借
用概念 に基づ く表現 と見 るべ きである。 その ことによ って,痛
み とい う経験の もつ重層性 を一層鮮明 に捉 え得 るはずである。 もう一つメルザ ックらが出 している結論 は,さ
まざまな職業的・教育的背景 を異 にす る被験者の 間で,痛
みの ことばの分類の仕方 と,痛
みの強 さに関す る表現間の相対的位置が,相
当高 いレベル で一致 した とい うことであるよ9つまり,個
々の痛 みの感 じかたは人 ごとに異 なるであ ろうが,そ
の 分類法や,痛
みの ことばの評価の仕方はよ く似 ているとい うことである。 これは,痛
みが単 なる感 覚ではな く,文
化的な経験であることか ら,同
一 または類似のグローバルな文化圏内部では類型化 しやすい ということであろうか。 しか し,ま
った く異質の文化圏 を上ヒ較 した とき,必
ず しもこのよ うな結果が出るか どうかは定かではない。 いずれにせ よ以上で,痛
みの ことばがメタファーであ り,痛
みの経験が借用概念 によって形 を与 えられ,捉
えられ るということの確認作業がで きた。 §4
メタファー としての感情 次 に,こ
ころの働 きの大 きな部分である感情 を取 り上 げる。感情が存在することは疑 い得 ない。 しか し,そ
れが どのような感情 であるかはことばによって表出する外 はない、9感
情 の場合 も,痛
み の場合 ほどではないに しろ,「専用Jの言い方 は少 ない。したが って他の領域か らことばを,概
念 を, 借鳳 して感情 を表現せ ざるを得ない。む しろその ことによって,多
様で微妙な感情 が造形 されて く る。(1)喜
び 喜びの感情 ほ ど,「生命」にふ さわ しい感情 は他 にあるまい。、生命の無い物質 は,「生 きる」 こと の喜びを知 らない。「生 きる」 ことの躍動 を知 らない。喜 びの感情 は,そ
れゆえ,「生命」,「躍動」 という形のメタファー となる。 《身体空間の開放 としての喜び》 喜 びに満 ちた身体 は,喜
びの躍動 によって外部 に向けて開放 される。喜びに“跳び廻 りた く"なり,博 “走 り廻 りたい"と思 う。“飛 び上が る"ほど
,嬉
しい。“身体 は軽 くな り",“宙 に浮 くような"気分 で あ り,更
には“舞 い上が って"“天 まで昇 って しまいそう"とこなる。軽 くなった身体 には“弾み"がつ く。 “体 もことろ も弾 む"のだ。“足が地 につかない"。 “体 の内側か らぶわっと浮 く"よ うだ。身体 は,外
に向かって どこまで も伸 びていこうとする。無限 に拡が ろうとする。それは生命の進展 に必然 に随 伴する運動である。“声 を出 した くなる",・歌で も歌 いた くなる"。 “顔がほころび",自然 と“微笑が もれる"。 進展 し拡大す る生命がその包容力 を増す ように,喜
び も受容性 を増大 させ る。喜 びが寛容 を招 く。困難 な要求 も,喜
びに満たされているときは苦痛 には感 じない。 それが また喜び を増す。 楽器の練習 をす る際,努
力 して難 しいパ ッセージが少 し弾 けるようになる。喜 ばしい。 もっと練 習 を重ね,
もっ と巧 く,美
しく弾 こうと努力す る。練 習は苦 しい とは感 じられない。向上す ると,喜
びが更 に増す。喜 びは喜びを生む。 《明るさ 。光 としての喜び》 喜びは軽 い,従
って極限的な軽 さをもつ光 に連 なる。喜 びに満ちているとき,“世界全体がキラキ ラ輝いて"いて,自
分 もその周囲 も皆明 るい。世界 もこころも“バ ラ色"に輝 いている。喜 びは“光 の 洪水",“明 るさ"によって象徴 される。しか し,光
が多す ぎると“まぶ しい"こ ともある。まぶ しさに 戸惑い,日
が くらむように,喜
びが大 きすぎると驚 きが生 じる。 《春・ 晴れ としての喜び》 生命 にふ さわ しい喜 びの感情 は,季
節 としては“春",あ
るいは人生の春,す
なわち“青春"に喩 え られる。 むろん,老
年 になって も喜びが無 くなる訳で はなか ろう。 しか し,老
年の春びは安定 して いて悟淡である半面,
どこか躍動感・生命感 に乏 しい。喜 びは若 さにこそふ さわ しい。 そ して,春
の新鮮 な大気,“晴れた"空,澄
んだ空気 に連想が及ぶ。“春が来た"よ うな喜び。春 は雪深 い北国が 待望する喜 びの季節である。季節や天候が,人
間の持 つ感情の在 り方 に多大の影響 を与 えることは 言 うまで もない。「春」や「晴れ」の天気 は,い
やで も人 を外へ と誘 い,活
動 を促す。喜び も,そ
の ような外部への進展 としての「春」,「晴れ」のメタファーで造形 され る。 《充足 。満足 としての喜び》 精神的な喜 び と肉体的な喜びを,判
然 と区別す る立場があろう。 しか し,そ
もそ もそれ ら二つ を いわば実体 的区別 として立 てることが可能なのだろうか?身
体 を持つわれわれは,た
とえ精神的喜 び と言えども,身
体空間で「感 じる」 ものであることは,肉
体的喜び と変わ るところはない と思わ れ る。た とえば数学の研究 は「純粋 な」,し
たが って「精神的な」喜びを与 えると言われ るVω しか し, 感情 としての「喜び」であるかぎ り,そ
の「喜び」 を生 みだす ものが身体 に関わるものであれ,そ
うでない ものであれ,「喜び」の感 じに区別 はない。(数学の研究 と言 えども,ま
った く身体 を使 わ ない とい うことはで きない。紙 の上の数式を見 る「 目」が必要 であ り,式
や文字 を書 くために「手」 を動かさねばな らない。 もちろんそれ らは数学的思考の「補助手段」 にす ぎない とも言 えるが,そ
言語・ メタファー 。こころ