る2 郷土史 と 文化財保護 木 原 博 幸 は じ め に 高松壕・古墳の第三次調査がさる十月に行なわれた。こ.の古墳が日本の文化遺 産として:畠重なものであることは国民全体の認識するところであり、また中国 ・朝鮮・日本という当時の束アジア史の研究に.とって重要なものであることほ いうまでもない。しかし高松塚古墳のような価値の高いものでなければ保存す る必要はないという風潮を世間一・般にもたらすとしたら、これは重大な問題で あるといわざるをえない。 現在、平城京や飛鳥・藤原京の保存が文化財保護の重点策として国家的規模 で行なわれている。これらは古代天皇制の宮殿関係の追跡であるが、当時の日 本古代史の政治体制等を知る意味できわめて重要なものである。当然その保存 寛が講ぜられねばならないが、これらの宮殿関係追跡だけで古代の日本の姿を 全て知ることができるというものではない。当時の−・般庶民の生活を伝える退 跡についても十分な保存策をとることが、日本古代史の解明に不可欠であると いうことはよくいわれているところである。(都出比呂志「文化財保護法改訂 をめぐって」日本の科学者占7号)。 このように価値の高いと思われる遺跡を重点的に.保存していこうとするのが T風土言己の丘」構想といわれるものである。当番川県に.おいてほ.「風土記の 丘」として、積石塚で全国的に.著名な高松市の「岩酒尾古墳許」が候補にあがっ ているように聞いている。この岩沼尾古墳群を保存するこ.と自体には問題は ないが、これ以外の追跡は重要でないとの理由で破壊されていく恐れは十分紅 あるといえる。香川県においては今後ますます大規模開発が行なわれていくと 思われるが、重要度紅応じて保存するという方向(「選別保存体制」といわれて いる)ほ遺跡の破壊をさらに激増させていくことになるであろう。
郷土史と文化財保護 る5 現在のところ文化財の保存として緊急性が叫ばれているのは主に舌代の遺跡 であるが、歴史的文化的環境を構成しているのはこれらの追跡のみでないこと はいうまでもない。中世以降現代に.至るまでの歴史的遺構や古文書および民俗 関係資料等も同時に.保存していくことが必要であり、古代の追跡とともに歴史 的遺産としてその保存に万全の措置をとることが目下急務である。このような 観点から、我々の身近な歴史的環境を形づくっている郷土史を明らかに・しさら 檻充実させていく歴史的道産の保存の必要性という点について、若干の例をあ げて述べてみたいと思う。 1.郷土史 に つい て 硯在ある地域の歴史をさして−・般的に郷土史といわずに地方史という。その 場合地方史という言葉のなかにほ.その地力の歴史という意味とともに、中央史 (一般史)に対する地方史という意味も含まれている。しかしある地域に生ま れ育ち、そして生活す・るものにとっては、自らの生活する地域は地方ではなく て郷土であり、地方の歴史でほなくて郷土の歴史である。ではなぜ地方史とい う言葉が使われるように.なったかという点に.ついて考えるために・郷土史研究の 歴史を簡単にみてみよう。 戦前でほある地域の歴史は郷土史といわれていたが、この郷土史紅ほ「お国自 慢的」な面が強かったし、またファシズム拾頭の時代にほいわゆる皇国史観的 な郷土史が多かった。戦後このような郷土史のありかたを否定するものとして 地方史という言葉が使われはじめた。この場合には.「お国自慢的」「’皇国史観 約」郷土史でほないより客観的なその地方の歴史を明らかにしよう とする面 と、郷土史を一・般史の水準まで引き上げ、地方の研究の充実の上に立って日本 史研究の発展をほかろうとする面があったと思われる。郷土史を郷土の歴史の 段階で終らせずに、日本史全体の流れのなかに位置づけしていこうとする方向 自体は正しかったといえる。そして戦後の日本史研究の充実、発展ほ地方史研 究の発展およびその成果なくしてありえなかったのである。 しかし最近地方史研究そのものの.ちりかたに問題が出されている。−・つほ、一 般史のなかでの位置づけを行なうということは、ややもすれば一般史に関係あ
木 原 博 幸 る4 る地方の事柄にのみ視野が限定され、しかもその研究方法が−・般史の尺度によ って行なわれていくということである。これほ地方の事柄を一般史の歴史的現 象に.あうかあわないかといういわば一・般史への適用・不適用ということで地方 の歴史をみることになる。もう一つは、これと関連するが−・般史の尺度で考え るために−・般史の研究成果では説明できないその地方独自の事柄がきりすてら れていったということである。地方におけるその地方独自の歴史の積み重ねをこ もとずいて−・般史の総合化が成されねばならないはずであったにもかかわら ず、独自の歴史的事柄が切捻られていったのである。(「地方史研究の当面す る課題」地方史研究125号)。 このような地方史研究の問題点をふまえて今後の地方史研究のありかたを考 え/てみると、やはりその地方の個別具体的な研究の積み重ねにもとずいてその・ 地方の歴史の発展を明らかに.するということを基本的な観点とすべきであろ う。かといって戦前の郷土史でいいというのではない。現在の日本史研究の学 問的成果を十分ふまえねばならないことほいうまでもない。言葉でいうのはた やすい。郷土史のあるべき姿を追求するのは非常に困難なこ.とであるが、郷土 史を−・般史の尺度で分析することで事足れりとすることはできないのである。 現実にある地域の置かれた状況ほその地方独自の歴史の産物であり、安易に. ・−・般史の論理を適用することに.よって問題解決の方向が出てくるとは思えな い。地方史が一・般史(中央史)紅俗にいえば従属しているようなありかたは、 地方史の研究そのものにとってもその発展をゆがめることに.なるし、またひい ては一・般史の今後の研究成果にも大きな影響を与え.るであろう。 以上述べたことは何も目新らしいことではなく、地方史研究紅関心を持って いる研究者からよくいわれているところである。そしてかかる基本的な立場を 確認することなしには、郷土の歴史に根ざした歴史的遺産の保存の位置づけが・ 不十分なもの紅なると思う。 2.古代讃岐と雨滝山遺跡群 こもんじよ るすところ 善通寺に.関する古文書のなかに「留守所下」「申請留守所裁事」という言菓で 始まる史料がある。平安時代になると律令国家体制下に.おいて地方の統治者と
郷土史と文化財保護 ‘5 して任命される国司が、任地に.赴任せずに代って日代を派遣することになる。そ
こくが して一地方の統治の役所である国衝は留守所とよばれるよう把.なる。との留守所
は平安中期以降全国的にあらわれ、そこでほ層司に代って日代と在庁宮人らに よって地方統治のための実務がとられたのである。在庁宮人とはその地方の有 力な在地豪放ら把よって構成されており、かれらほ武力をたくぁえてその勢力 を拡張している武士であるといわれている。したがって留守所から出された史 料の署名をみると日代および在庁宮人の名を知ることができるわけである。 「留守所下」「申請留守所裁事」に.出てくる署名者を抜き出してみると次の ようになる。 康平五年四月(10る2)・橡瓦、府老凡、日代散位安宿祢 康平五年五月二日・惣大国佐伯、接凡、府老凡、日代散位安ハ宿 康平六年五月十三日・府老佐伯、接凡、府老凡宿々、散位惟宗宿祢 康平六年六月八日・府老佐伯・按凡、府老凡宿、散任惟宗宿 康平七年五月−トー・日・府老佐伯、橡凡、府老綾宿、日代散位惟宗宿々、散位 安宿 治磨こ年六月(1Dる7)・府老佐伯、新緑紀、府老練朝臣 治贋二年(カ)・稼橘、大線佐伯、散位朝臣、散位紀宿祢冶暦四年四月八日・惣大国佐伯、府老佐伯、散位凡宿祢、府老稜、日代散位
惟宗拾歴五年五月十三日・大接佐伯、散位藤原宿祢、府老綾朝臣、日代越中橡小
野、散位藤原朝臣 応徳一・年十二月五日(1084)・散位紀朝臣、藤原朝臣、橘朝臣、紀朝臣、日 代三善宿祢 これらの名のうち、頻繁に出てくるのは、佐伯・綾・凡の三氏である。 佐伯氏ほ、五∼六世紀虹橋磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五カ国に置かれ た朝廷直属の集団たる佐伯部を管轄するために、各国の国造の−・族を佐伯直とあたい したことに由来している。(岩波日本古典文学大系「日本雷紀上」補註)。直
かばね とは大化改新以前の姓で朝廷に服属した地方家族のうち、国造としての地位
を認められたものに与えたといわれている。そして「日本三代実録」貞観三木 原 博 幸 るる (8占1)年十−・月三日条に「−讃岐国多度郡人佐伯直鈴伎麻呂.」また同じく元慶 三(879)年一月三日条に.佐伯番兵椎(空海の弟)は「讃岐国多度郡人」とあ り、佐伯氏は多度郡−・帯(現仲多度郡西部)を根拠としていたといえる。 綾氏についてほ「日本書紀」天武天皇十三(占85)年十一・月一・日条紅「凡五 十二民に姓を賜い、朝臣と日く」とあり、この五十二氏のなか紅「綾君」があげ られている。また「■続日本記」延麿十(791)年九月二○日粂に「阿野郡人綾 きみ 公菅麿呂」とある。公(君)とは皇室から分かれた小氏や地方豪族に与えられた 姓で、臣姓の地方豪族と同じように、独.立性の強い伝統的な地方豪族が含まれ でおり、五世紀以前からの古い家柄を示す姓であるといわれている(直・公につ いてほ.平野邦雄「大化前代の社会講造」岩波横座日本歴史古代2参照)。した がって綾民ほ五世紀以前から阿野郡一・帯(硯綾歌郡東部)を基盤として勢力を 持ち、在地性の強い伝統的勢力であったといえよう。姓からみるかぎり綾氏ほ 佐伯氏よりも大和朝廷に.対して独立性の強い性格を持っていた在地豪族であっ たと思われる。七世紀中頃の大化改新以前の讃岐に.は佐伯氏が国造の−・族とし て朝廷に直属する佐伯部を率いて多度郡−・帯に.勢力を持ち、−・方綾氏が伝統的 勢力として阿野郡−・帯を根拠として勢力を張っていたわけである。 では佐伯氏のはかに当時讃岐の国造として同氏がいたかという問題が出てく る。綾氏が国造であったというはっきりした史料的袈付けほない。讃岐の国造 であったという史料が残っているのは凡氏の場合である。「続日本紀」延暦十 (791)年九月十八日条に.次のようにある。 讃岐国寒川郡の人、正六仕上凡直千継等言く、千継等が先ほ.星直なり、訳 語田(敏速)朝庭の御世、国造の業を継で、所郡の堺を管せり、是に於て、 官に因りて氏を命して、紗抜大押直の姓を賜う、而るに庚午年の籍に、大押 の字を改めて、偽ち凡直と注す、是を以て星直の裔ほ、或は讃岐直と為り、 或は凡直と為る、方今聖朝(垣武天皇)仁は雲雨に均しく、恵ほ.昆蚊に及 ぶ、此の明時に当りて、罪くは覆烹を照さんことを、請う先祖の業に因りて 讃岐公の姓を賜へと、勅して千継等が戸廿一個請にノ放り之を賜う。 つまり寒川郡(現大川郡西部)に住み、直の姓を持つ凡千紘らが讃岐公と称す ることを許されたのであるが、この凡氏の先祖は星蔽であったという。そしてこ
郷土史と文化財保護 る7 の星直は.敏速天皇の頃(六世紀後半)に.国造となり、紗抜の大押蔭と称してい たが、天智天皇の六七○年に庚午年藩が作成されたとき紅大押を改めて凡直 とした。その後星直の子孫は讃岐直・凡直と称す・ることに.なったというのであ る。凡氏の先祖が星氏であったという点については星・大押・凡と発音が似て いるため確かなことはいえないが、いずれ紅しろ寒川郡⊥・帯を根拠とする凡氏 の先祖が六世紀後半に入って讃岐の国造となり大押直と称したわけである○ その後「■続日本後紀」承和三(85占)年三月十九日条に・「讃岐国寒川郡人讃 岐公永直」「山由郡人讃岐公金雄」、「日本三代実録」仁和元(885)年十一・ 月十七日条に「讃岐国大内郡人凡直春宗」、「東宝紀」所載の康保ニ(9占5) 年十月四日付太政官符に「凡直奏忠・讃岐国山田郡池田郷戸主同姓利満(戸口 脱カ)」(大日本史料算1篇11)とあり、また寛弘元(1口04)年の「大内郡入野 郷戸籍」にも讃岐氏、凡氏の名が多数出てきている(「平安遺文」罪2巻)0 展讃−・帯に凡氏・讃岐氏が多く存在していたが、讃岐の留守所の在庁宮人とし て凡氏があらわれているのである。また「日本三代実録」貞観六(8る4)年八 月十七日条に讃岐朝臣高作らが和気朝臣を賜わったが、かれらの先祖は景行天 皇皇子神榔命の出であるとの記事がある。そして「日本書紀」景行天皇条にあ るように、讃岐国の国造の始祖は神榔皇子であるとすれば讃岐氏・凡氏の先祖 の「屋」氏ほ神櫛命から出たものであるとの見解も成り立つ。しかし景行天皇 が実在したかどうか問題のあるところなので、神櫛皇子が讃岐国造の始祖であ るということをそのまま信用することほできないが、讃岐氏の先祖が神櫛命で あるかどうかほ別にして∴讃岐氏や凡氏の先祖が皇族と何らかの関係の深い状 態にあったこと、つまり大和朝廷との服属関係がより強かったのではないかと いうことほ推測できよう。 八木充氏の研究によると(「古代地方組織発展の一考察」史林第41巻5号)、 凡直国造に関する特徴として−、現存史料に出てくる分布地域が西国とくに瀬戸 内海をはさむ地域であること(河内2、安芸1、周防2、阿波4、讃岐5、伊予5、 土佐1、紀伊1、尾張1)、凡直氏は地名十凡直を姓とするめが普通であって、 著るしく規格的になっており、これほ大和朝廷に対する服属の仕方の劃一・性を も示していること、−・国内のニ、三郡にまたがって分布していることから比較
木 原 博 幸 ‘8 的広範な地域にわたる国造としての地位を予想しうること、凡直国造の成立の 時期は六世紀以降か大化改新に近い年代であること等をあげられ、凡直国造の 成立の意義は、弱体化しつつある従来の国造制支配機構を強化するため、地方 支配が大和朝廷の地方の直属集団を率いる伴造と国造との並立に・よ.っている状 態から、特定地域の支配を単一化することを通して、地方支配を強化していこ うとした、大和朝姪による国造制の再編・強化である、とされている。このよ うに凡直は大和朝超の地方支配強化のなかで国造として新た軋任ぜられたこと から考えると、地方豪族のうちでもより大和朝廷との強い結びつきをもつ豪族 であったのでほあるまいか。つま−りこのような豪族として「星」氏が寒川郡−・ 帯に勢力を張っていたと思われる。 さて、大川郡の寒川、大川両町にまたがる雨滝山山麓に.古墳があるこ・とほ以 前から知られていたが、この地域にゴルフ場がつくられることになり、昭和四 十七年二月から約ニカ月にわたって緊急発掘調査が行なわれた。その緯果弥生 終末期の墳墓で、寒川一・帯の平野部に.生活の基盤をおいていた集団のなかでも っとも勢力を持っていたものが埋葬されたと思われる奥十、十−・、十二号墳、 四世紀前単の、香川県内最古の古墳といわれる奥三号墳等が発見された。とく 紅奥三弓噴からほ「三角縁張氏作三神五獣鐘」が出土した。この銅鏡ほ中国 の貌の時代のものであるが、大和朝廷は同盟を結び服属を誓った地方の豪族 に銅鉾を与えていたといわれており、いわば大和朝延ほ、四国に・おける勢力拡 大の−・拠点、また瀬戸内海上交通の一一・拠点として津田湾を掌握するために、寒 川叫・帯に勢力を持つある集団の首長に.この鏡を与えたと思われる。(岩本正二 「大川郡雨滝山遺跡群」香川史学第2号)。 このように雨滝山−・帯に.は寒川町平野部を根拠とする集団の首長の墳墓が数 多く存在しているが、奥三号墳はそのうち■でもとくに恩要なものであり、大川 郡に存在する他の古墳との比較検討を通して東讃における、ひいては香川県に おける古代の歴史を解明しうる可能性をもつものであった。先述の「星」氏が この寒川地方を根拠地としていたことから考えると、奥三号墳が「屋」氏の墳 墓であるとはいえないにしても、両者が何らかの関係をもっていたのではな いかということは十分考えられる。奥三号墳が出現したことによって、文献で
郷土史と文化財保護 る9 知りうることと考古学上の成果が総合されるまたとない機会であり、そこから 香川の古代史を明らかにする豊富な資料が出てくる可能性があった0 しかし現 在奥三号墳ほゴルフ場造成工事のため完全に破壊されてしまった。移転復元す るということであるが、奥三号墳のあった現地がすでに跡かたもない状態で、 鏡の出てきた石室だけを復元しても香川県の郷土史の研究上全く役に立たない ことはいうまでもない。 奥 三 号 墳 跡 F】 中央の地肌の露出している丘陵の小高いところが奥二号墳跡。原形 ほ全くとどめていない。(津即1†側から撮影) 三 梶原景山と亥浜塩田 香川県下における塩川をふりかえる場合一般的によく知られているのほ、文 政十一年(1828)年に高松薄儀で久米栄左衛門が完成させた坂出塩田で参る0 しかし坂出塩田の完成に先立つこと約七○年前の宝麿五年に同じ高松薄儀の尾 島の酉潟元で大規模な塩ロが開発されている。この塩田ほ宝暦五年が亥年であ ることから「亥浜」塩田といわれている。この亥浜塩田の成立事情について「増
補高松藩記」にほ高松藩五代藩主頼恭の「永々の御国益疑無之候はば、只今の
レ 細入費は如何様にも指紋、何卒御築造有之可然」との意見により、築造の資金 レレ を「御内護より御手元金の御株合せ」によって、この難工事を完成させたとあ る。「御内誇」とは正式の蒲財政収入とほ別途会計として非常の際の出費に充木 原 博 幸 70 るために.貯えられているものと思われ、「増補穆公遺事」(穆公とは漑恭のこ と。松浦正一・氏蔵)の亥浜塩田築造の条に「裏方こは何分成就の所を怪しミ踏 遠デ御延引と申上し紅、然ラハ御内詮方ニテ可被仰付と有侯て」と,.あるよう レエ ̄ ̄ に、「表方」が正式の滞財政を取り扱うところであり、それ以外に「御内詮 方」で取り扱う財源があったことがわかる。いずれにしろ藩財政が悪化してい るという全国的な状況のなかで、高松港では藩が「御内澄方」から経費を出し て塩田を開発し、「国益」をつくり出そうとしていたことがわかる。 ところで「木田郡誌」所載の明治十四年頃の作と思われる「梶原景山碑」の 銘文に.よれば、亥浜塩昆は梶原景山が「其資産を据」つで築造したことに.なっ ている。また明治−・○年六月・−・日付の梶原三平(景山の子孫)の「山田郡西潟 元村字亥之浜塩田御払下ケ之義二付歎駆」(鎌田郷土博物館蔵写本)によると 「字亥ノ浜塩田ハ祖先梶原十太夫宝麿五乙亥年私金ヲ以テ営築成構仕候」とあ る。梶原家ほもと播磨の高砂城に拠る武士であったが、のち天正八年紅梶原景 隆ほ.大内郡引田村へ移住し、その子梶原三平ほ慶長元年紅高松城下の東浜村に・ 移り、商人として活躍した。梶原景山は梶原重太夫景弼と称し、屋号ほ槙屋で あった。 亥浜塩田は「高松藩記」によれば藩主頼恭の熱意濫よって∵完成したといい、 「梶原景山砕.」「御払下ケ之義二伺歎願」でほ梶原景山が築造したといい、誰 が築造したかという点については相違がみられる、この点について「木田郡 誌一」にほ、「松平頼恭公潟元の海浜に塩田を開かんとし、時の執政木村亘に下 命す。亘ほ漁てこの地に.於て塩田開拓の試ある梶原重太夫景山紅命じて其の工 事紅着手せしむ」とあり、蕗主頼恭の命により築造されたが、実際の現地での 築造責任者ほ梶原景山であったとしてし、る。「高松港記」ほ.明治十四年の編 茶(亥浜塩田に関する部分は「穆公事蹟」に.よっているが、こ.れがいつ頃のも のか明らかでない)、「■梶原景山碑」の銘文は明治十四年頃の作、「御払下ケ之義 二付歎願」も明治−・○年のものであり、亥浜塩田築造から−・ニ○年余後のもの であることから、これらに述べてあることをそのまま信ずることはできない。 したがって亥浜塩田築造時に近い時点での史料が必要なわけである。 管見のかぎりでは築造から一・○年後の明和元年からこ年にかけて梶原景山が
郷土史と文化財保護 71 藩へ提出した書類をおさめた「上苔秘記」がある。これによると「西片元浜之儀 ハ直様徹開基之御浜」とあり、藩の「直様御開基」であって梶原景山が築造し たとはなっていない。しかし亥浜塩田の完成の四年後の宝暦九年に「代銀年成 上納」ということで景山と高智屋平十郎に払い下げられている。そしてさらに 五年後の明和元年にほこの塩田は景山一人の経営するところとなっている。こ
の点から景山が亥浜塩田を私費を投じて築造したとの瀧拠紅.なったのかとも思
われる。しかし景山が全く築造に.関与していなかったとはいえず、亥浜塩田完 成の翌年にこの塩田の安穏を祈って塩電神社が景山によって建てられている。 (「讃岐名勝図絵」)。したがって「木田郡詰」の説明が妥当のように思われる が、ここで注意しなければならないのほ1最初から藩が塩田築造を計画したかど うかということである。「高松港記」に「去々費西春(宝暦三年のこと)、百姓共願に付、共通卿付」とあるように、築造の発端は「百姓共」の要望から
也たものであった。したがって築造のほ.じめほ藩ほ直接関与せず景山が築造費 用を出し、「浜百姓」らとともに工事にとりかかったが難工事のために.資金が 不足し、ついに.薄から援助を受けて完成させたというのが実状に近いのでほあ るまいか。 ところで「上古秘記」であるが、これほ梶原景山が藩札五千両の借用依頼の ために藩へ提出したものを−・まとめにしたものである。その内容ほ亥浜塩田完 成から明和元年までの経営内容等を詳しく述べており、当時の亥浜塩田の実態 を知る上で非常に.重要な史料である。この「上杏秘記」ほ鎌田郷土博物館に.昭 和−・六年の写本があるが、昭和三一年に㌧児玉洋一・氏が「塩業展望欝5占号」に史 料紹介されており、「上原準一・氏所蔵文書」となっている。硯在上原準一・氏は他界されているが、過日上原家へ電話し、古文書の閲覧を頼んだところ、上鹿
家はもともと塩江町の旧家であるため、そちらへおいてあるらしく、当宅には ないようだとの返事を受けた。一月も早くその所在を確認し、保存のための十 分な配慮が望まれる。 また亥浜塩田に関連したものとして塩竃神社がある。塩田完成の翌年に・梶原 景山によって屋島の西潟元に.建てられたものである。ニ年ほど前に訪ずれたと ころ亥浜塩田を一望の下紅できる急斜面の高台紅あったが、神社はもとよりの72 木 原 博 幸 塩 竃 神 社 跡 こと神社への急な石段も破損が激しか った。先日再び訪ずれたところ、神社・ 石段ほすべて取り払われ、土砂くずれ 防止のための工事が施され、神社があ ったことを示す古い石垣がわずかに残 っているのみとなっていた。塩竃神社 ほ亥浜塩田の存在を示す貴重なもので あるが、破損にともなう危険防止のた め取り払われたものと思われる。でき ることなら修理して現地に残すぺきだ が、災害防止のためどうしても取り壊 さねばならなったのであれば、現地に 塩麗神社があったことを示すような何 らかの処置を取る必要があろう。 上方が神社のあったところ。 その左に古い石垣が残っている。 4.高松海砂繚専売制と砂塘会所 高松諌でほ宝暦年問に糖業が伝えられたが、本格化するのほ寛政初年に医者 の向山周慶による甘焦栽培砂糖製造の研究以後のことであるといわれている (井上甚太郎「讃岐糖業之沿革」)。その後砂糖の製造は盛んとなり、天保初年 (1850頃)にほ、大阪へ全国から積送られてくる砂糖のうち讃岐分は六十一% 余を占め、このうち高松港分は約五十五%であった(樋口弘「本邦糖業史」)。 つまり天保初年の段階でほ高松藩の砂糖の占める地位ほ全ぎ裏ほ勺に高かったので ある。 このような砂糖製造の増加をもとに、高松港でほ天保六年に領内の砂糖の統 すましかた 制に乗り出している。「高松港記」によると、十二月に新たに済方という役所を 立て「御借り金銀御返弁方」を取り扱わせることにした。当時高松藩の財政状 態ほ悪く、天保三年から五年までの三カ年の問の借銭返済を延期していたが、六
郷土史と文化財保護 ■75 年からその返済紅取りかからねばならないため設けられたのである。そして借 銀返済のための資金として注目されたのが砂糖であった。そのころ高松藩の砂 糖は「去る寛政事和之頃より製造相始、追々精製に至、近頃ほ江戸大阪にても御 国産沙糖を以、和製之第一∴等と致相好候故、利益多く、製造高年々に相増、殊 之外盛大に相成居申侯」という状態であった。返済金確保の具体策は「沙糖製 造の上樽数に応じ、船中之為替金として、荷主之百姓又は積受僚船頭共へ銀札 を御貸付被下、其沙糖を大阪へ枯発し売捌せ、右売代之正金を以、為替御貸付 レ 之元利を大阪御屈敷へ取組、それを.以金銀御返済方相計ひ、余金有之候はば御 国へ鞍下し可申」つまり砂糖製造業者や船頭へ藩札を貸付け、大阪へ兢送って 売り払った代金で貸付けた藩札の元利返済を大阪の蔵屋敷へ行なぁせるという ものであり、藩札を貸付けその返済ほ.正貨で行なわせ、これを藩の借銀返済に 充るというのである。 藩札の貸付けにほ船中為替・別段為替・振為替・仕入肥(肥料代貸付け)等 の種類があったが、これらの貸付けを行なうものとして領内九カ所に砂糖問屋 (のち砂糖会所と称す)が置かれ、この砂糖問屋の統制および領内の砂糖製造 の奨励を行なうものとして、砂糖方が設けられた。また大阪の蔵屋敷に.砂糖会 所を置き大阪へ積登せられた砂糖の売捌きや溝札貸付の返済事務等を取り扱わ せた。こ.の高松港の砂糖専売ほ大いに利益があり、明治四年の廃藩置県の陰に は明治政府に.約百万円の大金を引き継いだといわれている(「興業意見」明治 前期財政経済史料集成欝18巻1)。 ところで先に砂糖問屋が領内九カ所に.設置されたと述べたが、それがどの地 域であったか紅ついて検討しよう。児玉洋一\氏の「高松薄の砂糖為替紅就い て」(社会経済史学第12巻1・2号)に.よると、天保六年から三○年後の元治 元年では(当時砂糖会所と称していた)次のように.なっていた。 大内郡属宿浦砂糖会所引請人 浜垣芋−・郎 同所配下出会所 引田浦 平蔵 大内郡三殿村砂糖会所引請人 木村太一・郎 同所配下出会所 三本松村 与助 同 小磯村 在馬十右衛門
木 原 博 幸 74 同 松原浦 同 属篠浦 寒川郡津田浦砂糖会所引請人 同所配下出会所 鶴羽浦 寒川郡志度捕砂糖会所引請人 同所配下出会所 小田浦 山田郡木太村砂糖会所引請人 同所配下出会所 庵治浦 同 棲ノ浦 同 相引 同 牟礼浦 次兵衛 河野竹之助 上野単三郎 伊之助 岡田達蔵 円次 中村和太郎 和書郎 卯次郎 竹蔵 甚之丞 御城下砂糖会所引請人 百聞町坂本屋松太郎 丸亀町津田屋忠五郎 楠右衛門 渡辺敏之助 政吉 梅吉・佐四郎 辰之塵・松之助 宮井房吉 宮井悦之助 J司 同所配下出会所 香西浦 阿野郡北林田浦砂糖会所引請人 同所配下出会所 大薮浦 同 江尻補 間 坂出浦 鵜足郡川原村砂糖会所引請人 同所配下出会所 宇足津浦 元治元年にほ砂糖会所は馬宿村・三殿村・津田捕・志度浦・木太村・城下百問 町・城下丸亀町・林田浦川l原村の九ケ所に置かれ、・それぞれ引請人=砂糖会 所の資任者が決められ、また各々に.出会所が設けられてそれにも資任者がきめ られている。 砂糖専売制が行なわれた天保六年段階での砂糖会所(このときは砂糖問屋と 称す)がどの地域に設置されたかという点についてほ、これまで明らかでなか ったが、最近香南町の丸岡家所蔵の古文苔の【1lに見つけることができた。それ によると次のようになっている。 引田浦 大内郡小海村牢人嶋田弥□□□ 馬宿輔
郷土史と文化財保護 75 三本松浦 同郡三本松村庄屋高畑作兵衛 松原浦 小磯浦 属篠浦
=.カ) 津田浦 同郡津田村牢人小野口□
鶴羽清 志度浦 同郡志度村庄屋岡田緒左衛門 鴨部下庄浦 壇浦 山田郡屋嶋村庄屋茂三郎 潟元浦 庵治浦 御城下川口 塩屋町二丁目三木露源三郎 香西浦 百聞町坂本屋新太郎 林田浦 阿野郡青梅村牢人渡辺五首之助 乃生浦 坂出捕 坂出浦新浜川崎屋吉太郎 宇足津浦 もより 儲内の九カ所に.砂糖問屋が置かれているが、この砂糖問屋は「模寄之清々問屋 兼静」とされている。これはたとえば引田浦の次紅あげられている馬宿浦の砂 糖問屋を引田浦砂糖問屋嶋田家が兼ねるということである。 天保六年と元治元年の砂糖会所の置かれた場所ほ、多くは海岸線に沿って設 置されているが、両者を比較すると設置箇所が異なっているところが若干あ る。たとえ:ば天保六年の場合には三本松浦に.砂糖問屋がおかれ、松原浦・小磯 浦・馬篠捕の各問屋を兼ねることになっていたが、元治元年には農村地帯であ る三殿村に砂糖会所が置かれ、その出会所が三本松村・小磯村・松原浦・馬篠 浦となっている。このはか恵濯が木太村に.、坂出浦が川原村になっているのも 同じような例である。元治元年当時にほ砂糖の生産地に近くその集荷に・便利な ところに砂糖会所を設置しようとしていたと思われるが、その具体的な理由や いつどろ会所の場所が変更されたのかという点については現在のところ明らか でない。 さて現在砂糖積出しの遺構が志度の新開に残っている(志度束中学の江口義 之氏の御教示による。このほかこの遺構紅関連して多くのことを御教示いた木 原 博 幸 7る だいた、記して感謝の意を表わしたい)。志度では天保六年にほ志度浦に砂糖問 屋が置かれ、志度村庄屋の岡田猪左衛門が砂糖問屋になり、鴨部下庄浦の問屋 を兼ねていた。元治元年にも志度婦鱒砂磯会所が置かれ、その引請人は岡田達 蔵であるが、配下出会所ほ小田浦に変っている。「志度町史」に.よると鴨庄長 浜浦の八幡丸の松蔵に「砂糖横暴船」の天保九年九月付鑑札が与えられてお り、天保九年当時には長浜涌から砂糖の積み出しが行われていたようである。 (組船とほ砂糖会所へ集められた砂糖を大阪へ運ぶ船のことで組船に指定され た以外の船ほ砂糖の大坂運送はできなかった)。江戸時代の鴨部下庄村ほ小田 湾・鴨庄湾一帯にまたがっており、長浜浦ほ鴨部下庄村に属していた。したが って天保六年に出てくる鵬部下庄浦というのほこの長浜浦のことをさしていっ たのではあるまいか。また江戸時代新開ほ長浜浦に層しており、天保六年当時 の砂糖積出しの跡が新開に残っている遺構でほあるまいか。(鴨部下庄浦の砂 糖積出し港が現在の新開であったと断定するには、その根拠が弱いが、硯段階 ではとりあえず新開でほなかったかとの推測をしておく)。 丸岡家に残されていた古文書(近世庶民史料)によって、新開に残っている 砂糖積出し跡が、高松藩砂糖専売と深い関係をもっていたのではないかという 推測が可能となったのであり、現在散伏の激しい近牡の古文書についてもその 保存対策が急がれねばならない。 砂 糖 積 出 し 跡 松岡家の積出し跡で正面が蔵の入r二1である
郷土史と文化財保護 77 鴨庄湾の海岸のすぐそばに砂糖を船へ積み込むための道の両側に整然とした 石垣がニカ所ある。−・カ所は明治ニ○年頃建てたといわれる蔵が海岸に向って 立っている。この蔵は砂糖の製造を行なって−いた松岡家(屋号丸松)の蔵であ る。もう・一・カ所ほ蔵は残っていないが松岡家の蔵のすぐ隣紅.あり、松岡家の本 家の丸井家の積み出し跡である。丸井家は幕末期に.栄えた家であるといわれて いる。現在鴨庄湾の海岸線ほどく一・部を除いて護岸工事が行なわれ、昔の状態 をとどめていない。この新開の砂糖硫み出しの遺構が現状のまま保存されるよ う今後配慮していくことが必要であろう。 お わ り に 以上、管見の限りで香川の郷土史に関係する追跡・古文書・遺構等の保存状 況について若干述べてみたが、ここでふれたもの以外に.も数多くのこれらの歴 史的道産が県内各地に残されている。これらは一度失うと二度と取り返すこと のできないものであり、その保存に十分な配慮が必要であることは再三述べた ところである。現在古墳等の古代の追跡の破壊が急速紅進んでいるが、地域開 発にともない農村の変化によっで古文書が散供し、地形の変化によって遺構が 破壊されることば.確実である。 讃岐三白という言巣がある。三白とほ綿・砂糖・塩であり、江戸時代に讃岐 で発展した特産物のことである。綿についてほ西讃地方にどく少数の古文書が・ 残されている程度で、綿が香川の特産物であったことは余り知られていない。 砂糖については東讃地方に.残された若干の断片的な古文沓によってその状態を ある程度知ることはできるが、各地域における砂糖製造の実態というような具 体的な点は明らかでない。また塩については最近まで塩田があった関係から、 明治以降の資料は綿・砂糖にくらぺると多少豊富に残されているようであるが、 江戸時代の古文書は少ない。塩田の廃止にともない今後塩田に関する資料が散 伏していくであろうことは、塩竃神社の例にみられる通りである。綿、塩、砂 糖は江戸時代讃岐の特産物として、讃岐地方の産業の発展を支え.てきたもので ある。しかしこれらに関する古文書や遺構が残っているのはごくわずかであ る。郷土の歴史をひいてほ郷土の歴史的文化的環境を豊かなものとする歴史的
木 原 薄 幸 78 遺産を守り、後世に伝えることは現代を生きる人々の責務であろう。 香川に.も大規模開発の披がおしよせ、郷土の歴史的文化的環境紅大きな変化 が加えられようとしている。郷土の歴史的遺産はその郷土の先人が長い期間に わたって残してきたものであり、開発に際しても最大限残すように努力しなけ ればならない。 (昭和48年11月12日)