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185642_XP_人権問題研究室紀要第15号

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は じ め に 明治政府は廃藩置県直後の明治4年(1871) 8月28日に賤民廃止令(解放令)を発したが, この後,これに反対し竹槍を携えて被差別部 落を襲撃する一揆が西日本(主に中国・四国・ 九州)の各地で発生した。この「部落を襲っ た一揆」については,近年上杉聰氏や石瀧豊 美氏らによって研究が進められ,「民衆運動 の恥部として永く覆い隠されてきた」諸事実 がつぎつぎに掘り起こされるに至ってい (1) る。 本稿では,上杉氏らによってクローズアッ プされ,「解放令反対一揆」(もしくは「部落 解放反対騒擾」)と命名されている一揆の様 相 に つ い て 検 討 す る と と も に,明 治6年 (1873)一揆を対象にその全体像を明らかに することに努め,当該一揆をどのように把握 すべきかについて論じてみたい。 1 「解放令反対一揆」の発生と様相 外圧のもと,欧米資本主義列強に対峙しう る強力な統一国家の形成を焦眉の課題とした 維新政府は,明治4年(1871)7月14日に廃 藩置県を断行し,中央集権体制の構築をはか った。これを契機に,「国民」の統合に力を 注ぐとともに,開化政策(地租改正や殖産興 業,徴兵制や学制の実施など)を矢継ぎ早に 展開し,上からの近代化を推し進めていった。 本稿に関わる賤民廃止 (2) 令も,そうした政策の 一環として,廃藩置県直後の8月28日に発令 されたものであった。 布告 穢多非人等之称被廃候条,自今身分職業共 平民同様タルヘキ事 同上府県へ 穢多非人等之称被廃候条,一般民籍ニ編入 シ,身分職業共都而同一ニ相成候様可取扱, 尤地租其外除!ノ仕来モ有之候ハヽ,引直 シ方見込取調大蔵省へ可伺出事 解放令としてよく知られるこの法令につい ては,地租改正と関連づけて評価しようとす る(「地租其外除!ノ仕来」の「引直シ」と いう点に着目し,地租改正を実施し統一的な 税制を創出しようとするにあたって,その地 ならしを行なうことを目的として実施された とする)見解が上杉氏によって提示されてい る (3) が,封建的な身分制を廃止し(近代国家と して欧米列強諸国からも認知されるような) 文明国の「国民」としての体裁を整えること もねらいとして発令されたと考えるべきであ 天理大学文学部 Faculty of Letters

「解放令反対一揆」と新政反対一揆

谷 山 正 道

The Riot Against The Emancipation Act for The Lowly

And Against The New Policy By The Meiji Restration Government

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ろう。 この賤民廃止令は,それまで差別されてき た人々にとって大きな力となるとともに,地 域社会において,様々なトラブルを引き起こ す引き金ともなった。その様相には地域差が あり,中国・四国・九州地方では,明治4年 (1871)の10月から6年(1873)の8月にか けて,「解放令反対一揆」が多発しているこ とが注目され (4) る。これらは,同令発令後の変 化が急激であった地域であり,それ以前から 「部落の行動などを通して」「解放」への動 きが進みつつあった近畿地方では,発令後に 急激な変化は生じなかっ (5) た。また,中部以東 では,「近畿各地とは逆に,部落の立ち上が りがきわめて弱く,それが一揆の起こらなか った第一の要因」であったと,上杉氏は述べ られてい (6) る。 以下,中国・四国・九州地方で発生した「解 放令反対一揆」のあり方について検討するが, まず一揆勢の意識について見ておこう。これ に関しては,「穢多・非人(中略)平民同様 交リ相成候ヲ不快ニ存候迚(中略)騒擾ヲ醸 シ」〔明治4年兵庫 (7) 県〕,「穢多民籍へ編入百 姓ト交接ナサシメ何ノ用ニ相立ツヘキヤ,如 此ノ令下リテハ一躰不服」〔同年高知 (8) 県〕,「新 御百姓共,古御百姓同様之振舞ニ及ひ,無礼 筋多キ者も有之」〔同5年岡山 (9) 県〕,「穢多号 ヲ御廃止ノ後,従前ノ身分ヲ忘レ,兼テ不礼 ノ仕向不少」〔同6年北条 (10) 県〕といった史料 の記載が見られ,彼らが,賤民廃止令とその 後の被差別部落民の行動について,反発を強 めるようになっていたことが窺えよう。そこ には,長らく近世の身分制下に置かれてきた 彼らの意識の一側面が如実に示されており, 「御百姓」としての身分意識の負の側面の発 露を見出すことができ (11) る。このことは,明治 6年(1873)5月下旬に発生した北条県一揆 に際して,被差別部落を襲撃した一揆勢が, 「御百姓衆中」宛に差し入れることを強要し た,以下の「御詫 (12) 書」の文面からも,はっき りと窺えよう。 差入申御詫書 私共,従来穢多之称ニ而,御平民様と格別 之隔別有之,御本村様御規定御座候処,御 一新ニ付而は,難有御趣意ヲ以,御天朝様 ヨリ平民同様被為仰出,古来稀成御趣意之 程奉戴仕,格別相慎ミ可申之処,却而心得 違ノ廉々奉恐入,先非後悔罷在候,然ル上 は土居内一同相慎ミ,向後従前之通礼譲相 守,急度相勤可申候,尚御本村は不及申, 他村ニ至ル!,御門内ニおゐて履物等仕間 敷候,且途中ニ而御出合申候節は,従前之 通り履物ヲ取,厚ク礼譲ヲ尽可申候間,是 !心得違之段,平ニ御免被成下度,偏ニ御 詫奉申上候,依之一同連印御詫一札奉差上 候処,如件 明治六年五月廿九日 (勝北郡)勝加茂東村 元穢多 " 吉 ! (他19名略) 御百姓衆中様 北条県一揆では,こうした「御詫書」を差 し入れることを拒絶した人々が一揆勢によっ て竹槍で殺傷されるとともに,被差別部落の 焼き討ちが行われたのである(死亡者は18人, 負傷者は13人,焼失戸数は263戸,破壊戸数 は51戸にのぼった)。この一揆について精力 的に研究を進められ,『部落を襲った一揆』 を著された上杉聡氏は,「十年前,津川原村 の虐殺記念碑の前に,初めて立ったときのこ とを,私は今も忘れることができない。錯覚 かもしれないが,石碑の上に漂う幽気のよう

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なものをふと感じて,『殺された人たちの怨 みはまだ晴れていない』と思い,研究を始め た」と記されてい (13) る。 こうした被差別部落の襲撃は,明治5年 (1872)1月の岡山県一揆,同年12月から翌 年1月にかけての大分県一揆,翌6年(1873) 6月の福岡県一揆や名東県一揆などに際して も行なわれており,上杉氏や石瀧氏らによっ てその実態が明らかにされてきてい (14) る。「部 落を襲った一揆」の存在,これは看過するこ とができない重大な史実であり,上杉氏が言 われるように,「反対一揆の研究は,民衆自 身の問題点を切開する方向へと向かわざるを えな (15) い」。 しかし,このことの重大性を認めた上での ことであるが,この部分のみを抽出して当時 の一揆や民衆についての評価を行おうとする ことには,私は賛同できな (16) い。なぜなら,北 条県一揆のケースに即して言えば,首謀者と された西西条郡貞永寺村の筆保卯太郎が,「近 来御布令乍恐何事ニ不依心ニ不慊,就中徴兵・ 地券・学校・$牛・斬髪・穢多ノ称呼御廃止 等ノ条件ニ至テハ,実ニ不奉服,如何ニモ御 捐棄ニ相成,従前へ復シ度ト,偏へニ心ヲ苦 シメ,其次第!願可致ト一応ハ思出候得共, 熟ラ当今ノ時勢ヲ察スルニ,只管願出候共, 必御許容ニハ相成間敷,(中略)徒党ヲ結ヒ, 暴動ヲ起シ,兇威ヲ逞フシ,県下へ迫ラハ, 右ノ勢力ヲ以テ圧倒シ,前書ノ事件自然御取 消ニ相成可クト,兼テヨリ窃ニ思惟致 (17) 候」と 口述しているように,一揆は開化諸政策全般 に対する反発という形で生起しており,攻撃 対象も,被差別部落民だけではなく,官員・ 戸長・副戸長・捕亡吏・盗賊目付・小学校・ 掲示場などに及んでいたことが判明す (18) るから である(このことは,先に「部落を襲った一 揆」として紹介したほとんどのケースについ てもあてはまる)。 かつて安丸良夫氏は,「明治初年の新政反 対一揆は,個々の一揆の直接の原因や要求が なんであれ,その本質においては,新政全体 への反対という性格をもっていた。一揆の直 接の原因が,たとえば徴兵令や廃仏毀釈や学 制やコレラ予防等々にあったとしても,これ らの個々の新政策が民衆の生きる世界の全体 像を脅かす兆候としてうけとられ,そのゆえ に,個々の新政策への反対がたちまち新政全 体への反対へと発展したのであ (19) る」と指摘さ れたことがあったが,これは上記のケースに ついてもよくあてはまる。 以上のあり方からして,当時の一揆は新政 反対一揆として捉えるべきであり,特定の問 題のみを抽出して「解放令反対一揆」という ような形で捉えるべきではな (20) い。「解放令反 対」という重大な問題を見据えながら,新政 反対一揆に立ち上がった当時の民衆が有した 正負の両側面について,構造的に分析を深め ていくことが大切であると思うのである。 そうした思いから,次の「2」では,北条 県・福岡県・鳥取県・名東県などで大規模な 一揆が発生した,明治6年(1873)の一揆に 光をあて,その全体像を明らかにすることに 努めたい。 明治6年一揆の全体像 ! 一揆の発生と流言 故青木虹二氏が作成された「明治農民騒 擾」年 (21) 表によれば,明治6年(1873)には, !3月から8月にかけて一揆が多発している こと,"地域的には西日本のうち中国・四国・ 九州地方で多発していること,#宗教問題を 中心とする真宗地帯のケース(越前護法一揆 など)もあるが,一揆の大部分は徴兵問題を 引き金に発生していること,が判明する。!

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の時期は,「徴兵告諭」(5年11月28日)をふ まえて,各県で適令者の調査(→連名簿の作 成)が行われた時期にあたり,!と#とは符 号する。 ところで,徴兵問題を引き金に発生した当 年の一揆は,従来「血税」一揆(徴兵令反対 一揆)と称され,「徴兵告諭」にある「西人 之ヲ称シテ血税ト云フ,其生血ヲ以テ国ニ報 スルノ謂ナリ」という文面の誤解から一揆が 起きた,という説明が行われることが多かっ た。ちなみに,一揆に際しての県から政府へ の報告書にも,「御告諭中血税ノ字ヲ誤解シ, 無根ノ流言管内普及シ」〔北条 (22) 県〕,「徴兵御 告諭中,血税・生血ノ文字アルヲ以テ,無根 ノ浮論ヲ醸シ」〔鳥取 (23) 県〕といったくだりが 見られる。 しかし,一揆発生時の流言は,「血取」に 関するものが多いがこれに限られず(「膏取」 「子取」や,「外国へ送られる」などの流言 も見られる),また「血取」に関する流言は, 「血税」一揆の時点ではじめて発生したわけ ではなかった。明治7年(1874)2月7日付 『東京日日新聞』には,「墨江処士」による 「血税暴動の真相」と題する一 (24) 文が掲載され ており,「近年民間に在りて種々の流言蜚語 をなす者時として断えることなし,その内か の血を取るの説あること久し,または西洋人 よう 小児の生血を取りて薬を錬ると云い,或は孕 婦の鮮血を絞りて薬に和して飲むと云い,ま た破身前の女子の血を以て電線に塗ると云う, その説みなかの血税の字の世に顕われざる前 に起れり,東京にては十年前既にこの説あり て,一時民間に疑懼を抱けり,しかれどもこ れらの語,未だ小民の暴動を起すに足らざる なり」という,興味深い記述が見られる。 「血取」に関する流言は,廃藩置県後の旧 藩主引留め一揆発生時にも広く見ら (25) れ,大和 国十市郡荻田村の!瀬道常が書き残した『大 日記』にも,「(元治元年)五月六月中十二三 之女子ヲ盗取血を絞り,又ハきもを取り候趣 風聞一円 (26) 也」という記事が見出される。 この「血取」や「膏取」「子取」などの流 言は,民衆にとっての危機のシグナルであ (27) り,幕末からすでに見られたものであった。 その後,廃藩置県を画期に流言が一気に噴出 するようになったが,それは中央集権化=新 体制への移行に伴う民衆の大きな不安を反映 したものであった。さらに,廃藩置県後に維 新政府が推進した開化諸政策が彼らの様々な 疑惑や反発を惹き起し,そうしたなかで流言 の噴出が引き続き生じた,と言うことができ よう。 明治6年(1873)の一揆に際しては,徴兵 適令者の調査などが流言噴出の契機をなして おり,「血取」などの流言が飛び交うなか,「白 衣ヲ着セシ怪シキ者」(北条県),「怪敷躰ノ 者」(鳥取県),「散髪ノ女」(名東県)の出現 といった,流言と結びつく出来事の発生など を契機に,一揆が生起するに至ったのである。 ! 一揆の諸特徴 明治6年(1873)の3月から8月にかけて 西日本で群発した一揆について,第一に注目 されるのは,要求内容の多さである。これら の一揆は,維新政府そのものへの不信・非妥 協性を強く帯びており,要求はなかなか提示 されなかった (28) が,吟味の過程で作成された調 書などを通して,要求内容を知ることができ る。以下,北条県・福岡県・鳥取県のケース について,それぞれ見ておこう。 北条県一揆における要求は,東北条郡加茂 郷32か村の場合,!「五ヶ年ノ間貢米差除ノ 事」,"「徴兵トシテ鎮題(台)へ御引上ノ事」, #「御一新以来諸運上一切御廃止ノ事」,$

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「斬髪御廃止従前へ御復ノ事」,%「地券一 件失費ハ貢米ヲ以御立用相成度事」,&「野 山取調并ニ絵図面入用右同断ノ事」,'「穢 多ハ従前へ御復ノ事」,(「(/)牛御廃止ノ 事」,)「耕地へ桑苗或ハ茶木植付御廃止ノ 事」,*「正副戸長従前へ御復シ給米同断ノ 事」の,計10か条にわたってい (29) た。また,福 岡県一揆における要求は,!旧知事の帰国, "士族卒の復活,#他県出身の県官廃止,$ 年貢の半減や延納,%「諸運上従前通」,& 地券の廃止,'官林の切払い・払下げの中止, (「穢多従来通」,)旧暦の復活,*散髪の 廃止,+伝信機の廃止,,牛肉店の廃止など, 新政に関わる多くの項目に及んでお (30) り,鳥取 県一揆におけるそれは,!「米穀値下げ被仰 付候事」,"「外国人管轄通行御禁止」,#「徴 兵御繰出御廃止被仰付候事」,$「今般騒動 致候条発頭無御座候事」,%「貢米京桝四斗 切端米御廃被仰付候事」,&「地券合筆取調 諸入費官より御弁被仰付候事」,'「小学校 御廃止人別私塾勝手被仰付候事」,(「御布 告板冊代価御廃止」,)「太陽暦御廃止従前 の太陰暦御改被仰付候事」,*「従前の通半 髪被仰付候事」,+「因伯太公様帰城の事」, ,「諸運上御廃止の事」,-「諸口銭御廃止 の事」,.「仁義礼智信の事」の,延べ14項 目にわたってい (31) た。 いずれのケースにおいても,要求内容は, 「徴兵令反対」や「解放令反対」といった特 定の項目に限定されてはおらず,新政に関わ る様々な事柄が俎上に上げられていたことが 判明する。このことから,当該一揆が開化諸 政策全般に対する反発という形で起きたこと がはっきりと窺えるのである。 要求には,旧領主の帰国や「穢多従来通」 に象徴されるように,「従前」=旧体制への 回帰を求めるものが多く含まれていることは 事実であるが,租税面では「五ヶ年ノ間貢米 差除ノ事」(北条県一揆)や年貢の半減(福 岡県一揆)など,「従前」にはなかったレベ ルの要求が見られたのであり,「旧体制への 回帰は,決して旧来そのままの状態への復帰 ではなかっ (32) た」ことに,留意しておく必要が あろう。 要求内容に関連して,第二に注目されるの は,攻撃対象についてである。まず,北条県 一揆の場合,攻撃対象となったのは,十五等 出仕(破毀5),等外出仕(破毀2),戸長(焼 亡4・破毀15),副戸長(焼亡1・破毀32), 捕亡吏(破毀2・死亡1),盗賊目付(焼亡 1・破毀25),被差別部落民(焼亡263・破毀 51・死亡18・負傷11),教師宅(破毀1),教 学院(破毀1),小学校(焼亡3・破毀15), 寺(破毀2),掲示場(破毀50),郷蔵(焼亡 1),平 民(焼 亡4・破 毀4)で あ (33) り,名 東 県一揆の場合には,事務所(焼亡30・破毀1), 学校(焼亡48),邏卒出張所(焼亡7),戸長 宅(焼亡44・破毀1),村吏宅(焼亡143・類 焼1・破毀1),祠官宅(焼亡2),士族宅(焼 亡1),平 民 宅(焼 亡126・類 焼71・破 毀6), 内用聞宅(焼亡9・破毀1),船改所(焼亡 2),掲示場(焼亡53・破毀10),制札場(焼 亡21・破毀3),掛樋(焼亡1),里数標木(焼 亡3),所蔵(焼亡12)が攻撃対象となって い (34) た。 つぎに,福岡県一揆のケースについて,関 係史 (35) 料を引用しておこう。 筑前一国中兇徒ノ毀チタル物 一 県庁及ヒ諸官宅・区長・正副戸長等, 都テ公用ヲ取扱フ家屋 但,正副戸長等,書類ヲ纏メ,快ク兇徒ニ渡 シタル分ハ,不毀ト云 一 電信機銅線并標木

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一 掲示場 一 町村榜示杭 一 小学校 一 米穀相場商ヒニ関係スル商家 一 人ニ憎レタル者ノ家屋 一 手向ヒタルモノ,及ヒ兇徒ノ意ニ従ハ サル者ノ家屋 一 四民ヲ不論,異人館造リノ家屋 一 県庁ヨリ博多!連続セル玻璃灯 一 蒸気船ノ器機 同焼タル物 一 県庁・諸官宅・区長・正副戸長等ニア ル公用一切ノ書類 但,県庁内アルノ外,旧県ノミニ関ル 書類ハ,除テ不焼ト云 一 掲示及ヒ地券証ノ類,総テ参事ノ姓名 アル書類 但,路傍ノ掲示ハ,細カニ引裂キ,棄 タルコト多シト 一 元穢多ノ家屋 この一揆における具体的な被害状況は,公 布掲示場(大破4),官舎(焼亡6・大破1), 官員ならびに「土民住居家」(大破837),「土 民住居家」(焼亡1532・半 焼6・小 破314), 納屋(焼亡636・大破432・小破60),土蔵(焼 亡31・大破526・小破90),小学校(焼亡2・ 大破27),村役場(焼亡1・大破33・小破9), 寺(焼亡1),電信柱(損傷181)となってい (36) た。 当一揆の攻撃対象は,大蔵大丞であった林 友幸が,「今般ノ如キ兇徒ノ向フ所,公廨・ 区庁・電線・学校或ハ戸長・保長又ハ新民ノ 居家ヲ先トシ,自ラ新令ニ逆フノ意ヲ (37) 表」と 端的に述べているように,県庁をはじめとす る公機関や官員,新政を象徴する存在や新政 に加担する者と認識された者であった(「新 民」は,新政を象徴する存在でもあった)。 ここにも,新政反対一揆としての特徴がよく あらわれている。 明治6年(1873)一揆について,第3に注 目されるのは,波及性の強さである。それぞ れの一揆は県域をこえて展開することはなか ったが,様々な流言を触媒に隣県へつぎつぎ に「伝染」する勢いを見せていた。同年7月 10日付の太政官宛広島県届に,「鳥取県・島 根県管下土民蜂起ヨリシテ,当県管下第十四・ 十五・十七大区等へ,自ツト気移,種々流言 モ有之趣,(中略)愛媛県・名東県管下土民 同断ニ付,当県管下第三・八・九・十大区ハ, 海ヲ隔テ隣ヲナスノ地ニ付,是亦気移,流言 不 (38) 少」とあるのは,このことを端的に示す一 例である。 第4に注目されるのは,大規模一揆の存在 と参加率の高さである。参加人数について言 えば,30万人にものぼったとされる福岡県一 揆を筆頭に,北条・鳥取・名東各県の一揆に ついても,それぞれ数万人規模の参加者があ ったことが確認されている。参加率について は,茂木陽一氏が,北条県一揆の場合,「全 戸数に比しおよそ六〇∼七〇%」で,「参加 者の階層性」は存在しなかったと述べられて おり(もちろん,被攻撃対象となった区戸長 層は除く),福岡県一揆についても,同様の 指摘をされてい (39) る。 第5に注目されるのは,闘争の激しさであ る。この点は,先に紹介した一揆の被害状況 からよく窺えるが,一揆勢が竹槍を中心とす る武器を使用し(福岡県一揆は「筑前竹槍一 揆」と称される),焼打ちを行なったことに 象徴される。かつて安丸良夫氏は,「明治初 年の一揆は,竹槍を中心とした武器によって 武装し,鎮圧隊とはげしくたたかい,残忍な 殺人もおこなわれたのであるが,それは近世

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よりも闘争が激化したからというだけでなく, 闘争の激化がじつは政治権力そのものとそれ を構成する役人などのすべてを絶対的な敵対 者として措定することをも意味したからであ っ (40) た」と述べられたことがあったが,この指 摘は明治6年(1873)の新政反対一揆につい てもよくあてはまる。 ! 維新政府の対応 こうした一揆の群発は,明治4年(1871) 7月に廃藩置県を断行して以降,開化政策を 推し進めていた維新政府にとって,由々しき 事態であり,当該県との連絡を密にしながら, その鎮圧をはかっていった。廃藩置県直後の 一揆に際して,浜田県から太政官に提出され た「上表」 (41) 文には,「方今天下維新ノ際眼ヲ 洗テ成敗ヲ窺フノ時節,如斯暴民共一層厳重 御処置不被仰付テハ何日カ御政体ノ相立候コ トカ之レ有ンヤ,(中略)此度ノ騒擾竟ニ一 県一州ノ累ニアラス,御処置ノ次第ニヨリ西 陲ノ地皇威ノ立ト不立ニモ関係可致儀ニテ, 最大事件ト相考申候」という注目すべき一文 が見られたが,明治6年(1873)の一揆発生 に際しても,県側は「実ニ未曾有ノ一大凶事」 (北条県),「国家置県以来の一大土寇」(福 岡県)としてこれを捉え,政府の指示を仰ぎ ながら,その鎮圧のために様々な手段を講じ ていった。 先に,明治6年(1873)の新政反対一揆の 特徴として,波及性の強さ,大規模一揆の存 在と参加率の高さ,闘争の激しさといった点 を指摘したが,そのそれぞれについて,維新 政府―県側は対応していった。 第一は,波及性への対処である。これにつ いては,最寄の県相互で連繋を取り合って, 自県内で一揆が発生した際には,その鎮撫の ために隣接県への応援要請を行なうとともに, 隣接県で一揆が発生した際には,県官や捕亡 吏を派遣して県境を固め,一揆の「伝染」を 防禦するとともに,自県内の人心が動揺しな いよう説諭を行なったりしたことが知られる。 なかでも,北条県一揆については,一揆発生 時の隣接県の動きがよく窺える史料が多く残 っているが,長文にわたるので引用は省略し た (42) い。 第二は,大規模性への対処であり,一揆の 首謀者などを斬罪以下の刑に処すとともに, 明治5年(1872)8月3日付の太政官布告(「兇 徒聚衆ノ律内附和随行ノ者ハ論スル勿レト有 之候処,自今改テ違令ノ軽重ニ照シ贖罪可申 付事」)にもとづいて,「附和随行ノ者」に対 する大量処分(贖罪金の賦課)を行なってい る(贖罪金を課された者は,北条県一揆の場 合には2万6000人ほど,福岡県一揆の場合に は6万4000人ほどにものぼってい (43) る)。これ に関わって,大蔵大丞林友幸が,「毫釐モ今 般ノ一挙ヘ携リ候者共ハ,一モ漏ナク捜索・ 処刑,朝威ノ赫々タルヲ覚知セシメ,未開ノ 人民ヲシテ眠ヲ覚セ度,専ラ渇望罷在 (44) 候」と 述べていることも注目される。 第三は,闘争性への対処である。北条県一 揆の場合には,その鎮撫に際して,「説諭ノ 道も絶,切迫之場合,兎にかくも兵威に無之 ては鎮静相成間敷」としており,説諭のうえ なお退散しない場合には,「断然可打払」と いう姿勢で臨んでいたことがわか (45) る。事実, この一揆は大阪の鎮台兵の力を恃んで,また 名東県・福岡県の一揆もそれぞれ高松(大阪 分営)・熊本(含日田分営)の鎮台兵の力を 借りて,武力鎮圧されたのであ (46) る。 以上の点に加えて,明治6年(1873)一揆 への維新政府側の対応に関して,それまでに は見られなかった点として特に注目されるの は,通信手段として電信が活用されるように

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なったことである。周知のように,維新政府 は,軍事・警察的ニーズを優先する形で電信 網の整備に力を注いでいった。全国の主要都 市を結ぶ電信のネットワークが形成されるよ うになったのは,明治10年代半ばのことだが, それに先立って,明治6年(1873)4月には 東京から長崎までの幹線電信路が完成してい (47) る。それはまさに,西日本で新政反対一揆が 群発した時期にあたっており,一揆への対応 過程で電信がはじめて活用されるようになっ たのである。 今のところ,これを確認できるのは,北条 県と福岡県の一揆のケースに限られる。前者 の場合には,電信局のあった隣県の岡山県か ら「ホウジョウケン,ヂンミン,ドウヨウノ ギ」についてその動静を電報で政府に何度か 報じてい (48) ることや,同県から打電のあった翌 日(6月3日)に,政府が「其県管下人民暴 動ノ趣,岡山県ヨリ電報有之,就テハ速ニ鎮 定候様可取計候,尤此度ニ限リ,鎮圧中之処 分ハ臨機即決被差許候事,但魁首并連累之者 共捕縛ノ上,処断之儀ハ鎮定ニ至リ候ヘハ可 伺出事」と北条県に令していることが知られ (49) る程度であるが,後者の場合には,その鎮圧 に至る過程で電信が大きな効力を発揮したこ とが判明する。以下,当一揆の鎮圧に向けて の電信を活用した動きについて,時系列に沿 って整理しておこ (50) う。 〔6月19日〕 小倉県から「フクヲカケンカ」 の「ドミン」が「ホウキ」したとの電 報が政府に入る(これに先立って,福 岡県から,県下で一揆が発生したとい う電報が入ったと想定される。しかし, 福岡県では,その後一揆勢によって電 信線が切断され,電信柱181本も倒さ れて,電信が不通となっ (51) たため,隣県 である小倉県の電信局が政府への連絡 の拠点となったと考えられる)。 〔6月20日〕 政府は,福岡県に対して一揆 を速やかに鎮定するように命じ,「鎮 圧中之処分ハ臨機即決被差許候事」と 令するとともに,佐賀県など隣接三県 に対して,福岡県からの支援要請等が あれば差し支えなくこれに応じるよう に指示する。また,司法省と陸軍省に も通達し,後者に対しては,福岡県か らの要請があり次第出兵できるよう, (熊本の)鎮台へ即刻連絡しておくよ うに命じる。 〔6月24日〕 小倉県から「フクヲカ,ケン カ,ホウトウ,マスマス,ハナハタシ ク」で始まる,一揆の状況について報 じた電報を受けた政府は,即刻鎮台兵 の出兵を決断し,陸軍省に「急速最寄 鎮台ヨリ出兵鎮圧可致」と命じる。こ れに受けて,陸軍省は,(熊本鎮台に 対して)出兵を促す。 〔6月25日〕 「チンタイヘイ,イマタ,イデ サルヨシ」との小倉県からの電報を受 けて,政府は陸軍省に対して「鎮台出 兵」についての念押しを行なう。 以上のような経過を経て,熊本の鎮台兵が 出動するに至り,福岡県下の一揆は,25日に は鎮圧されることになったのである。この一 揆は,参加人数が約30万人にものぼったとさ れる大規模な一揆でありながら,発生から1 週間ほどで鎮圧されるに至っており,終息ま で に2か 月 も の 時 間 を 要 し た 明 治4年 (1871)の広島県一揆(武一騒動と呼ばれ,10 万人近い参加者があったとされる)のケース とは対照的である。電信という文明の利器の 活用の有無も,これに大きく関わっていたと

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考えられるのである。 1990年代に入って以降,近代の情報や通信 に関する研究が進むようになり,西南戦争を はじめとする士族反乱の鎮圧に際して電信が 活用され,大きな威力を発揮したという点に も光があてられるようになっ (52) た。従来,その 最初のケースとして,明治7年(1874)2月 の佐賀の乱が注目されてきたが,その前年に 起きた新政反対一揆(就中福岡県一揆)への 対応過程において電信がすでに活用され,そ の威力の大きさが強く認識されるようになっ ていた,という事実を見落としてはならない だろう。 お わ り に 以上,本稿(後半部)では,徴兵問題を主 な引き金として,西日本のうち中国・四国・ 九州地方で多発した新政反対一揆を分析対象 とし,その発生・展開過程の特質を明らかに するとともに,維新政府の対応のあり方につ いても論じた。当該一揆の代表格とも言える 北条県一揆や福岡県一揆など,被差別部落の 襲撃を伴う一揆については,「解放令反対一 揆」としてこれを把握し,その背景や特質を 探ろうとする研究も存在するが,こうした特 定の問題のみを抽出して当時の一揆や民衆に ついての評価を行おうとすることには問題が あり,新政反対一揆の全体像を明らかにした うえで,その評価を下すべきであるという点 についても指摘した(前半部)。 維新政府が推進した開化政策は,本稿でみ たような民衆の暴力的抵抗=新政反対一揆を 惹き起したが,全国的に見れば,開化政策が 比較的スムーズにランディングしていった地 域も少なくなかっ (53) た。「御一新」とその後の 開化政策に対する人々のスタンスも一様では なく,新政に反発しこれを拒否しようとした 人々が存在した一方,新政の展開を見据えな がら,これに呼応して積極的な活動を展開し, 地域社会の発展と「国益」の増進のために尽 そうとした人 (54) 々も少なからず存在した。前者 の人々に関しては,本稿のように新政反対一 揆の研究という形で研究が進められてきたが, 日本の近代化のあり方を探るうえで,後者の 人々に関してもさらに光をあてて研究を進め ていく必要があるだろう。 (1) 代表的な研究成果に,好並隆司編『明治初年 解放令反対一揆の研究』(明石書店,1987年),石 瀧豊美・上杉聡『筑前竹槍一揆論』(海鳥社,1988 年),上杉聡『明治維新と賤民廃止令』(解放出版 社,1990年),同『部落を襲った一揆』(解放出版 社,1993年),石瀧豊美『筑前竹槍一揆の研究』(イ シタキ人権研究所,2004年),などがある。なお, 上杉氏は,「解放令反対一揆」ではなく,「部落解 放反対騒擾」という呼称を用いるのがふさわしい と主張されている。 (2)『法令全書』第4巻(原書房,1974年復刻版), 337頁。 (3) 上杉前掲註(1)『明治維新と賤民廃止令』 第3章・第4章など参照。 (4) 詳しくは,上杉前掲註(1)『部落を襲った 一揆』305∼307頁所掲「明治初年部落解放反対騒 擾年表」を参照されたい。 (5) 当地方の被差別部落民にとっても,賤民廃止 令が大きな力となったことは事実で,一村独立運 動などの展開は見られた。 (6) 上杉前掲註(1)『部落を襲った一揆』,120 ∼124頁参照。傾聴に値する指摘ではあるが,当 時の主要な一揆は新政全体に反対する形で起きて おり,部落問題に限定したこの説明だけでは,な お不十分である。 (7)「擬律決議案」(『近代部落史資料集成』第2

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巻〔三一書房,1985年〕所収,319頁)。 (8)「公文録諸県之部」(独立行政法人「国立公文 書館」所蔵)に収載。 (9)「備前国津高郡田地子村百姓東常五郎口書」 (註(7)と同史料集所収,394頁)。 (10)「北条県臨時裁判所調」(註(7)と同史料集 所収,495頁)。 (11) これに関わって,明治5年(1872)から翌年 にかけて,賤民廃止令発令以降の「新平民」の行 動を,「尊大」「たかふりおこれる」ものとして問 題視し,これを戒める内容の布告を行なった県が 存在したことにも留意しておきたい。今のところ, 高松・石鉄・広島各県のケースが知られている (註(7)と同史料集,516・521・534頁)。また, 「御百姓」意識について,今西一氏は,「近世史 では,蜂起した農民の『御百姓』意識などが高く 評価される。確かに『御百姓』意識が幕府や藩に 向けられた時,『仁政』を要求する抵抗の原理に なるかもしれないが,この意識がひとたび自分た ちより下層の人々や被差別民に向けられた時,鼻 持ちならない特権=差別意識に転化するというこ とも忘れてはならない」と述べられている(『近 代日本の差別と村落』〔雄山閣,1993年〕,184∼ 185頁)。 (12) 註(7)と同史料集所収,454∼455頁。 (13) 上杉前掲註(1)『部落を襲った一揆』,299頁。 (14) 詳しくは,前掲註(1)の各著書を参照。 (15) 上杉前掲註(1)『部落を襲った一揆』,303頁。 (16) この点に関わって,今西一氏は,好並隆司編 『明治初年解放令反対一揆の研究』の書評のなか で,「私もかつて使ってきたが,1871年以降の新 政に反対した一揆の内,とりわけ『解放令』に反 対した一揆を『解放令反対一揆』と総称すること には疑問を感じる。この呼称では,新政反対一揆 の持っていた明治政府との対決という積極性が否 定され,『解放令』に反対したという側面のみが 強調されて,一揆の全否定論になりかねない。ま た,一揆に参加した農民と被差別民との対立だけ が不当に強調される」と,すでに述べられていた (前掲註(11)書,203頁)。 (17)「北条県臨時裁判所調」(註(7)と同史料集 所収,413頁)。 (18) 茂木陽一「明治六年北条県血税一揆の歴史的 意義」(『日本史研究』238号,1982年)22頁掲載 の表参照。 (19) 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(青木 書店,1974年),273頁。 (20)「部落解放反対騒擾」の研究を推進されてき た上杉氏も,新政反対一揆との関係についてはさ すがに意識されており,前者は後者の一部で,後 者のうち部落問題を含むものである,前者の分析 は後者全体の分析のなかに位置づけられることに よって,はじめて正確なものとなる,と述べられ ている(前掲註(1)『明治維新と賤民廃止令』, 334∼335頁)。 (21) 青木虹二『明治農民騒擾の年次的研究』(新 生社,1967年)に掲載(明治6年分は39∼43頁)。 (22)「北条県届」(註(7)と同史料集所収,440頁)。 (23)「伯耆国会見郡土民沸騰之儀及平定候ニ付申 上置候書付」(『鳥取県史』近代第5巻資料編〔鳥 取県,1967年〕所収,223頁)。 (24)『明治ニュース事典』第1巻(毎日コミュニ ケーションズ,1983年),651∼652頁。 (25) 詳しくは,谷山正道『近世民衆運動の展開』 (!科書店,1994年)430∼435頁を参照されたい。 (26) 廣吉壽彦・谷山正道編『大和国!瀬道常年代 記』上巻(清文堂出版,1999年),61頁。 (27) これに関しては,民話の世界(「民俗の知」) との関連性に着目した佐竹昭広(『酒呑童子異聞』 〔平凡社,1977年〕)や川村邦光(『幻視する近代 空間』〔青弓社,1990年〕らの仕事がある。 (28) この点については,すでに上杉氏の指摘があ る(前掲註(1)『明治維新と賤民廃止令』368∼ 370頁)。

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(29)「別紙指令」(註(7)と同史料集所収,471頁)。 (30) 石瀧・上杉前掲註(1)『筑前竹槍一揆論』, 59∼67頁など参照。 (31) 茂木陽一「大小区制期の民衆闘争」(『日本史 研究』333号,1990年)73頁掲載の表参照。 (32) 後藤靖「士族反乱と民衆騒擾」(新版『岩波 講座日本歴史』14〈近代!〉〔岩波書店,1975年〕 所収),283∼284頁。 (33) 茂木前掲註(18)論文22頁掲載の表参照。 (34)「明治六年届」(土屋喬雄・小野道雄編『明治 初年農民騒擾録』〔南北書院,1931年〕所収,476 ∼477頁)。 (35)「福岡県土寇暴動之終末探索日記」(註(7) と同史料集所収,577∼578頁)。 (36)「福岡県届」(註(7)と同史料集所収,584 ∼585頁)による。 (37)「大蔵大丞林友幸伺」(註(7)と同史料集所 収,607頁)。 (38)「太政官大蔵省へ届」(註(7)と同史料集所 収,510頁)。 (39) 茂木前掲註(31)論文72∼74頁,同「新政反 対一揆の構造」(『近代日本の社会史的分析』〔部 落問題研究所,1989年〕所収)136∼146頁を参照。 (40) 安丸前掲註(19)書,281頁。 (41)「公文録諸県之部」(独立行政法人「国立公文 書館」所蔵)に収載。 (42) 長光徳和編『備前備中美作百姓一揆史料』第 5巻(国書刊行会,1978年),2016∼2020,2045,2050 ∼2052頁参照。 (43) 茂木前掲註(18)論文17頁掲載の表,石瀧・ 上杉前掲註(1)『筑前竹槍一揆論』125頁掲載の 表参照。 (44)「林大蔵大丞上申」(註(7)と同史料集所収, 581頁)。 (45) 註(42)と同史料集,1979頁など。5月29日に は,(一揆鎮圧のために召集された)「旧津山県貫 属士族一同」の名で,「此上説諭不聞入節ハ,不 得止兵器相用不苦旨伺済ニ付,偏に朝廷之御為力 ヲ戮セ,打払候覚悟ニ有之候」と記された掲示が, 県内各地に出されるに至っている(2135∼2136頁)。 (46) 福岡県の一揆に際しては,その鎮圧のために 軍艦(「日新艦」)まで派遣されようとしていた(註 (7)と同史料集,573∼574頁)。 (47)『逓信事業史』第3巻(逓信協会,1940年), 104頁。 (48) 註(7)と同資料集,457頁。 (49) 註(42)と同史料集,1984,2014,2019∼2020 頁。なお,2019頁には,姫路県からの電報も掲載 されている。 (50) 註(7)と 同 史 料 集,562∼563,568∼569頁。 (51) 小倉県から政府への報告書には,「電信御取 設ニ付旱魃ニ相成候段相唱へ,黒崎近傍ハ線取除, 福岡近傍ニ至リ候而ハ,杭ヲ根引ニ致し,又ハ切 倒シ有之由」という記述が見られる(註(7)と 同史料集,569頁)。 (52) 石井寛治『情報・通信の社会史』(有斐閣,1994 年),田中信義編『電報に見る佐賀の乱・神風連 の乱・秋月の乱』(熊本印刷紙工,1996年),松田 裕之『明治電信電話ものがたり』(日本経済評論 社,2001年),など。 (53) 高久嶺之介『近代日本の地域社会と名望家』 (柏書房,1997年),22∼23頁参照。第1章では, 滋賀県をフィールドに,「地域での文明開化の先 導役」としての役割を担った区戸長層に光をあて, その活動を追いながら,開化諸政策が地域にラン ディングしていく過程をあとづけられている。 (54) その一例として,大和の老農中村直三の活動 に焦点をあてた小稿「『御一新』と地域リーダー」 (平川新・谷山正道編『地域社会とリーダーた ち』〔吉川弘文館,2006年〕)を発表しているので, 併せて参照いただきたい。

参照

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