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Microsoft Word - 자료집_한일공동학술대회

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(1)

韓日共同學術大會

심포지엄

16

會 韓日歷史共同硏究

韓國

日本

歷史認識

日時 2013

年 月

8

19 ~22

場所 翰林大學校 國際會議室

主催 韓日歷史共同硏究會 ․ 翰林大學校 日本學硏究所

後援 國史編纂委員會 ․ 翰林大學校

(2)

한일공동 학술대회

16

회 한일역사공동연구 심포지엄

주제 한국과 일본의 역사인식: 일시: 2013. 8.19( ) ~ 8.월 22( )목 장소 한림대학교 국제회의실: 주최 한일역사공동연구회 한림대학교 일본학연구소: , 후원 국사편찬위원회 한림대학교: , 월 일 월 8 19 ( ) 09:30 집합 11:00~12:00 남이섬 남이장군묘 답사「 」 12:00~13:00 중식 13:00~14:00 메타세퀘이아 산책 15:00~16:50 「신숭겸 묘역」 「, 춘천대첩기념 평화공원」, 춘천시내 산책 17:00 한림대학교 기숙사 도착 신기숙사( ) 17:00~17:40 체크인 및 휴식 18:00~20:00 리셉션 월 일 화 제 회 한일역사공동연구 심포지엄 8 20 ( ) 16 [한림대학교 국제회의실] 08:00~09:00 조식 09:10~11:30 학술발표 및 토론Ⅰ···사회 元智姸 전남대학교 국제학부 교수( ) 09:10~09:40 ( 1제 발표)··· ··· 「“大名評判記”에서 보는 近世日本의 大名像 東- 아시아近世 論을 둘러싸고-」 09:40~10:10 ( 2제 발표)···金興秀(공군사관학교 교수) 임오군란 시기 일본의 조선정책과 여론 「 」 10:10~10:20 휴식 10:20~10:55 제 발표 토론1 ···張寅性 서울대학교 정치외교학부 교수( ) 10:55~11:30 제 발표 토론2 ···木村直也 11:30~12:30 중식

(3)

12:40~16:15 학술발표 및 토론 사회 池 享  12:40~13:10 조선총독부 시국대책조사회(1938 )년 회의로 보는 「 ‘내선일체(內鮮一體)’문제 제 분과회를 중심으로 - 1 -」 13:10~13:40 ( 4제 발표)···徐禎完 한림대학교 일본학연구소장( ) 와 -이야기되지 않는 의 -「近代 能樂史 植民地 能樂史 戰時期 能樂史 」 13:40~14:10 ( 5제 발표)···杉岳志 목록으로 보는 동경고등상업학교 장서의 특징 「 」 14:10~14:30 휴식 14:30~15:05 제 발표 토론3 ···朴羊信 한림대학교 일본학연구소 연구교수( ) 15:05~15:40 제 발표 토론4 ···山口公一 15:40~16:15 제 발표 토론5 ···金容德 광주과학기술원 석좌교수( ) 16:15~16:30 휴식 16:30~17:40 전체 질의 및 자유토론 17:40~18:00 6·25전쟁 관련 동영상 해설 및 답사지역 개관 18:30~20:30 만찬 월 일 수 8 21 ( ) 08:00~09:00 조식 09:00~12:00 종합토론···사회 노태돈 서울대학교 국사학과 교수( ) 12:00~13:00 중식 13:00~18:00 史蹟踏査 고성 화진포 김일성별장 이승만별장「 · 」, 양양「38선휴게소」, 강릉 선교장「 」 「·허균 허난설헌 기념공원· 」 「, 참소리축음기박물관 에디슨박물관 등· 」 18:00~20:00 만찬 월 일 목 8 22 ( ) 08:00~09:00 조식 09:00~10:00 내년도 학술대회 일정 협의 10:00~11:00 「한림대학교 일본학연구소」 「, 오에 시노부 문고 방문」 11:00 귀로

(4)

2013 8 19 22 、 、 8月 19 ( )日 月 09:30 、 11:00~12:00 12:00~13:00 13:00~14:00 15:00~16:50 、 、 17:00 17:00~17:40 、 18:00~20:00 20:00 8月 20 ( )日 火 [ ] 08:00~09:00 09:10~11:30 ··· 09:10~09:40 ··· ··· 09:40~10:10 ··· 10:10~10:20 10:20~10:55 ··· 、 10:55~11:30 ··· 、 11:30~12:30

(5)

12:40~16:15 12:40~13:10 13:10~13:40 ··· 13:40~14:10 ··· 14:10~14:30 14:30~15:05 ··· 、 15:05~15:40 ··· 、 15:40~16:15 ··· 、 16:15~16:30 16:30~17:40 17:40~18:00 ・ 、 18:30~20:30 8月 21 ( )日 水 08:00~09:00 09:00~12:00 ··· 12:00~13:00 13:00~18:00 18:00~20:00 8月 22 ( )日 木 08:00~09:00 09:00~10:00 10:00~11:00 、 11:00

(6)

(Kasuya Kenichi) 、

(Ike Susumu) 、

(Mori Takemaro) 、

﨑 (Tasaki Nobuyoshi) 、 (Kimijima Kazuhiko) 、

(Lee Sung Si) 、

(Kimura Hajime) 、 (Kimura Naoya) 、 (Wakao Masaki) 、 、 (Yamauchi Tamihiro) 、 (Hayashi Yuusuke) 、 (Kwon Yongseok) 、 (Ishii Hitonari) 、 (Yamaguchi koichi) 、 (Mitsui Takashi) 、 (Sato Hiroyuki) 、 (Koseki Yuichiro) 、 (TakayanagiTomohiko) 、 (Sugi Takeshi) 、 (KasuyaTakako) ・ (Kato Keiki) 、 (AkiokaAya) 、

(Lee Sun Jung) 、

(Son Hyojin) 、

(7)

(Noh Tae Don) 、 、

(Kim Yong Deok) 、

(Yi Tae Jin) 、

(Lee Hyun Hye) 、

(Jang In Sung) 、

(Doh Jin Soon) 、 (Kim Heung Soo) 、

(Won Ji Yeon) 、

(PARK Hwanbo) 、

(XU Shoutong) 、

(SUH Johng Wan) 、 、

(Park Yang Shin) 、

(Nam Ki Hak) 、 、

(ROH Sung Ho) 、

(Hong Mun Ki) 、

(8)

目次

제 보고1 ❙ ···3 “大名評判記”에서 보는 近世日本의 大名像 아시아 을 둘러싸고 -「東 近世」論 -제 보고2 ❙ ···43 임오군란 시기 일본의 조선정책과 여론 제 보고3 ❙ ···81 조선총독부 시국대책조사회(1938 )년 회의로 보는 ‘내선일체(內鮮一體)’문제 제 분과회를 중심으로- 1 -제 보고4 ❙ ···129 근대 能樂史와 식민지 能樂史 이야기되지 않는 의 - 戰時期 能樂史 -제 보고5 ❙ ···143 목록으로 보는 동경고등상업학교 장서의 특징

(9)

目次

1

第 報告

❙ ···3

2

第 報告

❙ ···43

3

第 報告

❙ ···81

4

第 報告

❙ ···129

5

第 報告

❙ ···143

(10)
(11)

第 1 報告

“大名評判記”にみる近世日本の大名像

―「東アジア近世」論をめぐって―

鹿児島大学教育学部・准教授 佐藤宏之

千葉大学教育学部・准教授 小関悠一郎

(12)
(13)

“大名評判記”にみる近世日本の大名像 3

“大名評判記”にみる近世日本の大名像

―「東アジア近世」論をめぐって―

鹿児島大学教育学部・准教授 佐藤宏之 千葉大学教育学部・准教授 小関悠一郎

はじめに

本報告は、17 世紀における日本の「近世化」過程から、東アジア世界の中での江戸時代の政 治文化の特徴を考えるものである。 東アジア世界の「近世化」について 「近世」という時代は、急激な商品経済の活発化と社会の流動化という状況(16C)の中から、 新しい国家の枠組みと秩序が形成され定着する(17~18C)時代だったとされる(「近世化」)。地 域によって独自・多様な「近世化」が展開する一方で、上記のような社会変動のリズム自体は、 東アジアをはじめとする各地域に共通するというわけである(岸本 1998a・b、2006)。 こうした岸本の提起とも相俟って、近年、日本の歴史学界では「東アジア近世(化)」論が隆盛 しつつある。ここでいう「東アジア近世」論とは、「西欧由来の概念や一国史的な枠組みを自明 の前提とせずに、東アジア世界の経験を踏まえた世界史像・歴史叙述を立ち上げる試み」であ る(清水 2013)。かくて、小農社会と朱子学理念などについての比較史的観点、上記の「共通の リズム」などの時代区分論、「儒教核政治文化」など、「近世」に形成された秩序の文法、平和理 念の定着度や東アジア諸地域間の猜疑など現代的問題意識、これらの諸点をめぐって、多くの 論者が議論に参加しつつあるのである。 こうしたなかで、「近世」東アジア世界での日本の異質性を強調するのが宮嶋博史である(宮 嶋 2006)。当該期の東アジア各地域は小農社会の形成という共通項を持ちながらも、「朱子学 的国家支配体制」が実現した中国・朝鮮に対して、日本では「武威」に基づく支配体制が出現 したことをもって、「近世」日本の異質性・「同時代性の欠如」(さらには現代に至る平和理念の 不定着)を指摘したのである。宮嶋が「同時代性の欠如」の要因として強調するのが、日本では

(14)

4 한일공동학술대회 2013 「近世化」が武士によって、、、、、、推進されたという事実である*1 こうした宮嶋の議論に対して、東アジア諸地域における政治文化の共通項の存在を強調する のが日本近世史研究者の深谷克己である。深谷は、地球上には、神話・聖人・聖典(超越観念 ・正邪観念・正統性観念)という三要件を備え、周辺王朝の上位に置かれる中核的王朝が存在 した「古典古代」を始原として、共通の物語を共有・共感できるいくつかの広地域―法文明圏が 存在し、「東アジア的な政治文化」(「儒教核政治文化」)*2を共有する「東アジア法文明圏」 (「天」・「堯舜」「桀紂」・「四書五経」などの要件を備え、唐虞三代の中華王朝が古典古代の中 核をなした)もその一つであるという。深谷によれば、近世化の過程における日本は「儒教核政 治文化」を吸収・理解・普及する方向に「急進」する(「東アジア化」)とされ、宮嶋と同じく「脱アジ ア的日本史理解」*3の克服を目指しながらも、東アジア諸地域の同質性・異質性に関して宮嶋 の議論と対照的な日本近世史像を描き出すのである。

研究の課題

このように、「東アジア近世」をめぐっては、いくつかの重要な議論が提出されているが、本報 告では、大名・藩について個別実証的に研究を進める立場から、江戸時代の政治文化とその 変容を動的に描き出すことを意識して、「東アジア近世」論にアプローチしたい。すなわち、本 報告の課題は、日本で形成された「近世」的支配体制の内実を、武士が「武威」によって推進し たもの、と一般的に論じるのではなく、また、「東アジア化」への「急進」ということを前提とはせず に、17 世紀半ばの大名を中心とする諸階層の営為が、どのような形で「近世」的支配体制・秩 序の形成を促し、それにいかなる内実を与えたのか、という点を解明することにある。ただし、本 報告では、支配体制そのものではなく、体制のあり方を象徴するものとして、江戸時代の治者像 *1こうした宮嶋の議論に対しては、そもそも清朝は辺境出身の軍事政権であるという 指摘(岸本 2011)、 長く行われてきた朱子学適合不適合論争 への回帰につながることへの 危惧(若尾 2011)、さらに、中 国的国家・社会体制への接近度を評価基準とする議論への根本的批判(岸本 2011・山田 2011)や下か らの平和化を主張する見解(稲葉 2009・2010)が提出されている。これらの批判は、「東アジア近世」 論を深めるにあたって 、重要な論点を提示している。 *2深谷が指摘する「東アジア的な政治文化」(「儒教核政治文化 」)の諸要素は、以下の項目である。 ①漢字と地域文字を混淆併用した意思伝達、②仏教・儒教・道教の普遍的土俗的超越観念 (諸天・諸 仏・諸神)、③老荘を借りた心法尊重、④五常・慈愛・功過の倫理論、⑤仁政徳治の政道論(「君主 制的民本主義」)、⑥太平・無事の平和論、⑦国家と向き合う「百姓」という「公民」身分の設定、 ⑧均田・平均の平等主義的百姓安民論 、⑨富貴余慶の至福論、⑩士農工商の良民と峻別された賤民身 分の設定、⑪華夷・事大の身分制的国際関係論 。(深谷 2012) *3深谷は、従来の日本史研究 の多くが、東アジアにおける 日本の先進性・西洋との近似性を前提とし ていたとして、このような用語を用いる。

(15)

“大名評判記”にみる近世日本の大名像 5 (大名像)と治者(大名)の行状の実態について考察することに力点を置く。特に、「東アジア的 な政治文化」(「儒教核政治文化」)と密接に関わる「文武」というキーワードに着目し、17 世紀半 ばの幕藩体制の確立期―「近世化」過程に置かれた大名(武士)層にとって「文武」とはいかな るものだったのかを解明してみたい。 なお、ここで治者像、のみならず、治者の行状の実態にも留意するのは、「東アジア近世」論が 「空中戦」の様相を呈している、と指摘されていることと関連する。すなわち、「東アジア近世」論 を今後さらに活性化させていくためには、これまでに提出されている大枠での議論と個別の実 証研究とを十分にかみ合わせ、相互に問題を提起していくことが肝要だと考えるためである。 以上を踏まえ、本報告では、17 世紀半ばにおける治者像(大名像)と治者(大名)の行状の実 態を、総体的・実証的に考察するために有力な手がかりを提供する史料として、全国の大名を 網羅的に取り上げて論評した「大名評判記」と呼ばれる史料、なかでも最も成立時期の早い『武 家諫忍記』なる書物を取り上げる。

1.『武家諫忍記』(聖藩本)について ―大名評判記とはなにか

近世史研究において早くから注目されてきた大名評判記が『土芥寇讎記』である。これは、元禄 3 年(1690)段階の全国の大名 243 名について、それぞれの家系・家族、略歴、居城(陣屋)、領 内の様子、支配の状況、主な家老、及び大名の人柄・行跡・評判などを列挙し、論評を加えた 書物である(全 43 巻、東京大学史料編纂所所蔵)。各大名の領内支配の様子が詳細に描き出 されていることから注目され、1976 年には金井圓によって翻刻されている(金井 1976)。こうして 『土芥寇讎記』は、多くの研究者によって貴重な史料として用いられてきたのだが、肝心の成立 事情(作者は誰か、関連する史料の有無など)については十分な注意が向けられず、ほとんど の場合、金井氏の説に依拠して幕府の隠密が作成したものとして扱われてきた。 ところが、この『土芥寇讎記』と同様の記述形式を持つ(『土芥寇讎記』編者も参照した)書物 が複数にわたり存在することが最近明らかになった。他ならぬ日韓相互認識研究会で行った大 韓民国国史編纂委員会での対馬宗家文書調査(2009 年 3 月)において、佐藤宏之が『武家和 諫』の存在をつきとめたことをはじめ*4、17C 半ばから 18C 半ばにかけて『土芥寇讎記』と同様の *4「本篇」所収(『対馬宗家文書 記録類目録集』日本語版、2003 年)。「本篇」末尾には、「右之 両書ハ先年於大坂那須心庵 と云医師、大衍院様ニ被指上書物也、書中義政と有ハ、義成ノ誤、義忠ト アルハ義智之訛、義興トアルハ義真ノ訛、重興トアルハ調興ノ訛なり、此二書、勿体大□曰く、武家 諫忍記なとゝ同書なり」(『武家勧懲記』・『武家和諫』は、先年、大坂で那須心庵という医師が、 宗義方様に差し上げた書物である。この書物の中に、「義政」とあるのは「義成」の、「義忠」は「義 智」の、「義興」は「義真」の、「重興」は「調興」の誤りである。この二書は、概ね『武家諫忍記』 と同様の書物である)とある。なお、「本篇」の編者は、平山次郎右衛門(1762~1816)で、名は棐、

(16)

6 한일공동학술대회 2013 書物が何種類も作られ、それぞれいくつもの写本が作成されたことが、明らかになったのである (表1参照)。本報告では、これら一連の書物を「大名評判記」と呼ぶこととする。 これらの大名評判記のうち、最も早く成立したと考えられるのが、『ぶけかんにんき武 家 諫 忍 記』であり、そ の成立年代は 1660 年前後と推定される(若尾 2006)。その構成(内容)は、目録・序・国法(「日 本国中、高付・方角・山海河・田畠生物之品々善悪・城付」)・教法(「主将嗜之事」・「臣下嗜之 事」・「四民共嗜之事」)・本巻(大名の名称等・領地と政道の状況・大名の行状・大名行状につ いての論評)となっている。作者が何者であるかは定かでない。同書の序文によれば、浪人(牢 人)経験があり、何らかの形で徳川家と関わりを持つことになった人物であるということになる。し かし、そもそも、「教法」(教訓)の各条文には「案曰…」という形で、本巻にも「愚評義曰…」とい う形で(上記「大名行状についての論評」の部分にあたる)コメントが付されており、これらのコメ ントは別人の手になるものであることはほぼ間違いなさそうである。 このように、『武家諫忍記』はまだまだ謎の多い史料であるが、本報告では、『武家諫忍記』原 本に最も近い内容を持つ写本と想定される*5、加賀国大聖寺藩(石川県)に伝えられた写本(聖 藩本)を用いて、上記の構成のうち、本巻の「大名の行状」の箇所に焦点を合わせ、17 世紀半 ばのあるべき大名像について検討してみたい。

2.『武家諫忍記』における大名評価の観点

それでは『武家諫忍記』の原作者は、大名のあるべき姿をどのようなものと想定しているのだろ うか。このことを解明するために作成したのが、表2である。この表は、『武家諫忍記』の序文執 筆者が、「誉ノ将」(名誉ある武将・大名)として列挙した大名 10 名が、本文(本巻―「大名の行 状」)でどのように評されているかをまとめたものである。この表2を中心に、(やや「空中戦」の様 相を呈するが)当時のあるべき大名像について考察してみよう。 大名の理想的人格 通称次郎左衛門、対馬藩の郡奉行。藩の江戸家老大森功久 が林大学頭乗衡より対馬の地理・歴史編修 の必要を促された際に、旧記を調べ、実地を踏査して『津島紀事』12 巻を完成、幕府に提出した人物 として知られる。 *5なお、以上の簡単な検討のみによっては 本文の各部分間、諸写本間の関係を確定することは不可能 である。目安として、修正を前提にあえて推測をまとめれば次のようである。浪人(牢人)経験があ り、何らかの形で徳川家と関わりを持つことになった 人物が、序と「教法」の条文、本巻の大名の名 称等・領地と政道の状況・大名の行状の部分を執筆した(『武家諫忍記』の原型)。別人が「教法」 の「案」、および本巻の大名行状に関する論評を付加した(聖藩本に近い内容で『武家諫忍記』が成 立)。筆写の過程で大幅な改変が加えられ、この系統の写本が多く出回った(刈谷本等)。

(17)

“大名評判記”にみる近世日本の大名像 7 表2から浮かび上がることの一つは、「誉ノ将」の人柄・人格が極めて重く位置づけられている ことである。特に、(若年の松平犬千代(前田綱利〈綱紀〉)と松浦鎮信を除いて、)「寛々トシテ 威有」のように、「寛々」「寛悠」と「威」という大名の人柄に関わる事項が一組のものとして記述さ れ、そうした人柄が高く評価されている。これは同時に、「不忿」、「不侈」、「不恕」、「不貪」な ど、簡単に怒気を発しないなどの人柄とも表裏である。このような、寛容かつ威風の漲る人柄と いうのは、一見イメージしにくいようにも思える。だが実は、大名がこうした人柄であるか否かは、 戦国時代を生き抜いた大名(少なくともその一部)にあっては、家臣・人民の統制に直結するも のと考えられていたようである。初代福岡藩主黒田孝高(1546~1604)晩年の「黒田如水教諭」 を見てみよう(「黒田如水教諭」小澤 2003)。黒田孝高(如水)によれば、「大将たる人」に「威」が なくては多数の人々を統制していくことはできないが、人々に恐れられるようにと威張り散らすよ うな「威」ではかえって害になるという。この記述と『武家諫忍記』の記述とが、大名のあるべき人 柄をほぼ同様に捉えていることは明らかであろう。大名による家臣・人民の統制には、人々を恐 怖せしめるのみの「威」ではなく、「 寛 々 「寛悠」 」たる人柄でありながらそこから漲る「威」が必要と見な されたのである。『武家諫忍記』の記述は、このような(戦国期以来の)事情の一端を反映したも のと見ることができるのではないか。 こうした家臣・人民の統制とも関わる*6の大名の人格が、「憐愍」「アワレミ」などである。憐れみ 深い人柄を示す記述は、松浦・石川以外の全ての「誉ノ将」に見られるもので、これが重要な評 価点であったことが窺われる。ここで注目したいのは、大名の人民に対する「憐愍」の情が、単 なる心情という次元にとどまらず、具体的な政策としての「仁政」につながっており、「仁政」によ り人民が「豊」になると捉えられていることである。ここで想起されるのは、江戸時代には、「御救」 (将軍・大名→民の生活保障)と「年貢上納」(民→将軍・大名)が、治者・被治者双方の責務と 観念され、大名らによる(「御救」等の)「仁政」執行が両者の間での歴史的合意(約定)だったと 考えられていることである(深谷 1993)。この知見を踏まえれば、大名人格の理想は、単なる戦 国期からの延長としてばかりではなく、(「御救」等の)日本近世的な理念や具体的政策の実現 を、推し進める方向で描き出されたのだといえよう。 この他に、「誉ノ将」に共通するものとして、「義ヲ守テ礼ヲ正シ」といった評価をあげることがで きる。このような大名の人格によって実現されると考えられたのが、「順」や「正」、「公」(公平)と 評される仕置・政道であるとみられる。仕置の公平さは、家臣の豊/難儀、諸浪人の仕官希望 /不望につながるものと考えられたのであり、ここでも大名人格のあり方は、家臣・人民の生活 に直結するものと考えられている。このように、治者(大名)の人格が政治に及ぼす影響の大きさ *6大名の憐愍・慈悲心とそれに基づく行動は、「下人マテニヨク志ヲナシテ憐有ユヘニ、ヨク法ヲ守」 というように、家臣らの服従を促すものとして捉えられている。大名の人格・行動は、家臣と人民の

(18)

8 한일공동학술대회 2013 を強調する考え方は、近世日本の政治制度の専制的側面を表したものと捉えることもでき、東 アジア諸地域に共通する政治の専制性の近世日本的表現と見ることもできよう。 なお、『武家諫忍記』では、こうした「誉ノ将」とは対照的な評価をうける大名も数多く見られる。 特に、血気盛んなばかりで思慮が足りず、すぐに怒気を発したり、驕奢な振る舞いをしたりすると 評される大名(約 20 名)は、基本的に「悪将」と見なされる。なかには、「美女」・「美小人」を愛す (76 名)、朝晩にわたり大酒を好む(9 名)、猿楽や乱舞を好く(11 名)等と評される大名もいるの である。『武家諫忍記』においては、こうした日常での嗜好まで含めた「悪将」像が造形されてい ることにも注意しなければならない。 以上をまとめておけば次のようになろう。「寛々トシテ威有」という為人・人柄、「義ヲ守テ礼ヲ正 シ」という行動態度、「家臣并民ヲアワレミ」という下の者に対する心的態度(仁心・慈悲心など) とそれに基づく政治行動(仁政・公平な仕置)。『武家諫忍記』では、これらを身につけ体現した 者が、理想的な大名であると観念されたのである。

3.「文武」と「誉」 ―大名(武士)の理想像

大名の人格と「文武」 では、このような大名の理想的人格と「文武」とは、どのように関わるものと考えられているのだ ろうか。 こうした観点から表2を見たときに注目されるのが、「文武ヲ学」などとされる大名が 10 名中 8 名にのぼることである。大名の理想的人格形成に資するものとして、「武」のみならず「文」も想 定されていたようであり、『武家諫忍記』は、さきにみた人格的側面のみならず、基本的には 「文」の道の体得を大名の理想としていたと考えることができる。そこでまず、この「文武」の具体 的な内容がどのようなものであるか、薩摩国鹿児島藩(鹿児島県)の大名島津氏の事例によっ て検討しておこう。 『武家諫忍記』において、「文武ヲ学」ぶ「誉ノ将」として採りあげられる島津光久*7は、寛文 7 年 (1667)7 月に孫の綱貴*8に宛てた「覚」のなかで、学文の重要性、すなわち無学にては国家の 仕置きができないこと、また、武芸の嗜みのために若い武士に弓馬兵法などや犬追物の稽古な どを申し付け披見することを申し渡している。このような文武を強調する記述は島津家の教訓の なかに散見される。 感化・教化につながるものとして 見なされはじめていたと 言える。 *7薩摩藩第 2 代藩主。元和 2~元禄 8 年(1616~95)。貞享 4 年(1687)に隠居し、家督を綱貴に譲る。 *8薩摩藩第 3 代藩主。慶安 3 年~宝永元年(1650~1704)。

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 9 寛永 11 年(1634)11 月、初代藩主家久*9が 4 男 北 郷 ほんごう 久直に宛てた「御教訓条々」では、学文 を専らに心掛け、国家を治めるには学問に過ぎるものはないと述べている。また、伊勢貞昌(筆 頭家老・光久世話役)・川上久国(家老)・島津久元(家老)に宛てた「条々」でも、学文を第一に 心掛け、それによって「修身斉家君臣ノ道ヲ正」し、今後薩摩藩への忠節を尽くすことが求めら れている。さらに、同史料では、余力があるときには歌道を心掛けること、すなわち、「風流ノ心」 がない人は侍ではないとも述べているのである。元禄 15 年(1702)6 月、島津綱貴が島津 久 儔 ひさとし *10に宛てた「教訓之条々」では、国政を行い、士民を大切に育てることは「文武之道」を知らずし てはなりがたい、すなわち文武は車の両輪、鳥の両翼であり不可欠なものと述べられている。続 けて、歴代当主の事蹟が述べられ、 日 新 斎 じつしんさい (島津忠良)*11は、朝夕に四書五経を読み、弓馬 武芸はもちろん軍法を学び、書を嗜み、漢詩文を読み、和歌を詠み、琴を弾く「風流ノ事」を嗜 んだ。義久*12は、近衛関白前久を師範として『古今和歌集』の奥儀を伝えられ、青蓮院尊朝親 王について書道を学び、九州征討の太守を仰せつかったのは文武の徳を兼ね備え、支配下の 武将をうまく指揮した人物、義弘が朝鮮国にて「活躍」したのは文武の徳を有していたこと、家 久が朝鮮国にて「活躍」したのは陣中においても文(和歌・習字)を忘れぬ志を持っていたこと、 さらに、朝鮮国にて「大勝利を収めた」ことは文武の道に身を投じて、勤学した証拠であると述 べているのである(以上『島津家歴代制度』)。 以上から、戦国時代を生き抜いた島津家当主は、「文武」を「武将の器」の要件と見ていたの であり、「文」(風流の心)の中身は和歌・書道・詩・琴など、「武」は軍学・兵学などを内容として いたと言えよう。このような「文武」の重視とその内容は、島津家ばかりでなく、(戦国時代以前 の)他の武家家訓にも見られるものでもある。したがって、島津氏の「文武」観が、中世以来の大 名(武士)の理想像を継承した側面を持つことが知られよう。また、このことは、このような島津氏 を「誉ノ将」と呼ぶ『武家諫忍記』も同様の側面を持つことを示唆するものでもある。 *9天正 4 年~寛永 15 年(1576~1638)。 *10日向国佐土原藩 の第 5 代藩主。寛文 4 年~元禄 6 年(1664~93)。 *11島津氏中興の祖。明応元年~永禄 11 年(1492~1568)。 *12天文 2 年~慶長 16 年(1533~1611)。

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10 한일공동학술대회 2013

4.「文武」体得の実態と理想像の変容

それでは、こうした「文武」の体得という理想は、17 世紀半ばの段階においてどの程度、浸透・ 実現していたのだろうか。『武家諫忍記』における「大名の行状」の項目を全体にわたって検討 してみよう。 『武家諫忍記』には全体で 200 名の大名が記載されているが、このうち「文武両道」を学ぶ人 物であるとされている大名は 68 名で 34%である(「文」ないし「文武」を「少々、、」学ぶとされている 大名 16 名を引くと 52 名=26%)。「文」のみを学ぶとされるのが 7 名で 3.5%(「少々」2 名を引くと 5 名=2.5%)、「武」のみが 40 名で 20%(「少々」3 名を引くと 37 名=18.5%)、無学・記載無しが 85 名で 42.5%である。 これを「文」と「武」にわけて見ると、「文」を学ぶ大名 57 名(28.5%)、「文」を「少々」学ぶ大名 18 名(9%)、合わせて 75 名(37.5%)、「武」を学ぶ大名 91 名(45.5%)、「武」を「少々」学ぶ大名 17 名(8.5%)、合わせて 108 名(54%)である。 『武家諫忍記』の記述が、大名の実態をすべて正確に言い当てているということはあり得ない から*13、これらの数字自体に意味は無い。したがって、この数字はあくまで目安でしかないのだ が、「文武両道」を十分に体得・愛好するとされる大名が約 4 分の 1、「文」の道を十分に体得・ 愛好するとされる大名が 3 割に満たない一方で、「武」については半数近くにのぼることは、や はり目を引く。このことは、第一に、「文武両道」の体得という中世以来の武士の理想を体現して いる者が大名クラスにあっても限定的であったこと、第二に、大名全体の指向性・傾向として 「文」よりも「武」に重きが置かれていたことを示していそうである。 だが問題は、17 世紀半ばにおけるこうした傾向がどのような方向に向かっている数字なのか、 という点である。そこで、上述した「文武」以外の基準(人格の優劣)に注目してみよう。『武家諫 忍記』原作者が人格的に高く評価していると考えられる大名 51 名のうち「文」(武)を学ぶとされ ているのは 35 名で約 69%、同じく低く評価されている 36 名では 7 名(約 19%)である(他の 133 名では 33 名=約 25%)。このように見れば、「文」(「武」)を体得・愛好する大名が、人格的に高く 評価される傾向にあるのは明らかである。したがって、『武家諫忍記』の記述は、「文武」の体得 ・愛好を推進する方向で記されていると見なすことができる。もちろん、こうした方向性は、さきに 見たように、中世以来の武家家訓等にも見られることである。しかし、自家の子孫のみに向けて 書かれる武家家訓に対して、全大名を網羅的に取り上げて論評した所に『武家諫忍記』の特色 があるとすれば、17 世紀の近世化過程にあっては、「文武」の体得・愛好を大名全体にわたって 推し及ぼそうという願望が広がりつつあったとみることができるのではないだろうか*14 *13ただ、後述するように、『武家諫忍記』の記述全てが虚偽や誤認であるとまでは 言えなそうである から、全体にわたる傾向の目安にはなるのではないかと 考える。 *14ただし、逆に言えば、高く評価される大名の約 3 割は「文武」の学が無いと見なされているのであ

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 11 林家と諸大名の交友 もちろん、以上はあくまで推測の域を出るものではない。そもそも、『武家諫忍記』の原作者に しろ他の人物であるにしろ、200 名もの大名個々の行状を把握することは可能だったのか、とい う問題も残されている。これらの問題点の全面的解決は、今後の研究課題としなければならな いが、ここでは「誉ノ将」に関する興味深い事実を紹介して、問題解決に向けた手がかりを提示 しておきたい。 『武家諫忍記』の序文が「誉ノ将」の実名を列挙していたことは既にふれたが、この「誉ノ将」10 名のうち、「文」を十分よく学ぶとされる大名は 7 名である。実は、このうち、少なくとも 5 名は、徳 川幕府の儒者林羅山らと相当程度親密な交友関係にあったことが知られるのである。 林羅山(1583~1657)は、慶長の役(丁酉倭乱)で捕虜となった姜沆に朱子学を学んだ藤原 惺窩の門人で、のちに徳川家康の側近となり、法度・外交文書の起草、公家衆との典故儀礼、 幕府の文事などに関与した朱子学者である。羅山は、幕府その他の援助を得て孔子廟・上野 忍岡の私塾を経営したが、その子孫は代々儒者として幕府に仕え(林家)、18 世紀末には林家 の私塾は幕府の官学へと発展する(昌平坂学問所)。17 世紀半ばの時点では、羅山の他、林 鵞峯(羅山三男)・読耕斎(羅山四男)らが活躍していた。 その彼らが残した詩文集の中に、「誉ノ将」との親密な交友を示す句が複数にわたり含まれて いるのである。例えば、松平式部太輔源忠次は(朝倉 2005~2007)、1640 年から 1669 年にか けて、林羅山・林鵞峯(羅山三男)・読耕斎(羅山四男)と、それぞれ 40 件・104 件・51 件以上に わたる詩歌の応酬をしている(忠次没後の林家文章含む)。また、石川主殿頭源昌勝は、祖父 石川忠総以来、代々林家と交友・親睦していた(「此累世通家也。自祖父忠総与余交睦」『国 史館日録』)。また、加藤内蔵助藤原明友が自筆編集した『東海集』にも林家から贈られた詩文 が多数載録されている(筑波大学所蔵『東海集』)。この他に、水戸中将源光国・松平犬千代菅 原綱利も林家との交友が知られ、また、上記の孔子廟創建は、「文武の学なし」とされる「誉ノ 将」=尾張大納言源義直の援助によるものである。このように、「誉ノ将」の多くが林家と密接な 関係にあったことは、注目に値しよう*15 さらに興味深いことは、林家の儒者たちが「文武」という観点で「誉ノ将」を高く評価していたと り、尾張義直・安藤重貞のように、「文武両道」の体得は「誉」の必須の要件とはされていないこと にも十分注意しなければならない 。 *15なお、林家と交友関係にあった大名全てが「誉」を得たわけではない 。例えば、林鵞峯が長く交際 した(「交際年久。高長者蔵中華書数千部 」『国史館日録』)島原藩藩主=高力左近大夫高長 (『武 家諫忍記』第 11 巻に収録)である。『武家諫忍記』では、林家との交友を反映してか、「文武両道共 ニ甚学リ」と評されるが、人格の評価は「行跡ノ不義無道云計ナシ、且慢心有テ、民ヲ貪ル事甚シ」 と頗るよくない。この高長が農民に重税を課して幕府に上訴され、改易となったことは 、大変興味深 い事実である。

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12 한일공동학술대회 2013 見られることである。例えば、松平式部太輔源忠次が『武家百人一首』(武士が詠んだ和歌を集 めた歌集)を編んだ際に(寛文元 1661 年)、林鳳岡(1644~1732、羅山の孫)は、「武士の家に 生まれながら文雅を忘れない者で、大変結構な志である」と述べているのである(「可謂在武門 而不忘文雅者也。其志可嘉矣」、『武家百人一首』跋文)。このように見れば、『武家諫忍記』が 「文武」を大名評価の一つの基準としたことは、林家儒者の大名に対する視線と通ずるものであ る、と言えよう。 それでは、林家の儒者にとって、大名の「文」とはどのようなものだったのか。この点で注目さ れるのは、林家儒者が上記の松平式部太輔源忠次に贈った漢詩文のほとんどが、忠次の和歌 に対する漢詩での応答だったという事実である。つまり、忠次は漢詩文を自在に使いこなすとい うよりは、むしろ和歌を主要な表現手段としていたのである。すでに見たように、和歌を「文」とし て重視するのは前代以来のことであり、その意味で、林家の「文武」観も中世以来のそれを継承 した部分があると言えよう。しかし一方で、「好作詩文」とされた水戸中将源光国のように、漢詩 文を好んで自らの表現手段としたと評さる大名がいたことも見落とせない点である。なかには、 相当程度儒学を学んだと見られる大名も存在する。例えば、加藤内蔵助藤原明友は、「風流閑 雅の人で、その身は武士の家に生まれながら、大変文学を好み、常に「性理」の義を論じた」 (「風流閑雅之人也。身生武林。篤好文学。常説性理之義」『鳳岡文集』巻九十五)と評されて いる。また、『武家諫忍記』第 10 巻に収録される井上河内守正利は「羅山先生と長く交際し、常 に「理学」を談じた」という(「与先生交際年久。常談理学」『林羅山詩集』目次、林鵞峯らの注 記)。このように、林家と大名の間では、中世以来の「文武」観を継承しつつも、漢詩文、さらに は「性理」の学に踏み込んだ交友が、徐々にではあるが広がりを見せつつあったと言えよう。こ のように見てくれば、大名層の「文」に対する姿勢や、「文武」体得という理想の社会的な共有状 況は、実態的にも徐々に変容し、拡大を遂げていったものと見なければならないだろう。 17 世紀半ばにおける「文武」要請の一要因 ところで、本多越前守藤原利長・京極主膳正源高通の記述―「勇有リ。智有。文学甚好、弁 口諸将ノ内ニモマレナリ」・「文ノ学ナシ、サレトモ才智勇アリ」に示されるように、『武家諫忍記』 において大名が「文武」を体得することは、(「寛々」・「寛悠」や「威」、「憐愍」よりは)「才知発明」 「弁口」(利発さ・弁論の才)に資するものと捉えられているようである。むしろ、松平越後守源光 長の「最生徳ノ将ナリ」に示されるように、「徳」は生まれつきのものであると見なされている。「寛 悠・威」は、「生得」のものとされる場合がほとんどなのである。 「寛悠」「威」や「憐愍」、「徳」などを主内容とする大名の人格が「生得」(生まれつき)のもので あると考えられたならば、なぜ、大名による「文、武」の体得が理想とされたのだろうか。これにつ いて有力な手がかりを提供しているのが、すでに触れた稲葉能登守越智信通に対する論評で

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 13 ある*16。論評著者は、大名行状の記述を「文道に明るくないため、諸浪人が仕官を望まない」と 解釈し浪人たちの態度を高く評価しているのである。こうした例がどの程度あったのかは十分な 検討が必要だが、例えば「誉ノ将」の一人である石川主殿頭源昌勝(既出)に召し抱えられた前 田菊叢(京都出身の儒医)は、諸藩から高禄での招聘を打診されたが、昌勝の「学に志すこと 篤く且つ同藩には他藩に見ることの出来ない珍書を多く所蔵し…垂 延 (涎) 措くに能はざるものが あったので、断然高禄を斥け弐拾人扶持に甘んじて」仕官したといわれる(山田 1971)。また、 時代がやや遡るが、元和八年(1622)に成立した「黒田長政遺言・掟則」には、「文武の道を弁 えて、立身し名をあげようと考えるほどの士は、主君を選別して仕官するものだ」との認識を示し ている(小澤 2003)。以上から、大名に「文武」が求められた理由の一端として、「文武」に通じた 優れた武士の召し抱えをめぐる大名・武士(浪人)間の駆け引き・葛藤が存したのではないか。 大名側から見れば、家臣個々の人格・能力がより大きな意味を持ったと考えられる時代にあっ て、藩政確立のためには、「文武の道を弁えた」有能な家臣の登用が必要であった。仕官を望 む武士・浪人側から見れば、確立途上にある藩政において大名の人格や仕置の指針は、死活 問題であった。特に「文武の道を弁えた」武士にとっては、大名の「文武」への理解は、仕官した 際の立場に影響するものと考えられたのではないだろうか。大きく見れば、『武家諫忍記』原作 者の「誉ノ将」像は、戦乱・社会の流動化(牢人の大量発生)を背景に、そこからの秩序形成に 向かう過程にあった 17 世紀半ばの近世日本において、大名から牢人に至る武士各層が主君 の理想(あるべき大名)像を共有しはじめた*17ことを象徴するものであると言えるのではないか *18

おわりに

「文武」を学んで体得し、寛容でありながら威風が漲る人柄、礼法に則って義に厚い行動態 度、家臣・領民に対する仁心・慈悲心などの心的態度とそれに基づく政治行動(仁政)、17 世 紀半ばの日本では、これらを身につけ体現した者が、理想的な君主(大名)=「誉ノ将」と観念さ れた。ここでの「文武」とは、儒学の古典・漢詩文の教養、和歌―神道の素養、書道の嗜み、弾 琴などを内容とする「文」と、軍学・兵学などの「武」であった。 *16野本禎司「「大名評判記」諸本の関係性に関する一考察」(若尾 2007)も言及している。 *17なお、『武家諫忍記』に先行する書物として『堪忍記』なる書物がある。これは、約 120 の大名を 取り上げて、その家臣団に対する処遇や統治の状況を比較的簡潔に記したものだが、同書は牢人経験 者により、牢人向けに書かれたと想定されている(深沢 1989~91)。 *18なお、こうした「大将」(大名)の理想的人格を、抽象的な理論を敷衍して造形するのではなく 、 具体的な個々の大名の行状に即して(あるいは仮託して)描き出したのが、江戸時代の政治文化・思 想を表現した史料としての『武家諫忍記』の特色であると言えよう。これは、将軍・大名の言行を記

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14 한일공동학술대회 2013 このような大名像は一面で、中世以来の武士の理想像を継承したものと言うことができる。『武 家諫忍記』が描き出す大名の理想的人格や「文武」の内容が、江戸時代以前からの大名家訓 の内容と一致することは、こうした側面をよく示していると言えよう。この意味で、江戸時代のある べき大名像は、武士が政権の座についたということをよく反映したものであると言える。 さらに、大名行状の実態を見れば、このような武士(大名)としての理想的なあり方を身につ け、理想像を体現した大名は、全体でみるとわずかであると言わざるを得ず、その意味でも、近 世日本の君主は「同時代性を欠いた」存在であると見なせるかもしれない。 しかし一方で、「儒者」に敬意を払いつつ交友関係にあった大名が「誉」を得ていること、かつて ない規模と深みにおいて「文武」を体現する大名が一定数にわたり登場したこと、その中には、 常に「性理」の学(朱子学)を論ずるような大名も含まれていたことなどは、見落とすことができな い事実であろう。また、全大名にわたり、極めて具体的な記述によって、大名の行状の善し悪し を描き出すような書物(「大名評判記」)が成立したことは、大名が「文武」を重視することへの社 会的要請を表現していると見ることもできる。 こうして大名(領主)層における「文」の位置づけは、軍学者や軍記物の変容・影響(「武」)も含 めて全体として、漢詩文・儒学の素養を重視する方向に漸次的に変容を遂げ、そうした変容が 徐々にではあるが社会に浸透する方向に進んだと見られるのである。つまり、日本の近世は、 前代と全く変わらない「武士」が「武威」のみによって支配を行ったわけではなく、漢詩文・儒学 の素養を重視する方向に(「急進」したというよりは)「漸進」したと見るのが妥当なのではないだ ろうか。なお、以上のように見通したさい、本報告で扱った大名評判記が、いつ、誰によって、ど のように受容されたのかという点も、極めて重要な問題であることを指摘しておきたい*19 さいごに、儒学の受容という論点に関して言えば、17 世紀における徐々たる儒学の広がりは、 18 世紀後半になると、藩校の急増や試験・登用制度の採用動向*20、豪農商層における関心の 高まりなど、一定の昂進をみることになる(宇野田 1996、小関 2012、中田 2012、辻本 1990)。18 世紀末は同時に、国学などの学問が隆盛を見せる時期でもある。このように、儒学の比重が高 まりつつも、それに収斂しない形で学問の展開が見られることは、日本近世社会の確立期、大 名(領主)層における「文」の中に、和歌や神道が相当の比重を占めていたことと無関係とは言 えないのではないか。18 世紀末以降における、このような動向が、日本の近代化過程にどのよ うな影響を及ぼしたのか、本格的な追究はこれからである。しかしながら、日本史における近世 中後期から近代化過程までをこのようにして見通そうとするさいに、17 世紀段階における「近世 化」の過程を踏まえて考察しなければならない、というのが本報告の立場である。 した明君録などの書物・記録とも共通するものであるとも 言えよう。 *19大名評判記によって定式化された大名像が、大名の個性を喪失させ、理想的な人格へと均質化させ ていったという見通しも持つが、今後の課題としたい。 *20この点については、2012 年日韓相互認識研究会 シンポジウムでの 金基奭報告に対する木村元コメン トとも関連している。

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 15

【主要参考文献】

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16 한일공동학술대회 2013 宮嶋博史「東アジア世界における日本の「近世化」―日本史研究批判」(『歴史学研究』821、 2006 年)ほか一連の論考 宮嶋博史「方法としての東アジア再考」(『歴史評論』729、2011 年) 宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために―「韓国併合」100 年にあたって」(『思想』 1029、2010 年) 宮本圭造「宇陀松山藩の能楽」(『アート・リサーチ』2、2002 年) 山田賢「東アジア「近世化」の比較史的検討」(趙景達・須田努編『比較史的にみた近世日本― 「東アジア化」をめぐって』東京堂出版、2011 年) 山田木水『亀山地方郷土史』第 2 巻(三重県郷土資料刊行会、1971 年) 若尾政希『「太平記読み」の時代―近世政治思想史の構想』(平凡社、1999 年) 若尾政希「近世日本の思想史的位置」(趙景達・須田努編『比較史的にみた近世日本―「東ア ジア化」をめぐって』東京堂出版、2011 年) 若尾政希研究代表『「大名評判記」の基礎的研究』1-2(科学研究費補助金(基盤研究 A)研究 成果報告書 2005 年度-2006 年度、2006・2007 年)

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「大名評判記」調査一覧表(2013 年 7 月 29 日現在)

抄本 散佚 底本 仮 番 番号 書名 所蔵者 国 書 調 査 写 真 複 写 写 / 刊 冊数 巻(順序) 序(年 記) 国郡部類 教法之巻 作者・書写 者 旧蔵者 備 考 1 101 武家諫忍記 加賀市 立図聖 藩文庫 ○ ○ ○ 写 21 目録・序并 国法・18 巻 ・教法巻 武家 諫忍記 序 日本国中 高付 武家教法 之巻 大聖寺藩前田家 2 102 武家諫忍記 宮城県 図養賢 堂文庫 ○ ○ ○ 写 21 目録・ 序并國法・ 教法・18 巻 武家 諫 忍記序 國法 教法 仙台藩藩校 「天保庚寅」(天保元 年)印あり。 3 103 武家諫忍記 東北 大学 附図 狩野 文庫 ○ ○ 写 7 序并国法・ 18 巻 武家 諫忍記 序 國法 坂部勝興:初宗参、伝之助、五郎右 衛門、主計。宝永 3 年初めて常憲院 殿に目見え。享保 15 年御小姓組、 元文 2 年西城の勤。宝暦 8 年 64 歳 で歿。法名道壽。妻は須田甚三郎盛 澄女(『寛政重修諸家譜』第九によ る)。 全巻に「坂部文庫」印 (朱・矩形)、「勝彭/之 印」(朱・方)。首巻末尾 に「坂部主計勝興写之 謹改」「勝彭改(印)」 4 104 武家諫忍記 東北 大学 附属 図書館 ○ ○ 写 21 18 巻 (三本末) ・教法巻 ・序國郡 武家 諫忍記 序 國郡部類 上段に書き込み多くあ り。「第二高等学校図 書」印。 5 105 武家諫忍記 米沢 図書館 興譲館 文庫 ○ ○ ○ 写 6 序并國法・ 教法・18 巻 武家 諫忍記 序 國法 教法之巻 米沢藩上杉家 6 106 武家諫忍記 米沢 図書館 興譲館 文庫 ○ ○ ○ 写 19 目録・18 巻 (序)※1 (國法)※1 (教法之 書)※1 米沢藩上杉家 7 107 武家諫忍記 国立 ○ ○ ○ 写 21 目録・ 武家 國法 教法之巻 治城内庫

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18 한일공동학술대회 2013 国会 図書館 序并國法・ 教法・18 巻 諫忍記 序 8 108 武家諫忍記 国立 公文書 館内閣 文庫 ○ ○ 写 3 巻 1~3 太政官正院歴史課 9 109 武家諫忍記 宮内庁 書陵部 ○ ○ 写 21 序(日本国 中)・教法・ 目録・18 巻 武家 諫忍記 序 日本国 中高付 教法之巻 徳山藩毛利家 ひらがなを多用。 10 110 武家諫忍記 東京 大学 附属 図書館 ○ ○ ○ 写 8 目録・序并 國法・教法 ・18 巻 武家 諫忍記 序 國法 教法之書 但馬国村岡藩山名氏 のち大木文庫・南葵 文庫 山名氏は交代寄合 6,700 石、幕末に加増さ れて 11,000 石 11 111 武家諫忍記 前田 育徳会 尊経閣 文庫 ○ ○ ○ 写 3 目録・序并 國法・教法 ・18 巻 武家 諫忍記 序※3 國法 教法之巻 金沢藩前田家 記載内容に加除。/武 家勧懲記の序を付す。 12 112 武家諫忍記 岡崎 市立 図書館 ○ 写 6 現存せず?電話にて問 い合わせ 13 113 武家諫忍記 刈谷 市立 図 村上文 庫 ○ ○ ○ 写 20 目録・教法 ・18 巻 (序)※2 (国法)※2 教法之書 刈谷藩侍医 (刈谷藩校旧蔵) 「文禮館記」印あり。文 禮館は天明 3 年創立の 刈谷藩校。 14 114 武家諫忍記 龍谷 大学 ○ ○ 写 5 15 115 武家諫忍記 岡山 大学 池田家 ○ ○ ○ 写 5 序(日本国 中)・18 巻・ 教法 武家 諫忍記 序 日本國 中高付 教法之巻 岡山藩池田家 16 116 武家諫忍記 岩国 徴古館 ○ ○ 写 5 序・国法・ 教法 武家 諫忍記 序 國法 教法之巻 岩国藩吉川家 表紙に「元文五甲改」の 貼り紙。/他の写本の 記述内容が異なるヵ。 17 117 武家諫忍記 秋月 ○ ○ ○ 写 21 序并国法・ 武家 國法 教法之巻 秋月藩黒田家

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 19 郷土館 目録・18 巻 ・教法 諫忍記 序 18 118 武家諫忍記 島原 市立図 松平 文庫 ○ ○ ○ 写 8 國部分・19 巻 國部分 島原藩松平家 19 119 武家諫忍記 対馬 歴史 資料館 ○ ○ 写 21 目録・国法 ・教法・18 巻 (序)※4 國法 教法之巻 対馬藩宗家 20 120 武家諫忍記 名古屋 市蓬左 文庫 ○ ○ 写 21 目録・19 巻 ・國分部 國分部 尾張藩徳川家 巻 13 が 2 冊、巻 14 欠 落 21 121 武家諫忍記 金沢 市立 玉川 図書館 加越能 文庫 ○ ○ 写 3 目録・序并 国法・教法 巻・18 巻 武家諫 忍記序 国法 教法之巻 今枝直方 金沢藩家老今枝直方 正徳 3 年(1713)写。奥 書:「此■編成之頃者、 以侯伯之歳可考、今年 正徳三癸巳求得之写 之、逐一校復可有落字 歟、一種之宝記也、合 冊為三巻者也/懋遷 (印)(印)」 22 122 武家諫忍記 武雄市 教育 委員会 写 樋渡休兵衛 佐賀藩武雄鍋島家 『武雄鍋島家歴史資料 目録(前編)』、『武家勧 懲記』と合冊 23 123 武家諫忍記 旧浅野 図書館 ○ ― ― 写 ― 広島藩浅野家 24 124 武家諫忍記 旧彰考 館文庫 ○ ― ― 写 6 ― 水戸藩徳川家 25 125 武家諫忍記 旧弘前 藩津軽 家 ― ― 写 21 ― 弘前藩津軽家 26 201 武家勧懲記 盛岡市 中央公 民館 ○ ○ 写 41 凡例・目録 ・序・配国・ 39 巻 序(延宝 3乙卯) 配国 盛岡藩南部家

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20 한일공동학술대회 2013 27 202 武家勧懲記 国立 国会 図書館 ○ ○ ○ 写 42 目録・教法 ・序・国郡 数量・39 巻 序(延宝 乙卯) 国郡数量 之巻 附属教法 之巻 岡藩藩校由学館 28 203 武家勧懲記 国立 公文書 館内閣 文庫 ○ ○ ○ 写 37 38 巻・教法 附属教法 之巻 昌平黌 29 204 武家勧懲記 宮内庁 書陵部 ○ ○ 写 42 目録・序・ 国郡数量・ 39 巻・教法 序(延宝 3乙卯) 国郡数量 之巻 附属教法 之巻 徳山藩毛利家 30 205 武家勧懲記 東京 国立 博物館 ○ ○ ○ 写 42 39巻配国 之巻教法 之巻共 31 206 武家勧懲記 東京大 学史料 編纂所 ○ ○ 写 9 18 巻 押小路家 32 207 武家勧懲記 新潟大 学附図 佐野 ○ ○ ○ 写 13 序并国法・ 附属教法 之巻・39 巻 武家勧 懲記序 国法 附属教法 之巻 序は『武家諫忍記』序と 同じ 33 208 武家勧懲記 刈谷市 立図村 上文庫 ○ ○ ○ 写 12 序・配国・ 39 巻 序(延宝 3乙卯) 国郡数量 之巻 刈谷藩侍医 34 209 増補勧懲記 龍谷大 学 ○ ○ 写 41 三九巻・配 国巻・目録 35 210 武家勧懲記 京都大 学附属 図書館 ○ ○ 写 2 巻 1-10 松岡文庫 36 211 武家勧懲記 京都大 学附属 図書館 ○ 写 2 巻 28・31・ 32 宮内省寄贈本 37 212 武家勧懲記 京都大 学附属 図書館 ○ ○ 写 10 序・國郡数 量・教法・ 39 巻 序(延宝 乙卯) 國郡数量 之巻 附属教法 之巻 大野屋惣八

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 21 38 213 武家勧懲記 園部町 小出文 庫 ○ ○ 写 8 目録・序・ 配国、39 巻 序(延宝 3) 配国 園部藩小出家 39 214 武家勧懲記 栗田文 庫 ○ 写 16 40 215 武家勧懲記 関西大 学図書 館 ○ 写 41 38 巻目録 1 巻配國之 卷 1 巻附 属 1 巻 序に「于 時延宝 三稔月 日記録 畢」とある 印記: 「紫川館竹田氏 圖書記 」,「子孫永保 共四十一卷 雲煙家藏 書記」,「竹田文庫」,「齋 治」 ; 中村幸彦氏識語 41 216 武家勧懲記 萩市立 図書館 ○ ○ 写 21 附属教法 之巻・38 巻 ・附属之巻 附属教法 之巻 小幡遠継 2008.12 調査。附属之 巻あり 42 217 武家勧懲記 諫早市 立諫早 図書館 ○ ○ 写 41 序・国郡数 量・39 巻 序(延宝 3乙卯) 附属国郡 数量之巻 佐賀藩諫早家 2008.11 調査。 43 218 武家勧懲記 スウェー デン S /OB 写 20 39 巻 44 219 武家勧懲記 武雄市 教育委 員会 写 樋渡休兵衛 佐賀藩武雄鍋島家 「武県庫籍」印あり。『武 家諫忍記』と合冊。『武 雄鍋島家歴史資料目 録(前編)』 45 220 武家勧懲記 武雄市 教育委 員会 1 巻 16-18 佐賀藩武雄鍋島家 46 221 武家勧懲記 旧浅野 図書館 ○ ― ― 写 99 ― 広島藩浅野家 47 222 武家勧懲記 旧浅野 図書館 ○ ― ― 写 41 ― 広島藩浅野家 48 223 武家勧懲記 旧彰考 館文庫 ○ ― ― 写 33 ― 水戸藩徳川家

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22 한일공동학술대회 2013 49 224 武家勧懲記 旧彰考 館文庫 ○ ― ― 写 33 ― 水戸藩徳川家 50 225 武家勧懲記 旧高知 藩山内 家 ― ― 写 22 ― 高知藩山内家 51 226 武家 勧懲記抄 真田宝 物館 ○ ○ 写 1 真田信房・ 真田伊賀 守滋野氏 信 松代藩重臣鎌原家 52 227 武家勧懲記 酒田市 立図書 館光丘 文庫 ○ ○ 写 8 抄 安永 5(1776) 序 庄内藩士堀 季雄 『当代世談諸集大成』 のうち 『藩翰譜』を引用。 53 228 武家 勧懲記抄書 宮内庁 書陵部 ○ ○ 写 1 有馬中務 大輔源頼 元 松岡文庫 54 229 武家勧懲記 巻之四五之 中抜萃 中京大 学附図 ○ 写 1 池田綱政・ 光仲のみ 大橋氏寄贈 55 230 武家勧懲記 学書言 志 ○ 写 1 抄 56 231 武家勧懲記 全部目録 山口県 文書館 ○ ○ 写 1 萩藩毛利家 2008.12 調査。 57 301 武家和諫 東京国 立博物 館 ○ ○ 写 30 58 302 武家和諫 上越市 立高田 図書館 ○ ○ 写 30 59 303 武家和諫 大韓民 国国史 編纂委 員会 ○ ○ 写 1 巻 23 対馬藩宗家 2008.3 調査。 60 304 武家和諫 園部町 ○ ○ 写 1 巻 25 園部藩小出家

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 23 小出文 庫 61 401 諫懲記後正 東京大 学史料 編纂所 ○ ○ ○ 写 31 惣目録(元 禄 14 春)・ 30 巻 62 402 諫懲記後正 宮城県 図伊達 文庫 ○ ○ 可 写 31 総目録(元 禄 14 冬) 仙台藩伊達家 伊達家の記述を削除。 63 403 諫懲記後正 真田宝 物館 ○ ○ 写 31 総目録(元 禄 14)・30 巻 松代藩真田家 64 404 諫懲記後正 福井市 立図松 平文庫 ○ ○ ○ 写 38 総目録(宝 永 7)・37 巻 福井藩松平家 宝永 7(1710)年撰。都 合 249 人。 65 501 諫懲記 祐徳稲 荷神社 ○ 写 38 65 601 武家諫懲記 後正 長野県 立歴史 館丸山 文庫 ○ ○ ○ 写 100 序・目録・ 99 巻 序(享保 19) 上田 柏宗 武家諫懲記 後正附録 長野県 立歴史 館丸山 文庫 ○ ○ 写 20 目録・外戚 傳 19 巻 上田 柏宗 66 602 武家諫懲記 後正 国文学 研究資 料館田 藩文庫 ○ 写 43 序・惣目録 1 巻・99 巻 序(享保 19) 田安徳川家 蔵書印:「田安府芸台 印」・「献英楼図書記」。 27.9×19.1cm。配架番 号 169。 68 603 武家諫懲記 後正 愛媛県 立図書 館 ○ ○ 写 114 99 巻・目録 ・序 序(享保 19) 治城内庫 巻 7 欠。 武家諫懲記 後正附録 愛媛県 立図書 ○ ○ 写 目録・外戚 伝 治城内庫

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24 한일공동학술대회 2013 館 67 604 武家諫懲記 後正 盛岡市 中央公 民館 ○ ○ ○ 写 100 目録・叙・ 99 巻 叙(寛保 2) 盛岡藩南部家 武家諫懲記 後正附録 盛岡市 中央公 民館 ○ ○ ○ 写 20 目録・外戚 傳 盛岡藩南部家 69 605 武家諫懲記 後正 長崎大 附図旧 長崎師 範学校 蔵書 ○ ○ 写 95 目録・叙・ 99 巻 叙(寛延 4、文蒙 斎自序) 近江国水口藩藩校 巻 17,31,43,59,60 欠。 2008.11 調査 武家諫懲記 後正附録 長崎大 附図旧 長崎師 範学校 蔵書 ○ ○ 写 18 目録・柳営 婦女伝 18 巻 近江国水口藩藩校 2008.11 調査 70 606 諫懲記附録 東京大 学史料 編纂所 ○ 写 外戚巻之 一 松平頼聡蔵本写 71 607 武家諫懲記 (後正) 名古屋 市蓬左 文庫 ○ ○ 写 3 抄(尾張・ 紀州・水 戸) 奥邑徳義写 竹村通央蔵書 弘化 3 年(1846)写 72 608 武家勧懲記 (後正) 名古屋 市立鶴 舞図 ○ ○ ○ 写 1 抄(尾張・ 紀州・水 戸) 奥邑徳義写 弘化 3 年(1846)写。 73 609 武家諫懲記 附録 旧浅野 図書館 ○ ― ― 写 16 ― 広島藩浅野家 74 701 土芥寇讎記 東京大 学史料 編纂所 ○ ○ ○ 写 43 目録・42 巻 75 702 土芥寇讎記 旧浅野 図書館 ○ ― ― 写 ― 広島藩浅野家 ※1※2目録には「序并國法 一巻」「教法之書 一巻」とある

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 25 が、現存しない。 ※3実際には『武家勧懲記』序である。 ※4目録には「序并国分一冊」とあるが、「序」が現 存しない。 調査欄の「―」は、目録等に記載されているのみで現存が確認できず、調査不能である ことを示す。

表2:「誉ノ将」の行跡一覧 ―『武家諫忍記』(聖藩本)より

巻 本文記載名 文 武 歌道・神仏 行跡 誉 美小人 美女・ 猿楽 ・ 舞楽 諸芸 等 政道 ・ 諸士 その他 才智・ 発明 (智) 仁勇 寛悠・ 威 侈・ 恕・邪 礼儀 憐 1 尾張大納言源義直卿 文武ノ 学ナ シ 文武ノ 学ナシ 才智ノ発 シタルト ハミヘス 悠寛ニシテ 不恕不 侈直ナリ /少モ 邪儀成 行ナシ 自謙下 テ礼ヲ正 シ 民ヲ憐愍 有 世ニ誉有 国家ノ 政道順 ニ 1 紀伊大納言源頼宣卿 文ノ専ニ有 武ヲ好 才智有 仁勇 行跡悠 寛ニシ テ、威 徳正シ 或ハ侈 ヲシリソ ケ、或ハ 恕邪曲 曽テナ ク 義ヲ守テ 礼ヲ正シ 在憐愍、 人ヲ不害 若年ノ時 過有テ強 ノ主将ト 世ニ唱タ リ。今ハ 大ヒニ善 将ナリ 1 同姓(水戸) 宰相(中将) 将源光国 文武ヲ 専ニ 文武ヲ 専ニ 仏者ヲ 大ヒニ 誡リ 智仁 勇三 徳ヲ 兼 威寛々 ト 慈悲フカ ク 世ニホマ レアリ 美女ヲ 愛 2 松平犬千代 菅原綱利 文武 道其 外武 芸ヲ専 ラ直ニ シ 文武道 其外武 芸ヲ専 ラ直ニ シ 礼法最 正シ 有憐 近代諸 将ニ有誉 諸事政 道正 シ、徳 ニ順シ 若年タリ トイヘト モ 2 松平大隅守源光久 文武ヲ 文武ヲ 寛悠ニ シ威ア リ 不侈、 不恕、 不貧 義理ヲ 正 情憐ニシ テ有思 慮

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26 한일공동학술대회 2013 4 松平式部太輔源忠次 文武ヲ能学 文武ヲ能学 和歌ヲ詠ス 才智スク 寛々ト シテ威 有 不侈不 忿 礼ヲ厚シ テ義ヲ正 下人マテ ニヨク志 ヲナシテ 憐有ユ ヘニ、ヨ ク法ヲ守 或人云、 当世ノ名 将ト云リ 少々美 女ヲ愛 セリ 物業ヲ 知ツテ 士卒ヲ 遺ユヘ ニ、シ タカハ スト云コ トナシ 9 松浦肥前守 源鎮信 文ヲ少 々学 武勇ヲ 専ラ好 テ毎度 軍理ノ 沙汰ノ ミ也 智発明善 悪ヲ弁ヘ /アマリ 理勝レ テ、サナ カラ智ア ル人ト外 見アル将 ナリ 行跡 勇剛 有テ 諸士ヲ 能召 仕、世 ニ誉ア ル侍ハ 高知ヲ 以招 (マ マ)。招 カル 故、進 退不如 意也 9 安藤対馬守 源重貞 サノミ 不学 サノミ 不学 柔和孝 心ニシ テ 静ニ人 不驕不 忿 人民ヲ憐 ミ深シ 世間唱 誉ノ人也 美小人 ヲ愛ス 猿楽 ヲ好 万事伯 父九郎 左政道 ス 然レトモ 民窮ス。 イト不審 10 石川主殿頭 源昌勝 文武ヲ 学ヒ/ 文武ヲ タシナ ミ 文武ヲ 学ヒ/ 文武ヲ タシナ ミ/武 道心ニ カケ 歌道ヲ 専ニシ テ 気質柔 和ニ テ、武 道心ニ カケ、 武威有 テ行跡 正シ 世ニ誉有 手跡 を嗜 ム 13 織田山城守 平信尚 文道 少々 好 武道ヲ 専ラニ ス 仁勇 ニシ テ侫 曲ナ シ 行跡寛 博ニシ テ 侈ナク 家臣并 民ヲアワ レミ 誉ノ将ト 唱 舞楽 ヲス ク

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“大名評判記”にみる近世日本の大名像 27 17 加藤内蔵助 藤原明友 文武 両道ヲ 学 文武両 道ヲ学 行跡柔 和ニ、 徳実世 ニスク /寛々 有威 直ニシ テ、或下 ヲ愛シ、 或上ヲ 敬。礼法 ヲ不乱 憐愍有リ 世ニ誉ノ 人トナリ

参照

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